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ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

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何かとは何か・・・ 

 

萌えない(?)ボストリッジのCD、萌えるCDもある。それはイギリス歌曲のCD。ブリテンとか・・・

「わぁ、ブリテンって素敵なんだねぇ・・・」心からボストリッジの歌唱を楽しむことができる。これは僕がブリテンの歌曲をそれまで知らなかったということもあるだろう。つまりシューベルトやシューマンの歌曲は、ボストリッジ以前にも多くの歌手のCDを聴いている。「水車小屋」であればヘルマン・プライ、「詩人の恋」であればヴンダーリヒのような歌手。つまり無意識に僕は現代の名手ボストリッジと彼らを比較して聴いていた?

それはあるだろうと思う。ブリテンではボストリッジの一人舞台だけれど、シューベルトやシューマンでは、過去の偉大な歌手と、つい比較してしまう・・・

プライやヴンダーリヒを聴いた時の心のときめき・・・のようなものをボストリッジにも無意識に求めた。ボストリッジだけではなく、演奏を聴く時には、何かしらの高揚感、一体感を求めたくなる。演奏を聴いている間だけ夢を見させて欲しい。空に舞い上がりたい。つまりドキドキとしたい。または一緒に泣きたい・・・

素晴らしく上手い、研究された正しい芸術がある。でも宮殿のバルコニーで手を振る王侯貴族に拍手をするだけの庶民ではイヤなのだ。「まあ、なんて上手なの」と拍手をしたいのではない。一緒になりたいのだ。演奏者と共になりたい・・・そう思う。バルコニーから手を振る崇高な芸術にひれ伏すだけではなく、共に感情を動かしたい。

シューベルトの「ます」・・・プライか、このスゼーの歌唱、迷ったのだが、スゼーの歌唱。まずダルトン・ボールドウィンのピアノが素晴らしい。川面がキラキラと光る、それをピアノで表している。スゼーの歌声は、もう何と言ったらいいのだろう?共に飛翔してしまう。歌と曲、聴き手(つまり僕ですね)が一つの光に包まれて、共に躍動し、飛翔してしまうかのような・・・

僕は聴き手として、演奏に、そのような何かを求めているのかもしれない。

そのような何かに触れたいから自分もピアノ曲を弾く・・・上手くなりたいから・・・ではないような気がする。

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萌えない・・・というのは? 

 

今調べてみたら、その演奏会を聴いたのは2004年。もう随分と昔なのに驚いた。サントリーホールだったと思う。イアン・ボストリッジの演奏会。曲はシューベルトの「美しき水車小屋の娘」だったと思う。何枚かのCDを聴き、「これは逸材では?」と思い、実際の歌唱を聴いてみたくなった。CDでは非常に柔らかい歌唱という印象だった。声もだが、彼の経歴にも興味を持ったのだと思う。

オックスフォード大学の博士課程。音大ではないんだ・・・と。たしか魔女学というか、中世の魔女についての研究をしていたらしい。「魔女???」声楽は30歳を過ぎてから独学で始めたとか。「独学???」「30歳を過ぎて???」僕とは年齢も近く(一つ違い)そのあたりも興味を持った。演奏会に行ってみようと思い立った最大の理由は、伴奏者(ピアノ)が内田光子だったから。「えっ?内田光子が伴奏???」

CDの歌唱を聴いて一抹の不安は正直あった。心が萌えない・・・とてつもなく知的で上手くて、どこか欠点を探そうとしても皆無のような、そんな歌唱。多くの人が絶賛しているのも納得できる。好みの問題なのだろうか?そんな簡単なものでもないような気もした。何だろう???何故に僕の心は萌えないのだろう?ボストリッジの歌唱に入り込めないのだろう?ボストリッジが僕の中に入り込まないのだろうか?だとしたらそれは何だろう?文句のつけようのない歌唱なのに・・・

一抹の不安は実際に会場で生の歌唱を聴けば消滅すると思っていた。でも歌もピアノも最高に素晴らしいのに、でも萌えなかったのだ。「僕の好みって、マイノリティーなのでは?」

その想いは、実は今でもある。「僕がおかしいのかもしれない。美というものを、芸術というものを理解できないところがあるのだ」と。だって伴奏が内田光子だし・・・彼女が共演したいと言ったほどのテノールなんだし・・・

有名な「ます」・・・やはりボストリッジは上手いと思う。ピアノはユリウス・ドレイクで内田光子ではないけれど、いつも共演しているピアニストであり、この人も上手い。でも萌えない・・・

単純に好み・・・ということなのだろうか?

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オペラが消えた時 

 

これはヘルマン・プライのフィガロ。モーツァルトのオペラではフィガロ、そして魔笛のパパゲーノは特にプライの当たり役ではなかったか?ターフェルと比べると歌というものが強調されているように感じる。実際の舞台ではなく映画版だから、歌唱(音声)は、おそらく別録りだったと思われる。なので、歌手としては歌唱に集中できたということもあるだろうが、プライのフィガロは絶品だ。

このアリア、音型としては結構シンプルなのではないだろうか?何気ない音型、例えば「ドーミソ ミーソド ソードミード」という音型が何度も出てくる。プライの音型処理は完璧ではなかろうか?絶妙すぎて色香まで感じさせてくれる。

行進曲風のリズムは変わらない。でも歌は飛翔、浮遊している。

チェルカスキーが亡くなったのは1995年、これでピアノの世界のロマンティックな時代が終焉したと感じた。

ヘルマン・プライが亡くなったのは1998年。これでオペラは終わったと感じた。

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オペラは芸術か、娯楽か? 

 

オペラはもちろん好き。けれども実演に接する機会はほぼ皆無。理由としてはお値段が高い。もちろんオペラは総合芸術だからお金が掛かるのは理解できる。ピアノ使用料、調律代、ホール使用料・・・とシンプルにはいかないのだろう。でも「家賃か???」と思うほどの値段ってどうなのだろう?ピアニスト同様にオペラ歌手も現代スターは、往年系と比較すると小粒のような?

「日本人の公演を聴けばいいじゃない?」それは思った。アーティストは聴衆が育てる・・・みたいなところもあるだろうし。でもヴェリズモ系のオペラだと声量という点で気になるところはあるし、ブッファ系は、それはそれでビジュアル的に(感覚的に?)辛いものがある。受けないコント・・・みたいな、身の置き所がないような気分というのだろうか?

ピアノのような原典崇高主義のようなものはオペラには少ないように感じる。オペラには慣例というものがある。楽譜に記載されていなくても、ヴァリアンテをつけるのは常識のような?それでも一時はオペラにも原典主義、ザハリヒ傾向の時期があった。作曲者が書いた譜面そのものを再現・・・みたいな?でも当時のスターのために書かれたどうでもいいようなアリアまで復活させるような動きは現在は収まったようだ。慣習としてカットされたズンタカタッタ的なアリアは、昔のようにカットされるようになった。いいことだと思う。

歌手の妙技を聴くのか、それとも曲そのものを味わうのか?ピアノよりはオペラ(歌曲はまた別のような?)の方が今でも妙技系の分野だと思うけれど、それでも昔とは変わってしまったところもある。

かつては「マリア・カラスのノルマ」のような言い方をされた。「カラスの椿姫」とか。現在は指揮者の名前が先に来る。「レヴァインのカルメン」のように・・・

この傾向はまだ続くかもしれない。オペラハウスを揺るがすような大物カリスマ歌手が出現すれば、また歌手の名前が先にくるようになるのかもしれない。

この映像は、おそらくメトでの公演。「レヴァインのフィガロの結婚の舞台」ということになる。フィガロ役にブリン・ターフェル、スザンナ役にバルトリ・・・とスターを揃えている。でもこれは「ターフェルのフィガロの結婚」ではなく「レヴァインのフィガロの結婚」だ。

劇進行というのかな、オペラというアンサンブルとして聴くと、レヴァインらしくキビキビ系の演奏だと思う。躍動感もありいいのではないかしら?でもアリアの楽しさ、歌手の妙技性というようなものは薄れてしまっているように感じる。

