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ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

国連からのメッセージ 

 

ヨーロッパの国を中心に、LGBTの権利が認められるようなニュースが入ってきたりする、ドイツで同性婚が認められたりとか。日本でも自治体レベルでLGBT問題に取り組んでいるところも出てきた。

アメリカ合衆国からは、保守の流れ、その流れへの反発という、どこか分断というか、混沌としたものを感じたりする、日本も昔に比べたら進んできているのかな・・・などと思ったりしていたのだが、それは僕だけではなく、多くの人の感想かもしれないけれど、そんなこともないのかなぁ・・・と。

日本では同性愛というだけでは違法にはならない。権利もないけれど、処罰もないですよ・・・みたいな?

世界の72か国の国では、同性愛というだけで違法とされるのだそうだ。そのうちの7か国では、同性愛ということが発覚すると、死刑になるのだそうだ。

「別に権利なんていいじゃない?投獄されたり死刑になるわけじゃないんでしょ?」日本の感覚なのだろうか?

国連人権理事会というところが、同性愛というだけで、処罰がある、死刑になる、これは人権侵害なのではないか、人が人として普通に生きたい、それが可能にならないというのは、人権の侵害なのではないか、そのような国に国連として抗議しましょう・・・という案を出した。

理事国47か国のうち、「そうですね。人権侵害です。国連として抗議しましょう」と案に賛成した国は27か国。棄権が7か国。「抗議するのは反対」という国が13か国。

この13か国は「LGBTというだけで死刑に処される、それは別に人権侵害にはならない」と判断したのだろうか?

ちなみに「抗議には反対」という反対票を投じたのは以下の国々・・・

ボツワナ
ブルンジ
エジプト
エチオピア
バングラデシュ
中国
インド
イラク
日本
カタール
サウジアラビア
アラブ首長国連邦
アメリカ合衆国

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Dance With My Father 

 

ルカがマッテオさんの葬儀で歌ったのがルーサー・ヴァンドロスの「Dance With My Father」という曲。この曲の収録された同名のアルバムはルーサー・ヴァンドロスの遺作となった。ボーカル入れをした後、彼は脳卒中で倒れてしまった。誰もが復帰を願ったそうだが、ルーサー・ヴァンドロスは2年後に54歳という若さで亡くなってしまった。この時、アメリカの音楽界に衝撃が走り、深い哀しみに包まれたという。

このアルバムは初登場でチャートの1位となったらしい。ルーサー自身の父親は、彼が8歳の時に亡くなっているのだそうだ。

ルカは「Dance With My Father」の歌詞に惹かれてこの歌を歌ったのだと思う。


「Dance With My Father」

僕が子どもだった頃、純真さを失ってしまう前のこと。父は僕を高く持ち上げてくれた。父は母や僕と一緒にダンスを踊ってくれたんだ。父は僕が寝付くまで、あやしてくれて、そして2階の寝室に連れていってくれた。その時僕は確信したんだ。僕は愛されているって・・・

もう一度チャンスがあるなら、父と踊ってみたい。僕は決して終わることのない歌をかけよう。どんなに僕が父と踊ってみたいと思っているか。

母の言いつけに納得できない時、僕は父に助けを求めた。父は僕を笑わせて、慰めてくれた。でも、最後は母の言いつけたことを僕にやらせてしまったものだ。そんな夜、父は枕元にそっと1ドル札を忍ばせてくれた。その父がいなくなるなんて、夢にも思わなかった。

最後にもう一度父をどこからか見ることができるのなら、最後のダンスを一緒に踊れるのなら、僕は決して終わることのない歌をかけよう。僕はもう一度、どうしても父と一緒にダンスを踊りたいから。

時々、母が父を思い出してすすり泣いているのを知っている。自分のためじゃなく、そんな母のために祈った。

無理なお祈りだったかな?「母が唯一愛した人を、もう一度生き返らせて」というお祈りだから。神様はそんなことは普通してくれないってことも分かっている。でも、母はすごく父ともう一度ダンスを踊りたいんだ。

僕が寝る時、これが僕の夢見る夢なんだ・・・




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CDのカテゴライズ 

 

CDショップ、あるいはネットでCDを購入する際、音楽ジャンルのカテゴライズというものは必要なのだろうか?全くジャンルがないとなると、それはそれで困るのは想像できるが、例えば、僕だったら「ブラックコンテンポラリー」とか「R&B」というジャンルに仕分けされていたら、その棚は素通りしてしまうと思う。

偏見なのだと思う。ブラックコンテンポラリー=ダンサブル、バラードでも「アー」とか「ウー」とかメロディーの原型を留めないほどヴァリアンテ、装飾が多く、どこかジャズのアドリブのような、やたらアンニュイ感を漂わせて・・・これは偏見だろう。知識不足でもある。

でもクラシックとカテゴライズされただけで素通りしてしまう人も多いらしいのが現実だ。せめて「コテコテジャズ」とか「コテコテR&B」「コテコテクラシック」みたいな表示と「えっ?これもジャズ?」「えっ?これもクラシック?」のような表示があれば、そのジャンルが苦手という人でも、ちょっと「手に取ってみようかな?」ぐらいの気持ちにはなるのではないだろうか?

実際には、それは不可能だと想像する。むろん、いわゆる入門編のような音楽として紹介されるような音楽もクラシックにあるけれど、本当にクラシック嫌い(?)の人が聴いて、「へぇ、クラシックもなかなかいいじゃない?」と思うかどうかは疑問だ。別に教養というか、曲当てクイズに参加するわけでもないのだ。有名曲をただ知りたいという人はそう多くはないと思う。聴き手の好み、感性の個人差が大きいし、演奏の質によっても聴き手の印象は大きく変化するだろう。

ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタ、例えばOp.110。「嘆きの歌」の箇所で感銘を受ける人もいれば、「ひたすら長いんですけど?」という印象を持つ人だっているだろう。

ルーサー・ヴァンドロスのアルバム「SONGS]でシングルとして大ヒットしたのがこの曲。グラミー賞も受賞しているらしい。でもポップス部門での受賞みたいだ。どう聴いても、このデュエットはポップスに聴こえてくる。でもルーサー・ヴァンドロスのアルバムはR&Bとかブラックコンテンポラリーという場所で売られている。僕は素通りしてしまうだろう。せめて「えっ?R&B?」とか「ポップスファンにもお勧め」みたいな案内があればいいのだが・・・

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シルクの声 

 

岸本葉子の「二人の親を見送って」(中央公論新社)という本を読む。なんとなく読む気がしなくて長い間積んでいた本だ。読む気がしなかったのは、他人事ではないから。そのような年齢に自分もなっているから。深刻な本ではなく、エッセイ。語り口も、いつもの著者と同じだ。だからこそ、身辺に、日常に「親を見送る」ということ、場合によっては介護をするということが別に特別なことではなく、それが日常的に存在するのだ、それが普通なのだ・・・などと思い知らされる。

最近、友人のルカが父親を見送った。家族に囲まれ笑顔で逝ったということだ。ミラノとソレント、それこそ北と南だから、ルカも大変だっただろうと想像する。

ルカの父親、何日か前に書いた文章で、ミモザの花を積んでプロポーズをした、あのマッテオさんだ。マッテオさんとルカには、長い間の確執があった。南イタリアは僕の想像以上に保守的な地域らしい。マッテオさんはルカに家業を継いで、ソレントで家庭を築いて欲しいという親としての願いがあった。ルカ自身は、パン屋を継ぐ気はなく、意識はイタリアではなくアメリカに向いていた。

「なんで父さんが僕の一生を決めるんだ?横暴じゃないか?」「ソレントがイヤならどこへでも行くがいいさ。でもお前は勘当だ」「ああ、勘当でもなんでもいいさ。こんな所へはもう戻らないさ。僕には夢があるんだ。父さんとは違う」

むろん、二人は、その後和解をしているが、北と南を往復するような毎日を過ごしていたルカは、一つのやり残しを感じたのだそうだ。子どもの頃、そして若い頃もマッテオさんに伝えていた言葉を和解後は言っていない・・・と。

それは、最もシンプルな言葉、「愛している」・・・想っているだけではなく、直接言葉で伝えるのが重要なのだそうだ。

マッテオさんの葬儀の時、ルカは歌を歌ったらしい。イタリア人らしい・・・そう思った。てっきりナポレターナを歌ったのかと思ったのだが、そうではなく英語の歌を歌った。ルーサー・ヴァンドロスの曲だ。

何故にルーサー・ヴァンドロス?ルーサー・ヴァンドロスって誰?

