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ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

演奏を聴く?演奏家を聴く? 

 

プロフェッションということを考えてみる。プロに求めるものは、やはり安定性だろうか?外科医が「今日の気分はとてもブルーだからオペもブルーに・・・」では困るわけです。「なんだかイライラする。注射も攻撃的になっちゃって・・・」というナースも困るわけです。

ピアニストの場合も同じだろう。安定した演奏が求められる。「あっ、この人、何かあったんだな」なんて聴いている人が感じてしまっては困るわけです。人間だから、そりゃあ、色々とあるだろうけれど、それを乗り越えるのがプロ。聴き手に感じさせてはいけない。

では、聴き手がピアニストのプライベートなことを知ってしまった場合、演奏に対する感想は左右されるだろうか?たとえば、そのピアニストが壮絶な人生を歩んだとか、有名になるまでに苦労を重ねたとか、闘病中であるとか、そのような情報は聴き手の印象に影響を与えるのだろうか?95歳のピアニスト、20歳のピアニスト、印象は変わるだろうか?演奏というものは年齢というものに左右されるのだろうか?一切されないのだろうか?

演奏そのものを聴く、演奏そのもので判断する、そうなのだろうが、聴き手も人間であるのならば、機械のように徹底するのも難しいのかもしれない。

この演奏、音そのものが訴えてくるというか?

マリラ・ジョナス。ポーランドのピアニスト。ナチス・ドイツへの協力を拒み、彼女自身が強制収容所行きとなる。ドイツ高官の手助けにより、収容所を脱出。クラクフからベルリンまで歩いて逃亡。ベルリンのブラジル大使館に保護される。そしてブラジルへ。その地で家族が惨殺されたのを知る。ピアノなど弾くことができなくなった彼女を支えたのがアルトゥール・ルービンシュタイン。彼の励ましにより、再びピアノを弾き始める。あまりにもそれまでの人生が壮絶だったからだろうか?ピアニストとしてこれから・・・という時に亡くなってしまう。享年48・・・

演奏家のプライベートライフというものは、聴き手の印象に影響を与えるものなのだろうか?そうだとしたら、それはクラシック音楽の演奏を聴くスタンスとしては邪道なのだろうか?

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自由を求めて 

 

「僕は自由が欲しいんだ。このままでは生きていけない」「ではお前はどうするんだ?」「この国はもう終わりだよ。アメリカに行きたい。父さんも一緒に来て欲しい」「私は・・・私はここ、クラクフで死にたい。ポーランドに残りたい」

この部分は僕の想像。Hは脱出前の、あれこれを話したことはなかったから。でも空港での場面は、なぜか話してくれた。

「お前の選んだ道なんだから、私のことは気にせず、堂々と自由を求めなさい」「もう会えないのかな?」「多分・・・この国が変わらない限り・・・さぁ、このまま真っ直ぐ歩いていって飛行機に乗りなさい。こちらを振り返ってはいけないよ。約束しなさい。振り返らずに飛行機に乗る、いいね?」

Hが難民としてアメリカに渡ったのは、1980年代の後半だった。1989年にはポーランドで自由選挙が行われ、連立内閣誕生。これは東欧各国の雪解けへの、一つのきっかけとなった。でも、ある時期を境に急激に世界が変わったわけでもないのだろう。Hは待てなかったのだろうと思う。

1980年、ポーランドでは労働者側から大きな動きがあった。ストライキを強行し、民衆レベルで圧制に対抗しようとする。僕も日本で「連帯」のことは知った。グダンスクという港町で動きがあると。「連帯」の指導者は、造船所の電気工であるワレサという人であることも。翌年、ヤルゼルスキ政権下での戒厳令。連帯は地下活動を余技なくされる。

この頃、日本のテレビでも、ポーランドの街に戦車、軍、泣き叫ぶ市民・・・みたいな映像が流れ、僕もよく覚えている。物資が滞り、人々が行列している様子も。ソビエトでも同様で、モスクワの商店は空状態で、やはり市民は行列をしている。僕は、極寒の中、並んでいる人々を見て、「共産主義も行き止まりなのかな」などと日本で暢気に感じていたものだ。同時に「何故民衆が苦しむのだろう?」ということが理解できなかった。何かがおかしい・・・そう感じたものだ。

Hがニューヨークで亡くなった時には、たしかポーランドもEUに加盟していたと思う。帰ろうと思えば帰れたのかもしれないが、彼はそれはしなかった。帰りたくなかったのかもしれない。祖国に対しては、日本人の僕にさえ分かるほど、愛憎入り混じった感情を持っていたようだ。嬉々としてポーランド料理を作り、僕に故郷自慢をし、ワルシャワのナイチンゲール、ボクナ・ソコルスカの歌声を僕に聴かせたり・・・そうかと思うと、「あの国はね、もうダメなんだよ・・・」と呟いたり・・・

1981年から1989年、この間に海外に脱出したポーランド人は64万人にもなるそうだ。Hもその中の一人であった。

簡易なポーランド史の本を一冊読むだけで、ポーランドという国は分割、侵略されてきた歴史なのだと分かる。平和に人々が暮らしているのは、ここ最近なのではないか?そんな印象を持つ。

病弱だったショパンは、ワルシャワ蜂起の際に、実際に帰国して武器を持って戦うということはなかったし、できなかったのだと思うけれど、翌年ワルシャワがロシアに占領されたことを知り、手紙にその想いを書いている。シュトゥットガルト手記と呼ばれる書簡だ。こう書いている。

「僕はモスクワ人一人殺すことができなかった。大地は別の世紀の人間を呑み込め。僕は武器ひとつ手にせず、ピアノ相手に苦しんだり、悲観にくれたりしているだけだ。いったいそれが何になる?」

ここには青白い月の光の中で、夢見るようにノクターンを書くショパン・・・・ではなく、ポーランド人としてのショパンがいるように感じる。

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初めてのショパン 

 

初めて先生にショパンの曲を頂く、これはピアノを習っていて嬉しい瞬間だろうと想像する。想像・・・と書いたのは、僕は子どもの頃はショパンの曲を先生から許可されなかったから。でも嬉しいだろうなぁと思う。初ショパン・・・

ワルツ・・・になるだろうか?あるいはプレリュードの4番とか6番?いきなり「幻想即興曲」というのは難しいのかな?

マズルカのOp.68-3あたりはどうだろう?ピティナによれば(?)ブルグミュラー(25だろうと思う)の後半ぐらいのレベルらしい。楽譜面としてはバイエルの最後のあたりより、このマズルカの方がシンプルなのではないだろうか?

間違えずに弾く、音符を並べる・・・という意味では、このマズルカは「易しい」のかもしれない。「バイエル程度」となるのかな?

たしか小学校の音楽の授業だったか、長調は「明るい」短調は「暗い」と習った記憶がある。ピアノ教材のワークブックのようなものには、今でも長調は「明るい」、短調は「暗い」のような大雑把な説明をしているものもあったような?

まぁ、長調は暗いんです・・・とも説明はできないだろうが、この「明るい」「暗い」という明朗仕分けのような説明ってどうなのだろう?そもそも音楽って、そう単純に「明るい」「暗い」なんて分けられないのではないだろうかと。「嬉しい」と「悲しい」というのも、ちょっと大雑把すぎるような気がする。分けられないから、だから音楽として存在しているのでは?

「この曲は長調ですね。マズルカというのは踊りの曲なんですね。なので明るくリズミカルに弾きましょう!」このOp,68-3のマズルカを弾く時に、それでいいのかな?なんとなく疑問に感じる。でも子どもが初ショパンでこの曲を弾くと仮定したら、先生に「明るく、リズミカルに・・・」なんて言われたら、子どもなりにそのように弾こうと頑張ってしまったりするかもしれない。

A子はタンスの整理をしていて、黄ばんだ写真を見つける。離婚した夫と自分が写っている。子どもたちも楽しそうだ。ああ、昔はこんな家族旅行もしたかしらね。夫には未練はないし、あんな奴は三行半。どうにでもなれだわ。でも、幸せな家族だった時もあったのね。哀しいというのとは違う。なんだろう、懐かしさかな、でもあんな奴とは暮らしたくないから昔に戻りたいなんて死んでも思わない。でも、なんだかね、心がズキンとするというかしら、なんなのかしら?

これがマズルカOp.68-3・・・かなぁ?かなり独創的な解釈(?)だと自分でも思うが。微妙な心の隙間、それを音楽は明確に表現してくれると思う。

演奏しているのは、ポーランドのピアニスト、ヘンリク・シュトンプカ。何故か日本での知名度が著しく低いピアニストなのだが、ショパン、特にマズルカの演奏がとにかく素晴らしい。

パデレフスキ版のショパンの楽譜を開いてみよう。ショパンの肖像画、自筆譜のページの次に、編集した人の名前が書いてあるはずだ。パデレフスキ版なので、最初にパデレフスキ。二人目にルドヴィク・ブロナルスキ、そして三人目に、日本語版だと「ユゼフ・トゥルチヌスキ」とあるはずだ。この人のお弟子さんたちが、皆素晴らしいのだ。ヘンリク・シュトンプカもこの人のお弟子さんだった。有名どころでは、ハリーナ=チェルニー・ステファンスカもこの人の門下だった。

ヘ長調、踊りの曲・・・明るくていいのかな?

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ヘッドライトの法則 

 

「来年はどうしようか?」・・・よくあるピアノライフの中の場面だと思う。「ねぇ、来年の発表会何弾く?」とか、「来年〇月に連弾してみない?」とか。ピアノライフに限らず、生活していれば、日常的にあること。未来のことについて話し合う、計画する・・・

「来年?生きていれば・・・ね」そう思う。心が屈してしまう。いちいちそんなことで参っていても仕方ないと思う。生存率というものがある。大体、5年という単位が大きなラインとなる。「5年、再発しなかった」とか「再発したけど、治療後もうすぐ10年、まだ生きられるってこと?」みたいな?

