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ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

開拓者のショパン 

 

僕は全くコンクール史のようなものには詳しくはないのだが、おそらく日本人で初めてショパン・コンクールに挑戦した人、原智恵子ということになるのではないだろうか?

1937年、昭和12年に原智恵子は第3回ショパン国際ピアノ・コンクールに参加している。日本人、いや東洋人がピアノを、それもショパンを弾くなんてこと自体が珍しがられた時代だったのではないだろうか?「日本?日本ってあの東洋の島国?」のような?「日本人(東洋人)にショパンなんて弾けるの?そもそもピアノが弾けるの?」みたいな?

音楽市場、当時の日本、東京の地位は今とは異なっていただろうし、音楽的国力みたいなものも違っていただろうと想像する。つまり西洋音楽後進国のような?突然登場した日本人・・・だったのかもしれない。パリ仕込みではあったものの、開拓者としての日本人。

結果は15位・・・ということだったらしい。現在までの日本人の最高位は第2位なのだから、単純に考えると、それほど輝かしい成績ではないのかもしれないが、「ものがたりショパン・コンクール」(著:イェージー・ヴァルドルフ)には、第3回コンクールでのある事件について触れられている。

日本人女性の成績が予想に反して低かったために、会場の聴衆は審査員にブーイング。会場は騒然となり警官隊が出動する騒ぎに発展した。この混乱状態を救ったのがメイエールという富豪。彼が審査員にこう提案した。「聴衆賞をあの女性に与えたらどうかね?」と。この聴衆賞のおかげで聴衆も静まったとされる。

原智恵子のショパンのコンチェルト・・・この演奏はコンクール当時のものではなく、マダム・カサド時代の演奏。何と言ったらいいのだろう?まず感じたのは「外国人の演奏みた~い」ということ。これは偏見に満ち満ちた感想かもしれないが、まずそう感じた。大正生まれの、セピア色のピアニストがこんな演奏をしていたなんてとは感じなかった。ただ外国人のようだ・・・と。

内側から迫ってくるような?ただ達者に音符を弾いています・・・のような演奏ではないと。この曲はこのような曲なんです的な、説明的演奏とも異なる。すべてが弾み、訴えてくる。聴き手に入り込んでくるような方向性の演奏と感じる。なので外国人みたい、つまり日本人ではないみたい・・・と感じたのだろうと思う。

当時、原智恵子の演奏から、何かしらをピアノ教育界は感じた可能性がある。「何かが彼女は違う、何かが自分たちとは違う」と。現在、その感覚は過去のものになったのだろうか?情報も、ピアノ人口も当時とは異なる。つまり世の中豊かになった。でも「音楽的に弾けない」という悩みが過去のものになったとは思えないような気もする。

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愛の二重奏 

 

子どもの頃「世界音楽全集」のようなレコードが家にあり、数々の名曲はそのレコードから知った。その中のチェロ名曲集のレコードにはガスパール・カサドの演奏が収録されていた。たしかピアノは日本人女性の名前だったと・・・

原智恵子という大正生まれの日本人ピアニストの演奏を初めて聴いたのは、たしかその時だったのだと思う。もうそのレコードは手元にはないが、同じ内容のCDは所有している。カサドのチェロにもだが、ピアノの音色を聴いていると、何とも言えない感情がわき起こってくるようだ。

大正時代、ピアノ奏法の情報など、何もない時代だったはずだ。ピアノを弾く、習うなんて深窓の令嬢以外にはいなかった・・・のような時代?実際に原智恵子は深窓の令嬢だったのだと思うが、その腕前は淑女のたしなみという域を超えていた。幼い頃習っていた先生はペドロ・ビリャベルデというスペイン人の先生。そのままフランスに渡り、パリ音楽院でラザール・レヴィに師事するから、日本のピアノ派閥のようなものとは無縁だった人と言える。

日本帰国後もパリ仕込みをそのまま日本に持ち込んでしまった、これが彼女の不幸だったのだろうか?楽壇の重鎮からは「生意気な女だ」「女が男に意見するなんて」と反発されたようだ。

当時の日本、パリ仕込みのピアノはどう聴こえたのだろう?聴衆は夢中になった。当然人気ピアニストの地位を確立した。そのことにより、さらに重鎮たちの攻撃は増す形となった。「原智恵子 伝説のピアニスト」(石川康子:著)という本を読むと、重鎮たちの当時の攻撃は、まさに「イジメ」のような感さえ抱いてしまう。

夫の浮気、離婚・・・となるのだが、離婚が成立する前に原智恵子はカサドと愛の逃避行。当時は週刊誌などでかなり騒がれたらしい。「子どもを捨てた鬼のような女」と。智恵子の離婚が正式に成立すると、二人は結婚した。

原智恵子  44歳  再婚      ガスパール・カサド  61歳  初婚

「智恵子が結婚のやさしさを私に感じさせてくれました。もう20年早かったら・・・と残念に思います。智恵子が私の最初で最後の恋人であり、妻であります」ガスパール・カサド

二人は「デュオ・カサド」として日本にも来日(!)するようになる。この時、日本の重鎮たちは彼女をどう迎えたのだろう?ヨーロッパの音楽界、社交界に君臨する「マダム・カサド」をどう迎えたのだろう?かつての生意気な原智恵子ではないのだ。あの巨匠、ガスパール・カサドの夫人なのだ。

手のひらを返したような扱いをされた時、原智恵子は本当の意味で日本を見限ったのかもしれない。

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「チャイコフスキー・コンクール」を柔らかい頭で読む 

 

中村紘子著「チャイコフスキー・コンクール」という本はピアノ教育界に、ある意味衝撃を与えたのではないかと思う。今ではピアノ用語のような感さえある「ハイフィンガー奏法」という言葉も、この本が発祥だったような気がする。かつての恩師、その流派の奏法を否定するような内容でさえあったのでは?そこまでしてでも日本のピアニズム、教育界を変えたかったのかもしれない。

すっかり定着したハイフィンガー奏法という言葉、今では「ハイフィンガーは古いのよ、今は重力奏法よ。さぁ、皆で重力よ」みたいな、皆でワーッとそちらに走っているような?これでは、かつてのハイフィンガー全盛期(?)と同じでは?

「先生は歌うように弾きなさいと言った。自分でも歌えていないなとは思う。でも具体的に何をすればいいんだろう?練習すれば自然と歌えるようになるとは思えない。歌う弾き方ってあるの?そうだとしたら先生は何でそれを具体的に教えて下さらないんだろう?」ピアノの前に座り悩んでいる人、今とても多いんじゃないかな?弾けない困難なパッセージを弾けるようにする、つまりミスなく音を並べる・・・だったら自分でも練習できる。でも歌い方とかって?

ハイフィンガーはダメなんだって。今の流行(?)は重力奏法、脱力奏法なんですって・・・

先生に言われる。「音が固いわね。脱力が足りないわ」そうだとしたら、具体的に何を私は日々の練習ですればいいの?脱力してだけじゃ分からない。固くない音って、どうやったらできるの?私だって柔らかな音で弾きたい。教えて・・・具体的に教えて・・・

「チャイコフスキー・コンクール」で衝撃だったのは、具体的奏法の記述もだが、それ以上に日本人ピアニストにある、ある種の平坦さ、これは文化とか日本人特有のはじらいとか、歴史とか、そのようなことが理由ではなく、基礎的な弾き方に問題があったのだと言い切ったところだろう。「えっ?弾き方?そんな基礎的なこと?」

ハイフィンガー奏法を脱する、それも重要なのかもしれないが、まず最初にこの本から学ぶべきことは、「平坦さ、歌不足のような、人を惹きつけない演奏は、奏者の感受性とか才能とかいうよりことよりは、基本的な弾き方にある」ということかもしれない。

「私ったらダメね」と追い込んでしまう前に「平坦な演奏は弾き方に問題がある。さらにその弾き方を習っていないから」と考えてみたらどうだろう?

具体的な弾き方、それも難しいことなのだろう。練習では、ため息の連続かもしれない。でも「何をしていいのか分からない」よりはマシなのではないだろうか?

この本の読まれ方として、どうも「昔はハイフィンガー、昔のピアニストはたいしたことない」みたいに読んでしまう人が少数存在するようで、それも残念なことだと思う。ダイエットの使用前、使用後のように昔の日本のピアニストと今の日本のピアニストは違うのだ・・・みたいな?これは昔のレベルはたいしたことない・・・みたいなことなのだろうか?「藝大?今の藝大じゃないんでしょ?東京音楽学校じゃない。その頃のレベルなんてたいしたことないよ」とか「フジコ・ヘミング?ハイフィンガーの旧式な昔の弾き方の典型じゃないか?今のレベルとは違うさ」みたいな?

個人的には、昔も素晴らしい人はいた、そう思う。時代がどうであっても。現代のスターでも平坦な演奏をする(と僕が感じる)演奏家はいくらでもいる。ピアノってダイエット薬とも違うし、フィギュアスケートのジャンプとも違う。昔は4回転なんて跳ぶ人はいなかった。でも往年の選手が現代の選手に劣っているとは思えない。

「ああ、音を並べただけ。音楽的に歌うようになんて無理なんだわ。才能ないんだわ」そうではなく弾き方に問題があるのかも?弾き方に直結させるべき楽譜の読み方、捉え方とか、もしかしたら具体的にそのようなことを教えてもらっていないのかも?

