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ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

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消息筋によれば・・・ 

 

アンダーソン&ロエの男性の方、グレッグ・アンダーソン、最近では珍しいほどの丹精なる正統派ハンサム(死語?)なので、きっと女性ファンも多いと思われる。濃厚なエリザベス・ロエとの共演は、そのような女性グレッグファンには気になるところかもしれない。

この二人、どうもカップルではないようですね。消息筋によれば、グレッグ・アンダーソンは2010年にご結婚をされています。お相手はユーフォニアムという楽器の奏者のカールさんという人のようです。

「カールさん?えっ???男性???」

そうです。グレッグとカールさんは正式に同性婚をされています。7年も前だったんですね・・・

グレッグとカール・・・その同性カップル(夫婦、夫夫?・・・どう文字化すればいいのか?)の演奏動画がアップされている。

「ああ、グレッグとロエはなんでもなかったのね」

女性ファンは一安心なのではないだろうか?

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あの二人、できてるんじゃない??? 

 

イケメンピアニスト、美人ピアニストと呼ばれるピアニストは存在する。実際の演奏が「だからどうした?」的な残念なものであっても、堅苦しいと思われているクラシック音楽の底辺が広がっていくならば、それもあり・・・などと感じたりもする。ある意味の歯がゆさも感じるが。「本当に素晴らしい演奏というものを聴いて頂きたい」のような?

基本的にクラシック界とビジュアル的要素というものは、相いれないものだった歴史はないだろうか?見た目で誤魔化そうとせず、音楽そのもので魅了すべきだ・・・のような。ごもっともな正論かもしれないが、昔、故中村紘子さんについての意地悪な文章を読んだことがある。美人ピアニストとして大衆の人気を誇っていた高度経済成長期の頃だろうか。

正確な言い回しは忘れてしまったけれど、たしかこうだった。高度な技巧で観客を酔わす・・・のような表現。普通、クラシックの場合、オーディエンスのことは「聴衆」と表現する。それをわざわざ「観客」・・・その批評家の悪意を感じたものだが、演奏だけで判断すべし・・・的なスクエアすぎるクラシック界の感覚をも感じたりしたものだ。

アンダーソン&ロエの人気、知名度が(日本以外で?)爆裂(?)したきっかけはユーチューブ。現代の演奏家らしいと言えばそうだ。演奏そのものだけで魅了はできる。でもビジュアル面でも演出をする。

ただ舞台で演奏している動画よりは、物語仕立てというか、非常にカメラワークなどにも凝った、演奏+映像という魅力満載の動画が彼らの魅力の一つなのだと思う。もしかしたら、保守的な人は彼らの存在そのものを否定してしまうのかもしれない。ビジュアル面に依存するなんて・・・と。演奏を聴けば依存ではないと分かると思うんだけどな・・・

アンダーソン&ロエの演奏、映像にユーチューブなどでハマると、まず思うのは「この二人、プライベートでもカップルなのでは?」ということ。二人で演奏中、見つめ合ったりとか、熱い視線の絡みが官能的でさえあったりする。「できてるんだわっ!!!」

実際には、仕事上のお付き合いらしい。二人はなんでもないらしい。あれはプロとしての演出だったのだ・・・

実際に私立探偵をアメリカで雇って調べたわけではないので、本当のところは分からないが、どうも「カップルではないらしい」という文章が多い(アメリカのもの)ので、実際は音楽家としてのパートナーなのだろう。ちょっと残念な気もする。

彼らの作品の中で、最も二人の仲を疑ってしまうのがこれ。ピアソラ・・・

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高尚への逃げ 

 

初めてアンダーソン&ロエの演奏を知ったのが、この動画。ちょっと衝撃的ではありました。超絶トルコ行進曲!!!むろん、彼らの超絶技巧を堪能する楽しさもあったが、それよりも「客席との対話」というものが映像からも感じられたことに凄さを感じた。

まれに(非常にしばしば?)クラシック作品、特にピアノソロの演奏の時に感じることがある。それは「クラシックの逃げ」「クラシックの甘え」みたいなもの。客席との対話、一体感のようなものが皆無でも、そして聴き手は退屈していても、作品が高尚なのだ、それを感じない聴き手が凡庸なのだ・・・みたいな雰囲気。クラシックの世界では、それが許されてしまっていることもあるような気がする。

クラシック嫌い(?)の人が指摘する。「緊張した面持ちで出てきて、何やら難し気な顔で難し気に何やら弾いて、仏頂面(?)で引っ込む」と。もしかしたら、演奏者は「ミスしないように」「音を外さないように」のようなことばかりではなく、会場の聴き手のことも考える必要はないだろうか?「一人でなにやら難し気なことをしている」だけで完結して、しかも、どこかそれが許されてしまうのは、クラシックだけではないか?ジャズにしてもポップスにしても、シャンソンにしても、聴き手が「つまらないな・・・」と感じてしまったら、その演奏者は消えていく運命にある。クラシックの場合、聴き手が「自分の感性が足りないから」とか「そのような高尚なものは分からないから」と解釈してくれる???

聴き手の中には意地悪な人もいる。初めから演奏者を斜めに捉えているような?でもそのような人は一部だと思う。客席は白けていないだろうか?緊張感だけで通していないだろうか?逆に弛緩しきって緊張感が不足していないだろうか(連弾の危険性でもあるような)?

自分がどう弾けるか、弾けたか・・・そこで終わってしまっていないだろうか?客席は完成度、到達度を感じたいのだろうか?

聴き手と演奏者、作品との対話・・・

「そういうことは、もっと上級レベルになってから。上達してから考えること・・・」

そうだろうか?もしかしたら「演奏」というものの第一歩だったら???

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「ぼく きみ わたし」 

 

来年の話をするには早すぎるのかもしれないが、来年のピアチェーレの演奏会は連弾もある。出演するメンバー全員が連弾に絡む。むろん、いつものようにソロもあります。あとは新メンバーも登場します。そのあたりも楽しみにしていて下さい。

アンダーソン&ロエというピアノデュオがいる。日本での知名度もかなりアップしてきているだろうか?来年のピアチェーレで、僕は2人のメンバー(女性です!)と3曲のアンダーソン&ロエのバージョンを演奏する。これが非常に楽しみ。

少し前の記事に書いたけれど、僕は連弾というものに偏見を持っていた。Yピアノ教室の講師たち、「えっ?講師演奏?ソロなんてとんでもない。じゃあ、連弾で・・・」このじゃあ連弾という風景を沢山見てきたことも偏見を生んだ理由かもしれない。

連弾はソロと比較して指の総数は2倍になるわけだから、サウンドとしてもゴージャスになって当然なのだが、どこか華やかなソロと比較して地味な印象?教育的連弾というものがある。発表会で登場するような連弾?生徒がプリモを弾いて、先生がセコンドみたいな?ソロよりもサウンドとしては華やかになるし、生徒側が「片手一本」でも先生の助け(?)により、一応聴き映えはする。教育的、音楽性育成という意味ではいいことなのだろう。でも発表会などで「連弾コーナー」が延々と続いたりすると、正直聴き手としては飽きてくる。サウンドが似ているんだもん。どこか品行方正な「ぼく きみ  わたし」のような世界?

僕の連弾に対する偏見を溶かしてくれた、どこか連弾って「ソロからの逃げ」「ぼく きみ わたし」のような世界、そのような偏見を打ち崩してくれたのがアンダーソン&ロエのデュオ。彼らの演奏は「ソロでは不可能な連弾だけしかできない世界」だったのだ。

2人のピアニストとしての技量が卓越している、そこが魅力だろう。「じゃあ連弾でも」ではなく、まるでラン・ランとユジャ・ワンが真剣に連弾に取り組んだら、このようなサウンドになる的な、クリスタルクリアなタッチ感が魅力だ。もう一つはお互いの手が絡まるところ。私、プリモ、メロディーね、僕、セコンド、伴奏ね・・・という概念、「ぼく きみ わたし」的な概念を完全に打ち破っている。

この「パパゲーノ」は来年演奏します。

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多数派が幸せとは限らない 

 

某政治家の突飛発言(?)のようなものよりも、全体的思考の変化のようなものに注目してしまったりする。ある意識調査らしい。対象は高校生。この時期って周囲を最も意識してしまう年代かもしれない、この意識調査の結果から、そう感じたりもしたが、このような傾向は大人も同じかな・・・などとも思ってしまった。

「日本の文化、伝統は他の国よりも優れている」
2001年調査 29.6%   2013年調査 55.7%

「太平洋戦争の件で日本は謝罪すべきだ」
2001年 64.5%   2013年 39.6%

「校則を守ることは当然だ」
2001年 68.3%   2013年 87.9%

なんだか「いい子」が増えている?喜ばしいことだろうか?なんとなく文部科学省や国の期待する(?)答えが増えているような?このような「全体的な多数派意見」というものが、なんだか恐ろしい。この結果に胸がザワザワしてしまう。このように感じてしまう僕は少数派、ある考えに対しての少数派なのかもしれない。

多数派意見、これが無言の圧力にならなければいい。「こうあるべき」みたいな常識に生きていれば、それが幸せとも限らない。

多くの人は死ぬ前に後悔するらしい。「失敗を恐れずにチャレンジしていればよかった」「自分の生きたいように生きればよかった」この種の調査って欧米のものが多いから、日本人の臨終前意識としては、後悔している人の比率はかなり多くなるのではないかと想像する。世の常識とされているもの、それがあなたの幸せを保証してくれるのだろうか?してくれないのでは?

自分らしく、自分に正直に・・・このことはマイノリティに属してしまう可能性もある。「あの人ったら見て。いい歳よねぇ?はしたないと思わないのかしら?」

「もういい歳なんだから若い選手に道を譲って引退すべきなのでは?」

「男の子でしょ?泣くんじゃないの!」「女の子でしょ?おしとやかにしなさい!」

「事業で成功しているのね、女性なのに素晴らしいわ。えっ?ご結婚されてるの?賢い選択だわ。いざという時の逃げ道を確保しておくなんて賢いわ・・・」

これって差別発言では?そう感じない人がいてもいい。でもそう感じない人が高校生の意識調査のように増えていく・・・これが恐ろしい。多数派意見としてマイノリティを圧していく、これが恐ろしい。

死ぬときに後悔しない、それだけじゃ困る。今、生きているのだから・・・

このような女性がニューヨークだけではなく、東京や大阪、青森や札幌、鹿児島などにも、もっと出現して欲しい。このような人が日本の多数派になって欲しい。

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マイノリティへの想像力 

 

宮中晩さん会に国賓として招いた人のパートナーが同性の場合、そのパートナーの同席は好ましくない、日本の伝統とは合わない・・・自民党のある政治家がこのような意味の発言をした。個人的には「これは失言でしょう」と思ったが、案の定、野党の批判があり、その政治家は発言を撤回したとか、しないとか???

