ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

パフさんの素晴らしい言葉 

 

大変恥ずかしいことに、僕はフルート奏者のエマニュエル・パユの名前をエマニュエル・パフだと長い間思っていた。何故だろう?おそらくピアニストのスティーヴン・ハフの名前と、どこか一緒になってしまい、パユ→パフと思い込んでしまったのだと思う。CDのジャケットやネットなどで彼の名前が黒々と「パユ」と書いてあっても、僕は「パフ」と堂々と読んでいた。

ああ、サークルの打ち上げなどでパフ・・・とか言わなくてよかった。ブログにもフルート奏者のパフと書かないでよかった。

さて、そのパユさんだが、舞台での演奏に関して、心の持ちようというのかな、とても素晴らしいことを言っている。彼の言葉を受け入れられるかどうか、そこで精神の若さが試されると思う。

「だってパユさんは、ベルリン・フィルの首席奏者で、ソリストとしてもCDなんかバンバン出している有名演奏家でしょ?パユさんはそうかもしれないけど、自分には当てはまらないわ」

僕も一瞬、そのように感じるところもあった。でも、「私は○○」という固定観念に縛られてしまうのが、精神的な老いだとも思う。少しでいいから、もしかしたら自分にも当てはまる?・・・とか、いい考えだから見習ってみようかしら・・・とか思えたら最高なんじゃないかな。

「演奏は音楽のエネルギーの解放。だから奏者は聴き手と共有したくなる。多くの人に聴いてもらいたい、共有したいと思う」これは演奏の動機、事始めであると同時に、究極の目標でもあるような気がする。

演奏って、上達してゴール・・・という一直線というものではなく、サークルなのではないかと思うことがある。動機、譜読み、このような事始めがあり、そこには自分が感じたものを共有したいから練習するという想いがある。練習を重ねて、演奏の本番の時、それは練習の成果をミスなくこなすことではなく、最初に戻るんだ。他の人とも共有したい・・・という想いに。だから人前で緊張して、本番の会場が火事になればいいのに・・・と思いつつ、胃が痛くなりながらも一人舞台で弾くのだ。なので演奏って定規みたいな直線ではなく、完全なる円形になる。円の最初でつまづくと、例えば日本人の好きな(?)「どうせ自分は○○だから、それなりに・・・」スタンスで練習を始めてしまうと上手くいかないように思う。

さて、本番。舞台で一人・・・

パフさん、改めパユさんはどう言っているだろう?

「舞台でのその瞬間、その曲を世界で一番上手く演奏できるのは、あなただけなのだ・・・」

この言葉、いいねぇ・・・

でもそうだよね。舞台には自分一人なんだから。

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ふたりの日曜日 

 

個人的に平尾昌晃の曲で思い入れ(?)の深い曲がこれ。

当時のアイドル、天地真理に提供したこの曲。この曲はオリコンの1位ではなかったんですね。オリコン3位。3位なので大ヒットには違いないけれど、天地真理がオリコン1位を連発していた時だけに、谷間の一曲という印象がある。

とは言え、口ずさめる人、多いのではないかな?昭和歌謡だなぁ・・・と思う。天地真理のイメージにも合っている曲だと思う。

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二人でお酒を 

 

梓みちよ、「こんにちは赤ちゃん」の大ヒットで知られる。この曲のイメージ、いわゆる清純派のイメージが梓みちよには負担だったようだ。実際には10代の頃からお酒や煙草が大好きだったそうで・・・

梓みちよのイメージチェンジ、平尾昌晃が提供した、この曲からだったのではなかろうか?

この曲から連想するのは、小学校3年生説。平尾昌晃は作曲家、平尾貴四男の甥にあたる。もしかしたらクラシック畑ni進んだ可能性もあったと思うが、そうはならなかった。小学校3年生の時、ある将校から貰ったジャズのレコード、このレコードが平尾昌晃の運命を決めた。

「二人でお酒」という曲、どこか西洋っぽい雰囲気を感じたりする。五木ひろしに「よこはま・たそがれ」「夜空」を提供した人とは思えないような、どこか、いつもの歌謡曲とは雰囲気が異なるような?一枚のセピア色のジャズのレコード、小学生の時に出逢った西洋・・・そのようなものを感じる一曲だ。

梓みちよ、1943年生まれということだ。歌唱力と共に、その若さに驚く。この曲は平尾昌晃の名言をも連想させる。シンプルだけれど、とてもいい言葉だと思う。

「いつまでも青春」  平尾昌晃

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瀬戸の花嫁 

 

この曲がヒットしたとき、僕は小学生だった。

「さあ、瀬戸の花嫁を歌いましょう」と音楽の授業で習ったことはない。誰かから教えてもらったこともない。でも何故か今でも歌える。小柳ルミ子のファンであったわけでもないのに。

この曲は高齢者たちも歌える。認知症の人も歌える。

これは昭和文化と言ってもいいのではないだろうか?

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霧の摩周湖 

 

作曲家の平尾昌晃が亡くなったのだそうだ。

弟子の一人、畑中葉子とのデュエット「カナダからの手紙」を思い浮かべる人は、我々の年代だと多いと思うけれど、他にもいい曲が沢山あったと思う。昭和を彩った名曲というのだろうか。

どの国にも歌謡曲のような、その国の人だったら知っているような曲はあるのだろうと思うが、日本の歌謡曲の特色としては、やはり高度経済成長期、つまり昭和40年代あたりから、一気に花開いたような、哀しい曲であっても時代は上昇していくんだ・・・という勢いのようなものがあったということだろうか。テレビの普及、世の中に歌謡曲が流れた。ファンだけではなく、誰でも聴いたことのある曲、歌謡曲というものは、日本の文化となった。

ピアノブログの世界では平尾昌晃の功績はスルーされてしまうかもしれない。

一つの文化が終わったような、そんな寂しさを感じる。その文化を現代は引き継いではいないという寂しさも感じている。

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仲間 

 

ピアノって練習も孤独だし、舞台に出ていく前も孤独だけれど、舞台で弾いてしまえば、孤独ではなくなる時もある。何というのかな、一体感のようなものを感じる時もある。そこまでいかないことも多いけれど、感じたときは、まさにエクスタシーのような・・・

聴いている人がピアノを弾くとか、弾かないとか、こちらが知っている人だとか、そのようなことは一切関係なく、弾いているものに対して、返ってくるものがある。「そうだね・・・」みたいな?うまく説明できないけれど・・・

弾いている人は、ただ音符を追っているわけではない。その中に必ず「そうだね、そうだよね」と共感する部分がある。だから弾いているのだ。曲との「そうだよね」が、今度は弾いている側が「そうだよね」というものを受けるのだ。

仲間・・・ということなんだと思う。「ここ、難しいけど、好きなところなんだ」「そうね、そこ、いいよね」みたいなものが返ってくる。

人は、さまざまなもの抱えて生きていて、でもそれは自分一人ではなくて・・・

「そうだね」「そうだよね、そうなんだ・・・」

ピアノを弾くということは孤独ではない。仲間がいれば・・・

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孤独 

 

演奏前は緊張する。していないように見える・・・という人はいるかもしれないが、緊張しない人っていないのではないかな?

緊張しないための方法というものを考えるよりは、緊張してどうするか・・・を考えた方がいいような気がする。

① 本番とか、今この瞬間・・・ではなく、曲と出逢った、ときめきの時を思い出す
② 人のミスって自分が聴き手だったら気にならない。自分のミスも同じ
③ そもそも緊張しないということは、弛緩ということでは?

「~になったらどうしよう?」もちろん逃げ帰ってくるわけにはいかないので、②を感じてみる。「あの部分、練習では弾けたんだけどな」①を感じてみる・・・のように対処は色々とあるかもしれない。

ソロの場合と、共演者がいる場合では、緊張の種類というものも違うんじゃないかな?舞台上の人数が沢山いれば緊張しないということではないだろうが、例えばフィギュアスケートのシングルの試合、サッカーの試合、選手の緊張の種類は異なるような気はする。

ソロの場合、圧倒的な孤独感、これが緊張を生むのでは?何があっても自分一人なのだという孤独感。

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練習 

 

リストはグリーグのコンチェルトをグリーグの目の前で初見で見事に弾いてしまったらしい。アルゲリッチは隣室から聴こえてきたプロコフィエフの3番のコンチェルトを耳だけで覚えてしまい、それだけで弾いてしまった・・・

このようなエピソードって、都市伝説のような?本当だろうか・・・などと思ったりもする。でもまあ、本当なのかもしれない。アルゲリッチは、プロコフィエフの3番よりも、はるかに音の少ない曲などは、練習などしなくても弾けてしまう?ショパンのソナタとか、聴いただけで弾けてしまう?

やはり練習はするのではないだろうか?危険なのは、難なく曲を弾けている人は、そのような何かしらの才能があると思ってしまうこと。「自分とは違うんだわ」みたいな。そうではなく、他人には思いもよらない練習をしていたりするんじゃないかな。

練習というものは、継続性、習慣性を持つものだから、ある意味危険なのだ。本人は一生懸命練習しているつもりであっても、どこか道からそれてしまっている。でも本人は気づかない・・・みたいな?

