ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

本当の上級者 

 

あなたの大切な人が亡くなりそうだとする。あなたはその人の傍に駆けつけるだろう。昏睡状態でも、あなたはその人の手を握り締めるだろう、返答はないと分かっていても、あなたは何かを語りかけるだろう。あなたが手を握り締めたら、ほんの微かな力で握り返してくるかもしれない。語りかけた言葉に反応はなくても、一粒の涙をその人は流すかもしれない。何もなくても、その人は、あなたが駆けつけたことで、心の解放があり、安らかに旅立つことができるかもしれない。

これは心のやり取りのようなもの、愛の相互作用のようなものだ。

音楽にも似たような作用があるように思う。その場の空気を動かし、相手の感情を動かすことができる。でも感情を動かされた、つまり聴いていた人の感情の動きも、発した演奏者に返ってくるのだ。相互作用なのだ。

どんな曲を聴いても、誰の演奏を聴いても感情が動かないという人はいるのだろうか?いるのかもしれないが、もしそのような人がいるとしても、ピアノなど弾こうとするだろうか?弾きたいと感じた、そもそもの動機というものの根源は、音楽によって感情が動いたからなのではないだろうか?

自分の感情が人の演奏によって動いたのだったら、その人は何かを感じることができたのだ。その「何か」を勇気を持って探すことのできる人が本当の意味での上級者と考えたらどうだろう?

そして「相互作用」を信じ、目指すことのできる人。「才能なんかないから」と諦めたり逃げたりせずに、追う勇気を持てる人が本当の上級者。

弾いている曲の、それも世間が勝手に決めた難易度によって、上級者だの初級者などと考えることはやめてしまったらどうだろう?

伝わるのだ、いつか自分も伝えられるのだ・・・と信じること、そして実際に追及する勇気を持つ。皆が上級者になれる可能性がある。

音楽、そして演奏は人間対人間の相互作用だから・・・

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黄金時代 

 

僕が音楽開眼したのは1970年代ということになる。その頃はアルゲリッチ、ポリーニ、そしてアシュケナージなどが大活躍していた頃だ。でも彼はそのような当時のスターではなく、黄金時代のピアニストを僕に聴かせてくれた。

「当時は蓄音機で皆が聴いていた時代なんだ。さすがに音質は古めかしい感じだけど、僕はこの時代がピアニストの全盛期だと思ってるんだ。今のピアニストを君も聴くようになると思うけれど、まずは黄金時代を聴いてみて欲しいな・・・」

ブライロフスキーのワルツの次に彼が聴かせてくれたのが、モリッツ・ローゼンタールというピアニストの演奏だった。当時の僕はローゼンタールはもちろん、アルゲリッチもポリーニも知らなかったので、マニアが聴く特別なピアニストという感じではなく、ごく普通にローゼンタールの演奏を受け入れた。

最初に聴いたローゼンタールは、やはりショパンだった。「子どもにもショパンなら聴きやすいだろう」と彼は思ったのかもしれない。ノクターンOp.9-2も日頃彼が愛聴していた曲ではないように思う。でも紹介したかったのだろう。

曲は知っていた。僕の持っていたレコードにも収録されていたし、発表会で「上手なお姉さん」がこの曲を弾いていたからだ。「ショパンって素敵だな・・・」などと少しだけ思ったが、そのお姉さんの演奏は子どもだった僕でも、どこか拙さを感じた。左手が機械的だったのだ。ブンチャッチャッ・・・ズンチャッチャッ・・・

この曲は4分の3拍子ではなく、8分の12拍子なのだが、そのような知識はなくても、お姉さんの演奏はどこかおかしいと思ったりしたものだ。

「この人はね、あのリストの弟子だったんだよ・・・」

音楽史の知識も皆無だった僕は、リストに習ったような人の演奏を聴ける・・・なんていうことが信じられなかったが、その演奏は僕を圧倒してしまった。

彼の聴かせてくれた演奏家は、いわゆる古い時代の演奏家が多かった。今でも僕はこの時代の演奏家が好きだ。この時の影響なのか、僕がもともとそのような演奏が好きで、彼がそのことを見抜いたのか、それは分からない。

でも僕のことを「子ども扱い」せず、クラシックを聴かせてくれたこと、それも、いかにも子ども向きの名曲ではなく、ローゼンタールを聴かせてくれたことに僕は今でも感謝している。

この曲も左手だけ練習したなぁ・・・右手のメロディーはローゼンタールのものを想像しながら・・・

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category: 月の輝く夜に

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左手を制する 

 

「ピアノ習ってるの?そうなんだ・・・で、どんなピアニスト聴いてるの?」

僕が持っているレコードなどを告げると、さらに彼は「そうなんだ・・・」と言った。彼が最初に聴かせてくれた演奏はショパンのワルツだった。おそらく、僕にとってはこの選択は良かったのだと思う。あまり曲も、いい演奏も知らない、ただのピアノを習っている、それも困ったチャンである小学生だったから。同じショパンでもプレリュードやバラードではなく、彼はワルツを聴かせてくれた。彼はショパンのワルツを聴きたかったわけではないだろうが・・・

そのショパンのワルツが僕のすべてを変えた、僕は目を開いたのだ。今時アレクサンダー・ブライロフスキーなどというピアニストは全く受けないのかもしれないが、その演奏は鮮烈なまでの印象を僕に与えた。「ああ・・・本物の演奏ってこういうことなんだぁ・・・」

それまでにも全音ピアノピースをこっそり購入してランゲの「花の歌」やワイマンの「銀波」などの曲はレッスンで弾いていたバイエルとは別に勝手に弾いたりしていた。耳に馴染んだサウンドを自分の指が再現しているという興奮があった。全音ピースを購入し、勝手に独習してしまうことに罪の意識はあった。「僕なんかが上手な人の真似をして、いけないことなんだ」みたいな意識があった。そんな僕が先生に内緒でショパンのワルツ集の楽譜を購入するのには勇気が必要だった。親に内緒で買い食いするような気分だった。ショパンなんて大人が弾くものと思っていたし・・・

「でも・・・弾いてみたい・・・」

ブライロフスキーの演奏には、聴いている僕の時間軸を揺るがすような魅力があった。「輝く音の連なり」にも惹かれたが、同じリズムの連続ではない、時間軸の変化に魅せられた。ブライロフスキーの真似をしようとしたのだ。まずは左手を真似すること、僕は左手だけを弾き続けた。「ブライロフスキーのように・・・」と。どうしてもピアノって右手の難しいパッセージばかり練習してしまいがちだ。飾りである「埋め草」ばかり練習してしまうというか。でも左手が機械的では演奏は拙いものになる。「ブンチャッチャッ・・・」みたいな?

独学だからこそ可能だったかもしれない、左手真似練習・・・

今でも、このワルツを弾いたとしたら、おそらくかなりブライロフスキーの真似が入ると思う。いけないこと、正統ピアノレッスンでは「やってはいけないこと」なんだろうけど・・・

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category: 月の輝く夜に

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月の輝く夜に 

 

昔、1980年代だっただろうか、「月の輝く夜に」という映画があった。ニコラス・ケイジとシェール共演の軽いコメディ調のラブストーリーだった。たしか、シェールはこの映画の演技でアカデミー主演女優賞を受賞していたと記憶しているし、「月の輝く夜に」は作品賞にもノミネートされたと思う。

男性はパン屋を営んでいるのだが、大のオペラ好き。女性の方はクラシック音楽とは全く無縁の生活。最初で最後のデートという約束で男性は女性をオペラ鑑賞に誘う。「そんな・・・オペラなんて・・・私クラシックなんて分からないし・・・」

それでも女性は精一杯お洒落をし美しく変身する。メトロポリタン歌劇場、その前にある噴水で待ち合わせをする。演目はプッチーニの「ラ・ボエーム」・・・

このシーンは映画の中で最も美しいラブシーンであると同時に、一人の人間が音楽に初めて開眼する様子を表現したシーンでもある。感動というものは、楽しいという感覚ではなく、どこか哀しさを伴うもの・・・

月の輝く夜に・・・

僕の音楽開眼は小学3年生の時。幸運なことに、ある医大生が音楽の世界に導いてくれた。それまでにもクラシック、というかピアノのレコードは聴いていた。でも日本人ピアニストの演奏するショパン名曲集であったり、発表会名曲集のようなものしか聴いたことがなかった。その演奏は決して悪いものでもなかったような気はしていたが、その医大生が聴かせてくれた音楽とは、やはり次元が違っていた。

「世の中にはこんなに素晴らしい世界があったのか?」

沢山のレコードを聴き、大概は夜遅くなった。医大生は僕を家まで送ってくれた。むろん、曇りの日も雨の日もあったと思うが、僕の記憶の中では、月の輝く夜だった。

「音楽って哀しいんだね?」「そうだね・・・」

僕は6年間ピアノを習っている。でもかなり特殊な習い方であったと思っている。3年生で音楽開眼するまでは明らかに僕は「困ったチャン」だったように思う。楽譜をあまり読めなかったんだよねぇ。「練習してね?」という先生の言葉は受け流してしまった。「今、練習してるじゃん?」みたいな?レッスンの時間=練習、読譜の時間・・・でもあった。大体、家では何を練習していいのか分からなかったのだ。音楽開眼後は自己流で聴いて感動した演奏を追った。楽しかったし、楽譜も自然と読めるようになっていった。バイエルからショパンへ飛躍してしまったわけだが、レッスンでは相変わらずのバイエルしか弾かせてくれなかったので、開眼後もピアノのレッスンは停滞していた。

僕の今の演奏を形作っている基礎のようなものは、残念ながらレッスンによって授かったものではなく、すべて自己流のものだ。その続きで現在もピアノを弾いている。僕はどこか導入期のピアノレッスンというものに対して斜めの目線を持ってしまいがちなのは、僕のピアノの基礎部分、感じ方のようなものが自己流、独学からきているのと関係はあるだろうと思っている。

月の輝く夜に・・・

僕はどのような音楽を聴いてきたのだろう?聴いて感動した心の感情をそのまま自己流でピアノに乗せてしまったこと、それが今の僕にどのような影響を与えているのだろう?

