ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

夜の声 

 

小学3年生の時に音楽に開眼したのだと思う。それまでにも音楽は聴いていた。ピアノがやはり多かったかな?発表会用の曲を邦人ピアニストが弾いたレコードとか、ショパンの名曲を、これまた邦人ピアニストが弾いたレコードとか・・・

あとはレッスンや発表会で聴く中級者(上級者とカテゴライズされる生徒はいなかったと思う)の生徒が弾く「ソナタアルバム」に載っているソナタとか、ショパンのワルツとか。その演奏は、つっかえたりしていたし、なによりも定規を飲みこんだみたいな硬直した演奏だった。「きちんと弾きなさ~い」「しっかりと弾きなさ~い」・・・ピアノって辛いんだな・・・そう思っていた。

でも3年生の時に変わったんだ。ピアノの曲って素晴らしいんだ。ブライロフスキーの弾くショパンは、僕がそれまで聴いていたショパンとは違って聴こえたし、シュナーベルの弾くベートーヴェンはそれまで聴いていたベートーヴェンとは違う曲にさえ思えた。

新しい感動との出逢い・・・なんという幸福感だろう・・・

最近は、子ども時代、青年時代と比較して、そのような感動を覚えることも少なくなっていたように思う。色々な曲や演奏を聴いてきたので、40年も聴き続けていれば、過去に聴いた曲、演奏を繰り返して聴くことになる。むろん、それもいいが、あの3年生の時のような感動とはやはり違うのだ。だからこそ、新しい(僕にとって・・・だが)感動に出会えた時の喜びは大きいのだ。

今日発見した感動がロベルト・ムーロロ(?)という人。カンツォーネの人らしい。明るく太陽のように声を張り上げるカンツォーネではない。ギター弾き語りの独白のようなカンツォーネ。カンツォーネというよりは、シャンソン、または演歌に近いような?

こんなカンツォーネがあっただなんて・・・

早速イタリア人の友人、ルカに確認してみる。ムーロロってどんな人?

「なんでムーロロなんて知ってるの?そうだな、彼は90歳くらいまで歌っていたはずだけど、もう亡くなっている。ムーロロの歌はナポリ人でなくても南イタリア人なら郷愁を感じるような歌手なんじゃないかな?」

ムーロロの歌うカンツォーネ、どれも感動的だが、中でも「夜の声」という曲に惹かれた。

「夜の声って、デ・クルティスの?あれはいいね。ムーロロの夜の声ね。ソレントへ帰りたくなる感じだな」

ルカはナポリ近く、ソレントの出身だ。「デ・クルティスと言えば“帰れソレントへ”だからね。そりゃあ、懐かしく感じるさ。でもソレント人やナポリ人が愛しているのは“夜の声”のほうじゃないかな?それにしてもムーロロなんて渋い趣味だね、あとね、カンツォーネではなく、こういう時はナポレターナと言って欲しいな」

「ふ~ん・・・そうなんだぁ・・・」

カンツォーネ・・・・じゃなかった、ナポレターナ「夜の声」はエルネスト・デ・クルティスが作曲、作詞はエドゥアルド・ニコラルディという人だ。両者ともナポリ人らしい。この詞は作詞者ニコラルディの実体験らしい。実話というか・・・


「夜の声」

僕の声が、あなたを起こしてしまうのなら
あなたが夫を抱きしめながら寝ているときに起こしてしまうのなら
どうかそのまま起きていて欲しい
でも寝たふりはしていて・・・

窓から見なくてもいい
あなたが僕の声を聴き間違えるなんてあるはずないから
そう・・・あの時と同じ声
愛を込めて呼び合った時と同じ声

僕の声が、泣いている声があなたの夫を起こしても
心配なんてしなくていい

「寝て、なんでもないわ。恋人の名前を呼ばないセレナーデみたい」そう言って欲しい

こうも言って欲しい

「一人で道端で歌を歌うなんて・・・頭がおかしいの?嫉妬に狂っているの?おそらく
酷くふられて泣いているんだわ。でも何のために一人で歌っているのかしら」と・・・

そう言って欲しい・・・


ニコラルディはある女性と恋仲になったが、女性の両親から反対されてしまう。女性は身分のある高齢の男性と結婚させられてしまった。その夜、ニコラルディはナポリのカフェでこの詞を書きあげてしまったという。その後間もなく結婚相手の男性が亡くなり、その女性とニコラルディは結婚し、生涯幸せに暮らしたという。

実話なんだねぇ。考えてみればストーカーのような詞ではあるけれど。

kaz




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本場の音 2 

 

マリア・カラスはアメリカ人なのにイタリア語が上手いとか、アメリカ人なのにベッリーニを完璧に歌う・・・なんて言う人はいない。デ・ラローチャはスペイン人なのでアルベニスは上手だが、スペイン人にしてはモーツァルトも上手い・・・なんて言う人もいない。

内田光子のリサイタルで、彼女の素晴らしいベートーヴェンを聴いたあとに、やはり日本人なので、最後には彼女の「おてもやんパラフレーズ」を聴きたかったなどと思う人もいないはずだ。

本場の音なんて、やはり関係ないのでは?そう、ないのよ・・・ないない。

アンドレ・ワッツの場合、事情は複雑になってくる。彼には二つの血が流れている。ハンガリー人の血と、アフリカ系アメリカ人の血。彼のリストは見事だ。ワッツ=リストという図式が浮かぶ人も多いだろうと思う。小学生の頃はワッツの「ラ・カンパネラ」に心躍ったものだ。この場合、ハンガリー人の血がワッツにリストを弾かせていると考えるのは、ちょっと短絡的ではあろう。でも全く彼にとっては、そのようなことは関係ないと言い切ることも難しいだろうとも思う。

彼は、非常にガーシュウィンも得意だ。個人的にはワッツのガーシュウィンはリストよりも好きだったりする。ガーシュウィンを演奏する場合、何かしらのプラスアルファのようなものが演奏の成否を左右するような気がする。達者なだけのガーシュウィンなんて・・・

ガーシュウィンの音楽を特色づけているジャズ風な香り、そのからくるリズムの躍動感、さらには都会的センスのようなものをワッツは完全に表現しつくしている。やはり、彼にアフリカ系アメリカ人の血があるからだろうか?

このワッツの演奏をじっくり聴いていると、本場の音なんてないのだ・・・という強い思いから、「ないと思うんだけどなぁ・・・」みたいな揺れ動く思いになっていく。

本場の音なんてないと思いたいんだけどな。

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本場の音 

 

本場の音、本場の演奏というものはあるのだろうか?たとえばフランス人の演奏するプーランクとかスペイン人の演奏するグラナドスなど。個人の個性というものの他に、その国の人でなければ、本当のところは出せない要素のようなもの?

もしあるとしたら、日本人はどうなるのだろう?日本人の演奏するショパン、「ポーランド人ではないのに、よく弾いている」みたいな?

日本人として西洋音楽というものに関わる身としては、やはり「本場の音信仰」みたいなものはないと思いたいところだ。ショパンもバッハも上手いけれど、真に表現できるものは、日本人としては「日本民謡によるメドレー」のようなものだけ・・・というのは寂しいし。

音楽表現において大切なところは、どこの国籍かということよりは、その人個人によるものが大きいと思いたい。

声楽の場合は、言葉というものが関連してくるので、ピアノとは異なるところもあるだろうが、たとえば、アルメニア人のソプラノ歌手が「この道」とか「荒城の月」のような歌曲を完璧に素晴らしく歌った場合、たぶん僕はこう感じるのではないかとも思う。「日本人ではないのによくここまで・・・」と。日本人ではないのに日本特有の情緒を醸し出せている・・・と。ここには僕の中で「日本歌曲は日本人の演奏が素晴らしい」という固定観念のようなものもあるのかもしれない。やはり本場信仰というものはあるのだろうか?

イメージ・・・なのかもしれない。イタリア人=ベルカント、フランス人=お洒落、アフリカ系アメリカ人=ノリノリのリズム感、ジャズとか合っていそう・・・のようなイメージ。この場合、外国人は日本人に対してどのようなイメージを持つのだろうと興味はある。勤勉・・・とか?

セルジオ・フィオレンティーノの演奏するシューマンの「献呈」、ドイツ歌曲なのだから、ドイツ的なるものを本場の音を期待するならば求めるものなのかもしれないが、なんとなく僕が本場信仰のようなものを感じたのは、ベルカント的な演奏、彼がイタリア人であるということ。ピアノが歌っている・・・ベルカント・・・イタリア人・・・のような。ハンマーが弦を打っているとは思えないような、ベルカント的、歌的なピアノだと感じる。この演奏を聴いて、「どこの国のピアニストが演奏しているでしょう?」と質問したら、イタリア人と答える人は多いような気もする。日本人ピアニストと答える人は残念ながら少ないような気はする。

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取り込むことより大切なこと 

 

昔、僕が子どもの頃ピアノを習っていた時代と比べて、今は教材の種類が多い。実に沢山の教材がある。「どれを使えばいいのかしら?」となるのが、まあ、普通だろう。研究しなくちゃ、なのでセミナー・・・となるのも当然なのだろう。教材だけではなく、指導方法や昔には存在しなかったグッズのようなものも盛りだくさんだ。「どうやって使いこなせばいいのかしら?」ここにセミナー繁栄の一つの理由があるように思う。あとは、ピアノの先生って個人事業なので、周囲との関わりを求めていかなければ、どこか孤立しているような、世の中の流れから取り残されているような感覚もあるのだろう。

昔と比べて変化したことも多いだろうが、変わっていないこともあるのではないか、これからの時代は、この部分に焦点を当てていってもいいのではないだろうか?たしかに昔と比較すると、「ブッ叩く」のような演奏は少なくなったのかもしれないが、どこか楽譜を一生懸命に弾いている・・・のような固さのようなものは現在も残っているように感じる。演奏者(子どもの演奏も含め)が「だからこの曲を弾いているの!」という必然性を感じない演奏というのだろうか?演奏者→聴き手という方向性をあまり感じないというか、弾き手だけが一生懸命で、そこに方向性が感じられないというか・・・

「なぜピアノを弾いているの?習っているの?」という根本部分を考える必要性がこれからはあるのではないか?

どの教材にも共通している部分がある。当たり前のことだけれど、「だんだん難しくなっていく」というところが共通している。レッスンで丸を貰い合格する。次の曲は基本的には、難しくなっているはずだ。フィードバックを繰り返すような教材もあるのかもしれないが、基本的には難しくなっていくはずだ。これはピアノだけに限らないと思う。何かを習得するための鉄則みたいなものだろうか?

生徒の立場になってみると、常に新しい課題をこなしていくことになる。だからこそ上達していくわけだが、ややもすると、ピアノのレッスン=課題をこなす、ハイ合格=新たな課題・・・の繰り返しになってしまうこともあるのではないだろうか?

目的は課題をこなすこと???その曲を上手に弾けるようにすること???

これからのピアノレッスンは、教材とか指導ノウハウとか、そのようなことを「広げる」ということよりも、そもそもの原点というか、弾くという、習うという動機のような部分に焦点を当てていくことも必要なのではないか?

もしかしたら、ピアノを弾くということは、目的ではなく、何かの手段なのだとしたら?心の代弁なのだとしたら?

「大声で泣き叫びながら、走りながら自分の感情を放出したい」と心の奥底で感じる。無人島や砂漠で暮らしているのなら可能だが、都会だとそれは難しい。抑え込んでしまうわけでもないが、どこか心に蓋をしてしまうことがある。そうしないと生きてなんかいけない・・・みたいな?芸術というものは、無意識に仕舞いこんでいる「泣き叫びたいような」感情を揺り動かす作用があるのではないかと思う。ピアノを弾くという行為も、この揺り動かし作用と無関係ではないはずだ。ある種の音楽、演奏は、その意識化したくないような感情にタッチしてくるのだ。いわゆる「感動」というものとしてそれは人間に触れてくるのだ。

それはどのような感情、状態なのだろうか?言語化できないようなものだからピアノを弾いているのでは?そもそもの「動機」となる部分・・・

人生経験豊かな大人だけがそれを感じることができるのだろうか?子どもには無理?無理と決めてしまうのは、それは差別というものだろう。これは外国での話だが、8歳の男の子が小児癌で亡くなる前に両親に語るのだ。「今まで僕のことを愛してくれてありがとう。パパとママに愛というものを感じてもらうために僕はこの世に存在したんだ。僕の存在意義は終えたのだと思う。だから死ぬんだね?役割を終えたから。愛を知ってくれてありがとう・・・さようなら・・・」

この時の男の子の感情、両親の心の動き・・・言語化できるだろうか?「悲しい」「悲しい」「悲しい」・・・になるのではないだろうか?言語化できない部分を芸術というものが代弁してくれるのだ。だからピアノを弾くんでしょ?心にタッチしてくるから・・・

上手くなる、楽譜を流麗にサウンド化する・・・これは手段なのではないだろうか?では目的は?この部分を初歩教育、導入教育でも取り入れていくことは不可能なのだろうか?