有名なフィガロのアリア、「もう飛ぶまいぞ この蝶々」、ターフェルとしてはサクサクと歌っているというか?もうちょっとなんとかならなかったのだろうか?でもアンサンブルとしてはこれでいいのかもしれない。全体的、かつ総合芸術的に聴いてしまえばこれでもいいのかも。行進曲風の特色はここで出しているし。

でも僕は「歌が聴きたいの~」というところがある。歌手の妙技を聴きたいの・・・

ターフェルのフィガロのアリアはかなり不満。でもこれはブリン・ターフェルの歌がどうこうというよりは、オペラをどう捉えるかということにつながってくるのかもしれない。

イタリアの田舎のオペラ劇場を体験したことがある。歌手たちやオーケストラ、むろんスカラ座・・・のようなわけではなかったけれど、正直「随分と庶民的だな・・・」などと感じたりした。庶民の娯楽?地元出身の頑張っている歌手に声援が多かったり、未熟でもフレッシュな若手には、たとえ高音でひっくり返っても「いいよ、いいよ、あんたはまだこれからでしょ?」的な温かさがあったり。

もしかしたらオペラって、おハイソな人たちの社交の場というだけではなく、一般庶民の娯楽の場でもあるのでは?これはクラシック音楽そのものにも言えることなのかもしれない。

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ヴンダーリヒ温泉 

 

ヴンダーリヒの歌唱を聴いて感じるのは、力感を感じさせないということ。ギアチェンジが必要ない・・・みたいな?細部まで研究しつくし計算しつくし、巧みにギアを変える上手さというよりは、ヴンダーリヒの場合、まるで温泉みたい・・・と感じる。湧き出る温泉。湯量豊富な草津温泉みたいな?

力感を感じさせないというのは、往年のピアニストにも感じることだ。そのあたりが現代のモダンな(?)演奏との違いかもしれない。ヴンダーリヒ、どこか往年の偉大な歌手というイメージがあり、それはその通りなのかもしれないが、彼の録音はすべて「若い頃」の歌唱なのだ。35歳で亡くなっているわけだから、自然とそうなる。この「アデライーデ」も率直というか、単刀直入的な魅力がある。どこか抑えきれない若者特有の躍動のような魅力。

すべてのフレーズが滑らかなラインというのも魅力だろうと思う。「いつの日か奇跡が起これば、僕の墓に、亡骸になった僕の心から花が咲き誇るだろう」という歌詞、こんなセリフ、60歳の達観した人間のセリフではない。若者特有のもの、ヴンダーリヒの声そのもののような・・

でも、50歳を過ぎても、聴き手としてヴンダーリヒの「アデライーデ」を聴くと、一緒に心が浮きだってきてしまうのだ。僕の心も花が咲き誇る・・・のような?そんな想い(錯覚?)さえ感じる。僕の心も昇天していくかのごとく高まって・・・のような?

一緒になれるのだ。演奏と共にドキドキできる・・・

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もちろん不満はない・・・ 

 

科学とかスポーツ、基本的には過去よりも現在の方が進歩しているというのが前提としてあると思う。フィギュアスケート、1980年の世界選手権で渡部絵美がフリーで3Tと3Sを成功させた。当時としては快挙だったけれど、今だったら二種類、二回のトリプルジャンプではお話にもならないだろう。そう、進歩しているのだ。

演奏はどうだろう?誰でも難曲を弾く・・・のような底上げ的な意味では進歩しているのかもしれない。「イスラメイ」のような曲も、そのへんの(?)音大生でさえ弾きこなす・・・のような?昔だったら弾く人は限られていたと思う。そう、進歩しているのよ・・・

ピアノの演奏会には滅多に出かけないけれど、声楽の演奏会はよく聴きに行く。数年前、マーク・パドモアという人の「冬の旅」を聴いた。大変に素晴らしい卓越した歌唱だったことは僕にでも分かった。「欠点とか、ないんじゃない?」

帰り道、僕はたった今聴いたマーク・パドモアの歌唱ではなく、昔聴いたヘルマン・プライの「冬の旅」を回想したながら歩いていた。どちらも素晴らしい歌唱だったことは間違いない。僕の中に懐古趣味のようなものがあって、その部分がパドモアではなくプライを求めたのか?そうかもしれない。

むろん、パドモアのシューベルトは素晴らしかった。でもプライの歌唱から感じたような、自分との関わり・・・のようなものがなかった。プライの歌唱を聴いた時には、自分が生きていること、孤独な旅人の虚無感、そのような想いが混ざり合い自分の中で混沌としていた記憶がある。プライのシューベルトは僕の中に鋭く切り込んできた。パドモアの歌唱とは、ある意味距離があったような気がする。「素晴らしい」とか「最高に上手」とかは思う。でも自分の中には入ってこない。素晴らしい歌手がいるということに喜びは感じるけれど、パドモアは切り込んではこなかった。素晴らしい歌唱として傍らにあった・・・というか・・・

昔の演奏って、現代の基準とは異なる。声楽の場合だと、やたらポルタメントが多かったり、ピアノでもアゴーギクが大きかったりする。先生から「そんなふうに弾いてはいけませ~ん」のような演奏ではある。例えば、ショパンのバラードの1番で、最初のCの音、ここを左手と右手でずらして弾くなんて、今だと御法度だろう。最初のCのユニゾンは当然同時に弾く。でもモイセイヴィチはずらしている。ドド~みたいに。でもモイセイヴィチの演奏は僕の中に切り込んでくる。ツィメルマンの演奏は切り込んでこない。「最高に上手いじゃない?」とかは感じるんだけど。

僕自身の懐古趣味?それはあるだろうが、それだけでもないような気がする。何だろう?言葉では説明できないような何かがたしかに存在しているように思う。

クラシック音楽の低迷、衰退、さかんに叫ばれている。「クラシックなんてダサい」とさえ言う人もいる。「昔と比べて今は娯楽が多いから」そうだろうか?演奏そのものが変わってしまったということと全く無関係ではないような気はする。

演奏を聴いて、ただ「上手ね」とか感じたいのではない。自分の心が動いて欲しいと願う。一緒に泣きたいとさえ思う。切り込んできて欲しい、そう思う。ただそのような演奏、今では非常に少ないように感じる。理屈ではないのだ。演奏を聴いて一緒に泣いたり、鼓動を速くしたりしたいだけなのだ。

マーク・パドモアの「アデライーデ」・・・ベートーヴェンにも(?)こんなに素敵な曲があったのね。パドモアの歌唱は素晴らしいと心から思う。このような歌唱に対して不満は全くない。ただ一緒に泣けないんだ・・・

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星になったお父さん 

 

フリッツ・ヴンダーリヒの父親はチェロ奏者であり、またカペルマイスターでもあった。母親のアンナはヴァイオリニストだった。幼いフリッツが音楽的な環境に恵まれていたと想像するのは難しくはない。おそらくそうだったのであろう。

父親のフリードリヒはナチスによりカペルマイスターの地位を奪われ、また戦争で重症を負ったこともあり、フリッツが5歳の時に自殺をしている。アンナは子どもたちに不憫な思いをさせたくないと、音楽教師として必死で働いた。それでも一家の生活は相当苦しかったようだ。フリッツ自身も働かなければ生活していけなかったらしい。

フリッツがパン屋で働いていた時、「お前、パンを練ったり焼いたりしている場合じゃないだろ?その声・・・」

フリッツは歌よりも金管楽器に最初は魅せられていたようだ。また音楽だけではなくスポーツにも熱中していたとされている。よく見ると、フリッツの鼻は変形しているらしい。これはボクシングの栄誉の痕跡(?)でもあるとされている。やはり神から授けられた声を自覚し、フリッツは声楽を本格的に学び始める。レッスン代は自分で稼いでいたらしい。

ドイツを代表するリリック・テノールとして成長していく。フリッツの声、それはミューズに祝福されたギフトであったのかもしれない。ハープ奏者のエヴァと結婚し、3人の子どもを授かる。

フリッツにとって大切だったもの、それはむろん音楽、歌であったのだろうが、彼は家族というものも非常に大切にしたのではないかと思う。多くの残された家族との写真からも、そのことを感じさせる。自分自身は5歳の時に父親を失っている。母親は常に必死で働いていた。苦しい生活だからこそ自分は何かに熱中したのだ。

もし自分が家庭を持ったなら・・・

愛情を注いであげたい・・・このような想いがフリッツにはあったのではないだろうか?

