ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

ティファニーで・・・ 

 

ゲイのカップルが「僕たち婚約指輪が欲しいんです」と店を訪れて、店員が「はい?」などという反応を絶対にしない店、それがティファニー。ごく自然に「はい、かしこまりました」と・・・

ティファニーはゲイフレンドリーな企業として知られている。ゲイだけではなく、全体的に「反差別主義企業」というイメージが強い。婚約指輪の広告にゲイのカップルを登場させたことでティファニーは話題になった。この広告にはモデルではなく、ニューヨーク在住の実際のゲイのカップルを起用している、まぁ、モデルみたいな人たちなんだけれど・・・

日本でもこのゲイのカップル起用は話題になったと思うが、実はこの時、ティファニーは子連れカップルも起用している。シングルマザーを意識した起用だったみたいだ。

「そんなの企業の作戦でしょ?」と言われればそうだが・・・

日本の大企業がイメージアップのための戦略だとしても、ゲイのカップルを、ごく当たり前に登場させるCMを作っているだろうか?どうだろう?

ティファニーの広報担当のトップは女性なんだね。リンダ・バックリーという人。こう言っている。

「ティファニーの婚約指輪が、カップルたちが創る小説のプロローグになると願っています」

ティファニーが映像のCMを、やはりブルーノ・アヴェヨンに依頼している。人種、セクシャリティ、一切の垣根を感じさせない企業のイメージをアヴェヨン流に映像化している。

kaz




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BMWに乗りたい・・・ 

 

これはBMWのCM。車のCMらしからぬ高級感。ブルーノ・アヴェヨンはこのBMWの他にもトヨタや日産のCM(日本向けのCMではないが)も手掛けており、それらのCMも「ファミリーが行楽地に向かう」的なCMではなく、やはりアヴェヨン臭(?)がしっかり感じられるCMではある。

テレビで流れるCMの影響力というものは、意外と大きいもののような気がする。番組が中断してしまうので、視聴者は「またCMか・・・」などと思ってしまうわけだが、こちらの意思、選択、判断で観ているものではなく、ある意味、押し付けられる映像や音なわけで、このような種類のものって「刷り込み」のような効果(?)もあるのではないかと思ったりする。だからCMを企業は流すのだと思うが・・・

車のCMで、「ファミリーが行楽地に向かう」的一家団欒系のCMで気づくのが、運転しているのが大概「お父さん」であるということだ。子どもとお母さんは後部座席で笑顔を見せているだけ。逆だったら面白いな・・・と。お母さんが運転し、お父さんが後部座席という構図。あるいは、お母さんと子どもだけみたいな?わざわざ「母子家庭なんですぅ・・・」なんてセリフを言わせなくても、観る人によってはホッとするかもしれない。

台所洗剤とか家事代行などのCMにもっと男性を起用すればいいのに・・・

ヤマハ音楽教室のCMに男性教師と楽しそうに歌う子どもたち・・・やはり変かな?

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カルティエの時計が欲しい・・・ 

 

ブランドものにはあまり興味がない。あっても買えないというのが正直なところかもしれない。それぞれの企業の本店はパリであったり、ミラノであったり、ニューヨークであったりする。日本にも店舗があり、東京だと銀座という場所に鎮座していたりする。

高級感が尋常ではなく、お値段も高級だったりする。高級感漂うブランドもののCM、各有名ブランド企業がCMを依頼する人物がいる。ブルーノ・アヴェヨンというフランスのアーティスト。

この人のCMは、ブランドの高級感を前面に出しつつ、それぞれの商品の特質をもアピールしている。映像がとても美しい。時計のCMでは、シャネルとカルティエのものが凄かった。

これはカルティエのCM・・・

ピアノのメーカーもブルーノ・アヴェヨンにCMを依頼したら、高級器種を中心に売り上げが伸びるかもしれない。

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榊原郁恵とバーンスタイン 

 

榊原郁恵とレナード・バーンスタイン、この両者に接点はあるのだろうか?実はあった。ミュージカル「ピーター・パン」で接点があった。バーンスタインはミュージカル作品も残している。「ウェストサイド・ストーリー」「オン・ザ・タウン」「タヒチ島での騒動」など。ミュージカルなので、親しみやすさもあるのだが、どこかクラシカルというか、本格的な香りもする。「キャンディード」などは、もっぱらクラシックの歌手のレパートリーとなっている感さえある。

最も有名な「ウェストサイド・ストーリー」でさえ、音域や技術的困難さなどで、歌手にとっては困難さを伴うものであるらしい。気軽にマイクを手に「ミュージカルを歌いましょう」的には歌えない難渋さがある・・・

「ピーター・パン」というミュージカルもバーンスタインの作品だとは知らなかった。むろん、もともとはブロードウェイで上演されたミュージカルだ。日本での上演も長い歴史になるのではないだろうか?なんと今でも継続されているらしい。僕は日本バージョンを実際に観たことはないのだが、榊原郁恵が舞台で空中に舞う・・・というのは、その昔大いに話題になった記憶がある。1980年ぐらいだっただろうか?そうなると、もう30年以上のロングランということになる。榊原郁恵が今でもフライングをしているわけではないが・・・

ブロードウェイでの上演は1950年代だったらしい。その後もリバイバル上演されているが、やはりバーンスタインの曲は難しかったらしい。初演の際に、いくつかの場面、楽曲がカットされている。その後、指揮者のアレクサンダー・フライという人がバーンスタインのスコアを掘り起し、完全版として「ピーター・パン」が上演されたのは、なんと2006年、ロンドンでの上演であったという。割と最近のことなのだ。

カウンターテナーのニコラス・スパノという人が歌っている曲も、かつてカットされていた曲。「ドリーム・ウィズ・ミー」という曲だが、何と素晴らしい曲だろうと思う。カウンターテナーとかボーイソプラノの歌唱って、どこか天使の歌声的なピュアなところがあり、そこが魅力なのだろうが、個人的には物足りなさを感じるところでもある。ニコラス・スパノという人の歌唱は、人間的な豊潤さ、感情の高まりのようなものを感じる。そこが好き。

でも、「ドリーム・ウィズ・ミー」という曲、これはもう完全にバーンスタインの歌曲みたいだ。これでは歌えない歌手も多かったのではないだろうか?

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愛に違いはないから・・・ 

 

5日ほど前の5月23日に「無意識の偏見 1」という文章を書いた。その時の動画に、ある日本人のゲイのカップルが登場していた。一人は料理研究家の寺井さん、もう一人はカメラマンの中川さんというカップルだった。寺井さんの母親は息子がゲイであるということを受け入れたようだったが、中川さんの父親は息子のカミングアウトに困惑を隠しきれないようであった。

「今度同性婚をするんだ」「ああ・・・」「正式に相手をお父さんに紹介したいんだ」「いや、みたくない」「なんで・・・」「なんでも・・・」

いくつかの自治体が同性カップルに、パートナーシップ証明書を発行することになった。渋谷区の第一号のレズビアンのカップルは、メディアにも紹介され、ある意味有名になった。中川さんと寺井さんのカップルは世田谷区での第一号の同性カップルということになる。やはりメディアに紹介、つまり顔が知られると彼らは予想したのだろう。中川さんは父親にカミングアウトしていなかったので、おそらくテレビなどで自分がゲイであること、証明書を受け取る様子などを父親に知られたくはなかったのだろう。なのでその前に自分でカミングアウトをした・・・

カミングアウトをすることで、親を困惑させる、失望させる・・・そのことで悩まないLGBTの人なんていないのではないだろうか?カミングアウト後の中川さんの「こういうのって一方的ですよね・・・」という言葉が印象的だった。

日本では同性婚そのものが認められていないので、パートナーシップ証明書は法的な効力を持たないのかもしれないが、それでも一歩前進であるのには違いない。例えば、15年、20年、あるいはそれ以上連れ添った同性カップルでも、何かあった時の保障がないとか、相手が重篤な病で危ないなどの時、病院は同性のパートナーを家族として認めないので面会できないとか・・・人権侵害なのではないかとも感じる。ただのルームメイト、お友達としか認められないなんて・・・

非常に多い意見が「ゲイの人たちは、たしかに気の毒とは思う。でも権利を主張するなんて、どんなものかと思う。隠れて暮らしていればいいのに・・・」というもの。でもそれを差別だと感じる人たちも存在する。愛には性別や性癖など関係ないと感じる人も存在する。

結婚はできないけれど、結婚式はできる。周囲の人々、親しい人々に対して「人生のけじめ」は示すことができる。

中川さんのお父さん、結婚式に出席していますね・・・

愛に違いなどはないのだから・・・

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「愛される人」 

 

何枚かアーン歌曲のCDを聴いて、「サラサラと歌われる作曲家なのだな・・・」と感じた。サロン風歌曲、フランス物、そして芸術的深遠さというよりは、心地よさと甘美さを感じる・・・このあたりがサラサラ歌唱を生み出している要因なのかもしれない。

「アーンの歌唱法セミナー」とか「フランス歌曲講座」みたいなものは声楽の世界にもあるのだろうと思う。そのようなところで、このロッテ・レーマンの歌うアーン、「愛される人」はどのような評価をされるのだろう?

「アーンらしくない」「フランス歌曲らしくない」みたいなことになるのかな?サラサラ、フンフンと鼻に抜けるような感じだけがアーンなのだろうか?ベートーヴェンのピアノソナタを厳格に、ドイツ的にと当てはめてしまうみたいに?

