ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

手垢 

 

「生ピアノ」とはアコースティックのピアノのことを言うのだと思う。でも僕はこの言葉がちょっと苦手だ。むろん、使うな・・・とまでは思わないが、どこか恥ずかしい感じ?ハムや卵じゃないんだから・・・

ディープな音楽愛好者、特に男性に多いのかなという表現に「フルヴェンの○○が最高だね」という言い方。これもなんだか恥ずかしい感じ。ピアノの世界の人独特の言い回しみたいなものもある。愛好家と同じ感じだが、略してしまう言い方。「ベトソナ」とか「バラ1」「スケ2」とか、あとは「ベーゼン」とか「ベヒ」とか・・・

一般人(?)には通じない、ピアノ仲間だけで通じる言葉?なんだか自分で使うのは恥ずかしい感じだ。

「ピアノの世界に自分は存在しているんだ」という気分(?)になるのかも?それ自体は悪いことではない。自然・・・というか。でも売り渡してしまうものがあるのだとしたら、それはちょっと勿体ない。

「ああ・・・ピアノっていいな、弾いてみたいな・・・」と最初に感じた時のピュアな気持ちを売り渡してしまうのだとしたら・・・

もし、子どもの時、あるいは大人になってからでも「エリーゼのために」とか「幻想即興曲」などに憧れた時はないだろうか?「ああ・・・弾いてみたい」という純な感情。もしかしたら、もうそれらの曲は弾いてしまったのかもしれない。弾いてはいなくても、もっと難しい、いわゆる上級者御用達の曲を今では弾いているのかもしれない・・・

自分の気持ちを覗いてみる。その時に「月の光」とか「ノクターンOp.9-2」のような曲に対して、ピアノを始めた時のような、純な気持ちや憧れを、それらの曲に持っているだろうか?それらの曲、かつては憧れの曲に対して、今でもピュアな感情を持ち続けているだろうか?そのような曲に真摯にむかっていく人に対して、「ああ・・・初級者なのね」「中級ね・・・」と少しでも感じてしまうことはないだろうか?

もし、もし少しでもそう感じてしまうところがあるのだとしたら、それは成長ではなく、感情に手垢がついたということになるのかもしれない。

ピアノ以外の楽器の曲にも、上級者用というのではない、かと言って、初心者教材曲というのでもない、シンプルな曲は存在する。それらの曲、単純に「いい曲だな・・・」と思う。ピアノ曲にも同じような気持ちを持っているだろうか?自問自答してみる・・・

ギター弾きの間ではマリア・リンネマンの曲は知られているらしい。苦節○年・・・という修業を積まなくても、いわゆる初心者でも演奏できるような曲が多いとされている。ピアノにおける「ギロック」のような雰囲気ではあるが、こちらは完全に成熟した大人用の曲。

この曲と同じように、「エリーゼのために」をいいなと(好みということとは少し異なる)感じる心を自分は今でも持っているだろうか?

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ
スポンサーサイト

category: ピアノ雑感

tb: --   cm: 4

△top

「えっ?これがチェルニー?」 

 

先程の電子ピアノの人の演奏で驚嘆したのが、チェルニーの曲の演奏。しかも「チェルニー100番」・・・

さすがに100番練習曲の中の一曲なので、1分かからないような曲だが、まるでジャズみたいだ!!!

イメージとして「このようなものを表出したい」というものが無ければ、こうは弾けないよね・・・と思う。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 音楽自立人、音楽自由人

tb: --   cm: 0

△top

素晴らしき電子ピアニスト 

 

以前に所有していた電子ピアノはコルグというメーカーのものだった。譲り受けたので、値段は知らない。この電子ピアノが接続不良のような雑音を発するようになり、音も途切れるようになってしまった。

「う~ん、これは困った・・・」

むろん、楽器がなければピアノは難しいので、新しい楽器を購入せねばならない。別に先生に相談したわけではないのだが、「電子ピアノを買い替えるので、その間は練習できないかもしれない」みたいな話になり、そして先生が驚いたのだ。「えっ?kazさんは電子ピアノで練習していたのですか?」と。なんというか、この驚きの反応はこれまでにも度々ある。これ、結構快感だったりはする。

「そういうことでしたらローランドの楽器がいいのではないでしょうか?」と先生が言った。「いや、反応が素晴らしいんですよ。電子ピアノも進化していますからね」

これはピアノの先生としては珍しい助言なのではないだろうか?普通はピアノの先生って電子ピアノに対しては「冷たい視線」みたいなものを持っている人が少なくないように感じるので・・・

アコースティックのピアノ、それがアップライトでも、購入する場合は、ピアノの先生に相談するというケースはあるだろうと思う。では電子ピアノを購入する際はどうなのだろう?まさかネットで購入なんていうことは少ないのだろうが、楽器店で一緒に選んでくれる先生なんているのだろうか?そもそもピアノの先生はどれくらい電子ピアノについて知っているのだろう?

量販店に陳列されているのは、割とお値段の親切な機種が多いのでは?「これが電子ピアノなのね?まっ、これじゃタッチがしっかりしないわけね・・・」

電子ピアノも色々だ。アコースティックのピアノ以上に幅があるような気がする。「これ、小さなグランドピアノ、買えるじゃない?」みたいな、お値段の親切ではない機種の電子ピアノもぜひぜひ弾いてみて欲しい気はする。小さなカルチャーショックかもしれないよ?

まあ、たしかに「どうせこの子は趣味だから」とか「いつまで続くか分からないし~」みたいな感覚で電子ピアノを選んでしまうと、そのままピアノライフに反映されてしまうような気はする。スカスカタッチの機種も多いから。では頑張ってグランドピアノを購入すればピアノは続くものなのだろうか?そういうことでもないだろう。

とても素敵な演奏をする人の演奏を聴いたとする。もしその人がスタインウェイなりベヒシュタインなりのグランドピアノで練習しているのならば、ある意味「そうね・・・納得ね」となるだろうが、もし素敵な演奏をする人が電子ピアノで練習していたら?そんなことはありえない?どうでしょう?サークル仲間とか、同じ教室の生徒とか、自分の生徒とか・・・

グランドピアノで練習している人が、そのままいい演奏をする人だろうか?電子ピアノで練習している人は、それなりに・・・だろうか?例外はない?そんなことないよね?

いい音、自分の理想の音みたいなものが存在していて、自分でもそのような音やサウンドが欲しいと熱望し、そこに近づこうとしている人が上手くなるのではないだろうか?そのような意味で、「電子ピアノだと不可能!」と切ってしまうこともないと思う。

楽器<耳・・・なのでは?違うのかな?

この動画で演奏している人は電子ピアノで練習している。割と僕と似ているピアノ歴かな・・・などと思う。僕は子どもの時はアップライトピアノだったけれど、この人はシンセサイザーで練習していた。アップライトピアノにグレードアップ(?)し、そして僕と同じようにピアノは弾かなくなってしまい、長いブランクがある。僕は聴くだけという生活だったけれど、この人はピアノを弾いていない期間はギターを弾いていたみたいだ。そしてピアノ再開。電子ピアノ購入・・・

「さあ、正しい正統的なレッスンでしっかりと・・・」というピアノではなく、自分の頭の中のサウンドを自由に追う、どこか自己流ピアノ・・・このあたりのスタンスも僕と似ている気がする。

演奏に対する感想なんて、それこそ主観的なものなのだろうが、僕はこの人の演奏、とても素敵だと思う。グランドピアノで練習さえすれば、誰でもこの人以上に演奏できるのだろうか?

「電子ピアノだと無理なのよ」というのはちょっと残念かな。「私は電子ピアノで練習しているから表現力がないのね」これはもっと残念かな・・・

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: ピアノ雑感

tb: --   cm: 0

△top

海外で頑張る日本人 

 

オーボエはあまり聴かないかなぁ?よく知らないというか?子どもの頃からアルビノーニのオーボエ協奏曲だけは好きだった。どこかオーボエ=バロックというイメージを持ってしまったのかもしれない。

このピアソラ、オーボエなんだね。結構珍しいかもしれない。ピアノだとタッチ・・・というところになるのかもしれないが、発音の瞬間のデリケートなところがいい。発音の瞬間に微妙なる薄いところから入って・・・みたいなところがいい。コントロールされている感じが好きだ。

この感覚、ピアノだとなぜに困難なのだろう?音が多いから?全部を一人で頑張るから?発音の瞬間の微妙なコントールがないと、スコンスコンと、どこか「打っている」「叩いている」的な音にどうしても感じてしまう。音としてはそう感じるが、フレーズという単位で聴くと、抑揚がなく表現に欠けるという印象さえ持ってしまう。輪郭がぼやけてしまう感じ?どの音も同じような音なんだもん。

オーボエの音、発音って、どこか人間の声、歌に近いように感じるのは僕だけか?

豊潤なハーモニーに、オーボエの発音の瞬間のような、どこかクリスタル感覚の音が浮かび上がる・・・みたいなピアノがいいな。

このオーボエの演奏は日本人の演奏。ケルン放送管弦楽団のオーボエ奏者。ドイツで頑張っているんだね。指揮をしているのは、同じオーケストラのファゴット奏者。日本人、活躍しているねぇ・・・素晴らしい!

この人に限らず、管楽器の人って吹奏楽出身の人が多いらしい。この人も中学校の吹奏楽部で音楽に開眼したみたいだ。でも自分の楽器も持たず、指導者は同じ部の先輩・・・みたいな感じで、「専門的にエリートコースを・・・」という感じではなかったみたいだ。

専門的に音楽の道に進みたい・・・そう希望した時、まず考えるのは音大進学。ご本人が自ら語っているのだが、この人は京都芸大を受験するが失敗している。翌年は東京芸大を受験するが、そこでも不合格。

問題となったのは、オーボエではなく、なんとピアノだったのだそうだ。高校3年生からピアノを習い始めた。スロースターターではあった。でもオーボエ専攻の受験生をピアノの腕前で判断して落とす???なんとも不可解なことに素人には思えてきてしまう。そんなものなのだろうか?「高3からピアノ?芸大?それは厳しいのでは?」という感覚がむしろ普通なのだろうか?