R&B、ブラック・コンテンポラリーの第一人者・・・ということだ。僕はこの種の音楽に疎いので知らなかった。

「絹のような声だな・・・」

ユーチューブでルーサー・ヴァンドロスの歌声を聴いてそう感じた。予想していた声とは違った。

何故にルカがルーサー・ヴァンドロスを選んだのか、それは次に書くとして、まず絹の声、ルーサー・ヴァンドロスの歌声を紹介したい。非常に下積みの長かった人らしい。有名歌手のバックグラウンド・シンガーを務めていた期間が長い。有名になってから「SONGS」というカバー・アルバムを制作した。70年代、ルーサー・ヴァンドロスはロバータ・フラックのバックグラウンド・シンガーを務めていて、ロバータとこの曲をよく歌ったのだそうだ。彼はこう語っている。「SONGS」を作るにあたり、絶対にやろうとすぐに決めた曲だと。

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仕分け 

 

卓越した歌唱力、つまり歌が上手い、上手いという概念、どこかブロードウェイでミュージカルに出演し、朗々と声を張り上げるのような、そのようなイメージを持つ。NHKのど自慢で鐘が沢山鳴るような?

もしエディット・ピアフがNHKのど自慢に出場したら鐘は沢山鳴るだろうか?意外と「鐘二つ」とかだったりするかもしれない。スティングも、どちらかというとNHKのど自慢には「受からないタイプ」かもしれない。ビブラート満載で朗々と・・・というよりは、「ボソッとした魅力」だから。

大気中に音符や休符が舞っている。凡人には見えない。でもスティングはそれを掴んでしまう・・・

スティングと共演しているのはカティア・ラベック、ラベック姉妹のお姉さんのほうだ。

「もともとお姉さんのカティアはジャズとか得意だったんでしょ?妹のマリエルは室内楽を好むとかじゃなかった?」

スティング、カティア・ラベックのこの曲、二人からこう言われているような気もしてくる。

「どうしてそう固く考えるんだい?上手いとはこのようなものと固く・・・」「そうよ。音楽を仕分けしなきゃならないなんて不幸なことなのよ。ジャズ風って何なのさ?」

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20歳を過ぎたら21 

 

ラベック姉妹、ビジュアル的な斬新な魅力と共に、シャープな演奏で人気があった。今もあるのだが、日本ではアイドル的な、どこかクロスオーバー的な扱いをされてしまった感もある。

でもガーシュウィンのレコード、続いて発売されたラグタイムのレコード、そのサウンドは衝撃的ですらあった。もともとは現代音楽を得意とし、僕が所有しているCDでも個人的にはバルトーク作品の演奏が圧倒的に思えたりする。

でもメシアンやバルトークがいくら素晴らしくても、やはりそれだけでは集客は難しい。なので戦略として「美人姉妹が華麗なるガーシュウィン」的なイメージを前面に出したのかもしれない。

日本において何枚目のアルバムだっただろう?ラベック姉妹が「パリのアメリカ人」を録音した。この演奏は、この作品において今でも僕のベストとなっているが、評論家の受けはあまり良くなかったと記憶している。「流行歌手がマイクを通してクラシック作品を歌っているような、もどかしさ・・・」という感じだったかな?偉い評論家さんは、そう感じるのか?僕は偉くないから躍動感溢れる、ニューヨーク(パリ?)の街の喧騒を感じさせるラベック姉妹の演奏を楽しめばいいや・・・と反発しつつ聴いていたものだ。

それにしても、このCMは懐かしい。

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横方向処理の神 

 

ピアニストのグレン・グールドがバーブラ・ストライサンドの大ファンだったことは、あまり知られていない。インタビュー記事でグールドはこう語っている。「とにかくストライサンドは偉大です。でも彼女がロックまがいの音楽を試みたアルバムがあって、そのようなものは癪に障ります。ロックそのものが音楽とは思えません」

おそらくアルバム「ストーニー・エンド」で若返り(?)を試み、ロックスターを演じた映画「スター誕生」あたりのバーブラ、転身を図った頃のバーブラの印象なのだろう。僕はグールドのようにロックに対して完全拒否派ではない。というか、聴きもしないというところがあって、そちらの方がグールドよりも頑ななのかもしれないなどと思ったりもする。

ロック歌手って、やたら吠えている?という印象ではある。

昔「ポリス」というグループがあった。そこからソロに転身したスティングという歌手に対しても「ロックの人」というイメージがあり、今まで聴きもしなかったのだが、最近は、このスティングにハマっている。

メル・トーメやバーブラのような美声ではない。音の入り方が繊細というよりは、どこか素っ気なささえ感じる。シャンソン歌手に通じるような?発声の瞬間や、張った声の陶酔感という魅力ではなく、スティングの場合、音符の塊の扱いが上手い。同時に休符の感じ方、処理が上手いと感じる。フレーズ処理が神・・・みたいな?

横の流れの上手さというのだろうか?一見(一聴?)ぶっきらぼうな感じなのだが、横の流れの処理が上手いので、聴き入ってしまう。

スティングのメジャーなヒット曲よりも、カバー曲とか地味目の曲に惹かれる。

横処理の神というか・・

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やはり遺伝? 

 

やはり遺伝・・・なのだろうか?音の張り方、入り方がお母さんそっくりだ。

それにしても、このレコーディング時、バーブラは73歳ぐらいだったはずだ。見た目もだが、声が若いと思う。

この二人のドレミファソラシドを聴いてみたい。

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category: Barbra Streisand

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遺伝なのか、環境なのか 

 

ある種の才能とか、その人の個性とか、そのようなものが親から子供に伝わる要因は遺伝なのだろうか?それとも育った環境なのか?

ジェイソン・グールド・・・ああ、あのジェイソンね・・・とパッと認識できる人は日本ではかなり少ないように思う。個人的には、歌手としてのジェイソン・グールドはもっと評価されていいように思う。

ジェイソン・グールドって?エリオット・グールドとバーブラ・ストライサンドの息子だ。バーブラの息子と言った方がいいのかもしれない。「バーブラの息子」とは言われても、決して「エリオット・グールドの息子」とは言われてこなかった。エリオット・グールド自身も「ああ、あのバーブラの夫ね」と言われ続けたのだろう。それが破局の原因だとされている。妻の方が初めは無名、格下だったのに、自分を超えてしまった。これってバーブラの初映画「ファニー・ガール」そのもののような?

エリオットとバーブラはミュージカルの共演で知り合ったらしい。エリオットも音楽的才能溢れる人だったのだと思うが、やはりバーブラの影響が大きかったのではないだろうか?離婚後はバーブラがジェイソンを育てているし。

遺伝と考えるよりは、環境と考えた方が、僕のような凡人には都合がいい。夢が持てるもの。

母親の働く姿、つまり母親の歌唱を聴きながら育ったのではないだろうか?音の入り方のニュアンスなんか、そっくりだ。

蛇足だが、バーブラは再婚している。相手は俳優のジェイムス・ブローリン。この人も日本では有名ではないが、テレビ俳優としてはアメリカでは知られているように思う。でも彼にとって再婚相手はアカデミー女優。結構思うこともあったのではないだろうか?

実はバーブラが再婚した時、ジェイムスには離婚した妻との間に3人の子どもがいて、バーブラには繊細なる(扱いの難しい?)息子ジェイソンがいた。さらに、俳優としてはバーブラ、つまり妻の方が格上。「すぐに離婚するんじゃあないか?」などと不謹慎にも僕は思ってしまった。「せいぜい3か月かな?」と。

でも20年も続いていますねぇ・・・ハリウッドの7奇跡の一つなのではないだろうか?

この動画の30秒ぐらいのところに出てくるのが、最初の夫、エリオット・グールド。最後のほうにチラッと映るのが現在の夫、ジェイムス・ブローリン。あのマリブのバーブラの邸宅に二人で暮らしているのだろうか?

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category: Barbra Streisand

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ドレミファソラシドの上手な歌手 メル・トーメ 

 

おそらくドレミファソラシドと音階を歌っても、そこにドラマがあるような、ソラシド・・・と終わる時に絶妙なるニュアンスで聴き手を酔わせてしまうような?何でもないような音符の動きに命を与えるような、そんな歌手。

まず連想したのがメル・トーメ。日本では、あまり知名度が高くないような?

