ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

ロックなグリーグ 

 

これ、マッズ・エリクソンというスウェーデンのギタリストの「トロルドハウゲンの婚礼の日」

楽しい・・・

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追憶ごっこ 

 

もう何光年も昔のことになるが、初めてニューヨークを訪れた時、「追憶ごっこ」をした。「追憶」・・・バーブラ・ストライサンドとロバート・レッドフォード共演の恋愛映画のバイブル。涙のラストシーン、プラザ・ホテルの前で撮影されている。

「ああ、ここがあのシーンが撮影された場所なのだ」当たり前だが、映画と同じ風景が目の前にあった。「ハベル・・・幸せなのね」ケイティが彼の髪を触ろうとする。そっとその手を押さえるハベル。一人で追憶ごっこに悦に入っていても、誰も振り向かないのがニューヨークの素晴らしさ!

そのプラザ・ホテル、非常に格式と伝統のある高級ホテルとして知られている。むろん、僕のような庶民が宿泊することはできなかった。格式・・・日本だと京都の御三家とか、修善寺の「あさば」とか、そのような旅館。女将はキリッと和服を着こなし、ソツがない。もてなしつつ、非日常性を演出。グリーグの音楽って、その反対にあるのではないかと。たとえば、草津とか伊香保の庶民的な旅館のような?「今年も泊まりに来ちゃいましたぁ・・・」みたいな?そんな客を心から迎えてくれるような女将?

「トロルドハウゲンの婚礼の日」模範演奏としては、やはりアンスネスの演奏ということになるのだろうか?彼はノルウェー人だし。聴いてみると、たしかに上手い。とてもピアニスティックだ。どこか京都御三家のような格式を感じる。特に「俵屋」という感じかな?

グリーグ、伊香保とか草津とか、熱海とかの大衆的な温かい旅館というイメージ?仲居さんが一緒に泣いてくれるような?愚痴を聞いてくれるような?「お客さんも大変だったんだねぇ・・・」

ここがグリーグの難しさかも?

「トロルドハウゲンの婚礼の日」では、この人の演奏が最も好きだ。

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ノルウェーへようこそ! 

 

昨日のムジカ・ソアーヴェの勉強会の打ち上げ、何故か僕も参加した。周囲はピアノの先生ばかり・・・という状況に必要以上に緊張してしまった。雰囲気はアマチュアのサークルの打ち上げと変わらないのに。僕が自意識過剰だったと思う。多分・・・

僕の隣に座ったのが、ピアノの先生なんだけれど、知っている方。2月に行ったリサイタルの会場のオーナーさんでもあり、同時に日本グリーグ協会の会員でもある。たしかにこの方はグリーグはもちろん、北欧の音楽に非常に詳しい。たとえば、サークルの打ち上げでスヴェンソンなどという作曲家の名前を言っても、きょとんとされるだけだと思うが、北欧、グリーグ専門家であるので、すぐに反応がある。

グリーグ、あまり弾いたことはない。人前では一度も弾いたことはない。ピアノ協奏曲は非常に有名だが、あれはアマチュアにとっては、聴く曲であり、弾く曲ではない感覚がある。あとは抒情小曲集、これも有名だ。こちらはサークルの練習会や発表会などでも、時折演奏されたりするのではないかと思う。

「トロルドハウゲンの婚礼の日」という曲が大好きだ。この曲もそうだし、ピアノ協奏曲などでも感じるのだが、グリーグの曲って、いきなり妖精が舞い踊ってしまうような唐突感というか、難しさがあるように思う。これは民族音楽、ノルウェーの伝承音楽、風土のようなものに関係しているのかもしれない。

これからは(今までもそうだったか?)ピアノライフを楽しみたいと思う。人前での演奏、その日に向かって曲をワシワシと練習して、本番で一喜一憂、それだけのピアノライフにはしたくないなと。別にピアノ博士になりたいわけでもないし、曲や作曲家に関して博学になりたいわけでもない。でも、「なぜグリーグの曲って唐突に妖精が踊ってしまうのだろう?」みたいなことを、気楽に考えてみたりするのは楽しそうだ。何故グリーグのピアノ曲はショパンほど演奏されないのだろう・・・とかね。

グリーグはノルウェー人で・・・このあたりは有名だろうが、そもそもノルウェーという国に関して、あまりイメージがわかない。北欧の国だよね・・・ぐらいはあるんだけれど。

さあ、ノルウェーへの旅。風景を見ただけで、グリーグの曲に何故妖精が出現するのか、なんとなく分かった気がしてくる。気のせいかもしれないが。でも楽しい。

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近況報告 

 

本日は埼玉で演奏してきた。ムジカ・ソアーヴェの勉強会。勉強会という名の演奏会だろうか。研ぎ澄まされたクリスタルな美しい音で構築された、美しいベートーヴェンを聴いたし、追い続けるシューマンも聴かせてもらった。

僕はこの会には全く無関係なのだが、演奏させてもらった。ほとんどがピアノ教師の演奏という演奏会だ。一部、小学生、高校生数人の演奏があったが、あとは、もうほとんどがピアノ教師。その中で何故か僕も「先生の部」で演奏することに不思議な感じがしたが、考えてみれば、発表会の最後の講師演奏の他に、暗譜で人前でピアノ教師がクラシックの曲を演奏する会は珍しいのではないかと思った。いや、実際に演奏をしながら教えているピアノ教師も多いのかもしれないが、なんとなく、あまりピアノ教師の演奏活動そのものが知られていないように感じる。もっとアピールすればいいのに。「演奏し続けているんですよ」と。

「講師演奏をした。緊張して失敗してしまった。こんなに苦しい思いをするなんて。教師自身がピアノを弾くことに苦しさを感じていて、生徒にピアノの楽しさを教えられるだろうか、そう思った。だから講師演奏はしない」

僕は、これ、おかしいと思う。でも、なんとなく「ピアノの先生って弾かないよね、そう思っている人って多いんじゃない?」などと感じている素人は(僕も含めて)多いのではないだろうか?先生がクラシックの曲を暗譜で舞台で弾いているの、見たこと(聴いたこと)ない・・・という生徒もいたりする?

でも、今日のような演奏会もあるのだ。人々に知られればいいと思う。「発表会まであと〇日よ。間に合うかな?」「舞台では誰も助けてくれないのよ?」これらの言葉、弾かない先生だと生徒に響かないような気がする。練習は大変、時間もない、間に合わない?暗譜は?でも弾かずにはいられないの・・・このような教師の姿を生徒は見ているような気がする。自分が演奏するからこそ教えられるのではないかな?違うかな?

僕の2月のリサイタルは、6月30日(土)に変更しました。すでにこのブログのメールフォームから申し込んで頂いた方には個別にメールさせて頂きました。数日前の「葡萄が目にしみるオフ会」の帰りの電車の中で思ったことだ。都合が悪くなり、申し込んだけれど、行けなくなってしまったとオフ会で言われた。それは仕方のないことだと思ったが、二人とも、個人的に「この人には聴いて頂きたかったな」と僕が思う人なので、非常に残念に感じた。それは事実だが、日程変更まではしようとは思わなかった。でも「ああ、聴いて欲しかったな」という気持ちが日程変更の動機の発端ではあったかもしれない。

生きている間に、オフ会やサークルの練習会ではない、いわゆる演奏会で自分は、あと何回演奏できるだろう?そう思った。一つの演奏会を別の演奏会の「予行練習」のようにはしたくないなと。具体的には、11月のピアチェーレの演奏会、自分の演奏会が2月だと、ピアチェーレはどうしても予行練習になってしまうような気がした。3ヶ月しか間隔がないし。僕は死ぬまでに5回は演奏できないと思っている。病に伏せる予定も死ぬ予定もないけれど。一つ一つの会を大切に・・・みたいな感じだろうか?

今、何故かヴィオラの音色(ねいろ・・・と読んで欲しい)が聴きたくなっている。今日のムジカ・ソアーヴェの演奏会の影響か?それとも「自分はあと何回人前で演奏できるだろう?」なんて考えたからだろうか?

ヴィオラ・・・というよりは、プリムローズの音色(ねいろ・・・ね)が聴きたいのだと思う。

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まず歌・・・そして、なんちゃってソルフェージュ 

 

このような動画を見ると、やはり最初は歌・・・なんだなと思う。メロディーを美しく歌う、指で歌う・・・

でも、ピアノの譜面は真っ黒だ。譜読みは面倒。

絶対音感とか、必要なのだろうか?音楽表現と絶対音感、非常に広い意味でのソルフェージュ能力と解釈して、これらのものはピアノを弾いていくうえで必要なのだろうか?