日本は鎖国をしているわけではないので、近い将来、国賓のパートナー問題(?)とは無関係ではいられなくなるだろうと思う。実際、ヨーロッパのある国の首相は同性婚により、同性のパートナーがいて、そのパートナーはファーストレディーならぬ「ファーストジェントルマン」として公務を行ったりもしている。そのような国は多くなると思うし、実際にゲイの元首は意外と世界では多いように思う。

僕は知らなかったのだが、いつのまにか(?)ドイツで同性婚が認められていた。今年の末にはオーストラリアでも同性婚が認められるらしい。この流れがアジア地域にも波及されてくるのは時間の問題かもしれない。

同性婚は反対、宮中晩さん会、そこにゲイ?つまりホモとかレズ?あり得ないだろう?そのような意見そのものはあって当然だと思う。すべての人が同じ意見、これこそ恐ろしいと思う。考えの相違そのものはあって当然だと思う。

でも少しだけ想像力というものを使ってみてもいいのかもしれない。本当に自分はそう感じているのと自分を見つめてみる。かつてのピアノ男子の思い出としては、「ピアノ?お前男だろ?ピアノなんて女が習うものじゃないの?」みたいな発言を受けてきた記憶は持っている。イジメには発展しないまでも、その種の発言には傷ついてきた。決して親やピアノの先生には言わなかったけれど。現在はピアノ男子は市民権を得ている?そうかもしれないが、傷を抱えたピアノ男子もいるのではないかな?絶対大人には言わないから大人は知らないだけで。ただ、そのような経験は想像力を養ったとは思う。空手女子とか、サッカー女子の気持ちも想像できるようになる。「女の子なんだから・・・」とか「もっと女の子らしく、おとなしくしなさい」とか、この種の発言に傷ついてきた女の子もさぞかし多いのではないかと想像できるようになる。

ゲイ?気持ち悪い・・・本当にそう感じるのなら、その人の感じ方、考えなのだろう。でも「なんとなく」とか「大勢がそう思っているので」ということもないだろうか?この「なんとなく多数派」というものが実は恐ろしいような気がする。男なんだから、女なんだから控えめに、いい歳なんだから・・・差別は自分と多数派が作り上げている?少数派への想像力を皆が持っていたら・・・

「同性婚?ちょっとそれは・・・」なんとなくそう思う。でも少しだけ想像力を使ってみる。同性同士のパートナー、どんなにパートナーとしての絆、歴史が深くても、法律的には、ただの「ご友人」となる。重篤な病、怪我で入院、家族以外は面会謝絶となったとする。この場合、同性のパートナーは差別を受けることになる。「ご友人の面会は認められません。ご家族でないと」僕たちは、私たちは家族だ。人生のパートナーとして長い間生きてきたのだ。なぜ家族じゃないんだ?

異性同士のパートナーだったら?つまり夫婦。30年連れ添った妻を病院側が「血がつながっていませんね?面会できません」なんてことはないだろう。この差、これは差別では?ちょっと想像力を使ってみるのだ。同じ人間なのに・・・と。

なんとなく多数派、これが恐ろしいのだ。多数派に属していれば、なんとなく安心だ。「いやねぇ・・・」「そうですわねぇ・・・」と言っていればいいのだから。そしてそれが当たり前みたいにもなっていく。本当にそう思っているのだろうか?少数派への想像力を使ってみたらどうなるだろう?

「いやねぇ・・・」本当にそう思えば、それはその人の意見。でも多数派の中で安心したいという気持ちは本当にゼロパーセントだろうか?無関心でいたい、自分には関係ないし・・・ということは本当にないだろうか?

少数派への少しだけの想像力・・・

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愛で終わる人々 5 

 

イタリアのテノール、まずはパヴァロッティを思い浮かべるだろうか?イタリア国内でもパヴァロッティの人気は高いらしいが、コレッリとディ・ステファーノの人気はそれ以上かもしれない。それとは別に、アメリカ在住のイタリア人に人気のあるテノールがいる。カルロ・ベルゴンツィ。おそらく、外国に住むイタリア人たちに、何かしらのもの、それは「祖国イタリア」のようなものを最も感じさせる人だからではないだろうか?

「ソレントなんかで終わるのは嫌だ。俺は父さんとは違うんだ」「ここが嫌いなら、イタリアが嫌ならこの家から出ていけ」「ああ、出ていく。俺はアメリカで自由に生きるんだ」「では俺が生きているうちは帰ってくるな。もう息子とは思わない。この家の長男は今死んだんだ」

お互いに決して言ってはいけない言葉を言い合った。

ルカはニューヨークのカーネギーホールでベルゴンツィを聴いた。彼の歌唱はイタリアそのものだった。「ああ、ソレントへ帰りたい。父さんに逢いたい・・・」

ピアニストよりも身体が楽器である歌手は引退が早い。テノールは特にそうだろうか?ベルゴンツィは80歳近くまで現役を続けた。彼の衰えない声、発声は、その筋の人(歌手たちですね)の羨望を集め、研究対象にさえなっているそうだ。テノールなのに何故その年齢でも歌えるの???

このカーネギーホールでのベルゴンツィのリサイタル、客席にはニューヨーク在住のイタリア人たちすべてが集まったという感じだ。彼は死ぬまで「イタリア」を歌い続けた。

年齢差別で苦しんでいる人に、この歌唱を聴かせてあげたい。この時、たしかベルゴンツィ、70歳を過ぎていたはずだ。70歳を過ぎても、客席にいた一人の人間の人生まで変える歌唱ができるのだ。

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連弾、ごめんなさい! 

 

長い間、連弾というものに偏見があった。ソロと比較して、演奏中の会場が、どこか弛緩してしまうような?連弾の名曲というものがある。ブラームスの「ハンガリー舞曲集」とかドビュッシーの「小組曲」とか。このような曲には偏見はない。おそらくポップス寄りの編曲ものの連弾に偏見があった。「ディズニー・メドレー」のような?

幾光年昔になるのだろうか?全国規模の楽器店に勤めていたことがある。もちろん講師としてではない。2年ぐらい勤めていただろうか?その時に多くのピアノ講師との、おつきあい(仕事上の)があった。発表会の季節になると、一部の(多くの?)講師たちは憂鬱になるらしい。それは講師演奏というものがあるから。講師演奏を譲り合う、正確には押し付け合うのだ。

「あなたやりなさいよ」「私、一昨年演奏したわ」「A先生はどう?卒業したばかりなんだから現役みたいなもんでしょ?彼女にやってもらいましょうよ」「そうね、それがいいわね」

「でも、演奏なさらない先生がそこまで多いと、特約店としても困るわけで・・・」

「じゃあ、私B先生と連弾する。去年連弾したから今年は弾かなくていいと思ったのに・・・」「日本の唱歌メドレーは弾いちゃったから、今年はディズニー・メドレーかな・・・」

「忙しくて練習できないの。どうしてもやらないとダメ?」ある二人の講師は、「リズム体操」と称して舞台で体操のようなダンスを披露したのだ。そんなにソロって大変?ピアノ講師なのにピアノを弾きたくない?

一部の講師なのだろう。極端な例なのだろう。今でもそう自分に言い聞かせている。でも実際には一部ではなかった。僕が担当した地区だけがそうだったのだろうか?

以上のような、経緯から、連弾というものに偏見が生まれた。いや、連弾にではないな、ソロだと大変、じゃあ、連弾でも・・・という講師たちに偏見を感じてしまったのだ。

考えてみれば、「じゃあ連弾でも・・・」という理由で演奏されてしまうとしたら、連弾も気の毒だ。そもそも連弾は、4手なわけだから、ソロよりもサウンドとしてはゴージャスになるはずなのだ。「じゃあ・・・」では勿体ないではないか。

「連弾でないとできない世界、頑張りましょう」だったらいい。ソロではできないこと・・・

2台のピアノだと「じゃあ2台でも・・・」とはなりにくい。演奏会場に複数のピアノがあることが前提だし、練習(合わせ)も同様だ。そこには「やりましょうよ」という強い動機が存在しているような気がする。本来は連弾も同じはず。

ソロではできないことをしたい、だから連弾・・・

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愛で終わる人々 4 

 

イタリア人って「アクセント」「フェルマータ」「テヌート」「アッチェレランド」「スタカート」・・・これらの音楽用語を赤ちゃんの頃から言葉、会話の中で無意識に使いこなしてきたのではあるまいか?言葉に抑揚がある。

「刑事」というイタリア映画があった。1950年代の古い映画だ。監督のピエトロ・ジェルミは刑事役の俳優としても素晴らしかった。クラウディア・カルディナーレの美しさも際立っていた。何よりもカルロ・ルスティケッリの音楽が涙を誘う。決してロマンティックな映画ではなく、ましてや恋愛映画でもない。暗い(渋い?)刑事物だ。でもラストに「死ぬほど愛して」が流れると泣かずにはいられない。恋人を追いながら走るクラウディア・カルディナーレ・・・彼女はこのシーンでスターになったのかもしれない。

その「刑事」の場面集。会話が抑揚ありすぎ。喧嘩しているみたいだ。まぁ、内容的に会話は激しい場面ではあるが、会話のサウンドそのものが「感情のすべてを爆発」みたいな?イタリア語、激しい・・・

このような人たちが作った音楽(イタリアものとか狭い意味ではなく)と考えてみる。我々は譜読みをする時、音の高低、長短だけを読んで音にしていないだろうか?視覚的な情報を鍵盤で押すみたいなことをしすぎていないだろうか?それが譜読みだと思っていないだろうか?抑揚、彼らには自然なことかもしれないが、我々は意識しないといけないのではないか?

音だけではなく「抑揚はどうなのかしら?」という譜読みも必要なのかもしれない。我々は全部が8分音符の人たちなのだから・・・

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愛で終わる人々 3 

 

フィオレンティーノよりも、さらに知名度の低いピアニストかもしれない。サンドロ・デ・パルマというピアニスト。チマローザのソナタを演奏しているのだが、実に美しい演奏だ。ピアノのトーンそのものが歌みたい。イタリア人だから・・・と言ってしまえばそうなのかもしれないが・・・

この動画はピアニスト本人がユーチューブにアップしている。バルコニーからの雪景色、これは自宅のバルコニーから撮影しているものと思われる。また、近所(ローマ)の雪景色も美しい。美しい演奏は、美しい住環境に関係している?毎日目に入るものだから、可能性はあるかもしれない。ピアノが上手くなるためには美しい景色の中で暮らせばいいのか?