「昔の日本人ピアニストなんてたいしたことないのね」そうではなく、自分を表現していた人もいる。

中村紘子著「チャイコフスキー・コンクール」を柔らかな頭で再読してみたらどうだろう?

この人の演奏を知った時はショックですらあった。1950年代の録音。1941年生まれのヴァイオリニスト。父親にヴァイオリンを習い、来日していたハイフェッツに絶賛された。「君、素晴らしいね。ニューヨークで勉強してみないかい?ジュリアードという学校にガラミアンという先生がいる、推薦状を書いてあげよう・・・」

明るい未来が開けているはずだった。でもそうはならなかった。彼は多量の睡眠薬を飲み自殺している。未遂だったが、脳に損傷が残った。ヴァイオリンを弾くことはできなくなった・・・

渡辺茂夫、13歳の時の演奏・・・日本のセピア色も素敵じゃないですか?

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アリオーソ 

 

6月30日のリサイタルは3部構成を考えている。2部の終わりでインターミッション、そして3部。まぁ、普通かな・・・と思う。

1部のテーマが「愛と死、そして昇天」だろうか?すべての感情を経験した人生。肉体は死んでも魂は残る。その魂は愛と光に包まれている・・・

グラナドス「愛と死」の後に、バッハ~コルトーの「アリオーソ」を続けて演奏したい。

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昇天・・・死後の世界 

 

「悪いことをすると地獄に行くんですよ。いいことをした人は天国に行けるんです」子どもの頃知った概念。今は無償の愛というものを知った人は、その愛に包まれ、すべての人が天国に行けると思っている。

ただ、愛に包まれる直前、後悔する人もいる。「ああ、本当の自分を見つめるのが怖くて人を攻撃ばかりしていた」「ああ、勇気を持って挑戦しておけばよかった」多くの人は死ぬ瞬間、それまでの人生において、失敗したことではなく、やらなかったこと、挑戦しなかったことを後悔するのだそうだ。地獄の概念、これって後悔しながら死んでいく人を現したのではないかと・・・天国へは行けるけれど、通過しなければならない苦しみが、後悔と共に死ぬ人には待っている・・・

ゴイェスカス、「愛と死」の次の曲は「亡霊のセレナード」という曲。コルトーに献呈されたゴイェスカスの終曲。マホが幽霊となってセレナードを歌うわけです。スッキリと旅立てなかったマホ・・・後悔を感じつつ死んだマホ・・・

「愛と死」その後、魂はどうなるのだろう?それを音楽で表したかった。「愛と死」の後に、グラナドスの「亡霊のセレナード」を演奏すれば、それは叶う。でも完全に個人的感覚なのだが、「亡霊のセレナード」には後悔という念を感じてしまう。だからこそ哀しいのだが、僕は、すべてが許され、後悔もなく光と愛に包まれ旅立つ音楽を求めた。喜びとか哀しみという、生前の人生で感じた感覚を超越した、ただ愛と光だけを感じるようなサウンド、そのような曲を弾きたいと思った。

グラナドスの「愛と死」では、人が生きている間に感じる、すべての感情、裏切り、後悔、嫉妬、喜び、受容、恐れ・・・そのような人間感情のすべてが表現されているように感じる。ではその後、光と愛に包まれ、魂は昇天していく瞬間のサウンドはどうなのだろうと・・・

人間感情を超越したようなサウンド・・・そのようなサウンドの曲を「愛と死」の後につなげることで、「愛と光に包まれた魂の昇天」を表現したくなった。グラナドスは「愛と死」の後、「亡霊のセレナード」で哀しみの後悔を表現した。僕は愛と光に包まれた世界を表現したいと・・・

「亡霊のセレナード」を献呈されたアルフレッド・コルトー、彼が、あるバッハ作品をトランスクリプションしている。その曲は「アリオーソ」と呼ばれる。この曲はどうだろう・・・

この「アリオーソ」という曲、ある映画のラストシーンと重なる。アメリカ映画で、僕などは、つい最近の映画という感覚だったけれど、もう28年前の映画なんだねぇ・・・

このシーン、バッハ~コルトー「アリオーソ」の世界と重なる。魂の昇天、愛と光に包まれた昇天、死後の世界・・・後悔はない・・・

愛と光だけ・・・

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グラナドスを取り巻いたサウンド 2 

 

リカルド・ビニェス、フランス印象派の作品が好きな人には馴染みの人かもしれない。ラヴェルやドビュッシーの主要な作品の初演者として知られている。初演した作品には、作曲者から献呈された作品も含まれる。つまりラヴェルやドビュッシーから「ビニェスにまかせれば安心だ」のような信頼関係があったということだろう。

ドビュッシーの「ピアノのために」「版画」「映像」「喜びの島」、ラヴェルの「水の戯れ」「亡き王女のためのパヴァーヌ」「鏡」「夜のガスパール」を初演している。当たり前なこととして、ビニェスは初演者なわけだから、音源を参考にすることはできなかったわけだ。自分が初・・・なのだから。また曲を演奏する動機としても「キャッ!素敵な曲。弾いてみたい!」みたいなサウンドを聴いて感動したからというのとは異なるものだったはずだ。まぁ、楽譜を見ればサウンドは鳴ったのかもしれないが。でも手書きの楽譜で譜読みをしたのかな?なんだか想像できない。

グラナドスからビニェスに献呈された「燈火のファンダンゴ」はゴイェスカスの中で最もスペイン郷土色の濃い作品に思える。これはグラナドスがビニェスに同国人としての血を感じたからかもしれない。ビニェス=フランスものというイメージが強いが、彼はスペイン人なのだ。

ラヴェルにもドビュッシーにもスペイン色の強い曲があるが、これは彼らのスペインというパリから見た異国情緒・・・のような憧れから作曲されたように今まで思っていたが、もしかしたらリカルド・ビニェスというピアニストの存在そのものが、フランス近代におけるスペイン情緒を感じさせる曲を生み出させたのではあるまいか?

ビニェス、プーランクのピアノ教師でもあり、モーリス・ラヴェルとは友達以上の関係があったのでは・・・と噂されている。

ビニェス本人の演奏って、あまり聴く機会はないよね・・・

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グラナドスを取り巻いたサウンド 1 

 

ゴイェスカスの各曲は当時の卓越したピアニストたちに献呈されている。

「愛の言葉」(エミール・フォン・ザウアー)  「窓辺の語らい」(エドゥアール・リスラー)  「燈火のファンダンゴ」(リカルド・ビニェス)
「マハとナイチンゲール」(この曲だけは妻のアンパロに)  「愛と死」(ハロルド・バウアー)  「亡霊のセレナード」(アルフレッド・コルトー)

ゴイェスカスはグラナドスのピアノ技法への情念(?)が込められていて、演奏は非常に至難。「手は3本ないんですけど?」のような?当時グラナドスを取り巻いていたピアニストたちのピアニズムと無関係ではないだろうと思う。

エドゥアール・リスラー、この人はあまり馴染みのない人だが、全曲もの演奏会の創始者的存在の人。ベートーヴェンのソナタ全曲演奏会とか、当時としては斬新なプログラムを組んでいたようだ。レイナルド・アーンとも親しく、彼のピアノ曲を初演したりもしている。シャブリエの「気まぐれなブーレ」を献呈され、フォーレの「ドリー」をコルトーと共に初演した人でもある。

僕の弾く「愛と死」を献呈されたハロルド・バウアー。この人は最初ヴァイオリニストだった。パデレフスキの「君の髪は見事じゃないか?ピアニストになったらどうだ?」という意味不明(?)なアドヴァイスによりピアニストに転身(?)した人。まさか本当にパデレフスキの言葉で転身したわけではないだろうが。ドビュッシーの「子供の領分」を初演した人でもある。

グラナドスから献呈された名ピアニストたち、現代のスターピアニストたちの響きが「鋼鉄の連なり」とすれば、まさに「真珠の連なり」のようなサウンド。バリバリではなく、どんな難所もコロコロ、キラキラ・・・軽いのだ。

グラナドスはそのような真珠の連なりピアニズムを想定していたのではないだろうか?