同時ではない。準備が早いと思う。

盲目のピアニスト、ジョージ・シアリングと共演した、この曲・・・

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50年後の街のピアノ教室 

 

「中学生になるのでピアノ辞めます」「塾で忙しくなるので」「部活との両立に自信がなくて」子どもがピアノを辞める時の定番の言葉だろうと思う。学習指導要領に「学校以外で習い事を続けること」と明記されていないので、ピアノを続ける義務はない。でも学習塾に通う義務もない。

ピアノを続けさせたいと親は願う。先生も願う。本人もピアノが嫌いではない。できれば続けたい。こう言われたりすることもあるのではないだろうか?「ピアニストにさせるんですか?難関の音大に進学を決めているんですか?」そうではないんだけど。専門と趣味とに強引に分けてしまえば、そりゃあ趣味となる。

なぜ塾に通うのだろう?いい学校に進学したい、させたい・・・ということだろうか?なぜいい学校に入りたいのだろう?それはいい会社に就職したいから、親としてはさせたいから。

「ピアニストにさせる」「いい会社に就職して」人生の最大ポイントを、ある一点、就職というところに当てている。学校での成績、これを安定させる、それは就職というものに対しての投資。先行投資だ。ピアノに先行投資をするということは、ピアニストになるという意味合いを含んでくる。難関音大を出て、教えるにしても、それなりの偉い先生・・・そうなるには○○音大に受からなければ・・・

そのような人生計画、選択があってもいいと思う。でもそうではない人たちはどうすればいいのだろう?日本には、その選択肢が少ない。自由のようだけれど、自由に選択するとレールから脱線してしまうような、そんな社会。気づき始めている人も多いと思う。人生の幸せって、別に就職とか、そのような一点で決まってしまうものではないと・・・

むろん、政治家でもない限り、法を変えることはできない。今の義務教育は問題ありと感じても、教育基本法を変えることはできない。でも日本は鎖国をしているわけではないから、世界のどこかで起こっていることと無関係ではいられない。情報などは入ってくる。亀の歩み・・・かもしれないが、日本も変わっていく可能性はある。

もし将来、余暇というか、何がその人にとっての幸福か・・・みたいなことが、もう少し問われるような時代になっていくとしたら、ピアノ教室というものの価値も問われていくような気がする。親や子どものニーズも高まるだろうし、社会のニーズも高まっていくだろう。厳しくなると思う。「ピアノが弾ける、ピアノを習う、何か意味あるの?」そう問われていくような気がする。

「楽しそうに教室に通っています」それだけではないと思う。「何故ピアノを弾くの?」「何故ピアノを習うの?」「先生方はピアノで何を生徒に伝えたいの?」「弾けるとその生徒は幸せなの?」問われるような気がする。そのような時代になっていく。

あなたは自分の人生をどう生きたいの?ここに「ピアノ」というものが関わってくる。教室側は応える必要が出てくると思う。

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ミモザの花咲く頃 

 

「ねえ、彼女って・・・」「ああ、私の娘のラウラだよ。覚えてないのかい?あんたも子どもの頃一緒に遊んだじゃないか?」「ああ、あのラウラ?」「別嬪になっただろ?ローマの大学で美術を専攻していてね。夏の間はこちらにいるんだ」「そうか・・・大学生なのか」

マッテオにとっては一目惚れだった。ラウラは懐かしそうに話しかけてくる。「まあ、マッテオ?ハンサムになって・・・」一緒にソレントの街を散策したり、ナポリ湾を見つめたりした。でも夏はもう終わる。ラウラはローマに戻るのだろう。

「マッテオ?心配事かい?」母親だった。マッテオはラウラに対しての自分の気持ちを母親に伝えた。「ラウラはいい娘だね。男だったら夢中になるさ」「恋人がいるんだろうな?」「そんなこと知らないよ。直接訊いてみればいいじゃないか?」「母さん、そんなこと訊けないよ」「ラウラもお前のこと好きなんじゃないか?私はそう思うよ」「そうだとしても・・・」「なんだい?」「彼女にパン屋の女房になってくれなんて言えないよ」「マッテオ、あんた、本当にバカだね。女っていうものを分かってない」

「母さんは父さんのプロポーズを待っていた。でもあの人はなかなか言い出してくれなくてね。女は待っているもんだよ?」

マッテオが告白できないまま、ラウラはローマに戻った。

「マッテオ?本当に今のままでいいのかい?」「いいんだ」

「父さんのプロポーズ、知らないよね。いつものようにパンを焼いてくれてね。一つだけリボンがかかっていた。そのパンを割ると指輪があったんだ。やっと跪いてプロポーズしてくれたよ。僕と人生を歩んで下さいとね。待ちくたびれた。気持ちを伝えてみなよ?このままだと後悔するよ?」

3月、ミモザの日、ミモザの黄色い花が咲き誇り、春の訪れを知らせる日。イタリアでは、この日は男性が女性に愛を伝える日でもある。気持ちをミモザの花に託して。

パン屋の軽トラックの荷台一杯にミモザの花を積んだ。マッテオはローマまでトラックを走らせた。ラウラはいるだろうか?この住所でいいのだろうか?あの窓辺だろうか?

マッテオは歌を歌った。故郷のナポレターナを。窓辺に向かって・・・

辺りの窓が開き、そしてラウラが出てきた。「マッテオ???」

「ラウラ、あの・・・小麦粉・・・」「えっ?小麦粉?」「あの・・・小麦粉からパンを作ろう。ずっと僕とパンを焼いて欲しい・・・一緒にパンを・・・」

ラウラは荷台から溢れんばかりのミモザの花を見た。彼女の瞳が涙に溢れた。

マッテオは道端で跪いてこう言った。「パン屋の女房でいいなら、僕と結婚して下さい。一緒に人生を歩んで下さい」



これは友人ルカの両親の話。実話だ。

マッテオはこの歌を歌った。

「彼女に告げて」  詞:エンツォ・フスコ  曲:ロドルフォ・ファルヴォ

彼女に告げて
眠ることも夢見ることもできない
いつも彼女のことを想っている
彼女は私の命なのだ
彼女にそう伝えたい
でもとても言えない・・・

彼女を愛している
死ぬほど愛している
伝えてくれ
どうしても彼女が忘れられない
彼女は鎖よりも強い情熱
私の人生を苦しめ 生かしてはくれない





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楽に入魂するには? 

 

これはユジャ・ワンが学生の頃の演奏。ユジャ・ワン、若い!カーティス音楽院の卒業演奏のようだ。ユジャ・ワンなので、本当によく弾いている。昔、アメリカにいた時には、音楽院の学生の演奏をよく聴いた。学生企画のリサイタルというよりは、試験が公開なので。日本の音大って、音大そのもののレベルに差があって、同じ学校の学生は均一・・・のような印象を持つけれど、あちらは本当に学生のレベルが様々。同じ学校でも「えっ???大丈夫?」という学生もいれば、ユジャ・ワンのような学生もいる。不思議だねぇ。

このユジャ・ワンのバラードを聴いて、かつて聴いたアメリカの音楽院の超優秀な学生の演奏を思い出した。日本の音大生も(学校によっては?)本当によく弾ける。コンクールに受かるような学生なんか特に達者だ。でもそのような日本の音大生とユジャ・ワンとは何かが違うような気がする。ショパン・コンクールに参加し予選を勝ち抜くような日本人コンテスタントともユジャ・ワンの演奏は違うような気がする。

たしかに、ミスの少なさ、つまり安定性ということでは似ている。でも何かが違う。なんだろう?

学生時代とはいえ、ユジャ・ワンと比べるなんて・・・まぁ、そうなのかもしれないが、日本人コンテスタントたちの演奏、特にショパンのバラードのような曲だと、シリアスすぎるような気がする。表現とか、そのようなことではなく、基本的に力感を感じさせてしまうのだ。

音や表現に「基本ライン」というか「はずれてはいけないライン」というものを感じてしまう。歌ってはいるのだが、どこかシリアス。入魂しすぎというか?弾き方もどこかで「うっ・・・」と力感を感じてしまうというか、固くなってしまうというか。結果、とても「良く弾けるよねぇ・・・」となるのだが、同時に頑張りすぎというか、シリアスに固めすぎというか?

基本的に「さあ、演奏するのだ」という時に、深刻なのはいいことだ・・・的なものが入ってしまい、力を感じさせる。伸び伸びと空間を伸びるようなというのとは反対の、「大変そう」みたいな?その大変そうを楽々と死闘しているような?それが長所、美点なのだ・・・みたいな?

