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ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

オペラに生きるピアニスト 

 

ユーチューブにはよくお世話になる。僕の場合、「お勉強」という感じでピアノ動画を観る(聴く)というよりは、声楽の動画を楽しむことの方が多い。ピアノよりも歌が好きなのは明白だ。

声楽の動画を徘徊していると、ある人物が気になり始めた。ベルゴンツィは好きな歌手なので、彼の歌唱を楽しむことは多いのだが、いつもベルゴンツィに寄り添っているピアニストがいる。ベルゴンツィがピアノ伴奏でリサイタルをする時には、いつも彼がいた。

情感豊かな歌手を先導し、そして影のように寄り添う。歌と調和するような完璧なるトーン。

ベルゴンツィ以外の卓越した歌手のリサイタルにも、彼はしばしば登場しているのを発見した。有名な伴奏者なのだろうと思った。オペラのアリアをピアノで伴奏する場合、かなり不完全というか、シンプルな楽譜で演奏することになる。特にベッリーニやドニゼッティなどのベルカントオペラのアリアの楽譜に顕著だと思うが、もろ「分散和音だけを弾き続ける」とか「ベースと和音だけを弾き続ける」という、簡単というか、様になりにくい音型がやたら多かったりする。ブンチャ ブンチャ・・・の連続とか・・・

ある発見をした。伴奏というと、いかにも控えめに・・・みたいな思いこみからか、ピアノのタッチが曖昧な伴奏者もいる。この場合、音量が控えめでも、ピアノの基音が目立ち、かえって逆効果のような?バシャンバシャンみたいな?

その伴奏者の音は、クリスタルクリア。彼は何者???

ヴィンツェンツォ・スカレーラ・・・名前の響きから、イタリア人だと思っていたが、彼はイタリア系アメリカ人。ニュージャージー生まれのアメリカ人だ。5歳の時からピアノを習っている。そしてマンハッタン音楽院卒業。ここまでは普通のピアニストと変わらないけれど、11歳の時に祖父が聴いていたカルーソーの歌唱に魅せられてしまう。ヴィンツェンツォ少年は、メトロポリタン歌劇場に通いつめるようになる。

「僕はオペラのピアニストになる!」

地元ニュージャージーの州立歌劇場(ニュージャージーに歌劇場があるのか?驚きだ)の副指揮者、ピアニストとなる。これってコレペティということだよね。そして自分のルーツであるイタリアへ。スカラ座の副指揮者、ピアニストとなる。現在もスカラ座に属していて、主にコーチ的役割を担っているらしい。でも、彼の場合、歌手たちのリサイタルの伴奏の仕事もかなり多いのではないかと想像する。

彼のようなピアノで歌手たちは歌いたいのだろう。先導もしてくれるし、引き継いでもくれる。完璧なる彼のハーモニーの上に、歌手は乗ってしまえばいいわけだから。「ヴィンツェンツォ、任せるよ」「お任せするわ」

ヴィンツェンツォ・スカレーラの名演集。カレラス、スミ・ジョー、そしてベルゴンツィという名歌手たちとの共演。譜面はシンプル。でもこれを伴奏と呼んでしまっていいのだろうか?

ちょっと思いついた。コンクールの一次予選。ここではエチュード、バッハが課題になることが多い。ここでロッシーニとかベッリーニ、ドニゼッティのアリアを伴奏させてみたらどうだろう?魅惑的に分散和音を弾く。ベースと和音だけの「ブンチャ ブンチャ」を素敵に聴かせる・・・かなりコンテスタントたちの力量が判明するような気がする。

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処方箋のないピアノレッスン 

 

楽譜通りに弾く、感情を込めて弾く、この二つが相反するものとして捉えられてはいないだろうか?楽譜を読む、多くの人が「音符を読む」ということと混同しているような?「まず、つっかえないように一応弾けてから・・・」この場合、音符を読んでいることが多いような気がする。楽譜を読む、この説明は難しい。視覚的な認識だけでドミと判断して鍵盤を押す、ここは2分音符だから4分音符の倍伸ばす、なのでイチ二と数える、あるいは鍵盤を押さえる・・・これだけでは楽譜を読んだことにはならない。移しただけ。

ドミとドラでは音程の差がある。これをエネルギーの違いとして感じるか?そこを読み取れるか?長い音符はエネルギーがあるということを読み取っていく。これらの総合作業が楽譜を読むということになるような気がする。

ショパンの「雨だれ」の場合、同じ音が連続している。G♯の音、ただ弾いているのだったら音符だけしか読んでいない。同じ音の連続ということの意味というのかな、エネルギーの持続のようなものを楽譜から感じ取れるか?右手が単音になる箇所が少しだけある。最後の方ですね。ここと曲の最初の右手のメロディーは、音の質としては変わるのではないかと思う。単音だけの箇所は、より孤独感、諦め・・・のような?そのようなものまで感じて、汲み取っていくことが楽譜を読むということ。

音符ではなく、楽譜を読み取っていく場合、音や音のかたまり(モチーフとかフレーズとか)が実際に脳内で鳴ると、視覚→サウンドが容易になるような気がする。和音もそう。いきなりナポリの6度が出てきたら、ナポリ6という知識はなくても「ここ、いきなりエッジーな感じだわ」みたいに読み取ることが必要なのでは?

音並べ演奏の原因の一つが、この楽譜を読むということと音符を読むということの混同ではないかと思う。「なんだかな・・・」という場合、大体音符しか読めていない。楽譜を読み取っていくことで、表現というものにつながっていく。表現って、なんとなくウッフ~ンと感情を込めればいいというものでもない。楽譜に忠実ということは、より深い表現力というものにつながっていくように思う。楽譜を読むということは、自分を捨てるという意味ではなく、相反するものでもないような気がする。

音並べの演奏の二つ目の原因が弾き方。脳内で感じたものを、具体的に弾き方というものを通して音として具現化されていかないと、自分の脳内だけでは人に伝わらない。「そこは盛り上げていって~」では具体的にどうするの?和音が厚くなっていく。それは感じるけれど、指先はどうするの?腕は?実際にはどうするの?「もっと歌って~」左手の和音と右手の単旋律のメロディーの弾き方はどう変えるの?メロディーのトーンをクリスタルな感じで際立てたい。ではどうするの?

この弾き方、身体的なことも、なんとなくウッフ~ンでは人には伝わらない。

音符ではなく楽譜を読む、汲み取っていく。そして身体、指に反応させて、弾き方として具現化する。「読譜」と「奏法」ということになるのだろうか?僕の個人的な考えだと、これを自力で発見、開拓していくのは非常に難しい。「なんとなくただ弾いているという感じなのよねぇ」と感じることはできる。でもその先に自分一人だけでは進めない。よほど耳の鋭い人、身体中が音楽で溢れかえっているような人だったら別かもしれないが、多くの場合、「教えてもらう」必要があるのではないだろうか?

誰に?それは自分のピアノ教師だろうと思う。

生徒側の大きな誤解の一つに、「レッスンとはダメ出しされに行くところ」「レッスン室での演奏を評価されに行くところ」というものはないだろうか?むろんダメ出しの内容が、自分では全く気づきもしなかったということであれば、レッスンを受けている意味はあるのだろうと思うが、こう心の中で感じたことはありませんか?「そう、それは自分でも分かってはいるんだけど・・・」と。その先を具体的に教えてもらうのがレッスンなのではないだろうか?その先の具体的なこと。ダメ出し、ではそのマズイ箇所、要因の解決、その具体的方法まで含めてまでがレッスンなのではないだろうか?

このような医者がいたらどうだろう?

「あの高熱で調子も悪くて・・・」「あ、インフルエンザですね」「えっ?やっぱり?」「では安静にして下さいね。はい、次の方」「えっ、先生、薬は?処方箋は書いてくれないんですか?」「私は診断することはできるんですが、完治させる具体的な解決方法は知らないんですよ。まっ、お大事に」

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ラテン3人衆 

 

リサイタル一か月前。今の心境は、非常に落ち着いている。焦りで落ち着かないということはない。ただ、やらなければいけないことを整理しなければならないと思う。

リサイタルの場合、演奏するのは練習会、弾き合い会のように一曲ではないので、各々の曲だけではなく、全体を通した時どうなるかということも考えていかなければならないと思う。ここで一度楽屋に引っ込んでとか、引っ込まなくても、何か一言トークをするなりして、場の空気を変えたいとか。自分としては連続して弾けるかもしれないが、聴き手はそのまま同じテンションを感じながら聴くのも辛いかもしれないとか。つまり、全体の構成みたいなもの?

基本的に僕は遠し練習というものを、あまりやらない。練習会など、当日初めて通して弾いてみたなどということも結構多い。部分練習の人ということになる。だって通したらその日の練習時間、それで終わってしまうもの。でもリサイタルの場合は、通しの予行練習も必要かなと思う。

ブログだけの告知というのにも限界は感じている。ブログって記事が更新されると、前の記事は最初のページから消えていく。リサイタル告知の記事をいつもトップにすればいいのかもしれないが、僕としては最新の記事を読んで頂きたいと思う。いつもリサイタルのことを書くというのも嫌だし。今回、その人のブログやフェイスブックで僕のリサイタルの拡散をしてくれた方たちもいる。感謝するばかりだが、僕自身はフェイスブックは好きではない。自分でフェイスブックを利用して・・・とは、これからも思わないだろう。

以前に僕のリサイタルに聴きに来てくれた人たちのアドレスは把握(PCが)している。以前のリサイタルも今回のように、このブログのメールフォームを介して頂いたからだ。なので僕は「顧客名簿」のようなものは持っていることになる。でもこのアドレスは個人情報。むろん、他の目的で使用することはないけれど、たとえ自分のリサイタルの告知のためだとしても、人様のアドレスを使用するのは気が進まない。でも「やります」ということだけは伝わるので、やった方がよかったのか?申し込みメールに返信するのは構わないけれど、またいつかリサイタルをやるにしても、今回申し込んで頂いた方のアドレスを使って告知をするというのは気が引けるところがある。これからの課題だね。皆さん、どうやっているのだろう?

日々、真面目にコツコツ、チマチマ(?)普通に練習している。焦りがまだないのは、本番の実感がないからだとも思う。今は、前半や後半を通して弾いてみて、「本番ではこの時自分はコーヒーを飲みたいだろう」とメモをしたり。「当日コーヒー持参」とか。そのような細かなことをチェックしながら淡々と過ごしているだろうか。

ラフマニノフやショパンのような、ピアニスティックな曲を毎日練習しているためか、たまらなく歌を聴きたくなる。心が飢えているみたいな?それもコテコテの濃い歌を聴きたい。ラテン系の歌手でラテンの曲・・・とか。

ついでに、僕が今聴きたいラテン3人衆をアップしてみる。

ファン・ディエゴ・フローレス・・・ペルー出身のイケメン(人による)テノール。僕の好みからすると、声の質感が、ややリリカルすぎる気もするけれど、曲によっては燃えてくれる。

ローランド・ヴィラゾン・・・メキシコの輝くスター。この人は世界中から「オペラ界のMr.ビーン」として愛されている。オペラを聴くのだったら、この人かなと思う。印象に残る顔立ちだと思う。イケメン?

ホセ・クーラ・・・アルゼンチンのアダルトな魅力を漂わせるスター。彼の場合、ラテン密度が高い曲ほど魅力が増すような?オペラよりは、このようなボレロに惹かれる。

う~ん、やはり歌を聴くとスッキリする。

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オペラ嫌いのためのオペラ入門 

 

スカラ座の引っ越し公演があったとして、問題はまず値段だろう。60,000円という値段は痛い。むろん値段も問題だが、現実感という問題もある。オペラ終演はそれなりの時間になるので、地方都市に住んでいると、通勤圏とはいえ、ホール周辺の洒落た店で食事をすることは不可能。酔っ払いが目立つ夜の満員電車で帰宅しなければならない。地元駅の店は閉まっている。スカラ座と、今手にしているファミリーマートの弁当は、あまりに落差がありすぎる・・・

日本でオペラが一般市民に浸透しないのは、夢と現実の問題が切実だから?ミラノに行って本場のスカラ座を体験してみたらどうだろう?引っ越し公演のチケットよりは高くなるが、格安航空券と格安ホテル情報を駆使する。この場合、歌劇場を出ても満員電車とコンビニ弁当はない、外はミラノの街!!!