ハロルド・バウアーの演奏。オシップ・ガブリロヴィッチと組んだアレンスキーのワルツが素晴らしい。鍵盤をコロコロと駆け巡る・・・のような?ガブリロヴィッチ、この人はロシアのピアニストなのだが、ある意味非常に厳しい、ある意味非常に当たり前のような言葉を残している。

「理想的な奏法、打鍵法について明確な言葉で説明できない教師は生徒を指導するべきではない」

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無償の愛 

 

「ああ、ゴイェスカスのオペラ化が実現して良かった」エンリケは心底満足し、穏やかな大西洋の海原を見つめていた。オペラの上演は難航した。戦時下でヨーロッパの歌劇場での上演は困難を極めた。戦争が終結するまで上演は無理だと思っていた。でもメトロポリタン歌劇場が実現してくれた。エンリケは満足感に浸っていた。

ゴイェスカス、「マハとナイチンゲール」美しいこの曲だけは他人ではなく、あなたに捧げたかった。「ああ、アンパロ、最愛の私の妻。あなたはあの曲を気に入ってくれただろうか?」アンパロは夫に批判めいたことは一切言わない。そんな人なのだ。いつも自分を陰で支えてくれた。僕も彼女に訊くことなんてできない。口下手だし、音楽でしか自分を表現できたためしなどないのだ。「あの曲は私のあなたへの愛の証しなんだよ・・・」

オペラでの「マハのナイチンゲール」、アンパロ、あなたは気に入ってくれたのかい?訊ねてみたかった。でも訊けない。海原を二人で見つめているだけだった。

エンリケは何が起こったのか分からなかった。どうして自分は波にもまれているのだろう?無我夢中になりながら、差し伸べられた手をつかんだ。救助船に逃れてエンリケは乗船したエセックス号が攻撃されたということを知った。「ドイツのUボートに攻撃されたらしい。沈没するぞ!早くこちらへ・・・」

「アンパロは?彼女はどこにいる?」エンリケは必死に妻の姿を探した。「アンパロ?アンパロ?」

エンリケは波間でもがいているアンパロを見つけた。「私の妻だ。あそこで溺れている。助けてください・・・」「もうあの位置では無理です。あなただけでも助からなければ・・・」

「アンパロ・・・」

「ああ、無理です・・・やめなさい」

エンリケはもう一度大西洋の海原に飛び込んだ。「アンパロ?どこにいるんだ?」

救助船からは波間に沈んでいくエンリケとアンパロの姿が見えるだけだった。


「マハとナイチンゲール」・・・この曲は、あなたへの僕の愛の証しなんだよ。オペラ版も気に入ってくれたかい?アンパロ? 


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愛と死 

 

6月のリサイタル、まず冒頭に演奏したいと思ったのが、この曲。グラナドスの「愛と死」、ゴイェスカスを最初に弾くというのは一般的ではないのかもしれないが、でもリサイタルの曲目で最初に決めたのがこの曲だった。冒頭の曲として聴きやすい曲ではないのかもしれないが、自分にとって最も弾きやすい曲という観点で選曲した。聴き手主体ではなく自分の都合中心に決めてしまって申し訳ありません。

この曲は人生ドラマそのもの、そう感じる。マハとマホが出逢い、恋に落ち、互いに傷つけ合い、そして二人は無償の愛というものに気づく。その時にはマホには死期が近づいていた。愛に包まれながら、マホに近づいてくる弔いの鐘をマハは感じる。でも愛は永遠・・・壮大でロマンティックで、そして感傷的ですらある。

楽譜にグラナドスはこう書き入れている。「苦痛の中の幸せというものを最大限に表現してください」と。グラナドスという人は実際に無償の愛というものを知っていた人なので、この言葉は非常に重みがある。

エリザベス・キューブラー=ロスは著書「死ぬ瞬間」の中で死への五つの段階を示している。癌=死という時代、癌を宣告された人の気持ちの変化を分析したもの。

1 否認  自分が死ぬなんて、そんなことありえない
2 怒り  どうして私だけが?
3 取引  癌で死なないのだったら、何でもします。悔い改めます。だから・・・
4 抑うつ もうダメなんだわ・・・残る否認
5 受容  すべてを受け入れる段階

なんともヘビーだな・・・

ゴイェスカスの「愛と死」は、キューブラー=ロス博士の五段階をサウンド化したものに感じる。むろん、時代的にはグラナドスの方が先だし、死というものだけではなく、そこに至るまでの過程を「愛と死」は描いていると思うけれど・・・

壮大なドラマ「愛と死」は実はゴイェスカスのラストの曲ではない。でも実質的には終焉を描いたものに思う。この曲の次の曲が実際にはラストの曲となる。第6曲「亡霊のセレナード」・・・マホは亡霊となってしまうわけです。なので人生ドラマとしては、「愛と死」で一度ゴイェスカスは完結しているように感じるのだ。

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込めるよりも引き出す 2 

 

感情を込める・・・というよりも、魅力として成り立たせている諸要素を引き出していると感じるフィギュアスケートの演技。カタリナ・ヴィットと、あとはこのミシェル・クワンのショートプログラム。他にもあると思うけれど、まず連想したのが、この二人の演技。

音の高低とか、何故この音だけ音価が倍なのだろうとか、この休符はどうしてあるのだろう・・・とか?引き出してみる。

クラシック音楽を聴くのが好きな人って、演奏者が引き出しているものを感じたいのかもしれない。皆が同じ曲を弾く。ラフマニノフのピアノ協奏曲のCDなんて何種類あるのだろう?でも聴く。曲は同じでも「引き出されているもの」が違うから???

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込めるよりも引き出す 

 

多くの人はアムランの演奏するような曲をノーミスで、高速で弾きたいと思っているわけではないと思う。シフラの編曲ものを、シフラ本人よりも10秒速く弾き切りたいとか、そう願っているわけでもないと思う。

「聴いている人がハッと感じるような、そんな表現力を身につけたい」という想いの方が強いのでは?ただ音を並べましたではなく、音楽的に、表現豊かに・・・

音楽的な表現、ややもすると感情を込めて弾くとか、そちら方面に走ってしまうことはないだろうか?心を込めて・・・とか。

演奏者側がウッフ~ン・・・ではなく、逆に、曲の持つ特色、魅力として感じられる諸要素を感じ取り、引き出す・・・みたいな感覚も必要なのではないだろうか?

音楽が魅力あるものとして成り立っている要素を引き出す・・・実はピアノ弾きよりもフィギュアスケーターの方が長けている例もあるような気がする。ピアノ教育界よりもスケート界の方が、技術と表現との関連性をより深く考え、実践できているような?

表現力のあるスケートの演技、恍惚の表情をして、感情を込めれば芸術点が伸びるなんてスケートのコーチ陣は誰も思っていないはずだ。

往年の名選手と言われるスケーターは、音楽の持つ特色を引き出す能力に長けているように感じる。音楽が細かな動きに変化すれば、細かなステップを踏んだり、長い旋律になれば、滑らかに滑ったりとか。音楽と振り付け、実践(滑り、演技)が完全に一致している。そのような演技って「感情を込めて・・・」というよりは、引き出す、落とさずに、流さずに滑りとして具現化しつくすという印象を持つ。

カタリナ・ヴィット、表現力のある名選手として知られている。彼女の演技の中では、このショートプログラムの演技が最も好き。あの有名な「カルメン」よりも。

ただなんとなく感情を込めて・・・ではないような?音楽の細かな特徴、例えば、ちょっとした休符なども流さずに表現している。音楽の変化と振り付け、動きが完璧に調和している。観ている方は「表現力あるなぁ・・・」と感じる。これってヴィットが感情を込めているからだろうか?ウッフ~ンと心を込めて滑っているからだろうか?それもあるのかもしれないが、何かを込めるというよりは、引き出しているという印象を強く持つ。

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何故ジャズの人って緊張しているように見えないの? 

 

大概本番での演奏って上手くいかない。「う~ん、60パーセントの出来か?」みたいなことは多い。80パーセントの出来なんて今までないんじゃないか?指先に念が入らず、肘あたりでストップしてしまうような感覚に本番では悩まされる。色々と思う。「こんなはずではないのに」みたいな?

「家ではもっときちんと弾けてたのよ~」

「ミスなんて関係ないわ。音楽よ~」と開き直る、本番直前ならまだしも、練習段階でそう思うことは僕の場合はできない。底なしに落ちていくような?

本番で上手くいかなかった時って、曲と最初に出逢った時の感動というのかな、実際の演奏はどうであれ、自分自身納得できないような、悔しさを感じる時って、曲との出逢いの時の想いと完全に分離してしまっている時だと思う。細かなミスに心を奪われ「あっ、やっちゃった」「あっ、ここもダメだし・・・」みたいな?演奏後は日頃の40パーセントの自分がいる・・・

クラシック音楽は再現の芸術とされている。皆が同じ楽譜を弾くわけだし。たまにジャズの演奏を聴くと、演奏しているご本人たちはどうだか分からないのだが、自分たちクラシックの人よりも緊張していないような、あがっていないような印象を受ける。自分の場合を考えてみても、歌曲やギター曲を自分で編曲(耳コピ)して演奏した時は、普通の(ショパンとか?)クラシックの曲を演奏する時のようには緊張しない。演奏後も何故か〇パーセントの出来・・・とか思わない。この場合、何かを「再現」という意識が希薄なのだと思う。内側から出るもの、それに素直に乗せていくみたいな感覚の方が大きい。

緊張、あがり・・・というものと、再現しなければという意識は密接な関係にあるのかもしれない。的中率みたいなものを重視してしまうと、〇パーセントだわ、家ではましだったのよ・・・みたいな?でも実際には決められたものを再現するわけだし・・・

曲との最初の出逢い、その時の想い、心の動き。譜読みを開始した途端、そのようなものは離れてしまって、「弾けるように」「弾けた時の再現が本番でもできるように」とだけなってしまうと苦しくなってしまうのではないか?

クラシック音楽って「再現音楽」なのだろうか?忠実なる再現?

コンポーザー・ピアニスト、このような人たちって、自分で作曲をしたり編曲をしたりする。例えば自身のトランスクリプション作品を演奏する時、彼らは「再現」とか「練習の成果」とか「的中率」「出来栄え〇パーセント」とか考えているのだろうか?

