ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

下手だなぁ 

 

ヨアヒムの演奏、この人はブラームスのヴァイオリン協奏曲を初演した人だと記憶している。まずはメンデルスゾーンに才能を見出されたのではなかったかな?シューマン夫妻、ブラームスとも親交深く、まるで生きた音楽史を聴いているような気分にさえなってくる。

1903年の録音ということで、100年以上昔の演奏ということになる。現在のスターと比較すると、ビブラートが少ない?そんな印象を受ける。演奏スタイルが異なるというか。個人的には、このような演奏は大好きだ。スタイルがどうであれ・・・

最初のメロディーが戻るあたりから、演奏が徐々に淫らになってくるような気がして、ああロマンティックな時代だったんだなと思う。

演奏に対する印象なんて、人それぞれなのだろう。多分に主観的というかね。それはそうだと思うのだが、ヨアヒムの演奏に対して、ユーチューブの感想(コメント)に「下手だなぁ」という日本人のものがあって、ちょっとビックリしてしまった。その人がそう思ったのだから、その人にとっては下手な演奏なのだろう。

でも割り切れない気持ちも残る。

ピアノを演奏する、ここについては訓練によって上達するとか、感性の違いとか、あるのだと思っていた。でも音楽を聴くという、鑑賞ということに対しては、訓練や感性など関係なく、誰でもその演奏の素晴らしさ、というか、なぜに自分にこのように聴こえているのだろうという要素の把握のようなものは人によって差異はないものだと思っていた。好みの違いということではなく、聴く才能みたいなもの。これはないものだと。誰でも素晴らしい演奏ならば、感じ取れるものだと。

もしかしたら「聴く」「感じる」というところにおいても、訓練とか感性とか、関係あるのだろうか?

ある演奏に対して、感じ取れる人と、感じ取れない人がいる?

もし、感じ取れないという人がいたとして、それでもピアノそのものは弾けるから、そこが恐ろしいところなのかもしれない。哀しいというか・・・

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初心者にラ・カンパネラは弾けるのだろうか? 

 

男性だから、女性だからと、あまりにも分けて考えてしまうのは、もうこれは時代遅れだろうと思う。CDや演奏会の批評で、こんな表現は今でも存在するのだろうか?「細やかな女性らしい配慮のある演奏だった」とか・・・

たしかドナルド・キーンの著作だったと思うが、性別と演奏との関係について綴った文章があった。氏はラジオでシベリウスのヴァイオリン協奏曲を偶然に聴く。「これは私が聴いたことのない演奏だ」その演奏は、美音であり、圧倒的な上手さと共に、どこか女性らしい細やかさもあった。「誰だろう?女性の演奏だと思うが・・・」演奏者は、ピンカス・ズーカーマンだった。アルゲリッチとフランソワのショパンのソナタ2番を例にし、どちらが男性的とか女性的など演奏から性別を認識するなど不可能ではないかとも書いている。

僕もそう思う。演奏から性別を判断するなんて不可能だし、男性的とか、女性らしい表現なんて、そもそもあるのか?何かを感じるとしたら、それは性別の差ではなく、個人の差なのでは?

東京には「ディスクユニオン」という中古CDの店がある。別に安くCDを買いたいから通うわけではない。いわゆる「掘り出し物」と遭遇したいから時間のある時に寄ったりするのだ。でもここで女性の姿を見かけたことはない。たまたまなのかもしれないが。売り場には男性、しかも中高年の男性が圧倒的に多い。ここは男の世界なのか?

逆に女の園・・・のような店もある。例えば、ヤマハ銀座店の楽譜売り場とか。もうここは圧倒的に女性の世界だ。中高年の男性など、「この人何?」的な視線を感じてしまうのではないだろうか?なんというかフリルの世界?子ども用のピアノ教材とか、月謝袋とか、ピアノ関係グッズとか、「ワッ!」「キャッ!」の世界だ。男子禁制フロア?たしかに中年男性が「ミッキーと一緒にバイエル」なんて楽譜を小脇に抱えていたら怪しいのかもしれない。

「ショパン」のようなピアノ雑誌も、なんとなくターゲットとしては女性なのではないかとも感じる。イラストとかレイアウトとか。

ピアノ教室とか、ピアノサークルとか、男性の姿も昔よりは増えたのだと思うが、やはり圧倒的に女性が多い世界なのでは?ピアノを再開する頃、ピアノ教育というものに興味があり、結構セミナーなるものに参加したことがある。ここも女性の園だったねぇ。「ねぇ、その楽譜ってここで購入できないの?」とか「次回のセミナーなんだけど・・・」とか、いきなり質問されることも多かった。楽器店の人と思われたのだと思う。それほど男性ピアノ教師のセミナー参加は少ないのだろう。ヤマハなどの楽譜売り場でも店員に間違えられることがあった。「ねぇ、○○という教則本ってどこにあるの?」みたいな?ピアノ教師って楽器店の人には敬語を使わない人が多いような印象さえ持ってしまう。

実際に存在するのかは分からないが、「ブルックナー愛好会」なるものがあったとして、そこはなんとなく男性が多いような気がする。「アルカン全曲制覇サークル」なんてあったら、やはり男性が多いような気もする。

男ってディープなのだろうか?違う言葉だと「オタク」っぽい?本来、女性も男性も同じで差はないのかもしれないが、「表し方」というか「取り組み方」のようなもので、性別というものも存在してくるのだろうか?

あるピアノ曲に惚れてしまった。猛烈に弾きたくなる。「ピアノ弾こう・・・」となるわけだが、女性は段階という手順を外さない人が多いのかもしれない。「とても弾いてみたいけど、基礎も大事。まずは初級からスタートよね。教本をこなして、それからだわ。焦っても弾けるわけではなし・・・あの曲が弾けるんならチェルニーだってハノンだって頑張るわ」

ここで猪突猛進というか、ピアノ未経験でも、いきなり「その曲」に取り組んでしまう、もうこれは男性の方が多いのでは?目的は「その曲」で、とにかく弾いてみたい。回り道など考えない。効率的な練習方法とかあまり考えず、とにかく愚直なまでの練習を繰り返す。「あっ、つっかえちゃった、また最初から・・・」みたいなことを延々を繰り返す・・・

50歳を超えた男性がこう言ったらどうだろう?「ピアノは弾いたことがないです。経験ないです。でもリストのラ・カンパネラという曲を聴いて感激しました。いつか僕にも弾けるでしょうか?こんな僕でも練習すれば弾けるでしょうか?どうしても弾いてみたいんです」

この問いへの最も適切な答えは「ラ・カンパネラ?いい曲よね。憧れるわよね。でもとても難しい曲でもあるの。いきなり・・・はどうかしら?まずは基礎を身につけて、より簡単な曲から弾いていくのがいいんじゃない?50歳からでも遅くはないと思う。ピアノって子どもだけのものではないしね。でもハノンとかチェルニーとか、やった方がいいと思う。あなたの場合、全くの未経験なわけだから、バイエルから始めたらどうかしら?」だと思う。バイエルでなくてもいいだろうし、チェルニーでなくてもいいのかもしれないが、段階とか手順というものを優先する。

でも、その人のラ・カンパネラへの灯は何年続くだろう?あまりにも遠い道のりに圧倒されてしまうこともあるのでは?「ああ、やはり無理なんですね」となってしまうこともあるのではないか?これって子どもがピアノに挫折する理由の一つなのでは?今やっていることが自分の将来図に結びつかない、結びつけても、それが自分にとって魅力あるものに感じない。

このままピアノを続けていいことでもあるのだろうか?嫌い・・・ではないけれど。辞めようか・・・

この動画の男性、52歳からピアノを弾き始めた。「どうしてもラ・カンパネラが弾きたい!!!」全くの未経験者。約3年間、憧れの曲だけを練習し続けた。「弾いてみたい」という気持ちがそうさせた。

クリティカルに聴けば「ああ、あそこはこうした方が」とか「そこはこう弾けば楽なのに」とか、いろいろとあるのだろう。でも未経験者、それも50歳を過ぎてからでも「弾ける」という事実は確かに存在している。

この場合、この男性が、さらに違う曲に憧れた場合、たとえばショパンのバラードとか?その可能性も充分にあるだろう。その時、また一から愚直なまでの練習をして弾けるようにするのだろうか?それも大変だろう。なので基礎力はあった方がいい。効率的にピアノの世界に入っていけるだろうから。

でも「素晴らしいことじゃない?」と、このラ・カンパネラを聴いて感じるのも事実だ。僕が男性だからだろうか?オタクっぽいからだろうか?

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水分補給 

 

飲み物を飲む、コーヒーを飲むとか、お茶を飲む、介護の業界用語では、これを「水分補給」と言う。略して「水補(スイホ)」かな。これって「ベトソナ」とか「ベーゼン」みたいなピアノ用語(?)と感覚的には似ている。ちょっと専門的な匂いがするのかも。「あら、私ったら、こんな言葉使っちゃって~」みたいな?

10時は水補の時間。でも高齢者って、あまり水分を補給したがらないんだよね。「10時の水補だから飲ませなきゃ」・・・「飲んでください」・・・「うるさいわねぇ・・・」・・・「飲んで頂かないと困るんです」・・・「関係ないでしょ?」

厨房からのポットのお茶を飲んでみる。「あまり美味しくない」

ふと介護職員は思う。「私、10時だから何か飲まなきゃと思って生活しているかしら?」こうも思う。「私、アップルティーが好き。いつもそればかり飲んでいる、この人たちは自分の好きな飲み物を選べない?何かおかしくない?なんで全員同じ飲み物を飲まなきゃいけないの?飲んでくださいなんて言う自分もおかしくない?自分は好きな時間に好きな飲み物しか飲まないのに・・・」

普通の生活、普通の感覚・・・普通にすればいいのかも?