「あの時芸大に合格していたら、自分は今でも日本にいると思いますねぇ・・・」

「3浪はできないな・・・」その時、ドイツから来日していたオーボエ奏者に聴いてもらうチャンスがあったらしい。

「日本がダメならドイツで吹いてみませんか?」

日本の音大を卒業しての留学ではないので、すべての授業をドイツ語で履修しなければならず、ドイツ語も話せないし・・・ということで、それはそれは大変だったみたいだ。僕も似たような経験があるので、なんとなく理解できる。夜、悪夢を見てうなされたりしました・・・

卒業するまでも大変だっただろうが、卒業後もドイツに残り外国人として頑張っている、これは本当に大変なことなのではないだろうか?

日本の音大受験システムだと、このオーボエ奏者のような人は、消えていってしまう運命なのだろうか?彼のオーボエを聴いていると、オーボエで受験しているんだから、ピアノなんかどうでもいいではないか・・・などと思えてきてしまう。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

奇跡と誇り 

 

今から20年前、ルディ・ガリンドは全米選手権を制した。同じ年、世界選手権でも銅メダルを獲得した。本人もビックリっだったのかもしれないが、周りもビックリしたのではないだろうか?誰も、彼が全米選手権で優勝できるなんて予想していなかったから。

ルディ・ガリンドの全米でのフリー演技は、自分が元気を貰いたい時に観たりする。ただただ「オーラが凄いな!」などとも思う。競技生活において、最高の舞台で、最高の演技をする、その秘訣みたいなものに興味はあった。この演技はまさにそのような意味で奇跡のような演技だからだ。

ルディ・ガリンドは、かつてはペア競技の選手だった。パートナーはクリスティ・ヤマグチ。全米で二度優勝し、世界選手権でも、これまた二度5位になっている。実に立派な成績だ。クリスティがシングルに専念することになり、ルディもシングルの選手として現役を続行することとなった。元パートナーはどんどん成長していき、世界選手権でも、そしてオリンピックでも金メダルを獲得した。シングルに専念したのが良かったのだ。しかし、ルディは低迷してしまう。国内大会でも成績が振るわず、全米選手権のメダル、世界選手権などは夢のまた夢・・・

ペア時代の実績があったことで、ルディは余計に苦しんだのではなかろうか?クリスティに対しても応援してはいただろうが、複雑な思いもあっただろうと思う。

予想外に(?)健闘しショートを終えて3位で迎えたフリー。誰もルディが優勝するとは思わなかった。ここまで来られただけで奇跡なのだと・・・

振付師のローリー・ニコルが興味深いことを言っていた。「選手はその時に幸せでないとジャンプの成功率が低くなる」と。そんなものかもしれない。「どうしよう?」とか「どうせ自分なんて・・・」と少しでも感じてしまったら終わりだろうしね。

1996年の全米選手権、ルディ・ガリンドは幸せだったのだろうか?そのようには見える。ジャンプはもちろん、すべての動作に自信が満ち溢れている。オーラを発し、観客を虜にしてしまっている。

でも、なぜこの時にそれが起こったのか???

この演技は大好きなので、今までにも何回も観ている。今回気づいたことがある。「随分とゲイテイストを感じるプログラムであり、衣装だな」と。むろん、キス&クライの場面などでも感じることだが、ルディはゲイである。それまではどうだったのかは知らないが、少なくとも、キス&クライ、そして演技終了直後、ルディは自らがゲイであることを隠してはいないように見える。興奮して思わず・・・だったのかもしれないが、でもどうなのだろう・・・

ルディがゲイであることを公表し、さらにHIVに感染していることをも明らかにしたのは、世界選手権後、プロに転向する時だったように記憶している。全くの個人的憶測だが、全米選手権の時、ルディは自分が感染していることを知っていたのかもしれない。「同じ病気の人たちに勇気を与えたい」と公表時に語ったルディだが、この奇跡の演技の時にはすべてを知っていたのかも?

なのでセクシャルマイノリティであるゲイという自分らしさというものを、それこそ全面に押しだした。音楽も振付も衣装も髪型も・・・

ルディは幸せだったのか?自分らしさを正直に出せたのだったらそうだろう。ここまでジャンプが軽々と跳べているのだからそうなのだろう。でも幸福感というよりは、誇りを感じていたのではなかったか?なんとなくそう思う。

衣装で感じた。ゲイっぽい衣装というと、ヒラヒラフリル満載の王子様的な衣装を連想しがちだが、むしろこの時のルディの衣装のようなシック系の衣装にゲイテイストを感じてしまう。

ネックの部分と袖の部分だけが白い。ネックの部分なのだが、遠目だとホワイトリボンに見える。これは意図的なデザインだったのではないだろうか?ホワイトリボンにはいろいろな意味合いがあるが、その中の一つにセクシャルマイノリティであることで悩み、自殺をしてしまう若者を阻止したい・・・という意味がある。この衣装はルディのメッセージでもあり、自らを誇りに思えた証だったのかもしれない。

1996年、全米選手権男子シングル・フリー・・・ルディ・ガリンドは誇りを感じていたのではあるまいか?

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: The Skaters

tb: --   cm: 0

△top

アステアのように踊るピアノ 

 

スティーヴン・ハフのトランスクリプションを選曲した理由として、ハフというピアニスト、作曲家をもっと知ってもらいたいという気持ちが大きい。有名であるといえば、そうだ。でも日本ではどうなんだろう?昨年は久しぶりに来日してくれたけれど、東京での公演のみ。全国縦断ということはしなかった。ハイぺリオンから次々に新譜が発売されていて、海外での評価、認知度は高いと思うのだが・・・

数年前からニューヨークのジュリアード音楽院でも教えている。ハフの演奏スケジュールを見ても、演奏活動を制限しているわけでもなさそうなので、日本でももっと演奏して頂きたい感じだ。日本ではあまり演奏してくれないので、台湾やシンガポールまで「ハフ巡礼」に出かけるファンも存在しているみたいだし。

ハフの魅力として個人的に感じるところだが、音そのものに丸みがあり、さらにクリスタルな硬質感も共存していて、どこか軽さを感じるところ。ヘビーではない。コロコロ・・・キラキラ・・・

バリバリという鋼鉄の連なり・・・という音のピアニストが主流の中、フリードマンのような、かつての往年のピアニストのような軽さを感じさせるハフの存在は貴重だと思う。生きている、現在進行形ということが素晴らしい。

労力とか、汗というものを感じさせない演奏だ。そこのところが日本のピアニズムとは距離を感じさせてしまうのかもしれない。なので、日本での知名度は今ひとつ・・・のような?

アステアの踊りを彷彿とさせるピアノだ。重力を感じさせない、音が空間に浮遊し飛翔していくような軽さがある。

表現力不足を感じさせてしまう演奏に共通しているのは、動作(タッチ?)が早すぎるのだ。自分の意思を反映させたコントロールされた動作ではなく、どこかスコンスコンと弾いてしまう。動作よりも前に意思がなくては。コントロールしてから弾く・・・

ハフの演奏動画は、そのあたりの秘訣が非常に分かりやすいようにも思う。

ピアノはギュウギュウ入魂しなくても、コントロールしてあげれば鳴ってくれる・・・ハフの演奏を聴くとそう感じる。自分でできるのかは別なんだけど・・・

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: Stephen Hough

tb: --   cm: 0

△top

アステア流チャイコフスキー 

 

チャイコフスキー~パウル・パブスト~スティーヴン・ハフ 「眠れる森の美女」によるパラフレーズ・・・

チャイコフスキーのバレエ音楽をパブストがピアノのために編曲したバージョンを、さらにスティーヴン・ハフが編曲したもの。重ね編曲という感じだろうか?パブスト版は、いかにもロシア的ゴージャス感の漂う編曲。ボリショイ劇場のバレエが目に浮かぶような?

スティーヴン・ハフ版は、パブスト版と曲構成はそのままなのだが、パッセージ、音型処理が異なる。ロシア美にフレッド・アステア美を加えたような?ロシア美をアステア美に変換したような?

ハフの演奏にも感じるのだが、ヘビーな豪華さというよりは、どこか浮遊するような、飛翔するような感覚がハフのトランスクリプションの魅力のような気がする。

実は「ヴォカリーズ」もなのだが、ハフの「眠りの森」は以前にも弾いている。第1回のピアチェーレとか、その年の発表会とか・・・

その時は弾くだけで精一杯だったと思う。今回は余裕が生まれたわけでは決してないのだが、「ハフ美」を強調できればいいと思う。こんな編曲をするピアニストが、なんと現代に活躍中という心からの喜びを感じる。

軽さ、エレガントな飛翔、浮遊するサウンド・・・これは、かつてイグナツ・フリードマンが得意としたサウンドだ。ハフは継承しているように思う。まさにフレッド・アステアのような・・・

もしかしたら、この曲は北海道初演になるのでは?分からないけれど・・・

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

泣きのラフマニノフ 

 

演奏会の告知です。7月17日(日)札幌のポルトホールというところで演奏します。開場は14時のようです。チャリティーコンサートなので、入場料がそのまま寄付となります。1000円です。

どうも、「~というところで」とか「~のようです」と、どこか他人事感がありありだが、それは僕が東京在住のため。札幌は僕にとっては未知の土地。感覚がつかめないんですよね、演奏ではなく、その他のクダラナイことが。服装(本番ではない)はどうしようとか・・・