ハイク・メリキャンというピアニストをご存じですか?たしかアルメニアの人だったと思う。来日もしていますね。でも日本でメジャーとは言えないような?彼は自身のトランスクリプション作品を弾いたりしている。

ヘンデル~メリキャン「私を泣かせてください」を演奏している時、演奏者メリキャンの頭の中はどうなっているのだろう?再現?

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チマチマと大雑把、共存してみる・・・ 

 

楽譜を視覚的に読んでいく。「えっと、ドレミ・・・」そして読み取ったドレミを鍵盤で弾く。音が鳴ると嬉しい。憧れの曲が実際に音として再現されていく、興奮のひと時なのではないだろうか?でも実際にはドレミのつもりが、ドレレとかドレファと間違えてしまうことが多い。

部分練習ということになる。多くの場合、ゆっくり練習、リズム練習・・・ということになるのかもしれない。先生から「この部分を丁寧に練習しましょう」などと言われた時、大概は「ゆっくり」「反復」「リズムを変えて」とかになるのかもしれない。

僕の場合、反復とかテンポを落としてゆっくり・・・というよりは、足し算方式のような?説明が非常に難しいパッセージ練習ではある。「ピアニストは語る」(エリス・マック著 音楽之友社)という本の中でアルフレッド・ブレンデルが僕と同じ練習方法を紹介している。僕がブレンデルと同じ・・・という言い方の方がいいかな。

「私がエドワルト・シュトイアマンの教授法で高く買っている点のひとつなのですが、シュトイアマンは生徒にパッセージを速いテンポで練習させるのですが、パッセージを、もっと小さい部分に分けるのです。ある個所をある弾き方で弾きます。次に二番目の部分を弾いて、最初の部分につなげます。ただしテンポはゆるめないで。生徒がそのパッセージを弾き終えるまでこのやり方が続きます」

普通はドレミファソというパッセージを分けずに、ゆっくり弾いたり、リズムを変えたりするのではないだろうか?ドレミファソを細かく分ける。ド、ドレ、ドレミ、ドレミファ・・・のように。音そのものだけではなく、フレーズも同じように足し算方式で加えていく感じだろうか?テンポはゆっくりしないのがコツ。

かなりストイックな練習方法だと自分でも思う。何の曲を練習しているのかは、細部すぎて人は分からないはずだ。まぁ、練習を聴いている人はいないけれど。隙間時間で練習する人は、一度はこのシュトイアマン方式を試みてもいいかもしれない。結構チマチマと辛いです。

このチマチマとしたシュトイアマン方式とは真逆の練習方法、「ワーッと弾き」を最初の譜読みでする。普通は一つ一つの音を読んで、つなげていくのが譜読み。細部を読んで全体にしていくというか?これとは逆に最初に全体をワーッと弾いて、その後にチマチマとシュトイアマン方式に移る。

最初にワーッと・・・パッセージなどは弾けないです。当然。なのでなんちゃって弾きです。でも主要な旋律の流れと、ハーモニーを大雑把に捉えて弾いていく。これは耳コピに近いというよりは、3段譜をピアノで弾く感覚に近い。どこかを端折り、でも曲として成り立っている主要なものは拾って弾いていく。正確に印刷された音を弾いているわけではないので、なんちゃって弾きではあるのかもしれない。

オペラのアリアでも歌曲でもいいけれど、好きな曲を弾いてみる。ピアノ用にアレンジされた楽譜ではなく、声楽用の楽譜。そこにはピアノのパートと歌のパート、3段になっているはずだ。楽譜通りには弾けない。手は3本ないのだから。なので、どこかを適当に(?)省き、省けない音を拾い、ピアノソロの曲のように弾いていく。

これは全体を捉えるという意味で、とてもいい練習になると思う。この感覚でピアノ曲の譜読みする時にも応用してみる。印刷された音を拾う、読む・・・ではなく、全体を読むというか?これだと「一応弾けてから音楽的なことを考える」というよりは、全体構成、全体像をまず捉え、その後そうなるための細部磨きみたいな感覚で練習ができる。細部磨きはシュトイアマン方式に僕の場合はなる。

「イタリア古典歌曲集」みたいな楽譜を買ってくる。厳密にはアリアだけれど、そんなことはどうでもいい。「私を泣かせてください」というヘンデルの曲、シンプルながら3段譜になっているはずだ。これを「ウッフーン」というか、聴いた時の心の動きのまま弾いてみる。ドレミをドレレと弾いてしまっても気にせずに・・・

シュトイアマン方式と歌曲いきなり弾き方式、普通ではないのかもしれないが・・・

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しばらくぶりのリサイタル告知 

 

詳細は、このブログの「リサイタル 2018」というカテゴリーにある記事に書いてあるので、場所や時間、曲目などはそちらを参照して頂くとして、今年の6月30日にリサイタルを開催します。とてもこじんまりした会場なので、定員数までお客様を募らない予定です。定員いっぱいいっぱいだと、ピアノのすぐ前まで椅子がある状態になるし、キツキツという感じにもなるので、少し余裕を持ちたいと思っています。「このぐらいのお客様だったら客席もいい感じだな」と僕が思う人数を考えると、残席はあと10席程度かな・・・という感じです。

無料の演奏会だし、チケットもないので、当日来られない(忘れてしまう?)方もいるのかなと想定しています。なので、僕の理想定員に達しても、すぐには締め切らないのですが、席に限りがあるというのは事実ではあるので、ここに告知させて頂きました。

年度が替わってから、ブログにも、もう少し告知文章を書いていこうかと考えています。このブログのメールフォームから申し込んで頂くか、直接僕に会う機会のある方は、その旨お知らせ頂ければ大丈夫です。

さて、マリー・アントワネットだけれど、彼女の夫、ルイ16世の祖父、ルイ15世は、自分の子供たちの音楽教師にジョゼフ=二コラ=パンクラス・ロワイエという人を雇った。ルイ16世の父、ルイ・フェルディナンは、この人に音楽を習っていたということになる。つまり、ロワイエという人は、マリー・アントワネットや断頭の露と消えたルイ16世、彼らの親の世代が子どもの頃習っていた先生ということになる。ずばり1700年代の人。

「そうか、マリー・アントワネットの祖父母世代の音楽家というわけだな・・・」

ちょっとロワイエの鍵盤楽器作品を想像してみて頂きたい。どのような作品を残しているのだろう?どんな感じだろう?

1700年代、フランス宮廷音楽家、ヴェルサイユ宮殿、ルイ王朝、マリー・アントワネットのお祖父ちゃん世代・・・

もちろんスタインウェイのピアノなど存在していない時代・・・

重々しいドレスでも踊れるような、ゆったりとした曲?移動は馬車だった。新幹線などない時代。電話もスマホもないしね。なにもかもゆったりしていたのかな?

想像以上に闊達・・・そう感じた人は僕と同じ感想です。

kaz




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セピア色のガーリーな世界 

 

マリア・カラスのジュリアード音楽院でのマスタークラス、その講義録を読むと、次のような場面がある。「その旋律は一度聴衆は聴いているのです。同じ旋律を二回目に歌う時はヴァリアントをつけなさい」

生徒はジュリアード音楽院の学生なのだろう。その学生の教師は、偉大なるマリア・カラスのマスタークラスを自分の学生が受けるにあたり、入念な指導を行ったと想像する。なぜその声楽教師はヴァリアントなしで学生に歌わせたのだろう?

「そんな大事なこと、学生の感性に任せられないじゃない?」ということだったのだろうか?

ピティナの子ども(?)コンクール、4期時代課題というのは当然として、そうなると子どもにバロック期の作品を演奏させることになる。そこで問題となるであろうことは、やはりヴァリアント。昔、実際にピティナのコンクールを聴いた経験、そして最近動画でチェックして感じたのは、ピティナ側は、どうもヴァリアントを推奨しているようだ。実際にヴァリアント付きで演奏している子どもの演奏を聴いて感じるのは、「そのヴァリアントは子どもの自発的なものなのだろうか?」ということ。演奏者が異なっても同じヴァリアントが登場する場合、それは偶然なのかもしれないが、もしかしたら教師が指導している可能性もある。「こう弾きなさい」とヴァリアントを楽譜に書いてしまったり、決めてしまうのは、ヴァリアントの、もともとの成り立ちを考えると妙ではある。もし教師側が決めてしまっているのだったらという仮定の話だが・・・

クラシック音楽の世界で、ジャズのアドリブに似ているのが、このヴァリアントではないだろうか?つまりクラシック畑の人が苦手としている即興的要素。

バロック期、つまり昔・・・ですね?鬘族の作曲家たち、重々しいドレス、宮廷、教会、キリスト教・・・みたいなイメージ?「バッハはペダルをつけてはいけません」などと指導するピアノ教師、現在では少ないのだろうが、おそらくその理由は「当時にはピアノという楽器は一般的ではなく、バッハはチェンバロを想定して曲を書いた。チェンバロには現在のピアノのようなペダルはなかったのです」というものではないだろうか?「だったら最初からチェンバロで弾けばいいじゃ~ん?」などと、ひねくれた僕などは思ってしまうが、素直に受け取ってしまう生徒もいるかもしれない。

セピアの色が濃くなるほど、実はクラシック作品というものは、即興的要素が強かったのではないだろうか?ジャズみたいな?ジャズではないけど。ザハリヒな風潮は、作曲と演奏の分離が見られる最近のものだったら?演奏者個人の内なるもの、そんなものではなく偉大なる作品そのものが感じられる演奏がいいのだ・・・みたいな?作曲と演奏の完全分業の前の時代、長いクラシックの歴史、もしかしたら即興性が重んじられた時代だったと考えてみたらどうだろう?モーツァルトのコンチェルト、印刷された音符しか弾かないなんて演奏者、もしかしたら異端だったのかも?ショパンのワルツ、印刷された音符のみで演奏したら「なぜ何もしないの?」みたいな時代?

