ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

ギフテッド 

 

このような人が周囲にいるだろうか?大きな会社の社長であり、カリスマ主婦でもある。オリジナリティ溢れる、しかもセンスのいい服を着ている。「どこで買ったの?誰のデザイン?」「私がデザインして縫ったの」趣味でピアノも弾いている。仕事が多忙なので練習時間はなかなか捻出できないなどと言う。でもサークルの練習会ではラヴェルのスカルボを見事に弾いたりする。「いつから練習始めたの?」「えっと、2週間前からかな・・・」

もしこのような人がいたら、その人は「ギフテッド」と呼ばれる人かもしれない。ギフト・・・なので神から授かれた才能だ。なんでもできてしまう人だ。音楽家だとヤッシャ・ハイフェッツが「ギフテッド」だったとされている。あとはアインシュタインなんかもそうだったらしい。まぁ、超優秀人間のことだ。

キャサリン・ヒーリーもそうだったのではないかと個人的には感じたりしている。基本的にはバレリーナ・・・であったのかもしれない。でもスケートも滑るし、新体操や水泳も見事にこなしたそうだ。映画女優としてもゴールデングローブ賞にノミネートされたりしている。学歴としてはプリンストン大学卒業。う~ん、あなたは何者?

ギフテッドの人、なんでもできてしまう超優秀な人なので、悩みもないのだろうと思うが、そうでもないらしい。あまりに優秀なので、既成概念からはずれてしまうところがある。通常の教育システムとか。つまり普通の人々を対象とした社会から、どこか浮き出てしまう。ギフテッドの人が感じる孤独感、そのようなものも相当なものではないかと僕は想像する。既成の教育では飛び出てしまうので、自分でプログラムを組み、独習し・・・という強さのようなものも必要となってくるのではないだろうか?

アメリカなどではギフテッド対象の教育プログラムなどもあるそうだ。たしかに「飛び級すれば」などというレベルではなく優秀なわけだから、そのような特別なものも必要となってくるのだろう。

ちょっと調べてみたが、日本の場合はギフテッドに関する理解などは相当遅れているようだ。むろん日本にもギフテッドの人は存在しているが、そのような人が疎外感を感じることもあるようだ。普通ではない・・・医師の診断などで軽いアスペルガーなどと診断されてしまい、自分は障害を持っているんだなどと悩んだ人もいるらしいし、学校などで、どうしても目立ってしまうのでイジメにあっている人もいるらしい。

人と違う、このことが攻撃の対象になってしまう社会ってどうなのだろう?自分に自信がないと似たような人と集まり、似た者同士の集団になる。集団だと安心だよね。だから異なる人は脅威にもなる。それを認めると自分たちが危うくなるから「ええい、排除してしまえ、イジメてしまえ」みたいな?年齢差別、セクシュアリティーへの差別、どこかリンクしているように思えてならない。

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バレリーナがリンクで滑ると・・・ 

 

知ったから生活に影響があるわけでもない些細なことでも、それを知ると嬉しい・・・ということはある。もうかなり昔、1980年代の初め頃だったと思うが、テレビであるスケーターの演技を観た。たしかアメリカのアイスショーか何かの放送だったと思う。そのスケーター、ジャンプはあまり得意ではないというか、せいぜい2回転どまりだった記憶があるのだが、動き、身体のラインが、バレリーナのようで印象に残った。

フィギュアスケートとバレエは、どこか似ているところもある。スケーターが自身の表現力アップ(?)のために日々のリンクでの練習の他にバレエを習うということも、それほど珍しいことでもないみたいだ。でも彼女の場合は、バレエによってスケートも・・・というレベルではなく、「もろバレエ」のような?非常に印象に残ったのだが、そのスケーターの名前は失念してしまっていた。

プロスケーターのショーだったようにも思う。おそらく演技をしていたのは競技生活を引退したスケーターたちなのだろうと思った。アメリカのショーだったので、かつて活躍したアメリカの女子シングルの選手の演技をユーチューブで追ったりもしていた。でも該当する選手はいない。バレエのよう・・・という選手はいるのだ。でもあそこまでバレエ・・・という人は見当たらない。アメリカだけではなく他の国の選手も追ったりしていたが、該当者はなし。もしかしてアマチュアの競技会では冴えなかった?

アメリカ人の友人に訊いたりもした。「ジャンプで魅せる選手ではないので、アマチュア時代の戦績はそれほどでもない可能性がある。でも所作がバレエそのもので素晴らしい。そんな選手って思い当たる?」

「う~ん、バイウルとかゴルデーワかな?」たしかに彼女たちの動きは綺麗でバレエの要素を感じさせる。でもそうではなく、バレリーナそのものの人。「う~ん、誰だろう?」

キャサリン・ヒーリーという人だと判明した。たまたまジョン・カリーのことを追っていて判明した。ジョン・カリーが彼女を指導しているような写真を見つけたのだ。「そうか?ジョンのカンパニーで滑ったりしていたのか」現役=競技会=引退=プロとしてアイスショーという普通(?)の道を歩まなかった人なのだ。幼い頃からプロスケーター、そしてバレリーナとして活躍していたらしい。なのでアマチュアの戦績・・・という調査(?)では引っ掛かってこなかったのだ。

久しぶりにヒーリーの「バレエそのもの」のような滑りを堪能した。この動きは彼女にしかできない。この時、また10歳ぐらいなんだよね。小学生じゃないか!ジャンプだけで考えれば、ジュニア、ノービスの段階で今の日本だったら3回転をバンバンこなしているのだろうが、このようなバレエそのもののような動きを身につけている人は今でもいないのではないだろうか?

知ったから何かが変わるということでもないのだが、なんだか嬉しい。

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仮のピアノライフ? 

 

ピアノ教室の現場というか、場面でこのようなことはないだろうか?電子ピアノを購入してピアノを始めた生徒。真面目だし、ピアノも好きなようだ。上達していくんじゃないかな?音大とか、いきなりそういうことではなくても、もうちょっと深くピアノというものを学ぶためにも、是非アコースティック、できればグランドピアノで練習してもらいたい・・・

結構あるパターンなのではないかと思う。やはりこのような時、発音そのものが異なるので、とか、タッチの感覚とか、やはり電子ピアノでは限界があるので・・・みたいな説明をしていくのが普通なのではないだろうか?

それは正しい・・・にしても、可能性としてその生徒の家庭は電子ピアノを選択することもあるだろう。経済的な理由かもしれないし、ピアノのために引っ越しまではできないという理由もあるだろう。

電子ピアノを選んだ場合、その生徒が「仮のピアノライフ」をこれからは送るんだと感じないような説明を先生はして欲しい。大人の再開組・・・のような場合も、心のどこかで「どうせ電子ピアノだから・・・」みたいなピアノライフは送らないで欲しい。

本式=グランドピアノ
テンポラリー=電子ピアノ

このような単純図式は少々寂しい。

グランドピアノ買いました、でも辞めちゃいました、ピアノ?う~ん、レッスン辛かったし、あまり楽しくなかったし・・・

このような人も結構多いのではないだろうか?電子ピアノでも最高のひと時を自分が弾くことで得られる人、これまた結構多いのではないだろうか?

いずれはグランドピアノ・・・その考え自体は間違えではないにしても、そうならなかった場合、そしてそのような場合も多いと思うが、そうなった時に「どうせ仮のピアノライフだから」と思わせないような説明というか、誘導をピアノの先生はして欲しいなと思う。

アコースティックのピアノでなければダメなんだ、電子ピアノだから・・・どうせ・・・

こうなると不幸なような気がする。

この電子ピアニスト(?)、実に楽しそうだ。「僕、どうせ電子ピアノだし・・・」とは感じていないような?

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電子ピアノですが・・・ 

 

日頃は電子ピアノで練習している人は多いと思う。子どもの場合もそうだろう。子どもの場合、「いつ辞めるか分からないし」とか「音大とかそういうことではないので・・・」という保護者の思惑(?)も入ってくるのかな?

やはりアコースティックのピアノ、できればグランドピアノでないと・・・

ピアノの先生はそう望んでいるようだ。タッチとか、専門に学ぶ(そもそも専門に学ぶって?・・・とは思うが)のでなくても、やはり電子ピアノだと限界がある・・・のような意見は多そうだ。まぁ、「電子ピアノの生徒は教えませんっ!」と公言してしまうと、生徒獲得という意味で難しいところもあるのだろうが、本音は「電子ピアノよりは本物のピアノで」と考えている人は多いように思う。

電子ピアノだと上手くならないのか?電子ピアノは偽物楽器、単なる家電なのか?

僕自身は電子ピアノで練習している。別に不都合を感じたことはない。人前で演奏する機会には本物(?)のピアノで演奏するけれど、そのような時でも、多くの人が語るような「本物のピアノだと弾けない」とか「弾きにくい」と感じたことはない。以前はスタジオで練習していた時期もある。歩いて〇分の場所にユー〇ピアノという店があるので、そこで。でも最近はそのようなこともなくなった。電子対アコースティックという違いよりも、アコースティックのピアノの個体差の方も大きいのではないか・・・などと思うようにもなった。つまり自宅の電子ピアノに不都合は一切感じていないのだ。

「まっ、それなりの演奏力だからそう感じるんでしょ?」そうなのかもしれないし、むろん自宅にスタインウェイのピアノがあれば、そりゃあ電子ピアノよりもいいな・・・などと思うのかもしれないが、このような妄想ってきりがないような?もしスタインウェイだったら、もし自宅の練習室がサロン風のホールだったら・・・とか。

多くの場合、経済的な理由というよりは、音問題、楽器不可物件・・・のような理由で電子ピアノを選ぶのではないだろうか?

人生の一コマ、日常の中に「ピアノ」とか「演奏を楽しむ」みたいなことがあればいいな、そう思った時、電子ピアノでという選択もあっていいのではないか?何のオブジェクトで弾くかということよりも、そのオブジェクトで何をするか、何をどう弾くかということに重点をシフトしていくピアノライフ。

ピアノブログは数多いけれど、いいな・・・と感じる電子ピアノでの演奏を紹介しているブログって少ない。というか存在している?

あっ、素敵な演奏だな、楽しそうだな、僕も私もこのようなことが生活に組み込めればいいな、人生が楽しくなるのだろうな・・・そのような場合、「やはりグランドピアノでないと・・・」という思考だけではなく、電子ピアノでも・・・という発想もあっていいのではないかと思うのだが?