「わっ!凄~い!」とは思うんだけれど、大変なんだね・・・とも感じる。不思議なことに、日本人コンテスタント以上に弾きこなしているユジャ・ワンからは力感を感じない。とてもフリー。すべてがフリーというか?

日本の音大生、腱鞘炎とか手に問題を抱えている人も多いそうだ。弾き方の問題なのだろう。でも、そのような弾き方になってしまう、そのような弾き方を推奨されるような、どこか「シリアスに」「頑張って」「入魂しなきゃ」的な概念、美的価値観のようなものが日本には潜んでいるのかもしれない。

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血と演奏 

 

「さすがにフランスのピアニストだけあって、ドビュッシーの演奏では・・・」とか「ロシアの重厚さを特にラフマニノフ作品では表出していて、やはりロシア人ということを・・・」みたいな批評や文章はよくある。さすが自国作品、血がそう弾かせる・・・のような。

アルトゥール・モレイラ=リマの演奏、やはり南米の作品が素晴らしい。他のピアニストの追随を許さない。例えば、このミニョーネの作品とか。フランシスコ・ミニョーネの「街角のワルツ」など、チェルニー40番程度でも弾けるのではないだろうか?決して真っ黒な楽譜ではないし、超絶技巧難曲でもない。簡単・・・ではないとは思うが。でも、演奏効果もあり、もっとアマチュアの世界でも演奏されていいような気もするが、まず演奏されない。おそらく「そんな作曲家知らない」ということなのだろうが、もう一つ「様にならない」というのも理由の一つにはなるような気がする。このような曲をただツラツラ弾いても・・・

むろん、それはショパンも同じだが、特に民族色というのだろうか、そのような色彩が強い曲ならではの難しさがあるのだろう。そのような曲ほど、その曲が生まれた土壌、文化を吸ってきたピアニストが有利なのだろうと・・・

モレイラ=リマのミニョーネを聴くと、そのような通説が妙に説得力を増してくる。テンポの揺らぎとか、音の色彩の陰影の微妙な感じとか、ああ、もうこれはブラジル人には、かなわない・・・と。

そうなると、我々日本人にとって、最も有利なのは、邦人作品ということになる。

まれにオフ会などで、テーマを設けている会があったりする。そのテーマが「日本人作品」ということになり、演奏できる曲が邦人作品と限られたとしたら、参加する人はいるのだろうか?まぁ、いるだろうが、例えば「ショパン作品に限る」という会よりは、参加人数は激減するような気がする。我々は日本人だぞぉ・・・と主催者が声高に叫んでも集まらない・・・みたいな?

そうですね、僕だったら平井康三郎の「幻想曲 さくらさくら」だったら弾けるかな?でもこの曲に皆が殺到するかもしれないな。子供向けの教材から探すという手もある。あとは、吉松隆のプレイアデスとか?これも集中しそうだな。

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南のバラード 

 

「南国のショパン」という気がする。でもこれは僕の固定観念からくる印象だろうと思う。「南国、ブラジルのピアニストの演奏だから南国っぽい」と。

演奏しているのはアルトゥール・モレイラ=リマ。ブラジルのピアニスト。ラテンのピアノ曲、特に南米のピアノ曲が好きな人なら、このピアニストは知っているだろうと思う。でもショパンも弾いている。この人は1965年のショパン・コンクールで第2位になった人だ。第1位がアルゲリッチだった年です。その年のショパン・コンクールは1位、2位と南米勢が独占したことになる。

歌謡バラードと表現したらいいのだろうか?切々と歌い込む演奏。バラードの1番の演奏時間って平均的には9分ぐらいの演奏が多いのだが、モレイラ=リマは10分以上かけている。僕の所有しているCDで、10分越えのバラード1番は、あとはギャリック・オールソンだけだ。スローなバラード?

サクサクと無意識に流してしまい、多くの人がエチュード化している箇所も、歌い込んでいるような印象だ。人によっては、散漫な演奏と感じる人もいるかもしれない。

自分が好きだから・・・という意味では、モレイラ=リマのバラードをベスト3の中には入れたいところだ。

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ルービンのバラ1 

 

ルービンシュタインのショパン名曲集のレコードも当時小遣いで買ったもので、定位置というのだろうか、僕の中の定番演奏という位置づけとなった。バラード第1番に限らないが、それまで未知だったピアニストを聴く際には、ルービンシュタインの演奏と比較することが今も多い。

聴いていただけの時にも、バラードの1番は「難しそうな曲だな」と思っていたが、実際に練習してみると想像していたよりも難しいという印象。特にコーダの技術的難渋さはなんと表現したらいいのだろう?反面、手に親切というのだろうか、手にハマりやすいというのだろうか、そのような意味では弾きやすい曲でもあるのだそうだ。特殊技能ではなく、定番ピアノメカニカルを多用している・・・みたいな?まだその実感はないけれど。

ルービンシュタインの演奏は、メカニカルな難渋さを感じさせない。「簡単そう・・・」というよりは、音楽の中に技法というものがあって、「僕の目的は弾きこなすことではなく、あくまでも音楽ですから・・・」という理念を有言実行してくれているような演奏と感じる。

ちなみに、というか、気づいた人もいるかもしれないが、僕は曲名を略したりして表記するのがどうも苦手。バラードの場合、バラ1とか。イヤというよりは、落ち着かない感じ?ベトソナとかもそう。ショパンだったらスケ2とか。なんでだろう?ベーゼンとか、ドルファーまでつなげると、そんなに大変か・・・と思う。モゾモゾとしてくるような感じなんですね。苦手。フィギュアスケート関連語も同じだな。「スケカナ」とか、なんだかモゾモゾ。

ある演奏会場、ピアノのリサイタルだった。博識そうな、ディープな愛好家が連れの女性に「今日のピアノ、何だろう?スタイン?」女性は目が♡になったのか分からないが、このような時、「何故ウェイを略すんだ?」と僕は素直に思う。そんにスタインウェイという発音は大変か?

ルービンシュタインも名前が長い。略すのか?ルービン?シュタイン?

ルービンのバラ1

バラ1は「ばらいち」それとも「ばらわん」???

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モーツァルト弾き 

 

「ショパンのレコードは持ってるの?」医大生にそう訊かれた。何も考えずに、そして考える必要もなかったと思うが、僕は正直に「えっと、中村紘子とアンネローゼ・シュミットという人のレコード」と答えた。彼は中村紘子はスルー(?)してしまったが、シュミット嬢に大きな反応を示した。

「えっ?彼女がショパンを弾いているの?」

意外なほどの彼の驚きだった。「アンネローゼ・シュミットのショパン?ちょっと想像できない・・・本当にその人?」

クラシック博士(?)も知らないレコードを僕が持っているという事実が不思議だった。自分で選んだレコードではないけれど。

「・・・で、どう感じた?」来ました・・・という質問。「実はあまり好きではなく・・・中村紘子の方が・・・」と正直に答えた。またしても中村紘子を彼はスルーして「アンネローゼ・シュミットは僕にとってはモーツァルト弾きなんだ」

初めて聞いた「モーツァルト弾き」という言葉。当時知っていたモーツァルトの「トルコ行進曲」とシンフォニー「ジュピター」を連想したが、モーツァルト弾きって???

彼はシュミット嬢のモーツァルトを聴かせてくれた。はっきりと覚えている。24番の、短調のコンチェルト。

「えっ、これが同じ人?」とその時に感じた。何も感じなかったショパンとは違い、心に入り込んでくるような?

適材適所というのだろうか、ピアニストにも得意、不得意というものがあるのだと、その時に知った。でも調べてみるとシュミット嬢はショパン・コンクールにも入賞しているんだね。その時からシュミット嬢は、僕の中では「モーツァルト弾き」となった。

シュミット嬢と再会したのは、アメリカに留学してから。あちらでは、よくガレージセールに遭遇する。たしか、そのようなところで見つけたのだと思う。10枚ぐらいのセットもののCD。モーツァルトのコンチェルト集。日本では探してもなかったのに、なんと破格の3ドル!!!

