ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

集中している音 

 

昨日のMegumiさんの演奏の続き。間合いという、どちらかと言えば横の流れと、もう一つ感じたのが、縦の瞬間についてのタッチ感覚のこと。多くの人は鍵盤の底まで狙ってしまうので、なんとなくガツンと弾きすぎてしまうような印象がある。そうではなく途中狙い?むろん、結果的には底までは弾くのだろうが、最初から底を狙ってしまうと弾きすぎ?そうなるとコントロールのない独特のバシャンというか、散ってしまうような混濁したような音になってしまうような?結果的には平面的な演奏になってしまうような気がする。

「鍵盤の底までしっかり弾きましょう」という伝え方では、そうなってしまうのでは?丁寧に押す・・・という感じ?専門用語というか、業界用語で「そば鳴り」という言葉があるらしい。楽器の近くだとガンガンとうるさいほど聴こえるが、ホールの後ろまでは響かない・・・という音。Megmiさんの音には、それがないのだ。

バシンという底狙いのタッチの音って、重力だけでコントロールがない感じ?それがない。コントロールされた音なので、練られた音というか、絞られているので、混濁感がない。音の多い曲ほど「うるさくなる」「音量がコントロールなしに増大してしまう」ということがない。曲の輪郭が常にクリアというか。

底まで打ち下ろすという意識だと、ストン、バシンという感じになってしまい、偶然性だけに依存してしまうことになるような?聴き手としてはそう感じる。

「ピアノって打楽器だから・・・」

そうなのかもしれないが、歌っているピアノ演奏もあるのだよ・・・と昨日は感じたのだ。ハンマーが弦を打つと、音は減退していく。増量はできない。でもMegumiさんの音はヴァイオリンみたい・・・などと思ったのだ。

帰り道、そして帰宅後、夜中、コズロフスキーの他に想った演奏家。ヘンリク・シェリング。「シェリングみたい・・・」と。ピアノでもタッチしてから音を大きくしたり、小さくしたりできるような、もちろんできないが、聴き手はそのようなことが起こっているような錯覚を感じてしまうような音の出し方だったのだ。あたかもシェリングのヴァイオリンのように・・・

昨日の演奏会には友人も誘った。クラシック好きではない。むしろ苦手。「堅苦しくてね。敷居が高いし・・・」そのような人だ。でもMegumiさんの演奏には惹かれると言う。「白鳥の湖?えっとショパン?」などという人だ。でもヴンダーリヒの歌唱で涙することのできる人でもある。

「音の集中力が他の人と違うよね・・・」と彼は言った。この言葉は超素人の戯言とは僕は思ってはいない。

演奏会後、その友人と食事をした。

「クラシックを日常的に楽しむ人、オタク的に知識はなくても、自分で楽器など触らなくても、休息時にクラシックでも聴いてみようかと生活の中に組み入れている人、割合は3%なんだって。多くの97%の人は堅苦しいとか苦手、難しいなどと思っているんだって」

「だって堅苦しいもん・・・」友人はそう言った後、このように続けた。

「でも今日のMegumiさんのような演奏をする人が増えれば、その割合も3%から40%ぐらいには増えるんじゃない?」

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休符は溜息 

 

昨日はサントリー、ブルーローズの演奏会に出かけた。Megumiさんの演奏を聴くため。もともと僕は、あまり生演奏を聴きに演奏会に出かけることに積極的ではないように思う。家でCDを聴いているほうが好きなのだ。むろん、生演奏の魅力は理解している。同じ空間で共有し合える喜びはCDでは味わえない。でも音響を聴きにいくわけではないのだ。肝心なのは演奏。東京で催される演奏会の多くに満足できないのではないかと思う。これは不幸なことではあると思う。極端な例だがミラノ、スカラ座の引っ越し公演があったとして、「家賃か?」と思うようなチケット代もクリアしたとして、聴きにいくとする。満足や感心はするかもしれないが、やはり僕はカラスの歌声で聴きたいと思うだろう。カルーソーの歌声を聴きたいと思うだろう。現代のスター歌手は彼らには遠く及ばない。舞台の臨場感というものを加味して考えてみても。僕自身は未来に向かって現在を生きているわけだから、このような好みの傾向があるのは、やはり不幸なことなのだ。

「これがいい演奏なのです」のような基準があるのだろうか?そのような基準をフィルターで濾したような演奏よりは、「自分は努力して基準をこのようにクリアしています」のような演奏よりは、もっと演奏者が心で感じたものを僕は聴き手として共有したいと思う。なぜ演奏者がその曲を弾いているのか、さらに演奏者がなぜにその楽器を弾いているのか・・・

演奏者が楽器を演奏し、ある曲を演奏する、そこには何かしらの動機があったはずだ。「私はここに惹かれたの」という部分。それを客席で共有したいのだ。「そうだね、音楽って・・・いいよね、切ないよね、喜びだよね」という何かしらの感情を共有したい。聴き手である僕の感情を揺り動かして欲しい。

まれに、そのような音楽体験が期待できる演奏会もあるのだ。スティーヴン・ハフのリサイタルもそうだった。彼がアンコールでグリーグを弾いている時に、大袈裟でなく、この世に生まれて、この瞬間まで生き残っていて良かったと心の底から感じたものだ。昨日のMegumiさんの演奏にも、そのような体験への期待があった。そのような演奏会だったら毎週でも聴きに出かけたいのだ。

聴きにいって良かったと心の底から感じられた演奏だった。基準を追った借り物ではなく、そこに展開されていた音世界は彼女自身が焦がれた世界。それに惹きこまれ、感情体験として共有できる喜びがあった。

2点強く感じたことがある。でも演奏に対しての感想を文章化するのは非常に難しい。そもそも文章で表せないようなものを音楽は再現してくれるものなのだから。それに僕はその困難な文章化を仕事とする批評家でもないのだ。

2点感じた・・・それに関して、二人の演奏家を帰り道、そして今現在も想ったりしている。Megumiさんと共通している要素かな・・・と。むろん、Megumiさんの演奏が僕の想っている演奏家たちと似ているということではない。でも近い・・・のかもしれない。

間合い・・・そこが素晴らしいと感じる。呼吸というのか、音楽の波というのかな?「ここは休符だから音を切りました」という間合いではなく、「ここから音符が始まっているので弾いてみています」という間合いではなく、休符は「ため息」だったりするのだ。呼吸している。間合いに感情というのかな、喜怒哀楽がある。音楽、演奏が生きているのだ。

この点で、僕はロシアのテノール、コズロフスキーを想った。彼のフレーズ処理、休符処理を想った。音楽は生きていて、感情があるのだ。当たり前のようだが、実際に生演奏で聴ける機会はほとんどないように思う。

この歌唱、コズロフスキーが80歳の時の歌唱。年齢ということを考えなくても凄い演奏だ。休符は「ため息」であり「苦悩」を具現化したものなのだ。聴き手のテンションを奪う間合いというのだろうか?

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自然に歌ってしまう・・・ 

 

このサンドロさんの演奏は、いかにもイタリア人という感じだ。プレトニョフのトランスクリプションなので、かなりの超絶曲だと思うのだが、よくあるような「大変そうね」とか「こんなの弾けて凄いのね」という感じは全くせず、聴いていると(見ていると?)「わぁ・・・楽しそう」という感じ?

音楽をする、ピアノを弾くという喜びに満ち溢れていて、聴いている(見ている?)こちらまでがハッピーな気持ちになってしまうというか?

やはり生醤油の音がいけないのかなぁ、基音をベースにしてしまう独特の世界。そのような音でもストイックで一生懸命な、とにかく頑張っている印象は持てるのだが・・・カチカチとかコツコツという音なんだよね。

あとは、方向性。最初に機械的な譜読み、それから表現を考え・・・ではいかんのだな・・・と。

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ベルカントの国だから? 

 

いわゆる誰でも知っている有名ピアニストもそうなのかもしれないが、イタリアの人って歌心があるような気がする。気のせいなのか、イタリア=ベルカントの国という先入観がそう感じさせるのか?

