ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

「あなた・・・感謝しなきゃね?」 

 

癌患者同士の集まりのようなものがある。山登りをしたりとか温泉を満喫したりとか、同じ病を体験した人同士で集まる。僕は団体行動そのものが苦手なので、そのような催しには参加したことはないが、癌仲間のような友人はいる。どこかピアノ仲間と似ている。日常生活においては、ピアノや癌闘病などということにおいては、他人との接点がない。周囲はピアノなんか弾かない人ばかりだし、クラシック苦手族ばかりだ。癌を公にしている人も近所や職場には皆無だから、どうしても孤独に自分一人でピアノを弾いたり、病気と対面していかなければならない。なので同じような人がいるということが心に支えになったりもするのだ。

A子さんも、そのような癌友人の一人。彼女は二十代なのだが、子宮癌を患い、子宮切除している。なので子どもは産めない。A子さん自身は、子どもは欲しくないと決めていたわけではなかったが、社会人として働いていたし、結婚もしたばかりだったので、自分の生活設計というものの中に子育てというものは組み入れていなかった。むろん癌になってしまったことは残念だし苦しいが、子どもが産めないということよりも、自分の命をいかに存続させるか、どのように生活を営んでいくか、夫というパートナーといかにしてこれからを歩んでいくかということの方が重要だった。

「僕は子どもが欲しくて君と結婚したわけではない」

配偶者のこの言葉はたしかに嬉しかったが、A子さんも同様に子どもが欲しくて結婚したわけではなかったから、配偶者に対してひれ伏して涙するべきという感覚は持たなかった。でも周囲の反応は違った。

「昔だったら、あなたのような人は離縁されても当然・・・」「いい旦那さんで良かったね。あなたは幸せものだよ」「子どもはいらないなんて、気を使ってくれる優しい人なんだね」「将来浮気されても耐えなきゃね」

A子さんは「そうなの?」と思った。「私って人間として一人前ではなく、半人前で社会に役立たない人間なの?そのような人間は普通の人に感謝して暮らしていかなくてはいけないの?子供が産めない、産まないって普通ではないってこと?」

このような「あなたは子どもを産めないのだから・・・」という反応と、もう一つの反応にも傷ついたそうだ。

「まあ、なんて可哀そうな人なの?」「女として不幸な人」「いたわってあげなければ、可哀そうな人なんだから・・・」

むろん、言葉として直接言う人は少ないけれど、子宮癌を患った自分に対し、どこか気を使うような、特別扱いするような態度に接することは多かったらしい。

「子宮癌である私は不幸な人、子どもの産めない私は社会の役に立てない半人前の人間・・・???」

そのような中、同性婚とか同性パートナーシップ制度などに関するニュースを見て、そしてA子さんなりに調べたりするうちに、A子さんは、ある種の偏見は癌患者という自分だけにではなく、性的なマイノリティーの人たちにも向けられているのを知った。

「私なんかよりも大変な人たちがいたんだ・・・」

むろん、A子さんも同性愛者という人たちが存在しているのは知っていた。でも遠い世界の一部の特別な人たちだと思っていた。自分には関係のない世界の人たちのこと・・・

「えっ、このような人たちって、カップルとして部屋を借りることもできないんだ。パートナーが危篤になった時も家族として認められず面会すらできないんだ。どんなに愛し合っていて、一緒に暮らしていても法的にはただのお友達、ルームメイトという扱いになってしまうんだ。私たち夫婦のような男女のカップルが普通に認められていることも全く認められていないんだ・・・」

同性婚に反対する人たちの意見は、性的マイノリティーに属する人たちだけではなく、A子さん自身にも向けられているようにも感じた。「結婚という制度を同性同士のカップルに認めるのはおかしい。彼らは子孫を繁栄させることができないのだから」「少子化に拍車がかかるじゃないか?」

すべて自分に向けられているようにも思えた。

子どもが産めないと半人前?パパとママ、二人の子ども、一家団欒・・・これが実現できないと普通じゃない?おかしくない?私だって普通の人間よ?違うの?

A子さんを苦しめていたのは癌ではなかった。子どもが産めないことはマイノリティーに属してしまう。自分は特別、どこか異端・・・社会はマジョリティの風が吹いている。パパとママ、子どもとの団欒・・・むろん、そこに価値を見出す人もいていい。でもそう感じるべきということでもないのでは?別のところに価値を感じる人がいたっていいのでは?マジョリティの風が圧力となってA子さんを苦しめていたのだ。無言の無意識の差別がA子さんを苦しめていた・・・

明日から新年度。東京都の渋谷区の同性パートナーシップに対する証明書発行が始まってちょうど一年になる。明日から三つめの自治体で同じような証明書の発行が可能になるのだという。

進んでいるのか?停滞しているのか?

「みんな仲良くしましょうね?」幼稚園児に諭すようなことが、大人にとって、これほど難しいこととは・・・

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暗譜 

 

サムイル・フェインベルグというピアニストがいた。ゴリデンヴェイゼル門下のピアニストで、この人はモスクワ音楽院での卒業演奏(つまりリサイタル)でバッハの平均律全曲を暗譜で演奏したのだそうだ。1巻と2巻全部だったのだろうか?それともどちらか?どちらにしても「凄い・・・」としか思えない。100年以上昔の話ではありますが・・・

現在、平均律をリサイタルで全曲演奏する場合、楽譜を見るのが普通のような気はする。譜めくり用の椅子が舞台に用意されていても、別に「えっ?楽譜見るんだ?」とは思わない。逆にピアニストが一人で楽譜も持たないで舞台に登場すれば、「えっ?暗譜なんだ?」と思うような気がする。

どんなに大曲、難曲でもバロック、そして現代の曲以外の曲、たとえばリストのソナタのような曲であっても、ピアニストが楽譜を見て演奏すると、どこか「えっ?見るんだ?」と反射的に感じてしまう所はある。

暗譜をすべきかどうか?リヒテルというピアニストは後年は楽譜を置いて演奏していたことは有名だ。「記憶に多大な労力を割くのなら、その分楽譜を見て演奏のことを考えろ」みたいなことを言っていたような気がする。その通りなのだろう。聴衆は演奏者の暗譜達成度そのものに心動くわけでもないのだし、楽譜を置いたとしても、基本的にはピアニストは暗譜そのものはしているような気はする。つまり、音楽、演奏そのものの質が良ければ、本番での暗譜は必要ないのかもしれない。

最近は管楽器奏者などは、ソナタや協奏曲でさえ楽譜を見て演奏する。ピアノよりも、楽譜を見るという習慣に対して寛容な気はする。昔は管楽器奏者も今よりは暗譜での演奏が多かった気もするが?ソロと伴奏のショーピースという感覚ではなく、現代ではアンサンブルという考えになってきているのだろうか?

昔、義理で(?)フルートのコンサートを聴いたことがある。演奏そのものは普通だったような気がするが、すべての曲を楽譜を見て吹いていた。それはいいのだが、アンコールでの、たとえば「アルルの女のメヌエット」などのような曲までも暗譜でなかったのには、ちょっと違和感を感じたりした。ピアノリサイタル、アンコールでの小犬のワルツを譜めくりを伴い視奏するピアニスト・・・このような場合、やはりちょっと違和感を感じたりする。

ピアノの発表会での講師演奏、たとえばショパンのバラードなどを演奏する場合、やはり暗譜でないと客席は「あっ、楽譜見るんだ?」と思ってしまうところはあるような気がする。逆に「あっ、先生暗譜するんだ・・・」と驚かれるのもどうかと思うが・・・

特にアマチュアの場合、もしかして僕だけかもしれないが、本番での恐怖心から楽譜を見るということと、最初からゴール地点での演奏を視奏とすることで、取り組みそのものに違いがあって当然なのに、どこか混同してしまう危険性はある。サークルの練習会などで「今回は楽譜ありで演奏しよう」と取り組むのと、暗譜を想定して取り組むのでは、練習に対しての気合のようなものが違ってくる。完成度も異なってくるのでは?バッチリ暗譜はできているけれど、本番での記憶喪失が怖いので楽譜を置く場合と、最初から暗譜まで到達しないという気構えの演奏とを一緒に考えていけないような気はする。やはり暗譜というものは大変なのだ。そこから逃げる理由として「だってリヒテルだって・・・」というのは、ちょっと違うのではないかと・・・

ちょっとどの本が失念してしまったのだが、あるピアニストが書いた本でリヒテルが後年視奏したのは、記憶の問題よりも絶対音感能力の問題だったのではという説があった。個人的には僕もこの説に同意するところはある。絶対音感そのものが喪失し完全に相対音感になってしまうということはない。絶対音感の感覚は残ってはいるのだが、一部おかしくなってしまう。全体が低く聴こえてきてしまうみたいな?

実際の音よりも低く聴こえてきてしまう場合、ピアノの場合、鍵盤位置と指の関係が崩れてしまう。このような音だろうと頭の中で鳴る音と実際に聴こえてくる音に差が出てくる。ドミソと弾いているのに、自分にはシ♭レファと聴こえてくる。「僕・・・移調している?」みたいな混乱?低く聴こえてきてしまうという現象は加齢に伴い結構みられることのようだ。完全なる相対音感であれば、このような時にも混乱はないのかもしれないが、絶対音感の感覚そのものは残っているので、そこで混乱してしまう。

デ・ラローチャも後年は音が低く聴こえてきてしまったそうだ。

リヒテルとデ・ラローチャの違い、デ・ラローチャはソロも協奏曲も引退するまで暗譜で弾いていた。どうしてリヒテルができなかったことをデ・ラローチャはできたのだろう?「指が覚えていたのでは?」と本の著者は書いていたように思う。つまり訓練の違い。リヒテルはコレペティ経験もありということで、ピアニストというよりは、総合的音楽家、それもピアノが滅茶苦茶上手い音楽家として出発したのではないかと。つまり音楽の世界に耳から入ったところがある。反対にデ・ラローチャは幼少の頃からピアニストとしての訓練をバッチリ受けていた。指そのものが記憶していた・・・みたいな?