普通の生活の中の、普通の演奏。普段着の演奏、いつも「しなきゃ、しなきゃ、なきゃなきゃなきゃ」と思っていたけど、ピアノってそういうものだと思っていたけど、普段着の演奏もいいものかもしれない。

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久々のフィギュアスケート 

 

演奏を聴く時、現代の話題のフレッシュ組を聴くよりは、僕には往年の古い録音を好む傾向がある。フィギュアスケートの演技も同じだ。世間では人気選手の動向が注目されていても、ネットで70年代や80年代の選手の演技を、ウットリと眺めていたりする。

最近のフィギュア競技会のテレビ放送は騒がしいというか、せいぜい最終グループしか紹介しないというところもテレビ観戦から離れてしまった理由だ。優勝争いに加わらない選手の演技も観たいという気持ちがある。その点、昨日の全日本の女子シングルは、とても良かった。

なぜテレビ観戦から離れてしまったのだろう?おそらく採点システムが変わり(随分昔のことだが)、最も好きなアイスダンスの演技が、なんだか変わってしまったことが理由。もう一つの理由は、僕は韓国のユナ・キム選手の演技に惹かれていたこと。

バンクーバーオリンピックの頃、「ユナ・キムが好き」などとは言えない雰囲気が日本にはあった。浅田選手とキム選手のファンがネットで中傷合戦のようなものを書いたりもしていて、そんな雰囲気もイヤだった。

今回、久々に全日本選手権(女子シングル)の放送を観て、思ったこと。

振付師の存在が大きいなぁ・・・ということ。振付師で印象に残ったのが、ジェフリー・バトル、そして佐藤有香。若い選手の長所を引き出していたのではないだろうか?選手の幼さではなく、少女しか持てないような純真さを表現していた。

もう一つが浅田選手。全盛期を過ぎた・・・みたいな書き方をされることもあるらしいが、僕は逆に進化しているのではないかと感じた。バンクーバーの頃、たしか浅田選手はルッツとサルコウを回避していたと記憶している。ルッツはエッジエラーを恐れたのかもしれない。ジュニア時代から、個人的には彼女のルッツは気になっていた。「これ、ルッツじゃないよね」と。

コーチを佐藤信夫コーチに変えて、基礎技術のすべてをやり直したのではないだろうか?今回、アウトサイドを保ったまま彼女がルッツを跳んだ時、僕の体に戦慄が走ったね。サルコウ、むろん転倒はしないほうがよかったのだろうが、回避せずにプログラムに取り入れ、ダブルにせず跳んだ。この時も戦慄が走った。転倒に感動するなんて変だろうか?

「基礎からやり直しましょうね」エッジの癖を修正する、つまりそういうことだ。難曲もサラリと弾ける、コンクールで賞も総なめ、そのような人が「その弾き方、全部直しましょう・・・」かなり辛いことではないだろうか?それを浅田選手は、やった。なので僕はバンクーバーの頃よりも進化していると思うのだ。世界女王まで登りつめた人が「基礎からやり直しましょうね」をやって、実践してみせたのだ。

体幹、手先、腕の動かし方が素晴らしい、それも浅田選手の素晴らしさのように感じた。若手が台頭してくる、そして3L-3Tなどのジャンプを軽々とこなす、採点競技だから、3Aを失敗してしまうと、浅田選手は辛いところもあるだろうが、表現として素晴らしかったのではないだろうか。時に、若い選手の動きは、「このように振り付けされているから、そのように動かしています」のような残念な感じの印象を持ってしまうこともある。でも浅田選手はすべての動きが表現となっていた・・・

おそらく、上位に入った若い選手たち、浅田選手に対して「どうしてあんな風に滑ることができるのだろう?」と尊敬の念を抱いているのではないだろうか?

全日本観戦の後、ネットで偶然に見つけたのが、同日行われたロシア選手権のネット配信。「ロシアはレベルが高い」というのが正直な感想だ。日本女子も相当なレベルだが、ロシアは今、凄いことになっているのではないだろうか?なんとなく、ピアノ演奏と共通のものを感じてしまった。日本の弱点、課題というか?

それぞれのエレメンツは素晴らしい。ジャンプやスピン、そこだけ取り出してみれば素晴らしい。でも、全体印象として、日本の選手は、時に「体幹が棒」「手や腕が棒」のような残念感がある。ピアノもそうなんだよね。3Dではなく、どこか平面的。スケートとピアノ、なんだか共通したものを感じてしまった。

ロシア選手権、優勝したのは、もちろん世界女王であるメドヴェーデワ選手、いつもながらの出来栄えだが、今回3S-3T-3Tを披露している。最後のジャンプは、おそらく点数としてはノーカウントだと思う。彼女はザヤック違反みたいな計算ミスをするような選手ではないと思うし、昨日もノーミスの演技だったので、おそらく「余裕があるので点数には関係ないけど跳んじゃった」みたいなことだったのでは?見せつけ???

最も印象深かったのは、2位になったアリーナ・ザキトワ選手。まだ14歳ということだ。ジュニア???

なかなかジャンプを跳ばないんだよね。ジャンプはプログラムの後半に組み入れている。その方が点数が高いから。高難度のジャンプ、手を上げて跳んでいる。いわゆるリッポン式。メドヴェーデワ選手などもそうだが、より凄みを感じさせる跳び方だ。

でも、体幹や手、腕の使い方が日本の選手と違う。そこが最も違う。

久々にフィギュアスケートを観た夜。久々にフィギュアスケートとピアノ演奏とを結びつけた夜・・・

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category: The Skaters

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An die Musik 

 

そもそも、ピアノなんていうものを、楽しいとか、辛いとか、そんな風に感じたことはない。専門的に学ぶのではないから、では楽しく・・・これが分からない。楽しいとか、楽しくないとか、ピアノとか音楽ってそんな風に分けられるものではないような気がしている。

上達はしたいのだとは思うが、人前演奏では、あまりそのようなことは考えない。上手く弾けるだろうかとか。自分の出来栄えを自分がどう思うかなんて些細なことのような気がしている。同じように、人が自分の出来栄えをどう思うかなんて、些細なことのような気がしている。

「素晴らしかった」むろん、こう言われたら嬉しい。でも自分が○○のように思われた、評価された、そんな感覚の嬉しさではない。「下手じゃん」と言われるよりはいいけれどね。なんと言うのだろうか、「素晴らしかった」と言われると、「ああ、自分は一人じゃないんだな」と思う。それが嬉しい。僕自身が感じたものを、感じてくれたんだ、孤独に生きているわけじゃないんだ、僕と同じように音楽に焦がれている人がいるんだ・・・

音楽はいつも自分の傍らにあるから。寄り添ってくれるから。同じように音楽に対して「ああ・・」と感じる人がいる、それが嬉しい。それだけでいいのだ。別にワッ!キャッ!と楽しい必要はない。人と比較して、ああだこうだと、そのまま死んでしまうのは、あまりにも寂しい。まぁ、その人の勝手だが。

ヴンダーリヒは生涯最後の人前演奏、つまりラストコンサート(エディンバラ音楽祭)のアンコールで、シューベルトの「An die Musik」を歌っている。彼はこれが最後の歌になると予期していたわけではないだろう。アンコールに相応しいと思っただけなのだろう。

この後、ヴンダーリヒは再び聴衆の前で歌うことはなかった。享年35・・・この曲はヴンダーリヒのラストソングになった。

An die Musik (音楽に寄せて)   詞:フランツ・フォン・ショーバー

優しき芸術よ どれだけ多くの悲しみの時
人生の激しさが 私を取り囲んだ時
私の心に温かい愛を燃え立たせ
私をよりよい世界へと連れていってくれたことか

しばしば君の竪琴から流れ出たため息
君からの甘い清らかな和音が
よりよき時間の天国を私に
解き明かしてくれた

優しき芸術よ、それを私は感謝する

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Merry Christmas! そしてHappy Hanukkah! 

 

大晦日の夜、テレビでは神社やお寺に参拝する人を映す。凄い人だなと思う。でも「こんなに神道を信仰している人がいるんだ」とか「仏教徒って多いんだぁ」などとは思わない。多くの人は数日前にクリスマスを楽しんだのではないかな、そこに違和感は感じない。「なぜ仏教を信仰しているのにクリスマスにケーキなの?」などとは思わない。日本人って、そのあたりおおらかなのかもしれない。

個人的には、このおおらかさは悪いことではないように思う。クリスマスが近づくにつれ、街はライトアップされ、どこかウキウキした気分に・・・楽しいじゃない?などと思ってしまう。初詣も気分的にシャンとなるし、いいじゃない?両方楽しめばいいじゃない・・・と。僕が無宗教だからそう思うのか、そもそも無宗教だと、クリスマスも正月の初詣も辞退すべきなのだろうか?

