ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

音霊の鎖 

 

とても素晴らしいピアノ教師がいたとする。ちょっとしたアドバイスで生徒の演奏が変化する。「そこ、なんだか大変そうに弾いているんだけど、そこはこうしたら?」「あっ、弾きやすい!」とか「こうしたらこうなるんじゃない?」「あっ、本当だ!」みたいなレッスン。でも、そのような教師でも、生徒が何も感じていなければ、導いていくのは難しいこともあるのではないか?そもそも「あっ、本当だ!」と生徒が感じるということは、生徒自身の中に理想のサウンドが存在しているということのような気がする。

「こうしてみたら?」「変わったじゃない?」・・・「そうですか?何も感じませんが?」

「この曲、いいわよね?」・・・「別にぃ・・・」

そもそも、そのような人はピアノなど、わざわざ弾くだろうかという疑問が残ってくる。ノウハウによって、かつて生徒が感じた音霊体験が、今度は自分自身の演奏として具現化しやすくなるということはあるだろう。でも感じるということは生徒側の仕事(?)のような気もしてくる。

ピアノ演奏って結構(物凄く!)複雑で難しいものだから、どうしても各々の課題のようなものが目の前に立ちはだかってくる。「よし、課題克服ね」それは大事なことだが、ピアノを弾く究極の目的はそこではないだろうとも思う。聴き手は演奏者の課題克服を聴いて心が動くわけでもないだろう。火のように練習して「あっ、できた!」となっても、音霊というものから授かった自分自身の心の動きのようなものが伝わらなければ、聴いている人は困ってしまうだろうとも思う。「あんなに頑張ったのに・・・」そう演奏者は感じてしまうかもしれない。頑張り、克服は大事だが、人は演奏者の頑張りを聴きたいわけでもない。そこがシンプル、かつ難しいところだ。

クラシック音楽って拡散力というよりも、時代を超えて伝わっていくという特色があるように思う。CDショップの片隅に追いやられ、売り上げなんてJポップとは比較にさえならない。そんなジャンルではあるのかもしれないが、人から人へ時代を超えて伝わっていく。

ある演奏を聴いて、音霊を感じる。鑑賞者として、そこで終結してしまうこともあるし、それが音楽を聴くということなのだろうが、感じたものを自分でも触れてみたくなるという人もいるのだ。なのでピアノを弾いている・・・

音霊は、人から人と伝わって、伝承されていく。ここがクラシック音楽の素晴らしいところだ。鎖のように音霊は時代を超えて連鎖していく。

選ばれたピアニストだけが音霊を感じることができるのだろうか?万人が持っている能力なのではないか?それは学歴、習っている期間、何も関係ないのではないか?感じるかどうか・・・

弾けてから、上達してから・・・ではなく、まず音霊を感じることが先なのかもしれない。だからその曲を練習するわけだから・・・

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ
スポンサーサイト

category: ピアノ雑感

tb: --   cm: 0

△top

音霊 

 

「どうせ私なんか・・・」こう思って生活していると、神様(いるのか?)は、「ああ、この人は、どうせ・・・と思って生きるのが好きなんだな」と判断し、そのような状況をさらに与えてくれるのだそうだ。思うだけではなく、それを言葉にして書いたり言ったりすると、さらに強いエネルギーとして、その人を支配してしまうらしい。言霊・・・

音が入ってくる瞬間がある。生活していて、他の人たちは素通りしてしまっているけれど、自分には入ってくる瞬間。音霊が入ってくる瞬間。「ああ、なんていい曲なんだろう」とか「素敵な演奏・・・」と心が立ち止まる瞬間。

ピアノを弾いている、或いは、ピアノでその曲を弾こうと思った動機のようなもの、、それに直結するようなものだ。音霊が入ってきたのだ。音の高低の連なり、音の重なりの変化・・・そのような音霊が心を立ち止まらせたのだ。

「ああ・・・」というこの瞬間を大事にしたい。ピアノ歴などは、人それぞれ。大人になって始めた人だっているし、専門機関を卒業した人だっているだろう。厳しい訓練というものを重ねてきた人だっているだろう。でも音霊は各自のピアノ歴、音楽歴に関係なく入ってくる。気づくか、気づかないか・・・

ピアノの練習って、非常に日常性のあるものだから、ついつい、なんとなく練習してしまう。音符を音にしていく、弾けない・・・という箇所を弾けるようにしていく。その繰り返しになってしまう。そこに音霊という考えを入れてみる。心に音霊が止まる、感じるということは学歴などには関係ないことなのだ。「なぜ私はこの曲を弾きたいと思ったのだろう?」

「次の練習会、この曲なんかいいかもね・・・」以上の動機が必ずあるはずなのだ。心を奪われた箇所、音霊が入ってきた箇所があるはずなのだ。

一応弾けるようになってから・・・ではなく、曲に入る瞬間から必要なこと、自分が魅せられたという瞬間を、片手でゆっくりでいいから、再現してみるのだ。間違えてもいいのだ。自分で「ああ・・・これこれ、これなのよ」という音霊を再現してみる。譜読みの瞬間から・・・

印刷された音符を、ただアウトプットしようとするのではなく、心にインプットされた瞬間、その箇所を逃さない、「ああ・・・この曲・・・」とインプットされた音の魂、もしかしたら、○○音大卒業、○○音楽院留学、○○コンクール入賞、CDも〇枚発売中・・・という人よりも、あなたは音霊を感じたのかもしれない。弾けるようになってから・・・ではなく、音の魂を感じたというところを忘れないことが弾けるということになっていくのかもしれない。

あなたが音に立ち止まった瞬間・・・

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: ピアノ雑感

tb: --   cm: 2

△top

ハイソなお芸術? 

 

バレエは好きだ。でも知識は皆無に近い。僕の最も好きなバレエは「ドン・キホーテ」で、つまり派手な演目が好きだったりする。ミーハーなのかもしれない。ドンキのバジル、是非ワシーリエフの舞台は実際に接してみたい。キトリは誰でもいいが・・・

ニューヨークに住んでいた時にはアメリカン・バレエ・シアターの会員になっていて、バレエは結構観たような気がする。でも基本的にはミーハーなので、スターが出演する派手派手な演目ばかり観ていたような?

帰国後、誘われてバレエを観た。たしかにバレエからは離れていたねぇ。演目は「パキータ」だったと記憶している。外国のバレエ団の引っ越し公演ではなく、日本のバレエ団の公演だった。とても誠実というか、立派な舞台だったように思う。「パキータ」は華やかなバレエだと思ったが、アメリカで体験してきたバレエ鑑賞と比較して、どこか客席の盛り上がりに欠けるような気はした。一応拍手はある。でも「わっ!」「キャッ!」というような客席の盛り上がりがないのだ。

客席もピアノの演奏会などと比較すると、お上品な人が多かったような印象だ。ハイソなマダム・・・みたいな?