「バッハは好きなんだけど暗譜がねぇ・・・暗譜はできるんだけど、もし・・・と思ったらねぇ・・・」「スクリャービンのソナタは好きなの。でも本番で記憶が止まったらと考えるとねぇ・・・」このような場合、楽譜を見ればいいじゃ~ん・・・と思う。記憶を理由に弾くことそのものを諦めてしまうこともない。

本番前、あまりの緊張に気持ち悪くなったりする。「もし止まってしまって後が出てこなくなってしまったら?」この場合、楽譜を見れば落ち着けて、よりいい演奏ができるのであれば、やはり、見ればいいじゃ~ん・・・と思う。でもこの場合は演奏後後悔することもあるかもしれない。「暗譜でも弾けたのかも?」と。このあたりは暗譜と人生は似ている。

暗譜の神様?サムイル・フェインベルグの平均律。

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category: ピアノ雑感

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絶対音感 

 

絶対音感というものは備わっていた方がいいのだろうか?ないよりはあった方がいい?特別な訓練を子どもの頃に受けたわけでは全然ないのに、何故か僕は絶対音感を持っているようだ。

絶対音感があると便利だなと思うことは、楽譜を見て音が鳴る・・・ということだろうか?頭の中で音が鳴ると、楽譜は印刷された記号という感じではなく、ハーモニーまで含め、頭の中でサウンドとして鳴るようになる。

でも、これだけでは便利かもしれないが、別にどうということもないのではないかと思う。演奏する際、役立つと感じているのは、弾いている箇所の先を意識できるということだろうか?ピアノ演奏でのコツみたいなものかもしれないのだが、動作、タッチなど身体的なことも含め、先を意識して弾いているか、そうではないかで演奏に差が出てくるような気はする。

つっかえてしまう、止まってしまって何度もやり直しをしてしまう、この場合、実際に弾いている箇所、身体や手の動き、そして意識が全部同じ場所にあるのではないかと想像する。日頃の練習でも、実際に弾いている箇所の先の理想の音が頭の中で鳴ると、実際に自分が出した音との比較ができる。理想に近づけていくのが練習であるならば、先の理想サウンドが鳴っていなければ、比較ができず、大雑把に「なんとなく冴えないのよねぇ・・・」ぐらいの認識しか持てない。なんとなく自分の演奏は、いけないのかも・・・とは感じるが、比較すべき理想の音が鳴っていないと、具体的練習にすらならない。パッセージの練習で指を何度も動かすことはできるけど・・・

実際に弾いている箇所の一瞬先の音を鳴らす、この場合、絶対音感があると、リアルに鳴るのではないだろうか?メロディーだけとかではなく、ハーモニーの移ろいまで鳴らせれば、それはすごく有利だろうとも感じる。

絶対音感があると不便だなと思うことも意外とある。

「ちょっとこのキーでは高いのよね?一音下げて頂ける?」歌手などはよくあるケースなのでは?ハ長調の楽譜を見ながら、実際には変ロ長調のキーで歌うわけだ。これ、僕にはできない。楽譜を見ると、その音が鳴ってしまうので、常に移調をしながら・・・みたいな感覚になってしまうと思う。

古楽器の演奏など、当時のピッチで演奏しているCDなども聴くのに苦労したりする。ハ長調と明記されているのに、実際には変ロ長調で聴こえてくるので、知らない曲ならまだしも、知っている曲だと落ち着かなくなる。

昔、クラリネットに憧れたことがある。あの音が好きなんだな。どこか人間の声に近いような?

でもクラリネットはダメでしたね。才能がなかった・・・と言われれば、「その通りです」で終わってしまうが、僕の楽器はB管だったので、実音と記譜が異なるのだ。管楽器って、そういうこと多いみたいな?ドレミ・・・と楽譜に書いてあるので吹くと、シ♭ドレ・・・と聴こえてくる。慣れの問題なのかもしれないが、気持ち悪くてどうしてもダメだった。ドレミと記譜音が頭の中で鳴ってしまうので、実音のサウンドと差が出てきてしまう。要領が悪かったのかもしれないが。

もしクラリネットが吹けたなら・・・

頭の中でサウンドが鳴るのと、クラリネットが吹けるようになる・・・どちらかを選択せよと言われたら、クラリネットを選ぶだろうなぁ。

ジオラ・フェイドマンというクラリネット奏者がいる。クラシックというよりは、おもにクレズマー音楽を得意(専門?)としている。ユダヤの音楽だね。この人のクラリネットの音は楽器ではないみたいだ。人間の声そのもの・・・

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有限 

 

以前クラウディオ・ビルラのことを書いた。ある日本人男性が自らの命を断とうと決心した。借金問題につぶされてしまったんだね。北陸の人だったから東尋坊まで行き、断崖から海に飛び込もうとした。日本海の荒波を見つめ、自分の惨めな人生を見つめ、でも死ねなかった。「死ぬ勇気もないんだ、死ぬこともできないんだ」そんな時、その男性はたまたま入った喫茶店でビルラの歌声を聴いた。時代はカンツォーネブームだった。何かがその男性を感情を動かした。ビルラの歌声はこのように響いてきたと言う。「失うものがあるのかい?もう一度生まれ変わってみるという人生だってあるんじゃないか?」

その男性は必死で生活を立て直し、そして思った。「ビルラに会いたい。お礼を言いたい。自分が生きている感謝の感情をビルラに伝えたい」そしてイタリアに行く。ビルラを聴き、楽屋でビルラに会い、そしてカタカナで綴ったイタリア語のメモを見ながら必死に自分の思いを伝えた。「あなたの音楽が私の人生を変えたのです」伝えなければならないと思った。ビルラはその男性を抱きしめてくれた・・・

ビルラに伝える、その男性にとっては大事なことだったのだ。他の人にとってはそうとは思えないことでも。

「もし、自分の命が今日だけで終わるとしたら、今日の予定は本当にあなたのすべきことですか?」

おそらく、ほとんど人が「いいえ・・・」と答えなければならないだろう。会社には行かなければならないだろうし・・・

でも、人生のやり残しを抱えていないだろうか?それとも自覚もしていない?人生ってなんとなく、いつまでも続いているように思う?

人生は有限である。無限ではない。人は誰でも死ぬのだ。でも自覚は難しいよね。でも死ぬ間際に後悔するらしい。人は死を覚悟した時に「失敗したこと」を嘆くことはないのだそうだ。後悔するのは「できたかもしれないのに、やらなかったこと」なのだそうだ。

ピアノを習い始めて間もなく、初歩だというのに「展覧会の絵」に憧れてしまった。先生は当然笑いながら「冗談でしょう?」などと言う。弾いてみればいいのでは?命はあと一ヶ月かもしれない。実際に弾けるようになるには莫大な時間が必要かもしれないし、弾けないかもしれない。でも「やってみた」という事実は残る。

アマチュアだけど、自分が心に感じたものを曲を通して共有したくなる。やってみればいいのでは?やろうと憧れた事実は残る。憧れを信じようとした自分は残る。

「どうせ素人だし・・・感情表現なんて無理だし・・・」そう本心から思うのなら、やらなくてもいい。必要性を感じなければ、それはそれで後悔もないだろうから。判断できるのは自分以外には誰もいないのだから。「挑戦しておけばよかった」「心のままに自分を信じてやってみればよかった」と後悔しなければいい。

マンゴはもうこの世にはいない。心臓発作で亡くなっている。突然死だ。コンサートの舞台上でのことだったそうだ。最初は快調に歌っているのだが、途中で突然ピアノが弾けなくなり、歌えなくなる。マンゴは聴衆に「ちょっと待って・・・」と言ったらしい。ゼスチャーでスタッフを呼ぶ。異変に会場は騒然とし、スタッフが駆けつける・・・

イタリアでの葬儀では出棺時、棺を拍手で送ることも多いそうだ。それは「ありがとう」という感情なのではないか?葬儀にはファンも参列している。棺が安置された車をいつまでも追いかけていくファン・・・

マンゴの歌によって感情が動いた人は多くいたと思う。

音楽にはそのような力があると信じる。人間にはそのような感情があると信じる。死ぬ間際に後悔はしたくない。

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マンゴ 

 

イタリアのカンツォーネと言うと、オペラ歌手がアンコールで歌う「サンタ・ルチア」とか「オー・ソレ・ミオ」のようなイメージがある。朗々と高らかに・・・みたいな?歌=カンツォーネと考えれば、最近のポップス系の音楽もカンツォーネなのだろうか?我々が連想するカンツォーネは、イタリアではナポレターナと呼ぶみたい(ルカによれば)。ナポリ民謡?ナポリ方言というよりナポリ語なるものもあり、標準イタリア語とは異なるのだそうで、北の人たちはナポリ語を解さなかったりするらしい。僕も沖縄の言葉などは分からなかったりするので、そのようなことなのだろうか?

日本のカンツォーネ・コンクールなどでは、ナポレターナの部門と、ポップス系の部門に分かれていたりするらしい。そうだよねぇ、同じ土俵では争えないよねぇ。特にイタリアの歌に詳しくはない一般的日本人にも有名なナポレターナだが、個人的にはクラシックの歌手のそれよりも、ポップス系の歌手の歌ったナポレターナに惹かれる。そう沢山の歌手を聴いたわけではないので、決めつけらないが、朗々とベルカント発声で歌われるよりも、情緒というか、そのようなものはポップス系の歌手から、より感じられる。まぁ、歌手によるかなぁ???

ポップス系、個人的に「サンレモ系」として分類している歌手の中でいいなと感じるのが、ジジ・フィニーツィオ。彼のナポレターナは素晴らしい。あとはマンゴのナポレターナ。

マンゴ?イタリアでは「マンゴ」で通じるが、日本ではそれほど有名ではないようだ。僕はルカに紹介されるまで知らなかった。なんだか果物の名前みたい。本名はジュゼッペ・マンゴというらしいが、やはり変わった名前だなと思う。

容貌は「男臭い」という感じ?渋いと表現もできようが、どこか悪役俳優風?でも声はファルセットを用いた、非常に柔らかな声で、表現も叙情的でさえある。セクシーにすら感じる。容貌と歌声とのギャップはあるかもしれない。若い女性がキャッ・・・と騒ぐようなルックスではないのかも?僕は判断できないし、充分容貌も素敵だと思うが・・・

一般的なイメージである「張り上げるカンツォーネ」というものを覆すようなマンゴのナポレターナ。

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category: The Singers

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声楽はピアノよりも簡単なのか? 

 

「う~ん、やはりピアノ科で受験は難しいかもしれないわね。音大のランクを落とす?それはイヤなの?そう・・・じゃあ、声楽で受験すれば?先生を紹介するわ。今までのピアノだって無駄じゃないと思うの。声楽専攻でも副科ピアノは必修だしね」

この生徒が高校生だと仮定して、逆のパターンはないだろうと思う。声楽科での受験は難しいので、じゃあピアノ科で・・・というパターン。あまり聞かない。声楽の方がピアノよりも簡単なのか?ピアノの場合、高校生で初級、ブルグミュラーなどを弾いているとしたら、音大受験は難しいだろうと思う。でも声楽だったら、高校生の多くは初歩なのでは?発声、コンコーネ、イタリア古典歌曲をイタリア語はまだ流暢に発音できなかったりするので、カタカナをふったり・・・これって初歩なのでは?

簡単・・・と言うよりは、声が出来上がる時期というものがあるのだろうと思う。身体が楽器であるわけだし、ピアノのように「押せば鳴る」というものでもないので、高校生の頃の声なんて、まだまだ未成熟、発展途上なのかもしれない。ピアノ科の場合、もしかしたら音大卒業時が演奏技量のピークで、あとは落ちていくだけ・・・なんてこともあるかもしれないが、声楽で22歳前後なんて、まだまだこれからという世界なのだ。

ピアニストの場合、物心つくよりも前に訓練を受けている人が圧倒的に多い。高校生ぐらいになり、ピアノを聴いて感動したので自分もピアニストになろうと思っても、それは難しいかもしれない。音大受験なんてことを考えなくても。でも歌手の場合は、このケースもあるような気がする。世界的歌手でも、一度社会で出て働き、それから歌手を目指したなんていう人は沢山いるし。

このジャコモ・ロンディネッラという人もそのパターンであるように思う。聴いてみた感想は、「カンツォーネ系」「ナポレターナ系」というよりはポップス寄りの「サンレモ(音楽祭)系」の人のように感じたが、声が素晴らしい。この人の父親は、やはりナポレターナ歌手で母親は女優だったそうだ。「なるほど、家系ね」と思ってしまう。事実、ロンディネッラ家は何代も続く歌手家系なのだそうだ。

「ねえ、ジャコモは甘い声をしているみたいだし、ハンサムだわ。将来女性を泣かせる不誠実な男になってしまうのではないかしら?チャラチャラした男に。この子には実直で安定した人生を歩んでもらいたいわ・・・」

そのような両親のやり取りがあったのかは不明だが、ジャコモは船乗りになる。海運学校(?)に進学し念願叶って船長さんになる。イタリア海軍でも活躍したらしい。船乗りが歌手よりも実直なのかは疑問ではあるが、芸能っぽくない安定さはあっただろうと思う。その後、ジャコモは何故かボクサーになる。これまた実直な職業なのかは置いておいて、そこまでのジャコモの人生において歌というものは存在しなかった。

ボクサーとしては、いい成績は残せなかったらしい。「殴られてばっかりだ。賞金のこと、いや、生活のことも考えなくてはな。歌・・・はどうだろう?歌は好きだ。父さんも歌手だった。歌・・・やってみるか?」

そして歌手、ジャコモ・ロンディネッラが誕生した。

聴いてみると、正直「歌手になるために生まれてきたのでは?」と感じる声だ。歌手そのものでしょ?この声は・・・

歌の場合、幼い頃に進路が決まってしまうという理不尽さはない。内なる欲求と進路を自分の意思で融合させることができる。ここのあたりはピアノよりもいいかも?でも楽器が自分の身体なので、ある人はある、ない人はどんなに頑張ってもない・・・みたいな理不尽さはピアノよりもあるような気がする。ピアノにおける手の大きさみたいなことよりも、声楽家における「身体」「声帯」のようなものの個人差は残酷なものであるのかもしれない。

それにしても、この人、生まれながらの歌手でしょ?

