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ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

さようならフィギュアスケート 2 

 

このカップルは本当に「ライン」が美しいと思う。長く美しいフレーズを静謐なまでに美しく描く・・・

演技の最初から最後まで、一本のラインでつながっているような?

このようなダンスは、かつてイギリスのトーヴィル&ディーンというカップルが1984年に滑った「ボレロ」という名プログラムからアイスダンスの主流になっていったように思う。それまでは、社交ダンスをそのまま氷の上で・・・のようなダンスが主流だった。曲のリズムも社交ダンスのそれだったし、3曲ほどのメリハリのあるダンスナンバーをつなげて・・・というプログラムが多かった。

アイスダンス、そしてペア競技、どうしても女性に目が行ってしまう。もともと振り付けとか衣装とか、女性に目が行くようになっているのかもしれない。男性はサポート役?このカップルも振り付けなどは基本的にはそうなのだと思うが、女性よりも、むしろ男性に注目してしまうところがある。ポノマレンコの滑り、身のこなしが実に美しい。

曲の音の長短、高低、長いフレーズ、短いフレーズが連続し切迫感を感じさせる等々、つまり表現力。並みのピアニストよりも上手かもしれない。

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さようならフィギュアスケート 1 

 

かなり苦手なブログがフィギュアスケートのブログ。選手たちの長所、美点を綴っているブログならいいのだが、目につくのは中傷ブログのように思う。非常に残念だ。ジャッジの不正を正すのが目的というブログも存在しているらしい。ある選手の点数に対して、○○選手はこんなに酷いのに、なぜ△△選手よりも加点が多いの?・・・ジャッジの不正!・・・みたいな?プロトコルの分析、そして不正では?・・・と。

エッジをチェンジする際、ある瞬間は必ずフラットになる。こんなのは素人の僕でも分かる。まさにその瞬間の写真を使って「○○はこんなに凡庸なフラットエッジ・・・」みたいに。これって悪意に満ちていないか?そのような中傷合戦が本当に残念だ。

そんなにプロトコルを分析したい?選手同士を比較したい?そのように競技会を観て楽しい?そもそもフィギュアスケートが好きなの?まぁ、楽しくはなかろう・・・と僕は思うが、たまたまそのような文章を見てしまった方も楽しくはない。

思えば2010年のオリンピックの前あたりかな、中傷する文章が増えたのは?ネットで誰でも自由に書けるから、これは時代を反映しているのだろうか?中傷された選手のファンはどう思うのか?もし選手本人がその文章を読んでしまったら?

僕はフィギュアスケートが大好きだった。だった・・・と過去形なのは、今はテレビでも競技会を観ないから。どうしても「また中傷合戦なんだろうな」と、どうしても心のどこかで感じてしまうから。また「何故あんなステップがレベル4なの?」みたいな文章がアップされるんだろうな・・・と。

まだネットも今ほど一般的ではなかった頃、僕はフィギュアスケートが大好きだった。胸をときめかせながら演技を見入っていたものだ。「これは一種の芸術なのではないか?いや、スポーツなのだろうが、ここまで人を夢中にさせてしまうなんて、心を動かしてしまうなんて」そう思いながら熱く熱くフィギュアスケートの競技会を観ていたものだ。

僕にとってのフィギュアスケート、過去の素晴らしい演技を感じるだけでいい。今現在も未来もいらない。想い出だけを胸にフィギュアスケートに別れを告げたいと思った。

もし悪意のある文章、中傷がなくなれば、今の選手、今の演技にも興味を持つかもしれない。それまではフィギュアスケートは観なくてもいい。誰がどこで優勝したとか、成績がどうとか、メダルがどうとか知らなくてもいい。

僕の中の宝物のような演技、それらの演技を紹介してから、僕はフィギュアスケートに別れを告げたい。

僕の初めての世界選手権観戦、1985年、東京で開催された世界選手権。日本人選手が上位、メダル・・・というワールドではなかった。だからこそ、あの代々木にいた人々は純粋にフィギュアスケートに熱中したのだろうか?「わ~、綺麗・・・」「凄くない?」会場は熱気に溢れていた。今と違い、ワールドの男女シングルでも空席はあった。でも「世界」を人々は堪能していたのだ。皆がスケートを純粋に観ていた、感じていたと思う。

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私を泣かせてください 

 

コンポーザー・ピアニストって、こういうことをしてくれるから好き。この演奏もハイク・メリキャン。「本当にオペラが好きなんですね?音楽が好きなんですね?」と声をかけたくなるような演奏だ。

厚底サンダル、覚えている人は多いだろうが、今実際に履いている人はいるのだろうか?クラシックの演奏家が、ビジュアル的な側面で売れる、そのこと自体は僕は否定しない方だ。堅苦しいと思われているだけよりはいいと思う。でも演奏家は厚底サンダルではないので、ずっと付き合ってあげて欲しいとは思う。曲そのものを味わいたいという人もいるだろう。演奏家よりも作品を・・・という人。僕は演奏家を味わいたいタイプなのだと思うが、このあたりは人それぞれだろうと思う。いい、悪い、黒、白で分けられるようなことでもないと・・・

演奏に求めるものは人それぞれなのだ。僕からしたら、バリバリ、ガンガンと達者なだけ・・・という演奏も「凄~い」と人を惹きつけることだってあるだろう。

個人的にはということだ。個人的には、大袈裟かもしれないが、演奏を聴くという行為は、自分の人生の一部分を演奏と共に過ごすという意味合いを持つ。プロ、アマチュアに関係なく、ある種の「共有」を求める。「ああ、あなたも美しいと思うのですね?」「ああ、あなたも音楽に焦がれているんですね?」と聴き手である僕が感じられる演奏を求める。僕は非常に寂しがり屋なので、音楽で手をつなぎたくなるのだ。

表面的にどれだけ達者にミスなく弾けるかなんて関係ないのだ。こう思うのは僕だけではないと思う。その演奏家の親でも親戚でもないわけだから、その演奏者がどれだけ弾けるのか、その日、どれだけ課題を達成できているのか・・・なんてことには興味はあまりない。ただ、共有したい。何かをね。それだけなのだ。

客観的にはAさんの演奏よりもBさんの演奏は劣っていて未熟であるということはあるとして、例えばBさんは非常に長い間自分のピアノに悩んでいた。内なる音楽への熱い、爆発しそうなほどの憧れはある、でもそれが表出できなかった。でもBさんがある日一部分でも今までやろうとしていたことが僕に伝わったとしたら、主観的には僕はBさんの演奏をAさんの演奏よりも素敵だと思うだろう。共有できたから。それは「ピアノって大変だし、辛いこともあるけど、でもやめられないんだよね?」とか「結果はなかなか見えなくても音楽って素晴らしいから、辛くても弾くんだよね」とか、そう思うだろう。「僕もなんだ」と心の中で手をつなぐのだ。

初めてハイク・メリキャンのこの演奏を聴いた時、最初の音で僕はこう感じた。

「ああ、私を泣かせてください」と。

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アルメニアのトッカータ 

 

「どの人がコンポーザー・ピアニストかしら?」と探しながらユーチューブを徘徊しているわけではない。でもなんとなく感じるものがあり、「この人はお気に入りに入れて、後でゆっくり聴いてみよう」となる人は、コンポーザー・ピアニストであることが多い。言葉で説明はできないけれど、何らかの特徴のようなものを僕が察知するのだろう。そしてその要素を好ましく感じるのだろう。

小さなところをチマチマ(?)と整備して全体に持っていく、これは譜読みの王道なのかもしれないが、その反対のようなものを感じる演奏が好きなのだ。まずは、全体、そして細部を詰めていく。譜読み=音楽のようなピアニストの演奏が好きなのだ。コンポーザー・ピアニストの場合、一つ一つの音を「これはえっとミで左手はドミソね・・・」と視覚的に読譜をしていくことは少ないんじゃないかな?