音楽的な表現というもの、自分でも不足していると思う。でもどうしていいのか分からない。なので、とりあえず難しいパッセージを練習する。実際に弾けないところは沢山あるし、練習すべき箇所は沢山ある。あたかも、機械的にでも繰り返しパッセージを練習していれば、音楽表現の神様が、いつか舞い降りてくるかのように練習する。でも、音楽的表現のための練習というものは、別にあったりして。茨道を通った人のみが音楽的経験に目覚めるということでもなかったりして。その部分は突き詰めてしまうのが苦しいので、とりあえず反復練習をする・・・するしかない。これは辛いだろうと思う。

機械的な練習ばかりしていると、いつのまにか「保険練習」のようになってしまう危険性もある。この部分が心配だから、本番で失敗したらイヤだから、とにかく繰り返し練習するのように。本番での安心感を練習で買う・・・のような?本番では緊張し、100パーセントの力は出せない。なので日頃から120パーセント弾けるようにしておくのだ。このような考えって、賞賛されたりするのではないかな?でも安心を買う・・・みたいな保険みたいだ。

本番でも練習の時と同じように弾けるようにする。徹底的に。でも、本番は自宅での練習とは異なる要因が沢山ある。着ている服がいつもと違うし、靴も違う。聴いている人がいるということも違うし、楽器も空間の感覚も異なる。いつもいつも「同じように・・・」と念じて練習していたら、同じではなくなった時にどうしたらいいのだろう?

「あんなに練習したのに・・・」この時の落ち込みようったらない。あんなに・・・がいけなかったのかも?「同じように」ではなく「違った場合どうするか」という対処に欠けていたのかも・・・

ピアニストも練習する・・・

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涙への信頼 

 

「プロじゃないし」「音大なんて出ていないし」「まだピアノを再開して間もなくて初心者だし」

現在の立ち位置のようなものはあるだろう。その人それぞれの。でも皆同じではないかと思うことがある。それは演奏、音楽を聴いて心が動くという摩訶不思議な現象。

「この曲を聴くと涙が出てしまう」「なぜこんなに哀しくなってしまうのかな?」「ああ、もうどうしていいか分からないぐらいにこの演奏が好き」みたいなこと。

私はチェルニー30番だから、30番程度の感動、誰それさんはショパンのエチュードを弾いているから、ショパンのエチュード仕様の感動があるんだわ。こんなことはない・・・と思う。

純粋に鑑賞者として心が動いた、ここに音楽歴での差はないと思う。むろん、経験や訓練によって聴き方が違ってくる、深く聴こえるというか、それまで聴こえなかったものが聴こえてくるということはあると思う。でも、初心者はこれぐらいとか、上級者はそれなりの感動とか、そんなことはないと思う。音大生とアマチュアの感動能力の差というものは、僕はないと思う。あるとしたら、個人的な差・・・ではないかな?

フレイレだから、自分が受けた感動を、このように、さらに他人に渡せるのかな?フレイレじゃないとダメなのかな?感動した、聴いて涙したということは、実は凄いことなんじゃないかな?

信じるということかもしれない。自分を導いてくれる師を信じる、涙溢れた自分を信じる・・・

ピアノに関して、死ぬときに「やっておけばよかった」と後悔するのは、この部分かもしれない。

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レパートリー 

 

ピアノ、クラシック音楽全般について素人の人。厳密には僕も、そしてこのブログを読んでくれる人も、アマチュアの人が多いと思うのだが、そのような意味での素人、プロですか、それとも素人ですか・・・という意味での素人ではなく、クラシック音楽に全く日常生活において接点のない人。「エリーゼのために」を聴いたことはある。「あっ、これ知ってる」でも作曲者を知らない。「えっと、チャイコフスキー?」みたいな?「白鳥の湖?えっとシューベルト?」みたいな人。

統計から考えてみると、毎日通勤電車の中で会う人たち、ほとんどの人が、このような素人ということになる。ピアノを習い、サークルに出席し、日常的にピアノオフ会などにも馴染んでいると、ついピアノを弾く人に取り巻かれてしまったりするけれど、ピアノを弾いている人は全体からするとごく少数なのだと思う。つまりマイノリティ???

素人さんって、ピアノを習っている人は、なんでも、どのような曲も弾けると思っていたりする。これは困る。「ねえ、幻想即興曲弾いて!」「リストの・・・何だっけ、愛の夢、それ弾いて!」

「弾いてと言われても・・・」

ピアノ教師なんか、きっと素人さんは「先生なんだから何でも弾けるのよ」と思っている人は多いのではないだろうか?僕だって○○流の生け花の師匠とか、なんでも知っている、お花については、できないことはない・・・みたいに思ったりもするもの。

レパートリー・・・実は持っていない人、プロは別として結構多いのではないだろうか?別に人前で暗譜で完璧に・・・ということではなくても、「えっと、今習っている曲は譜読み段階だし、発表会で弾いた曲は忘却の彼方でもう弾けないし。あっ、この間のレッスンでハノンが合格したから、スケールのヘ長調だったら弾けるわ」

これはちょっと寂しい。ハノン・・・ではなくても、チェルニー、この間合格したから〇番だったら弾けるかも・・・これもちょっと寂しい。

何か、いつでも弾ける、自分の惚れた(!)曲があっていいように思う。「ねぇ、ピアノ習ってるんでしょ?何か弾いて」と言われたら弾ける曲。つまりレパートリー。

僕の経験では、アメリカ人って、そのようなことに関して屈託がないというか、おおらかというか。クリスマスや感謝祭などで、ピアノがあったりすると「ねぇ、弾いてよ」とか、よくある。その時に「実は習ってはいるんだけど、譜読み段階でぇ・・・」とか「そんなぁ、人様にお聴かせできるようなもんじゃなくってよ!」ということは少なく、何か弾いてしまう人が多い。その演奏が「譜読み中ですか」のようなものであったとしても(そのようなことは多かったように感じる)、少なくとも「実に楽しそう」ではあった。別にコンクールでもないのだから、それはそれで羨ましいと思ったりもした。

「なんで自分は弾けないとか、下手だからなんて言うんだ?」などと叱責されたことさえある。

文化の違いと言ってしまえばそれまでなのかもしれないが・・・

素敵だな・・・そう思ってピアノを始めた、再開したのであるのならば、その「素敵だな」を他人と共有できたら楽しいのではないだろうか?

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時空を超えて 

 

音質は決して最良とは言えない。中にはノイズの彼方から聴こえてくる演奏さえある。録音技術上の合成、お化粧のようなことも、未発達だったと思う。どこか一発勝負のような録音、演奏。

そのような時代の演奏が時空を超えて、100年の時空を超えて入り込んできてしまう。

感嘆してしまう・・・というよりは、自分が隠しているような、苦しくて押さえ込んでいるような感情をズバリ言い当てられてしまうような?

こう感じる。「なぜ、あなたは僕が隠している、人には秘密にしているような感情を理解できるのですか?」と。

巨匠と呼ばれているから聴くのではない。時空を超えた共感に酔いたいから聴くのだ。

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難しさを感じさせない美学 

 

ピアノロールというものは、どれだけ演奏者の神髄を再現しているのだろう?ピアノロールでは本当のところは分からないという意見もある。そうなのかもしれないが、このローゼンタールのダブルのエチュードのピアノロール、例えばショパン・コンクールでこの曲を弾いた、どのコンテスタントたちよりも闊達、機敏に思えるし、難曲と感じさせない軽さがある。僕には、現代のピアニストの演奏、ユーチューブ、CD含め、ローゼンタールのこの演奏を超えている人は思いつかない。

ミスのなさ、単純な速さという意味では、同じように弾いている人はいるかもしれないが、軽さに欠ける。音の弾き分けというのかな。ダブルのピアニシモが、これほど美しいとは思わなかった。

現代のピカピカのピアノとは、楽器も異なるのかな・・・と感じたりする。敏捷、繊細な楽器だったのかもしれない。

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「えっ?今のトリプルアクセルだった?」という演奏 

 

浅田真央選手、彼女がジュニアの頃、初めて観た時、こう思った。「なんて軽々とジャンプを跳んでしまうのだろう?」と。「えっ、今のジャンプ、もしかしてトリプルアクセルだった?」みたいな?簡単そう、軽そう・・・という印象を持った。同じような印象を往年の巨匠の演奏、音に感じるのだ。軽々としていて、どんなに難所であっても、これでもかっ・・・という力感を感じさせない。おそらく巨匠たちも練習を重ねたのだろうが、その痕跡を聴いている側に一切感じさせない。いとも簡単(そう)にコロコロと弾いてしまう。そこが好き。

今の主流の演奏って、浅田ジャンプと正反対のところにあるような気がする。長いジャンプまでの助走、そして跳ぶ。会場が一瞬緊張する。そしてなんとか成功。「あ~!!!成功ですっ!」みたいな?そんな演奏。ドラマ性はあると思うの。でもコロコロ・・・みたいな軽さに欠けているような?緊迫感(おクラシック感?)というか、そのようなものが必要以上に強調されるみたいな?