アメリカン・バレエ・シアターの公演では、客席の盛り上がりが凄いのだ。凄いのだ・・・と書いたが、僕のバレエ体験はアメリカでのものなので、バレエとは盛り上がるものだと思っていた。でも日本でのバレエは、どこか「おハイソ」であり、客席には静謐な空気さえ漂っていた。まぁ、クラシックバレエだし、芸術だし、それが普通なのかもしれないが・・・

アメリカ人は特に陽気なのだろうか?正直というか?派手な技に対しては素直に反応がある。「ワ~オ!」「キャーッ!」みたいな?芸術に対しての真剣さが欠けているのだろうか?少々軽薄なのか?

でも、日本でも歌舞伎に関しては「盛り上がり」を感じる。僕は「藤娘」ぐらいしか知らない超素人(?)だけれど、贔屓の役者が出てきた時の歓声など、アメリカのバレエファンとそう変わらない印象だ。歌舞伎では正直なのにバレエでは何故?

西洋文化が輸入された・・・みたいなことと関係しているのか?音楽に関しても、ちょっとそのような「おハイソ」な部分もあるような気はするし・・・

「海賊」というバレエは好きな演目だった。まぁ、派手なので。これもオシポワとワシリーエフ。ワシリーエフのアリだったら、これぐらいの歓声は上がるだろうとは思う。それにしても客席盛り上がってるねぇ・・・

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 2

△top

スポーツか芸術か? 

 

スポーツにおいて、いわゆる芸術性というものを絡んで語られたりするのがフィギュアスケートなのではないかと思う。そしてスポーツと芸術ということで、しばしばバレエと比較されたりもする。

フィギュアスケートとバレエ、共通点のようなものはあるのだろう。まぁ、フィギュアスケートはピアノ演奏にも共通点は多いように思うが。

フィギュアスケートがバレエと比較されることはあるが、逆は少ないような気がする。バレエからフィギュアスケートを連想したり、共通点が語られるということは少ない。そもそも芸術を語っているときに、スポーツというものと比較したり、話題にしたりする時、それはいい意味ではないことが多い。「演奏はスポーツではない」とか「スポーツ的で技巧は高度だが・・・」みたいな?

どのバレエでも、グラン・パ・ド・ドゥの場面は、いわゆる見せ場であることが多いので、個人的印象としては、非常にスポーツ的な快感を観ていて感じることが多い。高度なフェッテなど、4回転をクリーンに着氷した時のような興奮さえ感じたりする。

フィギュアスケートの4回転も、バレエの華やかな技術の場面でも「人間技ではないよな」みたいな興奮を覚えるのだ。そこか共通している部分ではないだろうか?

どこか日本では「お芸術」というものは「快感」というものと一緒にしてはいけないような、そんな禁欲的なモードがあるような?

オシポワとワシリーエフの「パリの炎」、このグラン・パ、快感・・・という感じなのだが・・・

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

フリルの世界の中で 

 

昔は男の子がピアノを習っているなどというと、まぁ、色々と言われたりしたものだ。「男のくせにピアノ?」みたいな?最近は変わってきたのだろうか?「ピアノ男子って素敵!」みたいな?

フィギュアスケートだとどうだろう?やはり女の子の世界なのだろうか?でも最近は日本の男子シングルは強いので、あまり「男のくせに」なんて言われないのかもしれない。

バレエだとどうだろう?少なくともピアノよりは男の子(男の人)にとっては肩身が狭いというか、何かしら言われたりするなんてことはあるような気がする。男性お断りなんてバレエ教室もあるらしい。まぁ、これはピアノ教室にも多いらしいが。

「男の子は逞しく育てる」みたいな固い考えの親だと、もしかしたらバレエを習いたいという男の子に対して「男の子なんだからサッカーとか野球にしたら?」なんて言ってしまう親もいるのだろうか?この場合、その男の子は非常に傷つくと思う。親が何気なく言ったとしても。「バレエが好きだなんて、僕はおかしいのだろうか?」この思いは、やがて自分否定になり、その男の子はかなり苦しむはずだ。

今のところ、やはりバレエはフリルの世界なのだろうか?

イワン・ワシーリエフというバレエダンサーがいる。むろん、バレエ界では大スターなのだが、一般的にはどうなのだろう?一般的にバレエって、どうも女性的と思われているのではないだろうか?オデット姫、オーロラ姫、チュチュ・・・フリルの世界・・・綺麗な女の子が憧れる世界。そのような部分もあろうが、イワンのような人もいるのだ。これも「バレエ」なのだ。

「僕、バレエ・・・やってみたい」

絶対に「男の子でしょ?バレエじゃなくて他の事をしたら?」なんて言ってはいけないのだ。その子は一生傷を抱えていく。こう言ってみてはどうだろう、「頑張ってイワン・ワシーリエフのようになれるといいね」と。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

忘れ物 

 

本日、リサイタル会場に忘れ物(落とし物)がありました。

フェルト地のブローチです。おそらく、コートにつけていたものが落ちたのではないかと。

本日の会場のオーナーさんが保管してくれています。

コートなどをチェックし、「あっ!ブローチがない!」という方は、本日の会場までメールか電話で連絡してみてください。

kaz


にほんブログ村


人気ブログランキングへ

category: リサイタル

tb: --   cm: 0

△top

サムライ・ベルゴンツィからのお礼 

 

本日のリサイタル、無事終了しました。「サムライ・ベルゴンツィの告知」という文章を、このブログに書いたのは、昨年の7月だった。イタリア人の友人が「君は日本のベルゴンツィのようだ。サムライ・ベルゴンツィだ」と言ってくれたので、サムライ・ベルゴンツィになったつもりで告知した。僕の演奏がカルロ・ベルゴンツィの歌唱に似ているという意味で友人はそう言ってくれたのではないだろう。どこかベルカント、どこかイタリア人のような感情表現をする・・・という意味ではないかと思う。

まだリサイタルの日にちも決まっていないその時、僕は「切なくなるほどの感情表現を聴き手と共有したい」と書いている。今日、それは達成できたのではないかと自分では感じている。

ある種の音楽を聴いた時、切ないほど感情が動く。それは僕の過去体験、現在の日常生活と密接に関係していると思う。バーンスタインが言うように、音楽は言葉で表現できない深い感情までも表現してくれるのだ。誰でも心が痛くなるような経験はある。音楽、演奏で共有できたという思い、それは僕は孤独ではないということだ。音楽によってそれを感じることができた、それが自分の出来栄えがどうこうということよりも、まずは非常に嬉しい。

今日、聴きにいらしてくれた方々、本当にありがとうございました。また、スタッフとして協力してくれたサークル仲間の人たち、本当にありがとうございました。今、沢山の贈り物に囲まれながらこの文章を打っている。

比較的短期間に準備をしたように思う。今まで弾いてきた曲を全部出し切ったという感じで、タンクは空・・・という感じではある。でも、また同じようなことをしてみたいと思う。まだタンクは空なので、充填するまでは時間を要するけれど、またやってみたい。切なくなるほどの感情表現を、また共有してみたい。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: リサイタル

tb: --   cm: 0

△top

鬘の人たち 

 

今はどうなのか知らないが、昔は音楽室に作曲家の肖像画が飾られていた。左端にいた「鬘の人たち」、ヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデル、もう少し右の人たちも鬘だったような気もするが、いわゆるバロック時代の作曲家は鬘の人たちなんだという印象を小学生だった僕は持ったものだ。

この鬘の人の作品、いわゆる正統ピアノ道を歩んだ人、まずは音楽室ではなくピアノ教室のレッスン室でご対面したのではないだろうか?昭和の時代ということを考えると、おそらく、その作品はスカルラッティ(ドメニコの方ね)ではなく、バッハのインヴェンションとか。僕自身はバッハを習ったという経験はないので、当時のピアノ教室で聴こえていたバッハから想像すると、それは多少(かなり?)学習バッハサウンドだったように思う。「ここに主題が出てくるの。もっと強く」「ペダルは使わないで」みたいな乾燥バッハ(?)だったような?コツコツ、カツカツ・・・のような?