子ども時代に聴いた演奏を紹介していくカテゴリーを作りたくなった・・・

月の輝く夜に聴いた音楽を・・・

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category: 月の輝く夜に

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耳の練習 

 

先程のヴァイオリンを弾いていた方が、今度はピアノを弾いている。ヴァイオリンでは自分の音を聴きながら、豊かに歌っていたのに、ピアノになると突然に「音符を並べてみました~」という演奏になってしまうのだろうか?

やはりそんなことはないのだ。

多くのアマチュアピアノ弾きが望んでいるのは、難曲をバリバリと・・・という部分ではないのだ。感情豊かに、歌いながら弾けること、人の演奏を聴いて、瞬間的、直感的に感じた「あ、いいな・・・」といった要素を自分でも再現したいと望むのではないだろうか?

「まっ、私はこんなものだし・・・」

この考えは、指のアジリティとか、超絶技巧とか、難曲をミスなく弾きこなすとか、そのようなことよりも、むしろ歌心を感じさせつつ、感情豊かに人のテンションを集められる演奏というものに対して感じてしまうものなのかもしれない。練習方法も自分で見つける・・・みたいなところがあるし。ワシワシ、バリバリと指の練習を何回も反復していれば、曲・・・というか、音符は弾けるようにはなっていく。この部分も、そりゃあ大変な部分だけれど、むしろ難しいのは、「シンプルな曲でも人を惹きつけられるような演奏」というものなのでは?

自分の能力を自分で決めつけてしまう前に、まずは自分の音を聴きながら練習してみたら?その部分が欠けていて、ただワシワシ練習していたのでは?どのような偉大な演奏を聴いても感情が動かない、「ふ~ん・・・別に・・・」としか思えない人はピアノを弾いている人の中にはいない・・・と思ってみたら?ただただ習慣がなかった・・・と。

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category: ピアノ雑感

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耳で弾く 

 

ヴァイオリンを習ったらピアノにもいい影響があるだろうか?そんなことを考える。こうも思う。子どもの頃、ピアノと同時にヴァイオリンも習っていたら・・・とか。ある程度ヴァイオリンを厳しく(正しく?)指導されていたとしたら、自分の音を聴く、聴きながら弾くという原則は自然に身についたかもしれない。

ただ「弾く」ではなく、自分の音を聴きながら・・・ピアノの場合、ここが難しいわけだ。頭の中の理想の音と、実際の自分の出している音との差異を修正しながら理想サウンドに近づけていくということが、本来の練習なのでは?ただ「弾く」ではなく、狙いながら「弾く」みたいな?

「このパッセージ、弾けないわ~」と、ただワシワシと指を動かしていくことだけが練習ではない。軌道修正していくことも練習なのでは?ピアノはこの部分がおろそかになっても、なんとなく弾いていれば「練習したわ~」という気分になりがちなところがある。実際に歌心満載の人の演奏を聴いたりすると、「才能が違うんだわ~」などと精神的な逃げにまでになったりする。

ただ単純に自分の音を聴いていない、聴きながら修正し、「狙う」という練習をしていないだけでは?

実際にピアノの他にもう一つの楽器を嗜む時間などはない。ピアノだけでも練習する時間が足りないのだから。

では、ヴァイオリンなどの楽器の練習・・・というか「聴きながら」「狙いながら」みたいなエッセンスを自分のピアノの練習に取り入れてみたらいいのでは?これはいいかもしれない。

鍵盤を押す、ただそれだけではなく、押す直前に「自分の理想音」が存在しているか、聴きながら修正していけるか・・・

この方はアメリカ、カリフォルニア在住のアメリカ人。クリティカルに聴けば、まあ、いろいろとあるのかもしれないが、自分の音を聴きながら練習したんだろうなぁ・・・という演奏ではある。

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category: ピアノ雑感

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簡単で難しいピアノ 

 

考えてみれば、ピアノって芸術作品、この場合、演奏会でも演奏されるような、教材臭のする曲ではない・・・という意味だが、習い始めてから、そこに到達するまでに、かなりの年数が必要な気がする。例えばショパンのワルツとかメンデルスゾーンの無言歌とかでも。むろん、習い始めて2~3年で弾きこなしてしまう生徒もいるだろうが、平均的な進度だと、まだなのでは?ギロックのような曲なら可能かもしれないが。生徒によっては「アンパンマンマーチ」みたいなところで苦しんでいたりもするのでは?

ピアノを習っている生徒で、ピアノの本当の芸術作品まで到達できずに辞めてしまう生徒も結構いるのかもしれない。もしかしたら、そのような生徒の方が多いのかも?

ヴァイオリンなどでは、習い始めて割と間もない頃に芸術作品に触れることができるらしい。8~9歳でヴィヴァルディのコンチェルトを弾いても誰も驚かないらしい。それどころか「それぐらい普通じゃない?」みたいな?的確な指導のもと、もし音楽的にヴィヴァルディを弾きこなすのならば、これは素晴らしい体験なのではないだろうかと思う。なかなかピアノでこれは難しい。

ピアノってそのような意味では難しい。導入を抜けるのに時間がかかるというか・・・

でもピアノ教室は沢山ある。ヴァイオリン教室よりも確実に多いだろう。芸術作品を弾けるようになるまで、本当に大変なのに、なぜ誰もがピアノ・・・になるのだろう?

音作りに、まずは悩まない、苦しまないですむからでは?ヴァイオリンだったら、耐えられるような音、そのものを作ることが、趣味だろうが子どもだろうが要求される。ギコギコ音のヴァイオリンでは「音楽的に弾きましょう」とか「心を込めて演奏しましょう」という言葉が空しく感じる。まずは「音」という感じなのでは?声楽では「声」になると思うが・・・

「ピアノでも音作りは、やっています!指導しています!」という教師の声もあろうが、でもヴァイオリンや声楽と比較すれば、「音作り」という観点が抜けてしまっても、なんとなく進んでいってしまう難しさはピアノにあるだろうと思う。

導入段階では、ピアノってどこか「とっつきやすい」ところがあるのでは?だから多くの子どもがヴァイオリンではなく、クラリネットでもなく、ピアノを習う。鍵盤幅などはロシアの大男と同じなのに、もみじのような手でも頑張る。

最初に音作りで悩まないですむ反面、ある程度弾けるようになってから「私のピアノ・・・これでいいのか?」と悩むのでは?「音を並べているようにしか弾けない」みたいな?最初の洗礼を体験しなくても進むことができる反面、あとで苦しむ・・・?

自分がどのような音を出しているか?基本中の基本であるところがピアノだと難しいように思えるのはなぜだろう?

割と子どもでも弾いてしまうらしいヴィヴァルディのヴァイオリン・コンチェルト・・・

これを弾くって、素晴らしい体験だと僕は思う。

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category: ピアノ雑感

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なぜピアノには発声練習がないのだろう? 

 

ベルカント唱法で歌っている声楽家のイラストって、大抵は大きな口を開いている。そしてその声楽家は、大抵ちょっと太目というか、放漫な姿で描かれる。一般的なイメージなのだと思う。最近はモデル並みのプロポーションを誇る声楽家も出現しているので、描かれるイラストも変わっていくかもしれない。

大きな口を開け・・・の部分だが、これもイメージ先行の姿だと思う。卓越した歌手は、それほど大口を開けて歌うということはないような気がする。大きな口で大きな声・・・というよりは、声を響かせるというイメージに近いような気がする。声は空気に乗り響いていく、聴き手は直接の声ではなく、響き共鳴した声を聴いている・・・みたいな感じだろうか?

ピアノの場合、音も多いし、客席に向かって演奏するわけではないので、どうしても「弾かなくてはモード」に突入しがちだ。自分だけの世界で解決しようとしがちというか。ピアノも楽器、それも打楽器なわけだから、「その場の発音のみに必死になる」「正しく鍵盤を押す」ということではなく、響かせる、遠くに放り投げる・・・みたいな意識が必要なのではないか?優れた歌手のように。

考えてみれば、ピアノってロングトーンの練習ってあまり聞かない。いきなり曲を猛然と弾いてしまうとか、部分練習をしてしまうとか、基礎練習をしている人でも、せいぜいスケールをガシガシと弾いてしまうとか。本来はその前に声楽での発声練習や、管楽器においてのロングトーンのような練習は必要なのではないか?なぜピアノにはないのだろう?あるいは一般的ではないのだろう?

音を、響きを遠くに投げる・・・みたいな意識はピアノだからこそ必要であると思われるのだが?

サークルの練習会や発表会など、短い時間だが、いわゆる「指ならし」の時間が与えられることが多い。ピアノの場合、自分の楽器で演奏するわけではないから、鍵盤の感覚をつかむために、この時間はとても重要だと思われる。でも、大概の人は、その時間に難しいパッセージを弾いてしまう。その気持ちは分かる。中には練習をしてしまう人もいる。その気持ちも分かる。でも「この楽器は音の響きをどのように投げられるかしら?響きをどう出せるかしら?」ということに留意している人は、あまりいないように思う。

なぜそうなってしまうのだろう?日頃の練習でしていなければ、そのような場でもやらないだろうと思う。つまり、ピアノの演奏における「自分の発声法」というものを考えたことのない人が多いのだ。

鍵盤のみに執着しすぎていないだろうか?音は空気に乗せて響かせなきゃ・・・

優れた声楽家は響かせることが巧みだ。声を空気に乗せる。歌を聴くとこの感覚は把握しやすいものと思う。でもピアノもそうだけれど、CDは音として、響きとして「お化粧」されてしまっているので、是非会場で生で聴いてみて欲しい感じだ。口元や喉だけに神経を使っているのではなく、優れた歌手の声は空気に乗っている。

個人的には「響きを乗せる」という感覚は女性歌手の声から感じやすい。それもコロラトゥーラのような細く、高い声ではなく、ある程度の豊満な声の歌手からそのようなことを感じやすい。これは人によるのではないだろうか?男性歌手のほうが、より感じやすいという人もいるだろう。

アプリーレ・ミッロというアメリカのソプラノ歌手。この人からは「空気に乗せている」「響かせている」感覚を感じやすい。大口は開けてないよねぇ・・・

なぜピアノには発声練習がないんだろう?