楽譜を見てサウンドが頭の中で鳴る、これは非常に便利だと思う。「まぁ、沢山の音、一つ一つ読んでいかなくちゃだわ」でないとピアノで再現できないとなると、どうしても譜読みは音拾い化してしまうものかもしれない。音が頭の中で鳴る、この能力があると、なんちゃって弾きが容易になる。別に楽譜通りの音でなくても、和音構成が同じであれば、ワーッとハーモニーをなんちゃって~といきなり弾くことができる。ハーモニーの移ろいによる感情の高まりとか、メロディー以外の要素も譜読み段階で再現できる。パッセージは、別に取り出して練習すればいいわけで、全体を掴む、表現ツボは逃さない・・・みたいな練習がいきなりできる。別に和音記号の知識なんて必要ないのでは?

音大ではソルフェージュの授業というものがあるはずだ。もしかしたら、音大生や音大卒の人とアマチュアとの大きな違いは、ここの有り無しではないかと想像するけれど、実際の演奏からは、そこのところが今一つ(全く?)感じることはできなかったりする。つまり、音大生の演奏から「さすがソルフェージュ能力は演奏そのものに反映されるんだわ」などと感じることは少ない(ない?)。

きっと僕には絶対音感というものがあるのだろうと思う。譜面を見てサウンドが鳴るから。でも小学生の前半は楽譜が読めなかった。「あなた、バカじゃないの?」と先生から言われた記憶は鮮明だ。

難関と言われている音大の入試、特に聴音の試験問題などをやってみると、「これは音取りクイズですか?」みたいな、これのどこが演奏というものにリンクしていくのだろうと疑問に思う。あるテレビ番組を思い出す。芸能人のクイズ王番組のようなもの?「博識だねぇ?さすが京大!」みたいな?でも博識と知性は同じではないように、音取りクイズ的なものがソルフェージュ能力であるならば、それは演奏そのものとは関係ないようにも感じる。

フォルマシオン・ミュジカルという、総合的なソルフェージュ能力のような概念があるらしい。パリ音楽院などが大元締めなのだろうか、有名というか。「来週までにモーツァルトの〇番のコンチェルトを弾いてきてね、あっ、カデンツァも書いてきてね」パリ音楽院では普通でも、日本の一般的な音大では「えっ???」となるのではないか?「私、ソリストになりたいんで、作曲家になりたいわけでもないし」みたいな?この概念の違いが、音取りクイズとカデンツァ書いてね・・・の違いなのかもしれないし、表面的な音並べ演奏というものへも関係があるのかもしれない。

アマチュアの場合、むろん「来週までにカデンツァを・・・」は必要ないと思うけれど、楽譜を見てサウンドが鳴れば便利だと思う。

まず、単旋律を片手で歌手のように弾けるだろうか?伴奏を「なんちゃって~」でいいので、いきなりつけられるだろうか?

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category: ピアノ雑感

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禁じられた音楽 

 

マックス・ラーベに関しては、日本ではそれほど知名度は高くはないと思うので、少し紹介してみたい。正式には「マックス・ラーベとパラスト・オーケストラ」となるのかな?独唱のマックス・ラーベと12人の器楽奏者たち。初めはピアノと歌・・・という形態だったらしいのだが、当時の楽譜を発掘し、研究しているうちに、当時のサウンドの再現ということにもこだわり、今のような形になったようだ。「パラスト」というのは、宮殿という意味で、1920年代~30年代のベルリンでは、バーや映画館などには「パラスト」という名称が多かったことからきている。

直立不動で、顔の表情というか、歌以外には感情を表に出さないような舞台姿が実に印象的だ。東海林太郎を彷彿とさせるような?これには理由があって、マックス・ラーベはこう言っている。「笑い話を話し手が笑いながら語ったらおかしいだろう?観客はしらけてしまうはずだ。僕はお客さんに楽しんでもらいたいんだ」

二つの大戦の谷間に咲いた、怪しい花・・・という印象の歌が多いが、これらの曲は、ナチスの台頭により、演奏が禁止されてしまった歴史があるようだ。娯楽の禁止というよりは、これらの曲の作詞者、作曲者の多くがユダヤ人であったのが理由らしい。彼の歌う歌の作者たちの多くは、空襲で瓦礫の下で亡くなったり、あるいは収容所で亡くなっているのだ。マックス・ラーベは、ステージでは必ず曲の作者をアナウンスしているそうだ。尊敬と追悼の意味で。

日本では知られていない・・・と書いたけれど、実は彼は来日公演を行っている。イッセー尾形という人が中心となって「この素晴らしい歌手とオーケストラを日本にも紹介したい」という、どちらかと言えば、聴衆サイドの力で来日が決まったのだそうだ。メジャーなクラシック系の音楽事務所ではなかったというのが、なんだか寂しいような、納得できるような・・・

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単旋律が弾けない 

 

ピアニストには簡単にできて、どんなに卓越した歌手にもできないこと、それは同時に多くの音を奏でること。合唱だったら別だと思うけれど、独唱だったら、これはできない。一人で全部・・・これはピアノの特色だと思う。この特色ゆえに、同時多発のことを行う難しさがある。このあたりが、譜読み=まず音を拾わなきゃ、鳴らせるようにしなきゃ・・・的な方向に行きがちなのだと思う。これはピアノの弱点になる可能性もある。一本だけの線、長い音符、短い音符、高さの違い、メロディーというものを、歌手ほど緻密に捉えなくても、なんとなく「まず譜読みを・・・」でも、やることは沢山出てきてしまう。

まずはメロディーを自分で歌ってみる・・・これはいい練習方法だと思う。人前でだったら恥ずかしくてできないけれど、一人だったらできる。歌うように一本の線をピアノで弾いてみる。音符の連なり、順次に上がっているのか、跳躍しているのか・・・等々に気をつけて素敵に弾いてみる。歌手になりきることが重要。歌ってみて、自分の指にも歌ってもらうのだ。意外と自分の歌に比べて、お指が「ずさん」だったりするものだ。「えっ、単旋律なのに(だから?)素敵には弾けない」みたいな?

ここで卓越した歌手の歌唱を聴いてみる。楽譜を見ながら聴いてみると、ピアノ曲よりも、はるかに音の少ないメロディーだけの楽譜を、実に細やかに歌っていることに気づいていく。

いわゆる「ピアノの譜読み」だったら、見過ごしてしまうような、なんでもない3度の音程などで、歌手は何かしらをしているはずだ。下手な歌手もいるけれど、聴いてみて「あら、素敵」という歌唱であれば、その歌手はなにかしらをしている。ドミというただの3度でも、もう「ミ」の音の歌い方が違うのだ。

自分の指で、ピアノで歌手のような「ドミ」を再現してみる。この段階では自己流・・・ということになるかもしれない。できないかもしれない。結構楽譜の黒い、音の多い曲を弾いているのに、一本線が素敵に再現できない、ただの「ド・・・ミ」がガツンとしか弾けない、こんなこともあるだろう。

ミの音を弾くためのテクニックというものがある。実際にドミの音そのものは出せているのだから、メカニックはあるのだ。でも素敵な「ドミ」にはテクニックも必要となってくる。

レッスンで先生に習ってみよう。具体的なテクニックを伝えてくれるだろう。実際に素敵な「ドミ」を聴かせてくれるだろう。説明してくれるだろう。でも生徒が「素敵なドミ」を求めていなければ、先生も伝えることが難しいかもしれない。

マックス・ラーベというドイツの歌手をご存じでしょうか?第1次世界大戦と第2次世界大戦の谷間、ベルリンに咲いたキャバレーソングを忠実に再現している歌手だ。彼にとっては祖父の時代の歌を歌っていることになる。黄ばんだような楽譜を発掘し、当時のまま、現代風のアレンジなしで再現している。1920年代から30年代の歌が多い。

実に、実に素敵な歌唱だ。とても素敵な「ドミ」ではないだろうか?

まずは旋律を自分で歌ってみる。そしてその旋律を片手で弾いてみる。

マックス・ラーベのように弾けただろうか?弾けたらいわゆる「譜読み」をしてみよう。迷ったら、またマックス・ラーベのように片手で歌ってみよう。

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技術と表現を分けている? 

 

まず音を拾い、つっかえずに弾けるようになり、一応通せる・・・になってから、しかるべき表現を考える。譜読みとは印刷された音符を滞りなく弾けるようにすること、表現とか、そんなことは後・・・

なんだか、おかしいとは思うが、もしかしたら、これは昭和ピアノの遺産なのかもしれない。昭和のピアノ遺産と言えば、まずはハイフィンガー奏法ということになっているが、技術と表現というものを必要以上に分けて考えるというのも、これまた昭和遺産なのかもしれない。この遺産は、奏法と比較してみると、負の遺産であるという認識さえあまり持たれていないような?