さり気ないような美しさなのだが、左手の刻みにメロディーを合わせています的な演奏ではなく、メロディーが生きている感じ?よく聴くと(よく聴かなくても)フレーズ内で旋律の動きが一定ではなく、山に向かって、そして落ち着いて・・・のような自然な動きがある。長い音符はエネルギーがあるように、細かい音符は枯れ葉がチラチラと落ちるように・・・この動き、イタリア語の会話に似ているような気がする。つまり言葉に抑揚がある。

フランス語って美しい言葉とされているらしいけれど、フンフンと抜けてしまう感じで、個人的にはイタリア語の方がサウンドとして音楽みたいだなと感じる。何を言っているのかは全く分からないけれど、だからこそ「あそこの店で洗剤買ってきて」のような日常的な言葉でも音楽的に聴こえるのかもしれない。

母国語に抑揚がある、これは外国人にとって日本語を学ぶ際のネックになるらしい。どうしても外国風(?)な日本語、抑揚の激しい日本語になってしまう。その場合、「全部が8分音符。それ以外はないの」と指導すると、少しは日本語らしくなるのだそうだ。

日本人が西洋音楽を演奏する、そして「なんだか音を並べているだけ?」と感じる場合、この逆をすればいいのかもしれない。自分たちの言葉は、イタリア語と比較すれば「全部が8分音符」なのだから、意識的に抑揚を感じなければならない。タモリのように「なんちゃってイタリア語」を話してみたら?それをそのままピアノに移してみたら?意外と抑揚効果ありかもしれない。

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愛で終わる人々 2 

 

イタリアのピアニスト、まずはポリーニでしょう。たしかにi、愛で終わる苗字の人ではある。でも彼よりも個人的には愛を感じるイタリアのピアニストとしては、iでは終わらないけれど、セルジオ・フィオレンティーノを挙げたい。

この人、無名・・・ではないのだろうが、練習会の打ち上げなどで話題になるほどの知名度はないようだ。「ポリーニって?」という人はいないと思うけれど、フィオレンティーノだったら可能性はある。

ああ、歌・・・そんな存在のピアニストだ。

どの曲の演奏でも歌を堪能できるピアニストだと思うけれど、まずは彼自身のトランスクリプションを聴いてみるといいのではないだろうか?フォーレの「夢のあとに」のトランスクリプションとしては、アメリカのアール・ワイルド(この人も好き)のものが演奏される機会が多いように思う。フィオレンティーノ版は、それよりも飾りが少なく、原曲に忠実な感じだ。シンプルな美・・・というのだろうか?

たった2ページ、音も多くはない。でも・・・素敵だねぇ。編曲も演奏も素敵だ。

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愛で終わる人々 1 

 

本場の音、基本的に僕はこれを信じない。ショパンを本当に演奏できるのはポーランド人だけだ・・・とか。やはりドイツ人だけあってバッハの神髄に迫るような・・・とか。信じない。我々日本人は西洋音楽を演奏できないではないか?マリア・カラスはアメリカ人にしてはイタリアオペラが上手だ・・・なんて言う人もいない。アルゲリッチの演奏にアルゼンチンらしさ感じ取り感動するなんてこともないように思う。そう、本場の音なんてないのだ。国籍なんて関係ない。

それはそうだが、苗字がアルファベットのiで終わる人々がいる。つまりイタリア人。イタリア人ってオペラ、愛の国・・・そのようなイメージはある。つまり歌う人というイメージ。

不思議なのだが、ピアノのレッスンでは「歌って~」のオンパレードなのに、日本のピアノ教育、ピアノレッスンとイタリアとの接点ってあまりないような?歌が好き?オペラが好き?声楽科を受験するの?・・・みたいな?日本のピアノって、どうもドイツっぽい。それはいいのだが、どこか重苦しさも感じる。バッハの平均律は旧約聖書でベートーヴェンのソナタは新約聖書とか・・・お、重い。どこか受験の必修科目のような?

僕はバッハよりもヴィヴァルディが好き・・・これはかなり勇気の必要な、かつ大胆な発言だろうか?鑑賞者としては(学習者としても?)神バッハよりはイタリアン・バロックに惹かれる。バロックのピアノ、チェンバロよりは、弦、声楽に惹かれる・・・

ドイツとの接点はあった。今の流行はロシア・・・だろうか?「ロシア奏法」とか?

何故イタリアではないのだ?歌の国なのに・・・ピアノって歌っぽくない楽器なのか?

苗字がi、愛で終わる人々、つまりイタリア人の歌、作品、ピアノ演奏を追ってみたらどうなるだろう?歌の国の人は、やはり歌うのだろうか?それとも国籍は関係ないのだろうか?

ピアノで歌って~

ならば歌の国を彷徨ってみようと・・・あまりピアノ人は訪れない国だからこそ訪ねてみようと・・・

僕の初クラシック演奏会、つまり生まれて初めての生演奏体験が歌の国の人の歌だった・・・

1973年のことだ。Corelli・・・ほら、愛で終わっている。

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先読み準備万端!! 

 

フィギュアスケートの演技で多少の取りこぼしがあっても高得点の出る選手、出ない選手、ある共通点があるように思う。例えば、ジャンプを跳んだ場合、片足で降りるということだけしか考えていない(ように見える)選手と、跳んだ瞬間に降りた後の姿勢、軌跡の美しさまでを想定、準備している選手との違いみたいな差だろうか?

ピアノ演奏でも、ある音を鳴らした瞬間、次の音に対しての自分なりの「理想サウンド」が頭の中で鳴っているだろうか?そのサウンド、音を鳴らせるようにするのが練習・・・

ジャズのアドリブ、この場合、鳴らしている音に必死・・・だと続かないように思う。次の音、さらに次の音が頭の中で鳴っていないと難しいのではないだろうか?何故にクラシックになるとこの感覚が乏しくなるのだろうか?

練習とは印刷された音を鳴らせるようにする・・・ではなく、次の理想音を具現化すること・・・と捉えてみたらどうだろう?つまり準備万端状態というものを身につけるということが練習。準備するためには、次の音の理想音が必要。そのために準備をする。そこのところが曖昧だと、つまりどのような音が欲しいのか自分で分かっていないと、準備という観点すらなくピアノを弾くことになってしまう。

これには練習というものの概念を変えてみる必要がある。発想転換。ここが難しいのかもしれない。一応弾けるようにする・・・のが練習ではなく、譜読みではなく、最初に理想形を掴む。そこにどうしたら到達できるのか、それが練習。

ドを弾いた。次のレの音は、行き当たりばったりではなく、理想のレが自分の中で鳴っていて、その理想に近づけるのが練習・・・理想の音がなければ準備も何もないではないか?

こう考えると、譜読みでも「一応音を並べるようにしてから、つっかえずに通して弾けるようにしてから表現を考える」という手順が、いかにおかしいのかが分かってくる。

習慣というものは恐ろしいというか、子どもの頃から「まずはつっかえないで弾けるように、(表面上)正しく弾けるように」ということを徹底され、「弾けるようになってきたから、では音楽的な表現も考えていきましょう」的なレッスンをずっと受けてきたのなら、大人になっても「練習とはこのようなもの」「曲を仕上げるとはこのようなもの」みたいな感覚があるだろうと思う。

ある演奏を、ある曲を聴いて萌えたのなら、その時に「ああ素敵・・・」と感じたのだったら、感じたからこそピアノなどを弾いているのだと思うが、感じたのだったら、あなたは機械ではないのだ。音楽的不感症、音並べ人間ではないのだ。

① 自分差別をやめる・・・どうせできないしぃ。ピアニストさんじゃないし。基礎がないしぃ・・・をやめる。
② 自分の描いた理想音楽は素晴らしい。まず自分自身がそのサウンドに心を動かされたのだから。遠いかもしれないが、できると思うこと。そのサウンドが自分を動かしたのだから。
③ 自分の理想サウンドを信じて、準備をすること。そこに無頓着だと、「ああ、こんな音じゃないんだけどな」とさえ思わす、ツラツラと印刷音符だけを弾いてしまう。
④ 上手い人って準備が早いと認識する。才能とか、経験とか、そのようなことよりも、準備が早い。
⑤ 何を準備するの?自分の理想音。一応弾けてから・・・ではなく理想サウンドのために練習する。

バーブラの初期の頃の歌唱。僕が生まれる前だ!自然に音楽的に何気なく歌っているようにも聴こえるけれど、準備が凄い。ある音を歌った瞬間、身体中、意識のすべてが「次の音」に向かっているような???

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針の穴に音を通す 

 

昨日の演奏会、無事終了しました。聴きに来ていらして下さった方々、ありがとうございました。一人一人にお礼をするべきなのですが、それも難しく、失礼ながら、ここでお礼とさせて頂きます。

僕は、やはりピアノ人間ではなく歌人間なのだと痛感する。ピアノではなく、声楽を聴くとピアノのモチベーションが維持できるというか?

歌を聴くといいとはよく言われる。どうもピアノの人は声楽が苦手の人が多いように感じる。ピアノとは異質のものと感じるのだろうか?「ええ~?オペラ???」みたいな?歌を聴く利点、おそらく「表現力」とか「歌心」とか、そのようなことに効果がある(?)と考える人が多いのではないだろうか?むろん、卓越した偉大な歌手の歌は、そのような点でも素晴らしい。全体として聴き惚れてしまうというか?

歌から盗める(?)ものとしては、むしろ「発声」なのではないかと思う。ピアノだと「タッチ」「打鍵感覚」みたいな?