完全に個人的な好みなのだと思う。僕が子ども時代、メカニカルな完璧さということで、まず名前が挙がったのがポリーニだった。今だったらアムランがその地位を獲得しているだろうか?もちろん両者とも、音楽的に変・・・とか、嫌い・・・とかは思わないし、立派な演奏だと思うのだが、「凄~い!」とかは感じても、あまり「素敵♡」みたいなことは感じない。「ピアノを弾いているのだったら誰もが認める立派な演奏を聴くべき」と言われても、音楽を聴く時は完全に鑑賞者であり、あまり「お勉強」みたいな気分で聴くことはないから、どうしても「キャッ、素敵な演奏」と感じたいと思うのだ。「立派ねぇ」とか「凄いよねぇ」とは鑑賞者としてあまり必要としていないのだと思う。それではいけないのかな・・・などと(たまに)思ったりもするけれど。

そのような意味で、現代のピアニストではスティーヴン・ハフが好き。彼の演奏は素敵だもの。そして往年組のような、軽さというか、音はクリアなんだけれど、変に重油のように重くない。そこが好き。

「絶対、これって真っ黒な楽譜だよねぇ???」というような超絶技巧の曲でも往年の巨匠の演奏は、軽さ(これは重さの反対語の軽さということでもない。でも他に言葉が見つからない)がある。コロコロ・・・コロコロ・・・

これって、重油、鋼鉄の音で弾くよりも難しいのではないだろうか?「えっ?今のトリプルアクセルだった?」の方が「さぁぁぁぁ・・・トリプルアクセル・・・降りましたぁぁぁぁ!!!!」よりも難しいのではないだろうか?

ショパンの弟子にカール・ミクリという人がいた。この人のお弟子さんたち、彼らは便宜上(?)ミクリ派などと呼ばれたりするが、彼らの演奏を聴くと、ショパンの伝統がどうたらとか、正統性がどうたらとか、そのようなことよりも、まず「音の軽さ」に聴き入ってしまう。

アレクサンドル・ミハウォフスキ・・・小犬のワルツ(によるパラフレーズ)を弾いている。これ、相当真っ黒な楽譜なのではないだろうか?でも空中に舞うような軽さがあるような?力感を感じさせない、大変そうと感じさせない。

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セピア色のトリプルアクセル 

 

「ピアノの知識と演奏」(雁部一浩著)というピアノの本の、はしがきに、いきなりこのような記述がある。

「現代の多くの演奏を往年の巨匠たちに比べると、その芸術性は勿論のこと、表現技術に於いてさえ及ばないのではないかというのが偽らざるところです」

芸術性・・・というところなら分かる気もする。でも技術も?えっ、そうなの?この氏の記述を不思議と思う人も多いかもしれない。往年の巨匠、コルトーよりは現代のスターの方が、少なくとも技術はあるのでは?こう感じる人はいるかもしれない。

たとえば、どの音大でもいいけれど、昭和10年度の卒業演奏会と昨年の卒業演奏会のプログラムを比較したとすると、昨年の卒業生の方が、難曲を演奏している人が圧倒的に多いと思う。よく言われる。昔は弾くだけで注目されたような曲も、今は誰でも弾く・・・と。

これは技術力の進歩というよりは、技術の底上げなのではないか?フィギュアスケートのジャンプも同じような気がする。昔は2種類の3回転がプログラムに入れば「おおっ・・・」という時代もあった。でも今では2種類では、お話にならないはずだ。

「ほら、技術は向上しているんじゃない?ピアノもそうよ!」

これは技術・・・というより、誰かが難易度の高い技を成功させたら、その技が他の選手にとっても、成功させるべき技という基準になっていくということではないだろうか?ピアノもこれと似ているのではないかな?誰かが弾けば、他の誰かも弾くようになっていく。底上げが成されていく。

現代の女子シングルの選手のすべてが、ジャネット・リンよりも技術は数段上であると、僕は言い切ることはできないと思う。ジャネット・リンは5種類の3回転とか、3回転ー3回転のコンビネーションなど、必要のない時代の選手だった、そういうことではないだろうか?

1980年代の初めに活躍したアメリカの選手、ティファニー・チンという選手がいる。1984年のサラエボでのオリンピックの演技が印象深い。この選手、トリプルアクセルを練習では成功させていて、動画にも鮮やかな3回転半のジャンプが収められている。でも試合ではこの技は入れていなかったはずだ。試合では成功させる自信がなかったからだろうか?そうではなく、トリプルアクセルを入れる必要がなかったからではないだろうか?そんな気がしている。

ピアノの技術の進歩、これは全体的なことではなく、難曲を弾ける(弾く)人の割合が多くなったという、部分的な、底上げのようなことなのではないだろうか?

ちなみに、トリプルアクセルを競技会で初めて成功させた選手は、カナダのヴァーン・テイラーだとされている。1978年のことだったと記憶している。それはそうなのだが、テイラー選手より前の時代の選手は、誰もトリプルアクセルが跳べなかったのだろうか?そのような技術を持っていなかったのだろうか?技術的に劣っていたのだろうか?

往年の選手にデヴィッド・ジェンキンスというアメリカの選手がいた。セピア色の時代の選手という印象を持ってしまう。彼は1957年から世界選手権、3連勝している。1960年のスコーバレーでのオリンピックで金メダルを獲得し、そして引退している。

大昔の選手だとは思う。おそらく、屋外での試合も経験したような、そのような時代の選手だったと思うし、採点も電光掲示板ではなく、ジャッジがリンクの中で採点札を掲げるような、そんなレトロな時代の選手だ。

この動画、1957年とあるから、ジェンキンス選手が初めて世界チャンピオンになった頃の動画だと思う。

「あれ?軽々とトリプルアクセルを跳んでいる?」

試合で入れる度胸がなかったわけではないだろう。プログラムに入れる必要がなかったのではないだろうか?

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誇りのジョージアン・ダンス 

 

ヨーロッパの人って、僕の限りある経験では、物凄く「自分たちの独自性」というものを重んじるような気がする。そのような気迫がある。これって我々日本人には、なかなか理解できないようなことなのかもしれない。北米に住む人もヨーロッパ人とは、やはり異なるような印象を持つ。

「この山、この河の向こうは異なる言葉を話す、異なる文化を持つ人々がいる外国なのだ」

この緊張感、やはり並大抵のものではないのでは?むろん、ヨーロッパの多くの国で戦車が走っているわけではないし、銃撃戦があるわけではない。日本のように一見平和で長閑にも見える。でも緊張感を感じるのだ。「何かあれば、大国に吸収されてしまうかもしれない、侵略されてしまうかもしれない」のような?この緊張感が自国の文化を死んでも守らなければ・・・みたいなものにリンクしていくのではないだろうか?音楽とか、民族舞踊などにも、それは反映されていく。

旧ソビエトに所属していた国、アルメニアとか、ジョージア、このような国は、ソビエト時代には、自分たちの独自の文化を押さえ込まれていたように想像する。もしかしたら、ソビエト遺産として、各々の文化は中央から守られていたのかもしれないが、やはり自分たちの血、ルーツ、誇りのようなものが各地で燃え上がってしまうと、モスクワとしては非常にまずかったのではないかとも思う。だからこそ、人々は自分たちの文化を守り抜いた、そのようにも感じる。押さえ込まれていたからこその、熱いまでの、痛いまでの誇りを感じるのだ。

僕は国籍はアメリカでも、移民であったり、ヨーロッパに住んでいる人から、そのような気迫を感じることが多かった。ニューヨークに住むポーランド移民とか、イタリア人とか。ワスプのようなアメリカ人から、そのような気迫は感じない。

「君たち日本人は侵略された経験なんかないじゃないか!」この言葉を今も非常に重く感じる。たしかに僕は、日本語が他国から禁止されるとか、歌舞伎が上演禁止にさせられるとか、そのような危機感を今まで一度も感じたことはない。このまま日本という国はそのまま変わらず存在していくと思っている。そうは素直に思えない国、そのように思えないような歴史を重ねてきてしまった国もあるのだ。

これはジョージアン・ダンス。国立のバレエ団が独自の民族舞踊を守り抜いている。「これは自分たちだけの踊りなのだ、これは自分たちのものなのだ!」そのような気迫を感じる練習風景だ。

国立のバレエ団にしては、練習場の床が傷んでいるような?国のトップの舞踏家たちが、このような床で練習し、踊っている。日本や、その他西欧諸国、大国だったら、その国のトップのバレエ団だったら、もっと磨かれたような床、恵まれた環境で練習しているのではないかと想像する。日本のバレエ団の練習場とか、カルチャーセンター、ダンススクールの床、ジョージアのそれよりは少なくとも立派なのではないだろうか?

日本よりはジョージアは貧しいのかもしれない。経済大国でもないのかもしれない。でも守り抜いていくような、気迫、そして自国の文化への誇りを、この踊りから感じるのは僕だけだろうか?