歌手としてのキャリア、父親としての幸せ、そのどちらも頂点に達しようとする時、不幸が襲った。友人の別荘で過ごしていた時、フリッツは階段から転落し、その翌日亡くなってしまう。頭蓋骨骨折、事故死ということになる。36歳の誕生日の直前だったらしい。

35歳という年齢を考えると、非常に多くの録音が残されている。我々は「永遠の青年ヴンダーリヒ」の声を聴くことができる。フリッツの熟年期の声、もうこれは想像しかできない。例えば彼が50歳を過ぎてシューベルトの「冬の旅」を歌ったら、それはどのようなものであっただろう・・・

偉大な歌手は突然星になってしまった。残された家族はどうしたのだろう・・・

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15分の壁 

 

リアルに僕を知る人は意外と思うかもしれないが、僕はシューマンが好き。ピアノ曲ベスト3は「クライスレリアーナ」「謝肉祭」「交響的練習曲」となるだろうか?でも演奏する機会はない。

アマチュアの演奏の場、それはサークルのような場になるだろう。ネットで参加者を募った弾き合い会とかね。そこには15分の壁というものがある。特に規約(?)にはなくても、大体演奏時間としては10~15分程度という暗黙の掟があるのではないかと思う。教室の発表会などもそうだと思う。そのような場で「ショパンのプレリュード全曲を弾きたいです」というのは難しい。

抜粋すればいいじゃない?そうなのだが、僕は抜粋というのが苦手。曲にもよるとは思うが、全曲演奏に耳が鳴れてしまっているというのかな、上記シューマンの3曲なども抜粋すると違和感を感じる方だ。シューマンのピアノ曲って長くないですか?15分の壁に突き当たってしまうのだ。アマチュアにおけるショパン人気、これは15分の壁という現実も関係があるのでは?15分あればショパンの場合、選曲の幅が、かなりある。

もう一つの壁が歌曲好きということ。「クライスレリアーナ」も弾いてみたいけれど、それよりも僕は「詩人の恋」が好きなのだ。この場合も抜粋など許されない。となると、30分ほどの演奏時間となる。

問題は「誰と?」「どこで?」みたいな?

一部は実現している。自宅でピアノパートを弾くのだ。もちろんヴンダーリヒの歌声を想像しながら一人悦に入る・・・これはこれで楽しいが、時に実際にテノールと合わせたらと想像はしたりする。バリトンではダメなのね。ヴンダーリヒを聴き続けてきたから。バリトンだと調性なども違ってくるし。

妄想は果てしなく続く・・・

今までヴンダーリヒの歌声だけを聴いてきた気がする。改めてフーベルト・ギーゼンのピアノを聴いてみる。

やはりシューマンで最も弾いてみたい曲は「詩人の恋」になるみたいだ。

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人は最後の瞬間まで挑戦したいと思う 

 

シューベルトに「岩の上の羊飼い」という歌曲がある。大変に爽やかでフレッシュな印象を感じる曲だ。フレッシュであり、同時にそれは天上のメロディーでもある。

この曲の編成は非常に珍しい編成となっている。ソプラノ、クラリネット、そしてピアノ・・・器楽、声楽、ピアノという組み合わせは今でも斬新なのではないだろうか?シューベルトにしては歌のパートにコロラトゥーラの超絶技巧を駆使している。その点でも珍しい。

普通、歌曲は一人の詩人の単一の作品を音楽にする。ゲーテの「魔王」のように。でもこの曲は複数の詩人の異なる詩を組み合わせている。これもかなり斬新な発想だ。

この曲はシューベルト最晩年の作品。この曲か、あるいは「白鳥の歌」の最後の曲がシューベルト歌曲の最後の作品と言われている。どちらが最後にしても、この「岩の上の羊飼い」はシューベルトが亡くなる数週間前の作品となる。

晩年と言っても31歳だったわけだが、死を予感しつつ新たな挑戦をしたということになるのだろうと思う。少なくとも枯れてはいない。

歌のパートは華やかだ。技巧駆使。シューベルトにしては珍しい。クラリネットも鮮烈だ。でもピアノのパートはなんとも地味。シューベルト歌曲のピアノパートでも伴奏に徹した最たるものになるのかもしれない。

ほぼブンチャッ ブンチャッ とか、ブンチャッチャッ・・・のような音型。「まあ、初見でもいけそう・・・」みたいな伴奏譜ではある。

クラリネットのシャロン・カム、ソプラノのバーバラ・ボニー、それぞれ素晴らしい。でもピアノのジェフリー・パーソンズの音と言ったら・・・

単純な音型の繰り返し、「僕、地味に徹します」という楽譜でも、そのタッチの見事さは隠せない。

もし幸福感に溢れた天上の曲に、隠された孤高の孤独・・・のようなものを感じるとしたら、それはジェフリー・パーソンズの集中された研ぎ澄まされた音がそう感じさせているのかもしれない。

死の間際にこのような作品・・・何と言ったらいいのだろう・・・

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伴奏者の音 

 

好きなピアニストは誰ですか・・・と問われて伴奏者の名前を挙げる人はそうはいないだろうと思う。僕の場合、声楽好きにも関わらず、歌手の歌唱には注意深くても、ピアノに関してはそれほどでもなかったかもしれないと反省している。

所有しているCDもピアノよりは圧倒的に歌のCDが多い。お気に入りの歌手のCD、ピアノに注意して聴いてみた。数多く聴いた中で、お気に入りのピアニストというものが、ソロの場合と同様にいるのを発見した。

いくら歌手が素晴らしくても、ピアノが今一つであれば、このような音楽世界は表出できないだろうと感じながら聴いていたところは、もちろんあるが、でもピアノ中心には聴いてこなかった。

僕のお気に入りの伴奏ピアニスト、ダルトン・ボールドウィン、ジェフリー(ジョフリー)・パーソンズ、そしてフーベルト・ギーゼン。おそらく彼らは名伴奏者として名高いのだろう。声楽ブログでは、彼らの名前はよく登場する。鑑賞者ブログでも歌好きの人の場合、歌手だけではなくピアニストについても触れていることが多い。でもピアノブログではどうなのだろう?ピアノしか聴かないという場合、彼らのような名伴奏者のピアノサウンドというものとは無縁で過ごしてしまうのだろう。そうだとしたら、なんとも勿体ないような気がする。

名伴奏者の音、個人的な印象では、やや硬質というか、非常にクリスタルな感じがする。おそらく、ぼやけたような、曖昧なボヤン、バシャンとした音、散ってしまう音だと声や楽器との調和、曲づくりという面であり得ないからかもしれない。ピアノの特質、長所を生かしつつ、声や楽器の音との調和をはかる・・・そんな印象だ。

スゼーの声、歌唱は極上だ。ありえないぐらいに素敵な歌声だ。そしてピアノのボールドウィンの音といったら・・・

名伴奏者、歌に寄り添うように・・・そうなのだが、ピアニストとしての「音」を聴いてみたら、それは新たな発見でもあった。

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昭和の味覚 

 

生クリームに愛着を感じる。「エッグスンシングス」という店のパンケーキには、山盛りの生クリームが添えられていて嬉しい。できればパンケーキはいらないので生クリームだけ頂きたいほどだ。

世の中のケーキ、今は生クリームが当たり前で、もちろんそれは嬉しいのだが、たまに昭和レトロのバタークリームのケーキを食べたくなる。若い世代の人の中にはバタークリームのケーキというものを知らない人もいて驚く。「知らないんだぁ?」