テクニックとメカニックという概念の混同のようなものも、技術と表現を分ける風習(?)と関係があるのかもしれない。

「当教室ではテクニックだけではなく、心に響く表現も大切にしています」

言いたいことは分かるけれど、これ、本当はおかしい。テクニックと表現を分けてしまっている。

「テクニックは充分だけれど、音楽的な表現も求めたい」

これもおかしい。テクニックが充分であれば、音楽的になるはずだから。

指が動く、指のアジリティ、あるいはオクターブの連続を楽に、高速に弾ける能力、これはテクニックというよりは、メカニックなのではないか?多くの場合、メカニックのことをテクニックと混同してしまっている。テクニックとは、純粋なる運動、メカニックを音楽表現に結びつけるためのツールを言うのではないか?

オクターブの連続を〇秒で弾ける・・・これはメカニック。オクターブの連続で、なにかしらを表現し、聴き手に「勇壮」とか、そのようなものを伝えられる、これはテクニックになるのではないかと思う。

技術と表現を分けすぎてしまうので、テクニックの本当の概念が浸透せず、メカニックのことを「テクニック」と言ってしまったりするのかもしれない。テクニックと音楽的な表現は分離せずに密接につながっている。

ただ動くようにする・・・ではなく、テクニックを求めるのならば「こう表現したいので、実際には〇〇をこう動かす」のようなものになるのでは?

シフラのトランスクリプション、シフラ本人の録音よりもミスなく〇秒速く弾ききる、これはメカニックの問題で、シフラ本人の演奏より高速だとしても、シフラの演奏よりいい演奏とは限らない。表現を具現化するテクニックは、メカニックとはまた違うように思う。「凄い、速い、ミスもないじゃない?弾いてしまうだけ凄いよね?でもただガンガン弾いているだけかも?」このような場合、メカはあるけれど、テクニックが不足しているから、ただガンガン・・・のように聴こえてしまうのだと思う。

テクニックだけではなく、音楽的表現も・・・ではなく、本当は、テクニックがあればガンガン・・・にはならない・・・だと思う。

このような人の、このような曲の演奏、メカニック、テクニック、音楽的表現というものをどのように捉えればいいのだろう?

お爺ちゃんだからテクニックは若い人よりも劣る・・・ではないような気がする。テクニックにより表現を生み出すのでは?

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葡萄が目にしみる ピアノオフ会 

 

今日は山梨県の甲府でピアノオフ会があり、僕はスーパーあずさという特急列車に乗って甲府に行きました。東京は雨だったけれど、甲府は晴れていて暑いくらいでした。着いてから、待ち合わせた参加者と「ほうとう」を食べました。とても美味しかったです。それから会場に行って、皆でピアノを弾きました。とても楽しかったです。

どうしても「あったこと日記」が書けない。小学生の作文のようになってしまう。実際に上に書いた通りです。

「葡萄が目にしみる」という会の名前は僕が名付け親。甲府という街は林真理子の小説「葡萄が目にしみる」のイメージなので。

やはり参加者各々の演奏についての感想めいたことは書けない。〇子さんのショパンは~でした・・・みたいな文章。それが書けない。自分のことは少しは書けるかもしれない。

サークルの練習会など、2次会などで「どういう練習をされるんですか?」とか「どうしてそんなふうに弾けるんですか?」みたいな質問をされることがある。今までは「歌を聴くから」とか「声楽が好きだから」とか答えたりしていた。歌は聴いた方がいいと思う。それはいつも思っている。ただ、練習方法のようなもの、譜読みと同時に表現ツボを押さえて、そこは楽譜通りにまだ弾けなくても、決して「一応通して弾けてから」とはせず、最初から練習として狙う・・・みたいなことは、言葉で説明しても理解してくれる人はいなかった。

「まずワーッと弾いてしまう。困難なパッセージなどは、なんちゃって弾きでいいから、最初から表現ツボを狙って練習する」「え~、そんなの変・・・だって弾けてないんでしょ?」

僕もパッセージ練習はストイックに行う。日頃の練習では通し練習とかはしない。というより、通したらその日の練習が終わってしまう。早朝とか、夜中に練習するしかないので。「よし、今日は10分しかないから、このパッセージを練習しよう」というのが練習になる。ただパッセージも「ゆっくり」とか「ひたすら反復」ではなく、音を増やしていく練習方法。ドレミファソというパッセージだったら、ドレ、ドレミ、ドレミファ・・・のように増やしていく。増やし方には様々な応用があるけれど、これも言葉では説明しにくいところだ。

ただ、「一応音が弾けてから表現」とかはしない。譜読み段階から表現があるものだと思うから。ドとラ、ただ音を読んで鍵盤を押す・・・ではなく、ドとラの音程のドラマを表現する・・・・みたいな?上手く説明できないが。純粋パッセージ練習と、表現ツボ練習の同時進行みたいな感じだろうか?

まず譜読み・・・というより音拾いを機械的にして、一応「通せる」になってから表現・・・これが普通のやり方みたいで、すごく不思議だ。一応通せる・・・になるまで、曲と出逢った時の想いとか、弾いてみたいという動機、そして共有してみたいという願望、このようなものは譜読み中は先送りになってしまうわけだ。「そのようなことは楽譜が弾けてから」のように。

弾けてから・・・それはいつ?本番の2か月前と決まっているの?最初に音を出した瞬間、その曲を弾きたいと感じた瞬間、その曲に感動した瞬間から、かなり長い期間「譜読み中だから、まだ弾けてないし」状態が続く。いつのまにか、最初の動機が「ここがスムーズに弾けますように」とか「この部分をミスなく弾けるように」と変わっていってしまう危険性はないだろうか?人前での演奏というもの、つまり本番というものがある場合だと、その危険性はより大きくなるような気がする。

音楽・・・絶望して死にたくなるほど辛かった時、無条件で自分を包み込んでくれたものではなかっただろうか?またある時は、この世のものとは思えないほどの哀しさ、切なさを心に感じ、「ああ、演奏してみたい」とか「ああ、このような感情に私も触れてみたい」と心の奥底で感じたから、だから弾いているはずでは?「ミスなく・・・」ではないはずなのに、いつのまにかそこに向かってしまう。

今日は少人数だったし、宴席の場でもなかったから、つまりピアノという楽器があったから、自分の想い、つまり「ワーッと表現ツボを押さえつつ、なんちゃって弾き演奏」を実践してみた。これだけだと何のことだか不明だと思うが、言葉では説明できない。

タニア・リベルタの海の底に引きずり込まれるような歌唱を聴いている。

「まずは楽譜通り、正しい音程でメトロノームに合わせて歌いましょう」から始めて、「歌えるようになってきましたね、では表現をつけて歌ってみましょう」という道を通ってきた歌唱だろうか?そんなことを考えながらこの歌唱を聴いている。

やはり、やはり普通の「オフ会報告」のような文章は書けないんだな。

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パフさんの素晴らしい言葉 

 

大変恥ずかしいことに、僕はフルート奏者のエマニュエル・パユの名前をエマニュエル・パフだと長い間思っていた。何故だろう?おそらくピアニストのスティーヴン・ハフの名前と、どこか一緒になってしまい、パユ→パフと思い込んでしまったのだと思う。CDのジャケットやネットなどで彼の名前が黒々と「パユ」と書いてあっても、僕は「パフ」と堂々と読んでいた。

ああ、サークルの打ち上げなどでパフ・・・とか言わなくてよかった。ブログにもフルート奏者のパフと書かないでよかった。

さて、そのパユさんだが、舞台での演奏に関して、心の持ちようというのかな、とても素晴らしいことを言っている。彼の言葉を受け入れられるかどうか、そこで精神の若さが試されると思う。

「だってパユさんは、ベルリン・フィルの首席奏者で、ソリストとしてもCDなんかバンバン出している有名演奏家でしょ?パユさんはそうかもしれないけど、自分には当てはまらないわ」

僕も一瞬、そのように感じるところもあった。でも、「私は○○」という固定観念に縛られてしまうのが、精神的な老いだとも思う。少しでいいから、もしかしたら自分にも当てはまる?・・・とか、いい考えだから見習ってみようかしら・・・とか思えたら最高なんじゃないかな。

「演奏は音楽のエネルギーの解放。だから奏者は聴き手と共有したくなる。多くの人に聴いてもらいたい、共有したいと思う」これは演奏の動機、事始めであると同時に、究極の目標でもあるような気がする。

演奏って、上達してゴール・・・という一直線というものではなく、サークルなのではないかと思うことがある。動機、譜読み、このような事始めがあり、そこには自分が感じたものを共有したいから練習するという想いがある。練習を重ねて、演奏の本番の時、それは練習の成果をミスなくこなすことではなく、最初に戻るんだ。他の人とも共有したい・・・という想いに。だから人前で緊張して、本番の会場が火事になればいいのに・・・と思いつつ、胃が痛くなりながらも一人舞台で弾くのだ。なので演奏って定規みたいな直線ではなく、完全なる円形になる。円の最初でつまづくと、例えば日本人の好きな(?)「どうせ自分は○○だから、それなりに・・・」スタンスで練習を始めてしまうと上手くいかないように思う。

さて、本番。舞台で一人・・・

パフさん、改めパユさんはどう言っているだろう?

