ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

クライ・ミー・ア・リヴァ― 55 

 

演歌や歌謡曲って、オリジナルの歌手のイメージが強いように思う。クラシックの曲の場合、そりゃあ名演として語られているようなものもあり、この人の演奏でなければ・・・ということも、ないではないという気もするが、他のジャンルに比べると、意外と誰の演奏でも受け入れ可能というか?ショパンのバラードなんて何種類の録音が存在しているのだろう?仮に「この演奏以外は好きになれないかも」という程好きな演奏があったとしても、そのピアニスト以外の人が演奏したら、「許せない!」と思うことはないように思う。少なくとも、僕はない。

歌謡曲の場合はある。天地真理の「恋する夏の日」を今のアイドルの誰かがシングルカットして歌うなんて、何故か許せない感じだ。オリジナル歌手のイメージが強いのだ。「恋する夏の日」は真理ちゃんの声、真理ちゃんの笑顔、真理ちゃんの振付でなければならないのだ。

そのようなオリジナル歌手と曲との関係が歌謡曲や演歌は強いような?「津軽海峡冬景色」は、やはり石川さゆりなのでは?「悲しい酒」は美空ひばりなのでは?懐かしの歌謡ステージのような番組で聴いたり、カバーとして聴くのは許せるけれど、自分の持ち歌として過去の名曲でヒットを狙うということになると、かなりの歌謡曲(歌手)に違和感を感じるような気はする。クラシックの場合は、楽譜に忠実ということも関係しているのだろうか?歌謡曲やポップスの場合、過去の名曲を歌う場合でもアレンジによってサウンドはかなり異なったりするから、オリジナルとの距離感を感じやすい?

マイケル・ブーブレとバーブラ・ストライサンドのデュエットについて書いた。正直に書いてしまった感はある。バーブラさすが・・・みたいな?ブーブレファンが読んだらいい気持ちはしないだろうと思う。と同時に、相手がバーブラなら仕方がないかも・・・と思う人も、これまた多いのではないかとも思う。マイケル・ブーブレはバーブラとデュエットをするくらいなのだから、見事な歌唱力を持っている。さらに、若いながら、スタンダードを中心に歌っている珍しいタイプの歌手でもある。スタンダードを歌うリスクとしては、オリジナル歌手と比較されることも多いということだ。祖父の歌うスタンダードを聴いて育ったらしいから、ブーブレ自身もスタンダードに対して近しいものを感じるのだろうし、比較されてしまうという状況は意識しているだろう。

ブーブレのソロでのスタンダードを、きちんと聴いてみると、これがなかなかいい。でもある年齢以上の人が聴いたら、そりゃあオリジナルの歌手と比較してしまうだろうとも思う。曲そのものの他に、歌手のイメージが強いわけだから、ブーブレという歌手は、かなり困難なことを実行している歌手とも言える。比較されてしまう歌手の多くは伝説的な歌手たちなのだから・・・

「クライ・ミー・ア・リヴァ―」という名曲がある。この曲のオリジナル歌手はジュリー・ロンドン。確か1955年のヒット曲だったと記憶している。この曲はジュリー最大のヒット曲であると同時に、スタンダードナンバーということにもなる。オリジナルのジュリー・ロンドン、そしてカバーしたバーブラ・ストライサンド、マイケル・ブーブレのバージョンを順番に聴いていきたいと思う。結構面白い。面白いが、ピアノのお勉強というか、ピアノの演奏に役立つこととも思えない。でもクラシックの曲を演奏するって、どこか「カバー」みたいなところがある。あまり意識しないけれど・・・

ジュリー・ロンドン、倒れそうになるほどの美貌の持ち主だ。もともとは女優だった。ただB級映画の女優。「クライ・ミー・ア・リヴァ―」のヒットがなければ、もしかしたら忘れ去られる運命にあったかもしれない。

ハスキーで妖艶な感じの歌唱だ。人によっては容姿と歌声とのギャップにゾクゾクするらしい。分かる感じがする。非常に魅力的だ。1955年当時、この歌唱は相当刺激的というか衝撃的であったに違いない。ジュリー・ロンドンが歌ったからヒットしたという感じすらある。この声以外の、この歌い方以外の「クライ・ミー・ア・リヴァ―」なんて想像がつかないほどだ。それぐらいに印象に残る歌唱。でもカバーするからには、自分の歌として歌うからには、それで終わってはいけないのだ。その部分をバーブラやブーブレはどう解決しているのだろう?それとも解決していない?

実に妖艶だ。この曲の歌詞内容は、かなり演歌調というか、怨み節的なところがあるのだが、そこはジュリー・ロンドン、こんな怨みもあるのねと思わせる。個人的には、もう少し激しさが欲しいとも思う。こんな感じで怨みを歌われたら、それはそれで怖い感じもするが・・・

kaz




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輪廻転生 

 

選曲をし、練習して、そして人前で披露する・・・当たり前の流れだけれど、ここには大切な三つの過程があるように思う。

① 曲や、その曲に秘められた、ある要素みたいなものに惹かれる、あるいは、その要素を自分に感じさせてくれた、ある人の演奏に惹かれる。その曲を選曲した動機のようなもの?この部分は「聴く」ということの大切さと密接な部分。

② 実際に自宅で練習する。レッスンで教師のアドバイスを受ける・・・という部分。この部分が苦しくもある。ややもすると、①のことを忘れてしまいがちなほどだ。最初から弾ける人などいないわけだから、どうしても自分の「できないところ」を見つめることになる。できない→できる、弾ける・・・練習なのだから、それが目的ではあるけれど、そのまま次の③の部分でそれを全面に出してしまっていいものかどうか?そこは疑問が残る。中には①のことを全く忘れてしまう人もいる。それどころか①の部分などなく、いきなり②からスタートしてしまう人もいる。

③ 本番。選曲、練習、そして最後の本番なわけだが、この部分は右往左往してしまう部分でもある。緊張してしまうから。「会場が火事になればいいのに・・・」火事の確率は極めて低いので、やはり人前で演奏しなければならない。ここで陥りがちなのは、②のことを意識しすぎてしまうということ。むろん、②は③を想定して進めるべきもので、そこで気持ちの乖離はない方がいい。でも「あそこが心配」とか、②での成果ばかりを気にしすぎてしまうのはどんなものだろう?①にも②にも存在しなかった「聴き手」の存在がある。むしろ、③の段階では②よりも①の部分を見つめるべきでは?

音楽って演奏が終わってしまうと、そこで音もなくなってしまうわけだけれど、何も残らないのだろうか?音楽の儚げなその部分に惹かれるわけだが、音が消えてもそれは聴き手の中で残像として残る。この「残る」という部分は、実は①につながっていく。もし、聴いている人の心の中に、何かが残る、何かが伝わっているのだったら、それは演奏者が聴いている人に①を与えた可能性があるのだ。そして新たな①~③がどこかで繰り返されていく。

輪廻転生・・・そう、つながっているのだ。その「つながり」を無意識でも演奏者は分断してしまうことがある。聴き手の存在を忘れてしまうことによって。「自分の出来栄え」という自分のことだけに終わってしまうことによって・・・

①②③はすべてリンクしているべきではないだろうか?バランスよく・・・

ギオマール・ノヴァエスの演奏を聴くフレイレ、彼女の演奏に感銘を受けているのが見ていても分かる。これはカメラの前の演技ではないね。目がウルウルしているもの。ノヴァエスはフレイレにとっては恩人のようなピアニストではなかったか?実際に自分のキャリアを開いてくれた人でもあるし、同郷の音楽家として崇拝していただろう。今でもそうなのかもしれないが、フレイレの修業時代は、ブラジルに限らず、南米のピアニストへの偏見などもあったのではないかと想像する。ましてや、ノヴァエスは19世紀生まれのピアニストだ。その人がこのような演奏を残している・・・そんな思いもフレイレにはあったのかもしれない。フレイレの①の部分・・・

動画の後半はフレイレの③の部分を収録している。聴き手に注目して頂きたい。やはり感銘を受けている人がいる。その人たちはフレイレからのギフトを貰った。フレイレのギフトを感じる感性を持っているのだろう。この中の誰かはピアノを弾く人かもしれない。その人たちは、①をフレイレから貰った。それは忘れがたいものとして残るだろう。ピアノを弾く人は、さらに③を目指すかもしれない。

ノヴァエスからフレイレへ・・・そしてフレイレから誰かへ・・・

輪廻転生なのだ。どんなに本番が恐ろしくても、この輪廻を自分で切断したら勿体ない。「プロじゃないんだから」「趣味のピアノなんだしぃ・・・」①のない人はそれもありだろう。でもそれは謙虚ということとは違うような気がする。

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category: ピアノ雑感

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街中ライブ 

 

本番が近づく。「きちんと弾けるかしら?」「舞台で真っ白になったらどうしよう?」

そうならないためにも練習しているわけだ。どんな人でも練習の成果は出て欲しいだろうし、失敗は望まないものだ。

「演奏っていうものはね、自分がどう弾けたかなんて関係ないの。聴いていた人がどう感じたかが大切なの。覚えておきなさいね」ピアニスト、原 智恵子の言葉。僕が直接言われたわけではないけれど・・・

聴いていた人?そんなぁ・・・プロじゃないんだしぃ・・・

むろん、「弾く」それも「人前」で弾くということだけにも意義はあるのかもしれないが、プロだろうとアマチュアだろうと「趣味なんで~す」だろうと、本番では聴き手がいる。聴き手はどう感じるだろうか?この部分は、なんとなく弾きこなせて、そのうえでの「余裕」で考える・・・みたいな?それでいいのだろうか?

「自分の出来栄え」だけを考えてしまいがちだけれど、聴き手は実際に存在するのだ。おそらく、アマチュアの演奏会だろうと何だろうと、無料の演奏会だろうと発表会だろうと、聴き手は確実に半日を潰すのだ。わざわざ電車に乗って会場まできているのだ。

「弾けますように~」だけで演奏者はいいのだろうか?

本番近くなった時に、こう想像してみてはどうだろう?街中でピアノを弾く、路上ライブ?歩行者は、自分の演奏を聴いて立ち止まって聴いてくれるだろうか?何人かでも興味を示してくれるだろうか?最後まで聴いて拍手をしてくれるだろうか?演奏会場の聴き手と違って、「つまらん」と思えば、去ってしまうだろうし、そもそも立ち止まらないだろう。何の義理もない関係のない人が、演奏を聴くために立ち止まってくれるか・・・

「そんなぁ・・・無理だわぁ・・・」

だとしたら、演奏会場の聴き手も同じだろう。礼儀正しく座って聴いてくれるだろうし、拍手もしてくれるだろうが・・・

「この演奏じゃ誰も聴きたい、聴いてよかったなんて思わないだろうなぁ・・・」そうだとしたら、なぜ人前で弾くのだろう?聴き手は我慢するもの?街中ライブだと許されない演奏だけど、内輪の会(?)なら許される?聴き手は同じように存在しているのだとしたら?