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ジョージアという国から・・・ 

 

吉祥寺という街、なぜか雑誌などに取り上げられる機会も多く、女性に人気の街らしい。住みたい街としても常に上位みたいだ。吉祥寺にはディスクユニオンがある。この空間だけ「お洒落な吉祥寺♡」ではなく、オジサン空間。街自体は個人的にはあまり好きではない。若者がプ~ラプラしていて、なんだかチャラい感じ?人も多いし。

愛する(?)「ディスクユニオン」以外にも吉祥寺で好きな場所はあったりする。駅からすぐにある「カフェ・ロシア」という店。名前から想像できるように、ロシア料理をカジュアルな感じで堪能できる店。僕の目的はロシア料理ではなく、グルジア料理。もしかしたら本場の味とは異なるのかもしれないが、3000円程度で異国情緒を味わえる穴場・・・なのだ。店員さんに相談しながらメニューを決めるもよし、「グルジアセット」をオーダーしてもよろしい。

実はグルジアという国、少し前から「ジョージア」という名称に変わっている。個人的にはジョージア・・・だと、どうしても米国のジョージア州を連想してしまう。ジョージア料理と言われると、旧ソ連のジョージア料理ではなく、アメリカの南部料理、甘いソースとか香ばしいフライドチキンを連想してしまうのだ。なまず料理とかね。

グルジア・・・という名前、ロシア由来らしく、多くのグルジア人は、この「グルジア」という言葉が好きではないらしい。ロシア由来というのは、諸説あるらしいが、歴史的にもグルジアとロシアは、あまり仲がいいとは言えない感じだ。だから、以後はジョージアという名称で統一したいと思う。缶コーヒーなども連想してしまうが・・・

ジョージア、首都はトビリシ。写真で見る限り、素敵なところだ。全体的にショージアという国は絶景が多いようだ。料理の他にジョージアと聞いて思い浮かぶのはスケート選手。エレーネ・ゲデヴァニシヴィリという選手。最近は戦績こそ振るわないようだが、実はこの選手が好きだったりする。情熱と柔軟性・・・というところかな?

初めてゲデヴァニシヴィリ選手を見たのはトリノオリンピックでのSP。正直、こんなにポテンシャルの高い、可能性に満ちた選手が小国に存在していたのだと驚いてしまった。今見ても、このSPは素晴らしいと感じる。

もともとは、ロシアでタラソワ・コーチに習っていた。でもジョージアとロシアの国交が上手くいかなくなり、彼女はロシアにいられなくなってしまった。トリノの頃は、もうロシアを離れていたと思う。ジョージアはスケート環境が良くないらしい。しばらく母国で練習していたらしいが、やはり外国で練習するようになった。でも、各地を転々とするような、コーチも次々変わるような、そんなスケート人生を送らなければならなくなった。その割には、優秀なコーチの元で、いい戦績を残してきたように思う。ジャンプのミスが目立つようになっても、僕はこの人のスケートが好きだ。「表現したい」という欲求をすごく感じるから。

ゲデヴァニシヴィリ選手、正式には、まだ引退は表明していないのでは?たしか浅田真央選手と同年代では?

もし・・・ということは考えてはいけないのだろう。もし、彼女がロシアで練習し続けていたら?タラソワ・コーチの指導を受け続けていたら・・・考えてはいけない。でもスケートには全く関係のない、国同士の都合で、彼女のスケート人生が変わってしまった部分もあるだろうと思う。

もしかしたら、ジョージアの代表として4回目のオリンピックに出場するかもしれない。出場できなくても、そしてジャンプで転倒しても、僕はこの選手がすごく好きだ。

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category: The Skaters

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憎悪と浄化 

 

生きていれば負のエネルギーに遭遇してしまうことはある。自分が攻撃されたわけではなくても、攻撃された人が知らない人、遠い異国の人であっても、負のエネルギーというものは強大なので、落ち込んでしまいそうになることもある。そのような時には浄化作用が必要になってくる。憎悪ではなく、愛を感じて浄化する。

カリフォルニア州でプライド・イベントがあった。C.J君は両親と共に初めてこのようなイベントに参加した。母親のローリーさんは「私はジェンダー・クリエイティヴな息子を愛しています」父親のマットさんは「息子はドレスを着て化粧をします。納得してください」というプラカードを掲げ、化粧をしたC.J君と共に写真に写った。両親が理解してくれる、これはC.J君にとって幸せなことではないだろうか?

その一家に有名俳優からツイートがあった。ジェームズ・ウッズ。個人的にはファンではないが、いぶし銀のような俳優という、いいイメージがあっただけに、彼のツイート、これは攻撃、憎悪と言ってもいいとは思うが、非常にショックだった。ジェームズ・ウッズはこのような言葉をこの一家にツイートしている。

「素敵だね!この哀れな子が成長するまで待てば、彼はあんたらが何をしたか気づき、あんたら二人が何を切り取ってガレージの冷凍庫に入れたのかが分かるだろうよ」

イベント初参加のC.J君は周囲の人から「君は最高だ」「いつでも本当の自分でいるんだよ」という言葉をもらい、この日、両親にこう言っている。「人生で一番いい日のひとつだった。連れていってくれてありがとう」と。

おそらくC.J君は「自分は普通ではない」「自分はおかしいのでは?」と悩んで生きてきたはずだ。でも、まず両親が認めてくれた。受け入れてくれた。さらに見ず知らずの他人までが自分のことを認めてくれた。「本当の自分でいるんだよ」と・・・

有名人からの攻撃は相当ショックだったのではないかな?

心ないジェームズ・ウッズの言葉にレスをした有名人が続いた。やはり米国の俳優、ニール・パトリック・ハリスはこうツイートいている。「ウッズさん、あなたは無知で下品ですね。私はこの一家の友達です。あなたは何も分かっていないのです。そして恥を知るべき」同じ有名俳優からリツイートがあったのが、一家にはせめてもの幸いだったかもしれない。ニールのような有名人からのメッセージが続いた。

アンディ・ミルダー(俳優)「あなたはいつ自分の人間性を切断してガレージの冷凍庫に詰め込んだのですか?」
イアン・ブースビー(コメディアン)「昔は同性愛者について同じことが言われていた。そして多くの人が死んだ。同じことを繰り返すな」
ニコラス・ファラッチ(放送作家)「このような憎悪に満ちたコメント、無知が自己嫌悪の炎を燃え上がらせることになるんだ。子どもは受容と自由があってこそ育つのだ」

負のエネルギー、憎悪のエネルギーは愛で浄化する必要がある。

キース・ジャレットは1996~1999年の間、「慢性疲労症候群」を患っていた。周囲からは、さぼっている・・・のようにしか見えない病気だ。本人は辛いのではないだろうか?いかにも病気・・・という外見ではないだろうから、理解を得にくい。

「ピアノの蓋を開ける力もなく楽器を見ることさえできなかった。音楽を聴けばそれだけでエネルギーを吸い取られてしまう。まるでエイリアンに身体を乗っ取られたようで、ずっと椅子に座ってただ芝生を眺めていた」

ある日、キースはピアノの椅子にやっとの思いで座り、なんとかキーを触った。そして何年ぶりかでピアノを弾いた。ずっと自分を看病し、支えてくれた妻のローズ・アンに録音するために。1998年、クリスマス、一つのカセットテープがリボンで結ばれていた。

「ローズ・アン、これを君に・・・やっと弾けたよ。今まで支えてくれた君のおかげだ。ありがとう・・・」

このテープ、当初はリリースされない私的な録音だったが、後に「The Melody At Night,With You」というタイトルでリリースされた。アルバムの表紙は妻のローズ・アンの写真が使用された。彼女はフォトグラファーなのだ。もちろん、このアルバムはローズ・アンに捧げられている。「私に音楽を取り戻してくれたローズ・アンへ・・・」という言葉と共に。

「病気は教師。演奏できるのは奇跡。演奏以外の形で音楽に関わるのは違うと思った。演奏できる奇跡だけでいい」  キース・ジャレット

アルバム「The Melody At Night,Witu You」から「マイ・ワイルド・アイリッシュ・ローズ」という曲。

これで浄化できる。

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アラベスク 

 

昔、「アラベスク」という少女漫画があった。内容は忘れてしまったが、たしか旧ソビエトのバレリーナの物語だったと記憶している。70年代の漫画だったと思う。日本の少女たちは、この漫画によりバレエの世界に憧れたのではないかなと想像する。

ウラディーミル・ワシーリエフ&エカテリーナ・マクシーモワ、奇跡のカップルと呼ばれ、二人の愛称から「カーチャとボロージャ」などとも呼ばれていたらしい。カーチャの方が年齢は一つ上。

ボリショイ・バレエ学校で二人は出逢った。カーチャ10歳、ボロージャ9歳。むろん、恋愛感情など最初はお互いに感じていなかっただろう。身分の違いというものも二人の間にはあった。ボロージャにとってカーチャは高嶺の花、恋心など抱いても叶わない存在であった。

まず、バレリーナとして憧れたのではないかな?ボリショイ、そしてソビエトを代表するようなバレリーナになるのを約束されていた存在であったカーチャ。ボロージャだけではなく、バレエ学校の男子生徒(?)は皆、カーチャに憧れていたのではないだろうか?

時に美しい主人公には、意地悪キャラのライバルがいたりする。羨望の的だった美しいカーチャには意地悪キャラの女の子も沢山いたのではないかな?当時のボリショイ・バレエ学校、花の園という美しいだけの場所でもなかっただろうし。

意地悪されるカーチャ、守ってあげたいと思うボロージャとその他男性陣。ますますバレエ学校内の火花は散っていく。そのようなバレエ漫画的な発想が自然になってしまうほど、カーチャは魅力的だ。もちろん、成人してから、成熟してからのカーチャも美しいが、若い頃のカーチャは、まるでバレエ漫画の美しいバレリーナそのものだ。踊りもだが、容姿が・・・

1950年代の映像。魅力的なカーチャ。バレエ漫画の主人公のようだ。

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運動していますか? 