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「雪」 

 

ルカが最も気に入った、ちあきなおみの歌唱が「雪」という曲。この曲は「赤と黒のブルース」よりも、さらに歌詞内容と曲表現のようなものが密接な関係にあるような曲に思うので、日本語を解さないイタリア人のルカがこの曲に惹かれたというのは意外でもある。どちらかと言えば、地味な感じの曲なのではないかとも思うし・・・

昔、日吉ミミが歌った曲なのだそうだ。ヒットしなかったみたいだけど。

ちあおきなおみは「赤と黒のブルース」とは全く異なった歌い方をしている。当たり前のことのようだが、これって凄いことのように思う。まず感じるのは、歌が表している情景が聴いている人に伝わるということ。かつての恋人だろうか、忘れることのできない人を訪ねる。相手に愛する人がいるということを想定していなかったのか、それとも覚悟していたことなのか、生きるために、あえて確認したかったのだろうか、いろいろと聴き手は想像できる。そこには雪と切なさ、そして感傷がある。

この情景の部分はルカには理解できない部分だと思う。日本語が分からないのだから。女性とか、雪とか、その部分はルカには伝わっていない。ちあきなおみは「風景」「情景」だけを表現しているのか?女性の心の動きのようなものまでも歌で表現しているのでは?

実際に相手のアパートを訪ねる・・・ということはしなくても、生きていれば同じような切なさや痛みは人間だったら誰でも経験しているのではないだろうか?毎日がバラ色で蝶が舞っているような人なんていないのでは?

誰でも持っている部分、日頃は表に出さない、出せない部分に音楽としてタッチしてくるのでは?感情にタッチしてくるのだ。なのでルカの心も動く・・・

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category: The Singers

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「赤と黒のブルース」 

 

イタリアの風光明媚な海岸道路を走りながら、僕たちはなぜか日本の歌謡曲を聴いていた。むろん、ナポレターナも沢山聴いたが、日本の曲もイタリアの風景とはミスマッチのようでいて、どこか合っているような気もした。

「どれも日本のカンツォーネは素敵だけど、この歌手が抜群だね。国境を越えて魂を震わせる歌だね」とルカが言う。それは、ちあきなおみの歌だった。

ルカは唐突というか、理由もなくイタリアのCDなどを送ってきてくれるので、それは喜びでもあるのだが、毎回受け取るだけでは、さすがにいけないと思い、ちあきなおみのCDを送った。

「良かったよぉ・・・」

僕が送った、ちあきなおみのCDは彼女のオリジナルのヒット曲ではなく、昔の歌をカバーしたCD。ルカは日本語を全く解しないので、歌詞ではなく、歌唱と曲というか、サウンドのみで何かをちあきなおみから受け取ったことになる。

僕もイタリア語の曲はもちろん、英語の曲も、「リスニングするのだっ!!!」という意識で聴かない限り(意識しても?)歌詞を理解して曲を聴いているわけではない。その場合、曲の理解というか、感動のようなものも、理解できて聴いている場合よりは半減するのだろうか?そうなのかもしれないが、歌詞内容など分からなくても、はっきりと何かを感じとってはいるのではないかとも思う。

歌詞が表現している世界とは別の世界で感動するということもあるのではないか?言葉を超える何か・・・

バーンスタインが言うように「音楽は言葉で表現できない感情までも表す」ということが真実であるのなら、それもありなのかもしれない。

結構な枚数のCDを送ったのだが、ルカが「最高だね」と選んだ曲、歌唱は2曲。「とても1曲には絞れなかった」・・・ようだ。

イタリア人らしからぬ(?)渋い好みなのではないかと思う。この世界は日本人独特のものとも感じるし、世界共通のもののようにも思えてくる。

個人的にこの曲のちあきなおみの歌唱から感じるのは、ピアノであれば「鍵盤に触れてから弾く」みたいな準備というかコントロールが完璧だということ。それにより、声そのものは絞っていくクレシェンド効果というものもあるのだな・・・と。

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大人の趣味ピアノだからこそ・・・ 

 

大人のピアノの難しさとは何だろう?ズバリ時間確保?子どものようにしなやかではない指?子どものピアノの場合、多くは物心つくよりも以前にピアノとか練習が生活の中に入っており、あまりそのことに疑問を感じないですむ。「レッスンまでに練習しなきゃ」「発表会までもうすぐだから練習しなきゃ」というようなことが、ある意味当たり前のもの、できるかできないかは別として存在している。

大人の場合、再開組にしても大人から組にしても、ピアノというものを弾くという、そもそもの意味を考えてしまうところがある。練習という行為が懐かしくてピアノを再開したというよりは、音楽が自分の心にもたらす影響のようなものを心の中で感じたから弾いている。

こうも言える。なのに・・・というか?レッスンに通う、人前で演奏をする機会もサークル参加などで確保する。本来は自分を突き動かした動機があるはずなのに、いつのまにか本番に向けて楽譜を音にすること、そして本番でその通りにできたかどうかに一喜一憂することが「ピアノを弾く」ということになってしまう。「上手く弾けなかった~」そして新しい曲に挑戦。そして「崩壊寸前だった~」・・・

出来栄えに一喜一憂するためにピアノを再開したのだろうか?ピアノを始めたのか?「違う」と心では思う。その現実ピアノとのギャップに苦しむのは子どもよりも、むしろ大人なのでは?

世の中の常識逆風・・・その常識、逆風を跳ね返してみればいいのかも?「趣味?では楽しく。お忙しいでしょうし・・・」そうかな?「感情表現?心の欲求をピアノで?まずは基礎でしょ?そのようなことは弾けるようになってから考えましょう」そうかな?

プロではないからこそ、趣味だからこそ、ピアノを弾いているそもそもの動機に立ち入って、自分の内面を見つめる楽しさがあるのでは?ズタズタになるまで自分の心を見つめて、その言葉で表現できないような感情を音にしてみる贅沢・・・

趣味だからこそ・・・ではないかな?弾けてから・・・の前に音楽そのものに浸る権利、贅沢さが大人ピアノ、趣味ピアノの醍醐味なのでは?

黄昏色を表現したい・・・

まずはきちんと音が弾けてから・・・ではなく、黄昏色の世界を自分で具現化してみようとしてみればいい。魂が昇天していくような、光に包まれた感じを音で表現してみたい、そのような欲求を感じたら、やってみればいい。「弾けてから・・・」「プロじゃないんだし」そうかな?

ミスタッチが山ほどあっても、暗譜が怪しくなり、途中で空中分解してしまっても、黄昏色や魂の昇天を自分で一瞬でも感じられたら、できれば人に伝えることができて心の交流があったら、そのほうが幸せなのでは?

一音も隣の音を叩かずに弾けるようになるためにピアノを再開したのだろうか?違う・・・のでは?

フレデリック・マインダースが編曲し演奏しているリヒャルト・シュトラウスの「子守歌」・・・

この演奏から、僕は世紀末の黄昏色を連想する。どんな色?説明は困難だが、黄色と白が光のようになっているような?それをサウンドで表現できたら・・・

あと連想するのが「フランダースの犬」のラストシーン。ネロ少年がパトラッシュと共に、光に包まれ昇天していくシーン。

人によって表現したいと浮かぶものは、それぞれだろうが、そもそもそのようなものが存在しないのであったら、忙しいのにピアノなんか弾かないのでは?

まずは音が弾けてから・・・そりゃあ、音が弾けなければ表現できないとは思うが、あくまでも目的は「弾けるようにする」ではなく「光に包まれたネロ少年とパトリッシュ」であるべきでは?

原曲は歌曲。なので歌詞がある。リヒャルト・デーメルという人の詞だ。この歌詞がまた世紀末で黄昏色なんだな・・・

「ああ、失敗しちゃったぁ・・・」問題はそこ?目的はそこ?

大人の趣味ピアノだからこそ・・・そろそろ考えてもいい時代なのではないだろうか?


「子守歌」  曲:リヒャルト・シュトラウス 詞:リヒャルト・デーメル ピアノ編曲:フレデリック・マインダース


夢を見てね、私のかわいい子
天国の夢。そこでは花が沢山咲いているの
輝き、そして揺れているの
夢を見て・・・ママの歌を聴きながら

夢を見てね、心配の種でもある我が子
あの日の夢を。花が咲き誇ったあの朝のことを
あなたの小さな魂がこの世に現れた日

夢を見てね、私の愛
素晴らしかったあの日、あの夜の夢を
パパの愛が花開き、この世を天国にしてくれた
かつてのあの夜のことを・・・





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好きなピアニスト フレデリック・マインダース 

 

このピアニストも個人的には来日して欲しいと思うピアニスト。CDは日本でも手に入る。シューベルトやシューマンなどの歌曲をマインダース自身が編曲したもの。ベートーヴェンやショパンなどの一般的なレパートリーではないので、どこか敬遠されるのだろうか?「ちょっと特殊だよね?」と思われるのかもしれない。単にピアニストと呼ぶよりは、コンポーザー・ピアニストとでも呼びたいような?

亡くなってしまったがフィオレンティーノや、現在活躍中のスティーヴン・ハフのような、コンポーザー・ピアニストを僕は好きになる傾向があるように思う。考えてみれば、往年の巨匠たちは、コンポーザー・ピアニストだった。というより、作曲、編曲というものと演奏というものが完全分離してしまっている現代が、どこか特殊なのかもしれない。

フレデリック・マインダース、1946年生まれらしい。若手・・・ではないよね?日本には来ないのかなぁ?アメリカでは割と有名だった記憶がある。オランダのピアニストのようだ。なので実際の演奏に接するにはオランダあたりまで出掛けなければならないか?でも調べてみると、マインダースは現在はブラジルで暮らしているらしい。ますます遠くなってしまったような?

もちろんトランスクリプションものの、豊潤で歌い込むようなベルカントサウンドも魅力だが、この人は超絶技巧的な楽しさもある。そこが魅力だ。ラヴェルの「ラ・ヴァルス」のピアノソロ版は、あまりにも技巧的に難曲であるので、腕自慢(指自慢?)のコンクール覇者などがよく演奏する。あとは頂点に立つようなピティナっ子?バリバリ、ガンガン系の曲というイメージ。この曲は3段譜の部分を、どのようにして2本の手で演奏するかというところが難しいのだと思う。ほとんどの人が「こんなに沢山の音を弾きました~」的な演奏になってしまっている。でもワルツなんだよね?黄金の光に包まれたり、霧のベールに包まれたり、そこに魅力がある。そもそも華やかさという点ではオケ版が勝る。ならば、ピアノで演奏する理由は?達者さを披露する名刺代わりの曲?