でも生存率に関係なく、ちょっとしたことで「来年?生きてるかな?」と思ってしまうこともある。医学書を読んで、やめればいいのに、自分の生存率を確認してみたり、医師の言葉を悪い方向に解釈したり・・・

他人には気づかれないようにしているつもりだけれど、そりゃあ負のループに入ってしまうことだってあるさ。

僕は難聴なので、音とか声は聞き取りにくい。でも機器に頼らず普通に生活している。ピアノを弾く時が困るのだ。通常の練習では困らない。人前で緊張して弾く時に困るのだ。僕の敵は、低気圧、狭い空間、緊張感、このようなものが重なるとピアノの音が聴こえなくなる。これって、まさに人前演奏に当てはまる。僕の演奏を実際に聴いたことのある人には、気づかれているのだろうか?ここ最近、一曲目はほぼ手の感触だけで弾いている。弾きながらサウンドとして確認できないので、非常に怖い。気づかれているのだろうか?

人前での演奏なんかやめてしまえば楽になる、そう思う。負のループにいるとそう思う。何曲か弾いていると、音は聴こえてくることが多いのだが、サークルの練習会のような場、このような場だと、基本演奏する曲は一曲だから、感触弾きだけで終わってしまう。だからサークルはここ一年、不参加というか、逃げていたところがある。

ピアノなんかやめてしまおうか???

あるエッセイを読んだ。「ヘッドライトの法則」について書かれていた。そのエッセイストも癌患者だ。

ヘッドライト、遠くまでは照らさない、遠くは闇なのだ。でも照らされているところを見るのだ。そこは光り輝いている。そこだけを見るのだ。闇を見ると負のループに入ってしまう。そして絶対にライトは灯し続ける。そうしないと、すべてが闇となってしまうから。

実は、来年、ピアノデュオしませんかと誘われている。連弾なら大丈夫。発音(?)が同じ楽器だから。でも広い舞台で向かい合わせに置かれた二台のピアノ、「聴こえるだろうか?時差までも聴こえるだろうか?相手に迷惑をかけるのではないか?」

とりあえず合わせてみましょう・・・

ヘッドライトの法則でいくことにする。ライトに照らされた部分だけを見る。闇は見ない。

一曲目、全く聴こえなかったらどうしよう?感触弾きで弾ける曲を自分で見つければいいじゃないか?闇は見ない。

ヘッドライトの法則は決して現実逃避ということではないと思う。自分でそう思えばいいのだ。

・・・と、ツラツラと書いてきて、スメタナのことを思った。音が聴こえない、ベートーヴェンではなくスメタナを連想したのは何故だろう?代表作「我が祖国」の作曲中にスメタナは聴力を失ったらしい。

ヘッドライトの法則を実践したのではないだろうか?

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不屈の街並み 

 

今はヨーロッパへの直行便も多いのだろうが、一昔前はキャリアがアエロフロートではなくても、ヨーロッパ各都市への便は途中モスクワの空港に寄ることが少なくなかったように思う。たしかシェレメーチェヴォ空港という名前だったかな?この空港の印象が鮮烈で、その後訪れたヨーロッパの都市の印象をも上回るほどだった。無駄に広い空間、暗い照明、表情のない空港職員・・・トイレに便座がない、日本人(多くは女性)はショックを受けていたような?用を足すのに決死の覚悟だったらしい。

「ああ、これが共産主義の国なんだぁ・・・」と空港で感じてしまったわけです。ソビエト時代のモスクワを旅してみたかったか、それは微妙なところだ。ソビエト崩壊後、ロシア連邦となってから、モスクワの街も変化したのだろう。グーグルで恐ろしき(?)シェレメーチェヴォ空港を見てみると、その変わりように驚く。かつての殺風景な空港ではなく、普通の空港になっていて、なんとバーガーキングなどもあるのだ。かつてのシェレメーチェヴォ空港、写真で見る現在の平壌の空港みたいだったなと思う。無駄に広い空間、独特な雰囲気・・・

もちろん、民主化されてからのワルシャワの街を歩いたのだが、なんとなく中世そのままのような街並みで、「ああ、かつては共産国だったから、このような街並みが残っているんだな」と感じたものだ。西欧の都市のような開発が遅れているような、変に観光化されていないような、どこか牧歌的な印象をワルシャワの街並みに感じたのだ。むろん、ビルなどもあるにはあるが・・・

英語も通じない感じ。こちらの発音に問題ありだったのかもしれないが、ワルシャワの人は気さくで、ポーランド語混じりの身振り手振りで話してくれたりして、「ああ、高慢ちきな(?)パリとは違うねぇ・・・」などと思ったものだ。

「ああ、元共産主義の国だったから、昔の面影がキープされているのね・・・」

実は違ったのだ。中世そのままのような街並みは、キープされていたのではなかった。むろん、街の全域ではない。旧市街のような、ある地域だけなのだろうが、中世そのものの街、実は第2次世界大戦後に復興されたものだったのだ。新しく近代的に・・・ではなく、元の街を再現したのだ。

1944年のワルシャワ蜂起、街は完全に破壊された。ワルシャワ市民は設計図やスケッチ、写真、そして記憶をもとに、昔の街並みを完全復活させた。レンガの割れ目なども忠実に再現されているのだそうだ。

「あの街は残っていたのではなく、再現されたものだったのだ・・・」

決して克服せず・・・二ェ・ダムチェ・・・あの街並みは迫害され続けてきた人たちの誇り、不屈の精神なのだろうか?

ここでポロネーズでも自分の中に鳴り響けば完璧なのだろうが・・・

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ワルシャワ蜂起 

 

二ェ・ダムチェ・・・決して屈しない・・・歴史の中で何度ポーランドはその言葉を発しなければならなかっただろう?ざっと大雑把にポーランドの歴史を追ってみただけで、この国は他国からの侵略の歴史なのだと感じる。小さなものも含めれば、いくつ自由を求めての蜂起というものがこの国にはあったのだろう?

最も有名な蜂起は1944年8月に始まった「ワルシャワ蜂起」ではないだろうか?ワルシャワには蜂起博物館なるものも存在しているが、アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所跡などと比較すれば、日本人にとってワルシャワ蜂起は少し遠い出来事なのかもしれない。世界史の授業などでも習った記憶はない。最も、近代史に関しては日本史も含め、高校時代には習ってこなかったような気がする。時間切れ?

当時、ワルシャワはナチス・ドイツの支配下にあった。でもソビエト軍がワルシャワの近くまで侵攻していて、ワルシャワ市民はその流れに乗った。ソビエト軍と共にナチス・ドイツと闘おうと。その頼りであったソビエト軍が撤退してしまった。ポーランドからすれば、これは裏切り行為であったのではないか?それを知らずに蜂起を起こしてしまうわけです。

むろん、訓練された軍人もいたのだろうが、多くは武器を持った市民で、自警団のようなものだったらしい。プロ(?)であるナチス・ドイツ軍とは闘いにもならなかったのかもしれない。多くのワルシャワ市民が亡くなり、ワルシャワの街は徹底的に破壊された。焦土と化したらしい。

8月1日、午後5時・・・現在でもワルシャワ市民は、すべての行為を中止し、1分間の黙祷を捧げるのだそうだ。

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餓死牢 

 

Hはポーランド人。Hの父親はアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所で生き残った人。どんな場所だったのか、どのような日々だったのか、息子のHには絶対に話さなかったそうだ。

Hはアウシュヴィッツという言葉を使わなかった。ドイツ語だからだろう。この場所に、なんらかの辛い思いのあるポーランド人は多いのだろう。そのような人たちは、アウシュヴィッツというドイツ名ではなく、オシフィエンチムの収容所と表現する。ビルケナウはアウシュヴィッツに隣接する街(村?)だが、ここに第二収容所が建設された。なのでアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所と呼ばれるのだ。ビルケナウもドイツ語による表記だから、ポーランド人はブジェジンカ収容所と呼ぶらしい。

囚人番号16670・・・それがコルベ神父の番号だった。名前ではなく番号で扱われる。

収容所では点呼の際、欠けている番号が発見された場合、誰かが脱走したとされ、アトランダムに餓死牢行きの囚人を選び出すシステムがあった。脱走防止ということですね。

次々と番号が読み上げられる。一人の囚人が泣きながら訴えた。「私には妻も子どももいます。餓死牢だけは、それだけは許してください」「ユダヤの豚が何を言う?」

「その人には家族がいます。私はカトリック司祭です。配偶者も子どももおりません。私をその人の身代わりにしてください」

コルベ神父を含む9名の囚人が餓死牢送りとなった。現在でも、この餓死牢は見学することができる。いわゆる立ち牢で、横たわるスペースもない。ここに餓死するまで閉じ込められるのだ。

普通は、あまりの苦しみに阿鼻叫喚・・・となるらしい。でもコルベ神父の餓死牢では祈りが捧げられ、光に満ちていたそうだ。2週間後、コルベ神父を含む数名が生きていた。死ぬための薬剤が注射され、コルベ神父は亡くなっていった。亡くなる時のコルベ神父は、温和で平和な表情をしていたそうだ。

動画の2:26秒あたり、一瞬だが、3本のロウソクの場所が映し出される。ここがコルベ神父の亡くなった餓死牢。この動画は見るのに勇気が必要かもしれない。

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マキシミリアノ・コルベ神父 

 

ショパンを弾く、だからと言ってポーランドという国について調べたりしなくてもいいのかもしれない。楽譜を開き、音にしていって、本番でどれだけ弾けるか・・・みたいな?それでいいのかもしれない。

若きショパンは、ワルシャワで蜂起があったのを知る。その蜂起が失敗に終わったことも。「祖国に帰らなければ!僕も戦わなければ!」

「君は芸術でポーランドを讃えるのだ。それが君の役目だ。その身体で誰と闘えるというのだ?」結局、ショパンはポーランドには帰らず、パリに落ち着くことになる。ポーランド人としての無念さというものは感じていたのではないかな、そのように想像する。何か、この頃のショパン作品は後期の作品とは異なり、内側で火のように燃えているようなもの、怨念のようなものを感じてしまったりする。

少しでもポーランドについて紐解いていくと、何人かのポーランド人にすぐに辿り着く。無視できないような人たちだ。その人たちのことを知ったからピアノが上手くなるわけでもないし、ショパンをより理解できるわけでもないのだろう。芸術作品というものは、現世の人間の悩みとか、苦しみなどという俗な感情とは無縁であるという考えだってある。楽譜にすべて書いてある、それを音にすればいいのだ。そうなのだろう。