ここまで書いてきて、あるピアニストの演奏が浮かんできた。セルジオ・フィオレンティーノが自らピアノ独奏用に編曲したフォーレの「夢のあとに」・・・

なぜ彼は、フォーレのこの歌曲をピアノで表現しようとしたのか?なぜ編曲したのか、そしてなぜ弾いているのか?彼の心に芸術の持つ何かがタッチしたのだ。だから表現したのだ。その表現が、さらに他の人の心にタッチし、心の奥底の感情を代弁してくれるのだ。鎖の連結のような・・・

だからピアノを弾くのでは?

セミナーも大切。情報も大切。つまり外部からの取り込み作業だ。ここも大切。でも一人、夜中に空を見あげて自分の心を覗いてみるのは、さらに大切かもしれない。心の痛みの部分・・・タッチしてくるから・・・それを次代に伝えていくのもピアノの先生の役割だとしたら?

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category: レッスン

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どうにも行き詰ってしまう、このような時には発想の転換をするといいらしい。転換というよりは、発想とか考えの幅を広げるという感じだろうか?やっていることは間違えではないけれど、少々柔軟性を持つというか、AでないのならZですか?的に固くなってしまうのではなく、AでもBに近いAというものもあるんだよ・・・みたいな?

まずは片手でゆっくりと練習しましょう・・・そうなんだけど、いきなり普通のテンポで弾くメリットって皆無なのか?

何回も反復練習をしましょう・・・そうなんだけど、そこには「何回弾いても同じように弾けなければ」という発想が潜んでいないだろうか?もし本番で、いつもと同じように弾けなかった(大概そうなる)場合は、どうするのだろう?

読譜が大切・・・そうなんだけど、しっかり楽譜を読めればそれでいいのだろうか?楽譜に書いてあるように弾くことがピアノを弾くこととなってしまう危険性は皆無なのだろうか?

すべての生徒が目を輝かせて・・・そうなんだけど、繁華街を歩いている人すべてが、目を輝かせてクラシック音楽を聴くだろうか?「クラシックのピアノには向かない」と生徒を判断してしまうのは罪悪なのだろうか?興味がなければ辞めれば?と考えるのは罪悪なのだろうか?

興味を持ってもらおうと頑張る・・・そうなんだけど、それがカリキュラムの大筋となってしまっていいのだろうか?

趣味の生徒、専門(音大)を目指す生徒・・・そうなんだけど、中間ってあってはいけないのだろうか?趣味でも専門でもないという生徒は存在しないのだろうか?

黒と白だけではない。グレーもあれば、個性的なピンクという場合だってある。

世間の常識、自分が思い込んでいること、幅を広げてみる。黒か白・・・ではなく。

エロル・ガーナ―を聴いていて上記のことをポヤンと感じたりした。エロル・ガーナ―って生涯楽譜が読めなかった。でもピアノ・・・弾いてるね?実に楽しそうだ。鍵盤なんか見ないで弾いたりしている。再現したい、鳴らしたいサウンドが先にあるんじゃないか?そうでなければ彼は楽譜が読めないのだから、弾けないよね?

読譜は大切、ソルフェージュは大切、ジャズの人だからクラシックとは違う、エロル・ガーナ―は特別の才能があったから・・・そうかもしれないが・・・

幅があってもいいじゃない?

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ピアノの弾けるピアノ教師 

 

一時はピアノの先生のことをブログに書いたりしたものだ。基本的なスタンスは、ピアノの先生も自分のピアノを追い求め、精進すべきという感じかな?生徒の教材だけしか弾かないとか、そうではなく、自分自身のピアノというものを追い求めていく・・・

そのような文章を書いた後は、結構ピアノの先生から(メールフォームを介し)お叱りのメールを頂いたものだ。「ピアノ教師の仕事は自らが達者に弾けるようになることではなく、生徒を上手くさせること。なので、自分のピアノよりも、教材研究やセミナーに通って最新の情報を得ることが大切。ピアノ教師はピアニストではないのだから・・・」みたいなメールが多かったかな?今でもその理屈は変だと思っている。メールを読んだ時は、その場に倒れそうになるほど違和感を感じたりした。

素人考えの僕の文章に賛同してくれる人もいた。アマチュアとか、生徒とか、その保護者が多かったが、ピアノの先生もいた。仮にA先生としておくが、A先生も「自分の練習は無理。教材研究やら、指導方法やら、現実にはやることが多い。生徒だって、なんでピアノを習っているのだろうと思いたくなるほど、ピアノに興味を示さない子もいる。時には、私は躾けおばさんか・・・と思いたくなるような毎日。とても自分のピアノなんて」と。そして、いつのまにか、音楽家としての情熱を忘れていく自分を感じつつ、「でも教師なのだから、それが仕事なのだから」と思うようになっていった・・・

発表会だって、自分は主催者なのだ。本当にやるべきことが多い。そんな中、自分が弾くなんて大変だし、自分が弾くことで、生徒に目を配れなくなるのも、それまた教師失格・・・と、いわゆる「講師演奏」(変な言葉だ)もせずに、導入の生徒と連弾をするだけになっていった。

「それではいけないよなぁ・・・」とA先生は思ったそうだ。講師演奏はやるべきではないかと・・・自分は単独でリサイタルをして、他の機会に演奏を聴いてもらうなんて絶対に無理だし、やるなら発表会の講師演奏だろうと・・・

「今年の発表会・・・先生も何かソロで弾こうと思うのよ」

A先生がショックだったのは、興味もなさそうな「フーン・・・」という反応ではなく、少なからずいた生徒の次のような反応だったらしい。「えっ、先生ってピアノ弾けるの???」

個人的には、発表会で先生自身が弾こうが、どうしようが、それはどちらでもいいと思う。「教師」「運営者」「主催者」として、その日はプロに徹するという考えがあってもいいと思う。でも、発表会以外に演奏の場がないのであれば、やはり生徒も保護者も「先生のピアノ・・・聴きたいな」と思うのが自然だとも思う。

日頃のレッスンで先生はピアノを弾くべきだろうか?僕は弾いて欲しいと思う。先生自身が弾いていなければ(諄いが生徒の教材ではない)教えられないこともピアノの場合は多かろうと思う。生徒の立場からすると、レッスンという場で先生のリサイタル的模範演奏を期待することはない。もちろん、先生とおしゃべりしたくて通っているわけでもない。具体的な情報が欲しい。「ここ・・・なんだか弾けないわ、弾きにくいわ」という個所の具体的な解決法が欲しい。「こうしてみたら?」とか「こうなっているけれど、こうしてみたほうが、ここがこうなるから、こう弾けるんじゃない?」みたいな超具体的な情報が欲しいのだ。先生自身が弾いていないで、ここの部分をどう教える、どう導くというのだろう?ダメ出し+ではこうしたら?というところが欲しい。結構、僕の周囲のアマチュアの人は、自分の先生に対して、この部分で不満を持っている人が多いような印象を持つ。「何も言ってくれない・・・」そりゃあ、弾いていなければ言えないことだってピアノの場合はあるだろう。ダメ出しだけだったら、音楽愛好家だって言えるのでは?解決方法なんだよなぁ・・・欲しいのは。

もう一つ、日頃弾いていないと難しいのは、先生自身が「演奏そのもの」で生徒を引っ張れなくなっていくことだ。言葉では説明できないことも演奏でならば伝えられる・・・これは結構あるのではないだろうか?別に「次の曲はこのような曲です」的に弾いてあげる必要はないし、それはすべきではないだろう。そうではなく、「そこはこんな感じじゃないかな?」と先生が一瞬(では短いか)でも弾いてあげる効果は絶大だと思うのだ。「ほら、こんな風に表現できたら素敵じゃない?」みたいな?導入教材だったら、パッと弾けるかもしれないが、ショパンのワルツとかメンデルスゾーンの無言歌あたりになったら、もうこれは先生がピアノを追及していないと、生徒に「なんて素敵!」とか「なんでそのように弾けるの?」と感じさせるのは難しいだろうと思う。弾いていない先生のピアノ力は生徒(聴き手)にバレバレだろうから。レッスン室での先生の一瞬技(?)はサントリーホールで聴くプロのピアニストの演奏よりも、CDで聴く世界のスターの演奏よりも、生徒の心と頭を捉えてしまうのではないだろうか?

演奏で生徒を引っ張る、かつて自分が引っ張ってもらった「音楽からの感動」で、今度は生徒を引っ張る・・・

これは先生自身が弾いていないと難しいのではないだろうか?

ある声楽のレッスンの様子。テノールの先生、生徒。プッチーニの「冷たい手に」もうこれはテノールだったら一度は歌ってみたい曲なのではないだろうか?ピアノで言ったらショパンのバラードの1番みたいな存在?「ラ・カンパネラ」とか?

先生が自分の歌で生徒を引っ張っている箇所が何か所もある。むろん、言葉で説明している場面だってあるが、「そうではなくこう歌うんだ」と先生自身が一瞬技を披露する。「こうなんだよ!!!」と。生徒は、日本だったら、すぐにでもプロとして活躍できそうなほど上手だが、でも先生とは違う。先生の一瞬技のあと、生徒が「なんでそんな風に歌えるんだよ?」的な表情をしてしまうのが、なんとも微笑ましい。

生徒を上手くさせるには、先生自身の演奏で生徒を引っ張ることだって必要なんじゃないだろうか?

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category: レッスン

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知られざるピアニスト? 

 

フルタイムで仕事をしながらのピアノ道なので、そう人と違うことをしているわけではない。練習をしない(できない)日もあるし、というか、できない日の方が圧倒的に多いし、練習する日だって、何時間も練習できるわけではない。隙間時間や、出勤前の短い時間を確保するため、早起きしたりして弾いているのだ。多くの人はそうだろうと思う。オフの日は、これまた多くの人がそうであろうが「こんなに自分は疲れていたのか?」ということを自覚する日でもあるので、やはり練習はできなかったりする。「それがいけないんです!」と言われそうだが、ピアノは精神修行でもないと思っているので、いいのではないかと思う。

そんな普通の(?)僕でも、人からは譜読みが早い、曲を仕上げるのが早いなどと言われたりする。譜読みに関しては、視覚的に音符を判読して鍵盤に移すという感覚と、耳コピのような、頭の中で鳴っている音を確認するという感覚とのミックスであるということが譜読みが早い理由なのだと(強いて言えば)思う。曲を仕上げる・・・正直、仕上げるって何?というか、仕上げるという感覚すらないのだが、練習方法において、おそらく人と異なることをしているとすれば、主にパッセージの練習においてだが、「ゆっくり弾く練習はしない」ということだろうか?ゆっくり弾くというのは、練習方法の王道のようだが、一日に8時間も弾ける自由時間があれば、それでもいいが、効率性を重視しなければならない身なので、それはしていない。いきなり通常のテンポで練習すると、雑な仕上がりになると思われているが、ちょっとした工夫をすればいいのだと思う。単位を少なくするのだ。

この方法は、偶然なのだが、エドゥアルト・シュトイアマンが提唱する練習方法でもある。単位を少なくするが、テンポは遅くしない。この方法についてはシュトイアマンの弟子の中では最も知名度の高いアルフレッド・ブレンデルが、ある本の中で説明しているので引用してみる。

「シュトイアマンの教授法で私が高く評価している点の一つなのですが、シュトイアマンは生徒にパッセージを速いテンポで練習させます。でも、そのパッセージを小さな部分に分割させるのです。彼は生徒に、ある箇所を、ある弾き方で弾くように指示します。次に二番目の部分を弾いて、最初の部分につなげるよう命じます。ただし絶対にテンポは緩めないで。生徒がそのパッセージを弾き終えるまで、このやり方が続きます。この方法は曲全体を暗譜するのにも役立つかもしれません」

ピアニストの多くは一人の人にずっと師事しているわけではないので、一概に誰々の弟子だから・・・と安易に考えてはいけないとも思うが、シュトイアマン門下のピアニストには興味深いピアニストが多いように思う。個人的には、シュトイアマン門下で最も有名なブレンデルが最も凡庸・・・という気もするが、ブレンデル以外は、これまた日本では有名ではない人が多い。シュトイアマンの孫弟子・・・と広げてみると、アムランなども引っかかってくる。アムランもまた有名だが、彼も個人的にはどこか凡庸に思える。

個人的には、ラッセル・シャーマンとか、ヤコブ・ギンぺルといったピアニストがシュトイアマンの流れを汲むピアニストの中では興味がある。知ってます?知られていないんですよねぇ・・・日本ではあまり・・・

ヤコブ・ギンぺルの演奏。このメンデルスゾーン、好きだなぁ・・・

無名=凡庸ではないということは確信できる。ギンぺルとかシャーマン、もっと有名になって欲しい気もするが、自分だけの宝物にしておきたい気もする。

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category: ピアニスト

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シェーンベルク 

 

シェーンベルクの作品は昔から苦手だった。と言っても、そう沢山の作品を聴いてきたわけではないが、苦手意識はあったし、今もある。最初に聴いたシェーンブルク作品は、やはり声楽で「月に憑かれたピエロ」という曲だった。タイトルは素敵なのだが、曲は素敵だとは思えなかった。好きとか、嫌いという以前に作品から拒絶されてしまったような?