自慢ではないが、昔イタリアの歌劇場巡りをしたことがある。たしかにスカラ座はレベルが高い。最高峰なのかな?でもこれとは別に地方都市の歌劇場ならではの楽しみもある。シエナのリンノヴァーティ劇場。シエナという街そのものが「私は今、中世にいるのですか?」という雰囲気なのだが、この劇場もそう。黄金色に輝いている。金を塗装に使用したのか?規模は大きくはない。550席。これって東京文化会館の小ホールより座席数そのものは少ないのだ。演目は、たしかヴェルディの「リゴレット」だったと思うが、記憶は曖昧だ。

地元の人気テノールが出演していて、どこか固さがあって、僕は感心しなかったのだが、地元の女性ファンが黄色い声で応援したりしている。スカラ座よりも行儀が悪いというか?うるさいわけではないのだが、「ワッ♡キャッ♡」という空気に満ち溢れていて、なんだかオペラってクラシックではないのかもと感じたほどだ。シエナ人の生活にオペラは密着している?そんな感じではあった。

シエナは偉大なるバリトン歌手、エットレ・バスティアニーニの生まれ故郷でもある。シエナ訪問の目的は、彼のお墓参りであったのだが、もう一つがリンノヴァーティ劇場でオペラを聴くことだった。バスティアニーニはバリトン歌手として、ここでデビューしているのだ。1952年、この劇場でデビュー、翌年にはアメリカのメト、その翌年にはスカラ座にデビューしている。まさにオペラ歌手の出世街道そのものだ。

このリンノヴァーティ劇場に限らず、地方の歌劇場って、どこか地域密着型というのか、観客が歌手を応援し、育てているような雰囲気に満ち溢れていて、なんだか羨ましい。少なくとも、高尚なるクラシックを我々凡人が拝聴させて頂くという雰囲気だけはなかった。楽しんでしまっている。

この動画は、いわゆるフラッシュモブというものなのだろうと思う。写っている人々が実に楽しそうだ。これってイタリアの地方の歌劇場の雰囲気そのものだ。

二つ目の動画、これは「リゴレット」のフラッシュモブのようだ。ピアノ弾きなら、「あっ?リゴレットパラフレーズじゃない?」と思うのかもしれない。もしかしたらリストの「リゴレットパラフレーズ」は好きでも原曲のヴェルディの「リゴレット」は知らないという人も多いのではないだろうか?なんだか勿体ないよね。

歌唱そのものは卓越したものではないのかもしれないが、歌っている人も観ている(聴いている)人も楽しそうだ。「なんだか知らないけど、楽しくない?」オペラってそれでいいのではないだろうか?

「リゴレット」のリブレットを知らなくても、この場面がどのような修羅場の場面かは観ていて分かるのではないだろうか?オペラってそれでいいのではないだろうか?

「よく分らないから」「馴染みがないから」と去ってしまうより、「よく分らないけど楽しくない?」オペラってそれでいいのではないだろうか?

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創造脳と再現脳 

 

クラシックの苦手な人、堅苦しいとか、つい敬遠してしまう人。そのような人も、ピアノのリサイタルを聴きに行ったりするらしい。自分も親しみたいと思うらしいのね。大概の感想は「堅苦しかった」「よく分らなかった」というもの。「難し気な顔をして、何やら難し気なものを弾いて、そして引っ込む。その繰り返し・・・何も感じない自分に責任があるのかな?でもクラシックって難しくて分からない」このような感想を、「フ・・・豚に真珠ね・・・」と片付けてしまっていいのだろうか?ふと疑問に思う。

クラシックの演奏会って対話、演奏者と客席とで対話がないような・・・そう思うことは僕でも多々ある。これは演奏そのものの質によるものかもしれない。どんなにミスなく弾けていても、聴き手に訴えるものが皆無であれば、その演奏は、その聴き手にとっては未熟なのかもしれない。少なくとも退屈ではある。これって聴き手の嗜好、趣味ということとも異なるように思う。

舞台に出てきてワーッと(?)弾いて終わってしまう。考えてみれば、ただ弾く・・・難し気な顔をして弾くだけ・・・これってクラシック特有のものではないだろうか?ジャズとかシャンソンの場合、それってあるのだろうか?さすがに「ノッてるかぁ?」「イェーイ!」ということは望まないにしても、もうちょっと親しみやすさとか、盛り込めないのだろうか?パフォーマーが一言も話さないというクラシックの常識は世の常識ではないのかもしれない。

あるピアニストが留学後、日本でデビューリサイタルをした。70年代のことだろうか?滞りなくプログラムを弾き終え、アンコールを弾いた。その時、そのピアニストはちょっとだけトークをしたのだそうだ。どこか緊張していた会場の雰囲気がフワッと和らいだように感じたらしい。でもそのトークは、重鎮たちから非難されるところとなった。「言葉なしで語るのが音楽、演奏です。演奏会でピアニストが喋るなんて・・・」と。う~ん、個人的には、この感覚、嫌だなと感じる。「堅苦しいんだよ」と。

演奏の合間にトークを加える、クラシック以外のライブではよくある光景だ。でもこれは非常に難しいことなのだ。使用する脳みその部位が、「演奏」と「話す」という行為では異なるのだろうか?非常に大変だ。ただ黙って弾く方が何倍も楽なように思う。でもジャズプレイヤーとか、客席から笑いを引き出すような余裕がありながら、パフォーマンスも・・・ということはある。というか、クラシック以外のジャンルではトークは普通なのではないだろうか?

クラシックの演奏家の場合、自分の行為は「再現」と感じるのではないか?「創造」という感覚は著しく他のジャンルのパフォーマーと比べると少なくなる。楽譜の再現という感覚?なので忘れたらどうしようとか、ミスしたらどうしようとか?あくまでも「再現」という気持ちがあるから。

来月、ピアノサークルの練習会があるとする。ある曲を演奏するので、毎日欠かさず練習している。そして本番。自分が弾く直前、考えることって何だろう?創造だろうか?あくまでも「どこまで再現できるか、練習の時のように再現できるか?」ではないだろうか?

クラシックの場合、常にこれがつきまとう。振り払いたいけれど、つきまとう。舞台で真っ白になったらどうしよう?誰でも思うことなのかもしれない。

クラシックの演奏の場合でも、聴き手としての自分は、他人の演奏に対して、ある意味寛容なところはないだろうか?人の演奏、ミスを数えながら聴いています?そうは聴いていないはずだ。もっと全体の印象とかだと思う。でも自分が演奏する場合は、どうしても気になる。ちょっと音を外しただけでこの世の終わりのような?

少しだけ「創造脳」になってみる、その努力をしてみるのはいいかもしれない。ピアノ学習者の場合、幼いころから「再現脳」を強要されている人がほとんどだから、いきなりは難しいかもしれないけれど、でも悔しいではありませんか。聴いている側が気にしないようなことで苦しめられるなんて・・・

この動画、1994年とあるけれど、僕の記憶では1993年ではないかと。グルダって配偶者が日本人であった割には、あまり来日してくれなかった。たしか生涯に3回?絶大なる欧州での人気ぶり、評価を考えると不思議ではある。日本人はグルダをクラシックのピアニストと捉えた時、戸惑いのようなものも感じてしまったのだろうか?

グルダ、最後の東京でのリサイタルで感じたこと。トークを加えている。たいしたことは話していないのだ。「最初は平均律クラヴィーア曲集を演奏しましょうかね」とか「ファンタジーのお次はヴェネツィアの舟歌でも」と言ってショパンの「舟歌」を弾いたりとか。でもこれは「再現脳」には非常に難しいことなのだ。

グルダはクラシック演奏家としては異端児とされていたように思う。でも異端児としていた側が世界基準からすると、異端児だったのかもしれないね。

このような雰囲気のクラシックのリサイタルが増えるといいね。クラシック嫌いの人も減少するのではないかな?

「さあ、次は何を聴きたい?」会場から「アリア」の声が。「俺のアリアでいいかい?」そして自作の「アリア」を弾く。創造脳の人だったように思う。

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グルダ流儀 

 

ラルス・フォークトのCDを聴いてみた。彼が「演奏家は作曲家の召使いです」と言ったからといって、演奏がマズイわけでもないだろうし、ピアニストの判断材料として、召使いだけで判断してしまうのも偏見であろうと・・・

やはり好きにはなれない。それが正直な感想だ。下手ではない。当たり前だが。メジャーレーベルからCDを発売し、ワールドワイドで活躍するピアニストなのだから、上手い。でもフィールドが違うのだなと思う。好き嫌いで判断というよりは、様々なフィールドのようなものがあり、各々立ち位置は異なる。そう考えればいいのだ。ラルス・フォークトのモーツァルトに魅了される人もいるだろう。それに対して「どうしてあの演奏を?」ということではなく、場所が違うのだ。場所が異なるだけで排除してしまう、これは偏見だろう。

ラルス・フォークトとは正反対のフィールドで生きたピアニストだと僕が感じるピアニスト、フリードリヒ・グルダ。彼はこのようなことを言っている。「ベートーヴェンが彼の時代にどのように弾いたかは、誰にも分かりはしない。まぁ、小賢しい批評家のバカどもは、ひょっとしたらご存じなのかもしらんけどね。連中は天国のベートーヴェンと電話で直接話ができるらしいけれど、そんなことは分かりはしない」

僕などはグルダの言葉に心の中で拍手喝采という感じだけれど、やはりこれもフィールドの問題なのだろう。Aフィールドが正しく、Cフィールドは誤りとか、そんな単純なことではないと思う。グルダはこうも言っている。「演奏解釈者は誰しも作曲家について自分なりのつくり話を演奏によってするものだ。そして僕も君たちに自分なりのものを。作品への忠実さなどまやかしだ」

グルダはクラシック音楽における演奏スタイルだけではなく、音楽のジャンル分けということにも触れている。「クラシックの連中がジャズの連中を見下したり、ジャズの連中がクラシックファンを、まるで老いぼれの口うるさいオバサン(?)みたいに見るのはいい加減やめにしようよ」と。

実際にグルダはジャズを演奏した。ジャズのミュージシャンとの共演も多い。このようなことから、僕もグルダって、どこか前衛的で、変わった人だと思っていた。たしかにお堅い「おクラシック」というフィールドに留まらない人だったのだろうが、演奏そのものは、意外と(?)オーソドックスであるように感じる。奇妙奇天烈という演奏ではない。パッと聴いただけで「クラシックの異端児」と感じるような、そのような演奏ではない。そのような意味では、ポゴレリッチの方が前衛的、かつクラシックの異端児のように感じる。

グルダのバッハ、僕だけではなく、多くの人がこう感じるのではないだろうか?「ワッ!キャッ!ジャズみた~い!」と。「学習」「教材」「お勉強」「厳格」という匂いを全く感じさせないバッハだ。楽しそうなバッハ?グルダのモーツァルト、指揮をしながらということは珍しくはないけれど、グルダの指揮ってダンスみたい。「弾きながら踊ってる~」

もしかしたら、グルダは革新的、前衛的なピアニストではなく、自らも作曲をするという意味も含め、幾光年も昔に憧れたピアニストだったのかもしれない。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンが生きていた時代を最も現代に蘇らせたピアニスト・・・バッハは、モーツァルトは、もしかしたらこのように演奏していたのかもしれない。

グルダは生前「モーツァルトの誕生日に死にたい」と公言していたらしい。そして実際にそうなった。心臓発作だったらしい。

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曲を聴く?それとも演奏を聴く? 

 

学校の音楽の授業で「鑑賞」の時間があった。正直、とても退屈だった記憶がある。「聴いて感想を書きましょう」僕が生意気だったのかもしれないが、「安易な授業だな」と思った。感想ねぇ・・・「別に・・・」とも書けないし。

こう書いたらいいんだろうな・・・的なことを書いただろうか?「一本の筋のような水の流れが、次第に雄大になっていき」とか「雄大な河を音楽で表していて凄いと思った」とか?そんなことを書いていたように思う。鑑賞の授業では、公立学校の野生児たちが、崇高なクラシック音楽によって心が開き、楽の音と共に音楽室は光に包まれていった・・・などといったこともなく、皆退屈し、教科書の作曲家の顔に、いたずら書きしていたような?「ほら、ソバージュのスメタナ!」みたいに?「真面目に聴きなさい!!!」

今では懐かしい想い出だが、今でも不思議に思うことがある。その時、いやそれからも、鑑賞の授業で、レコードなどで演奏している演奏家については、何の説明も紹介もなかったことだ。作曲家については説明がある。でも演奏家はどうでもよかったのか?