今でも聴きます・・・

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ブライロフスキーの洗礼 

 

鍵っ子だったので、音楽好き(クラシック狂?)の医大生と時間を共にするようになった。親の仕事が終わるまで預けられていたみたいな感じだ。彼は僕がピアノを習っていること、習っているということが、そのまま音楽が好きということとイコールではないことも知っていたと思う。また、僕にはクラシック音楽の知識がないことも。

その医大生の部屋ではピアノではなく、声楽を主に聴いていたような気がする。ピアノを聴くにしても、いきなり往年系の演奏を聴いていたように(聴かされていた?)思う。クラシック初心者にショパン、しかもワルツというのは、彼なりに僕を配慮した選曲だったのだろう。聴かせてくれたのは、ブライロフスキーの演奏だった。

ショパンのワルツは、かつて教室で聴いたことがある。「素敵じゃないな」と、いい印象は持っていなかった。ブンチャッチャと単調にひたすら続く・・・みたいな?でもブライロフスキーの演奏は、生きていたというか?レコードなのに、それも昔のピアニストの演奏なのに、そこで弾いているような?息遣いまで感じるような?

この瞬間、何かが僕の中で弾けたのだと思う。「ああ、僕はピアノが、音楽が好きだ、弾けるようになりたい、このように弾けたらどんなに素敵だろう?自分は幸せだろう」と。心が弾けてしまったんだね。

今はブライロフスキーはあまり聴かない。どこか自分の趣味(?)とは異なるような?でもワルツを聴くと、当時の鮮烈なまでの瞬間が蘇ってくる。

この演奏との出逢いがなかったら・・・

音楽は好きだっただろうから、ディープで頭でっかちな(?)音楽愛好家、鑑賞者にはなっていたかもしれない。でもこの時の「僕も弾けるようになりたい」という感情を知らなかったら、今はピアノなど弾いていないはずだ。

このワルツ、ショックで鮮烈で、そして幸せだ・・・

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マイ・セカンド・ショパン 

 

中村紘子、カレーのCMに登場していた。でも僕ぐらいの世代の人にとっては、カレーではなく「コーヒーの人」というイメージがあるのではないだろうか?「ゴールドブレンド・赤ラベル」というインスタントコーヒーのCMの印象が強い。赤いドレスを身にまとい、ショパンの幻想即興曲を弾いていたと記憶している。誰から説明されたわけでもないけれど、ピアニストって、どこか厳格、偉い人みたいなイメージが当時の僕にはあり、女性のピアニストだったら、髪は「ひっつめ」・・・のような?なので中村紘子のCMを観た時には、「こんなピアニストもいるんだ?しかも日本人・・・」のような驚きがあったのだ。

当時のレコード屋には、クラシックのレコードも沢山あったと記憶している。むろん、小遣いでレコードを買うのは大変だったし、通常は、いわゆるドーナツ盤しか買えなかったから、LPレコードを買うというのは僕には大変な勇気を必要とした。

「あっ、コーヒーの人だ」

中村紘子のレコード、おそらく僕が初めて小遣いで買ったLPレコードなのではないか?完全に今でいうところの「ジャケ買い」だったのだと思う。

そのレコードにはバラードの1番も収録されていた。中村紘子の見事な演奏に魅了され、その後はバラード第1番が憧れの曲となった・・・と書きたいところだが、そうはならなかった。

そのレコードは、すべてショパンの曲で、A面にソナタの3番、B面にバラード、ベルシューズ、幻想曲(幻想即興曲ではない)が収められていた。夢中になったのは、ソナタのフィナーレ。それこそ「擦り切れる」まで聴いたのではないかと思う。

白状するのは、とても恥ずかしいのだが、当時の僕は「ソナタ」というのは複数の楽章から成り立っているという認識がなかった。ソナタの2楽章をバラードだと思い込み、「なんだ?違う曲じゃん?」などと思って混乱していたのだ。

やがてソナタという形態も熟知し(?)B面の最初がバラード1番と認識できて「あっ、シュミット嬢と同じ曲」と安心したのだった。

今、改めて演奏を聴いてみると、この時の演奏には、後年の中村紘子独特の語り口みたいなものが希薄で、ちょっと意外だった。おそらく若い頃の演奏を知らない人は、このバラードの演奏から中村紘子というピアニストを連想しないのでは?

だからよかった・・・などと書くと大問題なのだろうが、1973年のこの演奏により、僕はショパンに少し近づけたのではないかとも思う。

どこかスピーディーというか、意欲溢れた演奏だと思う。テンポそのものはシュミット嬢の方が速いのかもしれないが、打鍵準備が中村紘子の方が機敏で、どこか余裕があるようにも当時は感じたものだ。今も感じる。

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初めてのショパン 

 

昭和の多くの家庭には、本棚に百科事典や図鑑があった。我が家には百科事典はなかったが、世界文学全集のようなものはあった。このようなものって、ある意味、ステイタスの象徴だったのかな?エアコンとか電子レンジのような?

あとは、我が家には世界音楽全集のようなレコードセットもあった。鑑賞初級者(?)として小学生だった僕がよく聴いていたのは、チャイコフスキーの「悲愴」とかシベリウスの「フィンランディア」とか。ピアノを習っていたのだが、あまりピアノ曲は聴かなかった。

ショパンのピアノ曲に初めて出逢ったのは、通っていたピアノ教室。ショパンのワルツを弾いていた上級者(?)がいた。バイエルとかソナチネというレベルの生徒が、やはり多かったから、ショパンの響きはとても新鮮に感じた。でも、演奏そのものが素敵ではなかった。硬直したリズム、均等なるブンチャッチャ・・・的ショパンだったから。

世界音楽全集の中に「ピアノ名曲集」なるレコードも含まれていた。A面(若い人は分からないかも?)にいわゆる発表会名曲、B面にショパン名曲集が収められていたと記憶している。A面を担当していた(?)ピアニストは、たしかデ・ラローチャだった。B面のショパンは、アンネローゼ・シュミットというドイツのピアニストが演奏していて、バラードの1番も含まれていた。

小学生だった僕は、シュミット嬢の見事な演奏に感激し、ショパンの虜、ピアノの虜、そしてバラード1番の虜になり、バラードが、いつかは弾いてみたい憧れの曲となった・・・と書きたいところだが、そうはならなかった。

生意気にも、小学生だった僕の心にシュミット嬢の演奏は響かなかったのだ。ちょっと固いというか。当時の僕には比較するようなショパンの演奏もなかったから、ただただ「面白くないな、ショパンって・・・」と感じたのだ。

偶然にユーチューブで懐かしきシュミット嬢のショパンを見つけた。40年以上も昔に聴いた、あのショパン。

「懐かしい・・・」と感じる。当時は、あまり聴かなかったけれど、演奏の細部まで覚えていたのには、我ながら驚く。

やはり「固い」という印象は昔と同様に持ってしまう。刷り込みみたいなものかもしれない。

あの頃は、与えられたものが、すべてだと思っていたな・・・

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問題解決教師 

 

早速、先ほどの記事にメールフォーム経由でメールを頂いた。一言で言えば「教師はピアニストである必要はない」というもの。同じような意見は過去にも頂いている。ピアノ教師の目的は生徒を上手くさせる(大雑把な表現だが)ことで、自分のピアノがどうたらとか、そのようなことではないのだろう。ピアニストだったら、自分が上手くなればいいのだろうが、教師は自分ではなく生徒、つまり他人を上手くさせるのが目的。そういうことなのだろう。他人を上手くさせたかったら、自分も・・・ではないかと思うが?

それこそ模範演奏なら、いくらでも一流ピアニストのCDがあるじゃないですか?そうかなぁ?先ほどまで自分が冴えない音で弾いていたピアノで、同じ空間で全く次元の異なるサウンドを聴く・・・ここが重要なのではないかと思うのだが?ホロヴィッツのCDを聴いても「どうしてそのような音が出せるんですか?」と自分への可能性を含めては、あまり感じたりはしないのでは?同じピアノ、同じ空間、自分の先生・・・というところが重要なのではないかと・・・

たしかに生徒がショパンのバラードを持ってくるからといって、同じバラードを完璧にCDのように弾ける必要はないだろう。それはそう思う。でも、ある個所、生徒が悩んでいる箇所を模範演奏できる必要性は、僕はあると思うが?