「弾けるかしら?」「失敗しないかしら?」「練習の成果が出ますように・・・」

そういった自分のことだけではなく、ちょっとだけ聴き手の存在を意識してみる。趣味だろうと何だろうと・・・

銀座の街で弾くと仮定してみる。誰か一人でも立ち止まって聴いてくれるだろうか?拍手をしてくれるだろうか?最後まで聴いてくれるだろうか?

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category: Anderson & Roe

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鏡の前のバーブラ練習 

 

バーバラは鏡の前に立つ。そこには現実ではない自分がいた。美しい自分、着飾った自分、そして鏡の前で演技をした。空想の世界。でもその世界では自分は女優、誰もが憧れる女優。スターの真似をした。自分でも悪くないと思う。

なぜ鏡に逃避するの?なぜ空想の世界に逃避するの?現実が辛かったからだ。父親の記憶はない。母は私のことを「器量が良くない」などという。美人ではない・・・ということ?そうかもね。義父は嫌いだ。近づかないで欲しい。高校を卒業したらこんな家は出ていくんだ。

友人の家に居候をしながら仕事を探した。クラブ歌手?いいかもね。歌っている間は私は女優。3分間の女優。皆は私のことを風変りで変わっているという。そうかもね。でも悪いこと?自分にしかできないことってあると思う。風変り?奇妙?でもそれは個性なのでは?私の長所でしょ?

バーブラ・ストライサンドの誕生だ。本名のバーバラ、Barbaraの「a」を抜いた。「Barbra」バーブラ・・・こんな名前の人はいない。世界でただ一人。それが私・・・

鏡の前のバーバラはバーブラとなり、まずは風変りなクラブ歌手として話題となり、アルバムも大評判。いきなりグラミー賞を新人として獲得。やがてブロードウェイへ。念願の女優となった。ミュージカル女優。ハリウッドから呼ばれ、いきなりアカデミー賞を獲得。本当に女優になった。

鏡の前のバーバラになってみる。そこで演技をするわけではない。ある意味では演技・・・かもしれないが。バーブラの歌を歌ってみよう。英語などどうでもいいのだ。抑揚と濃淡を大切にバーブラのように歌ってみよう。そしてピアノで自分が練習している曲をバーブラのように弾いてみよう。誰も聴いているわけではないのだ。かつてバーバラがしたように、ピアノの前でなりきってみるのだ。抑揚と濃淡・・・最高場面での、ためいきのようなフェイント・・・抜き・・・ずらし・・・すべてバーブラのように再現してみよう。

「私はピアノのバーブラ・ストライサンド!」

なりきれただろうか?そうしたらベートーヴェンの「悲愴」を弾いてみよう。第2楽章。楽譜はそんなに黒くはないよね?別に誰が聴いているわけでも、ダメ出しをするわけでもないのだ。

どんな「悲愴」になっただろうか?このような「悲愴」になっただろうか?「とりあえず音にしてみました~」とか「ただ弾いています」のような「悲愴」ではなく、もしかしたらシュナーベルのような「悲愴」になっただろうか?シュナーベルのようにではなくてもいい。とにかく「刻んでいま~す」とか「一応音を並べていま~す」ではない、新しい「悲愴」になっただろうか?

ストライサンド効果?鏡の前のバーバラ?

僕は告白してしまうと、この「バーブラ練習」をしている。

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category: ピアノ雑感

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抑揚と濃淡 

 

どうしても本番近くになると、細部を正確にミスなく・・・ということばかりを重点的に練習してしまう。むろん雑な演奏は人を惹きつけはしないから、練習そのものは必要だと思う。でも「正しい瞬間に正しい鍵盤をスコンと打つ」ということを目指すことが練習になっていないだろうか?

こうなった場合、単位として細かすぎる演奏になってしまう恐れがある。小さな、その場の正確さだけが関心事になってしまうと、聴き手との距離感が出てきてしまう。聴き手は音楽を、もっと大きな単位で聴いているからだ。その場の一生懸命さを積み重ねたような演奏を、聴き手は「抑揚がない」とか「ただ弾いているだけ」のように感じる。

一生懸命に練習しているわけだ。隙間時間を見つけてね。なのに努力すればするほど「下手に聴こえる」という方向に知らず知らずに進んでいるのだとしたら、これは哀しいし空しい。

その場だけをミスなく・・・というスタンスで曲を弾いてしまうと、大きな流れに欠けてしまう。「いいな・・・」と感じさせる要素みたいなものを、もうちょっとだけ自覚してもいいのかもしれない。何が「いいな・・・」と思わせるのか、聴き手は何を聴きたいのか?

自然なテンポ感覚?抑揚というか?音楽の流れは頂点、山に向かって進んでいくようなところがある。「アチェレランドなんて書いてませんけど~?」そうなのだが、書いていなくてもそうなるべき決まり事?その場の正確さではなく、抑揚を感じてみては?どこに向かっているの、収まるところはどこ、抑揚の最高潮の箇所は?そこにどう向かっていくか・・・のような?抑揚って海原の波・・・みたいなもの?寄せては返す・・・

あとは音の濃淡。強弱とは似ているけど、ちょっと違うかもしれない。微妙に薄くその音に入ったり、膨らませたい箇所でどうするか・・・とか?ピアノは打鍵後は音は単音では膨らまないけれど、ではどうするのか・・・とか?

抑揚と濃淡を上手く駆使して、大きな流れと細部の入念なニュアンスで曲を弾いてみる。ミスタッチがどうたら・・・ではなく。

抑揚と濃淡に欠ける演奏にはもう一つの特色がある、それは「印刷された楽譜を再現しているのですね~?」という印象を与えてしまうということ。「フォルテと書いてあるから、そのように弾いていますっ」のような?楽譜にフォルテと印刷されてあったら、「フォルテで弾く」ではなく、「フォルテの効果、山場という効果を感じさせなさい」ということだったら?つまり聴き手のテンションを奪うような効果であれば、ピアニシモがフォルテの効果である場合だってあるのでは?バーブラの歌唱にはそのような箇所が多いように思う。「普通だったら声を張るよね」というところで薄くする。ごく自然に。そこで「えっ?」とテンションを奪われてしまう・・・

ちょっと大胆な(?)発想をしてみようと思う。ポップスとかジャズとか、つまりクラシック以外の卓越した偉大な歌手と、クラシックのピアニストとの共通点を探ってみるというもの。抑揚と濃淡を中心にね。まずはシュナーベルのベートーヴェンとバーブラの歌唱との共通点。というか、素晴らしい演奏、歌唱に共通している「何か」、抑揚と濃淡・・・

「まっ、シュナーベルとポップス歌手とを比べるなんて!」と僕は当然感じないが、そう感じる人もいるのだろうか?少なくとも共通点などない・・・と?

ミシェル・ルグランの歌(歌曲と呼びたい)とバーブラは相性がいいようだ。バーブラはミシェル・ルグランとアルバムを制作しているし、初監督作品である映画「イエントル」も彼が音楽を担当しているし・・・

この魅惑的な曲は、実は長い間お蔵入りになっていた曲だ。ミシェル・ルグランと製作していたアルバムに収録されていたものだが、なぜかアルバムは発売されなかった。でもいい曲だよね。曲もだが、バーブラの歌唱が素晴らしい。

濃淡と抑揚?ずらしと抜きの効果?大きな流れと細かなニュアンスとの共存?これって偉大なピアニストも持っている特色なのでは?

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category: ピアノ雑感

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色艶 3 

 

トニー・ベネット 89歳、ウィリー・ネルソン 83歳、この二人に比べればニール・セダカは現在77歳(!)なので「若いじゃな~い」と感じたりもするが、77歳かぁ・・・

この人も昔より今の方が素敵だなと思う。少年のような曲を書くし、少年のような歌声だ。

たしか、ニール・セダカはジュリアード音楽院のピアノ科出身ではなかったか?

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category: Neil Sedaka

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色艶 2 

 

最近魅力を感じている歌手、ウィリー・ネルソン。この人の熟年・・・というか、70歳以降の歌唱に惹かれる。70歳って高齢者なのか?なんという色艶だろう・・・

キャリアが長いと「何か」が出てくるのか?それとも「何か」があるから長いキャリアなのか?

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category: The Singers

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色艶 1 

 

バーブラが74歳ということに驚く。外見も若いが声が若い。このくらいの年齢になると、内面が外面に浮き出てくるのか?そういう意味では40歳だってそうだが・・・

トニー・ベネットは現在89歳なのだそうだ。この人の声も若いと思うし、色艶がある。ちょっとしたニュアンスのずらしというか、「抜き」みたいなものもバーブラ同様に絶妙な感じだ。

僕にとっては、トニー・ベネットといえばこの曲。不思議なのだが、何故か切なさを感じる歌唱だ。他の歌手ではそう感じないのに・・・

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category: The Singers

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デュエット 

 

昔からバーブラ・ストライサンドは好きだった。歌手としても女優としても。歌手として、その際立った特色としては、不用意さが微塵もないということかと個人的には感じる。すべての音に念が入っているというか、計算されたコントロールがある。それはフレーズのシェイプということでもそうだし、一つの音、発声し、その音が終わるまでの音単位でもそう。薄く繊細に入る。そして音を切る瞬間にも薄く繊細に着地する。次の音までに休符があっても、次の音は、前の音の着地のニュアンスも考えて入ったりしている。このことによって、長いメロディーの計算されたラインが発生する。表現として「伸びやか」という印象になる。不用意なアタック音が皆無というか?なんだか稚拙な言葉を並べているようだ。演奏の特色を文字で表現するのは僕にとっては非常に難しいものと感じる。

この特色は、彼女が初めて歌を録音した時から備わっている。13歳の時の録音。むろん、バーブラは正規の音楽教育とは無縁の人だから、これは天性のもの、そして幼い頃に彼女が憧れていた歌手たちから聴いて盗んだというか、自然に身についたということだとも思う。おそらく、聴いて、その歌唱なり演奏を成り立たせている要素のようなものを感じる能力があった。そしてそれを具現化する能力もあった。

「パートナーズ」というバーブラが男性歌手とデュエットしたアルバムを聴いて、ソロよりも、むしろ他の歌手とのデュエットにおいて、バーブラの特色が極まって聴こえてくるのを発見した。バーブラの声や歌い方と相性の合う歌声というものがある。個人的にはスティービー・ワンダーやプレスリーとの相性がいいように思った。むろん、バーブラとデュエットをするくらいの歌手なので、下手な歌手は一人もいないのだが、どうしてもバーブラと比較してしまうと、歌い方があっけらかん・・・と感じてしまう歌手もいるような気がしてくる。

マイケル・ブーブレ、この歌手は「パートナーズ」でバーブラとデュエットしていた歌手の一人だ。幼い頃、祖父の歌うスタンダードを聴いて育ったらしい。おそらくマイケルにとってはバーブラは憧れのような存在というか、雲の上の人だったのだと思う。非常に下積みの長かった人だ。たしか、売れなくて10年くらい漁師をしながら歌っていたんじゃないかな?デイヴィット・フォスターに認められてメジャーになった人で、若いながら正統的な実力派という印象がある。デイヴィット・フォスターを通じてバーブラと知り合ったのではないだろうか?