7月だと、僕の服装は短パン+半袖シャツとなる。東京だとそれでもいいが、札幌だと奇異の目で見られるかもしれないとか、そのようなくだらんことで悩む。地理的なことも頭に入っていないので非常に不安だ。札幌に地下鉄が走っているなんて知らなかったし。でも札幌で遭難・・・なんて聞かないので、まあ大丈夫だろうが・・・

サークル仲間など、基本的には東京、関東の人に告知しても仕方ないだろうと思う。「聴きに来て♥」なんて気軽に言える距離ではないしね。でもこのブログを読んでいる人の中には北海道、札幌近郊に住んでいる人だっているかもしれない。もし「あら?17日だったら聴きに行けるわ」という方がいたら嬉しい。

チャリティーコンサートに関する情報は、このブログにリンクしてある「愛の夢のつづき」というブログに詳しいので参照して下さい。・・・と、なんだか丸投げな感じだなぁ・・・

僕の演奏曲ですが・・・

ラフマニノフ~アール・ワイルド  「ヴォカリーズ」Op.34-14
チャイコフスキー~パウル・パブスト~スティーヴン・ハフ  「眠れる森の美女」によるパラフレーズ

となります。

告知というか、演奏曲について少し。と言っても、作曲年代がどうとか、そんなことを書いても面白くないので、雑感を書こうと思う。

アール・ワイルドのトランスクリプションは、最近では、かなり演奏される機会も増えたのではないだろうか?ゴージャス感がなんとも魅力的なのだが、アール・ワイルド自身、つまりピアニストとしてのアール・ワイルドはどれくらい認知度があるのだろう?むろん、「あっ、ヴォカリーズを編曲した人よね?」とは多くの人が思うだろうが、実際に(生演奏ではなくても)演奏を聴いた人ってどれくらいいるのだろう?意外とそれほど多くはないのではないか?

彼の演奏は「良き時代のロマンティシズム」の一言で表現できよう。曲によって「こってり」と「あっさり」とに大別される感はあるが、どこかロマンティックで、全体的には現代のバリバリ系というよりは、往年系のピアニストではある。

僕はやはり「こってり」傾向の演奏の方が好きかな?「こってり」どころではなく「泣き」が入っているような演奏。「これぞワイルド!」という感じ?でも名前はワイルドなんだけれど、上品な演奏とも感じる。でも「泣き」が入るんだよねぇ、そこが好きなところだ。

「ヴォカリーズ」に関しては、どうも音の数に翻弄されているような、エチュードですか?と思いたくなるような演奏が残念ながら多いような気がする。とにかく難しいんだな。なのでそうなる。でも技巧的な曲という感じではなく、このアール・ワイルドの演奏のような「泣きたいほどのロマンティシズム」というものが出せればいいな・・・などと思う。

この「愛の悲しみ」は、アール・ワイルドの「泣き」を満喫できる演奏のような気がする。

ラフマニノフは闘わないで泣かなくちゃ!

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

昔の流行歌歌手 

 

最近戦前、戦中、そして戦後の歌謡曲、そして歌手たちに興味があり、色々と調べたりしている。歌謡曲なのだが、現在では叙情歌とカテゴライズされるような曲。女性も男性もだが、昔の流行歌歌手は非常にクラシックの発声に近いというか、折り目正しい美しさがあったように思う。これは、歌手たちが音楽学校出身者が多かったということもあるだろうし、叙情歌そのもの(当時の歌謡曲)にそのような、美しさ、発声が求められたということもあるだろう。

一般的にその種の歌手で有名なのが藤山一郎なのだと思うのだが、他にも霧島昇や岡本敦郎、津村謙・・・素晴らしい歌手が沢山いて驚く。個人的には津村謙が好きだ。当時は「ビロードの声」と言われたのだそうだ。「上海帰りのリル」とか・・・知ってます?

伊藤久男という歌手を知っているだろうか?「イヨマンテの夜」とか「あざみの歌」などのヒット曲がある。この人も音楽学校(当時はどの音楽学校も大学・・・ではなかった)出身の歌手。たしか武蔵野音楽学校ではなかったか?

伊藤久男の「荒城の月」が素晴らしい。流行歌そのものが歌曲のような時代の歌手なので、違和感は全くない。なんという柔らかさだろうと思う。

現代のクロスオーバー歌手(?)の秋川氏の歌も「荒城の月」ではあるが、伊藤久男的な「荒城の月」もあるのだ。知らなければ、一つのものを「目指すサウンド」としてしまう可能性がある。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: ピアノ雑感

tb: --   cm: 0

△top

周囲に存在していた音 

 

指が動かないから弾けない、メカニックが不足していて弾けない、このような例も多いのだろうが、一般的にはピアノを弾いている人の根本的悩みは、表現力が今ひとつ・・・ということなのではないだろうか?練習を重ねれば、曲というか、音符の連なりは音にすることができる。一応、強弱もつけることは可能。先生のダメ出しを守り、テンポ揺らしも頑張る。でも曲として、どこか抑揚に欠けるというか、ただ弾いているだけというか?

表現力って、目に見える(耳に聴こえる?)ようなこと、「ここがまだ弾けていない」のような、明確な改善点というものを見出しにくい部分だ。なので、「才能」とか「感性」ということで片づけてしまいがち?

ピアノの場合、タッチというか、音というか、出したい音、サウンドのイメージそのものによって差が出てくるような気はする。むろん、実践テクニックの習得も必要だろうが、いくら頑張ろうとしても、そもそも自分の持っている音、サウンドのイメージに、ある意味での偏りのようなものがあれば、言葉を変えると、一つの限定されてしまった音しか頭の中で想定できなかったら、それ以外のイメージによる音表現みたいなものは、出ないのだ。もともと持っていないものは出ないから。

メカニカルな個々の問題とかイメージということよりも、ざっくりとした全体イメージとしてのピアノの音、ピアノのサウンドそのものに、どこか硬質な固いイメージを抱いているのならば、そしてそれが普通のピアノの音とインプットされていたら、「柔らかく歌いたい・・・」と思っても難しいのではないか?柔らかな音としてのイメージそのものがないわけだから・・・

なんとなく、「ピアノのいい音」としてのイメージに、どこかラジオ体操のピアノのようなサウンド感覚を持っている人もいるのでは?そこまでではなくても、どこか「しっかりとした」みたいなサウンドイメージをピアノに持ってしまっているというか・・・

これは、その人がどのようなピアノの音に囲まれていたのか・・・ということに関わってくると思う。どこか「さあ、しっかり弾きましょう」的なサウンド=ピアノの音・・・として成長すれば、それが目指す音となる。その音しか知らないから・・・

声楽が好きな人は、まあ、別として、クラシックそのものを聴かない、どうも苦手という人だけではなく、ピアノは好きだけど、ピアノ曲しか聴かない・・・なんていう人は、一般的にクラシックの声楽家の声に対して、どのようなイメージを抱くだろう?どのような発声、声を「あっ、クラシックの歌手の歌い方ね?発声ね?」と認識するだろう?

おそらく、この動画の人の歌い方、発声を「あっ、クラシックの歌手ね」と思うのではないだろうか?

むろん、この歌い方もクラシックの声楽の声・・・ではあるとは思うが、このような声、サウンドだけが声楽ではない。一つだけではないというか。ピアノのサウンドも同じだと思うのだ。この歌手がいけないのではなく、この歌い方がいけないのではなく、「これがクラシックの声楽ね」と一つのサウンドをすべてのサウンドの代表としてしまうような、どこか狭い受け取り方がいけないのだ。これしかない・・・みたいな?

この発声(サウンド)だけをクラシックの歌い方と認識してしまい、この発声による歌唱しか知らなかったら、これ以外のサウンドは想定できない。

右手と左手、旋律と伴奏との強弱の違いはつけられる。でも音の色、音の質として、同じような音であれば人は変化の乏しさを感じてしまう。演奏する側がいくら一生懸命でも「サウンドの差」を感じさせなければ、聴き手は退屈してしまう。同じような「しっかりした音」だけではないピアノのサウンド、そのサウンドそのものを知らなければ、努力だけでは表現できない可能性がある。

個人的には、このような歌い方というか、発声は好きではない。汗というか、力を感じてしまうから。でもこれは僕の感覚であり、この歌い方がいけないのだとは思わない。ただ好きではないだけ。立派な朗々とした声だし、「わ~いい声ねぇ・・・さすがクラシックを専門的に学んだ人の声って違うのね・・・」と感じる人もいるだろうし、そのような感じ方もあっていいのだ。でも「これが~なのだ」と狭くなってしまったら残念なのだ。ピアノも同じかなぁ・・・

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: ピアノ雑感

tb: --   cm: 0

△top

生活の中の音楽 3 

 

この曲は、もう50年近く昔の歌謡曲になるのか?切ない曲だねぇ・・・

弾き語りをしている人は、実に沢山の歌をアップしている。結構懐かしめの曲が多いだろうか?どの曲を聴いても感じるのが、「この人、歌が好きなんだなぁ・・・」ということ。

人前で演奏する機会を持っている人は特にそうだと思うのだが、本番後に自分の演奏について語る時、それはブログなどでもそうだし、本番後の打ち上げで感想を述べる時などもだが、少しは自分を肯定しているだろうか?

「全然弾けなかったんですけど・・・」「まだまだ練習不足で申し訳ありません」「お耳汚しで・・・」「ちょっと崩壊してしまい悔しいです」まだまだです、まだまだです、まだまだです・・・

誰にでも理想の演奏、自分なりに目指す演奏というものはあるので、当然自分の演奏に対しては点数も辛くなるのだろうと思う。「アルゲリッチよりも上手く弾けて自分でもビックリしています」とは思えないだろうが、少しは自分で自分を褒めてもいいのでは?自分のいいところって皆無???

「弾けますように・・・」「ミスしませんように・・・」演奏前はこのような心理状態になるだろうが、こう思ってみてはどうだろう?「ピアノが好きな気持ちは誰にも負けない」と。

自分の目指す演奏、到達度とか完成度とか、それにプラスして「好きという誰にも負けない気持ちが伝わるといいな」を目指してみたらどうだろう?