演奏家とは作曲家の忠実な下僕である・・・そうなのか?音楽鑑賞は、その頃でも僕の趣味ではあった。でも僕は、作曲家よりも演奏家に興味があった。ショパンよりもローゼンタール、ベートーヴェンよりもシュナーベルに興味があった。曲というよりは、演奏を聴いていたのかもしれない。

作曲家の意図、楽譜に忠実に・・・そうなのだろうが・・・

でも、クラシック音楽を苦手とする人の多くは、このあたりの概念を鬱陶しいと思うのではないだろうか?僕はクラシック愛好家だと思うけれど、僕も鬱陶しさを感じるもの。堅苦しいというか。

ラルス・フォークトという有名なピアニストがいる。彼のモーツァルトのCDを所有しているのだが、どうも聴く気になれないでいる。彼の言葉が気になる。「私たち(演奏家)は作曲家の召使いであり、全力を尽くして作曲家が何を考えていたのかを探り、その魂に触れ、作品を解釈して作曲家の個性を表現しなければいけません」その通り!ご立派!・・・と思うし、そのような立派な演奏をするから有名なのだろうが、どうも聴く気にはなれない。

偉大な作曲家もこう言ったりしている。「演奏家は妙な解釈などせず、作曲家の書いたことを、その通りに実行してくれればよい」ストラヴィンスキーの言葉らしい。有名な作曲家の言葉なので、ひれ伏さなくてはいけないね。

でも、考えてみると、このような作曲家の意図とか、楽譜に忠実とかって、クラシックだけの現象のようにも思うのだがどうだろう?昭和アイドル、天地真理の「恋する夏の日」「虹をわたって」「ひとりじゃないの」といったヒット曲、森田公一が曲を提供している。まさに適材適所といった感じだが、天地真理の歌唱を聴きながら、森田公一の偉大さを感じながら聴いていた人って、そう多くはないはずだ。曲というより、天地真理という歌手を愛したのでは?歌謡曲だけではなく、ジャズなども、そのパフォーマーを、彼らの妙技を聴く、愛でるのようなところはないだろうか?そのようなことを考えてみると、クラシックって特殊なのかもしれない。

クラシックの演奏家にも「どうしてもその演奏家を感じてしまう」という人は存在する。いや、した・・・と表現すべきか?パッと思いついたところでは、ヤッシャ・ハイフェッツ、ウラディーミル・ホロヴィッツ、そしてマリア・カラスといった人たち。

ホロヴィッツの演奏を聴いて、シューベルトやショパン、スクリャービンに想いを馳せることはない。僕はホロヴィッツを聴いているという感覚がある。むろん、曲が素晴らしいのだろう。でも僕はホロヴィッツを聴いている。

マリア・カラスの歌唱も同様。この歌唱を聴きながら、ビゼーの偉大さを感じるよりは、もうそこにはカラスしかいない。

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森昌子とピアノレッスン 

 

僕の世代の人だったら、この動画は懐かしいのではないだろうか?森昌子はものまねが上手かった。この時、まだ15歳だったんですね。改めて聴いてみると、流石に上手いと思う。そこは印象として変わらない。似ていると思う。でも声そのものは、どの歌手のものまねでも、森昌子の声で歌っているのを発見した。考えてみれば当たり前だが。

声を変えてしまうのではなく、真似をする歌手の特徴、その歌手の個性を際立たせているような要素を掴むのが非常に上手いのだと思う。

際立っている要素、聴いていて「ああ、素敵だな」「素晴らしいな」と感じさせる要素を掴む、これってピアノの場合でも同じではないか?ホロヴィッツの演奏を聴いて「凄いわ。私も真似してみよう」というのとは違う。素敵と感じさせた要素を探ってみるというか?むろん、ホロヴィッツの演奏を真似できるということであれば、それはそれで凄いけれど。

つまり、表面的なものを真似するのではなく、個性、美として成り立っているようなものを探していく・・・

これには「自分で考える」「自分で感じる」という要素が必要なのかもしれない。もしかしたら、、ピアノ道において幼い頃からそのような要素が欠けていたのかもしれない。「どうして素敵に聴こえるのだろう?」と試行錯誤してみるという要素。際立っていると聴いて判断できるのだから、そこで「ではどうしているのだろう?」と考えてみる。

たしかに、視覚的に音を読んで一応音は並べられるようになった、そこで「ハイ、次の曲」ということをピアノ道で続けてきたのだったら、いきなり「考えろ」と言われても困るだろうと思う。そのような習慣そのものがないわけだから。世の中のピアノ教師には、意外と「自分で考えて」と言う人が多いらしい。非常に楽観的に考えると、自分で探ってみるという自発的行為を促しているとも考えられる。でも、僕としては、これは責任放棄と感じる。

要素を掴む、生徒全員が森昌子のような感性、才能、特技があるわけではない。普通、感じることはできても実践力に欠けることが普通だ。多くのピアノ学習者(生徒)はここで悩んでいるはずだ。

「人の演奏を聴いて、いいなと感じることはできる。自分のピアノとの違いも感じることができる。私もあのように弾けるようになりたい。どうしたらいいのだろう?」こう悩んでいる人は多いと僕は思う。この想いに対して「自分で考えて」という返しは無責任であると思う。

ピアノ演奏には基本的なノウハウが存在していると僕は思う。感性とか、才能とか曖昧なものに世の中依存し過ぎている。音楽的に弾くためのノウハウを生徒は求めている。教師に求めている・・・

「そうね、変に聴こえるわ。こうしているからじゃない?そこは、むしろこうしてみたら?」「あっ・・・本当ですね」世のピアノレッスンで最も欠けているものではないだろうか?探す、実践してみるのは生徒の役目かもしれないが、ある方向とかノウハウを伝授するのは、教師の役目なのではないかと。悩んでいる生徒が多い、つまり具体的なノウハウを伝えられる教師が、あまりにも少ないからではないだろうか?

生徒って、ノウハウ、つまり、まずく聴こえてしまう理由、そしてその解決方法を伝えてもらっていないと、もうひたすら練習するしか道はない。「練習時間が足りないのね」「反復練習が足りないのね」「努力が足りないのね。弾けてもいないのに音楽的になんて・・・」そして「才能がないんだわ」となっていく。考えてみると、これはかなり残酷なことではないだろうか?

全員が森昌子ではないのだ。ある要素は伝えてもらいたい。伝えるには、教師自身がノウハウを日々求めている必要はないだろうか?教師自らが「素晴らしい」と感じる要素を求める必要性。簡単に言ってしまえば、教師も弾いているということ。教師自身も「愛する人」であり、美の要素を探している。生徒と同じように・・・

これは、かなりシニカルなものの見方だと自分でも思うが、ピアノ教師ブログを徘徊して感じることがある。話題が、どのブログも似ている。セミナー、レッスングッズ、教材、〇子ちゃんがコンクールに受かりました等々。自分のピアノ、自分のピアノで苦しんでいる、自分の美を探している、このようなことを綴っているピアノ教師ブログって恐ろしく少ない印象だ。

子どもの数は減少していく。これからは、さらに加速していくだろう。ならばシルバー世代を狙え、昭和ピアノ挫折組、再開組を開拓していこう、この視点は正しい。でも彼ら(僕ら?)はノウハウも欲しい。「こうしてみたら?」「この場合はこのようにしてみたら?」的なこと。レッスンでは「あっ、本当ですね」という感覚を求める。それが欲しい。実感させて欲しい。

別にリサイタルを頻繁に開催しろとか、そのようなことを綴れとか、そういうことではない。教師自身も探している、美を求めて弾き続けている。そのようなことをブログで綴ってみると、おそらく体験レッスンなどの問い合わせも増えるのではないだろうか?

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愛する人 

 

アマチュア、訳すとどうなるのだろう?おそらく「素人」となるのかな?プロとアマチュア、玄人と素人・・・

アマチュアは英語だと思う。amateurかな?

このamateurという単語の由来は、ラテン語のamatorなのだそうだ。

意味は「愛する人」となる。いいですねぇ・・・

これからはアマチュア=愛する人と認識していこう。「素人」よりいいよね?

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ミラーニューロン 

 

ミラーニューロンとは耳慣れない言葉だ。ミラーニューロン=自ら行動する時と、他の個体が行動するのを見ている状態の両方で活動電位を発生させる神経細胞である。他の個体の行動を見て、まるで自分が同じ行動をとっているかのような「鏡」のような反応をすることから名づけられた。

分かったような、意味不明のような?某ブログでミラーニューロンについて分かりやすい例があった。羽生結弦選手が3Aを跳べるようになったのは、浅田真央選手の3Aを見て跳べるようになったいう例。見て、ある要素を感じ取り、自然と自分のことにしてしまうのような?これってピアノに無関係なことではないように思う。教師やピアニストの演奏を見て、聴いて、自分に自然と取り入れるという概念はピアノにもあるのではないか?

このミラーニューロン、羽生選手は浅田選手の跳び方の表面的なことを取り入れたのだろうか?足の角度とか踏み切りのタイミングとか姿勢とか?そうだったのかもしれないが、それだけではなく、浅田選手が難ジャンプを軽々と跳んでいる諸要素、そこに存在した要素のようなものを感じとる能力に長けていたとは考えられないだろうか?

ピアノの奏法、こうなのだ・・・という法則はあるのだろうか?身体や腕を揺らさない?それとも揺らす?バタバタしないで集中した動きが必要?このようなことは決められないのではないだろうか?

個人的に、日本のピアニストや優秀な音大生の演奏、音が散ってしまっている印象を持つ。腕ですべてを行おうとするような印象。もう少し手首から先で集中させたような弾き方も必要なのではないかと。そうしないと、どのような場面でも同じような散漫な音になってしまう印象を持つ。つまり音が散ってしまうので、どんなに心を込めて弾いても聴いている側には平坦に聴こえてくる。

では動きを少なくすればいいのだろうか?動かさないでと決めつけてしまうと、力が入って硬直してしまうこともあるし、その弾き方が、ある意味での一生懸命さのようなものを醸し出したりもして、手が痛くなっても弾き続ける・・・みたいな危険性もないだろうか?

つまり「こうなのだ」と決めつけることは困難・・・

どうも奏法に関しては「○○奏法神格論」のような、こうあるべきという空気を感じたりする。

ある介護施設、PTがこう言う。「バーを使って向こうまで歩いてみてください」おばあさんは言われた通りに歩く。PTはさらにこう言うのだ。「では、またこちらに向かって歩いてきてください」おばあさんは、そこでPTにこう言うのだ。「戻らせるのならなんで歩かせたんだい?」

むろん下肢筋力の維持のためにはバーを使用しての歩行は必要で大切なことなのだ。でも、おばあさんにとって歩くということは目的ではなく手段なのだ。友達と芝居を観に行きたいとか、美味しいお菓子を買いたいので、あそこの店まで行こうとか・・・

このような例はどうだろう?老人ホームの食堂。看護師が仁王立ちになっている。「ジュースではなく牛乳を飲みなさい」たしかにジュースよりは牛乳の方が身体にはいいのだろう。カルシウムも豊富らしいし。「牛乳を飲まないと長生きできないんですよ!」その言葉に入居者たちはこう言う。「うちら、もう長生きしてる・・・」

弾き方は目的なのか?手段なのか?手段なのだとしたら目的は何だろう?

音楽愛のようなもの?ある演奏を聴いたら、自分のレベルはどうであれ、それに焦がれてしまうのだ。私も・・・と思う。だって焦がれるから。自分とは無関係の素晴らしい世界と割り切ることはできない。苦しいけれどできない。

奏法は手段なのではないだろうか?

この動画を分析中。ピアノの動画ではないので、ミラーニューロンというわけではないのだろうが、場面ごとに動き、ポジション、形をバタバタさせない、集中された、意思を持った音を出す。なのでバタバタしない、フワフワと大振りでタッチを散漫に散らさない・・・という観点で分析中だ。特にニルソンとパヴァロッティの言っていることを考えている。現役時代の彼らの歌い方、口の開け方や身体の使い方とか、ポジションをいちいちバタバタさせない・・・みたいなこと?

でも「動かしてはいけないのだ」でもないのだと思う。

死ぬまでには解明できないかもしれないな。でも焦がれてしまうから・・・

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オペラ入門 

 

オペラに親しむ方法、そりゃあスカラ座などの引っ越し公演をいきなり体験してみるのがいいのだろう。オペラは総合芸術なので、やはり生の臨場感は素晴らしい。ピアノ以上に声の威力というものは、生演奏で感じられるものだろうし。

でもお高い。ここが問題だ。たしか、2013年のスカラ座引っ越し公演、S席のお値段は59,000円だったと記憶している。A席は52,000円だったかと。もし楽しめなかったらと考えると、この値段は、あまりにもリスキー。加えてオペラ歌手って、ピアニストよりも身体の不調が演奏に出やすい。スター歌手が体調不良で鋼板し、代役のムッシュー・オトッテルゾーが歌ったとしても割引料金には変更されないと思うし。とにかくお値段がリスキー。まぁ、ミラノに出掛けるよりは安いかもしれないが・・・

でもDVDという手がある。オペラは長い・・・そうなんだよね。でも映画感覚で楽しめばいいのでは?ポテトチップスを友に。

言葉が分からん・・・そうなんだよね。日本語の字幕があればいいのだが、そうでない場合、有名オペラのあらすじを説明したような本を購入すればいいのではないかと思う。全部の言葉の意味など分からなくでも結構楽しめる。ただ、その場面で、主人公が復讐に燃えているのか、新大陸発見の喜びに浸っているのか・・・ぐらいの認識はあった方がいいとは思う。あらすじ本とアリアの対訳本でもあれば、充分字幕なしのDVDでもオペラは楽しめると思う。

何から手をつければいいのか分からない。そうなんだよね。とにかく馴染みがないということもある。オペラ知識は必要なのか?まぁ、何事も知識はあった方がいいとは思う。無駄にはならない。むろん、専門家の書いた詳しいオペラ本を熟読するという手もあるが、入門の際の「あったほうがいいよね」的知識ってあるように思う。知識というよりは、入門の際のコツ・・・みたいな?