マインダースはそのあたりをすべてクリアしているように思う。コンポーザーでもあるからではないだろうか?

ピアノを弾くのは目的ではない。音楽をする手段なのだ・・・そのようなことを感じさせてくれる数少ないピアニストでもある。

kaz




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後光演奏とリスキー演奏 

 

個人的にちょっと苦手なタイプのピアニストがいる。とても素晴らしく、ケチをつけるところは微塵もなく、人気があり、アーティストとしての地位を確立してしまっている。後光が差しているタイプのピアニスト。嫌いとかではない。そうではないのだが・・・

最初のジェフリー・テイトと組んだモーツァルトのコンチェルトの頃の内田光子さんは好きだった。幸福感溢れる演奏だと思った。今はあの頃よりも、さらに音楽的深さを増し、どこをどう聴いても素晴らしい。文句のつけようがない。なので、ちょっと「私をお聴き」的な後光を感じてしまう。「は、はい、聴かせて頂きます」のような窮屈な感じがしてしまう。同じような意味で、かのツィメルマンもちょっと苦手。「どうかね?本物の芸術を聴いた感想は?」みたいな素晴らしいものを感じてしまう。後光が重々しい仏像のよう。

彼らには「あまり好きではない」などとは、とても言ってはいけないような後光を感じるのだね。それだけ立派で素晴らしいのだが・・・

ワルタニャンの演奏、真逆?「わぁ・・・どんなことをしでかすんだろう?」みたいな楽しさ、ワクワク感がある。でもこのようなタイプのピアニストは好き嫌いがはっきりと分かれるだろうとも思う。だって音大の教授たちが「絶対にやってはいけませ~ん」みたいなことを沢山していて(?)そこが魅力だったりするんだもん。

特に、このラフマニノフの2番のコンチェルトなどを聴くとそう思う。「えっ、音・・・変えてる?」

この曲で音を変えたり加えたりしているピアニストは珍しいのでは?「えっ、そんな表現あり?」みたいな魅力は(僕にとっては)満載だ。何が起こるか予測できないような演奏なので、少なくとも退屈はしないと思うが・・・

第3楽章の例の甘ったるい(甘美な?)メロディーのルバートなんてゾクゾクしてしまう。甘美メロディーは2回登場するが、2回目なんて相当の勇気がなければ、このようには弾けないだろうと思う。なので評価は分かれるのではないかと思う。僕は好きだが、「なにこれ?」と思う人だっているだろう。

いてもいい・・・と思う。すべての人が後光演奏に向いてしまうのもよくないし、逆もまたよくない。いろいろ・・・さまざま・・・がいい。

でもインプレサリオたちにとっては、この人を呼ぶのはリスキーなのでは?なので同じようなピアニストばかり来日する。

リトマス試験紙のような、踏絵のようなラフマニノフだ。

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好きなピアニスト ワスゲン・ワルタニャン 

 

サンドロ・ルッソに続き、好きな現役ピアニスト、それも日本での知名度はまだそれほどでもない人シリーズ(?)第2弾。ワスゲン・ワルタニャン。どちらかと言えば、僕はベルカント系ピアニストが好きなのだが、この人はホロヴィッツ傾倒系というか、華やか系というか、ちょっと僕が好きなタイプのピアニストではなさそうなのだが、非常に好き。妙に好き・・・というか?

ロシア人でモスクワ音楽院で学ぶというところは納得だが、後にニューヨークのジュリアード音楽院でも学んでいる。ローウェンタールのお弟子さんらしからぬ奔放さというか、「音楽院で学んだんだぁ・・・」的なサウンドではある。「先生に習っていたんだ?」みたいな?

日本の優秀な若手(だけではないが)ピアニストの演奏でとても残念に感じるのは、音が伸びないとか、入魂・陶酔表情の割には平坦でチマチマしているみたいなところだが、最も残念に思うのが「お伺い演奏」だと感じること。「あの、この演奏、合ってますよね?主流の範囲ですよね?」みたいな?そこが残念。なので多くの演奏から聴衆との対話に欠けている演奏と感じてしまうのだ。達者なんですけどねぇ・・・それだけに残念というか?誰に伺っているのだろう?その場にいる聴き手・・・ではないんだな。先生?権威?日本の若手からもワルタニャンのような「イケイケ系」のピアニストも誕生して欲しい気がしてくる。

変に成熟、老成せずに、いつまでもホロヴィッツのように自分を保って欲しいなどと思うピアニストだ。

どこか惹かれるんだよね。潮の満ち引きのような対話力がある。聴き手に迫ってくるという表現になるのだろうが、それよりも、聴き手を引いてしまうみたいな?満ち潮になったり、引き潮になったり・・・聴き手のテンションを吸引してしまうみたいな?

まぁ、コンクール向きの人ではないと思う。感じ方によっては「イケメン」であるようにも思うので、来日すれば人気が出るかもしれない。

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絶対に憎しみだけはあげない 

 

ブリュッセルでテロのあった日、友人のルカは仕事でベルリンに滞在していたそうだ。「もしベルリンだったら・・・」とは当然感じたそうだが、あえて不安感に支配されないように暮らしていくつもりなのだと言う。むろん、テロ行為には憤りを感じるが、不安、怒りのような感情に支配されてしまってはテロに屈することになるからと。

東京だって安全というわけではないだろうが、パリ、そしてブリュッセルとヨーロッパの都市が狙われれば、ミラノで生活しているルカは非常に不安だろうと僕は想像する。「街そのものが文化財みたいな所だからね。いつテロがあっても不思議ではない。イタリアでテロがあるとしたら、ローマではなく、ここミラノかもしれないね」

「我々は愛というものを再認識する時だと思うな。愛は不滅だからね。その思いだけがテロに対抗できるのだと思っている」このルカの言葉は、ある男性のメッセージを思い出させる。パリでのテロで最愛の妻を失った、たしかアントワーヌという男性が世界に向けて発信したメッセージ。

「僕は君たちに憎しみだけはあげない。それでは君たちと同じになってしまうから。哀しみに包まれているけれど、君たちは僕たちの世界を破壊することは絶対にできない。なぜなら僕らの世界は愛に包まれているから」

愛に包まれる、シンプルなようでいて人類にとっての永遠の課題のような複雑さをも持つ。人間は皆同じなのだ・・・そう心から思えることへの困難さだろうか?人類の歴史の中で紛争や互いの憎しみ、そのようなものが存在しなかった時はあるのだろうか?生死学の権威、キューブラ―=ロス的に考えれば、人間は愛を知る、無償の愛を学ぶために生まれてくる。人生で出逢う困難なことは愛を知るためのレッスンであるのだと。人類の永遠の課題なのだろうか?愛を知らないから争いや差別があるのだろうか?それは愛を知るためのレッスン課題なのだろうか?人類が愛を学ぶために、学び終えるまでテロは続くのだろうか?

無常感を感じる。人間は皆同じなのだ・・・たったそれだけのことなのに・・・

人間は昔から、このような無常感を感じつつ生きてきたのだろうか?考えてみれば不思議だ。音楽が何故人の感情を揺さぶってしまうのか?音の上がり下がり、重なり、長短、これが人の心を揺さぶる。無常感が音楽を生み出したのか?生きていくことは無常であるからこそ、その痛みを音として作曲家は綴っていったのか?だから音楽を聴くと心が揺れる・・・手の届かない「無償の愛の世界」を音に求めていったのか?

レナード・バーンスタインの言葉が浮かんでくる。「何よりも素晴らしいのは、音楽が伝えることのできる感情の種類は無限だということだ。言葉で表現できない深い感情までも音楽は明確にしてくれる」

感情の種類は無限、それを音楽は表現してくれる。むろん、表現するための手段、ノウハウは重要だろうが、そもそも感情がなければ何を表現すればいいのだろう?

「音楽は感情を代弁してくれるよね」とルカは言う。だからギターを弾くのだと・・・

今、シュタルクマンの演奏を聴いている。今時ナウム・シュタルクマンなんて流行らないのかもしれないし、そもそも知らない人が多いのかもしれない。ソ連時代には活動を国内に限定されてしまっていたところもあるから、それも仕方ないのかもしれない。

最近は、聴き手の心、聴き手の感情を代弁してくれるような演奏が少なくなっていると感じる。

「哀しみを感じてはいるけれど、絶対に憎しみはあげない・・・」

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ブリュッセルに寄せて 

 

ヤツェクはイレナの言葉が信じられなかった。

「何故なんだ?何故君がドイツに行かなければならないんだ?」

「私は小児科医よ。苦しんでいる子供たちがいれば助けたいと思うのは当然でしょ?短期間のボランティアだわ。あなたが反対するとは思わなかった」

「反対するに決まっているじゃないか?僕たちはポーランド人でありユダヤ人じゃないか?あいつらに何をされたか、まさか君は忘れたわけじゃないだろう?君のお父さんがドイツ人に何をされたか、僕の両親があいつらにどうやって殺されたか・・・」

「もちろん忘れたわけじゃないわ。でもドイツ人が全員ナチスだったわけじゃない」

「僕はドイツ人が憎い。あいつらは死の壁で僕の両親の頭を打ちぬいた。僕は絶対にドイツ人を許せない」

「あなたは憎しみしかドイツ人に感じないの?」

「当たり前じゃないか!!!」

「許せないの?」

「君は許せるって言うのかい?」

「分からない・・・分からないの・・・だからドイツに行くのかもしれない。憎しみを消したいの」

「消す必要なんかない。我々ポーランド人、ユダヤ人は被害者なんだから・・・」

「そうだけど・・・でも憎しみの感情に支配されていたらナチスと同じだわ」

「なんてことを・・・」

「そうよ!同じだわ。私は憎しみの感情を持ちながらこれからの人生を送りたくないの。それじゃナチスと同じだから」

「同じじゃない」

「同じよ・・・憎しみではない何かを感じるべきよ・・・愛のような・・・」

「愛だったらユダヤ人のために感じるべきだ」

「違うわ・・・同じ人間なのよ?憎しみの感情を消したいの・・・」

「僕には難しい・・・難しすぎる・・・」

「同じ人間同士が憎みあうなんて・・・それは間違っていると思うの。私にも難しい。でもイヤなの。だからドイツに行くの。人間はみな同じだと感じたいの。そうしないとこれから生きていくのが難しいから・・・」

ヤツェクとイレナはその後結婚した。そしてHという息子が生まれた・・・

ブリュッセルに寄せて・・・

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ピアノ教師も弾く人、追う人 

 

バシキーロフのレッスン動画を観て感じた。バシキーロフ、若いねぇ。枯れていないというか?1931年生まれなんだぁ・・・

感じたのはそれだけではない。もしバシキーロフが初歩の生徒を教えたら?たとえば小学生にブルグミュラーの25練習曲をレッスンする・・・みたいな?彼がブルグミュラーを知っているかという現実的な事は別として、ラフマニノフだろうとブルグミュラーだろうと、同じように教えるような気がする。どこをどうすれば曲として成り立っていくのかという基本を押さえたレッスンという感じがするから。曲が魅力的なものとして他者に訴えていく、そもそもの基本、語法に関連したメカニカル、そのようなレッスン。抽象的ではないというのかな?