素敵な電子ピアノ演奏・・・

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亡くなるときまで I love you・・・ 

 

音楽と臨終の時、人生の終末期というものとの関連性は研究されていて、ミュージック・サナトロジーという言葉もあるぐらいだ。最近では日本でもリヴィング・ウィルなどという概念が医療現場では考えられてきているようにも思う。緩和ケアなども、そんなに異端なことでもなくなってきたように思う。音楽という、感情を動かすものと命との関連性はこれからさらに深まっていくようにも思う。

もともとは米国から広まってきた概念ではある。この分野で有名な人と言えば、テレーズ・シュローダー・シェーカーという人だろう。この人は臨終の場でハープを弾きながら愛に包まれる場を実践している。1970年代、この人は学費を稼ぐために高齢者施設で介護の仕事をしていた。ある人が苦しんだんだね。直感的にその人の頭を少しだけ持ち上げ、耳元でグレゴリア聖歌を歌ったのだそうだ。そうすると、その人は苦痛表情を和らげ、落ち着いた安堵した表情になったそうだ。音楽と苦痛緩和が学問として結びついた瞬間でもあった。

さらに昔から、臨終の時と音楽というか、サウンドというものは人類の知恵レベルで文化を問わず取り入れられているようにも思う。耳元で祈るとか、お経とか。聴覚というものは最後まで尊厳を守るものなのだろうか?そう考えると「もう意識なんてないんだから」と、枕元でその人の死後の始末、遺産とか葬儀のことを近親者で話し合うなんて、いけないことなんだなと思う。聴こえているかもしれないのだから。理解しているかもしれないのだから。

介護の現場で長い間働いてきて、似たような経験をしたことがある。もう随分昔のことになるが、ある特養の重度のフロアの担当だった頃だ。たしか30床のフロアで、ほぼ全員がオムツを着用していたと記憶している。オムツ交換をするわけだが、経管栄養の人がほぼだったせいか、便が水様の人が多かった。オムツ内に留まっていればともかく、リネンや時には床まで漏れていたりすることもあった。「う~ん、これが3K職場の現実か~」などと思っていた。大変なんだもん。

尊敬できる先輩スタッフがいた。その人は困苦のオムツ交換時、一人一人に話しかけながら介助をしていたのだ。「今日は少し暖かかったわね」とか「紅葉が綺麗な季節になったのよ」とか。「なんでそんなことを言いながら交換しているのですか?」先輩はこう言ったのだ。「だって・・・相手は人間ですもの・・・」と。

早速僕も真似るようにした。声掛けと共にオムツ交換をしたのだ。ある方の臨終の時、肩で呼吸をし、死亡診断書を書くために医師、看護師が呼ばれ、家族も詰めかけた時、意識がないとされていたその人が手を動かそうとしたのだ。泣きながら・・・

「お母さん、私よ、分かる?」家族が話しかける。でも目は家族を見てはいなかった。手を家族ではない方に向けようとしていた。医師でも看護師でもなかった。

「ねぇ、あなたに・・・じゃない?」手は介護スタッフである僕に向けられていたのだ。何を言ったらいいのか分からなかった。ただ「辛いんですか?」と。涙を浮かべながら、その人は僕の手をそっと、そして力強く握りしめた。そして永遠の眠りに旅立ったのだ。

この経験は3K職業と言われている介護という仕事にのめり込む一因ともなった。また、サウンドとして耳元で囁いていたということが関連しているという自覚にもなった。

愛・・・というものだと思う。その人を愛していたとか、そのような感情があったかどうか、当時の僕にそのような意識はなかったと思う。でも愛と相手は感じたのかもしれない。

音楽を聴いて心が揺さぶられる、この時の感情、それは言葉で表現できないようなものだからこそ、だからこそ重いし、臨終の時ではなくても、何かを感じてしまう瞬間なのではないか?そしてその瞬間の積み重ねは人生の週末へとつながっている・・・

生まれた時から、そして死ぬときまで「I love you・・・」なのだ。愛に包まれるために人は人生を歩むのだ。音楽は時に、そのことを自覚させてくれる。代弁してくれる。

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生まれた時から I love you・・・ 

 

HSPの人は感受性豊かなのね、割合は20パーセントなのね。そうではない80パーセントの人は感受性に欠けているのね。そうなのね。もしこの説に科学的根拠があったにしても、このような機械的な振り分けは残念なような気がする。そもそも意味不明というか、摩訶不思議なことって沢山あるし、明確にしないからこそ夢があるという考えがあってもいいだろうと思う。

「音楽は言葉では表現できない深い感情までも明確に表現してくれる」というバーンスタインの言葉、科学の発達により、もしかしたら将来、感情というものは言葉で表現、説明できてしまうかもしれない。でもそれもなぁ・・・などと思う。

何故ある種の音楽を聴いて感情が揺れ動くのだろう?何故ある種の人はペットに愛着を感じるのだろう?このようなことが科学的に解明されるとする。感情が動く、つまり感動するという動きには○○という物質が関係している。この物質をサプリ化することに成功。一日2粒で、あなたも感動人間へ。演奏会の前には4粒が効果的・・・とか?そんな世の中は歓迎しないな。

先の動画で、演奏を素通りしてしまった人たち、感受性不足と考える、あるいはHSPではない80パーセントにあたる人たちだからと考えるよりは、あることを省略してしまった、面倒に思ってしまった人たちと捉えた方がスッキリする。あること、それは「伝える」ということ。言葉で伝えなくても、「あら、いいじゃない?」と感じた感情を立ち止まって聴くという行為で伝える・・・みたいな?それを面倒なのか、省略してしまったと・・・

このことを死生学、サナトロジーという観点で考えてみる。この学問は西洋、主に米国を中心に広まった比較的新しい学問だ。死は恐ろしいもの、タブー視するもの・・・ではなく、死があるからこそ生が存在している、生きたようにしか死ねない・・・みたいな?

生の目的はズバリ「無償の愛」を知り、それを伝え、包まれること。無償の愛を知るためには、人生には多くのレッスンが与えられる。課題だね。様々な困難はレッスンなのだ。そして愛を知っていく。愛を知ると、魂はすべての困苦から解放され光に包まれ飛翔していく。

う~ん、どこか宗教の勧誘みたいな表現になってしまうが、そういうことだ。人は時に無償の愛に鈍感になるし、伝えることを省略さえしてしまうことがある。日々の忙しさ・・・それもあるだろう。伝えるのは恥ずかしいという思いもあるだろう。

LINEとかフェイスブックとか大流行りだ。人は何か、誰かとつながっていたいのだ。でも表面的過ぎるような気がする。「こんなにいい店があるんですぅ・・・」とか「イタリアンのディナーで~す」とか、そんなことよりも伝えるべきことはあるのだ。

愛している、つまりあなたのことを気にかけて、思っていますという感情。恋人ではなくても、肉親ではなくても、愛は感じるはずだ。それを伝える。そのことが自分をも幸せにする。愛を発すると、その人は愛に包まれるから。

無償の愛の概念、これは簡単だ。親が子を思う感情がその一つになる。1980年代、エイズというものが接触で、あるいは空気感染すると考えられていた頃、親がエイズの子どもを勘当してしまう、縁を切ってしまうということがあった。子どもは発症し、もう最期だなと感じた時、勇気を振り絞って親に会いにくる。車いすに乗って。変わり果てた姿の息子を親は抱きしめるのだ。これが無償の愛。愛を伝えるということ。愛していると伝えるということ。

アメリカでテロがあった9・11の日、崩壊したビルにいた人、墜落した飛行機に乗っていた人、「ああ、自分は死んでしまうんだ」と悟った時、多くの人が携帯電話のメッセージやメールで同じ言葉を愛する人に伝えたり、残したりしている。それは「I love you・・・」という言葉。人間は近しい人に「愛している」と伝えたくなるのだ。

音楽を聴いて心が揺さぶられる、この摩訶不思議な感情、それは愛というものの片鱗を感じたという感覚に近い。なので伝えたくなるのだ。そのような衝動を自分で抑えられなくなる。なのでピアノの前に座るのだ。共有したいという熱望、それは自分が感じた光にともに包まれたいという感情とも非常に近い。

面倒に思ってはいけない。恥ずかしがってもいけない。そんなことはプロがすべきこととか。音楽から何かを感じるってプロだけに許されたことかな?

人は生まれた時から無償の愛に包まれながら成長していく。自覚できない頃から。音楽はその愛を自覚させてくれる。だから感情が動くのだ。

人は生まれた時から「I love you・・・」という感情に包まれている。共有したくなった時、そこには音楽があった。

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HSPという人生 

 

現在住んでいる地域から考える範囲で、ストリート・ミュージシャンと遭遇できる場所は、新宿駅周辺、あるいは井之頭公園あたりになるだろうか?流行りの歌っぽいパフォーマンスが多い。若者の絶叫系みたいな?そのようなパフォーマンスだと素通りしてしまうことが多いが、まれにアコースティック系のパフォーマンスがあったりすると、思わず立ち止まって聴き入ってしまったりもする。ギターとかハーモニカの演奏とか。

僕も流行り系というか、ロックまがいというか、そのような路上ライブは素通りしてしまうことが多いので、全く人様のことは言えないのだが、「なぜ皆聴かないで素通りしてしまうのだろう?」などと思うパフォーマンスもある。「なぜこの演奏に立ち止まらないのだろう?」みたいな。むろん、「いいな」と思ってもミュージシャンに激励の言葉を投げかけることはなく、せいぜいコインを箱や帽子に入れたりする程度なのだが・・・

ある動画がある。アコーディオンの演奏だ。建物の中で演奏しているので厳密には「ストリート」ではないが、僕だったらこの演奏に対して、思わず立ち止まり聴いてしまっただろうと思う。でも動画に登場する人たちは、アコーディオンの演奏に対して素通り、無関心なのだ。あたかも演奏が存在していないかのように。これは僕にとっては、ある意味ショックな映像ではある。

クラシック音楽って堅苦しい・・・多くの人がそう感じているらしい。日頃からクラシック音楽を日常的に親しむ人の割合は3パーセント程度とも言われる。その要因として、僕は今まで演奏にあると思っていた。下手ではないし、表面的に整ってはいるものの、ツラツラ、サラサラと過ぎてしまう演奏がなんと多いことかと。聴き手は何かしらを感じたいのだ。演奏者の出来栄えとか、練習成果の到達度のようなものを聴きたいわけでもないのだ。なんでもいい、何かを感じさせてください・・・と。そうならないのは、演奏に責任があるのだと思っていた。