ロッテ・レーマン、たしかにドイツ歌曲、ドイツオペラの大家というか、大御所というイメージのある往年の名歌手ではある。彼女のプッチーニのアリア、それはそれは素晴らしいものだと思うが、僕のCDでは、なんとドイツ語で歌っている。むろん、「ああ、イタリア語で歌ってくれていたら」とは僕でも思うが、でも歌唱そのものは、なんと偉大なるものだろうと思う。

個人的には、情感溢れる人間的なアーンだなと感じる。フランス的ではないのかもしれないが・・・

ある評論家は、ロッテ・レーマンのフランス歌曲を「珍品」扱いしていた。そうなのかもしれない。鍛えぬいた偉い人の耳にはそう聴こえるのかも・・・

でも素晴らしい・・・

ロッテ・レーマンのアーンを聴きながら、鑑賞者が団結したらどうなるのだろう・・・などと思ったりもした。

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「クロリスに」 

 

僕がアーンの歌曲を知ったのは、友人であったテノール歌手の練習につきあった時。その人は、もう亡くなってしまっているのだが、東北から上京し、苦学の末、東京芸術大学を卒業した人だ。むろん、国立の学校なので私立の音大よりは経済的には楽だったのかもしれないが、朝の4時からビル清掃のアルバイト、学校を終えてからもアルバイトをしながら勉強を続けていた。

「僕は声がないからね、アーンみたいな曲を歌って勝負するしかないんだ」芸大には大きな声の学生はいくらでもいたらしい。

「kazさん、ちょっと合わせてくれないかな?」彼のような苦学生の場合、伴奏合わせの度にピアニストに謝礼をしなければならないことが大変だったみたいだ。僕のようなアマチュアの「なんちゃってピアノ」で彼の役に立つのならと、何度か練習の合わせをしたことがある。

アーンの「クロリスに」という曲もその時に一緒に合わせた曲だ。ピアノのパートが非常に難しい。音が多いわけではないのだが、「ピッシュナですか?」みたいな弾きにくい音型があったりするのだ。歌はピアノ以上に難しかったみたいだ。

「ダメだ・・・こんな声を出しちゃダメだ」「全然曲にならないよ・・・」僕は初めて「できない」ということで人が泣くのをその時に見た。そして感じた。「アーンの曲って素敵なんだ。でも難しいんだ」と。

アーンの繊細さに苦労するのは友人だけではないようで、基本的に男性歌手でアーンを得意としている人は多くはない。むろん、ゲッダのような喉と感受性を持っていれば、それはそれは素晴らしい「アーンの世界」を男性でも声で具現化できるのだろうが、少しでも不純物が混ざると崩壊してしまうような世界なのだ。

この「クロリスに」を聴くと、どうしても友人のことを想い出してしまう。泣きながら練習していた彼を・・・

どこか蒸留水のような不純物が皆無のような声と表現が要求されるのではないだろうか?そうしないと陶酔のアーンの世界が崩壊してしまう・・・

カウンターテナーを聴くことはあまりないのだが、物凄く好きな歌手もいる。ここで歌っているフィリップ・ジャルスキーは、そこまで個人的には夢中になるような歌手ではないのだが、アーンの歌曲、特にこの「クロリスに」などは素晴らしいと思う。不純物ゼロの声で、官能的に、そして艶っぽく・・・アーンの世界の難しさなのかもしれない。

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デカダンス 

 

先の記事でアーンの「僕の詩に翼があったなら」を歌っていたのはスーザン・グラハムというメゾソプラノ。アーン歌曲を知りたければ、まずは彼女のCDを購入すればいいのではないだろうか?「僕の詩に翼があったなら」ただ一曲だけで生き残っているサロン作曲家という誤った過去の認識を覆すような歌唱ばかりで、おそらく彼女自身の「アーンの他の歌曲も聴いてもらいたい」という熱望を実現したものなのだろう。実に立派な出来栄えだ。

アーンの歌曲は、「僕の・・・」だけに限らず、往年の名歌手たちも好んで録音している。特にマギー・テイト、ロッテ・レーマン、そしてニコライ・ゲッダの吹きこんだアーンの歌曲は、スーザン・グラハムにはない、ある種の魅力を湛えているように個人的には思う。

退廃という要素を感じさせるまでの陶酔感だろうか?デカダンスの魅力というのだろうか?たしかにアーンの歌曲は大袈裟なものではない。軽いサロン的な音楽ではあるのだろう。ブラームスやシューマンの歌曲と比べたら、まぁ、芸術的には劣るのかもしれない。でも魅力的なのだ。歌唱の際に、少しでも「研究」とか「お勉強」というニュアンスを聴き手に感じさせてしまったら、アーンの歌曲の世界はすぐに崩壊してしまう・・・

あとは「道徳的」みたいな賛美があるとアーンではなくなってしまう・・・

官能的なまでに人生を肯定してしまうようなデカダンス・・・

アーン自身の歌唱とピアノ、つまり弾き語り?オッフェンバックの実に爽快な、そして実にデカダンスな歌曲を歌っている。アーンのピアノは実に上手だ。歌は何と言ったらいいのだろう?鍛えぬきましたという歌声ではないのかもしれないが、そこが実に魅力的なのだ。

恋人であったプルーストの「不幸な時にこそ、人は道徳的になる」という言葉を連想させるアーンの歌声だ。実にデカダンス・・・

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「失われた時を求めて」 

 

プルーストの「失われた時を求めて」・・・仏文学に詳しい人ではなくても名作だという認識はあるだろう。「このような作品は大人になってから触れるのは大変です」そう言われた。それは単純に時間的な意味でなのか、感受性というものを含んだ意味でだったのか、それは分からないなりに、「それもそうだな」と思い、高校生の時に読んだ。日本語は追えたけれど、内容はすっかり忘れている。多感な時期・・・と言えば聞こえはいいけれど、高校生の頃なんて人生で最もヒマな時期。ドストエフスキーなども沢山読んだ。こちらも内容はすっかり忘れている。「新鮮な気持ちで読めるじゃない?」などと言われ、そうかとも思うが、50歳にもなると、さすがに、もう読む気力がない。本が重い・・・

「ああ、大人になると読めないというのは本当だったんだ」と時間的な、あとは体力的な意味で痛感している。「まっ、まとまった時間のある時にでも、そのうちに・・・」と思ううちに、時間だけが経過していく・・・やはり文学というものは若い頃に触れておくべし。

プルーストとアーンは、ある時期恋人同士であったのだそうだ。これは知らなかった。年齢は三つ違いでアーンのほうが年下。恋人同士という関係を解消してからも、二人は親友という関係を生涯保っていたそうだ。「失われた時を求めて」の中にも、親密な関係にあった二人の実生活のエピソードが盛り込められているらしいし、プルーストがアーンに送った書簡集なども存在している。時代はベル・エポックの時代、パリ・・・二人の関係はどのように人々に映ったのだろう?例えば二人で何か月も旅行したりとか?当時のパリ、サロンは同性愛に対して寛容だったのか・・・

レイナルド・アーンは3歳の時にベネズエラからパリに渡っている。幼少の頃から音楽的才能を開花させ、パリ音楽院でサン=サーンス、マスネに師事している。特にマスネはアーンの才能に惚れ込み、生涯アーンを支え続けている。

アーンは非常に早熟で、彼の代表作である歌曲「僕の詩に翼があったなら」は、なんとアーンが13歳の時の作品だ。作曲だけではなく、自らがピアノを弾きながら自作を歌った。録音も残っているが、非常に素晴らしいピアノであり、レッジェーロなテノールだ。サロンの寵児であっただろうと想像する。

ベル・エポックのサロンを、そして空間と時間を支配していたアーンにプルーストは恋してしまったのではないだろうか?作家が音楽家に恋をした・・・

「僕の詩に翼があったなら」はアーンの代表作とされている。時が経過し、サロン音楽そのものが衰退し、アーンの名が忘れられていっても、この曲は多くの人を魅了し続けてきた。そのような意味では代表作だが、この一曲だけがアーンの魅力を発揮しているわけでもない。これからアーンの曲を紹介していけたらいいと思う。

とても13歳の少年の作とは思えない。

「美しい女たちのことは想像力のない男たちに任せておこう」  マルセル・プルースト




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ミシシッピとリリー・エルベ 

 

米国ミシシッピ州で「反LGBT法」のようなものが成立したらしい。ミシシッピ州だけではなく、南部の州のいくつかでも同じような動きがあるみたいだ。ミシシッピの場合は、この法案に知事が拒否権を行使しなかったみたいなので、成立してしまったみたいだ。

簡単に言うと、LGBTの人たちに公然と差別のできる法律。例えば、里親制度や挙式サービスなど、提供を拒否する権利がある。企業もLGBTという理由で解雇することができる、商店もサービスを拒否できる。気になったのは、トランスジェンダーの人たちは、自分で認識している性別での服装を禁止される、また公共のトイレも籍に記載されている性別のトイレを使用しなければならない・・・

トランスジェンダーの人たち、一般的には「性同一性障害」と言われる。自分の心、内面と身体が一致しないわけだ。心は女性(男性)なのに身体が男性(女性)と、不一致を感じている人。身体は男性だけれど、心は女性なので、服装は女性の服装をしている人が多いと思う。それが禁止される。自分という個性をすべて否定されてしまうわけだ。なんだか時代を逆行しているような?