それでも偉大な作曲家とされているし、事実そうなのだろうと思ったので、ピアノ曲も一応聴いてみたりした。ピアノ曲は小曲が多いし、「月に憑かれたピエロ」ですべてを判断してもいけないだろうと思った。

このピアノ曲を聴いた時に、自分の感性を全否定されてしまったような感覚を覚えた。ピコピコと音が鳴っているだけ・・・という印象しかそこにはなく、僕はそこに「美」というものを感じなかったのだ。その時聴いたのがポリーニの演奏。ポリーニの演奏からは、シェーンブルクに限らず、あまり「美」というものを感じたことはなかったのだが、ポリーニのシェーンベルクの録音は代表的な名演とされていたので聴いてみたのだ。個人的な印象では、その作品、演奏は「人間的なものの排除、否定」という感じだったのだ。

エドゥアルト・シュトイアマンというピアニストの演奏には以前から興味があった。しかし、今まで積極的に聴こうとは思わなかった。シュトイアマンは日本ではお世辞にも有名なスターピアニストとは言えないだろうし、CDを探す手間もあった。それよりも、シュトイアマンはシェーンベルクの演奏で(海外では?)有名だったのだ。なので、あまり聴いてみたい・・・とは長い間思えなかった。

シュトイアマンのシェーンベルクは美しかった。この人はピアノをブゾーニに、そして作曲をシェーンベルクに師事した人だ。感情を否定してしまったポリーニの機械のような演奏と比べ、シュトイアマンの演奏には「美」というものが存在していた。ポリーニ、シュトイアマンというピアニスト個人の個性の違いというよりは、時代が求めた美そのものへの感性の違いがそこにあると感じたのだ。何故に僕は現代の多くのピアニストの演奏に感銘を受けないのか?その部分が両者の演奏の違いに現れているとさえ思った。

シュトイアマンのシェーンブルク、これは今では失われてしまった美しさなのではないだろうか?むろん、シュトイアマンの演奏を聴いても「きゃっ!シェーンベルクを弾いてみたい!」という欲求はさすがに起こらないが、過去と現代の感性を違いのようなものに、一種のカルチャーショックさえ感じている。

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category: 開拓者

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ハーポのハープ 

 

チコ・マルクスのように、ほぼ独学ながら、流麗にピアノを演奏してしまう・・・これは「才能」ということにしてしまってもいいのかもしれないが、何かがあるように思う。また彼が演奏している曲がクラシックの曲ではないということも関係しているものと思う。

リサイタルのために何時間も練習してきました、そしてこれがその成果です・・・みたいな「お勉強」という要素のない演奏というのだろうか?むろん、チコ・マルクスにとっては演奏は自分の芸の一部であったわけだから、練習に励んだことだろうが、その演奏には自然に生まれた自発性のようなものが感じられる。まぁ、それがなければ干されてしまう世界でもあっただろうが。

一部の独学の人、あるいはジャズやポップスの素養のある人の、どこか自発性のある、自在な演奏というものは、楽譜を音にしていく過程の手順のようなものがクラシック一辺倒の人とどこか異なるのではないかなどと思ったりする。

楽譜を視覚的に判断し音にしていく、何かしらの指導、アドバイスに従い曲にしていく、困難箇所の克服・・・本番・・・このような手順がクラシックピアノの場合は一般的なのであろう。では、ここに「自分自身が感じた理想の音世界」とか「内面からの欲求」のようなものは、具体的にどのように取り入れていくのだろう?どこか「無」から「完成」に、ひたすら猪突猛進していくのが、クラシックの掟、手順のような?そもそもの自分の欲求は?弾きたいという欲求を起こさせた動機そのものはどこへ?そのようなことは考えたことがありませんとか、「一応弾けるようになってからで~す」でいいものかどうか?動機があるからこその演奏、練習なのでは?

これは日常のレッスンにおいて、「ではポップスなども取り入れてみましょう」などということで解決するようなこととは思えない。問題が異なる。

一生懸命、とにかく仕上げてきました、練習してきましたという印象を与える演奏には、聴き手との相互のやり取りのエネルギーがない。自分完結というのだろうか?音としては聴き手も聴いているのだが、何かしらのエネルギー聴き手に伝わってこないというか・・・

そろそろピアノ教育も、どのようにピアノ力、演奏力を高めるか、興味を維持させるかというノウハウだけではなく、また教材研究ばかりではなく、根本のところ、「なぜあなたはピアノを弾いているの?」「そもそものあなたの動機というものが伝わる演奏とは?」みたいなことを導入から取り入れていく時代なのではないだろうか?「無」から「完成」ではなく、欲求、動機があるから弾く、それを伝えるノウハウを学ぶのがピアノのレッスン・・・「無」からではなく・・・

これはハーポ・マルクスの演奏。ハーポはピアノも上手いが、やはりハープでしょう。彼もほぼ独学でハープやピアノを弾いている。「たかが喜劇俳優の演奏でしょ?クラシックじゃないし・・・」と言われれば、そうなのかもしれないが、ハーポの演奏には「動機」も「そもそもの欲求」も、つまり「なぜあなたはその曲、その楽器を弾いているの?」という根本があるように感じる。

弾きたいと思うから弾くわけで、そこには欲求があるはずだ。理想というか。それは何処へ行ってしまうのだろう?

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category: kinema

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チコのピアノ 

 

僕のピアノ練習方法は、特種なのかもしれない。むろん自分自身では「僕は特殊なんだ」と本当は思ってはいないが、多くの人に言われたりはする。新しい曲を譜読みする時、多くの人は一つ一つの音を読んで鍵盤に移していくらしい。僕にはこの感覚が分からない。まずは、ダーッと大まか終わりまで、とにかく弾いてしまう。たとえばリストの曲などに多い「埋め草パッセージ」などは、最初に仕分けし、その部分だけを取りだして練習はする。これは多くの人が行っていると思うが、僕の場合「ゆっくりと」という練習はしない。最初から普通のテンポで弾いていく。でも条件がある。最小単位を一つの音として、音(和音)を足し算していく。ドレと弾けたらドレミと一つずつ増やしていく。でもテンポは遅くしない。音を増やしていくと、困難な箇所があるから、そこを重点的に弾く。ドレミファのミファの部分が弾けなかったら、そこだけ弾く。でもテンポはそのまま。ミファの何が難しいのか、徹底検証をする。このパッセージ練習は自分でも根気が必要だと思うが、効果はあると思う。でもフレーズ単位で練習するわけではない(それよりも小さな単位になるので)ので、人によっては「そんなの無理・・・」などと思うらしい。

あと、一つ一つの音符を視覚的なものとして捉え、鍵盤に移していくという感覚が分からないのは、どこか耳コピ要素が譜読みの時からあるからだろうと思う。音は頭の中で鳴っているので、その音というかサウンドの確認作業が僕の譜読みになるのだと思う。でも耳コピだけでは弾けないから、楽譜を見て確認していくのだ。アルゲリッチではないので、隣の部屋で聴いていただけでプロコフィエフを弾いてしまうなんていう芸当は僕にはできない。

考えてみると、僕のような独学色の強い人は、割と自分なりの練習方法を考えているようだ。幼いころから「きっちりピアノのお稽古に励みました」という人は楽譜を視覚的に読んで、最初は作業として認識した音群を鍵盤に移していく傾向にあるように思う。クラシック以外の音楽に親しみ、たとえばジャズの訓練を受けたような人は、やはりサウンドを確認するツールとして楽譜が存在しているケースが多いように思う。楽譜なんかなくても弾けたりとか・・・

ピアノを長年習っているような人でも、視覚的方法で曲を作り上げていくタイプの人は、本番が近い時だけ人前で披露することができるという、考えてみれば変わった傾向がある。本番で弾いた曲を忘れてしまい、新しい曲が譜読み中だったりすると、「私・・・今、何も弾ける曲がないの」なんてことになるらしい。

ピアノは楽しいけれど、練習は嫌い・・・どこか練習を滝修行か何かのように思っていないだろうか?クラシックの曲を仕上げていく過程はそのようなもの・・・と言ってしまえば、そうなのかもしれないが、あまりに視覚的要素に依存していないだろうかとも思う。べつに「ではソルフェージュ能力の育成を!!!」なんて力まなくても、頭の中にあるサウンドをまず最初として、それから譜読み・・・とクラシックピアノ練習法の王道を、ちょっとだけ順序を変えてみれば何かが起こるのではないだろうか?

いきなり喜劇俳優の話になるが、映画がサイレントからトーキーになった頃、マルクス兄弟という人気俳優たちがいた。本当に血縁関係にある兄妹で、グル―チョ、チコ、ハーポ、ゼッポの各(?)マルクスは喜劇的センスを売りに、人気者となった。個人的にはスラップスティック・コメディはあまり観ないので、この人たちの映画も身近なものではないのだが、特にチコとハーポは楽器が得意なのに驚く。もともとは、ヴォードヴィル出身の人たちなので、音楽、楽器演奏は彼らの「芸」だったわけで達者なのも当たり前なのかもしれないが、彼らの演奏は、最初に母親から手ほどきを受けただけの、ほぼ独学の演奏なのだ。

「お稽古に励み、練習に励みました。でも発表会で弾く曲しか弾けません」という、ある種の固さがこの人たちの演奏にはない。この固さがあったら、ヴォードヴィルの世界では生き残れないだろうとも思う。

なにかが自在なのだ。一日に何時間もピアノの練習をする・・・なんて時間は持てなかったはずだ。一家は貧しかったし、すぐに芸人として働かなければならなかったはずだから。でも自在に弾ける。何故だろう、順番が違ったのではないだろうか?視覚的に読む・・・ではなく、サウンドを具現化するツールとして楽譜があった・・・みたいな?

