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ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

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マイナー競技 

 

フィギュアスケートの人気が凄まじい。僕もこの競技を観るのは好きな方だ。かつて日本で世界選手権が開催された時には実際に会場で観戦した。1985年と1994年。94年の時は会場は埋まっていたと記憶している。でも85年の時はシングルのフリーでさえ空席が結構あったように思う。今では考えられないのでは?今はチケットも高額らしいし・・・

このような時、マイナースポーツのことを思ったりもする。

個人的、かつ主観的な印象なのだが、オリンピックで、プロの選手が出場する競技って、少し違和感を感じたりする。オリンピックはアマチュアの大会という古い感覚が僕には残っているのだろう。ゴルフとか野球、テニスなどで感じるかな?オリンピックもテニスのグランドスラムも勝ち残る選手は同じような顔ぶれになるから、「これは全米オープンですか?」みたいな感覚に・・・

このような時、マイナースポーツのことを思ったりもする。

真剣に取り組む、競技に命を懸ける・・・みたいなものはメジャーだろうがマイナーだろうが関係ないだろう。だからこそマイナーな競技の選手のことを思ってしまう。例えば新体操。女子の競技は有名で、オリンピックでの正式な競技になっていると思う。でも新体操には男子の競技もあるのだ。「えっ?男が新体操?」「新体操って男子もあるの?リボンとか?」

たしか個人競技の場合は、手具を用いたと思うけど、僕が好きなのは団体競技の方。初めて男子新体操の演技を知った時には、結構衝撃的だった。「何故マイナーなのだろう?何故もっと多くの人に知られないのだろう?」正直そう感じた。そしてこうも感じた。「このような競技こそオリンピックの正式種目になればいいのに」と。

オリンピックなど、男子新体操界にとっては夢のまた夢なのかもしれない。たしか国体の種目からも外されてしまっているはずだ。もしかしたら来年から大会はなくなりますよ・・・と言われてしまうかもしれない競技でもあるのでは?

個人的には大学生よりも高校生のひたむきな演技に魅了される。彼らは存続さえ危ぶまれる男子新体操に青春を賭けている・・・という感じなのだ。部活動として頑張っている姿が非常に眩しい。

男子新体操は日本発祥のスポーツだ。なかなか世界に広まっていかない。でも世界の人は男子新体操を知らないだけなのかもしれない。競技として非常に魅力あるように僕は思う。知られていけば、広まっていき、世界に普及していくかもしれない。

2016年、少々昔の映像だが、高校総体(インターハイ?)で全国1位となった井原高校の演技。これ、高校生とは思えない完成度だ。そして、いつも順位は振るわないのだが、観客を魅了してしまう鹿児島実業高校。コンクールだと聴衆賞か?

日本発祥のスポーツ、その灯を消してしまうのは残念だ。知られればいいのではないだろうか?

kaz






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メロディーは死滅したのか? 

 

洋楽においても80年代の曲に懐かしさを感じる。美しいメロディーに溢れていたなと。考えてみれば「昔は良かった。それに比べて今の歌は・・・」という感覚は、大昔からあるのかもしれない。1980年代に60歳、70歳だった人は、「今の歌は分からん。昔は良かった」と嘆いていたのかもしれない。

個人的には、メロディーというものは死滅しつつあるのかもしれないという危機感さえ感じている。特にクラシック音楽って200年、300年前の音楽を演奏したり聴いたりするのが当たり前の世界なので、そこに何の違和感も感じたりしなくなってくる。ショパンやモーツァルトの作品、時代を超えて、いいなと感じる。クラシック音楽の強みかもしれないが、考えてみれば、今現在音楽専門教育機関、音大とか音楽院には作曲という専攻もあるのが普通だ。多くの若者が作曲を学んでいるということになる。21世紀になって、そろそろ20年弱・・・1曲でも他人同士が目を合わせて「この曲素敵ね」とか「綺麗なメロディーね」と共有できる21世紀のクラシックの名曲は生み出されているだろうか?

地球温暖化のように、少しづつ何かが破壊されているのかもしれない。メロディーというものが、徐々に死滅していっているのではないかという危機感さえ感じる。

ボズ・スキャッグスとかシカゴとか・・・懐かしいな。永遠に続くようなメロディーのラインを感じる。

現代の曲、それは日本の曲であれ、洋楽であれ、クラシック音楽であれ、自分自身が人と「いいよね・・・」と何かを共有できる曲が極めて少ないように感じる。若い頃のような探求心、興味のような薄れてきている証拠なのかもしれない。でもこうも感じる。「美しいメロディーがこの世から消えていっている」と。

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ダイヤル回して手を止めた・・・ 

 

1980年代、肩パッドの時代、懐かしさを感じる。「昔は良かった」と過去を懐かしむのは年老いたということなのかもしれないが、事実懐かしいのだ。

あの頃の歌謡曲にはメロディーが存在していたように思う。この歌がヒットした時、僕は20歳だったことになる。たしかこの歌が挿入歌だったドラマも人気があったと記憶している。観たことはないけれど「金曜日の妻たちへ」というドラマの名前は知っている。

この曲の歌詞に「ダイヤル回して手を止めた」という言葉がある。スマホ時代の若者、もしかしたら、この感覚は分からないのかもしれない。ダイヤル式電話そのものもだが、途中で手を止めるという感覚、気持ち・・・のようなもの?スマホだと相手の番号は登録されているのが普通だろうから、一発で通じてしまう。相手に履歴が残ってしまうから「ねぇ?今電話したぁ?」みたいに現実的な感じになるのでは?途中で手を止める、当時は一家に電話は一台の時代。携帯を個人持ちという時代ではなかった。「もし奥さんが出たら・・・」みたいな微妙な心の動揺も、スマホ時代の人は経験しないのかもしれない。このような感覚は時代と共に忘れ去られていくのだろう。

肩パッド時代の名曲をもう1曲。この曲もヒットした記憶がある。絶対に結婚披露宴では歌えない曲としても記憶に残っている。彼女たちは、実際には「しおらしくはない女の子」なのだそうだ。なのでグループ名を「シュガー」と名付けた。この感覚も80年代だなと思う。

今現在20歳の若者が50歳、60歳になった時、「ああ、懐かしいよね」とかつての時代を他人と共有できる曲ってあるのだろうか?他人事ながら心配してしまう。

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究極の衣装 

 

1980年代になるのだろうか?いわゆるバブルの時代。あの頃のドラマを観ると、服装やヘアスタイルがなんとも言えない感じだ。肩パッドというものが盛大だった時代?ドラマの葬式のシーンなどで、喪服、つまりブラックのフォーマルな服でさえ肩パッドが入っている。

「就職したら、欲しいものはあるでしょうけど、まずはブラックのフォーマルを一着買いなさい。絶対に必要になるから」そう言われて、一生モノという感覚で黒のフォーマルを購入する。でも一生モノではないよね?肩パッドが盛大だったら・・・

あの時代、僕は大学生だったと思う。当時の服装、特に違和感を感じた記憶はない。服とはそのようなものだと思っていたから。皆が肩パッド入りの服を着ていたら、そんなものかな・・・と思ってしまう。今、当時の肩パッド盛大服を着る勇気のある人っているのだろうか?巷ではもう絶滅した型ではある。「どこから引っ張り出してきたんですか?」

時代を超越した服で弾きたい。ひたすら弾きやすく、いつの時代に作られた服なのか分からないような服。つまり、作るのは今だとしても、生地が著しく劣化しなければ、その服をいつまでも着たい。

初めて足を踏み入れたオーダーメイドの店。「既成の服だとピアノを弾く時に、何かしらの我慢を強いられるので。見た目よりは、弾きやすさを追求しようと。それだったらオーダーメイドかな・・・と」

妥協せずに、自分の要望に沿って注文を出す。「ストレッチのきく素材を生地に部分的に入れることもできますよ」「えっ?そんなこともできるんですか?」「ピアニストさんはいらっしゃりませんが、スポーツ選手の方がよくご利用になられます」

そうかもしれないな・・・と思う。別にスーツで運動するわけではなくても、種目によって身体(筋肉?)の発達など異なるだろうし。「肩幅は広めになりますね。それによってアームに余裕を持たせて・・・」どんどん希望の形になっていく・・・

弾きやすさ、着やすさを追求すると、そこには流行を超越したシルエットが出来上がる。表現を変えると、特徴のない、なんでもない普通の服になっていくような?

オーダーメイドなので大量生産ではない。一点ものということになる。お値段もそれなりだと思うけれど、いわゆる「高級感」「スタイリッシュ」というのとは違うかもしれない。

6月のリサイタルで僕が舞台に登場したら、こう感じる人が多いのではないかな?「えっ?極めて普通のスーツなのでは?」と。

そう、今回は着心地、弾き心地を追及した。あとは流行の超越・・・

仕上がりは5月。こんな感じに近いだろうか?多分・・・

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衣装探しの旅 2 

 

弾きやすければいい。できれば普通のスーツのスタイルでいきたい。なぜシャツとベストの、いわゆる「バーテンダースタイル」ではいけないのか?いけなくはないけれど、基本的にはこのスタイルだと現地(演奏会場)で着替える必要が出てくる。人からはそう見えないかもしれないが、僕は本番前に凄く緊張する。カフスボタンとか、蝶ネクタイとか、着用するのに難儀する。手が震えてしまったりするので。できれば、これは省略したい。

あとは、場合によって更衣室というのかな、控室が男性専用に用意されていないこともある。発表会など、その割合が大きいように思う。むろん、参加費は払っているのだから、女性がドレス着替え中だろうが、声を掛けて「僕も着替えたいんですぅ・・・」と訴える権利はあるのかもしれないが、実際には難しい。僕、結構トイレで着替えたこともある。これってテンションが下がる。制服から私服に着替える高校生みたいだし。

着替えをしたくないというのが、スーツスタイルで演奏したい理由だったりする。着替えなければ荷物も少なるなるしね。自宅を出たら着替えなしで済ませたいのだ。

実は知人に服飾関係者がいる。日本人ではなくイタリア人だが、彼によると、スティーヴン・ハフの動画を確認してもらったところ、「これ、絶対既製服じゃないよ。デザイナーが入っていると思う。少なくとも、型紙からは作っているはず」との事。そうか、だからザックリ系というのだろうか、弾きやすそうなのかと思う。「彼は靴に凝っているんじゃないだろうか?ズボンの丈からそう感じる。座った時にズボンは裾が上がるでしょ?座った時に客席から靴がよく見えるようなズボンだね」

そうなのか?「彼らにとってはステージ衣装は仕事着なんだから、美意識や弾きやすさを追求するのは当然だろ?」

そうだよね。

特注・・・ということ?オーダーメイドということになるのかな?

たしかに燕尾服とかタキシードのような定番衣装ではなく、自分スタイルで演奏しているピアニストは、それなりの意識はあるのだろう。弾きやすさの追求が、彼らのスタイルになっているのかもしれない。僕とは動機が違うよね、やはり・・・

詰襟スタイルのピアニスト、もう一人。アントニオ・ポンパ=バルディ。横からのアングルだけだが、このスーツもオーダーメイドなのかもしれない。ゆったりとしているけれど、アームがその割には長すぎない。ピアノを弾く時どうなるかが考えられたスーツのように見える。個人的にはブレスレットが「邪魔じゃないんだろうか?」と心配してしまうが、彼にとってはブレスレットを見せるということをも含んだ衣装なのかもしれない。そうだとしたら袖の長さが絶妙のように感じる。

やはり売り場に吊るされた既製服を買ってくるのではないのね???