子どもの頃、クリスマスに父親がケーキを買ってきてくれた。高級な生クリームではなく、バタークリームのケーキ。新鮮なイチゴが飾られているのではなく、着色料を使いました的な色合いのピンクの、これまたバタークリームのバラが飾られていたりした。真っ赤なチェリーとかも・・・

ケーキ屋だけではなく、昔はパン屋などでもバタークリームのケーキは売っていたと記憶している。でも日常的な食べ物ではなかった。ハレの日の特別な食べ物だった。

今、売っていないんですねぇ。バタークリームのケーキそのものを知らない世代もいるくらいだから仕方ないようにも思うが、妙に懐かしく、食べたくなったりするのだ。

「そんなにバタークリームが好きだったらガトー・エシレがいいんじゃない?」「ガトー・エシレ?」

エシレ・バターというものがあって、そのバターをふんだんに使用したケーキらしい。なんでも丸の内の「エシレ・メゾン デュ ブール」という店でしか売っていないらしい。エシレ・バターそのものは、その店の通販で購入できるらしいが「ガトー・エシレ」は店頭販売しかしていないらしい。「開店直後がいいよ。すぐ売り切れるから」と知人は言う。巷にはバタークリームのケーキは見当たらないようだが、あるところにはあるのだ。

ケーキとは思えない値段にひるみながらも、その「ガトー・エシレ」は卒倒するぐらいに美味であった。パリの香り?

美味しかったのは事実だが、昔懐かしの、僕が懐かしく思うバタークリームのケーキとは違った。美味しすぎるのだ。本場パリのバタークリームケーキではなく(それもいいが)懐かしい日本昭和ケーキが食べたいのだ。

実際に食べてみたら、もしかしたら思っていたほどの感動はないのかもしれない。もしくは、バタークリームのケーキと名乗って売られていても、それは現代風に美味しくなってしまっているのかもしれない。

amazonでもバタークリームのケーキが購入できるらしい。でもそれだけはしてはいけないような気もしている。

そう、この動画のような、ピンクのバラが飾られていた。

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五割増し演奏 

 

集まった音、バシャンと散ってしまわない音、最近ここに拘っているのは、今年の8月に2台ピアノ、11月に連弾を経験するからだ。同じ楽器内、あるいは楽器同士でのアンサンブルということになるので、他の楽器や声楽とのアンサンブルと比較すると、ピアノ同士、タイミングのズレのようなものは目立つだろうと思う。

でも大切なのはそこか?むろんズレないようがよろしいだろうとは思う。ソロでもミスのないほうがミスばかりの演奏よりはよろしいのと同じで。ではソロはミスがなければいいのかというと、そればかりでもないような?2台ピアノ、連弾でもズレなければいい・・・ということでもないだろう。

そこで気になったのが音。曖昧で散漫な、どこかバシャンと散ってしまった音。ソロでもそれはマズイのだろうが、合わせものになると、「バシャン」の二乗効果とも言うべき現象が発生してしまうらしい。らしい・・・というのは、CDや生演奏、ユーチューブ動画などを散策していて気づいたからだ。

「おっ、いいな、上手いな」というデュオ、各々の奏者の音がクリアで集中しているのだ。バシャン系(?)の演奏の方が圧倒的に多いけれど、印象としては「なにやら舞台で大音響が鳴っている?」のような印象なのだ。もしかしてソロよりも難しい???曖昧で散ってしまっている音そのものが強調されてしまうような???

人数もソロの倍、音符の数もソロの倍・・・と単純に考えると、それぞれの弱点も倍???

ソロの時よりも音のクリア度、五割増し・・・で演奏する必要がある???

この人たちの、それぞれのソロの演奏も聴いてみた。ソロよりもクリア度五割増し・・・というわけではないんだね。ソロでもクリスタルクリアな音で演奏しているもの。

とにかく「バシャン」は避けたい!

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最速のインコース奏者 

 

スポーツには詳しくはないが、トラック競技、インコースとアウトコースでは距離が異なってくることぐらいは分かる。スタート位置が違うもの。仮にスタート地点をインコースとアウトコースを同じにして、ずっとそのコースを走らなければならないとしたら、これはもうインコースの人が有利だよね。

ピアノ演奏に例えてみる。「なんだかあの人と私、違う・・・音が違う」そう感じるのは、その人はインコースを走っているのだ。効率的な何かをしている。でも自分はアウトコースをひたすら走っている。無駄が多いわけです。演奏の残酷さって自分との差は、はっきりと感じるけれど、ではどうしたらいいのか・・・という解決策が見出しにくいということ。まぁ、これは演奏だけに限らずかもしれないが。

ここで人間は二つの方法を選択する。まずはインコースを自分も目指す。やり方は分からないし、インコースには行けないかもしれないけれど、そこを目指そうとする。「ああ、私も・・・」という想い、憧れがあると強いかもしれない。もう一つは、ひたすらアウトコースで頑張ってしまう。「努力が足りないんだわ(練習量が少ないんだわ)」とひたすらアウトコースで頑張ってしまう。ここで不幸なのは、インコースの人との違いは意識していることだ。自分も・・・とは思えない。

発想転換にしろ、新しいことに挑戦するにせよ、変化というものは痛みというのかな、結構辛さを伴う。そこで言い訳を考えてしまうのだ。もうこれは無意識レベルかもしれない。ブランクがあるから、いい歳だから、子どもの頃からの基礎に欠けているから等々。「どうせ・・・」と思ってしまうと、そして違いを才能みたいな曖昧なものにストンと理由づけしてしまうと、それはそこで終わる。

この人は世界最速、時代を超えて最速のインコース男なのではないだろうか?

ハリー・ジェームス・・・

無駄がないよねぇ。すべての音を集めている・・・

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集まった音 

 

音、集めて狙って、狭い範囲で面ではなく点・・・

ピアノの場合でも「あっ、この人上手いかも・・・」と耳が最初に判断するのは音なのではないかと思う。ツラツラと上手そうだけど、心に響かない演奏は、音が散ってしまっている。音そのものが集まっていなくてバシャンとした音?

音が鳴る瞬間のイメージとして、フィギュアスケートのジャンプに例えると、軸が細く回転が速いイメージ?あとは縦列駐車とか車庫入れの上手なハンドルさばき?無駄がないわけです。最短距離を効率的に・・・みたいな?大回りしないというか?

パヴァロッティは発声のある部分をトランペットのように・・・と例えていたけれど、実際に卓越したトランペット奏者の演奏、音の質、場面ごとにバタバタしない感覚・・・などの具体例を聴いてみたくなった。

基本的に管楽器、それも金管楽器には疎いところがある。トランペットも日頃好んで聴くという楽器ではない。「ラッパねぇ?」みたいな?それでも往年の天才たちの演奏には惹かれる。

おそらく、純クラシック畑の人たちではない、それも往年のトランペット奏者なんて、ピアノ好きの人は、あまり聴かないのではないかと想像する。でもこのような奇跡のような演奏が存在していた。

このような人たちの演奏を知って欲しい、一人でもいいから。そのような気持ちはいつも持っている。だからブログを書いているのだとも思う。

まず一人目。メキシコの人だと思う。ラファエル・メンデス・・・

そう、この音なんだよ。集まった、一点集中の音。

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狭く集めるイメージ 

 

昔、クラリネットを習っていたことがある。音が好きだったんですよね。憧れの曲もあって、それはサン=サーンスのソナタ。その第1楽章を吹いてクラリネットは辞めてしまった。まぁ、いわゆる挫折?