現役子ども(?)になくて、大人のアマチュアが持っているものって何だろう?一つは「昭和ピアノ」というもの。その昭和ピアノというものが、世界から注目されるほど素晴らしいもので、ロシアをはじめ、多数の留学生が日本ピアノを求めて留学しにきた・・・という過去はない。大人は「過去」を持っている。その過去が、残念ながら光溢れるものではない人も多いのだ。「ピアノ教室」とか「ピアノのレッスン」という言葉だけで、胃に痙攣を感じるような?過去が暗い人も多いと思う。加えて、どこか日本では(世界でも?)、ピアノなんて幼い頃から習っていないと、絶対に上手くならないなどという迷信もまかり通っていたりする。これってピアノに限らずだが、横並び安心願望のようなものがあるのだろうか?加齢したら、暗めな色彩の服を着て、縁側で渋茶でも啜っていればいいのだ・・・みたいな?だからこそ、大人からだって変わるのだ・・・という意識が、これからは必要なのだと思う。

先生のサウンドによって、目が(耳が?)開かれる。「えっ、こんなサウンドも可能なんだ?」という自覚。さらに大人にとって必要なのは、その時限定でも、「できた、私もできるじゃない?」という自覚だ。先生のアドバイスによって、実際に自分も変われたという想い。経験。

大人の持っているものって、皺やシミだけではないのね。一度経験すると強いのだ。「あっ、私にもできるんだ?」があると強いのだ。残念ながら、若い時には3歩進んで2歩下がるだったのが、3歩進んで5歩下がる・・・にはなっているけれど、家に帰れば、レッスンでできたことが、不思議とできなくなっているけれど、一度できた自分を信じる知性、感性があるのだ。

なので、レッスン時間内に、「今。できたじゃない?」という瞬間が必要だ。そのためには、教師側に生徒の問題を見極める能力が必要で、その解決法を蓄積している必要がある。この部分と教師が弾けるということとリンクしていくのだとも思う。

「いつかできるわよ」とか「家で練習してきてね」ではなく、その場で、一瞬でも「できた!」が必要だと思う。

心のどこかで大人アマチュアが先生に望んでいること・・・

① 模範演奏教師
② 問題解決教師

・・・なのではないだろうか?

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模範演奏教師 

 

アマチュアピアノ弾きのピアノブログだけではなく、たまにピアノ講師ブログも読んだりする。たまに・・・なのは、ブログ内容が指導法だったり、教材だったり、教室での出来事だったりするから。自分には関係ない分野だと感じる。ピアノ講師ブログ、それは広報の意味合いもあるのだと思う。一般のピアノブログはハンドルネームでの記述が多いが、ピアノ講師ブログは実名での記述がほとんどだ。

やはり子どもの生徒が中心なのだろう。高齢者を対象とした介護の世界などは、ますます増える後期高齢者、ますます減っていく介護スタッフという現実があり、それはそれで深刻なる問題だとは思うが、少なくとも「先細り産業」ではない。ピアノ教室は、対象を子どもに限っていたら、先細り産業となってしまうのではないかと思う。子どもは減っているのだから・・・

一般の・・・というか、街のピアノ教室も、子どもだけではなく、アマチュアのピアノ弾き、サークルなどに所属し、人前での演奏をしているような、曲の難易度も音大卒の人と変わらない曲を弾いているようなアマチュア、そのような人を対象に含めていってはどうだろう?大人のアマチュアピアノ弾きは、これからも増えていくような気がする。ピアノサークルのホームページなどを覗いてみると、メンバー募集をしていないサークルがほとんだ。これって「人前で弾いてみたい」という意欲のあるアマチュアが多いということでもあると思う。

日頃の練習会は、メンバー限定だったりするけれど、演奏会、発表会は一般の人にも公開しているサークルが多い。教室の発表会と同じだ。いくつかのサークルの演奏会を覗いて、聴いてみたらどうだろう?子どもは辞めてしまうらしいが(講師ブログのテーマの根底はいつもそこにあるような感じだし?)、生徒が循環してしまって「いつまでも私は導入指導か?」というよりは、辞めない大人アマチュアを視野に入れても、そろそろいいとは思う。

ほとんどのアマチュアピアノ弾きは、もうすでに先生に師事している。独学の人も、もちろん存在しているだろうが、個人的印象としては、レッスンに通っている人が多い感じだ。

まれにサークルや、ピアノの集まりなどで、他の人の話を聞いたりする。基本的に、自分の先生を信じている人が多い。これは当たり前だろう。大人の場合、何か先生に不満があれば、違う先生を探すという道があるのだから。それをせずに同じ先生に師事しているということは、先生に不満はなく、信じているのだろう。

でも、たまに会話の中で、「それって?・・・」と感じることがある。相手が「ねえ、どう思う?」と、こちらの意見を求めてきたら、「それはおかしい」とか言うかもしれないが、わざわざこちらから意見や感想を言うことはない。余計なお世話だし、相手は大人なのだから。

「先生、このようなフワッとした箇所が素敵に弾けないんです。どうしたいいんでしょう?」「そうねえ、どうしたらいいのかしらねぇ?」

「もう大人なのだから、一応弾けるようになったら、その先は、ご自身で考えて下さいね」

えっ?それはおかしいのでは・・・と思う。大人の場合、一応弾けるようになってから、その先のことを先生から伝えて欲しいのだ。このようなところが弾けないんです・・・弾けないところを弾けるようにして欲しい、何がいけないのか?ではどうしたらいいのか?大人のアマチュア、弾いている曲の難易度に関係なく、素敵には弾けない、一応弾けるんだけど、何をどうしたらいいの?ここで迷っている悩んでいる人は、実は多いように思っている。

そのようなことって、例えば音大の教授とか、そんな感じの先生限定なんじゃない?

それは違うのではないかと思う。子どもだって「素敵に弾きたい」のではないだろうか?教材が進んで、先生に花マルをもらって嬉しい・・・だけではなく、子どもも大人も素敵に弾きたいものじゃないだろうか?

大人の場合、「部活が忙しいので辞めます」とか「中学生になるので辞めます」とかは、あまりない。でも心の片隅で???と感じている人は存在しているのではないだろうか?あくまでも個人的な印象から語っているが・・・

これは僕だけではなく、多くの大人アマチュアが心の底で先生に求めていることだと思う。

一つは、「弾ける先生」であって欲しい。何も一曲まるまる模範演奏をして欲しいわけではない。年に一回先生にソロリサイタルを開催して頂きたいわけでもない。弾ける・・・とはそのような意味ではないのだ。

先生の一瞬技・・・だろうか?「ねえ、ちょっといいかしら」と先生が弾く、その音、響きの違い・・・

大人でも(だからこそ?)そこで感じる。「えっ?自分とは全然違う。なんでそう弾けるんですか?」と。

多くの大人アマチュアは、まさに、それを望んでいると思う。満たされていない人も意外と多いのではないかと想像している。

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「むすんでひらいて」を音楽的に弾く 

 

前回の記事とは反対のようだが、大雑把に大きく曲を捉えるという練習の他に、音符の連なりのような、細かなことを捉える練習も効果的だと思う。ドレとドラはエネルギー、気のようなものが異なる。楽譜に忠実とは、ただ「その音を押すのね」ではなく、エネルギーや気を感じることも含まれるように思う。

超シンプルな曲を弾いてみる。ギロックでもいいけれど、あれはサウンドがお素敵なので、「雰囲気逃げ」になる恐れがある。それよりはブルグミュラー25とか、バイエルなどがいいと思う。音の上がり下がり、音程が広がった時はどうするか、四分音符と二分音符ではどう異なるのか?

思うに、日本の初歩指導(もしかしたら音大レベルでも?)は、この部分が足りていないのではないか?先を急ぎすぎるのだろうか?それとも生徒側の横並び志向が問題なのか?「花子ちゃんは、もうチェルニー、私はまだバイエルなのに」とか「〇子ちゃんはもう○○を弾いているらしいじゃないですか?あそこの教室は進歩が早いような?うちの△子はどうして進歩が遅いんでしょう?」みたいな?

「むすんでひらいて」を音楽的に弾けるだろうか?この曲でもドラマはある。音が上がり、下がり、音程も色々だ。途中、ミーミファソソ ラーラーソファミとなる箇所、ガラッと雰囲気を変化させて弾けるだろうか?「あら素敵!」と聴いている人のテンションを集められるだろうか?「むすんでひらいて」を平坦にしか弾けないのだったら、ショパンやリストの曲だって平坦になってしまうのでは?