個人的には、詰襟スタイルではなく、普通のスーツにノーネクタイ、つまりシャツだけという首解放スタイルが理想。フランク・ブラレイがそのスタイル。シャツの色が、いかにもフランス人という感じだ。でも、ちょっと決めすぎか???

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衣装探しの旅 1 

 

元々洋服に興味がある方ではない。「まっ、ユニクロでいいか・・・」となる。演奏するとなると、仲間同士の弾き合い会や練習会ならともかく、演奏会となるとユニクロで済ますわけにもいかない。

シャツにベストというパターン、これは窮屈な感じはしないのだが、基本的には電車に乗れない。蝶ネクタイに派手目のベストで電車に乗ったり街を歩いたりすると、「バーテンダーが何故ここに?」みたいな感じだろうと思う。なので、スーツで演奏したい。電車に乗っても振り返ったりされないスーツ。でもスーツって演奏しにくかったりする。女性の場合、ドレスというものが存在していて羨ましい。ドレスで弾きたいわけではないが、肩や腕がフリーな感じのドレスだと演奏しやすそうなんですよね。でもドレスって、意外とウエストあたりのラインが強調されるので、女性にとっては悩みどころなのかも?ピアノって横向きになるしね。

でも弾きやすそう。スーツだと上半身はジャケット着用になる。これが弾きにくかったりする。妙な束縛感?肩とか背中、上腕とか、割と窮屈。想像してみて欲しい。リクルートスーツってありますね?女性の場合、あれで演奏すると想像してみて下さい。弾きにくそうでしょ?

ワンサイズ上のジャケットを今まで購入していた。普通にしている分(立っているだけとか・・・)には気にならないのだが、肩や腕の窮屈な感じは緩和されるが、袖が長すぎたりする。これも弾きにくいのだ。袖をまくるわけにもいかないし。

・・・というわけで、演奏会の衣装を探していた。

日本の服飾業界って、これが流行となったらそれしか売らない・・・みたいなところがあるらしい。女性からも「普通のAラインのスカートが見つからない」という声を聞いたりする。スーツの場合、全体的に今はタイトなシルエットが主流のようだ。タイトだと困るんだよな。「でも、今はこのような細身のラインが主流なんですよね」と売り子も堂々と言ったりする。お前が洋服に合わせろよ・・・と言われているような?

ネットで調べたりもしていた。「ステージ衣装」で検索。燕尾服とかヒットする。これには興味はない。演奏会にも相応しい、フォーマルな感じで、普通に街も歩けるような衣装。これがないのだ。本当にない。ヒラヒラの白い「オスカルシャツ」とか、マジシャンではないので・・・みたいなページに行き着いた時に、この方式は諦めた。

ピアニストたちはどのように自分の衣装を調達しているのだろう?ほとんどの男性ピアニストがステージでは燕尾服になってしまうが、そうではないピアニストを調べてみた。

この詰襟スタイル、ダン・タイ・ソンの他にもスティーヴン・ハフとかも着ている。弾きにくそうに思うが、演奏動画などで確認すると、そうでもないようには見える。生地そのものが伸縮自在なのか?

近いアングルでのダン・タイ・ソンの動画で確認すると、舞台では目立たないけれど、かなりザックリ作ってあるような印象。アームのあたりとか。肩幅も今流行りの細身スーツよりは広いような?

これって百貨店などに売っているのだろうか?僕が探した範囲ではなかった。全体にはザックリとバルキーな感じで、でも袖は長すぎない。このようなスーツが欲しい。詰襟である必要はないけれど・・・

ごくごく普通の、しかもピアノも弾きやすいスーツを探しての放浪の旅はまだまだ続く。

kaz








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プログラムの曲目解説 

 

リサイタル、プログラムは作成するのだが、今は曲目解説に取り組んでいる。やはり曲の解説はあった方がいいと思う。聴きに来てくれる人の、ほとんどがピアノ関係者だとは思うけれど、それでも曲の解説は必要だと思う。

そう、何を書くか、ここが難しいところだ。一般的なこと?例えば曲の形式がどうとか、テーマが何調で再現されてとか、何年に作曲されてとか、「バラード」とはこのような意味で・・・とか?むろん、このようなことは、ある意味必要な情報なのかもしれないが、今回は演奏者として聴き手と共有したいことを書き込もうと考えている。難しそうだけど。

曲の解説というよりは、曲と自分との関わり・・・のような?「ゴイェスカス」だったら、グラナドスについての一般的情報とか、「ゴイェスカス」って何・・・みたいな情報よりは、この曲が人生における究極の目的、「無償の愛を知る」というテーマで、成り立っているのではという主観的な想い。無償の愛という意味では、グラナドス自身がそのことを実践し命を落としたという事実。このようなことを書き込んでみたいなどと思う。

ツラツラ考えてみると、このような「想い」を他人と共有したいという欲求が僕には強くあるのだと思う。ピアノを弾く理由は、ピアノが好きだから・・・ではあるが、上達したいとか、曲を弾きこなしたいという欲求よりは、自分の感じた想いのようなものを共有してみたいという欲求の方が強いように思う。

「ねぇ、聴いて聴いて!こんなに素敵な曲があるんだよ」みたいな?

これって子どもが「ねぇ、見て見て!自転車に乗れるようになったんだよ」とか「ママ、見て、逆上がりができるようになったんだよ」・・・みたいな感覚と近いように感じる。僕の欲求って幼児並みということか?

弾きこなすことも大切だと思う。停滞ばかりしていたり、崩れてばかりいたら、想いがあっても人には伝わらないと思うし。でも弾きこなせても、目的「ねぇ、聴いてよ」の中身というのだろうか、そのような想いが存在していなかったら、やはり人には何も伝わらないのではないかと思う。弾きこなすとか、そのようなことって目的ではなく手段なのではないだろうか?

僕の場合、目的は、幼児のような「ねぇ、聴いて聴いて・・・」という想いを他人と分かち合うことなのだと思う。

自分がどこまで・・・というよりは、「一緒にどう?」みたいな?

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category: リサイタル 2018

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ネット中傷 ネット攻撃 

 

人口2000人程のカンザス州の小さな街でそれは起こった。

マイケルは長年その街で高校教師をしていた。マイケルは自分がゲイであることを公にした。その後、嫌がらせが続くようになった。車のタイヤを切り刻まれたり、foggot(オカマ)と落書きされたり。ある脅迫状が届いたのがマイケルにとっては決定的だったようだ。計3通の脅迫状。差出人は、いずれも「心配している保護者」となっていた。

「聖書はお前の振る舞いを許さない。私は自分の子どもがこの種の不道徳にさらされることを望まない。お前は解雇されるべき。消えろ。オカマどもは私たちの学校では歓迎されない」

「お前がどこに住んでいるかを知っている。お前のスケジュールも知っている。背中に気をつけるんだな。こっちは一人じゃないんだ」

「お前、今学校にいないんだってな。戻ってこようなんて思わない方がいいぞ。変態どもは地獄で焼かれ、お前も焼かれるんだ」

マイケルはカンザスを去り、カリフォルニアに移ることを決意した。彼はこう言っている。「自分への多くの支援の声が寄せられたことに驚いている。この街が悪い所だとは思っていません。素晴らしい人々がいて、生徒たちも最高でした」それでもマイケルはその街を去った。少数(あるいは一人)の心ない攻撃者のために・・・

これってネットでの中傷、攻撃的な書き込みも同じではないだろうかと思う。心ない書き込みに対して、おそらく99パーセントの人は、書き込まれた人を支援する気持ちがある。「そんな書き込み、気にすることないですよ」「その人がおかしいのだから」「そんなこと書くなんて、なんて卑劣なんでしょう」等々。でも、たった一人の書き込みは、人の心を切り刻む。目に入ってきた攻撃的な文章は立ち直れないまでの打撃を与える。

それが目的なのだろう。書く側にとっては。そのような心ない文章をネットに書き込む人って、多くの人が指摘するように不幸なのだろう。ネット上で自分が悪者になっても、そうまでしても自分を知るのが怖いのだ。自分の弱さを見つめるよりは、悪者になる方が楽なのだろう。でも自分の不幸は自分で始末するべきだ。他人を巻き込む権利はない。

個人レベルでは何もできないのかもしれない、今の段階では・・・

でも、皆がこのことについて考えるというのは可能なんじゃないかな?今も、そしてこれからもネットというものと無関係ではいられないだろう。このブログもネットという媒体があるから、自分は書き込めるのだし、誰かが読むであろうから。

差別問題にしても、ネット攻撃にしても、ごく少数、あるいは、たった一人の行為が脅威となる。ここが難しいところなのだと思う。

でも未来は変わるかもしれない。

kaz




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私を救ったショパンのバラード 

 

ある曲を、ある演奏会で弾こうと決意する。楽譜を出して練習を始める。難所が沢山だ・・・弾けるだろうか?・・・間に合うだろうか?

しかるべき技術を習得し、その技を使わなければ人には伝わらない。やはり弾けない箇所は弾けるようにしたい。本番ではミスは少なくしたい。徐々に曲と出逢った時の感動よりは、心配、不安が大きくなってくる。そして弾けたか、弾けなかったかの世界に突入してしまう。自分の出来栄えに一喜一憂。反省し、次回こそは弾けるようにと強く思う。

伝えたいもの、その曲を弾こうと感じた心の奥底にある動機のようなもの、自分が感動したものが薄れてきてしまっても気づかなくなる。ミスなく、無難に弾こうとすることに消されていってしまう。

音楽って、心の隙間にスッと入り込んでくる。人それぞれの人生の場面を代弁してくれているように感じる瞬間。その時、人はその曲を再現してみたいと思う。もしかしたら、演奏をするということは、自分自身の出来栄えに一喜一憂するよりも、もっと大切なことがあるのかもしれない。こんなこと書くと「アマチュアって気楽でいいね」と言われそうだが・・・

昔、NHKで「私を救ったショパンのバラード」という番組が放送された。タイトルについては、これでいいのか記憶が曖昧なところもあるが、たしかイギリスのBBCが制作したドキュメンタリー番組だったように思う。

二人の若者とショパンのバラード第1番・・・

東日本大震災を経験した少女、すべてを失ってしまう。なにもかもを亡くしてしまった時、彼女はショパンのバラードの1番を練習する。弾くことで、練習することで、失った何かを取り戻していく・・・

イギリスに住む青年。彼はショパンのバラードの1番を弾きたくて、独学でピアノを始めた。上達し音楽院に入学するまでになる。その彼を襲ったのが脳腫瘍。全身マヒ、失明、記憶喪失・・・

医師も含め誰もが回復は絶望的と判断した。生きているだけでも奇跡なのだと。でも父親だけは違った。ショパンのバラードを聴かせ続けた。そして奇跡の回復・・・

さらに追い打ちのように回復しつつある青年を再び不幸が襲う。多発性硬化症・・・そして右半身不随となる。左半身が無事だったのは幸運と言えるだろうか?その青年は残された左手だけでショパンのバラードを弾こうとする。自分で編曲して・・・

音楽というものは、人の生き方さえ変えてしまうこともある。それほど深く入り込んでしまうこともある。

生きること、感じることにアマチュアもプロもない。初級者とか上級者もない・・・

このドキュメンタリー番組でショパンのバラードを演奏していたのがスティーヴン・ハフ。個人的には、この演奏、理想的な演奏に感じる。特に奏法という点で参考になる。移動が機敏で、弾く瞬間に必ず準備がある。狙って弾いているというのかな?