でも無視はできない、そうも感じる。

マキシミリアノ・コルベ。コルベ神父。ポーランドのカトリックの司祭だった人。コルベ神父は日本の長崎に宣教師として滞在していたらしい。だから日本の長崎にコルベ神父の記念館や像などが存在するのだ。

マキシミリアノ・コルベ、ポーランド人、カトリック司祭、そして囚人番号16670

この人はアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所で亡くなっている。

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思い立ったらアップルパイ 

 

口コミというものがある。通販サイトによくある。僕はAmazonをよく利用するけれど、購入者の口コミは参考にしたりする。熟読?ホテルや旅館にも口コミはある。一休とか楽天みたいなサイトですね。こちらも熟読するけれど、中には「えっ?」というような口コミがある。口コミなんて主観的な感想だから、色々あっていいのだろうが、「では何故にそこに泊まったの?予想できたんじゃない?」とこちらが感じてしまうような不思議な口コミも存在する。

「富士屋ホテルに宿泊しました。食堂も立派で雰囲気も素晴らしいのですが、子ども連れだったので、緊張してしまいました。子どもたちも窮屈に感じたようです」

富士屋ホテルのダイニングルーム、「ザ・フジヤ」と呼ばれる。昭和5年に作られた食堂。子ども連れがいけないわけではないし、ホテル側も何歳以下はおことわり・・・とか明示していないと思うけれど、でも「ザ・フジヤ」はデニーズやジョナサンではないのだ。

「施設が古く、猫足のバスタブも素敵なのですが、浴槽が狭く二人で入れませんでした」

あのバスタブは二人で入るものではありません。施設が古い、そうですね。古いですね。富士屋ホテルの創業は明治11年。1878年なのだ。そりゃあ古いでしょう。このような口コミを読むと「では何故富士屋ホテルを選んだの?」と正直なところ思ってしまう。

古さを愛でるというのだろうか?ピカピカの最新旅館やホテルにはないもの、それを求めての富士屋ホテルなのでは?

創業1878年・・・日本の西洋音楽史に当てはめてみると、音楽取り調べ掛は1879年にできている。その後、1887年に東京音楽学校となっている。瀧廉太郎が生まれたのは1879年・・・

連弾を「連れ弾き」などと言っていた時代だったのではないだろうか?西洋文化というものが、日本に紹介され、まだ間もない頃。当時の日本人の、西洋文化への憧れというものを具現化したものが富士屋ホテルだったのではないかと思う。日本の伝統テイストを盛り込みつつ、西洋への憧れをホテルというもので日本人は表現したのだ。少し前まで江戸時代だったのだ。文明開化の頃の憧れを味わうホテルなのだ。

富士屋ホテルのアップルパイ、なんと大正4年から引き継がれているレシピなのだそうだ。

さあ、あなたもロマンスカーに乗って、文明開化ロマンを・・・

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思い立ったらロマンスカー 

 

高級旅館滞在記ブログ、これらのブログを愛読している。自分では書けない。いちいち料理を写真に撮るとか、部屋の細部を撮るとか、とても面倒に感じる。でも他人のブログを読むのは好き。実際に宿泊先を決める際にも、とても参考になる。旅館やホテルのホームページでは得られない情報などもあったりする。ただ、個人ブログの場合、かなり主観的なものもあったりするので注意も必要だ。自分はどこを重視するか、それが人によって異なる。なので、自分の好み、感性と似た人のブログを読むようになる。このあたりはピアノブログと同じだなと思う。

僕自身は、温泉の泉質などはどうでもいい。循環だろうと気にしない。眺望もこだわらない。窓を開けると寂れた駐車場・・・というのは困るけれど、目の前が広がる海原でなくてもいい。

最近は、純和風旅館は流行らないのだろうか?部屋食で担当の仲居さんが、バッチリお世話してくれて、食事中に女将が挨拶に来るような旅館。「仲居さんに、いくら包めばいいかしら?」みたいな旅館。個人的には、このような旅館が好き。

最近流行りの旅館、食事は食事処、布団ではなくベッド。気軽でいい感じではあるが、ちょっと物足りない。ホテルという手もある。ホテルの場合、食事は朝食のみの代金だったりするので、お財布にもやさしい。まぁ、ホテルにもよるが。

何故かロマンスカーが子どもの頃から好きだった。京成線にもスカイライナーという特急があるけれど、あの電車は移動手段という感じで、成田に憧れて・・・という感じではない。ロマンスカーの終点は箱根。これは大きい。箱根って東京からだと、思い立ったらすぐに行けるような気軽さがある。そこが好き。様々なタイプの宿泊施設があるけれど、伝統ある富士屋ホテルなどどうだろう?

富士屋ホテル、最も安く堪能するには、レトルトのカレーを買う。これなら1000円以下で富士屋ホテルを味わえる。でもこれではちょっと寂しい。800円以上するレトルトカレーを自宅で食べる、これは寂しい。

富士屋ホテルは日帰りでも楽しめる。建物内部の鑑賞ツアーなどもあるし、ランチだけ堪能することもできる。カレーライスもメニューにはあるが、なんというか、カレーを単品でオーダーできる雰囲気ではなかったりする。カレーライスだけで2000円以上するのだ。

できれば富士屋ホテル、お泊りしたい。猫足の浴槽とか、いい感じだ。チャップリンがかつて宿泊した部屋に泊まる・・・なんて素敵ではないだろうか?冷静に判断すれば、それほど衝撃的なお値段でもないような?

思い立ったらロマンスカー、箱根登山鉄道に乗り換えて、あなたも富士屋ホテルへ・・・

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ヤド・ヴァシェムのメダルと駿河のリンゴ 

 

「これがヤド・ヴァシェムのメダルなのか・・・」想像していたよりも小さなメダルだった。

岐阜県八百津町、「杉原千畝記念館」には杉原千畝に関するものが展示されている。日本語の他にヘブライ語で説明文があるのが印象的ではある。八百津という街、自動車でないと訪れるのも大変なのではないだろうか?そのせいか、この記念館も貸し切り状態。

杉原千畝という個人に関する展示の他に、ホロコーストやユダヤ人迫害についての説明が非常に詳しいという印象。パネルなども専門用語を並べたてたというものではなく、小学生や中学生にも充分に理解できるように工夫されている。おそらく、個人の功績の展示というよりは、次世代に何かを伝承したいという記念館なのではないだろうか?

大恐慌、ドイツ国内の不況、生活苦、どうしてこんなに苦しいのだろう?あいつらのせいだ。ユダヤ人たちさえ消えれば我々ドイツ人は優位に立てるのだ。我々は優秀な民族なのだ。ユダヤ人を抹殺してしまおう・・・大雑把に言えばそういうことが始まりだった。現在でも似たような発言をする首脳もいるんじゃないかな?自国優先主義みたいな?思春期の難しい時期の世代に訪れて欲しい場所だと思う。

シベリア鉄道、そして天草丸で日本の駿河に到着したユダヤ人たち、着の身着のままという状態だったらしい。駿河の人々は無償で銭湯を開放し、食べ物を提供したと言う。

名もない日本の少年がユダヤ人たちにリンゴを配った。おそらくお互いに言葉はなかったのだろう。逃れてきたユダヤ人たちにとって、そのリンゴの味はどのようなものだったのだろう?

ヤド・バシェム、諸国民の中の正義の人とも言われる。非ユダヤ人でありながら、まさに命懸けでユダヤ人を救済した人たちにイスラエル政府が授与する賞。授与された人はポーランド人が圧倒的に多い。それはポーランドという国で多くの非人道的行為が行われたということなのであろう。次いでオランダ人が続く。日本人はただ一人、杉原千畝が授与されている。意外なのは授与されたドイツ人も多いということ。「おかしいのではないか?同じ人間なのに・・・」こう思ったドイツ人も非常に多かったのだろう。最も有名なのはオスカー・シンドラーなのだと思うが、ピアノ弾きにとって身近なのはヴィルム・ホーゼンフェルトだと思う。映画「戦場のピアニスト」にも登場した、あの人。

ピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンを助けた人として知られているだろうか?この人は元教師であり、最初はナチズムを信じていたけれど、やがて人道的なものが芽生えてくる。「同じ人間なのにおかしいではないか?」という素朴な想いだ。自分が任された施設の従業員としてユダヤ人を雇ったりとか、オスカー・シンドラーと少し似ているかもしれない。

1945年、ソ連軍の捕虜となる。諜報活動を行ったとされて、ソ連の戦犯捕虜収容所に収容、そこで亡くなっている。

ヴィルム・ホーゼンフェルト、イスラエル政府からのヤド・ヴァシェム賞の他に、ポーランド政府からポーランド復興勲章を授与されている。むろん、本人が亡くなってからだが・・・

ヴィルム・ホーゼンフェルト、駿河のリンゴ、同じものが流れているのを感じる。

「同じ人間なのにな・・・」

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先なのは技術?表現? 

 

飛騨高山美術館に行ってきた。飛騨高山というと、いかにも外国人が期待するような日本・・・というイメージで、まさにその通りの街なのだが、街の中心から少し離れた高台に、日本人が期待するような西洋の美術館が存在していた。フランスのタイヤ会社の評価星が3つということで、もしかしたら混んでいるのかなと思ったが、貸し切り状態で、静かに鑑賞できた。この美術館の売り(?)はガラス工芸作品。ルネ・ラリックとかエミール・ガレ、あとはティファニーのランプとか・・・

「ガラスって綺麗だよね」ぐらいの知識、感覚しか持っていない。絵画ならまだしも、ガラス工芸は分からない、そう思っていた。そのような僕が立ち止まってしまった作品群があった。モーリス・マリノという人の作品。知識を蓄積して、初めて理解できるようなこともあるのだろうが、知識を持たなくても訴えてくるものもある。なにか強靭な表現力というもの、むせ返るほどのエネルギーを感じてしまったのだ。

モーリス・マリノ、最初は絵画を描いていたのだそうだ。カテゴライズすれば、マティスのような「野獣派」ということになるらしい。ほぼ独学で絵画というものを描いていたそうだ。そのマリノ、ある時ガラス工芸に魅せられてしまった。ガラス職人の手によって、様々に表情を変化させるガラスという物体に。絵画も独学だったが、ガラス工芸も一から独学で始めた。空気を入れて形を造形するとか、そのような基本から始めた。その時マリノは30歳になっていた。いくらなんでも遅すぎる転身だったのではないだろうか?