割と最近知ったピアニスト、ハイク・メリキャンというアルメニアのピアニスト。1980年生まれということだから、まだ若い(自分比・・・)ピアニストだ。来日経験もあるらしいが、まだまだ知る人ぞ知る的なピアニストかもしれない。近現代作品を得意としているらしいので、もしかしたらずっと知る人ぞ知る的なピアニストで居続けるかもしれない。いかにも、ショパンとか、演奏しない雰囲気だ。演奏しているのかもしれないが。アルメニア人だからか、アルメニアのピアノ曲に最大の敬意を表している印象がある。もちろん、ババジャニアンの作品も演奏しているが、僕が最初にメリキャンの演奏を聴いたのが、この曲。ハチャトゥリアンの「こどものアルバム」調べてみると、第1集と第2集があるみたいだ。子どものコンクールなどでよく演奏されるのは(エチュードとか)第1集の方。この「トッカータ」は第2集で、トッカータの後にフーガもついているが、この動画ではトッカータだけの演奏。

まずは音楽そのものが僕の中に入ってくる。

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アルメニアのヴォカリーズ 

 

おそらくラフマニノフは自ら生み出した「美メロディー」というものを、声楽分野、歌というものに捧げた人だったのではないだろうか?歌曲には本当に美しいメロディーが多いように思う。

アルメニアのババジャニアンも歌曲が美しい。ラフマニノフの「ヴォカリーズ」からはロシアという風景を感じるが、ババジャニアンの「ヴォカリーズ」は、まさにアルメニアそのもの・・・

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アルメニアのエレジー 

 

アルメニアという国、昔はソビエト連邦だった。中央モスクワあたりとは異なる独自の文化を持っていた。ババジャニアンの曲には、そのアルメニア賛の雰囲気に満ちている。代表作「エレジー」のような哀愁メロディーが際立った曲だけではなく、前衛的な作品にもそれを感じる。

東洋の香りというのだろうか、西洋と東洋との境目のような?独自の文化を持つが故に、独立前は紛争の絶えない地域でもあった。今現在、スペイン、カタルーニャが揺れているが、問題の深さ、複雑さは似ていたのかもしれない。

自作自演だからということではないと思う。まずは音楽が伝わってくる。

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作曲家がピアノを弾くと・・・ 

 

以前の動画でワルタニャンが盛り演奏(?)をしていたのがババジャニアンの曲。アルノ・ババジャニアン、アルメニアを代表する作曲家と言っていいかもしれない。

ピアノ曲としては「エレジー」が中では有名だと思うが、誰の演奏よりも作曲家自身の演奏が素晴らしい。僕がババジャニアンの曲の中で最も好きなのが、声楽曲で「ヴォカリーズ」という曲。ラフマニノフも素晴らしいが、ババジャニアンの「ヴォカリーズ」も素晴らしい。

さて、そのラフマニノフのピアノ曲をババジャニアンが演奏している。

やはり「初めに音楽ありき」という演奏に感じる。

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指揮者がピアノを弾くと・・・ 

 

現代のピアニストであれば、コンポーザー・ピアニストと言われる人が好き。あとは往年のピアニストが好き。往年のピアニストはコンポーザー・ピアニストだったから。趣味の問題ね・・・そうなのだと思うが、何かしらの理由があるのだと思う。

向こうから入ってくる・・・一言で表すとそうなる。音楽が僕の中に入ってきてしまう。音楽があるから、だから練習する・・・みたいな?そのような演奏が好き。多くの演奏は、練習を重ねて、弾けるようにする、そして余裕ができたら表現も・・・みたいな感じで、そのような演奏は究極の練習成果、訓練の賜物のような演奏に感じてしまい、あまり惹かれない。むろん「見事だな」とかは感じるし「上手いなぁ」とも感じるのだが。

ピアノをどう弾きこなすかということは2番目(?)で、まずは音楽という演奏に惹かれる。理屈ではないのかもしれない。

まずは表現したいというもの、音楽があって、手段としてピアノがあるという演奏。ピアノ技法は目的ではないのね。

ピアノ仲間に驚かれたりするのだが、僕は譜読みをワーッと最初から大雑把に全体を捉えてしまう。いわゆる、なんちゃって弾き。むろん、細かなパッセージなどは練習しないと弾けないし、練習するけれど、まずは和音の響きの変化とか、進行とか、メロディーの息づかいとか、「弾けてから」とか「音を読んでから」ではなく、まず弾いてしまう。どんな曲でも。

多くの人は、一つ一つ丹念に音を読んでいく、それが譜読み。全体を通すのは、最後の音まで譜読みが終わってから。「まだ譜読みは提示部しか終わっていないので、再現部なんて弾けません」のような?「まだこの曲は半分しか弾けません」のような?

まずは全体をワーッと弾いてしまう。「何それ?変・・・」「そんなの無理」とか言われる。ワーッと弾く、なんちゃって弾きで、すべての音を正確に弾いてしまえば、僕は初見、譜読みの天才となるのかもしれないが、埋め草的パッセージなどは、ハッキリ言って最初は目茶目茶(?)だ。時には弾かずに歌ってしまったりして。それでも全体をつかむ。

人前で弾く曲、ワーッとつかんでからは、地道な練習はするんですよ。人並みに。でもそれは、「なんちゃって弾き」の具現化なのだ。最初につかんだ音楽を、今度はきちんと(?)弾くみたいな?おそらく、ワーッと弾いたあとは、丹念に細かく練習する方だと思う。細切れの半端な時間を使って練習するので、曲を通していたら練習にならないので。

方向性だろうか?音楽→表現、そのための練習。練習→表現ではない。練習さえしていれば音楽的に弾けるとか、そうではなく、最初から、あるべきもののために練習するというか?コンポーザー・ピアニストの演奏にはそれを強く感じる。あとは指揮者のピアノ演奏とか、作曲家のピアノ演奏とか。

エフゲニー・スヴェトラーノフ、指揮者であり、作曲家であり、そしてピアニストなのだそうだ。音楽百貨店のような人?でもスヴェトラーノフと言えば、やはり指揮者としての印象が強い。

このラフマニノフ、「まずは音楽ありき」のように感じてくる。「ピアノを弾くのだぁ・・・」ではなく、そこにあったピアノで音楽をする・・・

ピアノって何かの手段なのかも?

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楽譜に忠実 

 

「私の演奏は常に楽譜に忠実であると思って下さって結構です。楽譜と異なることをしているとしたら、それは明確なる理由があってやっていることです」

このスティーヴン・ハフの言葉、長い間僕にとっては謎だった。楽譜に忠実=無味乾燥のようなイメージを持っていたから。何故そう思うのか?楽譜に忠実、それは印刷されたものを忠実に押す、ドレミと書いてあるので鍵盤をそのように押しました、フォルテと書いてあるので強く弾きました・・・のようなイメージがあったから。また実際にそのような演奏って多いようにも思っていたから。

緊張感が高まっていく、そう感じるのは音型であったり、調の変化だったりする。クレシェンドという記号は印刷されてはいない。では何もしないのか?印刷されていないから?

もし楽譜にすべて盛り込まれているとしたら?それを弾く側が読み取る必要もあるのだったら?

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盛り演奏 

 

今の音楽界、ピアノ界はオリジナル志向なのだろう。もちろんエディションは原典版を使用。原典版にも何故か(?)数種類あったりするから、そのあたりも研究する。どうやって?・・・という素朴な質問をしたくはなるが。ある偉い人(ピアニストではなかったと思う)は、自筆譜で練習せよと。そりゃあ、学問的に極めていけば、自筆譜はオリジナルなわけだから、そうなるだろうが、これも素朴な質問をしたくなる。どうやって?

僕が無学だから思うのかもしれないが、自筆譜が沢山あるのならば分かるけれど、たった一つの自筆譜に何故に複数の原典版と呼ばれる楽譜が存在するのだろう?素朴すぎる質問になるだろうか?