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category: ピアノ雑感

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楽しく弾く?弾けるから楽しい? 

 

わずか6年・・・そうも言える。人生の中の6年は短い。でも、ある意味「感じる」には充分な年月であるとも言える。6年住んだ、それは就職し、アメリカ人と共に競ってという本当の生活ではない、どこか「お客様」という身分である留学生というものであっても、やはり6年という年月は長いとも言える。旅行では見えないことも、わずかだが感じることはできる。

孤独な留学生はお呼ばれが多い。感謝祭やらクリスマスには招待されたりする。伝統的な料理を食べ、外は雪景色。「本物のホワイトクリスマスだぁ・・・」ツリーの下にはプレゼントの山。ピアノ(大抵はボールドウィンのピアノ)があり、誰かがピアノを弾く。ピアノの周りに人が集まり、歌を歌ったり、ソロや連弾を楽しむ。時には他の楽器も加わったりしてアンサンブル・・・

「わぁ・・・これが西洋の文化なんだぁ・・・」

初めは僕もそう思った。でも長く住んでいると、なんとなく見えてくることもある。

「これって、文化というよりは、住宅の広さの違いなのでは?」と。たしかに、人が集うこと自体、日本では難しいこともあるだろう。3LDKの間取りのマンションで人が集い、アンサンブル・・・なんて基本的に難しいのでは?

アメリカ人は日本人と比較すると、手先は器用ではないように思う。それは長年住んでも変わらない印象ではある。でも僕はアメリカの医療を受けたことがあるのだが、ナースなどの手先は日本人のナースよりも器用であるように思う。どこか動きがプロフェッショナルというか?僕は親切な血管の持ち主なので、アメリカでも日本でもそのような経験は持たないのだが、やはり同じくアメリカで医療を受けた人によると、その方は非常に血管が細く、見えにくい(?)不親切な血管の持ち主だったようで、日本の病院では注射の際、必ずと言っていいほど、何回も刺されるのが常だったのだそうだ。でもアメリカの病院では必ず一発で入れてくれたのだそうだ。なんだかキャピキャピ(?)した感じの若いナースでも、もう一発で入れる。

ピアノも同じかな?「32分音符なんてとんでもございません」みたいな人もアメリカ人には多いのかもしれないが、弾ける人は、もうメチャメチャ弾ける。幅が極端に広いのかもしれない。日本だと「難曲を弾くことが生きがい」みたいな人もいたりするみたいだ。やたらアムランの特殊レパートリーを追従するような?アメリカにもそのような人はいるのかもしれないが、日本ほどではないような気がする。アメリカ~ン的な「弾ける」って?

「ああ、この人たちはアメリカの教育の、いい意味での産物だな」と思う。必死な感じがなく、自然で楽しそう。聴いている方も楽しい。そしてひっくり返るような超絶技巧。楽しい超絶?日本だと普通は結びつかないのでは?

楽しく弾く・・・美しい言葉だが、ピアノは弾けないと楽しくはない。ピアノは弾けるからこそ楽しいのかもしれない。この人たちの演奏を聴くと、そう思ったりする。

この演奏はアメリカ~ンな上手さだ。

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category: Anderson & Roe

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身代わりギロック 

 

才能のある子ども、才能のある人は、どこの国にもいて、その人たちはどこかバランスがいいのだ。その人個人の能力だったり、教師の指導だったり、その指導を咀嚼する能力だったり、教師の生徒との関係だったりのバランスがいい。このような人たちはどの国、どの地域の人であったも上手いのかもしれない。

いわゆる、困ったチャンでもなく、普通の子、普通の人というところの人たちに、その国ならではの特色が出るような気がする。

日本の子ども、アマチュアは真面目なのだということを感じる。自分のことは置いておくが。自己批判が強いのか、本心を言わないのか、そこは不明だけれど、「ああ・・・弾けなかったぁ」みたいな?演奏の感想はイコール反省文のような?

でも基本的な指さばきみたいなものは、アメリカの人よりも日本の人のほうが優れているように思う。指がしっかりしているというのだろうか?だからなにもそこまでチェルニー、ハノン・・・と猛練習しなくても・・・などとは少し思う。惜しいのは、表現力不足という名の表現の仕方が分からない・・・みたいに聴こえてしまう演奏が比較的多いだろうか?あとは「つっかかる」という人が多い。つっかかるということは、主に和音の変化に指と頭がついていかないので、つっかかってしまう・・・みたいな。でも指は動くという人が多いように僕には感じる。

アメリカの子ども、アマチュアの演奏、いわゆる「普通の人」の演奏の傾向だが、日本とは、かなり異なる。とても印象的ですらある。どうも、速いパッセージの苦手な人が多い感じ?恐怖の32分音符・・・のような?指がフニャッとしている感じの人が多い。でも不思議なことに「つっかかる」という人は日本よりも少ないような?パッセージを弾きこなすことに困難な場合、表現力不足になりそうなものだが、意外と音楽的だったりする。そこのところがまた、指のフニャフニャ感を強く感じたりするところもであったりして・・・

どうも「教育」というものがアメリカと日本で異なるのかもしれない。目指す方向性のようなもの?あとは日本人は手先が器用だとか、真面目だとか?

音楽院の学生の演奏もよく聴いたものだが、多くは留学生の演奏だった。個人的にはロシアと韓国からの留学生が圧倒的な力を誇っていたように思う。ここでも思ったのが、日本人留学生は真面目な演奏であるということ。アメリカの音楽院でありながら、あまり「アメリカ~ン」という人の演奏は聴いたことはないのだが、このレベルでもアメリカ教育を受けてきた学生の指は、どこか弱い・・・という印象を受けた。ただ、下手・・・と言いきってしまえない何かはあるような気がする。とまったり、つっかかったりなどということは、さすがにないにしても、指の闊達さ、強さからくる演奏の充実度のようなものは物足りないような気はした。でもリサイタルはできてしまうんだよね。そこが不思議。「大丈夫?」みたいな、どこか頼りないサウンドなんだけれど、ブラームスの3番のソナタを暗譜で破綻なく弾き切ってしまうような、どこかアンバランスなところも感じる。

日本の場合、平均的なピアノの辞め方(?)をした場合、小学生終了時か、せいぜい中学まで続けた・・・というケースが多いだろうと思うが、この人たちが将来大人になってピアノを再開しない場合、何かの時に「ねぇ、ピアノ習ってたんでしょ?何か弾いて!」と言われたら、どのくらいの人が何かしらの曲を弾けるだろう?

アメリカはピアノに限らず、何かしらの楽器を演奏できるという人が非常に多い。どこか拙さはあっても、「ねぇ、何か弾いて!」みたいなときに躊躇せず、楽しそうに弾いてしまうようなところがある。これは文化の違い、国民性、それとも教育の違い?でも弾けたらいいよな・・・と思う。人生の中にピアノが入り込んでいるような感じで、とてもいいと思う。

でも、指があまり動かない、定まらないということで悩んでいるアメリカ人の存在も知っている。「なんで東洋人の指はそんなに器用なんだ?自分の指を切り取ってしまいたくなるよ」と泣いたアメリカ人も実際に知っている。

別に、プロになるわけではない、そんなにバリバリ弾けるようになることよりも、楽しんでピアノを弾ければ、ピアノのある人生なんて素敵じゃない?

今、教材や導入段階の曲など、かつてのバイエル、ソナチネ・・・みたいな一辺倒のものではなく、いろいろなものが取り入れられている。いいことだと思う。選択できるということはいいことだ。アメリカから入ってきた教材は圧倒的に多いのではないだろうか?楽器店のピアノ楽譜の棚を見るとそう感じる。ギロックなんて昔はいなかった。(いたけれど、ここまで一般的ではなかった)

達者に弾くことよりも、まずは楽しんで弾くこと、子どもの心に寄り添うような曲を弾いていくこと・・・ギロックとかね。

大変によろしいことだと思う。でも日本でも指がフニャフニャな子ども、つまり将来の大人は増えていく可能性はゼロではないような気はする。現在でも、ギロックなら、なんとか様になるけれど、どうも古典派は・・・という生徒は少数ながら日本でも出現しているのではあるまいか?

人は何かを聴いて感動した場合、それを自分でも綴りたくなったら、感動したものにより近いものを再現したいと思うものではないだろうか?僕はそうだが・・・

この時、指が動かない、何かしらの基本的要素が落ちていたら、それは不幸なことなのではないか?ピアノって楽しんで弾くということではなく、本当は弾けるから楽しいのかも?