作り手のエネルギー、表現したいというエネルギーを幾光年、ヨーロッパから遠く離れた飛騨の地で、3代以上続く江戸っ子である僕が感じたという不思議さ。

表現したいという爆発的な想い、それは地道に修練を重ね、技術を身につけ、さらにある種の才能が備わった人のみが持ってもいいものであり、素人は素人らしく、表現などは考えず、与えられた課題をこなしていればいいのだ。プロとは違うのだから。技術も備わらないのに、表現したいだなんて身の程知らずだ・・・

技術→表現

そうだろうか?モーリス・マリノのガラス作品の前で無数の疑問符が頭の中を駆け巡った。たしかに技術というものを介さなければ表現として伝わらないと思う。なのでピアノも「まず弾けてから・・・」となりがちなのだろう。表現ってどこか敷居が高い。弾けもしないのに表現だなんて・・・みたいな?

そうだろうか?

むしろ順番としては、表現→技術なのではないか?

こうしたい、表現したいという爆発しそうな感覚が自分の中にある。生まれ出て、すぐに技術を備えている人なんていない。なので技術を身につける必要はある。でも表現したいというものを持たずに、あるいは「私はまだまだ弾けないのでぇ・・・」と内なる表現意欲、欲望を先送りして、技術を追い求めることなんて難しいのではないか?こうしたいというものがあって、技術の必要性を感じるものではないだろうか?ひたすら技術を追っていれば、霧が晴れるように表現というものが自動的についてくるのだろうか?

チェルニー50番を合格すれば、自然とその技術に見合った表現が景品のようについてくるわけではない。表現したい、でも足りないものがある。今の技術では表現できない。だからチェルニーを頑張っている・・・というのが本来で、チェルニーを弾けば表現力が自動的についてくるわけでもないような気もする。

モーリス・マリノの作品の前で浮かんだ疑問符・・・

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しばらく逃避行 

 

明日から、しばらくの間、日常、ネットから離れて過ごしてみたいと思う。ブログの更新をサボったりすると「体調がお悪いのですか?」とメールを頂いてしまったこともあるので、ブログ更新がなくても、そうではないということを前もって一応書いておきたい。

例えば、このような場所を訪れて、何もしない時を過ごす・・・

「モネの池」とあるけれど、フランスではありません。日本国内。かなり有名な場所になってしまった感もあるけれど、まだガイドブック等にも掲載されていないし、観光地化はされていない所。周囲には店も何もない。おそらくモネの「睡蓮」のような・・・ということで、モネの池なのだろうと思う。でも、この池には名前はない。農家の裏手にあるような小さな神社の境内にある池・・・

なので、この池の場所などは、明かさないでおこうと思う。

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今まで本当にありがとう! 

 

エルガーの「愛の挨拶」という曲、妻アリスとの婚約記念にエルガーがアリスにプレゼントした曲とされている。二人の婚約、結婚は幾多の困難を乗り越えてのものだったらしい。アリスの方が年上ということもあっただろうし、家柄の違いということもあっただろう。宗派の違いもあった。エルガーは当時は無名の音楽家だったから、アリスの両親は喜んで娘の結婚を祝うというようにはいかなかったのだろう。アリスは勘当されてもエルガーと結婚した。駆け落ち・・・というものに近かったのではないだろうか?

アリスの人生はエルガーを支えた人生だった。「天才を裏で支える人生の喜び」のようなことをアリスは語っている。

アリスは72歳で亡くなっている。癌だったらしい。この時、エルガーは男泣きに泣いたという。エルガーは60代だったはずだ。目くるめくような肉惑的な感情ではなかったはずだ。言葉で表せば、それは「感謝」「悲しみ」ということになるのだろうか?むろん、それまでにもエルガーは妻に対して感謝や愛情は感じていたと思うが、失って初めて経験する感情というものもあったはずだ。

チッコリーニの「愛の挨拶」、テンポ設定、かなり大胆なのではないかと思う。通常はもっと流れるように演奏されることが多いように思う。いかにもサロン的な小品・・・のように。チッコリーニの演奏から「今まで本当にありがとう!」というものを僕は感じる。60代のエルガーが、亡くなったアリスに再度「愛の挨拶」をプレゼントした、そのように感じてくる。

このような感情の動きって誰もが持っているものではないだろうか?天才だけが感じるものではない。配偶者を癌で亡くした人だけが感じるものでもないだろう。

ピアノの営みというのかな、ピアノって毎日の練習が大切だし、それは習慣化されていくものだけど、導入期のピアノレッスン、または大人のアマチュアピアノ道の中で、「なぜ私は弾いているの?」という部分を、もうちょっと意識してもいいのかもしれない。

「~ができてから~というものが表現できる」とか「~ができるのは才能ある人だけ」みたいな感じではなく、弾くという意味というのかな、何故にピアノに惹かれるのかという自分の内側の部分も、もう少しレッスンとか練習という部分で意識していってもいいような気がする。

弾けた→合格→弾けた→合格・・・そうなりがちだけど、その中で「そもそも何故弾いているの?」というものも意識していいのかもしれない。人間の感情にレベルとか、初級、上級もないだろうと思うし。

「ありがとう、今まで本当にありがとう!」

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残像 

 

たしか天気予報をテレビで見ていたのだと思う。いきなり画面が変わり「北朝鮮がミサイル発射」という画面に変わった。アナウンサーが速報として話すのではなく、文字画面だけというのが非常に不気味ではあった。「どうせ日本上空を飛んでも太平洋上に落ちるのだろう、いつものように」という弛緩した考えが浮かんだ。同時に画面で説明された「頑丈な建物、地下に避難してください」という文字に緊迫感を感じたのも事実だ。頑丈な建物って?ミサイルに対してそんなもので身を守れるのか?つまり日本国民はどうしようもないということか?そうも感じた。

平和だから、平凡ながら幸せだからピアノを弾ける。たしかにレッスンに通い、人前で弾いて一喜一憂、サークルの打ち上げではピアノ仲間と談笑・・・たしかに平和な構図だ。明日には親が倒れるかもしれない、自分も倒れるかもしれない、いつまでピアノライフを送れるだろう?癌を宣告されたら?ピアノどころではないのでは?

幸せだからピアノを弾いているのだろうか?では、なぜ一曲を通して弾けなくなるほど体力が落ちても練習していたのだろう?泣きたくなる想いで「もう大曲は弾けないんだ」と自分に言い聞かせようとした。でもピアノに向かった。サークルの練習会にも参加した。途中、駅のベンチで意識を失いそうになっても参加した。あの頃は幸せ・・・ではなかった。でも弾いていたのは何故だろう?

人は幸せだから、平和だからピアノを弾いているのだろうか?楽しいから弾いているのだろうか?

昨年の10月、ポーランドのアンジェイ・ワイダ監督が亡くなった。享年90。このポーランドの巨匠の最後の映画、「残像」・・・この映画は、ある芸術家の晩年を描いている。ヴワディスワフ・ストゥシュミンスキという人の晩年。この人は前衛的な作品を残しているらしい。ウッチというポーランドの都市に近代美術館を設立し、ウッチ造形大学の設立にも寄与している。この造形大学、現在ではウッチ・ヴワディスワフ・ストゥシュミンスキ美術アカデミーという国立の美術大学となっている。戦後のスターリン主義時代、芸術が社会的リアリズムのために利用されていた。その動きに真っ向から対立した芸術家として知られているらしい。

アンジェイ・ワイダ監督も、レジスタンス運動に参加し、ウッチの映画大学で学んでいる。同じ都市でストゥシュミンスキの反骨精神を同時期に実際に感じていたのかもしれない。死を予感していたワイダ監督は、遺作としてストゥシュミンスキを描きたかったのではないだろうか?想像だが・・・

最後は画材を売ってもらえなくなるほどの迫害を受ける。それでも慕ってくれる弟子たちはいた。創作意欲というものは衰えなかった。幸せだったのだろうか?ストゥシュミンスキはスターリン主義時代の迫害以前に、第1次大戦で片腕と片足を失っているのだ。それでも何かを表現しようとしてきた。幸せだったからだろうか?ポーランドが平和だったからだろうか?

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ギターの詩人 

 

南米の国、パラグアイについてどれだけ知っているだろう?パラグアイとウルグアイとの違いもよく分っていなかったりする。首都はアスンシオンと知っても、「ああそうなんだ」と思うだけで、パリやニューヨークのように風景が浮かぶわけでもない。

そのパラグアイにギターの詩人がいた。幼少の頃よりギターを弾いた。すべてギターのための作品、約300曲を残した。でもこれは自己申告。楽譜を人に渡してしまったりして、正確な数は分かっていない。出版されず手稿のままの楽譜がほとんどだったらしい。作曲そのものは、ほぼ独学だったようだ。

アグスティン・バリオス・・・

31歳の時、パラグアイからブラジルに渡り、そこで15年間過ごしている。その後は、南米各国を演奏し、中米エルサルバドルで亡くなっている。

「僕は中世の吟遊詩人の兄弟だ。栄光と絶望の中でロマンティックな熱情に苦しんだ吟遊詩人の兄弟なのだ」 アグスティン・バリオス

自分の作品を、まとめて出版することのなかった無欲なバリオスだが、演奏は録音に残した。また各地を演奏して回った。経済的には苦しい生活だったようだ。友人たちから経済的な援助もあったらしい。

彼の演奏、そしてギター曲は人々の心に残った。でも楽譜そのものが流通しておらず、やがて忘れられていく運命にあった。そのことを惜しんだ人たちがいる。パラグアイのシーラ・ゴドイ、ペルーのヘスース・ベニーテス、アメリカのリチャード・ストーヴァーらの研究家たちにより、バリオスの作品がまとまった曲集という形で出版されるようになった。バリオスの死後、20年ほど経ってからのことだ。

1976年、イギリスのギタリスト、ジョン・ウィリアムスがバリオス作品によるレコードを発売した。この時からバリオス作品が世に知られていくようになった。

キューバの作曲家、ギタリスト、レオ・ブローウェルはバリオスについてこう語っている。「バリオスは、ヨーロッパではずっと前に消滅した繊細でロマンティックな音楽を書いた」