アマチュアの自宅での私的な動画とか、世界的ではないかもしれない、どこかドメスティックなピアニストの動画、日本と比べ、やはり歌心の多い人が多いような?面白いことに、ピアノの演奏動画でそのように感じることが多い。まぁ、これは僕もピアノを弾いているからそう思うのだろうが。

日本人の演奏の場合、どこか指の動きに稚拙さがあると、表現もそれなりにたどたどしいという人が多い。でも指の動きが達者でツラツラと超絶曲を弾けたとしても、本当は余裕があるのだから、歌心満載の演奏になりそうなものだが、「どうよ!」みたいな演奏が多かったりする。いわゆる「基音」のようなものが日本人の演奏は目立ちすぎるのかな・・・などとも思う。生醤油そのままの味付けです・・・みたいな音?響きがないというのかなぁ?

まずは音符を機械的に譜読みをして・・・という手順がいけないのかなぁ・・・

このジョルジオさん、指の闊達さという意味では、コンクールを狙います、金賞を狙います・・・という感じではないような?「あら、この人よりも私・・・指がまわるし、難曲も弾けるわ」という人は多いだろうと思うが、このような歌心を伴った演奏となるとどうなのだろう?

第一印象で「あっ、この人の演奏って素敵だな」と思ったし、「ああ、ジョルジオさん、音楽が好きなんだな」ということも感じた。

日本だと、この種の演奏って、割と珍しいのではないかとも思った。でもそれっていいことなのかな?イタリアが特別なのか?日本が普通なのか?それとも日本が特殊なのか?

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バーブラの軌跡 23 

 

「クラシカル・バーブラ」の翌年、バーブラは映画「スター誕生」に主演している。役柄は、なんとロック歌手。凄い転身ではないだろうか?この時代のバーブラを快く思わなかった人がグレン・グールド。「彼女がロックを試みているアルバムなどは非常に癪に障る。僕はロックなどというものは理解できないんだ」

僕はそうは思わないけどなぁ・・・この後バーブラは「ディスコ」にもチャレンジしてしまうわけで、グールドはどう感じたのだろう?でも同時に非常に美しいバラードもバーブラは発表し続けていたわけで、芸風が広がったということではないだろうか?

この映画のサウンドトラック盤は当時、この種のアルバムとしては異例に売れたそうだ。300万枚とか?特に「愛のテーマ」がヒットしただろうか?

物語としては「スター誕生」は3度目のリメイクになるのでは?たしかジュディ・ガーランドの「スタア誕生」が2度目のリメイクだったと・・・

女がスター街道を突っ走ってしまって、その才能を見出した男と上手くいかなくなるという物語だ。立場が逆転してしまうわけだ。女は光り輝いていき、男は落ちぶれていってしまう。男が悪いわけではない。ましてや女が悪いわけではない。

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バーブラの軌跡 22 

 

クラウス・オガーマンは思ったのではないだろうか?自分のサウンドに、今度は「声」を乗せてみたいと。かつてビル・エヴァンスのピアノの音を乗せたように・・・

声、具現化できるのは誰だろう?自由自在で極上の声・・・バーブラ・ストライサンドなのでは?

バーブラもクラシックの作品を自分流に歌ってみたいという願望があったのではないかと思う。両者の思いが一致したのでは?なんとなく僕はそう思ったりする。

オガーマンがプロデュースしたアルバムは「クラシカル・バーブラ」として発売された。このアルバムを非常に高く評価した人もいる。例えばグレン・グールドとか。でもセールス的には、このアルバムは芳しいものではなかった。つまり、バーブラのアルバムとしては売れなかったのだ。

でも、なんとなく、バーブラもオガーマンもヒットを狙ったわけでもないだろうと思う。そうではなく、極上の音世界を表現してみたかったのではないだろうか?

「バーブラのクラシカルのアルバムを高く評価したのは僕ぐらいなのではないだろうか?」  グレン・グールド

いや、他にもいたと思うよ。

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バーブラの軌跡 21 

 

今年、クラウス・オガーマンが亡くなったのだそうだ。ちょっとショックだ。クラウス・オガーマン、アレンジャーであり指揮者でもあった。彼の功績としては、ボサノバをブームに乗せたことがまず挙げられるだろうと思う。アントニオ・カルロス・ジョビンの「イパネマ娘」などは、ボサノバには疎い僕でも知っているし、ジョビンの作品のいくつかは、とても心地よく感じる。ジョビンのヒット作品の、ほとんどにオガーマンは関わっていたのではないだろうか?

もう一つの功績はビル・エヴァンスと共に、非常に美しいアルバムを制作していること。ただ、このアルバムはちょっと変わっていた。ビル・エヴァンスがクラシック作品を演奏していたからだ。むろん、原曲のまま演奏していたわけではなく、ジャズとして演奏していたわけだが、エヴァンスのピアノと共に、オガーマンの編曲がとても光っているのだ。

非常に繊細、かつ柔らかい弦の響きの中で、エヴァンスの音色が孤高のごとくに響く・・・といった感じだろうか?オガーマンとしては、自分が創造する世界を具現化できるのは、エヴァンスだけだと感じたのではないだろうか。僕はジャズには全く詳しくはないのだが、この音世界はエヴァンス以外のジャズ・ピアニストでは不可能な世界だったのでは?

バーブラの軌跡なのに、なぜにビル・エヴァンス?クラウス・オガーマン?

バーブラもクラウス・オガーマンと組んでアルバムを制作しているのだ。かつてビル・エヴァンスが孤高のクラシックをジャジーに再現したように、バーブラもまたクラシックの作品をバーブラにしか再現できない形で歌っているのだ。

「クラシカル・バーブラ」というアルバム。

まずは、ビル・エヴァンスとクラウス・オガーマンによるクラシックの世界・・・

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バーブラの軌跡 20 

 

映画「追憶」の翌年、バーブラは、ある意味「回帰」している。映画「ファニー・レディ」・・・この映画はバーブラにとって久々のミュージカル映画。映画デビュー作、「ファニー・ガール」の続編だ。

ポップなバーブラ、バラードの女王としてのバーブラ、どちらでもないミュージカル・スターとしてのバーブラが復活している。「ファニー・レディ」は映画のために制作されたミュージカルなので、舞台版は存在しないが、この映画でのバーブラは、いかにもブロードウェイ出身、ブロードウェイたたき上げの歌手という姿を披露している。

「追憶」とは歌い方がかなり違う。当たり前だが・・・

「ああ・・・バーブラだ」と僕などは感じるが、このイメージを払拭するということも大変なことだったんだろうな・・・などとも感じる。

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バーブラの軌跡 19 

 

今ひとつバーブラ・ストライサンドの知名度は日本で高くはないような気がする。米国との違いは当然として、諸外国での評価、認知度と比較しても高くはないような?

日本でバーブラの知名度がアップしたのは、映画「追憶」だったのではないかと思う。「この人、女優なの?歌手なの?」このあたりが日本人にとっては難しかったのかもしれないなどと思う。グラミー賞をいくつも受賞している有名な歌手であり、同時にアカデミー賞女優でもある。このあたりが難しい。日本だと美空ひばりが似たような感じか?女優としても歌手としてもというイメージ?でも僕などは美空ひばりは、やはり歌手というイメージが強いかなぁ?宝塚歌劇出身のスターの何人かがバーブラと似たような感じだろうか?歌うし、演技もするしという?でもそのような活躍そのものが日本では一般的ではないのかもしれない。

「追憶」の主題歌は大ヒットした。この時のバーブラしか歌えないようなバラード。「バーブラって誰?」という人でも、この歌は知っていたりする。もうこの曲はスタンダードにさえなっている。映画も大ヒットした。永遠のラブストーリなのではないだろうか?ラストシーンが哀しすぎる。マンハッタン、プラザ・ホテルの前でのシーン、かつて愛した、愛された人との再会シーン。男には妻がいた。自分と違って、彼に似合った貞淑そうな美しい人だ。自分は一人で政治活動をしている。でもこれが私なのだ。曲げることはできなかった。今でもできない。生きる道が違っていたのだ。

「ハベル・・・美しい人ね・・・幸せなのね」

「ケイティ、僕たちの子どもは元気かい?」

「ええ、美しく成長しているわ」

「君は幸せなのかい?優しい旦那さんと巡りあったのかい?」

「ええ・・・幸せだわ。あの子のいい父親でもあるし・・・」

「そうか・・・よかった・・・」

嘘なのだ。一人で生きている。一人で育てている。誰かに合わせることなんかできないから。できなかったのだから・・・

映画の原題「The Way We Were」は「それぞれの道」みたいな意味だろうか?

