ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

ピエトロ・チマーラという男 

 

ピエトロ・チマーラという作曲家、ピアノ弾きの間では有名ではないかもしれない。というか、有名ではないでしょう。「誰ですか?」

声楽の人には有名だと思う。素敵な歌曲を残しているから。でもチマーラの作品集として、まとまった形で日本版の楽譜が出版されたのは、たしか1990年代だったと思うので、声楽専攻の学生などにも、割と最近知られるようになった作曲家なのではないだろうか?

名前から分かるように、イタリア人。最初はヴァイオリンからスタートした人みたいだ。でもローマの歌劇場のオケでヴァイオリンを弾くなんて、やはり歌とのつながりを感じてしまう。ピアノと作曲、そして指揮を学ぶのは、わりと遅くなってから?晩学の人ではあるようだ。作曲はレスピーギに師事している。う~ん、どこか歌曲は両者に共通点があるかも?

どこか地味な人生だったようだ。イタリアからアメリカに渡り、メトロポリタン歌劇場の指揮者として活躍した。といっても、副指揮者として、本番では振らなかったことも多かったみたいだ。やはり地味な感じ?ピアニストとして歌手の伴奏もしていたらしい。

指揮の最中、心臓発作で倒れている。命は取りとめたが、その後イタリアに帰っている。その後のイタリア時代についてはあまりよくは分かっていないらしい。地味な感じだな。

彼の歌曲、多作の人ではないが、どの曲からも感じるのが、熱いということ。イタリア人としての熱さ?誇り?「声!命!」「ベルカント!命!」のような、熱きものを感じる。歌手としては「ねっ?歌ってみたいでしょ?」的な魅力に溢れているのではないだろうか?

チマーラはメトで活動していた人だから、メトの看板スター、バリトンのレナード・ウォーレンとは交友があったのではなかろうか?ウォーレンの歌うチマーラ歌曲が実に素晴らしい。

「さぁ、これは声、ベルカントだけが具現化できる世界だ。羽ばたいてくれ」そのようなチマーラの想いを、ウォーレンが実際に演奏として具現化して聴かせてくれる。歌う喜び?歌ってくれる喜び?

レナード・ウォーレンも舞台で倒れた人だ。彼の場合は脳出血だったと記憶している。ウォーレンの場合は、舞台で亡くなってしまった。即死だったらしい。

ちょっと哀しい共通点ではあるけれど、熱き共通点を今でも聴けるというのは嬉しいことだ。

kaz




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先生に「もっと歌って~」と言われたら その2 

 

イタリア古典歌曲集、声楽初心者の教材的な一面があるとは思うが、当たり前のことながら、これらの曲は芸術作品なので歌手たちの重要なレパートリーでもある。ここがとても羨ましいところなのだ。

ギロックの曲もキャサリン・ロリンの曲も素敵だなと思うが、個人的にはブルグミュラーの曲に魅力を感じる。素敵だよなぁ・・・と。ブルグミュラーの曲集、これを「教材なのです」と割り切ってしまうか?微妙なところだ。ホロヴィッツが「素直な心」をリサイタルで演奏する、アルゲリッチが「貴婦人の乗馬」を録音するなんてことはない。でも声楽の世界ではそれがあるんですよねぇ。そこが羨ましいところだ。

この曲はイタリア古典歌曲集の中でも、まずは最初に初心者声楽家が手掛けることになるような一曲なのではないだろうか?イタリア語にカタカナで読み方を書き(許さない先生もいるだろうが)お経のように(?)歌っていく。必死でね。でも触れているものは、子ども用の教材などではなく芸術作品なのだ。何度も書いてくどいが、そこが本当に羨ましい。

往年の名歌手ももちろん歌っている。もしシュナーベルがブルグミュラーを演奏したら、それは楽しい想像だが、声楽の人は実際に聴くことができるわけだ。歌っているのは、ジュゼッペ・デ・ルカという往年の名バリトンだ。

演奏スタイルというものは、これはピアニストでもそうだが、現代の歌唱スタイルとは異なる。特に往年の名歌手はポルタメントを多用しているので、現代感覚からすると、かなりロマンティックな歌唱に聴こえる。楽譜に印刷されていないことを堂々とやったりとか?

「楽譜に忠実に演奏しましょうね?」

印刷された楽譜に・・・という意味では、「そんなところに休符はありませーん」みたいなことも往年の歌手にはあったりする。でもそれは、もしかしたら「ため息の表現」かもしれない。「慟哭」を表現したものかもしれない。そのような要素は作曲者が演奏者に求めていたものかもしれない。楽譜に忠実とはそのようなことなのかもしれない、作曲者としては「それぐらい書いていなくても感じとれよ」みたいな?・・・などと、そのような観点で聴く楽しさが往年の名歌手の演奏にはあったりする。

ピアノはなんと、チマーラなんですね。驚きだ。チマーラについては次回。

この往年の名バリトンを真似して100%の自己満足歌唱をしてみたら?そのあとにピアノで今練習している曲を弾いてみる。「いかにも打っています」「いかにも縦割りです」という演奏になってしまうだろうか?興味深いところだ。

今練習しているピアノの曲も、なんちゃって鼻唄状態で弾いてみたらどうなるだろうか?

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category: レッスン

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先生に「もっと歌って~」と言われたら その1 

 

レッスンで先生から「もっと歌って~」と言われたらどうするだろう?「あっ、そうですね、歌うように弾いてみます」「まあ、見違える(聴き違える?)ように見事に歌ってるわ~」とはならないのが辛いところだ。そもそもレッスンという場は具体的情報のやり取りのような場であると思うので、生徒としては「では先生、どうやったら歌うように弾けるのか教えてください、弾いてみてください」と言う権利はあると思う。しかし、そのあとどうなるのかは責任は持てないところだ。

「もっと歌って~」だけで歌うように弾けるのならば、レッスンなんて受けないよ・・・とも思うが、「では先生・・・」と進んでしまう前に生徒としては、できることもあるのではなかろうか?

「もっと歌って~」と言われてしまうだけの理由、それは自分の演奏から感じているはずだ。「横の流れが皆無で、縦割り弾きのような?」「一つ一つの音がカコ~ンという感じで、いかにも打っていますのような?」

まずは「一応弾けるようになってから表現をつける」という考えをやめてしまったらどうだろう?最初に「なんて素敵なの?このように弾けたらなぁ・・・」というものが最初にあり、そこを目指すところから始める。それが練習であるという認識を持つ。練習認識の逆発想というのだろうか?

タッチの瞬間という、流れるような横の動きというよりは縦の領域(実は密接につながっているものだとは思うが)においても、いかにもコンコンという打楽器的なイメージではなく、どこか柔らかいイメージを持ってみる・・・

「歌って~」という要素が欠けて聴こえるのであれば、「歌っていま~す」という演奏を聴いてみては?そして、さらに自分でも実際に歌ってみては?

「なんちゃって声楽の勧め」というのだろうか?むろん、美しい声でベルカント唱法で・・・などと考えなくていいのだ。なんちゃって声楽でいいのだ。鼻唄でもいいのだ。

まずは楽譜店に行こう。いつも行くピアノ楽譜のコーナーではなく、声楽のコーナーを訪れてみよう。全音楽譜(でなくてもいいが)にイタリア古典歌曲集という楽譜があるはずだ。1巻、2巻とある。声楽科の学生でも、1巻だけしかやらない人も多いらしいが、2巻も是非。いい曲満載なので。音源としてCDを購入してもいいが、そこはユーチューブでも代用できる。できれば、いかにもお手本用というCDは避けたい。教材用CDみたいな?それは避けたい。

イタリア古典歌曲集・・・とあるが、実際にはオペラアリアではある。でも声楽専攻の人は、まずはこの曲集から入るのが普通だ。ピアノであったら、ブルグミュラーみたいな?でもなんと高貴な香りがする芸術作品群なのだろう?声楽の人って、いきなりここから入れるんだね・・・と驚嘆してしまうし、非常に羨ましい。ピアノだと芸術作品に触れる前に「辞めます」みたいな?少なくとも、声楽の人はすぐに芸術作品に触れることができるんだねぇ・・・

この曲集は、パリゾッティ編なので、どこかロマンティックな香りがして、なかには「これはイタリアバロックではない」などと言う人もいるが、そこはどうでもいいような気がする。イタリア語って、なんとなくローマ字読みすれば、形になるというか?

自分で伴奏譜を弾きながら歌ってみる。つまり弾き語りをしてみる。伴奏、中には難しい(というか面倒な?)曲もあるので、その場合は適当に省略してしまえばいい。これは曲のエッセンスを見極めるというソルフェージュの訓練にもなる。一石二鳥?

なんちゃって声楽練習、実際にピアノに役立つか?それは分からないが、僕はたまにやっている。とても人様には聴かせられるものではないが、少なくとも実に楽しい。

声楽の人って、初心者でもいきなりこんな曲を歌ってしまうんですね~。この曲は2巻に入っています。

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category: レッスン

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黒人霊歌「つらい試練」 

 

ピアニスト、フランツ・ルップというと、やはりフリッツ・クライスラーの伴奏をしていたというイメージが強いが、マリアン・アンダースンとの共演もある。なぜこの二人が結びついたのだろう?いわゆる日本で赤盤と昔々呼ばれていたRCAのレコード、つまりレコード会社つながりということなのかもしれないが・・・

生まれ故郷、ドイツからアメリカに渡ったルップ、同じようにオーストリアからアメリカに渡ったクライスラー、どこか共有するもの、共通するものがあったのかもしれない。クライスラーが若手のルップの演奏を気に入ったのかもしれない。「ユーモレスク」だけではなく、この二人の演奏、一心同体という感じがする。名高いベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタもそうだが、よりクライスラー編曲、作曲の演奏においてそう感じる。

人間として自由に生きる権利、おそらくこれを求めたのではなかろうか?どんなに祖国を愛していても、その地で自由に生きられないのだとしたら、新天地アメリカにそれを求めるしかなかった。アメリカに行くしかなかった・・・

「僕にはどこにも居場所がないんだ・・・」

確かマーラーではなかったか?「私はオーストリアにおけるボヘミア人、ドイツにおけるオーストリア人、そしてヨーロッパにおけるユダヤ人、居場所がないのだ」心に風が吹いてしまうような言葉ではある。

新天地アメリカは自由な国であったのだろうか?やはりその新天地でも迫害、差別をされている人は存在したのだ。ルップはマリアン・アンダースンという歌手の存在を知った時、何を思ったのだろう?