本番でドレミをドレレと弾いてしまった。心理的ショックは大きい。でも聴き手はそんなことは気にしない。ミスを数えながら聴いているわけではない。何を聴きたいのかな・・・

演奏している人を、かつて動かした動機、入り込んできたであろう人生の一コマ、そんなものを共有してみたいと思う。

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「眠れる森の美女によるパラフレーズ」 

 

スティーヴンは将来を期待されていた。スティーヴン自身も自分のピアノには特別な何かがあるのを自覚していた。でも周囲の人がピアノ、ピアノと言うのにも違和感を感じていた。「たしかにピアノは好きだ。ピアノを弾くことが仕事になるかもしれないとも思う。でも僕はピアノが好きなんじゃない。美しく、胸が焦がれるような、キラキラしたものが好きなんだ」

かつて映画館で観たディズニー映画「眠れる森の美女」を想い出す。「僕は素敵なおとぎ話が好きだ。フィリップ王子と踊るオーロラ姫が好きだ」

ロンドンでバレエ「眠れる森の美女」も鑑賞した。「ああ、なんて素敵なんだ。なんてキラキラした世界なんだろう・・・」

スティーヴンは自分の胸の高まりを周囲には決して悟られてはいけないと思った。「キラキラした世界が好きなんだ。オーロラ姫のティアラのようにキラキラした世界が好き」

そのことを公言することは、当時のイギリスの小さなホイレイクという街では、孤立することを意味した。他の男の子と同じように、、サッカーが好きだ・・・そう言った。「でも本当は違うんだ・・・」本当の自分というものを胸の中にしまいこんだ。生きていくために・・・

疑問に思う。素敵と感じたもの、自分が大切にしたいもの、何故隠さなけれないけないのだろう?何故人と共有してはいけないのだろう?早い時期からスティーヴンは自分がゲイであることを自覚していた。もちろん他人には絶対に知られていけないことだと思っていた。親にさえも・・・

自分を肯定したい、キラキラした世界が好きな自分を、自分で認めたい。ゲイであることに誇りを感じたい・・・

スティーヴンはゲイであることを公にした。オープンリー・ゲイのクラシックピアニストとして世界に知られるようになった。

かつて観た「眠れる森の美女」の世界、華憐なオーロラ姫、キラキラした世界、永遠の愛を誓うフィリップ王子・・・この世界を音楽家として、音にしてみたいとスティーヴンは思った。パウル・パヴストがこのバレエ音楽のパラフレーズを残している。

ロシアンスクールへのオマージュ、そのような意味もあった。そして、かつて憧れたキラキラした世界を自分なりに、パヴスト版に加えてみようと思った。かつては憧れを隠していた。それを盛り込んでみよう・・・

チャイコフスキー~パウル・パヴスト~スティーヴン・ハフの「眠れる森の美女によるパラフレーズ」は超絶技巧満載の曲になった。それよりも、スティーヴン少年のキラキラした世界への憧れが盛り込まれた、オーロラ姫の宝石のような、キラキラと光り輝くパラフレーズに生まれ変わった。この曲にゲイとしてのスティーヴンの誇りを感じる。

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奥村チヨ・・・引退 

 

歌手の奥村チヨが今年限りで引退をするのだそうだ。「幸せな歌手生活でした・・・」

奥村チヨ、「まだ現役だったんだ、まだ歌っていたんだ」という驚きがあった。今、70歳ぐらいだろうか?恋の3部作が大ヒットしたのは、たしか昭和44年だったと記憶している。僕は当時幼稚園児だったので、むろん奥村チヨをリアルタイムで聴いていたわけではないが、当時の映像などを見ると、やはり独特の魅力があったのだと思う。小悪魔的魅力というのだろうか?

「恋の奴隷」「恋泥棒」「恋狂い」の恋の3部作の頃、つまり人気絶頂の頃、彼女は一度引退を考えたという。作り上げられたイメージというものへの反発みたいなものを感じてしまったらしい。例えば「恋の奴隷」の歌詞、ちょっと今では考えられないような歌詞ではある。今だったらこの曲は発売できないのでは?

「本当の私はこんな女じゃないのに。むしろ正反対なのに・・・」

作り上げられたイメージ、小悪魔的魅力。事務所側の戦略というものもあったのだろう。実際に当時の奥村チヨにしか出せない魅力というものはあったと思う。しかし、作り上げられたイメージからは実害も生じた。ストーカーの存在。自宅を調べあげられ、窓の外には男がジットリと、或いはギラギラした目つきで立っていることもあった。

「本当に自分が歌いたい曲を歌いたい・・・」このような強い欲求が沸き起こっていたいた時期でもあった。そして「終着駅」という曲との出逢い。奥村チヨは事務所にこう宣言した。「歌いたい曲を歌います。でなければ私、歌手を辞めます」本人も「終着駅」がヒットする確信はなかった。「ヒットしなければ責任をとって辞めます」とも言ったそうだ。それほど自分が歌いたい曲というものに執着していた。「終着駅」は大ヒットを記録した。

「終着駅」を提供したのは、浜圭介。奥村チヨと浜圭介は、その後結婚し夫婦となった。華やかな奥村チヨ、業界人ではあるが、誠実そうな、どこか地味な印象さえある浜圭介。「すぐに離婚では?奥村チヨは貞淑な妻という感じじゃないしな・・・」

現在も二人は「おしどり夫婦」として知られている。素敵だな・・・と思う。

年齢を重ねた美しさが現在の奥村チヨにはある。それよりも、声を維持し、恋の3部作の頃よりも、さらに奥深い歌声を聴かせてくれることに驚く。

一生歌い続けて欲しかったという想いはある。でも潔く歌い切ったという歌手人生も素敵だなという想いもある。

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読譜は目から? 

 

レッスン時間が練習時間になってしまう生徒、家で練習してこない生徒、いると思う。僕も子どもの頃はそうだった。「少しは練習してきて頂戴。一人でできることを先生とやってたら勿体ないでしょ?」練習が嫌いということとは違っていたように思う。何を練習すればいいのか分からなかったのだ。僕は楽譜の読めない生徒だったのだ。

家にピアノなどない時から、ピアノを習う前から、近所にあるオルガンとか、玩具のピアノで即興で何やら弾いてはいた。即興というよりは、幼稚園のお遊戯会の曲を耳コピ+アレンジして弾いていた。初めてのピアノのレッスンで、五線紙で音の位置を教えられ、それが一種のカルチャーショックであったのを覚えている。小学生になり、ピアノのレッスンが始まっても、家では練習せずに(できないので)耳コピで「なんちゃってショパン」をいい気持で弾いていた。そうすると「ソミレドソミレド ドラソファドラソファ」みたいなサウンドを、楽譜から再現していくのが退屈に思えた。なんちゃって耳コピ弾きのサウンドと比べると、シンプルすぎたというか?

大人になってから、ある話を聞いたりしたことがある。大手楽器店経営のピアノ教室で、グループから個人レッスンに移行してきた生徒が、楽譜が読めない・・・と。「レッスンが譜読みのお手伝いなのよね、困ったわ」個人レッスンの先生方の嘆きを沢山聞いた。導入時に耳だけで入ってしまうと、近い将来行き詰る。練習そのものが自分ではできなくなるし。なので、ソナチネとかソナタ、メンデルスゾーンの無言歌、ショパンのワルツのようなレベルに到達した人は、読譜ができた人たちということになる。楽譜(音符?)を読んで音にしていく、視覚的情報から曲を仕上げていく・・・

大人になってピアノを再開した人たち、僕の印象では、子どもの頃、僕のように楽譜が読めなかった、耳だけで弾いてしまったという人は少ない感じだ。皆さん真面目なピアノ道を歩んでこられた。視覚的情報、つまり読譜というものを、疎かにはしてこなかった。反面、視覚的情報だけに頼りすぎてきた可能性もあるのではないだろうか?ここがピアノの難しいところだ。導入期指導の難しさというか?楽譜を読んで、一応弾けるようにする。つっかえたりせずにね。そこで表現、実際は強弱をつけていく。つまり、一応音が弾けるようになってから、表現(実際には強弱ということが多いような?)をつけて曲にしていく・・・

表現をどうしていいのか分からない・・・という悩みを抱えている人が大人の場合、実に多い印象を持つ。左手の刻みとか、ブンチャッ、ブンチャッ・・・みたいな?どの箇所も同じような弾き方をしていては演奏は平坦になる。場面ごとにタッチ圧力を変えていかないと。視覚的情報だけで弾いてしまうと、つまり耳を使わないと、「変えたい」という自らの欲求そのものが低くなってしまう?

耳だけ、これだと行き詰る。視覚的にだけ、これだと一応は曲を弾くことはできるようになるので、長続き(?)はする。でもある問題を抱えてしまう可能性もある。「どうして自分は素敵に弾けないのだろう?どうして音を並べただけみたいな演奏しかできないのだろう?」

バランスの問題なのかもしれない。目と耳とのバランス・・・

耳優先の人は、きっとどこかでピアノ道から脱落してしまう。ある程度の曲になると、そりゃあ耳だけでは辛いだろう。視覚的なもの優先の人は「どうして音並べ演奏に?」ということで将来悩む・・・

この人は47歳から独学でピアノ(電子ピアノ)を始めて8ヵ月なのだそうだ。楽譜は読めない。記号などはネットで調べて書き込んだ。でも音符は読めない。耳から曲にしていった典型的な例だと思う。ピアノ教師的に聴くと(見ると)ダメ出し部分も多いだろうと想像する。指の動かし方とか。自己流・・・みたいな弾き方?まぁ、独学だから自己流なのかもしれないが・・・

でも気づくことがある。音並べ演奏ではない。「あら素敵じゃない?」みたいな演奏に僕には思える。

これができない人、ここで悩んでいる人は非常に多そうだ。このノクターンの演奏は、一つのヒントにはなるような気がする。

耳から入れ・・・ではないような気はする。でも耳も使え・・・ということは、ありだと・・・

また、独学を安易に勧めているわけでもありません。

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テクニックとメカニックと表現 

 

「テクニックはあるけれど、表現力に乏しい」この言い方、なんとなくスラっと読んでしまい、違和感を感じなかったりするが、実はおかしいのではないかと思う。テクニックがあれば、その演奏は音楽的に聴こえているはずだから。この場合、テクニックではなくメカニックという言葉を使用すべきなのではないだろうか?

「さぁ、スケールを弾くよ。〇秒以内に弾くのよ」とストップウオッチと共にバリバリと弾く。「〇秒以内にミスなく弾けたじゃない?」この場合、メカニカルには弾けたけれど、上がり下がりで音を、タッチをどうする・・・みたいなテクニックを含めれば、バリバリと弾いたのだったら、それはテクニックがあるとは単純には言えない。メカニックがあるとは言えると思うけれど。

チェルニーを高速テンポ(スピード?)でバリバリ・・・この場合もメカニカルには弾けたのかもしれないが、音楽的表現というものに結びついていなければ、それはテクニカルには弾けてはいない?