意外と「むすんでひらいて」や「メリーさんの羊」を素敵に弾くのって難しい。実際に弾いてみるとショックだったりするかもしれない。「えっ?私ってこんな簡単な曲もただ弾いてる・・・になってしまう?どうしたらいいのだろう?えっ?もしかしたどうしたらいいのか自分で分かっていない?」ショックかもしれない。

大雑把に全体を捉えて、「なんちゃって・・・」という、マリア・カラスになりきった時の練習で、アリア集の楽譜を購入したのだったら、今度はピアノから一度離れて、「歌手たちは音符の上がり下がりとか、音程の違いとか、音符の長さの違いとか、実際にどう処理しているのだろう、どう表現しているのだろう?」と楽譜を熟読(?)しながら聴いてみるのだ。ここで感じるか、感じないか・・・は分かれ道かもしれない。

よく歌手が一人で練習している時のように、和音をポロンポロンと弾きながら、歌パートを歌ってみたり、弾いてみたりするといいかもしれない。歌のパートだけ歌ってみてもいい。ラララ・・・でいいし、ベルカント唱法を身につけるのが目的ではないから、鼻歌風でいいのだ。色々とやってみる。聴いてみる。それを執拗に繰り返す。

「むすんでひらいて」はその後の段階ではないだろうか?

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整える呪縛 

 

譜読みする時は一つの音を二つに、さらに三つにと増やしていく。それがある形、シェイプとなって表現というのかな、音楽となっていく。音から曲へ・・・みたいな?そうなるはずなんだけど、小→大、狭→広・・・となっていくはずなんだけど、全体としては、ただ小が連なっている、その連続のような?狭が連続しているような?曲としての見通しが悪いというか?部分を弾きこなしている、それを繰り返している、ただそれだけで、曲としては、つっかえたり間違えたりは、あまりしなくはなってくるんだけど、ただ弾いている・・・のような?

細かな箇所、「小」とか「狭」を頑張る、それだけで「大」や「広」はやはり難しい。人前での演奏、「わっ、間に合わない」とか、日頃のレッスンでも「このままではあまりにも先生に失礼」とか、状況として「整えなければ呪縛」は多い。先生が「変に整えずに弾けないままいらしてくださいね」と言ってくれても、やはり自分としては「いくらなんでもこのままでは」みたいな気持ちは残る。

考えてみれば、「小」「狭」練習をチマチマしていて、それしかしないで、本番で「さあ、ミスがあっても大きく曲を表現するのよ」とはなりにくい。本番では、やはり「日頃」が出るのだ。

では、ミスは多少あっても、もっと歌いたいとか、大きく表現したいとか、そのような演奏を願うのだったら、日頃の練習で、整える、間違えないで弾ける、印刷された音たちをミスなく・・・だけではなく、いきなり「大」「広」を狙った練習、習慣も必要なのではないか?

「いきなり?」

まずはオペラのアリア集の楽譜を購入する。別にリコルディ版でなくても、身近な日本版(?)でいいと思う。ベルカント・オペラにあるような、ピアノ伴奏がリズムをただ刻んでいるようなアリアではなく、歌パートと絡んでいるようなアリアがいいと思う。例えばプッチーニとか・・・

なんちゃって・・・でいいので、アリアをピアノ独奏で弾いてみるのだ。つまり歌とピアノのパートを同時に弾く。この場合、3段譜となるので、いつもの「正しく間違えないで整えて弾くのだ」呪縛からは逃れられる。手が3本ある人以外は楽譜通りには弾けないのだから。誰が聴いているわけでもない。マリア・カラスになったつもりで、壮大に甘美に、そして劇的に、いきなり表現をしてみる。なんちゃってぇ・・・でいいのだ。

オペラ歌手をピアノで演じたあと、自分が練習している、いつもの曲を弾いてみる。3段譜を「なんちゃって・・・」で弾いたのと、同じ感覚でピアノ曲も弾いてみたらどうだろう?つまり、いきなり「大」「広」を狙う練習もやってみる。

「大」を意識しないまま「小」だけを積み重ねて、曲になるのだろうか?

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恋多き男ジャコモ 

 

プッチーニは音楽一家に生まれた。代々宗教音楽家という家系だったようだ。プッチーニも宗教的音楽を書く人になるはずだったけれど、彼の運命を変えたのがヴェルディ。「アイーダ」に遭遇したプッチーニは「僕もオペラを書きたい!」

有名な作曲家だけれど、ピアノ曲に有名曲がないために、ピアノ弾きには意外と知られていないこともあるのではないか?例えば、彼の本名、正式にはジャコモ・アントニオ・ドメニコ・ミケーレ・セコンド・マリア・プッチーニという。長い名前だねぇ・・・

プッチーニ、今だったらワイドショーを賑わすような人物だったらしい。スキャンダル多し・・・恋多き男だったようだ。結婚し、妻もいた。なので不倫問題?妻のエルヴィーラは嫉妬深い人だったようで、スキャンダラスなドラマへと発展していく。

有名なのが「ドーリア・マンフレーディ事件」だろう。ドーリアはプッチーニ家にメイドとして雇われたのだが、彼女とジャコモとの仲を妻が疑うわけです。「この淫乱!私のジャコモを寝取ったね?」そして街中でドーリアを中傷するわけです。耐えられなくなったドーリアは自害してしまう。プッチーニ自身はドーリアとの関係をきっぱりと否定しているし(男はいつもそう?)、後にドーリアは処女だったことも判明している(司法解剖?)。妻のエルヴィーラに対して、ドーリアの遺族が告訴をした・・・まぁ、これが「ドーリア・マンフレーディ事件」なわけです。

ドーリアは、実はジャコモの本当の愛人を知っていて、その名を出さないために自害したという説もある。そうなると、ジャコモは一人の女性から慕われていた、肉体関係はなくても愛されていた・・・ということになる。

これって、ジャコモの最後のオペラ「トゥーランドット」そのものでは?「王子の名を明かせ!」奴隷娘のリューはトゥーランドット姫に詰問される。恐ろしい拷問・・・

「王子さま、決してあなたのお名前は明かしませんから・・・」そしてアリア「氷のような姫の心も」を歌って自害するわけです。「姫、あなたも本当の愛を知れば、その氷も解けるでしょう」

これって、ドーリア・マンフレーディ?

プッチーニの愛のアリア、愛の場面を聴くと、ジャコモは恋に淡泊だった男とは思えない。

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繰り上げ返済練習 

 

小学生の頃から夏休みの宿題などは、いち早く片付けてしまう方だった。8月の末に必死になって宿題をする、例えばサザエさんのカツオ君のような小学生ではなかった。日記なども7月中に片づけてしまう。「8月31日・・・明日から新学期だ」のような内容を7月中に書いてしまう。厳密には不正だったのだろうが、傍目には真面目な子どもと解されていた。

今でも「今日これをやってしまえば、明日が楽」という考え方をよくする。小学生の頃から変わっていない。ピアノの練習でもそう。人前での演奏に向けての練習とか譜読み、まさにこれがそう。「今ここまで弾けるようにしておけば、あとが楽・・・」

真面目・・・というよりは、小心者なのかもしれない。「あと半月しかないのに、まだこれしか弾けていない。どうしよう・・・」これを最も恐れるのだ。それを回避するためだったら、前倒し練習を選ぶ。

どこか、住宅ローンの繰り上げ返済のよう。ローンの残りが劇的に減る快感、今苦労しておけば、あとが楽!!!

結局はどこで苦労するかということなのだと思う。楽したい、それが、今か後か・・・その違い。怠け者ということなのでしょう。

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高尚な娯楽 

 

クラシック音楽って、どのようなイメージを持たれているのだろう?おそらく「高尚なる芸術」「神聖なるもの」みたいな感じ?クラシック音楽に「娯楽」とか「エンターテインメント性」のようなものを求めるのは軽薄、それとも邪道?

今の演奏の主流は、どこかザハリヒな方向性の演奏だと思う。楽譜、作品そのものに忠実、演奏家の魅力というものは全面に出さず、作品そのものの魅力を感じさせるように・・・みたいな?