「舞台でのその瞬間、その曲を世界で一番上手く演奏できるのは、あなただけなのだ・・・」

この言葉、いいねぇ・・・

でもそうだよね。舞台には自分一人なんだから。

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ふたりの日曜日 

 

個人的に平尾昌晃の曲で思い入れ(?)の深い曲がこれ。

当時のアイドル、天地真理に提供したこの曲。この曲はオリコンの1位ではなかったんですね。オリコン3位。3位なので大ヒットには違いないけれど、天地真理がオリコン1位を連発していた時だけに、谷間の一曲という印象がある。

とは言え、口ずさめる人、多いのではないかな?昭和歌謡だなぁ・・・と思う。天地真理のイメージにも合っている曲だと思う。

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二人でお酒を 

 

梓みちよ、「こんにちは赤ちゃん」の大ヒットで知られる。この曲のイメージ、いわゆる清純派のイメージが梓みちよには負担だったようだ。実際には10代の頃からお酒や煙草が大好きだったそうで・・・

梓みちよのイメージチェンジ、平尾昌晃が提供した、この曲からだったのではなかろうか?

この曲から連想するのは、小学校3年生説。平尾昌晃は作曲家、平尾貴四男の甥にあたる。もしかしたらクラシック畑ni進んだ可能性もあったと思うが、そうはならなかった。小学校3年生の時、ある将校から貰ったジャズのレコード、このレコードが平尾昌晃の運命を決めた。

「二人でお酒」という曲、どこか西洋っぽい雰囲気を感じたりする。五木ひろしに「よこはま・たそがれ」「夜空」を提供した人とは思えないような、どこか、いつもの歌謡曲とは雰囲気が異なるような?一枚のセピア色のジャズのレコード、小学生の時に出逢った西洋・・・そのようなものを感じる一曲だ。

梓みちよ、1943年生まれということだ。歌唱力と共に、その若さに驚く。この曲は平尾昌晃の名言をも連想させる。シンプルだけれど、とてもいい言葉だと思う。

「いつまでも青春」  平尾昌晃

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瀬戸の花嫁 

 

この曲がヒットしたとき、僕は小学生だった。

「さあ、瀬戸の花嫁を歌いましょう」と音楽の授業で習ったことはない。誰かから教えてもらったこともない。でも何故か今でも歌える。小柳ルミ子のファンであったわけでもないのに。

この曲は高齢者たちも歌える。認知症の人も歌える。

これは昭和文化と言ってもいいのではないだろうか?

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霧の摩周湖 

 

作曲家の平尾昌晃が亡くなったのだそうだ。

弟子の一人、畑中葉子とのデュエット「カナダからの手紙」を思い浮かべる人は、我々の年代だと多いと思うけれど、他にもいい曲が沢山あったと思う。昭和を彩った名曲というのだろうか。

どの国にも歌謡曲のような、その国の人だったら知っているような曲はあるのだろうと思うが、日本の歌謡曲の特色としては、やはり高度経済成長期、つまり昭和40年代あたりから、一気に花開いたような、哀しい曲であっても時代は上昇していくんだ・・・という勢いのようなものがあったということだろうか。テレビの普及、世の中に歌謡曲が流れた。ファンだけではなく、誰でも聴いたことのある曲、歌謡曲というものは、日本の文化となった。

ピアノブログの世界では平尾昌晃の功績はスルーされてしまうかもしれない。

一つの文化が終わったような、そんな寂しさを感じる。その文化を現代は引き継いではいないという寂しさも感じている。

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仲間 

 

ピアノって練習も孤独だし、舞台に出ていく前も孤独だけれど、舞台で弾いてしまえば、孤独ではなくなる時もある。何というのかな、一体感のようなものを感じる時もある。そこまでいかないことも多いけれど、感じたときは、まさにエクスタシーのような・・・

聴いている人がピアノを弾くとか、弾かないとか、こちらが知っている人だとか、そのようなことは一切関係なく、弾いているものに対して、返ってくるものがある。「そうだね・・・」みたいな?うまく説明できないけれど・・・

弾いている人は、ただ音符を追っているわけではない。その中に必ず「そうだね、そうだよね」と共感する部分がある。だから弾いているのだ。曲との「そうだよね」が、今度は弾いている側が「そうだよね」というものを受けるのだ。

仲間・・・ということなんだと思う。「ここ、難しいけど、好きなところなんだ」「そうね、そこ、いいよね」みたいなものが返ってくる。

人は、さまざまなもの抱えて生きていて、でもそれは自分一人ではなくて・・・

「そうだね」「そうだよね、そうなんだ・・・」

ピアノを弾くということは孤独ではない。仲間がいれば・・・

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孤独 

 

演奏前は緊張する。していないように見える・・・という人はいるかもしれないが、緊張しない人っていないのではないかな?

緊張しないための方法というものを考えるよりは、緊張してどうするか・・・を考えた方がいいような気がする。

① 本番とか、今この瞬間・・・ではなく、曲と出逢った、ときめきの時を思い出す
② 人のミスって自分が聴き手だったら気にならない。自分のミスも同じ
③ そもそも緊張しないということは、弛緩ということでは?

「~になったらどうしよう?」もちろん逃げ帰ってくるわけにはいかないので、②を感じてみる。「あの部分、練習では弾けたんだけどな」①を感じてみる・・・のように対処は色々とあるかもしれない。

ソロの場合と、共演者がいる場合では、緊張の種類というものも違うんじゃないかな?舞台上の人数が沢山いれば緊張しないということではないだろうが、例えばフィギュアスケートのシングルの試合、サッカーの試合、選手の緊張の種類は異なるような気はする。

ソロの場合、圧倒的な孤独感、これが緊張を生むのでは?何があっても自分一人なのだという孤独感。

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練習 

 

リストはグリーグのコンチェルトをグリーグの目の前で初見で見事に弾いてしまったらしい。アルゲリッチは隣室から聴こえてきたプロコフィエフの3番のコンチェルトを耳だけで覚えてしまい、それだけで弾いてしまった・・・

このようなエピソードって、都市伝説のような?本当だろうか・・・などと思ったりもする。でもまあ、本当なのかもしれない。アルゲリッチは、プロコフィエフの3番よりも、はるかに音の少ない曲などは、練習などしなくても弾けてしまう?ショパンのソナタとか、聴いただけで弾けてしまう?

やはり練習はするのではないだろうか?危険なのは、難なく曲を弾けている人は、そのような何かしらの才能があると思ってしまうこと。「自分とは違うんだわ」みたいな。そうではなく、他人には思いもよらない練習をしていたりするんじゃないかな。

練習というものは、継続性、習慣性を持つものだから、ある意味危険なのだ。本人は一生懸命練習しているつもりであっても、どこか道からそれてしまっている。でも本人は気づかない・・・みたいな?

音楽的な表現というもの、自分でも不足していると思う。でもどうしていいのか分からない。なので、とりあえず難しいパッセージを練習する。実際に弾けないところは沢山あるし、練習すべき箇所は沢山ある。あたかも、機械的にでも繰り返しパッセージを練習していれば、音楽表現の神様が、いつか舞い降りてくるかのように練習する。でも、音楽的表現のための練習というものは、別にあったりして。茨道を通った人のみが音楽的経験に目覚めるということでもなかったりして。その部分は突き詰めてしまうのが苦しいので、とりあえず反復練習をする・・・するしかない。これは辛いだろうと思う。

機械的な練習ばかりしていると、いつのまにか「保険練習」のようになってしまう危険性もある。この部分が心配だから、本番で失敗したらイヤだから、とにかく繰り返し練習するのように。本番での安心感を練習で買う・・・のような?本番では緊張し、100パーセントの力は出せない。なので日頃から120パーセント弾けるようにしておくのだ。このような考えって、賞賛されたりするのではないかな?でも安心を買う・・・みたいな保険みたいだ。

本番でも練習の時と同じように弾けるようにする。徹底的に。でも、本番は自宅での練習とは異なる要因が沢山ある。着ている服がいつもと違うし、靴も違う。聴いている人がいるということも違うし、楽器も空間の感覚も異なる。いつもいつも「同じように・・・」と念じて練習していたら、同じではなくなった時にどうしたらいいのだろう?