バリオスの紹介者的役割をしたジョン・ウィリアムスはこのように語っている。

「ラテン・アメリカは長い間文化的にヨーロッパに服従する姿勢をとってきた。何世紀も続いた植民地化の結果だが、その影響はヨーロッパの側にもラテン・アメリカの文化、特にその大衆文化を見下す態度となって現れていた。生前のバリオスはラテン・アメリカにおいては上のような事情から過小評価され、ラテン・アメリカ以外では実質的に無名の存在だった。やがて西欧中心主義の偏狭さが取り沙汰されるようになり、ラテン・アメリカ固有の文化にも目が向けられるようになった。そうした大きな動きにバリオスも音楽を通じてギタリストたち、そして音楽を愛する世界中のすべての人々の心を動かすことによって参加しているのである」

アグスティン・バリオス(1885~1944) 享年59。彼はパラグアイ先住民、グアラニー族の血を引き継いでいることを誇りにしていたとされている。

この映像は、1970年代後半、ジョン・ウィリアムスがバリオス作品を紹介し始めた頃のものと思われる。

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ヴァイオリン御用達 クライスラー 

 

ピアノ御用達がショパンであれば、ヴァイオリン御用達は誰だろう?ヴァイオリンという楽器のために命を懸けた人。実は迷った。サラサーテ、イザイ、パガニーニ・・・

迷った末、個人的な御用達作曲家はクライスラーになった。とにかく自作自演の録音、いわゆる「赤盤」時代の録音が素晴らしい。「愛の喜び」「愛の悲しみ」「美しきロスマリン」等々。これらの曲はヴァイオリンを弾かない人にも、かなり知られているのではないかと思う。作品もだが、演奏そのものが人類遺産という気もする。

クライスラーには、バロック色の趣きが強い曲がある。この動画で演奏している「プレリュードとアレグロ」のような。この曲は、以前は「プニャーニの様式による・・・」という言葉がついていた。クライスラーがこの曲のようなバロック調の曲を発表した時には、自作とはしなかったらしい。「図書館で埋もれていた楽譜を発見しました。それを弾きます・・・」みたいな?批評家の中には「さすがに偉大なるバロック期の作品。素晴らしい。でもクライスラーの演奏は・・・」などと言う輩(?)も存在したらしい。そのような批評家にクライスラーは不快感を示したとされているが、でもどうなのだろう?心の中で「実は私の作品なんだがな、フフ・・・」みたいに思っていたところもあるのでは?クライスラーって、結構お茶目だったのではないか?演奏からそのように想像しているだけだが・・・

むろん、プニャーニらの作品から引用したところもあるのだろうが、これはクライスラー作品だと思う。現在では世間ではそうなっているのでは?

何と言ったらいいのだろう?ショパンの曲、作品そのものだけではなく、ピアノという楽器をも堪能してしまうところがある、ショパンって素敵=ピアノって素敵・・・みたいなところがある。クライスラーの作品を聴くと、むろん「いい曲だな」と思うのだが、「ああ、ヴァイオリンもいいなぁ・・・」と切に感じるのだ。楽器を感じる。

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ピアノ御用達 ショパン 

 

ピアノサークルの練習会などで、毎回必ず登場するショパンのピアノ曲。練習会でシューマンやリストが登場しないことはあってもショパン不在の練習会ってあまりないように思う。

ピアノ弾きにとって、ショパンは憧れ度の高い作曲家なのかもしれない。ソナチネ学習者にとって、ショパンのワルツなどは憧れ度満載なのかもしれないし、初めてバラードなどに手をつける(?)時の、ある種の興奮のようなものは独特のものがあったりするのではないだろうか?むろん、人の好みって様々だろうから、「ショパンってあまり・・・」という人もいるのだろうが・・・

作曲家の語法独自の魅力と共に、ショパンの場合は、ピアノという楽器の持つ魅力をも味わう喜びがあったりするような気がする。芳醇なるハーモニーの中で、クリスタルクリアな音が浮かび上がる・・・のようなピアノ独自の魅力。どこかピアノ御用達のような魅力。

ピアノ御用達なので、他の楽器では魅力が半減してしまうようなところがある。ラヴェルのピアノ曲、オケ版でも演奏されることがある。個人的には「道化師の朝の歌」など、オケの方が色彩感覚が増大し、より魅力的に聴こえたりする。ムソルグスキーの「展覧会の絵」も同様。ショパンのピアノ曲の場合、他の楽器に編曲しにくいところはないだろうか?

ミルシテインはショパンのノクターンをヴァイオリンに編曲していて、ヴァイオリニストの愛奏曲となっているし、ティノ・ロッシは「別れの曲」をシャンソンとして歌っていて、実に魅力的な歌唱を聴かせてくれる。このような美メロディーの場合は、それもありだろうが、例えば「24のプレリュード」のオケ版編曲とか、ちょっと想像しにくい。存在するのかもしれないけれど・・・

バラード集もピアノ以外での演奏、編曲って、ちょっと想像できない。「どうなるんだろう?」的な興味はあったりするが。オケ版のバラード第1番とか・・・

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明るいポーランド 

 

自分の中のポーランドを綴ると、どうも話題が暗くなりがちだと感じた。暗いブログ?ポーランドという国の歴史がそうさせるのか?何かポーランドの明るい話題はないものか?

料理の話題であれば、そう暗くもならないのでは?「ショパンとピエロギ」とか?ショパンがジョルジュ・サンドのためにピエロギを作ったと想像してみるとか?でもショパンって、あまり料理が得意だったとも思えない。あくまでもイメージだが・・・

ふと思い出したのだが、たしかポーランドにフィギュアスケーターがいたな・・・と。記憶としては曖昧だ。「へえ?ポーランドにもこんなに凄いペアがいたんだ」と、そのカップルの演技を観て感じた記憶があるだけだ。いつの頃だったか、それも曖昧だったりする。でもフィギュアスケートだったら「明るいポーランド話題」になるかも?

ちょっと検索してみると、ドロタ・ザコルスカ&マリウス・シュデクというカップルだった。オリンピックは3度出場している。長野、ソルトレイクシティ、トリノ。すべて10位以内になっていて、非常に息の長い安定した実力を持つカップルだったことが分かる。世界選手権には連続13回出場。これも凄いと思う。やはり常に10位以内の成績を残していて、一度だけ世界選手権で3位になっている。この時のメダルがポーランドにとって初めての世界選手権でのメダルであり、現在も彼らのメダルが唯一のポーランドフィギュアのメダルともなっている。

むろん、ポーランドはフィギュア大国とは言えないだろう。ロシアやアメリカ、日本(シングルのみ)のようなスケート大国ではない。熾烈な国内大会を勝ち抜くというのも大変だろうが、国内には自分たちしかいない・・・というのも、また大変だったのではないだろうかとも思う。

とにかく力技というのかな、リフトが素晴らしいカップルだ。女性も凄いが、男性も凄いのではないだろうか?支えるという意味で・・・

オリンピックシーズンで引退をする選手が多い中、このカップルは、翌年も現役を続行した。理由としては、一年延長すれば、地元ポーランドで開催される欧州選手権に出場できるからということだったらしい。オリンピックの翌年、世界選手権が東京で開催された。女子シングルで安藤美姫選手が金メダル、浅田真央選手が銀メダルを獲得した大会だ。現役最後の試合として、ザコルスカ&シュデクのカップルも東京にやってきた。

フリー直前の6分間の練習、この時男性のマリウス・シュデクが腰を痛めてしまったらしい。本番で彼らの名前がコールされても、なかなかリンクに登場しない。泣きじゃくるザコルスカの姿がリンクサイドに見えるだけだ。やがて二人はリンクに現れるが演技を始める雰囲気ではない。ザコルスカが泣きながら審判に説明する。「演技できません、棄権します」と。演技のできなかった二人に大きな拍手が湧きおこり、花束がリンクに投げ入れられたと言う。僕はこの場面は見ていない。ペアなんて地上波では放送もされなかったのかもしれない。

一般の人たち、フィギュアスケートは嫌いではないし、観ていて「いいな、素敵だな」とは思うけれど、専門雑誌を購読したり、プロトコルがどうとか、そんな専門的なことはいらない、ジャッジですか・・・と思えるほどの分析力もないし必要もない、ただ観たいというファンも多いと思う。仕方がないのかもしれないが、地上波ではシングルしか放送されない印象がある。これが残念だ。優勝争いをする日本人選手と、そのライバルたち、そこしか知ることができない。でもシングルだけがフィギュアスケートではないと思う。

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諸国民の中の正義の人 ポーランド編 

 

イスラエル政府が与える賞にヤド・バシェムという賞がある。日本人では、ただ一人杉原千畝が受賞している。この賞を授かった人たちは「諸国民の中の正義の人」と呼ばれる。非ユダヤ人でありながら、命を懸けてユダヤ人を救った人たち。

諸国民の中の正義の人、ポーランド人が圧倒的に多い。ホロコーストの最も悲惨だった地域がポーランドであったため、これは自然のことのようにも思われる。6620名ものポーランド人が正義の人とされている。

ナチス政権支配の当時のポーランドでは、占領法が適用されていた。ユダヤ人を匿ったポーランド人は、匿った本人だけではなく、その家族をも死刑に処する・・・という法が適用されていたのだ。ユダヤ人を助ける、匿うという行為は、まさに命がけでもあったはずだ。

ポーランド人、レオポルド・ソハは、諸国民の中の正義の人の中では特殊な人なのかもしれない。この賞を授かった人は、割と地位の高かった人が多い。杉原千畝もリトアニアの日本領事代理であったわけで、外交官であった。ソハはそうではなく、ごく普通の一般人だった。それも小悪人的なところがあったらしい。空き家になったユダヤ人の家から金目になりそうなものを盗んだりとか・・・

ソハは下水道関係者(?)であったため、ユダヤ人たちを地下の下水道に匿う。それは人道的な目的ではなく、お金のため。ユダヤ人から金品を受け取り、匿う。

ソハは善の誘惑に負けてしまうのだ。「こんなことをしていたら本当にヤバいかも?」手を引こうとするが、どうしてもそれができない。感じてしまったのだ。「地下に隠れている人たちも、自分も同じ人間じゃないか?」と。