どちらがいい、悪いということではないのだと思う。やはりどこかピアノに対して固さがあり、弾いてと要望されても「何も弾けません」というのは、やはり勿体ない。でも喜んで躊躇なく弾くという楽しみがあったのだとしたら、「指が弱い」「基礎がない」ということは、それもやはり楽しいことではないような気がする。

「どうも古典派の曲はねぇ・・・指練習なんてしない子だし。でもギロックだったらなんとか楽しそうに弾いてくるし、練習も、まあしてくる。そうよ、プロになるわけでも音大に行くわけでもないんだし、雰囲気も出て本人も楽しいのだったら、ギロック・・・いいんじゃない?」

よくないよな・・・と僕は思う。ギロックは身代わりとしての使われ方は望んでいないような気がする。

美しい曲、子どもの心に寄り添う曲だからこそ、「いけないよな」と思う。

なんとなく、日本のピアノ教育は、これからアメリカ化していくような気がする。躊躇なく、大人になってからも楽しめて、いいことばかり?でも指のないピアノ弾きは、やはり不幸かもしれないよな・・・

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category: ピアノ雑感

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ニール・セダカに憧れて 

 

約6年間アメリカに滞在していた。自分自身はピアノは弾いていなかったけれど、音楽愛好家ではあったので、音楽は聴いていた。アメリカでしか購入できないような、ローカルな演奏家のCDなども集めたりしたし、プロの演奏会だけではなく、子どものピアノ発表会や、アマチュアの演奏会なども結構聴いたりした。

現在は日本でもピアノサークルに所属しているし、ピアノ再開時は全体傾向を知る目的で、日本のピアノ教室の発表会や子どものコンクールなども随分と聴いたものだ。上手く言葉で説明はできないのだが、アメリカと日本とでは、微妙に何かが違うのを感じた。国が異なることよりも、個人差というものを考えるべきかもしれないが、そのような個人差ということ以前に「ピアノ教育のありかた」みたいな根本的な違いのようなものも感じたりした。国民性の違いというものもあるのだろうか?それはあるのかもしれないが、それぞれが積み上げてきたもの、そして演奏、音楽そのものへの感じ方の違いみたいなものを、より強く感じた。「教育」だろうか?

大変大雑把、かつ乱暴な分類ではあるが、なんとなく思ったものだ。

日本ピアノ・・・指がしっかりしている。表現意欲が隠れている。(ただ音符を音にしてしまう)

アメリカピアノ・・・表現意欲がある。拙さもあるが、楽しそうに弾く。指がフニャフニャ・・・

日本のピアノ教室の発表会は、どこか「子ども中心」という感じがするが、アメリカのそれは、年代層の広さが日本よりはあるような気がした。男性比率も日本よりも多い。でも70歳ぐらいの男性がマイクを自らセッティングし、「弾き語りをします」と舞台で言った時にはアメリカでの光景としても珍しいな・・・と思った。

「1年前からピアノを始めました。それまではピアノなど自分の生活には関係のないものと思っていましたし、実際に関係のない人生を歩んでいました。実はピアノを習おうと思ったのは、妻が亡くなったからです。彼女はニール・セダカが好きでした。彼女が亡くなって穴が空いたような気持ちになり、自分もニール・セダカの曲をピアノを弾きながら歌いたいと思いました。できれば妻に聴かせたかったですが、でも今日は彼女も聴いてくれるでしょう。私の残りの人生を彼女は心配していましたから、今日ニール・セダカを歌うことで彼女に僕は大丈夫だから・・・ということを伝えられるのではないかと思います」

なんとなく感じる日米のピアノの違いのようなものを、これまた、なんとなく綴っていけたらいいと思う。

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category: Neil Sedaka

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真似してみれば・・・ 

 

耳で聴いて覚えてしまう=読譜を面倒がる=いつまでも弾けない

特に導入期のレッスンではそのようになっているような気がする。たしかに。導入期というか、子どもに模範演奏のように、どんどん弾いてあげてしまっては、やはりマズイのかもしれない。

でも「真似る」というのは、どこかで必要な能力のような気もする。ヨゼフ・ホフマンも「真似してごらんなさい」と書いていたし。

自分の演奏が、どこか機械的で、さらに人の演奏を聴いて、自分との演奏の違いを感じとれる感性があるのならば、「なんて素敵なの」とか「なんであのように弾けるの?」という演奏を真似してみるのはいいことのように思える。というか、まずは真似ることから入るようなところはないだろうか?

ここは音程が狭い、でもここは広い・・・そのような場合、知識として教えるのではなく、教わるのではなく、そこにどのような音楽的表現の意味が含まれているのか、実際に弾いてみて、それを聴いた生徒が「わあ・・・私と全然違う・・・」みたいなことを感じとらせるのは僕はいいことだと思う。

優れた歌手の歌唱を聴く、自分の演奏に応用してみるというのは効果があるように思う。実際に歌ってみるとか、3段譜の歌の楽譜を「なんちゃって」でもいいから弾いてみる・・・

声楽家の場合も、歌うので精一杯という人はいる。ピアノと同じだ。なので、できるだけ偉大な歌手の歌唱を選んで聴いたり、真似してみるといいのではないだろうか?

ピアノはポルタメントができない。打った瞬間の音で決まるところがある。でも歌は、音程をずらし気味に入ったりできる。さらに、フレーズ感覚を得ることができる。人間は呼吸をしなければならないので、人間の自然な感覚と優れた歌唱とは調和がある。ピアノって息もしないで必死に弾き続けることができてしまうけれど・・・

呼吸、ブレスが偉大な歌手の場合、直接「表現」というものになっている・・・

このようなことを真似してみたらどうだろう・・・

むろん、実際には歌うわけではなく、ピアノを弾くわけだが、「このような効果を自分もピアノで出したい!」と真似してみる、試行錯誤してみるというのも、ある意味練習であるような気がする。

先のロシアのロマンス、「あなたに会ったことがある」という曲、当然オリジナルは歌の曲だ。ここで歌っているのは、ボリショイ劇場で活躍したイワン・コズロフスキー。レメシェフと共にボリショイの看板テノールだった人だ。

真似してみたらどうだろう?

人前で弾く曲や、レッスンでの課題の曲を必死に音符から音にしていく前に、真似してみる。感情を絞り出してみたらどうだろう?

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category: ピアノ雑感

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一生懸命頑張ってリラックスする? 

 

練習が煮詰まると他の人はどうしているんだろう?上手くいかないのは、いいことをしていないから。少し離れてその部分から離れてみるのもいいかもしれない。「弾きこみが足りないんだわ!」とそのまま根性で練習してしまうのって、何かよくないことをしているから弾けないのに、さらによくないことを指にさせているような?よくないことを覚えさせてしまうような?

どこか矛盾を感じる。頑張ってリラックスしなきゃ・・・みたいな矛盾?練習できる時間などを考えると焦るんだけどね。

練習から離れてみる時には、思い切りディープな曲を聴いてみるのもいい。

ロシアのロマンスに「あなたに会ったことがある」という曲がある。ピアノを弾いているのは、アメリカでピアノ教師をしながら地道に演奏活動をしている人。ギロックとか・・・上手です。チェロの方ですが、奥様を亡くされたようですね。この演奏を亡き奥様に捧げている。

ロシアの哀しみ・・・そのもののような曲ではある。また歌詞も寒い国なのに(だから?)熱いものがある。



「あなたに会ったことがある」  詞:チェッチェフ


あなたに会ってから死に絶えていた僕の心は蘇ったのだ。輝かしい時を想い僕の心は熱くなる。
もう秋も終わるのに、時が移ろうような日々・・・
春が再び漂うように何かが僕たちの中でうごめく。

何年も昔に忘れたと思っていた。
あなたの姿を見ると、狂おしいばかりの喜びが溢れ出てくる。

あなたの事を見つめると、僕たちは何百年も離れていたみたいに感じる。
夢を見ているように突然僕の中に湧きあがってくる声を抑えることができない。

一度だけではない想い出。
もう一度始まる人生。

あなたの魅力に弾きこまれていく・・・
僕の魂と愛も惹きこまれていく・・・


聴いて自分の心が動いたのならば、それも練習かもしれないよ。

kaz




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category: 拍手のない名演

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鉄のカーテン 3 

 

ヴォロドスがCDで弾いていたもう1曲のフェインベルク編曲作品がチャイコフスキーの「悲愴」をピアノ用にしたもの。魂のバッハ・・・というイメージからは一変し、こちらはヴィルトゥオジティ満載というか、その限界にまで達したような曲。こんな曲、誰が演奏可能なんだろう?ヴォロドスだから弾けたのだろうが・・・

この演奏至難曲、極限にまで演奏不可能に近い曲を、若きベルマンが録音している。やはりヴォロドスの演奏よりもいい。ヴォロドスもいいピアニストなんだけどねぇ・・・

フェインベルクとベルマンは同じゴリデンヴェイゼル門下となる。でも年齢は親子ほど離れている。フェインベルクは1890年生まれ、ベルマンは1930年生まれ。同じ門下というよりは、音楽家としての尊敬がこの演奏を生みだしたようにも思える。

鉄のカーテン、そのカーテンの神秘性というものを最も西側の聴衆に感じさせたのがベルマンだったのではないだろうか?

この演奏、ベルマンが20歳の時の録音。大学2年生なんだねぇ・・・

kaz




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category: Lazar Berman

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鉄のカーテン 2 

 

アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼル門下のピアニストには有名人がたくさんいる。名教師だったのだろう。ゴリデンヴェイゼル門下で日本でも有名なのは、ニコラーエワ、作曲家として有名なカプースチン、そしてベルマンあたりではないだろうかと思う。

サムイル・フェインベルクというピアニストを知っていますか?この人もゴリデンヴェイゼル門下で、特にバッハの演奏に定評がある。昔から彼の平均律のレコードは名盤とされていたように思うので、バッハ好きの人には知られていた人なのかもしれない。19世紀生まれのピアニストだから、かなり古いピアニストではある。

アルカディ・ヴォロドスはデビュー盤において、自身のトランスクリプションを演奏していた。ヴォロドス編「トルコ行進曲」はこのCDにより、すっかり有名になった。自身の編曲ものの他に、ホロヴィッツのものなども演奏していたが、フェインベルク編曲作品も2曲演奏している。ホロヴィッツのものなどは、分かる気もするが、なぜにフェインベルク編曲作品?それも2曲も。ヴォロドスは相当フェインベルクを敬愛、尊敬していたのではないだろうか?