知識があれば、より入りやすい音楽というものもあろうが、そのようなことよりも、感受性というのだろうか、そのようなものが音楽を受ける、聴く時にはより重要なのだとは思っていた。さらに感じ方は聴き手側の主観的要素というものもあるだろうと。ホロヴィッツが好きという人もいるだろうし、ホロヴィッツは嫌いだという人もいるだろう。でも、そのようなこと以前に「何も感じない」という演奏が多い。それは演奏に要因があるのだと。聴き手ではなく。上手だと言えば上手なのだろうが、何も感じない演奏・・・

聴き手も色々・・・このような考えは今まで持ったことはなかった。むろん、知識という観点から考えると、ないよりはあった方が、よりクラシック音楽に入りやすいということは感じていたけれど、すべての人が瞬間的に「なんだか分からないけれど、いいね」みたいな感性は持っているのだと・・・

HSPという概念があるらしい。最近の心理学での概念。HSPとは、ハイリー・センシティヴ・パーソンの略。つまり感じやすい人、感じすぎてしまう人・・・という意味になるだろうか?全人口の20パーセント、つまり5人に1人はそうなのだとされている。

芸術に対しての感性ということだけではなく、日常生活においても感性が発揮されすぎてしまうらしい。これに関しては、今までの人生を振り返ってみても思い当たることは多い。子どもの頃から感じていた。なぜ皆屈託なく他人や社会に馴染めるのだろう・・・と。ある感性のようなものが自然と働き、傷つきたくないと自分をプロテクトする心理が働く。その結果、引っ込み思案というのだろうか、消極的になってきた人生だったように思う。よく言われた。「あなたは男の子でしょ?なんで〇君のようにできないの?」みたいな?なのでピアノに逃げ込んだのだ。楽譜は読めなかったので、いわゆる上達・・・はしなかったように思うが、ピアノに一人空想、逃避の世界に走った。音楽を聴くことに関しても、泣き出してしまったり、演奏会の後は涙が溢れ、電車に乗れず、しばらく歩いた記憶もある。我ながら、自分は普通ではないのでは・・・などと思った。

これってHSPなのでは???

今でも、ある種の演奏、音楽に対して感じすぎてしまうというか、泣き出してしまうことは多い。さすがに演奏会場では自分を抑えるし、街を歩いていて「夕焼けが心に触れてくる」と道端で倒れ込んで泣いてしまうということはない。でも心の中が「ハラハラ」としてしまうことは多い。程度の差はあれ、すべての人がそうなのだと思っていたところはある。

でも、この動画を観て、もしかしたら、全人口の80パーセントの人は、すべてに屈託なく幸せで、あら~音楽?程度の入り方しかしないのではないか?それはHSPではないから?などという可能性も考えたりしている。

ピアノを弾いてみたい、大人になってから大変だろうけど、どうしてもピアノをまた弾いてみたい・・・このような人って通常の人(?)よりもHSP濃度(?)は高いのではないだろうか?大雑把、かつ大胆な表現をすれば、ピアノとか演奏、音楽が人生の生きがいになっている、大変だけれど、疲れて練習もできないけれど、人前での演奏は死にそうになるけれど(?)、でもピアノは好き。理由は分からないけれど、ピアノが好き。もしかしたら、HSPという概念が当てはまるのかもしれない。ピアノを弾く人すべてがそうだとは言わないが、確率は高いかもしれないとは考えたりする。

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100歳の少年 

 

おそらく本邦初公開になるのかもしれない。100歳の少年ピアニスト、ランドルフ・ホカンソンのモーツァルト。音そのものが少年みたい。モーツァルトも死ぬまで少年だったのかもしれないが、この人もそうなのかもしれない。

ピアノって子どもも(!!!)弾けるけれど、成熟した人のものなのだ。人生はいつからでも0歳児からやり直せる。そう思えた瞬間から・・・

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慰問はいらない 

 

今でも「慰問」という言葉を使う人がいる。ピアノ教室の取り組みの一つとして、発表会以外でも教室の外で活動を行うことがある。例えば、高齢者施設などで演奏したりとか。素晴らしいことだと思うが、先生が「先日は生徒たちと老人ホームで慰問コンサートを行いました」などと自身のブログに書いていたりする。僕が福祉側の人間だから感じるのかもしれないが、「慰問」という言葉のニュアンスから、「可哀想な人たちを慰める」みたいなものを感じたりもする。たかが言葉の使い方の問題なのかもしれないが、やはり気になる。

福祉関係者で今時「慰問」という言葉を使う人なんていないのではないだろうか?認知症の高齢者は可哀想・・・なんて思う福祉関係者なんていないだろうと思う。そう感じたら仕事が難しくなると思う。同じ人間なのだから・・・対等なのだから、基本部分でそう思えないと。排泄の世話を人様に託す、一度は自身の尊厳を崩壊させたはずだ。それでも「人間らしく生きていきたい」と思うから生きている。僕にはそのような強さはない。なので尊敬できる部分だ。可哀想・・・と感じたことはない。

いい歳してはしたない・・・日本はどうも若者優先社会というか、そんな気がする。歳を重ねるほど、輝かしい人生になるというイメージがもう少し社会として欲しい気がする。70歳の女性が「まぁ、あの青年素敵ね。私のタイプだわ」と言ったら「いい歳してはしたない」的なニュアンスの言葉が返ってきたリするかもしれない。

50歳までの人生なんて、迷って、失敗して、後悔して、突っ走った人生で、やっとこれから一歩を踏み出すという段階。人生への準備期間なのだ。

ランドルフ・ホカンソンという米国西海岸では割と知られたピアニストがいる。この人が、いわゆる「高齢者施設」で演奏している。慰問・・・ではない。入居者が可哀想だからではなく、入居者と音楽を共有するため。ホカンソン氏自身が高齢者なのだ。

氏の100歳を記念しての演奏会。おそらく、入居している多くの方々よりも、氏は年上なのではないだろうか?100歳なのだから。

「若い!」

若いというよりは、これが普通・・・という社会に日本もなっていくといい。

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pは弱い、fは強い・・・だろうか? 

 

ピアノ・・・弱く フォルテ・・・強く、クレシェンド・・・だんだん強く、それはそうなのだろうが、まれに「記号として書いてあるから」と弾いてしまったりしていることはないだろうか?音進行もそうだよね、ドソと書いてあるからドソを弾いています(押しています?)みたいな?それだけでいいのかな・・・と。

ピアニシモは凄く弱く・・・ということになるのだろうが、「ハイ、では凄く弱くここは弾くのね」だけでいいものだろうか?視覚的な情報だけでピアノは弾けるのか?むろん、ピアニシモと楽譜にあれば、そこは盛大な音響で盛り上げるということはできないのだろうが、でもただ「弱くしましょう」と手に指令を与えるような感覚で弾いてしまっていいものだろうか?

「これはどういう意味の記号だったっけ?ワークブックでやったよね?」「えっと、弱く・・・」「そうだよね?じゃあ、もっと弱く弾かなきゃ」

そうなんだけど、それだけでは記号を視覚的に判読して「○○と書いてあるから○○する」みたいな感覚だけが育ってしまう気もする。

そもそも、○○する、つまり、ピアノ、ピアニシモだから弱くする・・・という認識、感覚だけでいいものだろうか?これは「楽譜に忠実」ということとも関連してくるようなことだとも思う。

ラフマニノフに「ここは素晴らしい場所」という小さな、でも美しい歌曲がある。2分もかからないような小曲だ。僕の持っている楽譜だと、ラフマニノフは歌のパートの大部分にpという記号を記している。「弱く」ということになるのだろうか?いくつかの松葉マーク以外に、曲の最高潮、つまり最大の山場でラフマニノフはppという記号をその部分で記している。「凄く弱く」だよね?

曲は徐々に盛り上がっていく。いかにも「ラフマニノフですね?」という語法で。切なく、そしてときめきながら曲は山場を迎える。ラフマニノフは(僕の楽譜では)高いB音、つまりシの音をピアニシモで長く伸ばすよう指示している。これは最高難度だ。張り上げる方が歌手にとっては楽だろうと思う。ハイBをソットヴォーチェで・・・

ラフマニノフは、この箇所で単なる「凄く弱く」という概念を望んだのだろうか?弱い音世界、音表情をここで欲したのか?

ニコライ・ゲッダがラフマニノフのピアニシモ概念を音として具現化してくれている。

ピアニシモ=凄く弱く・・・だろうか?

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接待レッスンと胃痛レッスンと「あっ、本当だ」レッスン 

 

接待レッスンという言葉を知った。具体的にはどのようなレッスンなのかは分からない。生徒をいい気分にさせるようなレッスン?レッスン時間を高級旅館の接待のように、いい気分にさせるレッスン?生徒はお客様なのだから・・・みたいな?顧客?

胃痛レッスンというものは想像できる。子ども時代、どちらかと言えば胃痛レッスンの想い出があるからだ。先生が怖い、怒鳴られる・・・みたいな?「明日はピアノだ。あ~あ・・・」胃痛が・・・

子ども時代の胃痛レッスン、責任は僕にもある。練習しなかったから。まぁ、怒られるのも当然だろう。「まったく!少しは練習しなさいよっ」そうなんだけど、「実は練習って何をすればいいのか分からないんですぅ・・・」とは言えなかったんだよね。先生が怖いから。怖くさせてるのは自分なんだけどねぇ・・・

ピアノ、お稽古事として捉えた場合、悩ましいのは家でも練習しなければならないということ。教材の魅力だけで「ワクワク」「キラキラ」を引っ張ること、「ワッ、キャッ」という反応を得ること、実はそれほど長くは続かないような?いつかは地道に家で練習が必要になってくる。「ワッ、キャッ」だけではどうにもならない段階というのは割とすぐにきてしまう。

この「練習をしなければ」の時期と「表現と読譜、テクニックとメカニック」のようなことを合わせていくと、生徒、特に子どもの生徒は「ピアノやって何になるんだろう?」とは思わなくなるのではないだろうか?大人だって「できた!」という感覚は非常に嬉しいものだ。その瞬間があるから、長いスパンでの辛さ(?)にも耐えられるという側面はある。

弾くということだけでも難しいものへの取り組みになっていく。ただ弾く・・・だけでも。教材って徐々に難しくなっていくのが普通だと思うから。表現できたという感覚がないと、継続は難しい。「いつまで、なんのために?ピアニストになるわけじゃないんだし」みたいな?これからの時代、ピアノのレッスンというものは、接待レッスンでも胃痛レッスンでもなく、必要なのは「あっ、本当だ」レッスンなのではないだろうか?