「あ・・・この人本当にピアノが好きなんだな・・・」と聴いている人が感じるような演奏も目指してみる。ミスとか、完成度の他にね。

それにしても、この人、本当に歌が好きなんだろうなぁ・・・

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

生活の中の音楽 2 

 

現在ピアノを習っている子どもたち、将来はピアノを辞めてしまう子どもたち・・・

そのすべての子どもたちが、大人になった時に、この人のようにピアノと接することができるように願う。

子ども時代にピアノは完結してしまうものでもないような?

一日の中で、少しでも自分で音楽を紡ぐことのできる生活を、そのような生活を将来送れるような、そんなレッスンを子ども時代に具現化して欲しい。

音楽もピアノも子どもだけのものではないのだから・・・

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

生活の中の音楽 

 

一生懸命弾きこなすだけのピアノではなく、たしかに人前での演奏に向けて仕上げていくというピアノは王道なのだと思うのだが、それだけではなく、生活の中のひと時に、音楽を、ピアノを奏でてみる、そんなピアノにも憧れる。

聴いている人が唸ってしまうような、闊達な、達者な演奏ではなくてもいい。積み上げてきた成果を披露するという完成度重視の演奏でなくてもいい。

生活に溶け込んでいるような、演奏するものにとって至福のような演奏、そんな音楽があってもいい。そんな演奏に憧れてもいい。

僕なりに「生活の中の演奏だな・・・」と感じる動画を集めてみた。

最初はギターの演奏。ただただ単純に「いいな・・・」と思う。

生活の中の音楽、だったそれだけのことが、どうしてこんなに難しいものなのだろう?

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

「雨と小犬」 

 

野良猫の淡い記憶などを書いたためか、あるCMを思い出してしまった。もう30年以上昔のCMだが、鮮明に記憶に残っている。サントリーのCMだ。内容としては、小犬が京都の街を雨の中さまよっている・・・というだけのものだ。

この小犬は保健所に捕獲されており、殺処分寸前の犬だったのだそうだ。スタッフが偶然に殺される運命だった小犬を見つけ、そして撮影に起用した。その後はスタッフがこの小犬を実際に育てたのだそうだ。

そのような事実関係を知らなくても、この古いCMの映像を見ると、多くの人は何かしらの心の動きがあるのではないだろうかと想像する。むろん、なかには「犬が歩いているのね?だから?」という感覚の人もいるだろう。でもそのような人はピアノなんて弾くだろうか?

何かしら自分の中で動いた・・・この人間としての感情とピアノとを結びつけてはいけないのだろうか?それはアマチュアならではの甘さ?

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

「明石の空の下で」 

 

ピアノ教師でも、奏法のことを文章、たとえばブログなどで表現することには困難さを伴うという。おそらく書き手がAということを想定して書いていたとしても、読む側にはA~Zという幅広い解釈というものが存在するからであろう。傍らで弾いてしまえば100パーセント理解してもらえるようなことでも、文章だと難しいのだろう。

弾き方、奏法に関してもそうだが、そもそもピアノを弾いているという動機を文章で表現するのも難しい。

「う~ん、好きだから」の一言で代弁できてしまうような?「楽しいから~」ではない。それもあるが、それだけではない。でもなんで弾いているのか?

「上達したいから」なんだろうけど、やはり多くの人は「超絶難曲をアムランのように弾きこなす」というところを目的としてはいないだろうし、ピアノの世界に深く入っていくということは、音符の量も増大していくのが普通だから、なんとなく「アムランのように・・・」と弾ける人ほどなりがちなのかもしれないが、でも動機としてはそこではないような?

個人的には自分が受けた何かしらの感動、感情、情念みたいなものを、それは日頃は心の奥底に隠しているようなことなのだけれど、ある種の音楽や演奏を聴くと、その部分に触れてきてしまう。そうなると、自分でその部分を音として発散したくなってくる・・・こんな感じだろうか?しまいこんでいるのが辛くなってくるというか・・・

このブログに愛読者という人がいるのかは不明だが、もし存在するとしたら、このギタリストはお馴染みなのではないだろうか?Cyrloudさんというフランスの人だ。アマチュアなのか、プロなのか、どのような経歴の持ち主なのか、それは調べてはいない。僕にとってはどうでもいいことだから。ただこの人の演奏が好き。とてつもなく好き・・・なのだ。

彼が演奏しているのは「明石の空の下で」という曲。やはりフランスのギタリスト、作曲家であるジャン=マリー・レーモン(男性です)という人が日本のギタリスト、稲垣稔氏のために送った曲。稲垣氏は癌で若くして亡くなってしまうのだが、最も苦しい闘病中、それは亡くなる数ヶ月前だったそうだが、この稲垣氏に捧げる曲、「明石の空の下で」が送られてきたのだそうだ。

曲もCyrloudさんの演奏も素晴らしい。他人への「気」というものが入っているというか?

このように自分も・・・ということなのだろうが、この演奏からある記憶が浮かぶ。その記憶に伴う感情を音で表現したいというのが、僕の場合の「動機」となるだろうか?

5歳の頃だったと記憶している。その頃には東京にも野良猫がたくさんいた。ある野良猫と目が合ってしまった。そのまま通り過ぎてしまうべきだったのだろう。僕は無意識に、その野良猫と目線を合わせてしまった。何秒間だっただろうか?僕は野良猫がミャーと微笑んだような気がした。僕が歩くと、野良猫も距離を保ちながらついてきた。悪い気はしなかった。可愛いと思ったし。家が近くなると、現実的な考えが浮かんだ。「飼う・・・なんてことはできないだろうな」と。「シッ・・・」と追い払うことなんてできない。その時に近所のおばさんに会ったのだ。「あら?野良猫?困るのでしょ?しつこいのね?」おばさんは猫を追い払った。その時の野良猫の目、表情が忘れられないのだ。裏切られた、というような複雑な表情をしていた。僕を恨んでいるような・・・

「明石の空の下で」と野良猫とは一切関係のないことなのだが、この時の猫の表情、そして僕の感情、それらが僕の中でつながるのだ。

ギターは弾けないので、僕はこの「明石の空の下で」を実際に演奏することはできないが、ピアノ曲を演奏する場合も、なにかしらの自分の内側からの何かというものを感じてはいると思う。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: ピアノ雑感

tb: --   cm: 0

△top

東洋音楽学校 

 

米山正夫は東洋音楽学校のピアノ科卒業。ピアノの腕前はどうだったのだろう?それは想像するしかないのだが、卒業生代表演奏のようなものに選出されるぐらいの腕前ではあったようだ。昭和9年のその種の演奏会で、彼はファリャとムソルグスキーを弾いている。時代を考えると、かなり大胆な選曲ではある。やはりベートーヴェンの「奏鳴曲」のようなドイツ傾倒の曲がピアノ科の場合は主流だったと思うので。

昭和10年には流行歌の作曲家としてデビューしているので、在学中の思惑はご本人ではないので分からないが、どうもクラシックではダメだから歌謡界に転身した・・・というわけでもないような気はする。米山正夫はデビュー当時、「上品で音楽的な作品を提供したい」という抱負を語っている。

同じように東洋音楽学校のピアノ科出身で歌謡界に転身した作曲家に船村徹がいる。在学中に船村徹は同じ学校の高野公男と知り合っている。高野は作詞家としてデビューするが、全く売れなかった。船村と組み、そして春日八郎に提供した「別れの一本杉」が大ヒットし、ようやく名前が知られるようになったが、高野は結核のため26歳で亡くなってしまう。春日八郎もまた、東洋音楽学校の出身であった。作曲家では童謡の世界で活躍した海沼實もこの学校の出身。戦後、子どもたちに希望を・・・と童謡を提供した。「みかんの花咲く丘」や「里の秋」など。

歌謡界というか、芸能界に転身した人には、東洋音楽学校出身の人が何故か多いような気がする。偶然なのだろうか、それとも当時は自由な校風があった?

当時の歌謡曲の歌手は、現在と異なり、どこかクラシック風の発声で歌う歌手が多かったような気がする。今よりもクラシックの専門学校=歌謡曲の歌手というものが、それほど違和感なく受け入れられる時代であったのかもしれない。

子どもの頃、両親が淡谷のり子に対して「この人はクラシックで食べていけないから歌謡曲に転身した」のようなことを言っていた記憶がある。淡谷のり子も東洋音楽学校出身の歌手だ。なんとなく、クラシックでは食べていけないとか、クラシックでは通用しなかったから・・・という言葉の奥底には「クラシックが音楽を支配している」みたいな偏見を感じて、個人的には好きではない。厳しさ、それは生きていくにも、単純に食べていくのにも、クラシックの世界よりも、むしろ歌謡曲の世界のほうが厳しかったのではないか?そんな風に思ったりもする。

黒柳徹子が東洋音楽学校出身であることは、有名であると思うのだが、女優の津島恵子とか俳優の和田浩治(知ってます?)もこの学校の出身。ここまでくると(?)なんとなく畑違いの学校から・・・という気もしてくるが、歌謡曲の歌手には本当に東洋音楽学校出身の人は多い印象だ。春日八郎もそうだし、織井茂子(君の名は)、霧島昇(愛染かつら)菅原都々子(月がとっても青いから)、奈良光枝(青い山脈)・・・

米山正夫はこんな曲も残している。ある企業が提供するテレビ番組(天気予報だが)の曲。昭和生まれの人なら一度は耳にしたことはあるのでは?天気予報という番組のための曲だから、感動に打ち震えるとか、熱い涙が湧き出る・・・という感じの曲ではないが、デビュー当時、米山正夫が決意した「上品で音楽的な作品を提供する」というもの、これは感じとれるような気はするが、どうだろう?