「追憶」を観た人がこう言ったことがある。

「えっ?あの女優さん、歌も歌えるの?」

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バーブラの軌跡 18 

 

バーブラに魅力を感じる理由の一つに、固定されたイメージに捉われない・・・ということがある。最も大きなイメージ変動があったと感じるのが1970年代。60年代後半のバーブラは、どこかミュージカルの歌手、スタンダードを演劇的に歌う歌手というイメージがあった。アルバム「ストーニー・エンド」で劇的な若返り(?)があったわけだが、考えてみると、70年代はバーブラだけではなく、アメリカのポップス界そのものに変動があった時代だったのではないかと思う。

オールディーズ全盛時代が過ぎ去ると、活躍した歌手は、どこか「懐メロ歌手」みたいな扱いをされたりしたが、70年代、バーブラもそのような歌手の一人になった可能性はある。「かつての大スター」のような?でもそうはならなかった。70年代も後半になると、世の中は「ディスコ音楽」全盛時代に突入していく。ディスコとバーブラなんて全くつながらない・・・でもそうはならなかった。そんなところが好きなのだと思う。

70年代前半のバーブラ、この歌唱など、とてもいいいと思う。テレビの歌番組でのシーン。レイ・チャールズとのデュエット。

変動しつつも、他の誰にも歌えないような歌い方でバラードも歌う・・・そんな多様性が好きなのだと思う。

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擬人化 

 

生きていると、本当に色々なことがある。辛いことだって多い。楽しいことばかりじゃない。「それらのものを織りなしていくのが人生さ・・・」と気取ってみても始まらないが、生きていれば、身体も壮健という状態で病気しらず、疲れしらず、モデルハウスのような家に住み、周囲の人は皆いい人たちばかり、子どもも真っ直ぐ素直に育ち・・・とはいかないものだ。人って何かしらを抱えているものだ。周囲からは、悩み事皆無のカリスマ主婦・・・モデルも兼業しちゃって・・・なんて見える人でも、人には言わない何かしらを抱えているものだ。

でも、そのようなものを抱えて人生を歩んでいくと、「辛かったわ」と回想できる自分が、今いて、呼吸している・・・ということに驚くと共に、深い感謝のようなものさえ感じられるようになる。年齢を重ねるっていいこともあるんだよ。

音楽って、ちょっとだけ甘えさせてくれるような気がする。僕だけかもしれないが、そしてその様子を周囲が見たら、それは相当怪しい人に見えるはずだけれど、譜読みや練習中の時、弾いている曲のある部分に対して、擬人化してしまうことがある。

「ああ、君もそう感じるんだね?辛いよね?」みたいな?

曲って、そのような時はいつも男性。見えるわけではないのだが。その曲のある部分に語りかけてしまう。相当怪しいはずだ。

「君もそう感じるんだ?どうやって耐え忍んだの?」そしてその先のある部分でこう語りかける。「そうなんだ、そこまで達観するんだ?どうやって?」そしてさらに「それしかないよね?生きていればそんなこともあるよね?」最後に「そのように感じるという自分が生きているって、生きていたって尊いことなんだよね?君もそう思うんだね」

音楽は言葉で表現できないような感情も表現してくれる・・・これはたしか、バーンスタインの言葉だったように記憶している。そう、音楽は人生の中のある種の感情を代弁してくれる。印刷された音符や記号の集合体なんだけれど、ある部分を音にすると、自分の感情と一致するようなところがある。代弁してくれている。「誰でもそうなんだよ?僕もそうなんだ」と、ちょっとだけ甘えさせてくれるんだ。

シフラって超絶派手派手なイメージが強いが、この人は人生の苦汁を味わった人だ。苦労続きの人生だったのでは?

むろん、貧しい家庭に育ったということもあろうし、ロマの血が入っているということで、偏見に出会うこともあっただろう。戦争というものに翻弄されたところもある。ピアニストにとって最も大事な聴力の半分、右手の腱を負傷する・・・ということもあった。徒歩で国境を超えるんだね。自由を求めて。河を半分以上水に浸かりながら、そして国境を越えた。収容され強制労働を課せられたこともある。最愛の息子が火事で焼死してしまったこともある。

「君もそう感じるんだ、辛いんだ・・・・と」シフラは擬人化はしなかったとは思うが、楽譜とか音楽とか、曲やピアノを「克服するもの」「弾きこなさなければならないもの」のようには感じていなかったように思う。課題としてこなすものではなく、自分の人には語れない、抱えてしまっているものを代弁してくるもの・・・のようには感じていたのではないか?音楽って天使の光のように、荒れた気持ちを包んで癒してくれるんだ。

シフラの数ある演奏、僕が最も好きな演奏はリストではなく、彼自身のトランスクリプション作品の演奏でもなく、この曲・・・

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ピアノで遊ぶ 

 

シフラはロマの血を受け継いでいるらしい。シフラの父親はパリでピアノを弾いていた。ロマの音楽団のピアニストだったようだ。弟1次大戦でフランスから追放され、全財産を失い、強制労働なども課されたらしい。ハンガリーに戻った頃は、父親は一家を支える体力も気力もなかった。そんな時にシフラは生まれた。一家は貧しい生活だった。大黒柱が働けないのだから・・・

女性たちが頑張っていたようだ。特にシフラの姉は子どもの頃から働いていたようで、しかもとても優秀な人だったようだ。たしか食品会社かどこかで働いていたみたいなんだけれど、出世していったようだ。少しだけ経済的な余裕ができたのだろうか、ピアノがシフラの家にやってきたのだ。でも購入することなんかできなかったので、レンタルのピアノ。シフラは幼少の頃は身体がとても弱かったらしく、一家が奏でるピアノの音色をベッドで聴きながら育ったらしい。

想像するに、当時のシフラ家は貧しいながらも音楽に溢れた家庭だったのではないだろうか?ピアノとは「習う」とか「学ぶ」ものではなく、楽しむもの、日常の辛さを忘れさせてくれて癒してくれるもの・・・父親がピアノを弾き、皆で歌い・・・

シフラは、まず父親からピアノの手ほどきを受けたらしいが、シフラ家にはピアノはレンタルのものがあったけれど、楽譜がなかったらしい。当時のダンス音楽やら流行歌の楽譜はあったのかもしれない。父親はロマの楽団のピアニストだったのだから。でも導入用の教則本などはなかったのかもしれない。

「これがド、1の指はこれ、はい、ドレミ・・・」という導入ではなかったと思う。シフラは母親の歌うオペラやオペレッタのアリアを聴いて覚えてしまい、即興的にピアノを弾いていたらしい。遊びピアノ?

シフラが本格的にピアノを習い始めるのは9歳の時。日本流に言えば小学3年生の時だ。おそらくシフラ少年はピアノのレッスンというものが生活の中に組み入れられた時に、「今までのピアノとは別物、即興は遊び。忘れるのだ。これからはドレミの世界、指の訓練に励むのだ」とはならなかったのでは?それまでの心躍る音楽を再現するのがピアノ、これからその音楽の世界に深く入っていけるのだと、そう思ったのではないだろうか?どこか即興で戯れていたピアノの延長、決して「お勉強」として切り離すことはしなかったのでは?

子どもって音楽への反応が凄い。音楽に合わせ身体が動いてしまったり、聴いて覚えたメロディーを歌ってしまったり。うるさいほどだ。「静かにしなさい」と親から注意されるほど音楽に反応してしまう。これは才能ある子・・・ということではなく、多くの普通の(?)子どももそうなのでは?

ピアノ教育現場にこれを生かすことはできないのだろうか?むろん、歌やダンスをレッスンで組み入れてということは、今までも、現在も行われていることと思うが、いざ「本格的に」「個人レッスンを」となると、いきなりそれまでの「音楽」とは別物の「お勉強」になってしまわないだろうか?たしかにお勉強要素が欠けるとピアノは弾けないのだろうし、教則本も進んでいかないだろうが、そして個人レッスンという場でも、歌心の育つような教材研究みたいなことは盛んなのであろうが、でも、それまでの生活、人生(?)の中で身体が動いてしまい、歌を歌ってきた子どもたちが、楽譜、音符を鍵盤に移行する、ただ弾いています、中には非常につまらなそうに無味乾燥に弾く・・・なんていうのは、とても哀しいではないか?