「そこはもっと弾むように弾いて!」ではどうすれば弾んでいる感じで弾けるのか?具体的な語法があるはず。「歌って~」ではどのように?

「そこは盛りあげて。クレシェンドでしょ?」「そこはドじゃなくてレでしょ?」ぐらいだったら僕でも言える。「そこのパッセージが転ぶわね、リズム練習を一日○回してきなさい」これも僕でも言えるかな?プロのアドバイスとは言えないというか。プロだったら転ぶ原因をその場で把握し、「どの部分がいけないので転んでいるのか、どうすれば転ばずに弾けるのか」という生徒がその場で納得するアドバイスをするべきだと思う。

教室運営というか、どのように繁栄させるか・・・のようなセミナーも多いと思うが、生徒側の立場として思うのは、レッスンという場で生徒を納得させ、驚嘆させ、尊敬させること。それができる教師のところへは生徒が自然と集まるような気がする。皆、そりゃあ、悩んでいるし、上手くなりたいさ。

「こうしてみたら?その部分をそうではなく、このように・・・」「あっ、全然違いますね」

ここで「先生・・・凄い・・・」となる。教師の一瞬技というのだろうか?

でもバシキーロフはピアノに興味を示さないような、練習もしてこないような生徒は教えないよね?そこが街のピアノ教室との違い?バシキーロフが「練習した?」生徒が「してませ~ん」・・・ちょっと想像できない。でもこれは日本の音大の先生もそうだと思う。「ちょっと、あなた・・・練習したの?」「全然弾いてませ~ん」なんてことはないだろう。そもそも音大の先生が学生に対し、「どうしたらピアノを弾くように、少しは練習してくるようになるのかしら?ピアノ好きの学生を育てるにはどうしたらいいのかしら?」なんてことで悩んだりはしないだろう。

「生徒がワクワクするような、興味を持続させるようなレッスン」そのノウハウ・・・このようなセミナーが繁栄するということは、ワクワクしていない、興味を示さない「別にぃ・・・」的な生徒が存在しているということなのだろう。悩んでいる教師が多いということなのだろう。「練習?しませ~ん・・・ピアノ?別にぃ・・・」

素人で部外者の僕だったら「じゃあピアノは辞めて好きなことをすればいいのに、習えばいいのに・・・別にピアノじゃなくても」なんて思ってしまうが、街のピアノ教師はお金を頂いているわけだし、そういうわけにはいかないのだろう。仕事だしね。だから悩む・・・

まずはピアノが好きで、そこそこは練習して・・・程度がクリアできていないとピアノの継続そのものが危うくなる。セミナーも繁栄するわけだ。でも、あまりにも小目標的なことに奮闘していないだろうか?やはり最終目標は「音楽」なのではないだろうか?

音楽で開眼させ、引っ張ってしまう・・・これができる教師は強いのでは?指導法ノウハウ、教材研究も必要だが、教師自身が弾く重要性はここにある。

「練習嫌いで~す」「弾いてませ~ん」「別にぃ・・・」とにかくなんとかせねば・・・その時にはセミナー通いをして、とりあえずは小目標クリアを目指す。でもいい教師とはその部分が長けている人・・・ではないような気がする。引っ張れる人。音楽で引っ張る。演奏そのものと、具体的アドバイスで生徒を納得させることができる。具体的アドバイスは弾いていなければ、引っ張られた経験がなければ難しいのではあるまいか?

バシキーロフの演奏。有名なこの曲を弾ける人は多いだろう。でもこのように弾ける人は?でもこの演奏に憧れる人もまた多いだろう。「ああ・・・こんな風に自分も少しでもいいから弾いてみたい」だから追う。弾かずに追うことはできない。

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いいピアノ教師とは? 

 

いいピアノ教師とは、生徒のニーズに合わせ希望の供給のできる教師なのだろう。趣味程度希望の生徒にはそれなりに、そうではない生徒にはそれらしく?

個人的にはピアノ教師自身も自分のピアノを追及し、追っている人がピアノ教師だと思う。簡単に言えば、自分の演奏、自分のピアノを忘れていない人。自身が追っていなくて何を伝えられるというのだろう?

以前はこのようなテーマをブログにも綴っていたが、「そうですよね」という反応もあったが、ピアノ教師からの反応としては「ピアノ教師はピアニストではありません。自分がバリバリ弾けるということよりも、生徒を上手くさせることが役目。なので教材研究や最新の指導法を知るためにセミナーに参加したりするのです。自分の練習よりもそれは大切なことでもあります」というものが圧倒的に多かった。基本的には、ある文章に対して「そうですね」という意見よりは、「そうではないと思います」という人の方がコメントやメールを送る傾向にあると思うので、そうなったのだろうが、そしてすべてのピアノ教師がそのような考えではないということも承知はしているが、まぁ、正直僕としてはひっくり返りそうにはなった。「ええ・・・そう思うんだ、そういう先生も多いんだぁ・・・」と。

「街のピアノ教室の現場を知っているのですか?ピアノになんか興味のない生徒を教えなければならないんです。その苦労を知っているのですか?」このような意見もあった。僕は当然現場を知らないので、「大変ですね、でもお仕事なのですから」ぐらいの感想しか持たない。そして僕が冷血な人間なのかもしれないが、興味がないのなら辞めればいいじゃん・・・とも感じる。すべての子どもがピアノに一途、ピアノに適しているなんてことはないのでは?スポーツが合っているかもしれないし、文章を書くことがピアノよりも好きかもしれない。ピアノという習い事がすべてを支配しているわけでもないのだから。だからこそ、「ピアノ・・・好き」という子どもに対しては、何かを伝えるべきだとも思う。それには教師自身がピアノ、音楽への憧れを忘れていては導く、伝えることはできないだろうとも思うのだ。

「そうですよね」的な意見として割と多かったのが、生徒からの意見。「暗譜間に合うの?とか先生は言うけど、私、先生が暗譜でピアノを弾いているのを聴いたことがない。先生発表会でもソロ弾かないし・・・」みたいな意見。結構生徒ってシビアに見ている。保護者も基本的には同じだが、さらに(金銭が絡むからか?)シビア、厳しい。「先生って弾かないんですね?私たちの常識としてはピアノを弾くってやはりクラシックの曲、ショパンとかを弾くという感覚なんですけど、先生のブログを読むと、たしかにピアノは先生同士の集まりかなんかで弾いていらっしゃるんですが、皆で生徒の教材のようなものを楽譜を見ながら弾いているんですね。豪華なドレスを着て弾いていらっしゃるので、それが先生にとってのピアノなんだろうなとも思いました。なんだか違和感を感じたりもします」

特に保護者は一般的な感覚を持っているので、ピアノ教師の世界というか、常識というか、そのようなものとのズレがある。セミナー記事、セミナー後のランチ、「演奏もしました、自分の演奏も大切ですね」という文章と共に、楽譜を見ながら教材を演奏している。保護者の中には違和感を感じている人も多いようだ。

今日はリスト、明日はラフマニノフ・・・とバリバリ弾く必要はない。そのようなピアノである必要はない。そもそもピアノはバリバリ弾くものでもない。そうではなく、憧れを忘れないこと・・・かな?憧れがあれば弾かずにはいられない・・・みたいな?

デミジェンコやダン・タイ・ソンを導いた先生、ドミトリー・バシキーロフ、この人はゴリデンヴェイゼル派の中では名教師というイメージの強い人だ。むろん、ピアニストであるのだが、それよりも教師としての功績が知られているというか・・・

バシキーロフ自身の演奏も以後紹介していきたい。非常に素晴らしい。彼が教えるということと演奏するということを分離していなかったということが分かる。教える・・・というよりは、導く、さらにそれよりは伝えるということかな?自分自身が音楽に焦がれて追い続けていた。だからこそ、このような指導ができる。

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category: ピアノ雑感

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流派 2 

 

デミジェンコのショパンを聴いていて連想したのが、この人のショパン。どこか似ている・・・と。似ていると言っても、よくある先生の影というか、先生にそのように言われたから弾いています的なものではなく、根本的な類似点というか。

音がピュアで、どこまでも伸びていく、演奏姿や奏法から、労働や汗といったものを全く感じさせない・・・

デミジェンコもダン・タイ・ソンもドミトリー・バシキーロフという人に師事している。このことは二人の演奏から何かしらを感じたことと全く無関係ということはないだろうと思う。何かある・・・

ロシアにはいくつかの流派がある。バシキーロフはゴリデンヴェイゼルに師事しているので、よくある一般的な分類としては、デミジェンコもダン・タイ・ソンも「ゴリデンヴェイゼル派」とカテゴライズされるのであろう。でも、そのような知識そのものよりも、「伝わったもの」「伝わっていくもの」のような、音楽を教える、習うということの根本を考えるほうが楽しい。

ベトナム戦争時代、防空壕の中で、それも紙の鍵盤でダン・タイ・ソンは練習していた。これは有名な話だ。モスクワ音楽院でバシキーロフと出逢い、そしてダン・タイ・ソンはカルチャーショックを受けたのではないかとも思う。おそらく、日本人が外国に留学して感じるそれよりも遥かに大きな・・・

でも何かが伝わった。それを思うと聴いていて胸が熱くなってくる。

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流派 

 

流派というものがある。ロシア系ピアニストの分類でよく使われるような気がする。主に師事した先生によってピアニストたちを「○○派」と分類する。あまりも○○派だからこのような弾き方をする・・・と狭く捉えてしまうのも「お勉強的」な感じはする。鑑賞者として、まずは、そのような知識なしに聴いて、複数のピアニストから、ある種の共通点のようなものを感じっていく方が、音楽の鑑賞のスタイルとしては楽しいのではないかとも思う。○○派とカテゴライズして、リストアップして聴いていくよりは、実際に聴いてみてから「あっ、この人とこの人って同じ先生に師事していたんだ・・・分かるぅ・・・」みたいな?

ニコライ・デミジェンコというピアニスト、この人は日本でも無名とは言えないだろうが、でももっと有名であってもいいようには思う。最初に聴いた時に驚いたのが、透き通るような、そして、どこまでも伸びていくような音。奏法と音楽が密接に関わっているような?このような演奏を聴くと、「テクニックはあるけど音楽性が足りない」という概念がどこかおかしいとさえ思えてくる。テクニックとはメカニックと音楽表現を結びつけるツールであるのだと・・・バリバリという演奏にしか聴こえてこないのは、テクニックが不足しているからだと。

デミジェンコのショパンを聴いていると、あるピアニストのショパンをも連想してしまう。何かが共通している。そのピアニストとデミジェンコは同じ先生に師事している。そのような場合、○○派のような知識が立体的なものとして入ってくる。

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好きなピアニスト サンドロ・ルッソ 2 

 

サンドロ・ルッソの演奏はユーチューブで沢山聴くことができる。割と超絶技巧系の曲もアップされているので、その方面(どの方面?)が好きな人には結構知られているピアニストなのかもしれない。

個人的には、そのようなバリバリ系の曲よりも、このような歌謡系の曲で、この人は本領を発揮しているような気がする。

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category: ピアニスト

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好きなピアニスト サンドロ・ルッソ 

 

現役のピアニストで好きな人、そう質問されたら誰と答えるだろう?おそらくスティーヴン・ハフと答えるだろうか?でも彼はメジャーな存在なので知っている人も多いだろう。ハフは数年前からジュリアード音楽院で教えているのだそうだ。アメリカでは非常に売れているピアニストだと思う。日本でも演奏してくれるが、頻繁とは言えない。昨年は日本でも演奏してくれたけれど・・・

そのスティーヴン・ハフをとても尊敬しているというピアニスト、サンドロ・ルッソ。この人は日本ではそうメジャーな存在ではないだろう。サンドロ・ルッソはハフの他にはイグナツ・フリードマンなども尊敬しているそうで、このあたりは僕の好みと一致している。あとは、ディ・ステファーノやコレッリなども好きなのだそうで、このあたりも僕と一致している。オペラ歌手を好きなピアニストというだけで聴いてみたくなる。

唐突だが、自分の好きな現役ピアニストを紹介していきたいと思った。それも、日本ではそれほどメジャーではなく、頻繁に来日してくれない人や、まだ一度も日本で演奏していないような人。

世界は広い。日本で有名なピアニストだけがピアニストではない。

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category: ピアニスト

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本番までの気構え 

 

今まで本番中に自分の音が聴こえないということが何度もあった。それはサークルの練習会とかではなく、サークルでも年に一度の演奏会だったり、ピアチェーレの演奏会だったり、つまり「ここぞ」という大事な舞台でそうなってしまうことが多かった。聴覚というものは心理的な緊張のようなものと密接に関係しているらしいから、自分の出番までに硬直して楽屋にいたりとか、客席で聴いていたりなどせず、外に出たりとか、できるだけ気分転換などに励んでいた。でも聴こえなくなる・・・

不思議なことに、練習会では客席で他の人の演奏を自分の番の直前まで聴いているので、条件は悪いはずなのに練習会ではあまりそのようなことはない。緊張の度合いが違うのか?