ヴォロドスの演奏も素晴らしい。でもフェインベルクの演奏は、偉大だ。この差はすごく大きい。

ヴォロドスが演奏していたのは、フェインベルクのトランスクリプションの中では有名な曲であるトリオ・ソナタ第5番 「ラルゴ」というバッハのオルガン曲のトランスクリプション。

これは「偉大」な演奏であるフェインベルク自身の演奏。このような演奏には、もはや言葉はない。

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category: ピアニスト

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「ユモレスク」は「イスラメイ」よりも難しいのか? 

 

ショパンの「ノクターンOp.9-2」とかドヴォルザークの「ユモレスク」のような曲を練習会などで弾くのは、アマチュアにとってはなかなかに厳しいものとされている。「シンプルな曲ほど演奏者の力量が露出されてしまう」みたいな考えがある。反対にリストの「ラ・カンパネラ」とかバラキレフの「イスラメイ」のような曲は、音符をサウンドにするのが難しいし、弾きこなすことが難しいとされている。

実際に自分でも、特に人前で弾く機会などがあると、そのような考えを、なんとなくスッと納得してしまうところがある。「シンプルな曲はボロが出る」みたいな?では、いわゆる超絶難曲はボロが出ないのだろうか?聴き手を音符の量で幻惑させることができる?弾いただけで「凄~い!!!」となる?

ここには聴き手感覚と弾き手感覚の違いのようなものが潜んでいるような気がする。弾き手感覚だけで曲を弾いてしまうと、難曲をこなすということは、どこか肉体的な満足感を得てしまう。「弾きこなしたんだぁ・・・」みたいな?シンプルな曲では、そのような満足感はあまりなかったりする。だから難しい?

聴き手感覚の立場、鑑賞者として思うことは、非常に単純。難曲が上手な人はシンプルな曲も上手だということ。「イスラメイ」は素晴らしいのに「ユモレスク」は稚拙・・・という人はいないというか。音は完璧に並んでいても、それだけで上手だと思わない感覚は誰にでもあるものなのでは?「ユモレスク」を弾くとどこか稚拙な人は、やはり「イスラメイ」を弾いても稚拙であるような気がする。曲の表面的な難易度とか出来栄えによって、演奏に対しての印象がコロコロ変わることはない。シンプルな曲であれ、難曲であれ、分類されるのは「いい演奏」か「音を並べただけ」のような演奏になるのでは?聴き手とすればそうだ。

では弾き手感覚として、なぜシンプルな曲は難しいと感じるのだろう?ボロが出やすいと感じるのだろう?練習会で「ユモレスク」を弾くことに、なぜ多少の勇気が必要なのだろう?難曲のように「目くらまし効果」を期待できないから?

シンプルな曲ほど弾き手感覚、弾きこなしたぞ満足感というものを得にくい。そして自分の音がいやでも聴こえてきてしまう。つまり聴き手感覚が微妙に入ってきてしまうのでは?弾き手感覚での満足感だけに浸れない。

「ユモレスク」の左手(伴奏)だけを弾いてみる。「えっ、私ってこんなだった???」みたいなことになる可能性はある。ツラツラと「スカルボ」を弾ける人でもそのような可能性はある。

自分の音がシンプルな曲ほど聴こえてきてしまうので、弾き手感覚とすれば、そのような曲ほど難しく感じる。聴き手感覚が無意識に入ってきてしまうから。でもだからといって、表現という意味において、難曲、音の多い曲ほど簡単ということもないのでは?そのような曲は自分の音を聴くということが難しいので、シンプルな曲ほど弾き手として「意識しなくてすむ」というだけなのでは?

「ユモレスク」のほうが「イスラメイ」よりも難しいのか?

「イスラメイ」のほうが「ユモレスク」よりも難しいのか?

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category: ピアノ雑感

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指を動かす前に泣いてみよう! 

 

ヨゼフ・ホフマン著の「PIANO PLAYING」、読者の質問にホフマンが答える形に後半はなっているのだが、この部分は1901年から執筆されているのだそうだ。時代はまさにロマンティックの時代真っ只中だった。でも現代の多くの人の悩みと共通した質問もある。

Q:私は音楽がとても好きです。でも上手く弾けません。人前で弾くと特にそうです。一応皆は褒めてくれるのですが、でも私には皆は本当は私の演奏を気に入っていないということを感じます。母などは私の弾き方は「機械みたい」などと言います。私もそう思うのですが、どうしたら、こういう弾き方を変えられるのでしょうか?

A:あなたの友人やお母さんが、あなたの弾く音楽を理解できないということはありえます。もし、そうでないとしたら、あなたの悩みは簡単には解消されません。表現が欠けているのは、あなた自身に感情が欠けているのが原因だとしたら、あなたの悩みは直せません。そうではなく、もし感情の表現の方法が分からないということで、私はそうだと思っていますが、機械的になってしまうのであれば、あなたは直ります。すぐれた音楽家や音楽愛好家と交際することをお勧めします。よく観察し聴くことによって、彼らの表現方法を学ぶことができます。最初は表現をまねしてごらんなさい。やがて、あなた自身で「何かを言う」習慣がついてくるでしょう。外面的な変化がある前に、あなたには内面的な変化が必要だと私は思います。

上手くなる・・・これってどういうことだろう?難曲を流麗に弾くこと?それもあるだろうが、「あっ、素敵!」と聴いて感じた感情を表現できること、むしろ「上手い」とはこちらのことなのではないだろうか?趣味で弾いているのだから自分が楽しめればいい、そうかもしれないが、楽しみに「感じたことを表現できること」は、全く含まれないのだろうか?自分が感じた感情を、外に表現するスキル・・・これがあるからこそ楽しいのでは?その意味で、自分が楽しいという項目に「上手くなりたい」ということが全く入らないでピアノを弾くなんてできるのだろうか?

「エスニック料理講座でもフラワーアレンジメントでも何でも良かったんだけど、なんとなくピアノにしてみたの~」という動機でピアノを弾いている人って少ないのでは?何かしらの強い動機があったはずだ。それは音楽を聴いて感じた感情というもの、そのものなのでは?その感情を自分自身で感じたい、できれば他人と共有したい・・・だから時間を見つけて疲れていても練習する。

沢山の音符を再現することだけにエクスタシーを感じ、どんな音楽、どんな演奏を聴いても「別に・・・」としか感じないのだとしたら、ホフマンの言うように、それは感情が欠けているのだから、直せないものなのだろう。でも普通は違うよね?感情の表現の仕方が分からない・・・

泣ける演奏をいくつ持っているだろう?さすがに演奏会場で大泣きはできないけれど、自宅で一人聴き、涙することのできる音楽、演奏はいくつあるだろう?この感情がまず大切。ピアノの日々の練習計画の中に、「聴く→涙→そして再現」という項目を入れてみたらどうだろう?練習会やレッスンで弾く曲だけではなく、シンプルな曲で練習としての「鑑賞」を取り入れてみる・・・

「まねしてごらんさない・・・」

最初はまねでいいのだ。鑑賞者としての感情を、素直に鍵盤で再現してみる。まねてみる・・・

ドヴォルザークの「ユモレスク」・・・編曲、演奏はフリッツ・クライスラー。これってオリジナルはピアノ曲なんだよね。調号は沢山あるけれど、そんなに難しい、世間でいう「上級者用」の曲ではないように思う。

どうしても自分の演奏が「ラッタタッタ・・・うさぎのダンス~」みたいになってしまうのだったら・・・

「クライスラーのまねしてごらんなさい・・・」

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category: ピアノ雑感

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頑張れ日本人ピアニスト 

 

基本的には日本人ピアニストの演奏は苦手というか・・・

でも「いいな、この人の演奏だったら聴きたいな」と思う人はいる。日本のクラシックファンだったら大概の人が知っていて、CDも流通していて音楽雑誌にも登場して・・・という感じの日本人ピアニストにはあまり(全く?)興味がないだけだ。むろん、下手なんて思わない。凄く上手だと思う。流麗な感じなのはいいのだが、タッチのスピードが一定で、音色の変化に乏しい(皆無?)ように感じる。サウンドとしては流麗、かつゴージャスなだけに、なんだかチャラチャラとした音楽に聴こえてくる。あと、むろん人にもよるのだろうが、上肢をやたら動かし、恍惚表情、苦痛表情で演奏するなど、そのあたりの視覚的なところも苦手。

聴いてみたいな、もっと頻繁に演奏して頂きたいな・・・と僕が思う日本人ピアニスト、今数えてみたら、自分の先生も含め、15人いた。なので、僕は日本人の演奏が嫌いなわけではないと思う。メジャーではないけれど、地道に頑張っているピアニスト、中には日本を飛び出してしまえばいいのに・・・なんて思ってしまう人もいる。あちら(どちら?)だったら絶対に受ける(?)のに・・・なんて思ったりもするが、実際には難しいよね、多分。

今月も秘かに応援しているピアニストのリサイタルがあり、その人は地元で演奏することが多く、東京で聴けるチャンスだったのだが、どうしてもその日は都合がつかない。非常に残念だ。地道な活動、つまり頻繁に大きなホールで演奏しているわけではないので、聴けるチャンスも少なくなる。「チャラチャラしたピアニストは沢山演奏しているのにぃ・・・」などとも思う。

日本と欧米のリサイタルの違い、それは「主催者公演」か「自主公演」かの違い。主催者がいる場合はチケットが売れても売れなくてもギャラは出る。自主公演は自分でホールを借り切って自分で主催する。むろん、すべてを一人で行うわけではないが、この場合はチケットは自分で売る。プレイガイドでチケットがどんどん売れるなんて人はそうはいないから、手売りをすることになる。日本のリサイタルは、この自主公演がほとんどだとされている。表向きは違いは分からない。立派なホールで華やかな衣装で演奏するのは変わらないから。出版界では自主出版はそうではない場合と、明確な差があるらしいが、音楽界はそうでもないらしい。

だから日本はいかんのだ・・・自主公演ばかりで、周囲の人という範囲から聴衆という輪が広がっていかない・・・と言われる。相当名前の売れている人でも手売りはしているのが現状らしいから、日本の音楽界から自主公演がなくなってしまったら、日本からリサイタルなんてなくなる?