初めて同性同士のパートナーシップ制度を認めたのが北欧デンマーク。25年前になるんだね。初めてトランスジェンダーとして性別適合手術を受け、男性から女性になったのは、リリー・エルベという人。この人もデンマークの人だ。1882年生まれの人で、手術は1930年から1931年にかけて数度体験している。当時の医療技術の限界から、身体が拒否反応を起こし、最後の手術から数ヶ月後に亡くなっている。約100年前の出来事だ。

昔は性転換手術と呼ばれていた性別適合手術、むろん日本にもトランスジェンダーの方たちはいるので、心と身体を一致させたいと願う人も多いだろうと思う。日本でも手術そのものは合法。でも保険が適用されないみたいだねぇ?費用などを調べてみたが、自己負担では厳しい感じだ。さらに、手術そのものの歴史が浅いからか、技術レベルもそう高くはないらしい。手術の傷跡がケロイド状になってしまったなどの事例もあるらしい。多くの人はタイなどで手術を受けているみたいだ。

WHOに「精神疾患分類」なるものがあるらしい。それによると、「性同一性障害」も疾患と分類されている。つまり病気・・・と認識されているわけだ。1990年頃までは「同性愛」もここに分類されていたらしい。つまり「同性愛」=「精神疾患」と捉えられていたわけだ。

先のミシシッピ州の「反LGBT法」では、時代の逆行が著しく、同性愛=疾患という認識が復活される。同性愛の子どもを治すというセラピーみたいなもの?これは米国でも多くの州で違法とされていた。多くの自己否定が生まれ、同性愛者、つまりこのセラピーを受けた人が鬱病になったり、自殺してしまった例が続出したからだ。でもミシシッピ州では、合法となる・・・

WHOに「性同一性障害」を精神疾患分類から外すように、かなり前から働きかけていた国がある。デンマークだ。WHOの動きが遅いため、デンマークでは自国の基準として、性同一性障害を疾病分類のリストから外すのだそうだ。来年からかな?ちなみにデンマークでは性別適合手術はすべて無料なのだそうだ。

初めて性別適合手術を受けた人、自分の意思で性別を変えた人、リリー・エルベの生涯が映画化されている。現在、日本でも公開中なのではないだろうか?この映画の原題は「デンマークの女(ひと)」と言うらしい。

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category: kinema

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悪意のない偏見 3 

 

同性婚に反対する理由として、少子化が進むというものがある。ただでさえ出生率は減少し続けているのに、さらに同性同士の結婚などを認めてしまうと、少子化にさらに拍車がかかる。

基本的に、同性愛というものを理解しているのだろうか?同性愛者は同性に惹かれる、性的な欲求を感じるから同性愛者なわけだ。「まぁ、少子化?じゃあ私は同性愛者だけど異性とセックスしてバンバン子どもを生みましょう」とはならないよねぇ・・・と思う。制度がどうであろうと、つまり同性婚が認められようと、そうでなかろうと、同性愛者は異性には性的に惹かれないだろうから。出生率と同性婚を同じところで語るというのはどんなものだろう?

そもそも、女性は子どもを生む道具ではないのだ。異性愛者の女性や男性でも、自分たちの意思で子どもを持たない人生を選択した人もいるし、子どもが欲しくても産めない女性だっているのだ。どこか「女性=子どもを生むのが普通」みたいな感覚を押し付けられるようで、LGBTの問題に少子化が絡んでくるのが、そもそも理解できない。異性愛者同士の結婚の目的って子孫を繁栄させることだけなのかぁ?「少子化、少子化」と一部の議員などが声高く訴えているのを聞くと、これはLGBTへの差別だけではなく、女性差別とさえ感じてしまう僕は考えすぎなのか?

初めて、このCMの存在を知った時には、非常に驚いた。欧米諸国と比較して、日本を含むアジア諸国は、LGBTの問題に関しては、遅れているように思っていたからだ。遅れているのだろう。でも進んではいる・・・そう感じる。

これは台湾のCMだ。それもマクドナルドのCM。マクドナルドのような誰でも認知しているような大企業のCMであるということの意味は非常に大きい。日本だと、飲食業関係、車のCMといえば、ファミリーというものが全面に出される。母親の笑顔、子どもの笑顔、車だと父親の運転する車に笑顔のファミリー・・・みたいな?

中国語は理解できないのだが、漢字なので、なんとなく意味は想像できたりする。「僕は男性が好きなんだ」カップに息子が書く。言えなかったのかな?父親もカップに書くのだ。「男性が好きというお前を、俺は受け入れるよ」と。やはり父親も言葉では言えなかったのかもしれない。このCMがアジアの台湾という国で多くの人がテレビで日常的に観ているという事実が素晴らしい。

まだ途上の問題なのだ。同性愛者も多くの涙を流してきただろうし、異性愛者だってそうだろう。何かが変わるということは痛みを伴うものだから・・・

そのようなことを踏まえると、「君、ゲイなの?」という気軽な言葉の意味合いも違ってくるのではないだろうか?

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悪意のない偏見 2 

 

ちょっと前のことになるが、デンマーク大使が離任をする時に、ある問題が起こった。普通、各国の大使は任務終了の際、配偶者を伴い、皇居で天皇と謁見するのだそうだ。まぁ、離任の挨拶だろうか?デンマーク大使はゲイであり、当然配偶者も男性だったわけだ。デンマークでは同性婚が認められており、正式な夫婦というか、パートナーだったわけだ。しかし、日本の外務省は配偶者同伴での謁見を拒否したのだ。理由は「家族としては認めるが、配偶者としては同性なので認められない」だったかな?よく国際問題にならなかったねぇ・・・と思う。大使の赴任中には東日本大震災があったわけで、大使は色々と動いてくれたと聞く。大使だけではなくデンマーク国民もね。外務省の対応は、なんだか残念な感じではあった。むろん外務省を非難する声が多かったのだが、中にはこんな意見もあったと記憶している。「そもそもゲイの人間を大使に任命するデンマークがおかしい・・・」

日本だけLGBTの問題だけ鎖国をするわけにはいかないだろう。先進国では大使や大臣、国の元首が同性愛者ということだってあるだろうし、その場合は配偶者を伴って来日することだってあるだろう。これからどうするのだろう?

デンマークは世界で初めて同性同士のパートナーシップ、つまり事実上の同性婚を認めた国だ。1989年だったかな?世界初の同性同士のカップルもデンマークで誕生していたはずだ。このあたりの各国の同性婚事情(?)のようなものを勉強したわけではないので、詳しくはないのだが、「同性結婚法」というものを初めて成立、施行したのはオランダだったかな?かつてアイルランドでは同性愛は犯罪とされていた。見つかれば刑罰があったわけだ。たしか、1995年に同性愛は犯罪ではないとされたはずだ。昨年、アイルランドでは同性婚が認められている。世界初の国民投票での結果だ。米国で、州単位ではなく国として認められたということも世界的な流れを推し進めるものとなるのではないかと思う。つまり世界は動いている・・・

では、デンマークやオランダでのカミングアウト、日本でのカミングアウト、告白される側である親の気持ちというものは変わるのだろうか?同性同士のパートナーシップというものを、国、あるいは国の常識となっている国と、そうでない国では、やはり違いはあるのだろうか?基本的には親の気持ち、感情というものは、世界のどの地域であれ、変わらないものとも思う。反応の仕方という意味では変わるのかもしれないが・・・

先の動画で日本人男性が父親にカミングアウトをしていた。「正式に会ってもらいたい」「いや、会いたくない。それはできない」日本人だから保守的というよりは、これはお父さんにとってカミングアウトの内容が酷、というかハードルが高かったのでは?いきなり「相手と会ってくれ」はハードル高し・・・と思う。まずは「僕はゲイなんだ」というところから始めたほうが良かったのでは?お父さん、驚いただろうが、受け入れてくれたのではないだろうか?分からないが・・・

同性愛者だからって差別するなんていけないわよね・・・という人でも、自分の息子、娘が同性愛者だと打ち明けたらどう反応するだろう?「結婚したいんだ。相手は男性なんだ」「結婚したいの。相手は女性なの・・・」どうだろう?「それは素晴らしいことじゃない?」と言えるだろうか?難しい問題だと思う。

このあたりの親の心情は国別に変わるものでもないんじゃないかな?でも同性愛者のカップルが幸せに暮らしているという事実が、もっと公になれば、公になっている国とそうではない国とでは、感情というより、どう反応すべきかということでは違いは出てくるのかもしれない。

これはアメリカでのカミングアウト。双子の兄弟みたいだ。父親としては、いきなり二人からゲイだと告白されるわけだ。日本とアメリカで変わるなんてことはないような気がする。どちらにとっても重いものなんだと感じる。

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悪意のない偏見 1 

 

きたろうという人、タレントさん?がいるらしい。僕は知らなかったが。この人がフィギュアスケートの羽生選手に「君はゲイなの?」と本人に訊いたらしい。羽生選手の答えは「違いますよ~」というものだった。それをラジオ番組で話したみたいだ。「羽生選手はゲイではないって本人が言ってましたよ」みたいに。僕はそのラジオ番組を聞いてはいないので、この通りの言葉づかいではなかったとは思うが、大筋はこんなところだろうと思う。別にきたろうという人を糾弾するつもりもないし、羽生選手の返答についても何も思わない。「だから何?」と思うし、羽生選手がゲイであろうと、ヘテロであろうと、それはどちらでもいいと思う。きたろうという人は、羽生選手の演技を知っていて、その芸術的要素みたいなものから、「ゲイなの?」と訊いたのかもしれない。マッチョで粗野なものとは正反対の繊細さを感じる演技だから。なので無意識に軽い感覚で「ゲイなの?」と訊いたのかもしれない。

今の日本で「はい、僕はゲイなんです」「私はレズビアンなんです」と公言できる人はどれくらいいるのだろう?あとは異性愛の人に対して、非常に性的なプライベートな問題を気軽に質問してしまうなんてあるのだろうか?例えば、ランチをしている時に、その場にいたママ友に「ねえ、あなたたち夫婦って夜の営みは週に何回あるの?」なんて訊く人はいるだろうか?その場の空気が固まるのでは?