つらつら考えるに、これには理由があるような気がしてきた。大事な演奏会の場合、僕にしては長期間練習している曲を弾くことになる。練習会の場合、長くて譜読みから一ヶ月、極端な場合は、弾ける曲の中から当日選曲・・・なんてこともあるから、大事な演奏会の場合、3ヶ月以上も同じ曲を弾いているなんて、僕にしては珍しいことなのだ。

普通は長期間同じ曲を練習していた方がいいと感じるのでは?そのような人が多いのでは?発表会の曲など、半年以上も前から生徒に曲を与えている先生もブログなどを読むといるみたいだし・・・

たしかに同じ曲を弾いていて、予行練習的に練習会などでも繰り返し演奏した方がいいのだろうと思う。でもそれがどこか苦しい・・・飽きっぽいのだろうか?それとも違うような気がする。

長期間抱えてきた曲を演奏する時に、聴覚に異常を感じる・・・

僕は、子どもの時に自分で時間をかけて曲を仕上げたという経験がない。レッスンではバイエルが合格せず、結果的に同じ曲を何か月も弾いていたけれど、それとも事情は異なるような気がする。「さあ・・・○○ヶ月しかないので頑張りましょうね?」「はい・・・頑張ります」という普通の生徒が経験してきたようなことを経験していないのだ。

あとは、曲を仕上げる、仕上げたいという欲求が僕の場合著しく低いみたいだ。むろん、本番で失敗はしたくはないので、練習はするが、本番の日の演奏の出来映えというものに一喜一憂ということもない。曲の完成を目指すというよりは、曲に染まりたいというか?

選曲の場合も、「憧れの○○を弾きたい」という強い欲求があるわけでもない。嫌いな曲は弾かないが、どこか鑑賞者の感覚で選曲をする。「今の時間はこの曲を聴きたいな」みたいな?鑑賞者としては、いくら好きな曲でも長期間同じ曲を聴き続けるということはない。その日の気分などによって聴きたい曲は変化する。僕の場合、自分がピアノを弾く時も鑑賞者みたいなのだ。

追うもの、目標も「曲の完成度」みたいなものではなく、鑑賞者として受けた感動をそのまま追うみたいなところがある。

大事な演奏会の準備としての「おピアノのお稽古をしっかり」みたいなものを優先しなければいいのだ。細部を、ここを仕上げて、みたいなことを思い過ぎない。それも大事だが少なくともそれを目的化しない。

つまり本番では「練習の成果を!」ではなく「音楽をそのまま追う」みたいな感覚で弾けばいいのね?そうなのに、どこか無理していた?

でも実際にどのように曲を抱えていればいいのだろう?まさかすべて一ヶ月前に選曲というわけにもいくまい。

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category: サークル

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ニュポートのフィオレンティーノ 

 

音楽雑誌などから自分のお気に入りピアニストを探す方法はある。でもその場合、どうしてもメジャーな人だけに限られてしまう。その中から自分の感性に合った人が好きなピアニストになるわけだが、どこか御見合い結婚っぽい。与えられた情報から吟味して探す感じ?恋愛結婚的に、もうちょっと自分との相性というものを積極的に全面に出す探し方はないだろうか?

ユーチューブを徘徊する。現在はこれが最も手っ取りばやいのでは?無名の人でも動画はアップできるので、雑誌などよりも広範囲から探すことが可能。でもあまりにも演奏の質として混在されすぎという欠点はある。まぁ、恋愛結婚と考えれば、「どこかにいる」的に気長に探せるのでは?

CDショップを徘徊する。一昔前までの方法。収録されている曲に、そのピアニストのセンスを感じたりとか。あとは、ジャケットなどからも意外に演奏を把握できたりもする。もっとも、実力ある人ほど、ジャケットは素朴というか、作曲家の顔だったり、風景だったり、ピアニストが普通に立位で写っていたりするので、判断は難しい。僕の経験では、あまりに芸能人のようなジャケットの人の演奏はあまり良くない印象。肌も露わなドレスを纏い、ピアノの上(横ではない)で大胆なポーズをとっていたりするジャケットのピアニストの演奏には期待できないことが多い。ライティングに懲りすぎていたり、恍惚の表情、かつての聖子ちゃんのような表情のピアニストのCDもあまり良くないことが多い。

自分の周囲に「あっ、この人の演奏、好き」という人がいたら、その人の好きなピアニストを訊いてみる。たとえば、サークルの中とか、発表会などで「いいな・・・」と思った演奏をした人に訊いてみる。「何時間練習しているんですかぁ?」などと野暮な質問をせずに、その人のお気に入りのピアニストを質問してみる。むろん、「えっと・・・キーシンとアルゲリッチと辻井さんかな」みたいな答えだったりすることもあるだろうが、「知らないかもしれないマイナーな人なんだけど・・・」みたいなラッキーな答えが返ってくるかもしれない。意外とこの方法は打率いいかも・・・

一人好きなピアニストが見つかったら、その人の記事をネットで読んだりしてみると、そのピアニストが尊敬するピアニストなどが分かることがある。たとえば、スティーヴン・ハフという人がお気に入りになったら、彼がフリードマンというピアニストを尊敬していることが分かったりする。それ以前に、ピアニストのインタビュー記事などを日頃から読んでいると、尊敬されるピアニストに何度も登場する人がいたりすることも分かる。「えっと、フリードマン?たしかルイサダもそう言っていたな」と。そしてフリードマンを聴いてみる。この方法も打率はいいような気がする。

最も大切なことは、自分で自分の好み、感性の方向性を知る、そして信じるということだろうか?ピアノを弾くという行為においても、「先生の言われたとおりに」とか「コンクールで優勝した○○さんのような」みたいな方向性で弾いていたら、他人の価値観に染まってしまう。好きなピアニストだけ自分好み・・・とはならない。達者で上手な人は山ほどいるから、「あらぁ・・・自分とは全く違う。こんな風に弾けるようになるのかしら?」という、ある種の感心を感動とはき違えて、自分もそれに気づかないなんてこともある。

「ああ・・・聴き逃してしまった」という後悔をしたことがある。もし、前からそのピアニストのことを知っていたらという後悔。セルジオ・フィオレンティーノを僕は聴き逃した経験がある。アメリカに留学して間もない頃だっただろうか?友人とロードアイランド州にあるニューポートという街に遊びに行った。観光目的だ。美しい海岸線と昔の財閥の屋敷(日本人の感覚だと宮殿)見物が楽しかった記憶がある。治安もいいし、景色も美しく、どこかのんびりと平和な街だ。その街であるピアニストの演奏会のポスターが貼ってあった。フィオレンティーノのピアノリサイタルだった。曲目も覚えていないし、当時の僕はフィオレンティーノという人を知らなかった。「ふーん、こんなところでもピアノのリサイタルがあるんだ?このオジサンも頑張っているんだねぇ・・・」ぐらいにしか思わなかった。地方でそこそこ活躍しているであろうピアニストの演奏会・・・という認識だっただろうか?

その後、フィオレンティーノのCDをみつけた。「あっ、ニューポートで弾いていた人?」さらに時が経過し、僕はニューポートの人のCDを聴いた。その演奏が素晴らしかったのだ。彼はニューポートの人ではなく、イタリア人で、長い間ナポリ地方を中心に活動していた人。ナポリ音楽院教授を定年退職して、ワールドワイドな活動を再開した人であったことも知った。世界の聴衆はフィオレンティーノを忘れていなかったし、その演奏を待ち望んでいたのだ。

ニューポートという街は、たとえば、フィオレンティーノのようにアメリカの音楽界には久しぶりに登場する人や、共産圏から亡命してきた人、あるいはコンクール覇者たちが、まずはデビューしたり、デビュー直後に演奏するような由緒ある街でもあったのだ。

「知らなかった・・・」

その後、僕はフィオレンティーノの生の演奏に接することはなく、その演奏を聴く機会を待ち望むうちに、フィオレンティーノは亡くなってしまった。

このフィオレンティーノの演奏を聴いて、「えっ、こんな演奏をする人がいたの?」と感じるのは僕だけではないだろうと思う。

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category: Serjio Fiorentino

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オーダーメイドの春 

 

このブログを読んで下さっている方からメールを頂いた。ピアノの先生だということで、少し身構えてしまうところもあったのだけれど、内容はヒューバート・ハリーとイヴァン・モラヴェッツの記事に対してだった。

「なんでこのようなピアニストたちが日本に紹介されないのでしょう?来日してくれないのでしょう?」

その先生は、あるスター(イケメン?)ピアニストの演奏を聴きに行ったのだそうだ。非常に有名なピアニストでショパンコンクールでも優勝している。しかも曲目はそのピアニストの最も得意であろうショパン。バラード全曲とプレリュード。一万円超えのチケットもなんのその、期待を込めつつ聴いた。

「あれ?私の感覚が変?あれ?あれ?」

そのピアニストは手中に収めているはずのショパン、なんと楽譜を見ながら、それはいいとしても、自分で譜めくりをしながら弾いたのだそうだ。内容が良ければそれはそれでいいけれど、なんともやる気のない演奏で、譜をめくるときに音楽が途切れても一向に気にしないようすですらあったという。バラードのコーダなどは弾けていない?

「あれ?弾けてない?練習してない?あれ?」

それでも会場は割れんばかりの拍手に包まれる。「あれ?」

「もしかしたら、私たち(聴衆)って誰かに操作されている?操作情報を信じ込んでしまっている?これって聴衆の責任?」

そして聴いたフューバート・ハリーやモラヴェッツの演奏。「このような人たちの演奏をなぜ日本では聴けないの?これって聴衆の責任?」

招聘する側の問題なのだろうか?商売なのだから、確実にチケットの売れる演奏家を招聘するだろう。このピアニストもまた招聘されるだろう。その時はいい演奏をする可能性もある。でも「あれ?」と思った人たちは一万円を払ってまでは次は聴かないだろうとも思う。でもチケットが売れれば華やかに演奏活動を続けていくのでは?