マイケル・ブーブレとバーブラ・ストライサンドのデュエット。僕は、どうしてもバーブラばかり聴いてしまう。このデュエットに関しては、バーブラの歌声の印象しか残らない。これは僕がバーブラファンでブーブレファンではないということだけが理由ではないと思う。何かしらの理由があるのだ。ある要素、歌唱を際立たせるような、ある要素のようなものが存在していて、それがバーブラの方が意識的にアピールできている印象がある。むろん、ブーブレも上手いのだ。聴けば分かると思うけど。でもブーブレは「上手い」がバーブラは「素晴らしい」と感じる。ここにはある要素というか、明確な「何か」(言葉としては矛盾しているかもしれないが)が存在している。

聴く・・・これは誰でもできることだ。でも聴いて、その歌唱なり演奏が素晴らしく聴こえる理由までも聴きとるということは、もしかしたら誰にでもできることではないのかもしれない。

① 二人とも同じように上手だなぁ・・・と思う。
② バーブラの方がいいかな・・・とは感じる。
③ バーブラの歌唱の特色を明確に感じることができる。
④ バーブラの歌唱を際立たせている要素を自分のピアノに当てはめるという発想が可能。
⑤ 具現化しようと練習してみる。それが練習だという認識を持っている。

聴く→弾くという間に④とか⑤があればいいのかもしれない。普通は聴くって①と②だけで終わってしまう?聴くことと自分が演奏、練習するということと、どこか分離してしまう人は②か、せいぜい③で終わってしまって、その先の発想がないのかもしれない。もしかしたら③は能力なのか?聴くことは誰にでもできるけれど・・・

バーブラは現在、たしか74歳。この動画は2年前の動画だ。

72歳かぁ・・・

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category: Barbra Streisand

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耳ではなく感性で聴くということ 

 

友人のルカは色覚異常。モノクロの世界しか見えないということではないが、ある色しか識別できないのだそうだ。日常生活においては、不都合なく暮らしていけるらしい。ただ、地図が見にくいとか、信号機の色が判別できなかったりするらしい。信号などは位置で覚えてしまうらしい。

このことを知った時、無意識に彼を傷つけてしまったこともあったのでは・・・と思った。多分、あったと思う。「わあ。なんて綺麗な景色なんだろう!」この時、ルカは傷ついたのでは?

「そんなこと気にしないよ」

ルカはファッション関係の仕事をしている。色覚異常ということで、何か不都合はないのだろうか?

「ゴッホも色覚異常だったとされているんだよ、見える、見えないではなく、どれだけ感じとれるか・・・なんだよ」

このルカの反応、気にしないよ的な反応には驚くが、それは色覚異常の人の割合って思ったよりも多いという事実も関係しているのではないかと思う。自分から「色覚異常なんです」なんて言う人も少ないだろうし、言う必要もないので、知られていないだけなのだと思う。圧倒的に男性が多い。日本人男性の場合は、割合として20人に1人、欧米人の場合は10人に1人が色覚異常。女性は日本人の場合は200人に1人・・・という割合。

割と最近のことなのかもしれないが、特殊なメガネ(サングラスみたいな)を着用すると、色覚異常の人も、すべての色が識別できるようになったらしい。「初めての色彩」的な動画も沢山ある。ルカも持っているのだそうだが、結構高価なものらしい。

ちょっと調べてみると、ルカのように「別に不都合なく暮らしてきました」という人も意外と多い。でも、そのことで辛い思いをしてきた人もいる。昔、たしか色覚検査なるものがあったと記憶している。石原検査と呼ばれるもので、色の丸の中に、異なる色で数字が書いてあるというもの。色覚異常の場合は、その数字が判読できないらしい。

「このクラスでは○君と○君が色覚異常です」とクラス担任からクラスメイトの前で言われ、傷ついたりとか、母親が泣きながら「そんなふうに生んでしまってごめんね」と泣きながら謝った辛い記憶とか、そのような経験を持つ人もいる。

ルカによると、虹は七色ではなく二色。真っ赤に紅葉した景色も緑色にしか見えない・・・

特殊なメガネを装着して世界を見た時、ルカは非常に感激したそうだ。「世界ってこんなだったんだ・・・こんなに色彩に溢れていたんだ」と。ミラノの街中で座り込んで泣いてしまったらしい。しかしながら、ルカは「どれだけ見える・・・ではないんだ。感じとれるか・・・」つまり想像力と感性で色彩を補うことの重要性を大事にしていると言う。その感性が今の自分の仕事を支えていると・・・

ルカは「ヴェルサーチ」という店で働いている。僕でも知っている有名店だ。デザイナーとかファッション誌の編集者とか、意外と色覚異常の人もいるらしい。欧米人男性の場合、1割は色覚異常なので、それも不思議ではない。おそらく画家やカメラマンなどの職業、「見る」ということが最も必要な職業の人にも多いのではないか?

単純に見える、見えないということではないということだ。色彩に関しては、色覚異常の人は、ある種の制限を受ける。だからこそ、感性で補い、その感性が磨かれていくのではないか?

僕が「素敵な風景だね」と言いながらも、写真と同じだね的に感じていた風景を、ルカは感性で見ていたのだと思う。ルカが初めてミラノの街の色彩をメガネ装着で感じた時の感動は、僕は味わうことができない。

感性で補う・・・

これは音に関しても同じなのではないかと。つまり聞える・・・ではなく聴こえる・・・ということ。感性で補えば、感性を働かせれば、感性を磨けば「あら、いい曲ね」とか「上手ね」だけではなく、そう感じさせている、ある要素のようなものも聴こえてくるのではないか・・・

聴き手のテンションを奪うような、ある種の「何か」みたいなものを、感性で聴きとれた時、それはこの動画の色覚異常の兄弟のような反応があるのではないかと僕は想像する。

音を聞く・・・ではないんだ。感性で音を聴くんだ。

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category: 未分類

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孤高のピアノ再開者 

 

イギリスのピアニスト、ジェームス・ローズの自伝「Instrumental」を読んでいる。このピアニストは、このブログにも何度か登場しているし、その半生も物凄いものだったと認識はしていたが、自伝を読む限り、物凄いというか、壮絶なまでの半生だったのだと知る。

本格的にピアニストへの修業を始めたのは14歳の時だという。割と遅めだと思う。ロンドンにあるらしいギルドホール音楽演劇学校という学校に入学する。そのまま順調な人生であれば、この人は音大(音楽院)卒のピアニスト・・・となったのであろうが、そうはならなかった。精神的な問題を抱え、それが表面化し、学校の奨学金を打ち切られてしまう。むろん、金銭的なことだけではなかっただろうが、ピアノはその時に挫折しているのだ。

後にロンドンの大学で心理学を専攻している。つまり、ピアノに関しては音大卒の専門家ではない・・・ということになる。もし、演奏と学歴というものが密接に関わっているのだとしたら、この人はどのような位置づけになるのだろう?

ピアノを挫折した人?何度もピアノの世界に戻ろうとしている。でも何度も挫折している。このジェームス・ローズはピアノ再開者なのだろうか?

自伝を読んで最も衝撃だったのは、6歳から10歳まで、4年以上もある男性から性的な虐待を受けていたことだ。年齢を考えると、レイプがローズ少年に与えた影響は大きかったと想像できる、というか、胸が痛む。おそらく、ローズ少年は自分を責めたのではないだろうか?

「僕がいけなかったから、あんなことがあったんだ・・・僕が悪いんだ・・・」

自傷行為を繰り返し、自殺未遂を繰り返す。精神科の病院に入退院を繰り返す。

なんとも切々と何かを訴えているような演奏にも聴こえてくる。自伝を読む限り、このピアニストは現在も悩み、苦しんでいる。精神的に病んでしまった時、離婚を経験し、現在でも自分の息子には一切面会できないのだという。そのことが彼を苦しめている。レイプを自分の責任と思ってしまったように、息子に会えないのは自分の責任であると・・・

でも常に音楽があったのだろう。それは遠くなったり近くなったりしたが、決してジェームスを裏切ることはなかった。

「かつて薬漬けになり、内側から崩壊していくのを感じた。でも音楽は薬の何倍も自分を癒してくれる」そうジェームスは言う。

あるカナダ人がジェームスの演奏に感銘した。そしてもう一度ピアニストを目指すよう後押しした。そのカナダ人は「なんだ、音大の中退者だろ?」などとは思わなかった。普通に聴いてくれたのだ。

ジェームス・ローズ・・・彼はピアノ挫折者なのだろうか?ピアノ再開者なのだろうか?音大を卒業していないのだから、ピアノに関しては素人さんなのだろうか?

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category: Saudade

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自意識と曲との関わりあい 

 

本番での出来栄え、この場合は他者の評価や感想というよりは、自分での評価。「ああ・・・やっちゃったぁ・・・」「初心者みたいで恥ずかしい」「なんでいつもミスしてしまうんだろう?」大概は厳しいものになるのでは?「フフ・・・私って天才なのかしら?」なんて本番直後に思える人は、そうはいないだろうと思う。

自分に厳しいのは麗しい感じだが、自分が聴き手の立場になった時、他人の出来栄えとか腕前とか、そのあたりが最大の関心事だろうか?「この人はどれくらいのレベルなのかしら?」とか「ミスを数えてやろう」とか、そんなふうに聴いている人も、そうはいないだろうと思う。

自意識は必要だが「自意識過剰」になってしまうのはどんなものだろう?過剰に「~と思われる」と感じてしまう。「今日の装い、変だったかしら?若作りとか思われないかしら?」実際には人は他人の服装なんかあまり気にしていないものだ。「私って~と思われてるのかしら?」実際には他人は、あなたのことなんか、あまり気にしていない。皆、そんなにヒマ人ではないしね。

同じように、弾いている本人ほど他人(聴き手)はミスだのレベルだの上級者だの初級者だのと気にしていないものでは?