話題にしている本人がその場にいなくても「ねぇ、Aさん夫婦って、あちらの方はどうなのかしら?」なんて話題にするなんてことはないのでは?でもゲイ、LGBTと思われる人だったらどうだろう?「ねえ、Bさんって、あちらの趣味の人っぽくない?」「そう、なんとなく私もそうだと感じていたの」という話題はどうだろう?もしかしたらあるかもしれない。「ねえ、ホモなんですって」という強い口調ではなく、ごく軽い感じだったら?あるかもしれない。

人種差別、男女差別とLGBT差別との違い、それはカミングアウトの問題を含んでいるということではないだろうか?性的なことって、人に公言しなければ、隠そうと思えば周囲には隠しておけるものだ。カミングアウトをしていない人に対して、「ねえ、ゲイって理解できないよね?同性婚とか話題になってるけど、子どもが産めないんだよ?」なんて、話している本人は気づかずに、ゲイの人に話してしまっているという可能性はあるのだ。「あの人ってオカマっぽくない?」言われている本人ではなくても、聞かされている人がゲイだったら?そのような可能性はある。

「じゃあ、ゲイであることを公言、カミングアウトすればいいじゃない?知っていればそんな話題は避けるわよ」

あるレズビアンの方は、中学生の頃、同性に魅力を感じてしまうのを自覚した。むろん、自分は変なのかしらと悩んだ。保健の授業で思春期の事を学んだ。保健の教科書にはこう記述してあった。「思春期になると異性に性的な魅力を感じるようになる」と。教科書は「異性」と言い切っていたのだ。その方は自分の気持ちを絶対に知られてはいけない、一生隠していこうと誓ったのだそうだ。苦しかったのではないだろうか?

ゲイであることをカミングアウトした途端、飲み会などに一切誘われなくなった人とか、職場で無視されるようになった人とか、親友だと思っていた人に打ち明けたところ、「知らなかった。私の結婚式の写真にだけは写って欲しくはなかった」と言われたり・・・

LGBTであることを隠して社会とのバランスを上手くとって生きていく方法もある。これも一つの生き方だ。ただ、隠している以上、軽い、自覚のない偏見にはいつも遭遇する可能性はある。自分のことを言っているのではないと知ってはいても「ゲイって~と思わない?」みたいなことを聞かされることになる。

欧米と比較すれば、まだまだLGBTの問題に関しては遅れている日本だが、カミングアウトをする人は昔と比べ、増えてきている印象を持つ。いくつかの自治体がパートナーシップ証明書を発行するようになったということが大きいのではないかと個人的には感じる。それに伴い、いくつかの生命保険会社が同性のパートナーにも保険金を受け取れるようにしたり、各携帯電話会社が家族割の制度を同性のパートナーにも適用したり。一部ホテルや結婚式場も同性カップルの挙式に非常に積極的になったり・・・

同性のカップルってお金があるのだ。子どものための学資なんて考えなくていいし、お互い経済的に自立したカップルが多い。その点では異性愛同士の結婚というものよりも、健全であるかもしれない。「経済的には自立している。一人でも生きていける。でもパートナーと共に人生を生きていきたい」

むろん、公言しないという選択をする人も多いだろう。する、しないは本人たちの自由だと思う。ただ制度が少しでも整うようになると、「普通の人間として生きていきたい」という欲求が生まれるのではないだろうか?ヘテロのカップルであれば、入籍し、結婚式をし、周囲と自分たちへの「人生のけじめ」を示すことができる。今までは自分たちには無縁だったこと。もし、できるのであれば、異性愛のカップルの人たちと同じように・・・と思う。そのために必要なのが、カミングアウトなのだ。

LGBTの人たちがカミングアウトをするということは、自分の人生を賭けた行為なのかもしれない。特に肉親の場合はそうだろうと思う。親というのは、基本的にはヘテロなので、さらに年代的に、どちらかと言えば保守的な考えを持っている人も多いのではないかと思う。むろん、まったく偏見のない親だっているだろうが。

「お父さん・・・実は僕はゲイなんだ」この一言、この一瞬に自分のすべてを賭けるのではないだろうか・・・

時代は過渡期なのかもしれない。カミングアウトをする人も増えていくかもしれないが、まだまだ隠して生きていかなければならない人も多いだろうと想像する。

悪意のなさ、軽い気持ち、このことは、より「一般的な考え」というものを強調させるものだ。

「ねぇ、Bさんてちょっと、あちらの方なのかしら?オカマっぽくない?」

静かに聞いているCさんは、実はゲイかもしれないよ?

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自己肯定を肯定する 

 

「ご職業は?」「ピアノを自宅で教えています」「まぁ・・・優雅なお仕事ですね」

ピアノ教師はムッとするのでは?優雅な職業なんてないのだから。「実は大変なんですよ、生徒は~だし、教材研究も~だし、近頃は教師自身も弾かないとみたいに言う人もいるし・・・」などと思うことはあるだろう。「優雅どころか、経済的にも大変なんです」みたいなところもあるだろう。でも「看護師なんです」という人に対して「まぁ・・・優雅なお仕事ですね」と言う人はいるだろうか?

世間の誤ったイメージ・・・ということなのだろう。でも楽器を弾くということ、そのような趣味そのものが、どこか日常生活の延長というよりは、何か特別なものという感覚を持っている人が多いということでもあるのでは?

「まぁ、ピアノ?優雅なご趣味ですね・・・」

ピアノに限らずだが、アメリカ人って楽器を弾ける人が多いという印象を持つ。割と無邪気とも日本人からは思えるような態度で楽器を弾いてしまう。全員がプロ級であるわけではない。クリスマスソングの伴奏などを、時折音を外しながら、でも楽しそうに弾く。「何か弾いて」などと言われる前に自然に弾いてしまう。「ピアノ習ってたの?」「いや、自己流で適当に・・・」日本人の場合、いきなり「何か弾いて」などと言われても、躊躇してしまう人の方が多いような気がする。「なんだ・・・その程度か」と思われるということを非常に恐れる?

国民性とか文化の違いというよりは、自己肯定感の違いなのではないかと思うことがある。あとは生活と楽器との密着度というか?日常生活、大袈裟に表現すれば、自分の人生の中で、楽器を弾けるという能力があり、それを他人と分かち合う機会があるのだったら、なんで楽しまないのという人生観(?)があるような?「客観的な判断として、腕前はどうとか、あるのだろうけれど、私は楽しい、弾けることが楽しい、弾けるようになるためには面倒なこともあるが、でも楽しい、そんな私は素晴らしいじゃない?楽しんでいるんだから」みたいな?

フィギュアスケートはピアノよりも、さらに日常生活からの距離を感じるものでは?何か特別なもの。お金持ちの才能のある人が、子どものころから精進して、初めて到達できるようなもの?そうだと思うが、それは選手として競技会に出場するような人。一般の人は、せいぜいリンクをグルグル周るだけ、あるいは観客として選手のファンとして楽しむだけ・・・

例えば、70歳の人がこう言ったら大抵の日本人は驚くのではないだろうか?

「趣味はフィギュアスケートなんです。今、競技会に向けて最後の調整をしています」

楽器演奏ということでもそうだが、フォギュアスケートもアメリカでは日本よりも一般の人々の生活に浸透しているような印象を持つ。むろん、日本のフィギュア人気は、かつてないもので、それは素晴らしいことだが、スケートのファンであると同時に、自身もスケートを楽しむ、それも競技会を目指して・・・なんていう人はどのくらい存在するのだろう?趣味として楽しんでいる人、眺めているだけではなく、自分も参加してしまう人・・・

「~と思われたら恥ずかしい」なんて思ったら参加できないと思う。自己肯定の感覚が強いのだろうか?

