ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

操作はどこからくるのか? 

 

ピアノのレッスン、まずは生徒が曲を通して演奏し、そして先生の指摘が入る。僕の先生の場合も、ここまでは他の先生と同じなのだと思う。

サークル仲間の話などから察するに、この先の部分が僕の先生は他の先生と異なるらしい。まず、指摘のある部分は、「そこは~のように弾けるといいですね」「その部分は~というところがまだできていないですね」という感じで、ここは同じ。他の多くの先生と異なると思うのは、その部分を先生が弾いてくれるということ。「たとえば、その部分は、こんな感じなんじゃないですか・・・」と。

もう一つ異なるなと思うのは、指摘してきたことの「具体的解決方法」を示してくれる、情報として与えてくれるということ。この部分は、「音楽」とか「芸術」という言葉よりは、「物理」「解剖」という言葉を使いたくなるような感じだ。

「~のように弾けるといいと思う」とサウンドとして先生の演奏から体感させてくれる。そして「~のように弾けるためには」の具体的なアドバイスがある。

サークル仲間の先生のレッスンを見学したわけではないので、これは推測だけれど、「~の部分の音が固いね」という指摘が入る。でも「ではどうしたら?」の部分の情報を与えてくれない。「それはひたすら練習しかないでしょう」みたいな・・・

僕の先生の経歴は少し変わっているのだ。日本の音大を経験していないのだ。サウンドとしてまず生徒に体感させる、つまり先生自身が弾いてあげる、そしてそのように弾けるための具体的奏法、解決方法を示す、これは先生が留学先のハンガリーで身につけたもののようだ。先生もそう言っていたのでそうなのだろう。

僕は生意気にも(?)海外にもレッスンを受けに行ったりしている。その場合、外国人の先生ということになる。でも「体感させる」「具体的奏法の助言」という部分で日本での先生のレッスンと全く共通しているので混乱はないのだ。

日本の多くの先生は、「弾いてあげる」ということと「具体的な奏法」「具体的解決方法」というものの助言、ここが苦手なのではないかと思う。特に具体的な解決方法が苦手、というか皆無だと、どうしても生徒の演奏、そのフレーズをいじってしまうことになってしまうのだと思う。

「そこは~のように歌って」とか「その部分は~のように盛り上げて」のように・・・

その結果、その生徒が達者なほど先生のコピー演奏になっていってしまう危険性がある。コンクールなどで聴かれる演奏にそのような演奏が多いように思う。「本当に、あなたはそのように弾きたいのですか?」「その演奏は本当にあなたの演奏ですか?」と問いたくなる演奏が実に多いのも、先生が生徒の音楽(フレーズ)を操作してしまうからなのではないか、その根底には先生たちに具体的奏法というものと表現というものの結びつきという点で甘さがあるのではないか・・・

本来なら「~のように聴こえてこない」「その原因は?」「聴こえてくるための具体的奏法の伝授」となるべきところ、原因究明、具体的情報の伝授というところが欠けているため、フレーズ操作・・・ということになってしまう。違うかな・・・

これはアレクセイ・スルタノフが11歳の時の演奏なのだそうだ。ショパンのノクターン・・・

小学5年生と日本流に考えれば、このノクターン程度の難易度の曲を弾くということそのものは驚くことではない。難曲をバリバリと弾きこなす「子どなちゃん」は日本には数多く存在する。でもその達者な子どなちゃんの演奏には、必ず先生の影がある。先生の操作を感じる。そこがこのスルタノフの演奏との違いなのだと思う。このスルタノフの演奏には先生の影が感じられない。11歳の時の演奏でも、スルタノフはスルタノフなのだ。後年に聴くことのできる、あの「スルタノフ節」がもう存在している。

kaz



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