でも欧米のシステムがいいとも僕には思えない。主催者が「この人だったら商売になる」という人がピアニストなわけで、明らかに大器晩成型のピアニストは不利なのではないかと思う。勢いに乗って旬なうちに「売れる」みたいなことでしょ?才能があり、地道に頑張り、さらに年齢を重ねるうちにファンもついてきて・・・という活動はしにくいのではないかと思う。たしかに自主公演そのものは、誰にでもできることだから、ある意味「甘い」という世界なのかもしれないが、日本の自主公演のシステムは聴衆が演奏家を育てていく、応援していく・・・という意味ではいいのではないか?

僕が大昔に在籍していた大学院の食堂に雑用係として勤務していた30~40歳くらいの男性がいた。この人は東海岸のコンクールでいくつか優勝し、ジュリアード音楽院とピーボディ音楽院を卒業していた。ピアノも数人ぐらいは教えていたらしいが、あとはフルタイムで雑用係をしていた。自主公演がないから、どこかからお呼びがなければ、その人はピアニストではないのだ。「お金がないからね。働かなくちゃ・・・」彼はそう言っていた。もし、自主公演も演奏家のキャリアとして認められていたら・・・

さすが欧米は本場、厳しい・・・というよりは、その人のチャンスさえ断たれてしまう残酷ささえ感じてしまう。地道に頑張れば、徐々にファンだっでてきたかもしれない、何よりも、若い頃の演奏力、そしてチャンス、運だけですべてが決定されてしまうのって、おかしいとさえ思う。ピアニストだって成長するものだから・・・

この人いいな・・・と思ったら、リサイタルに行って聴いてみる。それが一番の応援だと思うから。いいとされている、売れている人だけを盲目的に追うのではなく、聴衆も演奏家を育てることができると考えてみる・・・「いいな、素敵だな」と感じさせてくれたお礼でもある。

この草野さんというピアニストはホームページを見ても、次のリサイタルの予定は不明のようだ。過去にも貼りつけた動画だが、再度紹介する。僕が応援している15人の日本人ピアニストの中の一人だ。

作品とぺナリオに対する演奏者の愛情を感じる。素直に「素敵だな、また聴きたいな、応援したいな」と思う。

日本人ピアニスト頑張れ!

kaz




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category: ピアニスト

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鉄のカーテン 1 

 

先程のフィガロ、伯爵夫人のアリア、僕は「Dove sono」だと思い込んで書いたのだけれど、2幕冒頭は「Porgi amor」だったのでは?何か気になる。でもハ長調での悲哀は「Dove sono」というアリアなので、まぁ、いいことにしよう。でも、モーツァルトのソナタなんか弾く場合は、オペラは聴いた方がいいんじゃないかなぁ・・・とは思う。

ここのところ、旧ソビエトのピアニストを集中的に聴いている。あとは来月の練習会関係でヨゼフ・ホフマンとチェルカスキーの演奏。CDを聴く時間があるのだったら、その時間は練習するべきなのだろうか?そうなのかもしれないが・・・

集中的に聴く場合は、○○門下生とか、世間では○○派と言われているとか、何かキーワードみたいなもので分類すると混乱なく聴けるような気がする。つまり分類って便利なんだな・・・と。たとえばイグムノフ門下のピアニストとゴリデンヴェイゼル門下のピアニストを分けて聴くみたいな。どちらの門下のピアニストであっても感じるのが、「鉄のカーテン」というものの存在。昔はソビエトのピアニストなんてギレリス、リヒテルぐらいしか知られていなかった。時代が現代に近づくとアシュケナージのようなピアニストの来日はあったりしたが、やはりベールに包まれた鉄のカーテンの向こう側・・・みたいな感じではあったと思う。ソビエト崩壊後なのではないかな、ロシアのピアニストの演奏が身近になったのは・・・

ベルマンが日本で騒がれたのは、やはり鉄のカーテンの神秘性というものがあったからではないだろうか?「カーテンの向こう側にはベルマンという凄いヤツがいるらしい・・・」みたいな。僕が生で聴けた旧ソビエト、そしてイグムノフ、ゴリデンヴェイゼル門下のピアニストはベルマンとダヴィドヴィチだけだ。ソ連時代は国内のみの活動しか許されず、そのまま現在でも神秘性に包まれた感のあるピアニストにマリヤ・グリンベルクがいる。名前だけは聞いたことがある・・・という感じだろうか?この人はブルーメンフェルトに師事している。そうするとホロヴィッツの妹弟子ということになる。ブルーメンフェルト死後、イグムノフに師事している。

たしか、マリヤ・グリンベルクの家族は共産党に処刑されたのではなかったか?なので彼女自身も活動を限定されてしまった面もあるし、国内での評価も低めだったのではないだろうか?モスクワ音楽院で教えることもなかったし、チャイコフスキー・コンクールの審査員になったこともない。つまり、中央に出てくることは許されなかったピアニストなのだ。神秘性はますます強くなる。

力強さと哀しさ、優美さを兼ね備えた演奏とでも言うのだろうか・・・

kaz




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category: ピアニスト

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サラダボウル 

 

コンスタンチン・イグムノフ門下にナウム・シュタルクマンという人がいる。個人的には、このピアニストのシューベルト~リストの諸作品の演奏がとても好きだ。とても歌曲というか、声楽が好きな人なのではないかと思う。他にも素晴らしい演奏もあるのだが、個人的にはシューベルト歌曲~リストがやはりいいかなぁ?

シュタルクマンの弾く「バター付きパン」の演奏。先の日本人ピアニストの演奏とは全く異なる雰囲気の演奏。なんとなく、フィガロの結婚、伯爵夫人のアリアを連想させる演奏だ。2幕の冒頭で歌われるアリアで、「楽しい想い出はどこへ」というアリアだ。やはりシュヴァルツコップの歌唱が最高なのかなと思ったり、個人的にはキリ・テ・カナワの歌唱も好きかなぁ・・・などと思う。共通しているのが調性で、ハ長調の曲。このアリアは、不貞ばかりを続ける旦那(伯爵ですね)を持ち、昔は愛があったのに・・・と嘆き悲しむアリアなのだ。アッケラカ~ンと歌ってはいけないアリアでもある。でも短調の曲ではないんだよね?ハ長調・・・

シュタルクマンの演奏の方に、より「僕のこと好き?本当に?寂しいんだ・・・」というモーツァルトを感じる。キャピキャピしていないというか。

「豊満、豊潤な和音の響きの中で、クリスタルクリアな音が浮かび上がる。そのクリスタルの音は底まで打ったというバリバリという感じではなく、狙ったというコロコロという軽さを伴う」個人的に理想とするサウンドを言葉で表現するとこのようになる。偶然にもピアニストの中村紘子氏も理想サウンドについて似たような表現している。言葉を変えると、旋律と和声が、どこか似ていて混沌、曖昧な演奏は好きではないということだ。多くの日本人ピアニストの演奏が苦手なのは、この部分からきているのだと思うし、「コロコロ」要素を感じるのは、現代のピアニストよりも往年のピアニストから感じるから往年系の演奏に惹かれるのだろうと思う。なんだか、現代のピアニストは、どこかバリバリ・・・と感じてしまう。高速だけど重いのねぇ・・・

本来は「サラダボウル」であればいいのだと思う。レタスはトマトではないし、それぞれの味がある。多種類の味が主張しているのが望ましい。いくら好みの味だからといって、カボチャだけがド~ンとボウルの中に存在していたらツマラナイ。レタスは間違いでトマトが正しいということもない。社会もそうなればいいと思うし、演奏に対しての評価もそうなればいいと思うが難しいかな・・・

トマトが絶対・・・ということはないのだから、自分の好みを無視してまでトマトを追うこともない。私はレタスだと思ったら、レタスを追えばいい。

僕はシュタルクマンの「バター付きパン」が好き・・・だからシュタルクマンという、日本では、あまり知られていない個性を紹介したいと思うのだ。

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category: ピアノ雑感

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「僕のこと好き?本当に?」 

 

ピアノを練習していく過程において、技術的な課題を克服していくのと、音楽的に何かしらのものを表出するのと、どちらが困難なのだろう?技術と表現はリンクしていて、そこは切り離せないものと言われれば、そうなのだろうが、でも技術的なものは、それが表面的に「弾けるようになりました」のようなことであれば、簡単・・・とは言わないが、実現可能領域のようなところはある。モーツァルトの「バター付きパン」であれば、音符再現はそれほど難しくはないだろうと思う。

「なんだかアッケラカ~ンとしてしまう?」みたいな演奏になってしまったら?もし「だってプロが弾いているんだし・・・」と判断し、そのまま進むなり、そのアッケラカ~ンサウンドに美的なものを感じる感性・・・というのも、もちろんありだろうから、その場合はそれでいいのだと思うが、もし箱庭ピアノから平原に飛び出し、自分の感性だけしか頼れず、その心からの欲求がアッケラカ~ン的なものではないとしたら?そして進むべき方向、ハウの部分が見つけられなかったら?「自分はこうは思わないし、実際の自分の演奏から足りないものも感じるんだけど、どうしていいのかが分からない・・・」という場合。

何もない平原で、自分の感性だけしかないように思えるが、探せばヒントはある。楽譜というヒント。速度の指定はあるのかしら?ウナ・コルダとかあるけど、当時のピアノってどうだったのかしら?そもそもモーツァルト自身が書き込んだ記号なのかしら?