むろん、そのサウンドは「素敵!」というものではなかったが、根底には、それなりに「当時の楽器」「当時のスタイル」というものを優先していたように思う。それ自体は悪いことではないのだろう。

僕の場合、鬘の人の作品としては、鑑賞者としてヘンデルから入った。ここが真面目なピアノ道を歩んだ人とは異なるのかもしれない。ヘンデル、「調子のよい鍛冶屋」ではなくオペラから入った。特にマリリン・ホーンの歌唱に惹かれた。

マリリン・ホーンのヘンデル、凄く魅惑的で闊達だった。そして小学生だった僕はこう思ったのだ。「鬘の人(バロックの人とも言う)ってお茶目!」と。厳格な(?)昭和バッハ指導を受けた人は、バッハのインヴェンション、「お茶目!」「楽しい!」などと感じながら弾いていたのだろうか?

スカルラッティと言えば、ドメニコではなくアレッサンドロを連想するような少年、つまり歌の世界がピアノ(鍵盤楽器)よりも身近であったので、バロック=闊達、華々しい、挑戦的・・・のような、ちょっと変わった感覚を持ってしまったのかもしれない。

当時の、オリジナルの、つまり原典というものを尊重する。楽譜の研究とか、当時のスタイルに忠実にとか、研究が進んだ。それは現代の演奏スタイルがバロックに限らず、ザハリヒなものになっていったことと無関係ではないだろう。それはそれで素晴らしい。個人的にはザハリヒなスタイル、もうこれは限界かな・・・などと昨今の演奏を聴くと感じたりするが、それは個人的な好みの問題もあるだろう。どちらがいいとか、そのようなことではないのだろう。

でも、当時の再現・・・その「当時」というものが、特に鬘の時代のそれにおいて、やけに禁欲的ではないだろうか?いかにも古っぽくというか?

当時の踊りを考えてみましょう・・・確かに有益だとは思う。「クーラント」とか「アルマンド」を弾くのには、欠かせない情報であり、学習ではあろう。重い、パニエバリバリのドレスで情熱的なタンゴは似合わないし、踊れない。そうなのだろう。でも「いかにも昔」のような演奏が正しいのだろうか?正しいのかもしれないが、現代人の我々が「おっ?これは凄い」と思うような闊達なバロック時代の作品の演奏に出会ったら、それは現代感覚のものであり、当時のスタイルと、もし異なっているのだとしたら、それは価値のないものなのだろうか?声楽のバロックは、あれほど生き生きと人間的であり、闊達であるのに、どうして鍵盤楽器のバロックは「いかにも古っぽく」という演奏が多いのだろう?それは鑑賞者としての素朴な疑問でもある。

鑑賞者としての素朴な疑問は他にもある。ショパンなど、かなり即興性のある演奏をしていたらしい。ヴァリアント盛りだくさん・・・のような?そうだとしたら、当時のスタイルに忠実ということは、研究成果の高いエディションに印刷されているように演奏する、この行為は当時のスタイル、原典に忠実と言えるのだろうか?ショパンコンクールでヴァリアント満載の演奏をしたら、はたして予選通過できるのだろうか?現在でもベルカントオペラでは普通のことなのだが・・・

先のカルミニョーラ問題(?)について考えてみても、カルミニョーラが現代的・・・なのではなく、ヴィヴァルディは当時、非常にホットでポップな音楽であったのではないかと想像してみたら?想像としては非常に面白い。もしかしたらカルミニョーラは当時の再現に近いのかも?「いかにも古式」という演奏よりも・・・

ジャン・ロンドーという演奏家、この人の演奏って大胆だな、闊達だな、挑発的だなと感じる。現代の僕に直接訴えてくるような?演奏しているのはジョゼフ=二コラ=パンクラス・ロワイエという作曲家の曲。「スキタイ人の行進」というタイトル。スキタイ人って?ロワイエさんで何処の国の人?

ブルボン王朝の人らしい。ルイ15世の子どもたちの音楽教師だったとか?そうすると、ルイ16世、マリー・アントワネットの親世代が習った人ということになる。

重いドレスだったのではないだろうか、鬘だって相当な重さだったはずだ。むろん飛行機もないし、馬車だったのだろう。パソコンもCDもない。ゆったりした時間が流れていたのだろう。

でも闊達な時代であったのかもしれないよ。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

3パーセント 

 

ベンジャミン・ザンダー氏によれば、日常生活の中でクラシック音楽を身近に感じ、聴いている人は3パーセントなのだそうだ。クラシック愛好家と言われる人たちかな?知識豊富な人もいるだろうし、知識、うんちくということよりも、ただ好きだから聴いているという人もいるだろう。でも3パーセントとは・・・

残りの97パーセントの人は、クラシック音楽がかかっていれば、別に嫌悪感は感じないし、まっ、いいんじゃない・・・みたいな?でも自分から積極的に聴いてみようとは思わない。中にはクラシック音楽コンプレックスみたいな人もいるらしい。「クラシックなんて高尚な音楽は理解できなくて」「聴いても分からないし」「なんだか堅苦しそうなんだよね」みたいな人たち。

「クラシック音楽入門」のような本はたくさんある。これらの本からクラシック音楽の世界に入っていける人も、まあ存在するのだろうが、音楽の好みって人それぞれで幅があるものだから、有名曲、分りやすい曲が感動とはイコールにはならないこともある。そこがこのような入門本の難しいところなのかもしれない。例えば「おもちゃの兵隊の行進」のような曲、たしかに分かりやすい曲だとは思うし、「あっ、キューピー3分クッキングの曲だ」・・・とは思うから、そのような意味で入門編の曲なのかもしれないが、「クラシックも聴いてみればいいものね」と全員がこの曲から感じるかは疑問に思ったりもする。

「ショパン?白鳥の湖の人?」のような知識の人でも、ヴンダーリヒの歌うシューマン、「詩人の恋」に涙したりするのだ。「詩人の恋」はクラシック入門編という感じの曲ではないだろう。つまり人によるし、好みには幅がある。知識がないから好みは一律ということはないので、そこが入門段階(?)の難しさでもあろう。

クラシック音楽にも親しみたい、でも何から聴いていいのか分からない。このような人は多いようだ。クラシック音楽に限らないが、曲そのものの印象というものは、演奏によって、かなり左右されるものではないだろうか?ややもすると、それらの演奏の優劣などは、クラシック音楽に対して深い知識のある人だけが聴きとれるもので、何も分からない、クラシック音楽なんて聴いたこともないような自分は、とてもとてもそんな高度な耳などは持っていないと考える人がいても不思議ではない。

ヴィヴァルディの「四季」にまず魅せられてしまった人がいる、入門本に載っていたので、まず聴いてみたらしい。「えっ?これってクラシック?えっ?ポップじゃん?」その人はそう感じた。曲にもだが、演奏に惹かれていった。ジュリアーノ・カルミニョーラという人がヴァイオリンを弾いていた。「これって凄くね?」

この人のヴィヴァルディなら是非生で聴いてみたい!