趣味の子どもでも心の底では「上手くなりたい」と思っているものではないだろうか?教師の適格なアドバイスによって、その場で変わる、家に帰ればもとに戻ってしまうにしても「あの時、できたんだ」という思いは生徒にとって非常に大きいものだ。この「できる」は音符がつっかえずに弾ける・・・ということだけではなく、「ほら、今素敵になったじゃない?」みたいな奥深くの表現のようなものとも絡まってくるような気がする。接待レッスンの場合、最初から「この程度だったら楽しめばいいんじゃない?」とか「趣味だから表現なんて・・・」みたいな生徒をやや見下したところもないだろうか?

「あっ、本当だ」レッスン、生徒は僕も含めてだが、自分の問題点、冴えないな・・・みたいなところは大雑把に感じてはいる。教師の仕事としては、その大雑把な部分にメスを入れる。具体的情報によって。

「あなたはこうしてるけど、こうしてみたら?」「あっ、本当だ」

生徒の抱えている諸問題、気づいていない諸問題を具体的に、的確なタイミングで気づかせる、レッスン時間内の限られた時間の中で。教師のアドバイスによって、一瞬でも変化したことが音体験として生徒は得られるのであれば、家に帰って元に戻ってしまうにしても、その体験は忘れない。いつかは結びつく。生徒からすれば、それは泣き出したくなるほどの嬉しさだ。一生忘れられないほどの嬉しさだ。

ピアノって押せば音は鳴るから、声楽ほど「音」「声」としてマズイところが反映されにくい。声楽の場合、表現とメカというものは直結しているようなところはピアノよりも分かりやすいような気もする。このことは同時にピアノの難しさにもつながるとも思う。

「あっ、本当だ」レッスン、これからピアノのレッスンでも主流になっていけばいいなと思う。

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楽譜に忠実 

 

ピアニストのスティーヴン・ハフは楽譜に忠実派なのだそうだ。「楽譜には忠実に演奏します。もし書かれていることと異なることをしている箇所があったら、そこは僕が考え抜いた末にそうしているのだと思ってください」

実際にハフの演奏を聴くと、楽譜に忠実=無味乾燥、お勉強的演奏・・・というのとは正反対のロマン溢れる、ファンタジー溢れる演奏だ。これは何を意味しているのだろう?

楽譜に忠実な演奏の反対は、演奏者の自己中心的な演奏、この分類はちょっと乱暴すぎるかもしれない。印刷された楽譜、音符の連なりをどう捉えるかということとも関係してくるように思う。ドとラの音程、「えっと、ドとラを押すのね」という感覚と、ドとラという音程に何かしらのエネルギーみたいなものを感じるか、そして実際に音表現としてそれを実践するか、その違いのようなもの。

記号、音符として書かれた情報だけ「あっ、ピアノ、ここは弱く弾くのね。えっとドファラという音ね」とただ押す(!)のではなく「ピアノ、集中されたテンションのある孤独な音を要求している、その中でのドからラまでのエネルギー増大なのね」と捉えながら弾くのとは演奏として異なってくるのではないだろうか?大雑把に言えば表情記号とか強弱とか速度に関する記号として記されているものだけではなく、ハーモニーの進行とか音型とか、そのような諸要素を感じ取るということも楽譜を読むということなのではないだろうか?

フレーズの最後の音、そこは「アッハ~ン」のようにとか、突然の休符はため息のようにとか、そこまでは楽譜には書いていない。突然の休符を〇拍の休みねとただ捉えるか、そこに「ウッフ~ン」のような色気を感じるか・・・

作曲者が突然異なるものを記したのなら、そこには意味がある。逆に執拗に同じことを繰り返しているのならば、そこにも意味がある。これは初歩とか導入という段階、ごくごく入口段階でしっかりと教えられるべきことではないか?初めて両手で弾くの・・・みたいな入口段階で実は必要なこと。どうも、導入段階でその部分がスルーされてしまっているのではないか?なんとなくそんな気もする。ピアノ教室訪問をしたわけではないから分からないけれど。

多くのピアノ弾きの悩み、ブログなどを徘徊すると、ズバリ「難しい箇所が弾けないの」というものも多いけれど、本番が近づくにつれ、「なんで一本調子のただ音符並べのような演奏になってしまうのだろう?」という悩みが多くなってくる。多くの人はピアノ演奏というものの「表現の仕方」みたいなことに悩んでいるような印象を持つ。

表情がつかないという悩みがあるのならば、一度「才能」とか「感性」とか、そのようなことから離れて、楽譜から読み取るという、本来は初歩の段階で身につけておくべきことが、どこかの部分で抜け落ちていると考えてみるといいのかもしれない。感性とか才能とか、そのような曖昧なものよりは、楽譜情報を感じる習慣・・・のようなものの方が希望が持てるような気がする。

単純な音型の繰り返し、チェルニーの練習曲よりも音型の変化が少ない、そのような曲の場面を偉大なアーティストはどのように表現しているのだろう?もしかして「表現」というものも楽譜には書いてあるのかも?

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春はギターの季節 2 

 

ポンセの代表曲と言えば「エストレリータ」になるだろう。でもこの曲の栄光(?)の影で、その他のポンセの曲が目立っていないような気がしているのは僕だけか?むろん「エストレリータ」は素敵なんだけれど・・・

フレーズというものがあって、横に流れていくんだけれど、横の流れを感じるだけではなく、さらに、感じたものを人に「伝える」ためには、縦の瞬間的な音表情も大切なのではないかと思う。つまり前の音と今鳴らした音との比較によって聴いている側は「音表情」として、「表現力がある」などと感じるのではないか?縦があって横が伝わる・・・みたいな?ただ横に流れてしまい、音の瞬発的な表情、タッチ感覚が曖昧、つまりボヤンとした音だと、何か伝えられないような、もどかしさが生じてしまうのでは?

音を鳴らしてから、タッチ後に「盛り上げて・・・」というのは不可能なのかもしれないが、でも盛り上がっているように聴いている側に伝えるというのは可能かとも思う。比較ということであれば・・・

音量的な事って「縦」、歌うとか流れ的な事って「横」のように分断して考えがちだけれど、音量的なことは「横」の工夫、歌って・・・みたいな流れ的なことは「縦」の工夫で上手くいくのでは???ギターもピアノも「錯覚表現」みたいな技法があるのではないだろうか?

ポンセのギター・ソナタ・・・メジャーな曲ではないと思うが、いい曲だよねぇ・・・

このような曲が沢山あるのだろう。自分がまだ聴いたことのない曲の中に素晴らしい曲が沢山あるのだろう。それらの多くの曲を知らずに死んでいくのだ。まぁ、そんなものだろう。

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春はギターの季節 1 

 

実際に弾くわけではない。聴くだけ。でも春はギターを聴きたくなる季節なのだ。

あまり話題になることもないのだが、ピアノとギターって似ていると思う。音は発音後に減退していくし、ソロという形態が普通だし。他の楽器だと伴奏の楽器、多くの場合はピアノがある。ない場合は、わざわざ「無伴奏○○」と呼ぶ。ピアノはそれがない。ギターもだよね?

どのように表現しているか、音表情を具現化しているか、このあたりはギターの演奏ってピアノ演奏にも役立つような気がする。つまり「お勉強」として聴いても無駄ではないように思う。

でも春はギターの季節なので、ただただ聴くだけ・・・

パガニーニのイメージが変わるような曲。もともとはヴァイオリンとギターのための曲だけれど、ギターのソロでも演奏される。ギターだけだと儚さが強調されるように思う。音が減退していくって儚さ、切なさを感じさせる。本当はピアノもなんだけれど・・・

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散財の記録 2 

 

ピアノ曲の場合、ドビュッシーよりはラヴェルの方が派手で「お弾き得感」があるような?でも膨大な数の音符を読んで、メカニカルな箇所、これも膨大な範囲になるだろうが、つまり苦労してピアノソロでラヴェルを弾くよりは、アンサンブル曲の方を弾きたい。まぁ、弾きたい・・・と言っても全くそのような予定はないわけだが。でも一人で弾いていても楽しいわけだから・・・

ラヴェルには「ツィガーヌ」というヴァイオリンの曲がある。派手な曲だと思う。もし僕がヴァイオリンを弾けるのだったら、この曲は憧れるだろうなと思う。でもピアノパートも実に気分高揚させてくれる。

でも本日購入したのは、「ツィガーヌ」だけはなくヴァイオリン・ソナタも。特に第2楽章が淫らな感じ(?)がしていい。

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散財の記録 1 

 

観賞用として、声楽曲の楽譜は以前から購入していた。最近は眺めるだけではなく、実際にピアノパートを弾いてみたりしている。これが楽しい。オペラのアリアなどは、3段譜を適当にアレンジしてソロ気分で弾いたりする。それも楽しいが、歌曲のピアノパートを弾きながら、頭の中で声のパートを鳴らしながら、一人悦に入る、これも非常に楽しい。

基本的に楽譜って高価だと思う。実際に人前で演奏するわけでもないのに、一人楽しむために高価な楽譜を購入するのは、かなり罪の意識が伴う。人前での演奏はおろか、レッスンで使用するわけでもなく、ただの合わせさえもしないのだから。ダウンロードしたペラペラ譜でもいいはずなのに、声楽曲の場合は、「楽譜」として所有したくなるのだ。ピアノ曲の場合は、珍しい曲などダウンロードできれば「ラッキー!」と思い、楽譜購入まで望まないが、何故かピアノ以外の曲の場合はペラペラ譜ではなく一冊の楽譜として所有したくなるのだ。これは自分でも不思議だ。

声楽曲だけではなく、最近はピアノ以外の器楽曲の楽譜も欲しくなってしまっている、というか欲しかったので、本日ついに購入してしまった。一度だけ前にクライスラーのヴァイオリン曲の楽譜を購入したことがある。もちろん、僕がヴァイオリンを弾くわけでもなく、実際にヴァイオリニストと共演するわけでもないのだが、ただただピアノパートを弾いてみたかった、それだけの理由でクライスラーの諸作品の楽譜を購入した。一人で弾いていても非常に楽しかった。でも罪の意識も相当なものだ。実際に人前で演奏するわけでもなく、ヴァイオリンと合わせるわけでもないのだから。自分の楽しみのためだけ・・・

ピアノソロの曲だと、それほどフランス近代の曲には惹かれない方だと思うのだが、最近の傾向として、フランスものの声楽、器楽曲に惹かれている。理由は分からないが。でも困ったことに、フランス曲の楽譜って高いんだ。ピアノもそうだが・・・

レイナルド・アーンの歌曲、数曲はコピー譜で楽しんでいた。でも一冊の楽譜が欲しかった。なので購入。平気で5000、6000円するよね、フランスのものって・・・

罪の告白、懺悔のような気持ちで散財(?)した曲を紹介していきたい。

アーンの歌曲、歌のパートもだが、ピアノのパートも実に美しい。これを弾きたいというのは、ごく自然だと思うのだが・・・

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滝修行練習 

 

もう亡くなって久しい男性ピアニスト、練習の前には練習室に飾ってあるベートーヴェンの肖像画だか彫像だかに黙礼をしてから練習をしていたのだそうだ。このメンタリティー、僕にはないものだ。このようなメンタリティー、どうも女性よりは男性に多くみられる傾向があるような?音楽鑑賞記、ブログに、これに似たような鑑賞方法を書いている人もいる。ブルックナーのシンフォニーを聴く時には必ず床に正座して聴く・・・みたいな?