マリアン・アンダースンの芸術家としての価値を認めた人にトスカニーニがいる。「なんという歌手なのだろう?なんという声なのだろう?」と。しかしながら、アメリカ国内において、マリアン・アンダースンは正当な評価を受けていたとは言えないところがある。それは肌の色による差別によって・・・

彼女はアフリカ系アメリカ人ということで、音楽院への入学を拒否されている。歌手として有名になってからも、演奏会を妨害されたりしている。そんな彼女と共演する。そのことにルップは迷いはなかったのだろうか?

僕はなかったと思っている。それは音楽家、そして人間として尊敬できるところがお互いにあったからだと思うし、自由を求めて生きる人間としての共通点もあっただろうと思うから。

人間各々の生きてきた環境、歴史、価値観、それらは異なっているにしても、通い合えるものがある。だからこそ、二人は共演したのかもしれない。

この演奏、マリアン・アンダースンの悲痛なまでの歌唱に圧倒される。そしてルップのピアノにも圧倒されてしまう。おそらく、楽譜としては、時折和音を鳴らす程度の実にシンプルなものなのだと思う。だからこそルップの見事さが際立つ。

肌の色、性別、価値観、その違いを超えて、個人レベルでは人間同士分かりあえる。一つの共通したものを追える。

でも二人はこうも思っていたのではないかな?

「でもなんで世界はそうはなっていないんだろう?」と・・・

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切ない付点 

 

ドヴォルザークの「ユーモレスク」がピアニストのリサイタルで演奏されない理由、それはサロン的な会場から、大ホールというものへリサイタル会場の器(?)が変化したことや、ザッハリヒな演奏なスタイルが主流になったことなどが理由なのではないか?サロン的小品として、発表会レパートリーとしては現代でも生き残っている感じだろうか?

でも「ユーモレスク」は難しい。最初の部分の付点の連続、ここが難所なのではなかろうか?むろん、ただ弾く・・・という意味ではそれほどの難渋さはないとは思うが、ややもすると付点の連続が、どこか「良い子の正しい童謡、唱歌」みたいな趣きに?

この曲は、「長調なので明るく」とか「付点のリズムだから弾むように」とか、そのような固定観念を少しでも演奏者側が持っていると、「良い子の童謡」の世界になってしまうのかもしれない。

切ない付点?

オリジナルのピアノバージョンではフリードマンの「神演奏」の録音が残っているが、あまりピアニストはこの曲を好まないのだろうか?その他の演奏(動画)となると、いきなり子どもの発表会動画とかになってしまう。

ヴァイオリン編曲バージョンでは、多くのヴァイオリニストが愛奏していて、こちらはいい演奏が豊富な感じだ。でも「神演奏」となると、編曲者のクライスラーの演奏ということになるのではないだろうかと個人的には感じる。付点の連続が切ないんだよね。

クライスラー自身はヨーロッパを捨ててアメリカに移った人だ。二度と踏めないヨーロッパの地、なんとなくそのような郷愁すら感じる。あまりにもヴァイオリンの音色が素晴らしく、クライスラーの哀愁に心を奪われてしまうところがあるが、この「ユーモレスク」はピアノも素晴らしくはないだろうか?演奏はクライスラーの多くの録音で共演しているフランツ・ルップというピアニストだ。彼もまたヨーロッパを捨ててきた人なのだ。

ポーランドから逃れてきた友人、Hの言葉をふと想い出したりする。

「僕たちにはどこにも居場所というものがないんだよ・・・」

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曲目 

 

まずは業務連絡(?)から。現在のところ、13名の方からリサイタル行きますとの申込みがあります。残席は7席ということになりますね。今回のリサイタルだけではなく、僕のもう一つの重要な活動でもある、ピアチェーレの演奏会でも思ったことなのですが、そしてそれは避けられないような難しい問題なのですが、400人収容のホールではなく、小規模な会場で演奏会を企画する場合、キャパよりも多くの申込みは受けられないということ。消防法とか、いろいろとあるのです。昨年のピアチェーレ、会場のキャパ60席分の申込みがありました。まぁ、満員御礼という実に御目出度い感じではあったのですが、申し込んで当日はいらっしゃらない(いらっしゃれない)方も存在してしまうということ。そこを見込んで数枚分でも大目に受け付けるということは難しいのです。もし、人員オーバーになってしまったらというリスクは負えないわけです。詳細は来月会場のオーナーの方と相談しますが。

今回のリサイタルに関しても、同様のことが言えます。小規模での催しそのものの困難さとも言えるかもしれませんね。まだ日程そのもの、最も大事な要素が抜け落ちているのに、これだけの申込みがあるのは大変に嬉しいですし、正直驚いてもいます。時期としては来年の1月か、2月の土日祭日を考えてはいますが、その頃って、ノロウィルスとかインフルエンザ流行の季節なので、前日まで聴きに行く気まんまん(?)でも、当日どうしてもということも考えられます。でもその可能性を考えて、大目に・・・ということはしません。

何故にこのブログのメールフォームを介して申し込んで頂きたいかと言うと、何かあった時にこちらから連絡したいこともあるだろうと思ったからです。もう一つは、知り合いだけで埋まってしまうのではなく、ブログを読んだだけだけれど、演奏も聴いていみたいという未知の方からの申込みも歓迎したかったからです。実際に何名かの方が、実際には僕の演奏を聴いたことのない方からの申込みです。ブログのコメント欄から申し込んで頂いてもいいのですが、その場合は必ずアドレスを入れて頂きたいと思います。今までのところは、全員の方のアドレスを把握しているので大丈夫です。

とりあえずは、正確な日時が決まって、再度情報アップしてきたいと思います。

リサイタルのもう一つの重要な情報、それは演奏曲目。この部分は、キャパと雰囲気を考えて、また今まで弾いてきた曲を中心に、これまでの集大成という意味合いを込めて選曲しました、大曲、たとえば大規模なソナタをバーン・・・というプログラムではなく、どこかサロン的な曲がほとんどになっているかもしれません。そのような曲は6畳間文化の影響(?)で演奏すらしたことがないということもありますが・・・

ショパン:華麗なる円舞曲 Op.34-1
パデレフスキ:ノクターン Op.16-4
ショパン:バラード 第1番 Op.23
ブローウェル:「11月のある日」
グラナドス:ゴイェスカスより 「嘆き、またはマハとナイチンゲール」
ホアキン・ラレグラ:「ビバ ナヴァラ!」
シマノフスキ:エチュード Op.4-3
ショパン:バラード 第4番 Op.52
ドヴォルザーク:「ユーモレスク」
プーランク:「愛の小径」
ラフマニノフ~アール・ワイルド:「ヴォカリーズ」
リスト:メフィスト・ワルツ

まだ素案なので、ここはカットした方がいいとか、ここはもっと濃くとか、何かしらのアドバイスがあれば、よろしくお願い致します。長すぎるとか短すぎるとか、なんでも。むろん、自分の好きな曲しか弾かないというのはありますが、なにぶん、初めてのことなので、勝手が分からないというか?

今までに弾いてきた曲なので、サークル仲間など、実際の僕の演奏を聴いたことのある人は「またあの曲?」などと思うかもしれませんねぇ・・・

いわゆるサロン的な曲が多いかもしれませんね。意図的にサロン風というか、曲そのものは非常に有名で、クラシックに詳しくはない(?)人でも「あっ、この曲聴いたことがある」という曲で、さらに音楽的にも傑作なのに、なぜか現代のピアノリサイタルの曲に登場することのなくなってしまった、ある意味廃れてしまった曲を1曲弾いてみたかった。廃れた?ピアノ教室では頻繁に演奏されているかもしれないし、発表会でもお馴染みの曲なのかもしれないけれど、なぜかリサイタルでは演奏されない・・・

たとえば、ウェーバーの「舞踏への勧誘」とかメンデルスゾーンの無言歌集とか。「ユーモレスク」もそのような曲なのではないかなと。オリジナルはピアノ曲。ヴァイオリンではないんですよ~

往年の大ピアニスト、イグナツ・フリードマンは、大曲ももちろん、このようなサロン的小品も実に素晴らしい。天国のようで。現代のスターピアニストで、このサロン的天国世界、フリードマンの精神を受け継いでいるのが、スティーヴン・ハフなのではないかと。「ユーモレスク」にはフリードマンとハフというピアニスト、芸術家への僕なりのオマージュの意味合いが込められています。

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category: リサイタル

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サロン文化と6畳間文化 

 

日本にはサロン文化というものが根付いていないと言われる。「サロンって何?」

アメリカに住んでいた時には、サロン・・・ではないけれど、パーティー文化みたいなものは根付いていたように感じた。料理を持ち寄り、酒を飲みながら歓談、そして演奏タイムになる・・・みたいな?なんとなく、日本と比較した場合、歴史や文化の違いというよりは、住環境の違いというものが大きいのではないかと思った。6畳間でパーティーは、できなくはないが、難しいだろう。そもそも日本の住居って、バーンとワンルームというよりは、チマチマと部屋を仕切ってしまう3LDK的な住まいが多いような?

6畳間や8畳間ほどのスペースに防音を施し、スタインウェイのグランドピアノを設置する。なんだかバランスが悪いような?そしてそのことに気づかないみたいな?

この住環境というものと、日本独特のピアニズムのようなものは、無関係でもないような気がするが、そのことよりも、独特の6畳間文化なるものは存在しているような気はする。ピアノを演奏する場としては、自宅ということは考えられなくて、発表会とか、外の会場で、非日常性を伴いながら展開してきた日本ピアノ文化・・・のような?