ヴィヴァルディの作品なんて、ロックのような鼓動を感じたりする。僕がおかしいのか?

セピア色のバロック時代、もしかしたら現代の我々が想像する以上に闊達でポップでガーリーな世界だったとしたら?

そんなことを考えていて浮かんだのがソフィア・コッポラ監督のこの映画。現代人が想像する以上に、マリー・アントワネット、ルイ王朝、ヴェルサイユのいう世界は闊達であったのかもしれない。固い儀式の裏でポップで人間的な世界。それは即興性とアドリブの世界・・・

「当時の宮廷にはマノロ・ブラニクの靴なんて存在していません。あり得ません」史実的にはそうだろうが・・・

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本番翌日の呟き 

 

緊張しない法則などはないということを再確認した。緊張はするもの。曲がどうであれ、過去にその曲を弾いたことがあろうと、なかろうと、それまでの練習量がどうであろうと緊張はする。

細部ばかりではなく、全体を・・・このスタンスで弾いたつもりだけれど、やはり自分のミスは気になる。凄く気になる。弾き終わった直後、こう思った。「今度はミスなく弾きたい」と。これを繰り返すのだろうか?ミスなく人前で弾けることなんかないだろう。そんな想いを抱えながらピアノライフが続き、そして終わるのか?「今度こそミスなく・・・」と願い続けるピアノライフ?

「まっ、ミスなんか気にせず細部なんかいいから楽しく練習いたしましょう」これだど際限なく自分が底に落ちていく気がする。

ジャズを弾いた人が複数いた。ベースに合わせ、自由自在に弾いていく。むろん楽譜は見ていない。絶対に直前まで楽譜とにらめっこして「忘れたらどうしよう・・・」などというのとは違っていたはずだ。楽譜もない?アドリブの部分などはそうだろう。メロディーとコードが頭に入っていれば、ジャズの人は弾けるのだろう。

「楽しそう・・・うらやましい・・・」

クラシックの人だけ?直前まで胃が痛くなるような思いをして、忘れたらどうしようみたいな?弾き終わったら「ああ、ミスしちゃった・・・」とどこかで自分を責める。クラシックって辛くない???

楽しそうに弾きたいと思った。技巧的な曲を「難しそうね」とか「大変そうね」と聴き手が感じる、それは避けたいと。自分はどうであれ、「楽しそうね」と感じてもらいたい。実際には、弾いている間「こんなはずでは」「家では弾けたのに」とか、そんなことばかり感じながら弾いている自分がいる。実に楽しくない。クラシックだけそうなの?

ジャズのアドリブの場合、弾く直前にサウンドが頭の中に鳴るのだろう。中から外・・・というイメージ?法則(コード進行とか)はあるのだろうが、クラシックの暗譜→再現・・・のような感覚とは異なるはずだ。

直前にサウンドが鳴る?ジャズではなくても、頭の中にサウンドが鳴れば、クラシックの人もジャズ感覚(?)で弾けるのでは?例えば「チューリップ」とか「メリーさんの羊」のような曲、クラシックの人でもいきなり弾けるのでは?別に五線譜に音符を書いて譜面台を立てなくても弾けるのでは?これって頭の中にサウンドが鳴るからでは???

子どもの頃、「カーネギーホール」という映画を観た。ストーリーなどは覚えていないが、当時カーネギーホールで活躍していた往年の名演奏家が出演し、演奏していた。むろん映画なので省略して演奏していたけれど、かなりの時間を演奏そのものに割いていたように記憶している。

ピアニストではアルトゥール・ルービンシュタインが出演し、「英雄ポロネーズ」と「火祭りの踊り」を演奏していた。英雄ポロネーズは、さすがに一部カットで演奏されていたように思う。この演奏、当時の僕には衝撃的ですらあった。何度も観たし、レコードでルービンシュタインの演奏を、それこそ擦り切れるまで聴いた。

元昭和のピアノ男子であれば、おそらく「男のくせにピアノかよ?」経験はあるのではないだろうか?僕にとってルービンシュタインの演奏、演奏姿は「ピアノって男のものだぜ」みたいなことを感じさせるに充分だったのだ。まさしく元少年の英雄になったのだ。

映画の中で聴いた曲、それこそ覚えるまで聴いた。頭の中でサウンドはなる。大人になってピアノを再開して知った曲、多くの曲はサウンドとしては鳴らない。スクリャービンのソナタとかシューマンのクライスレリアーナとか・・・

でも子どもの頃、繰り返し聴いた曲はサウンドがなる。弾いたことはなくても、楽譜を開いたことはなくても・・・

ジャズ感覚でクラシックの、サウンドとして鳴る曲を弾いてみたらどうなるだろう?サウンドとしては鳴るけれど、鍵盤の位置関係で混乱するかもしれない。楽譜を読んだことはないのだから、完璧に耳覚えとなる。つまり耳コピ?正確には弾けないのだろう。でもジャズ感覚、アドリブ感覚で弾いてみたら?アドリブではないけれど、頭の中に鳴るサウンドをそのまま鍵盤に託してみたら?

そして弾いてみた。結果は昨日その場にいた人だけが知っている・・・

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本番当日の呟き 

 

僕の演奏をリアルに知る人の中には、とても麗しい誤解をする人もいる。「kazさんて緊張とかしないんですか?」緊張しますね。していないように見えるのかもしれないが、緊張しています。本番当日の朝など、4時に目覚めてしまうほどの小心者なのだ。手も震えるし、緊張しますねぇ。

新しい曲を譜読みする時、まずは全体をワーッと弾く。この時は「なんちゃって弾き」状態である。細かなパッセージなど目茶目茶である。感覚としては3段譜をピアノで弾く感じだろうか?むろん全部の音は手は2本なわけだから弾けない、端折るわけだ。でも和音構成音などは、瞬時に把握し、メロディーも拾う。そしてワーッと・・・・

「そんなの変!」と言われる。多くの人は、譜読みというのは、印刷された一つ一つの音符を視覚的に読み、鍵盤に移し音にしていくようだ。その方法が一般的であるとすれば、僕の譜読みは「普通でない」のかもしれないが、部分練習は多くの人よりも徹底していると思う。なぜならピアノの練習は隙間時間を活用しているので、全体を通したらそれだけで終わってしまうから。おそらく、通して弾くというのは、譜読み段階、あとは本番・・・というのが僕の場合普通だった。

部分練習はいいことだ・・・みたいな世の中の風潮もあり(?)僕もそこに便乗していたように思う。出勤前にちょっと練習・・・みたいなパターンが多いので、部分練習しかできないということもある。譜読みから本番まで、総合練習時間は、おそらく人よりも僕は少ない。世のピアノの先生が延べの練習時間を知ったら卒倒してしまうのではないか?それぐらいに少ない。でも僕の生活の中心はピアノではない、仕事である。あとは生活。余りの時間をピアノに使うしかない。

練習時間が少ない、そのコンプレックスが部分練習に僕を走らせるということもあるのだと思う。

本番直前、自分の出番の直前に、それまでの「部分練習感覚」から、いきなり「音楽的にウッフ~ン」と自分を変身させることはできない。細部→全体という練習時の自分を引きずってしまう・・・

部分練習を徹底すると、どうしても細部→全体というイメージになる。人の演奏は細部ではなく全体を聴く。だから細かなミスは気にならないのだ。惹かれるか、そうではないか・・・で聴いたりする。つまり全体→細部という感覚で人の演奏は聴くのだ。

自分の演奏、おそらく本番では細部→全体という感覚を残したまま弾いてしまう。部分練習感覚が本番でも残っているのだ。なので細かなミスが異様に気になるのだ。

出掛けるまでに数時間ある。他人感覚で全体をチェックしてみよう。「あっ、ここ弾けない」ではなく全体を。人は全体を聴くしね。

アルフィー・ボーの声、安定性、誰もが上手いっ・・・と感じる歌唱、譜読み段階からそこを目指した。部分練習でも流麗さを目指した。部分練習を重ねるうち、アラン・ジャクソンのような「噛みしめる味」のようなニュアンスを忘れていた。初めて曲に出逢った時には感じていた何かを部分練習を重ねるうちに忘れていた。

今日はショパンを弾くので、アルフィー・ボー+アラン・ジャクソン、そして最近知った歌手なのだが、このピーター・ホーレンスの歌唱をプラスした感じで、細部だけではなく、全体を意識して練習してみようと思う。