そのような風習(?)からすると、例えばムソルグスキーの「展覧会の絵」を弾く場合、これも原典版を使用するべきなのだろう。おそらくホロヴィッツ編の楽譜なんて、オリジナル志向の人からすると、不純な楽譜となるのだろうか?「そんなもの近づけないで・・・」みたいな?ラフマニノフの2番のソナタなどもそうかな?絶対にオリジナル。ホロヴィッツ版なんて・・・

ラフマニノフのソナタは、あまりホロヴィッツ版の魅力を感じないが、「展覧会の絵」は個人的には断然ホロヴィッツ版による演奏が好き。理由は単純。格好いいから。

この演奏を聴いて、まず感じたのは「ホロヴィッツ版みたい」ということ。このように音を盛大に加えたりする演奏は最近は流行らないのだろう。もはやこの演奏は、ババジャニアン~ワルタニャン編と呼ぶべきかもしれない。オリジナル志向の人からしたら、もうこれは許されない演奏なのかもしれない。

でも少しだけ思う。聴いた印象で判断してはいけないんですか・・・と。

もっともババジャニアンのオリジナル曲そのものがあまり有名ではないから、ワルタニャンが、どこをどう盛っている(?)のか分からない人もいるかもしれないが。

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好みのピアニストの傾向 

 

最近はユーチューブでピアニストを知ったりすることが多い。ネットのない頃はどうしていたのだろう?ラジオとかテレビでの偶然の出会いかな?まずは「おっ、この人好きかもしれない」と耳がキャッチする。むろん、お気に入りに入れる。ここで聴かなくなってしまう人と、なんとかCDを購入しようとする人に分かれる。

好きなピアニスト、それは個人差、好みが大きいだろうと思う。個人的にはポリーニのようなピアニストがちょっと苦手。嫌いとか、何故この人が有名なのとは決して思わないけれど、しっくりこないというか?アムランも苦手タイプ。聴いていて楽譜がビジュアル的に頭に浮かんでくるような感じ?僕は暗譜をビジュアル暗譜だけに頼っているとは思っていないけれど、暗譜で演奏中は、楽譜が浮かんできたリはする。○○版の○ページ、あのあたり・・・のように。これってビジュアル暗譜に依存している?そんな感じで鑑賞中に楽譜が浮かんでくるような演奏。ポリーニの演奏だと、音だけではなくフォルテとかクレシェンドまでも明確に見えてしまうような?

クリアで明確でいいじゃない?そう、いいです。でもそこは個人差・・・かな?

ユーチューブでの出会いも、これまた偶然。予備知識なく出会う。これは偶然ではないと思っているのだが、お気に入りに入れるような(日本では無名の?)ピアニストには共通点がある。その共通点をもとに検索するわけではないから、僕が「おっ???」と感じる演奏には何らかのものが潜んでおり、そこに僕が惹かれるのだろうと思う。

共通点その1  歌っぽい
共通点その2  即興要素が感じられる
共通点その3  黄金時代を再び・・・

どうやら僕はコンポーザー・ピアニストに惹かれる傾向があるようだ。作品を出版という作曲家ではなくても、自分で編曲した作品をアンコールで演奏したりとか。そのような人を好む傾向にある。考えてみれば、往年の巨匠たちは皆コンポーザー・ピアニストだった。だから好きなのかな?

もう一つ、共通点があるとしたら、プライベートで壮絶な人生を歩んでいたりとか、そのような人の演奏も何故か惹かれるようだ。むろん、そのピアニストと出会い、いいなと感じてから、調べて「壮絶さ」を知るわけで、壮絶な人を選んで聴いたわけではない。おそらく、これは順調ピアノレールエリートコース・・・のようなものを外れた何かを感じ、そこに惹かれるのかもしれない。ピアノどころではなかった、でも弾くことを選んだ・・・みたいな動機的な強いものに惹かれる。「僕には音楽しかないから」みたいな情熱かな?

考え込んでしまうのは、僕が「いいな・・・」と思う人は、今一つ日本では有名ではない人が多いということだ。むろん、例外はあるし、無名の人を選んで聴いているわけではないが、何故かそうなる。僕の好みは日本社会(?)では異端なのだろうか?

ワスゲン・ワルタニャン・・・モスクワ音楽院とジュリアード音楽院で学んだピアニスト。モスクワっ子の「アイドル」のような?でも日本では無名だよね?来日しているのかもしれないが・・・

共通点その1  歌っぽい

これは重要な要素だ。

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ピアニストが本気でチェルニーを弾くと・・・ 

 

巷の多くの発表会で密かに展開されているのではないかと思う心理戦。「おっ、A子、上手くなったじゃないか?」男親が心から嬉しそうに言う。女親、つまり母親の心は複雑だ。「あのぅ、あなたはいいわよね。いいところしか見ないから。どれだけ私があの子に練習させたと思ってるの?私、あの子から鬼とまで言われたのよ?この曲だけじゃなく、これまでどれだけチェルニーを練習させてきたと思ってるの?」むろん、客席で家庭内紛争を繰り広げるわけにはいかないので、母親は黙っている。「男親って気楽なもんよねっ!」

心を鬼にしてまで練習させるチェルニー、チェルニーを極める(?)とどうなるのだろう?そもそも何故チェルニーなどというものが課題として与えられるのだろう?「指を鍛える?」「バリバリと弾けるように?」「どの教室でも使っているから?」

チェルニー=鍛える・・・みたいな昭和発想から脱却してみたらどうだろう?カールの肖像画、師のルードヴィヒとも弟子のフランツとも異なり、温和な感じだ。どこかサラリーマンのような?怒涛の芸術家というより、温和ないい人・・・

カールの愛情とは?「音階ってとっても素敵なんだよ」「アルペジオの連続って上手に弾けるとエクスタシーさえ感じないかい?」「ダブルの連続って、ゾクゾクしないかい?」つまり彼は音型の美というものを後世に伝えたかった。ドレミファソラシド、ドミソドソミドの美しさ・・・

「一応、起承転結を考えてみた。曲にしたんだ。音型美を曲として身につけていって欲しかったから。曲としては、あまりファンシーなことはしていない。分かりやすくしたかったんだ。素敵なスケール、素敵なアルペジオを身につけて欲しい。これが僕の願いだ。芸術作品の基本要素である音型、曲って音型の連続でしょ?これを素敵に弾けないとね。素敵にドレミファソラシド ドシラソファミレドが弾ければ長大な曲も弾けるんじゃないかな?素敵に弾いて欲しいな」

ピアニストが本気(?)でチェルニーを弾くとどうなるのだろう?機関銃のようにバリバリと?鍛えました~バリバリ・・・のような?スティーヴン・ハフが弾いているチェルニー、まさにカールの望んだチェルニーではないだろうか?