何を聴いているのだろう?聴き手は何を望んでいるのだろう?聴き手は存在している。プロの演奏家だろうと、アマチュアの小さな練習会だろうと。聴き手にプロもアマチュアもないのでは?いいな・・・と感じる要素は同じなのでは?

僕の場合は、演奏者と曲との関わりあいを感じると、その人の演奏を「いいな」と感じるみたいだ。到達度とかミスがどうたらとか、弾いている曲が難曲とか、そんなことではなく。多くの人がそうなのではないかと想像する。

「なんでその曲を弾いているのだろう?」それがよく伝わってこない演奏はちょっと残念だ。なぜにその曲をその人が弾いているかという「関わりあい」を感じたい。スッキリと感じたい。「ああ、だからその曲を今弾いているのですね?」「ああ、本当に好きなんですね?」「ああ、そこのところを伝えたかったのですね?」みたいな?

ミスとか表面上の出来栄えと「関わりあい」は残念ながら比例しないような?つまりミスのない演奏が聴き手のテンションを奪うというものでもないのでは?

この人よりも達者で流麗なプロのギタリストは世界には大勢いるのかもしれない。この人が演奏している曲よりも難易度の高い曲は沢山あるに違いない。でも僕はこの演奏に、演奏者と曲との関わりあいを感じる。

「ああ、だからこの曲を演奏しているのですね?」という・・・

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category: ピアノ雑感

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ピアノ・・・楽しいですか? 

 

通信簿なるものが懐かしい。学力の1~5の部分ではなく、人柄というか生活面というか?「協調性を養いましょう」これは教師からよく書かれた。この場合、人柄の評価って、ある平均値からどれだけ離れているかという観点でなされているような気もする。「そうか、人に合わせていくのが自分は苦手なのね、そこが欠点なのね?」そうだろうか?

協調性には欠けるかもしれないけれど、我が道を行く・・・的なところでは、非常に粘り強いかもしれない。「協調性というものよりも、自分は自分一人で何かを追う粘り強さがある。それを大切にしたい」これって、欠点というよりは長所では?

「自分のピアノは何が足りないと思いますか?」「どこを直せば平均値を越えられますか?」

もしかして、日頃の練習やレッスン、さらに本番までの過程や本番当日において、自分の欠点ばかりを見つめてしまって、「直さなければ」とか「欠点が目立ちませんように」的な方向になっていないだろうか?長所は?

長所はあるはずだ。それは「この曲が弾きたい」と思った時、そのように、あなたに思わせた演奏なり、曲なりの魅力を、あなたは感じたのだ。それは長所では?「何も感じないし~」「初級者と思われたくないから弾いている曲だし~」ということではないはずだ。

他の人はアッサリと通過してしまうかもしれない、ある魅力を、あなたは感知したのだ。「ああ・・・素敵」と感じたのは、他の人ではなく、あなた自身。その感性は長所であり、あなたの演奏の長所となる可能性がある。

平均値をすべて越えようとか・・・ちょっとやめてみたらいいのかも?「~が足りない」むろんそこは埋めていきたいが、「私って~が足りない才能ない人」と思ってしまったら、自分に対しても弾いている曲に対しても誠意がないように感じる。

協調性には欠けるマイペース人間かもしれないが、芯があり「ぶれない」長所を持っているかも?欠点を見つめるだけではなく、長所を伸ばしてみたら?

平均値の演奏って、以外と人の心は動かさないかも?ピアノ演奏は通信簿とは違うから。

「わあ・・・なんて楽しそうな曲なのかしら?」曲との出逢いでそのように感じたのだったら、それは長所。思い切り楽しく弾けばいいじゃないか?

楽しそうな曲・・・と感じた感性は長所。平均値ではなく、自分の感性を追っていけたら楽しいと思う。

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category: ピアノ雑感

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Tribute To Orlando 

 

フロリダ、オーランドでの銃乱射事件・・・

世界各地で追悼の集会とか、個人レベルでメッセージを表明したり、むろんレディ・ガガやエルトン・ジョンのような超有名人だけではなく、一般の人々も含めて、多くの愛のメッセージがオーランドに向けて発信されている。

個人レベルだけではなく、たとえばパリではエッフェル塔をレインボーのライティングにしたりとか、各都市でもそのような動きがある。

僕は知らなかったのだが、アメリカ(だけではないと思うが)の各都市には、「ゲイ・メンズ・コーラス」が存在しているらしい。本格的に演奏会などもするようだ。「僕・・・ゲイです」とメンバーは周囲に知られてしまうというか、顔出しをしてしまうわけで、そのあたりは日本と随分違うんだなと感じる。

犠牲者の多くがLGBTの人だったこと、襲撃されたクラブは「パルス」といって、GBLTの人たちが集まるクラブだったこともあり、各都市の「ゲイ・メンズ・コーラス」はメッセージ的なパフォーマンスを繰り広げているようだ。

これはニューヨークのゲイ・メンズ・コーラスの、なんとタイムズスクエアでのパフォーマンス。非常に力強いパフォーマンスであると思う。このパフォーマンスに限らず、共通しているテーマがあるように思う。それは「憎しみは愛に決して勝つことはできない」というテーマ、そしてメッセージ・・・

日本は色々な意味で遠いのだと思う。

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情念 

 

バーブラ・ストライサンドのように強調が上手いなと感じる歌手にセルゲイ・レメシェフがいる。この人も「ずらし」と発音の際の「念」が凄いように思う。ただサラッと「楽譜がこうだからぁ・・・」みたいな無意識の部分がない。この人の場合は、「念」というよりも「情念」と言ったらいいだろうか?

感情の動きに酔う、これはアマチュアの特権と言われたりする。たしかに自分で泣きながら弾く(そんな人がいればだが・・・)なんていうのはそうだと思うが、感情の動きがあるからこそ、音楽をやる、演奏するという行為を選ぶのでは・・・とも思う。

感情の動きに酔う=甘さ   冷静で客観的=プロ

あまりこのように分類するのもなぁ・・・と思う。

音が強くなったり弱くなったり、速くなったり遅くなったり、つまり音楽というものに魅せられ、酔ってしまった人も演奏家なのではないかなぁ?音楽って空気を動かし、それによって人の心も動かしてしまうものではないかなぁ?

演奏者自身にそのようなものがないなんて、あまり信じたくはない。

レメシェフは靴職人になるはずだった。裕福とは決していえない寒村の農家出身だったから。でも歌手の道を選んだ。反対されてもね。その源には音楽への憧れとか、心の動きがあったのだと僕は想像する。音の動きが人間の感情を揺らすということに魅せられてしまったのではないかと思う。

肺が虚脱して機能しなくなっても歌っていたのはレメシェフぐらいではないだろうか?医師に「歌手はもう無理でしょう」と宣告されても、発声法を変え(可能なのか?そんなこと・・・)歌い続けた人だ。

なんとなくレメシェフは、音楽から受けた感情を動きを、今度は自らがその現象を追い続けることに喜びを見出した人なのではないだろうか?演奏家なんてそんなものでは?アマチュアだってそうじゃない?

「ピアノ・・・○年ぶりに、○十年ぶりに弾いてみようかしら?レッスンに通ってみようかしら?」その場合、自分が音楽から受けた心の動きがあったのではないだろうか?「別にピアノじゃなくてもフラワーアレンジメントでも料理教室でもよかったんだけどね」なんていう人はそういるとは思えない。皆、情念を持っているのでは?

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強調・・・ずらしと念 

 

メロディーを切々と歌う・・・ピアノだと、これがなかなか(非常に?)難しい。ヴォカリーズの場合、左手は和音を刻んでいたりして、メロディーまで刻んでしまいそう。この曲に限らず、右手がメロディーの曲って、左手は刻んでいることが多いので悩ましいところではある。

人を魅了する、そこまでではなくても、「あっ、この人の演奏いいかも・・・」ぐらいの印象を残すには、ある鉄則があるように思う。それは聴き手の想像を超えること。有名な曲であれば、特にそうだと思うのだが、聴き手は先の流れを脳内で歌っているところがある。どんなに練習の成果としてはバッチリでも、聴き手の想像と全く同じでは「あっ・・・いいかも?」とさえ思ってくれない。「そうですね、いい曲ではありますね」みたいな感じ?あるいは「よく弾きこんでいらっしゃいますね?」みたいな感じ?

聴き手の想像を超える・・・一つには聴き手予想とのタイミングをずらすというテクニック。これは聴き手としての長年の経験から思うに、一流の演奏家は必ずやっているように思う。安易に真似ると、「どうしたのかしら?停滞している?」としか聴き手は感じてくれない。まさに0.001秒ほどの絶妙なるずらし・・・

ずらすことによって、フレーズの波の山のようなものが強調される。また、ずらしだけではなく、発音の際の絶妙なるコントロールが必ずある。安易に鍵盤をポンと叩いたりとか、声をパッと出したりしない。考え抜かれた「念」や「意識」を伴っている独特の音、それは、あたかもその場で思いついたような自然さがあるのだが、計算されている・・・

この「ずらし」と「念」とのブレンドによる「強調」、これが上手い人は、ピアノが上手いとか、歌が上手いとされるのでは?

発音と、タイミングの絶妙なるブレンド(?)によって、類まれな、その人だけの「強調」が生まれる。

この「強調」が絶妙だな・・・と僕が感じる歌手、まずはバーブラ・ストライサンド。「ポピュラー音楽の歌手じゃない?クラシックとは違うでしょ?」僕はそうは思わない。そう思うのは、僕だけではないようで、けっこうクラシックの音楽家もバーブラの「強調」の素晴らしさを讃えている。

「彼女は強調の絶妙なる使い手なのです。人が思いもよらない些細な箇所でそれをやる。考え抜いた結果に違いないのに、聴き手にそうは感じさせず、その場で思いついたような自然さがある」

これはグレン・グールドがバーブラ・ストライサンドの歌唱について語った言葉だ。

そう、この微妙な感じを出せればいいのにな・・・と思う。音程なども「ハイ、正確に3度の音程です!」というのではなく、微妙に下から入ったり、発音の瞬間もクリアな機械みたいな感じではなく、薄く入ったりとか・・・

この歌唱、聴き手の先予想を完全に超えていませんか?