チコはピアノが上手かった・・・

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ベニスの愛 

 

アール・ワイルドが編曲し演奏していた曲の原曲はマルチェロのオーボエ協奏曲。この曲は、日本では「ベニスの愛」という副題が定着している。おそらく、1970年頃に公開されたイタリア映画「ベニスの愛」で、マルチェロのオーボエ協奏曲が効果的に使用されていたので、この副題が定着したものと思われる。この頃は映画音楽も美メロディー満載の頃だった。「ひまわり」も同じ時代だよな・・・

美しいベニスというやがては水の底に沈んでしまう街での男女の一日を描いた作品だ。主人公には名前がない。男、女だけ・・・。男は女をベニスに呼び寄せる。かつて男と女は愛し合い結婚していた。オーボエ奏者、そして指揮者を目指す男にとって、結婚生活は重荷になっていった。罵倒し合う日々・・・傷つけ合い、そして男と女は別れた。

「何故今さら私を呼んだの?」女は不思議に思う。でも幸せだった青春時代、愛し合った日々をも思い出す。「楽しい時もあったわね。でもお互い若かった・・・」

二人の感情の縺れは、そう単純なものではなかった。過去を懐かしむと同時に、感情の行き違いのあった、「かつて」をも思い出す。再会した二人は、再び心の内をさらけ出す。怒鳴りあう・・・

「あなたなんか死ねばいいのよ・・・」

「そう・・・僕はもうすぐ死ぬんだ。君と再び一日を過ごしたことで、死というものに向きあえると思う。最後の録音をしようと決心できた。また君に恋することができたからだ・・・ありがとう・・・」

女は男を愛していた、そして今でも愛していることを知る。男は自分の最後を生きるために去っていった。女は再び闇のベニスに一人取り残される・・・

男女の恋愛物なのだろうが、男本位のストーリーなのではないいかとも感じる。「あなたは人生の意味を発見して幸せでしょうが、私はどうなるの?私の気持ちはどうなるの?」みたいな女の感情がやるせない。

マルチェロの曲とは別に、この「ベニスの愛」という映画の愛のテーマも美しいメロディーだ。ステルヴィオ・チプリアーニという人が作曲した。映画も音楽もヒットしたけれど、この曲はある曲と非常に似ていると、当時はかなり話題になった。同じ頃に公開された「ある愛の詩」と似ているのではないか・・・と。

映画の公開も、愛のテーマの作曲も「ベニスの愛」のほうが半年ほど早かった。一時は裁判沙汰か・・・という騒ぎにもなったが、「ある愛の詩」の作曲者、フランシス・レイが、あっさりと盗作したことを認めた。フランス人ではあるが、フランシス・レイの両親はイタリア人。イタリア人であるチプリアーニとは争いたくはなかったからと言われている。

個人的には、「似ていると言われれば似ているかなぁ?」という感じだが、両方とも美しいメロディーではある。

「イタリアの著作権法では4小節までは盗作ではないんだぜ」  ステルヴィオ・チプリアーニ

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88歳の艶 

 

少し前までは、アール・ワイルドの編曲作品はゴージャスだと感じていた。今でも楽譜づらはゴージャスだと感じるが、どこか「艶っぽい」という印象も加わった。この人の演奏そのものは、人々にどのように捉えられているのだろうか?たしかに超絶技巧的なところもあるし、ガーシュウィンも得意だし、ミクロス・ローザの作品なども演奏したりしているので、どこか通俗的ピアニストという烙印もあるのではなかろうか?レパートリーは極めて広いように思うが、「ワイルド」という名前とは異なり、演奏そのものは、いたって真摯というか。とにかく自分の編曲作品を弾いても、ショパンなどを弾いても「艶っぽい」ところがいいと思う。

マルチェロのオーボエ協奏曲、この曲、好きなんだよねぇ。イタリアンバロックはとても好き。編曲が艶っぽいよねぇ・・・

この演奏は、アール・ワイルドが88歳の時の演奏。なんと瑞々しいというか、若々しいというか、艶があるというか・・・

60歳の人がピアノを習い始めたとして、このアール・ワイルドの演奏に憧れたとしたら、とても素敵なことだと思う。28年も夢を見ることができるから・・・

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category: Earl Wild

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メロディーは死滅したのか? 

 

齢をとったなと思うのは、最近流行りの歌を聴いてもメロディーが認識できないこと。なので思う。「昔はよかった・・・」と。ここ10年の間で、歌謡曲、ポップス、ジャンルを問わず、一瞬で心に刻み込まれるような美しいメロディーは書かれているのだろうか?どうなのだろう?クラシック作品だと、ここ50年の間・・・と広げてみても、一瞬で心の襞に入り込んで忘れられなくなるメロディーの曲が何曲あるだろう・・・などと思う。

メロディーは死滅したのか?美しい、ロマンティックな情感溢れるメロディーはどこへ?

ピアチェーレで演奏する曲は、断定的に決めてあったのだけれど、最初の「曲ころがし」をしている。選曲直しのようなものだろうか?新年早々に決めた曲とは変わるけれど、テーマのようなものは変わらないような気がする。かつてのロマンティックな時代のピアニストの作品。このテーマは変わらない。今年は往年系のピアニストの作品を弾いてみたいという希望・・・

曲ころがし中に思ったのが、最初に書いた「メロディーは死滅したのか?」「ロマンティックな情感は流行遅れなのだろうか?」ということ。そして「現代にもロマンティック人は存在しているのではないか?」ということ。現代にも、かつての情感を忘れていないピアニストもいるのではないか?そのような人の作品に焦点をあててみるのはどうだろう?

最近まで活躍していたピアニスト、さらには現代も活躍中のピアニストの作品。曲が誕生したのは最近かもしれないが、曲そのものはロマンティックな時代を継承している・・・みたいな?

具体的には、アール・ワイルド(2010年没)とスティーヴン・ハフ(1960~)という二人のコンポーザーピアニストの作品に焦点を合わせてみる。「えっ、現代の人でもこんな曲を書いていたの?」厳密にはすべてトランスクリプションになると思うので、メロディーそのものは彼らが生み出したものではないが、でも、ピアノという媒体に彼らの表現を移す際の手法が、非常に「よき時代」なのだ。手法が美しい・・・

一瞬にして心の中に入り込んできて、さらに忘れられなくなる曲だが、先ほど聴いていたのが「ひまわり」という曲。映画の音楽だ。映画「ひまわり」は、「こうなったら哀しすぎるよな~」と観ている側が感じる方向にストーリーが展開されていく。戦争が二人を引き裂いた・・・みたいな?

「ひまわり」を忘れられないものにしているのが、ヘンリー・マンシーニの音楽ではなかろうか?この曲を聴くと、マルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンの表情が頭に浮かんでくる。哀しすぎるストーリーなのか、哀しすぎる音楽なのか、一体化していて分からなくなるほどだ。このような音楽が現在生み出されているのだろうか?ない・・・と判断してしまう僕が年老いたのか???

この感情のクラシックバージョンとでも言うのだろうか?

現代にも何かが生き残っているという光が欲しいからこその、曲ころがしなのかもしれない。

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category: ピアチェーレ

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女の楽器 男の楽器 

 

昔に比べたら男がピアノを習うということは珍しいことではなくなったらしい。僕が「ピアノを弾いています」と言っても「えっ???」という反応に出会ったことはない。「まあ、素敵ですね!」と言われたこともないが。

楽器によって性別に関して固定されたイメージのようなものは今でも存在しているのかもしれない。やはりトロンボーンなどの金管楽器などは、男性・・・というイメージがあったりする。○○チューバ教室発表会なるものがあったとして、出演者が男ばかりでも別に奇異には思わないような気がする。ピアノの発表会だと、やはり女性が多いのではなかろうか?

男ピアノが多くなったとは言え、やはりピアノ教師は、まだまだ女性が多いような気はする。たとえば、セミナーの報告ブログで「セミナー後のランチです」という写真があった場合、ピースサインをしているのが全員男・・・なんてやはり想像できない。というか、僕はこの種の写真で男性教師が写っているのを見たことはない。だからどうということでもないのだが・・・

女性イメージの楽器って何だろう?ハープとか?たしかにピアノと比べて、ハープを習っている人、ハーピストは女性が多そうな気はする。

ハープに憧れていた男性からメールを頂いたことがある。僕とほぼ同年代の人だ。子どもの頃、なぜかハープの音色に憧れた。ピアノならまだしも、ハープなんて当時では(今でも?)珍しかっただろうと思う。憧れは封印。歳月が流れた。50歳になり、ハープを習い始めた。独身なので、家族に隠す必要はないが、会社の同僚などには絶対に秘密なのだそうだ。コソコソと(?)教室の門(というかビルの入り口)をくぐり、どこか肩身の狭い思いでハープを弾いているとのこと。

堂々と習えばいい・・・とも思うが、なんとなく「わかるぅ・・・」という気もしないではない。

たしか、スウェーデンの幼稚園だったか、幼い頃から男女の違いという古風な考えから脱したフリーな教育をしていた。さすが北欧!劇など、男の子が「僕、きれいな衣装の妖精がいいな!」女の子が「私は騎士の役がいい!」そこには日本の常識的な男女差というものからはフリーだった。そのような教育を子どもの頃から受けていて、周囲の偏見も少なければ、「僕、ハープ習いたいな」という発言も受け入れられるだろう。「男の子でしょ?サッカーにしたら?」なんて言う人がいないわけだから・・・

ピアノもそうだと思うけれど、ハープも男性の方が肉体的、骨格的、体力的に女性より有利な面もあるような気がする。結構楽器が大柄だし、手も開きそうだ。小さな手だと大変そうな楽器ではある。

東西問わず、楽器と性別との関わりは、やはり楽器の持つ音色からのイメージなのかもしれない。

僕はハープの曲は、あまり知らないし、ハーピストはさらに知らないが、子どもの頃から聴いてきたハーピストは全員男性だった。お気に入りはマルセル・グランジャニーだった。有名なニカノール・サバレタも凄いと思うが、好みはグランジャニー。二人とも男性だねぇ・・・

子どもに職業の絵を描かせてみる。学校の体育教師だと、まずは男になるのでは?音楽教師だとどうだろう?ピアノ教師も、まず女性になるのでは?バレリーナとかも。パイロットだと逆に男になる?バスの運転手も?

スウェーデンのように「僕、お姫さまの役がいい!」なんていうのは無理だとしても、ハーピストの絵を子どもに描かせたら、男女どちらでも描くような世の中に日本もなるといいなと思う。

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呪縛から解かれたバッハ 

 

自分は完全に少数派なのだろうと思うことがある。例えば・・・

脳科学者(?)がピアノを習うことは脳にいいことだと、そして習い事はピアノだけをやれば、学校での「お勉強」にもいい影響を与えるだろうと主張。むろん、ピアノを習うと成績が下がる・・・と言われるよりは、いいことだと僕でも思うけれど、でも、ピアノを習いたいという子どもの保護者がそのような目的(脳の活性化?)でピアノを習わせたいと言った時に、「ちょっとそれは違うのではないかと思います」と返すのがピアノ教師なのだと思っていた。でも僕の考えは完全に少数派らしい。多くのピアノ教師が「脳科学者もこう言っています。だからピアノを習うことをお勧めします」みたいなことを書いたりしているから。喜々として・・・

僕は完全に少数派なのだろうと、このような時に感じる。「プロになるわけでもないんです。音大に進むわけでもないんです。だから楽しく・・・」このような考えも僕はあまり好きではない。反対ではないのか・・・とさえ思う。趣味、アマチュアだからこそ、自分の欲求に忠実になれるプレジャーがあるのかと思う。偉大な演奏を聴いて、「ああ・・・いつか自分も!」とか「自分もあの世界に触れたい!」と驀進できる贅沢さはアマチュアだからこそなのではないかと。堂々と偉大な演奏家に憧れることができる喜び、浸ることのできる快楽・・・

自分の楽しみのために、プレジャーのために弾くという快楽というのだろうか?聴き手の反応などというものを無視できる気楽さはアマチュア、趣味ならではなのでは?だからこそ熱く表現したいのに・・・

プロじゃないんだから、まあ、そこそこに・・・反対じゃないかなぁ???でもこの僕の考えは少数派なのだろう。ある意味、特殊(?)な世界に酔うことができる。自分に正直に・・・これが趣味の醍醐味だと思うんだが・・・

アンドレイ・ガヴリーロフがチャイコフスキーコンクールの覇者になったのは、日本流に言えば高校生の時。当然騒がれたし、彼はスターになった。どんどん新譜が発売され、若き世代のホープとして期待されるようになった。そして彼は期待以上の活躍をした。

人々や音楽界が求める「いいピアニスト像」というものに忠実だったのかもしれない。いいピアニストという枠のようなものを彼はふるい落としかったのかもしれない。なんだか重いんだよ・・・と。

「今日は弾かない。弾きたくないんだ・・・」ガヴリーロフは突然キャンセル魔となった。重要な演奏会で突然のキャンセルを重ねることにより、彼はピアノ界から干されてしまった。

「弾きたくない・・・」

彼は自分の欲求を通すことで、すべてを失った。ピアニストとしての地位も、家も家族も・・・

結構長い間、アンドレイ・ガヴリーロフというピアニストの名前は消えていたのではなかったか?