聴衆の問題なのだろうか?一つ考えられるのは、どこか「人がいいと言っているからいいのだろう」と思い過ぎてはいるだろうと思う。自分の感性などよりも世間の評価のようなものを重視、絶対視してしまう。

「コンクールで優勝しているから・・・」「CDを沢山出しているから・・・」「有名だから・・・」

デパートの婦人服売り場には春物がたくさん吊る下がっている。「今年の流行なんですぅ・・・」と。「これが今年のトレンドなのね」と購入してしまう。でも既製服なので、どこかしらで我慢を強いられる。「私の体型って○○だからここがゆるくなるのよね。まっ、仕方ないか」「ポケットがないのよね、困るのよね、ハンドバックがパンパンになっちゃうのよね。ちょっとしたものを入れられるポケットがあればいいのに。紳士服にはポケットが普通にあるじゃない?でも仕方ないか」

洋服ダンスには捨てる程の洋服が詰まっているのに、いざとなると着る服がない・・・みたいな?先シーズン購入した服を思い出して着てみたら「あら?これって思い切り過去の感じ?」みたいな?

既製服がすべてと思っていないだろうか?自分の好み、自分の感性を信じ、選んでみてもいいのでは?つまり流行に左右されないオーダーメイド。

ピアニストも同じでは?「来年の来日ピアニスト!」と音楽雑誌に紹介される。名前は有名。CDも沢山出ている。でも雑誌のピアニストは、あなたにとってはデパートの既製服なのかもしれない。心のオーダーメイドをしては?

まあ、実際に生で聴く、つまり大手の音楽事務所が実際に動くのには、一人二人の「この人が聴きたいんです・・・」という声だけでは不足だろうが、心のオーダーメイドをする人が増えれば・・・

「聴きたいんです」という声が増えれば・・・

最初はサロンコンサート的+公開レッスン・・・みたいな来日の形かもしれない。でもそこから聴衆の輪が広がっていくことだってあるだろう。ちょろちょろとそのような動きは日本でもあるし。

大事なのはオーダーメイドをするということ。人がいいと言うから、世間でいいとされているから・・・ではなく自分がいいと思うこと。簡単なようでいて、実際には結構難しいことのようにも思う。

ピアニストを聴くということだけではなく、ピアノを弾くとか、曲を仕上げていくのようなこととか、日頃の練習の時とか、どこか目標が既製服に向かっていっていないだろうか?オーダーメイドしてみればいいのに。

自分の人生の主役は自分なのだから、「あっ、この演奏好きかも・・・」と感じた瞬間を大事にすればいい。その演奏が世間で受けるものではなくても、オーダーメイドの発想で自分も追っていけばいい。

イヴァン・モラヴェッツのショパン。80歳記念リサイタル後の演奏。何歳だったのだろう?プラハのドヴォルザークホールでこの日モラヴェッツの演奏を聴けた人は幸せだなと僕は思う。日本のホールでも演奏してくれたら良かったのに・・・

「ああ・・・このようなピアニストを聴きたい」

オーダーメイドをする人が日本でも増えれば、日本でもモラヴェッツのようなピアニストが聴けるようになるかもしれない。

kaz




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ヨーロッパのピアノ 

 

ピアニストのイヴァン・モラヴェッツが昨年亡くなっていたのだそうだ。オブラスツォワの時と同じように、その訃報に哀しみを感じている。

日本では、どこか地味な存在だったのかもしれない。アメリカに住んでいた時に僕はモラヴェッツというピアニストを知ったと思う。アメリカでは巨匠のような扱いだったと思う。日本ではそのような扱いではなかったので、驚いた記憶がある。

チェコの真摯なピアニスト・・・という感じだったろうか?とにかく音が美しかったような?ドビュッシーは苦手な僕だが、モラヴェッツのドビュッシーは好きだった。曲というより、サウンドで中に入っていけた。

モラヴェッツのベートーヴェンが好きだった。あまり演奏してくれなかったけれど・・・

この演奏は、モラヴェッツの80歳記念リサイタルのライヴ。故郷のプラハでのリサイタルのようだ。80歳を過ぎて、この曲を真っ向から演奏するって凄いことのような気がする。なんというか、「ヨーロッパの人なんだな・・・」とも感じる。

モラヴェッツのこの演奏を聴いていて、イタリアでの光景を想い出した。モラヴェッツとは全く関係ない光景ではあるが。友人と食事をしていたのだと思う。そのレストランで働いていた少女。イタリアあたりでは、家業が忙しいと、子どもが店を手伝ったりすることもあるので、その少女もそのケースなのではないかと思った。でも友人が言う。「イタリア人じゃないね・・・」

「ここで働いてるの?」「そう・・・」「この店の子?」「ううん・・・違うわ」「どこから来たの?」「コソボ・・・」「お父さんは?」「死んだの」「お母さんも?」「死んだの」「兄妹とか親戚は?」「みんな死んだの」

もう慣れてしまったかのように少女が淡々と話すのが辛く切なかった。

モラヴェッツはヨーロッパの人なんだな・・・と思う。

クラシック音楽もヨーロッパの音楽なんだな・・・と思う。

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謙遜ピアノ 

 

昔、アメリカで一度だけ演奏をしたことがある。プロもアマチュアも混在するような演奏会だった。僕は海外でも不定期にピアノのレッスンを受けたりしているのだが、レッスンを受けたピアニストの門下生の会・・・のようなものに出演したという感じだろうか?レベルとしては日本のサークルの演奏会と同じ感じだ。上手い人もいれば、初心者もいる・・・みたいな?ただし違いがあった。大変に大きな違い。

「私はピアニストです」という表現をどの人もするのだ。「私はピアノ歴5年のピアニストです。今日は○○を弾きます」みたいな言い方。プロなら自分をピアニストと表現して当然だが、いわゆるアマチュアの人も自分をピアニストと表現する。演奏を聴いてみれば、途中経過のような、少なくとも技能的には未熟な人でも屈託なく「私はピアニストです」などと言う。

「ピアニストです。いつもはレントゲン技師です」「ピアニストです。食品会社を経営しています」

日本だとこのような表現が普通だろう。「会社員です。趣味でピアノを弾いています」

基本的に、ピアニスト=ピアノを弾く人・・・という概念が存在しているのではないかと思う。日本だとピアニストという言葉からは、華やかに大ホールで演奏する人、CDをバンバン発売する人・・・みたいな一般的概念が存在する。

自分をピアニスト・・・と表現するのは、アメリカだけではないようだ。イタリア人の友人も「僕はギタリストで・・・」という言い方をする。日本的感覚だと「趣味でギターを弾いている」になるが、そうは言わない。「ギタリストです。いつもは服のデザインなどをしています」みたいな言い方を普通にする。

日本は謙遜が美徳とされる社会なのではないだろうか?自分をピアニスト・・・なんて呼ぶ習慣そのものがない。おそらく日本で「ピアニストです」なんて言うと「どんなに素晴らしい演奏を聴かせてくれるのかしら?」などと思われてしまう。

思われてしまう・・・なんとも日本的発想ではないか?謙遜、つまり自分を一段低いところに置いてしまい、「まだまだ未熟なんです~」というスタンスを貫く。謙虚なようだが、実際に謙虚だとも思うが、こうも言えないだろうか?他人から「・・・と思われる」ということを気にしすぎていないかと。先のイタリア人の友人はこう言う。「日本人はいつも逃げ道を用意しているみたいだ」と。「とても楽しかった。よく表現できたと思います。上手く弾けたと思います」などと言ってしまうと、「あれで・・・?」などと思われる可能性がある。それを恐れる。なので「沢山ミスしてしまって・・・」とか「全然弾けなかった~」と逃げてしまう。本心なのかもしれない。でも一瞬でも「音楽できた」という瞬間はなかったのだろうか?

謙遜は美徳だろうか?本当は「緊張してしまって・・・本当はもっと弾けるのだけれど・・・」みたいなものを無意識に表現してしまうことにもならないだろうか?結構、これって狡猾な感じではある。謙虚のようでいて「本当の自分はこんなものではない」的な逃げ?

アマチュアの演奏後の感想、よくブログなどでも書かれる話題だが、おそらく100パーセント近い割合で自己反省文となる。自分がミスしたこと、至らなかったところ、未熟な部分を振り返り、今後に生かす・・・大切だが、少しは自分を肯定してもいいのではないかと思う。「・・・と思われる」別に思わせておけばいいではないか?「ホロヴィッツより素晴らしく弾けたと思う」なんて言うと、そりゃあ「えっ?」と思われるだろうが、時間を見つけて練習した、人前で弾いた、少なくとも、その曲を弾こうと感じた動機のようなものを、自分の演奏で再認識できたのなら、それは人生において素晴らしい時間でもあるのでは?一瞬でも「ああ・・・音楽している」みたいな瞬間があれば素晴らしいではないか?肯定してもいいのでは?「上手く弾けたんじゃないかな?幸せなひと時でした」と。

レナード・バーンスタインの言葉・・・

「音楽をやりたい欲求があるのに、あきらめることは自分が存在しないも同然」
「あなたが音楽家になろうと思った時から、あなたは音楽家なのだ」

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category: ピアノ雑感

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残念なすれちがい 

 

演奏会って大雑把に分けて二種類あると思う。有料の演奏会(チャリティー目的などではない)であれば、プロの演奏と僕などは解釈してしまうが、まずは演奏で生計を立ててはいないが、教えたりなどしながらという演奏家の自主リサイタル。もう一つが外来スターピアニストのリサイタル。自主リサイタルも世界のスターリサイタルも、聴き手の感想としては同じになる。「またこの人の演奏を聴いてみたいかどうか」ということ。自主リサイタルの場合、惜しいのは、どうしても研究成果発表会みたいな感じになってしまうリサイタルが多いことだ。むろん、そうではないリサイタルも多いが、どうしてもハレの舞台、積み重ねてきたことは惜しみなく披露したいということからか、ヘビーな内容になってしまうリサイタルが多い。ベートーヴェンの後期のソナタ、シューマンのファンタジー、ラヴェルの鏡、そしてラフマニノフのソナタ・・・こんなプログラムもあった。頑張ったのだろうが、僕だったらそのピアニストに「あなただったらこの曲目、自分で聴きたいと思う?」と問いたい。聴き手って、少しでも「演奏者都合」みたいなものを感じてしまうと、疎外感を感じてしまうものだ。「あなたが一生懸命なのは分かるけど・・・聴いている人にそれって関係ある?あなたの頑張りを聴きにきたわけでもないのにな・・・」

さすがにスターになれば、そのようなことはない。商売、経済活動ということも絡んでくるだろうし、「また呼んで頂かなければ・・・」みたいなことは自主リサイタルよりはあるだろう。自分・・・ではなく、聴き手にとってどうかということも絡んでくる。そして世界のスターやコンクール覇者組は上手だ。自主リサイタルの場合、それこそ色々な演奏が混在しているだろうが、スターはスターだから、あまり変なことはしない。しないけれど、やや退屈だったりもする。完璧で安定しているんだけど、彼らの弾いている作品は、不安定な心情の発露・・・みたいなものだったりする。そこを安定感バリバリで弾かれてしまうと、どうもサクサクと・・・という感じもしてきてしまう。旅行に行く。有名な観光地。そして思う。「あっ、写真と同じだ」と。風景は素晴らしいのだろう。でも意外性というか、あまりに想像と同じなので、そう感じる。スターの演奏って、どうもこれに似ていたりする。

クラシックって、好きな人は好きなんだろうが、どうも一般的に受けが悪い。高尚だと思われているというか。これって需要と供給のバランスの問題なのではないだろうか?むろん、ミーハーな人って多いから「○○コンクール優勝?キャッ・・・」という人もいるだろうし「いいんですって・・・」みたいに人がいいと評すれば、疑いなく自分もいいと想い込んでしまう人もいるだろう。でも聴き手の中の、かなりの割合の人が「もっと心に響く演奏が聴きたいな・・・豪華絢爛でなくてもいいから、ジ~ンとしてしまうような演奏が聴きたいな」などと思っているのではないだろうか?