レオポルド・ソハのことを僕に教えてくれたのはHだ。彼は、もちろんソハの物語が映画化されたことは知らない。その前に亡くなってしまっているから。でもソハという人物はポーランドでは有名なのだそうだ。

この種の映画としては、珍しく(?)ラストはハッピーエンドとなっている。実話なので、なおさらハッピーな感じだ。地下の下水道に隠れていた人たちは生き延びるのだ。戦争が終わるまで生き延びる。

「さあ、出てごらん、空を見てごらん・・・」ソハはユダヤ人の子どもを抱き上げるのだ。鮮やかなラストシーンだったように思う。監督はアグニェシュカ・ホランドというポーランド女性。ソハを演じているのが、ポーランドの名優、ロベルト・ヴィエツキーヴィッチ。この俳優の演技だけでも、この映画を観る価値はあると思う。この人はアンジェイ・ワイダ監督の映画でワレサを演じていた人でもある。

Hによれば、当時下水道に隠れていたユダヤ人は他にもいたらしい。中には妊娠していた女性もいた。むろん、下水道、隠れ家で堕胎をするわけにもいかないので、赤ん坊は生まれてくる。そして多くの母親が泣きながら生まれてきた赤ん坊を窒息死させたのだそうだ。赤ちゃんは泣いてしまうから。この映画にもそのようなシーンはある。映画に描かれなかった悲劇としては、ソハは戦後、事故死で亡くなっている。暴走するソビエトのトラックに轢かれそうになった娘を助けたため、自分が亡くなってしまった。この時、こう囁く人たちがいたのだそうだ。

「ユダヤ人なんかを匿ったからだ。天罰が下ったのさ!」

地図帳でポーランドの位置を確認してみる。しっかりとドイツとロシアに挟まれている。最近の世界情勢を考えてみる。負の歴史が繰り返されなければいいと念じる。

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鉄の中のナイチンゲール 

 

「僕が育った街には色というものがなかった。モノクロの写真のようにね」Hがそう言ったことがある。僕が育った街、つまりクラクフの街のことを言ったのであろう。後年、実際にクラクフの街を歩いてみた感想としては、Hの言葉とは異なり、色彩が欠けているとは思わなかった。いかにも古都という印象ではあったけれど。クラクフ近郊には、あの悪名高きアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所跡がある。少し前のテレビのニュースで、この場所をツアーなどで訪れた日本人観光客が過去最高になったと知った。現在は日本人のガイドもいるらしい。決して物見遊山気分で訪れるような場所ではないと思うが、ポーランドは民主主義の国になったんだなと、僕は感じたものだ。

Hの「クラクフには色彩がない」という言葉、それは収容所の存在を意味したのではないかと、その時は感じたものだが、考えてみれば、Hは社会主義国ポーランド、社会主義国のクラクフで生まれ、育ったのだ。モノクロの写真という言葉は、社会主義国という意味でもあったのではなかったか?

日本がバブリーな頃、世界の不動産やら絵画やらを買収しまくり、金満国として日本という国が知られていた頃、つまり1980年代の終わりか、1990年代の初めだったと思うが、テレビのニュースでポーランドのある風景が流れた。自由を求める大衆と、それを阻む国家権力、軍隊という風景だったと思う。ワルシャワ・・・とアナウンサーは解説していた記憶がある。人々の罵声、銃声、そのような音が乱れ飛ぶ中、建物からビラが舞い散る。受け取ろうとする人々、追い払う軍隊・・・

冬だったのだろうか、吹雪が舞っていた。映像で見るワルシャワには色がなかったと感じた。モノクロの写真のように・・・

「彼女はワルシャワのナイチンゲールと呼ばれていてね。どうだい、美しい人だろう?」祖国に関しては、どこか押し黙ってしまうような、沈黙を守るところがあったHにしては、無邪気なまでのポーランド自慢だったので、そのワルシャワのナイチンゲール、ボグナ・ソコルスカの歌声は強く印象に残っている。おそらくポーランドから持ってきたであろう、古いレコードのジャケットには、往年時代の女優のような女性の姿があった。「美人だね?」「そうだろ???」

ソコルスカは、Hが生まれる頃、Hの父親世代が聴いた歌手なのではないか?世代を超えて愛されている歌手なのであろう。色彩のない社会主義国ポーランドに、彼女の歌声が流れたのだ。強烈な印象をポーランドの人々に残したのではないだろうか?

ワルシャワのナイチンゲールを聴いている時だけは、人々は自由を得て、空を飛翔している気分になったのではないだろうか?

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愛国者として、ピアニストとして・・・ 

 

中村紘子著の「ピアニストという蛮族がいる」(文藝春秋)に、鍵盤のパトリオットと題して、パデレフスキに関して、まるまる一章が割かれている。現在、パデレフスキはどのような位置づけにいるのだろうと、ふと思った。まずはピアノ弾きだとショパン全集、つまりパデレフスキ版で有名なのではないだろうか?そのパデレフスキ版も「今はエキエル版よね?」みたいに、やや冷たい視線が注がれたりしているのかもしれない。作曲者としては、もうひたすら「メヌエット」だけが有名で、それもピアノ中級者(?)が時折ピアノ発表会で演奏することはあっても、プロのピアニストがリサイタルでパデレフスキの曲を演奏することなど、まずない・・・

ちょっともったいないというか、おかしいのでは・・・という気持ちが、今回のピアチェーレの演奏会でパデレフスキ作品を演奏してみようと決心した理由だ。

ピアニストとしてのパデレフスキ、これは昔から、つまりSP盤、蓄音機の時代から日本でも有名だったと思う。たしかにロマンティックな演奏というか、黄金時代の演奏という気がする。でも大衆のパデレフスキに対しての人気は、他のピアニストを圧倒しているところがある。当時、アメリカは亡命音楽家たちのメッカ(?)で、巨匠たちの演奏が溢れていたところがあるが、なぜパデレフスキの人気が他を圧していたのだろう?この部分は演奏を聴いても釈然としないものが残っていた。「たしかに素晴らしい。でも他にも素晴らしいピアニストはいる。なぜパデレフスキだけが異常な人気ぶりだったのだろう?」と。

前出の本から部分引用してみると、「彼の生活ぶりは王侯貴族にも似ていた。カリフォルニアに牧場を所有し、パリとロンドンに家を持ち、ジュネーブ湖畔に城館を構えた。自家用の鉄道車輌に乗り、練習用の二台のピアノ、秘書、執事、医師、専用マッサージ師、シェフ、調律師、そして家族、召使いたちを引き連れての大名行列は、それ自体がまた人気の的となった」こうもある。「どこでも聴衆は、その大部分が女性であった。彼女たちはパデレフスキがステージに登場すると一種の集団ヒステリーを起こし、ステージめがけて殺到して我先によじ登ろうとした」

現代のロック歌手以上の盛り上がりではないか?「彼の燃えるような金髪の巻き毛は、光が当たると彼のロマンティックな顔を後光のように包んだ」ともある。すべてがレベル違い、けた違いの人気ぶりではないか?

ロマンティックな顔立ちかどうかは、主観的なものも含まれるので、この動画で判断するしかないが、たしかにイケメンではあったのかもしれない。でも異常なまでの人気は、彼がポーランド人であった、つまり征服される側の国の人間であったということも関係しているのではないか?人気原因はともかく、少なくともピアニストとしてのパデレフスキに、ある種の気概、「二ェ・ダムチェ!」なるものが植え付けられていたのではないかと・・・

パデレフスキ、3歳の時。父親がある蜂起に参加したとして逮捕された。150人ほどの騎兵、ロシアの官憲が父親の有罪立証にやっきとなった。家中のものがひっくり返された。3歳のパデレフスキは、幼いながらも異様な事態に、父親に大事が起こったのだと感じた。泣きながらロシア兵にたずねた。「お父さんをどうするの?なぜ連れていってしまうの?すぐに帰してくれるの?」

ロシア兵は答える代わりに、3歳のパデレフスキをムチで叩いたのだそうだ。3歳の子どもの肌はムチで裂け、血で溢れた・・・

この時の屈辱感が、後の「二ェ・ダムチェ」そしてポーランド人、被征服民族としての誇りを植え付けたのではないか?

1939年、ナチス・ドイツはポーランドに突入、わずか一か月後にワルシャワ陥落・・・当時79歳だったパデレフスキの胸中はいかなるものであったか。1941年、6月、ニューヨークで肺炎のために死去する。「餓えているポーランド人民のための救済コンサート」を行っており、その無理がたたったともされている。時の大統領でパデレフスキの親友でもあったフランクリン・ルーズベルトの命令によって、500名の米軍士官と音楽隊がパデレフスキの遺体に付き添って五番街を行進したという。「ポーランドが自由の国になるまでは帰国せず」というパデレフスキの遺言に従い、遺体はワシントンのアーリントン墓地に埋葬された。米国最高の礼をもってとり行われたという。19発の礼砲と共にポーランドの元首相、ピアニスト、パデレフスキは異国の地に永眠することとなった。

ソビエト崩壊、ベルリンの壁崩壊、東欧は民主化の道を突き進んだ。ポーランドも例外ではなかった。1992年、ポーランドのレフ・ワレサ大統領と米国のジョージ・ブッシュ大統領列席のもと、パデレフスキの遺灰はアーリントン墓地からワルシャワの聖ヨハネ聖堂の地下霊廟に移された。

ポーランドは自由の国になった・・・

幾百年待ち望んだのだろう、幾多の人が待ち望んだのだろう・・・ポーランドは歴史のある若い国でもある。

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ピエロギ対決 

 

ポーランド餃子、正式名を「ピエロギ」と言う。Hは「ピロギ」と発音していたと記憶している。ピエロギそのものは、ポーランド独自の食べ物というよりは、おそらく東欧諸国を中心に似たような料理はあるのだと思う。アメリカにもピエロギは普及していたように思う。アメリカは移民の国だから、それぞれのピエロギが存在していたのだろう。