素晴らしい歌手の声、音、非常に集中されている。針の穴に音を通す・・・という感じなのだ。ボヤ~ンと無意味に広がらない。この感覚はピアノでも生かせると思う。ピアノ演奏も、音そのものが集中されていないと凡庸な印象を与えてしまう。

集める、集める、集める・・・という意識だろうか?弾いてしまったら、次の集まった音のための準備をする。そうしないと、ピアノの場合、バシン・・・みたいな直接音、基音のようなものが目立ってしまう。歌うように・・・これは「いかにも歌っぽく表現する」というよりは、歌手の発声の瞬間を盗む、ピアノに生かすみたいな意味に捉えてみるといいかもしれない。

聴いて感じることはできる、歌うように弾いてみたい、表現力豊かな演奏をしてみたい、でもどんなに歌うように心を込めて(?)演奏しても「ただ音を並べている」のような演奏になってしまい、どうしていいのか分からない、先生も「練習するしかないのよ」ぐらいのことしか言ってくれない・・・

偉大な歌手の歌唱を聴いてみる。それも全体的に「素敵ね~」という聴き方ではなく、声の出る瞬間、その声と次の声のつなぎ・・・のようなことをピンポイントで聴いてみる。針の穴にどう音を通しているのか、集中された音とはどのような音なのかのイメージ・・・

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ピアノは簡単に崩れ去る 

 

ピアノを弾くことは続けるだろうという強固な意志があるものと思っていた。自分に深刻な事態が起こっても、とりあえずピアノは続けてきた。親族や親に何があっても、内なる力を総動員して、ピアノのある生活は維持してきた。練習量は減ることもあるし、ピアノの前に座るということはできなくても、「このままピアノから遠ざかるのかな・・・」という危機感はピアノを再開してから今まで持ったことはなかった。

ピアチェーレ演奏会は明後日。少しだけ宣伝すると、まだお席はあります。ピアチェーレのホームページ、メールフォームよりお申込み下さい。無料の演奏会です。このブログにピアチェーレのページをリンクしてありますので、興味のある方はどうぞ・・・

本番前は練習に集中したいもの。これは誰でもそう願うだろう。僕の場合、生活の中のピアノ・・・というスタンス、少し甘えた(僕はそうは思ってないんだけど、手が痛くなるまで、寝ないで練習すべきという美学の方からはそう感じるかも?)スタンスなので、仕事は休まない。当日は休むけれど、練習のために仕事のスケジュールを調整するということはない。前日もその前の日(今日ですね。夕方から仕事です)も日頃と同じでいく。だからこそ、練習は集中したいのだが、それができないこともあるのだということを知った。

自分のこと、親のこと、自分の配偶者、子どものこと・・・となると、自分の内なる力を総動員して困難を克服していくものだ。人間は強いのだ。そのような意識さえなく、進んでいける。自分の経験からもそれは思う。でも、ちょっと離れた人というのだろうか、親しい友人とか、親でも義理の親、そのような人たちに何かあった場合、困難という事実が、より圧倒的に自分に降りかかってくるような感覚を持つ。長男の嫁とか、大変だろうなと思う。自分の親以上に、通院、世話、自分の家族との生活の調整など、意識下の中での心労は多いのではないかと思う。

僕の場合、友人が入院した。緊急入院というメールから連絡が途絶えたので、非常に心配した。生きているのか、生きていても集中治療室レベルなのか、どうなんだろう、非常に心配し、それこそピアノどころではなくなった。自分の困難の場合は、なんとかコントロールできるのだが・・・

何があってもピアノを弾き続けるという意思は簡単に崩れ去った。先日ピアチェーレ演奏会のリハーサルがあった。その直前まで友人の安否が不明だったので、暢気にピアノなんて弾いていていいのだろうかという想いが非常に強かった。なんとか生きている、話せる・・・そのことを確認できたので、リハーサルでショパンなどを弾けたのだと思う。

意外と簡単にピアノライフなんて崩れ去ってしまうものなんだぁ・・・それが正直な感想だ。無料ではあるけれど、世間に告知した演奏会が控えていたから弾いていたという感じだ。これが、ただレッスンに通う、たまにサークルに出る、発表会には何を弾こうかな・・・というピアノライフだったら、あっけなくピアノというものが日常から崩れ去ってしまっただろうと思う。

大人のピアノ、特に中高年のピアノの場合、そのピアノライフは薄氷を踏んでいるようなピアノライフなのだ。いつ氷が割れるか、落ちてしまうか分からない。そうなっても、それは特別不幸なことでもなく、世間ではよくあることなのだ・・・

もちろん、ピアノはそのような中でも、なんとか練習していた。本番があるから。緊張感を自己救済に使ったという側面もある。あとは、ギターを聴いていた。世界を駆け巡るワールドワイドなギタリストではなく、自宅の部屋で録画した演奏をユーチューブでアップしているようなギタリストの演奏。その演奏を聴いて自分の癒しとしたところがある。これも自己救済かもしれない。

Cyrloudさんというギタリスト。この人の演奏は以前から好きだった。なんとなく演奏が自分と似ているなぁ・・・などと生意気にも感じたりもしていた。たま~にメールでやり取りするような間柄なのだが、個人的な友人・・・というわけではない。「癒しにさせて頂きました~」などとは彼には言ってはいないのだが、お世話になりました。彼自身も重篤な病を克服し、日常の中で、生活の中でギターを弾いている。

音楽って切ないねぇ・・・生活も切ない・・・でもそこがいい・・・薄氷ということを再認識させてもらった。

Cyrloudさん、ありがとうございます。

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バーンスタインと慟哭 

 

中学生だったと思う。1979年なのでそうだと思う。ピアノは中学進学と共に辞めていたので、正直に言うと「せいせいとしていた」と思う。またピアノを他の先生に習うとか、教室に通うとか、考えられなかった。子ども時代特有の無責任な生活を無意識に満喫していたと思う。音楽は好きだったし、ピアノの聴くのは好きだった。家からピアノというオブジェクトが消えても、何も感じたことはなかった。

「音楽愛好家、鑑賞者としての道を歩むんだな」という自覚があった。それでいいんだという自覚。あなたはピアノが下手なのね、そう言われ続けることもなくなって、音楽だけが好きであればいいという生活を満喫していたと思う。

中学生にしては音楽会には通った方なのではないかと思う。小学生の時に案内役をしてくれた医大生は、本格的に医師の道を歩み出したし、これからは自分なりに音楽とつきあっていこうと思っていた。

まだサントリーホールなども存在していなかった時代、来日演奏家のコンサートは東京文化会館で行われることが多かった。ここしかなかったという感じでもあった。ニューヨーク・フィル&バーンスタイン、この演奏会は当時でも話題になっていたように思う。若輩音楽愛好家としても是非聴いてみたかった。お小遣いなど吹っ飛んでしまった記憶がある。

音楽愛好家の常として、当日演奏される曲はレコードやFMなどで予習はしていた。ショスタコーヴィチの五番の交響曲、そのフィナーレで人生初めての慟哭の瞬間がきた。この感覚は予想していなかったもので、非常に困惑した。

なにか、とてもやるせない感じ?これでいいと思っていた、思い込んでいたことを反対尋問されてしまうような感覚?

「この感覚を聴いて閉じ込めているだけでいいのかい?それで本当にいいのかい?」そのように問われてしまうような感覚。それでも僕は強情なので、ピアノを再開とか、そのようなことは一切感じなかった。もうあのようなことはもういい・・・

「ではどうしたら?自分の中で燃え盛ってしまう気持ちをどう処理すればいいのだろう?」

中学生だった僕は、ただ泣いた。泣きながら歩いた。電車に乗れるような状態ではなかった。たしか、上野から日暮里まで歩きながら気持ちの整理をしていたと思う。

その後も似たような「人生慟哭の瞬間」は何度もあった。それでもピアノを弾くという行為に至らなかった理由としては、ピアノ教育、ピアノ教室、ピアノ教師などというものにトラウマのようなものを感じていたからだと思う。でもそれよりも大きな理由は、「人生忙しかった」というものだろうと自分では思っている。人並みに進学し、就職し、さらには住む国を変え、帰国後も職業を転々と変え・・・という、どこかレールから外れた人生を送ってきたからだと思う。

もう40歳(まだ40歳?)という頃、生活が落ち着いたのだ。仕事をして時間があればピアノを弾いて・・・という「普通の生活」を送るようになった。ただもう二度と味わいたくないのが、中学生の時に感じたバーンスタインの慟哭、ショスタコーヴィチの慟哭・・・

この時の気持ちを味わいたくないから、今の自分は、弾けるときにはピアノを弾いているのではないかとさえ思う。

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秋刀魚の味 

 

やはり斎藤高順という名前から連想するのは小津映画。音楽の出だしを聴いただけで、ドンゴロスのタイトルバックとか、笠智衆や田中絹代、そして浦野理一の着物、赤いヤカンなどが浮かんできてしまう。

最も小津調を連想させる有名な斎藤メロディーは「サセレシア」なのだと思うが、個人的には小津監督の遺作である「秋刀魚の味」の音楽が好き。映画の中での小津調というものが存在するように、斎藤高順の音楽も、それぞれの作品に共通したものを感じる。小津映画のストーリーそのものが、どれも似たり寄ったりと言えばそうだ。嫁入り(嫁出し?)物語が多いし。

「深刻な音楽じゃなく、パッと明るくなるような軽快な音楽を頼むよ・・・」小津監督の常なる要望だったらしい。そもそも「サセレシア」も主人公が病気の友人を見舞うという場面のために作られた曲なのだ。暗くならない、重く深刻にならない、それは小津映画そのものなのかもしれない。

日常的、生活の一場面、それはそうなのだが、人にはいろいろとあるものだ。離婚した、彼女は母親として責任を果たしてくれるだろう。でも娘にこれだけの時間しか会えないなんて。一人帰宅した男。良かった受験も終わった。息子は合格した。そのために犠牲も払ってきた。もちろん嬉しい。でもどこか切ない、なんでだろう?予想しなかった感情に戸惑う母親。大切な友人が入院した。予想よりも元気そうだ。深刻な事態には変わらないけれど、最悪の事態も覚悟していた。病院を出て新宿の雑踏の中に紛れる。なんだか涙が出そうだ。なんでだろう?雑踏なんて、いつもと変わりない情景なのに・・・

嬉しいこと、切ないこと、いろいろとある。様々な人間としての感情がある。幸せな人、平凡な人、試練の真っ最中の人、どの人にも、すべての人にも共通したものがある。

それは「空」だと思う。すべての感情を呑み込んでくれるような?どの人の頭上にも同じ青空が、同じ夕焼けがあるのだ。

この感覚、小津映画みたいだ。そして斎藤高順の音楽・・・

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ブルー・インパルス 

 

来月、あるピアノの会に参加する。これまでは所属しているサークルの練習会、あとは自分で企画するリサイタルなどが人前演奏の場だったけれど、最近は「ピアノ弾きませんか?」とお誘い頂くこともある。山梨の甲府でピアノを弾いたりしたし、与野市で会ったことのないピアノの先生の会に出演させて頂いたりもした。いつも決まったメンバーの前で演奏するサークルも楽しいが、知らない人たちの中で演奏するのも楽しい。緊張するが・・・

来月は千葉県の市川で演奏する。市川は訪れたことのない土地だと思うが、親がお隣の小岩に住んでいるので、なんとなく親近感はある。なんでも由緒ある洋館が会場なのだそうで、それも楽しみだ。

主催者の方が出演メンバーの曲目をメールしてくれた。結構珍しい曲が多いのではないかと感じた。僕はショパンのバラードを演奏するのだが、そのようなスタンダード曲(?)の方が少ないかもしれない。

斎藤高順のピアノ曲を演奏する人がいる。ああ、斎藤高順・・・この作曲者の名前を聞いて「ああ、あの・・・」となる人は、おそらく映画好き、それも小津映画が好きな人、あとは吹奏楽に興味のある人かもしれない。僕は小津ファンとして斎藤高順を知っていた。

斎藤高順のピアノ曲、数は結構存在していると思うが、まずは演奏されない。子どものコンクールの課題曲になっている「三つの宝石」という曲は、もしかしたらピアノ教師の間では知られているのかもしれない。僕の持っているボロボロの春秋社の楽譜に「三つの宝石」が収録されていて、初見でも弾けるようなシンプルな曲だ。そうですねぇ、湯山昭と三善晃、そしてサティを一緒にした感じの曲だろうか?