自分が他人だったら、この演奏どう思う???この感覚。全体→細部・・・という本番法則。

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忘れていた歌声 

 

カントリー色の強い歌手って、あまり知らないし、あまり聴かない。でもアラン・ジャクソンの歌唱は心にズドンとくる。味があるというのだろうか?むろんアルフィー・ボーの歌唱にも愛と味わいを感じるけれど、この人の場合は、もっと異なった魅力を感じる。

いかにも美声、朗々と・・・という歌声ではないのね。ちょっとボソッとした味わい深い感じ。この人の歌唱も好きだ。

明日の練習会ではショパンを演奏するのだが、「ショパンを弾いてみたい」と思った時、僕の理想ショパンと近かったのは、アルフィー・ボーよりも、むしろこのアラン・ジャクソンの歌声だったような気がする。

練習を地道に重ねるうち、僕はどこかでアランの歌唱を忘れてしまっていた。

個人差、好みというものがあるので、なんとも言えないが、素直に僕はアラン・ジャクソンの歌唱をいいな・・・と思う。個人的に泣ける歌唱はアランの方なのだ。

本番ではアルフィー・ボーのように・・・と思って練習していたのだろうか?そうかもしれない。

特にこの曲のアラン・ジャクソンの歌唱は泣ける。でも残念ながら、何故に泣けるのか、自分では言語化できない。「味があるよね」ぐらいしか言えない自分がもどかしい。

その演奏の何が自分を惹きつけたのか?自分が魅力を感じた要素は?このあたりを自分で明確に言語化できるようになれば、アラン・ジャクソンも練習中に見えていたのかもしれない。

「あっ、いいな」と自分が感じた演奏、何が・・・どこが・・・ということをもう少し考えていければいいのかもしれない。

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本番前夜の呟き 

 

明日はサークルの練習会。正確には新年会だけれど、まぁ、練習会だ。一応人前で暗譜で曲を演奏するので、僕にとっては本番前夜ということになる。

去年の練習会で感じたことがある。家で練習している時と同じように弾くために練習会に参加しているのか?練習の時の70パーセントの出来とか、そのようなことを感じるために、わざわざ希望休を取って練習会に参加しているのか?

大きく首を振りたい感じだ。そうではないと。でも僕だけではないと思うけれど、日頃の練習は大切だと思っている。チマチマと僕もパッセージ練習はする。そして本番で練習の時できていたことができないと、やはり落ち込んだりはする。

日頃の練習に、「音楽的に弾ければいいのよ」「ウッフ~ンと弾ければいいじゃない?」「ミスなんて関係ないんじゃない?」みたいなことを持ち込んでしまうと失敗するような気がするし、それはそれで何かから逃げているような気もする。

なので練習する。でも「練習の時と同じように・・・」と本番直前に願うのは何か違うのではないかと・・・

解明できない謎がある。人のミスは気にならない。「いくつミスしたかしら?」なんて聴き方はしない。でも自分のミスは非常に気になる。その瞬間何かが崩壊したかのような動揺だ。これは何故なのだろう?人のミスは気にならないのだったら、自分のミスも他人はそれほど気にしていないはず。でも本番では「ミスは目立たないのだから・・・」とは思えない。

アルフィー・ボーしか目指していない自分が本番前夜にいる。

アルフィー・ボー・・・元自動車整備士見習いの歌手。「あなた、整備士ではなく歌手でしょ?」と言いたくなるような声だ。実際にそのようなことがあったので、歌手デビューした。理想の声、歌い方ではないかと僕は思う。ちなみに、僕はこの人好きです。

「歌が上手い人」という歌い方、多くの人が、この人の歌唱からそのような要素を感じるだろうと思う。上手い人典型の歌唱と言うのかな?

アルフィー・ボーがいいとか、よくないということではなく、本番前夜の僕は、ある歌手を忘れている。アルフィー・ボーしか見えていない。

続く

kaz




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価値観 

 

昨日はバレンタインデー。日本だと女性が男性に(義理?)チョコレートを送る風習があるけれど、米国では男女のカップルであれば、男性が女性に花束やバレンタインディナーなどのプレゼントを送るイベント(?)であったように記憶している。少なくとも僕が滞在していた東海岸はそうだったような?日本のクリスマスイヴのような盛り上がりに似ているだろうか?

地域によって風習、習慣、考えかたが異なるというのは非常に楽しい。一つの価値観の中で、自分はこうだ、ああだ・・・と悩んでいる必要がなくなる。

練習に行き詰り、「ああ、私ったらダメなんだわ」「才能ないんだわ」と思う。でもこれは一つの価値観。「ダメということを感じている自分は進歩できるわ」という考え方も一つの価値観。どうせ悩むのだったら人生楽しく過ごしたい。

旅客機に乗ると、客室乗務員がセーフティ・デモを行う。救命具とか避難通路の説明とか。日本系のキャリアだと、そのような時にも乗務員は完璧な、かつ上品な笑顔を絶やさない。さすが「おもてなしJAPAN」とさえ感じる。でも、あのデモンストレーションをきちんと見ている人、あるいはパンフレットを熟読している人っているのだろうか?

そのようなことが必要になるかも・・・と思ったら飛行機など乗れないのかもしれないが・・・

JALとかANAの「微笑みデモ」も一つの価値観。でも違う価値観があるって楽しい。どちらがどう・・・ということは別にして、異なるものがあるということが楽しい。

あるアメリカの航空会社のセーフティ・デモ。これって・・・

この乗務員の個人的考えで、このようなデモをしているのではなく、会社の方針みたいだ。会社としても「従業員に必要なもの、それはユーモアのセンスだ」というスタンスらしい。ちなみにサウスウェスト航空という会社です。

「この人たちに(この航空機に)自分の命を託していいものだろうか?」これも一つの価値観。「だって楽しいじゃない?」というのも一つの価値観。

色々ある・・・それが楽しいんじゃないかな?

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今さらの追悼 ティム・ハウザー 2 

 

マンハッタン・トランスファー、彼らのサウンドはジャズ?それともポップス?このあたりが明確でないところが彼らの魅力だったような気がする。「音楽、それじゃいけないのかい?」みたいな?

それでも、ドゥーワップ調というのだろうか、ジャズの曲をヴォーカライズした曲に彼らの真骨頂があったような気はしている。例えばこの「フォーブラザーズ」のような曲。

特にティム・ハウザーは、この種の曲だと生き生きとしていたような?実に楽しそうで、いかにも「音楽をしている」という感じだ。

これはウディ・ハーマンの、かつてのヒット曲だったのでは?

歌を器楽に、それもいいが、逆も非常に面白い。

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今さらの追悼 ティム・ハウザー 

 

いわゆる「洋楽」と言われるジャンルも好きだ。クラシックしか聴かないということはない。でもティム・ハウザーが亡くなっていたことは知らなかった。ティム・ハウザー・・・マンハッタン・トランスファーのリーダーだった人。スキンヘッドの人・・・と言った方が分かりやすいかもしれない。

洋楽、それは僕の子ども時代、青年時代の西洋への、とくにアメリカへの憧れ、そのものだったのだ。多くの若者と同様、僕もニューヨークに憧れた。刺激的そうで、自由そうで、エネルギーに溢れていそうで・・・

懐かしのノースウェスト機で初めてニューヨークを訪れた時、微かにマンハッタン・トランスファーの曲の数々が頭の中に鳴り響いた。「ああ、アメリカにいるんだ」そう感じた。

そう、彼らのサウンドはアメリカへの憧れそのものだったのだ。

ティムはマンハッタン・トランスファーの創始者であり、リーダーであったけれど、あまりソロを歌い全面に出ることはなかったように思う。支えの人という印象が強い。影でジャニス、シェリル、そしてアランを支えた。

最初はメンバーの入れ替わりも激しく、一時はグループも解散してしまった。その間、ティムはタクシーの運転手をしていたらしい。再結成した時のメンバー、ティムにとっては運命的出会いだったのかもしれない。

ティムの死に対して、とても衝撃が大きいのは自分でも意外だ。4年も彼の訃報を知らなかったからだろうか?自分の青春の憧れが消えてしまったからだろうか?なんだか泣きそうになるほど哀しい。

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抑揚と歌 

 

ショパンのノクターンOp.9-2を弾くとする。ややもすると細かなパッセージばかり練習してしまう。それが練習と疑問にも思わず。最初のメロディーのシ♭ーソ・・・「ソの方が高い音、シ♭よりも強くして」ソの音がバシン。左手の最初のミの♭、これもバシンという音。音は弾けている。でも・・・

「まっ、一応弾けてから音楽のことは考えましょ」本来まずやるべきことは、片手でシ♭ーソを素敵に弾けるか・・・では?一応音だけ弾けてから何をするの?もしかしてそこは強制的自立を先生から促されていたりしない?自分のどこかで「どうすればいいのかな?」と常に悩みながら・・・

一応弾けるようになってからではなく、最初にやるべきことを、実は後回しにしていたりして。フィンガリングを決めるとか、音配置や指配置をまず馴染ませる、だから最初は表現とか抜きで弾いてみる。これも「まずは」ではなく、表現と同時に進めた方が効率的ではないかと思う。フィンガリングも、ただ「弾きやすい」ではなく、そこには表現というもののためのフィンガリング決めという面もあるのでは?