聴き手は演奏家がどこまで作品に忠実に、どこまで誠実に作品に迫っているかを吟味する、それがクラシック音楽というもので、クラシック音楽の正しい聴き方・・・みたいな?これがいけないわけではない。でも、これが正しい・・・と一方向を全員が向くというのが、どうも気に入らない。何か、黒でなければ白だろ・・・みたいな、単純分けがイヤ。

作品そのものを感じさせる演奏、対して演奏家を感じさせる演奏、どちらがどう・・・ではなく、どちらもあっていいではないか。今は、かつてのような、演奏家という個性を感じさせる演奏が実に少なくなったと思う。少ない・・・というのが寂しい。

ホロヴィッツ、ホフマン、クライスラー、カラス・・・このような人たちの演奏。聴いてすぐに「あっ、あなたですね」と分かるような演奏が今は少ない。

さらに、演奏のどこかに、微かにでもエンターテインメント性、聴き手をワクワクさせるような、あるいは、聴き手という人間の喜怒哀楽、さらには喜怒哀楽などという言葉では表現できないような感情をストレートに感じさせてくれる演奏も少ない。それも寂しい。

スルタノフは、あえてザハリヒな領域に挑戦したのかもしれない。その場がコンクールだった・・・

コンクールという呪縛(?)から放たれたスルタノフの演奏は凄みがある。虎が本性を現した・・・みたいな?個人的にはホロヴィッツ関連(?)の曲が彼の演奏では好きだ。

もしかしたら、スルタノフは現代という世の中で、ザハリヒな流れから、演奏者から滲み出るようなエンターテインメント的な演奏の魅力へと、主流の演奏スタイルを変換できた可能性のあるピアニストだったと思う。それだけのポテンシャルがあるピアニストだったと思う。

でもそうはならなかった。

スルタノフが脳卒中で、半身不随になったという知らせは日本にも入ってきた。「片手でピアノをやっと弾けるようになりました・・・自分の姿が同じような境遇にいる人に勇気を与えられたらいい」・・・そのようなメッセージも入ってきた。

再起して欲しい、また復帰して欲しい、かつてはあれだけ弾けた人が片手でポツポツと弾いている姿を見ながらそう願った。

それから間もなくの訃報だっただろうか?

アレクセイ・スルタノフ・・・享年35

あなたは何かを変えられた人だった・・・

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虎が子羊を演じる 

 

1995年のショパン・コンクール、この年は第1位なしという結果だった。第2位が二人。その一人がアレクセイ・スルタノフだった。同列2位という結果にスルタノフは不満で、たしか授賞式をボイコットしたと記憶している。

個人的には、ショパン・コンクールでのスルタノフの演奏は、あまり好きではない。この時にスルタノフのファンになった、彼のショパンが好き・・・という人も僕の周囲にはいて、「好きではない」と書くのは躊躇するところもある。書いてるが・・・

虎が子羊を演じた・・・という印象を持つ。ヘアスタイルがそう思わせるのか、子羊というイメージ。顔も丸くなったようで、6年前のクライバーン・コンクールの時よりも童顔になった感じ?たまたま太っていた時期だったのだろうが、意図的なものだったとしたら、相当強かではある。

「僕は本来は才気の塊のような演奏をするんだけど、こんなに正統的な純正ショパンも弾けちゃうんだ!」みたいな?でも虎は虎。羊の風貌から、やはりチラチラと虎の才気が見え隠れする。その微妙なところが微妙・・・または魅力・・・

他の上位入賞者の演奏と比較してみると、やはりスルタノフは別格のように思う。それは思う。大勢のコンテスタントたちの中に、何故か一人プロが混じっている・・・そんな印象。審査員も、まさかスルタノフを落とすわけにはいかなかっただろう。

でも、どこか気に入らない・・・みたいな雰囲気が審査員たちにはあったのだろうか?我々の価値観に挑戦・・・とでも思ったのだろうか?見え隠れするものが気に入らない・・・

本当のところは分からないが、結局はスルタノフは出場者の中の最高位ではあったけれど、1位ではなかった。これがその後もコンクールを受け続けた理由なのだろうか?権威への挑戦???

ホロヴィッツの演奏を好きではないという人はいる。どこかデフォルメされているようだと。ホロヴィッツ自身は、そのような風評は受け流したのではないだろうか?でも若きスルタノフは、見えない権威のようなものに挑戦してしまった・・・違うだろうか?

ショパン・コンクール後、チャイコフスキー、エリザベート王妃・・・とメジャーなコンクールに出場するが、どちらも、まさかの予選落ち。このあたりの時期は、やたら長髪にしたり、どこか定まっていない(?)ような印象も受ける。

そのまま悲劇の人として消えなかったのが、さすがスルタノフ。日本は特に彼のファンが多い国だったのではないだろうか?

冷静に(?)聴けば、これは、かなり才気を感じさせるショパン、やはりスルタノフが見え隠れするショパンなのかもしれない。

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コンクール漬け 

 

アレクセイ・スルタノフの名を一躍有名にしたのは、1989年のヴァン・クライバーン・コンクールだろうと思う。この時のスルタノフの録音のCD、さらにはコンクールそのもののDVDを持っているのだが、演奏力、カリスマ性、スルタノフが他を圧し群を抜いていたように思う。個人的にはリストの「メフィストワルツ」を絢爛豪華に音を加えて演奏していたのが印象的だった。あれはブゾーニバージョンなのか、ホロヴィッツバージョンなのか、とにかく「普通版」(?)ではないバージョンをコンクールで弾くというのが、スルタノフらしかったというか?

画面では目立たないかもしれないが、スルタノフは非常に小柄だ。来日公演も一度聴いたのだが、「えっ?子ども?」と思ってしまったほどだ。クライバーン優勝時、スルタノフは19歳。若い・・・と思うが、視覚的にも小柄ということが有利になった感がある(あくまでも個人的感想!)。どこか、大物ぶっているというよりは、いかにも芸術家です・・・というよりは、小柄な少年風。ところがその「守ってあげたい」的な少年がピアノを弾くと虎や豹に変わる・・・このギャップがアピールとなったのではないか?

クライバーン・コンクールは契約演奏会のようなものが非常にハードらしい。数多くの演奏会をこなしていくうちに、優勝者は疲れ、輝きを失っていくとか?かつてのヴァン・クライバーンのように・・・

スルタノフは頑張ったと思う。契約をこなし、CDも発売され、プロとしても有名なピアニストとなっていたように思う。そのまま行くかと思った。でもそうはならなかった。

スルタノフがショパン・コンクールを受ける、ちょっと意外だった。「何故にまたコンクール?もういいじゃない?」と思った。さらに、「ショパン・コンクールってショパンしか弾けないんだよ?」とも思った。コンクールの必要性を僕は全く感じなかった。

でもスルタノフは必要性を感じていたのだろう。権威への挑戦だったのだろうか?伝統とか、演奏スタイルとか、正統的とか、そのようなものに「うるさそうな」コンクールではある。あえて・・・の挑戦だったのかもしれない。

その後もスルタノフはコンクールを受け続けるが、最も輝いていたのは、このヴァン・クライバーンの時だったかな・・・とも思う。

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教師の影が見えない演奏 

 

アレクセイ・スルタノフが亡くなって、どれくらいの歳月が流れたのだろう?もしかしたらスルタノフというピアニストの名前は忘れ去られてしまったのだろうか?

演奏について語るというのは難しいものだと思うが、スルタノフの演奏について語るのは最も難しいように僕には感じる。「なんだか分からないけれど、もう一度聴きたいと思う演奏」「他の曲も聴いてみたいと思わせるピアニスト」こんな感じだろうか?

その場の「気」のようなものを、すべて吸収してしまうような、説明できないような、ある種の魅力、スター性のようなものを持っていたと思う。僕なりにスルタノフというピアニストを言語化してみると「彼の後に演奏する人は非常に気の毒・・・」そう思わせるピアニスト。

楽曲を研究し、練習し、研鑽を重ね、経験も重ねていく。これだけでは、どうしても得ることのできないような、ある種のものを持っていた。多くのピアニスト、具体的に言うと、コンクールのコンテスタントたちは「ずるい・・・」と感じた人もいたのではないだろうか?研究の成果のような、立派・・・という演奏ではないのかもしれないし、伝統に沿ったという演奏でもないのかもしれない。だからこそ惹かれてしまう・・・みたいな?

ホロヴィッツの影を感じる。スルタノフはホロヴィッツを崇拝していたのだろう。ホロヴィッツ、その魅力に魅せられたピアニストは、ホロヴィッツの魔力の餌食になり自滅していく・・・

スルタノフだったら、その魔力を味方にできたかもしれなかった・・・

今は小学生でも達者な子どもは難曲をスラスラと弾くらしい。もしかしたら、11歳でなんでも弾けてしまう子どもだっているのかもしれない。でも、この11歳の時のスルタノフの演奏を聴くと、「ああ、教師の影を感じない」と思うのだ。達者な子ども(子どな?)の演奏って、上手くても教師の影が見える。「本当に、あなたがそのように感じたの?」と思ってしまうのだ。でもスルタノフの演奏には、そのようなところがない。「これが僕なんだ・・・」という強い何かを感じる。

スルタノフというピアニストを追ってみたくなった。

kaz




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