この人は、なんと80歳を過ぎているのだそうだ。人生、楽しんだ者の勝ち・・・かもしれない。

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趣味でも真剣 

 

ヴァイオリンを聴くのは好きだ。でも自分が演奏するとか、習うということは考えられない。難しそうだもの。自分で音を作る(ピアノもか?)というところのハードルが高い。でも習うとしたら、楽器の持ち方も知らないわけだから超初心者となるのだろうが、でも先生からはっきりと「趣味なんですね?ではそれなりに楽しくということですね?」などと言われたら「違います」と答えるだろうとは思う。「えっ?その年齢で音大?」などと言われても「違います」となるだろう。趣味でも真剣?ヴァイオリニストではジノ・フランチェスカッティが好きだ。ヴァイオリンを習うのだったら、フランチェスカッティが理想となるだろう。むろん、僕に残された時間を考えれば、僕がフランチェスカッティのようには弾けるようにはならないだろう。時間があっても無理。でも「えっ?フランチェスカッティ?あなた・・・ドレミも弾けないのに無理でしょう?一生無理だわ」と先生に言われたら、事実だけれど、なんだか反発したくなると思う。

追うのが楽しい?よくは分からないが。はっきりしているのは、楽しくと専門的の中間?ピアノもそう。楽しくないとイヤだ。根性だけで苦しんで弾けるようになるなんてイヤだ。でも練習は面倒とも思うし、楽しいとも思う。レッスンや練習で娯楽的な楽しさは感じなくてもいい。おそらく「楽しく」と「専門的に」みたいに単純に分けられないのだと思う。

おそらく、鑑賞者として感じた何かしらのものを、演奏者としてサウンドを生む時にも欲しくなる。それを追うのが楽しい。

今は、それほどでもないが、以前はピアノ教育に関する雑感などを書いていた。それらの昔の文章に反応してか、今でもメールを頂く。大人の方もいるが、高校生も多い。高校生が僕のブログなどを読んでいるということに驚くが、真剣に悩んでいる人が多い。

「上手になりたいんです。でも音大なんか行くつもりはない。先生は趣味で楽しくか、専門的にか、どちらかしかないみたい。趣味だけど真剣にやりたいし、でもピアノ最優先というわけではない。でも趣味だから楽しくというのとは違う・・・」「ピアノを専門的に習うなんて、そんな生易しいものではないのよ?覚悟がいるの。みんなそうやってきたの。専門的に習うのではないんだから趣味でしょ?」

そう、趣味だ。ピアノで自立して生きていく意思はないわけだから。でも上手くはなりたい。それって普通の感覚なのではないかと思うが・・・

まだ小さなシンプルな曲を弾いている。でも思うんだ。「いつかホロヴィッツが弾いたシューベルトみたいに私もシューベルトを弾きたい」と。それは専門的にとか、そういうことではないけれど、普通の感覚だと思う・・・

「えっ?趣味なんでしょ?」・・・違うなと思う。
「ピアノは生易しいものではないの。あなた覚悟はあるの?」・・・違うなと思う。

中間というかね・・・

この人は大人になってからフィギュアスケートを始めたのだそうだ。おそらく、現役の選手の演技、あるいは往年の名選手の演技を観て、「ああ・・・僕もこんな風に滑ることができたら・・・」と思ったのだろう。

「趣味なんでしょ?楽しく健康のためにでも滑ればいいじゃない?週末にでもリンクで自由に滑ればいいじゃない?なんで仕事で疲れているのにコーチについて練習なんかするの?」・・・違うなと思う。

「オリンピックに出場したいの?年齢を考えたことがあるの?覚悟はあるの?」・・・違うなと思う。

仕事帰りにリンクで練習しているのだろうか?夜間にでも?あるいはオフの日に?相当練習を重ねてきているのが分かる。真剣なのだ。趣味だから楽しければ・・・なんて、このアダルトスケーターには死んでも言えないような気がする。

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心の練習 2 

 

これが映画「メリーゴーランド」のラスト10分。つまりラストシーン。あまりに定型ストーリーなので、イタリア語など理解できなくても筋が追えたりする。先の展開も予想できてしまうね。

でも感じるのだ。「ああ、この場面で音楽が流れるとヤバイぞ!ヤバイぞ!」と。そして確実にそのような音楽は流れる。

「ああ、分かっているのに・・・予想できたのに・・・ここで音楽・・・ああ、ヤバイかも・・・涙が・・・」みたいなことになる。

音楽はフランコ・ミカリッツィという人の作らしい。いい曲だねぇ・・・

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心の練習 

 

ピアノのレッスンというものは、生徒の演奏を聴き、教師がアドバイスをするというのが定型で、そこには生徒が何かしらの表現をしているというのが前提。その何かしらの表現というものを、より楽に、明確に表現できるようにするのがレッスン。基本的には、メカニカルな要素をどのようにテクニックとして具現化していくということになるのでは?

「そこはこのように弾けばこうなるんじゃない?」とか「そこは~のようにすれば楽になるんじゃない?」みたいな?

では生徒側に何もなかったら?「あなたはどうしたいの?どのように弾きたいの?」「さぁ???」「別に・・・何も感じないし・・・」このような場合は教師は何をしたらいいのだろう?でもこのようなことってあるのだろうか?特に大人のピアノの場合は、ないと思う。「別に・・・」と感じる人が、わざわざピアノなんて弾かないと思うから。

曲を聴いて「ああ・・・素敵」と思った過去体験があるからこそピアノを弾いているわけで・・・

でも過去体験の感動がピアノライフを送るうちに薄れてくるということはあるかもしれない。たとえば、リストの「愛の夢」を聴き、死ぬほど感激して「一生かかっても弾いてみたい」とピアノを習い始めたとする。そして「愛の夢」を弾くことになった。まことに御めでたいことのようだが、その時には「一生かかっても・・・」とかつて感じた感激だけではないはずだ。「ああ、ここが難しいわ」「本番で失敗しないかしら?」当たり前のことだが、憧れが現実化していくということは、憧れの他に、様々なことをも感じていくことになる。「愛の夢」が弾けた。そうなると、さらに憧れの曲というものが存在してくるのでは?そのくり返しがあるからこそ上達していくのだと思うし、ピアノを弾いていられるのだとも思うが、どうしても「ああ・・・愛の夢♥」という感覚、最初にピアノを弾こうと志した純粋なる動機みたいなものを最初の頃と同じようにキープしていくには多少の努力は必要となってくるのかもしれない。心の活性化というのだろうか、かつての憧れを再度認識してみるというか・・・

この場合、ピアノ以外の楽器の曲を聴いてみるというのは、心の活性化のためにはいいかもしれない。実際に自分がその楽器を弾きこなすわけではないので、純粋に曲に入り込める可能性がある。あとは映画を観て、ストーリーを盛り上げているテーマ音楽などに思いきり浸り、思い切り涙する・・・

たとえば、「ニュー・シネマ・パラダイス」のような映画?個人的にはこの映画は少々感傷的かなと感じたりする。でもトト少年が中年になり、過去を回想するシーンでモリコーネのテーマ曲が壮大に、そして感傷的に流れたりすると、「ああ・・・感傷的・・・でも涙が・・・ああ、涙が止まらない」となる。音楽がいかに心に入り込んでくるかということでもあろう。泣ける映画・・・がこの場合はいいと思うのだが、できれば映画はまあ普通、でも音楽が素晴らしい・・・という映画を観ると、より心の活性化ができるのでは?音楽というものが、ここまで感情を動かすということもあるのか・・・という経験になる。この時の心の動きをピアノを練習している時にも常に感じていればいいわけだ。

「ああ・・・泣いてしまうかも・・・」みたいな時の感情。泣きながら練習する必要はないが・・・

昔、イタリア映画で「メリーゴーランド」という映画があった。B級映画なのだろうか?少なくとも映画祭で賞を獲得するような芸術映画ではないように思う。典型的なラクリマもの、難病ものの映画だ。駄作ではないと思うが、いかにも・・・というストーリー展開ではある。

主人公はルカ少年。お父さんは妻、つまりルカ少年の母親を亡くし、その空虚感を忘れるために仕事に没頭していた。仕事は弁護士だったと記憶している。ルカ少年は寂しかったのだが、お父さんは気づかないんだね。お父さんにはベロニカという恋人もいた。この恋人は、とてもよくできた人で、お父さんがルカ少年の寂しさに気づいてあげないことを指摘したりする。自分との関係よりも父と息子の関係を大事に思う。でもお父さんはやっと気づく。ルカが不治の病を患うから。いかにも・・・という感じで、病気は白血病だ。ルカ少年は最期にお父さんに頼みごとをする。「遊園地に行きたい」と。お父さんは夜中だけれど、頼み込んで灯りをつけてもらい、乗り物を動かしてもらう。最後にメリーゴーランドに二人は乗る。「お父さん・・・僕たち・・・もう会えないんだね?」そう言ってルカ少年は父親に抱かれながら死んでいく・・・

こんな典型的なラクリマもののストーリーだ。先が読めてしまう映画と言えばそうなのだが、分かっていてもラスト―シーンで、哀しい音楽が流れると、「ああ・・・涙が・・・」となる。絶対に音楽が流れることも分かっている、ルカ少年がどうなるかも分かっている、でも泣いてしまう。この時の心の動き・・・これを忘れなければいいわけだ。

かつては心に動きがあったからピアノを弾いている。その曲を弾いている・・・それは心の動きがあるから弾いているのだし、それが何かしらとして人に伝わるのだろうと思う。

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ジャック・オー・ランタン 

 

日本でも、今やハロウィンはクリスマスに次いで経済効果の大きい風習なのだそうだ。なんとバレンタインデーを抜いているそうで。でもクリスマスもアメリカと日本では少々ニュアンスが異なる。日本の場合は宗教的な行事としてよりは、イベントとしての色合いが濃い。なんとなく「恋人たちの日」みたいな?アメリカでは「家族の日」的なニュアンス。日本の元旦みたいな?

