ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

早すぎたエスプリ 3 

 

智恵子は銀行家シャトネ家に預けられることになった。シャトネ家の一人娘がピアニストでもあったのだ。そのシャトネ家で、智恵子はピアノの他に、西洋のマナー、フランス語も身につけていったのだろう。多感な少女時代、智恵子は西洋文化の中で育っていった。

二年が過ぎ、智恵子のピアノの実力も目覚ましく伸びていた頃、パリ音楽院を受けることになった。パリの日本館長のシルヴァン・レヴィがこう提言したのだ。「パリ音楽院を受けたらどうでしょう?そこでピアノを教えているラザール・レヴィを紹介しますよ」・・・

智恵子はパリ音楽院でラザール・レヴィに師事することになった。そして、日本人として初となるプルミエ・プリで卒業する。この時の卒業コンクールを聴いていた日本人男性がいる。作曲家の池内友次郎とピアニストの井口基成である。池内は智恵子より先にパリ音楽院で学んでいたが、まだ卒業できていなかったし、井口は年齢制限のためパリ音楽には入学できなかった。自分たちより年若い少女が、プルミエ・プリを獲得し卒業してしまう・・・

この時、この二人の日本人男性は、どのような気持ちで智恵子の演奏を聴いていたのだろう?池内は「先を越された」と感じたのかもしれない。井口は、日本で身につけたピアニズムと本場でのそれとの違いを肌で感じ、自身もその問題で悩んでいたに違いない。しかし、智恵子は日本のピアニズムとは無縁の流麗なピアニズム・・・

複雑な思いで聴いていたのではないだろうか・・・

池内は「父、高濱虚子」の中でこのように書いている。「智恵子さんの卒業コンクールを井口基成と傍聴した。その日のお昼は近くの料理屋で食事を共にした。井口は赤葡萄酒をがぶがぶ飲んでいた」

智恵子は卒業後もパリに残り助手として研鑽を積むつもりであった。そのための資金の援助を申し出たのがラザール・レヴィ、そしてアルフレッド・コルトーであった。当時、一度ヨーロッパを離れてしまい帰国してしまったら、再び帰ってくるのが容易でないことを二人は知っていたのだ。しかしながら、日本ではプルミエ・プリを獲得した智恵子の日本デビューが計画されていた。

「何故私に相談もせずに決めてしまわれたのですか?」

智恵子はこのようにも語っている。「まだ演奏会などをするほど偉くはありません」「私、天才少女と呼ばれるのは大嫌い。それに私は少女じゃなくってよ!」

渋々ながら、智恵子は日本に帰国しピアニストとしてデビューすることになる。華やかに活動しながらも智恵子の中で再びパリで勉強したいという思いが強くなっていった。

「まだほんの素人で、音楽家なんて言われるのは恥ずかしいんです・・・」

しかしながら、智恵子には相談する人もいなかったし、ましてや智恵子にピアノ、そして音楽を指導できる人物なども当時の日本にはいなかった。

「まだ自分は未熟なのだ。日本で自分は持ち上げられているけれど、自分はまだまだ勉強すべきなのだ。ああ、パリ・・・パリでもう一度勉強したい・・・」

続く



にほんブログ村 クラシックブログ ピアノへ
にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

スポンサーサイト

category: 開拓者

tb: --   cm: 0

△top

コメント

 

△top

コメントの投稿

 

Secret

△top