ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

具体的ピアノ道と人前演奏 

 

昨日はサークルの練習会だった。僕の所属しているサークルには音大卒業生や子どもにピアノを教えている人もいる。サークルって、割とアマチュア限定のところが多いと思うので、音大卒や現役ピアノ教師をしている人で、人前で緊張して弾くという機会を定期的に確保している人は少ないのではないかと思う。

音大を卒業したけれど、今では全くピアノを弾いていないとか、ピアノ教師の中でも、自分の演奏の発表という機会の確保ということに関しては、どこか消極的な人は多いような気がしている。

基本的に、暗譜で人前で緊張してピアノを弾くという行為そのものが大変なことなのだと思う。また本番までに曲を仕上げていくということも大変な作業なのだと思う。

人前での演奏、一度離れてしまうと、とても怖くなるのではないだろうか?

この「恐怖心」の他に、音大卒の人やピアノの先生が演奏の場というものに、どこか消極的なのには、音大でのレッスン、受けてきたレッスンというものに原因があるのかもしれない。

もしかしたら、音大でのレッスンは「ダメ」「否定」のレッスンだったのではなかったか・・・

練習してレッスンに臨む。そこで多くのダメ出しがあったはずだ。でもそれは具体的改善方法の伝授ということにはつながらなかった。「まだここが弾けていないわねぇ・・・」「もっとベートーヴェンらしく弾かないと・・・」「これはショパンなのよ、ちょっと固さがあるわね・・・」

「ダメ・・・」のレッスン。むろん、弾けていないところ、改善すべきことの指摘は必要だけれど、もっと重要なのは「具体的解決方法」だったりするのではないだろうか?

具体的解決方法を示されないでいて、でも自分ではどこか改善せねば・・・と感じてはいるという状態、そのままレッスンを受け続けるというのは、相当心理的に辛いのではなかろうか?

いつも「練習が足りないのね」「手が痛くなるまで練習しなさい」という指摘だけでは、レッスンを受ける側としてはとても辛い。進むべき道を示されないピアノ道はとても辛い。

「奏法」ということにつながっていくのかもしれない。具体的な弾き方というか・・・

ここが示されないと、とても辛いのだ。

音大卒の人、そしてピアノの先生が「人前での演奏」というものに、どこか消極的なのには、「ダメ出しオンリーレッスン」による自分否定というものも起因しているのではないだろうか?

演奏というものは、どこかで自分を肯定していないと難しいところがあるように思う。前の人の演奏が終わり、そして自分の出番になる。スポットライトの当たった舞台に出ていき、そして暗譜で弾く。誰も助けてはくれない。この時に頼りになるのは「自分に対しての肯定的イメージ」と「楽観的な要素」ではなかろうか?レッスンで受けた指摘を本番でただ「守って」弾くという心理状態だと、この時とても演奏というものが怖くなる・・・

具体的な奏法の指摘があり、「あっ・・・弾けた」とか「この方法だと~のように弾けるんですね」という瞬間が必要なのは子どもだけではなく大人にも必要なのではないだろうか?その大人が音大生でも・・・

kaz

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