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 昭和

tb: --   cm: 0

△top

愛のムチ 

 

米山正夫という作曲家について、多くの歌手(演歌や歌謡曲の)が語っているが、共通しているのは、非常に気さくで温和な人だったということ。戦中、戦後期からヒット曲を書き続け、それらの曲は日本人のスタンダードにさえなっていたから、とても偉い先生=厳格な恐ろしい人というイメージを最初は歌手たちは持ってしまうらしい。

チータという愛称で知られる歌手、水前寺清子の本名は林田民子というのだそうだ。チータという愛称は作詞家の星野哲郎が命名した。「ちっちゃな民子」という意味らしい。水前寺清子を星野哲郎は非常に可愛がったらしい。愛弟子というか・・・

水前寺清子の20何枚目かのシングルで、星野哲郎と米山正夫とが組んだ。「米山先生の曲・・・」

「森の水車」や美空ひばりの数々の名曲が水前寺清子の頭に浮かんだ。「まだ生きていらっしゃる方だったんだ・・・偉い雲の上のような方なんだ・・・」

新曲「三百六十五歩のマーチ」は星野哲郎の愛のムチでもあった。「息の長い歌手であるためには、どんな曲でも歌いこなせなければならない」

「えっ?これが私の新曲?ワンツー・ワンツー・・・英語?運動会の歌?マーチ?」それまで演歌一筋に歌ってきた水前寺清子に拒否反応が起こった。「これは私の歌じゃない。こんなの歌えない・・・この曲を歌ったら水前寺清子という歌手は終わってしまう」

一時間ほど彼女はスタジオでごねたらしい。「歌いたくない。これは私じゃない・・・」

プロデューサーが彼女に静かに言った。「チータ、君は歌手なんだろう?一度だけでも歌うべきなんじゃないか?」

「歌手?もし歌手生命がここで終わるのであったら、最後のつもりで、せめてしっかり歌ってみよう・・・」

三百六十五歩のマーチに水前寺清子の歌声がかぶさった・・・その時、それを聴いていた作曲家の米山正夫が笑顔を浮かべながら、腕で大きな大きな丸を作ってくれた。「チータ、いいじゃないか・・・・」と。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 昭和歌謡「公園の手品師」の日記

tb: --   cm: 0

△top

「車屋さん」 

 

米山正夫という人は初期の美空ひばりに名曲を提供している。「津軽のふるさと」もそうだし「リンゴ追分」もこの人の作曲だったんだね。知らなかった。

美空ひばりの歌唱を好んで聴く・・・ということはないけれど、この曲は美空ひばりにとても合っているのではないかと思う。高峰秀子に「森の水車」、近江俊郎に「山小屋の灯」、そして美空ひばりに「車屋さん」と、どこか「適材適所」という感じもしてくる。

歌謡曲の場合、曲から作曲家の個性を感じるというクラシック的なものよりも、曲そのものが、提供する歌手の個性を生かすというところがあり、考えてみれば、これは相当難しいことなのではないかとも思う。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 昭和歌謡「公園の手品師」の日記

tb: --   cm: 0

△top

「山小屋の灯」 

 

昭和22年といえば、学校制度が6・3・3制になったり、新憲法が施行された年でもある。まだまだ戦後の混乱期だったのではあるまいか?でも戦時中ではない。「森の水車」は発禁処分になってしまったが、この曲は大ヒットした。いかにも希望の光というものを感じさせる曲であるような気がする。

この曲を歌ったのが近江俊郎。彼は武蔵野音楽学校出身。米山正夫は東洋音楽学校のピアノ科出身。二人は友人同士だったらしいが、クラシックを勉強してきたということでお互いに何か通じるものがあったのかもしれない。戦時中に西洋音楽を学ぶ、むろん戦時中にレッスンやら講義が学校で実際にどれくらい行われていたのかは分からないが、敵性音楽を学ぶ非国民などという世間の目もあったのではないかと想像したりする。

米山正夫自身は戦争から復員してきている。シベリアで抑留されていたようだ。なので、なおさらこの曲に一種の清々しさを感じるのかもしれない。なんとなく、それまでの軍歌とは正反対の曲という感じがする。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 昭和歌謡「公園の手品師」の日記

tb: --   cm: 0

△top

「森の水車」 

 

叔父が流しという職業だったので幼児期から歌謡曲を聴いて育ったところがある。普通は子供向けの曲、当時だったらアニメの主題歌とか、「あかあさんといっしょ」などのテレビ番組で歌われる曲などを聴いて育つのだろうが、僕の場合は、歌謡曲や洋楽を聴いて育った。歌謡曲と言っても、主にムード歌謡が多かったようだ。叔父はフランク永井を崇拝していたから。

叔父が亡くなってからは、ごく一般的な小学生と同じようにアイドルの曲を聴いたりしていた。当時はピンクレディーの全盛期だったように記憶しているが、僕が好きだったのは天地真理。人気に陰りが出てきた頃だと思うが、気にせず聴いていたように思う。

洋楽も聴いていたと思うのだが、中学生になった頃、いきなりバーブラ・ストライサンドの歌唱に圧倒された。この頃はバーブラの歌しか聴かなかった、というか聴けなかった。

でもクラシック音楽はずっと聴いていたし、最も聴いていたのもクラシック音楽だ。これは現在でもそう。でも、クラシック音楽が全ジャンルの音楽で最高峰に位置づけされる・・・のようにはあまり思っていない。このブログはピアノブログではあるのだが、声楽の曲の紹介が多いように思う。またピアノブログにしては、クラシック以外の音楽に関する記事も、歌謡曲も含めてだが、多いと自分では思っている。まぁ自分が、好きなら何でもいいわけなんですね。

自分は日本の曲について、どれだけ興味があるのだろう?声楽の曲以外には、ほとんど興味はないみたいだ。いわゆる「日本歌曲」とカテゴライズされる分野においては、音大のピアノ科学生よりは知っている・・・という程度だろう。「さくら横ちょう」には二種類ある・・・ぐらいの知識がある程度?童謡とか叙情歌の分野は、介護の世界にいるので、多少は知っているかもしれない。

でも思ったのだ。「津軽のふるさと」の作曲者、実は知らなかったし、知ろうともしなかった。米山正夫という人なんだね?別に知らなくてもいいのかもしれないが、でも西洋クラシック音楽の作曲者は日本の曲の作曲者よりも知識はあるのだ。「津軽のふるさと」の作曲者なんて知らなくてもいいということであれば、「英雄ポロネーズ」の作曲者だって同じだろう。でも知っている。

これからは脳も衰えるばかりだろうし、なかなか新しいことを知るという機会も減っていくのだろうと思う。まぁ、老いるというのはそういうものなのかもしれないし、そのことに反発したくなる微妙な年齢に今自分はいるのだろうとも思う。

米山正夫さんについて、少しだけ探索してみようと思った。僕だけが知らなくて、一般的日本人が彼の代表作を次々と挙げられるなんていうことはないだろう。

米山正夫という作曲者の「津軽のふるさと」以外の代表曲を知りたくなった。

この曲も米山作品だったんだねぇ・・・若い世代の人は知っているのだろうか?

昭和17年に高峰秀子のレコードが発売されたが、発売数日後に発禁になってしまったらしい。当時の高峰秀子は美少女スターだっただろうし、発売されればヒットしたのでは?なんで発禁になってしまったのだろう?

これは当時の状況が戦時中だったからだ。曲調や歌詞内容が時代に合わないと判断されたらしい。なんとなく思うのだが、「楽しい春がやってくる」という歌詞など、いかにも「今は暗い冬だけど・・・」みたいなことを連想させたのかもしれない。曲の感じも愛国心を煽るというものでもないしね。あとは、コトコトコットン・・・の部分はまあいいのかもしれないが、次のファミレドシドレミファがいけなかったのだと思う。

敵の言葉・・・ということなのだろう。ドレミ・・・は禁止されていたんだよね。イロハ・・・で読まなければならなかった。イロハだと歌詞として変なことになるよね?

まぁ、いろいろあり発禁になってしまったわけだが、戦後にこの曲はヒットしたね。なので現在まで歌い継がれている。でも発禁されてしまう理由としては、なんだか泣きたくなってしまうような理由だ。でも当時はそうだったんだねぇ・・・

考えてみれば、当時、ここまで軍国調ではない曲を発表するなんて、結構勇気が必要だったのかもしれない。今のような時代だからこそ、だからこそ・・・そんな作曲者や作詞者の気骨みたいなものさえ感じてくる。別の意味で泣きたくなってしまうような曲だ。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 昭和歌謡「公園の手品師」の日記

tb: --   cm: 0

△top

日本の心 

 

以前ルカがジジ・フィニーツィオのCDを送ってくれたとき、お返しに日本のCDを送った。豊島正伸というテノール歌手のCDだ。ナポレターナではなく、日本の叙情歌のCDだったが、ルカは大変に気に入ったみたいだ。

「この人はもちろん日本では誰でも知っている人気歌手なんでしょ?」ルカの問いに、ちょっと複雑な気持ちになったものだ。むろん、僕自身がこの人の歌を好きだから送ったわけだが、それほど有名な歌手ではないのかもしれない。「う~ん、日本ではそれほど有名じゃないんだよね」とは何故か言えなかったんだな。何故なんだろう?