「どうか僕を素敵に弾いてね。音型って素敵なんだから・・・」

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蘇るチェルニー 

 

世のピアノ弾きたちから疎んじられている、嫌われている、恨まれている作曲家、おそらくバイエルとチェルニーなのではないだろうか?ピアノ教師やピアニストの中にも彼らの名前から辛い修行時代を連想してしまう人もいるかもしれない。特にチェルニーとのおつきあいは長めになるので、その恨みも大きなものとなる。

発表会でチェルニーを弾く、客席で聴いている人はこう思うかもしれない。「まぁ、チェルニー?先生から曲をもらえなかったのね?いつもはピアノの練習をサボっている生徒なのかしら?それでも発表会に出るって偉いわねぇ・・・」

ギロックやキャサリン・ロリンの曲は、いかにも発表会向けだけれど、チェルニーはどうなのだろう?そもそもチェルニーという作曲家のイメージって、30、40、50番あたりのイメージだったりする。心の手垢を取り除いてみると、その中に、なかなか美しい曲も含まれているように思うけれど、「えっ?これがチェルニー?」のような魅惑的な曲は、むしろ、もう少しレベル的には(?)易しめの曲集に含まれている気がする。そう、100番とか110番あたり・・・

この曲、チェルニーと、聴いただけでパッと分かるだろうか?むしろプーランクのような?「最近発見されたプーランクの曲です」などと言われても納得してしまうような?「まぁ、さすがプーランク、お洒落な曲ねぇ・・・」

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心の蓋を閉じない 

 

この動画によれば、クラシック音楽が好きで、聴いたり演奏したりして日常生活に溶け込んでいる人の割合は3パーセントなのだそうだ。残りの97パーセントの人、あってもいいけど別にクラシックなんてなくてもいいという人。さらに、全く接点がない、クラシック音楽に嫌悪感はないけど、聴こうなんて、親しもうなんて思わないという人。そして、クラシックは苦手、自分はそのようなものを聴く耳も、感受性もないから・・・そのような人たちがいる。

もしかしたら演奏者に問題があったのかもしれない。演奏者にある種の情熱が欠けていて、達者だけれど、心に何故か響かなかった。本当は聴く人の問題ではないのに、聴き手は自分のせいだとしてしまう。「あんなに上手だし、難関の学校も出ているし、何も感じない自分のせいなんだ。まっ、クラシックなんて高尚なものは分からない。自分は教養なんてないし・・・」となってしまっているのかもしれない。

もしかしたら、クラシック音楽は万人がその魅力を感じられるものだとしたら?子どもだろうと、作曲家や曲の知識なんて皆無な人でも。もしかしたら、クラシック苦手意識は、聴き手ではなく、演奏に問題があった可能性は?聴き手が「どうせ・・・」と心を閉じてしまい、その意識すらないのだとしたら?音楽なのか?演奏なのか?自分自身の感性、知識なのか?どこに問題があるのだろう?

本当にクラシック音楽は3パーセントという選ばれた人のための音楽なのだろうか?

専門と趣味、例えば音大受験コースで入試にあるような課題をこなしていく必要があるのは分かる。当然「聴音って何ですか?」と当日知るのであったなら、確実に受験失敗だろう。準備、慣れは必要だ。そのようなものではなく、趣味も専門も共通しているのが、ピアノを弾くということ。その部分のレッスンでは、専門と趣味とで分かれてしまうものだろうか?「あなたは趣味だからこう」とか「専門に学ぶからこう」とか、何か違いがあるのだろうか?

「なんだかただ弾いているだけで、自分でも素敵じゃないなと思うんです」教師の反応は趣味と専門とで変化するのだろうか?「あなたは趣味なんだから、そんなに苦労しなくてもいいじゃない?」みたいなことは世のピアノレッスンでは本当にないのだろうか?逆に○○音大を受験するんだから・・・と必要以上のガンバリズム、修練色を与えてしまっていることは本当にないのだろうか?

愛する人が亡くなってしまった、もう二度と声を聞くこともない。ペットでもいい。その深い哀しみ、喪失感は万人が持っているものだろう。子どもだろうと大人だろうと。もし、その喪失感を音楽、自分の演奏に乗せてみたいと思ったら?その哀しみを表出して誰かと手をつなげたら?「辛いんだ」「そうね。辛いわね」それを演奏で具現化できたなら・・・

それは趣味だとできないのだろうか?専門に鞍替えしなければ、そのような願いは叶わないのだろうか?

そもそも同じ曲を勉強しているとして、趣味と専門とで指導内容が変わっていいのだろうか?コンクール向きの難曲とバイエルとで根本の指導内容は変わるのだろうか?「素敵に弾きたいの」という想いに応えるということ・・・その部分は趣味と専門、曲のメカニカル難易度によって指導内容は変化するのだろうか?

どうせ教養も感性もないからクラシックなんて分からないし・・・

どうせ才能とか感性なんてないから素敵になんか弾けないし・・・

もし、気づいていないだけ、知らないだけ、教えてもらっていないだけ・・・だとしたら?

もし「素敵に弾く」ということがピアノを習っている人、万人に可能なことだとしたら?


「このような部分を弾くと手が痛くなっちゃって」「大人から始めた人は仕方ないと思うわ」
「なんだか音符が並んでいるだけのような?そこからどうしていいのか分からないんです」「そうねぇ・・・どうしたらいいのかしらね?大人なんだから自分で考えて・・・」

これはピアノ仲間が先生から実際に言われた言葉だ。

素敵に弾けない・・・才能がないんだわ、感性とか無縁だし・・・

もしかしたら、知らないだけかもしれない。その方法を・・・

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50年後の私 

 

モシュコフスキの作品、最後はこの曲、というよりこの方の紹介をしようと決めていた。このドラガさんは過去にもこのブログに登場しているけれど、再登場。何度でも・・・という感じだ。

50歳からピアノを始めた。再開ではなく、一からのスタート。「指なんか動かないのね。子どもの頃からやっていないとピアノなんて無理なんて言われたわ」そのような時、「そうですね」なんて言ってはいけないように思う。「そう言った人は可能性を信じられない不幸な人なのよ」そう言えばいい。

「こんな私だけど、夢があるの」「何ですか?」「あの・・・いつかリサイタルをしたいの」「えっ?それは無理なんじゃ?」なんて言ってはいけないように思う。「素晴らしいじゃないですか?」そう言えばいい。社交辞令ではなく本心からそう言えばいい。

そりゃあ、バイエル程度の曲を弾いている人に「それって来年ですか?」みたいなことは訊けないけれど、もしかしたら40年後、50年後には可能かもしれないじゃないか?

年齢を重ねた人に厳しいというのだろうか、人間の可能性を信じられない人もいる。そのような人の意見に引きずられてしまっては本当にもったいない。

ドラガさんの修業時代、往年のピアニスト全盛時代、ピアノの黄金期だった。この「華麗なるワルツ Op.34-1」もピアニストたちはレパートリーとして演奏していたのだろう。

この演奏はドラガさん、102歳の時の演奏。

50年後、自分はどうしているだろう?できないと今自分で諦めたら50年後も何も変わっていないと思う。

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ショパンの前座 

 

そのものずばり「ピアノの学習」(音楽之友社)という本を持っている。長岡敏夫という人の著で、昭和47年に発行されている。昭和47年、まさに高度経済成長期の本なのだ。指の練習書から導入の教材、さらには邦人作品まで、満遍なく説明されていて、当時はよく読まれていたのではないかと想像する。

特色としては、曲に難易度がついていること。「初級4」とか「上級5」みたいに。全音ピアノピースと同じ感じだろうか?まさか当時でも「その曲は中級3でしょ?もう少し中級2の曲を弾いてからにしましょう」などということは高度経済成長期のピアノ教室でもなかったように思う(願う?)けれど。この本のもう一つの特色は著者提案による「学習順序」が記されていること。むろん、すべての作品にではないが、バッハのインヴェンション、平均律、ベートーヴェンのソナタ、ショパンのエチュードなどには記されている。この著者の提案通りの順番で学習できた人、当時どれくらい存在したのだろう?

「ピアノの学習」というタイトルも当時を反映していると思うが、チーチーパッパではなく、少しでも真面目にというか、専門的(!)にピアノを習うということは、「膨大な量です。その道を進むのがピアノ道である」のような読後感も当時のピアノ教育というか、ピアノ道を反映させているような気もする。今だったら、もう少し「楽しく」みたいな要素がないと売れないのではないかと・・・

「えっと、チェルニーは30番、40番、50番は必ずだから、これで120曲ね。ショパンの練習曲はこの本の順番に従うとして、その前にモシュコフスキの練習曲もやらなきゃ。よかったぁ、たった15曲だわ」

著者の責任ではないけれど、こう全部を最初に順番、難易度つきで提示されてしまうと、あまりの量の多さにクラクラしてきてしまう。終わりなき茨道、それがピアノ道・・・のような?「まだまだ必修曲が待っているのよ?急いで・・・頑張れ・・・」みたいな?