上手い演奏は沢山あるが、意外と心に響いてくる演奏って少ないように感じている人って、そう思っている人って僕だけではないように思う。

聴き手の本当のニーズを演奏する側が認識していないというか。弾く・・・となると演奏者都合になってしまうというか?

ヒューバート・ハリーのような演奏?好みはあるだろうが、彼のようなピアニストの演奏って、大ホールを連日満員にする・・・みたいな感じではない。華やかな、かつ表面的説得力というような感じではないから。多くの聴き手を集められないと招聘する側が思うのかもしれない。リスキーなのかもしれない。でもニーズは高いように思うが?

演奏者の意識、聴き手のニーズに何かしらの「すれちがい」のようなものを感じる。

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category: 未分類

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ハリーというピアニスト 

 

ヒューバート・ハリーというイギリスのピアニストを知っている人はどれくらいいるのだろう?僕は知らなかった。昔、ジュネーブの国際コンクールで入賞しているらしいので、イギリスやヨーロッパでは知られた存在だったのかもしれないが、日本では有名ではないような気がする。

このような演奏をする人が存在した、というか、このような演奏が存在した。だからピアノって弾かずにはいられないんだな。彼のように弾けるようにとか、そのようなことではなく、一度でいいから自分もこのようなサウンドの中に浸ってみたいというか・・・

このピアニストは美を追い続け、ここに辿り着いたのではないか?追うということを自分もしたい・・・というか・・・

このような演奏をする人だったら会場に出掛けて聴いてみたいと思う。有名とか上手とか、そんなことではなく・・・

もうヒューバート・ハリーは亡くなっているので、生では聴けないが、このような演奏を好む人が多くなっていけばいいと思う。

国際的な超売れっ子ピアニストではなかったのかもしれないが、好きだ・・・と思う。好きなピアニストが増えるって嬉しい。

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category: 好きな曲・好きな演奏

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悲しき天使 

 

こちらもセルゲイ・ラザレフの歌唱。あのポコポコ、パコパコとポップスを歌っていた元アイドルとは同じ人と思えない感じだ。やはり、ラザレフ君、実力派だったのですね?中居君でも歌いこなせる・・・なんて書いてしまって申し訳なかった・・・

「長い道を」というロシア民謡。この曲は1910~1920年頃の曲で、作曲者がポドレフスキー、作詞者がファミーンという人。そのような意味で、厳密には「民謡」ではないのかもしれないが、亡命ロシア人たちが、ヨーロッパにおいて、かつての帝政ロシア時代を偲び、歌い継いで伝承してきた曲ではある。なのでヨーロッパにおいては、ロシア民謡と認識されていったようだ。なんともロマ風というかユダヤのクレズマー風というか、どこか哀しい躍動感のある曲だ。

この曲を聴いたことのある日本人は多いだろうと思う。「悲しき天使」として日本はもちろん、世界で大ヒットした曲だからだ。この曲の作詞、作曲はジーン・ラスキンとされてきた。でも厳密には彼の作品ではないよね?ロシアの曲なのだから。ラスキンはロシア民謡を自分の作として歌ってしまったらしい。それでジーン・ラスキンの曲とされてきた。ダメじゃん、ラスキン・・・

世界的ヒットはラスキンバージョンではなく、メリー・ホプキンというイギリス人が歌ったバージョン。あのポール・マッカートニーがプロデュースしたのだそうだ。無名の18歳の少女がいきなり有名になってしまった。ほぼ全世界でカバーされているのではないだろうか?日本でもオリコンチャートで1位になっている。洋楽が1位なんて珍しいのでは?ピンキーとキラーズの「恋の季節」を蹴落として1位になった。本国イギリスではビートルズの「ヘイ・ジュード」を蹴落として首位になっている。

むろん、日本人歌手も多くカバーしている。森山良子のものが有名だろうか?僕は天地真理バージョンでこの曲を知った。

さて、セルゲイ・ラザレフの歌唱だが、やはり、あのポコポコ・・・を歌っていた人とは思えない。見事なものだ。このアンバランスさはロシアの魅力そのものだ。未確定な神秘さのような?

ここでのラザレフはジョニー・ウィアーっぽい気がする。中居君ではなく・・・

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ロシアのアイドル 

 

ジョニー・ウィアーが影響を受けたり、崇拝する歌手やスケーター、ほぼ全部の人を知っていた。彼の嗜好と僕のそれとは、どこか似ているところがある。むろん、全部が同じではないが、彼の好きそうな要素というのだろうか、その要素を自分も感じることは少なくともできるというか?ブガチョワの熱狂的なファンではないけれど、「うん、僕もこういうの嫌いじゃない」みたいな?

そんな中、ジョニー・ウィアーが挙げた人の中で、唯一知らなかった人がセルゲイ・ラザレフという歌手。まだ若い人のようで、ほぼジョニー・ウィアーと同世代だろうか?「この人は知らないな。ユーチューブで確認してみよう」ジョニー・ウィアーが絶賛していたことだし。

最近のJポップ、皆同じ曲に聴こえる。冷静に聴けば、そりゃあ違う曲なのだろうが、ポコポコ、パコパコ・・・というものにしか聴こえない。絶賛されていたセルゲイ・ラザレフのパフォーマンスもそのようにしか聴こえてこない。この人は、いわゆるアイドル路線で出発し、ポップな感じを売りにしているようだ。僕はこのような音楽に対しては、全くの旧世代なので、よく分からない。

それに神秘性が感じられない。最初に登場する司会者らしき女性たちのドレスやメイクには「ああ・・・ロシアですね」みたいな妙な感動があるが、ステージそのものは、完全に西欧化してしまっている。まぁ、いいのだが、なんとなくブガチョワが歌っていた、ソ連的な舞台、つまり神秘的、ヴェールに包まれたような懐かしさが欲しい。

僕は廃墟好きなのかもしれない。軍艦島を訪れてみたいなどとは思わないが、寂れた温泉街などは妙に好きだったりする。廃墟・・・まではいかなくても、数年前まで営業していたかのような、かつての繁栄を偲ばせるような、大型旅館、倒産してしまったような温泉旅館などは、中を覗いてみたい欲求がある。温泉街の中心部は頑張っていて、華やかな感じだが、一歩それると、そのような閉館旅館がある・・・そんな温泉街が好きだったりする。ある種のアンバランスさに美を感じるのかもしれない。大袈裟だが。

かつてのソビエトにもそのような感傷を抱くのだ。旅客機の窓から、かすかに感じられたシベリアの大地、街燈とか街の灯りなんてなく、広大さ(荒廃さ?)を感じる景色が好きだったし、新世界レコードで購入したソビエト製のレコードの紙ジャケットのヘニャヘニャした紙質とか、妙に好きだったりした。

世界は一つ、繁栄は素晴らしい・・・そうなのだが、ロシアという国から、ソビエト時代の妙な懐かしさが消滅してしまい、ベルリンだかパリだか、ロンドンだか判別化できないようなものだけになってしまうのも寂しい・・・

セルゲイ・ラザレフは、かつて「スマッシュ」というユニットでアイドルしていたそうだ。ラザレフがソロとして活動するようになったので、「スマッシュ」は解散したらしい。この「スマッシュ」という名称から、日本の「スマップ」を連想した。同じアイドルだったしね。もし、ソロ歌手として中居君が歌を歌っても、このくらいは歌いこなすのではないか・・・などと想像してしまった。どうなのだろう?

この人だけがジョニー・ウィアーの嗜好と合わなかった。

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ジョニー・ウィアー的ロシア 

 

フィギュアスケートを観るのは大好きだけれど、特定の選手を応援するという熱心なファンというわけでもない。音楽を聴く時も、割と往年系の演奏を好むが、フィギュアスケートにもそのような傾向があり、昔の演技が好きだったりする。1970年代のジョン・カリーとか。

最近の選手では、アメリカのジョニー・ウィアーという選手が印象に残っている。「キャーッ 素敵!」という追っかけファンという心境には遠いけれど。彼の演技を特徴づけている要素、それは彼がゲイであるということにあると思っていた。たしかにそれは大きいだろうと思うが、どうもそれだけでもないような気がしてきた。

ジョニー・ウィアーは、視覚的な要素も、そして演技も、どこかキラキラしているようなイメージがある。彼の衣装は派手だったし、それもあろうが、どこか「脱アメリカ~ン」的な要素を感じた。皆で白く輝やく歯を見せ、笑顔・・・的な優良アメリカ~ンではない魅力。孤高の魅力とでも言ったらいいのか?

多くのスケーターは、例えば、ミシェル・クワンなどのスケーターに憧れるみたいだが、彼が憧れたのはオクサナ・バイウル。彼の演技そのものも、アメリカ~ンな選手というよりは、アレクサンドル・アブトとかアレクセイ・ウルマノフのような、かつての「ロシアの貴公子」的存在だった選手の演技を彷彿とさせたものだ。

実際、彼は幼い頃からロシアという国に憧れを抱いていたようだ。「訪れてみたい・・・」でも当時のロシアはソビエトだった・・・

ソビエト崩壊後、かつての輝かしいロシアが復活した・・・彼はそう感じているみたいだ。彼の独特のスケートにおける演技の魅力、それは彼の性的自我とロシアへの憧れがミックスされたもののように感じてくる。彼はユダヤ系ロシア人の男性と正式に結婚している。離婚騒動もあったみたいだが、最近は復縁のニュースも流れている。まぁ、どうでもいいことだが、ジョニー・ウィアーがユダヤ教に改宗したということを知った時には結構驚いた。筋金入りのロシア好きなんだねぇ・・・

ジョニー・ウィアーのお気に入りアーティストや歌手、もちろんすべてロシア人だ。彼のお気に入りの歌手などを聴いてみると、「ああ・・・これは彼は好きでしょう」と妙に納得してしまうところがある。そして、それらの歌手は、日本では決して知名度は高くはない。日本へはアメリカ~ンなものばかり入ってくるから。そしてそのアメリカ的なるものを外国・・・と思ってしまうところさえあったりする。

ジョニー・ウィアーはアラ・ブガチョワが好きなのだそうだ。もちろん、日本にもブガチョワのファンは存在しているはずだが、一般的な知名度はそうは高くはないだろう。「ブガチョワって???」

アラ・ブガチョワは「百万本のバラ」をヒットさせたことで知られる。ラトビアの曲が世界に広まったのは、ロシアバージョンを歌ったブガチョワの功績。曲は日本でも有名だけれど、ブガチョワを知っている人はどれくらいいるのだろう?

舞台や照明など、思い切り「ソ連している」という感じだ。でもブガチョワは思い切り「ブガチョワしている」という感じだ。ソ連時代、つまり共産国時代、ブガチョワはかなり人々に鮮烈な印象を与えたのではないだろうか?そしてジョニー・ウィアーがブガチョワ好きということも、妙に納得してしまう・・・

ブガチョワの歌唱、どこかその後のソビエトの崩壊を予感させるような?

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