「彼(彼女)はミスなく弾き切った。難曲なのに凄い。メカニックはあるけれど、テクニック不足なので、表現として何も感じなかった」という言い方はできると思う。

メカニカルに弾けたバリバリ、ここをテクニックとして表現に結びつける・・・そうなのだろうが、厳密にはテクニックとメカニックは簡単に分けられるものでもないような?音の質の変化を求めるとして、そこには具体的な身体的(指的?)変化が求められるとは思う。感情を込めれば音が変わるわけではない、具体的に身体のどこかが何かをしなければならない。テクニックを介して表現に・・・なのだが、具体的な方法は極めてメカニカルな分野にも立ち入っていくのではないか?ショパンのノクターンが情緒不足の場合、月光の中で青白いショパンが夢見がちに弾いている姿を連想すれば、情緒不足が解決できるものでもないだろう。そこには身体的、指的、さらに脳内サウンド的な問題が関わってくるのではないか?

「そこはもっと歌って~」「感情を込めて~」という場合、念を入れるだけでは残念ながら演奏は変わらない。何かをしなければ。この部分、テクニックの問題でもあり、また細部的視野(?)を突き詰めていけば、それはメカニカルの問題も含んでくる。

仮定として、○○奏法研究所に〇年通って○○奏法を身につけたとする。その場合、メカニックをテクニックとして表現に結びつける経験を積んできたと楽観的に考えてみる。でも「自分はどのようなものを、どのような音で弾きたいのかしら?」という内側からの欲求というのか、理想サウンドのようなものが欠落していたら、その演奏は○○奏法的には弾けていても、音楽として人の心に入り込んでいく保証はないようにも思う。極端な例としては、指は、身体はバッチリ。でも表現したいものなんてないの・・・では何を伝えるのだろう?目的を知らずに手段だけを追い求めてしまっているような?

おそらく、メカニカルな問題のほうが練習しやすい。テクニックという領域に入ってくると、そして曲を弾くためには、この部分は避けられないと思うが、そこを具体的に指導できる教師も実は少ないのではないかと僕は想像している。

「心を込めて弾いて」「もっと歌わなきゃ」それは自分でも感じています。でもどうすれば?そこで悩む。悩んでも分からないから、分かりやすい「まだ音が弾けていないパッセージ群」をワシワシ練習してしまう。それ自体も難しいことだから、いつも時間切れ。「まあまあ練習の時のように弾けたかな?」「崩壊しちゃった」の繰り返し。音楽に結びつける具体的なことを教えてもらいたいわけです。生徒としては・・・

生徒側も自分を差別して「そんなことプロじゃないし」と思わずに、熱烈に焦がれてみたらどうだろう?「このパッセージ、もっとキラキラとした音で弾いてみたい」やってみよう。でも行き詰ると思う。具体的な方法を教えてもらっていないのだから。先生に質問してみよう。訴えてみよう。「もっとキラキラした音で弾きたいんです。どうやったらいいんですか?テクニックとして何が欠けているんですか?メカニカルな練習方法はどうすればいいのですか?」と。

いつも疑問に感じていることがある。それは技術と表現を極めて明確に分けてしまう人が多そうだということ。教師も生徒も。本来は分けられないものだとしたら?一応音が弾けるようになってから表情をつける・・・みたいな考えは、そろそろ廃止してもいいような気がするのだが・・・

聴き手をハッとさせる演奏、そこにはメカニックとテクニックと理想サウンドの一致があるのだと思う。そこの関連性というものに、日本のピアノ教育界は少々鈍感なのではないだろうか?

バレエを鑑賞すると、この部分が進んでいるように感じる。技術と表現を安易に分けない感じ?この二人は技術面(メカニック)で秀でているのでバレエ界でも有名な人たちらしい。たしかに簡単に超絶を・・・という典型のような?でも機械が、ただクルクル回っているようでは決してなく、テクニックを介して表現というものに完璧に結びつけている。僕だけかもしれないが、観ていてドキドキしてくるもの。躍動を共に感じるというか。

この人たちは、このバレエのパフォーマンスの際、「まず振り付け通りに踊れるようになってから表現しましょう」と考えたのだろうか?技術と表現は分けられないこともあるのではないだろうか?

kaz




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怪しい音楽表現 

 

昭和歌謡のディープな歌唱を紹介した時、特に勝彩也の「まぼろしのブルース」の反響が大きかった。たしかに濃い表現だし、曲も歌詞も濃い。「まぼろしのブルース」の作者は藤本卓也という人で、この藤本卓也という人の作品が、実に濃いのだ。藤本卓也が楽曲を提供した歌手たちも、また濃い人たちだった。

勝彩也は、藤本卓也に弟子入りしていたそうで、同じく弟子入りしていた矢吹健、そして多くの藤本作品を歌った操洋子という「藤本ワールド」の表現者たちを今回は紹介していきたい。

藤本ワールドで、最も知られている作品は、矢吹健が歌った「あなたのブルース」だと思う。矢吹健は甲府の高校を卒業後、歌手を夢見て上京。藤本卓也に弟子入りしデビュー。「あなたのブルース」は大ヒット。でも冷静に考えてみれば、少し前まで高校生だった矢吹健に、この歌を提供したということが凄い。また、歌い切った矢吹健も凄い。

矢吹健、昭和歌謡を愛する年代には懐かしい歌手だと思う。でも、かなり切ない人生だったらしい。息子を病気で亡くしてしまう。続いて最愛の妻が相模湖で水死体となって発見されている。後追い自殺なのではないかとも言われている。この後、矢吹健の人生は荒れてしまったのだろうか?甲府市内の家賃4万円のアパートで倒れているのを、宅配弁当を届けに来た人が発見している。

男性だけではなく、女性歌手も藤本ワールドに挑戦している。中でも操洋子のインパクトが僕には大きかった。曲を歌詞も濃いが、歌唱も濃いですねぇ・・・

昭和60年代、そして70年代にかけて花開いた「藤本ワールド」をお楽しみ下さい。

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スケールを上手く弾くには? 

 

ショパンのバラード第1番、コーダが難渋だ。怒涛のコン・フォーコ?やっと難所を弾き終えての怒涛のスケール。「ショパンさんたら意地悪!」と嘆きたくなるスケールでもある。ここは、聴き手としては、いきなりハノン登場ですか・・・というスケールではなく、勢いがあって欲しいところだ。多少ずれても勢いが命。

ハノンのスケール練習でよくあるような、一生懸命根性弾きだと聴いているほうは辛い。鍵盤の底まで弾き切るのではなく、途中のタッチ・ポイントを狙って弾きたい。つまり、無駄な動きをせずに、最小限の動きで弾きたいところだ。まぁ、言うだけなら簡単だけど。根性スケールだと、どうしても縦、縦となってしまう。頂点に向かって一気に横、横というイメージを持って挑戦したい。

車の運転技術と似ているかもしれない。僕のような未熟なドライバーは、縦列駐車とか車庫入れがとても苦手。車で旅行する場合、旅館など、駐車場情報によって決めたりするぐらいだ。僕の運転は動きに無駄が多いのだと思う。最短距離ではなく、無駄に大回りをしている。スケールも同様の感覚が必要なのだと思う。指は最短距離で、大回りをしない・・・スケールが苦手な人って、ちょっと指がバタバタしている感じ?大回りでの駐車みたいな?

無駄を排除し、すぐに次を狙って効率的に・・・

フィギュアスケートのジャンプ、美しいジャンプを跳べる選手って、回転が細いような気がする。無駄がないのだ。この感覚をピアノ技術に生かす。バレエでもいい。ウットリ系の場面ではなく、割と技術が強調された場面で、よりイメージを掴みやすい。オディールのフェッテとか・・・

スケールに限らず、難渋な箇所は、根性で汗演するのではなく、無駄なく、最短距離を目指す。

オディールのフェッテだけを集めた動画がある。これ、イメージを掴みやすいのではないだろうか?皆さんとても素晴らしいけれど、個人的には、音楽を先取りしているアナニアシヴィリ、振り上げる足が常に90度以上の感があるザハロワ、あとはモノクロの人が驚異的に思える。

無駄なく、タッチ・ポイントを狙って、ハンマーが弦を打ったら、無駄に入魂せず、次の準備。横、横・・・という感覚。

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昭和歌謡、男も濃かった・・・ 

 

昭和歌謡、男性歌手にも濃い表現をする人は存在した。独特の歌い方が濃さを表出しているというか・・・

おそらく僕より10歳以上世代が上の方たちはリアルに聴いてきた世代だと思うので、「ああ、懐かしい」と感じるのではないだろうか?勝 彩也(かつ あや)という歌手、ご存知ですか?とても濃い表現をする歌手だ。現在は埼玉県でヨガ教室を経営されているようで、歌もやめてしまったわけではないらしい。最大のヒット曲は「恋あざみ」なので、まずこれを貼りつける。

個人的に最も「勝ワールド」を感じるのが「まぼろしのブルース」という曲。これはこの人だけの世界だと思う。あまりにディープな音世界なので、歌謡曲、演歌系の苦手な人はスルーした方が無難かもしれない。なんだかゾクッとくるような?

もう一人の濃い表現の男性歌手。箱崎晉一郎という人。この人は「男が歌った女心」を表出することに長けているように思う。最大のヒット曲は「熱海の夜」ではないかと思う。この曲を初めて聴いた時には、腰を抜かしそうに驚いたものだ。「こんなに濃い歌い方もあるのか・・・」と。個人的に箱崎ワールドの中で好きな曲は「抱擁」という曲。この曲もヒットしたらしい。

男が描く女心・・・箱崎ワールドは、女性歌手のカバーが素晴らしい。西田佐知子の「女の意地」が素晴らしいように思う。

ここまで聴いてくると、日本人って、本来はディープな表現をする民族なのかもしれないなどと思ったりもする。

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セピア色の衝撃 

 

1960年代生まれではあるけれど、リアルで60年代の歌謡曲を聴いた記憶はない。赤ん坊だったり、幼稚園に通っていたのが60年代だから、妖艶な歌謡曲は聴いて育たなかった。記憶を辿ると、小学校時代に人気があったのはピンクレディーだったと思う。僕ぐらいの世代の女の人だったら「UFO」を振り付きで歌えるのではないだろうか?

70年代、80年代、それぞれの時代の歌謡曲に思い入れはあるとは思うが、個人的な歌謡曲黄金時代は1960年代になる。リアルで聴いてはこなかった。だからこそ、大人になってユーチューブなどで60年代歌謡を知った時の衝撃、これが大きいのだと思う。

この時代、紅白などの録画も白黒だったりする。カラーではないのね。余計にセピア色感覚を感じる。

いつからアイドルに親しみやすさを求めるようになったのだろう?隣に住んでいる可愛い女の子・・・みたいな?70年代、天地真理がそのような路線の始まりだったか?でも冷静に考えてみると、隣の家に天地真理のような女の人がいたら、相当騒がれるような気がする。この時代でもアイドルは手の届かない存在であったような?