アメリカに住んでいたころ、孤独な留学生を不憫に思ってか、「クリスマスはどうするの?よかったら僕の実家で過ごさない?」などと言われることが多かった。僕はクリスチャンではないけれど、ちゃっかりとクリスマスムードは満喫させてもらった。ツリーが灯り、外は完璧なるホワイトクリスマス、クリスマスソングを歌い・・・みたいな。

アメリカ滞在の後半は、ルームメイトがユダヤ人だったこともあり、彼とクリスマスシーズンを過ごしたこともある。でも彼はユダヤ教を信仰しているので、クリスマスを祝うことはない。キリスト教徒にとってのクリスマスシーズン、ユダヤ教徒は、たしかハヌカというものを祝ったと記憶している。なのでツリーもサンタクロースもなかった。「ハヌキア」という燭台のようなもの(燭台か?)を飾っていたのは記憶がある。

ルームメイトでも小さなプレゼントを贈り合ったりした。彼はプレゼントを僕に渡しつつ、こう言ったのだ。「Merry Christmas!」と。僕は何の疑問も感じず、プレゼントを受け取り、そして僕からのものを彼に渡した。僕も「ありがとう、Merry Christmas!」と言った。

今、後悔していることがある。彼はユダヤ教徒だったのだから、このような場合、「Merry Christmas!」ではなく「Happy Hanukkah!」と言えばよかったなと。もし、そのような小さな知識が当時の僕にあれば、彼も喜んだのではないかな・・・と。

ルームシェアの広告を見て僕は彼と同居することになった。なかなかシェアを希望する人が現れなかったらしい。ブロンクスという、一般的には治安のよろしくないとされている地域だったということもあろうが、実は彼はヨーロッパ人からの申し込みを一切拒絶していたのだ。なのでなかなかシェアする人がいなかったのだとも思う。

「君は日本人だね?仏教を信仰しているのかな?」「いや、無宗教なんだ」「僕は・・・実はユダヤ人なんだ。だから分るよね、ユダヤ教を信仰している」キッパを被りながら彼はそう言った。そしてこうも言った。「君たち東洋人は西洋の宗教に関しての偏見がないように感じる。僕はヨーロッパ人が苦手なんだ。大嫌いだ」

「Happy Hanukkah!」と返してあげたかったと思う。

僕がアメリカに滞在していたのは、かなり昔のことだ。10年以上前になるだろう。考えてみれば、その頃でもボストンやニューヨークのような東海岸の大都市では、あまり「Merry Christmas!」と人々は言わなかったような?たしか一般的には「Happy Holidays!」という言葉が普通だったと記憶している。これなら宗教色がないからね。

でも、最近のアメリカでは「Merry Christmas!」という言葉を気軽に発してしまうのは、禁句、ご法度的な雰囲気もあるらしい。職場などでこの言葉を発してしまうと「あの人ってなんなの?」みたいな?

言葉狩りみたい。極端だなと思うし、これはこれで寂しいような気もする。

もうすぐクリスマス。

Merry Christmas!

そして

Happy Hanukkah!

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憎悪ではなく愛で・・・ 

 

「愛の小径」は「レオカディア」という劇のために作曲された。1940年のことだ。当時、プーランクはパリから200キロ離れたノワゼーという村で暮らしていた。生粋のパリっ子であったプーランクはノワゼーで、愛するパリがナチス・ドイツに占領されたことを知ったのだ。エッフェル塔を背景に写真に写るヒトラー、パリの街にハーケンクロイスがなびく様子などを知ったのだろう。

パリは暴力では死なない。愛の街は決して死なない・・・フランスは憎悪ではなく愛で応える・・・

誇り高かったプーランクは、憎悪ではなく愛によって自分の誇りを表現したのではないか、「愛の小径」はプーランクにとって、パリそのものであり、愛そのものであった・・・

フランス人としての誇り、パリっ子としての誇り、音楽家としての誇り、人間としての誇り・・・全部だろう。

暴力に対して、憎悪ではなく愛で応える・・・

2015年、パリで同時多発テロがあったとき、被害者の遺族の男性が、あるメッセージを発信した。テロで妻を殺されたアントワーヌ・レイリスという男性だ。彼と同じように、プーランクも憎悪ではなく愛によって暴力に抵抗した。それが「愛の小径」ではなかったかと・・・

アントワーヌ・レイリスさんがテロリストに発したメッセージは次のようなものだった。


あの夜、あなたたちは特別な人の命を奪いました
私が生涯をかけて愛する人であり、私の息子の母親です
しかし、あなたたちは私に憎しみを抱かせることはできません
私は、あなたたちを知らないし、知ろうとも思いません

私は、あなたたちの願い通りに憎しみを抱いたりしません
憎悪に怒りで応じれば、今のあなたたちのように
無知の犠牲者になるだけです

あなたたちの負けなのです
彼女は私たちと共に生き続けます
そして私たちは再び自由に愛し合える楽園で会えるのです
そこは、あなたたちが入れない場所です

私と息子は二人きりですが、世界中のすべての軍隊よりも強い
彼は生後17か月。普段通り食事をし、私と遊び
そして幸せで自由な人生を過ごすことで、あなたたちに勝利するでしょう
彼も私と同じように、あなたたちに憎しみを抱くことはありませんから

あなたたちの負けなのです

2015年 11月16日  アントワーヌ・レイリス




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category: リサイタル

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愛の小径の謎 

 

ちょっとプーランクに関する書籍などを読んでいて、彼はゲイであったことを知った。生前に、しっかりカムアウトしている。「私の音楽は私がゲイであることを抜きにしては成立しない」とまで言い切っている。

知らなかったぁ・・・

プーランクの歌曲、約100曲はあるらしいが、すべてを聴いたことはない。でもプーランク歌曲のCDは4枚所有しており、曲の重複はあるも、ほぼ全作品に近い曲を聴いた。

「愛の小径」は特別なんだ・・・というのがプーランク歌曲を聴いた時の印象。マスネに近いというよりは、むしろプロコフィエフやショスタコーヴィチに近いような?つまり甘いというよりは、エッジーな感じ?もう少し「愛の小径」的な曲があるのだろうと思っていた。

では「愛の小径」は、なぜ、あそこまで「シャンソン」なのだろう?歌曲というよりは、もろ「シャンソン」だなぁ・・・と。

少し調べてみると、「愛の小径」は独立した歌曲として作曲されたのではなく、劇、芝居の音楽として作曲されたということが分かる。そのお芝居で「愛の小径」を歌ったのがイヴォンヌ・プランタンという女優。プーランクは、彼女が歌うということを想定して曲を作ったようだ。

「なんだ、女優が歌ったのか・・・」つまり、歌に関しては専門教育を受けたことのない、いわば素人さんが歌う曲だったから、だからシャンソンなんだ、さすがにエッジーな曲では女優には歌いこなせないだろう。

これは無知であったし、偏見の塊であったといえよう。イヴォンヌ・プランタンの素晴らしい歌唱を聴いて、自分がいかに無知であったのか思い知らされた。

イヴォンヌ・プランタンの歌い方は、聴いて頂くと分るけれど、「歌曲」に近い歌い方をしている。日本の歌謡曲も、昔の人は割とクラシック的というか、歌曲的に歌っていることが多いけれど、フランスもそうだったのだろうか?

なぜ「愛の小径」は「愛の小径」なのか、その理由は、どうもイヴォンヌだけではないようだ。歌詞は、もうこれは愛そのもの。



「愛の小径」   詞:ジャン・アヌイ

海へ続く小径には私たちの通り過ぎた後
恋占いの花びらと私たちの笑い声が残っている
幸せな日々も 輝きに満ちた喜びも消え去り
私はこの小径をたどる

愛の小径 私はお前を捜し求める
失われた小径 お前はもういない
絶望の小径 想い出の小径
初めての日の小径 愛の小径

人生はすべてを消し去るものだから
私がその小径を忘れ去ってしまっても
私の中に想い出の小径として残って欲しい
そこでは心乱れた私の上で
あなたの手は熱く燃えていたのだから


「あらぁ・・・歌詞がこうなんだから、だからこの曲だけシャンソンなのよ」

メロディーや曲の雰囲気と歌詞、たしかに合っていると思う。でも、それだけだろうか?何かがあるような気がしている。

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中傷と感想 

 

「ピアチェーレの演奏会で実際に、あなたの演奏を聴きましたが目茶目茶じゃないですか」「その程度のレベルでよくリサイタルなんてできますね」

このようなメールを読んだとき、僕は中傷メールだと解釈した。解釈というよりは、瞬間的にそう感じたというか。このメールの送り主が、実際に演奏会を聴いたのかどうかは分らないが、聴いていたと仮定してみる。実際に聴いて「目茶目茶である」と判断した根拠がその人にあるのならば、それは中傷ではなく、否定的ではあるけれど、それは感想なのではないか・・・

感想であるのならば、僕が中傷メールと決めつけて、ブログにそのことを書くということは、メールの送り主に失礼なのではないか、せっかく感想を述べてくれたのに・・・

たしかに演奏に対しての印象というものは主観的なものもあると思う。世界的な演奏家のパフォーマンスに退屈することもあるだろうし、アマチュアの、しかも未熟な演奏の何かに心惹かれるということもあろう。人それぞれというか・・・

でも、僕はメールを読んだ瞬間、中傷だと感じた。「イヤな気分でしょ?いい気味ね」みたいな送り主からの攻撃という印象を受けたから。

畑 義文というテノール歌手がいる。主に関西方面で地道な活動をしている方だ。この人のCDを3枚持っている。どれも日本歌曲、抒情歌を歌っている。

最初に聴いたのは「日本のうた」というCDで、「初恋」とか「荒城の月」のような日本歌曲や「琵琶湖周航の歌」「見上げてごらん夜の星を」のような抒情歌のCD。日本の歌を、あまりにオペラ的に歌われたり、ディクションが不明瞭だったりする歌唱はあまり好きではない。そのような点から畑氏の歌唱に非常に好感を感じた。「とても素敵だ・・・」と。