「ねえ、クリスマスはどうする?ホテルでディナーとか?」「えっ、クリスマスは申し訳ないけど家族と過ごすんだ。君だってそうだろ?」

ハロウィン、10月の31日がそう。でも学校は休みではないよね?たまたま日曜日なら休みだが。子どもたちが参加できないということで、日本では、今ひとつハロウィンの風習が広がらないのかも?クリスマスと異なり、ハロウィンは元々はキリスト教とは関係のない行事なので、もっと日本でも広がってもいい風習だと思うのだが?

カボチャ関係の商品などは昔よりも多く見かけるようにはなったけれど、カボチャのケーキやパンプキンパイなどを作る人もいるだろうが、あまり国民の風習として浸透していないような?

「トリック・オア・トリ―ト」・・・子どもたちが仮装をして、各家庭を練り歩きキャンディなどをねだる・・・これは日本の住宅地ではハードルが高いのでは?仮装そのもののハードルも高い?日本でも一部若者が仮装し、街中で乱痴気騒ぎをして、ゴミを巻き散らかす・・・なんてことはあるらしいが・・・

「ジャック・オ・ランタン」・・・つまりパンプキン提灯?これも日本ではハードルが高いのではないかと思う。アメリカではハロウィン近くになると、巨大なパンプキンが山積みされる。このカボチャは日本のスーパーなどで見かけるカボチャとは異なり、食用ではない。中はスカスカの空洞。まず、日本ではこのカボチャを見かけない。ネットでは購入できるみたいだが。食用のカボチャではないが、カボチャはカボチャなので、野菜ではある。果物とか野菜って一度包丁を入れてしまうと、各段に早く痛んでしまう。このカボチャもそう。なので、早くから「ジャック・オ・ランタン」を製作してしまうわけにはいかない。彫ってからは腐敗が進むので、冷蔵庫保管をするくらいなのだ。アメリカでも4~5日が限度かな?日本は多湿なので、もっと腐敗が進むのではないか?かといってプラスチック製では風情がないしね。

クリスマスツリーなどと同じように、「ジャック・オ・ランタン」もハロウィンならではの光景になる。僕も作ったことがある。もっとも、中をくりぬいて、シンプルに目と口の穴を開けただけのものだが、凝る人は彫刻のようにパンプキンを彫る。これを「パンプキンカービング」という。アメリカではそのへんの雑貨屋とかスーパーに、それ専門のキットなども売っている。

今まで紹介してきたジェフリーさんもパンプキンカービングを行っている。なんとなく、これは「アート」の領域なのではないかとも感じるが、非日常性、日常生活からの逃避、脱却的なアートではなく、生活の中に溶け込んだアートのような気がする。ジェフリーさんのピアノ演奏、歌もそのような感じがする。そこがいいなと思う。

今年は皆でパンプキンカービング、やってみませんか?日本だと、すぐにカビが生えちゃうと思うけれど・・・

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日々の暮らしとピアノ 

 

ジェフリーさん、相変わらずの多才ぶりだ。なんとなくこんな風貌の人を想像していたので、裏切られなかった感じだ。これは彼の自宅で撮影したものだと思われるが、一体どうやっているんだろう?それはともかく、決して豪邸というわけではないが、典型的なアメリカの一軒家という感じはする。思うに、ジェフリーさんの自宅のポーチよりも狭い空間で暮らしている日本人も多いのでは?だから日本ではパーティーなんて難しいのだ。

彼の絵にしても演奏にしても、生活、日々の暮らしの中に密着している、入り込んでいるという感じが素敵だと思う。むろん、芸術というものを崇高な高みに置き、自分を芥子粒のような存在とし憧れていくのもありだと思うが、もしかしたら、それが一般的な感覚なのかもしれないが、一人の平凡な人間の日々の暮らしの中で感じること、共感できるような些細なこと、「ああこれってあるある」みたいな感覚?この感覚をピアノに限らず、アートの中に感じられるといいなと思う。だから弾くの・・・みたいな?だから私も表現したいの・・・みたいな?

生活の中、日々の何気ない日常の中で感じることって、そう捨てたものでもないのかもしれない。あるエッセイストが書いていたのだが、結婚生活で上手くいく条件、あるいは相手に望む条件としては、まずは最初に「価値観が同じ」とか「相性」とかが重要視されるらしいのだが、最も重要な項目は、実は最初に挙げられる項目ではなく、4番目あたりに挙がってくる項目なのだそうだ。たしかに自分にとっては重要ではあるが、まずはそこではなく・・・ぐらいの事が実は重要だったりするらしい。例えば、お金をどこに使うか・・・みたいな?人生においての価値観のような大切なことには少し劣るけれど、ぐらいのところが実はその後を左右する。

Jさんは健康に気をつけ、有機野菜や天然の素材のものを吟味していた。となると、価格は高めになる。むろん相手にベジタリアンになって欲しいとまでは思わないが、でもこう言われたら無理・・・と思うのだそうだ。「あっ、この人とは一緒に生活できない」と。「野菜や魚なんてなんでもいいじゃないか?そのへんのスーパーの安売りでいいじゃん?その分、たまに奮発して焼肉でも食おうぜ?」・・・こう言われたら「う~ん、無理かも・・・」と思う。どんなに相手が好きでも一緒に生活はできない・・・と。これって真理かも?

他人にとっては些細なこと、それぐらい我慢しなさいよ・・・的なことでの不一致が気になる。ある男性の部屋を訪れて、部屋一杯のプラモデルとかフィギュアを見て、「あ・・・無理・・・」みたいな?「私もプラモデルの飛行機のぶら下がった部屋で暮らすの?」

日常の中での無意識レベルでのこだわり・・・これは曲の魅力を感じ、自分なりに表現することと、どこか似ている。「あ、そうそう、そうだよね」とか「それって・・・無理かも・・・」みたいな、その人なりのポイントのようなもの?人の演奏を聴いて、表面上は達者ではないのかもしれないが「あっ、いいな」と思う演奏というものは存在する。一致するのではないだろうか?自分の中のポイントと。

ジェフリーさんのパフォーマンスは、僕にとってそのような意味で非常に心地いいのだ。ポイントが似ているというか?このような演奏っていいなと思うし、彼のような生活(覗いたわけではないが)っていいなと思う。

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多趣味・多才 2 

 

ジェフリーさんは専門的に絵を描くことを習ったことはないのだそうだ。「でも好きなんですよねぇ・・・だから描いているんですよねぇ・・・」という感じらしい。

それにしては上手い・・・と思うが、先のピアノ演奏と、この絵は同じ人が表現しているのだなぁ・・・とも感じる。

次はジェフリーさんが顔出しします。歌を歌い、ギターも弾きます。

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多趣味・多才 1 

 

アメリカ人って割とパーティーが好きなような気がする。誕生日や感謝祭などに友人、知人が集まり、食べ物を持ち寄り集う。日本でもパーティーはあるのだろうが、アメリカほど気軽ではない?これは文化の違いというよりは、「住宅の広さが違うのだ」と言いたい。

日本で個人宅でのパーティーは経験がないのだが、住宅の広さの問題とは別に、どこか頑張ってしまうということもあるのかもしれない。なので日本ではパーティー文化が浸透しない?「~しなければ」とか「~思われると恥ずかしい」とか思い過ぎる?「料理はどうしようかしら?」とか・・・

例えば、気軽な個人宅でのパーティーや集いで「ねえ、ピアノ弾いて!」といきなり言われて「じゃあ・・・」と弾ける曲のある人はどれくらいいるのだろう?ピアノサークルや教室の発表会での演奏のような「今日は練習してきた○○を弾かせて頂きますっ!」的な状況ではなく、「ねえ、何か弾いてよ」みたいな?

「何かと言われても・・・」となる人が多いような気がする。もちろん、「来週本番なので・・・」という場合はその曲を弾けるのだろうが、そうでない予期しない時に、何か弾けるかどうか・・・

頑張りピアノしか経験していない人にはキツイかもしれない。舞台で頑張りピアノを披露するというだけでもピアノライフだと思うが、でも考えてみれば、「10年ピアノを習っています」とか「音大を卒業しました」という人が「今は何も弾ける曲がないんですぅ・・・」というのも変な話ではあると思う。何も一音もはずさずに「ラ・カンパネラ」を弾けと言われているわけではないのだ。「何か弾いて」つまり何でもいいわけなのに・・・

その点、アメリカ人は無邪気というか、屈託がないというか、「それでは・・・」となる人が多い気がする。ピアノだけに限らずだが、割と自分の芸(?)を披露してしまう。むろん、達者でない場合も多いのだろうが、それでも「いえいえ、私なんて・・・」という人は少ないような?日本人の美徳は謙虚さなのかもしれない。でもアメリカなどで変にその美徳を強調すると「空気の読めない人」とか「あっ、この人は本当に何にもできない人なんだ」なんて思われるかも?

「自分に自信がないの」ということが、と言うより、そのようにプロテクトすることが、あまり美徳にはならない?

アメリカ人は日本人と比較すると、自分に自信を持とうとしているのか?無邪気なのか?日本人がやや自意識過剰なのか?その辺は分からないが、アメリカ人には多趣味というか、何にでも興味を持ち、トライし、そのどれもが素晴らしい・・・という人もいたりする。なんとなく「生活の中に自分の趣味がある」みたいな?

「自分の人生じゃないか?楽しまなきゃ!」みたいな?