僕は吹奏楽に詳しくは全くないので、なんとも言えないのだが、「ブルー・インパルス」という行進曲(?)はとても有名なのだそうだ。この曲以外にも吹奏楽の曲を沢山作曲している。もしかして日本吹奏楽の父?

武蔵野音大のピアノ科から、作曲家を目指し、藝大の作曲家に再入学する。このあたりは普通の経歴だと思うが、斎藤高順は航空自衛隊航空中央音楽隊長という肩書をも持つ。自衛隊???1等空佐という階級(?)なのだそうだ。あ、だから吹奏楽・・・なのか・・・と納得できそうな感じではある。後に警視庁音楽隊長となっている。警視庁???

自衛隊とか、警視庁とか、彼のピアノ曲とは結びつかない感じだ。さらに小津映画の音楽とも結びつかない・・・

これが有名な(僕は知らなかったけれど)「ブルー・インパルス」という曲。ブルー・インパルスって寝台特急の名前かと思ったが、それはブルー・トレインでした。実は飛行機の名前らしい。

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もしもピアノが弾けたなら 

 

大人のためのピアノコース、ピアノ教室にもこのようなコースが増えた。「昔習っていたけれど、もう弾けないから」あるいは「この年齢で始めてみようかしら?」みたいな人が昭和時代よりも増えたということなのだろう。教室側の経営戦略(?)としても子どもだけではなく、大人に対象を広げるというのは当然の流れだとも思う。子どもは減っていく、これからますます減っていく・・・

「大人のピアノ」という言葉、市民権を得たような気がする。でもおかしくはないだろうか?なぜ「子どものピアノコース」という名称は一般的ではないのだろう?それは、まだまだピアノを習う、ピアノ教室=子どもの世界・・・と一般的には認識されているからではないだろうか?なので、わざわざ「大人のピアノ」と別枠で表現する。

ピアノの作品、ピアノという楽器そのもの、本来は大人のためのものだったのではないだろうか?むろん、小さな頃から始めなければ・・・という面はあるのだろうが、それでも「子どもピアノ」はピアノ人生のピークではなく、あくまでも前哨戦、序章、前菜・・・なのでは?ピアノのメインは「大人ピアノ」であるはず。

街のピアノ教室、つまり「現場」では、そのことは実践されているのかもしれない。「ああ、今辞めちゃう?もう少し頑張ればいいのに・・・これからなのに・・・」と歯がゆい思いをしているピアノ教師は多いと思う。「部活が・・・」「進学が・・・」

やはり中学進学ということが大きいのだろうと思う。「せめて中学時代を終えるまで続けてくれれば・・・」そう願っている教師は多いのだろうし、そのような問題(?)に関して、具体的に何かしらを実践している教師もいると想像する。でも小学時代を中学時代にすることは目的ではなく、あくまでも手段なのだと思う。では目的は?

あるテレビドラマの主題歌として日本全国に流れヒットした曲、「もしもピアノが弾けたなら」は1981年の曲。もうそんなに昔なんですねぇ。西田敏行が歌っていたと記憶している。

現在ピアノを習っている子どもたちのことを考えた時、辞め時引き伸ばしが手段なのだとしたら、目的は、その子が40歳、50歳になった時に「もしもピアノが弾けたなら」と絶対に思わせないことだろうと思う。昔、ピアノを習っていた、でも大人になった時、さらには高齢と言われる年齢になった時、ピアノが弾けない、これは不幸なことなのではないかと思う。今、子ども時代にピアノを習っているのは、教則本を進ませるためでもなく、難曲を弾くためでもなく、コンクールで賞状をもらうためでもなく、30年後、40年後にも、生活の中にピアノ、音楽が自然に入り込んでいるということ、それが目的なのではないだろうか?

この動画の方はジェフさん。アルゲリッチとホロヴィッツのシューマンを聴いて感銘を受けた。「ああ、自分も内面の熱い何かを形にしてみたい、音にしてみたい、彼らのようには弾けないけれど、作品に、そして自分の内面に光を当てて、音の形にしてみたい・・・」そう思った。弾いてみたい・・・と。表現してみたい・・・と。

その時に「もしもピアノが弾けたなら」ではなく、自分なりに何かができる、大人になった時にもできる、それが「子どものピアノコース」の一つの目的ではないだろうか?

「もしもピアノが弾けたなら」の作詞は阿久悠だったんですね。

♪ だけど ぼくにはピアノがない
  きみに聴かせる 腕もない
  心はいつでも 半開き
  伝える言葉が 残される
  ああ  残される

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ピアノのユニセックス化 

 

ある時から気になっていた。あの洋館から流れてくるピアノの音色。僕でも聴いたことがある曲だ。「エリーゼのために」という曲らしい。「どんな人が弾いているのだろう?」気になる。窓からそっと覗いてみようか?生垣から庭に入れる箇所があるのは知っている。でもそれって不法侵入?

窓から覗いてみる。リボンをつけた深窓の令嬢を想像していたが、中年の禿オヤジが弾いていた。それからは「エリーゼのために」を聴くと禿オヤジを連想するようになった。

なんとなくピアノって女子力の強い世界のように思う。ピアノの発表会では舞台に花が飾られ、フリルの衣装で満載になる。女子の世界だ。ピアノ講師セミナー、おそらく女性の園・・・なのではないだろうか?フィギュアスケートファンも女性強しの感がある。男子シングルの世界だけではなく、女子選手を応援しているのも女性が多いような?男性ファンが集団で会場から黄色い声援を送るなんて、あまり見たことはない。女子力強し・・・

ピアノを弾き続けて、いわゆる難曲、名曲というものにも手を付けるようになると、そこは歴然たる男性優位世界だったりする。気軽に何度も出てくる10度に「ああ、男に生まれたかった」と主に手の大きさを理由に嘆く女子も多そうだ。作曲家は男の世界だ。音楽室に飾られていた厳めしい肖像画も男ばかりだった。彼らの中に「僕の曲って150年後に東洋の島国で人気が出ると思うの。大和撫子のために曲を書いてみようかな?」などという想像力豊かな作曲家などいたのだろうか?

そこに行き着くまでは女子力の強い世界のように思う。僕も含めた、かつての昭和ピアノ男子も現在頑張り中だ。40年前よりは男のピアノも市民権を得たのだろうか?「えっ?お前ピアノなんか習ってるのか?」あたかもピアノは女の子のものとでもされているかのように周囲から言われた経験、それはどこか苦い経験、ピアノ男子なら持っているのではないだろうか?少なくとも、高度経済成長期には、「えっ、ピアノ?いいなぁ、俺も習いたいなぁ」などという雰囲気はなかったように思う。「男のくせに・・・」「男なのに・・・」という空気があったと思う。

子どもの頃、ピアノを習っていた時に「嫌だなぁ」と感じていたのが月謝袋。色がピンクでミツバチとお花というイラストつきだった。これが嫌だった。発表会のプログラムも同じ感じで、どこか女子力を感じさせてとても嫌だった。むろん、とても小さなことではあるので、当時は流してしまったが、どうせなら、いかにも小津安二郎が好みそうな、幾何学的模様の渋い和柄・・・などの月謝袋だったらピアノへのイメージも変わっていたかもしれない。

楽器店の楽譜売り場、導入用の教材やピアノグッズ、今でも女子力満載だ。どこにピアノ男子の入り込める世界があるのだろう?イラスト、パステルカラーの世界。ファッションの世界のように、もう少しピアノもユニセックス化して欲しいなどと思う。

ユニセックスピアノ、この人たちの演奏を連想した。フリル満載の少女が夢見がちにピアノを奏でる・・・という昭和的イメージではないピアノ。男子中学生、それもシンナーを吸う不良(死語?)が「これ、いいじゃん・・・」などと言いそうなピアノ、「ピアノってクールじゃん?」などと言いそうなピアノ・・・

お花、クマさん、パステルカラー、もう少しトーンダウンすると男子ピアノも活性化するかもしれない。

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お菓子は女の子のもの? 

 

チョコレートパフェを嬉々としてオーダーする男、女性からするとどうなのだろう?やはり「気味悪い・・・」とか思うのだろうか?僕が気づいたところによれば(?)、ケーキ、パフェ、この種のものが好きなのは女性とされている。あとはエスニック料理の店も女性ばかりのような気がしている。男性よりも女性の方が未知のものに対して抵抗がないというか、好奇心旺盛のところがあるのだろうか?エスニック料理の場合はそうかもしれない。では甘いものは?

あまり行けないのだが、僕は「エッグスンシングス」という店がお気に入りなのだ。基本的にはハワイ料理の店ということになる。肉料理も卵料理もある。でも、ほとんどの人の目当ては大量の生クリームが添えられた(というより生クリーム主役でパンケーキが添え物?)パンケーキだと思う。僕もここの生クリームパンケーキが目当てで、この店に行く。

女性に大人気の店らしい。いつも行列ができている。時間や曜日によっては2時間待ち・・・とか・・・

たしかに女性客が多いが、男性もいる。でもカップル(男女の)ばかりだ。「ねえ、連れてって~」と女性に言われ、しかたなくいる・・・みたいな?男性の一人客はまだ見たことはない。さすがに勇気が必要か?僕も小心者なので、一人で食べに行く勇気はない。友人(男性だが)を連れていくことが多い。はっきり言って、男二人だと目立つけれど、でも生クリーム(パンケーキはどうでもいい感じ?)の魅力には抗えないのだ。

極秘情報なのだが、「エッグスンシングス」は、いくつかの店舗があり、僕がよく行くのは「お台場店」なのだ。ここは行列しなくてもいいのだ。お台場の他の店よりも「エッグスンシングス」は1時間早く開店するので、そこを狙う。開店と同時というところが大事。お台場に人が溢れ始めると、やはりここも大行列になる。

パンケーキ(生クリーム?)に限らず、このような(特に西洋の)甘いものは、なんとなく女性のもの・・・というイメージがある。牛丼屋は男性のイメージかもしれない。でも考えてみると、吉野家の牛丼が好きな女性だっているはずだ。ケーキの好きな男がいても不思議ではないような気がする。

そもそも「男イメージ」「女イメージ」ってなんで存在するのだろう?わざわざ「男の料理」とか。料理に男も女もないと思うが?ピアノも、やはり女性的イメージに溢れているような気がする。あまりに見慣れてしまい、当たり前のように、なんの違和感もなく感じてしまうが、ピアノ教室の月謝袋とか、発表会のプログラムとか。どうも「女の子御用達」みたいなイラストだったりする。教則本などもそうかな?クマさんなどが微笑んでいたりする。結構嫌々持っているピアノ男子もいたりするんじゃないか?