 

年齢も年齢だけに少しは健康のことを考えるようになった。まずは食べる物。コンビニ弁当などは避けるとか、化学調味料は使わない、例えば、安易に「めんつゆ」などに頼らず、出汁も自分で煮干しからとか、煮干しそのものもカルシウムだから食べてしまうとか・・・

むろん、徹底はできないけれど、このような健康に良さそうな食生活をしていると、食生活が、お坊さんの食事のような、どこか地味で華やかさに欠けてくるところはある。洋食というものも作らなくなっていくし。でも、日頃地味な分、たまの外食が美味しく感じる利点はある。

食生活に関しては実行できるのだが、運動に関しては、なかなかできない。昔から運動とかスポーツって興味がなかった。さすがに何かはしないととは思うけれど、とてもスポーツクラブに入会して・・・のような積極性は持てない。このあたり、皆さんどうしているのだろう?

わざわざ「ウォーキング」と称して歩くことはないけれど、でも割と歩く方なのではないかと思う。歩くというか、散歩というものが好きなのだと思う。万歩計というものはお勧めだ。歩くことに張りあいが出てくる。地下鉄の乗りかえなど、駅によっては「同じ駅?」と思うぐらいに歩かされることがあり、○○線まであと450メートルなどとあると、以前だったら殺伐とした気持ちになったものだが、万歩計を持つと、「おっ、〇歩もかせげる」のように、気持ちの持ちように変化が出てくる。

夏は暑いので、自宅運動。ヨガなど、DVDや本を参考にしながらやったりする。初めは「こんなポーズ無理!」と思っても、徐々にそれらしい形になってきたりすると、人間は成長できるのだな・・・などと少しだけ感じたりする。

ヨガの本もそうだが、もっと一般的な自宅運動用(?)の本、体操みたいなもの?そのような本も参考にして数分、自宅で運動したりもする。このような本で、なんちゃって運動をしていると、時に思うことがある。本では、いとも簡単に「~しましょう」とか「写真のようなポーズをまずしてください」などと書かれているのだが、そのようなポーズそのものができないことがある。

「これって、僕だけが運動音痴ということなのだろうか?身体が固いのだろうか?一般の人は本に書いてあるようなことを普通にできるのだろうか?」

「片足屈伸をしましょう。両手を前に出し、片足だけでしゃがみましょう。その状態で手を使わずに立ったりしゃがんだりしましょう」などとある。これ、できない。コサックダンスのようではないか?こんなこと、普通の人はできるのだろうか?

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奇跡のカップル 

 

フィギュアスケートの演技において、これといった失敗もなく、高難度のジャンプも決めているのに、観ていてこう感じてしまう演技がある。「はやく次の人にならないかなぁ」「はやく終わらないかなぁ」

逆も場合もある。多少のミスはある。でも「えっ?もう終わり?」みたいな?観ている僕としては、それぞれの選手に対して義理も何もないし、分析してやろう・・・的な視点でその演技を観ているわけではないので、演技者としたら酷なのかもしれないが、つまらないか、そうではないか・・・だけで観てしまう。

この差、「早く終わらないかな」と、「えっ?もう終わり?」の差、よく才能という曖昧なもので片づけられてしまうことが多いように思う。これはピアノ演奏でも全く同じなのではないだろうか?聴き手を惹きつけるか、退屈な演奏か、その差はミスの有り無しのようなことではなく、才能・・・

そうかなぁ・・・と疑問に感じたりする。才能も、むろんあるのかもしれないが、むしろ技術の差ではないかと。フィギュアスケートの演技でも、バレエでもピアノ演奏でも、惹きつけられてしまうということに共通項があるように思う。それは「動きの準備があり、演技者、奏者の意思が動きやタッチの瞬間に反映されている。その技術が卓越している」ということ。逆に退屈、平坦になってしまう共通項として、「同時」ということが挙げられるような気がする。同時では遅すぎる・・・

意思が反映されることなく、「そのような振り付けだから腕をこう出しましたっ」的なもの、「音符がこうなっているから、その通りに鍵盤を押してみましたっ」的なもの?意思によるコントロール、そのための技術に対して、おおらかというか、大雑把というか、無関心というか・・・遅いというか、同時すぎるというか・・・

ピアノ演奏でも、偶然性タッチだけで演奏されてしまうと、いいタッチも偶然には存在するのかもしれないが、いきあたりばったり・・・みたいなことが多くなるのではないだろうか?その結果、ただ弾いている、押している・・・のような演奏へ。

いくら技術があっても、内面が空っぽでは何も出てこないのだろうが、むしろ割合として多いのは、内面には「こうしたい」というものがあるのだが、それを外側に伝えるための技術が不足しているために、「こんなはずではないのに」的な焦りを感じつつ、結果的には、ただ押しているだけのような演奏になってしまうことの方が多いのではなかろうか?このような場合、技術と考えるよりも、どうしても才能と考えてしまった方が、納まりがいいのかもしれない。その瞬間に自分を納得させることが容易というか?

意思、それを反映させるための準備、これは卓越したピアノ演奏動画でも感じられる要素なのかもしれないが、やはり視覚的芸術のような、バレエ、民族舞踊、フィギュアスケートのような「動きを堪能する」的なものの方が感じやすいように思う。

ジャンルはどうであれ、卓越した動き、動作には準備がある。その瞬間、その前に意思が反映されていて、無意識とか不用意といった要素が皆無なのだ。バレエの演技などでも、音楽と同時に動いているわけではない。一瞬早いものがある。むろん、音楽とずれているわけではないが、全く同時でもない。偶発的にストン・・・みたいなことが皆無。すべてに意思、コントロールがあるというか?

このカップルの踊りを初めて観たのは、オペラ映画「椿姫」だったと思う。いかにもゼッフィレッリの好きそうな舞踏家だと思った。オーラがある、二人とも華やかなオーラがあった。「椿姫」の第2幕にバレエの場面があって、スペイン風の踊りを踊るのだが、たった数分の登場なのに、それまでの主役のストラータスやドミンゴの印象を消し去ってしまうほどのインパクトがあった。

エカテリーナ・マクシモーワ&ウラディーミール・ワシーリエフ

二人はボリショイ・バレエ学校時代に知り合った。エカテリーナ、10歳。ワシーリエフは9歳だった。二人は実際に夫婦となり、お互いを高め合う「奇跡のカップル」と呼ばれた。

「もしバレエがなかったら二人は結婚していなかっただろう」というワシーリエフの言葉がある。裕福なブルジョワ階級であった女性、労働者階級の出身だった男性、バレエが二人を結びつけた。

ソビエト時代、冷戦の時代、一般のソビエトの人たちは暗い生活を強いられていたように想像する。この二人の演技は彼らにどう見えていたのだろう?それを考えると何か熱くなってくる。

不用意な箇所が微塵も存在せず、すべてに準備があり、コントロールされた技術を感じる。このような演技をオーディエンスは「表現豊かな・・・」と感じるのではないか?

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ピアノが上手くなる方法 

 

上手くなる、言い換えると、自分が受けた鑑賞者としての感動、そのようなものに自分も触れて、他者と共有できたら・・・みたいなこと。簡単に言うと、「あんな風に弾けたら素敵だろうな」みたいな演奏を自分もしたいと思うこと。

教師の影響というものは大きいだろうと思う。「まっ、プロでも受験生でもないのだから、楽しんで弾ければ・・・」とか「なんで弾けないのかしらねぇ?もっとさらって・・・」みたいな先生だと厳しいかもしれない。具体的なアドバイスをくれなかったりする先生では困る。

では、自分は自分を見限っていないだろうか?どこか「どうせ・・・」と自分で自分の限界を決めてしまっていることはないだろうか?
「音大を卒業したわけでもないし」「私が卒業した音大なんて一流難関音大でもないし」「大人から始めたから指なんて動かなくて当然なんだわ」「子どもの頃、真面目に練習してこなかったし」「電子ピアノで練習しているし」「まっ、もともと才能なんかある器じゃないし」「伸びるとか、上達なんて年齢でもないんだわ」

私は○○じゃないし、じゃないし、じゃないし・・・

CDでも他人の生演奏でも、その演奏、音楽を聴いて心が動いたのならば、いいなと感じたのならば、誰でもそこに行きつけるのではないだろうか?そのためには、いい教師、それと、いい意味での自己肯定が必要だ。「どうせ・・・」とか「・・・じゃないし」を捨てる。

どんなに、いい教師でも生徒が「どうせ・・・」みたいな頑ななものを持っていたら、教えにくいのではないかな?

ピアノに関する書物、奏法に関する書物を紐解く、それは上手くなりたいからだと思う。さらに自分の心に問いかけてみる。もしかして無意識に自分で自分のことを諦めていないだろうかと。一つでも「どうせ・・・」が潜んでいるのではないかと。もしあるのだったら、それを捨てていってみるのだ。時間はかかるかもしれないが。

感じたのだったら、実践できるのではないかな?誰でも、いつまでも成長できるのではないかな?