基本的にオペラのリブレット(台本、つまり筋書き)は大概くだらないと思ったほうがいい。3大驚きリブレット、個人的には「魔笛」「トロヴァトーレ」そして「夢遊病の女」だろうか。

例えば「夢遊病の女」のあらすじ。愛し合っている若い男女。二人は結婚かという感じだ。でも、女性が別の男性の部屋で眠り込んでいるのを発見される。不貞?浮気?清純なのは表だけで、実際は?真相を知っている人物がいた。「彼女、実は夢遊病なんだ」そこに屋根の上を歩いている不貞疑惑の女性が。「おお、本当だ。彼女は夢遊病だった」「不貞ではなかったのだ。」「嬉しや!嬉しや!」終わり・・・このような物語に心を動かされる人がいるとも思えない。しかし、ベッリーニの音楽は最高に素晴らしい。主に、ベルカントオペラやブッファものは、この憤死リブレットのオペラが多いように感じる。このようなオペラは総合的な魅力というよりは、歌を聴くオペラなのだ。歌手の妙技に拍手喝采するオペラ。

反対に写実的なヴェリズモオペラは、むろん歌手の妙技も聴きどころなのだが、もう少し総合的芸術のようなものを堪能するオペラに思える。リブレットも、割と現実感が感じられたリする。「カヴァレリア・ルスティカーナ」とか「道化師」とか。この2つのオペラは短いので、一晩にセットで上演されることが多い。DVDにも2つの演目が収録されていることが多い。どちらもヴェリズモオペラの傑作で、僕の大好きなドロドロ愛憎オペラだ。民放の2時間サスペンスドラマを楽しめる人だったら、これらのオペラは充分楽しめる。

歌手の妙技のためのオペラ、そして総合的な魅力、歌唱だけではなく、演技とか、ストーリーも楽しめるオペラ、オペラには大別するとこの2つに分かれる。これって、知っておくと便利かもしれない。

「夢遊病の女」よりは、はるかにマシなリブレットだとは思うけれど、ドニゼッティの「連隊の娘」のストーリーも、別にどうってことのないストーリーだ。このオペラは、歌手の妙技のためのオペラなのだ。特にテノールのアリアが聴きどころだ。このアリア、何度もテノール殺しハイCが出てくる。テノールの妙技(ハイC)に聴衆(観客?)は「ワッ♡キャッ♡」のように楽しむのだ。客席は、お芸術を拝聴しているという感じではないよね?思い切り歌手の妙技を楽しんでいる。

「カルメン」は個人的に、ドロドロ系で好きなオペラだ。有名なアリアもてんこ盛り(?)だ。でも歌手の妙技だけを堪能するというよりは、歌ドラマそのものを堪能する総合的オペラという感じがする。演技力も相当必要になってくるのではないだろうか?僕はドロドロが好きなので、カルメンとホセの絡み場面が好きだ。反対に、ミカエラって、あまり好きなキャラクターではない。

フィナーレが好き。相当暗いというか、ドロドロしたフィナーレではある。「あんたが昔くれた指輪だよ。もうこんなものいらないよ」とカルメンはホセにその指輪を投げるのだ。男は辛いだろう。この仕打ちはないよね。

ハイC、フローレス、頑張っています。オペラには珍しいアンコールまで・・・

アラーニャのホセは、とても落ちぶれた感じが出ていていい感じだ。ガランチャのカルメンも気丈なナイスバディという感じで大変よろしい。この場面は、歌を聴くというだけではなく、演技力も楽しめる場面だ。

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席数変更 

 

本日、雑司ヶ谷音楽堂でのリハーサルでした。見学に来てくれた人も1名いました。ありがとうございます。達磨を頂きました。今日、片目を入れて、本番で両目になるように頑張りたいと思います。

最終的な席数ですが、やはり60席まで増やしたいと思います。残席は、あと10席となります。

無料の演奏会ですが、申し込みが必要となります。このブログのメールフォームからお申込み頂ければと思います。当日は受付でお名前を仰って頂き、プログラムを受け取ってください。席は60、全自由席です。

「kaz リサイタル」  6月30日(土) 開場13:30 開演14:00 雑司ヶ谷音楽堂

グラナドス  ゴイェスカスより 「愛と死」
バッハ~コルトー 「アリオーソ」
ボルトキエヴィチ エチュードOp.15-8
ラフマニノフ~ジロティ 「ロマンス」Op.8-2
ラフマニノフ~ワイルド 「ヴォカリーズ」Op.34-14
トレネ~ワイセンベルク 「4月にパリで」
チャイコフスキー~パヴスト~ハフ 「眠れる森の美女」によるパラフレーズ

ショパン 華麗なる円舞曲 Op.34-1 
      バラード 第1番 Op,23
パデレフスキ ノクターンOp,16-4
ショパン アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ Op.22


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コレペティから学ぶ 

 

まずは6月30日、リサイタルの残席情報から。2席分のキャンセルがありましたので、残席は、あと2席ということになります。ただ、明日本番の会場でリハーサルをするので、その時に最終的な席数、50席か60席かを決定します。多分、明日ブログで報告できると思うのですが、50席とした場合は、残席あと2席となります。

大学生の時、奮発してウィーン国立歌劇場の引っ越し公演を聴いた。演目は「マノンレスコー」だった。マノンはフレーニだったと思う。当然、素晴らしく感激したのだが、恥ずかしいことに、この時の僕は、オケがウィーン・フィルということを知らなかった。ウィーン国立歌劇場オーケストラという別のオケが存在するのだと思っていたのだ。ウィーン国立歌劇場にはオケがあり、それがウィーン・フィルだったのだ。

そもそも、歌劇場とはオペラを上演する建物のことだと思っていた。パリのオペラ座もメトも。「ああ、リンカーン・センターにある劇場のことね」みたいに。タクシーの運転手に行先を告げるのだったら、その意味は建物になるのだろうが、歌劇場というのは、建物ではなく組織だったのだ。芸術監督が存在し、オケや合唱団、バレエ団を所有している。

最も歌劇場の多い国は、おそらくドイツ、次いでイタリアということになるだろうか?ピアニストとして世に出るには、コンクールという選択しかないのかもしれないが、オペラ歌手の場合、歌劇場のシステムが整っているならば、例えば田舎の歌劇場で歌っているのを認められ、徐々に大きな都市の歌劇場、そして最高峰のミラノのスカラ座・・・のような出世街道が現在でも残されているのではないだろうか?コンクールは審査員が判断するが、歌劇場システムの場合は、聴衆が判断し、そしてスターが生まれていく・・・

歌劇場にはスタッフがいる。正指揮者であるマエストロ。演出家など。そのスタッフの中にコレペティ-トルと呼ばれる人たちがいる。略してコレペティ。歌劇場概念の乏しい(?)日本人には(ピアノ弾きには?)コレペティって何なのか知らない人もいるかもしれない。

コレペティはピアノを弾く。ピアノを弾くからピアニストなのだが、伴奏者というのとは違う。歌手に稽古をしたりする。でも声楽教師というわけでもない。「何をする人?」ピアニストというよりは指揮者に近い?

マエストロの意向を組み入れ、歌手に稽古をする・・・という感じだろうか?ハウフト・プローベやゲネラル・プローベにも参加する。歌劇場には通常5~10人程のコレペティがいるらしい。歌手以上にオペラを知り尽くした人、ピアノも弾ける人・・・という感じなのだろうか?むろん歌手の単独のリサイタルの伴奏も頻繁に行っている人が多いので、さらにコレペティって何する人・・・みたいな感じにはなる。

ソロの超絶技巧曲をスラスラ弾ければコレペティになれるわけではないのだろう。ソルフェージュ能力が必要となるだろうが、即興名人とか、そのようなことよりは、歌手以上にオペラ、歌を知り尽くし、愛していることがコレペティの条件になるのではないだろうか?歌劇場システムが生んだピアニストなのかもしれない。

歌が生んだピアノ、コレペティのピアノ、興味ありません?

アキッレさんというコレペティの動画。一つは歌手にレッスンしている様子。もろ声楽教師のレッスンみたいだ。もう一つはアキッレさんがソロを弾いている動画。おそらく、声楽のコンサートでオペラの間奏曲をソロで・・・という場面なのだろう。この演奏、歌から生まれたピアノという感じがしませんか?

やはりピアノが上手くなる方法は、声楽を聴くことなんじゃないかな?

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何故ピアノの人はオペラを聴かないのか? 

 

ツラツラと、何故ピアノを弾く人はオペラから遠い存在なのだろうということを考えていた。チケット代?たしかに海外のオペラ劇場の引っ越し公演は高い。「家賃か?」と思うほどだ。気軽に・・・という感じではないよね。歌詞?たしかに歌詞の内容は把握した方が楽しめると思うけれど、英語のロックとかポップスに親しんでいる人のすべてが辞書を片手に英訳しているとは思えない。

オペラのリブレット(台本)って意外なほど、くだらない。憤死してしまいそうなぐらい。音楽がなければ、とても鑑賞できないような代物だ。ヴェリズモオペラになると、週刊誌の芸能ニュース以上に濃いというか、なんというか、そんな世界だったりする。「私というものがいながら、あんな女と?」「いけないのか?」「私はこんなにあんたを愛しているのに!」「お前のそういうところが重いんだよ」「ひ・・・酷いわ」みたいな?

ピアノの場合、どこか真面目、ストイックな面があるのでは?悪いことでもないと思うが、例えば昔の先生は怖かったとか?どこかストイックな要素があり、日本の伝統芸能にみられる家元制度をそのままピアノにも引き継いでしまったかのようだ。芸術に対して、そんな軽い気持ちで取り組むなんて・・・みたいな精神性。「手が痛くなるまで練習するものです。そこを超えてこそ音楽の精神を感じられるのです」

今だったら「パワハラ」とかになるような厳しさ。このような精神性とオペラのドロドロ世界って、なんだか相反する。身を清め、作曲家の肖像画に黙礼してから練習いたしましょう・・・戦後まもなくの日本のピアノ道だったら、こんな雰囲気もあったのかもしれないが、黙礼して「悔しい!あの女のせいだ。毒を盛ってやる!」みたいなオペラの世界には、少し入りにくいかもしれない。つまり、ピアノ弾きのストイックさと、オペラのドロドロとは合わない。なのでピアノ弾きはオペラ好きにはならない・・・違うかな?

オペラって、どんなに練習して、それが辛いものであったとしても、その苦労を出してはいけないような世界だ。一生懸命とか汗とか努力を出したら白けてしまうような世界。ピアノも本当はそうなのだと思うけど・・・

ストイックに努力し、血も汗も涙も味わう。とても立派だし、実際に立派な演奏が生まれるのかもしれないが、それだけではどうにもならない音楽というものもある。例えば、ヨハン・シュトラウスの音楽とか。「まぁ、ここまでのレベルになるには大変だったでしょうね」的なニュアンス、努力とか汗を感じさせたら、まさに崩壊してしまうような何か。その何かを聴き手が認識できて、初めて曲として、演奏として成立するような世界。オペラもどちらかと言えば、シュトラウス側の芸術なのかもしれない。そして、日本人のピアノ弾き、プロもアマチュアも含めて、この種の音楽が実に苦手のような気がする。ピアノ弾きにとって、どこかオペラが遠い理由をツラツラと考えてみたけれど、まぁ、僕の考えというか、印象に賛同する人は少ないだろうとは思う。

ヤンソンスとウィーン・フィルのこの曲、この演奏、立派なだけではない何かが確実に存在している。「楽しければいいじゃない?」というものとも違う。ベルゴンツィのカーネギーホールでのアンコール。なんと、ベルゴンツィ、この時すでに72歳だった。その年齢でここまで・・・というよりは、この雰囲気。客席を温かく包み込んでしまうようなこの雰囲気。これは絶対に、努力とか汗、一生懸命さを聴き手に感じさせてしまっては、ただちに消え去ってしまう種類のものだ。このような音楽、演奏、ホンワカと楽し気なんだけれど、実は厳しさを突き付けてくるような音楽なのかもしれないね。演奏する側にとっては・・・

でも、ピアノの練習に行き詰ったら、オペラを聴いてみるといいと思うよ・・・

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ショパンを弾く時にやるべきこと 

 

「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」この「スピアナート」という言葉、あまりピアノ曲には登場しない。もしかしたらピアノ作曲家では唯一ショパンだけが使ったのかもしれない。ベルカントオペラの作曲家、ベッリーニは「スピアナート」という言葉をよく使ったらしい。

「滑らかな」とか「落ち着いた」という意味のようだ。たしかにそのような曲だと思う。この曲のオリジナルはオーケストラとピアノで演奏される。今ではソロで演奏されることが多いが、オリジナル版では、アンダンテ・スピアナートの部分は、オーケストラはお休み。ポロネーズ部分からの参加(?)となる。つまり団員はピアノをじっと聴いているだけなのだ。オーケストラを控えさせてソロを弾く、これは斬新だ。そこまでしてショパンはピアノにおける「スピアナート」、ピアノにおける「ベッリーニ」をアピールしたかったのだろう。

イタリア人の友人によれば、この「スピアナート」という言葉は、波一つない紺碧のナポリ湾そのものなのだそうだ。平穏、平和で真っ平のようなイメージらしい。ピ~ンと張ったシーツのような?サンボニーで製氷した直後のスケートリンクのような?