最近のアイドルはグループ化している。今の僕には関係ないけれど、どの人も同じ顔に見える。まぁ、いいのだが・・・

大阪万博、ここを境に日本は大きく変わったらしい。60年代歌謡、大きく変わる直前のエネルギーに満ち溢れているような?セピア色の映像だけに衝撃も大きい。

この時代の歌手たち、歌が上手い。歌手だから当たり前なのかもしれないが、とても衝撃的だ。

隣の家に住んでいるお姉さん・・・ではないオーラがある。光り輝く60年代歌謡。

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濃い人 

 

「歌のようなピアノだ」この言葉は、パウロだけではなく、ピアノを再開して人前で演奏するようになってからも、よく言われる。実際にピアノ曲を聴くよりも歌を聴くのが好きだからかな・・・などと思う。

でも僕はカラオケとかはしない。自分で歌うということには興味はない。今流行りの歌は何も知らないので、全く歌えないが、おそらく昭和歌謡は歌詞があれば歌えるとは思う。でも恐ろしく下手だと思うな。

歌の場合、クラシックの歌に限らず、「萌えどころ」のような箇所を掴む、感じる能力が敏感になるのかもしれない。自分の演奏に対しては「歌みたい」という言葉の他に「非常に濃い表現だ」とも言われる。実際に演奏している時には「今濃い表現をしているな」などという自覚はないが。

個人的に、この人の歌い方いいなと思う歌手、どうも巷では「濃い表現をする歌手」と言われている歌手が多いような気がする。たしかに「濃いかも・・・」と思うけれど、濃いというよりは、萌えどころの強調が物凄く上手だなと感じる。

ピアノもそうだが、歌手も声の立派な人は大勢いる。でもそれだけでは心に響かない。上手だなとは思うけれど。何かが欲しい。僕の場合、それは強調なのかもしれない。

真っ先に浮かんだ「強調歌手」は、ちあきなおみ。普通の歌手だったら、サラサラと何でもなく歌ってしまう微妙なる萌えどころの強調が巧みだと思う。なので全体として聴くと「濃い表現」と聴こえてくる。

中森明菜、80年代のアイドル全盛期の頃は、興味はなかったけれど、最近の歌唱はいい。ただこの人の歌唱は評価が割れるかもしれない。あまりに切なく表現するので、聴いている側のテンションまでが下がってしまうような?聴き手が切なくなってしまう。不明瞭なディクションも評価の分かれるところかもしれない。でも歌のお姉さんのような明瞭発音で、この曲を歌われても僕は戸惑うと思う。

僕がいいな・・・と感じる昭和歌謡の歌手たち、「濃い人たち」かもしれない。

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即興演奏をしたいわけではないけれど・・・ 

 

別に即興演奏をしたいわけではない。ピアノの名曲をピアノで弾きたい。なのでピアノを習ったり、練習したりする。ジャズのアドリブのような、あんなことはできなくてもいい。ショパンが弾きたい、モーツァルトが弾きたい。

基本的にはそうなのだが、一つの本番が終わり、或いはレッスンでその曲が合格(?)して、新しい曲に取り組む。その曲は練習を重ねて弾けるようにはなっていくが、以前に弾いていた曲は弾けなくなってくる。

ピアノを習っている人が、最も恐れる言葉は、きっと「ねえ、ピアノ習っているんでしょ?何か弾いてよ」という言葉ではないだろうか?「あの曲は、もう忘れてしまったし、今練習中の曲は、まだ譜読み状態だし・・・ごめん、今弾ける曲ないんだ」「えっ?だってピアノ習っているんでしょ?」「そうだけど・・・」「習ってるのに何も弾けないなんて変じゃない?」「まぁ、そりゃあそうかもしれないけど・・・」

その時習っている曲が仕上がれば、その曲は弾ける。でも何年も、何十年もピアノを習っていて、その時仕上がった曲しか弾けないというのも、考えてみれば変な話かもしれない。それともピアノ教育界ではそれが当たり前のこと?

この動画は、パリのもののようだが、ヨーロッパの公共施設には、このように、ピアノがさりげなく置かれていることがある。まぁ、中には腕達者自慢をしたい人がバリバリと・・・という光景もあるのかもしれないが、そうではなく、マイペースに(?)サラッと弾いているような動画が沢山ある。

ある男性が駅でピアノを弾いている。そして他人が、そこに加わるのだ。二人で即興でピアノを弾く・・・日本でこのような光景は、あまり一般的ではないように感じる。パリよりも東京の方がピアノ教室は多そうだし、ピアノを習っている人も多いように感じる。でもこのような光景って、なかなか日本ではないような?

何故だろう?何年もピアノを習っていて、何故この人たちのようなことができないのだろう?超絶技巧を披露しているわけでもない。コンクール荒らしのような演奏でもない、非常にその人らしい自然な演奏・・・

赤の他人同士が、たまたま遭遇し、音楽を共有する・・・このような風景って日本ではあまり見ない。何故だろう?

たしかに即興演奏をしたいわけではないのかもしれない。クラシックの名曲を弾くことができればいい。でも、このパリの駅での光景、なんだか遠い風景のように思えてくる。

何故ピアノを習っているのに、このようなことができないのだろう?

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歌のようなピアノ 

 

自己肯定、それが大切だとしても、実際にその想いを貫くのは難しい。特に日本人には慣れていない感覚なのかもしれない。自分の演奏を褒められるとする。「凄くよかった。泣きそうになっちゃった」この時、「ありがとう・・・嬉しい」と本心を言葉として返す習慣に乏しい。「沢山ミスしちゃってぇ・・・」たとえ自分ではミスが気になったとしても、相手は全体の印象について良かったと言ってくれたのだったら、やはりそのことについて言葉にして相手に返すべきではないかと思う。でも、思うのは簡単だが、実際には難しい。

いつまでピアノを弾けるだろう?たまにそんなことを思う。自分自身が健康でも、家族の誰かが倒れるかもしれない。仕事は頑張っているつもりでも、会社が倒産してしまうかもしれない。それでもピアノは弾いていくのかもしれないが、おそらくリサイタルとかサークルの練習会などの参加は厳しくなるだろう。もし、そうなった場合、後悔することがある。「良かったよ」「感動しました」「泣いてしまいました」このような自分にとって嬉しい言葉を言ってくれた人と「音楽っていいよね、ピアノって辛いこともあるけど、やめられないんだよね」みたいな共通の想いを共有できなかった、しなかった、ここを後悔するのではないかと思う。

アメリカに住んでいた時、典型的日本人の常として、僕は謙遜の美徳というものを無意識に持っていたと思う。共通の友人を通して、ある歌手を紹介された。国籍はブラジルだったと思うけれど、両親がポーランドからブラジルに移民していて、本人もポーランドに留学したりして、ポーランド魂を持っていた。共通の友人もポーランド人で、彼がその歌手を紹介してくれたのだ。

「Kazはピアノが弾けるんだ」「じゃあ、何か一緒に音楽しようよ。僕が歌うから弾いてくれるかい?」当然予想された状況ではあるのだが、その時、僕はピアノなど全く弾いていなかった。留学中で楽器さえもなかったし。無意識だったと思う。反射的というか・・・

「いやいや、そんな・・・ずっと弾いていないし、そんな、とても・・・」

その歌手はパウロという名前だった。今ではトニー賞も受賞し、メトにも正式にデビューし、ミュージカル、クラシック問わず活躍している有名人だが、僕が会った時は、まだ無名でメトのアンダー歌手をしていた。本キャストが病気などでキャンセルした際の代役待機の役割をする。完璧に準備をし、いつでも歌える状態で舞台裏で待機をする。でも一声も発せず帰宅する日々・・・

おそらくパウロは日本的謙遜の美徳を理解しなかった。「何故?せっかく音楽をする時間、機会を与えられたのに、何故?」と感じたのだろう。パウロは僕を叱責した。ちょっと驚いた。「何故弾けないとか、自分を下手なんて言うんだ?」さらにこう言った。「自分(僕のことですね)に失礼じゃないか?」

その頃のパウロは金銭的にも苦しい生活をしていたらしい。空腹感には耐えることができた。でも毎晩こう祈っていたそうだ。「僕にも歌わせてください。何かを表現させてください」と。

実際にパウロの歌声と合わせてみると、それはそれは楽しい時間だった。移調も必要なく、それほど難しい譜面でもなかったし。でも僕に自己肯定感がその時あれば、楽しいだけではない、何かを共有しているような、さらに素晴らしい体験になったのだとも思う。

たしか、パウロは僕のピアノに対して、こう言ったと記憶している。

「歌のようなピアノだ・・・」

その時は「いえいえ、沢山間違えてしまって、お粗末で・・・」と反射的にまた返してしまった。今はどうだろう?

「歌のようなピアノだ・・・」この言葉は宝物としてしまっておいていいようにも思う。

kaz

パウロの歌声、彼にはオーラが漂っていた。無名の頃から。




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自己肯定 

 

自分が受けた義務教育を思い返してみると、あまり褒められた覚えはない。それほどの劣等生でもなかったように思うが、どちらかと言えば、欠点を指摘され、それを補うように指導されてきたように思う。長所を自覚し、そこを伸ばしていくというよりは、欠点や苦手なものを克服していきなさい・・・みたいな?

割と現在のピアノライフでも、その感覚が残っている。弾けないところ、自分にとって苦手なものを克服していくのが練習であると思っているところがある。最近、ピアノを弾いていくうえで、自己肯定の感覚も必要なのではないかと感じ始めている。たしかに、全く弾けてもいないのに自画自賛するというのは、傲慢であり、錯乱であるのかもしれないが、例えば他人が自分の演奏を褒めてくれた時にも、まずは「いえいえ、まだまだで・・・素人だし・・・」みたいなスタンスを貫いてきたところがある。そして、それを日本人的(?)美意識と感じたりもしていた。一応自分を下げておかないと・・・みたいな?そうしないと何を言われるか分からないし・・・みたいな?

ブラジルとかベネズエラといった南米の国々にはスラムというものがある。残念なことに、大人だけではなく、子どもたちも、売春、麻薬、暴力、殺人といったものと隣り合わせの世界が存在しているらしい。自分たちは貧民層なのだからという現実。その中でクラシック音楽の力で、子どもたちの自己肯定感覚を養おうとする教育システムがある。素人の分際で・・・とか、そのような方向性ではなく、「音楽を愛して楽器を手にしたら、あなたは音楽家なのだよ」という方向性。

ブラジルのスラムにオーケストラが誕生した。そのオーケストラのメンバーは、外国の一流音楽院の卒業生などではなかった。貧しいスラムの貧民層出身者。「クラシックという武器が君たちにはある。君たちは音楽家なんだよ」そう言われて育った。この映画は、そのオーケストラが誕生するまでの過程を描いた実話なのだそうだ。

ベネズエラの「エル・システマ」という教育システム。子どもたちに無償で楽器を提供し、音楽教育を施していく。数多くのオーケストラがベネズエラに誕生した。ほとんどのメンバーは貧民層出身なのだそうだ。

クラシック音楽は、生きていくための武器になる。そのような世界もあるのだ。

根底には、自己肯定感覚を否定しないという考えがあるように思う。たとえ貧しくても、人間には生きていく権利があり、幸せな人生を歩んでいく権利がある。時に、クラシック音楽が、そして楽器を弾いていくという行為そのものが、生きていくうえでの武器になる。

「ああ、弾けない」と感じる。そうだとしても、自分の長所はないだろうか?たとえ弾けている部分が20パーセントでも、80パーセントのダメな自分を嘆くよりは、20パーセントの長所を伸ばしていくと考えた方がいい場合もあるのではないだろうか?