ある演奏を聴いて涙する、その感性にプロもアマチュアも、音大生も初級者もないのでは?

「もういくらなんでも80歳だし。成長とか、そんなこと・・・」

そうかな?この女性、80歳なのだそうだ。

人間は誰でも成長できる。できないと思うとできない。

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category: あっぱれ麗し舞台

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バッコフスキーのアリオーソ 

 

バッハ~コルトーの「アリオーソ」、原曲はチェンバロ協奏曲第5番の第2楽章。カンタータ第156番「わが片足すでに墓穴に入りぬ」のシンフォニアも同じメロディーだ。

ピアノ編曲版、コルトーの他にもいろいろあるが、個人的にはコルトーのものがロマンティックで素晴らしいと思う。ピアノで演奏するならば、コルトー編のものと僕は思っているが、最も僕を魅了してしまうのはストコフスキー編曲の「アリオーソ」だったりする。

専門家筋(?)からはストコフスキーのバッハ編曲ものは評判がよろしくないようで非常に残念だ。おそらくコルトーの編曲同様に非常にロマンの香り漂うからだろうと思う。

あれはバッハではなくバッコフスキーである・・・みたいな?

神聖で偉大なる、さらにキリスト教大元締め的作曲家であるバッハ作品には、一切人間的ロマン、肉惑的な香りをさせては絶対にいけない・・・みたいな?

美しく、魅惑的で、ロマン溢れるバッハで何故いけない?

ストコフスキー編曲のバッハ?あんなものは時代錯誤である・・・その感覚がそろそろ時代錯誤になるかもしれない。

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category: リサイタル 2018

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昇天 

 

「ゴィエスカス」の終曲、「幽霊のセレナード」はコルトーに献呈されている。コルトーに関しては僕などが何かを書く必要はないと思う。「幽霊のセレナード」は「愛と死」と対になっているように感じる。死んだマホの幽霊がマハに寄り添っている・・・みたいな?マホ(幽霊)が歌うセレナード、切々としていて、ちょっと哀しすぎるのではないか、本当には魂が浮かばれていないかのように。この曲を聴くとそう感じたりする。

来年のリサイタルでは、「愛と死」の魂を、一度昇天させてみたいと考えた。魂は愛する人と永遠に寄り添うのだが、その魂は、まず昇天して光に包まれる。その「昇天」の曲。魂が昇っていくような曲と「愛と死」を組み合わせたい。

コルトーが編曲したバッハの「アリオーソ」・・・「愛と死」の魂が「アリオーソ」で昇天していく・・・

死の直前には走馬燈のように生前の記憶が蘇る。そしてすべてから解放され、昇天していく。光に包まれて。そこには、かつての肉親や親友、恋人などがいる。姿は光そのものだけれど、はっきりとその人だと認識できる。その場所は光と愛に包まれている。

もう、かなり昔の映画になると思うが、この昇天を見事に映像化した映画があった。かなりヒットした映画だったと記憶している。臨死体験をした人から、昇天のイメージを聞いたのかもしれない。

「アリオーソ」は、まさに、このシーンそのものだと思う。

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category: リサイタル 2018

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頭髪でピアニストになった人 

 

「ゴィエスカス」第5曲、この曲は曲集の最大の山場になるのではないかと思う。グラナドス自身が楽譜にこう残している。「非常に表現豊かに演奏して欲しい。不幸のなかの幸福を表現して欲しい」と。

オペラでは決闘に負けたマホに、マハがすがりつき、死をむかえる、愛するマハの腕の中でマホは死んでいく、このような場面でこの曲が歌われる。死の直前、それまでにあったことが、走馬燈のように駆け巡っていく・・・

「愛と死」は、まさに走馬燈の音楽でもあるのだ。走馬燈、それは切ない場面の連続だ。最期は遠くの鐘の音の中で、すべてが消え去っていく。いや、すべてではないんだな。何かが残る。二人は何かを知るのだ。それがグラナドス言う所の「不幸の中の幸福」つまり愛・・・

この「愛と死」を捧げられたのがイギリスのピアニスト、ハロルド・バウアー。バウアーぐらいになると、昔のピアニストには変わりはないけれど、なんだか、ぐっと近しい感じがしてくる。コルトーもそうだけれど。

バウアー、作品として数々のトランスクリプションが素晴らしいように思う。フランクの作品の編曲ものなどは、現在でもたまに演奏されているようだけれど、その他の編曲ものも、これから脚光を浴びる(?)ような気がしている。

ピアニストとしては、往年の演奏家を知ってから以来のピアニストというか、非常に近しさを感じる。小学生の頃からバウアーの演奏は聴いていたから。シューマンの演奏が個人的には好きだ。この世のものと思えないほどの美しさ。たしか、この人はドビュッシーの「子どもの領分」の初演者ではなかったか?たしかそうだったと思う。

もともとはヴァイオリニストだった。たしか、パデレフスキが「君、髪が見事だからピアニストになったらいいのではないかな?」という一言でピアニストに転身したとか?まさかその一言でということはなかっただろうが、ピアノしか弾いてこなかった緻密職業ピアニストというよりは、音楽家というか、表現具現のための楽器としてたまたまピアノを選んだからピアニストになった・・・のようなピアニストに思う。まぁ、バウアーに限らず、この時代の演奏からは「達者ピアノ」というよりは「音楽そのもの」を感じたりする。

ガブリロヴィチと組んだアレンスキーのワルツ、このデュオがこの時代の演奏というものを顕著に表しているように思う。ガブリロヴィチも好きだなぁ・・・

左側がバウアー。普通の髪・・・だと思うけど?

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ラヴェルはお洒落 

 

「この曲はいい曲だね、なんという曲なのかね?」

ラヴェル自身が「亡き王女のためのパヴァーヌ」を聴いた時、こう言ったらしい。晩年、ラヴェルは記憶障害に悩まされていた。現在では認知症と診断されるのかもしれない。自分が生み出したという記憶は落ちてしまっている。でもその美しさは感じることができる。なんと哀しく、切ないエピソードだろう。

「亡き王女のためのパヴァーヌ」に限らす、ラヴェルの主要な作品の初演者、またドビュッシーの作品の多くの初演者、それがリカルド・ヴィニェス。相当なピアニストだったと想像できる。

グラナドスは「ゴィエスカス」の3曲目、「燈火のファンタンゴ」をヴィニェスに献呈している。この曲もまた3段譜満載の至難曲である。グラナドスとしては、むろんヴィニェスの腕前というところも考えての献呈だったと思うが、同じスペイン人というところもあったのではないかと想像する。誇り高きカタルーニャ人・・・

ラヴェルはスイス人とスペイン、バスク人の両親を持つ。ラヴェルの血にはスペインの血が流れていた。ラヴェルのスペイン風の曲、例えば「道化師の朝の歌」(この曲もヴィニェスが初演している)などを聴くと、なんだか怪しいまでの魅力を感じてしまう。わぁ、スペインっぽい・・・以上の魅力。たしかに、ラヴェルのピアノ曲は精巧なスイス時計とラテンの魅力が合体したような魅力がある。でもルーツ以上の何かを感じる。

パリ郊外のモンフォール=ラモーリーという街(村?)にラヴェルが晩年暮らした家があり、それがラヴェル博物館となっている。非常に古風なピアノなども飾られているが、調度品の趣味はラヴェル自身のものだとすると(そうだと思う)、非常にラヴェルという人はお洒落さんだったように思う。写真などでもパリッとスーツをパリ風に(?)着こなしている。絶対にラヴェルという人はコロンなども愛用していたはずだ。

部屋が乱雑そうな作曲家、偏見に満ちた想像だが、ベートーヴェンのピアノ部屋など散らかっていたのではないかと。あくまでもイメージだが。楽譜などもきちんと端をそろえて・・・なんてことはなく、ピアノの上に目茶目茶に積まれていて、その山が崩れてもベートーヴェンは気にもしなかった・・・みたいな?逆にラヴェルは、きちんとしていた。お洒落さんだから。鉛筆なども、いつもきちんと削られていて、方向も揃っていて、色別に整理されている。引き出しの中も整然といつも片付いている・・・

ラヴェル博物館を訪れた時、ラヴェルの部屋、ラヴェルの庭園を観た時、僕が感じたのは「ラヴェル、あなたはゲイだったのですね?」ということ。すべてがとてもゲイっぽかったです。

ラヴェルは生涯独身を貫いた。また、ヴィニェスも独身を貫いた。この事実から、二人は心のパートナーだったのかもしれないと。「道化師の朝の歌」のある意味での性的なまでの妖艶さは、二人の関係にも関連しているのではないか?