シフラがピアノを始めたのは9歳、でも9歳だったらショパンやラフマニノフを達者に弾きこなす子どもは、今の日本だったらウジャウジャといるのではないだろうか?

でもその達者な子ども(こどな?)の中に、シフラのような豊かな音楽体験をした子どもはどのくらいいるのだろう?

ピアノのレッスンが始まる。そして二極化が始まる。「ピアノの練習なんかつまらな~い」「ピアノなんか辞めるぅ・・・」というグループ。そしてコンクール、コンクールと叱咤激励され、リストやショパンなどの難曲を弾きこなしていく子どな育成・・・この二極化。中間があればいいのに・・・

達者な子どなちゃんたちが大人になった時、シフラのような羽ばたくような即興演奏のできる人、どれくらいいるのだろう?

ところでシフラって、あまり鍵盤を見ないよね。不思議だ。

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category: ピアノ雑感

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レール演奏 

 

クラシック音楽に詳しくはない人、僕の友人にはそのような人が多いのだが、限度もあると思う。「えっ、トルコ行進曲?それってチャイコフスキー?」みたいになると、それは一般教養としてどうよ・・・とさえ思えてくる。「ショパン?白鳥の湖?」のけ反りそうになるが、そんな人がヴンダーリヒの歌うシューマン「詩人の恋」の歌唱を聴いて涙したりするのだ。作曲家についてとか歌曲についてどうたら・・・なんて知識は皆無。むろんヴンダーリヒについての知識も皆無。でも反応するんだ。

僕の友人よりも遥かに音楽の知識があり、中にはピアノを習ったり弾いたりさえしているのに、音楽を聴いて「泣いたことがない」なんていう人だって存在するのかなぁ・・・などと思ったりもする。どうなんだろう?

クラシック音楽は堅苦しく難しい、そう感じている人が多いのは事実だろう。何故だろう?僕は演奏家のせいもあると思う。上手いとか下手とか、そのようなことではなく、心に響かない・・・それだけで一般市民(?)は離れてしまうのだ。

「私って高尚じゃないし、知識もないし、そんな難しいもの理解できる能力なんかないし・・・」

そうではなく、心を動かせなかった演奏に責任があったのでは?

最近の・・・というか現代の演奏の特殊性というものも僕はあると思う。シフラのようなピアニストの演奏を聴くと、好き嫌いということは人によってあるとして、それは当然だとしても、作品と演奏者とで一体感が感じられる。何故その曲を、その人が弾いているのかという根本部分が明確であり、伝わってくるのだ。「僕はこの曲、この音の世界のこのようなところに共感し、それに浸かり、さらには感じたものを表現したい」というものが自然に伝わってくるのだ。

現代のピアニストの多くは優秀だ。メカニックに関しては多くの人は往年のピアニストたちよりも現代のピアニストのほうが優れていると感じているらしいが、僕はとてもそうは思えない。平均化されているとは思う。昔よりも難曲を弾ける人が多くなった・・・みたいな意味では。

現代の多くの演奏を聴いて非常に欲求不満になるのは、「一体感」とか「共感」とか、そのようなものをあまり感じられないから。シフラのように「僕、この曲が好きでたまらないんだ!」のようなものが不足しているというか?

演奏者という「私」がいる。そして対処すべき「作品」がある。対処法としてのスキルはとても優れているのだ。でも「私」と「作品」がレールのようにいつまでも平行線で一体化することがない。ここが不満だ。どんなに上手でもそれではつまらない。僕はその演奏家のスキルを聴きたいのではない。どれだけ弾きこなすかを知りたいのではない。その演奏家、つまり「私」と「作品」とが化学変化を起こし、一体化する瞬間、そのようなものを感じたいのだ。

このピアニスト、とても有名みたいだ。スターピアニスト?別に嫌いではないし、下手とも思わない。上手だと思う。非常に高い演奏スキルを身につけていると思う。でもレールみたい・・・とも思う。この曲でなくてもよかったのでは?「イスラメイ」と「半音階的大ギャロップ」・・・どちらでもよかったのでは?作品との一体感・・・ここが惜しいのだ。欲求不満になってしまうのだ。他の曲では一体感があって素晴らしいのかもしれないが、少なくとも、この曲の50年前のシフラの演奏と比較すると、一体感、その曲を弾いているという意味のようなものは大いに不足していると個人的には感じる。

リストの曲って平行線のような、レールのような演奏を拒否してしまうような頑なな難しさがあるのかもしれない。

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戸惑いのリスト 

 

リストの曲って派手で軽薄・・・このように思っている人もいるのだろうか?ショパンと比較すれば、どうしても劣る・・・とか、高尚(?)な曲もあるけれど軽薄な曲も多い・・・と思っている人はなんとなく多そうな気はする。

リストに「半音階的大ギャロップ」という曲がある。この曲などは軽薄と軽視の視線で見られるような曲なのかもしれない。サーカスのように技巧を見せびらかす曲?

サーカス的、超絶技巧・・・リストの曲に関連して連想したピアニストがいる。シフラ・・・

シフラはリストを得意としたし、シフラ自身のトランスクリプションなどは、いかにも腕自慢アマチュアが「どんなもんだ!!!」と取り組みそうな曲ではある。楽譜などを見ると「この人はどのような人なのだろう?」という興味を単純に抱いてしまう。もはやシフラ編曲の楽譜は眺めて鑑賞する域なのでは?「なにこれ~」みたいな?

シフラの初来日は1964年。僕などはまだ生まれてもいないので、その頃の日本ピアノ界とか、愛好家の癖(?)などは想像するしかないのだが、現在よりも音楽とか演奏というものを、どこか厳粛に捉えていたのではないだろうか?

練習の前には掲げられたベートーヴェンの肖像画に黙礼をしてから練習を開始する

音楽を聴く時には、正座をし、精神を正して拝聴する

みたいな雰囲気?厳粛に西洋文化を受け止める・・・みたいな?ピアノ教育界でもそのような傾向はあったと思うし、愛好家にもあったのではないだろうか?そのような受け止め方がある程度普通だったとしたら、厳粛で神聖なる西洋音楽として、最も受け入れられやすかったのが、ベートーヴェンだったのかもしれない。苦悩から歓喜へ・・・その精神世界・・・みたいな?

ショパンの音楽であれば、ベートーヴェンと比較すれば軟弱(?)ではあるけれど、どこか「お芸術」の香りがする。リストとなると「ああ、なんなんだ?これは?」

シフラのリスト、特にこの「半音階的大ギャロップ」のような曲の演奏に、当時の日本の聴衆は戸惑った可能性もある。生身の人間の衝動・・・のような興奮を感じさせてしまうから。

「えっ、音楽ってこういうもの?えっ?」のような?「もっと音楽って厳粛なるものだよね?」みたいな?

シフラ初来日での演奏、当時を回想した日本人の文章などを読むと、シフラの演奏(特に後半のリスト)に対して、日本の聴衆はどこか冷めているというか、戸惑っているような感じだったらしい。シフラは、他の国での反応との違いを感じ、「えっ、ここまで弾いてまだ足りないの?」みたいな?会場の空気のようなものはシフラに伝わったのかもしれない。演奏家ってこのようなことに敏感だと思うし。

演奏中、シフラは何度か客席を見ている。凄い余裕だなと思うが、「ねぇ、君たち反応ないけど大丈夫?」みたいな心境でチラチラしていたのかもしれない。

人って自分のそれまでの価値観枠を超えたものに出逢うと、弱い人ほど拒否反応を示すのではあるまいか?「こんなものを認めてしまったら、今までの自分が根底から変わってしまう。それは怖い。だから否定するのだ。認めないのだ。音楽を聴いて性的な興奮にまで近いような感覚を感じてしまうなんて、あってはならない。そんなものは音楽ではない。音楽とは厳粛なるものなのだ。リストは曲芸師だった。軽薄だったのだ・・・」恐怖心とリスト軽視の傾向はどこか関連があるのかもしれない。

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「えっ、リストの歌曲?」 

 

かつてサークル(今所属しているのではない)仲間と話していた時に、リストの話題になった。「リストって興味ないな。やたら難しそうで・・・」まぁ、難しいよね?でもリストには美しい歌曲が沢山ある。この分野ではショパンなど比較にならない感じだ。