御稽古事としてピアノが定着したのは、やはり昭和40年代、高度経済成長期だと思う。誰でも(?)ピアノ教室に通い、ピアノ教室は大繁盛の時代。募集などしなくても生徒はワンサカと集まるという時代。この時代って、団地にアップライトピアノ・・・という時代ではなかったか?練習の成果・・・というよりは、演奏そのものを披露できる場として、団地の一室に親しい人を招いてサロン的に・・・とはならなかった。発表会で、ドレスを着てという非日常性と西洋文化が庶民にも・・・的な雰囲気を感じつつ、市民会館的な舞台で、大勢と共に演奏するという、独特(当たり前?)のピアノ文化が育まれていった。

最近の傾向としては、再開組を含め大人のピアノが盛んだ。ピアノサークルなんて、かつてのピアノ教室のように繁栄し、募集すら行っていないサークルが多い。でもサークルの練習会や演奏会と、ピアノ教室の発表会で共通しているものがある。自宅でサロン的にというものではない、独特の感覚。それは演奏時間に制限があるということ。一般的には、10分~15分程度という時間制限があるのが普通なのでは?考えてみれば、発表会や練習会で時間制限なしでということが困難なのだ。「リストのソナタを弾きたいな」とか「インヴェンション、15曲通して弾いてみたいな」などという希望はあったとしても、それを実現するのは困難だ。

ショパン人気、たしかにサークルの練習会や発表会でショパンの曲が登場しない時はない。「さすがショパン」なのだとも思うが、ショパンには15分以内で演奏効果の高い曲が多い・・・というのもショパン人気の一因ではないだろうか?発表会文化、6畳間文化から来ている時間制限というものが、ショパンを一層人気者にしている?たしかにそのような意味ではシューマンなどは分が悪いのではなかろうか?

ベートーヴェンの表題ソナタ、「悲愴」とか「月光」なども、全曲聴く機会よりも、一つの楽章を聴く機会の方が多かったりする。時間制限があると、練習会でソナタを全部弾くというのは、曲に制限が出てきてしまうのだ。リピートなしでだったら、モーツァルトは弾けるかも・・・みたいな?長い曲慣れしていないというか?これは独特の6畳間文化からきているものかもしれない。

ソナタや30分ほどの大曲、このような曲は抜粋にしたりするもの、完全な形で聴くのは、プロの演奏会でのこと、みたいな独特のピアノ文化が形成されていく?

非常に興味深い動画をみつけた。映画なのだろうか?テレビドラマ?むろん海外のものなのだが、サロンの雰囲気を表しているようにも思う。

kaz

追記・・・僕のリサイタルの残席は、現在8席となっております。




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category: ピアノ雑感

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心は死なない 

 

聴き手として生まれて初めてリサイタルというものを体験したのが小学3年生の時。ある医大生が沢山の音楽や偉大な演奏をレコードで紹介してくれていた時期だ。初めてのリサイタル、フランコ・コレッリのリサイタル。当時の僕は「教室のピアノの音」と「本当のピアノの音」というものの違いは感じていたと思う。医大生も僕がピアノを習っているということで、ピアノ曲を中心に聴かせてくれたと記憶している。フリードマン、ローゼンタール、ホフマン、パデレフスキ・・・

でも彼は実はオペラ狂だった。オペラも少しだけ聴かせてもらっただろうか?身振り手振りを交えた彼の説明つきでオペラの全曲盤なども聴いていた。とても面白かったな。彼は「こうもり」とか「イル・トロヴァトーレ」「ラ・ボエーム」など、どこかキャッチ―な入門用オペラを選んでいたようだが・・・

コレッリが来日する・・・医大生にとっては絶対に聴きたいリサイタルであっただろうと思う。チケットはプレゼントしてくれたと記憶している。1973年のことだ。当時は街にイトーヨーカドーなどが開店し、人々が行列するとか、天地真理の「恋する夏の日」が大ヒットしていたりとか、そんな時代だった。コレッリのリサイタル、まだできたばかりのNHKホールで行われたと思う。

もっと予習しておけばよかったな・・・当時も思ったし、今でも思う。いきなりコレッリの生演奏は小学生の僕にとっては、猫に小判、豚に真珠であっただろうと思う。むろん、何か凄いことが行われているということは感じることができたが、テノールのアリアなど、もっと知っていればよかった。偉大な歌手に関しても、もっと聴いておけばよかった・・・

でも感じたことはある。それは何かが伝わってくる・・・ということ。音楽だから伝わってくるのは当たり前なのだろうが、はっきりと目には見えないが、「気」「パワー」「心」が伝わってくる。会場の聴衆に伝染していく。

そのコレッリから伝わってきたエネルギーが、聴いている人の何かを包んでしまうような?それは人が心の中に抱え込んでいるような何か。それを包んでしまう。タッチしてきてしまう。

聴衆は熱狂していた。それは演奏の見事さだけにではないような気が子ども心にもした。なんだろう?「ありがとう・・・」みたいな?コレッリ自身が歌、音楽に「ありがとう」と。そしてそれが伝わり、聴き手も「ありがとう・・・」と。

不思議な感覚だった。一人の人間の声、歌がここまで人というものを動かすとは・・・

コレッリのリサイタルから40年以上経過した。僕にも少しだけ分かる。なぜなら、心の中に抱え込んでいるものがあるから。誰でも蝶よ、花よ・・・だけで生きているわけではないから。そこに入り込んでくる・・・なので「ありがとう・・・」と。

フランコ・コレッリはイタリアのアンコーナに生まれた。小さな港町だ。彼の父親は造船所で働いていたらしい。彼の父親だけではなく、アンコーナの男たちは海の男として生きるのが普通だった。コレッリも父親同様、海、船舶という世界に生きるものと思っていた。実際に、コレッリは船舶会社で働いていた。

歌は好きだったのだろう。多くの他の偉大な歌手と同様に。彼が声楽を志すのは25歳を過ぎてから。ピアノだったら考えられないが、声楽家としても遅いスタートだと思う。「オペラ歌手なんて、才能ある人だけがなれるものと思っていた。でもレッスンを受けて、訓練をすることで、何かが実際に変化していくということを実感することができた。才能ある特殊な人だけではなく、訓練して勉強すれば変わっていくのだと・・・」

週に3回、地元の音楽院に通うことになる。完全に自分の楽しみのために・・・

やはりコレッリは才能があったのだろう。でもスター街道まっしぐら・・・にはならなかった。むろん、素晴らしい才能はあっただろうと思うが、駆け出しの頃は多くの苦渋を味わっている。

「変な声だ」「専門的な教育を受けたわけではないんだろう?素人じゃないか?」「オペラ歌手?そんな声じゃ無理無理・・・」

たしかにコレッリの声って独特かもしれないね。

その頃、コレッリを導いていた人はフランチェスコ・シチリアーニという人。コレッリはこう思っていたそうだ。「デル・モナコは完璧だ。歌唱も声も理想的だ。彼は15歳の頃から歌手を目指し教育を受けてきた。俺とは違う。俺はデル・モナコのようにはなれない」

シチリアーニはこう言った。「たしかにデル・モナコは完璧だ。でも君には彼にはない何かがあるだろう?」このシチリアーニの言葉がなければ、もしかしたらコレッリは船舶会社の社員という人生をそのまま歩んでいたかもしれないね。

コレッリはアメリカの批評家のカルーソーについて語った言葉を思い出した。「美しい声だ。だがカルーソーの心はカルーソーの声よりも大きく美しい」

「心?自分にもあるかもしれない。伝えられるかもしれない。正しい方法を知れば・・・」

僕が聴いたコレッリ、1973年のコレッリ、映像として残っている。この動画はこのブログでこれまでにも紹介しているが、何度でもいいと思う。たしかに聴衆に伝わっている。聴衆もそれをコレッリに伝えようとしている。NHKホールが「ありがとう」で包まれている。

「美しいメロディーはどんどん消えているね。でもオペラは絶対に死なないんだ。なぜならオペラはあまりにも美しすぎるから」  フランコ・コレッリ

kaz

追記・・・僕のリサイタルの残席は、あと11席となっております。





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category: リサイタル

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残席情報 

 

リサイタル告知後、沢山の応援反応があった。国内だけではなく、海外からも。ありがとうございます。

一応、現段階のことを整理しておこうと思う。開催(?)時期は未定・・・ではあるのだが、ピアチェーレの演奏会前後は避けたいと思っている。時期を重ねれば、ピアチェーレで弾いた曲をそのまま弾ける利点があるけれど、それは避けたい感じだ。燃焼しつくしていると思うので。また弾きたいという僕の意思で曲を重ねるのはいいと思うけれど、「まっ、ピアチェーレで弾いた曲を弾けば練習しなくてもいいし」的なプログラミングは避けたい感じだ。長期間練習してきた曲って、本番が終わるとしばらく弾きたくなくなるんじゃないかな?

とは言っても、今まで弾いてきた曲の総決算(?)という感じのプログラムにはなると思う。むろん、曲は事前にこのブログで発表するけれど、僕の演奏を聴いてきた人(ピアチェーレとかサークルとか)は「またこの曲?」とは感じるかもしれないね。

年を越してから・・・になるのではないかな?1月とか2月とか?来月には時期は明確になると思う。

今の段階で、「日にちはいつでもいいです。絶対に聴きに行きます」と先行予約(?)してくださった方が3名。明確に「予定が入っていなければ絶対に聴きに行きます」的なメッセージを下さった方が2名。時期が判明すれば、メールフォームを介して正式に申し込んでくれるだろうと思っている。

このブログのメールフォームを介して頂きたい理由としては、サークル仲間などに協力してもらえば、20人のキャパは埋まるかもしれないし、その方が手っ取り早く、かつ確実なのかもしれないが、ブログを読んでいて「なんとなくこの人の演奏を聴いてみたい」という人にも、できれば聴きに来て頂きたいという思いがあるからだ。実際、ピアチェーレの演奏会には、そのような方たちが遠方から聴きに来てくれたりした。仲間うちだけで埋めてしまうのではなく、公平性を考えてのこと。

実際には、「ブログ告知だけでは20人も来ないだろうなぁ・・・」とは思っているが・・・

公平性を考えて、先着順。時折、申込み数はどんな感じか、アップしていきたいと思う。現段階では残数15人・・・という感じだろうか?