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練習の目的 

 

いわゆる「マスタークラス」と呼ばれるレッスン風景の動画をいくつか観ていた。レッスン風景なのだが、指導者は有名なピアニスト、生徒は優秀な音大生や、新人ピアニスト的な、まあ上手な人たち。ちなみに観たのは日本のマスタークラスではない。生徒は皆さん上手である。「ちゃんと練習してからレッスンに来るのよ?レッスンは練習する時間ではないのよ?」と言いたいような生徒は、もちろんいない。

上手ではあるのだが、指導者(有名ピアニスト)のアドバイスに対しての反応が良くない人がいる。達者に弾いてはいるのだが、例えば「3拍子ではなく6拍子なので、二つの拍に感じられるように・・・」みたいな、そのレベルであれば簡単に直せそうなことが、なぜかできない。生徒が焦っているのは痛いほど感じる。

そのような生徒って、有名ピアニストのレッスンだから、頑張りすぎてしまったような?何があっても練習の時と同じように弾けるようにと頑張ってしまい、予期せぬことが起こると対処できない印象。

いつでもどこでも同じように弾けるまで・・・これってピアノ練習において、よく目標になるようなことかもしれない。本番では60パーセントぐらいの力しか出せないので、練習で140パーセントの出来で弾けるようにしておく。そうしておけば本番でも安心でしょうという考え、これはよくあるのではないだろうか?

練習だけが頼り、練習は嘘をつかない。なので、練習を重ねれば、本番で「あれだけ練習したのだもの。きっとうまく弾けるはず」と考える。保健みたいな練習とも考えられる。

ザキトワ選手を連想してしまう。ルッツからループという2連続ジャンプを競技会では跳んでいたけれど、練習中の映像で、ルッツからループを4連続、つまり5連続のコンビネーションを彼女は跳んでいた。いかにも簡単そうに。練習で、より難易度の高いジャンプに慣れていれば本番では余裕を持てるという考えなのだろう。では失敗してしまったらどうするのか?

オリンピックの直後の世界選手権で、ザキトワ選手は初めて失敗に遭遇したのかもしれない。「まさか、こんなことが起こるなんて」みたいな?もしかしたらザキトワ選手は、それまで失敗のない人だったのかもしれない。なので本番以上の難易度のものをこなす練習をしてきた。強気練習?いつもは簡単にできるものを失敗してしまった時の対処法には慣れていなかったのかもしれない。

練習では考えもしなかった、なんでもない箇所で失敗をする・・・本番ではよくあることだ。ではその時、どう対処すればいいのだろう?

一般的な練習って、そのようなことが起こらないようにと願う練習のように思う。いつでも同じように弾けるようにと。失敗したら、ミスしたらどうすればいいのか、その後どのようなメンタル処理をし、演奏中に立ち直るのか?そもそも同じように弾くという目標そのものが演奏という行為に反しないか?

いつでも同じように・・・ではなく、同じように弾かない練習というものはあってはいけないのだろうか?

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1199人のためのYouTube的本屋大賞 

 

「本屋大賞」という賞が出版業界にはあるそうだ。直木賞とか、芥川賞などのように、専門家が選ぶのではなく、現場の売り場の人たち、つまり本屋さんが選ぶというのが画期的のように思う。売り場の人たちが「この本を読んで欲しい」という本を選出する。このやり方、クラシック音楽界にも生かせないだろうか?

クラシック音楽専門の雑誌はある。大別すると、ピアノ教師御用達雑誌(ムジカノーヴァとか)とディープなクラシックファン御用達雑誌、例えば「レコード芸術」のような雑誌に分かれるように思う。僕は「ショパン」という雑誌(考えてみれば凄いネーミングの雑誌ではある)は手にしたことはないので、この雑誌がピアノ教師サイドの雑誌なのか、それともディープ派の雑誌なのかは知らない。

楽譜売り場、ヤマハ銀座店とか池袋店、ここはピアノ教師の世界。シールとか月謝袋とか色彩感覚に溢れている。導入用の楽譜も色彩豊かで、キャラクターも登場したりして、色的に華やかな世界ではある。なんとなく「男子禁制」の世界?

反対にクラシック専門の中古CDショップ、「ディスクユニオン・クラシック館」のようなショップって、どこかオジサンの世界というか、「女人禁制」の雰囲気?「レコード芸術」のような雑誌も同じ匂いを感じたりする。どこかディープでオタク的?音楽専門用語(?)が羅列してあって、ちょっと素人には入りにくい雑誌のような気がする。批評家とか評論家って「ソノリティ」という言葉がお好きなようだ。ソノリティって???

女子力満載でもなく、ソノリティの世界でもなく、中間的な雑誌、世界はないものか・・・

この「レコード芸術」という雑誌、発行部数は10万部なのだそうだ。10万部・・・多いような気もするが、日本の人口を1億2000万とすると、約1200人に1人がこの雑誌を購入していることになる。1200人に1人、いわゆるクラシックファンの割合と一致するような?

クラシック音楽には親しみたい気持ちはあるけれど、どこから入っていけばいいのか分からない。このような人は意外と多いのではないか?別に自分の子どもがピアノを習っているわけでもないので、ピアノ教室訪問とか、指導法とか、興味はない。でも「誰それのブルックナー交響曲全集はソノリティに溢れていて」と言われても分からない。そのような人たち・・・

CDが安くなったと言っても、購入して「なんだかな・・・」となった時の痛手は大きい。「レコード芸術で推薦されていたけれど、自分にはピンとこない。やはりクラシックって難解で敷居が高いのね・・・」

ユーチューブ活用法、演奏紹介みたいな本があればいいのに・・・

ユーチューブだったら、クリック一つで色々な演奏が聴ける。失敗した時の経済的痛手は感じないで済む。でもユーチューブって未来に向かっているような世界だ。現在アップされていたとしても削除されてしまうことはある。雑誌のような印刷物は発行された時点で過去の情報となってしまう。そこが難しいところだとは思う。でも手軽ではある。また、ユーチューブには過去の偉大なる演奏へも気軽に入っていける利点がある。CDショップには絶対に置いていないような往年の巨匠の演奏にも触れられる。「上京して渋谷のタワーレコードでヒストリカルのコーナーを物色しなければ手に入らないのか?」みたいな演奏も沢山アップされている。

ユーチューブで名演を発掘する方法、個人的にはセピア色の動画を物色していくといいと思う。発表会でのビデオ撮影的なものも楽しいのかもしれないし、アイドル的演奏家の演奏もいいのかもしれないが・・・

モーツァルトに「バター付きパン」という変わったピアノ曲がある。本当にモーツァルトの作品なのか、非常に疑わしい感じではあるが、楽しい曲ではある。視覚的なインパクトが非常にある曲で、譜読みも面倒ではないので、割と「練習とか譜読みって嫌いです」のような男の子が演奏している割合が高いような?もしかしたら「バター付きパン」、ピアノ教師の間では有名な曲なのかもしれない。硬派なクラシック雑誌には出てこないような曲かもしれない。

ユーチューブ、まず日本語で「バター付きパン」で検索してみる。パッと出てくるのは日本人の演奏が多い。当たり前ではあるが。そこで「楽しい曲じゃない?」とか「へぇ?モーツァルトにもこんな曲がったんだ」と感じれば、それはその人にとって名演ではあると思う。それでいいのだ。でもひと手間かけてみよう。日本の動画にもその曲の原語、つまり横文字で曲名が書かれていたりする。是非、その横文字でも再度検索してみて欲しい。グッと外国の動画が多くなってくる。その中でセピア色の動画を探してみる。

ナウム・シュタルクマンの動画が見つかった。この人はソビエト時代には国内での演奏活動に限定されていたところがあるので、知る人ぞ知る的存在のピアニストかもしれない。昨今は「ロシア奏法ブーム」でもあるので、もしかしたら指導者には有名な人かもしれないが・・・

個人的にどちらの演奏に感銘を受けたかは、ここでは言わない(もう言っている?)けれど、ひと手間あると、このような演奏にも出逢える可能性は高くなるように思う。なかなかCDで探すのは大変だと思う。

「ユーチューブ・クラシック入門」みたいな本、出版されないかな?待っている人、多いと思うのだが・・・

全く違う曲に聴こえてくるような・・・

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音源 

 

僕は全く知らない曲を、楽譜だけを頼りに曲にしていった経験はない。弾いてみたいという曲は、その曲を知っていることになる。つまり、どこかの時点では音源を聴いている。聴いて、いいなと感じたから弾いているわけで・・・

弾いてみると決心し、譜読みを始めてしまうと、音源は聴かない方だと思う。自分が演奏(練習)している曲の音源を聴く人は多いようだ。何人ものピアニストの音源を聴いて参考にするのかな?このあたり、僕は怠慢なのかなと思う。クラシックを聴くのだったら、ピアノ以外の曲を聴きたいほうだし。

「ねぇ、クラシックって全員が同じ楽譜で演奏するんでしょ?何だか変だよ。皆が同じ演奏をするんでしょ?」割とクラシック音楽に馴染みのない人は、そんなことを思うらしい。たしかにジャズなどでは同じ曲でも演奏者によって全然違う。クラシックはそうではないけれど、楽譜(エディションではない)が同じでも演奏者によって印象は異なると思うが・・・

ピティナのような、コンペティションでも有名な団体が、音源を発信している。課題曲のセミナーなどもあるらしい。むろん、このようなセミナーは「こう演奏するとコンペティションでは有利ですよ」というものではないのだろうが、むしろ、そのようなものからフリーになるためのセミナーであると信じたいけれど、ピティナ音源も含めて、何かしらの影響力はあると僕は思う。テンポ設定とか・・・

ここに貼りつけたエルガーの「愛の挨拶」もだけれど、有名な曲、「エリーゼのために」などのテンポって、なんとなく頭に浮かんできてしまうけれど、そのテンポって自分で決めたものではない。なんとなく聴きなれていて、なんとなく思い浮かぶテンポでしかない。

皆が同じようなテンポで弾いている?ユーチューブでも、「この人の○○を聴いてみたい」と検索するのではなく、曲名で検索すると、身近な演奏ばかりヒットして、それらの演奏のテンポ、なんとなく感じが似ているように僕は感じる。もしかしたら、クラシックの演奏って、ある「お手本」とか「模範演奏」のようなものを皆が目指してしまうような、無意識に「こう弾くといいんだな」みたいな聴き方をされている?

クラシック音楽が身近ではない人、自分では楽器を演奏しない人って、純粋に鑑賞体験として聴く。「お手本」のような概念を演奏に持たないのではないか?なので巷の「なんとなく似ている演奏」を聴いて、「皆が同じに弾いているんでしょ?それ変だよ」と思うのではないか?少なくとも「このように弾けばいいんだな」とは思わない・・・

二つの音源がある、一つのピティナ推奨(?)の演奏。模範演奏としてピティナはアップしたのだろうか?演奏そのものは悪くはないので、その目的は果たしているだろうと思うけれど、この曲を弾く人が、この音源を聴いて「このように弾くのね」と同じ方向を向いてしまうとしたら、どうなのだろう?

個人的にはチッコリーニの大胆なテンポ設定の演奏に惹かれる。

エルガーは最愛の妻、アリスに先立たれている。癌だったと記憶している。亡くなって初めて、自分の影になって支えてくれていたアリスの存在の大きさを知った。エルガーはその時、男泣きに泣いたという。

「愛の挨拶」はアリスに捧げられている。婚約記念のプレゼントだった。チッコリーニの「愛の挨拶」はアリスへの最後のプレゼントのように聴こえてくる。「今までありがとう」と。

テンポとか、自分で設定していますか?