あまりに素晴らしかったので、次に発売された畑氏のCDも迷わず購入した。「シクラメンのかほり~新しい日本のうた」というCDで、タイトルから分るように、歌謡曲とジャンル分けされる曲が歌われていた。「少年時代」とか「なごり雪」とか・・・

非常に素晴らしかった。またまた続いて発売されたCDも購入した。「昭和のうた」というCDで、主に懐メロというような曲が集められていた。「長崎の鐘」「憧れのハワイ航路」等々・・・

これら3枚のCDは僕の愛聴盤だ。3枚目の「昭和の歌」のCD解説書に、畑氏自身が文章を書いていた。前作「シクラメンのかほり~新しい日本の歌」に対する反応だ。

「改めて曲の素晴らしさが心に染みた」このような反応もあった。僕もそう感じた。でも否定的な反応もあったらしい。「あの歌はこんな曲ではない」「許せない!」

実際に畑氏の歌唱、CDを聴いての反応で、そう感じた根拠があるのだろうから、この反応は中傷ではなく感想なのであろう。だとしたら、畑氏が「流行歌の難しさを改めて感じ、正直しばらく落ち込んだ」などとCDの解説書に自ら書くのは、せっかく感想を述べてくれた人たちに失礼なのだろうか?

歌っていた本人に「許せない」なんて感想を送る人を僕は許せない感じだが・・・

「目茶目茶じゃないですか、その程度でリサイタルだなんて・・・」
「あの歌はこんな曲ではない、許せない!」

これは中傷なのか、感想なのか・・・



20年以上歌手生活を送ってきた。今だに歌の何を伝えるべきか悩んでいる。「新しい日本の歌」を聴いてくださった方から嬉しい反響をいただく一方、「あの歌はこんな曲じゃない」「許せない!」等々ショッキングな言葉をいただくこともあった。流行歌の難しさを改めて感じ、正直落ち込んだ。

が、今回「昭和のうた」を歌っていた先達の歌を聴いて勇気づけられた。歌謡曲とはいいながら、歌曲に近い歌い方をされている。これでいいんだ。意を強くして臨んだ。彼方に高くそびえ、輝いている先達の歌。バッハやシューベルトと同じように、私の大切な宝物になった。

    畑 義文

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夢のあとに 

 

出演者が多数の演奏会とか、ピアノ5名、声楽3名、管楽器2名、弦楽器2名・・・のような演奏会の場合、声楽曲の歌詞がプログラムに掲載されていないことが多い。むろん、曲目解説がないプログラムの場合は、自然とそうなるが。意外とこのようなケースって多いのではないかな?声楽の単独のリサイタルの場合は歌詞は掲載されているのが普通のような気がする。

ピアノなどの場合、歌詞はないのだから、曲名だけでもいいかもしれないが、有名ではない曲の場合、ちょっとは解説が欲しい場合もあったりする。ショパンの英雄ポロネーズとか、そのような曲は曲目だけでもいいのかもしれないが。

超有名アリアとか、歌曲の場合、「ある晴れた日に」とかシューベルトの「鱒」などの曲はタイトルだけでもいいのかもしれないけれど、でも曲によってはタイトルだけで想像して聴いてね・・・では辛いこともあるのではないだろうか?特に様々な楽器奏者や声楽家が出演するような演奏会の場合、聴き手も演奏者の関係者(ばかり?)ということもあると思うので、ピアノの人目当てに聴きに来る人は声楽の曲など、あまり知らないこともあるだろう。

この曲(アリア)は新大陸を発見した喜びの歌なのだろうか、あるいは誤って妻を殺害してしまった嘆きの歌なのだろうか、むろん歌唱が素晴らしければ、聴き手は歌詞内容など知らなくても、心は動くのかもしれないが、やはり最低限の「どんなことを歌っているのだろう?」ぐらいの内容、歌詞は知りたいものではないだろうか?

声楽曲を器楽化して聴いてしまうという特殊技を発揮すればいいのかもしれない。「あら、素敵な曲ね」と。何語で歌われようと、日本語で歌われようと、会場で歌詞内容を聞き取る、あるいは理解するのは専門外の人は意外と難しいように思う。日本歌曲の場合でも、多くは何を言っている(歌っている)のか日本語であっても聞き取れない。「思う」を「思お」と発音するような流儀もあったりするらしく、聞き取れないのだ。なので、器楽のように聴いてしまえばいいのだ。「劇的表現だわ」なら歌詞、内容が理解できなくても感じられる。

フォーレの初期の歌曲、「夢のあとに」・・・この曲は様々な楽器に編曲されて演奏される機会も多いような気がする。チェロで演奏されることが多いだろうか?ピアノ編曲でも、僕が知るだけでもトランスクリプションとして3種類もある。

「物悲しいメロディーね」「素敵な曲ね」・・・歌詞内容など知らなくてもいいのかもしれない。

でも、恋人なり配偶者なり、パートナーなりが、去ってしまった、永遠に去ってしまった、この世からいなくなって・・・このような詩の内容を知って聴くのとそうでないのとでは、やはり曲や演奏の印象というものは異なってくるのではないだろうかとも思う。



「夢のあとに」   詞:ロマン・ビュシーヌ

君の姿に魅了され まどろみの中
燃えたつ幻のような幸福を夢見た
君の瞳は優しく、声は澄み響き渡る
君は光っていた あけぼのに輝く空のように

君は私を呼び 私は地上を離れ
共に光の中へ逃げ去っていく
空は私たちのために雲を開いてくれる
そこで見た輝き・・・

美しき夢の目覚め
ああ、夜よ、いつわりを返してくれ
今一度帰ってきて欲しい 神秘の夜よ


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受容 

 

「アルフォンシーナと海」の名唱、やはりメルセデス・ソーサのものとなるのだろうが、個人的にはタニア・リベルタという人の歌唱にも惹かれる。引き潮のような表現の魅力があるとでも言おうか・・・

彼女の表現は、哀しさを表現というよりも、哀しさや、切なさを受容しているような魅力がある。「私、あなたの気持ち、分るわ」みたいな?救いようのないものを、どこか受け入れているような?


「アルフォンシーナと海」  詞:フェリックス・ルナ


やわらかい砂浜を海が洗う
彼女の足跡はもう戻ってこない
苦しみと沈黙の孤独な道は
深い海の底へ辿りついた
声のない苦しみの道は
海の泡となり消えていった

行ってしまうのですね 孤独を抱えて
探していた新しい詩は?
そんな風に行ってしまうのですね?
夢の中の出来事のように

お眠りなさい アルフォンシーナ 
海を装いにして・・・


kaz




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category: リサイタル

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アルフォンシーナ・ストルニ 

 

とても美しい人だったんだ・・・

乳癌を患い、最後には精神的に破綻してしまったと・・・

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category: リサイタル

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アルフォンシーナと海 

 

フォルクローレ、CD売り場だとワールドミュージックというコーナーになるのだろうか?クラシックのコーナーよりも、さらに小さく、さらに隅の方に・・・

「アルフォンシーナと海」を聴いた時、非常に心惹かれた。この曲は作詞、フェリックス・ルナ、作曲、アリエル・ラミレス、そして歌い手のメルセデス・ソーサという人たちの幸運の巡り会いから生まれた曲のようにも思う。

哀しい死を遂げた、実在の詩人、アルフォンシーナ・ストルニの最期を描いた曲だ。彼女は入水自殺をしている。享年46・・・

弾いてみたい・・・と思った。一応、ディアンスのギター編曲バージョンの楽譜をもとに、ピアノの鍵盤にアルフォンシーナを移していった。でも結局、耳コピに近い形になった。やはりギターの演奏よりも、この曲はメルセデス・ソーサの歌声の印象が強かったのだ。

深い声、深い表現だと思った。何もしていないようなのだけれど、そこが深いのだ。

丹念にピアノに移していった・・・

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category: リサイタル

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男子なのに踊っている! 

 

フィギュアスケートの競技会、もし男子シングルで、このようなルールのある競技会が行われたらどうなるだろうと・・・

「フリーでのジャンプの規制について。ジャンプは2Aが3回まで、3回転ジャンプは一種類、一回まで。4回転ジャンプや3Aは禁止」

現在、本物の(?)競技会での上位常連の選手たち、この競技会でも上位になるだろうか?つまりジャンプ以外のエレメンツで評価される割合が大きくなる競技会で、同じような順位になるだろうか?個人的には、なるだろう・・・などと想像する。

4回転の種類を競うような今の時代、もし現代の選手の演技に見慣れているファンが、30年前、40年前の名選手の演技を観たら、どう感じるだろう?「なんだ、4回転なんて跳んでないじゃない」と思うだけだろうか?そのあたりは分らない。そのように感じる人も、もしかしたらいるのかもしれない。

100年前の往年の巨匠ピアニストの、遠くから聴こえてくるような古い録音をウットリと聴きいる・・・なんて特殊な趣味なのだろうか?同じように40年前のスケート選手の演技をウットリと見入ってしまうというのも特殊な趣味なのだろうか?

長光歌子というコーチがいる。たしか、高橋大輔選手のコーチだった人と記憶している。もちろん、長光コーチも、元は選手だった。彼女のインタビュー記事を読んでいて、とても興味深かったことがある。現役を引退し、初めて観戦した国際大会が、札幌のオリンピックだったというのだ。つまり、現役時代には国際大会を観たことがない?時代というものを考えると、そんなものなのだろうか?