そして実際に生のカルミニョーラというか、ヴィヴァルディというか、「四季」を聴いたのだそうだ。「凄い!凄すぎる!!!」

でも、休憩中のロビーで、いかにもクラシック通という感じの男性(うんちくおじさん?)がこう言っているのが聞こえてきてしまった。「テンポが速すぎるね、勢いばっかりで音程があやふやじゃないか?それにあのボウイングは何なんだ?」

「えっ、そうなの?僕はいいと思ったんだが?聴く耳のある人はそう感じるんだ。クラシックを聴きなれている人の耳はそう感じるんだ。やはりクラシック音楽って難しいんだ」

たしかにボウイングとか、バロック音楽のスタイルからすると、彼の演奏はどうたらこうたら・・・などと言われたら、「自分はいいと思ったが、本当はそうではないんだ」などと思ってしまう入門者はいるかもしれない。自分がいいと感じたことが、かえってクラシック音楽を遠ざけてしまう。これって不幸なことだと思うし、何か違うのでは・・・とも思う。

この場合、うんちくの弊害なのではないだろうか?僕はそう思うのだが。ほかのジャンルの音楽では、あまりないような気がする。ジャズなどもそのような人の存在を感じたりするが、クラシックほどではないような?

3パーセント、衝撃的な数字ではある。100人のうち、たった3人だよ?子どもの数が減少しているので、高度経済成長期ほどの勢いはないものの、日本はピアノ教室の数は多いと思うし、ピアノ人口も多いように思う。毎日複数のピアノリサイタルが大都市では行われ、地方にも立派なピカピカホールが沢山ある。そのホールには外国製の最高級ピアノ(?)が搬入されている。

でも3パーセント?

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

10パーセントからの生還 

 

一連のカレーラスの歌唱、すべて同じ演奏会のもの。意図的に同じ演奏会の歌唱を張り付けた。たしか、カレーラスが白血病という病に倒れたのは、1987年だったと記憶している。化学療法を行い、そして自分の骨髄を移植していたはずだ。適合する骨髄が見つからなかったからだと思う。生還できる可能性は10パーセントと言われていた。

張り付けた演奏会は1988年のもの。つまり翌年に復帰したときの演奏だ。誰もが再びカレーラスを聴けるとは思っていなかったのではないだろうか?10パーセントだったのだから・・・

舞台に立っているというだけで奇跡ではなかったか?

「グラナダ」は厳密にはスペインの曲ではない。作曲者はメキシコ人のアグスティン・ララだからだ。なのでメキシコの曲ということになる。ララは一度もスペインを訪れたことはない。でも彼は自分の中のイメージだけでスペインそのもの、スペインの「ソル」そのものの「グラナダ」を作曲した。スペインの曲としてもララは怒らないだろうと思う。

歌詞もララのものだ。血の気の多い歌詞というか、恋多き男の歌詞という感じではある。ララは10回の結婚、離婚を繰り返した男なのだそうだ。

10パーセントの確率から生還した歌手が、スペインに憧れたメキシコの恋多き男の曲を歌っている。素敵だなと思う。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

独学 

 

フェルナンド・オブラドルス、ピアノは母親から習ったらしい。でも作曲は独学だったみたいだ。オブラドルスの歌曲、「スペイン古典歌曲集」が有名だろうと思う。でもメロディーそのものはオブラドルスの創作ではない。古くから伝承されたスペインのメロディー、つまり民謡を採譜し、オブラドルス流に色付けしたものだ。編曲と言った方がいいのかもしれないが、でも特にピアノパートの美しさは形容のしようがないほどだ。

カレーラスも最上の柔らかさだし、ピアノのスカレッラが非常に繊細で素晴らしい。これは、やはりオブラドルスの歌曲なのだろうと思う。オブラドルス、48年という短い人生だったようだ。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

君の上には ただ 花ばかり 

 

モンポウには約10年間の沈黙の期間がある、作曲そのものをしなかった期間だ。できなかった・・・

親しい人たちの死、そしてスペイン内戦、世界大戦勃発ということが関係しているのかもしれない。ピアニストとして生きることを、その内気な性格から諦め、作曲家になった。モンポウはそんな人だった。沈黙も当然なのかもしれない。

ただ、沈黙を打ち破った後のモンポウの音楽は、ある意味凄まじさを感じるほどだ。モンポウなので、やはり派手さはなく、内向的な音楽なのだが、その静けさに、情念が加わったかのような?

ピアノ曲だと、「歌と踊り」にそのことを感じる。歌と踊りの4番と5番、沈黙の期間をはさんでいる。5番とか、6番あたりの「歌と踊り」を聴くと、どこか「癒し系」というイメージのモンポウが吹き飛んでしまうようだ。

最も沈黙後の情念を感じるのが、やはり歌曲。「夢の戦い」という歌曲集の2曲目、「君にうえには ただ 花ばかり」という曲を聴くと、モンポウの、そしてカタルーニャ人の情念を感じる。

この曲は親友でもあったプーランクが絶賛した曲なのだそうだ。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

スペインには太陽が6つあるの? 

 

少々古い本なのだが、小西章子という人が書いた「スペイン子連れ留学」(新潮文庫)という本がある。日本に旦那さんを置いて娘3人と共にマドリード大学に留学してしまうという内容だ。上から7歳、4歳、2歳の娘たちを連れてだから、1970年代には相当話題になったのではないだろうか?今だってそうそうないケースだろうと思う。

フェミニズムという観点からも興味深い本かとも思うが、主婦目線のスペイン描写が心地よい。初めてマドリード空港に到着した時、4歳の娘が小西さんにこう言うのだ。「ママ、スペインには太陽が6つあるの?」

スペインのイメージ、それは明るい太陽、情熱的なフラメンコ・・・どこかラテン!!!というイメージ。スペイン語で光を「ソル」、影を「ソンブラ」と言うのだそうだ。太陽が6つもあるのだったら、そりゃあ光り輝いているだろうが、また影も黒々と濃いのではないだろうか?激しいソルとソンブラとの対比、これがスペインの魅力なのかもしれない。

その魅力はスペインの音楽にも反映されているように感じる。

カタルーニャ生まれのカレーラスのスペイン歌曲が素晴らしい。正直、カレーラスの声は個人的には好みではないというか、少々テノールにしては重く感じることもあるのだが、やはりスペインものは素晴らしい。ソルとソンブラが歌により体感できる。

ホアキン・トゥリーナの、この歌曲は、まさにソンブラではないだろうか・・・影が非常に密であり、濃いのだ。「歌のかたちの詩」という歌曲集から「忘れないで」

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

それでいいんだ 

 

演奏者自身が自分の演奏を楽しんでいなかったら、聴いている人はどうしたらいいのだろう?だからいいんだ。それでいい。

Stephen




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

一つの時代の終焉 

 

ニコライ・ゲッダが歌うこの曲などを聴いていると、やはり一つの時代が終演したのだと感じる。

聴き手が求め続けていけば、また聴けるようになるのだろうか?