「あんなに練習したのに・・・」この時の落ち込みようったらない。あんなに・・・がいけなかったのかも?「同じように」ではなく「違った場合どうするか」という対処に欠けていたのかも・・・

ピアニストも練習する・・・

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涙への信頼 

 

「プロじゃないし」「音大なんて出ていないし」「まだピアノを再開して間もなくて初心者だし」

現在の立ち位置のようなものはあるだろう。その人それぞれの。でも皆同じではないかと思うことがある。それは演奏、音楽を聴いて心が動くという摩訶不思議な現象。

「この曲を聴くと涙が出てしまう」「なぜこんなに哀しくなってしまうのかな?」「ああ、もうどうしていいか分からないぐらいにこの演奏が好き」みたいなこと。

私はチェルニー30番だから、30番程度の感動、誰それさんはショパンのエチュードを弾いているから、ショパンのエチュード仕様の感動があるんだわ。こんなことはない・・・と思う。

純粋に鑑賞者として心が動いた、ここに音楽歴での差はないと思う。むろん、経験や訓練によって聴き方が違ってくる、深く聴こえるというか、それまで聴こえなかったものが聴こえてくるということはあると思う。でも、初心者はこれぐらいとか、上級者はそれなりの感動とか、そんなことはないと思う。音大生とアマチュアの感動能力の差というものは、僕はないと思う。あるとしたら、個人的な差・・・ではないかな?

フレイレだから、自分が受けた感動を、このように、さらに他人に渡せるのかな?フレイレじゃないとダメなのかな?感動した、聴いて涙したということは、実は凄いことなんじゃないかな?

信じるということかもしれない。自分を導いてくれる師を信じる、涙溢れた自分を信じる・・・

ピアノに関して、死ぬときに「やっておけばよかった」と後悔するのは、この部分かもしれない。

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レパートリー 

 

ピアノ、クラシック音楽全般について素人の人。厳密には僕も、そしてこのブログを読んでくれる人も、アマチュアの人が多いと思うのだが、そのような意味での素人、プロですか、それとも素人ですか・・・という意味での素人ではなく、クラシック音楽に全く日常生活において接点のない人。「エリーゼのために」を聴いたことはある。「あっ、これ知ってる」でも作曲者を知らない。「えっと、チャイコフスキー?」みたいな?「白鳥の湖?えっとシューベルト?」みたいな人。

統計から考えてみると、毎日通勤電車の中で会う人たち、ほとんどの人が、このような素人ということになる。ピアノを習い、サークルに出席し、日常的にピアノオフ会などにも馴染んでいると、ついピアノを弾く人に取り巻かれてしまったりするけれど、ピアノを弾いている人は全体からするとごく少数なのだと思う。つまりマイノリティ???

素人さんって、ピアノを習っている人は、なんでも、どのような曲も弾けると思っていたりする。これは困る。「ねえ、幻想即興曲弾いて!」「リストの・・・何だっけ、愛の夢、それ弾いて!」

「弾いてと言われても・・・」

ピアノ教師なんか、きっと素人さんは「先生なんだから何でも弾けるのよ」と思っている人は多いのではないだろうか?僕だって○○流の生け花の師匠とか、なんでも知っている、お花については、できないことはない・・・みたいに思ったりもするもの。

レパートリー・・・実は持っていない人、プロは別として結構多いのではないだろうか?別に人前で暗譜で完璧に・・・ということではなくても、「えっと、今習っている曲は譜読み段階だし、発表会で弾いた曲は忘却の彼方でもう弾けないし。あっ、この間のレッスンでハノンが合格したから、スケールのヘ長調だったら弾けるわ」

これはちょっと寂しい。ハノン・・・ではなくても、チェルニー、この間合格したから〇番だったら弾けるかも・・・これもちょっと寂しい。

何か、いつでも弾ける、自分の惚れた(!)曲があっていいように思う。「ねぇ、ピアノ習ってるんでしょ?何か弾いて」と言われたら弾ける曲。つまりレパートリー。

僕の経験では、アメリカ人って、そのようなことに関して屈託がないというか、おおらかというか。クリスマスや感謝祭などで、ピアノがあったりすると「ねぇ、弾いてよ」とか、よくある。その時に「実は習ってはいるんだけど、譜読み段階でぇ・・・」とか「そんなぁ、人様にお聴かせできるようなもんじゃなくってよ!」ということは少なく、何か弾いてしまう人が多い。その演奏が「譜読み中ですか」のようなものであったとしても(そのようなことは多かったように感じる)、少なくとも「実に楽しそう」ではあった。別にコンクールでもないのだから、それはそれで羨ましいと思ったりもした。

「なんで自分は弾けないとか、下手だからなんて言うんだ?」などと叱責されたことさえある。

文化の違いと言ってしまえばそれまでなのかもしれないが・・・

素敵だな・・・そう思ってピアノを始めた、再開したのであるのならば、その「素敵だな」を他人と共有できたら楽しいのではないだろうか?

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時空を超えて 

 

音質は決して最良とは言えない。中にはノイズの彼方から聴こえてくる演奏さえある。録音技術上の合成、お化粧のようなことも、未発達だったと思う。どこか一発勝負のような録音、演奏。

そのような時代の演奏が時空を超えて、100年の時空を超えて入り込んできてしまう。

感嘆してしまう・・・というよりは、自分が隠しているような、苦しくて押さえ込んでいるような感情をズバリ言い当てられてしまうような?

こう感じる。「なぜ、あなたは僕が隠している、人には秘密にしているような感情を理解できるのですか?」と。

巨匠と呼ばれているから聴くのではない。時空を超えた共感に酔いたいから聴くのだ。

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難しさを感じさせない美学 

 

ピアノロールというものは、どれだけ演奏者の神髄を再現しているのだろう?ピアノロールでは本当のところは分からないという意見もある。そうなのかもしれないが、このローゼンタールのダブルのエチュードのピアノロール、例えばショパン・コンクールでこの曲を弾いた、どのコンテスタントたちよりも闊達、機敏に思えるし、難曲と感じさせない軽さがある。僕には、現代のピアニストの演奏、ユーチューブ、CD含め、ローゼンタールのこの演奏を超えている人は思いつかない。

ミスのなさ、単純な速さという意味では、同じように弾いている人はいるかもしれないが、軽さに欠ける。音の弾き分けというのかな。ダブルのピアニシモが、これほど美しいとは思わなかった。

現代のピカピカのピアノとは、楽器も異なるのかな・・・と感じたりする。敏捷、繊細な楽器だったのかもしれない。

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「えっ?今のトリプルアクセルだった?」という演奏 

 

浅田真央選手、彼女がジュニアの頃、初めて観た時、こう思った。「なんて軽々とジャンプを跳んでしまうのだろう?」と。「えっ、今のジャンプ、もしかしてトリプルアクセルだった?」みたいな?簡単そう、軽そう・・・という印象を持った。同じような印象を往年の巨匠の演奏、音に感じるのだ。軽々としていて、どんなに難所であっても、これでもかっ・・・という力感を感じさせない。おそらく巨匠たちも練習を重ねたのだろうが、その痕跡を聴いている側に一切感じさせない。いとも簡単(そう)にコロコロと弾いてしまう。そこが好き。

今の主流の演奏って、浅田ジャンプと正反対のところにあるような気がする。長いジャンプまでの助走、そして跳ぶ。会場が一瞬緊張する。そしてなんとか成功。「あ~!!!成功ですっ!」みたいな?そんな演奏。ドラマ性はあると思うの。でもコロコロ・・・みたいな軽さに欠けているような?緊迫感(おクラシック感?)というか、そのようなものが必要以上に強調されるみたいな?

完全に個人的な好みなのだと思う。僕が子ども時代、メカニカルな完璧さということで、まず名前が挙がったのがポリーニだった。今だったらアムランがその地位を獲得しているだろうか?もちろん両者とも、音楽的に変・・・とか、嫌い・・・とかは思わないし、立派な演奏だと思うのだが、「凄~い!」とかは感じても、あまり「素敵♡」みたいなことは感じない。「ピアノを弾いているのだったら誰もが認める立派な演奏を聴くべき」と言われても、音楽を聴く時は完全に鑑賞者であり、あまり「お勉強」みたいな気分で聴くことはないから、どうしても「キャッ、素敵な演奏」と感じたいと思うのだ。「立派ねぇ」とか「凄いよねぇ」とは鑑賞者としてあまり必要としていないのだと思う。それではいけないのかな・・・などと(たまに)思ったりもするけれど。

そのような意味で、現代のピアニストではスティーヴン・ハフが好き。彼の演奏は素敵だもの。そして往年組のような、軽さというか、音はクリアなんだけれど、変に重油のように重くない。そこが好き。

「絶対、これって真っ黒な楽譜だよねぇ???」というような超絶技巧の曲でも往年の巨匠の演奏は、軽さ(これは重さの反対語の軽さということでもない。でも他に言葉が見つからない)がある。コロコロ・・・コロコロ・・・

これって、重油、鋼鉄の音で弾くよりも難しいのではないだろうか?「えっ?今のトリプルアクセルだった?」の方が「さぁぁぁぁ・・・トリプルアクセル・・・降りましたぁぁぁぁ!!!!」よりも難しいのではないだろうか?