どこかストイックというか、ヘビーというか?音楽は神聖なものと捉えすぎというか?まぁ、人それぞれだろう。そのようにすることで、より深い音楽体験がその人にとって可能であるのならば、それは他人がどうこう言う問題でもないだろうと思う。

しかしながら、毎日のピアノの練習にも、そのストイックさを持ち込んでしまうと、時には危険なこともあるような気がする。練習が滝修行のような雰囲気とでも言おうか?

弾きなおし癖、これに悩んでいる人がいるとする。滝修行的に「まだ修行が足りないんだわ。一日つっかかる場所の練習を500回から700回に増やそう!!!」と頑張る。つっかかるのは精神が弛んでいるからだ。増やせ回数、増やせ時間・・・

頑張りは凄いが、危険でもある。おそらく、本番では、そのやり方ではきっと、またつっかかる。弾きなおしをしてしまう。「あれだけ練習(修行?)したのに?」みたいな?そこで「さらに足りないんだわ」という方向に向かう人は少ないように思う。おそらく「あんなにやったのに。私って才能ないんだわ、下手なんだわ」みたいな方向性になるのではないだろうか?

問題は、練習(滝修行?)が「本番での心配を打ち消す」という目的になってしまっているということ。もしかしたら、回数とか滝修行が必要であったのではなく、原因追及に欠けていたからかもしれない。精神修行的な頑張りって、時には本来の問題点を見つめなくても済む逃げ修行にさえなる。

弾きなおし、弾いている時、もしかしたら「長いフレーズ」とか「起承転結」みたいな、人の演奏を聴いたら、なんとなくでも感じることを、自分の練習では課していなかった・・・

本当の自分の課題、問題点って、どこか心の中を掘り起こす的な辛さが伴う。なので一般的(?)滝修行に逃げ込んでしまう。その方が楽だし、滝修行そのものは「なんだか自分はとても頑張っている」的な満足感も得られる。

引き出しに入れておくのだ。「長く」とか「やり直さない」とか?ちょっとでも引き出しの中をかき回してみれば、気づこうとしなかった癖も見えてきたりするのだ。「もしかして、つっかかったら、私そのフレーズの最初からいつも弾きなおしていた?」みたいな?本当は回数ではなく、「つっかかっても流して弾きとおす」という練習が必要だったのかもしれない。

どうもストイック・・・となってしまう人は日本人には多いのかもしれない。頑張って・・・とか好きな国民?芸術って、時には怠惰なモードも必要かもしれない。どうしてもストイック、真面目、滝修行・・・という方向性になりがちな人にお勧めの歌曲がある。

プーランクに「バナリテ」という歌曲集がある。バナリテ・・・とは「月並み」とでもいう意味だろうか?プーランクってお茶目だね。歌曲集のタイトルに「月並み」だなんて。「月並み」の中に「ホテル」という小さな小さな歌曲がある。この曲は滝修行を聴衆に連想させては絶対にいけない曲だ。努力とか、そのようなものも感じさせてはいけない曲。アポリネールの詩が素晴らしい。怠惰・・・万歳、倦怠・・・万歳・・・みたいな?

「ホテル」  詩:アポリネール

ぼくの部屋は 鳥籠のよう
太陽が窓から腕を突っ込んでくる
でも、ぼくはタバコをふかし
しばしの幻想に浸りたいだけ
日の光でタバコに火をつけてみようかな

働きたくない・・・タバコが吸いたい

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引き出し 

 

まれに「先生が何も言ってくれない」という相談メール(?)をもらうことがある。むろん、攻撃メールや意地悪メールよりはいいのだが、返答には困る。僕などではなく、それは先生に向けられるべき相談事だとも思う。

「ここ、弾けないんです」「脱力してないからじゃない?」弾けない原因が脱力不足、それが事実だったとしても、やはりそこで終わってしまっては生徒は困る。「じゃあ、どうするんですか?」「それはね・・・」というところまでは教えてほしい。

「なんだかただ弾いているというか?歌えていないというか?」「もっと心を込めて歌ってみましょう」それが難しいから先生に相談しているわけで・・・

昔は「酷い先生もいるんだな」ぐらいにしか思わなかった。非難(?)の矛先はメール主の先生に向けられていた。今は「生徒も考えようよ」という要素も少しだけ感じたりもする。考えるというか、引き出しを作り、細切れでもいいから、情報なり気づいたこと、感じたことなどを放り込んでおく。すぐには答えは見つからないかもしれないが、ある時、バラバラだった情報がつながることもあるかもしれないではないか。

ある演奏を聴いて「いいな・・・」と思った。それだけで流してしまわずに、「どこが?」「なぜ?」みたいなことを少しだけ止まって感じてみる。答えを出そうとはしなくてもいい。○○奏法だから・・・みたいな答えを探そうとはしない。ただ放り込んでおく。

各々の課題、苦手要素、得意要素、それは人それぞれではないだろうか?その割には毎日の練習方法というもの、奏法というもの、それらのものは一律であったりはしないだろうか?本に書いてあったから、ネットで読んだから・・・ではなく、オーダーメイドの練習方法も必要なのではないだろうか?

「指が動かないから」「メカニックに弱いから」という理由、もしかしたら思い込みだけで、決まったように「ハノン」「チェルニー」などをワシワシと弾いたりはしていないだろうか?日課となっていないだろうか?「まだ弾けない、練習時間が足りないんだわ」

オーダーメイド、もしかしたらチェルニーやハノンをワシワシ・・・では解決しないこと、そのような問題点もそれで無理やり解決しようと頑張っていないだろうか?もしかしたら「人それぞれ」の課題があるのかもしれない。練習方法も人それぞれ・・・かもしれない。純粋なメカニカルな問題だと本人は思っていても、本当は、もしかしたら「音楽の捉え方」「フレーズの感じ方」みたいなことに問題があるのかもしれない。

診断だけではなく処方箋を書いて欲しい、ピアノの先生にはぜひ望むことだ。これは今でも変わらない思いだ。でも生徒もただ受け身でいるのではなく、引き出しの中に感じたこと、情報などを入れておくことぐらいはしておくべきだろうと思う。

ある演奏を聴いて「あっ、いいな」と感じた、それはとても大きなことだと思う。あなたが感じた、そこが重要だ。ピアノを弾くのは「あなた」なのだから。自分でいいなと思った要素は、ぜひ引き出しに放り込んでおこう。いつか、その情報、感じたこと、つまり放り込んであるもの同士がある日リンクするかもしれない。

「右手が軽やか」「アコーディオンとピアノはタッチ感覚が違うから」「ピアノでも応用できるかも」「もしかしたら私鍵盤の底まで押しすぎてる?」「でもピアノって鍵盤の底まで弾かなくてはいけないんでしょ?」「このおじさん、楽しそうに弾いている、いいな」「自分は音楽が好き、それが伝わるような演奏が自分でもできるといいな」「でもそんなことプロが思うことなのでは?」「横のメロディーの流れが素敵な感じ?」「一生懸命さが伝わるのっていいことではないのかも?」

すべてを引き出しに放り込んでおく。

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自分で自分を差別しない 

 

大人のピアノコース・・・みたいな言葉はあるが、わざわざ「子どものピアノコース」などとはあまり言わない。ピアノは子どもが習うというのが世間一般では普通の感覚なのだろう。教室の発表会などでも「子どもの中に大人が一人」みたいなことはあるらしいが、大人の中に子どもが・・・ということはあまりないみたいだ。

でもピアノの曲って大人対象のものばかり。ショパンのスケルツォ、子どもを想定してショパンが書いたとは思えない。子ども用の曲の場合、作曲家は、わざわざ「子どものための・・・」とタイトルに書いたりする。これは普通はピアノ曲は大人のもの・・・というのが前提にあるのだ。ピアノは本来、大人のためのもの、そう考えると、人生本番で楽しむ前に「辞めました」というのも、おかしな話だ。前哨戦というか、準備段階で挫折してしまうなんて・・・

将来、ピアノ教室のホームページやピアノ教師ブログで「大人のピアノ」という表現がなくなっていけばいいと思う。ピアノは大人のためのものなのだから。あえて「子どもの生徒もいます」「子どものコースもあります」みたいな表現が普通になればいいのに。

そうなるためには、というか、そのようなことを夢想するのであれば、大人自身が自分についての年齢差別をしなくなればいいのだと思う。「もう歳だから・・・」「大人から始めると指が動かないのね」とか、それをしない。年齢で自分を差別しない・・・

それぞれの多様な価値観・・・そのようなものが普通になっていけばいいなと思う。芸能人の婚約会見、結婚式、「お子様は何人の予定ですか?」生むと決めてかかっている。生まない喜びという人生だってあるのに。結婚しない選択、喜びというものだってあるのだ。

話題がそれまくりですね。年齢についても差別しない世の中になればいいなと思う。

「75歳です、ピアノを始めようと思います」これが普通になればいいなと。ボケ防止とか脳科学の観点からとか、副産物目的ではなく、人生を満喫するためのピアノ。そんな世の中になればいい。

この人は77歳から声楽を習い始めた。習い始めて半年。舞台で「帰れソレントへ」を歌っている。素晴らしい・・・声楽は身体が楽器だから、ピアノよりも年齢とか、加齢というものが関わってくるはずだ。でもそれが普通・・・となっていけばいい。

一人のソレント人は、この人の「帰れソレントへ」を非常に高く評価している。でもそれが普通なのだ。

マチュアというのは、人生で最も喜ばしいことなのではないだろうか?