男もピアノが好き。でも女性ばかりの店でパンケーキを食べるような、それに似た居心地の悪さを感じるような、そんな違和感をピアノ、ピアノ教室御用達グッズに感じている男もいるのでは?

これが僕のお気に入り、「エッグスンシングス お台場店」で、動画の後半に特大生クリームパンケーキが登場する。もちろん、誰かとシェアなどせず、自分一人で食べます。

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川面の水の音 

 

ある声楽家のリサイタル、チラシには大きくソプラノ歌手の写真。小さく賛助出演のバリトンの写真。あとは会場とか日時とか曲目。ソプラノさんのリサイタルなのだから、それでいいように思うが、ピアニストの写真がない。むろん、名前は記載されている。ピアノ:○○〇子・・・のように。でも写真は?この場合、ピアニストは共演者なのだろうか?伴奏者なのだろうか?写真がないと「共演」と歌手は思っていないのだな・・・と感じたりする。

声楽の伴奏(便宜上今はこの表現で)の特殊性、それは「前奏を担当しなければならない」ということ。この時の伴奏のピアノの音、音楽って重要のように思う。「声楽曲って前奏があるじゃない?それがねぇ・・・」という伴奏者も多いのかもしれない。音そのものは器楽のソナタ・・・などの方が多そうだけれど。

ソロの上手な人はアンサンブルも上手なのかもしれない。アルゲリッチもアンサンブルが好きそうだ。でも圧倒的に器楽との共演が多いように思う。声楽家とも共演しているのかもしれないが、僕は知らない。

音に悩んだ場合、ソロのピアノを聴いたりするのもいいのかもしれないが、ピアノでもデュオとか、声楽との共演のピアノを聴いてみるといいかもしれない。卓越したピアニストは、絶対に「基音でバシャ~ン」という音は出していない。芯のある、よく通る音、歌手の声をハーモニーで支えていくなど、カツン、バシャンという音は御法度なのか、いい「音」の人が多い。

ソロの場合のように「まぁ、よく弾けるわねぇ・・・」などという要素は伴奏の場合、非常に少なくなるので、音勝負という感じにさえなる。「好きなピアニストは誰ですか?」このような質問の答え、ユジャ・ワン、アルゲリッチ、ツィメルマン、アムラン・・・などという名前と共にボールドウィンの名前を挙げる人は、かなりの声楽好きかもしれない。

伴奏者として有名なのは、やはりジェラルド・ムーアなのだと思うが(最近は知らない人も多いようだが)、個人的にはダルトン・ボールドウィンの音が好き。

「なんでぶっ叩いてしまうのかしら?」と自分の音で悩んだ場合、一度今弾いているソロの難曲から離れて、有名なこの曲のピアノパートを弾いてみたらどうだろう?同じ音型の連続、パターンはある程度決まっていて、譜読み困難な曲ではないが、音そのものは多め。同じ音型を連続しつつ、あることを音で表現しなければならない。

川面の水、キラキラと光りが跳ねる、鱒の泳ぎと共に水面が跳ねる・・・光と共に・・・

これをピアノで表現する。「表現豊かに歌って~」というよりも、音そのもので勝負できなければならない。もし、このピアノパートが「あら?ハノンみたい?」となってしまうのだったら、それは何かがマズイのだ。ソロの曲の難しいパッセージを何度も弾けるように反復練習する前に、水面表現ができないのは何故かを考えてみた方がいいかもしれない。

まず、スゼーの歌唱が素敵すぎる。歌を聴いてしまう。まぁ、声楽曲なのでそれでいいのだが、ちょっとだけピアノパートも意識してみる。ボールドウィンを意識してみる。水面の光を音にしている・・・

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来年の夏に「スカラムーシュ」という曲を弾く。つまりデュオの曲となる。僕は合わせ物の経験が少ないと思う。ボランティア練習ピアニスト(?)として貧乏学生の伴奏はしたことはある。その時、初めてアーンの歌曲を弾いたりして、自分としては楽しかった。連弾は一度ある。サークルの練習会で披露した。これも楽しかった。曲はシューベルトの「幻想曲」で、セコンドの僕は、分散和音とか、わりと「伴奏で~す」みたいな音型が、やはりプリモよりは多かったと思うし、やはり同じ楽器を弾くので、あまり違和感は感じなかった。

今度はデュオなので、完全に異なる楽器(ピアノ・・・と言う意味では同じ楽器だが)での合わせ物ということになる。デュオそのものについて、まだ慣れていないところがあるので、CDを聴いたりユーチューブを聴いたりしていた。予想したのは、ピアノ同士のアンサンブルは、ズレたりしたら、聴き手に分かってしまうだろうなと。他の、例えば弦楽器とのアンサンブルなどと比べると、些細なズレ、ミスも目立つだろうと・・・

聴いてみての感想は、ズレとかミスなどという前に「音が・・・」というもの。ソロでも本来は意識すべきことなのだろうが、散漫な、集中されていない音そのものが、ソロよりも耳障りだ。おそらく、そのようなバシャン、ボヤンとした音がソロよりも2倍強調されてしまうからではないだろうか?

「タイミングよりも、まずは音だな・・・」

やはり「う~ん???」となってしまうのは、アマチュア同士の演奏が多いような気がする。バシャ~ンの2倍効果(?)のような?「人気ピアニスト同士でアンサンブルしてます」のようなデュオよりは、デュオ専門家(?)の音に僕は魅力を感じるようだ。4手、2台で一つの調和したサウンド、これはデュオ専門家が素晴らしい。まだ聴いている途中だが、コンタルスキー兄弟の音に惹かれている。「なんだか地味なオジサンだちだなぁ」と今まで聴いてこなかったのを非常に後悔している。

「あっ、この演奏(ミスはあっても)いいな」と、もっと聴きたい度を持続できる演奏には「意思のある集中した音」があるように思う。残念な演奏って、聴き手は割とすぐに判断して耳を閉じてしまうのではないだろうか?それは「音」そのものによって判断されるのかもしれない。音楽的に平坦とか、そのようなものの前に、まず音そのもので判断されてしまう・・・

散ってしまう音、これだとデュオは(ソロも?)聴いていて辛い。

考えてみると、ピアノって不思議な楽器だ。発声練習も、管楽器のロングトーンのような練習もないから。基礎練習となると、いきなりハノンなどをワシワシと弾く・・・みたいな?基礎練習=指訓練のような?もっと前の段階の「発音練習」のようなものがピアノでは何故一般的ではないのだろう?不思議だ。

あるイギリス出身のピアニストの演奏、この演奏の「音」には意志力があると思う。鍵盤を面的に大雑把に押すのではなく、点として意識しているような集中された音。散ってしまわずに聴き手に入ってくる音。

このピアニスト(ジェームス・ローズ)は10歳の時に性的虐待を受けた。それが4年間も続いた。そのトラウマから脱することが難しくなっていった。まずは自分を責めた。「あんなことがあったのは自分が悪かったからだ・・・」

多くのピアニストが音楽院で修業し、コンクールで自分の腕前を試す時期、このピアニストは精神科病院の病室にいた。

「薬漬けになり、自分の内側から崩壊していくのを感じた」

言葉で語れることばかりではないのだろう。だから彼は「音」で、ピアノの音で語っている。

結婚もし、子どもも生まれた。立ち直ったかに思えた。でも自分の息子が10歳に近くなると、また闇の世界が襲ってくるようになった。繰り返す自殺未遂・・・

それでも「音」に託したんじゃないかなぁ?それでも・・・

それにしてもピアノには何故「発音練習」が一般的ではないのだろう?「音」は何で育つのか?ハノン?エチュード?曲?

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日の丸を背負って 

 

続いていたフィギュア関連の文章もこれで一度終了したいと思う。今回の文章を書くにあたって、かつての採点システムの「席次」というものをネットで調べようとしたのだが、ワーッと目に飛び込んできたのが、一連の(?)「ジャッジ不正!」とか「何故爆上げ八百長点数が許される?」などの文字・・・ネットの世界ではユナ・キム選手も浅田選手も、そして高橋選手も引退していない感じですらある。

僕が想像していた以上に、そのような文章はネット上に拡散されている感じだ。不思議なことに、ピアノのコンクールではそのような文章は見かけない。探せばあるのかもしれないが、「何故あの人が3次予選で落選?あの人は本選に進んだのに?審査員は八百長?」とか「不正コンクール!!」などの狂乱文章はあまりないような?透明性ということでは、ピアノコンクールよりもフィギュアスケートの採点の方がはるかに透明であるような気がする。やはり人間としての最低限の礼儀というか、最低限の尊厳のようなものがピアノの世界では守られているからだろうか?「○○が1位?○○コンクールの不正を正そう!!」なんて文章を1位になった○○さんが知ったら、そりゃあ傷つくだろう。なのでそんなことは言わないし、わざわざネットに書かない。スケートも同じだと思うがなぁ?

僕のように、特定の選手を名指ししての批判、中傷のような文章が拡散してしまうことで、スケートという競技そのものから離れてしまう人が一人でも少ないように祈る。選手に罪はないし、スケートという競技にも罪はないように思う。第一勿体なくないですか?日本選手が複数、世界で活躍できるなんて、かつての日本スケート界の、そしてスケートファンの夢だったのだ。その夢が手に入ったとたんに、誰それは贔屓されている・・・とか、そのような文章が飛び交うことが非常に残念なのだ。一部ファンによって、ファンが離れる、なんだかおかしい。

かつての日本の有力選手は日の丸を背負って滑っていたのだなと思う。この動画の渡部絵美選手もそうだったし、伊藤みどり選手も、そして佐藤有香選手もそう。男子選手だと本田武史選手なども日の丸背負い組だったかな。彼、長野の世界選手権の演技後、泣いていたよね?重圧からの解放の涙だったのかもしれないね。

日本選手が強くなった・・・というか、日本のシングルフィギュアスケーターが強くなったのは、有力選手が国内に複数・・・という感じになった頃からだと思う。むろん、コーチ陣を外国人、振り付けも有名振付師に依頼して・・・という流れも強くなった理由だとは思うが、国内敵なし状態で、孤独に一人日の丸を背負う必要がなくなったということもあると思う。荒川選手と村主選手、高橋選手と織田選手・・・のように。女子では、そこに若い浅田選手も加わり、国内は百花繚乱状態・・・ここに行き着くまでにどれだけ日本スケート界は待ったのだろう?ファンは待ったのだろう?