ショパンの弟子にカール・ミクリという人がいた。この人のお弟子さんたち、彼らは便宜上(?)ミクリ派などと呼ばれたりするが、彼らの演奏を聴くと、ショパンの伝統がどうたらとか、正統性がどうたらとか、そのようなことよりも、まず「音の軽さ」に聴き入ってしまう。

アレクサンドル・ミハウォフスキ・・・小犬のワルツ(によるパラフレーズ)を弾いている。これ、相当真っ黒な楽譜なのではないだろうか?でも空中に舞うような軽さがあるような?力感を感じさせない、大変そうと感じさせない。

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セピア色のトリプルアクセル 

 

「ピアノの知識と演奏」(雁部一浩著)というピアノの本の、はしがきに、いきなりこのような記述がある。

「現代の多くの演奏を往年の巨匠たちに比べると、その芸術性は勿論のこと、表現技術に於いてさえ及ばないのではないかというのが偽らざるところです」

芸術性・・・というところなら分かる気もする。でも技術も?えっ、そうなの?この氏の記述を不思議と思う人も多いかもしれない。往年の巨匠、コルトーよりは現代のスターの方が、少なくとも技術はあるのでは?こう感じる人はいるかもしれない。

たとえば、どの音大でもいいけれど、昭和10年度の卒業演奏会と昨年の卒業演奏会のプログラムを比較したとすると、昨年の卒業生の方が、難曲を演奏している人が圧倒的に多いと思う。よく言われる。昔は弾くだけで注目されたような曲も、今は誰でも弾く・・・と。

これは技術力の進歩というよりは、技術の底上げなのではないか?フィギュアスケートのジャンプも同じような気がする。昔は2種類の3回転がプログラムに入れば「おおっ・・・」という時代もあった。でも今では2種類では、お話にならないはずだ。

「ほら、技術は向上しているんじゃない?ピアノもそうよ!」

これは技術・・・というより、誰かが難易度の高い技を成功させたら、その技が他の選手にとっても、成功させるべき技という基準になっていくということではないだろうか?ピアノもこれと似ているのではないかな?誰かが弾けば、他の誰かも弾くようになっていく。底上げが成されていく。

現代の女子シングルの選手のすべてが、ジャネット・リンよりも技術は数段上であると、僕は言い切ることはできないと思う。ジャネット・リンは5種類の3回転とか、3回転ー3回転のコンビネーションなど、必要のない時代の選手だった、そういうことではないだろうか?

1980年代の初めに活躍したアメリカの選手、ティファニー・チンという選手がいる。1984年のサラエボでのオリンピックの演技が印象深い。この選手、トリプルアクセルを練習では成功させていて、動画にも鮮やかな3回転半のジャンプが収められている。でも試合ではこの技は入れていなかったはずだ。試合では成功させる自信がなかったからだろうか?そうではなく、トリプルアクセルを入れる必要がなかったからではないだろうか?そんな気がしている。

ピアノの技術の進歩、これは全体的なことではなく、難曲を弾ける(弾く)人の割合が多くなったという、部分的な、底上げのようなことなのではないだろうか?

ちなみに、トリプルアクセルを競技会で初めて成功させた選手は、カナダのヴァーン・テイラーだとされている。1978年のことだったと記憶している。それはそうなのだが、テイラー選手より前の時代の選手は、誰もトリプルアクセルが跳べなかったのだろうか?そのような技術を持っていなかったのだろうか?技術的に劣っていたのだろうか?

往年の選手にデヴィッド・ジェンキンスというアメリカの選手がいた。セピア色の時代の選手という印象を持ってしまう。彼は1957年から世界選手権、3連勝している。1960年のスコーバレーでのオリンピックで金メダルを獲得し、そして引退している。

大昔の選手だとは思う。おそらく、屋外での試合も経験したような、そのような時代の選手だったと思うし、採点も電光掲示板ではなく、ジャッジがリンクの中で採点札を掲げるような、そんなレトロな時代の選手だ。

この動画、1957年とあるから、ジェンキンス選手が初めて世界チャンピオンになった頃の動画だと思う。

「あれ?軽々とトリプルアクセルを跳んでいる?」

試合で入れる度胸がなかったわけではないだろう。プログラムに入れる必要がなかったのではないだろうか?

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誇りのジョージアン・ダンス 

 

ヨーロッパの人って、僕の限りある経験では、物凄く「自分たちの独自性」というものを重んじるような気がする。そのような気迫がある。これって我々日本人には、なかなか理解できないようなことなのかもしれない。北米に住む人もヨーロッパ人とは、やはり異なるような印象を持つ。

「この山、この河の向こうは異なる言葉を話す、異なる文化を持つ人々がいる外国なのだ」

この緊張感、やはり並大抵のものではないのでは?むろん、ヨーロッパの多くの国で戦車が走っているわけではないし、銃撃戦があるわけではない。日本のように一見平和で長閑にも見える。でも緊張感を感じるのだ。「何かあれば、大国に吸収されてしまうかもしれない、侵略されてしまうかもしれない」のような?この緊張感が自国の文化を死んでも守らなければ・・・みたいなものにリンクしていくのではないだろうか?音楽とか、民族舞踊などにも、それは反映されていく。

旧ソビエトに所属していた国、アルメニアとか、ジョージア、このような国は、ソビエト時代には、自分たちの独自の文化を押さえ込まれていたように想像する。もしかしたら、ソビエト遺産として、各々の文化は中央から守られていたのかもしれないが、やはり自分たちの血、ルーツ、誇りのようなものが各地で燃え上がってしまうと、モスクワとしては非常にまずかったのではないかとも思う。だからこそ、人々は自分たちの文化を守り抜いた、そのようにも感じる。押さえ込まれていたからこその、熱いまでの、痛いまでの誇りを感じるのだ。

僕は国籍はアメリカでも、移民であったり、ヨーロッパに住んでいる人から、そのような気迫を感じることが多かった。ニューヨークに住むポーランド移民とか、イタリア人とか。ワスプのようなアメリカ人から、そのような気迫は感じない。

「君たち日本人は侵略された経験なんかないじゃないか!」この言葉を今も非常に重く感じる。たしかに僕は、日本語が他国から禁止されるとか、歌舞伎が上演禁止にさせられるとか、そのような危機感を今まで一度も感じたことはない。このまま日本という国はそのまま変わらず存在していくと思っている。そうは素直に思えない国、そのように思えないような歴史を重ねてきてしまった国もあるのだ。

これはジョージアン・ダンス。国立のバレエ団が独自の民族舞踊を守り抜いている。「これは自分たちだけの踊りなのだ、これは自分たちのものなのだ!」そのような気迫を感じる練習風景だ。

国立のバレエ団にしては、練習場の床が傷んでいるような?国のトップの舞踏家たちが、このような床で練習し、踊っている。日本や、その他西欧諸国、大国だったら、その国のトップのバレエ団だったら、もっと磨かれたような床、恵まれた環境で練習しているのではないかと想像する。日本のバレエ団の練習場とか、カルチャーセンター、ダンススクールの床、ジョージアのそれよりは少なくとも立派なのではないだろうか?

日本よりはジョージアは貧しいのかもしれない。経済大国でもないのかもしれない。でも守り抜いていくような、気迫、そして自国の文化への誇りを、この踊りから感じるのは僕だけだろうか?

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ジョージアという国から・・・ 

 

吉祥寺という街、なぜか雑誌などに取り上げられる機会も多く、女性に人気の街らしい。住みたい街としても常に上位みたいだ。吉祥寺にはディスクユニオンがある。この空間だけ「お洒落な吉祥寺♡」ではなく、オジサン空間。街自体は個人的にはあまり好きではない。若者がプ~ラプラしていて、なんだかチャラい感じ?人も多いし。

愛する(?)「ディスクユニオン」以外にも吉祥寺で好きな場所はあったりする。駅からすぐにある「カフェ・ロシア」という店。名前から想像できるように、ロシア料理をカジュアルな感じで堪能できる店。僕の目的はロシア料理ではなく、グルジア料理。もしかしたら本場の味とは異なるのかもしれないが、3000円程度で異国情緒を味わえる穴場・・・なのだ。店員さんに相談しながらメニューを決めるもよし、「グルジアセット」をオーダーしてもよろしい。

実はグルジアという国、少し前から「ジョージア」という名称に変わっている。個人的にはジョージア・・・だと、どうしても米国のジョージア州を連想してしまう。ジョージア料理と言われると、旧ソ連のジョージア料理ではなく、アメリカの南部料理、甘いソースとか香ばしいフライドチキンを連想してしまうのだ。なまず料理とかね。

グルジア・・・という名前、ロシア由来らしく、多くのグルジア人は、この「グルジア」という言葉が好きではないらしい。ロシア由来というのは、諸説あるらしいが、歴史的にもグルジアとロシアは、あまり仲がいいとは言えない感じだ。だから、以後はジョージアという名称で統一したいと思う。缶コーヒーなども連想してしまうが・・・

ジョージア、首都はトビリシ。写真で見る限り、素敵なところだ。全体的にショージアという国は絶景が多いようだ。料理の他にジョージアと聞いて思い浮かぶのはスケート選手。エレーネ・ゲデヴァニシヴィリという選手。最近は戦績こそ振るわないようだが、実はこの選手が好きだったりする。情熱と柔軟性・・・というところかな?