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

柔らかさの時代 

 

やはりニコライ・ゲッダは亡くなってしまったそうだ。非常に寂しい。好きな歌手が亡くなる、むろん悲しいことだが、なんだか一つの時代が終わってしまったような、そんな感じさえする。

非常に古い歌手なのだが、ゲッダが受け継いでいた「柔らかさの美」「柔らかさの技法」のようなものを聴きたくて、レオ・スレザークの歌声を聴いたりしている。引き算の美学というのだろうか、普通なら最高潮に盛り上がるような箇所で、絶妙なる弱音で聴き手のテンションを集める、その効果は絶大だ。

レオ・スレザークなんて100年前の歌手だ。でもシューマンが理想とした声による音世界は、現代の歌手よりも、むしろスレザークの方が近かったのではないか?そんな気がするし、スレザークの美学を現代にまで受け継いでいた歌手が、今月亡くなったニコライ・ゲッダだったような気がする。

今、そして、これから、このような柔らかな美を感じさせてくれる演奏家はいるのだろうか?そのあたりが一抹の寂しさを感じてしまう一因なのだろう。

非常に寂しい。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

根底にある「ねえ、見て見て・・・」 

 

今月25日の自分のコンサートに関して、今日は申し込んでくれた方たちに案内のメールを送信した。本番までオフの日は2日しかないので、このようなことは計画的にこなしていかなければならない。でも嫌いではない作業であることも発見した。申し込んだのにメールが届いていないという方は、お知らせ下さい。

むろん、弾くということに重圧感などは感じていなければならないのだろうが、なんとなく遠足を待ちわびる小学生のような気分でさえあるのだ。これは一体どうしたというのだろう?本番10日前なんて青くなっているのが普通だろう。

個人的には、発表会やサークルの練習会などで一曲か二曲を弾くという方が、曲の表面的な出来栄えに関して「どうしよう・・・」などと思うのを発見した。コンサートでは一人で沢山の曲を弾くので、細々した出来栄えがどうこうよりも、全体的なものを考えるからかもしれない。

おそらく、子どもが初めて補助輪なしで自転車に乗れた時のような?「ねえ、ママっ!見て見て・・・」のような?そんな感覚なのだ。25日、僕は自転車には乗らないけれど、「ねえ、聴いて聴いて・・・こんなにいい曲なんだよ」みたいな気持ちは今の僕の根底にあるのだろうと思う。さすがにこのような気持ちになるのだとは想像はしていなかった。

トークを交えるということもウキウキ感を感じる理由だと思う。人前で話すのは得意ではない。多くの人はそうなのではないかな?でも作曲家が残した曲には「気」とか「念」があるんじゃないかな?曲について調べたりすると、そのような「気」や「念」を感じたりしてきて、それを話すことに、とてもワクワク(ウルウル?)してくるのだ。

「ゴイェスカス」を弾くのにゴヤのことを知らないというのもどうかと思うので、調べたりすると、有名なゴヤの絵画、彼が聴力を失ってからのものなんだね。知らなかった。そのゴヤの絵画絵巻を音で表出したグラナドス。グラナドスの愛を感じる「マハとナイチンゲール」この曲はただボーッと聴いても素敵な曲だが、奥さんのアンパーロに捧げられている。グラナドスは大西洋上で溺死している。乗っていた船がドイツの潜水艦の攻撃により沈没する。グラナドスは一度は救助船に助けられるのだが、波間に溺れているアンパーロを助けるために、もう一度海に飛び込む。そして二人とも亡くなってしまった・・・

「マハとナイチンゲール」はアンパーロへの愛をサウンド化したものではないだろうか?そんなことを話そうかと計画するのもとても楽しいのだ。

「ねえ、こんなにいい曲なんだよ、聴いて聴いて・・・」この気持ちは、考えてみると、人前でピアノを弾く時の動機のようなものに思えてくる。曲を弾く「自分」のことは結構どうでもいいというか・・・

失敗したらどうしよう?暗譜が飛んだらどうしよう?むろん心配はしているのだろうが、それって自分のことなんだとも思う。それよりも「ねえ、聴いて聴いて、この曲の、この部分を聴いて・・・」という気持ちが圧倒的に強いのだ。

ブログを書く動機も似たようなところがあるのかもしれない。

某所でとても楽しい動画を見つけた。そうすると「ねえ、見て見て」と思うのだ。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: リサイタル

tb: --   cm: 0

△top

火祭りの男 3 

 

リベラーチェの「火祭りの踊り」

やはりイトゥルビとルービンシュタインを意識しているように思える。

指輪が重そう。炎が熱そう・・・

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

火祭りの男 2 

 

元祖(?)火祭りの男、アルトゥール・ルービンシュタイン。映画「カーネギーホール」が日本で公開されたのは、たしか昭和30年代だったと思う。当時の日本人はカーネギーホールで活躍する演奏家たちの演奏をどのように受け取ったのだろう、そのあたり非常に興味がある。

特にルービンシュタインの「火祭りの踊り」は、かなり個性的な弾き方というか、奏法と思われたのではないかと思う。途中、2回出てくる連打の弾き方が特に凄い。これって映画のための特殊撮影なのかと思ったりもしたが、ライヴの演奏会でも同じ弾き方をしていたので、これがルービンシュタインの弾き方だったのだろう。

それにしても凄い弾き方だ。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

火祭りの男 1 

 

リベラーチェの「火祭りの踊り」を聴いていて(観ていて)ある二人のピアニストたちのことを連想した。もしかしたら、リベラーチェの演奏は二人へのオマージュなのではないかと。

リベラーチェ、その華やかな外見から、どうも色眼鏡で見られることも多いのではないかと思うが、実に真面目な「火祭りの踊り」である。ピアノ、上手いなぁ・・・と。

誰へのオマージュと感じたのかというと、一人目はホセ・イトゥルビ。このスペインのピアニスト、あまり知られていないのではないかと思う。アメリカでは非常に有名なのだが。おそらく、映画出演とかしていたからではないかと思う。ミュージカル映画にピアニスト役として結構出演している。

ハリウッド映画、ミュージカル映画に出演という経歴が、どこか「軽薄」と思われるのだろうか?オスカー・レヴァントなんかも僕は好きだけどな。

イトゥルビの演奏も、非常にしっかりとした、真面目なもの。軽薄さは感じない。曲の最後の連打、ここが非常に独特だ。

リベラーチェは、この部分、かなりイトゥルビを意識したのではないだろうか?