ルカが日本の曲で最も好きな曲が「津軽のふるさと」なのだそうだ。また随分と地味な好みだな・・・とも思うが、彼は自分で豊島氏のことを調べたみたいだ。そしてこの動画をみつけた。「津軽のふるさと」はCDには収録されていなかったはずだ。

ルカは僕がイタリア語を全く解しないように、日本語を解することはできない。でも「この曲って、故郷を想う曲なんじゃないかな?」と言った。イタリア人にも日本の心が理解できるんだね。

僕はこのような演奏が好きだ。内面から伝わってくるような演奏が好きだ。ピアノも素晴らしいな・・・と思う。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 昭和歌謡「公園の手品師」の日記

tb: --   cm: 0

△top

男は女よりも弱いみたいだ 

 

ルカによれば、イタリア男に限らず、男は女よりも弱いのだそうだ。「女性は強いんだ。これは世界共通。生命力だって女性の方が強いでしょ?」そうかなぁ・・・

日本の男は弱さを見せられないので「サムライ魂」で自分をプロテクトするのだそうだ。誇り高きサムライか?イタリア男はストレートに自分の弱さを出してしまうのだそうだ。「哀しいんだよぉ・・・」と。この場合、本当に強いのはイタリア男かもしれないし、やはり「サムライ魂」的なるものを、多いに美化しているようにも感じるが、まあ、そのままにしておこうと思う。

たしかにナポレターナの世界では、男は情緒不安定だね。プロテクトしていない。ドロドロでもあるし・・・

ジジ・フィニーツィオという歌手はルカが紹介してくれた。この人はサンレモ音楽祭出身の歌手なのだが、基本的にはカンタウトーレなので、全体的印象としてはイタリアン・ポップスの人という印象が強い。でも、ナポリ人であるからか、古典的(?)ナポレターナは素晴らしい。本当に女々しいぐらいに情緒的世界を醸し出している。

「あなたに口づけを」は典型的な南イタリア人男の世界観なのかもしれない。


「あなたに口づけを」

あなたに口づけをしたい
でも勇気がないんだ
僕はあなたの吐息のそばで眠りたい

あなたの鼓動を感じる
眠っている・・・でもあなたは誰を夢見ているのだろう?
嫉妬が僕の病んだ心を苦しめる

僕のことを夢見ているのかい?
違うんだろう?
他の男を夢見ているんだろう?
そうなんだろう?

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

イタリア男のドロドロ感 

 

ルカによれば、イタリア男は情緒的、というよりは情緒不安定なほどに愛に生きているのだそうだ。彼は日本人のことを「誇り高きサムライ」と呼ぶ。内面は熱いものが煮えたぎっているのに、サムライ魂が自分自身を律していると・・・

多分に美化しすぎなのではとも思うが、そう感じるのだったら、訂正はしないでおこうと思う。

イタリア男は、特に南イタリアの男は「ドロドロ」なのだそうだ。日本の歌謡曲の世界だと、嫉妬や裏切り、このようなドロドロ世界は女性が歌うことが多いのではないか?たとえば北原ミレイのこの曲とか・・・

イタリアのナポレターナでは、このような世界、♪ナイフを光らせ憎い男を待っていた・・・は♪憎い女を待っていた・・・と男の世界になるらしい。たしかに女性目線のナポレターナは少ないような気はする。というか存在しているのか?歌手も男ばかりだしね。

「嫉妬に狂うのは女じゃないだろ?男だろ?」とルカ。そうかなぁ・・・

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

イタリア男の女々しい歌 

 

「帰れソレントへ」とか「オー・ソレ・ミオ」のような曲、たしか中学校の時に音楽の授業で習った記憶がある。その時にはイタリア民謡と習ったような?正確には、このような曲たちは「カンツォーネ・ナポレターナ」と呼ぶ。ナポリ民謡というのとも違うのだそうだ。歌い継がれてきたという意味では民謡でもいいのかもしれないが、比較的新しい歌が多く、作曲者が存在しているからだ。たしかに山田耕作の曲は日本歌曲であって、民謡・・・ではないよな。

なぜナポリという一地方の歌スタイルが極東の地に住む我々にも有名なのか?これはナポリ出身のエンリコ・カルーソーの功績が大きかったらしい。カルーソーはナポリの貧しい地域の出身。その彼が偉大な歌手として大成し、アメリカに進出した。その時に、カルーソーは故郷の歌であるカンツォーネ・ナポレターナを歌った。そしてアメリカから世界に拡散されていった・・・ということらしい。

ここまではイタリア人の友人であるルカの説明をそのまま紹介した。ナポレターナはカルーソー以後、ジーリ、ディ・ステファーノ、コレッリ、ベルゴンツィといった歌手たちが歌い継ぎ、現代に続いている。クラシック系のオペラ歌手がアンコールなどにナポレターナを歌うには、このような歴史があるからだと・・・

むろん、僕はカルーソーやジーリの歌声は生では聴いてはいないけれど、ベルゴンツィとコレッリは生で聴いた。特にコレッリの演奏会は僕が生まれて初めて聴いた生演奏だったので、印象に強く残っている。ルカも僕と同じく、ベルゴンツィとコレッリを生で聴いている。彼はベルゴンツィの印象が強いという。ニューヨークでベルゴンツィの歌声を聴き、「ああ・・・故郷に帰りたい」と強く感じたのだそうだ。

このようなクラシック系の歌手の流れと共に、庶民派というか、歌謡曲的ナポレターナというものも存在する。クラウディオ・ビルラのような歌手が歌うナポレターナの世界・・・

ルカはナポリにほど近いソレントという街の出身なので、ナポレターナを聴くと胸が苦しくなるほどなのだという。おそらく南イタリア出身の人間は皆そうなのではないかと。

ナポリという街は有名ではあるが、イタリアの地方都市に過ぎない。人口は仙台と同じくらい?なぜこの街で多くの有名なナポレターナが生まれたのだろう?ここからは再度ルカの説明そのままを書く。ナポリ(ソレントなどもそうらしいが)では何とか(忘れてしまったが)という祭りの日に信者が自分の作曲した歌を教会に奉納する習慣が古来よりあるらしい。歌を奉納するなんて、いかにもイタリア的ではある。この風習が現代風に変化し、コンペティティヴな要素が加味されたものが、日本でも有名なサンレモ音楽祭なのだそうだ。新人が曲と歌唱で競うというサンレモ的な音楽祭はイタリアには多く存在するらしい。

もう一つは、ナポリという街は比較的(非常に?)庶民的で、細い路地が沢山ある。日本でも江戸時代には沢山いたらしい物売り、ナポリにも多かった。彼らは自分の商品を、そして自分の存在をアピールするために、各自で声を磨いた。小さな声、ボソッとした声では商売にならなかった。その「声磨き」がナポレターナという歌に昇華していった。

僕も物売りの記憶は微かにある。昭和40年代の東京下町には、まだそのような物売りがいたのだと思う。ルカもソレントやナポリでの物売りの記憶はあるそうだ。自分の商品を道端に置き、商売よりも声自慢をしているのでは・・・という物売りもいたらしい。街角物売り独唱会のような?

ナポレターナは庶民の心情、ルカに言わせると「イタリア男の女々しさ」(?)を表現したものが多いので、朗々と太陽のように・・・というよりは、本来は女々しさというか、叙情性を感じさせるものなのだという。彼が紹介したくれた歌手にマリオ・アッバーテという歌手がいる。僕は知らなかった歌手だ。

なんという叙情性だろう!

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

ラジオ体操のようなショパン 

 

「鍵盤の底までしっかり弾きましょう」・・・この場合、タッチがしっかりしていないからということなのだろうと思う。身体が出来上がっていない子どもの指だと、意識しないとフニャッとした弱い音になる?そうなのかもしれない。電子ピアノで練習する弊害という意味でも、このタッチがしっかりしていないということが挙げられたりする。弱い音って、どうしても「しっかりした音」と単純比較した場合、表現力の弱さに通じるところがあるのだろうか?コンクールなどの場合は、そのようなこともあるのかもしれない。

ピアノ教師ブログを読んでいて、よく目にする表現の一つに「鍵盤の底まで深くタッチして、しっかりしたいい音を出しましょう」というものがある。ピアノ教師というプロの人たちに、素人の僕が「そうかな?」的なことを書くと、また大反論のメールが来るかもしれないが、どうも、強くしっかりしたいい音=鍵盤を深くタッチする・・・というところに、僕としては誤った解釈があるように思う。基本的に音の強弱を鍵盤を弾く際の深さでどうこうしようとしている?違うのでは?音の強弱は打鍵のスピードでコントロールするべきものでは?「深さ」ではなく「スピード」なのかと・・・

底まで弾くという感覚ではなく、底までの途中にあるポイントを狙うみたいな感覚?

深さというか、底までという意識のまま、ある程度の曲まで弾き進めてしまうと、つまり音の強弱というものを、タッチのスピードではなく深さという意識で曲を弾いてしまうと、ある意味「明朗会計」的な演奏にはなると思うが、音の強弱と、ある程度のテンポ揺らしみたいなものだけで曲を表現しようとすることになるので、どこか無理があるのでは?

なんとなく「ラジオ体操」のピアノの感じ?明朗ではっきりしているけれど、ニュアンスに欠けるみたいな?そのままショパンを弾いても「高級なラジオ体操」みたいなサウンドになりがちなのでは?

表現力って、「なんとなくつける」というものではなく、弾き方と密接な関係にあるものと思うが、演奏者のイメージとして「ラジオ体操サウンド」しかなければ、もうそれは何をしてもラジオ体操的ショパンにしかならないのでは?ないものは出せないのだから。いっそのことイメージ転換してみてはどうだろう?「悩みながらとにかく練習!」というよりは、自分のイメージを変えてみる・・・

「カンツォーネ」という歌のジャンルがある。どのようなイメージを持つだろう?明るく朗々とした声で情熱的に張りあげる・・・みたいなイメージ?「オー・ソレ・ミオ」みたいな?それもカンツォーネだろうが、このようなカンツォーネも存在する。

ディ・カプアの名曲に「あなたに口づけを」という曲がある。朗々表現もあるだろうが、このような表現もある。「えっ?これもカンツォーネ?ベルカント唱法で絶唱系ではない、こんな柔らかな表現、歌い方もあるの?」

この「えっ???」という驚きが大切なのではないだろうか?ピアノを弾く場合でも、ラジオ体操一辺倒ではなく、「えっ???」という発見があれば、違うものを追うこともできるのでは?