初めてゲデヴァニシヴィリ選手を見たのはトリノオリンピックでのSP。正直、こんなにポテンシャルの高い、可能性に満ちた選手が小国に存在していたのだと驚いてしまった。今見ても、このSPは素晴らしいと感じる。

もともとは、ロシアでタラソワ・コーチに習っていた。でもジョージアとロシアの国交が上手くいかなくなり、彼女はロシアにいられなくなってしまった。トリノの頃は、もうロシアを離れていたと思う。ジョージアはスケート環境が良くないらしい。しばらく母国で練習していたらしいが、やはり外国で練習するようになった。でも、各地を転々とするような、コーチも次々変わるような、そんなスケート人生を送らなければならなくなった。その割には、優秀なコーチの元で、いい戦績を残してきたように思う。ジャンプのミスが目立つようになっても、僕はこの人のスケートが好きだ。「表現したい」という欲求をすごく感じるから。

ゲデヴァニシヴィリ選手、正式には、まだ引退は表明していないのでは?たしか浅田真央選手と同年代では?

もし・・・ということは考えてはいけないのだろう。もし、彼女がロシアで練習し続けていたら?タラソワ・コーチの指導を受け続けていたら・・・考えてはいけない。でもスケートには全く関係のない、国同士の都合で、彼女のスケート人生が変わってしまった部分もあるだろうと思う。

もしかしたら、ジョージアの代表として4回目のオリンピックに出場するかもしれない。出場できなくても、そしてジャンプで転倒しても、僕はこの選手がすごく好きだ。

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憎悪と浄化 

 

生きていれば負のエネルギーに遭遇してしまうことはある。自分が攻撃されたわけではなくても、攻撃された人が知らない人、遠い異国の人であっても、負のエネルギーというものは強大なので、落ち込んでしまいそうになることもある。そのような時には浄化作用が必要になってくる。憎悪ではなく、愛を感じて浄化する。

カリフォルニア州でプライド・イベントがあった。C.J君は両親と共に初めてこのようなイベントに参加した。母親のローリーさんは「私はジェンダー・クリエイティヴな息子を愛しています」父親のマットさんは「息子はドレスを着て化粧をします。納得してください」というプラカードを掲げ、化粧をしたC.J君と共に写真に写った。両親が理解してくれる、これはC.J君にとって幸せなことではないだろうか?

その一家に有名俳優からツイートがあった。ジェームズ・ウッズ。個人的にはファンではないが、いぶし銀のような俳優という、いいイメージがあっただけに、彼のツイート、これは攻撃、憎悪と言ってもいいとは思うが、非常にショックだった。ジェームズ・ウッズはこのような言葉をこの一家にツイートしている。

「素敵だね!この哀れな子が成長するまで待てば、彼はあんたらが何をしたか気づき、あんたら二人が何を切り取ってガレージの冷凍庫に入れたのかが分かるだろうよ」

イベント初参加のC.J君は周囲の人から「君は最高だ」「いつでも本当の自分でいるんだよ」という言葉をもらい、この日、両親にこう言っている。「人生で一番いい日のひとつだった。連れていってくれてありがとう」と。

おそらくC.J君は「自分は普通ではない」「自分はおかしいのでは?」と悩んで生きてきたはずだ。でも、まず両親が認めてくれた。受け入れてくれた。さらに見ず知らずの他人までが自分のことを認めてくれた。「本当の自分でいるんだよ」と・・・

有名人からの攻撃は相当ショックだったのではないかな?

心ないジェームズ・ウッズの言葉にレスをした有名人が続いた。やはり米国の俳優、ニール・パトリック・ハリスはこうツイートいている。「ウッズさん、あなたは無知で下品ですね。私はこの一家の友達です。あなたは何も分かっていないのです。そして恥を知るべき」同じ有名俳優からリツイートがあったのが、一家にはせめてもの幸いだったかもしれない。ニールのような有名人からのメッセージが続いた。

アンディ・ミルダー(俳優)「あなたはいつ自分の人間性を切断してガレージの冷凍庫に詰め込んだのですか?」
イアン・ブースビー(コメディアン)「昔は同性愛者について同じことが言われていた。そして多くの人が死んだ。同じことを繰り返すな」
ニコラス・ファラッチ(放送作家)「このような憎悪に満ちたコメント、無知が自己嫌悪の炎を燃え上がらせることになるんだ。子どもは受容と自由があってこそ育つのだ」

負のエネルギー、憎悪のエネルギーは愛で浄化する必要がある。

キース・ジャレットは1996~1999年の間、「慢性疲労症候群」を患っていた。周囲からは、さぼっている・・・のようにしか見えない病気だ。本人は辛いのではないだろうか?いかにも病気・・・という外見ではないだろうから、理解を得にくい。

「ピアノの蓋を開ける力もなく楽器を見ることさえできなかった。音楽を聴けばそれだけでエネルギーを吸い取られてしまう。まるでエイリアンに身体を乗っ取られたようで、ずっと椅子に座ってただ芝生を眺めていた」

ある日、キースはピアノの椅子にやっとの思いで座り、なんとかキーを触った。そして何年ぶりかでピアノを弾いた。ずっと自分を看病し、支えてくれた妻のローズ・アンに録音するために。1998年、クリスマス、一つのカセットテープがリボンで結ばれていた。

「ローズ・アン、これを君に・・・やっと弾けたよ。今まで支えてくれた君のおかげだ。ありがとう・・・」

このテープ、当初はリリースされない私的な録音だったが、後に「The Melody At Night,With You」というタイトルでリリースされた。アルバムの表紙は妻のローズ・アンの写真が使用された。彼女はフォトグラファーなのだ。もちろん、このアルバムはローズ・アンに捧げられている。「私に音楽を取り戻してくれたローズ・アンへ・・・」という言葉と共に。

「病気は教師。演奏できるのは奇跡。演奏以外の形で音楽に関わるのは違うと思った。演奏できる奇跡だけでいい」  キース・ジャレット

アルバム「The Melody At Night,Witu You」から「マイ・ワイルド・アイリッシュ・ローズ」という曲。

これで浄化できる。

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アラベスク 

 

昔、「アラベスク」という少女漫画があった。内容は忘れてしまったが、たしか旧ソビエトのバレリーナの物語だったと記憶している。70年代の漫画だったと思う。日本の少女たちは、この漫画によりバレエの世界に憧れたのではないかなと想像する。

ウラディーミル・ワシーリエフ&エカテリーナ・マクシーモワ、奇跡のカップルと呼ばれ、二人の愛称から「カーチャとボロージャ」などとも呼ばれていたらしい。カーチャの方が年齢は一つ上。

ボリショイ・バレエ学校で二人は出逢った。カーチャ10歳、ボロージャ9歳。むろん、恋愛感情など最初はお互いに感じていなかっただろう。身分の違いというものも二人の間にはあった。ボロージャにとってカーチャは高嶺の花、恋心など抱いても叶わない存在であった。

まず、バレリーナとして憧れたのではないかな?ボリショイ、そしてソビエトを代表するようなバレリーナになるのを約束されていた存在であったカーチャ。ボロージャだけではなく、バレエ学校の男子生徒(?)は皆、カーチャに憧れていたのではないだろうか?

時に美しい主人公には、意地悪キャラのライバルがいたりする。羨望の的だった美しいカーチャには意地悪キャラの女の子も沢山いたのではないかな?当時のボリショイ・バレエ学校、花の園という美しいだけの場所でもなかっただろうし。

意地悪されるカーチャ、守ってあげたいと思うボロージャとその他男性陣。ますますバレエ学校内の火花は散っていく。そのようなバレエ漫画的な発想が自然になってしまうほど、カーチャは魅力的だ。もちろん、成人してから、成熟してからのカーチャも美しいが、若い頃のカーチャは、まるでバレエ漫画の美しいバレリーナそのものだ。踊りもだが、容姿が・・・

1950年代の映像。魅力的なカーチャ。バレエ漫画の主人公のようだ。

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運動していますか? 

 

年齢も年齢だけに少しは健康のことを考えるようになった。まずは食べる物。コンビニ弁当などは避けるとか、化学調味料は使わない、例えば、安易に「めんつゆ」などに頼らず、出汁も自分で煮干しからとか、煮干しそのものもカルシウムだから食べてしまうとか・・・

むろん、徹底はできないけれど、このような健康に良さそうな食生活をしていると、食生活が、お坊さんの食事のような、どこか地味で華やかさに欠けてくるところはある。洋食というものも作らなくなっていくし。でも、日頃地味な分、たまの外食が美味しく感じる利点はある。

食生活に関しては実行できるのだが、運動に関しては、なかなかできない。昔から運動とかスポーツって興味がなかった。さすがに何かはしないととは思うけれど、とてもスポーツクラブに入会して・・・のような積極性は持てない。このあたり、皆さんどうしているのだろう?