理由はある。クラリネットって移調楽器。僕が吹いていたのはB菅なので、ドレミと吹くと実際にはシ♭ドレと聴こえる。つまり記譜と実音が異なる。これって慣れ・・・らしいのだが、どうしても視覚的にドレミと入ってきてしまうと、頭の中ではドレミが鳴ってしまうので混乱してしまうのだ。「階名はふらないでね」と言われたけれど、書いてしまっていた。要領が悪いね。クラリネットはそこでストップしてしまって、いまだに移調楽器には苦手意識さえあるのだが、クラリネット経験がピアノに生かされていると感じることも少しだけある。

音の出し方、いい音の概念・・・みたいなもの?ピアノって押せば誰でも一応音は鳴る。そこが便利だが、そこが盲点みたいな?他の楽器のように「音を出す」という意識がなくても音が鳴ってしまうから。

特に管楽器って、狭い小さなところに集中して息を吐かないと音そのものが鳴らない。イメージとしては、針の穴に糸を通すとか、自転車のタイヤの空気入れのような?シュッシュッ・・・のような?集中して狭い範囲に集めて入れる・・・のような?

ピアノだと鍵盤を「面弾き」するのではなく、集中された「点弾き」で弾くイメージ?

ピアノで「音そのものが固いのよね」という場合、面弾きしていないだろうか?固い=シェイプがなく、その場その場の偶発的な音が鳴っている感じ?音イメージが最初にあって、集めて狙って・・・みたいな感覚が欠けていると、いわゆる固い棒弾きになりやすいように思う。

声楽のレッスン動画でよく見かけるような気がするのだが、よくトランペットを例に出して声の出し方を説明する場面。たしかにマウスピースに息を集める・・・音型によって、いちいちバタバタしない・・・みたいなイメージは声楽にも応用できるだろうと思う。

これはピアノにも応用できるかもしれない。面弾きではなく、集めるような感覚・・・

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セピア色の幸せ 

 

ドヴォルザークの有名な「ユーモレスク」、「名曲集CD」「発表会用曲集CD」などには収録されていたりはするが、この曲もあまり(まず?)プロのピアニストがリサイタルで演奏することはない曲だ。発表会御用達のようなイメージはあるが、その割にはピアノの発表会でもあまり登場しないような?変ト長調という調性(調号?)が関係しているのだろうか?

ヴァイオリンの世界では、この曲はよく演奏される。むろん、クライスラーがヴァイオリンに編曲したということが大きいのだろうが、実はヴァイオリンの教則本に収録されているらしい。ヴァイオリンっ子(?)は避けては通れないユーモレスク?

付点のリズムが特徴だろう。ラッタタッタ・・・「長調ですね?明るく弾きましょう」そうなのだが・・・
音型の上がり下がりが明確。「ここがメロディーの山なのよ。盛り上げて~」そうなのだが・・・                        中間部は短調になる。「雰囲気を変えて。短調なのだから悲しく」そうなのだが・・・

指導者側とすれば、指導ポイントのようなものが明快な曲なのかもしれない。ABAの形式だったり、メロディーラインが明確だったり・・・

多くの子供たちの演奏、ヴァイオリンの演奏であったり、ピアノの演奏だったり、そしてピアノバージョンではト長調へ易しく(?)編曲したバージョンであったりするが、なんとなく感じることがある。

「身につけて欲しい」という指導者側の熱意のようなものなのかもしれないが、ちょっと指導ポイントが文部省の学習指導要領っぽいのだ。皆同じような表現・・・それは指導が行き届いているということなのかもしれないが・・・

「付点の連続・・・弾んで」「長調は明るく、短調は悲しく」みたいな、どこか学習指導要領的なものから解放されてみたらどうなるだろう?

例えば「ユーモレスク」はセピア色の幸せ・・・とか・・・

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「舞踏への勧誘」 

 

クラシック音楽、Jポップのように流行はあるのか?「ないからクラシックなんでしょ?」

たしかに、天地真理の「ひとりじゃないの」とか「恋する夏の日」などを聴くと、ある種の懐かしさを感じる。でも、天地真理のヒット曲よりも、はるか昔に作曲されたクラシックの曲に対して、そのような懐かしさを感じることはない。ベートーヴェンのソナタを「ああ、子どもの頃流行ったのよねぇ・・・」という感覚で聴くことはない。だからクラシック音楽なのだろう。

凡作、駄作という作品は消滅する運命にあるのだろう。でも現在でも名曲として残っていて、しかも、かなり有名ではあるのに、何故か演奏されなくなった曲というものも存在する。

サロン的な会場から大規模なホールへ→ザハリヒな傾向から大曲が好まれるように→CDの普及により長時間再生が可能に→演奏会場でも全曲志向へ。ショパンのエチュード、かつてのサロン風な演奏会では抜粋で演奏したのだろうが、現在では全曲演奏されても、あまり違和感を感じなくなっている。

そのような流れの中、名曲であるのに、かなりの認知度さえあるのに、往年のピアニストは好んで演奏したのに、現在ではピアニストがリサイタルで演奏することがなくなった曲というものは存在する。

ウェーバーの「舞踏への勧誘」とか・・・

たしかにリサイタルでは、プログラミングというか、組み合わせに難航(?)するかもしれない。「舞踏への勧誘」の直後にベートーヴェンの後期のソナタというのも違和感を感じるかもしれない。ショパンのソナタというのも・・・

「えっ?現代でも街のピアノ教室の発表会などで演奏されているんじゃないの?」

たしかに「ピアノ名曲集」のようなCDには収録されていたりはするが、この曲、かなり技巧的に難しい。ランゲの「花の歌」とかネッケの「クシコスポスト」のような曲とは異なる。いわゆる「上級者向け」になるのではないか?「舞踏への勧誘」が弾けるのだったら、ショパンも弾ける・・・

この曲、昔の大家(?)は結構演奏(録音)している。コルトー、シュナーベル、最近(?)ではデ・ラローチャ、現代のピアニストではスティーヴン・ハフとか。

かなりの技巧を駆使した曲を、そよ風のように・・・現代のピアニストはこれが苦手なのではないだろうか?

「舞踏への勧誘」は「ワッ、よく弾けるわねぇ・・・」ではなく、「なんて素敵なの?」と感じさせなければならない。バリバリと難所を克服している・・・ではなく、難所もそよ風のように・・・ここが難しいのではないだろうか?

その種の「素敵的難曲」(?)をそよ風のような魅力で演奏しているのがイグナツ・フリードマン。彼は素敵難曲の大家であるように感じる。

この種の魅力を現代のスーパーピアニストから聴くことは難しい。

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弾きこなせれば満足できるのか? 

 

ピアノの音って何種類あるのだろう?88の鍵盤なので88なのかもしれないが、そういうことではなく、唯一つのドに何種類?叩けば誰でも音は鳴るが・・・

人間の鼓動のような横の流れだ。機械のようではなく、人間が感情によって鼓動の震えを変えるように。憧れ、苦悩、後悔、受容・・・人生のそれぞれの場面で鼓動が変化するように音楽が流れていく。

イグナツ・フリードマンは名教師であったレシェティツキという人にピアノを習っている。パデレフスキと同門ということになる。あるピアニストの系譜を辿っていくと、必ずどこかでレシェティツキ、またはリストに辿り着くとさえ言われている。フリードマンの場合、レシェティツキだけではなくフーゴー・リーマンにも師事している。フーゴー・リーマンってピアノ教師というよりは、音楽学者だよね?「音楽美学」のような本を残すような?

アゴーギク、つまりテンポ揺らぎのような概念、言葉はフーゴー・リーマンによって確立されたらしい。その人に師事した。フリードマンの絶妙なるテンポの揺らぎ、それは人間の感情発露による鼓動の変化のように繊細だと感じる。無関係でもないだろう。さらにこの時代のピアニストには珍しくはない事として、音楽以外の学問も収めている。クラクフ大学で哲学を学んでいる。

このような演奏を聴くと、表面的にミスなく破綻なくとか、弾きこなすとか、それだけではないものを求めてもいいのではないかと思う。人間だから、人前で演奏する時には、そのようなことを考えるけれど、もしかしたらそれしか考えられないのかもしれないけれど、追い求めたい、美というものを追い求めてみたいと思う。せっかく生まれてきて、せっかく音楽というものに魅せられて、憧れて自分の鼓動が高まるのさえ感じるのだから、同じように美を追い求めたい。

いつかは自分も音楽によって両手で青空をつかめるかもしれない・・・

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散歩中の巨匠 

 

「最も好きなピアニストは誰ですか?」この質問ほど難しいものはないだろう。「曲によって異なるし・・・」「その日の気分によって異なるし・・・」というのが、むしろ普通で、好きなピアニストは誰と断言することは非常に難しい。不可能???