ただ日記などから、そのことを裏付ける文章などは一切発見されなかった。作曲家=偉人であるのならば、ラヴェルが同性愛者という想像は御法度なのかもしれないね。でも当時は、フランスでも同性愛者などとんでもない時代であったし、二人とも有名人であったから、自分の死後は私的な手紙やら日記などは調べられてしまうのは分かっていたと思う。手紙、日記への記述内容には相当慎重になっていたはずだ。

でも、このような私的なことは闇の中・・・それが美しいと思う。

ラヴェル博物館、パリを訪れるのだったら、ぜひ立ち寄って頂きたいところだが、美しさ以外には何もない(?)場所だ。電車で行くと、駅から1時間は歩くらしい。是非レンタカーで。また、フラッと訪れても中には入れない。事前に予約が必要。日本語は通じないけれど、英語は通じます。

誇り高きカタルーニャ人、やはり演奏はスペインものがよろしいかと。

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真珠の時代、鋼鉄の時代 

 

「ゴィエスカス」の第2曲、「窓辺の語らい」は、曲集の中では割と地味目の曲なのかもしれない。各曲を献呈された当時のピアニストの中で、「窓辺の語らい」を献呈されたエドゥアール・リスラーという人も知名度は低め・・・かもしれない。

献呈されたピアニストたちの中では、エドゥアール・リスラーのCDだけは僕も持っていなかった。ユーチューブでもアップされている演奏は、他のピアニストたちと比べると極端に少なくなるようにも思う。

でもエドゥアール・リスラーという名前だけは僕の記憶のどこかに引っ掛かってはいた。つまり名前だけは何かで聞いた(見た)ことがあるような気もしていた。

フォーレの「ドリー」を初演した人だった。共演者はコルトー。そうか、「ドリー」の人だった・・・

リスラーはレイナルド・アーンやシャブリエとも親しかったらしい。コルトーとは同門になり、同じディエメ門下となる。コルトーの方が後輩になるのだろうか?

リスラーの、まさしく今から100年前の録音を聴いている。もうこのタッチ感は往年組そのものだ。何と言ったらいいのだろう、軽くコロコロしていて、難所でも「これでもかっ!」のような力感を全く感じさせない。鋼鉄の響きではなく、真珠の連なり・・・とでも表現したらいいのだろうか?この「コロコロ」という軽さ、これはミクリ門下のピアニストに顕著にみられる傾向とされている。ローゼンタールとかコチャルスキとか。でも別にミクリ派のピアニストだけではなく、100年前のピアノサウンドは「コロコロ」していたのだ。

この時代の楽器、特にコントロールポイントのようなものが浅めで、微妙な感覚を求められていたのではないか?現代のピカピカのスタインウェイのように、誰でも華やかな音が出るような楽器ではなかったのかもしれない。このような楽器って凡庸なタッチには厳しく、繊細にコントロールされたタッチにのみ反応してくれる「人を選ぶ楽器」だったのかもしれない。リスラーが弾いていた楽器、プレイエルだったのだろうか?メーカー(ブランド)はどうであれ、リスラーのような「コロコロ」という感覚は、なかなか現代のスターたちからは聴くことのできないものに思える。

僕はフェイスブックもライン(とやら?)とも無関係の生活をしているが、リスラーの「お友達」はどうだったのだろうか?

グラナドス、ルイ・ディエメ、フォーレ、デュカス、コルトー、シャブリエ、アーン,・・・豪華なお友達ではある。

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美獣会コンサート 

 

ずっと所属しているサークルの練習会には参加できていない。サークルのメンバーが心配しているのだそうだ。「Kazさん、大丈夫なんですか?」と。大丈夫です。ただ現在はピアノでない本職(仕事ともいう)が忙しい。ブログ更新を数日怠っても「大丈夫なんですか?」とメールが届いたりもする。大丈夫なんですよ。ただ忙しく、頭がピアノモードにならない、なっても弾く時間がなかなかとれないという感じでしょうか。

昨日は美獣会第1回演奏会を聴きに千葉の八千代台という所へ行ってきた。会場のショパンサロン、いい会場なのではないでしょうか?基本的に、ピアノのオフ会とかサークルの練習会、あとは昨日の美獣会のようなピアノ仲間のコンサートなど、演奏についての感想を綴ったりって、なぜかできない。オフ会報告ブログによくあるような、Aさんのショパン、音が綺麗で素晴らしかった・・・みたいな文章が書けないんですね。おそらく、ブログって僕にとっては考えていること、感じたこと、日頃思っていること・・・などを綴るところで、「僕は昨日○○をしました」みたいな「あったこと報告」を綴るのは基本的に苦手なのではないかと。

美獣会のコンサート、ある音大を卒業し、現在はピアノ教師という方々4名が演奏されたのだが、やはりピアノ教師が人前で演奏するって、暗譜でクラシックの曲を演奏するって大切なことなんだなと思った。発表会の講師演奏とはまた違うプレッシャーなのではないかと思う。

演奏を聴きながら、突然20年前の事を思い出した。その頃は僕も若かったので、介護に燃えていたところがある。いわゆる「天ぷら揚げ機」と呼ばれている機械浴槽、つまり寝たままの入浴ではなく、全員は無理でも普通の浴槽で顎まで湯につかって欲しいと思ったんだね。入浴の目的は保清だけじゃないでしょ?「あ~気持ちいい・・・」みたいな?本当はそこでしょ?

「私は昔から半人前だから、そんな無理しなくても。私にそんなことしてくれなくても・・・」Aさんはそう言ったけれど、何年ぶりかで浴槽につかり、天井を見ながらではないお風呂に入った。そして泣いたんだ。「死ぬ前に昔のようにお風呂に入れて頂くなんて」と。それはうれし涙だったのかは分からない。Aさんも泣いたし、その場にいたスタッフ全員も泣いたね。

その時まで、介護とは高齢者に「○○してあげる」と思っていた。Aさんは我々にお礼を言ったけれど、本当は我々がお礼を言うはずなのだ。介護とは高齢者から何かを頂いているのだと。してあげる、助けるではなく、相手からもらう・・・

昨日の演奏を聴きながら、何故かそのことを思い出していた。これは昨日の演奏会の感想になるだろうか?

これからのピアノ予定だけれど、今月の26日にはピアノ仲間とピアノオフ会。山梨の甲府が会場。何故山梨?主催者さんが甲府在住の方だから。僕が勝手に名付けて「葡萄が目にしみる オフ会」と呼ぶ。甲府の街は林真理子の「葡萄が目にしみる」のイメージなので。参加メンバーの演奏についてはブログでは書かない(書けない)けれど、甲府名物の「ほうとう」の感想は書くかもしれない。

その4日後、さいたま芸術劇場で「ムジカ・ソアーヴェ 第25回 勉強会」に出演。僕は本来、その会には無関係なのだが、演奏する。

サークルの練習会にも出席したいなとは思っている。

今年の11月、第5回ピアチェーレの演奏会。この演奏会の受付は10月1日から。このブログにリンクしてあるピアチェーレのページを覗いて頂けると、とても嬉しい。会場は雑司ヶ谷音楽堂。

来年の2月は自分のソロリサイタル。会場はピアチェーレ演奏会と同じく雑司ヶ谷音楽堂。ピアチェーレ演奏会の受付は10月からだけれど、ソロリサイタルの受付は、現在受付中。まぁ、満席になるとは思えないけれど・・・

一応(?)、○○がありました、○○を予定しています・・・的ピアノ近況報告でした。

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残酷な本場のピアニズム 

 

「ゴィエスカス」各曲の献呈者は以下のようになる。

「愛の言葉」 エミール・フォン・ザウアー
「窓辺の語らい」 エドゥアール・リスラー
「燈火のファンタンゴ」 リカルド・ヴィニェス
「マハとナイチンゲール」 この曲のみピアニストへではなく妻のアンパロへ
「愛と死」 ハロルド・バウアー
「幽霊のセレナード」 アルフレッド・コルトー

グラナドスから曲を捧げられたピアニスト、往年のピアニストの演奏を好む人であれば、胸キュンのようなピアニストばかりなのではないかと思う。僕もその中の一人にはなると思う。それぞれのピアニストの演奏、辛うじて録音が残っている。コルトーは有名だと思うし、またフランスもの、ドビュッシーやラヴェルを弾いたことのある人だったら、リカルド・ヴィニェスの名前も近しいだろうとは思うが、やはり彼らの演奏というものは、どこか往年趣味の特別な人が聴く演奏といった認識もあるのではないかと思う。

ウィーン郊外、バーデン・バイ・ウィーンのホテルの窓から一人の日本人女性が飛び降りた。調べによると、和服を着たその女性は、日本のピアニスト、久野久と判明した。

エミール・フォン・ザウアーに師事する、久にとって大きな意味があったに違いない。久の演奏を初めて聴いた時、ザウアーはどのように感じたのだろうか?「これではお話にならないな」と感じたのだろうか?個人的な想像なのだが、ザウアーは久の演奏を好ましく感じたようにも思う。東洋から来た和服の女性、西洋音楽未開地からヨーロッパへ、憧れと情熱、そして執念だけでやってきた女性。「ああ、東洋人もここまで弾きこなせるのだ」と、むしろ歓迎、驚嘆したように思う。

音楽への熱い想い、ベートーヴェンに焦がれた想い、たとえ久の演奏に奏法的問題点を見出したとしても、そしてザウアーは見出したと思うが、そのようなことよりもザウアーは久の想いをまず評価したと想像する。ザウアー自身もそのような想いを持つピアニストだったと思うし、ピアニストってそのようなものだとも思うから。

大変に好ましい、この人は音楽に焦がれている・・・とは感じても、その演奏がそのまま当時のヨーロッパでピアニストとして通用するとはザウアーには思えなかった。なので言ったのだ。「基礎からやり直さなくては・・・」

以後、久はザウアーのことを語らなくなる。「私は日本では一番のピアニストだった。ここでも通用するはず。ザウアーなんてフン・・・」と思ったのだろうか?久は自分の演奏が本場で通用すると思っていたのだろうか?

