ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

先生が何も言ってくれない・・・その2 

 

音楽愛好家という輩は、元々とても生意気なものなのだ。「ポリーニの新譜についてだが、~な点で不満に思う」とか「アシュケナージというピアニストは~なところが欠けているのではないか?」などと平気で書いたりする。「ではお前は弾けるのか?」と問われたら全く弾けないわけで・・・

どちらかと言えば、僕も自分のことはピアノ学習者というよりは、ピアノ愛好家だと思っている。なので生意気な文章を書いたりするのかもしれない・・・

一時期、コンクールとかエリート音大の卒業演奏会とか、音大生の演奏を聴きまくったことがある。長年滞在したアメリカから帰国したばかりの時期だ。「文化」としてのピアノ演奏という意味でのアメリカとの比較という興味があったのだと思うし、心のどこかでピアノは再開したいと思ってもいたのだと思う。なので、日本のピアノ教育というか、日本のピアノ演奏というものに興味があったのだと思う。

僕は、その時の音大生の演奏に心底感動し・・・と書きたいところだけれど、正直びっくり仰天してしまったというのが正直なところだ。みんな、実に達者なのだ。実によく弾いている。ミスも少ないし・・・

でも、打鍵コントロールという点、そこから発展すべきぺダリング、その他の具体的技術という点で、かなり奇異な印象を演奏から受けてしまった。いやぁ・・・本当に達者なので、ことさら未発達な部分が目立つというか・・・

皆、音色の弾き分け、タッチのコントロールという点で実に大雑把という印象を持った。鍵盤の底まで弾きすぎてしまうという印象。その結果、音色としては大雑把、かつチマチマとしてしまう。それで弾けていなければ「下手じゃーん」となるのだが、皆実に達者であるという点が惜しいというか、不思議というか・・・

とても厳しい言い方をすれば、Aさんが弾いてもBさんが弾いても同じような印象だし、ベートーヴェンを弾いてもショパンを弾いても、そしてドビュッシーやメシアンを弾いても、「曲は違うのね」ということは分かるけれど、奏法としては皆大雑把で同じような弾き方をしているような印象を持ってしまったのだ。特に音色が一色というのは致命的なのではないかと感じた。

その時の印象から、日本の音大で行われているレッスンというものに、かなり疑問を感じてしまったのは事実だ。ピアニストとしての魅力とか、表現力とか、そのようなものは、日本だと、どこか「才能」とか「努力」という曖昧なもので語られてるように思う。僕自身は、表現力というものは、具体的奏法、具体的技術の総合的な重なりの結果・・・だと思っている。どうも、「表現」と「技術」を分けて考える風潮が日本ではあるみたいだ。表現力豊かに聴こえるのには、その裏付けとなる具体的な技術が必ずあるものだと思う。バリバリと表面上は達者に弾けるだけ・・・という演奏は、表現力に欠けているのではなく、技術がないのだ・・・と僕は感じる。

音大を卒業して、演奏で生計を立てたいのなら、この具体的奏法の欠如といいうものは致命的なものになると思う。誰しもそのピアニストならではの「あっ、この人の演奏・・・いいな」とか「なんて素敵な演奏だろう」と思わせる美点をピアニストに求めると思うからだ。誰も「バリバリとよく弾ける」という演奏は今の時代求めていないと思う。

演奏力というものは、ピアニスト、およびピアニスト志望者に求められることが多いが、個人的にはピアノの先生に求められるものと僕は思う。ピアニストだったら、演奏活動が止まってしまうという自分の問題だけに留まるけれど、ピアノの先生には次の世代に伝統を伝承するという大切な役目があるからだ。この伝承すべき担い手が、具体的奏法というもの、それに対する知識、実践力に欠けていたりしたら、それこそ大問題なのではないかと思う。

「別に音大生を教えるわけではないし・・・」

そうだろうか?もしかしたら平均的音大生がタッチコントロールとか美しい音や響きという奏法、概念に欠けているのは、初歩教育にも問題があったのかもしれない。

子どもが喜ぶこと、一生忘れないような瞬間・・・それは楽しげなグッズやキャッチ―な曲でもなく、誰をも惹きつける先生の魅力でもなく、もしそれが「あっ、今・・・弾けた」という瞬間だったら・・・

単に「音符が弾けた」とか「曲がミスなく弾けたので合格した」ということではなく、音楽的に美しく、子供なりに具体的奏法の咀嚼のもとに「弾けたんだ」と思えた瞬間だったとしたら・・・

それには先生が「具体的奏法」というものを知っていなければならないし、それを示すことのできる演奏力が備わっていなければならない。「そこはもっと歌って~」・・・では具体的な奏法は?それを実際に先生が示し、子どもにも理解できるように説明できる能力が先生には必要だと僕は思う。

子どもの感受性は豊かだ。その感受性を裏切ってはいけない・・・

前の記事で機械の演奏を貼りつけた。「ただ弾いているだけだよね~」という演奏。

これはピアニストのティボーデの同じ曲の演奏。僕はティボーデというピアニストが特に好き・・・というわけではないけれど、この演奏はどの瞬間にも「技巧的な裏付けと実践」がある。なので音楽的に聴こえるのだ。

「ピアニストさんだから~」で済ませていいものではないと思う。でも実際には、この曲をティボーデのように演奏することは相当難しいことだ。僕も多少はピアノを弾くので、その難しさは感じることができる。

難しいことなのだ・・・

だからこそ、先生自身が音楽の美を求めて弾き続けなければならないのだ・・と思う。先生自身が弾いて「美しさ」を示し、なぜ「美しく聴こえるのか、そのように弾けるのか」の具体的な指摘が必要となってくるのだと思う。先生自身が弾けなければどうやって伝承するのだろう・・・

「先生が何も言ってくれない・・・」

この悩みを持つピアノ学習者は多いように思う。言うべきものは、ダメ出しだけではない。ではどのように・・・の具体的な部分。それには先生自身が弾けていなくては伝承することは難しいのではないか・・・

kaz



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category: ピアノ雑感

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