その返答不可能な質問に、あえて答えるとすると、僕の場合はイグナツ・フリードマンということになると思う。どの曲も・・・ということは、もちろんなくて、この曲は誰それの方が、ということは当然あるにせよ、やはり僕はどこかフリードマンを神格化しているところがあるだろう。だって理屈でなく素敵なんだもの・・・

またフリードマンの演奏は、現代の主流の模範的な演奏と比較すると、おそらく一部の教養ある人たちからは「時代遅れの演奏」のように聴こえるのかもしれない。アゴーギクが非常に大胆というのだろうか?今の基準からすると伸びたり縮んだりが激しい。個人的には、フリードマン基準を「素敵♡」と感じるけれど、人によっては椅子からずり落ちてしまうぐらいビックリしてしまうのかもしれない。そうですねぇ、「そんな風に弾いてはいけませ~ん」と言われてしまうかもしれない危険(?)な魅力が備わった演奏???

一般的に往年の巨匠の演奏を好んで聴く人って、あまりいないように感じている。それはサークルの打ち上げでの会話とか、あるいは人様のブログなどに登場する「好きなピアニスト」などを拝見してそう感じる。チェルカスキーは認知度まあまあなのかもしれないが、その師であるヨゼフ・ホフマンとなると「誰それ?」的扱い(?)になる。さらに認知度が低くなるように感じるフリードマン、おそらく彼は多くの演奏家と異なり、北米ではなくオーストラリアに移住したということもあるのかもしれない。今でさえオーストラリアのシドニーを「音楽的な伝統ある都市」と連想する人は、かなり少数なのではないかと思う。ニューヨークとなるとグッと音楽最先端のようなイメージもあるのかもしれないが。「シドニー?オーストラリア?コアラ???」みたいな?

ポーランド人でありユダヤ人であった。だからこそヨーロッパに留まることが不可能だったのだろう。演奏旅行で滞在したシドニーにそのまま滞在した。「ここ、居心地いいねぇ?温暖だし・・・」というよりは、自分を苦しめたヨーロッパとは真逆のような環境に魅力を感じたのかもしれない。

おそらく自分が最も好きなピアニストと断言できると思われるピアニスト、イグナツ・フリードマンをこれから紹介していくと思う。まずは彼の演奏ではなく「歩くフリードマン」の映像。BGMとして動画では、何故か「マラゲーニャ」が流れる。これはもちろんフリードマンの演奏ではありません。しかも動画としては10秒ほどで切れてしまう。「ただ男性がセントラルパークを歩いている」という映像ではあるわけだが、ファンにとっては「動くフリードマン」というだけでドキドキしてしまうのだ。

フリードマン特集(?)が終わった後、こう感じる人が世界の中で一人でも増えると僕は非常に嬉しい。

「ああ、フリードマンが実際にピアノを演奏している動画が残っていればよかったのに・・・」

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ルバート 

 

マルセル・モイーズに限らず、またピアニストに限らず、往年の巨匠たちの演奏を聴くと、50年ぶりに故郷に立った時のような、胸がどこか苦しくなるような、キュンとしてしまうような、そんな感じがする。むろん全員ではないが、一部の現代の演奏は、事務処理とまではいかないけれど、どこかサクサクと音楽を処理しているように感じる。

ルバートに関してマルセル・モイーズはこう言っている。

「今の人たちはルバートのない不自然な表現に慣らされてしまっている。だから平気でルバートを好まないなどという人までいる始末だ。人が話をする時に初めから終わりまで同じ調子で話されたら聞いているものは皆、口を閉ざしてしまうだろう。それでは自分の伝えたいことを表現などできたものではないのだ」

マルセル・モイーズ、指導者としても大変に厳しい人だったらしいが、この言葉もかなり厳しい。「ではそのように演奏してみて下さいよ!」と返したい感じだが、さすが巨匠、そのように演奏している。流石のルバート・・・ではないだろうか?

先の動画でドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」を貼りつけたけれど、ピアノを弾いていたのは息子のルイ・モイーズ。この人はフルーティストです。ピアニスト・・・ではないんだね?でもピアノ上手ですよね?ルイの奥さんはヴァイオリニストで、父親や妻と室内楽を楽しむうちに、ピアノを担当するようになっていったらしい。何か総合的音楽能力・・・みたいなものを感じたりする。これは往年組から感じたりする共通要素でもある。ルイは、後年アドルフ・ブッシュやルドルフ・ゼルキンと共にマールボロ音楽祭を創設している。

「ユーモレスク」・・・絶妙なる・・・

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どちらでもない・・・ 

 

初めてピアノ教室の体験レッスンに幼い我が子を連れていくと仮定してみる。もしくは、熟年ピアノを始める、再開するとして、初めてのレッスン。そこで教師からこう問われたら戸惑うのではないだろうか?

「専門的に習いたいのですか?それとも趣味として楽しみたいのですか?」厳しくバリバリと?それとも楽しく?

「そのどちらでもないんだけどなぁ?」というあたりが生徒側、その保護者の正直なところではないだろうか?ビシビシと〇歳までにショパンのエチュードを・・・というのも違うし、ではJポップとかアニメの曲を楽しく体験できればそれでよし・・・というのとも違う。大雑把ではあるが、「美を感じたい」、習う側の動機としてはそんな感じなのではないだろうか?途中で辞めるかどうかは別として、将来音楽の花園に自分で入っていける力を、本当の演奏の楽しさを身につけて欲しいとか、聴き手として感動した曖昧模糊なる魅力を僅かでもいいから自分でも触れてみたい・・・とか?そんな感じではなかろうか?極論を突き付けられても困るのだ。Aではないのね?じゃあZね?ZじゃないのならAということね・・・そう極端に分けられても困るのだ。

「ヨヨヨ・・・と泣くように歌うのだ、抑揚をつけるのだ・・・ではないよね?楽譜に盛り込まれてるでしょ?」
「ルバートというものを排除するような昨今の演奏は嘆かわしい」

なんとなく両極端なことを言っている人がいる。マルセル・モイーズという往年のフルーティスト。この人はフルート吹きの間では神様のような人らしい。この人の残した「ソノリテ」という教則本はフルートのバイブル的扱いのようだ。ピアノにおける「バイエル」みたいな位置づけなのかもしれない。

フランスのフルート奏者で、1889年に生まれ、非常に長生きして、1984年に亡くなっている。教育者としても有名だったらしい。もしかしたら、ザハリヒ以前の主観的演奏、演奏者の気分次第的な「歌うのよ~」的な、作品の本質から離れた演奏、反対に、あまりにも楽譜忠実=印刷された音符命・・・のような昨今の演奏、両方を聴いてきた人だったのではないだろうか?