荒川静香選手がオリンピックで金メダルを獲得した。でも彼女はその前の全日本選手権では3位だったのだ。日の丸背負いは免れたのかもしれないが、今だったらネットで色々と書かれるのではないだろうか?「何故に彼女が?」とか・・・

渡部選手の場合はオリンピックで日の丸を背負ってしまった感がある、彼女一人しかいなかったから。もっと知られていいように思うのが、彼女の実績。20歳で引退するのだが、全日本選手権8連覇という実績がある。12歳から全日本のチャンピオンの座を守り抜いたわけで、これは凄いことなのではないだろうか?日本国内では敵なしでも、やはり世界の壁は厚かった。彼女の転機はコーチを変えたことだと思う。カルロ・ファッシは何人ものオリンピック金メダリストを育てた人だ。当時はロビン・カズンズなども彼に習っていたはずだ。ファッシコーチが渡部選手に徹底したのがコンパルソリー。いわゆる規定演技。それを強化した。コーチを変えてから、彼女は念願だった世界選手権10位以内をまず達成。その翌年にはメダルも獲得してしまう。日本女子初のメダルになる。

その翌年、銅メダルの翌年がオリンピックイヤーだったことは、彼女にとっていいことだったのか?オリンピックでの演技は日の丸の重さ、重圧でちょっと残念な結果になったと思う。その直後、例年のように世界選手権が開催された。そこでの渡部選手、何か憑き物が落ちたかのような伸び伸び演技。生涯最高の演技をしたのではないだろうか?40年近くも昔の映像だが、僕の中では非常に印象に残っている演技だ。

その年の世界選手権は西ドイツ(当時)のドルトムントで開催された。渡部選手にとってライバルであったダグマル・ルルツ選手の地元だ。これは不利!旧採点システムだと不利な条件になる。さらに渡部選手はフリー、最終グループの一番滑走だった記憶がある。これも不利。でも演技は素晴らしかった。予想通り、彼女の点数は抑えられていた印象を持つ。

「今年は去年のような奇跡はないでしょうね。メダルは無理でしょうね」演技前に渡部選手が言っていた言葉だ。演技前にそう思いながら滑っていたのだ。旧採点システムだとそうなるのだろう。救いはルルツ選手の地元であったにも関わらず、音楽が聴こえないほどの歓声があったこと、さらに渡部選手の点数(順位)に盛大なブーイングが沸き起こったこと。西ドイツの観客、ファンは彼女を「我らのルルツ選手を脅かす東洋娘」ではなく素晴らしい演技をした選手として認めてくれたのだ。今の知識溢れる一部ファンは、この時のドルムントのファンよりも優れていると言えるだろうか?考えてしまうところだ。

金銭的な面でも、スポンサーとか、今の選手は恵まれているように思う。選手にとってはいいことだと思う。昔はアマチュアとプロとの線引きは非常に厳密だった。経済的な負担は相当のものだったらしい。渡部選手はオリンピック前に「日本頑張れ!」的なCMに出演している。そのCMはノーギャラだったそうだ。アマチュアだからお金は出ないのだ。さらにオリンピックのユニフォーム代、衣装ではなく、開会式などで着る日本のユニフォーム、あれも自前だったらしい。「伊勢丹で各自購入してください」だったらしい。ユニフォーム代すら支給されなかったのか???

1980年のオリンピック、レークプラシッド大会フィギュア女子シングル、日本の出場枠は3つあった。意外な感じだ。2018年、次のオリンピックの女子枠は、たしか2だったと思う。これだけ今の女子レベルは高いのに、それよりも多かったのだ。理由は前年の世界選手権で渡部選手が3位になったから。前年の世界選手権で枠が決まるのは昔も今も変わらないんだね。

実際にオリンピックに出場したのは渡部選手だけ。他の二人の選手はオリンピック出場を辞退したのだ。スケート選手にとっては、オリンピック出場は夢であるはずなのに辞退。理由は「お金がなかったから」だったらしい。どこからも資金援助がなかったのだろうか?そのような時代だったのだ。そのような時代を経て、何人もの選手が日の丸を背負い、やっと、やっと今の人気のあるフィギュアスケートになったのだ。アイスショーや競技会はチケット入手困難、非常に高額、そうなった。

ネットでの批判、中傷、それを人気の代償と考えるのは、あまりにも哀しい、そう思う。

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さようならフィギュアスケート 10 

 

ピアノのコンクールの審査基準、おそらくフィギュアスケートの旧採点システムよりも曖昧というか、透明性の少ないもののように思う。むろん、ピアノはスポーツではないので、ピアノ演奏に基準を設けることはできないのだろう。なので、審査基準も明確にはできないのだろう。誰が誰に何位をつけたか、どのような点数を出したか・・・これはピアノコンクールでも公表はできるだろうが、プロトコルのようなものは難しいだろう。オクターブ、ダブルの連続を〇秒以内に演奏できればレベル4とか、音楽の場合あり得ない。

ピアノコンクールの場合、審査方法は旧採点システムで、コンテスタント(選手?)の心理としては今のフィギュアスケートの採点システムを追っているような印象を持つ。闇の明確採点システム?どこかに暗黙のレベル1~4のようなものがあって、各エレメンツ(?)で高得点を狙っているような?皆が建前としては存在していない闇基準を狙うので、演奏は皆同じような印象を聴き手は持ってしまう。僕だけの印象かもしれないが。

コンクールによっては「聴衆賞」のような正規の(?)の順位とは別の賞が設けられていたりする。素人からすると、これも不思議だ。むろん拍手の量によって採点が異なっても困るだろうが、聴き手の胸キュン度というものと順位というものがかけ離れて当然みたいな審査のあり方にも疑問を持ったりはする。聴衆に受けるといういうことと、心をつかむ演奏というものは、完全に無関係な要素でもないように思うから。高尚なクラシックでは無関係なのだろうか?

僕の好きなフィギュアスケートの演技、すべて旧採点システム時代の演技だ。僕が年代的にセピア色の演技が好きということもあろうが、おそらく現在の採点システムだと落ちてしまうような、点数に加算されない要素を好む傾向にあるのかもしれない。

例えば、ステップ。現在では身体全体でステップを踏んでいかないとレベルが取れない。点数になっていかない。実は、この体全体クネクネステップがどうも苦手。「リバーダンス」のような、上肢を固定(?)させて、足だけで踏むステップに興奮を覚える。でも現在基準では「足技ステップ」だとレベル1・・・とかになってしまうのだろう。

長野オリンピック、その頃、僕はアメリカにいたので、アメリカのテレビで観戦した。アメリカのステレオタイプ化された日本紹介、新幹線=ハイテク、善光寺=歴史、日本人=奥ゆかしい・・・みたいなアメリカの決まりきった日本紹介のされかたに少々うんざりした記憶がある。演技そのもものの他に、日本人のフィギュアファンについて報道されたことがある。あの奥ゆかしい日本人が燃えている・・・みたいな?

当時、フランスのフィリップ・キャンデロロ選手は日本のスケートファン、それも女性ファンに大変な人気があったらしい。その白熱ぶりがアメリカに報道されたのだ。今感じたのだが、スケートブログを書いている人って、何故か女性が多いような?羽生選手にゾロゾロと遠征先でつきまとうファンも女性が多いような?男性ファンが本田選手とかに「可愛い」とつきまとうことって、あまり報道されない。男性のスケートブログ、ライバル選手への攻撃論調ブログもあまり見かけない。探せばあるのだろうか?

さて、そのキャンデロロ選手のプログラム、「ダルタニアン」だが、現在の採点システムだとあり得ない(?)プログラムかもしれない。このような演技は、やはり旧採点システム時代の産物なのかもしれない。最も会場を湧かせたのはステップなのではないかと思うが、実はこのステップ、それほど難度としては高くはないのかも?でも絶大な効果ではある。さらに、技術点では加点のしようがない、なんでもない瞬間、実は大技に備えて体力温存をしているかもしれない箇所、そのような場面が実に魅力的だったりする。

旧採点システムをどこか懐かしむ自分がいる、同時に旧採点システムで泣いた多くの選手に思いを馳せたりする自分もいる。

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さようならフィギュアスケート 9 

 

旧採点システムの弊害、限界はあったと思う。基礎点もなければ、出来栄えによるプラスマイナスもなかったわけで、どこかジャッジの好み、立場、印象で決まってしまったような?ライバル国の選手の順位を、あからさまに低くしたりとかも普通に(?)あったと思う。会場のファンは、抗議としてはブーイングしか方法はなかったようなところがある。あるいはテレビの前で「なんで~?」とか。プロトコルなんてものもなかった。もともと点数ではなく順位で決めていたのだ。

そして実際に2002年のオリンピックで不正があった。「ねえ、この競技ではあんたの国を勝たせるからさあ、この競技ではロシアを勝たせてよ。見返りも考えるからさ」みたいな?これはファンへの裏切り行為だった。何よりも選手がどのような想いでリンクで演技をしているか、全く考えていない。最大の被害者は選手だったと思う。

「順位じゃなく、明確な基準で採点しようよ?相対評価ではなく選手の演技そのものを絶対評価で採点しようよ?」現在の採点方法になった。流れは急激だったかなという印象がある。それだけ旧採点システムは限界だったのだろう。

ジャッジへの不信感というものが、現在の採点システムに移行しても、根強く残っていても不思議ではない。一度はジャッジは裏切ったのだから。ファンがジャッジに物申すということがあってもいいように僕は思う。ただ物の申し方が残念だ。相手の選手を落とすみたいな言い方だと・・・

現在活躍している選手、特に頑張っている日本人選手をグーグルなどで検索してみると、声高に中傷、攻撃している文章がヒットしてしまう。これって何故だろう?たしかに「ジャッジを目指しているんですか?」と思うほど、分析しているというか、勉強しているというか、その熱意は大したものではあるけれど、なんとなく「その熱意を本業で発揮なさったら?」などと思わないでもない。第一、スケート観戦そのものが楽しいのだろうか・・・とさえ思う。スケートで胸キュンしないの?したからこそ特定の選手の濃いファンになったのだろうが、選手はアイドルではない。選手と同じぐらいにスケートを愛してみたらどうだろう???