音大の先生などは生徒にリサイタルのチケットをノルマを課して売るのだろうか?「あなた、10枚お願いできる?」みたいな?義理で(?)200席埋まる盛況なるリサイタルよりも、道行く人、何の義理もない人が立ち止まるような、振り向かせるような演奏、その方が価値がある・・・なんていうことも世の中にはあるのではなかろうか?

ふと聴き入ってしまった演奏。パリのストリート・ミュージシャン。ルーマニアから逃れてきたロマの人っぽいね。華やかな経歴も学歴もないかもしれないが、いいな・・・と思う。

kaz




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category: リサイタル

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サムライ・ベルゴンツィの告知 

 

友人のルカが僕の演奏をテノール歌手のカルロ・ベルゴンツィに例えた。「君はサムライ・ベルゴンツィだ」と。表面は静かなサムライ日本人だけれど、内に秘めている音楽はベルゴンツィのようだ」と。彼はイタリア人だから、そしてベルゴンツィのファンだからそう言ったのだろうと思った。「いや、切なくなるほどの感情表現という意味で言ったんだ」・・・

先日、札幌で演奏した時、自分で書くのもなんだが、沢山のお褒めの言葉を貰った。共通しているのは、表面上すごく巧みというか、達者ということではなく、内なる感情を臆することなく表現し、伝えるという、どこかルカのサムライ・ベルゴンツィ発言と共通するような言葉が多かった。むろん、単純に褒められるということは嬉しいが、もし自分の演奏にサムライ・ベルゴンツィ的要素が本当にあるのならば、その部分を自分は自覚し、意図的に伸ばしていく必要があるのではないかとも思った。今までは、どうもその自覚に欠けていたようだ。「まっ、アマチュアなんだし・・・」「そんなぁ・・・自分なんてまだまだなんでぇ・・・」というスタンスを貫いていれば、周囲から攻撃されることもないだろうと。

札幌でのチャリティーコンサートが終わった直後、同じコンサートに出演した人、この人は同じサークルに所属していて、僕と同様に東京から参加した人なのだが、ある情報を僕に与えてくれた。東京の練馬区の、あるサロンの情報。これは偶然なのだろうか?なんとなく偶然ではないものを感じた。

「一人で弾いてみようか?」

むろん、今までも人前での演奏の機会はあった。これからもあるだろう。サークルの練習会とかね。あとは、ピアチェーレの演奏会とか。でも基本的に僕は10分とか、ピアチェーレの場合でも30分のステージということしか経験したことはない。つまり、一人での演奏会、リサイタルというものを経験したことはない。今までも「リサイタルやればいいのに・・・」と言われたことはある。でも、自覚がなかった。サムライ・ベルゴンツィであるということの自覚。そして自分を下にすることで、攻撃されないという場所に安住してもいた。「フ・・・リサイタルだなんて・・・音源一つアップしていないのに?」とか「素人さんは気楽ねぇ・・・」のような言葉は充分に僕を凹ませるだろうし。自分も楽なところにいられるだろうし・・・

「リサイタルやればいいのに・・・」そのような言葉を貰った時には、会場としてサークルの練習会で使用されたサロン的な会場で行うということしか連想しなかった。キャパとしては60~80ぐらい?一人で集客はできないだろうなぁ・・・と思ったのも行動しなかった理由ではある。経歴もないし、チラシをばらまいて・・・なんてできないし。ハンドルネームでやりたいし、ブログで告知するぐらいしか思いつかないし・・・等々。

キャパは20人。ここが魅力的だ。椅子だけ並べればもう少し入るらしいが、テーブルを出してお茶つきの、いわゆる「サロンコンサート風」にすると、20人が限度。「20人・・・これならいけるかも?」と思った。

来月に会場の下見に行く。その時に具体的な話も詰められるだろうとは思う。まだいつ実行するか、その肝心なところが決まっていないので、告知そのものはまだできないが・・・

札幌にいる間、音楽とは全く関係はないが、ビル・ゲイツに関する本を読んでいた。スティーブ・ジョブズに対しては、かなり好意的な感情を持っているが、ビル・ゲイツについては何も知らなかったのだ。スティーブ・ジョブズの言葉には、かなり影響を受けている。そしてこの人は有言実行の人生であったのだとも思っている。

「時間は限られている。だから他人の人生を生きたりして無駄に過ごしてはいけない」「もし今日が最後の日だとしたら、今やろうとしていることは本当に自分でやりたいことだろうか?」共にジョブズの言葉だ。

ビル・ゲイツはジョブズと比較すると、どうも魅力に欠けるというか、そのような感じを持っていたのだが、やはり相当魅力的な人であるような気はする。

「自分のことを、この世の誰とも比べてはいけない。それは自分自身を侮辱する行為だ」・・・ビル・ゲイツ

まだ会場のピアノに触れていないので、100%やります・・・とは言えない。でもやろうと考えてはいる。日にちが決まっていないので、まずはそこを考えなくては・・・

今自分の中で決めていることは・・・

○ 無料にする
○ 日にちは未定だが、土日、祭日にすること
○ このブログのメールフォームから申し込んでもらう
○ チケットはないので、当日受付で申し込んだ人の名前(ハンドルネーム可?)と、その一覧を照らし合わせて入って頂く。いきなりいらしても入れない
○ トークつきのサロン的雰囲気

ぐらいかなぁ・・・

昨日までは「サムライ・ベルゴンツィ」という形容、かなり恥ずかしかった。でも今はとても嬉しい。切なくなるほどの感情表現というものが事実ならば、それをまた共有してみたいとも思う。

これが本物のベルゴンツィ・・・切なくなるほどの感情表現

kaz




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素敵なフランコ先生 5 

 

「ピアノ教師の役割は生徒を上手にさせること。自分が上手くなることではない」

やはりこの言葉は違うのではないかと強く思う。逆に生徒を上手くさせたいのだったら自分も上手くならないと・・・では?

「先生はさすがに上手ね」「先生の演奏って素敵ね」たしかにこれだけでも素晴らしい・・・というか、大変なことだろうと思う。

でも音楽って、単に「上手ねぇ・・・」とか「素敵ねぇ・・・」で終結してしまうものでもないだろう。もっと大きな、深いもの。心の中に静かに渦巻いているものを代弁してくれるもの・・・

もし、自分の生徒にそのようなものが伝わったとしたら?生徒は一生覚えているだろう。演奏そのものは忘れてしまうかもしれないが、その時の自分の心の動きを忘れることは決してないだろう。

生徒にだって人生の荒波にもまれる時は来る。そしてその時は先生のレッスンは受けてはいないと思う。でも、もし先生の演奏を覚えていたら?音楽が心を動かす、傷を癒すということを先生の演奏によって知ることができていたら?

ピアノ教師は教育者の側面もあるのかもしれないが、ピアノに関わる芸術家でもある可能性がある。

情報やノウハウは必要だ。でもそれは手段であり、目的ではないような気がする。

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category: レッスン

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素敵なフランコ先生 4 

 

別に発表会の講師演奏で超絶技巧難曲を披露して欲しいわけではないのだ。

ただ、「追っている」という姿を示して欲しい。「ピアノって素晴らしいんだよ。弾かずにはいられないんだ。君はどう?君もこの世界においでよ?」みたいなものを演奏で示して欲しい。

初めての感動が、過去の偉大なピアニストでもなく、有名ピアニストのCDからでもなく、自分の先生の演奏だったら、これほど幸せな生徒はいないだろう。生徒はその時の「瞬間の輝き」「瞬間の感動」を絶対に忘れない。

「先生の演奏って素敵・・・」これだけでいいのだ。その「これだけ」が難しいのかもしれないが・・・

フランコ先生のショパン、とてもラブリーだと思う。素敵だなと思う。フランコ先生の生徒はいいな・・・と思う。

生徒は達者なコンクール弾きを聴きたいわけではない。望んでいるわけではない・・・

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素敵なフランコ先生 3 

 

悩める生徒からも、たまにメールがきたりする。多いのが「先生が教えてくれない」というもの。実際には教えてくれないということではなく、専門的と趣味とに分別(?)されるというか?

「趣味です」「では楽しくレッスンしましょう」「いえ、上手くなりたいんです」「えっ、じゃあ、専門的にということ?音大受験を考えているの?」「いえ、そういうわけでは・・・」「では趣味のピアノなんだから、まずはピアノを楽しめばいいのでは?ポップスとかは?」「いえ、そうではなくて・・・」

カテゴライズしてしまえば、そりゃあ趣味ということになる。でも上手くなりたい・・・

ビシバシと専門的に・・・ではない。でも楽しく、ワッ!キャッ!というピアノでもない。上手くなりたい。自分が素敵だと感じたような演奏を自分も目指したい、それが自分にとってはピアノを習うということなんだけど・・・

つまり先生が教えてくれないということではなく、今一歩レッスンで踏み込んでくれない。そのようなレッスンを希望すると、「音大?」とか言われる。音大なんか行きたくはない。でも上手くなりたいの・・・

次に多い悩みメールは、「あの時きちんと取り組んでいればよかった」という後悔メール。過去にピアノを習っていた時には、美しく弾くとか、自分の受けた感動を伝えられるような演奏なんて、それこそ専門コースの生徒だけのことだと思っていた。まぁ、自分も一応それなりに音符を音にはしてきて、教材も進んだけれど、人の心を動かすような演奏なんて、一部のエリートさんだけの世界、自分なんかとてもとても・・・と思っていた。趣味なんだからこんなもの・・・と。でも大人になってピアノの魅力を再認識し、再開して、自分の思うように弾けない。それは指が動かないとか、そのようなことではなく、自分の思い描くサウンドと、自分の技量とに開きがあるのを感じてしまう。むろん、そこは頑張りたいけれど、やはり思う。「あの時、きちんと自分なりに追及しておけばよかった。ブルグミュラーなどを弾いていた頃、何故自分は美しく弾けないのだろうということを追っていればよかった」と・・・

美しく弾く、自分が受けた感動の世界を、自分で音として追体験してみたい、そして自分で生み出してみたい・・・

この欲求は、専門コースの生徒だけのものなのだろうか?趣味だから楽しく?楽しくって何?ワッ、キャッ・・・ということ?ピアノを習うということって娯楽?