ジェフリーさんという男性、この人はそんな人のように思う。多趣味な人だ。

「半年頑張って練習しました。でも本番では失敗しました。私っていつもそう。なんでかしら?」と常に自分を否定する方向での趣味というのも、謙虚なのかもしれないが、少し哀しい気もする。

まずはジェフリーさんのピアノを紹介しようと思う。

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一体化・・・ウィーン・ラトビア編 

 

今年、2016年のウィーン・フィル、「ニューイヤーコンサート」の指揮者はマリス・ヤンソンスだった。この人は個人的に「ニューイヤー」に登場してくれないかな、と思っていた指揮者なので、とても嬉しかった。実際には、2016年に初登場ではなく、それまでにも二度も「ニューイヤー」に登場していたんですねぇ。知らなかった。

このコンサートで毎年アンコールで演奏されるのが、この曲。お馴染みの曲だけれど、やはり「毎年飽きずに・・・」なんて思わないですねぇ。ベルリン編と同様、聴衆と演奏者、曲、作曲者との一体化があり、「音楽」となって空間に飛翔していると感じる。聴衆が手拍子するのも毎年のこと。手拍子が楽器となっている。

成熟した文化とは、芸術が高尚な場所で鎮座しているのではなく、受ける側とどこか一体化しているものなのかもしれない。本当の超絶技巧というものが、楽々と自然であるように・・・

ウィーン、楽友協会ホールの新年、この時間、世界で最もこの場所が幸せな空間だったのかもしれないが、その場所にヤンソンスというラトビアの指揮者が存在していたことが嬉しい。彼の父親アルヴィドはレニングラード・フィルの指揮者だった。母親のイライダは歌手だった。普通だったら、「血筋だね」となるところで、実際にそうなのだと思うが、母親のイライダはユダヤ人だった。マリスの父親と兄弟は、たしかリガのゲットーで惨殺されているはずだ。

マリス・ヤンソンスが世界一幸せな時間、空間を指揮し、共有していたことがとても嬉しい。

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一体化・・・ベルリン編 

 

ウィーン・フィルとベルリン・フィル・・・クラシカルの殿堂、オーケストラの最高峰・・・・という感じだと思うが、この二つのオーケストラは非常に一体化、聴衆との一体化を感じさせる演奏を披露している。ウィーン・フィルでは新年恒例の「ニューイヤー・コンサート」でシュトラウス一家の作品を中心に、聴き手との一体化を感じさせるし、ベルリン・フィルは夏の音楽祭的な「ヴァルトビューネ」の演奏会で、やはり一体化した演奏を聴かせてくれる。

ウィーンの「ニューイヤー」もベルリンの「ヴァルトビューネ」も一度は生で体験してみたいなぁ・・・と思うが、それは無理かもしれない。僕にとって一度は体験してみたいと思わせる要素が、やはり演奏者と聴き手との共有、一体化の部分なのだろうと思う。演奏者も聴衆も実に幸せそう・・・この構図は音楽にとって当たり前のようで、あまりない構図なのかもしれない。特にクラシックの演奏会において。

ベルリン近郊の森で催される「ヴァルトビューネ」は野外のコンサート。ヴァルトはドイツ語で「森」、ビューネは「舞台」を意味する。まさに森の中のコンサート。このコンサートのアンコールで恒例として毎年同じ曲が演奏される。「ベルリン・オペレッタの父」と言われるパウル・リンケの「ベルリンの風」という曲。この曲はベルリンの人にとっては「我が街の曲」的存在であるらしい。非公式のベルリン市歌でもあるらしい。

「まぁ、よくも毎年毎年同じ曲を飽きずに・・・」なんて思わないですねぇ・・・

演奏者と作曲者、そして曲そのもの、それが聴き手と一体化して「音楽」となっている。

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category: あっぱれ麗し舞台

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電子ピアニスト 5 

 

電子ピアニストの最終回。これは偶然なのだが、動画は全員男性。気づいたのだが、たしかに電子ピアノで動画をアップしている人は、なんとなく女性よりは男性の方が多いような気はする。グランドピアノの演奏による動画となると、ぐんと女性の比率も上がるが。

「男性は転勤があるからでは?」と、この傾向について知人は言ったが、そうなのだろうか?たしかに転勤がある場合、アコースティックのピアノよりは電子ピアノの方が楽だとは思う。でも理由としては違うような気がするなぁ・・・

特にグランドピアノでの動画で思ったのが、クラシックの曲を弾いている人が多いということ。電子ピアノの人の動画は、ジャンルがぐっと幅広くなる。そのためか、楽譜を一生懸命に弾いてみましたという演奏よりは、耳コピだったり、自作の曲を披露し、一生懸命に音にしているというよりは、楽しんで弾いている人が多い印象を持つ。

演奏者と、聴き手との望むものには、まれに(よく?)食い違いのようなものが生じる。聴き手としては、その演奏者がどれくらい弾けるかとか、レベルとか、そんなことは関係なく聴くような気がする。演奏している本人にとっては、非常に気にするようなことも、聴き手は弾いている本人ではないので、ミスがどうたらとか、その日の完成度がどうたらなんて、あまり関係ないものだ。

一体感・・・かな?演奏者の動機、そこには弾いてみたいと思わせた何かしらの魅力が曲に存在したから弾いているわけで、演奏者の感じた「何かしら」みたいなものが聴き手に伝わった時、一体感を感じた時に「素敵だな」と感じる。ミスの頻発度はとうかしら?どのくらいのレベルで弾きこなすのかしら・・・なんて人の演奏を聴くものかしら?

人を外見で判断してはいけないが、この動画の人は、いかにもピアノを弾く人という風貌ではなさそうな?ジムに通うような感じ?でも演奏は繊細だなと思う。楽しさが伝わってくるし、この人が曲を好きなことが伝わってきて、その感じを聴き手と一体化できている。

ウィーンのワルツやオペレッタが大好きな人のようだ。拍子の感覚が絶妙だ。演奏しているのは、パウル・リンケのオペレッタの曲。パウル・リンケ・・・この人はウィーンではなく、ベルリンで活躍した人で「ベルリン・オペレッタの父」と言われていた人だ。

この人はシュトラウス一家のワルツであれ、レハールのオペレッタであれ、非常にその曲たちを愛しているのを感じる。それが伝わる。伝わるためには、何らかのノウハウが必要だけれど、ノウハウを聴きたいわけでもないからね。そのあたりは「弾き手目線」になると難しくなるところではないだろうか?

「このように弾きましょう」・・・レッスンにしろ、楽譜からの情報にしろ、それだけだと「弾いてみました」になりがちなのでは?「そのように弾いてみたいのだったら、こうしてみたら?」だったらいいのかもしれないが。弾く立場としても「こう言われたから」でいいものだろうか?「どうしてそのように弾いたの?」「だってそう言われたから」では寂しい。「どのように弾きたいの?」「さぁ?楽譜に書いてあるように?」もかなり寂しい。

その曲を選曲し、練習し、演奏する・・・動機は?

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category: 拍手のない名演

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電子ピアニスト 4 

 

介護の真っ只中にいる人が、まず願うことは、「喫茶店でひとりコーヒーを飲むこと」なのだそうだ。なんでもないようなことが、願望にすらなっている。そんなものなのだろう。なんでもないようなことを尊く思う・・・

この反対もあるね。尊いことを、なんでもないことのように流してしまう。

多くの人は、自分の生命が終わるより前にピアノが弾けなくなる。弾きたくても弾けない・・・という時間が必ず訪れるのではないかと思う。その時に過去を振り切れればいいのだが・・・

もし、そのような時に、自分が過ごしてきたピアノライフが「人との比較」だけであったと気づいたら、あるいは「過去の自分との比較」だけであったなら、それは苦しいものだろうと想像する。

振り返った時には、幸せな時間が見えるといいと思う。

kaz




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category: 拍手のない名演

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電子ピアニスト 3 

 

電子ピアノでも(???)弾いている人の個性は出せるんだなぁ・・・

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category: 拍手のない名演

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電子ピアニスト 2 

 

この人の演奏は個人的には非常に強烈というか鮮烈なまでの印象というか、以前にも紹介した記憶がある。

「楽しそうだよね?弾いている本人は楽しいに違いない!」

そう思うが、聴いているこちらも楽しくなってきてしまう。この人が感じたであろう何かを、聴いた僕が共有したということだ。なんとなく演奏の醍醐味というか、ピアノを弾くことの醍醐味というか?

楽譜をきちんと弾いて、達者なのに、この人ほどの鮮烈な印象を残さない演奏というものはある。というか多い。またグランドピアノで練習していれば、誰でもこの人以上の「何か」を聴き手に与えられる・・・というものでもないだろう。これはその人が弾いている曲の「進度」とか「レベル」とかは一切関係ないことであるように思う。

「いいな・・・」だから弾いてみる。それが聴き手に伝わり、聴き手という他人も「いいな・・・」と思う。これって、結構高難度のことなのでは?「では教わりましょう」とか「はい、教えましょう」というものとは、ちょっと異なる要素というか?

その部分で電子ピアノだと不可能ということはあるのだろうか?