何かをふるい落としたガヴリーロフは再び人々の前に姿を現した。以前とは全く違うピアニストとして。容姿、というか服装というか、髪型というか、外観が変わった。「これが僕だから・・・」

演奏も変わった。個性的と言われる演奏なのだろうと思う。かつての危ういまでの爆演はそこにはない。「これが本当の僕だから・・・」

世間一般での「こうあるべき」というものの呪縛から解かれると、気持ちいいこともある。でも若干の勇気も必要だ。

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category: ピアニスト

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白い楽譜 

 

僕は絵画を鑑賞するという趣味はない。知識もない。展覧会などは雰囲気を楽しむというか。絵は嫌い・・・ではないけれど、自分で絵画という形態で何かを表現したいという欲求はない。そんな僕でも絵画教室に通うことはできる。そこで基本的なデッサンの方法とか、水彩画の基礎とか絵の具の混ぜ方とか、そのようなことを習えば、一応「絵」らしきものは描ける可能性がある。心の中で全く表現意欲というものが皆無でも。いい絵が描けるとは思えないけれど。

ピアノのレッスンでも似たようなことが起こっていないだろうか?発表会に向けて指導を始めたとする。「エリーゼのために」でも「トルコ行進曲」でも、もっとシンプルなギロックでもブルグミュラーでもいいが、教師側が「このようなアドバイスをして生徒ちゃんの表現もつきました。まだ時間もあるので本番が楽しみです」のようなスタンスでいていいものかどうか、そこは少々疑問に思う。むろん、的確なアドバイス、指導があったからこそ、生徒が表現をつけて弾けたのだろうが、教師の指導がなければ「表現」というものがなかったのであれば、アドバイスによって、それができたということよりも、アドバイス以前に生徒が「何もしてこなかった」ということに問題意識を持つ必要もあるのではないだろうかと思う。「やり方」「方法」を知らないと、何もしない、何もできない・・・というところに問題が潜んでいる。絵画を描くということと、ピアノを演奏するということは、表現ということで一致していると思う。つまり、最初に欲求ありき・・・なのではないかと思う。でもそこの順番が逆になっていないか、それ以前に「表現したいという欲求」「どうして表現したくなったのかの動機」という部分がピアノのレッスンでスルーされてしまっていないだろうか?

むろん欲求だけでは人に伝わらないから、表現のノウハウは学ぶのだろうが、そもそも欲求がないところに何をすればいいのだろう?「一応弾けるようになったので表現する」ではなく「表現したいから弾けるようにする」なのでは?

奏法などでも逆現象が起きていないだろうか?このような弾き方をすればこうなる・・・ではなく、このように弾きたい、表現したいから弾き方を探すというか、学ぶというか・・・

何かしらの順番が逆になっているのだ。それでも一応「曲は弾けました」という状態になるだろう。子どもの演奏に限らずだが、どこか教師の影を感じる演奏や、「本当にあなたはそのように弾きたいの?」という演奏がなんとなく多いような気がする。欲求とか、なぜその人が、その曲を弾いているのかという、必然性が感じられない演奏が多い。

ピアノ道において、最初の動機、欲求というものを維持して感じることの難しさは、弾いている曲の中に、自分にとっての課題がテンコ盛りというところにある。実力に見合わない曲を弾いているとそうなりがちだと思うが、問題はそう単純でもないような気がする。ピアノを習い始める動機、欲求としてダカンの「かっこう」を弾きたいというものがあったとする。その人は「かっこう」を弾けたらピアノ熱は冷めてしまうのだろうか?「ああ弾けたわ。これでピアノは満足だわ」となるだろうか?多くの場合は、さらに高い所にある曲に憧れていくのではないだろうか?階段を一歩ずつ昇るように・・・

それは極めて自然なことだと思うけれど、いつのまにか「ピアノの練習」=「できないところを弾けるようにすること」となってしまいがちなのではないだろうか?最初の動機とか、欲求というものよりも、克服が目標になっていってしまう・・・

演奏を聴いて涙した・・・自分でも触れられるかも、いや、触れたいの・・・この部分がスルーされていく。

とてもシンプルな曲に戻ってみるというのは、案外といい方法かもしれない。リストの超絶技巧練習曲を次のサークルで弾く予定の人でも、シンプルな曲を弾いてみる・・・

この場合、伴奏に挑戦してみるのもいいと思う。楽器系のソナタとか、ピアノトリオなどもいいと思うが、この場合、楽譜が複雑になりすぎることが多い。声楽の伴奏などがいいのではないだろうか?むろん、中にはピアノパートの難渋な曲もある。シューベルトの「魔王」とか。そのような曲は避けて、「楽譜は分散和音の連続だけで~す」とか「単純構成の和音をただ弾いているだけで~す」のような、いわゆる「白い楽譜」の曲を練習してみるとどうだろう?たとえばトスティの歌曲とか・・・

近所に声楽科出身の人がいて、気軽に合わせてくれる人がいる・・・なんて人はそうはいないだろう。しかも卓越した音楽家である歌手が、この場合は理想なわけだから、そのような人はそうはいない。目的は表現ということだから、想像でいいのではなかろうか?偉大な歌手の歌を頭の中で鳴らし、かつ自分でそのような歌手になったつもりで鼻唄でいいので、歌詞も「なんちゃって・・・」でいいので、なりきって歌ってみる。同時にピアノ譜も弾いてみる。伴奏してみるわけだ。歌のパートは偉大な歌手(あくまで想像でよろしい)なのだから、「分散和音だけで~す」のようなピアノ譜も歌手とのバランスが取れるように、「そのつもりになって弾いてみる」ことが大事だ。間奏というものがあるので、この部分で「あらら・・・棒弾きだわ」にならないように、思い切り表現してみる。

実際には誰が聴いているわけではないのだ。「なんちゃって・・・」でいいので、なり切ることが非常に大切だ。あなたはトスティ歌曲の伴奏を美しく弾けるだろうか?日頃練習しているソロの曲と比較できないくらいにシンプルな「白い楽譜」を表現者として弾けるだろうか?

僕はこのような練習をよくする。練習というより、声楽が好きなので、練習というよりは娯楽に近い。でも「白い楽譜」は何かを鍛えてくれる。頭の柔軟性を鍛えてくれるみたいな?

トスティなんてピアノ弾きには遠い存在だが、いかにも「イタリア~ン、声楽、歌い込む~」みたいなところがいい。伴奏譜も極めてシンプルだ。1900年代になっても、このような歌曲だけを残し続けたトスティのロマンに憧れる。

これは「悲しみ」というトスティ歌曲の中でも有名な曲。作詞者のマッツォーラという人は、なんと10代でこの詞を書いている。


「悲しみ」  詞:リッカルド・マッツォーラ   曲:フランチェスコ・パオロ・トスティ

見てごらん、はるか彼方で太陽が波間に死んでいく
鳥たちの群れも野に戻っていく

悲しみを感じる。でも何故?それがよく分からないんだ
麗しの人、僕はあなたの瞳を見つめながら
黙ってあなたに身を寄せる

マントのような影が空、海、そして万物を覆う
僕は震えてしまう、涙を浮かべながら・・・

アヴェ・マリアの鐘が鳴る。悲しいんだ。
でもどうして?それが分からない・・・
あなたと祈りたい。心から・・・

この夕暮れに、この輝かしい時に
僕たちの愛し合う心から祈りが流れる

この憂鬱、なぜだろう?
分からないけれど考える
いつかは僕の人生は
夢とあなたを失うのだろうと・・・





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死んだ男の残したものは 

 

武満徹の代表的なピアノ曲には、今ひとつ興味が持てなかったけれど、シンプルな歌には惹かれた。童謡のような素朴な世界なのだけれど、郷愁というのか、子ども時代の透明さというのか、とてもピュアなものを感じる。

この「死んだ男の残したものは」という歌を知ったのはいつ頃だったろう?何十年も昔のことではない。ここまでの感情を秘めるという強さが音楽にはあるのかな・・・などと思う。詞は谷川俊太郎。谷川から曲を依頼され、武満徹は、たった一日で曲を書きあげてしまったという。この曲は反戦歌なのだと思う。多くの歌手が歌っているが、個人的にはクラシックのベルカント発声、つまり「いかにもソプラノ」みたいな感じで歌われるよりは、この長谷川きよしのような歌い方がいいかな・・・などと思う。長谷川きよしなんて、懐メロ歌手でしょ、みたいな偏見があったのだが、この曲以外にも見事な歌いっぷりを披露している。「別れのサンバ」・・・知ってます?

濃厚な歌詞で濃厚なメロディーなんだけど、どこか秘めている、心の中に隠してしまうような魅力がある。


「死んだ男の残したものは」  詞:谷川俊太郎   曲:武満徹

死んだ男の残したものは
ひとりの妻とひとりの子ども
他には何も残さなかった
墓石ひとつ残さなかった

死んだ女の残したものは
しおれた花とひとりの子ども
他には何も残さなかった
着もの一枚残さなかった

死んだ子どもの残したものは
ねじれた脚と乾いた涙
他には何も残さなかった
思い出ひとつ残さなかった

死んだ兵士の残したものは
こわれた銃とゆがんだ地球
他には何も残せなかった
平和ひとつ残せなかった

死んだ彼らの残したものは
生きてるわたし生きてるあなた
他には誰も残っていない
他には誰も残っていない

死んだ歴史の残したものは
輝く今日とまた来るあした
他には何も残っていない
他には何も残っていない





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小さな空 

 

武満作品の、ある種の「逃げていく」ような感覚、感情をストレートに出さない感覚、日本人のような感覚、ルカの言うように、この感覚はヨーロッパ人、イタリア人には遠い感覚なのだろうか?

幼い頃の想い出、想い出すと、胸に微かな痛みを、ほろ苦さを感じるような感覚、この感覚は日本人だろうと西洋人だろうと持っているのではないかと思う。歌曲というよりは、どこか童謡のような純粋な世界、武満徹の歌の世界、この感覚はイタリア人のルカにだって理解できると僕は思う。

ルカは長男、つまり家業の跡継ぎと家族内では認識されていたので、他の兄妹よりは厳しく育てられたらしい。「なんで僕だけ怒られるんだ?」ルカは両親、特に母親に反抗することもあった。「弟たちには、あんなに優しく抱きしめてあげるのに、僕にはお小言ばかりじゃないか」

ソレントの高台にある自宅からナポリ湾を望む港に行き、一人、ずっと海を眺めていることもあった。「振り向いて欲しかったんだな、きっと・・・親にはそんなこと絶対に悟られたくなかったけど」そう、この感覚じゃないか?言えない・・・言いたいけど心の中で逃がしてしまう・・・みたいな?イタリア人の子どもだって感じるこの感情は武満ワールドにも通じているのでは?

ある時、ソレントの港からルカは一人でフェリーに乗ってしまった。帰りのフェリー代は持っていなかった。でも乗ってしまった。行先はナポリ。いつもは暗くなる前に帰ってくるのに、その日は帰ってこなかった。

さすがにルカの両親も動揺した。「誘拐?それとも…家出?あの子はそんなことする子じゃない。血の巡りが良すぎるけれど、でも家出なんて・・・じゃあ・・・誘拐?」

警察を巻き込んでの騒ぎとなった。近所の人も総出で捜索してくれた。「ルカらしき子がナポリ行のフェリーに乗ったらしい。誰かと一緒だったのかは分からないみたいだ」「えっ、なんでナポリなんかに?もう真夜中じゃない!ああ・・・もしあの子に何かあったら・・・」

「自分はとんでもないことをしてしまったのかも?でもマンマは僕のことを心配なんかしていないかもしれないな・・・」

「君、なんで一人でいるんだい?君、ルカじゃないか?」警察官だった。ルカは警察に保護された。

あの時の母親の平手打ちは生涯忘れられないとルカは言う。両親とも何も言わなかった。ルカも何も言えなかった。ぶたれた後、強く強く抱きしめられた。ルカも両手で母親の腰を抱きしめる。みんな、何も言わなかった・・・

この時のルカの感情は、武満ワールドに通じているんじゃないかな?日本人だけのものではないんじゃないかな?


「小さな空」  曲:詞 武満 徹

青空みたら 綿のような雲が
悲しみを乗せて飛んでいた
いたずらが過ぎて 叱られて泣いた
子どもの頃を おもいだした

夕空みたら 教会の窓の
ステンドグラスが 真っ赤に燃えてた
いたずらが過ぎて 叱られて泣いた
子どもの頃を おもいだした

夜空をみたら 小さな星が
涙のように 光っていた
いたずらが過ぎて 叱られて泣いた
子どもの頃を おもいだした





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逃げていく武満ワールド 

 

友人のルカ、イタリア人でアマチュアのギター弾きなのだが、小さな演奏会で弾くことになったのだそうだ。それはそれは美しい中世の城館の広間のような場所での演奏。彼はそこで武満徹作品を弾くらしい。武満作品というか、武満編曲作品というか・・・

よく知られた世界の名歌を武満徹がギターに編曲したもので、以外と技巧的には難曲ぞろいらしい。ルカが苦労しているのは、その技巧の部分よりも他の部分らしい。

「日本人みたいなんだ。僕らヨーロッパ人では理解できないところがある。感情が逃げてしまうというのかな、全部を語らないというのかな、そのあたりに苦労している。とても激しい情感が隠されているのに、そしてそれは絶対に流してはいけないものなのに、でもそれを表では語らない。これは日本の感性なのではないかと僕は思っている。そこのところが僕には理解できないところでもある。君は日本人だよね?日本の語らない、直接的ではない文化というのだろうか、そのあたりと武満との関連性を君なりの考えでいいから教えて欲しい」

これには困った。少々時間が欲しいとルカに言った。僕にとって武満作品は決して近いものではないから・・・と。

「どうしてだい?武満も君も日本人じゃないか?」

そうだけど・・・

一応、僕も武満作品のピアノのCDは何枚か持っている。今回、真面目に聴いてみたけれど、やはり自分には遠い世界だと感じた。なんだかとてもコンテンポラリーっぽいんだな。日本的情感と言われればそうなのかもしれないが、はっきり言ってよく分からない。

僕にとって、とても近しい感覚を持てる武満ワールドとしては、やはり歌曲の世界ということになる。歌曲だったり、合唱曲だったり、そして歌謡曲だったりと、形態は色々だけれど、歌の世界、ここでの武満ワールドなら僕なりに説明できるかもしれない。ルカが納得するかは分からないが。

今回、ルカが演奏する曲の中の一曲。これはポール・マッカートニーというよりは、やはり武満徹なんだね。感情が逃げていく、全部を語らない、内に秘めてしまう激しさ・・・このイタリア人が感じた武満、日本人だったら何と説明できるだろう?