「その方が吹きやすいからといって、フレーズの途中で音色を変えてはいけない」
「メロディーには表情豊かな歌詞がつけられているんだよ」

このマルセル・モイーズの言葉は「楽譜にはすべて盛り込まれているんだよ?そこを拾わないで、感じないでどう演奏するというのかね?」と言っているように聞こえる。

音程の跳躍、長い音、短い音、連続する音型・・・楽譜、それを印刷された音符の連なりとして、ただ視覚的に音にしてしまうのではない、そこに書かれたものを読み取り、感じて演奏しているように思う。同時に「印刷された音符に忠実」と「心からの主観的なものだけに頼って歌う」という両極端のものの間にあるような演奏というようにも聴こえてくる。

本質というものは、目に見えないどこかに、ぶら下がっているのかもしれない。AでもZでもない、どちらでもないところに・・・

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秘術 顔芸奏法 

 

往年のピアニストの演奏姿、それは写真で確認はできるけれど、実際に弾いている姿というのは、なかなか見ることができない。時代的なことを考えれば、もうそれは仕方ないことなのだろう。そのような意味で、このモイセイヴィチの演奏動画は貴重。

現代ピアノ演奏との大きな違い、それは演奏スタイルとか、解釈とか、そのようなことよりも、弾いている姿が違う。難曲を弾いている場合、鍵盤上の手の動きは変わらないけれど、上肢が違う。あまり動かないのだ。非常に安定している。上肢だけでは、つまり指の動きを見ないと、モイセイヴィチがシンプルな「トロイメライ」を弾いているのか、ラフマニノフのエチュードを弾いているのか、ちょっと判断できない。

さらに現代と異なると感じるのは、顔の表情。無表情とは言わないけれど、曲の場面ごとにいちいち表情を変えない。

現代のピアニスト、モイセイヴィチと比較すると、かなり顔芸達者なのではないか?苦痛表情とか天を仰いだりとか・・・

ある子どものコンクールで、異なるコンテスタント(子ども)が同じ曲の同じ場所で、同じ顔をするのを目撃したことがある。弾きながら左前方を恍惚表情で見つめ、手を鼻あたりまでフワッと動かす。偶然?それとも同じ教師の門下生同士?教師が顔表情や腕の上げ位置まで指導(というのか?)している?

上肢がユラユラと揺れない、難所でも飛び上がったりしない、恍惚表情、苦痛表情で弾かない・・・

現代のコンクールには受かるためのマニュアルに「顔表情」という項目が存在するのだろうか?

モイセイヴィチ、大曲「タンホイザー序曲」を演奏後、何事もなかったように一言。「では、おやすみなさい」

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格好いい男 

 

アメリカのフィギュアスケーター、アダム・リッポンがオリンピック出場。このニュースは大きな意味を持つように思う。彼は現在28歳なのだそうだ。28歳、まだまだ若いと思うけれど、フィギュアスケーターとしては若くはない年齢だろう。10代や20歳代前半の若手と戦うのは大変なのではないかな?

その分野で適齢期とされる時期を過ぎても、やはり成長というのはできるものなのだ。もう中年だし、子どもとは違うから・・・と進歩しようとしなければそこで何かが終わる。28歳、アダム・リッポンの演技は大人の(熟年の?)ピアノ弾きにも学ぶところがあるだろうと思う。若い頃より、ジャンプを含め、すべてのエレメンツにおいて進歩しているように思う。

腕の動きとか、美しすぎないですか???

アダム・リッポンは、おそらく冬季オリンピックでは、初めてのオープンリー・ゲイの選手となるのでは?

アメリカ代表の選手たち、これはフィギュアだけなのか、多くの競技の選手もなのか、それは分らないのだが、ホワイトハウスを訪問するという伝統があるのだそうだ。アダム・リッポンはホワイトハウスを訪れないと公表したようだ。

「ホワイトハウスには行きません。自分はそこでは歓迎されない人間でしょうから。だから行きません。部屋に入って自分は歓迎されていない人間なんだと感じるのが、どのような気持ちなのか、自分は知っているからです。オリンピック選手として意見を公表する機会ができました。僕は正しいことは弁護し、間違えていることや不正はよくないことだと言うことがとても大切だと思います」

これは昨年のNHK杯の時の演技・・・

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category: The Skaters

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ピアノ一筋は美点か? 

 

モリッツ・ローゼンタールのコロコロとしたピアニズム、この「コロコロ」は往年のピアニストの中でも、特にミクリ派と呼ばれるピアニストの特色でもあるのだそうだ。でもミクリ門下だけではなく、この時代の人たちって音が軽いような?皆がコロコロしていたような?

ミクリとはカール・ミクリのこと。この人はショパンの高弟でもあった。ローゼンタールはミクリ門下なので、ショパン直系というか、孫弟子みたいな感じになるのだろうか?あとはフランツ・リスト本人の弟子でもあったわけで、いわばショパン、リスト直系派のピアニストとなるのだろう。

純然たる、かつ表面的な技術の高さ、軽さもだが、やはりローゼンタールは「歌いっぷり」が素晴らしい。この有名なノクターンなどを聴くと、現代のピアニストの演奏は、どこかサクサクというか、テンポが速めというか、そのように感じる。


コテコテと塗りたくったような、主観的な演奏はダメなんです。時代錯誤ですらあるんです。テキストを研究し、当時の演奏スタイルなども研究し、作品に忠実に演奏するべきなんです・・・これは現代のザハリヒな方向性だと思うが、そのような研究成果のような、どこかサクサクしたショパンが本当のショパンなのだろうか・・・と、ふと疑問に感じたりする。

ショパン、リストの直系・・・というピアニストがこのような演奏を残している。もしかしたら、当時の演奏スタイルは現代のサクサクノクターンよりも、むしろローゼンタールのようなショパンに近かったのではないだろうか?

ショパンやリストが活躍していた時代、その時代のピアノ演奏は、もっと歌に近かったのかもしれない。

ローゼンタールは技巧派として知られ、おそらく天才として鳴らしていたのだと想像する。そうなってからも、それがリストであろうと、誰かに師事しようと思う発想が素晴らしい。

ピアニストとして成功してから、彼は突如(?)「僕ってピアノばかり弾いてきて一般教養に欠けているかも?」と思ったのか、ウィーン大学で哲学を学んでいる。その間、たしか6年間ほどだったと思うが、ピアニストとしての活動は休止している。ピアニストとしては、ブランクになるとは思わなかったのだろうか?

ピアニストになる、難関音大に入学する、名門音楽院に留学する、コンクールで優勝する・・・そのために幼少の頃から厳しいピアノ道一筋、脇目なんかとんでもありません・・・というのは、もしかしたら現代特有のものかもしれない。

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鋼鉄と真珠 

 

かつてヴァン・クライバーンはこう言われたそうだ。「彼はまず熱情ソナタを弾いて、また熱情ソナタを弾き、休憩後に再度、熱情ソナタを弾く」実際にそうであったわけではなく、コンクール後のクライバーンのレパートリーの知的な追及の無さのようなものを批判したのだろう。あまりに人気がありすぎた。アイドル化してしまった。いつも華やかな曲を求められ、ピアニストとして成長していく機会を与えられなかったということなのだろう。聴衆はラフマニノフやチャイコフスキーの協奏曲を求めはしたが、彼にモーツァルトの協奏曲は求めなかった。そしてクライバーンは消えていった・・・

僕が子どもの頃は、シューベルトの長大なソナタをリサイタルで演奏するなどということは珍しかったように思う。その後、全曲もの、企画的リサイタルがザハリヒな風潮と共にもてはやされる傾向が強くなったように思う。「メシアンの夕べ」とか「○○ベートーヴェン後期ソナタを弾く」「平均律全曲リサイタル」のような?知的要素、深遠なもの、これらのものが流行るにつれ、華やかなショウピースのような曲は敬遠される傾向となった気がする。往年のピアニストが好んで弾いた「シュトラウス・パラフレーズ」的な曲は、どこか「軽薄である」的な扱いを受けるようになったように思う。「今時そんな曲、誰も弾かないよ」みたいな?

辛うじて「発表会御用達曲」として残っていて、曲そのものは有名だが、ピアニストたちがリサイタルではあまり演奏しなくなった曲もある。メンデルスゾーンの「無言歌」とかウェーバーの「舞踏への勧誘」とか。ピアニストが大真面目に演奏するなんて、最近はあまりないような?ポリーニの「舞踏への勧誘」とか、あまり(全く?)想像できない。

より学究的に、より「お芸術」的に、より深遠に、より原典に忠実に・・・

時代の流れと言ってしまえばそうなのだろう。ただピアニストたちのピアニズムそのものが変化したというのも、もてはやされレパートリーの変化に関係しているような気がする。「より速く」「より強く」「より重厚に」・・・

ピアノという楽器そのものが変化したのかもしれない。敏捷で繊細な、そのピアニスト特注・・・のようなピアノから、誰が弾いても弾きやすい、華やかな音が広大な会場でもカーンと鳴るようなピアノが主流になっていった?