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帰れソレントへ 2 「アモーレ民族」 

 

ルカに言わせれば、日本人はイタリア人に次いで感傷的な民族であり、イタリア人に次いでアモーレ民族なのだそうだ。「イタリア人と日本人は兄弟なんだ」そうかぁ?

日本人ピアニストとイタリア人ピアニスト、少なくとも似ていないがなぁ・・・などと思う。日本人はイタリア人に次いで感傷過多なのだそうだが、そこはサムライ精神で自分自身を律するのだそうだ。そうかぁ?

「帰れソレントへ」の音源についても、素晴らしいのはイタリア人に次いで(!!!)日本人の歌唱なのだそうだ。ルカは二つの音源を僕に紹介してくれた。そのうちの一つは僕も知っていたが、もう一つは知らなかった。

日本人の演奏、ユーチューブの演奏をイタリア人、それもソレント人に教えてもらうというのも、なんだか変な感じではある。日本の印象って、「寿司」とか「芸者」とか「自動車」「精密機器」のようなものを西洋人は連想するのだと思ったが、感傷的、アモーレの人と連想する人もいるのが嬉しいような、恥ずかしいような?

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帰れソレントへ 1 

 

ソレント出身のルカは自称「ソレント博士」なのだそうで、「帰れソレントへ」も我が故郷の曲、多くの音源を聴いているのだそうだ。彼の一押しは、やはりナポレターナの大御所、クラウディオ・ビルラの歌唱。

聴いてみると、「演歌みた~い」というのが第一印象。この濃さがいいのかな?

この曲、昔は(今も?)学習指導要領の共通教材になっていたような?音楽の授業で習ったような記憶がある。授業でフェルマータの意味を習ったのだと思う。「ハイ、この音符はフェルマータなので伸ばしましょう」みたいな?皆で斉唱するのだから、「ハイ、〇拍伸ばしましょう」のようになるのだろうが、本場の歌とはかなり違っていたような?

歌詞は日本語訳だったように思うが、全く記憶にない。長い間、風光明媚なソレントの風景を歌った曲だと思っていたが、ちょっと違うんだね。まぁ、ソレント宣伝みたいな目的で作られた曲らしいのだが、そこに必ず「アモーレ」要素が入っているのがイタリアらしいところだ。

♪ 
美しい海、感傷を誘う
風はオレンジの香りを運び、その香しさが恋心に沁みる

君は僕に言ったよね?「さようなら」と
僕を見捨て、僕の心を捨てたんだ
僕を置き去りにして・・・

行かないで・・・
これ以上僕を苦しめないで
ああ、ソレントへ帰ってきて・・・

やはり詞も「演歌みた~い」と思う。

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タッチ前の瞬間準備 

 

指を上げて振り下ろす場合、それこそ重力の法則で鍵盤に指先が「当たる」という感じになるので、ニュアンスが乏しくなる。この場合、聴いている方は「基音の連続ばかりを聴かされている」と感じる。これがバタバタしているな・・・と感じる一因だろうとも思う。このような演奏は、拙い場合は「ただ音符を並べている」のように感じるのかもしれないし、練習を重ね、それなりに弾けるようになった場合でも、なんというか、「ご説明演奏」のように聴こえてきたりもする。「ここは第二主題なんですよ~」みたいな?形式を外側から攻めている演奏というのだろうか?演奏者自身はどこへ?このような曲なんですと説明されているような?あなた自身は・・・みたいな?

腕というか、身体をマックス利用のような演奏は、音そのものの立ちあがりというか、テンションに欠けてくるようにも思う。演奏、サウンドが「面」すぎるというか?心地よく流れていく・・・みたいなところは、指弾きにはない魅力だが、聴いている側のテンションを奪うまではいかないというか?どこかラウンジで鳴っている癒しムード系。やはり、やはり「面」だけではない集中された「点」みたいな瞬間も欲しいような?この部分は言葉では説明するのが非常に難しいところだ。

バーブラ・ストライサンドが同じ曲を歌っている。実際のミュージカルの舞台で、少女がバーブラのようなアダルトな魅力満載で歌うのは都合が悪いだろうが、バーブラの歌声にはあるものが存在している。それは準備・・・であるように思う。ピアノだと、弾く前に鍵盤に指を置いておく・・・のようなことが徹底されている。

この曲に限らずだが、バーブラの歌い方の特色の一つとして、考え抜かれ、準備をしてから発音、発声している・・・ということがある。発音のニュアンスもそうだし、楽譜が4度、5度という音程を成していれば、それをただ流して歌ってしまうのではなく、それに対しての意識があり、その意識を歌声(音表情)として聴き手に伝えられている。

ド~ラという音程の場合、ラの音にパコン(?)と行ってしまうのではなく、入念な準備がある。考え抜かれているはずだが、いかにもその場で思いつきました的な自然さがある。同じ音が連続する場合の言葉(単語)のニュアンスなど、卒倒ものだ。

ピアノの場合も、このような「点」的なテンションが欲しくなるのだ。紫色の煙草の煙の奥から邪魔にならないようにアンニュイでジャジーな歌声が聴こえてくる、お酒にピッタリだわ・・・ではなく、音表情として決然たる意思、テンションが含まれていて欲しい。ピアノ演奏でも、これが欲しいのだ。かといって基音ばかりバタバタ聴こえてきても困るのだ。このあたりの悩ましさ・・・

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元気に明朗、または気だるくアンニュイ 

 

指で弾くのか、腕で弾くのか、奏法をこの2種類に分けてしまうのは、どうも大雑把すぎるような気はする。特に日本の場合は、ハイフィンガー奏法という哀しい歴史(?)があるので、腕の重みを乗せる奏法というものに必要以上に大きく振られる傾向もあるように思う。指を振り上げ、そして振り下ろすような弾き方だと疲れるし、音色が大雑把になりがちだ。この弾き方は、なんというか、明朗会計的な、はっきりした演奏になると思う。とても(演奏者自身が)頑張っているような気分にもなる。日本のピアノ界は、かつては西洋に追いつけ、追い越せみたいなムード満載だったと思うし、日本人のストイック好きな国民性(?)に絶妙にマッチし、この奏法が広まったのではないか?

でもやたら腕信仰というのもどうなのだろう?発色というのだろうか、音の鳴った瞬間のテンションみたいなものは、腕信仰弾きだと、ちょっと物足りなくも感じる。雰囲気は出ているように感じるが、やはり大雑把というか?

指中心弾きだと、一つ一つの音が明朗になり、純真な子どもが一生懸命にハキハキと歌っているような感じになる。でもこの感じでモーツァルトもショパンもドビュッシーも同じように演奏されると困ってしまう。聴いている方としては、音符が多くなればなるほど「バタバタバタ」とした印象さえ受ける時がある。

腕信仰弾きだと、なんというのだろう、アンニュイな感じでラウンジで鳴っているサウンド・・・みたいな感じのする演奏になる危険性もないだろうか?音の鳴る瞬間の音の意思というのだろうか、瞬間的なテンションに欠ける。演奏者の姿は腕をやたら動かし、顔表情も劇的で天井を見たり恍惚表情になったりと忙しそうなのだが、サウンドが曖昧というか、アンニュイ一色というか?個人的には最近のピアノ演奏の多くは、クラシックの曲なのに、癒し系ミュージックのようにも感じたりする。

ハキハキ明朗演奏でもなく、でもアンニュイ癒し演奏でもなく・・・

奏法→表現  

もしかしたら、この順番というものに素直すぎるのかもしれない。もしかしたら

このような音表現にしたい→奏法

なのかもしれない。

自分なりの素人感覚なのだが、何かをしたい・・・と脳が発した時、つまりピアノで表現する時、指とか腕という感じではなく、指の付け根と手のひらの内側から前腕にかけて肉体的テンションが集まる気がする。このあたりは人による・・・のかもしれないが、少なくとも腕全体・・・という感じでも手首より先・・・という感じでもない。大きな軽いビーチボールを片手で掴む感じ・・・だろうか?集めるというか?腕信仰の弾き方の場合、音がフワフワと散ってしまい、散漫に聴こえてきてしまうような気もする。

どちら・・・という問題でもないのかもしれない。指にしろ、腕にしろ、「こちらの弾き方」という限定つき考えだと、色々と難しいところも出てくるのではないだろうか?

この曲はミュージカルの中の曲だが、肝心のミュージカルは観たことはなくても、この曲はなぜか聴いたことがある・・・みたいな曲。歌っているのは映画版の主役なのだろうか?いかにも夢を捨てない少女が太陽に向かって歌う・・・みたいな歌い方だ。明朗ハキハキ純真・・・

指信仰弾きだと、どの曲もこの歌声のようになるのかもしれない。

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フーテン 

 

僕が故郷で育ったのは、昭和40年、50年代ということになる。映画「男はつらいよ」シリーズと重なる。今まで「男はつらいよ」シリーズは観たことはなかったのだが、最近観始めたところだ。全部は観られないとは思うが。

下町特有のポンポンとした、そして強い口調の話し言葉が非常に懐かしい。お互い悪気はないのだが、傍目には喧嘩しているようにも見えてくる。「フーテン」という言葉は寅さんそのものだが、実は僕の叔父も兄弟からそう言われていた。「テルはフーテンだから・・・」

テル叔父さんは、当時(今でも?)普通の人生とされていた生き方とは異なる生き方をしていた。「流し」という仕事をしていたので、厳密には「フーテン」ではないと思うが、僕の父を含めた兄弟からはそう思われていたのだろうと思う。きちんとした会社に就職し、結婚をし、家庭を築き地道に生きていく、そこからそれると風来坊、つまりフーテンであると・・・

当時、自分の好きな道、それはテル叔父さんにとっては「歌」というものだったと思うが、それを捨てずに生きたということは相当茨の道だったのではないかと想像する。今でも似たようなものかもしれない。塾に通い、偏差値の高い学校に入学させたい、入学したい、つまり有名企業(?)に就職し、勝ち組になりたい、させたい・・・このような人生設計は現在でも普通にあるように思うし、主流派なのではないかとも思う。ある意味、僕の子ども時代とは変わっていないような?テル叔父さんのような生き方は、やはり今でもフーテン・・・なのかもしれない。