「ああ、このように弾きたい」という欲求は誰でも持っているものではないだろうか?ブルグミュラーやギロックあたりまできて、そこで悩むということは、生徒にとってとても辛いことのように思う。いつになったら表現できるようになるのだろう?どこまで進めば表現を教えてくれるのだろう?これは辛い・・・とても辛い・・・

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素敵なフランコ先生 2 

 

介護の現場は人材不足だという。スタッフが辞めてしまう。何故か?一般的な認識としては、薄給であること、そして仕事としてキツイということ。それはそうだと思うのだが、収入が目的であれば最初から介護などやらないのでは?給料の額は明示されて、理解して新人として入職するわけだし。キツイ?たしかに和やかに高齢者と日向ぼっこをするだけではないけれど、それも理解して入職するのでは?では何故辞めてしまう?

「自分が今やっていることが将来にどのようにつながっていくのだろう?」ここが見えなくなると辞めてしまうのでは?「何のために?」という思い・・・

どこかピアノと似ている。楽譜が読めなくてはピアノは弾けないし、指が動かなくてはピアノは弾けない。つまり基礎は大事なわけだ。でも辞めてしまう。これから芸術の花園の世界なのにという直前で辞めてしまう。教材の世界というものは、花園に行き着くための経過地点のような気がする。ピアノを習うのは、目の前のバスティンなどの教材が弾けるようになるためではない。むろん、そこで止まってしまえば、挫折してしまうのであろうから、いかに教材世界をクリアしていくかということは大切なことだとは思う。教材研究セミナーが、やはり繁栄する理由はあるのだ。でも目的はバスティンを生き生きと弾きこなすこと?目を輝かせてバスティンを弾くことが目的?つまり生徒が興味を持って教材に取り組むことがレッスンの目的?導入ってそういうこと?

「今やっていることが将来どのようにつながっていくのだろう?」ここが見えないとピアノだって苦しい。生徒は現在弾いている曲に丸がつけば満足というわけではないのでは?

ピアノ教室周辺の音・・・というのだろうか、教師のピアノの音、中級や上級のお姉さん、お兄さん生徒の音、子どもは早い段階からその音をキャッチして無意識にインプットしてしまうのでは?その教室の音が左右するのでは?その教室の音がピアノの音と認識してしまうのだとしたら?

「頑張れば、あのお姉さんのようにソナタが弾けるのね・・・」その時、そのお姉さんのソナタに対して「わぁ、素敵だわ」と思えるか、思えないか。教師がちょっと弾くワンフレーズ、その時に子どもは、それがピアノの音としてインプットしてしまう。「わぁ、先生のピアノの音ってなんて素敵なの・・・」と子どもが思えるかどうか・・・

教師が弾くという意味はそこにあるのではないかと思う。教師自身の音で生徒に「素敵ね」と感じさせることができないと、将来の花園の魅力で生徒を引っ張っていくことは難しいのではないか?

子どもは「教室の音」を「ピアノの音」とまずは解釈するとしたら、それが魅力的だと感じなければ、ピアノを続ける意味を感じないのではないだろうか?

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素敵なフランコ先生 1 

 

札幌のチャリティーコンサートに出演して、僕のようなアマチュアと同じ舞台で演奏するピアノの先生も多数いることを実感した。今までは、どこかピアノ教師=ピアノを弾かない人・・・という図式があったのだが、これは偏見というものだったのであろう。

でも偏見を持ってしまう理由もあったような気がする。それはブログでのメールフォームを介してのピアノ教師からのメール。「フ・・・素人は気楽に演奏できていいですね」という言葉と共に、「ピアノ教師の仕事は生徒を上達させること。自分が上手くなることではない」などの言葉に圧倒されてしまったのが理由の一つだとは思う。たしかに、「バスティンって何?自分が演奏会で弾くラフマニノフだけで精一杯なのっ!」という先生ではいかんだろうとは思う。教材や指導法の知識などは、学生時代のように練習しているだけでは身につかないだろうし。

でも「ピアノランド」や「バスティン」だけでいいのだろうか?もしピアノ教師も音楽家だと考えるのならば、なぜピアノ教師ブログには、あまりショパンとかラヴェルとか、書かれないのだろう?ちょっと教材とかグッズとかセミナーとか、生徒のAちゃんがどうしたとか、話題が偏っていないだろうか?自分の音楽は?ピアノ教師ブログはピアノブログというよりは、教育ブログという趣が強いような?たしかに人を教えて(導いて)いるのだから、そうなるのであろうが・・・

ブログの印象から偏見を持ってしまったというのが二つ目の理由だと思う。アマチュアのピアノブログとは異なり、ピアノ教師ブログは広報の役割も担っているのであろうから、「こんな教室なんですよ~」というアピールも含まれるのであろう。でもどのブログも同じような感じ?それはアマチュアのピアノブログも同じか?

でも、なんで自分のピアノのことは書かないのだろう?書いていなければ「弾いていない?」と思ってしまうではないか。正直な感想としては、「演奏してきました」という文章と共に、ドレスを着用し、曲が湯山昭では、やはり「う~ん、音楽家としてそれでいいのだろうか?」と感じてしまうところもあったりする。

「同じフィールド・・・生徒も教師も音楽という同じフィールドにいる」という感じが少なくともブログからは感じないというか・・・

「ショパン?スクリャービン?それはピアニストの世界のこと。学生時代のこと。今の私たちはバスティンとか・・・」という境界線を感じてしまうというか・・・

「ほら、音楽って、ピアノってこんなに素晴らしいものなんだよ?はやく追いついてきなよ?大変なことも面倒なこともあるけどさ、でも弾かずにはいられない魅力があるだろ?はやくここまでおいでよ?」的なメッセージがピアノ教師ブログにもっと感じたい気はする。

とても素敵だな・・・と感じるピアノ教師、ピアニスト、フランコ先生。ベルギー在住の先生のようだ。生徒もピティナっ子のようにバリバリ感があるわけではないし、フランコ先生自身の演奏もコンクール弾きというわけではない。でも先生自身が音楽やピアノに焦がれていて、もうどうしようもないのが画面を通して伝わってくる。

「ほら・・・ついておいでよ・・・君も音楽の世界に早くおいでよ」みたいな?

生徒は大人の初心者なのだろうか?でも同じフィールドにいて、同じものを追っているような気がする。

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感情の糸が指に絡む時 

 

「自分にその資格はあるのだろうか?」エドワードはアリスとの結婚に踏み切れずにいた。「私が年上だから?」アリスはそう言うが、そうではない。彼女の家柄はいい。幸せな将来が約束されているだろう。地位も名声も、お金もない無名の僕などに彼女を幸せにできるだろうか?

彼女の両親は結婚に反対している。プロテスタントとカトリックの違い、身分の違い、加えて文無しの音楽家である自分、結婚に反対しない理由はないだろう。

「勘当されちゃった。でもいいの。私はあなたと共に生きていきたいの」「本当に僕でいいのかい?君を幸せにできるだろうか?」「あなたといるだけで幸せなの」「僕は無名の音楽家でしかない」「だから支えていきたいの」

エドワードは婚約記念に、ある小曲をアリスに捧げた。「愛の挨拶」という曲を・・・

それはエドワードの気持ちそのものだった。「僕なんかと生きる決心をしてくれてありがとう・・・」

アリスの直観は当たったのだ。エドワードは高名な音楽家となった。アリスは決して表にでることはなく陰で夫を支えてきた。予想以上に辛いこともあった。でも幸せだった。夫よりも8つも年上ということで思うことも多々あったけれど、今以上にそのことを考えてしまうことはない。充分長生きした。やり残したことはない。夫の音楽は永遠に人々の心に残るだろう。永遠に・・・

エドワードを残して死んでいくことだけが心残りだ。でも癌という病と闘う力はもう残ってはいない・・・

アリスを見送ったエドワードには、哀しみと感謝の気持ちによる複雑な想いがあった。「君のいなくなった人生なんて・・・僕はどうしたらいいんだ?」

アリスの死後、エドワードはどこか空虚な気持ちを振り払えずにいた。「あなたがいたから僕も生きてこられたのだ。夢を追えたのだ」

エドワードは66歳になっていた。そして亡き妻、最愛の妻に再び曲を捧げた。「愛の挨拶」という曲を。かつてのようなめくるめくような、熱い愛とは違っていた。それはアリスに対する感謝の気持ちだった。共に愛に生きてきたという証・・・「僕と共に生きてきてくれて本当にありがとう・・・」

※※※

感情の動きを指に反映させることは難しく、そしてシンプルなことだ。シンプルであるがために難しいのだ。でも感情と指、音とが一致する時がきっとある。今はできなくても、きっとある。そのためにピアノを弾いているんでしょ?ピアノの練習をするんでしょ?何かを表現したいから、自分の内側に表現したい感情があるからこそ弾くんでしょ?

一致する時がきっとある・・・

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500円から救う命 

 

チャリティーコンサートへの出演そのものは2回目となる。来年にも東京で行われる予定で、僕もどうするか考慮中だ。ただ、出演者の負担金に関しては、「寄付をするのだっ!!!」という思いは、ほぼ皆無だった。発表会にしても、サークルの演奏会や練習会にしても、実費を出演者で負担するという形態には慣れているのだ。アマチュアはそれが普通。ギャラを貰うなんてないわけだから。一部有名ピアニスト以外は、プロだって自己負担というものには慣れているのではないだろうか?

つまり、通常の感覚で出演した。「ステップだってお金かかるじゃない?」のような。むしろ、チャリティーコンサートという形態にメリットを感じている出演者は多いのではないかと思う。僕の場合は、未知の土地で、僕という人間を知らない人の中で演奏できたということ。これって、意外に難しいことなのだ。サークルにしても、発表会にしても、よく知っている知り合いの中で弾く・・・という感じだから。いつものメンバーの中で温かい視線に包まれてというのもいいけれど、そうではない環境で弾くってなかなかないのだ。ステップはそうだけれど、拍手もないし、どこか「批評される」みたいなアカデミックな固さを僕は感じるかな?