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category: 拍手のない名演

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電子ピアニスト 1 

 

音楽を聴くだけではなく、自ら楽器を弾いて音楽を楽しむ人の割合、年々少なくなってきているそうだ。この中には「一日○時間練習します」という人だけではなく、一週間に一度くらいは楽器を弾いて楽しんでいます・・・という人も当然含まれている。

5年毎に0.8パーセントの割合で「楽器に触れ音楽を楽しむ人」の割合が減っているのだそうだ。「なんだ・・・たった0.8パーセント?」この0.8パーセントという数字は100万人という人数になるのだそうで、ある統計では2001年には楽器に親しむ人は11.3パーセントだったのが、2011年には9.6パーセントに落ち込んでいるのだそうで、現在ではもっと少なくなっているのかもしれない。

簡単に言うと、「音楽離れ」が進んでいるということになるだろう。

電子ピアノの生産台数は伸びているのに、アコースティックのピアノの生産台数は落ち込む一方だそうで、特にアップライトピアノの落ち込みが著しいのだそうだ。もしかしたら電子ピアノの生産台数が増えているということは明るいニュースなのかもしれない。「あんなのは家電でしょ?」という人も多いのかもしれないが、ピティナなどでも「これだけ電子ピアノで練習している生徒が増えている以上、その事実は無視できない」というスタンスになってきているようだ。

これからどうなるか分からない幼児にもグランドピアノを買い与えるという家庭はまれだろう。最初は電子ピアノでという家庭は多いと思う。でも教師側は「でも、いずれはアコースティックのピアノを購入して頂きたい」という希望も持っているように思う。そのこと自体は正しいのかもしれないが、「購入できないのだった教えられません」という教師は意外と少ない。多くの教師は「アコースティックのピアノを購入して欲しいけれど、無理強いはできないし、電子ピアノで日頃練習している生徒も教える」ということになるのだろう。電子ピアノの生徒は一切お断りということだと、ピアノ教育産業は成り立っていかないだろうとも思う。

教師が「電子ピアノだと、こちらも5割くらいしか教えられないのよね」みたいなこともあるのかもしれない。でも「じゃあ、お月謝も電子ピアノの生徒は半分で・・・」という教室は聞いたことがない。このあたりを考えてみると、これからの時代は趣味と専門みたいな仕分けをしていては、ますます楽器を親しむ人の割合は減っていってしまうような気がする。

電子ピアノ=楽器に親しむという趣味、コードなどを覚える、ポップスなら・・・
アコースティックピアノ=クラシック専門

みたいな無意識の仕分けを撤廃してしまう。そうなるといいなと個人的には思う。

「あら、素敵」と感じた要素を、楽器を通して自分でも「あら、素敵」と具現化できる・・・これからは趣味とか専門とか、楽しめば・・・ではなく、そんな視点のピアノレッスンのニーズが高まっていくような気がする。

「電子ピアノは、あくまでも家電で、アコースティックピアノの代用品」というスタンスのままでは、これからの時代は難しいかもしれない。各々がどう感じるか以前に現実として楽器製造会社もアップライトピアノではなく電子ピアノが戦力であり、売り出そうとしていくだろうし・・・

電子ピアノを演奏している人で、「あら?素敵じゃない?」という人を集めてみた。5人ほどいる。今までの時代は、目指すべき演奏・・・となると有名なプロのピアニストの演奏という時代だったが、電子ピアノユーザーの中にも、ネットが発達している時代、チラホラと「素敵だよねぇ…」という演奏をする人も増えてきている、そのような演奏を見つける楽しみもありだと思うがどうだろう?

「やはり電子ピアノだと・・・」「いや、最近は高級器種では電子ピアノでも・・・」など一部で話し合われている間に「楽器に親しむ人の割合」がどんどん減っていってしまうのは避けたいところだ。

kaz




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ディズニープリンセスと男のピアノ 

 

ディズニー映画の「眠れる森の美女」を観る。そんなヒマがあったら譜読みを・・・とは思わなかったねぇ。こんなに素晴らしい映画だとは知らなかった。そしてスティーヴン・ハフの「眠れる森」のキラキラした世界と完全に一致した。

このディズニーの「眠れる森」は1959年に公開されている。何らかの形で、映画館、ビデオ、そこは分からないが、スティーヴン少年も、胸をときめかせて、このディズニーの世界に浸ったのではないかと想像する。

色彩感覚が素晴らしい。そして少年時代の夢やファンタジーを具現化してくれている。キラキラした記憶・・・

でも、これは「女の子の世界」のものだとされている。1960年代のホイレイクという小さな街で、スティーヴン少年が周囲の誰かに「なんて素敵なんだろう!」と表明できたかどうか?感動を誰かと心から分かち合えたのだろうか?胸の中に一人しまっていたのかな?

スティーヴン・ハフと僕は、ほぼ同世代ということになる。僕の少年時代の東京では、明らかにディズニープリンセスの世界は、女の子のものとされていたと思う。僕も幼い頃、ディズニープリンセスの世界に触れたことがある。「白雪姫」だったと記憶している。

「なんて素敵なんだろう?」単純にそう思った。でも誰にも言わなかった。言ったらどのような反応が返ってくるのかは、幼いなりに自覚していたように思う。

小学生の頃、ピアノを習っていたことにより、なんらかのイジメのようなものを受けた記憶はない。練習なんかしないで遊びまわっていたということもあったのだろうが、でも男の子にとって「ピアノを弾く」「ピアノに憧れる」ということは、どこか勇気が必要なものだ。それは現在のピアノ少年でも変わらないと僕は思う。

ピアノを弾くということは、どこか「男の子らしさ」よりは「女の子の世界」に一歩踏み入るということになる。むろん、ピアノ=女の子という図式が正しいとは思わないが、男の子の日常世界、それは友達とか学校とか、狭い範囲の世界であるからこそ、ピアノというものに近づくこと自体に勇気が必要なのだ。

「僕はキラキラしたディズニープリンセスの世界が好きなんだ」普通子どもの世界の中で返ってくる反応は「お前、変わってるな?」みたいなものかもしれない。

「男の子なのにピアノなんて珍しいわね?」という言葉は何度も言われたことがある。傷ついたという記憶はない。でも「女の子だったら何も言われないんだろうな・・・」などとは思った。それどころか、女の子だったら「あらぁ・・・ピアノなんて素敵な趣味ね」みたいな?

今では男の子もピアノを習うことは、昔ほど特別なことではなくなったらしい。でも「女の子と全く同じ」ではないと僕は思う。どんなに楽しそうに屈託なくレッスンに通ってくる男の子でも、なにかしらの「心の奮起」「その子なりの勇気、決断」があったと思う。やはり、やはりピアノというものは、ディズニープリンセスの世界、キラキラしたドレスが舞う・・・みたいなキラキラしたものと通じるところがあるから。

保護者やピアノ教師は、ピアノを習っている男の子には「まぁ、男の子なのに丁寧に弾くのね?」とか「男の子なのに綺麗な音ね」なんて言ってはいけない。「男の子なのに・・・」という言葉は「普通は女の子がそうするものだから」という意味合いになるからだ。少なくとも、その男の子はそう感じる。絶対にその時の感情は表には出さないけどね。

もし、自分の子どもが、いかにも男の子向けのDVDではなく、このディズニープリンセスの世界の「眠れる森の美女」を選んだとしたら、「素敵じゃない?」と言ってあげて欲しい。キラキラした世界に憧れるのは男の子も女の子もないんだから。

kaz




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「眠れる森の美女」 

 

「眠れる森の美女によるパラフレーズ」という曲を弾く予定なのに、実は「眠れる森の美女」というバレエを観たことはなかった。むろん、いくつかの踊りは観たことがあるけれど、全幕を通して観たことはなかった。

「このバレエ・・・素敵だねぇ・・・」というのが第一印象。豪華さもあるかな?絢爛豪華な感じ?この感じは、そのままパブストの編曲版に当てはまるような気がする。ロシア美というのだろうか?よく分からないが・・・

パブスト~ハフ版も豪華ではあるのだが、やはりパブスト版とは異なる印象を持つ。なんというか、キラキラしている。このキラキラの感じは言葉で説明するのが困難なのだが、お子様ランチとか、チキンライスのような?シェフが腕を振るうような、三ツ星レストランで提供されるような料理ではないのだが、ファンタジーと夢、そして憧れがキラキラと散りばめられている感じ?

お子様ランチって、子どもの頃の記憶では、味がどうこうというよりは、目の前にあるだけでワクワク、キラキラしてしまうような?メインディッシュではなく、お菓子とかケーキみたい・・・とも思う。今は珍しくなってしまったけれど、僕が子どもの頃はバタークリームのケーキが主流だった。着色料もバンバン・・・

滅多に食べられなかったんだよね。僕の家が特別に貧乏というわけでもなかったように思う。ケーキというものはハレの日のものだったのだ。「ほら、クリスマスケーキだぞ」父親が買って帰るのを待ちわびていたものだ。その時のケーキは、上品な生クリームのケーキではなく、コテコテとしたバタークリームのケーキ。そう、キラキラしていたわけだ。夢を食べるというかね。

ハフの「眠りの森の美女」は幼い頃のバタークリームのケーキ、お子様ランチ、チキンライスなのだ。夢とファンタジーがキラキラしている。

パブスト版に手を加える時、ハフは少年のようにキラキラしていたのではあるまいか?

パブスト版も、パブスト~ハフ版も、「眠れる森の美女」の中の「ワルツ」をパラフレーズしている。このチャイコフスキーの原曲も、やはりバタークリームのケーキみたいだ。

夢を忘れたわけじゃないんだ。ただ夢やファンタジーが遠くなっただけだ。キラキラしている少年の夢のような曲だ。

kaz




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