もしかして、バイエルの最初から、それは必要だったのかもしれない。ただ音を弾くということで、何かがスルーされてきてしまった・・・

音の長さや高さを、ただ読んで鍵盤に移す・・・ではなく、イタリア語の抑揚は印刷された文字群には記されていないように、楽譜もその部分は記されていなかったとしたら?イタリア語をロボットのように発音して「なんだかな・・・」と感じるのと同じようなことを、ピアノでもやっているのかもしれない。

歌を聴いてみたらいいような気がする。ピアノの人って何故かピアノばかり聴く傾向はあるかもしれない。別にオペラやクラシックの歌曲に限定しなくてもいいように思う。目的は一般教養を身につけるためではなく、歌と言葉の流れから抑揚を感じるためなのだから。

歌にはピアノにはない歌詞、言葉が存在する。話し言葉の抑揚と似ているというか?さらに感情というものが、言葉と共に、音の高低、長短に凝縮されている。本当はピアノもそうなのだと思うけれど。

イタリア語の抑揚、そんなことを考えていて、ルーチョ・ダッラの「カルーソー」を思い浮かべた。ルーチョ・ダッラはクラシックのベルカント唱法で歌っているわけではない。ポップス系、ナポレターナのカンタウトーレ系の人だ。ベルカント的美声というのとは異なる声で歌っている。また「カルーソー」という歌、サビの部分は、いかにもイタリア~ンな感じだが、結構同じ音が連続した語りのような部分が多い。そこの部分が、この人はとても上手いような気がする。そのような意味で「印刷されていない抑揚」というものを感じやすいのだと思う。

感情を乗せる、音楽的に演奏する、この部分が後回し、もしくは「私には無理」とスルーされがち。ルーチョ・ダッラはカンタウトーレなので、この「カルーソー」も自作自演ということになる。往年の歌劇王カルーソーを歌っている。

自作自演なので、想いというものが直に伝わってくるのかもしれない。実際、この「カルーソー」にはエピソードもある。ルーチョ・ダッラがソレントに滞在していた時、自分の船(!)が故障してソレントにしばらく滞在しなければならなくなった。彼が滞在したホテルの部屋、実は、かつてカルーソーが死の直前、療養中に滞在していた部屋だったのだ。カルーソーは死の直前まで若者たちに歌のレッスンをその部屋でしていたらしい。その部屋からは海が見える。カルーソーが見た光景をルーチョ・ダッラも見た。そして「カルーソー」という名曲が生まれた。カルーソーはナポリの貧民窟で生まれた。アメリカで大成功を収め、その地で歌劇王と呼ばれた。咽頭の手術をし、血を吐きながら療養のため祖国に戻ってきた。

「この海は、今見えている月はカルーソーもかつて見たものなのだ・・・」


「カルーソー」  曲:詞  ルーチョ・ダッラ

ソレント湾に面したテラス 彼は海の上の灯りを見た
彼はさめざめと泣いた後 咳払いで声をととのえ歌を歌い始めた

アメリカでの公演の日々について考えながら
ただ漁師の灯りと船の白い波があるだけだった

彼はピアノから湧き出てくる音楽に苦痛を感じた
でも雲から現れた月を見た時、彼には死も心地よく思えた

彼はスクリューの波跡のような過ぎた人生を想う
それは紛れもなく終わりのある人生
でも彼はもうあまり考えなかった
そう、何やら幸せな気分になって
好きな歌をまた歌い始めた

「お前が好きだ とても好き とてもとても・・・分かるだろう?
 お前はその熱い血で こうして鎖を解き放ってくれる。分かるだろう?」





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全部が4分音符 

 

練習に行き詰ったら、今まで当たり前と思っていたことを考え直してみるといいかもしれない。発想転換。

「緊張しない方法は?」こうしたらいいということを色々とやってみても本番では緊張してミスしてしまう。このような場合、メンタル系の本を買い込んでしまうよりは、緊張しない・・・ではなく、緊張してもできることを考えてみる。発想転換。

練習はしないよりも、した方がいいと思うけれど、日々の練習の目的が、「本番も今と同じように弾けるように」つまり本番でも練習の時と同じように弾けるようにするために、何回も反復練習したりとか・・・

練習って本番のための保険なのだろうか?まぁ、「ここまでやったのだから」という安心感にはなるだろう。でも「ここまでやったのにどうして?」となることの方が多いかもしれない。発想転換。「本番でも同じように」ではなく「本番で同じようにいかなかったら、その時どう対処するか」という練習も日頃行ってみてもいいかもしれない。「いつも同じように」という発想ではなく、臨機応変さを身につける練習というのだろうか?そうなると、ただリズム練習や片手反復練習だけしていてもいけないのかもしれない。このあたりの問題は、あまりピアノ教育界で語られていないような気もする。ただ「練習してねぇ・・・」では弾けないのに。

音楽性、歌うように弾く・・・とか。これって感性とか才能のような曖昧なもので語られることが多いように思う。それこそパッセージをミスなく・・・だったら反復練習していれば弾けるようになるのかもしれないが、聴き手をハッとさせるようなニュアンスとか、そのノウハウのようなもの、このあたりもピアノ教育界で語られることが少ないように思う。

例えば外国人が日本語を話すと抑揚が自然とついてしまうことが多い。「とおーってもすてーきですね」ステーキ?素敵?

「とっても素敵ですね」を日本人のよう話すには?ある日本語教師はこう教えるのだそうだ。「日本語はすべて4分音符なんです。それしかないんです」と。

我々はピアノで逆のことをしているわけだ。抑揚のあるものを表現しようとしている。なんとなく弾いてしまうと、全部が4分音符の民族なわけだから、何かを意識しないといけないのかもしれない。「とっても素敵ですね」ではなく、「とおーってもすてーきですね」にある意味ではしなければいけないわけだ。

ピアノを弾くって、全部が4分音符ではなく、様々な音符、シンコペーション、リタルダンド・・・などが含まれた言語を話そうとしているのと同じなのでは?

「ピアノって全部が4分音符ではないんです」という発想。

視覚的に「あっ、4分音符ね」「あっ、ドとソね」と全部を4分音符感覚で音にするのではなく、例えばイタリア語を話す感覚で楽譜を眺め、音にしてみたらどうだろう?イタリア語話せないけど・・・

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We Are Family 2 

 

もし日本企業がマッケインフーズのようなCMを制作、そして実際に日本のお茶の間に流したらどうなるだろう?流れる・・・ということ自体想像できないけれど。

「一部の視聴者に誤解、不快な思いをさせてしまい申し訳ございませんでした。このCMは放送中止とさせていただきます」となるのかなぁ?訂正CMとして、お母さん(お父さんではダメなのね)と子どもたち、冷凍食品を笑いながら調理するお母さん、帰宅するお父さん、一家団欒・・・」のようなCMが流れるのでは?それも家族だけれど、すべてではないような?そうではない家族だって日本にもいるだろうに。

マッケインフーズは強気だった。先の動画は2017年バージョンだが、この2018年最新バージョンも訂正版にはならなかった。さらに「様々な家族」というものが強調されているような?日本だとレズビアンのカップルの登場が「あり得ない」のだろうか?

「愛にはジェンダーも、ルーツも、他の人がどう思うかも関係ありません」 マッケインフーズ

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We Are Family 1 

 

冬季オリンピック開幕。○○選手にメダル期待・・・というよりは、個人的には日頃観ないような競技に触れられるということが楽しい。例えばスノーボードとか、テレビ観戦は普通はしないけれど、オリンピックだと観る。「こんな競技もあったのか」的な面白さがある。

当たり前のことかもしれないが、まずは日本選手の活躍、結果が報道される。フィギュアスケートであれば、羽生選手はどうなるだろう?金メダル獲得を信じています・・・のような?日本人であれば、日本人選手の活躍を願うのは当然だが、日本人選手以外の、おそらく日本のテレビからは報道されないような話題を拾ってみた。アメリカのフィギュアスケーター、アダム・リッポン。そしてフリースタイルスキーのガス・ケンワーシー選手。アダム・リッポンは初めてのオリンピック。ガス・ケンワーシーはソチ大会で銀メダルを獲得している。この二人がSNSに投稿した文章が話題になっている。この二人は恋人同士ではないが、ゲイであることをカミングアウトしている。

「米国のために戦うため、僕らはここ韓国にいる。光栄だと思うし、この素晴らしい男と一緒にLGBTQコミュニティを代表していることを誇りに思う。ざまあみろ、ペンス!」

ざまあみろ、ペンス・・・ペンスとは合衆国副大統領のマイク・ペンスのことだろう。五輪代表団の団長に就任している。これに対し、アダム・リッポンが非常に強い嫌悪感を表明し、これも話題になった。

基本的にトランプ内閣はアンチゲイ、LGBTの権利に対しては批判的であるとされている。中でも副大統領は、「宗教の自由回復法」を支持したり、HIV予防のための資金を「同性愛の矯正に回せ」などと公言したりと、アンチぶりが徹底している。なのでこの二人にとってオリンピック出場は副大統領への「ざまあみろ」なのだろう。

ガス・ケンワーシー選手は、自分がカミングアウトした時の気持ちをこう表している。「僕は自分を愛し始めた。思春期を自己否定して生きてきた人間にとっては大きな進歩だ。愛する人が、ただの友人、知人だというふりをしながら、ポケットに手を入れ、下を向きながら歩かなければならなかった・・・僕は人生で初めて自由だと感じた。これは、すべての人が毎日感じるべきことでもあるんじゃないか?」

話は突然変わるけれど、たしかカナダだと思うけれど、冷凍食品大手の会社でマッケインフーズという会社があるらしい。日本だとニチレイフーズとかニッスイ、マルハニチロのような会社になるのだろう。その会社が昨年「We Are Family」というCMを流した。この会社に憎悪に満ちたコメントが多数寄せられたらしい。カナダでさえもそうなのか???