僕の所属しているサークルは、メンバー募集時に、一切の資格は問わない。アマチュア限定ではないのね。なので、ピアノの先生も複数メンバーにはいる。これって珍しいのでは?普通は、特に雑談系(?)のゆるい(?)サークルなどには、ピアノの先生とか音大出身者は参加しにくいのではないかと想像する。浮く・・・とまではいかないが。言葉を変えれば、アマチュアよりもピアノの先生って、人前での演奏機会というものは少ないのでは?

チャリティーコンサートだと、ピアノ教師だろうと、ライブ経験豊富なプロだろうと、アマチュアだろうと参加自由な感じなので、これは貴重な機会なのではないだろうか?

出演者として、自分のお金の行方だの、寄付だということには無頓着だったのだが、チャリティーコンサートは10年以上の歴史があって、寄付総額は600万円近くになるのだそうだ。一人一人の額は微々たるものかもしれないが、積もれば大きなものになるのだ。600万円、例えばレディー・ガガのような有名人がスタジアムなどでチャリティーコンサートをすれば、一晩でそれ以上の寄付額は集まるだろうが、一般人にもできることはあるのだ。

帰りの飛行機の中で、つらつらとそのようなことを考えていたら、犬のこと、パピーミルのこと、殺処分のことなどに想いを馳せてしまったのだ。

パピーミルにいる犬や、捨てられた犬をレスキューし、疾患を治療し、新しい飼い主を探せるようにまでに回復させる。それには資金が必要だ。海外でも日本でもそうだが、この種の団体のホームページでは必ずといっていいほど、寄付を募っている。資金不足が大きな問題なのだろう。それでもやっている人たちがいるからこそ成り立っているのだろうが、実態は厳しいものもありそうだ。

少額だが、寄付をした。僕が寄付した額では何も変わらないが、もし複数の人が寄付をしたら?パピーミルとか捨て犬とか、そしてそのような犬がどのような殺され方をするのかが、もう少し知られて、里親制度なども、もっと知られるようになっていけば、世の中も少しは変わるかもしれない。もし、恥ずかしいほどの少額の寄付でも、それが助け、一歩になるのであったら?

たった一人の500円が命を救うのだとしたら?

個人的に寄付をした団体がベストだったのかは判断できない。そのような意味で、ホームページなどを羅列することは避けたい。少しでもパピーミルのことを調べてみて欲しい。ペットショップにいる子犬がどんなに可愛くても、死んでいく、殺されている子犬もいるのだということを知って欲しい。何かできることが500円からでもいいではないか?

先の動画に登場したハスキー犬は「マイリー」という名前でメスだったのですね。新しい飼い主は、とてもいい人達のようだ。こうなるためには資金が必要だろう。好意だけではできない。500円から始まるとしたら?

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命の流行 

 

新千歳空港から羽田に戻る飛行機の中で考えていたことがある。自分の演奏のことではない。ピアノのことでもない。おそらく、チャリティーコンサートに出演したことで、結果的には自分が寄付をしたということと関連していたのだと思う。だから考えていた。

友人のルカはパートナーと共に犬を飼っている。里親制度を利用したのだそうだ。この制度は日本にも存在している。僕の両親も昔、犬を飼った時には、この制度を利用していたと記憶している。

「里親制度ね。子犬は難しいのでは?血統書付きの犬とかも。ペットショップじゃなかったんだ」僕がそう言うと(書くと)、「ペットショップで動物を購入してはいけないんだ。そんなの先進国では常識だろ?日本では違うのかい?」

一度ペットを飼ったら、絶対に捨ててはいけない・・・ということは認識していた。子どもが飼いたいというので、飼ったらすぐに飽きてしまい、世話ができなくなったので、捨ててしまう、これは絶対にしてはいけないことだと。もう、昔のことだが、一時日本でもシベリアンハスキー犬が流行ったことがある。この犬は大型だから飼うのは大変だとも思うが、ブームが去ると、沢山のハスキー犬が捨てられ、結局は殺処分されたというニュースを聞いたことがある。それはいけないでしょう・・・と思う。でもペットショップで買うことがいけないとまでは思っていなかった。

「ヨーロッパでは動物はショップでは売買できないんだ。普通は里親制度を利用する。ペットショップで生きた動物を売買することを法律で禁止している国だってあるんだよ」

日本ではペットショップって沢山あって、生きた子犬だって売っているよね?「可愛い・・・」みたいな?それはいけないことなの?

「パピーミルを結果的には潤すことになるじゃないか。需要がなくなれば供給だってなくなるだろ?」

パピーミルって?本当に恥ずかしいことだが、僕はその言葉を知らなかった。訳すと「子犬工場」か?

一般的なシリアスブリーダーとは異なり、営利目的で繁殖させるブリーダーをパピーミルと呼ぶらしい。劣悪な環境の中で、妊娠可能なうちに、どんどん産ませる。狭いケージに閉じ込められ、病気になっても放置される。つまり命のある動物としてではなく、完全に「道具」として扱われる。

ペットショップで売られている可愛い子犬は、商品価値があるから売られているわけで、そうではない子犬は殺処分される。役目の終わった親犬も殺処分される。つまり、ペットショップで犬を飼うということは、裏で活躍する(?)多くのパピーミルを結果的に繁栄させてしまうと。

飽きたから、飼えなくなったから、引っ越すから・・・このような理由で捨ててはいけない、でも多くの捨て犬は存在する、このことは知っていた。でもパピーミルのことに関しては知らなかった。

知らなかった・・・それで済むのかどうか?ここはピアノブログだし、僕自身は犬を飼っているわけでもない。でも動物愛護ブログではないからこそ、ピアノ関係の読み手に知らせる必要があると何故か感じた。

そして、動物レスキューの人々や、里親制度の各サイト、パピーミルの現状など、具体的な情報を載せる場でもないと思う。ネットで簡単に検索できるので、調べて少しでも知って欲しい。僕もパピーミルという言葉を知ったばかりなのだ。

北米ではヨーロッパの特定の国のように、パピーミルに関しての規制や禁止に関しての法律は整備されていない。州単位で、ちらほら・・・という感じ?でも里親制度は日本よりもはるかに普及しているような印象を持つ。アメリカのパピーミルに関しての動画なども沢山ある。目を覆うばかりの現状で、とてもここに載せることはできない。

この動画は直接パピーミルに関しての動画ではない。捨てられたハスキー犬がレスキューされ、10か月後に、新しい飼い主に出逢うという動画だ。同じく捨てられたチワワとの交流が涙を誘う。このチワワは人間に対して敵対心を持っており、おそらく虐待されていたのではないかと思われる。

ペットショップではなく、里親制度・・・この選択肢が日本でも一般的になって欲しい。

日本人は心優しいから、捨てる人なんて極一部なのでは?たしかにペットを飼っている人のほとんどは、命尽きるまで愛情を持って育てるのだろう。そこは信じたいところだ。

現在、日本では一年に約4万頭の犬が殺処分されているという。保健所で3日間だけ猶予が与えられるんだね。でも引き取り手なんていないという。殺す手段としては窒息死が一般的なのだという。

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ギフト 

 

終わってしまった演奏会に関しての自分の出来栄えなどは、あまり・・・というか、まずはブログには書かないのだが、感じたことだけ。

約12分間、演奏したのだが、人の人生、聴いてくれた人の人生の12分を頂いたのだなぁ・・・というのが今の心境。

やはり自分が人の演奏、つまり音楽から何をもらったかということなんだな・・・と。

ギフトなんだな・・・と。

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針の穴 

 

舞台で演奏中、突然自分の音が遠くに行ってしまったら?耳に水が入ってしまった時とか、急激に高度が変わった時とか、あの感じが演奏中に起きてしまったら?人の演奏を聴いている途中だったら、もしかしたら冷静に遠くの音で音楽を楽しめるかもしれないが、自分の演奏中だったら?

この場合、心理的に圧迫される。パニックになるんだね。何故なら暗譜に支障が出てくるから。舞台上では記憶を辿って弾いているだけではないのかもしれないが、指の感覚なども記憶と関係があるのかもしれないが、自分の音が聴こえなくなると、これは厳しいものがある。身体が急激に熱くなり、つまり焦ってしまうわけだ。

そのような状態に初めてなった時に弾いていたのが、明後日演奏するラフマニノフの「ヴォカリーズ」で、この曲には因縁があるような?自分を苛めるのが好きなんだろうか?