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波動 

 

音楽って波動のようなものがあるのではないか?科学的にどうこうということは詳しくはないのだが、ある種の演奏には、波動が存在していて、それが聴き手に浸透していく。このやり取りがパフォーマンスの醍醐味なのではないかと・・・

聴き手も波動を発している。それが演奏者に再浸透し、さらに演奏者から波動を発していく・・・

とてもよく弾けているけれど、そして一生懸命頑張っているし、練習の成果も感じるけれど、何も感じない・・・という演奏、この場合は波動を発していないのでは?むろん、聴き手の主観的な好みの違いなどによって、同じ波動でも受け取り方は異なったりするだろうが、そもそもの波がない。演奏者の意識として、鍵盤だけ、自分の脳指令、次はこうして、あそこはこうしないように・・・みたいなことばかりに熱心だと、波動は生まれない。外に発信しない。自分の中で循環しているだけというか・・・

まずは演奏する側が音楽から波動を受けているだろうか?

お母さん、歌が上手ですね。でもシンプルな歌だ。

波動が生まれている。それが赤ちゃんに浸透している。

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Love Without Limits 

 

フロリダの銃乱射事件に絡んで、いろいろとネット徘徊していて、あるブログを見つけた。タイトルなどは書かないが、ある日本人男性のブログ。この人はサンフランシスコ在住で、アメリカ人男性とカップルとして長年暮らしている。アメリカでは同性婚は合法だが、この人たちは結婚はしていないようだ。先の銃乱射事件においてもそう感じたのだが、僕と問題点の指摘というか、捉え方が、どこか似ているように思った。

なんとなく、アメリカの保守の人って、とても頑なとか、宗教というものが絡んで、さらに人種とか思想のようなものも複雑に絡んでいるとか、感じるところが似ている。その人のブログで日本においての同性婚についてのアンケートについて綴ってあった。

日本の場合、宗教的拘束感のようなものはLGBTの問題において、あまり絡んでこないように思う。その点ではアメリカよりはシンプルな気もするが、でも日本の場合、同性婚と少子化というものとを絡めるケースが非常に多いように感じる。そこには多数派の考えなるものが根底にあるものと僕は思う。結婚とは男と女がするもの、結婚したら子孫繁栄に励むのが普通、それができないのは可哀そうな人・・・

そもそも同性婚と少子化、何が関係あるのか、その部分で僕は理解に苦しむ。異性愛者は同性に性的な魅力を感じない。つまりセックスをしたいとは思わない。これは同性愛者だって同じだろう。同性婚は違法?じゃあ、異性とセックスして子どもを沢山作りましょう・・・とはならないと思う。制度がどうであろうと。なぜに同性婚が認められると少子化になるのかが理解できない。

同性婚が認められたら、今まで世間体のために我慢して異性と結婚し、子どもを作っていたような人たちが、合法になると、「ああ・・・よかった」と堂々と同性と性交する?なので少子化が進む?ちょっと違うのではないかなぁ・・・

なんとなく「子どもを作るのが一人前の人間」みたいなものを感じ、とても窮屈だ。

日本でのアンケートの結果

同性婚に反対・・・31.6%
孤児を育てるなどの義務つきなら、まあ賛成・・・10.5%
同性婚賛成・・・36.3%
その他・・・

という感じ?意外にも賛成派は多いんだね?でも特色としては反対派は少子化を訴えているということ。アメリカのように、「神の御意思になんらかこうたら・・・」というよりは、子どもを生むとか育てるというものを絶対視している価値観・・・

ただアメリカのように表立った事件みたいな恐ろしげなものは日本にはないのかもしれないが、反対派の意見を読んだりすると、日本の場合も相当に恐ろしげであるという印象を受けてしまう。このような考えの人が31.6%も存在しているのか?

同性婚には断固反対。少子化を招く。なんでも自由というのは違うと思う。同性婚なんて明らかに異常。(女性:東京)

子どもを授かることができないんだから結婚なんかしなくてもいいのでは?生涯恋人でいいじゃない?同性婚を望む真意がわからない。(40代 女性:青森)

断固反対!少子化を招く。変態は排除すべき。(40代 男性:大阪)

孤児などを育てないといけない義務をつければいいんじゃない?所詮変態どもには無理だろうけれど。確実に不幸な子どもが増えるよな。

同性愛者は精神障害者なのだから、病院隔離が基本だろう。(40代:男性)

なんとなく思うのだが、日本人は「人と異なる」ということに対して、異常にこだわるし、そのような人たちにとても冷たいと思う。日本で肩身が狭いというか、心の中で苦しんでいるだろうと想像する人たち、LGBTの人、HIV感染者、専業主夫の人・・・このような人たちって多数派に対して完全に少数派だから、傷つくことも多いのだろうと想像する。考えてみれば、多数派のある意味での傲慢な思い込みで苦しんでいる人って多そう。子どものできない夫婦とか、癌患者とか・・・

「ねぇ、聞いた?あの人って~なんですって」「まぁ、いやねぇ・・・」ヒソヒソヒソヒソ・・・これって心に対しての銃撃なのではないだろうか?

日本の大企業もイメージアップが目的だとしても、ティファニーのようなCMを流してくれれば、「何か特別な人」というものから「あら?もしかして普通?個性の違い?」と感じる人も増えてくるかもしれない。子どもの頃からそのような社会常識が今よりも少しでもできれば、日本の未来も異なってくるかもしれない。

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「人生は過ぎ行く」 

 

来月17日に札幌のポルトホールというところで演奏します。「愛の夢チャリティーコンサート」という演奏会で、リンクしてある「愛の夢のつづき」というブログに詳しく情報が記載されています。

とは言っても、告知はともかく、聴きに来てくれる人をお誘いするのは東京在住の僕にとっては難しい。東京での演奏会だって難しいのだから、まぁ、当然だろう。一人だけ僕の演奏をまた聴きたいという人がいて、東京からわざわざ札幌まで来てくれるそうだ。有難いことだ。

友人に帯広出身の人がいて、その人が帯広や札幌在住の知人に告知はしてくれている。問題点は、その人たちが僕のことを知らないということ、また、「演奏する人たちって上手いの?」という質問に、告知してくれる彼も答えられないということだ。「さぁ・・・」

最も困難な点は、やはり「クラシック?う~ん、ちょっと勘弁して欲しいな」という反応が多いらしいということ。皆さん、そんなにクラシック音楽が苦手なのか???

今回だけではなく、なんとなく感じるのが、音楽そのものが苦手ということではなく、実際に聴いても楽しくなかったという経験を持つ人が多いらしいということ。

「弾いている人を見ていると(聴いていると?)こっちもなんだか辛くなる。大変そうなんだもん・・・」このような意見が実に多い。これはクラシック音楽そのものではなく、演奏している側の責任が大きいのではないかと思われる。演奏する側としては、そりゃあ長い間練習を積むわけだし、舞台経験だって豊富というわけではないし、自分の本番での出来栄えだけが関心事にもなってしまうだろう。

「弾けました・・・」「一応無難に・・・」「全然ダメでした・・・」「崩壊してしまい落ち込んでいます・・・」

こうなるのも当然のような気もするが、これって全部自分のことだよね?聴いていた人は?どう感じてもらえたかという視点は?

「そんなことはプロの人が考えること。アマチュアがそんなこと考えるなんて傲慢・・・」でも・・・聴いていた人は?アマチュアだろうが、プロだろうが、さらに腕前のようなものがどうだろうが、演奏者がいて聴き手がいて、空間と音があって、そこに何らかの関わり合いが生じる・・・という構図は同じなのでは?人生の一コマをその瞬間にあてる・・・という意味でも。

もう10年以上昔のことになるが、知人に誘われて(強引に?)あるシャンソンの夕べ・・・なるものを聴いた(聴かされた?)ことがある。先生なのだろうか、中心になって歌う人がいて、その先生のお弟子さんたちなのだろうか、彼らも数曲歌うというものだった。ホールではなくライブハウス的なところでのパフォーマンスだった。こちらも身を固くして「聴かせて頂きますっ」的な聴き方を強要される雰囲気は薄かったというのもあろう。トークも満載だったしね。

客観的に判断すれば、先生的存在の人はともかく、お弟子さんたちのシャンソンは出来栄え、腕前としては「?マーク」のつく歌唱もあったと思う。我々アマチュアのピアノの会とそのあたりは同じだ。そもそもシャンソンというフランス語という言語と密接な関係にあるものを日本語で歌ってしまうなんて・・・という反応もこちらにはあったりして・・・

でも正直なところ、とても楽しめたのだ。ピアノの会と異なるところは何だろう?それはパフォーマーが入魂していたというか、顔の表情や演技的なるものまでを含めて歌っていたことだ。ややもすると、そういった要素は「まずは歌えるようになってから」とクラシックのアマチュア世界ではなりがちなのではないかと思う。でも彼らの舞台は、それらの要素が「聴き手に対してやらなければならない最低限のこと」というものになっているのを感じさせた。涙を誘うような歌詞内容の曲を歌っているのに、直立不動で硬直したような仏頂面で歌っては決してならない・・・のような?

ピアノ、クラシック音楽の場合、特にアマチュアの場合は、「自分都合」の部分を惜しげもなく披露してしまうことにあまり躊躇するところがなかったりする。「一生懸命演奏しているので」「沢山練習してきたのです。失敗が怖いのです」みたいな?その部分を舞台上で、あるいは演奏後記などで披露してしまうことに抵抗がないというか、それがアマチュアらしい・・・みたいな?

「クラシックなんです。演奏って大変なんです。本番って大変なんです」そして「まだまだでしたぁ・・・」ということを強調するのは、少なくとも聴いてくれた人に対しては謙虚さの表れというよりは、「傲慢」の現れなのかもしれない。クラシックだからそれでいい・・・みたいな?

「まだまだなんですぅ・・・」的なことを表明してしまうのは謙虚さなのだろうが、もしかしたらそれで通ってしまうというのは、聴き手に対しては傲慢さの表れだったりして・・・

さて、日本語シャンソンなるものを想い出したところで、ある歌手のことを連想した。越路吹雪・・・

恥ずかしながら、僕は彼女の歌唱を聴いたことがなかった。叔母が越路吹雪のファンだった記憶がある。「こーちゃ~ん!!!」みたいな感じだったかな?でも生意気盛りの少年だった僕は、そんな叔母を斜めに見ていたように思う。「日本語のシャンソン?そもそも越路吹雪ってフランス語話せるの?そりゃあ、洋楽創成期の日本では偉大だったかもしれない。でも冷静に聴いたりしたら、聴けたものではないのかも?」そう、叔母の音楽感性に対して、どこか俗っぽいという偏見を持っていたのだ。

ああ・・・なんという思い違いだったのだろう?なんと傲慢だったのだろう?