大昔のオペラ歌手だけれど、ティト・スキーパというテノール歌手の「あなたに口づけを」の歌唱。この人は非常にリリカルな表現を得意とした人だ。ある意味、テノール、カンツォーネ=朗々と顔を赤くして声を張り上げるというイメージを一新してくれるのでは?

まずは自分でピアノのスキーパを見つけるといいのかも?そうすれば「鍵盤の底まで弾きましょう」に多少の「そうかな?それだけでいいのかな?」という感覚が芽生えるかもしれない。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: ピアノ雑感

tb: --   cm: 2

△top

ミラーニューロン考 3 

 

大人になってからピアノを始めた人によくある悩みが「指が動かない」ということ。たしかに訓練された音大生(訓練されていない音大生も最近は存在しているらしいが)とスケールの速さをストップウォッチで計測したらピアノ歴1年の50歳の大人に音大生は勝つだろうと思う。

ではスローテンポの曲だとどうだろう?この場合もなんというか、ピアノに慣れていない大人の場合、指が緩慢というか、指運びがスムーズではないというケースはある。基本的にスローテンポの曲でも、指の動きそのものはスローになるわけではないと思う。打鍵したら入魂の必要はないわけで、さっさと次の準備をするべき。なので、指の運びそのものがスローでいいわけではないのだ。次への準備の瞬間は長くなるかもしれないが。

「ほら、やっぱり大人は不利なのよ・・・」

この場合、指が動かないというよりも、脳の指令と指の動きとの関連に慣れていないのではないだろうか?「動かない」ではなく「慣れていない」のだとしたら、可能性も出てくるのではないだろうか?希望の光というかね。脳の指令と指との関連に慣れていない子どもも多くいるように思う。そのような子どもは、やはり指が動かないような気がする。

「どうせダメなのね」という思考になった時に人間の能力はそこでストップしてしまうので、やはり諦めないということは大事なのではないかと。年齢の差よりも経験の差と考えればいいのかもしれない。子どもでさえ(?)いい経験を積めば弾けるようになるのだから、大人だって同じではないだろうか?

僕は小学1年生からピアノを始め、3年かけてバイエルの上巻が終わらず、さらに3年かけて下巻も終わらなかったピアノ歴の持ち主だ。その間、自己流で好きな曲を弾いたりしていたが、指訓練とかエチュードはやったことがない。その後、30年のブランクがあり、現在50歳。このような経歴にしては、子どもの頃から習っていた人、あるいは音大卒の人と比較しても、そう緩慢な指の動きの持ち主という印象は与えていないという自覚は持っている。まぁ、自分だけそう感じていて他人が本当のところを指摘しないだけかもしれないが・・・

音のイメージという「表現」という領域に関わらない、純粋なるメカニック、技術ということにおいても、先に準備をする、先に用意をするという感覚は必要だと思われる。指が動かないと嘆く人、あるいは実際にそのような印象を与えてしまう人に共通しているのは、個人的には指そのものの動きということよりも、準備が遅い、いつまでも弾いてしまった音というか、鍵盤に留まってしまっているという印象だ。つまり離鍵(?)が緩慢。

だとしたら、その部分を直せばいいわけだ。この部分はミラーニューロンなるものが強い味方になるのでは?結構このようなことは、一度白紙になって「できている人」の真似をしてみるといいのかもしれない。

この衝撃のバレエを踊っているのはナタリア・オシポワ、イワン・ワシーリエフという人たちだ。この二人はバレエを専門的に習っている人たちにとっても「なぜなの?なんでこんなことが可能なの?」というような高度な技術の持ち主たちだ。ミラーニューロンを使ってピアノに少しでも生かそうという場合には、実際にバレエを踊るわけではないのだから、このような驚異的技術を生み出している根本的な要素を取り込めばいいわけだ。

先先先・・・の法則ではないだろうか?音と身体を同時に合わせるというよりは、先の瞬間の意識というものが、非常に素早い。脳と身体の動きという関連が非常にスムーズで闊達なのだ。だからこのような人間業とは思えない動きができる。

ピアノの場合、ドソドラと5度、6度という音型を弾く場合、ドソと弾いて、またドと弾いた瞬間に次のラ音の準備のために手は少し開いているだろうか?そのタイミングが遅いのでは?動かない・・・ではなく。いつまでもドのままで留まっていると、全体的な動き、準備が遅くなるので、「動かないのよ~」と錯覚してしまうのかも?これは身体的能力というよりは、慣れの問題、意識の問題のような気がする。

「脳が動かないのよ~」と言われたらどう言っていいのか分からないが・・・

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

ミラーニューロン考 2 

 

先程のジョン・カリーの演技、終盤の方で大きな大きなイーグルという技がある。このイーグルの技の時、「僕・・・沢山イーグルを練習しました。あっ、本番でも上手にできてま~す」という印象をジョン・カリーの演技から感じることはない。彼にとってはイーグルという技は目的ではなく、表現のための手段なのだ。

「今イーグルが上手にできてま~す」という感じのピアノの演奏、多くないだろうか?目的と手段のはき違えみたいな・・・

どうしてもピアノに限らずだが、時間をかけてコツコツ積み上げていくものって手段が目的になりやすい気がする。練習を重ねていくうちに、そしてそれが長年の習慣となっていくうちに、「弾きこなす」という手段が練習の目的化となっていき、本当の目的が見えなくなってしまうというか。このあたりは今のピアノ教育界の最大の課題でもあるのではないか?

ジョン・カリーは残念ながらエイズで亡くなってしまったね。本当に残念だ。この動画でタンゴを踊っているカルロス・ガヴィートも癌で苦しんだ人だ。「何回も身体を切ったんだよね」と言いながら踊り続けていた。この踊りも闘病しながら踊っていたのかなぁ・・・などと思う。

タンゴという踊り、感情の赴くまま、奔放に情熱的に・・・みたいな印象があるけれど、女性のマルセラ・デュランもそうだが、カルロス・ガヴィートの踊りは、感情の赴くままに見える、見ている方が感じるのであって、感情のまま踊っているようには見えない。

感情・・・

感情の赴くままピアノを弾いたらどうなるだろう?そこには技というものを介さないと、「自分だけで酔ってる?」みたいなことになってしまうだろう。でも感情がなければ「なにも出すものがありませ~ん」になってしまう。技の習熟度だけ見せられてもねぇ・・・

そう、そのあたりのバランスが重要なのではないだろうかとも思う。

ここまで官能的に見える踊りだけれど、カルロス・ガヴィートの、音を先取りする動きは凄いものがあるのではないかと個人的には感じる。やはりジョン・カリーのように「意思を感じる」し、「絶妙なるコントロール」「計算」を感じる。でも機械のようにはならないのは踊りを見れば分かる。決して「自分たちだけで酔っている」という風にはならない。念密にコントロールされたものを、音の一瞬前で出そうと脳から指令が出ているから。

このタンゴもミラーニューロンの働きにより、ピアノ演奏にも生かせるのではないか?

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

ミラーニューロン考 

 

最近「ミラーニューロン」という言葉をよく耳にする。「ものまね細胞」とも言われ、例えば、素晴らしいパフォーマンスとか、フィギュアスケートにおける、いい状態でのジャンプなどを見て、というか見ただけで自分の中のミラーニューロンが働き、パフォーマンスとかジャンプを成している根本的な要素を感じてしまうというか・・・

むろん、「自分でもできる」というところまで、会得するには練習を重ねるのだろうが、「コツ」みたいなものは自然と感覚的に入ってしまうみたいな?

僕は子どもの頃、ピアノの先生から何かを学んだという感覚が実はない。「ドレファ・・・じゃなくてドレミでしょ?どうして覚えられないの?」みたいなことは(だけは?)言われてきたけれど。偉大な演奏家の音源を聴くようになって、自然とそのような演奏というか、響きというか、自分なりに感動したものを真似るようになった。彼らの演奏を成している「音」「響き」など、そして自分の心を動かした「何か」を自分なりに追うようになった。言葉を変えれば「なんちゃって遊び弾き」だ。自己流というかね。

でも完全にこれは無駄だったのだろうか?今の自分の演奏、もし人(一般的アマチュアというか?)と異なる要素を聴いている人が感じるのだとしたら、遊び弾き、なんちゃって弾きの時代に養われたものとも自分では思う。「ピアノってこのように弾くんですよ」と教えられたことがないわけだから・・・

ミラーニューロンって、やはり身体を使って表現するパフォーマンスの分野で語られることが多いように思うが、耳から入ることも可能なのかもしれない。耳から入り、その音色を形成している動き(共通した弾き方)みたいなものを探っていく・・・これもミラーニューロンなるものが働いているのでは?違うかな?

ピアノ演奏に限らずだと思うのだが、個人的に人のテンションを奪ってしまう、「あ・・・このパフォーマンス・・・好き」のように人を魅了してしまうパフォーマンスには、ある共通点があるように思う。

「そのパフォーマーの意思を感じる」ということ。音の鳴る瞬間とか、身体を動かす瞬間とか・・・

ピアノだと、実際に音を鳴らす(タッチする瞬間)よりも、一瞬だが、「このような音を出すのだ」という音イメージが鳴っていなければ、意思を感じる音は出ないだろうと思う。卓越したピアニストの場合、タッチと移動は同時ではない。必ず移動が先で、一瞬の準備があって打鍵している。なので意思のある音が具現できているのではないか?