ここで知識を追ってもいいだろうと思う。当時のピアノって?・・・とか。モーツァルトって?・・・とか。知識は道しるべとなる。モーツァルトって人間的というか、なんとも凄かったのね・・・みたいな情報を得るのは助けにはなる。たとえば、モーツァルトはスカトロ趣味だったとか・・・

知識と自分の感性をミックスさせるというのかな?言葉での説明は非常に難しい。僕の場合、先ほどの日本人プロの演奏から感じられず、欲しいなと思ったのが、モーツァルトの寂しさ・・・と言うのだろうか?長調の悲哀というのだろうか?それが足りないなと感じた。だから「アッケラカ~ン」という演奏に感じたのだろう。つまり、僕の感性はそこを否定しているのだ。

長調モーツァルトの悲哀?むろん、すべての曲からではないが、モーツァルトの長調の曲(非常に多い)からは寂しさとか、甘えたがり少年みたいなものを感じる。「僕・・・寂しんだよぉ・・・」という小さな叫びみたいな?「一緒にいてちょうだいよぉ・・・」みたいな?

何かと自分の感性をミックスさせる、これって鑑賞によって得た感動というものとも関係しているのではないだろうか?ややもすると、楽譜を開き「さあ・・・弾けるようにしなければ!!!」と頑張りがちだけれど、鑑賞体験から得た感動とのミックスという部分も必要なのではないだろうか?この部分が「私って何でピアノを弾いているの?」とか「なんでこの曲を選んだの?」「いったい私はこの曲で何をしたいの?」みたいな部分とリンクしていくのではないか?

そもそも「バター付きパン」という曲がモーツァルト自身の曲なのだか疑わしいような気もするが、どこか悲哀を感じる。どうして「寂しいんだよぉ・・・」という声を感じてしまうのか?それはモーツァルトの曲を聴いた時にも感じた僕の感性と一致するからだと思う。

自分自身の鑑賞体験から、今、「寂しいんだよぉ・・・」的モーツァルトとして浮かんだ曲がホルン協奏曲。むろん、「長調」=「明るい」とカテゴライズするならば、この曲は明るい曲なのだろうが、でも僕の感性は「寂しい」と感じるのだ。だから自分が感じた「寂しい感性」と「バター付きパン」とをミックスさせたくなるのだ。

ちなみに、モーツァルトのホルン協奏曲はデニス・ブレインの演奏でなければならない。彼の演奏から最もモーツァルトの「一緒にいてくれる?僕のこと嫌いじゃない?」という要素を感じるから。

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category: ピアノ雑感

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箱庭ピアノ 

 

「私の演奏って、なんだかなぁ・・・」「なんだか思ったように弾けないな」「一生懸命表情をつけて弾いているつもりなのに、録音してみると、もろにただ弾いています、音符を並べています的な演奏になっている」

この場合、技巧的な問題が整理されていない可能性がある。どこか奏法として非効率だったり、手が力んでいたり、あるいは、弾いている曲が難しすぎる・・・とか。

では、自分が常に弾いているような曲よりも、ずっとシンプルな曲を弾いてみるとどうなるだろう?技術的難渋さだけが問題なのだとしたら、シンプルな曲を弾くことで、ファンタジーは、あなたの内側からほとばしり、聴いている人が思わず息を飲んでしまうようなサウンドが繰り広げられ・・・

・・・となるはずだが???

そうはならないことが多いのでは?それどころがシンプルな曲ほど、音符が少ないだけに、どこか稚拙さが目立ってしまったりもして。これこそが多くの人が悩んでいるところでもあるのでは?この場合、ひたすら練習時間を増やして、根性弾きをすることで解決するとも思えない。だからこそ悩む。

「私って歌心がないんだわ。才能がないのね?」

音楽を感じる心や感性があるからこそピアノなんて面倒なものを弾いているのでは?

歌心のない人、表現力のない人なんていない・・・と思ったら?どこか既成概念に捉われているだけでは?指をたくさん動かせば弾けるようになるとか、練習をひたすら頑張れば、やがて音楽的に弾けるようになるとか・・・

弾ける先生に習っている人は幸せだ。弾けると同時に先生自身が音楽に焦がれているというのかな?別に曲全部を模範演奏なんてしてくれなくていいのだ。一部でいい。でもその一瞬が生徒には考えもつかなかった、想像もできなかった異次元のサウンドだったら、生徒は「どうしてそんな風に弾けるんですかぁぁぁ???」となるだろう。生徒に追うべきサウンドが生まれた瞬間でもある。そのサウンドをどのようにして生み出すかの具体的方法を示すことのできる先生に習っている生徒は、さらに幸せだ。「ワーッ!!!全然違う!私にも弾けましたね?嬉しい!」となるレッスンを受けている人は幸せだ。

でもそのような人は、「なんでただ弾いているだけになっちゃうんだろう?」と悩むことも少ないのかもしれない。先生だけの責任だろうか?生徒がやるべきこともあるのではないか?先生が細かに指示して、その通りに弾けるように練習していくことがピアノを習うということなのだろうか?ピアノを弾くということなのだろうか?

そのような意味で、シンプルな曲を弾いてみる、例えばバイエル中ほどのレベルでも弾くことのできる曲を演奏してみるのはいいことなのではないかと思う。「このような曲だったらバッチリなんだけどなぁ・・・」と感じられるのだったいい。でも「あれ?う~ん・・・」となってしまうのだったら?

箱庭イメージを消してしまったらどうだろう?狭い部屋があり、そこには細かな沢山の決まりごとや掟があって、それを注意深く壊さないように演奏していくというイメージを消してしまう。何もない平原のイメージ。何もない。つかまるところも標識もない。頼れるのは自分だけ、自分の内面だけ・・・というイメージ。心細いだろうが、でも自由だ。

決まり事を狭い空間でこなすのではなく、広いどこまでもある無限の空間で羽ばたくイメージ。そこで頼れるのは自分、というか、「ピアノっていいな」とか「ピアノが弾けたら素敵だな」とか「なんて素敵な演奏だろう」と純粋に感じた、あなただけが感じた感性のみ。

ある動画を貼りつけた。モーツァルトの「バター付きパン」という曲。バイエル程度でも弾けるのでは?全音ピアノピースでは難易度A(初級)となっている。僕は、ある意味この演奏を凡庸な例として貼りつけた、人様の演奏をそのような例として貼りつけることに悩んだ。基本的にはしてはいけないことと思っている。プロの演奏なので、この人のファンも存在していると考えるのが妥当だろうし。でも経済活動としての演奏会もやっていて、DVDなども販売しているのだから、プロだからこそいいのでは・・・と判断した。アマチュアにしてはいけないことだと思うが。

演奏は悪くはないと思う。個人的には右手と左手の音色が似ていて、そこが惜しいと感じるが、別にこの人だけではなく、この傾向は邦人ピアニストが抱える共通の問題でもあるとも思う。きちんと弾けているし、ミスタッチも皆無だし、流麗に弾いていると思う。

もし、「あら、なんて素敵なモーツァルト!こんな風に弾けたらなぁ・・・」と心の底から感じるのだったら、それはそれでいいと思う。でもそうは思わなかったら?もし「プロがこのように弾いているから」ということだけで、この演奏をどこかで模範としてしまったら?

あなたはいつ自分のファンタジーを羽ばたかせるの?あなたは何がしたいの?そこの部分で怠慢ではないだろうか?

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category: ピアノ雑感

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伝統の系譜 3 

 

もう一人の元締めがアレクサンドル・ゴリデンヴェイゼル。日本語で表記したり発音したりすると余計にそう感じるのかもしれないが、名前からして厳かというか。ゴリデンヴェイゼル・・・ねぇ。肖像画や写真などでも、かなり厳格で厳しい様子を捉えていて、イグムノフ同様にレッスンも厳しかったのではないかと想像してしまう。顔で判断してはいけないと思うが・・・

意外と実際のレッスンでは和気あいあいというか、楽しく興味を持たせる・・・みたいなレッスンだったのかもしれないが。

いや、やはり厳しい先生だったのでは?

そう思わせてしまう動画がある。ネイガウスとゴリデンヴェイゼルのレッスン風景。

ああ・・・そんなに厳しい顔つきをしなくても・・・・

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category: ピアチェーレ

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伝統の系譜 2 

 

パウル・パブストとアレクサンドル・ジロティの教えを受けた一人目の元締め(?)がコンスタンチン・イグムノフ。この人は、どの写真も「厳格な教師」という雰囲気を醸し出していて、とても厳しい人だったように思えてしまう。実際はどうだったのだろう?

師であるパブストが編曲したチャイコフスキーの「ララバイ」を弾いている。

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category: ピアチェーレ

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伝統の系譜 1 

 

11月、ピアチェーレでの後半の3曲・・・

ロヅィツキ~ギンズブルグ:オペレッタ「カサロヴァ」より  ワルツ
ラフマニノフ~ジロティ:ロマンス Op.8-2
チャイコフスキー~パブスト~ハフ:眠りの森の美女によるパラフレーズ

なんとなく「ロシア?」みたいな選曲なのだと思うが、そちら方面(ロシア奏法とか○○流派とか)に詳しい人なら、「あっ、これはロシア派という意図的な選曲だな」と思うかもしれない。でも完全にこの選曲は偶然だ。結果的にそうなっただけで。

ギンズブルグ、ジロティ、チャイコフスキー、ラフマニノフ、そしてパブスト・・・ここに師弟とか何やらの関係がある。伝統の系譜のようなものを感じるというのかな?ロシア・・・なんだけれど、ここにフランツ・リストという人物が絡んでくる。

このピアニストは、この人の弟子だったのか・・・みたいな驚きが新鮮だったりするのだ。むろん、○○先生の生徒は聴いただけですぐに分かる・・・のような単純な伝承ではなく、それぞれのピアニストは独自の素晴らしいものを発揮していて、でもそこに伝統というか、師から授かったような何かがあるみたいな不思議な感覚。