ただ網羅されているという点で、昭和47年当時、この本はかなり斬新であったと思う。モシュコフスキの小品も紹介されていたりするのだ。連弾の「スペイン舞曲集」を含め6曲も紹介されている。

モシュコフスキの15の練習曲Op.72も紹介されている。この本では「曲」の章ではなく「練習曲」の章で、チェルニーやブルグミュラーの後に紹介されていて、こう書かれている。

モシュコフスキ15の練習曲(上級2-上級3) ロマン的な美しさを表現するテクニックの育成をめざしている。なかんずくショパンの「練習曲」のための準備としては最適と思われる。

内容に異論はないけれど、モシュコフスキが「練習曲」の章で紹介されていること自体が当時を反映しているような?ショパンやリスト、ラフマニノフの練習曲は「曲扱い」なのに、練習曲仕分けされてしまっている。しかもショパンへの準備・・・

「日本では僕はショパンの前座か?」とモシュコフスキは天国で感じているかもしれない。

そのモシュコフスキの練習曲を実に魅惑的に演奏しているピアニストがいる。イレーナ・ヴェレッドというイスラエルのピアニスト。アメリカでは非常に有名だが、何故か日本での知名度は高くはない。何故かなぁ?

これからの時代、何を弾かなければ・・・というよりは、どの曲も、それはブルグミュラーやチェルニーも含めて「どう弾くか」という時代になっていけばいいと思う。

僕が子どもの頃習っていたピアノ道、まるで自動車教習所のカリキュラムみたいだった。「ハイ、合格。次のステップは・・・」みたいな?

モシュコフスキはショパンの前座ではないですよ?

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何故にサロン風小品が演奏されなくなってしまったのか?素敵に弾ける巨匠がいなくなってしまったから・・・これを言ってしまったらおしまいという気もするが、時代と共に演奏スタイルがザハリヒなものになっていったことと関係はあるだろう。リサイタルも全曲もの、ベートーヴェン全ソナタ連続リサイタルとか、バッハ平均律の夕べとか、どこか流行だったりする。ショパン全作品演奏・・・みたいな、まるで登山のような演奏会もあったりした。

全部がモシュコフスキ作品によるリサイタル、このようなものは可能かもしれないが、聴くのはちょっと大変そうだ。大曲バーン・・・ばかりも辛いが、小曲チマチマ1時間半も辛い。ショパン人気の理由はここにあるのかもしれない。小品と大曲とのバランスがいい。30分のソナタもあれば、サロン風に小曲を組み合わせることもできる。ショパン強し!

宝石のような小品が顧みられなくなってしまうのは、やはり寂しい。小品独特の難しさってあるのかもしれない。モシュコフスキの曲、華麗な曲が多いように思うが、これらの曲をバリバリと演奏されても困惑してしまうだけだ。

ピアノ専門教育現場というのだろうか、つまり音大でサロン風小品が不当に(?)低く扱われていたりするのではないだろうか?ドビュッシーの前奏曲集とか「喜びの島」はレッスンで習うが「月の光」は卒業後自分で勉強したという人も多いのではないだろうか?ショパンもソナタやバラードは先生に習うが、「幻想即興曲」や「小犬のワルツ」は、そういえば音大のレッスン室から聴こえてきたことはない・・・みたいな?

モシュコフスキの15のエチュードは音高ではよく弾かされるが、その他の小品はスルーされてしまうような?そのような流れがあるのだとすると、巨匠の演奏が好き・・・という人でもなければ、その種のサロン的小品と出逢うチャンスすらなかったりするのでは?音大という場がコンサヴァティヴな場だとすると、それも仕方ないことのような気もするけれど・・・

「セレナータ」というモシュコフスキにしてはシンプル(易しい?)な曲。このメロディーは昔は人気があったようで、様々な楽器に編曲されたりしているし、クライスラーも素晴らしく魅惑的な録音を残している。見開き2ページの実に目にも手にも親切な曲だ。ブルグミュラー25とかバイエル後半といった感じだろうか?見た目は・・・

でも素敵に演奏するのは非常に大変そうだ。凡庸に弾くと「はぁ?だから何なの?」と言われてしまいそう。

この曲、やはりフリードマンの演奏が圧倒的に素晴らしい。

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発表会というサロン文化 

 

今の時代、ピアノ教室の発表会って「企画命」なのだろうか?ただのトコロテン式の発表会って教師の研究不足とされる空気がある?個人的には「トコロテン」もいいと思うが・・・

企画命発表会の場合は違うのかもしれないが、発表会って意外とサロン文化の残り香を感じたりする。プロのリサイタルでは廃れてしまったサロンの残り香。ランゲの「花の歌」とかエステンの「アルプスの夕映え」のような、昭和発表会の定番曲って、どこかサロンの香りが漂っているような?ロマンティックな時代の深窓の令嬢たちが弾いていたというイメージ。

ソナチネ、ソナタと古典派を勉強したら、いよいよ憧れのロマン派・・・今は四期同時進行が普通なのかもしれないが、ロマン派の曲って、僕が子どもの頃は憧れに近いものがあった。いわゆるロマン入門曲としては、今でもメンデルスゾーンの無言歌とかショパンのワルツとか、定番なのではないだろうか?この種の曲も、やはりサロン文化の香りがする。

「さすが先生・・・違うわねぇ・・・」これって先生には迷惑なのだろうか?いつでもなんでも弾ける=ピアノ教師・・・のような一般人の思い込み。でも、この「さすが先生・・・」を捨ててしまってもいけないような?講師演奏で、かつて音大時代に弾いた試験曲を弾く、たとえば、スクリャービンの後期のソナタとか?あるいは新たに難曲に挑戦する、その場合、「さすが先生・・・」的な空気は醸し出されるかもしれないが、発表会に漂っていたサロン空気とはそぐわない場合も出てくるような気はする。まぁ、曲にもよるだろうが。ラフマニノフであれば、渋系のプレリュードとかエチュードをバンバン弾くよりは、ラフマニノフのトランスクリプションを弾いた方が、発表会のサロン的雰囲気には合う。ショパンは、このような場合もプリンスで、「さすが先生・・・」にも「サロン的雰囲気」のどちらの需要にも応えられるというところが凄いと思う。

ちょっと視点を変えて、巨匠御用達曲集を講師演奏で弾いてみたらどうだろう?この場合も両方の需要(?)に耐えられるような気がする。アントン・ルビンシュタインの「へ調のメロディー」に続けて、この「ワルツ・カプリス」を弾くとか?僕だったら「ハーッ、こういう選曲もあるのか、センスいいっ!」などと感じると思う。全音ピアノピースにこの曲はあったと思う。懐かしい唐草模様の楽譜を今でも持っている。この曲、生演奏で聴いたことはないな・・・

演奏しているのは、密かに僕が「サロン小品の帝王」と呼んでいるイグナツ・フリードマン。素敵だねぇ・・・この種の曲の難しさって、エチュードのようになってはいけないというところかもしれない。フリードマンは粋・・・だねぇ。

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扉開き 

 

「いろいろな曲をご存じなんですね・・・」サークルの打ち上げなどでも言われるし、このブログの感想としてネット上で知らない方から言われることもある。珍曲博士だと自分では思ってはいないけれど、やはり往年のピアニストの演奏を好むという自分の嗜好が「いろいろな曲を・・・」につながっているのだとは感じることがある。

往年系の巨匠たちの愛奏曲というのだろうか、現代のピアニストがあまり演奏しなくなった、かつてのサロン風音楽とか、その種の曲は往年系の演奏を聴くと自然と知るようになっていくのだと思う。

もちろん、アマチュアがサークルなどで演奏しても素敵だが、発表会の講師演奏で、かつての巨匠御用達のような曲を教師が演奏したら、さらに素敵だと思う。むろん、「英雄ポロネーズ」とか「バラード第1番」のような曲でもいいのだろうが、例えばヨゼフ・ホフマンの師であったアントン・ルビンシュタインやモシュコフスキの曲など、本当に素敵だと思う。そこには教師が生徒に扉を開くという意味合いも出てくるのではないだろうか?