最近、柴又の駅前に「さくら像」が登場したのだそうだ。フーテンの兄を見送る妹、さくらの像。愛があるからこその憎、失望というものもあったのでは?切なさというのかな。フーテンに生きる本人の茨道しか考えていなかったけれど、周囲の想い、つまり、妹さくらの想い、最近はここにも想いを馳せてみるようになった。

父から意見を求められる母、「テルに言ってやれよ、いつまでもフーテンじゃマズイだろうと」母は嫁という立場だったので、いつも「ええ、まぁ・・・」としか答えられなかった。父も弟を愛していたのだろう。就職先をテル叔父さんに紹介することもあったらしい。でも上手くいかない。「困ったものだ」「ええ、まぁ・・・」

テル叔父さんも辛かっただろうが、周囲も辛かったのかもしれない。最近はそう感じたりもする。

「悪いな、俺は好きに生きることしかできない。歌は捨てられない。皆には迷惑をかけていると思っている。でも地道には生きられないんだ。そのような性分なんだ。悪いな・・・」

見送る、さくらの気持ち・・・最近は考えたりもしている。

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category: 昭和歌謡「公園の手品師」の日記

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故郷は下町 

 

故郷というものには、複雑な想いがあるらしい。友人のルカがそうだ。彼は南イタリアのソレントで育った。若い頃は人情熱いソレントから脱出したくて仕方なかったらしい。家族や親族との関わり合いというものが濃すぎるというか、そのような土地柄なのだそうだ。現在も彼は故郷には住んでいない。「複雑なんだよな・・・」と。

僕自身も故郷からは脱出したかった方だ。若い頃はそう感じる人間も多いのではないだろうか?故郷というよりは、日本から脱出したかった。アメリカへ留学した理由は、勉強したかったというよりは、異なる文化の中で暮らしてみたかった、日本から脱出したかったからだと思う。

現在は東京に住んでいる。ある意味、故郷・・・なのだが、現在居住している地域は、同じ東京でも僕が育った地域とは全く雰囲気は異なる。なので、故郷に住んでいるという実感は非常に薄い。ルカが現在住んでいるミラノと彼の故郷、ソレントと同じ距離感が、僕の場合も存在しているように思う。同じ東京なのに。

でも、年齢を重ねたからなのか、たまに僕にとっての故郷が懐かしくなる時もある。東京在住の地方出身者などは、僕が感じる郷愁のようなものよりも、何倍もの強い想いを感じるのだろうか?そうなのだろう。でも同じ東京に住んでいるからこそ、故郷を訪れることもないのかもしれない。電車に乗ればすぐなのに・・・

今度の休みに訪れてみようか、そう思ったりもする。でもルカほどではないにせよ、複雑な想いはある。そのようなことを考える余裕が生まれたということなのだろうか?

柴又、この街の名前を聞くと、複雑な心境になる。ソレントと似ているのは義理、人情・・・みたいなところだろうか?若い頃はそれが重かったのだ。まとわりつくような感じ?

柴又は交通が不便だと思う。どこから行くにしても、乗り換えが多い。このことが陸の孤島まではいかないが、街の雰囲気を保っている一因なのかもしれない。京成線でも本線ではなく、金町線という路線に乗り換えなければならない。本数も少ないんだよね。

柴又で有名なのは、やはり「男はつらいよ」シリーズ、つまり寅さんなのではないかと思う。柴又は寅さん色に満ちている。帝釈天の参道とかね。でも江戸川も風情がある。「矢切の渡し」も有名なのではないだろうか?柴又から渡し船に乗ると(あっという間に着く)対岸は千葉県の矢切という場所だ。はっきり言ってゴルフ場以外には何もない。復路でまた柴又に帰るしかないのかもしれないが、このあたりは小説「野菊の墓」の舞台ともなった土地だ。民子と政夫が永遠の別れをしたのが、この矢切の渡しなのだ。たしか野菊の墓の文学碑も近くにあったように思う。文学碑しかない・・・とも言えるが。

東京の下町の雰囲気満載だが、浅草とも異なる雰囲気だ。このあたりで育った人、僕の祖父などもそうだったように記憶しているが、は行の発音がさ行に近くなる。「東」は「しがし」、「日が昇る」は「しが昇る」のように。

懐かしいが、複雑だ。でも近々出かけてみようと思う。何年ぶりだろう?

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達者なことはいいことなのか? 

 

子どものコンクールなどで、恐ろしく達者な子どもがいる。小学生で難曲を弾ききってしまう。これはどうしてだろう?まぁ、才能・・・と言ってしまえばそれまでだし、努力というものもあるだろうと思う。真面目とか勤勉とかも。

彼らの弾いている姿というか、奏法には、ある共通点がある。それはユーチューブでも(その気になれば?)確認することができる。子どもは成長の途中段階なので、多くの場合、手や指は出来上がっていないことが多い。でも難曲は弾ける、これは腕の重み、身体の重みを上手に活用しているように思う。弾けるということは悪いことではないのだろうが、手放しで驚嘆すべきことであるとも限らないような気はする。達者な子どもの奏法は、ある意味往年の巨匠の弾き方と正反対のように思える。椅子にただ座って弾くというよりは、身体を総動員して能率的に(?)弾く。腕の重みというか、腕を鍵盤に乗せる感覚で弾くと、パッセージは確かに弾きやすい。

再び雁部一浩著の「ピアノの知識と演奏」から引用してみる。「たしかに腕を鍵盤に乗せるような感覚で弾くことによって指の負担は軽減し、速いパッセージを安定したレガートで弾くことが容易になります。音量や音色も揃いやすくなり、音がかすれる危険も少ないので、とりあえず難しい楽曲をそつなく弾くには良い奏法です。露骨に言えば、試験やコンクールの為にも有利でしょう」

僕もそう思う。非常に能率的な弾き方のように思う。指のアジリティが未発達な時期には、効率を最優先しなければ難曲は弾けないだろうから。

「しかし、この方法によって多くの人が、そつなくピアノを弾けるようになる反面、芸術的な音楽表現が犠牲になる傾向も否定できません。鍵盤に腕の重さを乗せる感覚を重視するので総じてタッチがレガートに偏り、アーティキュレーションの多様性やポリフォニーの対比が乏しくなりがちです。その結果、良く言えば流麗、悪く言えば凡庸な印象になるのです。このような意味でスポーツ的、健康優良児的な演奏は現在いたるところで見られるものです」

達者な子どもの演奏、一見(一聴?)パッセージなど見事なのだが、「音」に関しては、クリスタルクリアではなく、一瞬での音の立ちあがりの魅力に欠ける。大雑把には見事というか?でも指コントロールによる、音表情の多彩さ、これに欠ける。なので、曲を形式というか、外側から攻めているような演奏に聴こえてくる。楽譜が浮かんでくる演奏というか?また視覚的にも非常に熱演・・・のように見えるので、さらに「達者」という感覚が増していく。これは誰の好みなのだろう?子ども・・・ではないような気がする。教師?聴衆?審査員?どうなのだろう?音量や音色は揃っているのだが、変化に乏しい。なので、さらに大きな音を出そうとすると、まるでピアノに覆いかぶさるような演奏姿になってしまう。

往年の巨匠たち、指のアジリティが凄かったのではないかと想像する。指の付け根の部分の瞬発力。その部分でのコントロール力が凄いので、鍵盤の途中の微妙な部分を狙うことができたのではないだろうか?一瞬の音の立ちあがりが明確なので、大騒ぎしなくてもオクターブの連続なども軽々と弾けたのでは?

巨匠が難曲を弾くとどうなるのだろう?音表情そのものは、壮大なる雪崩・・・のような迫力があり、色彩パレットも豊富になる。指でのコントロールが素晴らしいのだ。難所でも飛び上がって弾く必要はなく、ただ鍵盤を見つめたまま淡々とした姿のまま弾けてしまうのだ。往年の巨匠・・・に限らずなのだが、本当に上手な人は弾いている姿として、上肢が動かない。これは共通しているように思う。

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演奏姿 

 

ピアノ奏法について、自分なりに感じることはある。でも言語化が非常に困難ではある。「バリバリ」という鋼鉄の音ではなく「コロコロ」みたいな音が好き、このような大雑把な言葉になってしまう。往年の巨匠たちの音は「コロコロ」している。労働を感じさせない演奏姿だし、ただ座って鍵盤を淡々と見つめ弾いている。でも演奏というか、出てくる音表情は多彩・・・なんだよね。バリバリ派は演奏姿が派手だ。恍惚奏法というのだろうか、腕を振り回し、時には天井を見つめ苦し気な表情やら恍惚表情で演奏する。でも音表情は単色というのか、曲の場面変化に音表情がついていかないというか?見た目は忙しそうなんだけど。難曲になるほど、「どうだ!!!」みたいな肉体的なものに酔っているというか?

手首を固定して指だけで弾く・・・古い奏法
腕全体を有効に用いる・・・新しい奏法

どうも、極端に走っているように感じる。特に日本の場合、ハイフィンガー奏法という哀しい歴史があったためか、腕信仰のようなものがあるように思う。やたら腕を振り回し、身体全体で弾こうとするためか、顔(音ではない)表情まで派手になっている感じだ。「型」というものがあり、そこに当てはめようとしているというか?「今はこうなんです」という型、主流の弾き方から、はずれるのを極端に恐れるというか?「こうなんですよ」というものに皆が盲目的に走っているというか?

指ではなく腕全体を多用すると、腕の重さは一定だから、タッチは揃う。ミスは少なるだろうし、流麗な感じにはなる。でも一定すぎるということは、どこか「凡庸」な印象を与えるのではないか?どこか現代の演奏に通じるものがあるような気がする。

鍵盤の底まで弾きましょう、芯のあるしっかりした音を出しましょう

このような信仰もまだ根強いように思う。なので指で猛烈に叩いてしまったり、腕全体を多用し、身体全体で弾こうとする。これは重力奏法ではなく、「重圧奏法」ではないだろうか?この場合、安定・・・はするかもしれないが、鍵盤の途中を狙うような、往年の巨匠たちの音のような、コントロールされた音表情には遠くなるような気がする。

鍵盤に指を乗せてから弾く、底ではなく途中のポイントを狙い、最小限の労力で弾く

往年の巨匠たちの音にはこれがあるように思う。まぁ、コロコロ・・・という言い方になってしまうが・・・

ある意味、これも型にはめてしまうことになるのかもしれないが、往年の巨匠たちの演奏姿、弾き方に共通しているものがあるとすれば、そこを感じてみることは無駄なことでもないように思う。でも往年組の映像というものは極端に少なくなる、ここが悩ましい。ローゼンタールやラフマニノフの弾き姿、もうこれは想像するしかない。聴こえてくる音表情から、こう弾いているのでは・・・と想像する。

でも少数ながら、映像が残っているピアニストもいる。その演奏姿で共通していること、それは雁部一浩著の「ピアノの知識と奏法」から引用すれば、「卓越したピアニストの共通した特徴、すなわち音楽の場面変化によって大騒ぎすることなく、常に動作が一定している」ということになるのではないかと思う。さらに引用すれば、「巨匠たちの多くは、ほとんどただ座っているだけという弾き方でした。現代の多くのピアニストが、これでもか、これでもかと力みを感じさせるようなパッセージを実に軽やかに弾いています」ということにもなるのだと思う。

あまり知られていないピアニストかもしれないが、ヤコブ・ギンぺルの演奏姿。上肢がやたら動く・・・というのとは正反対の演奏姿だ。鍵盤に指を置いてから弾くということも徹底されているような?この音、コロコロした音・・・

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現役!!! 