その後も聴こえなくなるということは頻繁に起こり、「もう人前での演奏、ピアノライフに人前での演奏を組み入れるのはやめようか」と本気で思った。誰だって舞台上で立ち往生はしたくはない。

「やめちゃえよ?」そのような声が何度も自分の中に聴こえてくる・・・

暗譜をしなければいいのでは?サークルの練習会なども、楽譜を置いて、パニックになっても支障のない曲、小さ目の曲などを、それなりに弾いていけばいいのでは?ピアノライフを変更してしまうよりはいいのでは?弾かない・・・と決めてしまうよりは。

バッハの小曲、トランスクリプションやインヴェンションなどを楽譜を置いて練習会で弾いていた時、「これだけじゃイヤだ」と強く思った。むろん、好きな曲しか弾かないので、そのような意味ではいいのだが、暗譜で、かつて弾いていた曲も演奏したいと強く思ったのだ。

リスクは?苦しんじゃないの?自分に問うと、確かにそうだ。でも・・・

たとえ、舞台上で立ち往生してしまっても、空白時間があっても、もしかしたら、そうならなかった箇所で「いいな」と感じてくれる人がいるかもしれない。自分でも、その針の穴のような部分で聴き手と何かを共有できるかもしれない。

「~なったらどうしよう?」この場合、どうしようもないのだ。でも弾きたいという欲求は消せない。そのような意味で、自分にとって最も「弾きたくない曲」だけれど、「大好きな曲」を明後日、あえて演奏してみたいと思ったのだ。「ヴォカリーズ」は因縁の曲なんだよね。聴こえなくなった瞬間、あのなんともいえない感じと「ヴォカリーズ」は僕にとっては密接な関係なのだ。

今の僕にとっては最も怖い曲、弾きたくはない曲・・・

レオン・フライシャーは長年、左手のピアニストとして知られてきた。かつては両手のピアニストとして活躍していただけに、ジストニアによって右手が使えなくなるということは、相当辛かっただろうと思う。弾くのをやめてしまったわけではない。そのような選択はしなかった。残された左手で表現した。何十年も・・・

両手のピアニストとして復活した時に、フライシャーはバッハのこの曲を選択した。淡々と演奏している様子だが、非常に素晴らしい。フライシャーなので、どこかその素晴らしさを当たり前のこととして聴いてしまうけれど、この曲、声部の弾き分け、音色の多彩さを右手で弾き分ける必要がある曲なので、右手にとって、かなり酷な曲なのではないだろうかとも思う。

フライシャーは、この曲が好きなのだろう。だから弾いている。でも自分の右手に、あえて課題を与えているような印象さえ持つ。だからこの曲・・・

針の穴は小さいけれど存在するのではないだろうか?

kaz




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落葉松 

 

いよいよ明後日はチャリティーコンサート本番。本番は明後日だが、明日札幌へ発つ。おそらく、北海道という初めての土地からの漠としたイメージから連想したのだと思うが、この人の、この歌唱を想いだした。ひたすら歌というものに率直に接していた彼の歌声と、本番間近の「どうしましょう」的な自分の心理とが微妙に混ざり合っている感じ?

本田武久さんが亡くなってどれくらいになるのだろう?東北のある大学を卒業し、故郷の秋田で教員をしていたが、彼にはどうしても諦められないことがあった。それは東京芸大で学びたい・・・ということ。それは諦めかけた歌の道を彼なりに具現化するための夢だったのだと思う。芸大生なんて、どこか「超エリート」というイメージしかないが、彼は苦学生で、朝の4時からビル清掃のアルバイトなどをこなしていた。エリート=芸大・・・という固定されたイメージを覆すものがあった。

むろん、芸大を卒業したからといって、すぐに歌で生活できるわけではない。さらに彼は一度社会に出て働いていたので、多くの現役学生に交じって、30歳を過ぎて学んでいたという年齢的な焦りみたいなものもあったのではないかと想像する。

生活の苦しさのようなものを、彼は決して僕には分からせなかったけれど、卒業後は苦しい時期だったのではないだろうか?

それでも真摯に、そして地道に歌い続けた。この動画は、彼の故郷、秋田での演奏会。地元の大きなホールに招かれて歌う・・・感無量だったのではないだろうか?

これから・・・という時に癌が彼を襲ったのだ。非常に特殊な骨の癌だったと思う。それでも歌い続けていたねぇ。片足を切断して、義足になってからも舞台で歌い続けていた。

癌の進行は非常に早く、転移も早かったと思う。30半ばで亡くなってしまうということは、非常に酷なことでもあるけれど、もしかしたら悔いのない生き方だったのかもしれない・・・などと思ったりもする。

本田武久さんの想い出の曲としては、小林秀雄の「落葉松」がある。僕もちょろっと練習のお手伝いをした想い出に浸ったりもしている。

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譜読みゾーンと表現ゾーン 

 

ピアノ仲間で、まずは譜読みをして、一応形になったら、一応通せるようになったら、その後、しかるべき表現をつけるという人がいて、その時は結構驚いたものだ。しかも、そのような人は少数派ではなく、多数派らしい?

上昇曲線というのだろうか?恋した瞬間に戻るためのサークルという概念ではなく。

「kazさんのように、お弾きになれる人はそうかもしれないけれど・・・」僕の場合、ここまでは譜読み期間、ここからは表現期間などという分かれ目はなく、最初から表現というか、理想サウンドを追ってしまう。これは「お弾きになれる」とか、そのようなことではないように思う。しかし、僕の場合、初見はダメだが、譜読みは早いかもしれない。ある種のソルフェージュ能力のようなものがある?

練習して弾けるようになる、ここは同じだと思うが、上昇していって、ある地点への到達を目指すというよりは、恋した瞬間、あの情緒世界に戻るという感覚が強い。そこのあたりの違いなのかもしれない。

ピアノ教師ブログなどでも、似たような、どこか落ち着かない感覚を味わうことがある。「弾けるようにはなったので、発表会に向けて、さらに表現もつけて弾けるようにさせなければと思います」なんとなく、サラッと読んでしまうが、この先生の場合、ここまではきっちり譜読みゾーン、ここからは本番に向けての表現ゾーンと明確に分かれているような?具体的な指導方法の一つ・・・と考えれば、それもありなのかもしれない。いきなりいい気になって弾ける錯覚を持たれてしまっても困るだろうし。でも、ピアノを弾くという大きな意味で捉えても、明確ゾーン的なものが存在しているような?これは一般的なことなのだろうか?

もし譜読みゾーンなるものがあるとしたら、その時はいったい何をしているのだろう?印刷された音符を弾けるように?謎だ。

この人の演奏は大好きで、過去にもブログで取り上げた記憶がある。やはりティエリー・ティスランドの曲を弾いている。この人も上昇カーブというよりは、恋した瞬間の、ティスランドと自分とで一致した、ある種の情緒を最初から追っているような演奏に聴こえる。譜読みゾーンと表現ゾーンなどというものではなく、最初から追ってしまう・・・

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本番前に思うこと 

 

本番に向けて練習していくって、どこか線グラフが上昇曲線を描いていくような?むしろ上昇曲線ではなく、「円」、つまりサークルを描いていると考えてみたらどうだろう?

だんだん弾けるようになって・・・そのような意味では上昇カーブだけれど、初めてその曲に出会って恋した瞬間、その時の自分に最終的には戻る線、つまりサークルを描くような。

恋した瞬間、その時は弾けないわけだけれど、でも恋した瞬間は忘却すべきではなく、そこに戻る、そのために練習する・・・

曲に恋した時って、「弾きこなしたい」とか、そのようなことよりも、曲が代弁してくれている、ある種の情緒に惹かれる感じだ。その情緒は言葉では説明できないようなものだけれど、自分が惹かれ、恋してしまったあるもの。

練習を重ね、恋した瞬間に戻り、サークルを描けたらいいなと思う。本番で実現できたら最高だが、そう上手くはいくまい。

ティエリー・ティスランドというコンポーザー・ギタリストの曲が好きだ。この人の曲に惹かれる人の演奏って、どこか共通した何かがあるような気がする。

二つのギター演奏を紹介したい。どちらもティエリー・ティスランドの曲。異なる曲だし、ギターを奏でている人も違うが、そこには共通した何かを感じるのだ。それは恋した瞬間、恋してしまった情緒、そこに戻っている・・・という感覚。

恋した瞬間は誰にでもあって、本番ではその時のことを忘れがちになってしまう。せめて恋した時の、過去の自分を裏切るような演奏は本番では避けたいと願う。

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ラブリーなるチェルニー 

 

フランソワ=ジョエル・ティオリエ、僕が中学生の頃に見つけたレコードの人なので、勝手に故人だと思っていた。現在も現役で活躍中なんですねぇ・・・

パリでロベール・カサドシュ、ニューヨーク(ジュリアード音楽院だね?)でゴロドニツキに師事したピアニストらしい。

横の流れというか、伸び縮み加減が絶妙で好きだ。あと沢山の音。「ピアノって88も鍵盤あるんだから沢山でしょ?」とか、そういうことではなく・・・

労せずに大砲・・・というのかな?ビジュアル的に大騒ぎしなくても、ごく最小限の動きで、音楽は多彩・・・ここがいい。逆の人は実に多いんだけど。

これ、チェルニーなんだね。なんだかチェルニーっぽくない感じ?

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廉価版の男 

 

ドビュッシーの前奏曲集や、スクリャービンの5番以降のピアノソナタ、おそらくどんな名演奏でも、どこか退屈してしまうかもしれない。演奏がどうこうというよりは、この場合、曲とに距離感を感じる。簡単に言ってしまえば、あまり好きではないということなのかもしれない。メシアンの作品なども苦手だ。

小学生の頃に聴かせてもらったドビュッシー、「映像」の第1集、「喜びの島」、そして「版画」。このあたりはドビュッシーでも親近感を感じる。その時の演奏はフランソワだったと思う。中学生になって、「ドビュッシーの他の作品も聴いてみなければいかんな・・・」と思い、レコードを探した。

自分の小遣いでレコードを購入するというのは、中学生にとっては大変なことだった。フランソワのレコードを探したが、やはりちょっと手が届かない値段だった。というよりは、知識欲でレコード購入となると、あまり積極的に貴重な小遣いを浪費したくはないというセコイ思いがあったのだと思う。「なるべく安くすませたい」ふと、横を見ると、非常に安価なレコードがあった。いわゆる、廉価版と呼ばれるレコード。

今でもCDが山積みになっていて「セール」という札があったりする。そんなコーナーにあるようなレコードではあった。

演奏者はフランソワ=ジョエル・ティオリエ。聴いたことのないピアニスト。僕の中でティオリエ=廉価版ピアニストというレッテルが出来上がっていたように思う。「とにかく曲を知りたいんだ。演奏はどうでもいいんだ。第一、凄く安いし・・・」

ティオリエのドビュッシー、演奏に関しては記憶はあまりない。演奏に対して判断などできなかったということもあろうが、「ドビュッシーって、ちょっと苦手かもしれないな」と生意気にも感じてしまったのだ。どの曲もフワッと同じような曲・・・みたいな?