積極的な生徒もいるのだろう。自分からどんどん曲を聴いて「今月はパルムグレンの曲を集中的に聴いていて、自分でも弾いたりしているんです。来月は南米のニャターリの曲を勉強しようと思っています」全員がこのような生徒であったら、教師がわざわざ紹介というか扉開きのお手伝いをする必要もないのだろうが、クラシックは好きだけど、曲をあまり知らないし、何から聴いたらいいのかも分からないなどという生徒も結構いたりするのではないだろうか?

アントン・ルビンシュタイン、有名な曲は「へ調のメロディー」だと思う。「あっ、聴いたことある」的な曲。その割には、滅多に現代のピアニストはリサイタルなどで演奏してくれない。ホフマンの演奏、何気なく聴くと、美しいメロディーねぇ・・・と聴いてしまうが、このメロディー、右手、左手と、交互に親指で弾いていくのだ。さらに、「基本10度開きです」のような、手が大きくないと、あるいは手の開きが柔軟でないと、なかなか演奏は難しいところがある。届かない箇所は、アルペジオにするしかないと思うけれど、あまりに頻繁にバランバランとアルペジオで弾いてしまうと曲の魅力が損なわれるような?

この種の曲って、現代人がどこかに置き忘れてしまったセピア色の何か・・・のようにも思える。

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ケヒンデ・ワイリーの肖像画 

 

クラシック演奏家、アフリカ系アメリカ人が少ないという文章を読んだことがある。僕は「そうかな?」と思った。それは僕が声楽が好きということもそう思った理由の一つかもしれない。特に女性(女声)のアフリカ系アメリカ人の活躍は目覚ましいものがある。彼女たちの評価においても、そこにはアフリカ系だからといった特別なものはない。例えば、ジェシー・ノーマンはアフリカ系アメリカ人にも関わらずドイツ歌曲も上手い・・・とか、レオンタイン・プライスはアフリカ系アメリカ人とは思えないほどヴェルディを見事に歌いこなし・・・などといった評価は見たことはない。

ピアニストだとアンドレ・ワッツだろうか?彼の血の半分はアフリカ系ではなくハンガリーなので、だからリストを得意としているのだ・・・などという評価も聞かない。

欧米のオーケストラにアジア系の団員がいても、それは風景として何の違和感も感じなく見て(聴いて)しまうと思うが、たしかにアフリカ系の団員がいたら、少なくとも目立つような気はする。さらに、国際コンクールのコンテスタントにもアフリカ系の人はあまりいないように思う。先のショパン・コンクール、アジア勢は沢山いたけれど、アフリカ系はどうだっただろう?

日本という島国に住んで、周囲は日本人ばかりという環境にいると、日本人ということはマジョリティになる。でも欧米感覚だと、日本人ということは、ある意味マイノリティに変わることだってあるかもしれない。日本人、韓国人などという感覚もなく、大雑把に「東洋人」としか捉えない保守欧米人もあちらには沢山いそうだ。僕たち日本人はマジョリティ?それともマイノリティ?

人間って、ことさら差別とか偏見と意識しなくても、自分の常の世界に存在しないものを「異質」と捉えるところはないだろうか?

東京で「ボストン美術館至宝展」という展覧会があった。人気のある展覧会で激混みだったような気もするが、現代アートの部にケヒンデ・ワイリーの描いた肖像画が展示されていた。僕はアフリカ系ということへの、強い誇りのようなものを感じたけれど、たしかにアフリカ系の人物肖像画というものは日本人には常ではなく、一般的ではないのかもしれない。あまりに常感覚と異質のもの、自分の感覚にはないものが、いきなり入ると、そこに違和感のようなものも感じることもあるのかもしれない。ワイリーの肖像画への反応として、割と若い女性二人だったのだが、「やだぁ・・・これ・・・えっ?やだぁ・・・」という反応があった。これは偏見?偏狭ではあるのかもしれないが・・・

合衆国大統領の肖像画というものがあるのだそうだ。公式の肖像画として、一枚はホワイトハウス、もう一枚は国立肖像画美術館(そんなものがあるのか?)に飾られるのだそうだ。前オバマ大統領は、自分の公式肖像画をケヒンデ・ワイリーに依頼したということで、アメリカでは話題になっているらしい。もちろん、アフリカ系アメリカ人ということもだろうが、彼はゲイでもあるので、元大統領がマイノリティに属するアーティストに依頼したということで話題になったのだろう。あとは、現大統領はこんなことしないだろうな・・・というニュアンスもそこには含まれているような気もする。

これがケヒンデ・ワイリーの作品、あなたはどう感じるだろう?

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ゴールデンピアノ時代 5 

 

1937年、旧メトロポリタン歌劇場でのヨゼフ・ホフマンのゴールデンジュビリー・コンサート、これはホフマン個人の貴重な演奏の記録であると共に、いわゆるピアノ黄金時代の記録でもあるように感じる。

ピアノという楽器の進化、完成、サロンから巨大な演奏会場への以降、会場の隅々にまで響き渡る必要性、さらに繊細さも伝えられる機敏な楽器の必要性。ピアノ技法にもそのようなものが求められ、叩きつけない豊かな響きを巨匠たちは具現化した。均一化された模範演奏ではなく、聴衆は各々の演奏家の至芸に酔った・・・

おそらく、その頃には「自分自身に酔った」凡庸な演奏家もいたのだろう。作品から離れ、自分に酔う。当たり前だが、そしてどの時代においても凡庸な演奏家はいるのだ。1937年当時、全員がホフマンではなかった。

必要以上に飾られた凡庸演奏を聴くうち、聴衆は作品そのものの美を欲したのではないか?「もっと純粋に作品を感じたい」と。それが現代のザハリヒな方向へ演奏というものを導いた。現代、やはり凡庸な演奏家はいるのだ。今度は必要以上に整えられたというか、研究成果のような、どこか均一お手本演奏を聴くうち、現代の聴衆はこう思い始めている人もいるのではないか?「このような曲なんですという説明的な演奏はもういい。演奏家のパッションを感じたい。その人からしか感じられないような、強烈な何かを聴きたい。優秀だけれど、その人だけではなく、おそらくBさんからも聴けるような演奏ではなく、その人だけの何かを聴きたい」

これからは、1937年当時とは逆の流れになっていくのかもしれない。もしかしたら、演奏スタイルというものは凡庸な才能と聴衆が作り上げていくのかもしれない。多分にシニカルな感じ方ではあるが。

有名なピアニストをコンサートホールで聴く、この形だけではなく、かつてのサロンが復活していくのではないか?少人数でのコンサート。大曲バーン・・・というプログラムから、かつてのロマンティックな小品、巨匠たちが愛奏したショウピースの復活が予想できる。日本でもハード(サロン的会場)は整いつつあるように思う。

このゴールデンジュビリー・コンサートで、ホフマンの二人の自分の師匠の作品を演奏している。一人はアントン・ルビンシュタイン。ホフマンが演奏しているピアノ協奏曲の復活はないのかもしれないが、アントン・ルビンシュタインの小品は復活していく可能性はあると思う。もう一人の師匠、モシュコフスキのショウピース、これらの作品は、現在すでに復活傾向にあるのではないか?

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ゴールデンピアノ時代 4 

 

ホフマンの1937年、ゴールデンジュビリー・コンサート。ショパンだけではなく、このラフマニノフも素晴らしい。ホフマンはラフマニノフから3番の協奏曲を献呈されている。でもホフマンはレパートリーとして演奏はしなかったようだ。

手の大きさの問題があったのだろうか?ホフマンは小さな手の持ち主とされているので、それはあるかもしれない。ショパンやベートーヴェンの4番の協奏曲のホフマンの演奏からすると、ラフマニノフの協奏曲はちょっと違うかな、という気がしないでもない。むろん、弾けないということはなかっただろうし、途中で譜読みを挫折とか、そのような理由で弾かなかったわけではないだろうと思う。でも、なんとなく合わないかも・・・とは感じる。この有名なプレリュードを聴くと、でも協奏曲も聴いてみたかったなどと今度は思うが。

写真に残されたホフマンの手、大柄なロシア人たちと比較すると、やはり小さめには感じる。肉厚ではあるが、巨大な手・・・ではない。ホフマンよりも大きな手の日本人女性もいるのではないだろうか?