聴き手の存在を忘れるのは謙虚さの表れ?

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category: 昭和歌謡「公園の手品師」の日記

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ロシア体験 3 

 

やはり今でも現在活躍中のスター演奏家よりは、ずっと昔の往年系の演奏家を好む。おそらく出逢いが往年系の演奏家ばかりだったからだろう。あの頃の人間の生身の感じ?咽び泣くような音楽が好き。

ミッシャ・エルマンのこの演奏を聴いた時、やはり8歳の時だったと思うのだが、ハイフェッツもフランチェスカッティも知っていたと思う。クライスラー自身の演奏はどうだっただろう?聴いていたのだろうか?記憶は曖昧だ。

「偉大なるカルーソー、偉大なるエルマン・・・」医大生はそう言いながらレコード盤をターンテーブルに乗せた。それは記憶にあり、鮮明な部分だ。おそらく、カルーソーとエルマンとのアンサンブル、そんな演奏を聴かせてくれたのだと思う。カルーソ―の歌声にエルマンの弦が絡まる・・・そんな贅沢な演奏だった。

その後に、エルマンのソロとカルーソーのソロの演奏を聴かせてくれたのだと思う。

切ない・・・という感情を初めて自覚したのがこのエルマンの演奏を聴いた時だったのでは?あと音楽とは全く関係のないことを感じたりした。「昔の演奏家って、皆、瞳がキレイだな・・・」と。

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ロシア体験 2 

 

ロシア音楽に限らずニコライ・ゲッダの歌声は子どもだった僕を圧倒した。リリカルで叙情的な声の質なんだよね。最初に聴いたテノールが大砲のようなテノールでなくて本当によかった・・・と自分では思っている。

この曲を初めて聴いた頃、僕の知っていたチャイコフスキーの曲は、ピアノ協奏曲第1番、「悲愴」、「白鳥の湖」「くるみ割り人形」ぐらいだっただろうか?8歳の少年としては、そんなものだろうとも思う。

声を消していくようなところの叙情性というのだろうか?あまりにも繊細で切ないほどの声・・・それが初めてゲッダを聴いた時の印象だ。

ローザ・ポンセルもニコライ・ゲッダもロシア人ではない・・・国籍と音楽表現は関係ないのかな・・・そんなことを意識したのもゲッダのこの演奏を聴いた時だったと記憶している。

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ロシア体験 1 

 

ロシア音楽との出逢い、他の人はどのような出逢い方をしているのか少し興味がある。ピアノの教材として出逢うのだろうか?「ピアノコスモス」という教材があったと記憶している。この楽譜にはロシアの曲が沢山掲載されていたような?実際に子どもの頃弾いたわけではないけれど。やはりピアノのレッスンで初めてロシアの曲に触れる人が多い?バイエルやソナチネを経過して、チャイコフスキーの「四季」とか?

音楽愛好家の人は、やはりチャイコフスキーの「悲愴」あたりが初ロシア・・・となるのだろうか?

僕の場合は、やはり声楽の曲でロシア音楽と出逢った。続いてヴァイオリンの曲が多かったかな?どこかオリエンタルな、民族的な曲と、純モスクワ風というか、正統ロシアみたいな曲、どことなく感傷的な?両方好きだったような気がする。

記憶が曖昧なところもあるのだが、この曲は8歳の時に知ったのだと思う。曲の印象も強かったのだが、歌手の印象がより強かった。

「マリア・カラス以前の時代にアメリカで活躍していた歌手なんだ。ローザ・ポンセルといってね・・・」僕に多くの演奏、音楽を紹介してくれた医大生はそう言った。今思えば、8歳の子どもにローザ・ポンセルの歌唱を聴かせようとする医大生の感性に感謝しなければならないだろう。

なんとなく、その頃に聴いた演奏の影響を今も受けている気がする。今まで、僕の音楽体験(鑑賞者としての)など、ごくごく普通の体験だと思っていたが、そうでもないのかもしれない。貴重な体験だったのかもしれない。

なぜだか分からないが、その頃に聴いたロシア音楽をまた聴いてみたくなった。

曲名は書かないので、「この曲いいな・・・」と感じたら調べてみてくれたら嬉しい。有名曲も多いと思うけれど・・・

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category: 月の輝く夜に

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無関心 

 

フロリダでの銃乱射事件から4日が経過した。日本のテレビニュースなどでは放送すらされなくなった印象だが、アメリカでは市民レベルで今回の事件は深い傷跡を残しているようだ。アメリカ人の友人が、ここ数日の流れをメールで教えてくれた。僕も今回の痛ましい事件をネットで調べるという時間もなかったので、知らないことばかりだった。

アメリカと日本とでの温度差みたいなもの?それはあって当然かもしれない。日本は銃社会ではないし、銃など暴力団の人が所有しているもの・・・みたいな印象さえある。テロに関しても実感はあまりない。犠牲になった人たち、狙われた人たちがLGBTの人たちということに関しても、どうも日本の報道、さらには一般市民の認識もあまり動いていないというか、無関心というか?遠い異国、それも危険な国の特殊な事件?自分たちには関係のないこと?そうなのかもしれないが・・・

友人のメールで、ゲイやバイセクシュアルの人たちは法律で輸血ができないことを知った。怪我をしたパートナーに輸血ができない?ゲイというだけで?正確には「過去に男性と性交歴のある男性」が輸血を禁止されている。この法律はなんと1985年に成立した法律だ。当時のことを考えれば分からないでもない。でも30年前の法律が今も変わっていないというのは驚きだ。

「我々の国は誰でも自由に銃を購入しクラブで乱射することができる。でもゲイの人たちは輸血さえすることが禁止されている」このことを嘆く、そして感じた憤りを表明する人が続出しているらしい。異性愛者へ輸血の協力をLGBTの団体などが拡散し、各都市では輸血者の行列ができているらしい。

容疑者、オマール・マティーンの父親はこう語ったのだという。この言葉を知り、僕は深い憤りと哀しみを覚える。「息子がクラブの客たちを殺したのは間違いだ。同性愛者は神が罰するものだからだ」

さらにカリフォルニア州、サクラメントのロジャー・ヒメネスという神父は信じられないような発言をした。今、アメリカではこの発言に対して非難の声が集中しているという。

「同性愛者は撃たれても仕方のないことをしてきたのだ。嘆き悲しむ必要などない。容疑者も中途半端なことをしたものだ。全員殺してしまえばよかったのに。この度の事件で容疑者は同性愛者たちを少し減らしてくれたおかげで、フロリダも安全な街になった。軍隊は同性愛者を一人残らず集め、壁に立たせて脳みそをぶっ放せばいい」

神父・・・なんだよねぇ・・・

CNNのアンカー、この人はCNNの人気アンカー(キャスター)なので、海外のニュースを見る人は顔を知っている人もいるかもしれない。アンダーソン・クーパーという人。彼自身はゲイであることをカミングアウトしている。この人がCNNの報道の中で、今回の事件の犠牲者の名前を読み上げている。名前だけではなく、一言の紹介を添えて・・・

「○○さん、○歳。両親へのカミングアウトに悩む数年だった。パートナーの協力もあり、両親はゲイであることを受け入れてくれた。」「○○さん、○歳。自分は殺されると悟った時、彼は母親に携帯から電話している。母さん・・・愛しているよ・・・と」

アンダーソン・クーパーの、嗚咽を堪えながらの報道に少しだけ救われる気もする。

アメリカって超保守の人も多い印象がある。宗教も絡んでいたりして、非常にLGBTの問題なども複雑のような気がする。神父がとんでもないことを発言してしまうぐらいだから。賛同してしまう人も多いのかもしれない。日本の場合は、今回の事件の反応(報道)と、LGBTに関しての問題は、どこか一致しているような印象さえ持つ。それは無関心・・・

「彼らの名前を聞いてもらうことが大事だと思った」  アンダーソン・クーパー




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切なさと幸福との共存 

 

切なさ、哀しみと光、喜び、愛、幸福との共存・・・相反する感情のようだけれど、日常生活における何気ない瞬間、あるいは少しだけ意識すれば、現在練習している曲の中にも見出すことはできるのではないかと思う。

今練習している曲、その曲を「課題」としてだけ捉えてしまうなんて、本番でどれだけ「実行」できるかだけに翻弄してしまうなんて、ちょっと哀しい気がする。

死そのものは甘美なものだと僕は予想している。そこに至るまでの過程で辛さを感じるのだと思う。死を意識した時に、それまでの自分の生き方を本当の意味で見つめることになるから・・・

「人から~と思われる」と生きてきた人は、この時に本当に後悔するんじゃないかな?ああ、もっと~しておけばよかった・・・と。できる時には気づかないんだよね・・・

切なさと幸福との共存・・・

これはスイスのテレビコマーシャル。フォトアルバムのコマーシャルなので、スイスの「コクヨ」みたいな会社なのだろうか?夫は認知症なのだろうね?でもアルバムを見て記憶の糸が一瞬つながるのだね?

切なさと幸福との共存・・・

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エロティックなヴォカリーズ 

 

ラフマニノフの「ヴォカリーズ」、個人的に好きな演奏はダニール・シャフランの演奏。彼の演奏を聴くと、8歳の時に戻る感じさえしてくる。

8歳の時に、様々なクラシック音楽の偉大な演奏と出逢ったわけだが、その時にテノールのニコライ・ゲッダの歌唱に惹かれた。声の素晴らしさも、むろんあったと思うが、いわゆる「抜き」というか「ずらし」というか、そのあたりが非常にエロティックだと(8歳だが)感じたのだ。フレーズの頂点、普通だったらフォルテで表現するところ、そして聴き手も無意識にそうなるであろうと期待しているところで、あえてピアニシモにしたりする。その絶大なる効果・・・

音量だけではなく、0.001秒ほどの時間軸のずらしも感じられて、思わず聴き惚れてしまった。そこには絶妙なるコントロール、計算があるはずなのだが、あたかも今生まれたばかりのような、その場で思いついたような呼吸のようなものも感じられた。「強調」が上手いのだと思う。基本的に僕は幼い頃から、そのような「強調の担い手」みたいな人の演奏に惹かれる傾向がある。バーブラ・ストライサンドとか、ちあきなおみとか・・・

シャフランの演奏にも、それを感じる。フレーズの閉じ方が非常にエロティックだ。ここに憧れる。

もう一つ惹かれる要因は、哀しさ、切なさと、幸福感というのだろうか、相反するような感情が共存しているような曲、メロディーであり、そして演奏であるということ。

たしかに切なく、胸が張り裂けそうなのだが、そこには導かれるような、光溢れるような、静かな幸福感に満ち溢れている。おそらく、人間の死の瞬間も同じような感覚なのではないかと思う。

8歳の時に憧れた世界、もう40年以上も経過し、我慢(?)してきた世界だ。来月、トライしてみてもいいのではないだろうか?なぜ40年以上も我慢してきたのか?それは「プロだけが可能な世界」とか「アマチュアがそんなことを願うなんておこがましい」とか、そんな思いかな?解放してみたらどうなるだろうか?