廉価版の男・・・として僕が認識していたピアニスト、実はもう一人いる。レナード・ぺナリオ。ぺナリオのレコード場合は、いわゆるショーピースと言われる、僕にとっては聴きやすい曲ばかり収録されていたので、中学生時代の愛聴盤だった。でも凄くレコードが安かったんだよね。たたき売り状態?ぺナリオの演奏はティオリエのドビュッシーで感じた「なんだかどの曲も曖昧、不思議な浮遊感?」のような欲求不満は感じなかったけれど、やはり廉価版のピアニストとして認識してしまったのだ。正規の値段で売っている有名なピアニストよりは劣っているのだろう、僕が感じないだけで、気づかないだけで・・・

アメリカに住んでいた時、アメリカでのぺナリオの評価が非常に高いのに驚いた。むろん、アメリカでもぺナリオに対して「ラウンジピアニスト」という偏見を持っている人もいたと思うが、少なくとも有名ではあった。「ぺナリオ?ラブリーだよね!」そうか、僕と同じように素敵だなと思う人も沢山いるんだ・・・

そんなこともあって、廉価版のティオリエに関してもドビュッシー以外のレコードを探したりしたが、なぜか僕には見つけることができなかった。「名前からしてフランス人?でも有名ではないのか?だから廉価版なのか?」

フランソワ=ジョエル・ティオリエ・・・演奏がどうというよりは、中学生時代の想い出のようなピアニスト、名前だけ記憶に残っているピアニスト・・・

最近、偶然にティオリエの演奏を見つけた。「ユーチューブって本当に便利だねぇ・・・」と思う。探したわけではない。偶然にヒットしたのだ。最初は名前を意識せずに聴いた。「ああ、この人、いいな、この人の演奏、凄く好きだな」と直感的に思った。それがティオリエの演奏だったのだ。

40年近く、彼のことを「廉価版ピアニスト」と記憶していたこと、申し訳ないと思った。

kaz




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ザッピング演奏 

 

テレビのリモコンでチャンネルを次々に変えることをザッピングというのだそうだ。まぁ、落ち着きのない行為ではある。これは僕だけなのかなぁ、ユーチューブの動画を観たり聴いたりする時、ザッピングをしている。他の人はどうなのだろう?どのような演奏動画であれ、アップするというのは勇気の必要なことだし、大変なことではあると思う。どんなに演奏が今ひとつでも礼儀として全部聴いたりするのだろうか?

僕は「うーん、今ひとつ・・・」と感じた途端にやめたり、ザッピングをしてしまう。特にクラシックのピアノの場合がそう。2秒とかで次の動画をクリックしたりする。何回も再生したりする動画も多いけれど。

2秒・・・おそらく2秒で演奏が先まで想像できてしまう・・・ということなのだろう。興味深いことに、2秒と全曲との間にプロとアマチュアの差はない。出来栄えとか達者度みたいなものも関係ないみたいだ。つまり、2秒で次をクリックしてしまう演奏が「下手」とか、最後まで聴いてしまう演奏が「上手」といった単純なことでもないのだ。

これは聴き手としては当たり前の感覚だが、先まで想像できてしまうと、「この先どうなるだろう?」という感覚が途絶えてしまう。言葉は悪いが3分の曲だとすると、「あと2分58秒、我慢するのか・・・」と思う。なのでクリックしてしまう。演奏者としてはこれは厄介であろう。

人前での演奏後、「失敗しちゃったぁ・・・」「まあまあかな?」「あんなに練習したのに・・・」「なんでもないところでミスするってどういうこと?」「悔しい・・・」だけではなく、こう思ってみたらどうだろう、「今の私の演奏、ユーチューブだったらザッピングされなかっただろうか?」と。2秒・・・ではなくても、途中で変えられちゃった?それとも最後まで聴いてくれただろうかと。

むろん、動画とは異なり演奏会場にいる聴き手はザッピングなんかしない。できない。演奏が終わるまで聴いてくれるし、拍手だってしてくれる。それは演奏がよかったから?パソコンの前で聴いているとしたら?

これは演奏というものを反省したりする時に、必要な考えなのかもしれない。

このロシア人男性のギター演奏、ザッピングせずに聴いた。さらにもう一度聴いた。そして画面の前で一人拍手喝采してしまった。演奏の達者度とかで感動したのではないと思う。演奏ももちろんだが、弾いている雰囲気とか表情とか、全体的なパフォーマンスとして「好きだ」と思ったのだ。

この人、ギターが好きなんだねぇ・・・と感じた。こちらまで幸せな気分に・・・

本番前、細かなミス防止を気にして細部整えするのもいいが、鬼の形相でピアノに向かってもいいが、どこかで思ってみよう。「ザッピングされないかしら?」と。

kaz




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講師演奏 

 

ピアノ発表会の講師演奏、なんとなく「講師」という言葉自体に違和感を感じたりもするが、それはここで語りたいことではない。語りたいのは、講師演奏を発表会でするか、しないか・・・ということ。

しない・・・という先生も多い。個人的には先生の演奏、生徒は聴きたいのではないだろうかと思う。でも弾かないというポリシー(?)も理解できる。発表会の形態にもよると思う。ソロや連弾だけの発表会って最近は流行りではないのかな?、生徒や時には保護者を交えての催し物満載の発表会などの場合は、先生は色々と気を配ることも多いだろうと思う。すべての演目(?)が終了し、一応滞りなく済んで、先生は疲労困憊、疲れマックス・・・「この状態でソロ?ピアノ?とんでもないわ」となる。そりゃあそうだろうと思うし、いわゆる「トコロテン式」の発表会でも先生としては疲れるだろうと思う。先生としては「私、演奏するから生徒が弾いている間、スタジオで練習しているわ」というわけにはいかないだろうしね。

「何もこのような時に演奏しなくても・・・」となるのも分かる。自分の演奏会ではないのだしね。

何もこのような時に・・・ということと関係するが、自分の教室の発表会以外に、先生が演奏を披露する機会があるかどうか・・・ということも関わってくるように思う。自主リサイタルであれ、仲間とのジョイントであれ、何かしらの演奏を人前でしているか、していないか、この場合先生サークル内での教材弾き合い会のようなものは含まれない。もし、機会がないということであれば、発表会は自分の演奏を披露するチャンスではなかろうか?

素朴な疑問。そもそも発表会の意義は?人前で暗譜で、一人舞台で演奏するということは大変なことなのだ。それを生徒に課す。先生だから生徒に課すのは当たり前ではある。「聴いている人がいるのよ?」「舞台では一人なのよ?」「難しい曲だけどAちゃんにはできると思うの。頑張って欲しいの」もし先生自身が弾かないとなると、説得力という点で欠けるのでは?「そんなに大切なことなら先生はなんで弾かないの?」

「先生は色々と忙しいのよ」生徒は納得するだろうか?進学塾などで忙しいのは生徒では?色々とやりくりして、なんとかピアノを続けているのは生徒では?

「発表会の主役は生徒。教師ではない」このような意見も多い感じだ。なんとなく分かるような気もするが、そもそもピアノを弾いていくということは?

「ああ、ピアノの練習さえなければ毎日が楽なのにぃ・・・」と生徒は思うかもしれない。「でもね、弾かずにはいられないのよ。それが私にとってのピアノなのよ。上手いとか下手とか、そんなことではなく、弾かずにはいられないのね」生徒が主役だからこそ、このスタンスを先生が示してもいいのではないだろうか?

「本当に大変。人前での演奏なんて。逃げたくなる。会場が火事になってしまえばいいのに」でも弾く。何故?その部分を示す。生徒が主役だからこそ。

先生と生徒・・・「教える」「教わる」というよりは、先輩と後輩・・・「伝える」「受け取る」みたいな?発表会の講師演奏にその教師自身の「ピアノスタンス」が現れると言ったら言い過ぎだろうか?

そもそも、ピアノ教室とか発表会って、「ピアノって大変なの。練習なんて疲れるの。時間もないの。ピアノさえなければ・・・でも弾きたいの。不思議ね」この部分を生徒に伝えるという側面もあるのでは?生徒は先生の背中を見ているのだとしたら?

アメリカ、ヒューストンにシェパード音楽院という学校がある。テキサスに文化?・・・などと大いなる偏見を感じたりした自分が恥ずかしい。この音楽院は歴史は浅いながらも、名門として知られているらしい。ライス大学の付属機関なのだね。この音楽院のピアノ科教授にジョン・キムラ・パーカーという人がいる。かつてリーズを制したピアニストだ。

この動画はシェパード音楽院のホールでの、学生オーケストラの演奏会。ソリストに教授であるジョンを招いてのラフマニノフ。音楽院の学生オーケストラ、つまり学生たちの演奏が真摯で一生懸命で素晴らしい。学生たちが音楽家としての大先輩であるジョンを追っていく、ジョンは先人として自ら「演奏すること」という意味を後輩たちに伝えている・・・

この構図、発表会と同じでは?

リーズの覇者?じゃあピアニストさんじゃない?ピアノ教師はピアニストではないの?生徒はピアニストではないの?ピアノを弾く人・・・という意味においてはピアニストでは?どこに立っているかという違いがそこにあるだけでは?

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category: ピアノ雑感

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トマス・ティリノ ピアノリサイタルへようこそ 6 

 

やはり、やはりレクオーナといえば、この曲でしょう。

「オールウェイズ・イン・マイ・ハート」、日本語タイトルだと「一途な心」

1942年のアカデミー賞主題歌賞ノミネート曲。ということは映画音楽なんだね。あの「ホワイトクリスマス」がオスカーを獲得。この曲も胸をキュンとさせるものがある。

ここでも会場の雰囲気がいい。一体感を感じさせる。

トマス・ティリノ ピアノ・リサイタル、長々と御清聴ありがとうございました。

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トマス・ティリノ ピアノリサイタルへようこそ 5 

 

これはアンコールだと思う。

「魅惑のダミセーラ」

会場の一体感、演奏者と聴衆との一体感が素晴らしい。このような時、聴衆がシラッとしていると演奏者としては辛いものがある。また演奏者がシラッとしていても聴衆としては辛いものがある。

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トマス・ティリノ ピアノリサイタルへようこそ 4 

 

個人的にレクオーナの曲の中で最も好きな曲がこの曲。

アフロ=キューバ舞曲集から「ラ・コンパルサ」という曲。この曲もメカニカルは非常に難渋のような気がする。

たしか、この曲はレクオーナ、17歳の時の曲だったはずだ。

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