ポーランドでは(Hが主張するところによれば)中にジャガイモを入れるのが一般的らしい。Hがポーランドのピエロギを作り、僕が日本の餃子を作り、料理対決(?)をしたことがある。餃子を日本の料理としていいものかどうか、そこは判断に迷ったが、まあ、いいとした。さすがに日系のスーパーで味の素の「冷凍餃子」を買ってくるのは、日本人のプライド(?)として許さなかったので、近所の韓国人経営の商店で材料を買ってきた。

餃子の皮から手作りする主婦って日本にはどれくらいいるのだろう?普通は市販の餃子の皮を使用するのではないだろうか?「日本にはそんなものもあるのか?そのようなものまで出来合いのものを使うのか?」とHはやや憮然とした表情をする。ポーランドの主婦は皮も粉を練って作るらしい。

包んで焼いて、煮て、揚げて・・・とピエロギも餃子も同じだ。でも味は異なる。ラー油と酢、あるいはポン酢で食べる日本の餃子の方が馴染みがあるなぁ、そう感じたが、もちろんHには言わなかった。餃子は皮の襞は手で作るものだと思ったが、ピエロギの襞はフォークで作る。随分と大雑把というか、大陸的だと感じたが、たしかに皮が厚いのでそうなるのだろう。

ピエロギもポン酢で食べると非常に美味。サワークリームのようなものにつけるんだね、それがどうも・・・

Hはポン酢が苦手だったようだ。その時まで、外人さんは日本の醤油には誰でも「ビューティフル!」と絶賛すると思っていたので、ポン酢の味も賞賛されると思い込んでいたのだが、そうでもなかったようだ。

たかが餃子なのだけれど、世界共通の同じようなところもあり、また地域の独自性のようなものもあり、楽しい想い出ではある。

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二ェ・ダムチェ! 

 

約2か月後、ピアチェーレの演奏会があります。11月18日、場所は例年と同じ、雑司ヶ谷音楽堂。無料の演奏会だけれど、整理券が必要となります。申し込みは来月の1日から、ピアチェーレのホームページのメールフォームから申し込んで頂きたいです。ピアチェーレからメールでPDFとして整理券が返信されるので、プリントアウトして当日持参して頂く形となります。直接僕に連絡頂いても大丈夫です。その場合は受付に整理券を用意しておきますので、当日お名前を仰って頂くようになります。こちらは現在、随時受付中です。

僕の演奏曲はショパン中心。

パデレフスキのメロディー、ノクターン、ショパンのバラード第1番、アンダンテ・スピアナート付きのポロネーズ。ショパンというよりは、僕の中でのテーマは「ポーランド」という感じだろうか?

ポーランド、一度だけ旅行したことがある。「予想よりも近代的な国だな」というのが正直な感想だった。僕の中では、ポーランドという国は、大国に翻弄され続けた悲劇の国というイメージがあった。1980年、当時社会主義国だったポーランドの港町、グダニスクからある運動が起こった。ソ連の圧力に労働者レベルで対抗するソルダルノシチ、いわゆる「連帯」という運動だ。若かった僕は日本で、ワレサ議長とか戒厳令とか、ドキドキしながらテレビで見守っていたものだ。そして世の中の不合理というものを感じていた。

その後、アメリカに留学した時、ある一人のポーランド人と知り合った。ルームメイトだったHという人物は、このブログでも度々登場しているように思う。どこか仙人のような人だったように思う。祖国に愛着を感じ、同時に絶望していたところがあったように思う。「あの国では人間として生きることができない」・・・そう言っていた。

「二ェ・ダムチェ」・・・Hがよく言っていた言葉だ。日本語だと「決して克服するものか」という意味だろうか?Hとの関わり、侵略の歴史でもあったポーランドの歴史、そのようなものから、あるイメージがポーランドという国に対して僕の中で形作られていたのだと思う。なので、暢気にポーランド餃子などを食しながら、「ポーランドって意外と発展しているのねぇ・・・」などと僕は感じたのだろうと思う。

ショパンの曲って、どこか「お素敵」な感じがする。パリに住み、半分はフランス人の血が流れていた。でも半分はポーランドの血が流れていた。この部分が生涯、マズルカやポロネーズを書かせたのかもしれない。ショパンが生まれたのは1810年。実はこの時期、ポーランドという国は消滅していた。世界地図にはポーランドという国は存在していなかった。「この領土は我々が・・・」「ではポーランドのあそこは我々が貰って・・・」大国にいいようにされていた期間が123年間も続いた。1795年から1918年の123年。

100年以上もの支配後、1919年、ポーランドは独立し、あるピアニストがポーランドの首相になった。また外務大臣も兼任した。パデレフスキ。いまだかつてピアニストから政治家、それも一国の首相にまでなった人物などいただろうか?

パデレフスキとショパン、おそらく「二ェ・ダムチェ」という精神を持ち続けた人たちであったのだろう。また、後世、ワルシャワの街で、クラクフの街で、空襲の中、爆撃の中、蓄音機でショパンを聴きながら「二ェ・ダムチェ」と心で叫んでいた無数のポーランド人たちもいたのだろう。

ピアチェーレの演奏会では、僕なりの「二ェ・ダムチェ」を表出できたらいいなと思う。

ポーランド・・・「平原の国」という意味なのだそうだ。

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いつでも、どこでも、何があっても・・・ 

 

まずは楽譜を読め、すべて楽譜に書いてある。自分の内側の感情など関係ないのだ、まずは楽譜に忠実に・・・

忠実に弾けば、忠実に楽譜を読めば、それは音楽になる。理屈とすればそうなのだろうが、では人によって演奏が異なるというのは何故だろう?譜読みの浅さ、深さの違い・・・ということもあるのだろうが、ではコルトーとミケランジェリでは同じ曲でも演奏は異なるのはどうしてだろう?ミルシテインとシェリングでも演奏は異なる。その人ならではの魅力というものはある。なぜ皆同じにはならないのだろう?同じ楽譜なのに。同じ音符の連なりを再現しているはずなのに・・・

1993年のプラハでのフィギュアスケート世界選手権、アメリカのナンシー・ケリガン選手、優勝候補と言われながらフリーで不安定な演技になってしまい、まさかの台落ち。そこで彼女のコーチ陣は考えた。来年はオリンピック、何かを変えなければ・・・と。徹底したのは「いつでも、どこでも、何があっても」の徹底。いつでも同じ演技ができるようにということなのだろう。同じようなことはスポーツの世界ではよくあるのかもしれない。昔の話だが、かつて(今も?)女子体操はルーマニアが非常に強かった。あのナディア・コマネチが活躍していた頃だろうか。何かで読んだのだが、やはり「いつでも、どこでも、何があっても」の徹底があったのだと記憶している。起き抜けに演技をしても成功できる・・・みたいなところまで徹底する。

このスポーツのような感覚を音楽にもそのまま持ち込んでしまうのはどうなのだろう?そもそも我々が弾く作品の作者、つまり作曲者は不安定な人たちだったような気がするのだ。感情に流され、普通の人だったら持ちこたえるようなことも、ヘナヘナな倒れ込んでしまうような不安定さを抱えていた、だからこそ音楽が生まれた・・・

楽譜に忠実、自分の感情は排除、作曲者ほどではないにしろ、演奏する側も人間である以上、「いつでも、どこでも、何があっても」的にキッパリと楽譜、自分、感情というものを分けることも難しいのではないか?

最大の人生の悩み、それはスーパーで鰺にするか、鮭にするか・・・このような人生だったとしたら、安定はしているだろうが、味気ないもののように思える。感情の使い場所がないもの。波乱万丈人生を自ら望むわけではないけれど、感情不使用の生活というものもどうなのだろう?そもそもそんな人生だったら、音楽なんて人生から必要なくなるような気もする。

心の琴線に触れる、まさにこれは自分の中の感情に触れるということではないか、ため込んできた感情に音楽、演奏が触れてくる。その自分の感情というものを排除してしまっていいものだろうか?機械にでもなれと?

クラシック音楽、聴き手側と供給側、供給側に教育というものも含めて考えてみると、供給側は、ザハリヒな方向性に頼りすぎているように個人的には感じる。聴き手は、もっと生々しいものを求めてきているのかもしれない。今の世の中、辛いもの・・・

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ロイ先生の音楽帳 

 

基本的には人様の練習を聴く機会というものはない。練習会などで、出来上がり状態を聴くことになる。そして感じる。「どうしてあのように歌えるのかしら?」と。自分は、どうもただ弾いている、音符を並べているような、そんな演奏しかできないのに・・・

「これって音楽性の違い?感性?才能ね。まっ、そんなもの自分にはないので・・・」

音楽的(ミスなどはあっても)な人の演奏ってイタリア人の会話みたい。フランス人の愛の囁き。でも自分のは、まるで電話の自動音声のような?音符は読めるのよ~、ドだってレだって理解できてる。音は並ぶのよ~、練習もしてるのよ~、なんでそうなるの?

過去に戻ってみる。誰でも最初は導入期だったのだから。もしかしたら、音符を並べ、一応弾けたら合格、そして次の曲・・・という歴史(?)はないだろうか?その習慣、歴史が染みついてしまっていて、大人になってからも無意識に「並べ譜読み」をしてしまう。並べることができて、初めて表現を考えるのような?そのようなものが染みついてしまっている。「一応弾けた、さあ、表現の段階ね」ここで、ふと思う。「習ってない・・・」と。そのようなことは習ってこなかった。「もっと感情を込めて~」とは言われてきたけれど、具体的には何をしていいのか分からない。習ってないし・・・

よく言われる。楽譜に忠実になのか、それとも自分の感情を優先するのか。そもそもこの発想そのものが、「一応弾けた」→「表現を考える」という図式からきているものなのかもしれない。発想転換。譜読みをするということは、楽譜にある表現をも拾っていくこと・・・と。譜読みが終わった、実はその時には表現なるものもあるのが本来の姿なのでは?

最初は音を読む。ドとレね・・・と。でもドレとドラは違うでしょ?「はい、音が違います」そうではなく、エネルギーが違うのでは?ここは二拍伸ばすんです。それだけではなく、二拍と一拍ではエネルギーは異なるのでは?長さによるエネルギーの違いを感じることが、表現というものになっていくのでは?そのようなものを拾うことが譜読みなのでは?