ピアニストという職業が、トータル的音楽的教養といったものから、より細分化された。つまり演奏をする、弾くということが専門家された、作曲からの分離、ピアニストの完全分業制・・・

往年のピアニストたちの音、非常に軽い音のように感じる。現代のピアニストたちの音は重厚だ。それに慣れてしまうと違和感を感じないのかもしれないが、個人的には鋼鉄のように重厚なメカニズムのように感じる。バリバリ・・・のような?

往年系の人たちは、バリバリ・・・というよりは、どのような難所でもコロコロとした音がする。つまり軽いのだ。鋼鉄メカニックというよりは、真珠の連なりのような?どのような超絶箇所でも汗や肉体的困苦を感じないのだ。

モリッツ・ローゼンタールも同時代の他のピアニストたちと同様に、シュトラウスものを編曲し、自ら演奏している。この種の曲は、例えばチャイコフスキーの協奏曲にあるような猛烈弾丸オクターブだと曲の良さが出ない。鋼鉄シュトラウスなんて・・・

「えっ、もしかしてそこオクターブの連続なの?えっ?」みたいな魅力?

レパートリーの変化とピアニズムの変化、どこか関連しているのかもしれない。

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往年の技巧 

 

おもに映像でも親しむことのできるホロヴィッツの演奏、ウィーンやモスクワでのリサイタル映像、現在DVDで鑑賞できる演奏、つまりお爺ちゃんになってからのホロヴィッツが彼のすべてではないだろう。若い頃の演奏をも含めてホロヴィッツ・・・なのだと思う。

モリッツ・ローゼンタールの演奏、復刻版のCDやユーチューブでも聴くことができる。遥か彼方からノイズの奥から聴こえてくる・・・というのは大袈裟かもしれないが、そのような演奏はローゼンタールがお爺ちゃんになってからの演奏が多い。超ロマン・・・のようなショパンをウットリと聴いてしまうわけだが、ローゼンタールは若い頃は超絶技巧の持ち主として知られていた。捉え方によっては高齢での演奏も超絶技巧なわけだが、その演奏は「ウットリ系」ではあるわけで現代の腕自慢を唸らせるような「凄い!」という超絶とは異なるような?

ローゼンタールのような往年系の巨匠の場合、若い頃の演奏ってピアノロールでの演奏になってしまう。ピアノロールって原理はオルゴールみたいな?忠実な演奏の再現というわけにはいかないのだろう。そのようなことはよく言われる。でも、そのピアノロールでの演奏に心動いてしまうのは僕だけだろうか?

ショパンのダブルのエチュードを、ここまで軽く、音色多彩に演奏している現代スターピアニスト、有名コンクールの覇者、いるだろうか?

純粋なる意味でのメカニック、その点に関しては昔よりも現代の方が進歩していると言われる。昔は特定の人しか弾けなかった難曲を現代では誰もが弾ける・・・みたいに。

そうだろうか???

芸術性も含めて、純粋なるメカニックという意味でも、往年の巨匠たちの時代、現代をはるかに超えていたのではないだろうか?

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ロマンの遺物? 

 

シチェドリン、サウンドを聴くと革新派という印象。スクリャービンも革新・・・という感じ?ロマン主義からの脱却ということなのかもしれないが、何か独自のもの、今までに存在していなかったものを時代というものも求めていたのかもしれない。そのような意味で、ラフマニノフは時代遅れと当時は認識されたところもあるのかもしれない。特に玄人筋から?

ラフマニノフを追ったような、革新の流れに逆らったような、そのような作曲家、セルゲイ・ボルトキエヴィチ。ロシア革命を挟んだ二つの大戦の時期、他の多くの芸術家とは異なり、彼はアメリカなどに逃れることはなく、そのままヨーロッパに留まった。

名声に包まれて・・・という感じの生涯ではなく、それどころか「生活苦?」のような?時代の流れに乗り遅れた人、そのように捉えた人もいたのではないか?不遇の人?なんとなくそんな感じだったのかもしれないが、時代を逆行するようなロマンティックな作風を生涯崩すことはなかった。強い人だったのかもしれない。

ボルトキエヴィチ、最近、やっと注目され始めた印象がある。昔だったらボルトキエヴィチ作品だけのCDなど、考えられなかったかもしれない。現代はロマンティックなものを求める時代に変わりつつあるのかもしれない。「感情を削ぎ落としたような作品、演奏はもういい。もっと生々しいロマンを聴きたい」そのような流れになりつつあるのかもしれない。

当時、ボルトキエヴィチの理解者は、それほど多くはなかったのかもしれない。それでもそのような自分への理解者に作品を献呈したりしている。その中でもピアニスト、モリッツ・ローゼンタールが自分のエチュードを演奏し、録音までしてくれたということはボルトキエヴィチにとっては大きな喜びではなかったか・・・

自分よりも、はるかに高い名声を保つ大ピアニスト、その人が演奏してくれている・・・

ローゼンタールの側には、もしかしたら「先生、そんなラフマニノフの亜流のような作品を演奏しなくても・・・」などと余計なことを提言する人もいたのかもしれないが、ローゼンタールは美しいロマンそのもののようなボルトキエヴィチ作品をあえて演奏したのかもしれない。

美しいから演奏する、そのローゼンタールの心意気、100年近く時を経て聴いてみる。

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バッソ・オスティナート 

 

ヴァイオリニストのワディム・レーピンとバレリーナ、スヴェトラーナ・ザハロワ。美男美女カップルであり、光り輝く芸術家夫妻。その元祖(?)がシチェドリン。彼の妻はバレリーナのマイヤ・プリセツカヤ。

2015年だっただろうか、プリセツカヤが亡くなった時、一つの時代が終焉した・・・とバレエファンも落胆しただろうが、世界中で最も哀しかったのは、夫であるシチェドリンではなかったか・・・

シチェドリンのピアノ曲では「バッソ・オスティナート」という曲が好き。シチェドリンは優れたピアニストでもあった。この種の作品って、物凄いエネルギーを感じる。

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アルベニス風に 

 

ラフマニノフとは、ある意味対照的な立ち位置に存在すると思われるのが、ロディオン・シチェドリン。かなりの御高齢だと思うけれど、まだご健在だと思う。現代作曲家ということになる。

シャフランとシチェドリン、ラフマニノフでのシャフランを聴くと、あまりシチェドリン作品と結びつかなかったりもするのだが、代表作「アルベニス風に」などを聴くと、歌うような・・・というところで共通点があるような気もする。

現代、近代の作品、時代の先端のような作品、初めて聴いた時の衝撃、これがあると思う。カプースチン作品なども「えっ?こんな曲もあったんだ」という新鮮な喜び、驚きがある。

個人的にはカプースチンよりはシチェドリンに惹かれる。もっと有名になって欲しいと思う。「アルベニス風に」はピアノ独奏バージョンも存在している。ヴァイオリンとかも。でもこの曲はチェロ・・・だよねぇ。

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時代を超えた胸キュン 

 

チェリスト、ダニール・シャフランの演奏、萌えシンコペーション、「ボッケリーニのメヌエット」は素晴らしい演奏だと思うけれど、このブログ内で「ボッケリーニの人」とだけ認識されてしまうのも個人的には非常に残念なところがある。

彼の名演を二つ紹介したい。音楽史的に両極端な流れをした作曲家の作品。

時代を逆行した作曲家、ラフマニノフ。今でこそ偉大な人という評価を獲得しているけれど、当時はどうだったのだろう?意欲的、かつ前衛的な作品が持てはやされた時代でもあった、「時代遅れ」「ロマン主義すぎる」「今の時代にそぐわない」「甘ったるくハリウッド的」のような評価をする人もいたのでは?今もいるのかもしれないが・・・

理屈ではない胸キュン・・・という感じだろうか?

当時、持てはやされたであろう多くの前衛的作品、作曲家が忘れられていく中、ラフマニノフは現代に生き残った。

胸キュンは時代を超えて不変なのだ。

シャフランのこの演奏、ピアノを弾く立場からするとこう感じる。

「チェロってずるい」

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