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Anything is possible 

 

積んでいたCDを聴いている。この人のCDは友人が送ってくれたもので、左手のピアニストのCD。聴きこまないと、このピアニストの真価は分からないが、とにかく弾いている・・・ということだけで驚異的なのではないかとも思う。なので紹介したいと思う。

イギリスのピアニストで、ニコラス・マッカーシーというピアニストだ。この人は生まれながらに右腕が半分しかなかった。それだけでも障害としては大変なものだったと思うが、14歳の時にベートーヴェンのソナタを聴いて、「僕も弾いてみたい」「できればピアニストになりたい」と思った。

14歳・・・日本流に考えれば中学生だ。片腕が半分しかない中学生が「音楽院で勉強してピアニストになりたい」と真顔で言ったとしたら、どのような反応をするだろう?

この人の半生は「そんなの無理に決まってるじゃない?」という言葉を聞かされ続けてきた人生だったのではあるまいか?

「そうだよね・・・無理だよね・・・」

そうなるか、ならないか・・・両手があり、両手で弾ける人にだって「私なんて才能ないからぁ・・・」と言葉にしてしまう人だっているというのに・・・

この人のモットーは「Anything is possible」なのだそうだ。

「諦めなければなんだって実現可能さ!」

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category: 音楽自立人、音楽自由人

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ピアノよりも敏捷な楽器 

 

ピアノという楽器は「楽器の王者」などと言われるが、現代のような楽器として完成されたのは、割と最近のことではないか?ピアノ文化の最も華やかなで盛大な花火は、ヨーロッパというよりは、むしろアメリカで花開き、打ちあがったのではないか?その代表的なピアノ曲がラフマニノフの3番のコンチェルトだったのではないか?この曲はピアニストのヨゼフ・ホフマンに献呈されている。当時のアメリカ資本の富、亡命音楽家(ピアニスト)、楽器製造会社(スタインウェイ社ですね)というものとの幸福な密着がピアノ文化の花火を打ち上げたと想像すると、とても楽しい。

最も古くから完成されていた楽器って何だろう?ヴァイオリンなども相当昔から楽器として完成されているように思うが、やはり声楽なのではないだろうか?人間の身体や喉なんて、100年単位でそう変わるものでもあるまい。

弦楽器にしても、人間の声にしろ、最も華やかな花火が打ちあがったのは、イタリアではなかったか?イタリアバロックオペラなどを聴くと、その完成された技巧美に圧倒されてしまう。ピアノなんてまだ楽器として存在していなかったのでは?

声楽、歌と言うと、朗々とロマンティックに歌い込む、みたいなイメージを持つ。人間の声による発声は、ピアノのなどの鍵盤楽器と比較すると闊達さ、敏捷さに欠けるような?ドレミファソラシド・・・と音階、ドミソドソミドとアルペジオを奏する時、ピアノの方が声楽よりも奏しやすいかのようなイメージ。たしかに歌よりはピアノの方が簡単だろうなと想像する。

ピアノ曲の花火がラフマニノフの3番だとすると、声楽曲の花火は何だろう?個人的にはロッシーニの「セミラーミデ」ではないだろうかと思う。ロッシーニのオペラでは「アジリテ」という技術が駆使されている。英語のアジリティのことだと思う。つまり敏捷さ、闊達さのことだ。当時の歌手は、コロコロと闊達に音階やアルペジオを歌いこなしていたのだ。

そこにはカストラートたちの存在が大きかったのだろうと思う。去勢してしまうわけだから、声そのものは少年のような、女性のような声を維持する。でも声量や筋力は男性・・・という・・・・

このカストラートたちが声楽花火を打ち上げていたのではないだろうか?バロックオペラにしても、ロッシーニ作品にしても。

カストラートの再現という意味において、僕は叙情的なカウンターテナーよりも、むしろ、あるメゾソプラノ歌手に想いを馳せてしまう。マリリン・ホーン・・・

最も驚異的なロッシーニ歌いとして君臨したのが、ジョーン・サザーランド(オーストラリア)とアメリカのマリリン・ホーンだとすれば、本場とは何か・・・ということにも想いを馳せてしまうところだ。サザーランドもそうだが、マリリン・ホーンの場合、太い声のまま、低音から高音まで自在に歌いこなすことができる。しかも驚異的なアジリテの技術と共に・・・

「セミラーミデ」が初演された時、当時の作曲家、鍵盤楽器奏者は憧れたのではないだろうか?

ロッシーニのような敏捷さをピアノでも・・・と。

「セミラーミデ」初演は1823年。ショパンもリストも生まれていた。

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category: The Singers

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スケール美 

 

ベートーヴェンからリストへの狭間の時代、まさにこの時代にカール・チェルニーが活躍した。この時代はスケール美の時代だったのではないかと僕は想像する。楽器の発達、改良ということもあっただろうが、いわゆるピアノ技法の基礎的なものの美というものが認識され始めた時代だったのでは?スケール、アルペジオ、ターン、オクターヴ連続、ダブル和音の連続・・・このようなピアノ技術そのものの美を追い求めた時代。ウェーバーとかフンメルとか、まさにスケール美の世界だ。カルクブレンナーなどもそうだと思うが、現在ではスケール美の作品はどこか廃れてしまっているような印象がある。演奏会の形態そのものが変わってしまったのも理由の一つだろう。サロン的な演奏会から大ホールでの演奏会へ。ウェーバーやフンメルなどの珠玉の作品群は、まさにサロン的な場に相応しい。メンデルスゾーンなんかもそうかな?あまり今は大ホールで演奏されないよね?

スケール美作品を演奏するには、現代の多くのピアニストの音は立派すぎるというか、重すぎるような気がする。真珠のような・・・という美意識よりは、どこか鋼鉄のようなものを感じる。廃れてしまった作品群を魅惑的に演奏できる人が少なくなってしまったのかもしれない。逆か?魅惑的に演奏できる人が少なくなってしまったから廃れてしまった?

チェルニーも協奏曲のような本格的作品を残している。聴いてみたけれど、う~ん、微妙な感じだ。溢れ出るようなメロディーの才に欠けていたのだろうか?なので自分の得意分野というものを意識し、教育、そして練習曲という世界に入っていったのだろうか?チェルニーの練習曲は、スケール美の作品群を演奏するには最適の練習と思える。

チェルニーの練習曲を、鋼鉄のようなタッチではなく、真珠の連なりのような、ポイントを狙った最小限負担のタッチで演奏してみると、あら不思議、フンメルのような魅惑的スケール美の作品につながっていく気もする。

フンメルの作品は子どものコンクールの課題曲になっていたりするので、結構達者な子どもが演奏したりしている。でも無理して鋼鉄のように弾くので、真珠の連なり、狙ったタッチでの微妙で軽妙な洒落っ気には遠い演奏ばかりだ。これはフンメルではない・・・みたいな?

フンメルの魅惑的な演奏、個人的にはディノ・チアーニの演奏が素晴らしいと思う。彼は滅多に他の人の演奏しない(できない?)フンメルのソナタとか、ウェーバーのソナタなどで本領発揮している気がする。ベートーヴェンのソナタも、よくある「ドイツ的厳格さ」とか「深淵な精神性」という胃が重たくなるような演奏ではなく、イタリアの青い空のような突き抜けた爽やかさがある。

ディノ・チアーニは日本では、あまり有名ではないのが非常に残念だ。彼は自動車事故で若くして亡くなってしまったから、ピアニストとしての活動期間が極めて短い。それもあると思う。33歳・・・だったかな?

このディノ・チアーニのフンメルの「ロンド」は、まさにスケール美の世界だ。今ではどこか廃れてしまった、忘れられてしまった軽妙さの魅力。チェルニーを鋼鉄タッチで弾いたら苦しい。手も痛くなるだろう。でも、このチアーニのようなタッチだったら?

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category: ピアニスト

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動機と表現の根っこ 

 

オッタ―が歌っていたピアフのシャンソンは「パダン パダン」という割と有名な曲。これをピアノで弾いている人がいる。ユーチューブ徘徊で発見した。残念なことに、「あっ、この人の演奏いいな・・・」と感じる(おそらく)アマチュアの演奏、圧倒的に日本人の動画よりも外国人のそれの方が多い。日本人の動画は真面目なんだよねぇ、色々な意味で。

このユーチューブの人は特別に達者というわけではないと思う。○○音楽院を首席で卒業しましたとか、○○コンクールで入賞歴ありますっ・・・という感じの達者な演奏ではない。なんとなくクラシック一辺倒ではない人のような?

おそらく、この演奏、楽譜を忠実に再現・・・というよりは、耳コピで弾いているような気がする。何故そのように感じるのか?それは悪い意味での変な一生懸命さ、必死な様子を感じないからだろうと思う。楽譜を追って曲にして、動画アップのために必死に暗譜しました・・・という感じがない。

「クラシックの人じゃないんじゃない?」

そうだと思うが、ではクラシックの人だからって必死でいいのか?そこが疑問だ。ピアフの絶唱を聴いて自分も弾いてみたいと、このユーチューブの人は思ったのだろう。何かしらを感じたのだ。何を感じたのか?それは言語化できないようなものだ。だからピアノで表現している・・・そんな演奏に思う。「僕も表現したい・・・」

クラシックの人って、肝心のこの部分がとても苦手なような気がする。同じ音楽なのにね。

この曲は軽快な感じもするけれど、実は歌詞が凄い。ユーチューブの人はフランス人っぽいので、歌詞にも惹かれたのではないだろうか?



「パダン パダン」

いつもつきまとう悪魔の声 耳を塞いでも聞えてくるの
「お願い!このままじゃ狂ってしまいそう!」
どんなに叫んでも、その声にかき消されてしまう

パダン パダン パダン
逃れようとしても
パダン パダン パダン
追いすがる悪魔の声
パダン パダン パダン
私を捕えては忘れたい過去へと無理やりひきずっていく

「想い出せ!失くしたあの愛を!そして泣くがいい!想い出の中で!」
あの声は笑いながら私を痛めつける
忘れたはずなのに
蘇る日々、辛いあの愛・・・

パダン パダン パダン
パリ祭の夜に
パダン パダン パダン
交わした誓い
パダン パダン パダン
偽りの囁き
胸をかきむしる心の痛み

聞えるでしょ?ほら、悪魔のあの声が!
苦しみは続く
私の心の中に響く声・・・


どんな曲を次は弾くのだろう?ハイドン?ショパン?ラフマニノフ?そこには動機があるはずだ。征服欲で曲を弾く人なんていないはずだ。なぜその曲を弾くのだろう?それは言葉にはしにくいものだ。だからピアノで表現するのだ。

才能のある人だけが表現するのではない。ジャズやポップスの素養のある人だけがある種の表現ができるわけでもない。そして「弾けてから表現」するものでもない。それは最初から存在しているべきものなのだ。だから弾く・・・

そこにはクラシックもジャズもシャンソンもないのだ。音楽が存在し、人間が存在している・・・それだけだ。

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category: ピアノ雑感

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あなたの練習 

 

オッタ―の非クラシックシリーズ(?)の第2弾。クラシック歌手のシャンソンということになる。貼りつけたシャンソンはピアフの名唱(絶唱?)で有名な曲だ。オッタ―もクラシック的発声ではなく、地声に近いような、かなり大胆な歌い方をしている。日頃彼女が歌っているクラシックの曲とは、かなり異なる雰囲気ではある。でも共通しているものがある。オッタ―の歌うバロックオペラのアリアであろうと、シューベルトであろうと、ベルリオーズの歌曲であろうと、そこにピアフシャンソンと共通しているもの・・・

クラシックの曲だろうと、その他のジャンルの曲だろうと共通しているもの・・・

オッタ―という歌手、というか人間の内側から発散されるような音楽のエネルギーを聴き手が共有、受け取るという構図だ。でも考えてみれば、この演奏者の内側からのものって、クラシックだろうとジャズだろうとシャンソンだろうと変わらずに存在しているべきものではなかろうか?