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プログラム考 

 

昨日のすみだトリフォニーホールの演奏会、主催は国際芸術連盟というところで、「ラフィネ春の音楽祭」という演奏会だった。五人(組)の演奏家が演奏した。大ホールは1800人収容というホールで「大規模だな」と正直思った。反射的に自分のリサイタルとの違いを感じてしまう。僕の場合、1800人ではなく、多くて60人。チケット代も3500円ではなく無料。主催はkaz???幸せなことに、当日はお手伝いして頂ける人もいるし、プログラムなどを作成してくれる人もいる。手作り感溢れるリサイタルにはなりそうだ。

「ラフィネ春の音楽祭」、プログラムを渡され、客席で一応目を通した時には、全く疑問にも思わずにいたのだが、そのプログラム、各演奏者の演奏する曲目がまずあって、曲目解説はなかった。あったのは演奏者の写真と経歴。この経歴重視のようなプログラムってクラシックの演奏会特有のものなのかもしれないと感じた。曲の解説よりも演奏者の経歴を重視・・・ということですよね?

もう昔のことになるが、聖子ちゃんのコンサートに誘われたことがある。巨大な体育館での年末恒例のコンサートらしい。僕は聖子ちゃんよりは明菜派(?)ではあったので、そのコンサートのお誘いは辞退してしまった。聖子ファンには「明菜」という言葉は禁句なので、都合が悪いと断った記憶がある。その聖子ちゃんコンサートのプログラムってどんなものだったのだろう?ちょっと興味はある。曲目解説?彼女のヒット曲についての解説なんて、誰も読まないのでは?聖子ちゃんの経歴?これも誰も読まないのでは?曲目解説も松田聖子の音楽歴も(出身校とか?)プログラムには明記されていなかったのではないかと想像する。分からないが・・・

演奏者の経歴を細々載せるというのは、クラシックの演奏会特有のものかもしれない。

曲目解説、基本的には載せた方が親切なのではないだろうか?昨日のように、ピアノだけではなく、声楽あり管楽器ありという演奏会の場合、特にそう思う。僕の場合、声楽好きなので曲の解説がなくても困らなかったけれど、例えばピアノの演奏者目当ての聴き手の場合、あまり声楽については詳しくはないということもあるだろうと思う。どんな内容を歌っているのだろうというインフォメーションが全くないわけで、ちょっと辛いのではないだろうか?例えば「ママも知るとおり」というアリア、どんな内容なのだろう?対訳がなくても、実はドロドロとした怨念チクリ歌なのだと知るだけで、聴き手の印象は異なるような気はする。

個人的には管楽器、昨日の場合はフルートだったのだが、ただJ.ジョンゲンのフルート・ソナタというインフォメーションだけでは足りないと思った。いくつの楽章からなる曲なのかも載っていないんだもん。J.ジョンゲンって?どこの国の人?いつの時代の人?演奏者の経歴よりも、むしろそのあたりを載せて欲しい。

昨日はピアノデュオの演奏もあった。G.アンダーソンの「カルメン・ファンタジー」が演奏された。むろん曲目解説がないので、インフォメーションとしては「G.アンダーソンのカルメン・ファンタジー」しかないわけだ。勿体ないなと思う。

「G,アンダーソン・・・アンダーソン&ロエというピアノデュオをご存じでしょうか?ユーチューブで口コミで人気が広がった人たち。クラシックという領域を超えて爆発的な人気を博しました。その華麗なるサウンドをお楽しみ下さい」というインフォメーションだけでも聴き手の想像は膨らむような気がする。「アンダーソン&ロエ?一度ユーチューブで聴いてみようかな?」という人が一人でもいれば、クラシック界の停滞感も徐々に変化していくかもしれない。

演奏者にしても、各々の聴き手に知っていてもらいたいこと、伝えたいことみたいなものはあるんじゃないか?「演奏がすべてです。言葉はいりません。お聴きください」でもいいのかもしれないが、例えば僕の場合、グラナドスの曲を聴いてもらう時には、グラナドスは最愛の妻のために自分の命を投げ出したという事実は知ってもらいたいと思う。曲の形式とか、そのようなことよりも・・・

G.アンダーソン・・・アンダーソン&ロエというピアノデュオをご存じですか?編曲は男性のG.アンダーソンが担当しているようです。クラシックという狭い世界に留まらず、ユーチューブで爆発的人気を博した、新しいタイプのデュオです。サウンドはもちろん、視覚的にも魅せるデュオ。男女の呼吸もピッタリで、二人は恋愛関係にあるようにも感じてしまいますが、男性のグレッグはカールさんという男性のユーフォニアム奏者とご結婚されています。クラシック界では珍しい「オープンリー・ゲイ」のピアニストということにもなりますね。

kaz



グレッグのパートナー、カールさん登場・・・




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演奏中に居眠りをしてしまう人 

 

ピアノに対して素人、プロでなければ素人なのかもしれないが、アマチュアのピアノ弾きは素人とはしないこととする。自分では一切ピアノを弾かない。クラシック音楽に対しては嫌悪感はないけれど、自分から積極的に聴こうともしない。当然クラシック音楽の知識もない。なので「その曲だったら〇年のフルヴェンだよな」みたいな鑑賞専門の人も素人とはしない。「えっ?くるみ割り人形?シューベルト?」みたいな人を素人とする。

おそらく、ピアノ演奏に関して、「下手じゃ~ん」という演奏については、ピアノ弾きと素人とでは、同じように感じるのではないかと想像する。本来のテンポで弾けずに、しかもパッセージを何回もつっかえながら・・・のような演奏?曲として認識できないような演奏には、どちらも「下手じゃ~ん」と感じるのではないだろうか?

素人の友人がいる。彼はクラシックの演奏会で、よく居眠りをする。そのような時、僕は足で彼を起こすのだが、そのような彼にクラシックピアノの演奏の良し悪しの判断はできるのだろうか?たとえば、表面上はミスなく弾けているけれど、ただそれだけ、ただ弾いているだけのような、よくある演奏について判断はできるのだろうか?

「どうして演奏中に寝るの?」「だって、ほらドラマとかにあるでしょ?病室のモニターが心臓が止まるとピーッと一直線になるよね?そのモニターをずっと見ている気分になってくるんだ」

これは鋭く、かつ厳しい素人意見ではないだろうか?モニターね・・・たしかに。表面上は弾けているけど、どこか平坦な演奏に関して、彼らは実に正直で、また厳しい耳を持っているのかもしれない。自分はピアノなど弾かないから、自分がどう感じたかで判断する。この部分、よく音楽的な表現と言われる部分だ。ここで何かが欠けていると素人は居眠りをする?

平坦な演奏、僕なりの研究結果(?)によると、場面ごとで、基本の弾き方というのだろうか、タッチ感覚というのだろうか、それが均一の演奏って、どうも平坦になるような気がする。重厚な和音を弾く時も、細かなパッセージも基本的に同じに弾く。「あらぁ、重厚な和音の時は動きがゆっくりで速いパッセージでは指を速く動かしているんでしょ?」それはそうなのだが、速いパッセージで機敏な音色が欲しくても、どこか緩慢。どこか和音の時と弾き方が一緒で、集中された意思のあるクリアな音ではなく、いつもボヤンとしている音色?そう、音そのものが曖昧というか、どこも似てしまうというか?このような演奏に共通しているのは、圧倒的に強弱だけの世界になってしまうことだ。音符通りに弾いても、強弱だけ、横の動きでも微妙な間合いなどがないと、演奏は平坦に感じてしまう。どんなにミスなくツラツラ弾けていても・・・

素人は、そのような演奏で寝てしまうのね・・・

でもこれって、技術的な問題なのではないだろうか?音楽的感性とか、そのようなことよりも、基本的な弾き方。どのような場面でも弾き方が一緒では平坦にもなるよね?

では、○○奏法なるものを、完璧にマスターしたと仮定して、○○奏法が演奏を音楽的にしてくれるのだろうか?ある意味では弾き方が場面ごとに変わるのだろうから、平坦さからは脱却できるのかもしれない。理屈としてはそうなるというか?

では○○奏法が先なのだろうか?具体的な弾き方というものは、まず最初に奏者の「このような音で弾きたい」というニーズを具現化するための手段なのではないだろうか?なんのための手段?手段が先でいいのだろうか?

「この曲好き?」「別に・・・」「泣きたいと感じた箇所ってある?」「別に・・・」「演奏を聴いて泣いたことある?」「ありません。自分の演奏しか興味ないし、上手に自分が弾ければいいので・・・」このような人が音楽的に弾けるだろうか?聴いている人が涙する演奏ができるだろうか?

○○奏法、弾き方、技術というものは、先にあるものなのだろうか?音楽的表現というものは、あとから足していくものなのだろうか?余裕ができたのでウッフ~ン・・・みたいに?音楽的に弾きたい、その具体的イメージ、サウンド、それを具現化するための弾き方・・・両方が共にあるべきなのではないか?

素人が演奏中に居眠りをしていたら、それは演奏を理解できなかったから・・・ではないかもしれない。

kaz


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涙腺崩壊 

 

それは共感、あるいは代弁というものだった。舞台の演奏に、客席にいる僕が共感し、そして表には決して出さない感情さえ演奏が代弁してくれた。

聴きながら涙が溢れそうになる。演奏会場は自室ではない。公的な場所と自覚している。なので泣いてはいけないと思う。でも演奏が、語りかけ、包み込んでくれる。いつのまにか演奏を聴きながら泣いている自分がいた。

とても変だと思うのだが、そして演奏が似ているという単純なことでもないのだが、おそらく本日の舞台上の演奏者のフレーズ処理というのだろうか、フレーズの頂点へ行き着く直前の絶妙なる間というのだろうか、そのようなものが、ある演奏家たちを僕に連想させた。

リストの「愛の夢」で、フリッツ・クライスラーの姿が見えた。ラフマニノフのプレリュードでは、セルゲイ・レメシェフが僕の中に現れた。何か共通した魅力が、この二人の演奏家と本日の演奏家とであるように思えた。

それは人間としての慈しみ、抱擁、そして切なさ・・・だろうか。

本日4月7日、すみだトリフォニー大ホールで感じたこと。

あなたが最後に演奏を聴いて泣いたのはいつですか???

kaz






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生徒募集のための素人的考え 

 

ピアノの先生を探す時、何を基準に探すのだろう?学歴?あるいは音大で教えているような先生に・・・とか?その考え方は分からないでもない。和菓子だったら「虎屋」の羊羹にしておけばとか、電化製品だったら無名のメーカーよりは、パナソニックの製品が安心だろう・・・みたいな感じだろうか?でもピアノの先生は和菓子でもフードプロセッサーでもないので、やはり習う側のニーズに合った先生がいいのではないだろうか?