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心への起爆剤 

 

一ヶ月後に札幌のポルトホールという所で演奏する。一か月前というのは、色々な意味で微妙な時期ではある。まだまだ演奏以外のことを楽しみにしている、どこか余裕のある自分もいる。何を食べようか・・・とか。札幌というか北海道って、僕にとっては未知の土地なので。同時に、シビアに「練習できる時間」を実際に換算したりして、倒れそうに不安になったりもする。

むろん、「舞台上で~になったらどうしよう?」という誰でもが感じる不安ぐらいは僕にだってある。そして、練習を不安解消のツールにはしたくないとも思う。でもそれが難しいのだ。

一ヶ月前って、目的と手段をはき違える時期でもあり、それを修正するべき時期でもあるのかもしれない。

「なんで人前で演奏しようと思ったの?」「その曲で何をしたいの?」そもそもの「弾こう!」と感じた動機を見つめ直すというか、かつて感じた自分の心の動きを再度感じてみるというか・・・

「先生から指定された曲だし、自分としては心躍らない曲だし・・・」「初心者と思われたらイヤだからこの曲を選んだのでぇ・・・」という人も中には存在するのかもしれないが、自分としては、ある種の憧れというか、自分の心の動きがあったからこそ、その曲を弾いている・・・のだと思いたい。

心の動きを再認識してみる、つまり自分の心の動きに起爆剤を与える、これは一ヶ月前に行うべき重要なものであると思う。あと一ヶ月「~しなきゃ」「~になったらどうしよう」「~のようになったら悲惨だからそうならないように」ばかりではなく、「~できたらいいな」とか「~のような心の動きがあった、それを本番でも・・・」みたいなものに意識的に変換していく。指だけではなく、心の練習?起爆剤というか、心の「ユンケル」みたいな?

なぜピアノを弾いているのだろう?そもそもの目的なんて言語化できるようなものではない。だから心の中で再認識する。

アメリカに住むダリアスさん、なんとリッチな人なんだろうと思う。ここまで自然豊かな環境の中で暮らしているなんて。僕自身は田舎暮らし(?)そのものには憧れはないが、リッチだな・・・と思う。

ある時、鹿の親子を見る。一匹は脚が悪そうだ。母鹿や兄弟についていけない。そして取り残されてしまう。これは自然の掟なのだろう。強くなければ野生動物として生きていけない。ダリアスさんも最初は迷った。野生の動物に手を出してはいけないと思っていたから。でも脚の悪い子鹿は自力で生き抜いていけるだろうか?このあたりは野生動物が他にも沢山生きている。

「保護しよう・・・」ダリアスさんは、日頃の自分のポリシーを変えて、この子鹿を保護した。餌を与え、足には簡易ではあるが、装具も作った。ペットたちも、最初は戸惑いを見せたが、やがて子鹿を受け入れていく。なによりも、子鹿がダリアスさんに懐いていく。

子鹿は元気になっていく。ダリアスさんと、他のペットたち、そして子鹿との間に絆が結ばれていく・・・

「でもこの子鹿が生きていく場所はここではない。本来いるべき世界、自然に帰してあげなければ・・・」

ダリアスさんは、野生の母鹿を探す。鹿の群れを探す。「さあ、行きなさい・・・お前の仲間だよ、あそこで生きていくんだよ?それがお前の本当の幸せだよ。さあ・・・行きなさい!」

ダリウスさんの、なんとも切ない表情・・・

子鹿は野生の鹿にではなく、ダリウスさんについてきてしまう。何度もトライする。そして子鹿を野生の世界に帰すことに成功する。

数ヶ月後、ダリウスさんは野生に帰った子鹿を発見する。「生きていたんだ・・・よかった」鹿の群れの中で逞しく生きている子鹿・・・

もう子鹿ではなかった。立派に成長していた・・・

この15分程のダリウスさんの動画を観ると、僕の心は大きく動く。この部分は「演奏したい」という部分と非常に似ているし、重なっている部分でもある。

一ヶ月前・・・「どうしよう?」「~しなきゃ」だけではなく、心に起爆剤を与える・・・

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あるオーディションにて 

 

「音を外すような人間に音楽をする価値はない」「完璧に演奏するのが先。それまでは歌い上げるのは、おこがましい」「音楽的に演奏するなんてキレイごと。やはり間違えるのはダメ」

バジル・クリッツァ―という人のブログによると、このような呪縛に捉われている人が多いのではないかと。それでいいのだろうかとバジルさんは疑問を投げかけている。

ミスのない演奏というものは、想像力が働き、創造的に練習し、音楽的に演奏できている時なのでは?ミスを恐れて、身体も手も硬直し、音楽も硬直してしまったら、つまり下手になってしまうのだったら、それは「怠慢」なのでは・・・と。

僕は「怠慢なのでは・・・」とまでは思わないけれど、「う~ん、残念だな」とは思う。一生懸命練習して、本番でその成果を出せないなんて、とても残念。

日頃の練習の積み重ねの成果を出すのが本番?つまり練習→本番という思考。むろん、練習しないと弾けないわけだから、そうなるのだと思うのだが、はたしてそうだろうか?

逆なのかも?本番→練習という思考もありなのでは?一般的なパターンとしては、「今度の発表会の曲ね。頑張ってね。少し難しい曲よ」とか「オーディションの課題曲よ」みたいに、「この曲に託すものがあるのだ」とか「最終的に本番で自分はこのような世界を表現したいのだ」という、そもそもの、その曲を弾くという動機のようなものが少しぐらい希薄でも、普段の練習をしてしまえる状況はないだろうか?どこかピアノのレッスンのカリキュラムからして、課題をこなして先生に丸をもらって教材を進めていく的なところが、特に子どもの頃は多く、「私が表現したいもの」というよりは、自分にとっての課題克服が習い性になってしまうというか・・・それが「ピアノを習う」的なことになってしまうというか・・・

練習の成果を本番で出す・・・というよりは、本番で○○したいから、だから今この練習をしている・・・みたいなものも必要なのでは?

練習成果到達度モードそのままで本番を迎えてしまうと、どこか「しなきゃ」「しなきゃ」とか「~みたいになりませんように」みたいな心理状態になってしまうし、聴き手にもそれが伝わる。聴き手は演奏者の出来栄え到達度を聴きたいわけではない。「何かしら・・・」を聴きたい。少なくとも、退屈したいわけではない。演奏者は必死、聴き手はどこか退屈・・・という構図は決して珍しいものでもないのかもしれない。

練習の成果を・・・ではなく、逆発想で「本番で~したい」だからこのような練習をする・・・という発想も必要なのかもしれない。

演奏者が最初に目指すもの、本番で表現したいという「何かしら」的なもの、非常に曖昧模糊としている。でも、だからこそ演奏という言葉では表現できないものを目指すのでは?

あるオーディション番組。このクリストファーさんという人は極度のアガリ症なのだそうだ。まぁ、見れば分かるけれど。歌うことは大好きで、できれば、そして、いつかは大勢の人の前で歌ってみたいと思っていた。自分の中に燃えたぎるまでの「何かしら」を表出し、分かち合いたいと・・・

「そんな才能あるの?」「やめときなさいよ。恥かくだけよ」「あなたには無理なんじゃない?」

ただ一人だけクリストファーさんを心理的に後押しし、励ましてくれた人がいた。クリストファーさんの祖母。祖父が亡くなってから、クリストファーさんは祖母と暮らしているみたいだ。

「あなたにはできるわよ・・・」

応募するまでに5年かかった。

「何かしら」を感じる。上手いとか、下手とか、成功したとかミスしたとか、そうではなく「何かしら」を感じる。それが聴き手に伝わっていて、波のようにエネルギーがやり取りされている。

練習の出来栄えや成果を発表する・・・ではなく、本番でやりたいことがあるから、日常の練習がある・・・

kaz




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フロリダでのヘイトクライム 

 

12日、フロリダ州オーランドで銃乱射事件があった。日本でも大きく報道された。オーランドでは二日前にも歌手のクリスティーナ・グリミーさんが銃で射殺された痛ましい事件があったばかりだ。乱射事件の容疑者、オマール・スティーンは射殺されたのだが、どうもイスラム過激思想に洗脳されていたらしい。イスラム国への忠誠を誓った後、オーランドのナイトクラブでテロ行為を行った。

日本のニュースで知ったのは以上のこと。①アメリカ最悪の銃乱射事件・・・またも銃による痛ましい事件。②またもISに関係する恐ろしいテロ事件・・・ということ。

むろん、日本のニュースでも報道されていたと思うが、この事件にはもう一つの側面があるように思う。それはヘイトクライムという側面。いくつかの日本のニュースでは乱射事件のあった場所を、ただの「ナイトクラブ」と報道していた。事実だけれど、このナイトクラブはゲイの人たちの集まるクラブだ。オマール・スティーンは、ゲイのカップルが街中でキスをしているのを目撃し憤慨していたと父親は証言している。そのようなことから、無差別のテロではあるが、容疑者のターゲットとしてはゲイの人たちであった可能性がある。そうなると、今回の事件は銃によるテロ、さらにヘイトクライム、つまり憎悪犯罪ということになる。

この部分が日本の報道ではあまり強調されていないような?あまり今回の事件に対して、哀しみや憤りの声を聞かないような?パリやベルギーでのテロ事件の時は、あれほど聞かれたのに・・・

銃社会とか、テロとか、日本は平和なので、あまり危機感を感じない。もし今、僕が東京ではなく、ニューヨークに暮らしているとしたら、危機感は今のそれとは大きく異なるだろうと仮定する。日本で暮らしていると、どこか遠い国の、特殊事情が背景にある事件・・・なのかもしれない。でも多数派が少数派を排除しようとするという面においては、決して遠くの出来事とも思えない。