一つ一つの音や休符、集まるとシェイプが形作られる。モチーフと呼ばれたりする。そのモチーフが集まると、一つの流れの単位ができる。フレーズとか呼ばれる。そのようなものを意識した譜読みが必要なのでは?

最初にロボット音声のような、電話の自動音声のような譜読みをしてしまうと、最後までそのまま・・・ということはないだろうか?どこかに表現のための秘策のようなものを期待する。アッハ~ン、ウッフ~ンのつけかた・・・のような?そのような秘策はなく、譜読みの段階でそれは決まってしまうとしたら?

ショパンやリスト、ラフマニノフやプロコフィエフ、一応弾ける。でも音だけを並べているだけのような?そのような人がギロックやバイエルを弾いたとしたら、いきなりミューズの女神が舞い降りたような演奏をするだろうか?やはり「弾けてはいるけれど・・・」のような演奏になるのではないだろうか?違うかな?

ピアノって両手だし、つまり2段譜だし、音も休符も、とにかく多いし。単位を小さくして拾っていってみたらどうだろう?片手最小単位、美しく弾けているだろうか?

前の動画のロイ先生が、実に素晴らしい動画を作成している。彼はピアノ弾きのことを考えて、この動画を作ったわけでもないのだろうが、参考になるのではないだろうか?

譜読みの時、ここまで読んでいますか?譜読みって何だろう?

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究極の講師演奏 

 

生徒にピアノを教えながら、自分も発表会で演奏する、つまり講師演奏。発表会前は生徒への指導、当日は会の責任者ということで、自分の演奏どころではなかった。頑張ってクラシックのソロを弾いたけれど、ハッキリ言って失敗だ。非常に苦しかった、ふと思った。「私ったらこんなに苦しんで・・・こんな私が生徒にピアノの楽しさを伝えられるだろうか?」考えた末、講師演奏はしないことにした。

ちょっと違うなとも思うし、かなり寂しいなとも思う。発表会の他にも、自分の演奏の場がある人は、何も忙しい発表会で弾く必要もないかもしれない。自分の演奏に集中するのは、別の機会の自分のリサイタルでもいいと思う。発表会は、生徒や会の進行などに集中する。

でも、発表会以外に自分の演奏を披露する機会のないピアノ教師も、意外と多いのかもしれない。日頃弾いていないピアノ教師という人が、もしいるのならば、講師演奏は相当心理的重圧があるだろうと予想する。

「じゃあ、お友達と連弾、ディズニーメドレーにしよう。今年の講師演奏はこれで決まり!」これもちょっと寂しいような?先生はソロ弾かないの?暗譜しないの?・・・と生徒は感じるかもしれない。

「ピアノの先生ってピアノが上手くて当然と思われている。それがプレッシャーで・・・」

果たしてそうだろうか?むろん、客席が不安、不穏になるような演奏では困るだろうが、例えば、講師演奏に内田光子とかトリフォノフのような演奏を期待するものだろうか?同じような演奏を期待しているわけでもないだろうと思う。

講師演奏ならではという演奏、生徒にとって自分の先生ならではの演奏と言うのかな、そのようなものってあると思うし、それはトリフォノフにはできないようなことなのかも?

ピアノの習いたての頃ってピアノは楽しい。「レッスン、楽しい!!!」でも徐々にそれだけではなくなる。仕事をしながら、ピアノを弾いている大人たち。正直、ピアノさえ弾かなければ、毎日の生活も楽になるのに、そう思う。でも、やめられない何かがある。それは楽しいということとも違うし、耐え忍ぶというものとも違う、不思議なもの。つまり、「なぜピアノを弾いているの?」という部分は、ピアノの先生が職業ピアニスト(?)よりも直に生徒に示すことのできるものであり、発表会の講師演奏というものは、そのような「なぜ弾くの?」ということを、教師自らが示すことのできる貴重な場なのではないかと・・・

ピッツバーグ在住のヴァイオリン教師、ロイ先生。クリティカルに(意地悪く?)聴けば、例えばヴェンゲーロフのような闊達な演奏ではないのかもしれない。でも音楽をする喜びをロイ先生の講師演奏から感じる。

もし、僕がロイ先生の生徒で、伸び悩んでいて「ヴァイオリンなんかやめようかな?」と思っていたとしたら、このロイ先生の講師演奏を聴いたら、おそらく「もうちょっとヴァイオリン、続けてみようかな」と感じると思う。ヴェンゲーロフのCDを聴いてもそうは多分思わないだろうとも・・・

音楽をする喜びは演奏を通して伝わるものだとしたら?「キャッ、楽しい」というものでもないし、根性で耐え忍ぶものでもない。なんだろうね?講師演奏しかできないものってあるのかもしれない。演奏後のロイ先生の満面の笑顔がその答えかもしれない。

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エフォルトレス 

 

ミルシテインは、若い頃の映像でも身体をクネクネと動かさない弾き方だったようだ。それは82歳になっても変わらず。

エフォルトレスという言葉が浮かんだ。エフォルトを感じさせない。力感というのかな、「さあ、頑張るのよ」みたいなものを感じさせない。むろん、練習は頑張っているのだろうが、舞台でオーディエンスに、それを感じさせない。これは黄金時代の流儀なのだろうか?

お爺ちゃんになってからのホロヴィッツの演奏、演奏姿も同じく「エフォルトレス」を感じる。そう言えば、ミルシテインとホロヴィッツ、たしか共演していたはずだ。ビジュアル熱演というのとは正反対の演奏だったのではないだろうか?

人間って、このようなこともできるんだ・・・

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82歳の少年 

 

ナタン・ミルシテインというヴァイオリニスト、この人はショパンのノクターンの実に美しい編曲で知っていた。また、最近よく演奏されるようになった「パガニーニアーナ」の作曲者として。

ヴァイオリニストとして、この人の演奏をじっくりと聴くということは、今まであまりなかったのだが、彼のラストコンサートのCDを聴いて、椅子から立ちあがれなくなるほど驚き、感動してしまった。ラストコンサート、つまり引退公演だったのだろう。ミルシテイン、82歳の時だ。

82歳・・・そうだよね、もう引退だよね、お爺ちゃんだもの。

でもステレオから流れてくる演奏は、お爺ちゃんではなかった。なんと艶やかで若々しいのだろうと・・・

モチベーションが維持できなくなったり、落ち込んだりした時に聴くと、何かを肯定できるような、光をもらえるような、そんな演奏だと思う。

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ビブラート考 2 

 

おハイソと言われる区に居住しているのだが、世間でのイメージとは違い、僕の住む地域は割と庶民的なのではないかと思う。以前は、あの「センベロの街」のある区に居住していた。お酒は飲めないので、せっかくのセンベロの街との縁はなかったのだが、その区にあった天然温泉には住んでいた頃はよく通った。こちらの区にも似たような施設はあるとは思うのだが、やはりどうも「おハイソ」な感じ?

その「センベロの湯」(もちろん仮名)では、まれに歌謡ショーをやっていた。売れない(?)歌手と言っては大変に失礼だが、名前も聞いたことがないような歌手たちのショー。いきなり緞帳が上がり始まってしまうので、最初は驚いたものだ。そこでの歌手たち、皆さん上手なのだ。プロの歌手なので上手なのは当たり前だが、紅白に出場する演歌系有名歌手と比べても遜色なしという感じ?女性歌手は、皆さん大振袖なので、草履を舞台で脱いで足袋だけになり、くつろいでいる(弛緩している?)畳の間に下りてきて、全員に握手をしたりする。「ここまでやるんだ?ここまでサービスするんだ?」と非常に驚いた、いや感激した。でもどんなに上手くても、やはり都はるみではないし、坂本冬美ではないのね。その人とすぐ認識できるような個性がない。あんなに上手いのに・・・

演歌系の歌手なので、当たり前なのかもしれないが、皆さん、適度なビブラートを持っていた。幼児発声の人、つまりノンビブラートで声を張り上げる人は一人もいなかった。

なんというか、Jポップ分野で、ここまでビブラートのない歌手が活躍、台頭しているとなると、日本人の喉に変化でもあったのだろうかと疑ってしまいそうだ。むろん、そうではなく、受けての好みが変わったのだろう。ノンビブラートの発声が、歌手の発声ということになっても、なんの疑問、違和感を感じない人、主に若者が増えたということなのだろう。

でもそうなのだろうか?20歳の人と、ちょっと実験してみた。彼女は今流行りのJポップをよく聴く。僕が苦手な大人数でダンスしながら・・・みたいな歌。あんなのとか、こんなのとか、名前と曲を熱っぽく語ってくれるのだが、オジサンには同じに聴こえてしまうのね。僕が「この人は歌唱力がある」と感じる歌手の名前を言っても、彼女はほとんど知らない。「そんな人知らな~い」

この動画を聴かせてみた。日頃彼女が聴いている歌とはタイプが違うはずだ。バラードだし、ビブラート満載だし。もし、現代の若者の好み、歌を上手いと感じる認識が昔と変化したのであれば、「ダサ~い」とでも言われてしまうのかもしれない。

「えっ?こんなに上手い人聴いたことない。誰?」

そういう反応だった。やはりビブラートと職業歌手との関係は健在なのだ。昔と変わったわけではないのだ。

若者受け(?)する音楽を提供するのは、やはり大人なのだろう。制作会社とかテレビ局とかレコード会社とか、プロダクション等という、提供側の姿勢が関係しているのかもしれない。若者が変わった・・・のではなく、知らない、触れたことがないのだ。受け手は供給されたものを信じる傾向がある。歌ってこういうもの・・・と。これはクラシック界も同様だと思う。コンクールで賞を取った人がピアニスト、教育機関で目指されているような演奏、そのような演奏を皆が目指し、そして同じような演奏を供給する。「ああ、これがクラシックなのね」と。音楽雑誌に頻繁に登場する人がピアニスト、ツタヤのレンタルCDの棚で見つかるような演奏家がいい演奏家・・・それ以外のタイプの演奏に触れる機会がない。辻井君は知っていても、コルトーは知らない・・・フジコ・ヘミングは知っていてもヨゼフ・ホフマンを知らない。

与えられたものを「こういうもの」と受け取ってしまうこともあるだろう。もしかして、与えられたものに供給側の何らかの意図、操作があったら?供給する側は売れて欲しいわけだから。

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