蛇足だが、サンボニーという製氷機、人の名前なのだそうだ。それまで人力で行っていたリンクの製氷、その機械化に成功した、フランク・サンボニーという人。彼が設立したサンボニー社は現在もカリフォルニアに存在し、製氷機としては、世界的シェアを誇っているらしい。フィギュアスケートの競技会、一度サンボニーにも注目してみたらどうだろう?

そのサンボニーで滑らかにしたスケートリンク、「スピアナート状態」のサウンドをショパンは求めたのだろう。おそらく、ショパンはベッリーニに相当憧れていたのではないかと想像したりする。

ショパンを美しく素敵に弾く、その場合、やはりオペラ、それもベッリーニのようなベルカントオペラに親しんでみる必要もあるのかもしれない。ショパンに限らずピアノの曲って音が多いから、どうしてもワシワシと練習してしまうけれど。そして残念なことに、ピアノを弾く人って、あまりオペラとか声楽を聴かない。オペラはショパン本人が憧れた世界なのだよ?

最高のベルカントオペラの歌手、個人的にはマリア・カラスの歌唱ということになる。まさに完璧だと感じる。音符の上がり下がりとか、長短とか、書かれているものを、ここまで読み取り、具現化した人がいたなんて。休符も「お休みです」ではなく、必然性のある「溜息」みたい。加えて、カラスの歌唱には、ある種の魔力がある。なんだかホロヴィッツみたい・・・などと思う時もある。

カラスとは異なった魅力の歌手なのだが、ジョーン・サザーランドのベッリーニにも惹かれる。とにかく滑らかなのだ。どんなに超絶技巧を駆使しなければならない場面でも、絶対にバタバタとしない。まさに「スピアナート状態」を保っている。

ショパンを弾く時にはベッリーニを聴こう!

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弾き方を変える 

 

「私、ハイフィンガー奏法なんです」と公言して演奏している人はいないと思う。ハイフィンガー奏法って古い奏法、いけない奏法とされている。ハイフィンガー、上からぶっ叩くのような?実際には、ぶっ叩くというよりは、別の特徴があるのではないかと感じ始めている。

音大生、それも難関とされている有名校の学生、つまり日本の優秀な音大生の演奏に、ある共通した特徴があるのではないかと。とても達者なのだ。そうでなければ「弾けてないじゃーん」とか「ダメじゃーん」とか素直に感じるのかもしれないが、非常によく弾き込まれており、一つのミスもないほど表面的な完成度は高い。難曲もなんのその・・・

でも弾けているだけに、こちらに伝わってくるものが皆無だと、ある種のアンバランスというのだろうか、それが気になり落ち着かなくなる。「ここまで達者に弾けるのに何故?」みたいな?

上肢が揺れる人が多い。ついでに顔面表情の豊かな人が多い。そこまでは好みというか、個人の勝手という気もするが、おそらく上肢の動きと関係しているのだと思うが、ブレスというのだろうか、力を入れたり抜いたりするのを、彼らは主に肘で行っているようなのだ。当然前腕、上腕の動きも大きい。僕なりの印象なのだが、このような弾き方をする人の音って、どうも散ってしまうというか、集中されていなくて、バシャンというかボヤンというか、そのような音に聴こえる。つまり大振りによる大雑把な音。

これは自然発生的なものではなく、訓練されているような?つまり世の音大で教えられている弾き方?どのような場面でも、同じような音が続くので、どうしても平坦に聴こえてしまう。弾き込むことで、整いはしているのだが、それが形式をなぞるような、外壁攻めのような?まぁ、このあたりも好みの問題なのかもしれないが。

でも、ハイフィンガー奏法って、とっくに廃れたのでは?中村紘子が井口愛子に叩き込まれた時代、それは昔のことなのでは?でも、弾き方というよりは、あの音・・・アカデミックな場所では、いや、そのような場所だからこそ、いまだに健在なのかもしれない。

幼少の頃に身につけた弾き方を、大人になって一から変えるのは、余程の根性とピアノ愛が必要なのだろう。「その弾き方は基礎から直しましょうね?」と中村紘子がレヴィン女史に言われたのが18歳の時。氏の著書にもあるけれど、それはそれはショックだっただろう。立ち直れないほどに。ピアニストとして活躍するようになってからも、昔のハイフィンガー奏法が見え隠れしてしまうこともあったらしい。自分の演奏の録画を観て気づいたりしたこともあったようだ。それほど困難なことなのだ。当時、ハイフィンガー奏法を叩き込まれた優秀な人たち、また、そのお弟子さんたち、全員が中村紘子のように一から奏法を変えたのだろうか?今では、その人たちは音大の教授とか、そのような立場にいるのではないだろうか?

全員が変えられたとは思えない。変える必要性を感じなかった人もいたのではないだろうか?その人たちがピアノ教育界の重鎮となり、次の世代の学生たちを指導しているとしたら?「そこは底までカ~ンと鳴らして!」みたいな?

個人的には、ハイフィンガー奏法は今も引き継がれているように感じる。引き継いだ学生は、ピアノ教師になる人が多いだろう。またそれが子どもたちに伝わっていく・・・

「断ち切らなければ」中村紘子はそう思ったのではないだろうか?彼女の著作を読んで驚いたことがある。自分自身の師匠のメソッド、つまり井口派という流派を否定した内容の文章を書いたから。勇気あるなと僕は単純に思った。

これは、自分自身の恨みつらみというよりは、中村紘子が国際コンクールなどの審査員をするようになって、日本人コンテスタントの演奏を聴くようになり、また浜松のアカデミーなどで後進の指導にも携わるようになって、感じたのかもしれない。「戦中、戦後の何もない時代なら仕方なかった。でも今も同じことが音大というアカデミックな場所でそれが継承されてしまっているなんて。日本のピアノのために何かしなくては。先生たちは何をしているのだろう?」そのような想いがあったのではないか?師匠、その流派を敵にしてでも訴えたいことがあった・・・

ジュリアード音楽院でレヴィン女史から指摘されるまで、中村紘子はハイフィンガー奏法で弾いていたことになる。「その弾き方は直しましょうね」と言われるまでは。これをご本人が明かしているのが驚きだ。ジュリアード時代以前、つまり毎日コンクール1位も、N響初の世界演奏旅行のソリスト抜擢での演奏も、ハイフィンガー奏法で弾いていたということになる。普通、それが事実であったとしても、他人には明らかにはしないものだと思う。それをあえてした・・・

日本ピアノを変えたかったのだと思う。悪しき伝統を断ち切りたかった。考えてみると、ハイフィンガー奏法ということはよく言われるけれど、ズバリこの演奏がそうです・・・と断定できる演奏はこれだけではないだろうか?ご本人がそう言っているわけだから・・・

敗戦国日本の演奏家が西洋のクラシック音楽なんて演奏できるの?このような偏見が普通だったのではないだろうか?大いなる希望を託した演奏旅行だったはずだ。ピアノを弾くには全く適さないと思われる大振袖で演奏している意味もあったのだろう。

中村紘子、この時16歳。ヨーロッパの人々は驚いたのではないかと想像する。でも肘で抜いたり入れたりしている。上肢の動きも大きい。ハイフィンガーというよりは、どこか「腕弾き」のような?非常に折り目正しい演奏と感じるが、音色の変化には乏しいような?

後年の中村紘子の演奏。派手な腕の動きで有名だったらしいが、僕には「静かな演奏姿」と感じる。上肢がユラユラと動かない。腕の動きというよりは、指先を楽器に入れていくような弾き方に変わっている。この場合、ブレスは肘ではなく手首になるのではないだろうか?

ここまで弾き方を意識的に修正したピアニストを僕は他に知らない。

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残席情報 

 

6月30日のリサイタルですが、おかげさまで満席となりました。申し込んで頂いた方、ありがとうございました。満席というのは、50席と想定した場合です。50席にするか60席にするかは、今月23日のリハーサルの時に正式に決めたいと思っています。

「50席でもいいけど、もし50人聴きに来たら、ぎゅう詰めという感じにならない?椅子は少し多めにして、余裕のあった方が聴き手も楽なんじゃないの?全部埋まるって聴く方は辛かったりするよ・・・」

たしかに・・・

でも、60席だと一番前席のラインがピアノに迫るんだよね。「大丈夫だよ。弾いちゃえば気にならないって」弾くのは僕なんだけどな・・・もう少し考えさせてください。

歌のようなピアノ、歌心を感じる演奏、意識的に目指しているということではないけれど、よく人から言われる。最近は、もしそうなのだったら、そこを聴いて頂きたい・・・などとも思うようになった。

今、中村紘子著の「ピアニストだって冒険する」という本を読んでいる。次のような文章があった。「一般的に見ると、国内の音楽大学で勉強しているピアノ学生の多くにはどこか共通する分母があって、それは響きの固さ、そして単調さだった」

この文章も気になる。氏とウィーン国立音楽大学の教授との会話なのだが、「(日本には)弾いてみせるレッスンのできる先生が、大変すくないのではないか?」と疑問を投げかけてきた。「でも最近の若い先生方は、海外留学から国際コンクール入賞歴も含めて、一昔前よりずっとレベルが高くなっているはずですが」と私(中村紘子氏)が言うと、彼は首を傾げた。「私のところにレッスンを依頼してくる日本の学生が嘆くには、日本の先生は全く何の注意もしてくれない。自分で考えろ、というだけだと」

自分の場合、やはり特に声楽を意識してとか、歌うピアノを・・・と心掛けているわけではないと思う。ピアノ曲よりは、歌曲やオペラが好きではあるけれど。でもピアノを再開する前から、目指したくはないなというサウンドは明確にあったような気がする。先生を探すにも、そこのところを考えたほどだ。目指したくない演奏とは、優秀な、難関名門音大の学生のような演奏。響きが固く、まるでショパンのエチュードを機械のように弾く・・・このような演奏だけは目指したくないと・・・

むろん、本番ではミスはしたくない。それは人と同じだ。でも目標とか、心の中で目指すものは、「達者に弾きこなす」とか、そのようなことではない。歌のように・・・かもしれないね。

目指したくない演奏が、難関音大の達者な学生の演奏だとして、やはり目指したい演奏というものも自分の中で存在しているように思う。やはりイタリア人ピアニストが多く含まれてくるのは、僕が歌好きだからか?

セルジオ・フィオレンティーノとか・・・

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身の丈曲と憧れ曲 

 

まずは事務的連絡。6月30日のリサイタル、残り2席となりました。今月、会場でリハーサルをする時に正式に決めますが、申し込み状況によっては席を増やすかもしれません。でも、今のところは残席2・・・ということになります。

発表会などでの選曲において、身の丈曲か、憧れ曲か、悩む人もいるだろうと思う。仮に、その人が「トロイメライ」は身の丈曲、「ラ・カンパネラ」が憧れ曲と思っていたとする。どちらにしようか・・・安全策でいくか、それとも弾きたい憧れの曲に挑戦するか?個人的には憧れ曲があるのだったら、挑戦してみてもいいと思う。来年の今頃、ピアノを弾いていられる保証なんて誰にもないわけだから。人生何があるのか本当に分からない。死んでるかもしれない。死ぬ間際に「リストを弾いてみたかった」と後悔するよりは、弾いてみれば・・・と思う。

どちらがいいかという選択の問題よりも、実は大切なことがあるような気がする。身の丈曲と自分が思っている曲、ちゃんと弾けるかということ。音が並ぶということではなく、ホロヴィッツのように・・・とまではいかなくても、ざわついた客席、歓談中のフリータイムでの練習会などで、「トロイメライ」で周囲を静寂させることができるかどうか?つまり「えっ?なに?この人の演奏素敵・・・」と人を振り向かせることができるか?

「で・・・できない・・・」ということの方が多いのではないだろうか?