これも個人的な想像だが、自分の演奏では正直通用しないと久は自覚していたのではないかと。当時の偉大なピアニストの演奏を久は多く聴いていたらしい。感じないはずはないのだ。「自分とは違う・・・」と。ザウアーに言われたように、その違いを埋めるには、日本で頑張っていたのと同じでは埋まらない。指から血がほとばしるような練習だけでは、もうどうにもならないと。弾き方の根本から直さないと。そのことを冷静に考えてみると、華々しくヨーロッパでデビューするには、もう自分は遅いのだと・・・

もし久が純粋なる「音楽学生」としての渡欧であれば、本当のピアノの弾き方というもの、それはエッセンスのようなものだけしか身につかなかったのかもしれないが、それでも明治の時代に、本当のピアノの弾き方というものの一部が日本に伝わった可能性がある。そのようなことを考えると本当に残念だ。

久は本場で活躍するしか道がなかった、ここが久の悲劇であったのかもしれない。ある意味、日本では歓迎されない異端児であった久は、日本に戻りたくなかったのではないか?でもヨーロッパでは通用しない。西洋の文明には未開な遥か彼方の日本という国の女性が、結構達者に弾くという意味では多少は驚かれたかもしれないが、根性ピアノではヨーロッパでは通用しなかったのだ。金銭的な問題もあっただろうし、言葉の壁というものもあっただろう。いつまでも通訳同伴でレッスンを受け続けるというのも無理があるように思うし、その通訳がザウアーの教えを正確に、音楽の髄、メカニカルな要素を久に伝えられただろうか?

「決定的に何かが根本から間違えている。それは痛いほど感じる。でもどうしたらいいのか、それが分からない。具体的に何をどうすればいいのだろう?加えて自分にはお金も時間も、そして語学力もない」

行き詰ってしまったのではないだろうか・・・

何かが違うのは分っている。でもどうしたらいいのか分からない・・・実はこれが最も辛いのではないだろうか?では血が出るほどの練習を・・・これだけではどうにもならないことを久は知ってしまったのかもしれない。

ザウアーのリスト、リストの高弟ということよりも、この演奏は久には残酷なものと聴こえてしまったのではないだろうか?

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ピアニスト グラナドス 

 

作曲者の自作自演、ご本人の演奏なのだから、お手本のような演奏を想像してしまったりするが、意外と「ラフ?」と感じることが多い。ドビュッシーとかフォーレとか。「楽譜と違うのでは~?」などと単純に驚いたりもするが、曲へのアプローチというか、再現への方向性が一般的職業ピアニスト(?)とは異なる印象を持ったりもする。

でもそのように感じるのは、現代のピアニストの演奏によって、その曲を我々が認知することが多いからかもしれない。よほどの「往年ファン」という特殊(?)な趣味の人でなければ、CDを買ったりするのは、現代のスターのものとなると思う。どこか無意識に、練り上げられたというか、機械で完璧に修正、お化粧された演奏に慣れてしまうと、作曲者自作自演は、どこか自然というか、ラフというか・・・

クラシック音楽は再現芸術なのだ、ジャズなどとは違うのだ。それはそう思うし、そうでなければクラシック枠から外れてしまうのかもしれないが、ただ完璧に再現できる人はいくらでもいる。現代の演奏家でも、惹かれる要素、つまり演奏会を聴きたい、CDでその人の演奏を聴きたいと思う要素としては、完璧な再現の部分というよりは、枠外の部分というか、その人でしか聴くことのできない部分であり、現代でもピアニストとして長く活躍している人には、この人でなければ・・・みたいな個性があったりはしないだろうか?

グラナドスがピアニスト、作曲家として活躍していた頃、グラナドス自身を取り巻いていたピアノ界、ピアニストたちのサウンドはどのようなものであったのだろうか?自身が卓越したピアニストであったグラナドスの演奏には、ある意味でのラフさは一切感じない。ラフマニノフの自作自演と、そのような意味では共通点を感じる。

かつては、ピアニストとは再現、演奏するだけではなく、今では演奏家としてだけ名を残している人でも同時に作曲家でもあった。つまり音楽家として総合的なインテリジェンスのようなものを持っていたのではないか?その点でグラナドスの演奏と、当時活躍していたピアニストと共通しているものを感じる。

ラフマニノフの難渋な曲、独特な音の厚みの連続を感じる。怒涛の和音・・・みたいな?誰が弾けるの・・・みたいな?グラナドスの難渋さ、「ゴィエスカス」のような曲には、厚さの連続というよりは、分散させた難渋さというのだろうか、駆け巡る難渋さを感じる。鍵盤を左右に駆け巡る、そのため楽譜がどうしても3段譜になってしまう、そのような難渋さ・・・ラフマニノフと同様、誰が弾けるの・・・みたいな?

「ゴィエスカス」の初演はグラナドス本人が行っている。「ゴィエスカス」の、それぞれの曲は当時活躍していたピアニストたちに献呈されている。当時のスターたちに。

まずは、グラナドス自身の演奏を聴きたくなった。怒涛の3段譜を軽々と孫悟空のように(?)駆け巡るグラナドスを聴きたくなった。さらに、当時のピアニストたち、グラナドスから曲を献呈されたピアニストたちの演奏も追ってみたくなった。

そこには現代のような「私書く人」「私弾く人」という完全分業制度ではなかった時代を感じることができるような気がしている。

kaz




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愛と死 

 

生死学での考え方だと、どう死ぬかは、どう生きてきたかに比例する。死と生とは切り離せないものなのだ。では生の目的は?それは愛を知ることだとされている。そのように捉えると、ゴィエスカスの「愛と死」は人生観、死生観そのものの曲とも言える。2月のリサイタルでは、冒頭に、この「愛と死」から始めたいと思っている。

ゴィエスカスの中でも「マハとナイチンゲール」は、まあまあ(?)演奏される機会もあると思うけれど、最大の山場である第5曲の「愛と死」はそれほどでもないような?あまり聴きやすい曲でもないのだろうか?実はこの世で最も切ない、哀しいサウンドがこの曲には込められている。あまり演奏されないのであれば、なおの事演奏したいと思った。

グラナドスは人生の有限性というものを常に感じながら生きていたのではないか?そう感じる曲でもある。彼の死因は病死ではなく、事故死。それも海で溺れて死んでしまったのだから、自分の死期というものを予感していたとは思えない。でも愛は知っていたんじゃないかな?自分の命よりも大切な命があった人なのだから。その人と人生を歩んでいたのだから。

人生の有限性を感じながら生きている人、つまり、なんとなく今日の続きが明日で、そのような日々がなんとなく続いていくと思って生きていない人に共通しているのは、有限性を感じているからこそ、負のオーラに包まれて人生を、時間を無駄にしたくないという切なる思い。自分への困難、災難、これは多かれ少なかれ誰にでもあると思うが、そのことに翻弄されて時間を見失うことを最も恐れるのだ。たとえ重篤な病を宣告されたとしても。

このように感じられる人は強いのだろうか?むろん困難や試練のようなものは決して楽しいものではないけれど、自分のことは内なる最大限の力を総動員してなんとかするものなのだ。なんとかなる・・・

でも、不思議なことに、自分とは関係ないような、遠い異国の見ず知らずの他人の事などに翻弄されてしまい、動じてしまうようなことがある。本当に自分でも何故だか分からないのだが。

タンザニアという国、アフリカ大陸にある国なのだな・・・とはチラリと感じる程度で、実際には何も知らない。おそらく、自分が将来タンザニアを旅行することもないだろうと思う。非常に自分にとっては遠い国ではある。でもその国の出来事に切なくなったり、絶望を感じたりして、自分でもどうしたらいいのか分からなくなるほど動揺してしまったりする。心がざわついてしまう。自分の災難ならなんとでもなると思っているのに・・・

タンザニアの大統領はジョン・マグフリという人。この人はゲイに対する差別的な発言もあるらしいが、それよりも僕を打ちのめしたのは、女性に対する発言。

「妊娠した女子学生は学業を続けるべきではない」

タンザニアの女子学生は強制的に妊娠テスト(?)を受けさせられるらしい。妊娠していると退学させられてしまうらしい。

世界のどこかで、このようなことが実際に行われているという事実に動揺してしまうのだ。妊娠は女一人では決してできないはずなのに。何故女性だけが勉強する権利さえ奪われてしまうのか・・・

結局、世界のどこかでは理不尽な事が行われているのだ。人生も理不尽なことの連続のように思えたりするのだ。

だから切ないんだよ・・・

これがグラナドスの「愛と死」には詰まっている。この世のすべてが詰まっている。人生のすべてが詰まっている。

人それぞれ、何らかの方法で乗り越えていくのだし、心のざわつきを整理していくのだろう。そして進んでいく。でも何かが、たまってしまうのだ。それを集大成したものが「愛と死」のような気がする。肉体が滅びるまでそれは続いていく。でも最後の鐘が鳴っている瞬間、光を感じるのだ。

kaz




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