まずはホセ・イトゥルビの「火祭りの踊り」

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

昭和ピアノからの脱却 

 

現在50歳前後のピアノ再開者、かつての高度経済成長期のピアノ教室を体験した人・・・ということになる。いわゆる「昭和ピアノ」というものに、どっぷりと浸かった世代でもある。生徒はウジャウジャといたような?発表会も長時間、盛大だったような?電子オルガン全盛の時代でもあったかな。

昭和ピアノの反省というものは現在のピアノ教育で欠かせないもの(?)になっているのではないだろうか?セミナーというものの主流は教材研究だったりする。かつてはバイエルといくつかの教材しかなく、終了すれば、また次の教材の選択肢も少なかった。そして出来上がったバイエル→ブルグミュラー→ソナチネ→ソナタという構図。そこにチェルニーやハノンが加わる。

選択肢が多いのはいいことだ。

もう一つの反省が、奏法。「ハイフィンガー奏法はやめましょう」というもの。脱力ブームはここに起点があるような気もする。たしかに「やめましょう」ということなのだろうが、個人的には順序が違うのかなという気もする。まずは音でしょ・・・と。基音を強調した鍵盤の底までガツンというような、明朗、しっかりとした音ではなく、もっと響くような・・・みたいな音、サウンドのイメージを育むのが先ではないかと。そのための奏法なわけだから。「A(ハイフィンガー奏法)はいけないんだって。じゃあBにしましょうよ?」的なものをピアノ教育界に感じてしまったりもする。

でも奏法は大切だよね。色々トライしてみるのはいいことだ。

最近、教材、奏法というものの他に、もう一つのものがあるような気がしている。それは読譜というもの。音符(楽譜ではない)を読むということは、100年前だろうと、今だろうと、あまり変わらないものなのではないかと思う。まずは中央のドを認識し、数えるということ。五線の中に書いてある丸を認識すること。ドレなら読めるけれど、ドソになると混乱する・・・では困るのだ。この部分は昭和だろうと平成だろうと変わらない部分なのでは?

曲を弾けるようにしていく段階において、最初は表情をつけないで、音を弾けるようにしていき、つっかえずに弾けるようになってから表現を考える・・・このような手順で曲を仕上げていく人は今でも多いようだ。これって昭和ピアノのやりかたなのでは?表情や感情は後付け・・・みたいな?

音符は読めるけれど、楽譜は読まない人もいる感じだ。かつて子ども時代、そうして教材を進めてきた昭和の名残りなのかな?一応弾けるようになってから色々とやってみる・・・みたいな?

音符という一つの単位がまとまり、楽譜となったのだったら、楽譜は語りかけてくるという認識を持つ。音符を読むという昭和チックな習慣を、楽譜という単位で感じていく平成的なものにする。子どもも大人も・・・

ドレよりもドソという広がりのある音つながりは、よりエネルギーが大きい・・・みたいな?「ド」と「ソ」でしょ・・・ではなく。

バイエル最初のドレドレド・・・簡単に弾けてしまうようだが、これってモーツァルトとかハイドンとか、バッハとか、彼らのメロディーの一部というか、切れ端みたいなものでは?最後のドはどのように収めるのか?具体的なタッチは、奏法は?この段階で表現はあるのでは?

「キラキラ星」・・・ドドソソララソ ファファミミレレド・・・この段階で、もう音楽表現ということなのでは?上がって下がって、最初のドドからソという広がり、最高音のラからどうやって下がるのか、連続音、ドドとかファファはどのように弾くのか・・・

音というか、オタマジャクシ認識だけで弾かないという平成モードが今はまだ欠けているような?

一応音符、オタマジャクシができてから表現する・・・これっておかしい。楽譜を読む=表現なのでは?

このあたり、ピアノの場合、それっぽく曲や教材が進んでしまうのでピアノは難しい。ある程度の曲は弾ける、音符は並べられるけれど、なんだかな・・・という場合、それは音楽性とか才能ということではなく、楽譜を読んでいない、そのような習慣を身につけていないからということもあるのでは?

声楽の人、羨ましいと思う。最も幼児がイタリア歌曲・・・ということはないだろうし、初歩でも声楽の場合は、高校生ぐらいにはなっているだろうから、ピアノとはそもそも比較にならないのかもしれないが、でもそうだろうか?楽譜を読む、表現につなげるということは、変わらないのでは?

「アマリリ麗し」という曲、声楽レッスンでは、まず発声練習の教材(コンコーネとか)と共に学ぶものではないかと思う。音のつながり、跳躍音程と順次進行とのエネルギーの違い、上向き音型と下降、ハーモニーが異なったら、今まで短調だったのものが、いきなり長調になったら、具体的にメロディーをどう処理していくのか、初歩でもこのあたりを意識しないと、イタリア語の知識とか声そのものがどうこうといったこととは別に、まず曲にならない・・・のでは?

そのあたりピアノはどうなのだろう?そのまま次の曲に進んでしまうこともあるのでは?一応オタマジャクシが並べば・・・

一応弾けるようになってから・・・をやめてみればどうなるだろう?

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: ピアノ雑感

tb: --   cm: 0

△top

ありがとう、ゲッダ 3 

 

僕にとって、やはりゲッダと言えばナディール。ゲッダを偲ぶ、やはり最後はオペラにしたかった。

ありがとう、ゲッダ。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: The Singers

tb: --   cm: 0

△top

ありがとう、ゲッダ 2 

 

ゲッダは語学に堪能だった。語学の天才?たしか、少なくとも5か国語に堪能だったのでは?ドイツもの、フランスもの、イタリアもの、全部が素晴らしいという歌手は、意外と少ないように思う。

ゲッダはロシアものも凄かった。

彼がラフマニノフを歌ってくれて、とても幸せだ。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: The Singers

tb: --   cm: 0

△top

ありがとう、ゲッダ 1 

 

歌手のニコライ・ゲッダが亡くなったそうだ。2日前らしい。ゲッダの訃報、実は二年程前にも誤報があった。今回もそうだといいと思う。でも90歳は過ぎていたはずだ。今回は誤報ではないのかもしれない。

カルロ・ベルゴンツィの訃報も非常に哀しかった。でもゲッダの訃報は、さらに哀しい。扉を開いてくれた人だから・・・

でも、この場合、「ありがとう」という気持ちを持った方がいいのかもしれないね。

ゲッダの個人的厳選による名歌唱。順位ではない。順位はつけられない。

まずはグリーグ・・・

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: The Singers

tb: --   cm: 0

△top

バリンカイのワルツ 

 

僕のコンサート、25日なのでもうすぐだ。仕事の予定表を見ると、休める日=ピアノを練習できる日が3日しかなく、大丈夫かなとも思うが、今の段階では遠足を待ちわびる小学生のような気分だ。