僕は初めて多数派というものの圧力を感じたのは、子供の頃。僕と姉は鍵っ子だった。母親は専業主婦でも兼業主婦でもなく働いていた。看護師だった。「まぁ、子どもたちが不憫ね。母親として心が痛まないの?子どもたちの教育にもいいとは思えない」物凄く強大な圧力を子供なりに感じた。その圧力は父親にではなく、すべて母親に向けられていた。そのことに対して、おかしい・・・と思ったし、世間での多数派の、何気ない、何気ないからこその、圧迫感を感じたものだ。

姉は母のそんな生き様を見ながら育った。そして姉も看護師になった。そして姉もまた世間、多数派の圧力を受けることになった。「まぁ、仕事も大切かもしれないけど、子どもはどうなるの?可哀そうじゃない?子どもが小さなうちは母親が家にいるのは当たり前のことよ?」そして多数派の声は、すべて義兄ではなく、姉に向けられた。「よほどご主人は理解あるのね?」そして姉の子ども、僕にとっては姪になるが、彼女もまた看護師になった。

多数派の常識が少数派を虐げるのだ。悪意はなくてもね。100%の理解なんてお互いに無理だろう。「同性婚?理解できないわ」それでもいいと思う。その人の考えだから。でも同性同士のカップルだって結婚という制度に守られて、異性愛のカップルが受けている当然の権利を自分たちも受けたいと考えるだけだ。その時に迫害しないで欲しいと思う。理解はいらない、でも排除しようとしたり、多数派の圧力をかけないで・・・と思う。普通に暮らしたい・・・それだけの望みなのだ。それが難しいのだから。

今回のフロリダ、オーランドの事件は銃社会の問題点をまたもや、あからさまにしたし、テロ行為の恐ろしさを認識させられた。そしてヘイトクライムでもある。僕はそのように思っている。50人の、ゲイという少数派の人たちが銃で射殺された。53人の人が怪我をした・・・そこには少数派への憎悪が根底にあった。

「母親は子どもが小さい時には一緒にいるべき」・・・父親じゃだめですか?

この人たちの生き方は完全に少数派のものだろう。「理解しなきゃ・・・」いや、理解しなくてもいい。でもこの人たちを攻撃してはだめだ。絶対に・・・

kaz




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ロシア人が黒人霊歌? 

 

アフリカ系アメリカ人演奏家の活躍を考えてみた時、クラシックの分野よりも、ジャズとかゴスペルのような音楽での活躍がより目立つような気がする。その理由を考えてみると、いろいろと興味深いこともあるだろうと思うが、ここでは「黒人霊歌」について考えてみたい。黒人霊歌でもクラシック歌手がコンサート、あるいはアンコールで歌う黒人霊歌。

どのような歌手を連想するだろう?僕はアフリカ系アメリカ人歌手しか思いつかない。東洋系や白人の歌手も歌っているとは思うのだが、思いつかない。レオンタイン・プライス、マーティナ・アーロヨ、ジェシー・ノーマン、キャスリーン・バトル、バーバラ・ヘンドリックス、我が家にあるクラシック歌手による黒人霊歌のCD。全員がアフリカ系アメリカ人。これは偶然ではないような気がする。

やはり、歌手にとって黒人霊歌はシューベルトやフォーレの歌曲を歌うのとは、なにか異なるのだろう。言語の問題だけでもないような気がする。特種な音楽?どこか本場の感性というものが関係してくる?本場というか、人種としての誇りとかルーツとか?

「時には母のない子のように」黒人霊歌では有名な曲だろうと思う。メロディーもハーモニーもどこか哀しげだ。でも歌詞が凄い。

時々、母のいない子どもになったような気がする
故郷からも遠く離れて・・・
時々、もう自分は長くは生きてはいられない気がする
天国に昇っていくんだ・・・

1800年代、黒人奴隷の平均寿命は30歳そこそこであったとされる。彼らは自分たちの誇りと哀しみを歌で伝承していったのだ。霊歌なのでキリスト教との関係を深く教会で歌われることが多かったが、労働歌として歌われたことも多かったらしい。

やはり、この世界はアフリカ系アメリカ人にしか入り込めない世界なのだろうか?

バーバラ・ヘンドリックスは自分のルーツでもある黒人霊歌についてこう語っている。

「黒人霊歌には苦しみと希望が力強く歌われています。祖国から引き離され、奴隷として虐げられ、不当な、非人間的な扱いを受けてきた暮らしの中から生まれたものです。人権を侵害されてきた人々の歌なのです」

バーバラ・ヘンドリックスは僕の知る限り2枚の黒人霊歌のCDを録音している。1枚目はピアノとの共演、2枚目はモーゼズ・ホーガンとの共演で、一枚目よりも本格的というか、宗教色が強いというか、ゴスペル色が強いものとなっている。個人的には一枚目のピアノ伴奏の方が好きだ。こちらは、クラシックの歌手のレパートリー・・・といった趣がある。そして何よりも、ピアノが素晴らしいのだ。黒人霊歌独特のキレとかリズム感とか、地の底に沈みこんでいってしまうような孤独感とか、素晴らしいピアノだ。

むろん、ヘンドリックスの歌唱も素晴らしいのだろう。もうアフリカ系アメリカ人でなければ表現できなかった世界だろうと思う。別の言い方をすれば、特殊なサウンド、世界を表出している。

やはり本場の音、黒人霊歌だものね・・・アフリカ系アメリカ人にしか表現できないよね・・・

正直なところ、僕はヘンドリックスのソプラノよりも、ピアノのサウンドに聴き惚れてしまう。むろん、ヘンドリックスも素晴らしい。でもピアノがより凄い・・・

弾いているのはどこの国の人だろう?やはりアフリカ系アメリカ人ピアニスト?

実はピアニストはロシア人なのだ。ドミトリー・アレクセーエフ。録音されたのは、たしか1980年代の初め頃だったと記憶している。まだまだ冷戦時代、鉄のソ連健在の頃だった。なぜにアレクセーエフが黒人霊歌を???アレクセーエフというと、やはりラフマニノフの演奏を連想するが、こちらはロシア人だしぃ・・・とスッキリと理解できる。でも黒人霊歌?

ヘンドリックスとアレクセーエフは、かつて共演したことがあるのだそうだ。コンサートの打ち上げか何かで、ヘンドリックスが黒人霊歌とかポップスをサラリと歌った。そしてその歌声にアレクセーエフが即興で伴奏をつけた。「なんと自由自在で素晴らしいピアノなの?正式に何かレコードを二人で作りましょうよ?」二人の黒人霊歌のレコード誕生はこうした経緯があったようだ。

伴奏譜つきの黒人霊歌の楽譜も存在する。でも多くの楽譜は歌のパートしか書かれていない。ピアノ譜はあっても、平凡というか凡庸というか、シンプルなバージョンばかりだ。おそらく、アレクセーエフは何かしらの楽譜を参考にしているのかもしれないが、ほぼ即興というか、自分でアレンジして弾いているのではないかと思う。たしかヘンドリックスが驚嘆していたのもその部分だったと記憶している。

ロシア人だろうが、人種がどうであろうが、プロのピアニストなんだから、音大(モスクワ音楽院)を卒業しているのだがら、そんなことは当たり前・・・なのかもしれないが、これは本場の音というものを考えた時には、非常に興味深いサウンドなのではないかと思う。

この演奏を聴く限り、本場の演奏なんて存在しないようにも感じる。

これは「鋤を握り続けろ」という曲。

鋤を握り続けろ
マリア様は金の鎖を持っていた
輪の一つ一つにイエスの名がある

鋤を握り続けろ 絶対に離しちゃだめだ
天国に行きたいんだろう?教えてやるよ
鋤を握り続けるんだ

福音の鋤を手に持っているだけでいい
真っ直ぐに約束の地へ連れて行ってくれる
鋤を握り続けろ

ピアノ・・・素晴らしくないですか?

kaz




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ノヴゴロドのライ麦、ノヴゴロドの白樺 

 

ラフマニノフはロシアのノヴゴロドという場所で生まれた。幼少期を過ごしたのはノヴゴロド州のオネグという街(村?)のようだ。グーグルマップでノヴゴロドの小さな街々を散策してみる。この地域の原風景はラフマニノフに何らかの影響を与えていたのだと想像する。現在でも、このあたりの風景は幼なかったラフマニノフの見た風景と変わらないような気がする。

アメリカに渡ったラフマニノフは、作曲家としてよりも、むしろピアニストとしての活動が増えていたようだ。それは現在でも残っているラフマニノフ自身の演奏から理由は想像できる。現在、ラフマニノフが蘇り、当時の演奏をしたら、もう現在のピアニスト系図のようなもの、人気度、価値観など、すべてがひっくり返るのではないだろうか?それぐらいに素晴らしい。

たしかメトネルだったかな?ラフマニノフに訊いたんだよね。「なぜ、あなたはかつてのように作曲をメインにしないのですか?」と。おそらくピアニストとしての活動、そこに至るまでの準備(つまり練習)に多忙だったのだと想像できるが、ラフマニノフはメトネルの問いにこう答えている。

「もう何年もライ麦のささやきも、白樺のざわめきも聞いていないから・・・」

胸の張り裂けるような答えではある。むろん、アメリカ時代のラフマニノフも傑作を残しているが、明らかにロシアの、ノヴゴロドの原風景というものを心で欲していたように思う。

桜の花びらが舞い散る風景・・・僕はこの原風景は心に持っている。でもライ麦のささやきも、白樺のざわめきも心の原風景にはないものだ。写真などで確かめることはできるけれど・・・

この心の郷愁のようなもの、ラフマニノフの音楽から、どこかロシア的なるものを強烈に感じることがあるとすれば、この部分なのかもしれない。本場の人は心の原風景を持っているということで、そうでない人よりは有利ではあるかもしれない。

「さくら横ちょう」を歌うのだったら、心の原風景には桜が舞い散る・・・のようなものがあったほうがいいのかもしれない。でも千鳥ヶ淵や上野公園の桜を見れば、「さくら横ちょう」をより上手く歌えるとも思えない。中田喜直の出身地、つまり渋谷の街を散策すれば中田喜直の曲をより理解できるとも思えない。

このヴァイオリニストのことは全く知らなかった。この人はロシア人であると思うが、ラフマニノフの曲を実に素晴らしく演奏している。その演奏から、ライ麦のささやき、白樺のざわめきが聞えてくる・・・そのように主観では感じる。

どこか本場の音、ロシア人が醸し出せる何か・・・のようなものを感じる。

kaz




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