練習とかレッスンって、その曲を表面的に弾きこなすためにあるのではなく、「人を振り向かせる要素」を身につけるものと考えてみたらどうだろう?生徒はワシワシ弾きこなすことだけを考えるのではなく、教師も、ただダメ出しレッスンだけをするのではなく。

ブルグミュラー、「ソミレドソミレド ドラソファドラソファ」という曲、最初のソミレドを弾いて、次のオクターブ高いドに行くとき、ここで一つの音場面がある。オクターブ高くなる、つまり8度という大跳躍なわけだから、そこに音のドラマがあるはずなのだ。音とか、サウンドとか、脳内で鳴ります?つまり音イメージはあります?あるのだとしたら、その音イメージを具現化するための指運動、弾き方、体得しています?オクターブ高くなるわけだから、手を開かなければならない。反射的にパッと開く意識はあります?この動きが緩慢だと、上のドの音、雑になりません?狙わないと脳内イメージは実際の音にはならない。移動と同時に弾いてません?そうするとコントロールなしのバシン・・・みたいな音になる。それに気づいているか?

つまり、ブルグミュラーぐらいの段階から、音楽の成り立ち、音イメージ、それを具体的にサウンド化するために、指、腕、身体はどうすればいいのかということを、自分で整理できているか?そのようなことを具体的に指導されてきているか?

ショパンのワルツ、「もっと弾んでいるように」・・・では弾んで聴こえるための具体的方法は?習ってきています?

「せっかく憧れ曲に挑戦したのに、弾けない・・・音は並ぶようになったけど、自分でもこんなの音楽じゃない」このように感じている場合、その曲が難しすぎるというよりは、身の丈曲とかソミレドソミレドでさえ、できないようなことが、あなたの行く手を阻んでいるのかもしれない。

楽に弾く、流麗に弾く、音楽的に弾く、人を振り向かせるような魅力を、音として具現化する。このようなことって、感性とか、そのようなことでもなく、習えること。それを習っていないし、今までも習ってこなかった・・・と。そのようなことを教えられる教師は必ずいるのだと。そして音楽的に自分は弾けるのだということを信じる。

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楽譜に忠実なオペラ? 

 

ロマンティックな、人によってはオールドファッション的なスタイルにさえ感じる演奏を僕が好むのは、もしかしたら僕がオペラ好きということも理由の一つなのかもしれない。人間の声って、ピアノのような楽器とは比較できないほど「個性」というものが存在していると思う。マリア・カラスの声、ドミンゴの声・・・のように。聴衆は作品の原点のようなものを求めるよりは、歌手独自のカリスマ的要素を求めるような、、そんな歴史があり、現在もその風潮が残っているのかもしれない。現代のスター歌手に魅せられ、驚嘆したとしても、やはりカラスの歌唱が忘れられない・・・のような風潮はピアノの世界よりも濃いように感じる。

オペラの世界にも原典崇拝主義のような、ザハリヒな流れは押し寄せたのかもしれない。楽譜は最新研究を反映させた○○エディションで・・・みたいな?作曲家オリジナルのもの、これがオペラの場合、ピアノよりも複雑なのかもしれない。ヴェルディの「椿姫」、ヴェルディのオリジナルでは、例えばアルフレードのアリアの後に、現在ではカットされるのが普通であるカバレッタがある。当時の初演歌手のリクエストによって、ヴェルディが渋々書き加えたような、どうでもいい音楽。一時の原典主義により、このどうでもいい、ズンチャカチャ的なカバレッタまで収録された録音なども出現した。でもそのような流れは続かなかったように感じる。

かつては「カラスの椿姫」のような言い方をした。でも現在は「クライバーの椿姫」のように、歌手よりも指揮者が先になる言い方をする時もある。原典主義がオペラ界にも浸透してきているのだろうか?そのような聴き方をオペラでもされてきているのだろうか?

オペラにも原典主義の指揮者がいたように思う。個人的にはあまり好きになれない指揮者だが、リチャード・ボニングとか。この人は、オペレッタのような作品にさえ、原典主義、オリジナル主義を持ち込もうとした。原典主義の「メリー・ウィドウ」なんて誰が聴きたいと思うのだろう?実際にレハールが書いたスコアに忠実なボニングの「メリー・ウィドウ」よりは、他人の作品(オッフェンバックのカンカン)を盛り込んだ胸キュンのウィーン・フォルクスオーパー版の「メリー・ウィドウ」の方が遥かに魅力的に感じる。

オペラファンは、ピアノファンよりも、かつての黄金時代を懐かしむ傾向があるように感じる。「やはりパヴァロッティでしょ」「いやいや、カルーソーの魅力にはかなわない」「カラスは偉大だ」「そうだけど、俺はカバリエのピアニシモに軍配だな」のような?そう、オペラファンは歌手に対して濃いのだ。

人々は歌劇場に夢を見に行く、これは現代にも息づいているのではないだろうか?音楽というものにひれ伏しに歌劇場に行くのではなく、夢を聴くのだ。その歌手ならではというカリスマ性が重要になってくる。

1985年、ピアノの世界だと、もうザハリヒな時代突入だったように思うし、コンクール全盛時代だったとも思う。スター歌手、マリリン・ホーンがロッシーニを歌っている。この会場にいた人々はロッシーニよりも、ホーンという歌手を聴きに来ているはずだ。彼女だけが可能な、あり得ないようなヴァリアンテに熱狂する・・・歌手に酔う・・・

歌劇場は夢を見に行く場所であり、研究成果を聴きに行く場所ではないのだ。考えてみると、コンクールと結びつく偉大な歌手っているだろうか?その人の経歴を追っていけば、コンクール歴というものもあるのかもしれないが、マリリン・ホーンを一挙に有名にした、スターにしたコンクールって?マリア・カラスをスターにしたコンクールって?

ヨゼフ・ホフマンを有名にしたコンクール?ホロヴィッツは?

1985年、ブーニンがショパンコンクールで優勝した年。同じ年、歌劇場ではマリリン・ホーンのあり得ないまでの妙技に酔っている人々がいた。夢を堪能していた人々がいた。

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天才の法則が流行を作る 

 

僕はクライスラーが好き、ハイフェッツが好き。ホロヴィッツやチェルカスキーも好き。ホフマンやローゼンタール、フリードマンの演奏に惹かれる。「ああ、100年前に戻って彼らの演奏を聴いてみたい」と願う人間だ。現代よりは、昔のロマンティックな演奏に惹かれる。

現代はザハリヒな傾向にあると思う。原典主義というのだろうか?演奏家が全面に出るよりも、作品の本質に迫る。演奏家はカリスマ性を持った天才ではなく、どこか音楽の下僕。作品に忠実に、作曲家の意図からそれないように・・・

どちらを好むか、それは人それぞれということなのだろう。でも演奏スタイルって流行のような側面もあるのではないか?「えっ?崇高なクラシック作品の演奏に流行?」

ややもすると、ローゼンタールやクライスラーのような演奏が100年前は溢れていたのではないかという錯覚を持つ。そうではなかったはずなのだ。残念ながら、天才っていつの時代も、1パーセントという割合だったのでは?残りの99パーセントの演奏家は、凡庸・・・とまではいかなくても、優秀で立派ぐらい。天才とまではいかない。100年前のロマンティックな時代、99パーセントの演奏家はどのような演奏をしていたのだろう?おそらく、過度にロマンティックというか、勝手気まま、時には作品の本質さえ湾曲させてしまうほどの自己表現。このような演奏も多かったのではないかと想像する。聴衆はそのような演奏に飽きてくる。「ゴテゴテと飾り立てた演奏ではなく、作品の素晴らしさを直に感じたい。作品を感じたい」と。

そのような聴衆の欲求、さらに経済、産業など諸要素が重なり、演奏スタイルはザハリヒなものに変わっていったのではないか?研究が進んだということもあるだろうしね。

ザハリヒな現代、やはり天才は1パーセント。残りの99パーセントの普通の、あるいは、ただの優秀な演奏家は研究成果というか努力結果というか、楽譜が視覚的に浮かんでくるような演奏をするようになった。聴衆はそのような演奏に飽きてくる。「立派とか、そのような演奏ではなく、もっと心の琴線に触れてくるような、生々しいまでの情熱が聴きたい。生きている人間そのものの心の告白のような、そんな演奏が聴きたい。作品の忠実な再現だけでは心が動かない。もっと感動したい」

現代にもスターは存在する、実に素晴らしい演奏をする。でもホロヴィッツではない。ハイフェッツでもない。一音聴いただけで認識できるような、強い個性に欠ける。実に優秀なんだけれど・・・

またロマンティックな時代になっていくのかもしれない。でも天才は1パーセント。また100年後はザハリヒな演奏が主流になっているかもしれない。そう、流行は繰り返されていく・・・

ロマンティックな時代、演奏家たちは作曲をしたり、編曲をしたりするのが普通だった。ザハリヒな時代というよりは、どこか演奏家たちもコンペティティヴな方向に無意識に向いてしまう時代になると、悠長に作品を書いたりする余裕さえなくなってくる。「技術を磨くのだ。メジャーなコンクールで入賞しなければ、演奏そのものができないのだから。人より速く、人より強く・・・」というわけでもないのだろうが、現代は音楽史上まれな、演奏と作曲との完全分業制の時代になった。弾きこなすという意味で専門性が追及されるようになったのかもしれないが、どこか味気ないような時代にも感じる。

アキッレ・シモネッティというヴァイオリニストがいた。1857年生まれ、亡くなったのが1928年。まさにロマンティックな時代のヴァイオリニスト。当然作曲もした。パガニーニの愛弟子、カミロ・シヴォリに習ったとか、そのような史実よりも、魅力的なヴァイオリンの小品、「マドリガル」を聴くと、当時のロマンティックな時代を想い、その時代に生きてもいないのに、どこか懐かしいような、そんな気持ちになってくる。演奏会のアンコール、シモネッティは「マドリガル」を弾いたのだろう。その魅惑的でロマンティックな魅力に人々は酔いしれたのだろう。自分が抱え込んでいる感情と共感させながら・・・

現代の異端児、ギトリスの演奏を聴くと、やはり100年前に戻ってみたいなどと思う。一度でいいから・・・そしてその時代の天才を聴いてみたいと思う。

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教材臭 

 

清く正しく弾く・・・大切なことなのだろう。きちんと弾くというのかな?ある種の曲って教材臭というのだろうか、独特の表現が存在しているように思う。一つはピアノでもヴァイオリンでも、初級教材としてまず接する曲に、その傾向があるように思う。例えば、ブルグミュラーの25練習曲とか、バッハのインヴェンションのような曲。何故か「ピアノ教室の響き」というのか、曲ではなく「教材」として聴こえてくる演奏が多いような?ヴァイオリンだったら、スズキメソードで子どもたちが弾く名曲とか。ドヴォルザークの「ユーモレスク」はスズキメソードの教則本に入っていて、多くの子どもたちが演奏している。でも教材臭を感じたりするのだ。清く正しく・・・悪いことではないし、導入期には必要なことなのかもしれない。

もう一つ教材臭を感じる曲たち、それはバッハの平均律とベートーヴェンのソナタ。幾光年も昔、ピティナのステップに参加したことがある。たまたまだったのかもしれないが、僕以外の参加者は高校生らしき人ばかり。そして全員が平均律とベートーヴェンのソナタ、それも第1楽章を弾いたのだ、たしか、僕はその時ラテン系の曲(グラナドスとか)を弾いた記憶がある。一人浮いていた記憶もある。

何故同じような選曲ばかり???

受験の予行練習のためにピティナのステップに参加したのではないだろうか?どの人も、とても教材臭を感じさせる演奏だった。バッハはノンレガートでポツポツと。ベートーヴェンは、はっきり明快、決してベルカントを感じさせない定規のような弾き方。

いつかは「清く正しく教材臭」を抜け出すのだろうか?清く正しくというよりは、受験に有利な弾き方とか表現なのだろうか?

切なくなるほどの美しさに心が動く、なのでその曲に存在している美を探すために弾く。これってプロ級になってから考えたり、目指したりすることなのだろうか?なぜ導入期で求めてはいけないの?子どもが求めてはいけないの?まずは「しっかり」「清く正しく」ができてから、それを卒業してから美を目指すのが正しい道なのか?

巨匠の演奏に感動しても、まずは「教室弾き」をしてから、次のステップに進むのだろうか?5歳の子どもがクライスラーの演奏に感銘を受けて、ヴァイオリンを習い始めるとする。でも教材を卒業してから曲を弾かなければならないのだろうか?クライスラーに最初から憧れてはいけないのだろうか?

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生演奏の魅力 

 

出不精になったなと思う。昔は演奏会にも出かけたものだ。就職してしまうと、仕事の後に演奏を聴きに行くというのが、億劫になってしまう。「これから赤坂か。面倒だな。家で寝るか・・・」みたいな?