このCMには俳優さんだけではなく、実際のカップルも出演しているらしい。寄せられた憎悪コメントの一部。「ゲイなんて不自然なんだから祝福されるべきではない」「このCMは頭のおかしいサヨクの洗脳だ。男にスカートを、女にズボンをはかせようとしている」等々・・・

僕はいいCMだと思うけどなぁ・・・

各国メダル数・・・そちら方面だけではなく、人間は皆同じ、オリンピックをそのように観てみたらどうだろう?

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元祖シンガーソングライター 

 

これはアーン自身の歌声による「恋される人」の歌唱。作曲者自身の歌声が残っているのは非常に珍しいのではないか?ピアノ演奏・・・だったら沢山あるけれど。甘いテノール、リリカルなテノールだったんだねぇ・・・アーンって元祖シンガーソングライターなのかもしれない。

アーンは1874年に生まれている。同じ年に生まれているのがシェーンベルクとかチャールズ・アイヴズ。彼らと比べると、アーンは随分と時代を逆行しているというか、ロマンティックな作曲家ではないだろうか?1872年生まれのスクリャービン、1875年生まれのラヴェルと比較してもそう思う。

斬新なもの、アーンが生きた時代の音楽界はそのようなものを求めた時代ではなかったか?今までにないサウンド、概念・・・

この時代に、どこかロマンティックなものを求めた作曲家たちは、玄人筋(?)からは、低俗である、時代遅れだ、ハリウッドの音楽じゃないんだから・・・と評価される傾向があったのかもしれない。1873年生まれのラフマニノフ、1877年生まれのボルトキエヴィチなど・・・

アーンの意外なほどの認知度の低さも、当時のそうした空気と関係があったのかもしれない。現代の人は、もしかしたら美しいメロディーを再度求め始めているのかもしれない。ロマンティックなメロディーを・・・

ピアノの世界でもカプースチンがブームのようになったが、正反対のようなボルトキエヴィチの作品も、今静かなブームになっているような気がする。

歌曲の世界での静かなブーム、それがレイナルド・アーンなのではないか?

元祖シンガーソングライター、そして時代を逆行した吟遊詩人・・・

kaz




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共に感じる演奏 

 

スーザン・グラハムが先の動画で歌っていたのは「恋される人」という曲。いかにもアーンですね・・・というメロディーではないだろうか?甘美なるこの「恋される人」を、あのロッテ・レーマンも録音している。

ロッテ・レーマン、往年系の歌手となると思うけれど、彼女はドイツものの大家とされている。シューベルトも素晴らしいと思うけれど、僕の心を翻弄させてしまうのがシューマン。「女の愛と生涯」も卒倒ものだが、男の歌曲集とされる「詩人の恋」が何と言っても素晴らしい。現在でも男歌曲を女性が歌うことはある。シューベルトの「冬の旅」とか。でも逆はないような気がする。誰かシューマンの「女の愛と生涯」を歌っている男性歌手、知っていたら教えてください。女性歌手が男歌曲に挑戦という現代の風潮、このロッテ・レーマンの録音の存在も大きいのではないか?

ロッテ・レーマンのアーン、なんとなく意外な組み合わせかもしれない。シュナーベルのスクリャービン、ポリーニの「舞踏への勧誘」を想像するのが難しいように、ロッテ・レーマンのフランス歌曲も意外感がある。

でも歌唱は心に突き刺さってくる。鑑賞者と演奏者の分離がないのだ。「見事ねぇ」「上手ねぇ」だけではなく、こちらも翻弄されてしまうような?共有、一体感がある。

これは一体何なのだろう?

何故に生クリームが好きなのか?明確な説明はできない。

kaz




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アーンのCDお勧め盤 

 

レイナルド・アーン歌曲集のCDを購入したいと思った場合、最寄り駅の駅ビルか何かのCDショップで、いきなり「アーン歌曲集のCDありますか?」などと店員に尋ねても答えはないだろう。「はっ???」みたいな?そもそもクラシックのCDさえ置いていないようなショップさえある。フジコ・ヘミングとか辻井伸行のCDだったらまだしも、アーン歌曲などといった地味系(?)のCDは、ネットでの購入になるだろうと思う。大手通販会社(Amazonとか?)で調べてみると、スーザン・グラハムというアメリカ人歌手のCDが目に付く。

このスーザン・グラハム盤、「アーンの歌曲ってどんな感じなのかしら?」という人にとっては推薦盤のような気がする。有名な曲はすべて収録されているし、歌唱もピアノも素晴らしい。レビューなども好評のようだ。ただ、フランス語のディクションについて、どうこう書いている人もいて、気になる人は気になるのだろうが、フランス語など全く理解できない僕には全く気にならない。

「ああ、美しい極上のメロディーを聴きたい」と思う時、「アーンの歌曲を聴きたい」と思う時、不思議なのだが、スーザン・グラハムのCDを手にすることは少ない。往年系の歌手の歌唱を聴きたくなる。

僕の場合、この「往年系好き」という傾向は、声楽だけではなく、ピアノやその他器楽の演奏にもあるのだが、その理由は分析できない。これって「なんで生クリームが好きなんですか?」「なんで納豆が苦手なんですか?」という質問に答えられないのと似ている。

スーザン・グラハムの歌唱、現代風の歌唱だな・・・と思う。理想的発声、曲の解釈、音の流れをどう表現するか、つまり理想とされる基準に極限まで近づこうとしているような、そんな歌唱に聴こえる。そうですね、ピアノだとポリーニとかキーシンの演奏からも似たような「近づきましょう」的なものを感じる。何と言うのだろう?美しいグラビアを見て「素敵ねぇ・・・」という感じに似ているだろうか?

往年系の場合、もう少し直接的に自分の感情というものに切り込んでくる演奏が多いように思う。録音の質などは到底現代のものにはかなわない。それでもだ。それでも直に入り込んでくるようなものに翻弄されてしまうような、「見事ねぇ」「素敵ねぇ」ではない、傍観者としてだけではいられないような心の鼓動を感じたりする。

アーンの歌曲って美しいので、往年系の歌手も録音していたりする。マギー・テイトの時代からアーン歌曲は歌手たちに愛されていたのね。おそらくピアノと同様、サロン~巨大な演奏会場・・・のような変化が声楽の世界のレパートリーにも影響したのだろうか。最近はチクルスものが大流行りで、ロマン的小曲の寄せ集め的なプログラムってあまりないのかもしれない。

往年系の歌手って、アーンの歌曲を録音してくれていても、一曲とか数曲である場合が多い。それらを寄せ集めて自分でアーン歌曲集のCDを作ってしまえばいいのだ。極上の時を提供してくれる。

まずアーンの世界、歌曲ってどんな感じなのかしら・・・という場合は、スーザン・グラハムのCDはお勧めだと思う。「素敵ねぇ」と感じたら、それから往年系に手を伸ばして欲しい気はする。

kaz




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禁断の愛 

 

アーンの、現在知られている歌曲のほとんどは、彼の20歳前の作品。つまり10代の時の作品なのだそうだ。例外もある。この「クロリスに」という歌曲は、アーン、円熟の41歳の時の作品。この曲のピアノパート、最も「アーンはピアノの詩人である」ということを感じさせる。

全体的には非常にロマンティックな歌曲だと思うが、特にピアノパートに顕著だと思うけれど、どこか古典、バロック様式の美を意識しているような?作曲された年代を考えると、時代を逆行しているような?

アーンは一生独身を通した。彼が同性愛者だったことはよく知られている。パリのサロン、そこはリベラルな空気だったのだろうと想像する。陰で「同性愛者なんですって?」「まぁ、いやねぇ・・・」などと言う人は意外と少なかったのではないかと想像する。でも同性婚とか、そのような時代でも、もちろんなかった。アーンは苦しんだからこそ、甘美で、どこか性的色香のようなものさえ感じさせる歌曲を残したのかもしれない。

アーンと恋人同士、恋愛関係にあったのが、あのマルセル・プルースト。マルセルと一生を添い遂げるのような人生ではもちろんなかった。でも恋愛関係が終わっても二人の友情は続いていたとされている。

「二人の関係は終わったね。でもこれからもずっと友達だからね・・・」これって結構辛いのではないだろうか?少なくとも二人のうちのどちらかは・・・

アーン円熟期の傑作、「クロリスに」・・・歌詞の中に次のような一節がある。

「大切なものと引き換えに、もたらされる天の喜び、そんな死など僕はいらない。アンブロワジーですらも、あなたの瞳がもたらしてくれる甘美な空想にはかなわない・・・」

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