デ・ラローチャはラフマニノフの3番を弾いている。ホフマンとは時代が異なるのかもしれない。デ・ラローチャは小さな手だったのかもしれないが、指が伸びるというか、軸となる指(おそらく親指?)を支えとして自在に弾いていたのではないかと想像する。親指の支えと指・・・というか手の柔軟性で大曲を弾く・・・みたいな?

重厚、というよりは軽めのコロコロ、クリスタルクリアで舞う・・・のようなホフマンの流儀がラフマニノフの3番とは合わなかったのではないか、そんな気がする。弾く必要性をホフマンが感じなかったとか。

重厚なマシンガン演奏でない、このプレリュードの演奏は貴重かもしれない。中間部は、まさにホフマン・・・だねぇ。

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ゴールデンピアノ時代 3 

 

ホフマンのジュビリーコンサート、この演奏にはコロコロの見事さと、若さを感じる。永遠の青年が演奏しているという印象。弟子のチェルカスキーも、お爺ちゃん(?)になっても音は艶やかで若かったように思う。「ピアニストは若くあれ」という具体的な指導があったわけではないだろうが・・・

この曲の、過去のショパン・コンクールのコンテスタントたちの演奏に、これほどの若さ、夢を感じさせる演奏があっただろうか?コンテスタントたちの方がホフマンよりも若いのに。

これでもか・・・という力感を感じさせず、音が舞っているような感じで軽いのだ。基音、直接音ではないというか。でもこの曲を、このように弾いてしまったら本選には進めないのかな?

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ゴールデンピアノ時代 2 

 

有名なOp,9-2のノクターン。ホフマンの演奏の魅力的な語り口に惹かれてしまう。当時、ホフマンはライバルたちと比較すると、ザハリヒなピアニスト、楽譜忠実派とされていたらしい。でも、今聴いてみると十二分にロマンティックな演奏と聴こえる。

ホフマンだけに限らないのだが、この時代のピアニストの演奏の特色として、まずは語り口というか、歌があるというか、そのようなところだが、もう一つ、細かな音符の弾き方、音色が現代にはないもののように感じる。軽く、コロコロとしたあの響き・・・

このノクターンでも、トリルとか、駆け下りてくる装飾などに、その「コロコロ」が際立っているように思う。この「コロコロ」はいわゆるミクリ派のピアニストたちの特色とされているが、別にミクリ派ではなくても、コロコロしていたんだな・・・と。ペダルに埋没せずに、指コントロールで聴かせてしまうような?

テクニックも異なるのかもしれないが、ピアノ、つまり楽器も現代のものとは異なっていたのではないか?おそらく、ホフマン仕様というか、非常に敏感な繊細なピアノで弾いていたのではないかと想像する。

「わあ、このピアノ、弾きやすい・・・」今の感覚だと、誰にでも弾きやすいというピアノになるのだろうが、ホフマンのピアノはホフマンだけが弾きやすい、ホフマン仕様のピアノ。凡人が弾くと、「あれぇ、全部がフォルテになっちゃう」弱く弾こうとすると「あれぇ、音が鳴らない」みたいな?そんなピアノ・・・

ホロヴィッツとテクニシャンのフランツ・モアの関係は有名だが、ホフマンにも専任(?)のテクニシャンがいて、この時代は、そのようなオーダーメイドの時代だったのではないか?

多くの亡命ピアニストがアメリカにやってきた。豊かなアメリカ。それまでのサロン的な会場ではなく、大きな演奏会場でピアノが鳴らなければいけない。さらに音量だけではなく、繊細なるコントロール技までも聴かせなければならない。ピアノ会社というか、テクニシャン、そして偉大なピアニストたちが、切磋琢磨した時代だったのではないだろうか?ピアノ改良の時代?

ホフマンは発明家でもあり、たしかピアノの機能に関する特許も持っていたと思う。そのような時代だったのかもしれない。

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ゴールデンピアノ時代 1 

 

初めて医大生にホフマンの演奏を聴かせてもらったのは、いつだろう?あまり記憶は定かではない。小学生の頃だったというのは、はっきりしている。何の曲だったか、それは覚えている。ショパンの2番の協奏曲だったと思う。子どもなりに、ある一つのことを知った。演奏というものは、スポーツ等とは異なり、絶頂期というのだろうか。頂点というものが必ずしも現代なのではないのだということ。そのことを、はっきりと感じ取った。音楽分野でも、例えばエディションの研究などは、そりゃあ最新の成果が素晴らしいのだろう。スポーツの世界も、記録というものは、やがて破られていく。頂点は今現在、さらに未来へとつながっていく。

もしかしたら演奏、ピアノ演奏というものの頂点、黄金の時代は、現代ではなく過去に一度花開いていていたものなのではないか?

ヨゼフ・ホフマンの演奏、個人的には1937年の旧メトロポリタン歌劇場で行われたライブ録音が最高であると感じる。「ゴールデンジュビリー・コンサート」と呼ばれている演奏会。

幸いにも「ゴールデン・ジュビリー」のCDはネットで容易に手に入る。

音楽雑誌をたまに開き、ピアノ関係の文章、アマチュアやプロのブログなどを読み、ユーチューブでの現代スターピアニストの演奏を聴いたりすると、ピアノ演奏も過去、現代、そして未来という方向に進んでいるように感じてきたりもする。演奏技術、ノウハウの浸透等々。40年前の演技よりも、現代の演技の方が進んでいる・・・みたいな、どこかフィギュアスケートを観る時のような感覚。

昔も、まぁ、それなりに素晴らしい人もいたのでしょうが・・・昔もではなく、もしかしたら「昔は・・・」なのではないかという素朴なる印象、そんなことをホフマン・ジュビリーコンサートから感じることがある。

過去の偉大な演奏、主観的なものを考えなければ、それはホロヴィッツの演奏を思い浮かべる人が多いのではないだろうか?人によっては、チェルカスキーとか。彼らはギリギリ過去の黄金の金粉を現代のホールに散り巻けた人たちでもあったように思う。さらに、もう少し過去、もう少しだけ過去のピアノ、黄金時代というものを探検してみても楽しいかもしれない。

チェルカスキーは、たしかホフマンのお弟子さんだった・・・

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強烈なメロディーメイカー 

 

やっとピーター・アレンご本人のパフォーマンス登場。想像はしていたが、かなり強烈なキャラクター。まずはリベラーチェを連想するのは僕だけか?

亡くなる4年前の映像みたいだ。ライザ・ミネリとは離婚していて、おそらく恋人グレッグと巡りあい、幸せの絶頂の頃だったのかもしれない。

ピーター・アレン、オーストラリア出身のシンガーソングライター。20歳の時、香港でのパフォーマンスでジュディ・ガーランドに才能を認められる。ライザ・ミネリと結婚。その後離婚。

1992年、カリフォルニア州にてエイズによる合併症にて死去。48歳・・・

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ザ・ボーイ・フロム・オズ 

 

バーブラ・ストライサンドのアルバム「アンコール」はバーブラとハリウッド俳優陣とのデュエット集。バーブラも俳優だが、皆、歌が上手いのに驚く。ヒュー・ジャックマン、おそらく最近では「レ・ミゼラブル」のジャン・バルジャン、「X-MEN」のウルヴァリンなどの役で有名なのだろうと思う。僕は、どちらの作品も観ていないのだが、ラブコメ好き(?)ではあるので、メグ・ライアンと共演した「ニューヨークの恋人」のレオポルド役と言われると「ああ、あの人」とすぐに顔が浮かぶ。

ハリウッドの人って、なんだかマルチな人が多いような?歌って踊れて・・・みたいな?バーブラのアルバムでのヒュー・ジャックマン、もうこれは歌手でしょう。「レ・ミゼラブル」はミュージカル映画だから、ヒュー・ジャックマンは歌っているのだろう。その映画を観ていれば、バーブラとデュエットしているヒュー・ジャックマンにも衝撃は受けなかったのかもしれないが、僕にとってヒュー・ジャックマンは完璧に「レオポルド」だから、「ああ、レオポルドって歌も歌えるんだ」という驚きが大きかったのだ。

実は、彼、トニー賞も受賞している。トニー賞ってミュージカルの賞だよね?ハリウッドスターであると同時にミュージカルスターでもあったのだ。バーブラみたい!