「えっ、リストの歌曲?」という反応ならまだ良かったのだが、その人は無関心。「ふーん・・・でも私、オペラって苦手」オペラじゃない・・・歌曲だ!!!と叫びそうになったのだが、案外とピアノ弾き、ピアノ愛好者って歌に無関心な人が多いような?「興味ないしぃ・・・」

リストには実に魅惑的な歌曲が多いので、是非聴いてみて頂きたい感じだ。リストの歌曲で有名な曲、ある意味では「愛の夢」とか「ペトラルカのソネット」なのだと思う。ピアノ版も有名だから。でも歌手たちにとって、歌好きにとって最も有名な歌曲は「夢にきませ」なのではないだろうか?実に美しい曲で、ソプラノによって歌われることが多いように思う。個人的にはエリザベート・シューマンによる古い録音が実に魅力的だと思う。

でも歌詞を考えてみると、女性よりも、むしろ男性が歌った方がしっくりくるような気もする。この歌唱はへドル・ナッシュという古いイギリスの歌手の歌唱。ピアノパートはジェラルド・ムーアで、ピアノも実に素晴らしい。リストの歌曲はピアノパートも本当に美しいのだ。

リストに限らずなのだが、あるピアノ曲を弾くとして、その作曲家の歌曲は是非聴いてみて頂きたい感じだ。できれば歌曲の楽譜を買って、実際に3段譜を両手で「自己満足歌曲の世界をピアノで・・・」という遊びをしてみて欲しい。実に楽しいし、ソルフェージュ能力も養えるし、何よりも「歌のようにピアノでも弾く」といういい練習になると思うのだが・・・

リストはフランス語が堪能だったらしい。なので、ヴィクトル・ユーゴーの詩に実に素敵な音楽をつけているように思う。この詩の世界、音世界は「官能」の世界なのではないだろうか?これもリスト・・・なんだよねぇ。


「夢にきませ」  ヴィクトル・ユーゴー

ああ、僕がまどろむとき
ベッドのそばへ来てくれ
ペトラルカのもとへラウラが訪れたように
そして通りすがりに息を吹きかけていって欲しい
僕の口は不意に開くことだろう

僕のかげりのある額のなかに宿る暗い夢
やっとのことで終わりかけているようだ
額に明るい君の眼差しを星のように注いでくれ
僕の夢は不意に輝きだすだろう

神の純化した愛の稲妻が
僕のくちびるに口づけし
そして天使から生身の女になって欲しい
僕の心は不意に目覚めるだろう





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愛の夢 

 

リストにおいての、ショパンのノクターンOp.9-2や「幻想即興曲」にあたる曲、つまり通俗曲と人によってはカテゴライズしてしまう曲に「愛の夢」がある。第3番ですね。

この「愛の夢」の演奏、実に多くのピアニストが録音している。でもピアニストがリサイタルで・・・ということは意外と少ないような?またアマチュアのサークルなどの場でも意外と演奏される機会は少ないような?発表会などでは結構演奏されるか???

まぁ、非常に有名な曲だとは思う。実際には、あまり演奏されない(?)にしても。いわゆる「耳だこ」と言われる曲?このような曲って、少なくとも「いったいどんな曲なのかしら?」という観点では聴かれないだろうから、演奏者にとっては難しいところもあるのかもしれない。

実は、この曲、このブログにもリンクしてある「愛の夢のつづき」というブログを書いているMegumiさんという方が一週間後、8月30日にサントリーホールで演奏される。いわゆる「耳だこ曲」「通俗曲」ではない「愛の夢」が聴けるであろうと、僕は非常にワクワクしているところだ。

「愛の夢」のリスト直弟子の演奏、ローゼンタールの神のような演奏もあるが、もう彼は登場してしまったので、別のお弟子さん(?)の演奏を紹介したい。フレデリック・ラモンドの「愛の夢」

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もう一人のピアノの詩人 

 

クラシック音楽の苦手な人、僕の周囲には沢山いる。「なんだか堅苦しそう・・・」なんだそうだ。そのような人たちでもショパンは知っている。ピアノの詩人・・・だからね。ショパンは「ピアノの詩人」、そしてリストは「ピアノの魔術師」と呼ばれていて、このような呼び方は、クラシックから遠い人たちにとっては、ある種のイメージは捉えやすいのかもしれない。

でも、せっかくピアノを習っている人たちまでが、どこかリストに対しては魔術師というイメージを持ちすぎているというのだったら、それは残念なことだと思う。リストの曲って腕自慢のアマチュアがバリバリ弾くというイメージ?コンテスタントたちがコンクールで実力を(腕力を?)証明するための曲?

ところでリスト自身はどのような演奏をしたのだろう?むろん、それは想像するしかないのだろうが、リストには大勢の弟子がいた。こう考えてみる。リストは彼らに何を伝承しようとしたのだろう?幸いなことに、リストの弟子にあたるピアニストの中には録音を残している人たちもいる。その演奏に対して「これがリスト直伝、リストなのだ」と早計に判断はできないだろうが、何かその弟子たちの演奏に共通するような要素のようなものがあるとしたら、それをリストに関連付けても100%間違えとも言えないのではないか?

少なくともショパンと比べ、サーカス的、軽薄・・・というイメージがあるとしたら、それは安易なイメージなのかもしれない。「魔術師」という言葉もいけないのだろうか?

リストの弟子、僕はまずモリッツ・ローゼンタールを思いつく。彼はショパンの弟子であったミクリの弟子でもあったし、素敵なショパンの演奏が多いので、ローゼンタール=ショパン・・・のようなイメージがあるが、リストの直弟子でもあったのだ。

これはローゼンタールそのもの・・・という演奏だが、彼の演奏を特色づけている何かの要素のようなものが、他のリストの弟子ピアニストからも感じることができるのだったら、それはリスト自身が伝承しようとしたもの・・・かもしれない。

リストは「ピアノの詩人」だったのかもしれない。

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バーブラの軌跡 17 

 

この曲もミシェル・ルグランの作品。大変に美しい曲、美しい歌唱のように思うが、この曲は長い間お蔵入りとなっていた。ミシェル・ルグランとバーブラは、あるアルバムを制作していたのだが、何故か完成はしなかったらしい。一人の女性の人生を追ったコンセプトアルバムとなるはずだったようで、おそらくこの曲の他にも、いくつかの美しい曲が眠っているのかもしれない。

1990年代、バーブラのデビュー30周年を記念して発売された「ジャスト・フォー・ザ・レコード」というアルバムに記録として収録されて初めて世に出た作品、歌唱。アルバムとしては未発表になってしまったのかもしれないが、この曲などシングルカットすれば結構ヒットしたのではないかと思ったりもする。

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category: Barbra Streisand

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バーブラの軌跡 16 

 

アルバム「バーブラ・ジョーン・ストライサンド」からの曲紹介、3曲目。バーブラとミシェル・ルグランとは相性がとてもいいように思う。過去にも彼とはシャンソンのアルバムを制作しているし、80年代のバーブラ初監督映画「イエントル」(邦題は愛のイエントル。愛という一言が余計だ)の音楽もミシェル・ルグランが担当している。

ミシェル・ルグランの作品を歌うと、バーブラの歌唱の美しさが際立つような?

揺れの感覚が素晴らしいと個人的には思う。フレーズの中での力点の示し方というか?声を薄くしたりといった微妙なところも非常に美しい。どうしてもメトロノームに合わせたような演奏になってしまうと悩んでいる人は、バーブラのミシェル・ルグラン作品を聴いたらいいのではないかと思う。

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category: Barbra Streisand

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アマチュアは難曲を披露したがる? 

 

自分のコンサートの前に大事な演奏会がある。ピアチェーレの演奏会。こちらは10月1日から申込み開始になる。まだ先ですね。ピアチェーレのホームページ、そこのメールフォームから申し込んで頂くようになる。こちらはPDFとしてチケットがメールで返信されるようになる。

演奏する曲だが、後半の2曲は決まっている。アール・ワイルド編の「ヴォカリーズ」、そしてスティーヴン・ハフ編の「眠れる森の美女パラフレーズ」

この2曲で12分ほど。これだけでもいいが、ちょっと短い。前半をどうしようか・・・今はそのところを考え中というか。

いわゆる、簡単な曲、耳だこの曲・・・というものを弾いてみたい気がする。

世間一般的にカテゴライズされるところのアマチュア上級者って、このような曲をバカにしていて、でもこのような曲を弾いてしまうと、真の実力が暴露されてしまうので、弾かないし、弾けない。なので、超絶楽譜黒々系の曲ばかりを弾き、「さあ、どうだ、お前たち初心者にはこんな曲は弾けないだろう?」みたいな?