 

「浅田真央、もういい歳だんだから、そろそろ引退すればいいんだよ。そう思いません?」ネット上ではなく、リアルな生活の中で直接言われると返答に困る。そのような言葉を僕に言った人は、僕よりも年上の男性だったので、「その発言は年齢差別になるのではありませんか?」と返すのは難しかった。このような場合、どう返したらいいのだろう?親しい友人とかだったら年齢差別主義者なの?などと言えるが、仕事絡み関係者などの場合は難しいなと思う。

その時は「年齢差別だ!」と返さず、専門用語を駆使し(?)「でもルッツのエッジ修正とかサルコウのようなエッジジャンプにも挑戦しているし・・・」などと返したように記憶している。相手は意味が分からなかったようだが・・・

米国には「雇用年齢差別禁止法」というものがあるのだそうだ。日本にもあるのか?

日本の場合、仕事先を職業安定所で調べても、まずは年齢で仕分けされてしまうことがある。「45歳まで」とか「30歳ぐらいまで」とか堂々と書かれている。この場合、55歳の人は門前払いされたような気分になるのではないだろうか?日本ではそれが普通・・・と慣れてしまえばいいのかもしれないが。

米国では、そもそも履歴書というものには名前、住所、電話番号、メールアドレスなどしか個人情報を記載しない。日本では普通に情報を要求されるもので、米国では書かない情報としては、性別、出身地、生年月日(年齢)など。これらの情報は基本的には履歴書には書かない。写真の添付も必要ない。

外国のキャリアの航空機を利用すると、キャビンクルーが日本のキャリアのそれとは異なることに気づく。まずは男性のクルーが結構いるということと、クルーの年齢層が様々ということだ。日本のクルーは若い女性が多く、募集の際には年齢なども選考対象になっているのではと思うほどだ。(なっている???)

若い=善  加齢=悪  みたいな単純仕分けは辛いものがある。自分自身が「アダルト世代」に分類される年代だからだろうか?

先に紹介したカナダのゲイリー・ベーコン、アダルトな魅力で現在でもスケートを滑っているようだ。

ゲイリー・ベーコン、現在57歳。頑張れぇ・・・

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引退??? 

 

「真央ちゃん、ありがとう、勇気と夢をありがとう!」この気持ちは理解できる。ファンであったとは言えない僕でも理解できる。現役の選手としては引退ということになるのだから。でもこうも思う。浅田選手はスケートは続けるのだ。むろん、オリンピック出場枠がどうとか、戦績はどうとか、そのようなこととは離れるのだろうが、でもスケートは滑っていくのだろう。これからも。一つの区切りではあるのだとは思うが・・・

彼女が新たな人生として、例えば看護師を目指し、看護学校に入学する・・・と言うのなら、この「ありがとうモード」でいいのかもしれないが、でも、スケート人生はこれからも続いていくのでは?

アマチュアの競技会と、プロスケーターのアイスショーとは別物、それはそうなのであろうが、でも現役引退後、成長している人もいるのではないかと思う。例えば、ロバート・ワーゲンホッファーという人、この人は現役時代の演技よりも、プロになってからの演技に惹かれる。別人のような変化とさえ感じる。ロビン・カズンズもプロになってからの方が魅力的に感じる。このような人は結構存在しているような?

このゲイリー・ベーコンというカナダの人のことは全く知らなかった。エレイン・ザヤック選手と同じ時代に現役として滑っていた人だ。ザヤック選手ほどの派手な(?)戦績は残してはいないようだ。カナダ代表として世界選手権にも二度出場している。13位と10位という戦績だ。ワールドに出場ということだけでも、それはそれは凄いことだとは思うし、世界10位という成績は立派だとは思うが、派手な戦績とは言えないかもしれない。現役時代の映像はカナダ選手権での演技をユーチューブでも観ることができる。「まぁ、普通かな?」という印象だ。下手ではないが。

でも現役を退いてからのベーコン選手の演技は別人のように素晴らしく感じる。僕の中では「まぁ、普通かな?」から「この人はブレードの神様なのでは?」というように昇格(?)してしまった。

ジャンプなど、現役時代が最も素晴らしく、引退しプロとして活動するようになると、ジャンプは落ちていく・・・とされているが、彼の場合はジャンプの空中姿勢とか、現役時代よりも進化しているような気もする。

現役引退・・・あまりにもここが強調されてしまうのには、ちょっと違和感を感じたりもしないではない。現役引退を「音大卒業」と同じように考えてみたらどうだろう?定期的な実技試験も、点数というものからも卒業後は離れるのだろう。卒業後の演奏は、どこかプロスケーターのアイスショーみたいな?でも下降線・・・ではいけないはずだ。最も上手だったのは、音大の卒試の時・・・なんて悲しすぎるではないか。まぁ、ピアノよりはスケートの方が加齢というものが直接的に反映されるだろうが、でも成長とか進化というものは普通にあるのではないだろうか?

浅田真央選手の未来のプログラム、プロとしてのプログラム、期待してもいいのではないだろうか?素敵なプログラムが生まれそうだ。

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自分への挑戦 

 

浅田真央選手のファンというわけではなかった。ユナ・キム選手の演技に惹かれていた。でも当時は(今も?)彼女の演技が好きとは言えないような殺伐とした雰囲気もあったように思う。スケート観戦から離れてしまった理由の一つでもある。

先の会見で「スケートへの恩返し」みたいなことを浅田選手は言っていたように思う。この言葉で何か僕自身は救われた気持ちがした。自分は輝くことができた、スケートをしていたから・・・このように感じられたから。

トリプルアクセル、おそらくこのジャンプに拘っていたのだろうし、周囲もこのジャンプのことばかりを話題にしていたように思うが、個人的には浅田選手の競技会での演技ではルッツとサルコウに注目していた。バンクーバーオリンピック後、佐藤信夫コーチと出会ってから、基礎の修正を行ったような印象を持つ。ルッツのエッジの修正とか。ノービスからジュニアへ・・・みたいな選手だったら「基礎を直しましょうね」も受け入れやすいだろうが、浅田選手には過去の実績があった。それでも挑戦した姿が素晴らしかったように思う。「自分への挑戦」というように観ている方には感じられたものだ。過去最低の成績などと言われた最後の全日本選手権でも、ルッツとサルコウは回避しなかった。清々しさを感じたのは僕だけであろうか?

自分への挑戦という意味で、一人の選手を思い出す。アメリカのエレイン・ザヤック選手。この人は例の「ザヤック・ルール」で有名になってしまった感もあるが、どこか浅田選手と重なるところがある。演技のタイプというのだろうか、そこは全く異なる。ザヤック選手は「元祖ジャンプ娘」みたいなところがあり、浅田選手というよりは、伊藤みどり選手を連想させる。

でも少女が難しい技を簡単にこなしていくという衝撃感、観客席を啞然とさせる様子などは、かつての浅田選手とも似ているかもしれない。1981年の世界選手権で2位になっている。「えっ、トリプルいくつ跳んだ?」みたいな驚きがあった。翌年の世界選手権で初優勝。この時は苦手なコンパルソリーでは、まあまあの位置につけたが、なんとショートプログラムで大失敗。7位でフリーに挑んだ。でも優勝してしまった。当時の採点システムでのフリー6人抜きは凄いことのように思う。84年のオリンピックでは、コンパルソリーで出遅れ15位発進。でもショート、フリーで挽回し、総合6位まで躍進した。このあたりはソチでの浅田選手を彷彿とさせる。

オリンピック後の世界選手権で銅メダルを獲得し現役引退。1984年のことだ。その10年後、つまり1994年に一度だけ現役に復帰している。その年のオリンピックは、プロスケーターにも一度だけの復帰のチャンスが与えられた大会だったのだ。10年間、アマチュアの競技会というものから遠ざかっていたザヤック選手は、30歳近い年齢になっていたはずだ。

残念ながら、全米では4位に終わり、オリンピックには出場できなかったわけだが、ここでの彼女は「自分への挑戦」というものを試みたのではないかとも個人的には感じる。10年前とはジャンプ難易度のレベルが全く異なる。しかも、ミシェル・クワンなどという若手も台頭してきていた。

ザヤック選手は94年の全米ショートで、トリプルループをプログラムに組み入れている。このジャンプはトゥループを得意としていたザヤック選手には鬼門・・・のようなジャンプではなかっただろうか?81年、世界選手権で2位になった時もループはクリーンではなかったし、翌年優勝した時もループはダブルに回避している。

10年後、絶対に失敗できないショートプログラムで鬼門であるループに挑戦した。現役時代にはショートにループジャンプを入れたことはなかったはずだ。若かった現役時代にさえ、一度も挑戦しなかった技を、30歳近くなって、しかも10年の競技会ブランクがあったにも関わらず、彼女はループをコンビネーションで跳んだ・・・

過去の自分への挑戦ということでもあったのかもしれない。またかつて、自分を輝かせてくれたスケートというものへの恩返しという気持ちもあったのかもしれない。「スケートがあったから、自分は輝くことができた」

ザヤック選手は幼少の頃、芝刈り機の事故で左足の指を切断している。スケート靴には詰め物を入れて演技していた。そもそも、スケートは療法目的で始めたのだ。

「浅田真央は引退すべき!」と言っていた人もいるようだ。そのような人に、このザヤック選手のショートプログラムを観て頂きたいようにも思う。何も感じないのかもしれないが・・・

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