今日はピアノも少し練習したのだが、プログラムを作った。ワードで作成して、文具店で購入した「少しだけ高級」な紙に印刷したりしていた。練習以外にもやることが多いね。

日にちは25日、場所はミュージックギャラリーアリエッタという所。

http://www.musicgalleryarietta.com/

開場は13時40分。開演は14時から。完全予約制・・・といっても、メールで申し込むだけだったのですが、おかげさまで満席なので、今日のブログを見て、「ちょっと行ってみようかしら?」というのはできません。申し込んで頂いた方は、個別に僕からメールを後日したいと思います。

プログラムの中に「宝石のワルツ」という曲がある。いかにもJ.シュトラウスらしい素敵なワルツだ。このワルツはオペレッタ「ジプシー男爵」のメロディーを集めたもの。コンサートでは、各々の部(というかステージというか)にテーマを決めていて、「宝石のワルツ」はウィーン曲集の部(というかステージというか)で演奏する。選曲した時は、テーマに合うだろうというぐらいの気持ちだったのだが、実は「ジプシー男爵」には想い出があるのだ。僕に音楽への扉を開いてくれたのが「ジプシー男爵」だったから。

小学生の頃、僕は鍵っ子だったので、親の知り合いの医師の息子、この人も医大生だったのだが、預けられるようになった。この人が僕に音楽を沢山聴かせてくれたんだね。医学部の学生なのに音楽ばかり聴いている人だったな。

「ピアノ習っているんだ、曲はどんな曲を知ってる?」「えっと・・・」ショパンの有名な曲(LP1枚分)なら知っていたが、この場でブルグミュラーの曲とか、「アルプスの夕映え」なら知っているとは子どもながら言いにくかった。「ピアノ好き?音楽は好き?」彼の問いにも答えられなかった記憶がある。音楽で感動したことなんかなかったから。ピアノなんて退屈と思っていたから。

最初にショパンのワルツを聴かせてくれた。これはいい選択だったのではないだろうか。クラシック導入にショパン。でも彼はブライロフスキーのレコードを聴かせてくれた。その演奏は、僕のそれまで聴いていたレコードの演奏とは全く違っていた。「これ、クラシック?こんなに自由で生きている感じがして・・・こんなに胸が苦しくなるような・・・」

僕の反応に気づいたのだと思う。しばらくピアノ曲を聴いていたが、彼は突然こう言った。「オペレッタを聴こう」そして「こうもり」を聴かせてくれた。彼が身振り手振りの解説をつけてくれた。

「こんなに面白い、楽しいものもクラシックなんだ・・・」小学生、それもバイエルぐらいしか弾けない小学生に「こうもり全曲」は、なかなか個性的な選曲だとも今は思ったりするが、僕は夢中になったんだね。

「こうもり」の次に「ジプシー男爵」を、これも彼の解説付きで聴かせてもらった。僕は「ジプシー男爵」の方が好きだったな。ハンガリー情緒というのだろうか、とても惹かれた。中でもバリンカイというテノールの役を歌っている歌手が際立っているように聴こえた。

「この人、なんていう人?」「ニコライ・ゲッダという歌手だよ。僕も彼は素晴らしいと思う。ゲッダの歌、もっと聴いてみる?」

僕に音楽の扉を開いてくれた人、それは聴かせてくれた医大生であり、ブライロフスキーであり、ショパンであり、J.シュトラウスであり、そしてニコライ・ゲッダだった。

バリンカイのアリア、「気楽な若者だった頃」に惹かれたというか、ショックを受けたんだね。バリンカイ登場の歌でもあるので、非常に印象的だったのだ。ワルツになった時のメロディー、このメロディーが扉を盛大に開けてくれた気がする。

いつも音楽を聴いて、時間は夜中に近くなった。自宅まで歩いて20分ほどだったが、時間が時間だけに医大生の彼が毎回送ってくれた。最初、彼の質問に答えられなかった。音楽なんてなんだか分らなかった。でも帰り道、僕はこう言ったように思う。

「音楽ってなんだか哀しいんだね」

「そうだね・・・」彼はこう返した。

選曲の際は、このことを考えて選曲したわけではなかった。でもバリンカイのメロディー、バリンカイのワルツを弾きたかったのかな、心の奥底でそう感じていたのかな・・・

40年前のバリンカイを想いだす。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: リサイタル

tb: --   cm: 0

△top

ヨーデル・マイスター 

 

石井さんが憧れたヨーデル歌手、フランツル・ラング。

これは凄い・・・

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: The Singers

tb: --   cm: 0

△top

ドイツで最も有名な日本人 

 

堅実な人生を歩んでいた息子が、ある日突拍子もないことを言ったら?秘めていた憧れを実行しようとしたら?

石井健雄さんは、家業を継ぐため機械工学を学んだ。そして家業を継ぎ安定した生活をしていた。でも石井さんには秘めた憧れがあった。それがヨーデル。

ヨーデル?ファルセットと地声を巧みに操る、あのヨーデル?スイス?

ヨーデルはスイスだけのものではなく、アルプス地方で歌われる伝統芸能の一つらしい。興味深いのはアルプス地方でもフランスやイタリアでは盛んではなく、ドイツ語圏で主に歌われることだ。アメリカにも飛び火し、それはカントリー・ヨーデルと呼ばれるそうだ。

最初、石井さんは、このカントリー・ヨーデル歌手のレコードを聴いたみたいだ。「外国人にも歌える?」独学、つまりレコードの歌声を聴きながら、石井さんはヨーデルを身につけていった。フランツル・ラングというドイツの名ヨーデル歌手に憧れ、聴き続け、自分なりに研鑽していたのだろう。ドイツのバイエルン地方もヨーデルが盛んなのだそうだ。ビアホールで歌われる技巧的なヨーデルが特色だ。フランツ・ラングと同じく、石井さんのヨーデルもバイエルン・ヨーデルのようだ。

石井さんは、ある日両親に告げる。

「機械工学を学ぶために本場のドイツに行きたい」と。でも母親は見抜いていたらしい。「ヨーデル・・・でしょ?」石井さんは26歳になっていた。そしてヨーロッパに渡った。

フランツル・ラングの世話になりながら、本場でヨーデルを歌い始めた。初めてヨーデルでお金を稼いだ時、本場の人に認められた時、石井さんはこう思ったのだそうだ。「もう日本には帰らない・・・」

秘めた憧れ。ピアノが趣味、そう言ったら人は「まぁ、優雅な趣味ですね」なんて言ってくれるかもしれない。「まぁ、大変でしょ?」なんて言うのかもしれないが。でもヨーデルだったら?「趣味はなんですか?」「ヨーデルです」「えっ?ヨーデルって、あのヨーデル?なんでまた・・・」みたいになるのではないだろうか?かなり特殊な分野なのではないかな?