札幌オリンピック、まず思い浮かぶのが女子シングルのジャネット・リン。むろん、長光コーチもジャネット・リンや、女子シングルの上位選手の演技には魅了されたのだろうが、それよりも彼女を魅了したのが男子シングルの選手。ジョン・カリーやトーラー・クランストンなどといった選手の演技や練習を初めて観て、彼女はこう思ったのだそうだ。

「えっ?男子なのに踊っている!!!」

長光コーチがそれまで観てきた日本の男子シングルの選手、彼女の言葉を引用すると「手のひらを下に向け、氷と平行に滑るのが男子の理想的なスケート」とされていたのだそうだ。国内大会しか観たことがないのであるのならば、なおさらトーラー・クランストンやジョン・カリーの演技、スケーティングは驚き、一種のカルチャーショックでさえあったのではないだろうか?

彼らのスケートを初めて観て、驚き、そしてこう思ったのだそうだ。「踊りは何も女子だけのものではない。体力は男子選手の方がある。もし、男子選手が踊ったら?私はそのような男子選手を育てたい。コーチになりたい!」

トーラー・クランストンの演技。

「男子なのに踊っている!」

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category: The Skaters

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鳩とピアノ 2 

 

年齢を重ねると、人生のシーンが増える。心の場面がアルバムのように増えていくのだ。これはピアノを弾くうえでも有利だろうと思う。では不利な点は?子どもや若者(現役音大生とか?)と比較して不利なこと・・・

「指が動かない」「暗譜に時間がかかる」「仕事が忙しい」「体力の低下を感じる」「病の攻撃」「介護しなくちゃ」等々・・・

いいことないじゃん。年齢を重ねたこと、つまり大人になって不利なことは、自分の経験からすると、自分を守ってしまうということ。プロテクトしてしまうんだね。何故なら、本質、事実を見つめることによって、傷つくこともあるから。

でも、自分の人生の終末期、それは病の攻撃などを受けなくても、誰にでも必ず訪れるものだけれど、その時にプロテクトしてきたことで後悔するのではないかなぁ・・・。守ってきたはずのものが、最終的には自分を傷つけることになる。「ああ、もう今では遅すぎる」と後悔する。「ああ、直視して、やっておけばよかったなぁ」と。

難曲を表面的にはパラパラと弾ける・・・この場合、その事実は素晴らしいことだけれど、あまりにプロテクトしてしまうと、例えば、自分は上級者であるとか、そのような方向性に向かってしまい、「パラパラとしか弾けない」という事実に向き合わないと後々(人生の終末期)に辛いことになる。

逆に、表現というか、「演奏者は感じているんだな」ということは聴き手に伝わる、「何かをやろうとしてはいるんだな」ということは伝わる演奏であり、演奏者に、自分には感じる感性があるという自負があったとしても、1曲を弾き通すことができないとか、本来は3分の曲が倍かかってしまうとか、それでは辛い。そのような場合、自分をプロテクトしてしまうと、「あの人は上級者かもしれないけれど、心がない。でも私にはある」のようになってしまう。

どちらの場合もプロテクト過多だと、現実を直視できなくなってしまう可能性はあるように思う。「弾けない」ということには理由があるという事実から逃げてしまうと、後々辛いかもしれない。

終末期には、このダヴのCMのような、ありふれた日常的な場面も走馬燈のように蘇ってくる。完全にピアノを弾くということを認知症予防と割り切っている人は別だろうが、何かしらのものを音楽というものに感じている、自分が弾いているピアノというものに結びつけるのであれば、走馬燈にはピアノ人生というものも蘇ってくるのではなかろうか?

その時にすべてが浮き彫りにされる。

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category: ピアノ雑感

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鳩とピアノ 1 

 

ピアノの練習というものは、生活の一部というか、習慣化されるのが望ましいのだろう。ピアノ教師ブログでの話題もこの部分が最も多いし、練習して欲しいという教師側の悩み、願いがセミナーというものを繁栄させてもいるのだろう。少なくとも、外側から見ていると、そのような印象を受ける。

習慣となるまで自分を鍛える・・・これは幼いころより身につけておきたいことだ。自己規律。自分の人生なんて、自分以外の誰も責任を持ってはくれないのだから、この自己規律能力は必要なものだと思う。

しかしながら、ピアノを弾くということにおいて、あまりにも「練習」=「習慣」ということにすべてを捧げてしまうのも危険なことかもしれない。特に子どもピアノの場合、物心つくよりも前に「ピアノ」というものを習っており、自己の中の欲求というものよりも、習い事としての習慣としてピアノとのおつきあいという面が強くなったりする。それは練習をきちんとするとか、課題に対して丸を先生からもらうとか、発表会できちんと弾けるとか、目的がそこに向きがちになったりする。なぜ、面倒な(?)練習などをしなければならないのか、その目的はという根本を見つめないまま、習慣だけがピアノを弾かせていくという危険性。

次の課題が与えられたから、以前から習っているから、発表会に出るから、レッスンがあるから・・・ピアノを練習する目的ってそこ?自己規律能力を養うことが習い事としてのピアノの目的なのだろうか?もちろん、あったほうがいい能力だが、脳の活性化のためにピアノを習うわけではないように、それは目的ではないのでは?

習慣というものは、環境によって変化していくものだ。なので、進学によってピアノを辞めるとか、セミナーでも「続けるピアノ」なんてテーマが出てきたりするのだ。

大人ピアノ、仕事をしながら、隙間時間を見つけて曲を仕上げていく、弾くという動機に子どもの習慣ピアノとは異なり、強いものがある。でも、かつてのピアノ道、昔習っていた頃のピアノ道、習慣をそのまま大人ピアノにも当てはめてしまう人は多そうだ。レベルがどうこうというのではなく。練習会があるから弾く、難易度の高い曲を弾けるようにしていく、だから練習する・・・のような?

子どもであれ、大人であれ、ピアノ、つまり音楽というか、曲には、様々な人間の感情を代弁してくれるような、自分が仕舞い込んだ、他人には見せないような、人生のそれぞれの場面での感情に寄り添ってくれるもの、それを感じるから、だから弾く、だから練習をするのではないだろうか?表現というもの、その欲求の根源に潜んでいるものとでも言おうか・・・

ダヴというメーカー、米国で1957年に誕生している。スキンケア、ヘアケアの総合メーカー。それまでは汚れを落とすという概念しかなかった石鹸というものに、肌への潤いという概念を加えた。Doveとは鳩という意味。愛と平和の象徴である鳩をメーカー名にしたのだそうだ。

ダヴのCMが素晴らしい。日本のダヴではなく米国のコマーシャル。女性向けのものは、「美というものはすべての人にある」というコンセプトのもと、制作されているような印象を持つ。「あなたは自分が感じているよりも美しいのよ」みたいな・・・

男性版ダヴのCMも素晴らしい。こちらは、鏡に向かって、うっとりとするパパ・・・というものとは異なり、父親と子ども、そして家族というものに焦点をあてている。人生の中での一場面、このCMと全く同じではなくても、パパではなくても、子どもはいなくても、でもこのような感情を人生の場面場面で感じたよね・・・みたいな?

ピアノを練習する、レッスンに通う、人前で弾いてみる・・・すべてのこと、それは自分の感情を音世界として代弁してくれるからではないだろうか?言葉では表せない心の中の深いもの・・・

プロではないんだし。専門的に音大を目指すの。趣味だから楽しく・・・

人間の感情にプロ、専門、趣味という仕分けがあるのだろうか?

鳩のようなピアノ・・・

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category: ピアノ雑感

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水分補給 

 

演奏会において最も重要なものは、もちろん「演奏」ではあるが、雰囲気というものも重要なのではないかと思う。演奏そのものが会の雰囲気というものと関係していると思うので、厳密に演奏と雰囲気というものを分けることはできないとは思うが。

アメリカに住んでいたので、その頃は演奏会をよく聴いた。大きなホールで催される有名ピアニストのリサイタル、これはアメリカでも日本でも大差ないように思う。基本的に舞台に出てきて弾いて、お辞儀をして引っ込むというもの。日本では、ほとんど経験したことがなく、アメリカで沢山経験したのが、サロンコンサートというか、ホームコンサートのようなもの。今回の自分の初リサイタルにおいては、僕なりの明確な雰囲気に対してのイメージがある。それは、アメリカで経験した小規模演奏会からきているように思う。

演奏者はトークを加え、聴き手は時にはワインなどの飲み物を飲みながら演奏を聴く、演奏後は聴き手と演奏者とが一体となって歓談したりする。音楽院の学生コンサート、厳密には公開試験なのだが、さすがに飲食を演奏中に・・・ということはないけれど、終演後は、やはり歓談の場がある。この場合、学生本人や友人、知人が食べ物を持ち寄ってという手作り感満載のものになる。日本の音大の試験とか卒業演奏とは、かなり雰囲気が異なるのではないだろうか?

2月のコンサートでは、演奏中ではなく、演奏後での歓談の場ということを考えている。この歓談の場、アメリカでは、たしか「レセプション」と呼んでいたように記憶している。

このレセプションの他に、日本との違いを感じるのが、衣装もだが、プログラム。日本は個人リサイタルであれ、発表会であれ、世界で最も印刷物としてのプログラムが豪華な国なのではないだろうか?チラシなども含め、非常に豪華。アメリカでは、多くの場合、ピラピラの紙一枚に曲目が掲載されているものが一般的だったような。

あと、日本では、あまりお目にかかれないのが、演奏者の水分補給。クラシック以外のジャンルのコンサートでは、結構演奏の合間に演奏者が水を飲むという光景はあるのかもしれないが、クラシックの演奏会ではあまりないような?