ヒュー・ジャックマンがトニー賞を受賞したのが「ザ・ボーイ・フロム・オズ」という作品。オズ・・・とは、おそらく「オズの魔法使い」と「オーストラリア」からきていると思う。このミュージカルはピーター・アレンの生涯を描いたミュージカルなのだ。ピーター・アレンはオーストラリア出身。そして彼の才能を見出したのが、あのジュディ・ガーランドなのだ。「オズの魔法使い」のドロシーだね。

ピーター・アレンはジュディ・ガーランドの前座を務めるようになる。オーストラリアからニューヨークへ・・・やがてジュディ・ガーランドの娘、ライザ(ライザ・ミネリですね)と恋に落ち、そして結婚。

でもピーターは女性だけではなく、男性も愛することができた。そしてライザとの破局。どん底の生活。そんなピーターを愛したのが恋人のグレッグ。幸せな日は続かない。グレッグがHIVに感染、エイズ発症。グレッグ亡き後、今度は自分がHIV感染、発症、そして死へ・・・

ピーター・アレンのヒット曲からミュージカルは成り立っているようで、ユーチューブで確認した限りでは、なんとも陽気な雰囲気が漂っている。ヒュー・ジャックマン、完璧にミュージカルスターでしょう。愛に破れ、愛を見つけ、そして孤独の中死んでいく、これはミュージカルの題材としてうってつけかもしれない。

ヒュー・ジャックマン、そしてピーター・アレン再認識・・・という感じかな?

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あなたしか見えない 

 

この曲もピーター・アレンの代表作ではないかと思う。ご本人も歌っているけれど、やはりメリサ・マンチェスターの歌唱が個人的にはいいと思う。この曲、日本では(世界でも?)リタ・クーリッジのバージョンが有名なのかもしれないが、やはりこの曲はメリサ・マンチェスターだと思う。

メロディーも素晴らしいが、この曲はキャロル・ベイヤー・セイガーの詞が際立っているように感じる。ちょっと変わった詞だ。

「あなたしか見えない」 曲:ピーター・アレン  詞:キャロル・ベイヤー・セイガー

サーカスが街にやってきた日、彼女は泣いていたわ
ただ通り過ぎるパレードが好きじゃなかったのね
だから彼女は微笑みを作って、ある道化師と仲良くなった
ネットもはらないロープの上で踊った
彼女のことはよく知っているわ
だって、私にそっくりなんですもの

そんなに泣いたりしないで
胸にしまっておくのよ
感情を抑えるの
自信を持って飛ぶの
落ちることがあっても、あなたなら大丈夫よね?

大きなテントがたたまれた時彼女は分かったの
彼女の夢が置き去りにされたことを
彼女が見つけたと思っていたのは
違う種類の恋だった
おが屑と煌めきの他には
何も残っていなかった
でも彼女はあきらめきれる
だって、私という素晴らしい先生がいるんだもの
だから・・・

そんなに泣いたりしないで・・・





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I Honestly Love You 

 

オリビア・ニュートン=ジョンの「I Honestly Love You」という歌、かなり昔、70年代の歌ではないかと思う。オリビア・ニュートン=ジョンは80年代幕開けの「フィジカル」の印象が非常に鮮烈。歌のヒットが、たしかフィットネスブームまで発展したのではなかったか?本人も、それまでの清純派というイメージからの脱却に成功し、芸風を広げたかの感もある。

その清純派時代のヒット曲、たしか彼女にとって初の全米1位の曲が「I Honestly Love You」という曲。邦題を調べてみると「愛の告白」となっている。

ピーター・アレンの書いたメロディーの中で、最も甘く、最も美しいメロディーなのではないだろうか?

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ニューヨーク・シティ・セレナーデ 

 

数年前、俳優のチャーリー・シーンがHIVに感染しているということを公にした。HIV感染、さらにエイズ発症となったケースでも、今では大騒ぎされることも少なくなった印象だ。チャーリー・シーンの時は、日本のタレントMの「えっ?私、大丈夫かな?」みたいな三面記事が賑わった記憶があるが、エイズ=死という捉え方はされていなかった感じだ。治療法、治療薬も進歩していて、イコール・・・死ではないことが一般にも認識されるようになったのだろう。

1980年代、そして1990年代の初め頃までは、エイズ=死病とされていて、事実そうだった。この時代、偉大なアーティストやスポーツ選手が次々にエイズで亡くなっていった。あまりにも「えっ、この人も?」みたいな衝撃が強かったように思う。

バレエダンサーのジョルジュ・ドン、ルドルフ・ヌレエフ、歌手のフレディ・マーキュリー、フィギュアスケーターでは、札幌オリンピック覇者のオンドレイ・ネペラ、インスブルックオリンピック覇者のジョン・カリー。フィギュア界は二人のオリンピックチャンピオンをエイズで失っていることになる。音楽界ではチェンバロ奏者のスコット・ロス、ピアニストのホルヘ・ボレット、ポール・ジェイコブス等々。

僕ぐらいの年代の人は、1980年代~90年代初めは、高校生とか大学生だった世代。エイズで亡くなってしまった才能に影響された世代でもあるのかもしれない。ジョルジュ・ドンの「ボレロ」とか、胸が張り裂けそうになりながら見入ってしまったものだ。あの時代、何度も「何故この人が?」という想いを味わってきたように思う。

混乱そのもの・・・そのような時代だったのではないだろうか?多くの感染者、発症者は、病気と共に人々の偏見とも戦わなければならなかった時代。「空気感染するらしいじゃないか?」「イヤ、触らないで・・・エイズになっちゃうじゃない!」

あの時代、ゲイに対する偏見も凄まじかったのではないかと想像する。「エイズ?自業自得だろ?」みたいな?多くの人がエイズ患者の元を去っていったのだろう。実の親子でさえ、エイズの子どもを勘当するケースもあったのだから。だからこそ、あの時代を「愛の時代」と思いたい。死病であろうと、感染するかもしれなくても、支えた人は存在した。真の友情、愛情でエイズ患者を支えた人はいたのだ。愛に包まれこの世を旅立ったエイズ患者もいたのだ、そう思いたい。人間の愛が試された時代だったのかもしれない。

エイズで亡くなった、病気と偏見との闘い、それだけでも痛ましいが、才能の喪失という意味でも痛ましさを感じる。この時代、多くのエイズ患者は30代とか40代で亡くなってしまっているのだから。

そのような才能を紹介したいというか、想い出してみたくなった。その人たちは、まさに僕の青春時代そのものだったのだから。

まずは、シンガーソングライターのピーター・アレンという人。「ああ、ピーター・アレンね」とパッと彼の作品や歌声が浮かぶ人は、かなり洋楽に詳しいかもしれない。ご本人の歌唱ではなく、提供した歌手のバージョンが、少なくとも日本では有名になってしまった感もある。

クリストファー・クロスの大ヒット曲。この曲を作曲したのがピーター・アレン。「ああ、懐かしい・・・」と感じる人も多いのではないだろうか?

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