習う側のニーズ、つまり保護者の(言わないかもしれない)願いみたいなもの?むろん藝大を目指すとか、華やかなスターピアニストを最初から目指すというケースもあるのかもしれないが、意外とこのようなニーズは少ないような気がする。

我が子に音楽のある豊かな人生を歩んでもらいたい・・・というあたりが保護者のニーズとしては最も多いのではないだろうか?プロになどならなくてもいい。毎日の生活の中で、音楽に親しみ、自らも音楽の魅力に触れられるような、そんな人生を・・・

今はネット時代。ピアノ教師ブログやホームページには、生徒募集(獲得?)という目的も含まれているのだと思う。でも個人的感想としては、「どのような先生か分からない」「どの先生も同じようだ・・・」という印象を持つ。セミナー参加記、教材について、教室運営、「こんなお教室で~す。生徒さんも楽しく通っています」「生徒さんの喜ぶシールを購入しました」・・・みたいな?このあたりも重要なのだろうけど、ちょっと「この先生素敵だな、習ってみたいな」的なインパクトに欠けるように思う。素敵と言っても容姿がということではなく、教師の演奏とか、生徒の演奏が紹介してあって、その演奏が「わっ、私もこの中に入れたらいいな」みたいに思わせてくれるような・・・何かそのようなものが欲しい。

ネット時代なので、演奏動画のようなものを貼りつけるといいのかもしれない。でもそのような先生は少数派のように感じる。保護者としては、おそらく先生の演奏技量を判断するというよりは、全体的な印象を感じられればいいのではないだろうか?なので音大時代の試験曲のような「ザ・クラシック」を無理に貼りつける必要もないのでは?自分の音楽家としての魅力が伝わるような、そんな演奏を貼りつけてみたらいいように感じる。選曲は難しいと思う。クラシックのピアノ教室なのに、先生の演奏が、ポップスばかりというのも、逆に難曲を弾いてみました的なものだけというのも、ちょっと保護者のニーズには合わないかもしれない。どのような先生かを知りたいのだから。

ベルギー在住のフランコ先生。このブログでも、フランコ先生の演奏は過去に紹介している。この先生、素敵じゃないですか?いくつかの動画で判断できることがある。

生徒と音楽との距離感がない。楽しそう。先生自身の演奏が素敵。50人、80人の生徒がいるようにも思えない。反対に自分の演奏の片手間に子どもを教えているという感じはしない。才能ある生徒を選抜しての予備校教室化はしていない。ブルグミュラーやギロックの演奏が素晴らしく、その演奏から生徒に何かを伝えたいというフランコ先生の熱さを感じる。

フランコ先生に習ってみたい、そう思いませんか?自分の子どもには、このような先生に習って欲しい、そう思いませんか?ベルギーまで行かなくても、探せば日本にもいらっしゃるかもしれない。

保護者って、このようなことを知りたいんじゃないかな?

kaz












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97パーセントの人々 

 

アメリカでの話だが、日常的にクラシック音楽に親しんでいる人の割合は3パーセントということだ。どうやってこの数字を割り出したのかは不明だが、「まっ、そんなものかもしれないな」と素直に納得してしまう数字ではある。日本の場合はどうだろう?東京では一晩に複数のピアノリサイタルが開催されているらしいし、全国規模の音楽教室もある。ピアノの先生も多そうだ。習っている子どもも、出生率減少などはあるにせよ、諸外国と比べると多いのではないだろうか?

「そう、日本人はクラシック音楽が大好き。アメリカでは3パーセントかもしれないけれど、日本は70パーセントにはなるんじゃない?」実感としてはそうは思えない。むしろクラシック音楽に親しんでいる人、3パーセントもいないかもしれない。タバコの煙を嫌うように、クラシック音楽を敬遠する人、いるとは思うけれど、なんとなく少数派のような気がする。多くの人は一度はクラシック音楽の演奏会、CDなどに接した経験はあるのではないかと思う。でもその時に「なんだか難しいな」とか「退屈だな」と感じてしまったのかもしれない。これは欧米でも同じなのではないかな?

ただ、日本の場合、断絶感というのだろうか、供給側(演奏側)と聴き手との間に距離感があって、それが普通みたいなところはないだろうか?専門家と素人の溝がとても大きいような?クラシック音楽はお勉強して、修業をして身につけるものという雰囲気に満ち溢れている。むろん、演奏をする人は、お勉強も修練も必要なのだろうが、どこか聴き手にもそれを求めてしまう。聴き手が勝手に感じてしまうのかもしれないが。

幼い頃からピアノ修業に励み、コンクールに受かり、難関音大を卒業。ここまでの道のり、全部「専門家世界」ではないだろうか?弾けた、弾けない・・・の世界。アマチュアの場合も似たようなものかもしれない。サークルなどでピアノを弾く。聴き手は全員ピアノ弾きではある。アマチュアだから、この場合、聴き手は素人なのかもしれないが、純然たる素人とは異なるように思う。まずサークルなどの場では、演奏そのものを褒めるのが前提にある。「良かったよ~」「ミス?全然分からなかった。弾けてたじゃない?」みたいな?

おそらく演奏者の頭の中に存在していないのが、日頃クラシック音楽に親しんでいない97パーセントの人たちのこと。仕事をして、育児をして、それで一日が終わるような人たち。趣味はゴルフだったり?クラシック音楽というものの接点が全くないような人たち。

いわゆる、専門に学んだ人、アマチュア、共通したものはないだろうか?先生のダメ出しに耐え、努力して弾けるようにしてきた。本番では、どれだけ弾けたかが最も気になるところ。そこに97パーセントの人が、自分の演奏をどう感じたか、自分が演奏した作品を、どう感じてくれたかということは、あまり考えないのではないか?

自分はどれだけ弾けたか、弾けなかったかは考えるけれど、97パーセントの人の直感的感想については、あまり思いを馳せないのでは?つまり自分がどうだったか・・・ではなく「どう感じてくれたかしら?」的な観点。

先生やピアノ仲間だけではなく、例えばピアノ道に非協力な配偶者とか?「毎晩ピアノうるさいな」などと言う近くにいる人。素人さん。その人に「おっ?いい感じじゃないか?」と言わせてみせる魅力が自分の演奏にあっただろうか?

ここで立ちはだかるのが、魅力ある演奏とか、そのようなものって、まずは基礎ができてから・・・とか、弾けるようになってから・・・という考え。自動車教習所だったらそれでいいだろう。いきなり路上で研修なんて危険だもの。まずは基礎から・・・でいいだろうと思う。でもピアノ道は免許取得道ではないような?

97パーセントの人たちのことも考え演奏しているのではと感じる人たちがいる。ストリート・ミュージシャンと呼ばれる人たち。日本にも大勢いると思うけれど、クラシック音楽を路上で演奏する人たち、やはりヨーロッパに多いような印象を持つ。

このストリート・ミュージシャンは僕が勝手に「コペンハーゲンの人」と密かに呼んでいるヴァイオリニスト。

自分が習っているピアノの先生、ピアノ仲間、その他に「97パーセントの素人さん」を密かに自分の教師としてはどうだろう?「え~?クラシック?なんだか堅苦しくて苦手だな」という人に、無理やり自分の演奏を聴いてもらう。食べ物とスイーツで誘うのだ。「聴いてくれるだけでいいからさ」と・・・

そして「どうだった?」と訊いてみよう。

kaz




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音楽語、奏法、そして代弁 

 

「なんとなく平坦な演奏になってしまう」

そのような時、何が欠けているのだろう?欠けているとしたらどうすればいいのだろう?「私ってもともとが淡泊な性格だし」そのようなこともあるかもしれないが、平坦になってしまうという自覚、耳があり、なんだかな・・・と思うのであるから、性格とか感性という曖昧なところに落ち着かない方がいいように思う。多忙な日常生活の中でピアノを弾いている、この事実だけでもピアノへの熱い情熱は持っているのでは?だからこそ悩むわけで・・・

僕はピアノ教師ではないので、平坦にならないためのノウハウのようなものを伝える能力はない。その必要性も感じない。生徒がいないわけだから。でも自分なりに留意しているようなことはある。

「ドレミとドミソは違う」・・・ああ、そうですね。鍵盤の位置が違いますね・・・ではなく、ドレミとドミソでは音表情においてのエネルギーが異なる。短い音符と長い音符でも異なる。音符を読む、楽譜を読むの違いとでも言うのだろうか?そこが大雑把だと平坦な演奏になってしまうように思う。譜読みをするとは音符だけを読む・・・のではないというか?音楽語なる、表現に至るまでの楽譜の法則を知るというか?同じ音符が連続していたら、〇回繰り返すのね・・・ではなく、エネルギーが持続しているように弾くのだな・・・みたいな?

エネルギーのような音表情を楽譜から理解したとして、具体的に、指は腕はどうしたらいいのか?いわゆる奏法とか呼ばれるもの。ここが大雑把でも平坦な演奏になってしまうように思う。人に伝わらないというのは、演奏している本人にしては辛いものがあるのではないだろうか?個人的感覚からすると、多くの人が「下方向」だけ頑張っているような感じだ。むろん「ぶっ叩く」という弾き方はそうなるのだろうが、そこまでではなくても、方向性として下しかない弾き方だと表現として伝わりにくい。つまり平坦になりがちだと思う。鍵盤を下に押すので、下方向にはなるのだが、タッチポイントというのだろうか、鍵盤の底に到達するまでの微妙なポイントなるところを探す弾き方がいいのではないだろうか?タッチをする、つまり一つの音を弾く、動作としては、下方向だけではなく、次の音の準備も必要に思う、下方向だけではなく、上方向とか横方向もタッチした直後に必要というか?この感覚が鈍感だと、いくら頭の中で理想のサウンド、表現というものがあったとしても、音として、音表情として表出できないように思う。つまり準備が必要ということ。なんだかな・・・という箇所、移動と同時にタッチしていることが多いのではないだろうか?待って準備をする、その感覚が表現力を生むような気がする。

雁部一浩著「ピアノの知識と演奏」という本に次のような一節がある。「演奏という行為は作品にアプローチして作曲家の思いを代弁するという図式に捉えがちですが、真相はその逆で、作曲家(作品)が私たちの切なる思いを代弁してくれているのではないでしょうか?私たちの内面に在るものを彼らが見事に書いてくれているからこそ作品への共感というものが生じるのであれば、演奏とは他者の作品を借りて自らの思いを表現する行為ということになります。したがって、如何に天才的な作品を弾いてみたところで、所詮は自らの内面に見合った内容しか表現することは出来ません」

音楽語のようなものを楽譜から読み取る、そしてそれを具体的に伝えるための弾き方、そして自分の中にあるものを曲が代弁してくれているわけだから、そこを見つめてみる。

現代の演奏の傾向としては、ザハリヒな考え、原典至上主義のようなものを僕は感じる。むろん、ドレミをドレファと演奏することは許されないのは分かる。でも我々の人生、感情なるものは、作曲家の作品、つまり芸術と比較すれば、虫けらのような、小さな存在なのだろうか?生きてきたその生きざま、そこから生じる「切ない」「嬉しい」のような様々な感情、それを演奏が作品が代弁してくれたからこそ、その曲を弾いている自分がいるのでは?

ジョンさんの演奏。トレネ~ワイセンベルクの「4月にパリで」を弾いている。下方向だけではなく、次の音の準備、つまり用意してからのタッチのようなものが、もう少しあると、表現として聴き手に、より伝わるのではないかとも正直感じる。でもションさんは自分の感情を代弁してくれた作品を、代弁してくれた諸要素を見事に表出しているようにも思う。この演奏には惹かれる。それは聴き手として、ジョンさんの切なさ、そのような感情を作品を通して人間として共感できるから。

kaz




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