弾きたいな・・・いい曲だな・・・と感じたのだったら、その曲が弾き時なのではないだろうか?難しい超絶系、その曲を弾きたいから弾く。シンプルな楽譜密度低め系、その曲を弾きたいから弾く・・・ではダメなのか?

弾きたいな・・・と思っている曲は・・・

ドヴォルザーク:「ユーモレスク」
ショパン:ノクターン Op.9-2

もしピアチェーレで僕がこのほかにギロックの作品を弾いたらどうなるだろう?「他のメンバーは一生懸命に練習しているのに、ギロックのような作品を弾くなんてふざけている」となるのだろうか?

これは僕の憧れのピアニスト、フリードマンの「ユーモレスク」、彼は「僕ってこんなに簡単な曲も弾いちゃうんだぜ」という動機でこの曲を弾いたのだろうか?純粋に曲に惹かれたからでは?違うかな?

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category: ピアチェーレ

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残席についてのお知らせ 

 

来年2月25日、僕のサロンコンサートですが、お蔭様で残席あと1席となりました。チケットを発券するわけでもないので、このブログのメールフォームから申し込んで頂いて、僕からの返信にて、申込み完了となります。

2月の末、ノロウィルスとかインフルエンザなどが蔓延する季節で、もし体調不良などで当日お越しになれない場合、そして前もってそれが予測できる場合は、やはりこのブログのメールフォームからご連絡頂ければと思います。まぁ、当日朝に発熱、いきなりの嘔吐・・・なんてこともあるので、その場合は難しいでしょうが。よろしくお願い致します。

今回、三分の一のお客様が、僕の演奏を聴いたことのない人。ブログを読んで「どんな演奏をするのかしら?」と申し込んでくれた方たち。ブログも真面目に書かなきゃなぁ・・・などと思う。20名という極めて少人数のコンサートなので、演奏以外にも心配なことがある。曲に関して、解説というか、トークを交えるが、その部分は、まあいい。でも客席を蝶のように舞いながら・・・などという芸当はできない。演奏しながら、そのあたりも頑張るというのは厳しい。むろん、ただ登場して、ひたすら弾いて、袖に引っ込む・・・という通常のコンサートのようでもマズイだろうとは思うが。でも蝶のように漂い、朗らかに挨拶しつつ・・・というのは難しいかもしれないな。今は演奏よりも、そちらの方が心配だったりする。

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category: リサイタル

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バーブラの軌跡 15 

 

アルバム「バーブラ・ジョーン・ストライサンド」について語ると、ついつい熱くなってしまう。

この曲、ジョン・レノンの曲だよねぇ・・・

このアルバムで、バーブラはミュージカル歌手というイメージから完全に脱却したのだと感じる。歌いくちの上手さ、絶妙なニュアンス、これらの要素はバーブラが「バラードの女王」と称される要素でもあると思うが、このアルバムで、そのバラードの歌い手として生まれ変わったのと同時に、コンテンポラリーな要素をも獲得しているように思う。

後にバーブラは映画「スター誕生」でロック歌手、エスター・ホフマンを演じるが、そこでは「えっ、バーブラがロック?」のようなイメージを完全に覆している。歌唱面での「スター誕生」のバーブラの成功は、実はこのリチャード・ペリーの功績もあったのではないだろうか?アルバム「バーブラ・ジョーン・ストライサンド」で何か脱皮できたのだと思う。

この歌い方、個人的には全く違和感はない。そして思う。これって40年以上昔の録音とは思えない・・・と。

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category: Barbra Streisand

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バーブラの軌跡 14 

 

冒険作ともいえる「ストーニー・エンド」の次作、たしか1971年のアルバムだったと思うが、プロデューサーには「ストーニー・エンド」でバーブラの若返り(?)に成功したリチャード・ペリーが再び、というか連続で担当している。「バーブラ・ジョーン・ストライサンド」というアルバムで、個人的には彼女のアルバムの中では最も好きなアルバムだ。まずバーブラのアルバムで最初に購入して、じっくりと聴いて頂きたいアルバムでもある。

選曲は「えっ、これがバーブラ?」のような、今までにないような曲が選ばれている。引き続き、ローラ・ニーロの曲が歌われているし、ジョン・レノンとかキャロル・キングの作品もバーブラは歌っている。キャロル・キングなんて初期の頃のバーブラとは全く結びつかないような?

選曲の妙・・・ということよりも、実は歌い方、歌唱そのものが爆裂(?)している。絶叫しているわけではなく、上手さ爆裂なのだ。このアルバムの中で最も「上手さ爆裂」を感じるのが、「I never meant to hurt you」という曲。割と地味目な曲かとも思うが、表現力ということで悩んでいる人には、何らかの助け(?)ともなるような、「表現ってこうやるのよ」というようなバーブラのメッセージとも受け取れるような、そんな圧倒的な上手さなのだ。

歌い始め、「I」という言葉での曲の入り方・・・まさしく絶妙だ。この曲にはオクターブの跳躍が何回も出てくるが、「ただオクターブ高い音を歌ってみました」ではない、工夫というか、なぜオクターブに作曲者はしたのか、演奏(歌唱)というものを介して聴き手に迫ってくる。楽譜の行間を読む、あるいは楽譜に忠実とは、ただ書かれている音を弾きましたぁ・・・ではなく、ここまで再現できることが、実は本当の「楽譜に忠実」なのではないかと・・・

グレン・グールドはバーブラのこのような歌唱に関して、「強調が凄い」と表現している。普通の歌手であれば、スッと通り越して歌ってしまう些細な箇所の絶妙な強調が上手いと・・・

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category: Barbra Streisand

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もう一つのオリンピック 

 

基本的にテレビ視聴はしないので、あまりオリンピックも観ていない。でも「えっ、もうオリンピックは終わってしまうんだ?」と知り、マラソン競技はテレビで観た。普通は「日の丸日本!」「やったぞ、日本人、メダル○個獲得!」のように盛り上がるべきなのかもしれないが、そのような観点ではなく、リオのマラソンはいいなと思った。普通、マラソンって競技場でのゴールになるのが普通だと思う。でもリオでのマラソンはそうではなかった。ゴールを果たした選手たちが、一か所に、なんとなく集まり、吹き溜まり状態(?)になっていて、後続の選手たちを国籍を超え自然に讃える、讃えあうみたいな雰囲気になっていて、素直に「いいな・・・」と思えた。人種、宗教、思想、そのようなものを超えて、人間として一つの輪になる、観ていて清々しい感じだ。

個人として競う、そのようなものを超え、国が競う・・・みたいな雰囲気は、あまり好きではない。これはオリンピックだけではなく、個人的感情として、「カテゴライズして競い合う」みたいなものが好きではないのだと思う。

人間は皆、同じなのだ。それは肌の色が同じだから、人種が同じだから・・・ということではなく、それらのものが違っていても、人間は同じなのだ・・・という感じ方。別にオリンピックのような場という特別な場ではなくても、人はカテゴライズしてしまうことがあるように思う。無意識だから怖い。ピアノの世界という狭い世界でもそれはあるように思う。プロとアマチュア、音大卒とアマチュア、初心者と上級者・・・のように。個々は異なる。でも同じでしょ?同じピアノを愛する人間でしょ?