個人的には往年の巨匠たちの演奏、多くの人(専門家?)が前時代的、オールドファッションと呼ぶような演奏が好き。どうしてもフレッシュな外来若手よりは、家でCDに浸っている方を選んでしまうということもある。そのほうが幸せなんだもの・・・

そのような僕でも、子どもの頃、若い頃に聴いた演奏会の鮮烈なる記憶というものはある。やはり声楽の演奏会が多いと思う。ピアノはあまり・・・

最初のモノクロの動画、僕がまだ生まれていない頃の、若きオブラスツォワ。むろん実際にはこの歌唱は生まれていないので聴いてはいない。でも理想とするリサイタルというか、演奏会という気がする。演奏者が1人で何やら難し気なことをしていて、客席はどうしていいのか、何を感じていいのか分からない・・・というよくある(?)クラシックの演奏会とは違うように思う。

客席が静かに燃えている。聴き手の瞳が燃えている・・・

想像してみる。旧ソビエト時代、ここは炭鉱の街。娯楽といえば、場末の映画館ぐらい。人口のほとんどがディープな労働者。日頃はクラシック音楽なんて聴いたりはしない。ある日、突然中央モスクワから、若く才能ある、しかも美貌のメゾ・ソプラノがやってきた。エレーナ・オブラスツォワ嬢。「なんでこんな田舎町に?」誰もがそう思ったが、滅多に聴くことのできないクラシックの生演奏の機会、場末の映画館には多くの炭鉱夫が集まった。客席で煙草を吸っている人などもいて、通常の演奏会とは異なる雰囲気ではある。ピアノもアップライトだし。でも彼らの瞳は静かに燃えている。「これが歌曲というもの?これがクラシック音楽というものなのか?」すべての瞬間を吸い尽くそうとするように、逃さないように静かに聴いている。

このような舞台と客席が一体となった演奏会、それが保障されるのだったら、今でも演奏会には聴きに行きたい。ミスがあってもいいからさ。何かこちらの心を動かして欲しい。ツラツラとお上手ね・・・ということを確認しに行きたいわけではないのだ。

時は移り、1980年、東京文化会館。当時はサントリーホールなどは存在していなかった。大物外来演奏家は、ほぼ東京文化会館の大ホールで演奏していたような気がする。ロシア(当時はソビエト)からエレーナ・オブラスツォワがやってきた。たしか、この時には彼女も西側で活躍するようになっていたと思う。

当時、僕は中学生だったんだねぇ。そのような時代もあったのだ。こんな広いホール、声は後ろまで聴こえるのだろうか?それは杞憂だった。巨大な空間も、オーケストラの音量もなんのその、オブラスツォワは偉大な声を聴かせてくれた。声が天井に共鳴している?声って凄いんだ・・・

このような感動はCDだと無理だよなぁ・・・

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category: リサイタル 2018

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事務的なお知らせ 

 

初めは、どこかのスタジオのグランドピアノの設置してある練習室で、3人ほどの方を招いて、小さな演奏会をしてみたいと思っていた。この欲求は、ずっと抱えていたと思う。練習会などで一曲だけ演奏するというのとは、また異なる楽しさがあるのではないかと。全部が自分の世界であり、選曲なども自分なりに凝って、一つの世界を作る、そこに参加してくれる人がいる。プログラムも自分で作ったりなんかして・・・

出逢いの妙とでもいうのだろうか、小さな演奏会場を提供してくれる人をピアノ仲間が紹介してくれて、練習室で3~5人・・・ではなく、そこで、もう少し本格的な演奏会をやってみることになった。20人程の人が集まっただろうか?聴きに来てくれた人は、むろん以前から僕の演奏を知っていた人もいたけれど、ブログを読んでとか、リアルでは会ったことのない人たちも聴きに来てくれた。

これが、まぁ、自分としては最高に楽しかったわけです。初対面の人から「素晴らしかったです」とか「涙が出そうになってしまった」とか言われると、単純な僕は嬉しいわけです。

この時、たしか昨年の2月ぐらいだったと思うけれど、最後の曲を弾き終えた時、「またやりたいな」と正直感じたのだ。今度は広い空間で弾いてみたいという欲求が沸き起こった。広いと言っても、大ホールということではなく、教会のような天井の高い空間で弾いてみたいと。色々な会場を検索したけれど、やはり最後に行き着くのが雑司ヶ谷音楽堂だった。こじんまりしたホールで、定員は、せいぜい50~60席ほどだが、天井までの高さが5.5メートルもある。非常に贅沢な音空間になるだろう。雑司ヶ谷音楽堂は、ピアチェーレの会場でもあるので、実はここでは何回も演奏したことはある。実にリッチ(音が)な会場だなと思っていた。自分一人でここで・・・

そのリサイタルも、来月の30日になった。もうすぐのような、まだまだ先のような・・・

「そろそろなんだから、少しはリサイタルのことも書かないと・・・」とアドバイスをしてくれる人もいて、こうして書いている。今月に同会場でリハーサルをするので、その時に最終決定をするけれど、席はおそらく50席にすると思う。ネットで雑司ヶ谷音楽堂での「沢山の人が、60人もの人が集まってくれました」という演奏会の画像を見ると、どうも「人がピアノを取り囲んでいる!」という状態になるようだ。これはちょっと困るかもしれないと思った。「ほら、客席もぎゅうぎゅう!」みたいな?なので50席にしようかと。まだ最終決定ではないけれど。50席だと、残席はあと7席ということになります。申し込みは、直接僕と会う人は言ってくれればいいのだけれど、そうでない場合は、このブログのメールフォームからお願いします。僕のメールアドレスを知っていれば、そこからでもいいですが。受付でお名前(ハンドルネーム)を仰って頂き、プログラムを受け取るという形です。もちろん全席自由で入場無料です。でも、フラッといきなり会場に来られても、入れないです。事前に申し込みして頂かないと・・・

本名でお申込み頂いている方、今のところ「鈴木さん」「田中さん」「佐藤さん」のような、よくあるお名前の方の重複はありませんので、苗字のみを受付で告げて下さって大丈夫です。ハンドルネームでお申込みの方は、そのハンドルネームを仰ってください。場所や時によってハンドルネームを変えている方もいると思いますが、あくまでも申し込み時のハンドルネームを受付で告げて下さい。

「ハンドルネーム、私、ショパンラヴ・・・なんだけど、人が多くいる受付でショパンラヴで~す・・・なんて言いにくいわ」という方は、別の言いにくくない(?)ハンドルネームか、実名(仮名でもいいと思うけれど)を僕に教えてください。来場者リストを書き直しますので。

今月、5月23日(水)の14;00~16:00に雑司ヶ谷音楽堂にてリハーサルを行います。リハーサルというよりは、その時はピアノ試弾という感じですが、フラッと立ち寄って頂いても僕としては構いません。逆に全くお構いもできないとは思いますが。会場の見学とか試弾って予約すれば可能だけれど、自分で弾いてしまうと「客席でどう響くのだろう?」ということは分かりにくいものです。そのような意味で、雑司ヶ谷音楽堂に興味のある方は、どうぞ。僕のピアノにも興味があるという方もどうぞ。いればですが。本当にお構いできないと思いますが・・・

「以前申し込んだんだけれど、だいぶ前のことだし、私の名前、もれていないかしら?」的な確認メールも歓迎しています。自分としてはもれていないとは思っていますが。何回かそのようなメールを頂いたりしたので。

以上、事務的内容ブログでした。

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category: リサイタル 2018

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男のピアノ 

 

たしかに昭和40年代、男がピアノを習うなんて異端なことだったのかもしれない。男の子だったら野球とか剣道とか・・・そのようなものが望ましい?

「男のくせにピアノかよ・・・」結構この言葉は言われたような気がする。そのことでイジメに発展するということはなかったけれど、言われるたびに「うるせえな!」とは思っていた。基本的に、その頃からピアノを習う、弾くということに、男も女もないと感じていたので、「そうかなぁ?ピアノなんて弾く僕がおかしいのかなぁ?」などと悩むことはなかったように思う。考えてみれば、「男のくせにピアノかよ」という言葉は、生まれて初めて経験した差別だったのかもしれない。言われたら、悔しくはある。なので「女がやるもの?」「ピアノなんて女がやるものだろ?」「音楽も?」「音楽なんて女がやるものだろ?」「じゃあ、女の作曲家、誰か知ってるか?」「うっ???」みたいな会話をしていた記憶はある、子どもだねぇ・・・

当時の僕の大胆不敵なまでの男ピアノに対する自信のようなもの、ギレリスの存在が非常に大きかったように思う。ギレリスのチャイコフスキーのピアノコンチェルトが当時の僕の愛聴盤で、その演奏は、とてもマッチョ(?)なサウンドに聴こえたのだ。

光り輝く音、どこまでも伸びる音、それはフリル満載のピアノではなく、男のピアノそのものでもあった。洒落た洋館から流れてくる深窓の令嬢のピアノではなく、まさにそれは聴衆を支配してしまうような圧巻ピアノだったのだ。

猿(ピアノなんて女のものだろ・・・と言う輩)どもに聴かせてやりたい・・・このギレリスのサウンドを聴かせてやりたい・・・

最近は男のピアノも世間に受け入れられた感がある。「男のくせにピアノ?」なんて時代錯誤ですらある。でも今でもこれはあるのでは?「男の子でしょ?泣くんじゃないの!」「女の子なんだからもっとおしとやかに」これと「男のくせにピアノかよ?」は、あまり変わらないような気はしている。

男の子がピアノを習うメリットとして、あるピアノ教師が、「合唱コンクールの伴奏で活躍することもできる。格好いい」と書いていた。これは違うでしょ・・・と僕は思う。

「ある脳科学者も言っていました。ピアノって脳にいいんですって。なのでピアノを習いましょう」これも違うでしょ・・・と思う。

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男のバレエ 

 

ピアノ関係の調べものでネットを徘徊していた。偶然に見てしまったページ。ヤフーの知恵袋というページです。「男の子がピアノなんて気持ち悪い。それも発表会でノクターンなんて女々しい曲を弾いていた。男が弱くなったにしても、これは酷すぎる。そう思いませんか?」ざっとこんな内容。僕自身は「そうは思いません」と感じたが、その質問への返答も僕と同じものだった。「男の子のピアノ、いいじゃないですか?」「そんなこと思うあなたの方が変なんじゃないの?」みたいなものばかり。

このブログを読む人の中には、まさか「男がノクターン?あり得ない」とか「男がピアノなんて気持ち悪い」などと感じている人はいないと思う。僕が子どもだった頃の昭和時代ならともかく、今時「お前、男のくせにピアノなんか習ってるんだって?」なんてことはないのかもしれない。反対にピアノ男子ブーム?

でもピアノの世界、厳密にはピアノ教室の世界のイメージって、女子力に溢れているとは思う。ブログ村のピアノ講師カテゴリー、ほぼ参加しているピアノ教師は女性だ。セミナー後のランチ写真などに男性教師が写っているのも見たことはない。全員女性。しかも、そこに違和感は感じない。大手音楽教室のCM、グループレッスン風景、決まって講師は若い女性。この場面に初老の男性教師が登場することはない。子どもに絵を描かせるとして、「ピアノの先生」という絵、ほとんどの子どもは女性を描くのではないだろうか?

ピアノ以上にイメージとして女子力が強いのかもしれないなと思うのが、バレエの世界。バレエは男性舞踏家がいなければ成り立たないと思うのだが、イメージとしては女子世界の感がある。優雅なチュチュ・・・とか。子どもにバレリーナやバレエ教師の絵を描かせたら、やはり女性を描くのではないかな?

昔「リトル・ダンサー」というイギリスの映画があった。主人公ビリーはボクシングを習っていたのだが、バレエに興味を持ってしまう。そして厳格な父親には内緒でバレエを習い始める。決して父親は男がバレエなんて許さないだろうと・・・

ビリーの父親、強固な偏見の持ち主というよりは、バレエというものを知らず、あまりにも大雑把なイメージだけでバレエというものを捉えている、ごく普通の父親として映画では描かれていたと思う。「男の子はサッカーとか、そのようなものをするもんだ。バレエなんて・・・」

この映画の中で印象的なシーンは、父親にバレエを習っていることがバレてしまうシーン。ビリーは父親の前で踊るのだ。ビリー少年の想いが伝わってくる。それは偏見というのかな、こうあるべきという世間一般の大雑把なイメージへの反抗。もう一つはバレエというものを知ってもらいたい、自分の熱い想いを父親にも知ってもらいたいという心の欲求・・・

男がバレエ?サッカーや野球ではなく?こう反射的に感じてしまう人は、男のバレエというものを知らないのではないだろうか?偏見を持つまでの知識そのものがない。知れば違うのではないだろうか?