どうしてクラシックの曲を演奏する時には、このエネルギーの流れのようなものが希薄になってしまうのだろう?なんとなくポップス系とかジャズの素養のある人のみが得意みたいな?クラシックだって同じじゃいけないのだろうか?

ジャズピアニストがアドリブで演奏している。この時、ピアニストが必死に暗記しました・・・みたいなジャズなんてありうるだろうか?ポップスの歌手が、ミスなく歌えれば・・・なんて感じで歌っていることがあるだろうか?演奏者側からの何かしらを感じるものではないだろうか?

クラシックの演奏となると、なぜに「ミスなく」とか、そのような固さが存在してしまうのだろう?楽譜の存在?クラシックの演奏は自分という人間の感受性を殺して、研究成果を共有するもの?

クラシック、ここではピアノを弾いている人ということにするが、ある曲を人前で演奏する時、「あなた」とか「自分」というものはどのような位置づけになっているのだろう?

一般的なピアノ学習、レッスン、まずは楽譜を音にできるように・・・という構図になっていないだろうか?できないところ、難所を弾けるようにしていく。そしてある程度弾けるようになって、しかるべき表現をつけていく・・・みたいな?

「しかるべき表現」という熱い表現欲求があるからこそ、ピアノを弾くのでは?その曲を弾くのでは?あなたが感じた熱いものを表出したいという欲求があるからこそ、その曲を、ピアノを弾くのでは?「弾けてから・・・」では順序が逆なのでは?

幼い頃から「弾けるようになりました。はい合格です。次の曲も頑張ってね」というスタンスでピアノを、クラシックを弾いてきてしまったならば、いきなり「何かを表現してごらんなさい」などと言われても困惑してしまうのではなかろうか?

どのような演奏を聴いても「別に・・・」としか感じない人は、かなり特殊な人だと思うし、そのような人は、そもそもピアノなんて弾こうと思わないだろう。誰でも「あっ、この演奏、この曲・・・素敵だな」と感じる能力はあるのだ。

表現豊かな人の演奏を聴いて思う。「ああ・・・私はこのようには弾けない。才能の違いなのね」・・・この考えは全く間違っていると思う。そこには「クラシックの曲ってこのように仕上げていくもの」というある種の固い考えがそう思わせているのでは?才能ではなく、発想というか、順序が間違っているのでは?

弾けるようにする・・・これは目的ではなく、手段ではなかろうか?

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category: ピアノ雑感

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昭和ピアノとチェルニー 

 

チェルニーに苦しめられた人は多いらしい。僕は弾いたことがないので、チェルニーの練習曲には憧れのような気持ちも少しだが持っている。チェルニーって、いかにも「私・・・勉強しているの、練習しているの、努力しているの!」という気分に浸れそうだ。

それよりも「基礎なんです」という感じに憧れを抱くのかもしれない。チェルニーのような、いかにも「基礎力を養成するんです」みたいなものに触れた経験がないと、そのようなもので精進してきた人と、最後の最後で差がついてしまう・・・みたいな?

昭和のピアニストの修業時代にはチェルニーは必ず通らなければならないものだったようだ。一回のレッスンで4、5曲は合格するのだ・・・みたいな日記や文章を読んだことがある。でも、そうでもしないと、チェルニーって終わらないよね?30番、40番、50番、これだけで120曲?レッスンって昭和の時代だって週に一度が普通だったと思うので、チンタラと構えていては絶対に終わらない。

もしかしたら、カール・チェルニーに苦しめられたのではなく、「昭和ピアノ」に苦しめられたのでは?「しっかりと鍵盤の底まで弾きなさ~い!」なんて感じでチェルニーをバリバリ弾かされたら、そりゃあ苦しいだろう。

チェルニーの練習曲って、どこか爽快感がある。でも、その爽快感は「昭和タッチ」でバリバリと弾くチェルニーでは味わえないもののような気がする。これはチェルニーだけに限らずだと思うが、この種の曲は「鍵盤の底まで」ではなく「鍵盤の底までの途中にあるポイントを狙う」みたいな感覚のタッチを養うための練習曲だったのではなかったかと思ったりもする。

狙ったタッチで、しかも音楽的には複雑なものを回避して、基礎的音楽語法みたいなものをも狙う練習曲だったのでは?たとえばスケールの上昇は微妙なるクレシェンド、スピードアップが成される・・・みたいな?いちいち「クレシェンド」「アチェレランド」などと記されていなくても。このような、当然身につけておくべき基礎的な音楽語法を学ぶ練習曲・・・

チェルニーを流麗に弾けると、ベートーヴェンも流麗に弾ける気がする。でもチェルニーもベートーヴェンも「昭和ピアノ」「昭和タッチ」の犠牲になってきたのではあるまいか?「しっかりと弾きましょう!」「ドイツ風に厳格に!」「カッチリと。ショパンじゃないんだから!」みたいな?美しいチェルニー、美しいベートーヴェンではいけないの?

チェルニーの不幸は、チェルニーで身につけたものを発揮するべき曲が現代では廃れてしまったということにもあるのではないだろうか?たとえば、ウェーバーのピアノソナタなんて現代の演奏会の主要レパートリーからは完全に外されてしまっている。アマチュアのサークルなどでもウェーバーのソナタなんて弾く人は、かなり特殊なのでは?

実はウェーバーのソナタは往年の巨匠ピアニストの主要レパートリーでもあった。まぁ、全楽章という感じではなかったが。

モイセイヴィチが弾くウェーバー、このタッチ感覚は「昭和タッチ」ではなく、まさに「狙ったタッチ」の感覚だ。さらに、基本的な音楽語法も実に自然に表出されている。そう、本来は、チェルニーはこのような曲を、このように弾くための練習曲だったのでは?

これからの時代、このウェーバーのような曲が復活してくるのではないだろうか?そしてチェルニーの練習曲も新時代を迎えるのではないだろうか?

日本では今のところ、モイセイヴィチのようなタッチ感覚は主流ではないようだが・・・

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category: ピアノ雑感

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初心者はパフォーマンスとは無縁なのか? 

 

サークルの新年会が終了。「新年会」と「練習会」とは微妙に異なる。僕が所属しているサークル、通常の練習会では、割と緊張感を持って催される。冷たい雰囲気ではないが、緊張感はある。お菓子を食べながらの雑談の中、気軽に・・・という感じではない。「新年会」も一巡目はそう。でも二巡目以降となると、アルコールも入るし、割と気軽な雰囲気になる。「新年会」だけじゃないかな?このような雰囲気は・・・

基本的には、僕は緊張感を持ったサークルが好きなのだと思う。主催者の方が、「いいピアノ」という観点で会場を決定してくれるので、外国製のピアノでいつも練習会は行われる。スタインウェイとかファツィオリとかベヒシュタインとか、日頃から弾いている楽器ではないので、やはり心躍る。いつもは電子ピアノで練習している人も(が?)多いわけだし。一巡目はクジ引きで演奏順が決まるサークルでも、二巡目以降は「お弾きになりたい方、どうぞぉ・・・」となるサークルが多いような気がする。僕が所属しているサークルでは、二巡目以降もクジ引きで決められた演奏順を守る。これは公平性を考えると、いいことだと思う。誰でも、スタインウェイ・・・弾きたいよね?「誰でもどうぞ・・・」だと、どうしても古株メンバーが独占してしまいがちだ。初めて参加して「私も弾かせてぇ・・・」とは言いにくいものだ。

サークルの参加目的は人それぞれだろう。やはり、人前で緊張感を持って弾く機会を得たい、同じ悩みなどを共有したいという人が多いんじゃないかな?ピアノって合わせもないし、一人で孤独に練習しているだけなので、仲間がいるとやはり違う。多くの教室の、いわゆる「ピアノ発表会」だと、お子様の中に交じって弾くということに、なりがちだが、サークルだとそれがないので、参加しやすいのではないかと思う。

僕も最初は、サークルに向けて頑張る・・・みたいな感じだった。いや、今だって頑張っているさ!ピアチェーレと教室の発表会は年に一度だけだから、参加できればだけれど、二か月に一度という頻度の、しかも緊張感を感じてのサークルでの人前演奏の機会というものは非常に貴重なのだ。でも競走馬ではないのだから、出来栄えに一喜一憂するようなことはなくなった。また、必要以上に「できない自分アピール」「崩壊しました宣言」をすることもなくなった。頑張ってはいるけれど、練習会後の解放感を味わう楽しさを知ったというところが以前とは異なるのではないかと思う。なので、昨日の今日なので、今は解放感、達成感(弾いたということへの)に浸っている。それもピアノの喜びだ・・・と思う。

聴き手と演奏者がいて、時間と空間を共有する・・・このところは、プロのスターピアニストのリサイタルだろうが、アマチュアのサークルの場だろうが同じなのだ。でも緊張感が希薄な「雑談の中」という中での演奏だと、この共有感というものが味わえない。だから緊張感のある練習会を催すサークルが好きなのだと思う。聴き手としての感想、そして自分が演奏する立場としての感想、ここが大きく異なることがある。人の演奏ではミスなどあまり気にならない。あくまでも「音楽としてどう感じる?」という観点で聴くものだ。だから自分の演奏でもミスなど気にしなければいいのに、なぜか自分がミスタッチをすると動揺してしまう。このあたりの心理的矛盾というか、違いを追及していくのもサークル参加の醍醐味なのではないかと思う。こうも言えよう。自分としては練習の時と同じようにミスなく弾けて満足だけれど、聴き手はミスの有り無しを聴いているわけではない、あくまでも音楽として・・・という観点で聴いているわけだから、「やった!失敗しなかった!」と喜んでいるのは自分だけで、聴き手はそうは感じていない可能性だってある。パフォーマンスだから、そのあたりが非常に面白いのだ。

さて、解放感・・・だが、積んでいて聴く時間のなかったCDなどを聴いている。アンネ・ゾフィー・フォン・オッタ―のCDを聴いている。なんという喜びだろう!基本的には音楽なんて聴く方が楽しいものだ。オッタ―の歌唱(また声楽???)では、以前に聴いたクルト・ヴァイルのアルバムが良かった印象がある。なので、クラシックではない分野の歌を録音したオッタ―のCDをまとめて聴いたりしているのだ。

クラシックの歌手がポップスやジャズを歌うということは別に珍しいことではない。でも成功例は意外と少ないようにも思う。必然性かな・・・と思う。ヴェルディでもシューベルトでもなく、あえてその歌を歌っているという必然性を感じさせることが、このようなケースでは非常に難しいように思う。「器用だな・・・」ではなく「いい曲だよねぇ・・・」と感じたいのだ。

オッタ―の非クラシック曲(?)の歌唱では、曲そのものを感じることができる。そこがいい・・・

パフォーマンス・・・だよねぇ・・・とも思う。歌手が自分の出来栄えだけではなく、聴き手がどう感じるかという観点も含めて歌っている。プロでもここが足りない人はいる。自分がどうだったかではなく、聴き手がどう感じたか・・・この醍醐味。厳しくもあるが、楽しくもあるパフォーマンスの醍醐味。

僕のこの感覚は、厳しすぎるのではないかという意見を頂戴したことがある。たとえば、聴き手の印象に残るような演奏というものを含めるなんて、誰にでも要求するのは酷ではないかと。参加することに意義のある人だっているだろうし、それも立派な演奏動機ではないかと・・・

30年ぶりに人前で演奏する、一年前からピアノを大人から始めた・・・そのような人が勇気を出してサークルに参加してくる。その場合、参加することに意義もあるだろうと。たしかにあるだろうと思う。でも、基本的には人間というもの、というか大人ピアノを弾こうという人は、そもそもの動機に「ああ・・・素敵・・・私も弾けたらどんなにいいだろう」という気持ちを秘かに持っていると思う。どんなに心を動かされた演奏を聴いても「私は初心者、関係ないの!」と割り切れる人はそうはいないのではないかと僕は思う。短期目標であれば「弾いた!」ということに意義があるだろうし、自分がどう弾けたかというところが目的にもあろう。でもその人に、音楽的感動というものがあり、ピアノを始めたなり、再開したということであるのならば、そしてそのようなことが動機となっているケースがほとんどだと思うけれど、そうであるならば、初心者だろうと、経験不足だろうと、舞台慣れしていようが、関係ないのではないかと思う。だって人の心を動かしたい、そういう空間、時間を共有したいという気持ちはピアノ弾きだったら誰でも持つ権利があると思うから。強要はできないだろうが・・・

他人が「あら・・・なんだか素敵じゃない?」と思ってくれるなんて素晴らしいじゃあないか?人と何かを共有できるんだよ?初心者だろうとそのパフォーマンスの醍醐味を持つ権利はあるのだ。これは誰からも強要されるべき感覚でもないし、誰からも排除されるべき感覚でもない。

オッタ―はブラッド・メルドーというピアニストと共演している。メルドーってジャズピアニストだよね?でもこれはパフォーマンスだ!