「ブラックパワー・サリュート」という言葉がある。かつて堂々と人種差別がまかり通っていた時代、主に北米を中心に生まれた言葉であり、行動だと言えよう。黒人公民運動として、黒人差別に抗議する示威行為とも解釈できる。かつてオリンピックでもそのようなことがあった。1968年のメキシコシティ・オリンピック。この時代は、北米だけではなく、人種差別問題に揺れていた時代だと言える。白人優先主義に対して、黒人たちが暴動という行為によって、自分たちも人間なのだという意思を示したりとか。とにかく世界は揺れていた時代だ。オリンピックという場で、国内の差別問題に抗議する、そしてそれを行動として実際に示す・・・これはブラックパワー・サリュートとしての行為となる。陸上競技の表彰式でそれは起こった。アメリカの黒人選手が金メダルと銅メダルを獲得し、メダル授与、国歌が流れ、国旗が掲揚されるという場面。

金メダルはトミー・スミス選手、銅メダルはジョン・カーロス選手、両選手は国内での差別問題に対して抗議を示すために、シューズではなく黒いソックスを履いた。これは黒人の貧しさを象徴する。黒い手袋を着用し、拳を天に向かって掲げる。黒人の誇りを示す黒いスカーフ、白人至上主義団体からリンチされた人々の魂を祈念するロザリオを身につけて・・・

会場はブーイングの嵐だったという。神聖なるオリンピックという場で政治的な行為をしたということで、二人は非難されることになる。IOCはアメリカ陸上界を永遠に追放する・・・みたいな動きもあったらしい。帰国後も両選手、その家族には脅迫状が届いたりとか、それはそれは大変だったらしい。解放運動の結果、スミス選手、カーロス選手は、ある意味「人権のために戦った英雄」として捉えられるようになった。

ここで銀メダルを獲得した選手に注目してみる。白人の選手だ。ただ表彰台に立っているように見える。スミス選手、カーロス選手のように、派手なパフォーマンスはしていない。ただ立っている・・・

彼はオーストラリアの選手だ。ピーター・ノーマン選手。実は彼の故国も当時は北米のような白人優先主義がまかり通っていた国なのだ。先住民であるアボリジニの親子を引き離し、子どもは白人家庭、寄宿舎で育てさせるなんていう信じられないような政策も1969年まであったらしい。

ゴール直後、二人のアメリカ人選手は、オーストラリア人であるノーマン選手を讃え、さらにこう尋ねたという。「君は素晴らしいアスリートだ。君は人権を信じるか?」「もちろんだ」「君は神の存在を信じるか?」「もちろんだ」

映像だと非常に分かりにくいのだが、表彰台の3人は、あるバッジをつけている。「人権を求めるオリンピックプロジェクト」のバッジだ。北米の人権解放運動に賛同する選手が身につけていたバッジだ。ノーマン選手はこう言ったのだ。「僕もそのバッジを身につけて君たちと一緒に表彰台に立ちたい・・・」と。「君たちの行為への賛同を示したい」と。ノーマン選手はただ立っていたのではなかった。静かにバッジを身につけることで、白人だがブラックパワー・サリュートに賛同を示したのだ。

これがノーマン選手の故国オーストラリアでは問題になった。「白人が劣性人種である黒人の行為に賛同するとは何事か?しかもオリンピックという場で!」

この時のノーマン選手の記録は、いまだにオーストラリア記録なのだそうだ。国内では誰もノーマン選手の記録を超えてはいない。しかし、次の1972年のミュンヘン・オリンピック、素晴らしい成績をノーマン選手はその時までに残していたにも関わらず、オーストラリアはノーマン選手をオリンピックに派遣させなかった。ノーマン選手はオーストラリア陸上界から追放されることになった。ノーマン選手の家族をも含めた差別だったらしい。追放されたノーマン選手は体育教師や肉屋などの職業を転々としていた。

ノーマン選手に国から打診があった。「メキシコでのあの行為は間違えだったと正式に表明したまえ。そうしたら君は復帰できるだろう」と。しかしノーマン選手はその申し出を拒否した。「人間として当たり前のことをしただけなのだから・・・」

ノーマン選手は、アルコールに依存し、そして鬱病を患い、そして2006年に亡くなっている。彼の葬儀では、かつてオリンピックで競ったスミス選手とカーロス選手が彼の棺を担いだのだという。

2012年、オーストラリアは正式にノーマン選手の偉業を認め、そして謝罪している。「ノーマン選手の素晴らしいアスリートとしての記録、成績、これを正式に認める。そして彼の表彰台で行った行為、人権に対しての行為、これに対しても認めるのに非常に時間がかかったことも認める」と。

「ピーターは、たった一人で国と闘っていた」  ジョン・カーロス


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素敵なタコ 2 

 

ああ、悲愴って、こんなに美しい曲だったんだぁ・・・

小学生の頃、弾けもしないのに、シュナーベルのこの演奏に憧れて、一人で弾いていたものだ。

泣きたくなるほど切なく感じたこの演奏、一人憧れ、一人弾いていた。

レッスンではバイエルだったから、無謀だよね?でも無駄・・・ではなかったような気もする。

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素敵なタコ 1 

 

アマチュアって、やたら難しい曲を弾きたがる?かつて弾いたであろう初心者、中級者が弾くような曲をバカにしている?バカにして弾かないのは、実はそのような曲を美しく弾けないから?

誰でも知っているような有名な曲をアマチュア上級者は弾きたがらない?真の実力を披露してしまう結果になるから?

11月のピアチェーレの演奏会、後半の2曲は札幌のチャリティーコンサートで弾いた曲をそのまま弾く。アール・ワイルドとスティーヴン・ハフのトランスクリプション。これは、どちらかと言えば音符が沢山あるという意味では、アマチュア(自称)上級者が得意になって弾くような曲・・・となるのかもしれない。

音符的シンプルさの漂う曲、難易度というものを無理やり当てはめてしまえば、「バイエル程度」とか、そのような曲。あとは誰でも知っている、いわゆる「耳だこ」とされている曲、このような曲を11月のピアチェーレで弾いてみてもいいかもしれない。

たしかにアマチュア、それも(自称?)上級者が人前で演奏する時には、「せっかく参加するのだ。できるだけ多くの音を弾いて、もとをとらなければ・・・」みたいな印象はあるかもしれない。

憧れの曲が存在しているということかも?「ああ、いつかこんな曲が弾けたら・・・」という思い。実際にその曲が一応でも弾けてしまったら、さらに次の憧れに進んでいく?そのような構図はあるのかもしれないが、かつて憧れだった「自分通過曲」を過去のもの、もう自分には関係のない初級者の曲と捉えてしまう、もう自分は初心者なんかじゃないしぃ・・・みたいな捉え方は寂しいとも思う。

「耳だこ」の曲、タコになるのかどうかは、演奏によると僕は思う。演奏によって「タコ」か「永遠の憧れ」に分かれるのではないかと・・・

そんな永遠の憧れのような、僕にとっての「憧れのタコ」を紹介していこうと思う。

まず最初はローゼンタールのこの演奏・・・

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一曲集中主義 

 

発表会の曲って、いつもの曲(?)と異なり、一曲集中主義となるもののようだ。いつものレッスンでは合格となるレベル(?)を超え、長く、そして深く弾いていく。「ねぇ、発表会まで間に合うの?」「○ちゃん、一応弾けているけど、それでいいのかな?先生は○ちゃんはもっとできると思うのよ?」叱咤激励し、発表会本番に向かっていく。これが通常の姿なのだろう。ちょっとだけ背伸びをさせ、つまりちょっとだけ、いつもの曲よりも高度な曲にチャレンジさせ、実力向上をも狙う。これも通常の姿なのだろう。

僕の先生は、ちょっと(かなり?)そのような意味では変わっているのかもしれない。例えば、本番前一ヶ月とか、そのような時のレッスンって「本番まで一ヶ月だよね?頑張らないと」的なレッスンになるのが普通だと思うのだが、「もうその曲はいいですよ。新しい曲をやりませんか?何かお好きな曲はありますか?」「えっ、本番一ヶ月前に譜読み?」「もう弾けてますよ、いいですよ。あまり頑張っている演奏って聴いていて辛いですよ、もうその曲はいいですよ」

子どもの発表会だけではなく、一曲集中主義って、コンクールや受験という場合に限らず、日本ピアノの世界では人前での演奏、つまり本番前においては通常の姿なのではないかと思う。大人の場合も、たとえば発表会とかサークルでも、わりと一曲集中主義になっているのではないか?そしてそれが当たり前と思っているところもないだろうか?

その曲を長く弾いていくメリットもあると思うが、デメリットもあるだろうと思う。半年以上も前から、ある曲を本番に向けて練習していくことのデメリット・・・

「ミスを恐れず、感情を込めて弾きましょう」直前にそんなことを言われても・・・演奏直後にそんなことを言われても・・・

長く同じ曲を、ある一点(つまり本番)に向けて練習しているわけだ。どうしてもその曲を弾くという意識、音楽をする・・・というよりは、曲を弾きこなすという方向性が強くなっていくのが人情だろう。苦手なパッセージなども時間をかけて練習してきたわけだ。いきなり「さあ、音楽をしなさい」という方向転換は難しいところもないだろうか?本番が近づくにつれ、「あそこは大丈夫かしら?」「ここが心配なの」みたいな心の状態になってしまうこともあるのでは?