演奏の合間にトークを加える、実は非常に喉が渇くのだ。緊張しているし、会場も乾燥していたりして、喉がカラカラになる。以前、ピアチェーレの演奏会でもトークを加えたことがあったが、水分補給(楽屋ではなく舞台での)ということを全く考慮していなかったので、とても困った記憶がある。アメリカでは、特に歌手、声楽家の場合、舞台に水が用意されていることが多かったように思う。

でも、ここは日本!プログラムも含め、あまりにアメリカ式だと、聴き手が驚いてしまうというか、いわゆる「まっ、お行儀が悪い!」ということになってしまうのではないかと、そのあたりを色々と研究したりしている。そんなことをしているのなら、もっと練習すべきなのだろうが・・・

プログラムもワードで打ってコンビニで人数分コピーしてきました的なものではまずいのかもしれない。日本では「わざわざ感」というものが重視されるような?

水分も床にペットボトルを直置き・・・なんていうのはまずいのかも。このあたり、人様の舞台での動画などを観て研究したりしている。

「ニール・セダカはペットボトル派なんだ」

歌い終わった後、彼はペットボトルの水を飲んでいる。「よし、蓋は開けておくんだな」

粗忽な僕はペットボトルを蹴飛ばしてしまい床一面が濡れてしまうだろう。なので床に直置きは厳禁。ピアノの上というのも、さらにまずいだろう。「ペットボトルを置く台のようなものが必要だな。会場のオーナーさんと打ち合わせが必要だな」・・・と色々と出てくる。

調査、研究目的で動画を観ていたのだが、ニール・セダカの歌声が素晴らしい。ついつい歌そのものに聴き入ってしまう。彼は現在77歳。このコンサートでは3年前に発売されたアルバムの新曲を歌っているので、74歳ぐらいの時の歌声となるのだろう。なんて透明感のある声なのだろう。70歳を過ぎて、このように歌う、さらにこのようなメロディー、そしてハーモニーを生み出すということの奇跡!

非常に巨大な空間、ホールでのコンサートだ。でも彼は客席とのつながり、対話を決して忘れてはいない。舞台上で何やら歌っている・・・ということには決してならない。一体化して溶け合っている。このあたりが素晴らしい。

ニール・セダカは一時クラシックのピアニストを目指していた。たしか彼はジュリアード音楽院を奨学金を得て卒業したはずだ。クラシックの人だったのだ。

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category: リサイタル

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客席との対話 

 

本番での演奏、暗譜で演奏すべきなのだろうか?「リヒテルは楽譜を置いていた」「現代でもメジェーエワは楽譜を置いている」

コンクールや入学試験ならともかく、普通の演奏会ではどちらでもいいのではないだろうか?大切なのは演奏なのだから。

昔、まだピアノを再開していない頃、あるサロンコンサートに誘われて聴きに行ったことがある。フルートのコンサートで、僕はフルートは特に好きでもなかったが、ノルマがどうこうという知人に説得され聴きに行った感じだ。演奏者はプロだったのだろう。経歴は忘れてしまったが、東京○術大学卒業、○○に所属・・・みたいな経歴だったろうか?たしか3000円のチケットを買った気がする。

演奏そのものは、特に可もなく、不可もなく、普通に吹いていたというものだった。「なんじゃこれ?」という印象はなく、普通だった。ただサロンコンサート、50人程のキャパの会場だっただろうか、そのせいもあったのだと思うが、あることが気になり始めた。最初のバロックのソナタあたりでは、あまり気にならなかったのだが、プーランクのフルート・ソナタあたりで気になり始めた。後半の、いわゆるフルート名曲集みたいなコーナーでは、非常に気になり始めた。曲としては「アルルの女のメヌエット」とか「ユーモレスク」とか、そのような曲。アンコールでは、たしかクライスラーの「美しきロスマリン」が演奏されたが、僕はこう感じてしまったのだ。

「暗譜すればいいのに・・・」

彼女は、すべての曲、アンコールまで含めて楽譜を見ながら演奏していた。管楽器の場合、あるいは弦楽器の場合でも、ピアノ独奏よりは楽譜を見て演奏するということは多いような気がする。まぁ、曲にもよるだろうが。ソロといっても、ピアノのように全く一人ではなく、伴奏者とのアンサンブルという面があるからだろうか?

何が気になったのだろう?楽譜を見た、見ないということではないように思う。客席と演奏者が常に分断していた印象があるからだと思う。なんとなく、常に彼女は楽譜を「ガン見」していたという印象を持ったから。

聴き手が「置いていかれている」という印象?舞台と客席とでの対話が感じられなかった。演奏そのものに起因しているものだろうが、視覚的要素もあったのではないだろうか?

譜面台に楽譜を置く、置かないではなく、置いたとしても「ガン見」状態で、演奏者=楽譜=鍵盤というところを行ったり来たりしている印象でなければいいのだ。聴き手というものが、そこに加わってほしいというか・・・

完璧に暗譜しました・・・という場合でも、演奏者=鍵盤というだけで、やはりそこに聴き手というものとの対話が欠けている印象を与えてしまっては、暗譜しようと「ガン見」だろうが、聴き手としては同じような印象を持ってしまうのではないか?

ピアノという楽器は、客席を向かない楽器だ。基本的には横の姿だけをお見せすることになる。対話というのは、何も客席を向いてニタッと笑うことではないだろう。でも対話しやすい楽器ではないのかもしれない。

声楽は対話しやすいのではないだろうか?楽器は自分の体だけで、手に何かを持っているわけではない。自由に動き回ることも可能だ。ピアノでは不可能だけれど。

でも、やはり「音楽」なのではないだろうか?

演奏者=楽器・音楽=聴衆・・・音空間、音時間として溶けるといいのだと思う。

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category: リサイタル

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プログラム 

 

2月25日のリサイタル、会場はここになります。

http://www.musicgalleryarietta.com/  ミュージックギャラリーアリエッタという会場です。

僕はピアノに関しては、世界の名器でなければイヤ・・・みたいな拘りはない。「ヤマイ」でも「カワハ」でもなんでもよろしい。ただ、今回のリサイタルの曲目について留意したのが、空間のこと。ホールのような空間ではない。非常に演奏者と聴衆との間が親密な感じ。つまり至近距離であるということ。ホールというよりは部屋という感じに近い。

このような空間で大曲バーン・・・みたいなプログラムばかりでは聴く方も辛かろうと。なので小品というのだろうか、サロン的小品を中心としたプログラムにした。でも似たような小品ばかり延々と・・・というのもどうかと思うので、それぞれのコーナー(?)にテーマを決め選曲した。往年のピアニストの作品とかラテンの曲、ショパン、自分でアレンジした作品、この部分は往年のピアニストへのオマージュみたいな意識がある。

「使用承諾書」みたいな書類に書き込むなどの事務的なこともしなければならない。書類を見ていて、気づいたことがある。開場とか開演などの時間は決められるが、終演時間。「はて、何時頃に最後の曲を弾き終えるのだろう?」「自分はどれくらいの時間のプログラムを弾くのだろう?」

全体として総演奏時間を計ったわけではないので分らない。演奏してみたら50分しかない。僕としては「濃いプログラムだな」と感じていたので、全体として、ここまで短いとは思わなかった。

「まっ、50分でもいいか・・・」と怠慢な気持ちに一瞬なったりしたが、曲目を再編成してみた。

バッハ~コルトー 「アリオーソ」
レヴィツキ 「アラベスク・バルサンテ」
ヨゼフ・ホフマン  ノクターン
チェルカスキー 前奏曲「悲愴」
カールマン~ハフ 「初めての口づけも知らずに」

チマローザ ソナタ イ短調
ショパン ノクターン ハ短調 遺作
      ノクターン 作品9-2
      バラード 第1番

モンポウ 「秘密」
グラナドス 「マハとナイチンゲール」
ラレグラ 「ビバ ナヴァラ!」

休憩

フォーレ~グレインジャー 「夢のあとに」
プーランク 「愛の小径」
ブローウェル 「11月のある日」
ラミレス 「アルフォンシーナと海」

リスト メフィスト・ワルツ 第1番

やたら曲数が多いように感じるが、前半役40分、後半約28分でちょうどいいのではないだろうか?ただ演奏するだけではなく、トークをしながらなので、全体の時間はもう少し長くなるとは思う。

演奏終了後に飲食をしながらのパーティー(?)というか、歓談タイムになるので、すぐに帰らないで下さいね。

以前にも紹介した動画なのだが、このような雰囲気を理想としている。聴き手は偉大な作品を彫刻のように椅子に固まって長時間拝聴する・・・みたいな感じではなく、ちょっと咳でもしようものなら、周囲から「シッ!」みたいな視線を投げかけられたりとか、そのような雰囲気ではなく、このような・・・・

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category: リサイタル

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中傷メールと韓国のハンちゃん 

 

自分のリサイタルについて、意気込み(?)とか演奏する曲についての想いなどをブログで綴ろうと思うのだが、その想いをストップさせるものが、いわゆる中傷メール。

「あの程度でリサイタル?」みたいな凹みメールですね。「ピアチェーレで演奏を実際に聴きましたが、目茶目茶で全然弾けてないじゃないですか?」このようなメールを読むと、さすがに凹む。