わざわざ「ウォーキング」と称して歩くことはないけれど、でも割と歩く方なのではないかと思う。歩くというか、散歩というものが好きなのだと思う。万歩計というものはお勧めだ。歩くことに張りあいが出てくる。地下鉄の乗りかえなど、駅によっては「同じ駅?」と思うぐらいに歩かされることがあり、○○線まであと450メートルなどとあると、以前だったら殺伐とした気持ちになったものだが、万歩計を持つと、「おっ、〇歩もかせげる」のように、気持ちの持ちように変化が出てくる。

夏は暑いので、自宅運動。ヨガなど、DVDや本を参考にしながらやったりする。初めは「こんなポーズ無理!」と思っても、徐々にそれらしい形になってきたりすると、人間は成長できるのだな・・・などと少しだけ感じたりする。

ヨガの本もそうだが、もっと一般的な自宅運動用(?)の本、体操みたいなもの?そのような本も参考にして数分、自宅で運動したりもする。このような本で、なんちゃって運動をしていると、時に思うことがある。本では、いとも簡単に「~しましょう」とか「写真のようなポーズをまずしてください」などと書かれているのだが、そのようなポーズそのものができないことがある。

「これって、僕だけが運動音痴ということなのだろうか?身体が固いのだろうか?一般の人は本に書いてあるようなことを普通にできるのだろうか?」

「片足屈伸をしましょう。両手を前に出し、片足だけでしゃがみましょう。その状態で手を使わずに立ったりしゃがんだりしましょう」などとある。これ、できない。コサックダンスのようではないか?こんなこと、普通の人はできるのだろうか?

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奇跡のカップル 

 

フィギュアスケートの演技において、これといった失敗もなく、高難度のジャンプも決めているのに、観ていてこう感じてしまう演技がある。「はやく次の人にならないかなぁ」「はやく終わらないかなぁ」

逆も場合もある。多少のミスはある。でも「えっ?もう終わり?」みたいな?観ている僕としては、それぞれの選手に対して義理も何もないし、分析してやろう・・・的な視点でその演技を観ているわけではないので、演技者としたら酷なのかもしれないが、つまらないか、そうではないか・・・だけで観てしまう。

この差、「早く終わらないかな」と、「えっ?もう終わり?」の差、よく才能という曖昧なもので片づけられてしまうことが多いように思う。これはピアノ演奏でも全く同じなのではないだろうか?聴き手を惹きつけるか、退屈な演奏か、その差はミスの有り無しのようなことではなく、才能・・・

そうかなぁ・・・と疑問に感じたりする。才能も、むろんあるのかもしれないが、むしろ技術の差ではないかと。フィギュアスケートの演技でも、バレエでもピアノ演奏でも、惹きつけられてしまうということに共通項があるように思う。それは「動きの準備があり、演技者、奏者の意思が動きやタッチの瞬間に反映されている。その技術が卓越している」ということ。逆に退屈、平坦になってしまう共通項として、「同時」ということが挙げられるような気がする。同時では遅すぎる・・・

意思が反映されることなく、「そのような振り付けだから腕をこう出しましたっ」的なもの、「音符がこうなっているから、その通りに鍵盤を押してみましたっ」的なもの?意思によるコントロール、そのための技術に対して、おおらかというか、大雑把というか、無関心というか・・・遅いというか、同時すぎるというか・・・

ピアノ演奏でも、偶然性タッチだけで演奏されてしまうと、いいタッチも偶然には存在するのかもしれないが、いきあたりばったり・・・みたいなことが多くなるのではないだろうか?その結果、ただ弾いている、押している・・・のような演奏へ。

いくら技術があっても、内面が空っぽでは何も出てこないのだろうが、むしろ割合として多いのは、内面には「こうしたい」というものがあるのだが、それを外側に伝えるための技術が不足しているために、「こんなはずではないのに」的な焦りを感じつつ、結果的には、ただ押しているだけのような演奏になってしまうことの方が多いのではなかろうか?このような場合、技術と考えるよりも、どうしても才能と考えてしまった方が、納まりがいいのかもしれない。その瞬間に自分を納得させることが容易というか?

意思、それを反映させるための準備、これは卓越したピアノ演奏動画でも感じられる要素なのかもしれないが、やはり視覚的芸術のような、バレエ、民族舞踊、フィギュアスケートのような「動きを堪能する」的なものの方が感じやすいように思う。

ジャンルはどうであれ、卓越した動き、動作には準備がある。その瞬間、その前に意思が反映されていて、無意識とか不用意といった要素が皆無なのだ。バレエの演技などでも、音楽と同時に動いているわけではない。一瞬早いものがある。むろん、音楽とずれているわけではないが、全く同時でもない。偶発的にストン・・・みたいなことが皆無。すべてに意思、コントロールがあるというか?

このカップルの踊りを初めて観たのは、オペラ映画「椿姫」だったと思う。いかにもゼッフィレッリの好きそうな舞踏家だと思った。オーラがある、二人とも華やかなオーラがあった。「椿姫」の第2幕にバレエの場面があって、スペイン風の踊りを踊るのだが、たった数分の登場なのに、それまでの主役のストラータスやドミンゴの印象を消し去ってしまうほどのインパクトがあった。

エカテリーナ・マクシモーワ&ウラディーミール・ワシーリエフ

二人はボリショイ・バレエ学校時代に知り合った。エカテリーナ、10歳。ワシーリエフは9歳だった。二人は実際に夫婦となり、お互いを高め合う「奇跡のカップル」と呼ばれた。

「もしバレエがなかったら二人は結婚していなかっただろう」というワシーリエフの言葉がある。裕福なブルジョワ階級であった女性、労働者階級の出身だった男性、バレエが二人を結びつけた。

ソビエト時代、冷戦の時代、一般のソビエトの人たちは暗い生活を強いられていたように想像する。この二人の演技は彼らにどう見えていたのだろう?それを考えると何か熱くなってくる。

不用意な箇所が微塵も存在せず、すべてに準備があり、コントロールされた技術を感じる。このような演技をオーディエンスは「表現豊かな・・・」と感じるのではないか?

kaz




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ピアノが上手くなる方法 

 

上手くなる、言い換えると、自分が受けた鑑賞者としての感動、そのようなものに自分も触れて、他者と共有できたら・・・みたいなこと。簡単に言うと、「あんな風に弾けたら素敵だろうな」みたいな演奏を自分もしたいと思うこと。

教師の影響というものは大きいだろうと思う。「まっ、プロでも受験生でもないのだから、楽しんで弾ければ・・・」とか「なんで弾けないのかしらねぇ?もっとさらって・・・」みたいな先生だと厳しいかもしれない。具体的なアドバイスをくれなかったりする先生では困る。

では、自分は自分を見限っていないだろうか?どこか「どうせ・・・」と自分で自分の限界を決めてしまっていることはないだろうか?
「音大を卒業したわけでもないし」「私が卒業した音大なんて一流難関音大でもないし」「大人から始めたから指なんて動かなくて当然なんだわ」「子どもの頃、真面目に練習してこなかったし」「電子ピアノで練習しているし」「まっ、もともと才能なんかある器じゃないし」「伸びるとか、上達なんて年齢でもないんだわ」

私は○○じゃないし、じゃないし、じゃないし・・・

CDでも他人の生演奏でも、その演奏、音楽を聴いて心が動いたのならば、いいなと感じたのならば、誰でもそこに行きつけるのではないだろうか?そのためには、いい教師、それと、いい意味での自己肯定が必要だ。「どうせ・・・」とか「・・・じゃないし」を捨てる。

どんなに、いい教師でも生徒が「どうせ・・・」みたいな頑ななものを持っていたら、教えにくいのではないかな?

ピアノに関する書物、奏法に関する書物を紐解く、それは上手くなりたいからだと思う。さらに自分の心に問いかけてみる。もしかして無意識に自分で自分のことを諦めていないだろうかと。一つでも「どうせ・・・」が潜んでいるのではないかと。もしあるのだったら、それを捨てていってみるのだ。時間はかかるかもしれないが。

感じたのだったら、実践できるのではないかな?誰でも、いつまでも成長できるのではないかな?

ある演奏を聴いて涙する、その感性にプロもアマチュアも、音大生も初級者もないのでは?

「もういくらなんでも80歳だし。成長とか、そんなこと・・・」

そうかな?この女性、80歳なのだそうだ。

人間は誰でも成長できる。できないと思うとできない。

kaz




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