例えば、カルロス・グアスタビーノの曲を練習会なり、発表会なりで演奏するとする。グアスタビーノ、日本ではほとんど演奏されないような印象だが、バイエル程度(終了程度ではない)でも演奏可能な曲も多い。ちょっとでも研究している教師ならば、それらの曲は知っているだろう。

「さあ、一週間後の発表会ではグアスタビーノの○○という曲を弾くのだ。暗譜は大丈夫かしら?先生に注意された、あそこの部分は本番でも弾けるかしら?あのパッセージははずすのかなぁ?練習でも命中することは少ないし。そこで動揺して、いつものように崩壊への道に進んでしまうのかしら?いいえ、そんな心配をしているのだったら練習しなきゃ!」

ああ、一曲集中主義・・・それも大切だが、もうちょっとグアスタビーノ周辺を彷徨ってみたらどうだろう?グアスタビーノの○○という曲、それは自分にとっての課題・・・だけではなく、もうちょっと大きな存在として認識できるように。音楽って自分にとって何???

グアスタビーノってピアノ曲と声楽曲が多いんだ。アルゼンチンの作曲家だったのね。アルゼンチンってアルゲリッチもたしかそうよね?でもなんだか情熱的とも感じるけれど、哀しくない?

グアスタビーノって2000年まで生きていた人なの?えっ、現代の人といってもいいんじゃない?それにしては保守的というか、いかにも現代音楽というのとは違う。つまり、「これが現代音楽なのだ」という調性もなく、一回聴いても理解できないような音楽が主流だった頃に、あえて反対の道を進んだ人だったのね。もしかしたら、この人、相当強い人だったのかもしれない。

グアスタビーノって生涯独身だったのね。私生活については、ほとんど分かっていない?寂しく暮らしていたのかしら?ブエノスアイレスに住んでいたのね。えっ、日本のワンルームのような質素なアパートに住んでいたの?ピアノはアップライト?アップライトピアノで作曲していたんだ?小さなアップライトのダンパーに、さらにパッドを装着して音を出なくしていた?そうなんだ。「ピアノの音が近所迷惑になりますからね」えっ、彼はそんなことを言っていたんだ。

本番で弾く曲以外にどんな曲を作っているのだろう?物静かな、控えめな、でも火のように強く熱い人だったのかも?

カルロス・グアスタビーノ、南米アルゼンチンの作曲家。日本ではほとんど演奏されることはない。ただ歌曲「バラと柳」だけは歌手たちから愛唱されてきた、唯一のメジャーな曲と言えよう・・・そうなんだ、歌なんか好きじゃないし、ピアノしか聴かないから知らなかった。ちょっと「バラと柳」という曲、聴いてみようかな・・・

えっ、こんな曲だったんだ。物静かで、控えめで、でも強かった人、私、一週間後にこの人の曲を弾くんだ。間違えたらどうしようとか、無事に弾けるかしら・・・だけではなく、「バラと柳」を聴いた時の心の動き、グアスタビーノに対して抱くもの、そんなものを感じてもいいのかな?いいんじゃない?哀しいような、熱いような、そんなものを感じたのだったら、それを本番でも大切にしてみてもいいんじゃない?

たしかに一曲集中主義って大切かもしれない。頑張ることも大切。でも本当にそれだけでいいのかな?一週間前になったら緊張ばかりしていないで、その曲、作曲家の周辺を彷徨ってみてもいいんじゃないかな?

ガンバリズムとか、出来栄えとか、それは聴き手としてはあまり大切なものでもないのかもしれないのだから・・・

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category: ピアノ雑感

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バーブラの軌跡 13 

 

「これは私じゃない、こんなの歌えない、歌わない・・・」

それまでに表現していた歌世界とは全く異なる新たな世界。バーブラは定められたビートに合わせて歌うということが大嫌いだったのだそうだ。それまでの彼女の歌を聴くと、なんとなくそれは分かるような気がする。

いつもバーブラは、録音に関しては3日間ほどで完成させてしまうのが普通だった。しかし、この「ストーニー・エンド」というアルバムの録音には半年近くかかっている。苦労したのだろう。

プロデューサーのリチャード・ペリーは、でも確信していた。「このアルバムはヒットするだろう。これまでバーブラとは無縁だった新しい世代のファンをも獲得するだろう」

バーブラは、そうは感じていなかったらしい。「こんな私を望んでいる人なんていない。皆こんな私の歌には失望するだろう」

「ストーニー・エンド」はヒットするだろう、いや、失敗作となるだろう・・・

結果はバーブラにとっては「ピープル」以来のヒット曲となった。

「間違えていたわ。あなたの間違えでなく、私の間違えでよかった・・・」バーブラはリチャードにこう囁いたという。

実はバーブラは、嫌々ながら歌っていたらしいが、とてもそうとは思えないような出来ばえだ。プロだから・・・と言ってしまえばそれまでだが。

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category: Barbra Streisand

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バーブラの軌跡 12 

 

バーブラの新曲、「ストーニー・エンド」、かなりポップでキャッチ―な曲だ。新しい時代、70年代に相応しい新曲。今聴けば、そう感じるが、当時は色々とあったらしい。

「ストーニー・エンド」は、ローラ・ニーロの曲。つまりローラ・ニーロのカバーということになる。カバーということが問題になったのではない。バーブラはデビューの頃からスタンダードばかりを歌ってきたわけだから、自分の親とか、祖父母の時代の歌をずっとカバーしてきた・・・とも言える。

バーブラ自身は、「ストーニー・エンド」のヒット以後も、ローラ・ニーロの曲をカバーし、歌っている。基本的にバーブラはシンガーソングライターを尊敬しているのだそうだ。自ら歌い、作曲もするという行為に憧れを持っている。なのでバーブラ自らも作曲をしたりしている。そのような意味での尊敬する歌手の一人にバーブラはローラ・ニーロを挙げているぐらいだ。

でも、バーブラがそれまでに歌ってきた曲と「ストーニー・エンド」はあまりにも違い過ぎたというか・・・

「バーブラは時代遅れだ」このようなレコード会社上層部の意向もあった。リチャード・ペリーという、これまでのバーブラには無縁だったフィールドの異なる人物がプロデューサーとして招かれた。たしかにバーブラの歌唱は素晴らしい。でも、現代のポップス界、ヒットチャートという世界とは無縁すぎないか?元ミュージカルスター、個性溢れるスタンダード中心の歌手としてだけで終わってしまうのは惜しいのではないか?時代は70年代なのだ。もう60年代は終わったのだ・・・

つまり、リチャード・ペリーはレコード会社(コロンビアレコード)の最上層部からこう命令されたのだ。

「リチャード、バーブラを変えてくれないか?」

バーブラは素直に自分の言うことなんかに従うだろうか???

バーブラはリチャードにこう言った。

「こんなの歌えない。歌わない・・・これは私じゃない・・・」

ローラ・ニーロ、日本では有名ではないような気がする。素晴らしい歌手だと思うけど・・・

でも、このローラ・ニーロの「ストーニー・エンド」を聴くと、バーブラが躊躇してしまったのも理解できる。全く異なる世界だもん・・・

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category: Barbra Streisand

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バーブラの軌跡 11 

 

1969年のバーブラ。バート・バカラックの名曲、「アルフィー」の歌唱。絶唱、熱唱系、舞台歌唱的な3年前の歌唱と比較すると、柔らかなニュアンスが加味されているような?

「私にはマイクなんて必要ないの!」的な声を張った歌唱から、マイクに絶妙なニュアンスを託す・・・のような変化。

むろん、「曲が違うから歌唱法も違うんじゃない?」と言われれば、それまでだけれど・・・

この歌い方は、完全に1970年代のバーブラだ。個人的には、1970年代のバーブラが最も好きだったりする。音楽というか、音型というか、和声の変化にというか、もう反応力が半端ではないのだ。グレン・グールドやレナード・バーンスタインなどが絶賛していたのは主に70年代の「絶妙ニュアンスバーブラ」だったように思う。

この変化がなければ、バーブラは「昔の偉大な歌手」になっていたかもしれない。

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category: Barbra Streisand

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