秘めた憧れ、自分の内面に石井さんはヨーデルへの憧れを募らせていたのでは?本場の人に認められて、こう感じたのではないだろうか?「ああ、僕が憧れていたものを、ドイツの人は理解してくれている。僕の憧れを共有してくれて喜んでくれている」と。

ここを離れたくない・・・と思ったのかもしれない。

石井健雄、ドイツで最も有名な日本人。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: The Singers

tb: --   cm: 0

△top

人を愛し、音楽を愛し・・・ 

 

作曲家の小林秀雄氏は「私は、わかりやすく、明るい音楽を好みます。そして粗雑で軽薄な音楽を嫌います」と書いている。ここでの「明るい」は短調は暗い、長調は明るいといった意味での「明るい」ではないような気がする。

我が国では深刻ぶった音楽や、歌詞の内容やそれを歌う表現目的などが全く伝わってこず、難しさのための難しさでできている曲が量産され、評価される傾向にあります。そうかと思うと、技術よりも心などと言い、技術の拙劣さを心や情緒の話にすり替えてしまいます。この小林秀雄氏の言葉、分けるなよ、カテゴライズして物事を簡単にするなよと言っているようにも思える。

小林氏は親交のあった野上彰の「落葉松」という詩に感銘を受け、一気に曲を書き上げたらしい。野上彰がこよなく愛した軽井沢の光景、その印象なのだろうか・・・

「落葉松」   詩:野上彰

落葉松の 秋の雨に
わたしの 手が濡れる

落葉松の 夜の雨に
わたしの 心が濡れる

落葉松の 陽のある雨に
私の 思い出が濡れる

落葉松の 小鳥の雨に
わたしの 渇いた眼が濡れる

人を愛し、そして音楽を愛し、ただそれだけが彼を動かした。早朝のアルバイトをしながら学費を払い、芸大卒業後も音楽とは関係のない仕事をしながら、奨学金を返済し、そして生活した。でも彼は音楽を愛し続けたのだ。

やっとこれから・・・という時に、癌が彼を襲った。「なぜ僕が?」「なぜ今なの?」そう感じたのではないだろうか?非常に珍しい骨の癌だったようだ。

彼の「落葉松」は心に滲む。彼は秋田県出身。音楽の夢をあきらめきれず、仕事を辞め上京した。この動画は彼の故郷、秋田でのもの。秋田のアトリオン音楽ホール、ここは秋田では最も大きな由緒あるホールなのではないかと思う。そこで歌える喜び・・・

この歌唱、進行する癌を食い止めるために、足を切断した後だったのだろうか?彼は義足で舞台で歌い続けていた。片足を切断しても歌い続けていた。30代で亡くなっているはずだ。志半ばだったのだろうか?そうかもしれない。でも思う。これは人を愛し、音楽を愛した人の歌なのではないかと。

「人と音楽を愛する熱い心があるならば、明るい、わかりやすい音楽を、正確にして正格な技術で演奏する。内容や心はそれに乗って滲み出てくる。これが音楽です」   小林秀雄

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

ニューヨーカーの反乱 

 

テリー・ジョーンズ牧師、名前は知っていた。イスラムの聖典、コーランを焼却する人だ。もちろん、この行為は世界から糾弾されたと記憶している。

この映像は2011年、9月10日のもの。ジョーンズ牧師は9月11日に起こったテロを意識して、この日を選び、そしてニューヨークのタイムズスクエアという場所を選んだのだろう。

「我らはアメリカ人として、イスラム社会に対し断固とした意思を示す必要がある。イスラム教は寛容な宗教なのだ。なぜなら束縛の宗教であり、嘘は欺きの宗教であり、暴力を奨励する宗教なのだから!!!」

カメラはジョーンズ牧師のスピーチを聞く(聞かされる)人々の表情を映す。戸惑いの表情、怒りの表情、哀しみの表情・・・

この時、タイムズスクエアにはムスリムの人もいたはずだ。牧師のスピーチに心痛めた人もいたはずだ。

その時、一人の男性が牧師のスピーチを妨害する。ビートルズの「All You Need Is Love」を歌い始めるのだ。「愛こそすべて」だね。その歌声は周囲の人々を巻き込んでいき、牧師のスピーチをかき消してしまう。

この映像は「愛は憎しみに勝つ」という意味合いのメッセージとして、アメリカでは有名なのだそうだ。

ニューヨーカーの、憎しみという感情への反乱のようにも見える。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

さあ、ショパンを弾こう! 4 

 

ショパンはオペラ、ベルカント・オペラがとても好きだったようだ。ショパンの伝記を読むと必ず出てくるのが、ジュディッタ・パスタとかマリア・マリブランといった当時の名歌手のこと。彼女たちの至芸に酔ったショパン、ノクターンなどを弾いたり聴いたりしていると、なんとなく想像できたりする。ショパンはピアノ曲の人とされていて、確かにそうなのだろうが、ピアノオンリーの人ではなく、むしろベルカントの人だったのかもしれない。

むろん、祖国ポーランドは常に心にあっただろうが、ベルカントの国、イタリアにも憧れていたのではないだろうか?

パスタやマリブランといった当時の名歌手の歌唱、むろん音源など残っていないので、ショパンの演奏同様、それは想像するしかないのだが、想像以上に闊達で魅力的な歌唱だったのではないかと僕は思っている。

チェチリア・バルトリに「マリア」というアルバムがある。マリア・マリブランが当時歌ったオペラのアリアなどを復活させている。今では忘れ去られてしまった曲。聴いた印象では、相当技術的にも難しそうな曲だと感じる。

光っているのはベッリーニのアリア。ベッリーニは現在でも有名だが、やはり生き残る曲というものは素晴らしいのだろう。

バルトリはこのアルバムで「ノルマ」のアリアを歌っている。彼女は一応メゾ・ソプラノであるので、これは現代では異例のことだろう。この曲はソプラノ、それも、かなりのコロラトゥーラの技法を必要とされる曲だからだ。バルトリは見事に歌いこなしているが、やはりマリア・カラスの歌唱を凌ぐというわけにはいかない。

それでも、この「マリア」というアルバムは一つのメッセージ性があるように思う。それは当時の名歌手、マリア・マリブランのような歌手たちは、「私は高音域専門です」的に声種でレパートリーを厳密に限定するようなことはあまりなく、下から上まで響く声を持っていたのではないかということ。現代のスター、例えばソプラノだったら中音域などスカスカ(?)の人もいたりする印象を持つ。ここが個人的には不満を感じるところなのだ。

上から下まで・・・マリア・カラス、そして彼女以前の歌手たちは、そのような特性があったように思う。ローザ・ポンセルの歌唱などを聴くと、輝かしい高音、迫力ある中音域、さらには低音域まで圧倒的な声を聴くことができる。

マリリン・ホーン、シャーリー・ヴァーレットといった歌手にも「上から下まで」という魅力を感じるが、現代でその技法、伝統を再現できるのは、やはりバルトリ・・・ということになるのではないかとも思う。彼女のこのアルバムでの歌唱は、充分にマリア・マリブランの、つまり、ショパンの時代の芸術を彷彿とさせる。

声楽専攻の学生でもショパンのピアノ曲は聴いたり、あるいは弾いたりするのではないかと思う。では反対はどうだろう?ピアノ科の学生はベッリーニのアリアを聴いたりするのだろうか?

ショパンとベッリーニ、かなり密接な関係であるように思うが・・・

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top