卓越したバレリーナなどの場合、音楽と同時に身体を動かしているのではなく、「音を先取りしている」という印象が強い。むろん、音楽とずれてはいないわけだから、実際には音と同時に動いているのかもしれないが、「このような念密な動きをするのだっ!」という「意思」が動きの前に感じられる。なので「音楽をつかんで、音楽を支配して踊っている」という印象になる。先先先・・・という印象。

結果的には「コントロールされた音の連なりで、演奏家の意思を感じる演奏」と「一応強弱もついて弾けてはいるけれど、表現らしきものもあるけれど、ベチャンとした音というか、凡庸な演奏」とに分かれてしまう。バレエであれば「身体が物語というか、感情というか、すべてを表現している」と「パターン化された動きを上手にこなしている」みたいな踊りとに分かれてしまう。

身体を使ったパフォーマンスから、ピアノ演奏においての動きというか、自分の意思を反映させる弾き方のようなものへ、ミラーニューロンを使って応用させることはできるのではないか?ピアノだって身体の運動ではあるのだから・・・

大変古い演技で恐縮だが、ジョン・カリーの演技。彼のスケート表現というか、スケーティングというか、動きというか、すべてに「先先先」というものがあり、動きそのものにジョン・カリーの意思なるものが反映されているように感じる。偶然に感情にまかせて滑ってしまった・・・という瞬間が皆無。身体のパーツ、スケートのエッジの動き、すべてが彼の意思によるコントロールが感じられる。音楽を先取りして演技しているというか・・・

これ、偉大なピアニストの音、サウンドと同じだよね・・・と感じる。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

伝承 

 

「お前の父さんは役立たずなんだってな」Aさんはよくそう言われた。今でいうイジメに近かったという。時は太平洋戦争中。Aさんの父親は事故により足を負傷していて、徴収されなかったのだ。国のために戦う・・・これは当時としては当然の感覚だったのかもしれない。

「非国民!」とも言われた。足の不自由だったAさんの父親は、趣味でフルートを吹いた。当時としては贅沢品だった蓄音機も所有していた。仕事が終わるとフルートを練習し、練習が終わると蓄音機でフルートの音楽を聴いた。

Aさんの家族、特に母親はそんな父親をどこか疎ましく感じていたらしい。「こんなご時世なんだから少しは遠慮してくれればいいのに」当然Aさんもそう思っていた。「父さんがフルートなんて吹かなければ僕はみんなからいじめられないのに」

「西洋かぶれ」「非国民」「役立たず」・・・自宅に石を投げ入れられることもあった。「やめろ、非国民」という張り紙が玄関に貼ってあることもあった。

でもAさんは、どこか厳粛な顔つきでフルートを吹き、目を閉じて蓄音機から流れるフルートの音色を聴いている父親に、「父さんがフルートをなんか吹かなければ僕はいじめられないんだ」とは言えなかった。言えない雰囲気を感じた。

鬼畜米英・・・贅沢はやめましょう・・・そんな時代であるからこそ聴いている、吹いている、そんな強いような頑なな雰囲気を父親は発していたという。「同じ人間どうしなのになんで殺し合わなければいけないんだ?」そうも言った。Aさんはどう答えていいのか分からなかった。

父親がいつも聴くフルート奏者は決まっていた。Aさんもそのフルート奏者の顔は覚えてしまった。「なんていう人なの?」

「マルセル・モイーズ先生・・・」父親が「先生」と言ったのが印象に残った。「ああ、モイーズ先生のようにこの曲が吹けたらなぁ・・・」そう言いながら父親はその音楽を聴いていた。目に涙を湛えながら・・・

「なんていう曲なの?」「ハンガリー田園幻想曲という曲だよ。ドップラーという人が作曲したんだ。いい曲だろ?」「うん・・・そうだね・・・いい曲だね・・・」でもAさんには遠い世界の曲のようにも思えた。

Aさん一家は深川に住んでいた。空襲で深川地区は全焼してしまったらしい。「家族がみんな無事だったんだ。感謝しなければいけないな」そう言いながら父親は丸焼けになった家の片づけを始めた。「みんな焼けてしまったな・・・」そう言いながらAさんの父親は肩を落とした。

戦後、世の中が復興し始めても父親はフルートを吹こうとはしなかった。音楽も聴こうとはしなかった。Aさん自身も就職し、自分の家族を持ち、いつのまにかそんなことも忘れていった。

Aさん自身が父親が亡くなった年齢を超えた頃、ふと記憶にある顔が飛び込んできた。「この人???」

父親の声がAさんの中で呼びかけてくるようだった。「マルセル・モイーズ先生・・・」

「ああ、この人だったな・・・」それはかつてAさん、そして父親が聴いていたSP盤ではなくLPレコードだったが、そのレコードにはドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」も収録されていた。「ああ、こんなメロディーだった。そう、こんな曲だった・・・」

Aさんの子どもも独立し、そして「おじいちゃん・・・」などと孫たちから呼ばれるようになって、突然Aさんはフルートを習い始めた。「あなた、クラシックなんてあまり聴いたことなかったじゃない?なんでまた今さらフルートなんて?」と妻も驚いた。誰よりもAさんが自分の行動、欲求に驚いた。

「ハンガリー田園幻想曲を自分でどうしても吹きたくなったんです。まぁ、今からでは死ぬまでに吹けるようにはならんでしょう。でもいいんです。父の夢でもあったし、それが今では私の夢になっている。それでいいじゃないですか?」

「おじいちゃん・・・これ何ていう曲なの?」SP盤がLPになり、そしてCDに変わっても、ドップラーを演奏している人は変わっていなかった。Aさんは質問してきた孫に言った。

「ドップラーのハンガリー田園幻想曲というんだ。演奏しているのはマルセル・モイーズ先生だよ・・・」

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 音楽自立人、音楽自由人

tb: --   cm: 0

△top

想像練習 

 

練習の合間にアントニオ・ポンパ=バルディのCDを聴いていて感じた。「この人の音・・・綺麗・・・」と。音の鳴る瞬間のポイントを狙った音というのだろうか?

自宅では電子ピアノで練習している(もちろん彼ではなく僕)。「電子ピアノは楽器ではなく電気製品である」のように、電子ピアノの評判はよろしくない。個人的に思うことは、いくつかある。本当だろうか・・・と。たしかに「いかにもキーボードです」みたいなタッチのものだと、いろいろと無理は出てくるだろうと思う。ピアノというよりは電子オルガンに近い、抵抗のないタッチ感のものだと厳しいだろうと思う。でも高級器種であれば、かなり本番にも対応できるのではないか?

電子ピアノの最も不利な点は、ハンマーが弦を打つ・・・という音の鳴る仕組みが分からないこと。もっとも、グランドピアノで練習していれば音の鳴る仕組みというか、イメージを含んだピアノが弾けるとも限らない。鍵盤しか見ていない、鍵盤しか意識していないなんていう人は、グランドピアノで練習している人にだって山ほどいるだろうと思う。あとはペダルが不利だ。やはりダンパーが上がるというイメージがつかみにくいから。でもこれもグランドピアノで練習している人だって、車のアクセル全開・・・のように踏み込んでしまう人は山ほどいる。

電子ピアノで練習している人がよく言うのだが、「アコースティックのピアノで弾くと音がかすれる、全部の音が鳴らない」ということを言う。僕にはこの感覚が理解できない。むろん、タッチがしっかりしないということは多くのピアノ教師が電子生徒(?)に対して嘆くことでもあると思うので、そこのところは頭では一致するのだが、個人的にはアコースティックのピアノだと逆に音が鳴りすぎてしまう・・・と感じる。なぜ反対に感じるのだろう?

電子ピアノでも、あるいは国産の小型、中型の「いかにもしっかりしたグランドピアノ」で日頃練習している人が、発表会とか演奏会で感じるらしいのが、やはり音が大きく鳴りすぎてしまうということ。大概、ホールやサロンに置いてあるのはスタインウェイのピアノだ。この種のピアノって、すごくタッチが軽く感じることはないだろうか?いつもの「しっかりピアノ」のつもりで弾くと、ドカンと鳴りすぎてしまう。鍵盤が軽いと感じる要因としては、音の鳴るポイントが国産の「しっかりピアノ」よりも幾分浅目なのだろうと想像する。

自宅にスタインウェイのD型を備えればいいのだ。練習室は100畳ほどで天井までの高さは5メートルほど。このような条件で日頃練習し、本番では自分のD型を運べば問題はほぼなくなるだろう。でもそんな人・・・いる?

大事なのは臨機応変な対応力と、あとは想像力ではないだろうか?想像力を駆使する練習方法とか、僕はピアノ教師ブログにこれから期待しようと思う。たとえば、ピアノを弾くとは「鍵盤を押す」ではなく、遠くで音を鳴らし絶妙なる瞬間にその音を空気に伝える・・・とか、ペダルは「踏む」ではなく、ペダルでダンパーを開放し音を広げる、あるいは放り投げる、混ぜ合わす・・・みたいな?

本番での自分の演奏を録音するという人は多いだろうと思う。その時、自分の演奏を自分でどのように感じることが多いのだろう?「素晴らしい!」だったらそれでいいと思うのだが、大概は痛恨のミス・・・と泣きたいほどだった箇所は意外と目だたない。けれど、自分では結構歌ったり、抑揚をつけて演奏したつもりなのに、そこが表現できていないなんてことはないだろうか?響きという部分が思ったより貧困で、生の音というか、基音が目立つ。なので「私・・・こんなにウルサイ演奏だった?」みたいな?

電子ピアノで練習しているとそうなってしまうのだろうか?グランドピアノで練習していれば、そのような問題は回避される?そうではないだろうと思う。

想像力が必要なのではないだろうか?誰でも本番での自分の演奏は客席に具体的にどのように聴こえているか、それは聴くことができないわけだから・・・

そのような意味で、ポンパ=バルディのような音色を、想像力を駆使して追い求めることは電子ピアノであっても可能だと思う。

明日のピアノはベヒシュタインちゃんなので、想像力を駆使し、自宅のローランドちゃんでこのようなタッチだと、ベヒシュタインちゃんはどのように反応するだろうなどと練習してみようと思う。

このポンパ=バルディの音、これが理想なんだけどねぇ・・・

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: ピアノ雑感

tb: --   cm: 2

△top