もう二度と旧採点システムに戻ることはないだろう。現在の採点方法の基本概念は変わらないだろう。それでいいと思うけれど、ちょっと残念だなと感じるところはある。これは当たり前だが、選手(コーチ?)としては高得点を狙いたいだろうから、点数にならないような「素敵要素」がどこか軽んじられているようなプログラムが多くなったと・・・

点数にならない要素、たとえば目と目を見つめ合う・・・とか?プログラムそのものが各エレメンツの集合体のようなものが多くなり、かつてのような「限られた時間の中でストーリーを表現する」のようなプログラムが少なくなってしまったように感じる。

例えば、このような演技。むろん、各エレメンツの出来栄えは素晴らしいものがある。でも、この旧採点システム時代の演技にはその他にストーリが存在していると思う。このようなプログラムが少なくなってしまったな・・・と。

愛との出逢い、今度こそ幸せになれるかもしれない、そう男は思った。でも勇気がない。また傷つくのだろうか?でも愛の存在に賭けてみよう、彼女は応えてくれるかもしれない。すべてを受け入れ、受容してみよう。

このようなストーリを僕は感じる。振り付けは、あのクリストファー・ディーン。どこかダンス風のペア演技のように思う。

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さようならフィギュアスケート 8 

 

僕はジャンプやスピンよりもステップが好きなのだと思う。なのでダンスが好き。それも旧採点システムの頃のダンス。音楽が変わり、スローパートからステップワーク満載になったりすると胸が高まってしまう。

ダンスと比較するとペア競技はシングルのように、各エレメンツの出来栄えのようなものが強調されてくるような気がする。ペアスピン、リフト、サイド・バイ・サイドのジャンプ・・・のように。これはこれで豪快で楽しいのだが、ダンスよりも力業というか?

おそらく、危険度はペア競技が最も高いような気がする。スケート事故もペアの演技で多いような気もする。実際にリフトの途中、女性が落下してしまうなんてこともある。男性の身長よりも高い位置から氷に直撃・・・となるわけで、そのようなスリル(?)もペアの魅力なのだろうと思う。

女性が放り投げられたリすると、思わず目を閉じてしまいたくなる。でも成功した時の快感(観ている側の)も相当なものなので、シングルよりはペアが好きだったかなぁ?

豪快な演技が多い中で、このカップルは抒情性というのだろうか、音楽の盛り上がりに反応したスケートが好きだった。基本的にロシア人の名前って僕には難しいのだが、このカップルもなかなか名前を覚えられない。ナタリア・ミシュクテノク&アルトゥール・ドミトリエフのカップル。

ペア競技でリストの「愛の夢」を音楽として使用するのって珍しかったのではないだろうか?この曲は静かに終わる。ペアって盛り上がって終わるのが普通だと思っていたから、この演技を観た時はかなり驚いた。

ラストというのだろうか、デス・スパイラルを中心とした動きが官能的でさえある。

もっとペア競技も地上波で放送されればいいのに・・・

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さようならフィギュアスケート 7 

 

フィギュアスケート界にはエイズで亡くなった、あるいはHIVに感染していることを公にした選手は多いように思う。ゲイであることを公にしている選手も現在では多い。別に驚かない・・・みたいな雰囲気さえある。「僕たち同性結婚しました」などという知らせにも、ファンは「あっ、やはり・・・」という気持ちと共に「いいわね、お幸せに!」的な祝福ムードさえ感じるほどだ。

1980年代、僕は愛の再確認の時代だったと思っている。エイズ=死病、ウイルス感染=死と思われていた時代だ。多くの友人が去り、配偶者、恋人が去り、孤独の中、亡くなっていった人は多かったと思う。親子でも縁を切るなど普通にあったとされる。

でも骨と皮になって車椅子でないと移動もできなくなった息子が親に会いにくるわけです。もう死ぬことは分かっている。最後に逢いたいと思う。その時、両親は息子を抱きしめるわけです。まだ空気感染、触れただけで感染するなどと多くの人が思ったりしていた頃だ。無償の愛というのだろうか、そのような無数の愛の再確認があった時代。

フィギュアスケーターでエイズで亡くなった人、オンドレイ・ネペラ、ジョン・カリー、ロバート・マッコール、ロバート・ワーゲンホッファー・・・

HIV感染者であることを公言したスケーター、ルディ・ガリンド、スコット・ハミルトン・・・

ゲイであることを公言したスケーター、ちょっと多くて分からないほどだ。

ルディ・ガリンドはHIV感染を公言したけれど、現在もアイスショーなどで滑っているのではないだろうか?スコット・ハミルトンも存命だ。この人もたまに滑ったりしていたと思う。サラエボの覇者だった記憶がある。おそらく、「感染=死ではもうないんだよ?リンクで演技をすることだってできるんだよ?健康に暮らすことだって、長生きだってできるんだ」というメッセージを彼らは滑ることで発していることになる。

ただ1990年代は、感染しても元気・・・という人と亡くなってしまう人が入り混じっているような印象で、数年の違い=運命の違いのようなところがあって、ちょっと哀しいというか、残酷な感じだ。

ルディ・ガリンドが1996年、全米で、そして世界選手権で素晴らしい演技を披露した2年前、ロバート・ワーゲンホッファー、1994年の演技。たった2年前だ。ロバート・ワーゲンホッファーは30代で亡くなってしまう。でもルディは今もスケーター。なんだか数年という残酷さを感じる。

ロバート・ワーゲンホッファーも、ペア競技経験者だ。ペアってスケートの基礎力養成にいいのだろうか?ペア競技で世界選手権で6位になっている。シングル転向後、やはり世界選手権で6位になっている。考えてみれば、相当スケートの基礎力というか、能力の高かった人だったのだと思う。

アマチュアの戦績として輝かしいというものではないのだろう。世界選手権6位・・・立派だけれど、それだけでは人々の記憶には残っていかない。ロバート・ワーゲンホッファーはアマチュア時代よりも、むしろプロに転向してから魅力を発揮した人のような気がする。アマチュア引退後に、その魅力を全開にした人。タイプとしては非常に珍しいのではないだろうか?引退後の方が素敵なのだ。

アメリカでは彼は有名だ。アイスショーの常連でもあった。ファンは今でも多いと思う。でも日本ではあまり(全く?)知られていないスケーターなのかもしれない。

天に召される数年前の演技。

ロバート・ワーゲンホッファー、享年39・・・

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さようならフィギュアスケート 6 

 

カリフォルニアという土地柄がかなり大きいように思う。20年前のカリフォルニアと現在の日本とで、ある種の差別はどちらが強いのだろう?ルディ・ガリンドには戦うべき4つの差別があったと思っている。その差別に負けなかったから、この演技があったのだと。

1996年当時、彼が遭遇したであろう差別、一つはゲイであったこと、そしてHIV感染者であったこと、さらに、スケーターとしては年齢的に高かったこと。1996年、ルディ・ガリンドは全米選手権で優勝した。まさに本人もビックリだったのかもしれない。初出場の世界選手権でもメダルを獲得している。これも本人はビックリだったかもしれない。

ゲイ、HIV感染者、スケート選手としては、もういい歳。おじさん・・・

引退すべき・・・なんて声もあったんじゃないかなと思う。

彼には戦うべきもう一つの差別があったと思う。それは自分への差別。ルディ・ガリンドは、かつてはペア競技の選手でもあった。パートナーは、あのクリスティ・ヤマグチ。ペアとして全米選手権でも優勝し、世界選手権にも出場している。ペア競技の選手としては実績のある選手なのだ。

クリスティ・ヤマグチがシングルに専念することになり、ルディもシングルの選手として再出発することとなった。元パートナーはシングルの選手として全米で優勝、世界チャンピオンにもなり、そしてオリンピックでの金メダルも獲得してしまった。華やかにプロとして活躍する元パートナー。

それに対して、自分は???「あの人は今・・・」的状態だ。全米での上位、世界選手権なんて夢のまた夢。ペアの華やかな過去があるからこその辛さも相当あったと想像する。16歳だったら、まだ夢が持てる。でも自分は26歳。四捨五入したら30歳じゃないか?引退?このまま引退?

それもいいかもしれない、自分にはクリスティのような才能はなかったのだ。何度挑戦しても結果なんてついてこないじゃないか?ペアの時代、あれもクリスティの力だったのだ。自分なんて・・・

何故ルディはシングルの選手として続けてきたのだろう?スケートが好きだったからという、ある意味シンプルな理由がそこにはあったのかもしれない。好きだからこそ憧れるのだ。少年時代に観た名選手の演技の数々、涙が出そうになるほど興奮して観ていた。理屈ではない、自分も・・・と願う。戦績とかそのようなことよりも前に、自分もあの躍動感に浸りたいと願うのだ。

最後の最後でルディは自分を信じたのではないかな?「スケートが好きで仕方がない、熱いものを抑えられない自分がいる、そういう自分は素晴らしいのではないか?好きであるということを、そのような自分を肯定しよう。僕はスケートが好きだ!」

ルディ・ガリンドは自分で自分を差別しなかったのだ。

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さようならフィギュアスケート 5 

 

トーヴィル&ディーンの最高峰の名演技、多くの人にとっては1984年の「ボレロ」ということになるのかもしれない。今のスケートファンの中には、この「ボレロ」を知らない若い世代も多いのではないだろうか?振付師として「ボレロ」を生み出したというだけでも、クリストファー・ディーンの功績は大きいと思う。

個人的な二人の最高峰演技は1994年、10年ぶりに現役復帰したシーズンの、このプログラム。初めて観たのはリレハンメル・オリンピックのフリーなのだが、最終グループ直前の練習タイムが実況され、クリストファーがタキシード姿(燕尾服姿?)でリンクに登場した時に、胸がときめいてしまったのだ。たしかに彼は180cmの長身だし、このような服装(衣装?)がよく似合った。しかし、容姿に胸キュンしたわけではなく、「もしかして、かつてのボールルームダンス?」と胸ときめいたのだ。

クリストファー自ら振り付けた「ボレロ」によって、アイスダンスは、それまでより幻想的なプログラムが多くなっていったと思う。社交ダンスを氷の上で、氷上の舞踏会・・・というよりは、バレエのような?それはそれで素敵なのだが、やはり僕はボールルームダンスが好き。思わず楽しくて楽しくて手拍子したくなるような、夢一杯のプログラム。

数年前、振付師としてデュシュネー兄妹に作品を提供したクリストファー。10年ぶりの復帰では、さぞ斬新なプログラムを披露するのだろうと。どこか前衛的な?それまで観たこともないような?

原点への回帰・・・そう感じた。かつてダンス王国はイギリスだった。ソビエト勢の躍進、ダンス王国はソビエトに奪われた形だったイギリス。1981~1984年、その王座を奪い返したのがトーヴィル&ディーンのカップルでもあった。

良き時代のアイスダンス、そんなプログラム。あえてボールルームに回帰・・・

音楽が始まった時、その時、僕の胸は張り裂けそうにときめいてしまったのだ。プログラム後半、音楽と演技、そして会場の観客が一体となった。湧き起こる手拍子の嵐・・・

フィギュアスケートって、こんなに素敵だったんだ、こんなに夢の溢れる競技だったんだ・・・

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