男がピアノなんて気持ち悪い、そう思う人がいるとしたら、男のピアノというものを知らないからかもしれない。

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現代の「戦場のピアニスト」 

 

シリアの内戦、大変なことになっているのだな・・・とニュースなどで見ると思う。犠牲になるのは、いつも一般市民。でも遠い異国での、我々には関係のない出来事という感覚もある。シリア内戦で破壊された街、戦場となった街は「地獄の底」と呼ばれているのだそうだ。その地獄の底でピアノを弾き続けてきたピアニストがいる。エイハム・アハマドさん。

この人が瓦礫の中でピアノを弾く姿の動画が、世界中で話題になったらしい。ニュースとしてテレビでも放送されたり・・・

むろん、全部のピアノブログを確認したわけではないし、ブログ村のピアノ、ピアノ講師カテゴリーを徘徊しただけではあるが、現代の戦場のピアニスト、エイハム・アハマドさんについて書かれたブログは僕が見た限りなかったような気がする。

ピアニスト、大ホールでベートーヴェンやショパンの大曲を演奏する人だけがピアニストというわけでもないだろう。音楽と関わり、自己表現のための手段がピアノであるならば、表現者はピアニストであると僕は思う。

衝撃的な内容かもしれない。その内容から、「何故このようなことが世界で起こってしまうのだろう」という想いを持つ。もしかしたら今回の記事は、ピアノブログには相応しくはないのかもしれない。でも、彼はピアノを弾いている。人生の中で、ピアノ、音楽というものが大きな割合を占めている。自己表現として、彼はピアノを選んでいる。

世界情勢、政治・・・のようなカテゴリーではなく、ピアノというカテゴリーから発信しても、100パーセントの場違いでもないような気がする。

何故ピアノを弾くのか、人生とピアノとの関わり、表現するとはどのような事なのか、それはその人、あるいは他者にとって、どのような意味を持つのか、このような視点でこの動画と接する・・・

そのような意味で、あえてピアノカテゴリーから発信してみたいと思った。

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音が多くなるとバタバタしてしまう・・・ 

 

自分の演奏を自己評価した時に、「なんだかな・・・」と感じることは誰にでもあるだろう。「なんだか今一つかな?」「冴えないな・・・」様々な原因があり、各々の原因が複雑に絡み合っていて、苦手なところも個人差が大きいということもあるので、「なんだかな・・・」の原因追及は難しい。

こんな場合はどうだろう?音符密度が高くなると、意思に反して音量も増加してしまう。細かなパッセージに埋めつくされると、音も大きくなってしまう。「左手、伴奏なのにうるさい!」みたいな?本当は右手のパッセージも軽やかに弾きたいのに「うるさい!」いきなり両手のスケール型が出てくると、もはや自動音量増強状態。

パッセージの連続系だと、ショパンでもリストでもチェルニーみたいになってしまう。スケールが出てくるとハノンみたいになってしまう。

弾きすぎなのかもしれない。鍵盤をゆっくり押すと、最初は音は鳴らない。押し続けると音が鳴る部分がある。このタッチポイントを狙う。ハンマーが弦を打つ範囲というのかな?この部分を過ぎると、音がまた鳴らない部分になる。そう、サンドウィッチのような?中にタッチポイントという具材がある。「どらやき」でもいい。中の餡子がタッチポイント。その音の鳴る仕組みもなんのその、「底までしっかり弾き切って~」モードで弾いてしまうと、音が雑になるし、変化に乏しくなる。せいぜい大雑把なピアノやフォルテ?

実は表現力不足という、どちらかと言うと、音楽性とか感性という領域に入るとされているものも、このカツ~ン的な弾きすぎも原因の一つであるような気がする。実際には底まで弾くのだが、それは結果であって、狙いではない。狙いはあくまでも途中に潜んでいる。

底まで一生懸命弾いてしまう、これはチェルニーやハノン、或いはバイエルを「はっきりした音で弾きましょう」と訓練されてきてしまったからかもしれない。途中狙いの弾き方なんて一般的ではないのかもしれないが。

難所というか、音が多くなると音量も増加してしまう人の演奏、聴いていると縦方向の演奏と感じる。音楽は横に流れていくものなんだけれど、カツカツ、バリバリと縦感覚。ワルツを弾くとブンチャッチャ・・・弾きすぎなのかもしれない。

途中狙いといっても、浅く弾くというわけでもないんだよね。その感覚を掴むのは非常に難しい。

ヤコブ・ギンペルという、もう少し日本でも知名度があってもいいのではないかなと思うピアニストがいる。この人、途中狙い弾きの達人のように思える。素晴らしい表現力と感じるピアニストは、皆さん「途中狙い」をしていると思うけれど、ギンペルの場合、それが視覚的に分かりやすい弾き方のような気がする。

リストの「森のささやき」と「ためいき」・・・ややもするとバタバタとなりやすい曲。実に見事な狙い弾き。メンデルスゾーンの「紡ぎ歌」も実に弾きにくい曲なのではないかと思う。これも「雑なチェルニー?」みたいになりがち。

縦弾き、表現や音が固い、音が多くなるとバタバタ、雑なチェルニーみたい、いきなりハノン登場・・・みたいなことがあるのだったら、ギンペルの狙い弾きを参考にしてみたらどうだろう?

途中の具材を狙う・・・

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顔面恍惚演奏 

 

ローゼンタールに限らず、往年の巨匠たちの動画って見つからない。録音だけならともかく、映像も・・・となると時代的に難しかったのかもしれない。ヨゼフ・ホフマンなどは演奏している動画も少し残っているけれど。

「かつての黄金時代」まで逆行しなくても、1950年代ぐらいになると、結構ピアニストの演奏動画は多くなってくる。このあたりの時代のピアニストって、現代の弾き方よりも、黄金時代により近いのではないかと感じている。ポイントを狙って無理をしない・・・みたいなところ?演奏姿は非常に静か。むろん映像での指の動きは、音符の多い曲は忙しそうなのだが、超絶技巧の部分でも鍵盤に覆いかぶさるようには弾いたりしない。音と指の動きがなければ、言い換えれば、上肢の動きと顔の表情だけでは、彼らが、どのような曲を演奏しているのか分かりにくい。「ラ・カンパネラ」を弾いているのか「トロイメライ」を弾いているのか分からない。天を仰いだり、苦痛表情や恍惚表情で弾いたりしていないから。

パフォーマンスとして、現代はビジュアル的に大袈裟になってきているような?恍惚表情だったり、飛び上がって弾いたりとか、ユラユラ上肢を動かしたりとか。特に日本人ピアニストにその傾向があるように個人的には感じるし、さらにはコンクールでそのようなユラユラ、恍惚演奏が多いように思う。今の流行りは入魂演奏?

入魂は顔でなく音で表して欲しい。ギンズブルクの演奏は、音で勝負している。顔面表情が変わらない。淡々としたものだ。上肢もユラユラしたりしないし、覆いかぶさり奏法もしていない。静かな演奏姿ではある。

もう一つ、カペルの演奏。演奏姿が動画で残っているのは、これだけなのだそうだ。時代的には、もっとカペルの動画はあってもいいように思うが、若くして亡くなったからだろう。やはり静かな演奏姿だと思う。自然と内側から湧き出るようなものを感じる。でも顔で弾いてはいない。

ノクターンの最初の音、B♭の音を単音で弾いた後、彼は目のあたりをこすっている。これって何気ない動作だが,結構重要な動作に思える。ハンマーが弦を打ってしまったら、いくら入魂しても、ピアノの場合、何も変わらないということを、カペルは知っていたのだ。なので恍惚表情で鍵盤をグイグイと入魂せず、顔をこすれるのだ。

ペダルに頼らず、指で弾きましょう・・・そうなのだが、これって「きちんと感」は出るかもしれないが、発音後まで指でしっかり鍵盤を押すことの推奨にもなる危険性はないだろうか?必要以上に鍵盤を押さえていたら、次の準備、移動が緩慢になる。鳴らしてしまったらピアノは終わり・・・鳴らす瞬間で勝負なのだ。慣らした後の入魂でも顔面表情でもなく・・・

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真珠のような超絶技巧 

 

今時、厚底サンダルで渋谷の街を歩いたら目立つのではないだろうか?渋谷だったら目立たない?クラシック音楽は、このような流行を超越したものとされている。だからクラシック・・・・なんでしょ?でも演奏スタイルは時代によって流行のようなものはあるのかもしれない。約100年前のローゼンタールのショパン。このような演奏、好きだなと思う。でも今の演奏スタイルとは異なるようにも感じる。もしかしたら「そんな風に弾いてはいけませ~ん!」などと言われてしまう?

歌のようだな・・・と感じる。今のスターピアニストの演奏からは、あまり感じることのできない魅力のように思う。ピアニストだけではなく、ヴァイオリンのクライスラー、テノールのスレザークなど、この時代特有の演奏スタイルそのものに僕は惹かれる。

歌いっぷりの他に、ピアニストの音そのものも、現代と100年前では異なるようにも感じる。楽器自体も違うのではないだろうか?現代の超絶技巧は、個人的には非常にヘビーで、時には固く感じる。「鋼鉄の連なり」のような?汗を感じる熱演を「凄~い」と拍手喝采してしまっているような?入魂しているのか、非常に苦しそうな表情で弾くピアニストも最近は多いように思う。

ローゼンタールの演奏からは、汗を感じない。鋼鉄の音ではなく、それは「真珠の連なり」のよう。コロコロしていて、決してバリバリとはしない。ローゼンタールに「ウィーンの謝肉祭」という超絶曲がある。ユーチューブを徘徊してみると、現代のピアニストも何人か演奏しているようだ。達者には弾けていると思うけれど、どうしても音が「鋼鉄の連なり」と化していて、どこか音の洪水のようにも感じる。「そのような曲なのだ」と解釈してしまえば、よく弾けているとも言えるのかもしれないが、ローゼンタールの若い頃の演奏を聴くと、やはりローゼンタールの音は軽い。「真珠の連なり」なのだ。バリバリではなく、どんな箇所でもコロコロ・・・

おそらく非常に鍵盤の近い位置というか、鍵盤に触ってから、ポイントを狙うようなタッチだったのではないかと想像する。弾いている姿は静かで、曲の動向によって身体的に、指的に大騒ぎしない弾き方・・・

この時代のピアニストの弾いている姿、演奏動画を見てみたい。それは不可能なんだけど・・・

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初胸キュン・ショパン 

 

サークルの練習会でショパンの曲が全く演奏されない会というのは珍しいように思う。発表会も同じかな。何故にショパンの曲は人気があるのだろう?改めて考えたことはなかったが、不思議と言えば不思議ではある。

昭和時代のピアノ教室、習う生徒が沢山いたというのが、現在との違いなのかもしれないが、もう一つ、割と教材というものが、どの教室でも同じだった印象がある。教室が違っても、どの教材を弾いているのかで進度が分かる・・・みたいな?「今ブルグミュラーなの」「あら、私はまだバイエル・・・」「私はソナチネよ」「あらぁ、私はソナタ・アルバムとチェルニー40番をやってるの。バッハのインヴェンションもね」

昔の王道ピアノの教材って、バイエル~ブルグミュラー~ソナチネ~ソナタ、あとはチェルニー、ハノン、バッハ・・・のような道を辿らないとロマン派の花園には到達できなかったような?そこに行き着くまでにピアノ挫折者続出・・・

ショパンのワルツは、その花園の入り口で「おいで、おいで」と手招きしていた曲だったような?何故かノクターンでもマズルカでもなく、多くの場合、花園の入り口はショパンのワルツだった。バラードも憧れだけど、そこには、いくらなんでも・・・みたいな心の遠慮もある。ワルツなら・・・

多くの人は、初めてショパンの曲を弾いた時の想い出のようなものは持っているのではないだろうか?

忍耐の基礎教材、古典派教材にうんざりした昭和世代の生徒たち。ショパンは、やはり待ちに待ったというか、憧れの象徴でもあったのかもしれない。

今は4期学習が当たり前らしいから、ロマン派への、ショパンへの憧れみたいなものは薄れているのだろうか?ショパンへの憧れは永遠だとも思うが・・・

憧れて、そして挫折した昭和世代の生徒、今は50代、60代となっているだろうか?練習会で必ずショパンが登場する理由は、そのあたりにもあるのかもしれない。ピアノサークルの中心世代は昭和ピアノ世代でもあるのだから。

僕の場合も「初胸キュン・ショパン」はワルツだった。弾いてみたのもだし、聴いて胸がときめいたのも・・・

小学3年生だった。僕にとっての音楽案内役(?)だった大学生が聴かせてくれたのもショパンのワルツだった。なんとなく、今でも初ショパンは、コルトーのノクターン集でもなく、ルービンシュタインのポロネーズ集でもなく、ワルツ集である必要があったという確固たる思いがある。それもブライロフスキーのワルツ。

ブライロフスキーのワルツを聴くと、当時の記憶と衝撃が蘇ってくる。

kaz






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