傷つく・・・というほどではないのかもしれないが、不愉快ではある。

「そんなぁ・・・お耳汚しで申し訳ありません」とか「全然弾けないんですけどぉ・・・リサイタルなんて本当はしてはいけないレベルなんですけどぉ・・・」と言っていれば、もしかしたら中傷メールは読まなくてもすむようになるのかもしれないが、心から「良かった」「素晴らしかった」と言ってくれた人だっているのだ。

ある方のアドバイス。「中傷的なメールなどではなく、自分のことを絶賛してくれた人の言葉を心の宝物にしましょう」というもの。僕の演奏を聴いて「ピアノ、辞めようと思っていたけど、辞めるのやめる」と言っていたなどという言葉を間接的にでも知ると、そりゃあ「弾いてよかった」と思うものだ。

来年の2月には小規模なリサイタル、サロンコンサートのようなものだが、やろうと思っている。約20名の方から申し込みがあり、無料の演奏会だけれど、まぁ、完売・・・ということになる。その人たちは、わざわざ僕の演奏を聴きに来るわけだ。「そんなぁ・・・まだまだ未熟でお耳汚しなんですけどぉ・・・」では聴きに来る人に失礼ではないか・・・

もう10年近く昔になるだろうか?僕はアメリカデビューをしている。まぁ、あるピアニスト主催の小さな会で弾いただけなんだけど。そこで知り合った人とはメールなどで今でも交流がある。アマチュアとして音楽を愛し、弾かずにはいられない人、プロの人、専門的にピアノを学ぶ人と様々だ。

「ピアノが辛くて辞めようと思っていました。でも、あなたの演奏を聴いて心が変わりました。演奏によってこんなに心が動いたのは初めてです。人の感情を動かすことのできる演奏って初めてです。ピアノであんなことができるなんて・・・・」ある少女、中学生ぐらいだっただろうか、東洋人の少女が興奮気味に僕の演奏後に話しかけてきた。

「私、韓国から勉強に来ているハンといいます。あなたは、こちらで活動されているのですか?」
「いやいや、アマチュアとして日本でサークル(通じなかった。サークルって?みたいに)で演奏しているだけですよ」
「そんなの変ですね。演奏活動しないなんて。ファンもできるんじゃないかしら?」
「ピアノ・・・辛いの?」
「親の期待もあって、そこが辛い。でも今日の演奏を聴いて、私も人の心を動かせる演奏をしたいと思いました」
「ピアニストになりたいの?」
「今まではそうではなかったけど、あなたの演奏を聴いて、ピアニストになりたいと思いました」

「あなたは日本のお兄さんみたい」

ハンちゃんからすると、お兄さんではなく父親のような年齢だと思うが、日本のオジサンではなくお兄さんと呼んでくれたのが嬉しかったりした。嬉しがるところが違うとは思うが。

今でも韓国のハンちゃんとはメールのやり取りが(頻回ではないが)ある。「お兄さん、私、カーティスに受かったの!」「すごいじゃないか」「私、修士はジュリアードにしようと思う」「すごいじゃないか」

頑張っているんだな。韓国の人って子どもに賭けるよね。そんな風に思っていた。ハンちゃんの方から「これが私の演奏。聴いてね♡」というものは今までなかったので、ハンちゃんの演奏を僕は聴いたことがなかった。でも先日、偶然に彼女のユーチューブを見つけてしまったのだ。

「あれ?これ・・・ハンちゃん・・・だよね?」

成長した韓国のハンちゃんの演奏を聴いて、僕は泣いてしまいました。

「素晴らしい演奏をありがとう!」
「いやだ・・・ちょっと恥ずかしいな」

ハンちゃんの言葉、自分の羞恥心とか、イヤな思いをしたくない、つまり中傷メールのために軽く扱うのは、つまり自分でかみしめないのは、やはり違うのかなと思った。

「私・・・あなたの演奏を聴いてピアニストになりたいと思いました」この言葉は僕の財産ではなかろうか・・・

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category: リサイタル

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なんとなく表現 

 

ピアチェーレの演奏会、僕の演奏した曲の中で評判の良かった曲がドヴォルザークの「ユーモレスク」だった。評判が良かったというのか、共通した感想が多かった。「ユーモレスクがこんなにいい曲だとは思わなかった」「こんなふうに演奏することもできるんですね?」のような・・・

幼い頃よりフリッツ・クライスラーのヴァイオリンには親しんでいた。なので、僕には彼の演奏が染みついているということもあるのだろう。以前から、ユーモレスク、特にピアノで演奏した場合、何故に弾むように弾くのだろう?あっけらか~んと楽しそうに弾くのだろうという疑問は抱いていた。楽譜にはそのような指示はないのに。

「こんな曲だとは思いもしなかった」という言葉から考えると、ユーモレスクという曲は、定型パターンのような表現のようなものが、人々に定着している曲ということなのだろうか?

なんとなく多くの人がそのように弾いているので・・・みたいな?

超有名曲にその傾向があるかもしれない。ショパンのバラードの1番とか、割と考えなしに、「皆がこのように弾いているから」的な演奏も多いような?

個人的には、このような「なんとなく表現」というものの多い曲というと、いわゆる「受験生曲」のような曲。古典派のソナタとか。あとは発表会御用達曲のような曲を連想する。ランゲの「花の歌」とか。このような曲って、素敵・・・というような演奏よりは、パキパキ系というか、しっかり系の演奏が多いような?

例えば、ユーモレスクを演奏する、もしくは指導するという場合、ピアノのサウンドであれば、イグナツ・フリードマンのような演奏を聴くというよりは、そのへんの(?)「発表会用CD」とか「全音ピアノピースCD」のようなものを聴いてしまう?クライスラーなんてヴァイオリニストだから聴かないのだろうか?古そうな人だし・・・

フォスターの歌曲も割と「なんとなく表現」が多いような気はする。マリリン・ホーンのようなクラスの歌手となると、さすがに深い声で素晴らしく表現しているが、全体的にはクラシックの歌手よりは、それ以外のジャンルの歌手の方が「なんとなく表現」「決まりきった表現」ではない幅広い歌唱が多いように思う。多くのクラシックの人のフォスターって発声法の関係なのか、伸びやか、牧歌的、平和的、品行方正で、ちょっと退屈。「長調の曲ですね。明るく表現しましょう」みたいな取り決めでもあるのだろうか?

サム・クックという歌手。この人のフォスターは「なんとなく表現」ではないように感じる。サム・クックなんてクラシックファン、クラシックピアノを勉強(?)している人は聴かないのかもしれないが、素晴らしいと僕は思う。この人、わずか33歳で亡くなっているんだね。拳銃で射殺されている。

「金髪のジェニー」は「夢見る人」と同様、妻のジェーンを想って書かれた曲だ。別居して数年後の曲。時期的に辛かった時期ではなかろうか?去ってしまったジェーンへの想いが切々と歌われる。


「金髪のジェニー」

明るい茶色の髪、ジェニーを夢見る
きらめく小川で軽やかに舞う
ヒナギクのように幸せな姿

夜明けのジェニーの笑顔
過ぎ去りし彼女のメロディー
叶わなかった甘い期待・・・

雨の日にはむせび泣く
ジェニーを想う 輝くせせらぎに彼女の姿はない

ジェニーを想いため息ばかり
微笑みは消え去り甘いメロディーも空へ消えていく

かつて私たちを楽しませ消えていった夢が頭をよぎる
夏の日の空気に漂う霞のように・・・

kaz




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category: 未分類

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栄光の歌声 

 

これが実際のマダム・フローレンス・・・フローレンス・フォスター・ジェンキンスの歌声。

突き抜けている・・・と思う。

実は、昔からフローレンス・フォスター・ジェンキンスの音源は、一部音楽愛好家の間では有名だった。僕も、かつてレコードを持っていた。

ツラツラと上手だけど、ツラツラと耳を通り抜けていく演奏と、彼女のような強烈なまでに突き抜けた印象を与える演奏、まぁ、比べるものでもないか・・・

人の演奏を聴いて笑ってしまうというのは、いけないことなんだよね・・・でも突き抜けている!

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category: The Singers

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マダム・フローレンス! 

 

「心がなくては機械だし、理性がなくては人ではないし、技術がなければアマチュアに過ぎない」これは、たしかホロヴィッツの言葉だったと記憶している。名言というよりは、暴言?少なくとも、アマチュアにだって夢はある。

「おばあちゃんの夢はオペラ歌手になることだったのよ」「え~?知らなかった。おばあちゃん、そんな夢を持っていたんだ」「若い頃はそれなりに夢見て勉強したものよ・・・」まぁ、夢破れて・・・というか、幸せな結婚をし、平凡ではあるが、充実した人生を送ってきた。可愛い孫にも囲まれて。よくある風景なのかもしれない。

でも、もし、このおばあちゃんが、莫大な遺産と、裕福な男性との結婚によって、ニューヨーク社交界の華・・・となってしまったら?