クラシックだろうとジャズだろうと、経験豊かなプロだろうと音大生だろうと初心者だろうと、誰でも憧れる権利のあるパフォーマンス。

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category: サークル

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楽譜とポンセル 

 

「これは何音符?」「二分音符?」「そう・・・何拍伸ばすの?」「???」「なんて飲み込みが悪い子なの?」「これはドでしょ?じゃあ、これは?」「レ?」「そう。それを鍵盤で音にしていけばいいだけのことでしょ?さあ、やってごらんなさい!」「???」「違うでしょ?何度説明させるの?」

小学生時代に習っていた僕のピアノはこんな感じだったかな?レッスンはこんな感じから抜け出せなかった。でも3年生の時に僕の楽譜人生は変わった。本物のショパンを聴いてしまったのだ。ローゼンタールやコルトー、ホフマン、フリードマン・・・

「なんて素敵なんだろう?こんな風に僕も弾いてみたい!」ショパンの楽譜を買った。そして弾いてみた・・・

「ああ・・・楽譜の仕組みって、こんな風になっているんだね!」その時に初めて分かったのだ。順序としては、普通の真面目なピアノ学習者とは逆読みで楽譜を読み始めたのだと思う。普通は、真っ白な状態で音符を音にしていく、そして曲らしきものに仕上げていく。僕の場合、頭の中には往年の巨匠のサウンドがこびりついていた。そして楽譜を見た。「ああ・・・このような弾き方、このような表現は楽譜だとこのように表記されるんだぁ・・・」みたいな感じだろうか?僕にとって、その時の楽譜、音符の連なりというものは、呼吸し生きていた。印刷された楽譜を読む・・・ではなく、極上サウンドは楽譜だとこうなる・・・みたいな。いわゆる逆読みだ。楽譜から語りかけてくるというか、香りがしてくる・・・というか、そんな感じだった。

その感覚をピアノのレッスンでも生かせればよかったんだよなぁ。でも僕は我儘な性格だったので、「ピアノの兵隊さん」みたいな曲を弾きたいとも思わなかったし、なので練習せずに、自己流にショパンやベートーヴェンばかり弾いていた。完璧に巨匠たちの真似弾き、なんちゃって弾きだったように思う。僕のピアノは今でもそうだ。きっとそうだ。当時の先生がショパンを弾かせてくれれば、どこかシュナーベル風の僕のベートーヴェンをレッスンでも弾かせてくれれば・・・

そう思うけれど、レッスンでは僕の欲求は却下されてしまったから、弾けなかった。「ショパン?あなたに弾けるわけないじゃない?」まぁ、そう思われても仕方ない。「ピアノの兵隊さん」や「バイエル」も弾けない、読めないのにショパン・・・なんて。

僕の現在のピアノ演奏に何かしらのものがあるとしたら、それは3年生から6年生までに自己流で楽しんだピアノ、そして聴いた音楽、主に良き時代の往年の巨匠の演奏が基礎になっていると言える。事実、その頃は楽譜を沢山読んだものだ。ピアノだけではなく、様々な種類の楽器や声楽曲の楽譜も購入して読んだものだ。

当時は、音楽の世界に導いてくれた医大生の紹介してくれる音楽や演奏に聴き惚れていたわけだが、自分でも「新しい音楽」というものを探そうとしていた。当時出会ったドナルド・キーンの著作は僕にとって大いなる案内役となったものだ。ご存知のようにキーン氏は音楽の専門家ではないが、大変な音楽好きで、特にオペラ愛好家としては熱烈なものがあった。キーン氏が紹介してくれる演奏家も、主に往年系の人たちだったので、文章を読んで実際にそれらの演奏を聴いてみたいと思ったものだ。

たとえば、このような記述があった。

ポンセルのレコードで読者諸君にお勧めしたいものがある。ローザ・ポンセルのレコードだ。出だしのトリルには胸の張り裂ける思いがする。音楽よりは音響に興味のある人以外は誰にでも楽しめるレコードだ。

「ローザ・ポンセル?知らないなぁ。でも聴いてみたい・・・」

RCAのLPレコードを見つけた。そしてポンセルの歌声に夢中になった。さらに、楽譜ではこの音世界はどのように表現されているのだろう?音符というものを、このポンセルという歌手はどのように処理しているのだろう?当時の僕にとっては足を踏み入れたばかりの大人の世界の場所、日本楽器群座店の楽譜売り場に通ったものだ。当時は地下が楽譜売り場で、どこか「専門家御用達」のような雰囲気があった。印刷の匂い、紙の、楽譜の匂いというものも心地よかった。今では、ここはどこかチャラチャラした雰囲気になってしまって残念だが・・・

ポンセルの歌っていた「ソプラノ・アリア集」や「ロシア歌曲集」のような楽譜を購入し、楽譜を見ながらポンセルの歌声を聴いた。「ああ・・・なんという音世界なんだろう」そしてこうも思ったのだ。「楽譜のこのような部分を強調すれば、ポンセルのような世界になるんだ」と。印刷された音符を読んで、単純に鍵盤に移していくのではなく、もっと3D的な感覚があった。「ポンセルは音の高低をこのように処理、表現している。休符ってこのような意味もあるんだ。フレーズの最後って、このようにすればいいんだ」みたいな?

その時以来、僕は楽譜が読めるようになった。音符の連なりから音世界を頭の中で鳴らせるようになった。僕は耳コピでピアノを弾いているわけではない。でも楽譜とサウンドとは、どこか一体化されている感覚がある。

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category: 月の輝く夜に

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目から?耳から? 

 

「来週はきちんと練習してきてねっ!!!」先生のこの言葉の意味が分からなかった。つまり、「練習って何をすればいいんですかぁ?」状態だったのだ。レッスン時間に「今、練習してるじゃん?それでいいじゃん?」みたいな?当然ピアノのレッスンは停滞した。読譜力がなかった。つまり楽譜が読めなかったのだ。

後年、某楽器製造会社の音楽教室に関わることになった。むろん、講師としてではないが、その時にこの某音楽教室の問題点というか、実態を知ることになった。楽譜の読めない、または読譜を面倒がる生徒が実に多かったのだ。基本的には、幼児科からグループレッスンを中心に教育されるシステムで、ピアノという楽器に拘らず、合奏なども取り込んで、いわゆる「音のシャワー体験」のようなレッスンがされていたように記憶している。「いいこと」なのだろう。感受性の多感な時に、サウンドの楽しさを味わわせてしまう。でも、ピアノの個人レッスンに移行した時に、グループレッスン出身の生徒は、どこか落ちこぼれてしまうケースも多かった。なまじサウンドを体験しているだけに、自分で読譜をしてピアノで音を再現した場合、なんとも物足りないらしいのだ。体験してきたようなサウンドを楽譜から拾って音にする能力に欠けている。「ピアノ・・・楽しくない」みたいな?読譜力に欠けていたのだろう。生徒としても、いきなり「読め!」と言われても・・・という感じだろう。

そう、読譜力というものは大切なものなのだ。これこそ基本というか。ここで問題がある場合は、基本的に家庭での練習という部分に支障が出てくる。毎日の練習という部分に支障があると、ピアノの上達、いや、継続すら危うくなっていくだろう。

なので、読譜・・・

多くのピアノ教師ブログなどを読んでも、この部分の強化、工夫というものは感じられる。

でも、「ピアノを弾きたい」という人間的欲求という根本のところを考えた時に、読譜だけの強化でいいものかどうか、多少の疑問は残る。「ああ・・・弾きたい」「ああ・・・上手になりたい」などと人間が感じる根本要素、根本の動機としては、鑑賞者としての音楽的体験、音楽的感動というものがあるはずだ。この部分がなければ、そもそも弾きたいという動機にすら結びつかないのではないか?

多くの大人のピアノ、仕事をこなしながらの大人のピアノの場合、ここのところの根本的な動機と音楽的感動というものが結びついていることが多い。「今の状況でピアノなんて厳しいけれど、それでもピアノを弾きたいの!」こう思わせるだけの、何らかの音楽的感動があったからこそ、忙しい中ピアノを弾いている。

お稽古事として幼い頃からピアノを習っている子どもの場合はどうなのだろう?一般的な子どもの生徒の場合、教本に載っている次の曲とか、教師が渡す曲のように、弾いている曲というものは、他者から渡された曲というケースが多いだろう。音楽的感動によって「次はこの曲を弾いてみたいんです」のように、生徒側から次々と欲求があるというケースはあまりないのではないか?生徒はクラシックの曲をあまり知らないだろうし、教材の知識というか、どのような曲が世の中に存在しているかなどの知識もあまりないのではないかと思われる。むろん例外もあろうが・・・

読譜力に欠けていると、そりゃあレッスン継続すら危うくなるだろうから、その部分は必要としても、それだけでいいものかどうか?

このような構図がピアノレッスンによって定着していってしまう危険性はないだろうか?

曲を渡される→真っ白な状態で読譜をする→一応両手で止まったり、つっかえたりしないように弾けるように練習する→一応弾けた→曲想をつけて表現する→暗譜をする→先生に○をもらう

大人のアマチュアの人でも、この順序で曲を仕上げていく人は多いように感じる。でもこの構図だと、「曲想をつけて表現する」という部分が遅すぎないだろうか?この部分は、「できてから・・・」「一応弾けてから・・・」という段階よりは、むしろその曲を弾くという意味においての動機の部分に直結していなければならない部分ではなかろうか?「このように弾いてみたい」という欲求、それは遠い憧れのようなものだとしても、この欲求がピアノを弾かせるというか・・・

一応、弾けるようにした→レッスンで先生のダメ出し→忠実に守って弾けるようにする→何度も何度も練習する→本番

これだと「動機」がないのだ。この曲のここを届けたいというパフォーマンスとしての根本に欠けてしまうというか・・・

初歩、導入指導において、読譜能力の育成というものと、音楽的欲求からくる動機のようなものとの融合というものは、どの段階で、どのような具体的指導というものがなされているのだろう?

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category: レッスン

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シューベルト 

 

この曲、この演奏はシューベルトだなぁ・・・と思う。

「弾く」という感じではないんだな。

それにしても、ブリテンってピアノ上手なんですねぇ・・・

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category: 未分類

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揺りかご 

 

ジョゼ・ヴァン・ダムの歌はボストンで聴いた。かなり昔のことになる。オペラではなく歌曲リサイタルだった。彼の映画は忘れてしまったけれど、本業の歌の方は覚えている。前半にドイツ歌曲、後半にフランス歌曲を歌っていたと記憶している。個人的には後半が素晴らしかった。デュパルクやフォーレの歌曲を、きちんとまとめて聴いたのは、その時が初めてではなかったか?

僕が歌好きなので、そう思うのだろうが、フォーレもピアノ曲をチマチマ(?)聴いているよりは、歌曲の方が断然素晴らしいように思う。「夢のあとに」という歌曲が有名で、この曲は美しいメロディーの曲として知られているが、「揺りかご」という歌曲も、かなりの美メロディーの曲なのではないかと思う。いぶし銀のようなジョゼ・ヴァン・ダムの歌声と、どこか通俗的なフォーレの「揺りかご」はとても合っているように思う。

おフランスの芸術・・・になるのだと思うが、メロディーもそうだが、詞もどこか「おフランス」というよりは、日本の演歌の世界に近いように感じる。

「揺りかご」 曲:ガブリエル・フォーレ   詞:シュリュ=プリュドム

港に浮かぶ船の群れ
波間に静かに浮かんでいる
海の男たちは女たちが揺する揺りかごになんて見向きもしない

別れの時はすぐに来るのだ
涙に暮れる女たち
海の男は船出が運命(さだめ)なんだ
それが海の男の性(さが)なのさ

波間を進む船の群れ
遠くに消えていく港の灯り
捨てた我が子の揺りかごの魂だけが
それだけが海の男の心残り・・・

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category: 好きな曲・好きな演奏

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