マダム・フローレンス・・・

かつてはオペラ歌手を夢見ていた。夫はフローレンスの夢を実現させようとする。自分には力がある。妻にも財力がある。上流階級の人たちを招いてのサロン・コンサート。

「まぁ、奥様、素晴らしかったですわ」「奥様には才能がございますのね?」

社交辞令という言葉がある。でもマダム・フローレンスは本気になってしまった。普通だったら、「若い頃は・・・」とお茶でも飲みながら孫に語っているのだろうが、マダム・フローレンスには財力と社交界での地位があった。

「カーネギー・ホールで歌ってみたい・・・」「君ならできるさ!」

この映画は現在公開中なので、これ以上は語れないが、この映画は実在した人物、フローレンス・フォスター・ジェンキンスの物語だ。彼女の歌唱は、なんと言うのか、ある意味「突き抜けていた」のだ。未熟とか下手とか、そのようなものを超えていた。

本人は、いたって真面目。でも聴いている方は、その突き抜けた歌唱に圧倒されてしまう。「感動」というものとは違う。でも「強烈」だったのだ。76歳、カーネギー・ホールでのデビュー・リサイタル。著名人を含む多くの聴衆がマダム・フローレンスの歌唱を聴きに詰めかけた。

映画では彼女を「絶世の音痴」と表現しているが、彼女の音源(残っているのだ!)を聴くと、「音痴」というのとは違うように思う。高音を絞り出そう(!)としても、高い声が出ずに、はるか下の音を歌っているだけだ。まぁ、これを音痴と言うのかもしれないが、普通の箇所(?)は普通に歌っているような?

映画そのものは実に素晴らしいように思う。でも人前で演奏をするアマチュアにとっては、何か考え込んでしまうようなところもある。

現在公開中・・・

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category: kinema

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夢見る人 

 

ロイ・オービソンの「オー・プリティ・ウーマン」が全米、そして全英のチャートで1位に輝いていた頃、アメリカという国も夢を持ち、活気に満ちていたのかなぁ・・・などと想像する。1960年代のアメリカを、それもグレイハウンドのバスで周遊してみたいなどと思う。

彼の音楽は、古き良きロックというか、ロカビリーというか、オールディーズというか、そのような雰囲気だ。ニール・セダカのような?ニール・セダカもそうだが、70年代になると、いわゆる受ける音楽というものが様変わりして、かつてのスターたちの多くが低迷してしまった。ニール・セダカもそうだが、ロイ・オービソンも苦難を経て、また復活したのだろう。

「オー・プリティ・ウーマン」の歌唱でも感じたのだが、この人の魅力はファルセット風というのか、透明感のある声にあるのではないかと思う。古き良きアメリカそのもの・・・といった印象さえ持つが、ロイ・オービソンは幸せそのものという人だったのだろうか?蓋をしていた感情、そのようなものは持っていなかったのだろうか?

ロイ・オービソンがスティーブン・フォスターの歌曲を歌っている。「オー・プリティ・ウーマン」の印象からは、なかなか結びつかないが、とても素晴らしい。

「オー・プリティ・ウーマン」は妻であるクローデットにインスパイアされた曲だと書いたが、この曲がヒットした数年後、クローデットは事故死している。さらに、その後、ロイ・オービソンは最愛の息子二人を火事による焼死で失っている。ロイ自身は心筋梗塞で50代の若さで亡くなっている。

フォスター自身も不遇の人生だった印象を与える。妻のジェーンとは別居。完全に離縁状態だったとされている。アルコール依存になったフォスターは、酒代のために曲を書き、その日暮らしをしていたらしい。そんなフォスターが死の数日前に書いた曲、最後の曲が「夢見る人」なのだそうだ。妻の面影を歌った曲なのだとされている。

ロイ・オービソンの歌唱は、人には見せなかった感情を表出しているようにも聴こえてくる。

「夢見る人」

美しき夢見る人 私の歌を聴いて欲しい
私の女王、あなたへの歌を聴いて欲しい
悲しみの愛は消え去る・・・
美しき夢見る人 私のために目覚めてほしい

kaz




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「プリティ・ウーマン」 

 

映画「プリティ・ウーマン」が公開されたのは1990年ということだ。そうすると、その時に生まれた人も、そろそろ三十路ということになる。でもこの映画は今でも色褪せていないと思う。ストーリーそのものは他愛無いものなのかもしれないし、娯楽作品なのかもしれないが、僕は妙にこの映画が好き。

それは主演の二人にあると思う。リチャード・ギアという俳優は、どこか「スカシテいる」みたいな印象があって、芸風の広さを感じないような印象を(個人的に)持つが、この映画とか「アメリカン・ジゴロ」とか、はまり役なのではないかと思う。ジュリア・ロバーツは光り輝いている。二人ともスター然としていていいなと思う。ありえない話をスターが演じる・・・みたいな豪華な夢見る雰囲気が好き。リアリティを追及するような、いわゆる演技派という人は、個人的好みではなかったりする。やはり映画のスターには華が欲しい。なので、メリル・ストリープとか、ちょっと苦手だったりするのだ。素晴らしいんだけど・・・

映画、特にハリウッド映画には夢を感じたい・・・

かつて「麗しのサブリナ」がリメイクされたことがある。主演の女優さんは気の毒だったように思う。どうしてもヘップバーンと比較されてしまったのではないか?そりゃあ、気の毒だ。僕はリメイク版サブリナを観て、深く後悔したものだ。憤死しそうになったというか・・・

30年前の映画となると、そろそろ「プリティ・ウーマン」もリメイクされたりするのかもしれない。でもリチャード・ギアの役は誰がする?ジュリア・ロバーツの役を誰がする?この場合、演技力がどうこうというのではない、存在感というか、華のようなものが鍵となると思う。かつての二人の印象を完全に超えることのできる俳優、難しいのではないかな・・・

もう一つ、この映画で印象に残ったのが「オー・プリティ・ウーマン」という歌。この曲は、この映画のために作られた曲だと長い間思っていた。映画の各シーンに見事にハマる曲だと思う。でも実際は1964年にロイ・オービソンという人がヒットさせた曲なのだそうだ。

もともと、この映画の原題は「$3000」というタイトルになる予定だったという。ジュリア・ロバーツの役は娼婦ということだったので、彼女を3000ドルで買う(契約する)というところからきているのだろう。でも、あまりにそれでは夢がないということになったのか、「プリティ・ウーマン」となった。主題歌のオービソンの「オー・プリティ・ウーマン」から取ったのだろう。

「オー・プリティ・ウーマン」はロイ・オービソンと誰か(忘れてしまった)との共作らしいのだが、ロイの妻であるクローデットにインスパイアされて出来上がった曲なのだそうだ。どんな女性だったのだろう?

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共鳴 

 

「音楽の可能性は無限だ。音楽は言葉では表現できない深い感情までも適格に表現してくれる」これはレナード・バーンスタインの言葉だったと思う。彼の考えに沿ってみると、音楽を演奏するということは、人間の深い感情というものと密接な関係があるということになる。

ある演奏を聴く、そして聴き手として感じること、そこには二つのパターンがあるように思う。「ああ・・・」と言葉にならないような感情のようなものを演奏者と聴き手が共有する瞬間、共鳴する瞬間。もう一つは「本当によく弾けているのだけど・・・」「これといって未熟とか、そのようなことはないんだけど、これはこれで立派だとは思うんだけど・・・」みたいな瞬間。

感情を込める?「もっと感情を込めて歌って~」ということなのだろうか?でもこれって演奏者だけのこと。聴き手という他者との関わり合いということとは少し異なる。人は演奏者がどのくらいの技量があるかどうかに関心があるわけではない。その舞台で、日頃の成果をどれだけ実現できるかに関心があるわけではない。演奏者の求めるもの、聴き手が求めるものとに距離があったりする場合、そこには「ああ・・・」という言葉にならないような感情の共有、音としての共鳴、そのようなことは難しくなるような気がする。

そもそもなぜ演奏するのか、その曲を選曲したのかということにも関わってくるように思う。「勉強になるから」「弾いてみたいから」「聴いてみて弾いてみたいと思ったから」そうなのだが、曲のある部分が自分の感情に語りかけてきたからではないだろうか?蓋をして隠していた深い感情、この部分に触れてきたからでは?そうであれば音楽、曲と演奏者とに共有、共鳴があったのだ。ただ「自分にとって勉強になる」とか「演奏効果が高いから」ということではなく・・・

曲のある部分に共鳴して演奏するのであれば、それは聴き手もまた人間であり、心に蓋をしている感情は持っているのだから、聴き手の隠された深い感情にも触れていくのではないか?自分がそうであったように・・・

聴き手が求めているのは、演奏者の練習量の成果ではない。音楽、演奏者、聴き手、共有しているものがあるかないか・・・

ある映画を観て感動したとする。ストーリーが素晴らしかったから?それもあるだろうが、たとえ一瞬、ワンカットでも共有した瞬間があるからということもあるのでは?そのシーンがなくても、ストーリーそのものは展開していく、でもその場面、その時の主人公の表情が観るものの心、感情を動かしていくみたいな?観ているものの蓋をしてしまっている深い感情にタッチしてくるような?

ある映画(フランスの映画「最強のふたり」)を観ていて、あるシーン、表情が僕の感情に触れてきたことがある。車いすの男性は、首から下の感覚が全くない。この部分は僕には理解できない部分だ。手も動くし、ピアノなどを弾いているのだから。でも彼が海を見つめる表情、それが僕にタッチしてきたのだ。「あなたにもこんな感情はあるでしょ?」と。「ある・・・たしかにある」そう感じた。共鳴したのだ。音楽にもそのようなものを感じる。だから弾くのだ。

演奏するということは、そこが究極の目的なのかもしれないが、なんとなくあることへの手段であるような気もする。

「人は死ぬことから逃げることはできないんだ。同時に生きることからも逃げることはできないんだ」  チャーリー・チャップリン

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