系譜の始まりは、やはり、リスト。リストの教えを受け、アントン、そしてニコライ・ルビンシュタインとの関係もあり、モスクワ入りしたのがパウル・パブスト。この人は43歳で亡くなってしまっているので、あまり知られていない人かもしれない。誰よりもパブストの才能を愛したのはチャイコフスキーだったようだ。チャイコフスキーは自作のピアノ編曲をパブストに一任した。「眠りの森」もそのような曲だったんだね。

リストの弟子、もう一人がアレクサンドル・ジロティ。この人はラフマニノフの従兄でもある。2番の協奏曲の初演、ピアノ独奏はラフマニノフ、そして指揮者が兄であるジロティだったのだ。有名な前奏曲「鐘」を、まず西側で演奏し紹介したのもジロティだったという。

パブスト、そしてジロティ、両名とも素晴らしいピアニスト、教師を育てている。たとえば、ゴリデンヴェイゼルとイグムノフは二人ともパブスト、ジロティの教えを受けているのだ。ゴリデンヴェイゼルもイグムノフも錚々たる弟子たちを育てているのだ。

ゴリデンヴェイゼル・・・フェインブルグ、ニコラーエワ、ベルマン、カプースチン、そしてギンズブルグ
イグムノフ・・・フリエール、シュタルクマン、ダヴィドヴィチ、グリンベルク

○○流派の特徴は・・・とか、○派はこう弾く・・・みたいなカテゴライズは好きではない。そんなに単純なものでもないと思うし。でも確実に通じているようなものは存在しているような?同じ弾き方とか似た表現とか、そんなことではないんだけど。

ワーッと自分なりに系譜をまとめてみようと思う。素晴らしい系譜なので。演奏紹介は、あまり知られていないかな・・・という人を中心にしていきたい。ニコラーエワとかベルマン、カプースチンは有名なので、紹介しなくてもいいかなと思う。

まずはリストの愛弟子、そして系譜の大元締め(?)であるアレクサンドル・ジロティの演奏。ジロティのトランスクリプションは最近徐々に演奏されるようになってきた印象だが、なにぶん時代が時代だけに、御本人の演奏は数少ない。この演奏は、きちんと全曲を弾いているのではなく、遊び弾きというか、どこか即興というか。リストの「ためいき」にグノーのファウストのアリア、ラフマニノフのデュオ作品(おそらくジロティがソロに編曲したもの)を楽しんで弾いている。でもロマンティックの極致なんだよねぇ・・・

師であるリストの演奏も聴いてみたい・・・などと思う演奏だ。時折、ショパン・・・芸術家、リスト・・・曲芸家みたいな文章に出会うけれど、リストは派手なだけの人ではなかったでしょう、そう感じさせるジロティの演奏だ。

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非伝統的なものへの寛容 

 

差別をしている、受けているという実際の場面に遭遇することは、日本の場合は少ないのかもしれない。でも、そのような場面に遭遇すると、非常に悲しい気分になる。別に自分に対してではなく、見ず知らずの人に対してであっても。非伝統的なものへ寛容的でない人って、どこか心の狭さがあるのだろうか?考えられるのは、そのような人は、自分自身が伝統的とされる、常識的とされる価値観に盲目的なので、自分自身の人生に対しても不寛容なのではないかと想像する。

ピアノブログを徘徊していると、練習会や演奏会でも演奏後記の文章に出会う。アマチュアの場合、大概は反省文になっている。本当にそう感じて書いているのかもしれないが、その文章を百パーセント信じるならば、その人はピアノを弾くということをどのように感じているのだろうと思ってしまう。そんなに否定的に自分自身に対して感じることもなかろう、書くこともなかろう・・・と。この場合も、なんだか悲しくなる。自分自身に寛容ではないというか、自分に対して自分で差別しているというか・・・

「・・・と思われる」という心理なのだろうか?絶対に肯定できる、自分を褒めてあげたい要素があったとしても、それを正直に書いてしまうと、「何様?」とか「あれで?」と思われるということを何よりも恐れる・・・

自分に対しての差別では?いいところもあったのなら自分を讃えればいいのに。でもそれは常識的ではない?非伝統的行為?「永遠の初心者なのでぇ・・・」のような文章は、なんだかとても悲しくなるのだ。

人には可能性があるし、夢を実現できる能力も機会もある。でも狭くなってしまい、自分を差別してしまうとそれが難しくなってしまう。そして自分の道を自らが閉ざしているという可能性があるということすら、思わないのだ。自分の人生を一番愛せる人は、自分自身なのに。

僕は、ほとんどのアマチュア、再開組にしろ、大人から始めた組しろ、自称初心者だろうと、音楽留学できると思っている。留学なんて聞くと、「ジュリアード音楽院?」とか「バリバリ弾けないし・・・」とか「日本の音大を優秀な成績で卒業したエリートだけが留学するんでしょ?」みたいになりがちだ。日本の音大は演奏家育成(実情はどうでも)か、音楽教員養成の大学という印象がある。アメリカにもそのような大学はある。でも音楽を学問として一般的に学ぶ大学もある。数としてはそちらの方が多い。ジュリアードとかカーティスのような名門音楽院ばかり有名で、一般的な音大の実情は日本で知られていないのではないか?

「モーツァルトの声を聞いた夜」(片岡ユミコ著:三樹書房)という本、この本は留学ハウツー本ではないが、おそらく日本語でアメリカの一般的な音楽学部の様子の分かる唯一の本なのではあるまいか?著者は昔ピアノを習っていた。チェルニー30番を終了し、難渋ではないソナタなどは弾いていた。でも多くの人と同様、ピアノは辞め、就職し・・・という人生を歩む。ほぼピアノ再開組と同じような経路なのではないかと思う。初めは音楽(ピアノ)とは別の学問を専攻するため渡米している。非専攻学生のための「ピアノ」という講座(レッスン)を履修する。初めてのレッスンではショパンのノクターンOp.9-2を弾いている。その後はメンデルスゾーンの無言歌とか。著者は音楽専攻の学生になるためオーディションを受け、音楽学部の学生となる。

やはり卒業するためには、名門音楽院のようにリサイタルはする。フルリサイタルではないが、ハーフ、またはクォーター程度のプログラムは用意しなければならない、もちろん、一般公開のリサイタルとなる。その時の著者のプログラムはこうだ。

バッハ 平均律からプレリュードとフーガ
モーツァルト  ソナタ ハ短調 K.457 (全楽章)
ショパン  二つのノクターン  Op.32-1  0p。48-1

著者は、演奏そのものの経験の不足を感じていた。初めてホール満員の聴衆の前で弾くのだ。「練習の時のようには弾けない・・・」それでも最後の音まで弾き切る。音が鳴りやみ、一瞬の静寂。そして指導教授の低い声がホールに響く。「ブラヴォ」・・・続いてホールの客席の椅子がバタンバタンと鳴り響く。すべての聴衆が立ちあがる・・・スタンディングオベイションと光に包まれる著者・・・この本の中で最も感動的な場面だ。

「チェルニー30番程度だしぃ・・・」「難曲なんか知らないしぃ・・・弾けないしぃ・・・」

自分自身に差別をしていたら、このような瞬間は絶対に味わえない。

ここまで書いて矛盾しているかもしれないが、僕は安易な留学は勧めない。金銭面と英語力は日本で身につけて行った方がいい。費用は「絶対にニューヨークのマンハッタンに住む!」というのでなければ、意外と安いかも。ネットで調べられる。英語は、会話ではなく「トーフル」がすべて。大学側の要求しているスコアには達していた方が絶対にいい。スコアに達していても「授業はチンプンカンプン」というのが現実。でもそこは情熱で乗り切る。別に語学留学するわけでもないのだから、学生の目的が何かを大学側は考慮してくれるだろう。試験前は寝ないで頑張る・・・みたいな?アルバイトでもしながら・・・とか、語学学校に現地で通いながら・・・という安易な発想では実現できないと思う。

高齢者学生とか熟年学生なんかはウジャウジャといる(勉強している?)ので、その雰囲気を感じるだけでも、「私なんか・・・どうせ・・・」という思考そのものが、異端であり、自分を差別しているということを感じるだろうと思う。

「今さらこの年齢で・・・」は自分への差別だと思うが、大人の場合、日本での立場とか基盤のようなものがあるのが普通だ。費用や言葉の問題よりも、こちらの方が大変だろうと思う。子どもの世話はどうするの・・・とか。

新潮文庫に「スペイン子連れ留学」という本がある。単行本として昭和51年に鎌倉書房から出版されたものの文庫化。著者の小西章子さんは、7歳、4歳、2歳の女の子たちの母親だ。1970年代にこのような留学をしてしまった人もいるのだ。もちろん、旦那を日本に置いて。ものすご~く周囲から反対されたと思う。でも僕はこの留学を著者の我儘とは思わない。だって、男性が三人の娘の世話を妻に託し、単身留学したとしてもそれを我儘とは思わないから。

差別って人に対してや、新しい未知の考えだけにしてしまうものではない。自分に対しても人は差別をしてしまうことがある。

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自分を知る。 

 

「もし命が今日で尽きるとしたら、今日やるべき予定のことを、あなたはしますか?」「もし命が一ヶ月後に尽きるとしたら、それまでに、あなたは何をしたいですか?」

大病を患った経験のある人は、このようなことを一度は考えてみるのではないだろうか?でも大病を患った人だけが、いつの日か死ぬわけではないから、この種の問いかけを自分にしてみることは、誰にとってもいいことのように思う。

これが難しい。「私・・・いったい何をしたいのかしら?」となってしまう人が意外と多いらしい。二つの理由があるという。一つは自分自身のことって分析するのが難しいのだ。意外と自分の真の姿、願望って自分で気づいていない。二つ目は、世間で常識とされる幸せな生き方というものに、どこか捉われているということ。一流企業に就職し、安定した人生を送るとか、幸せな家庭を築く・・・とか。むろん、大切なことだから世間での常識になるのだろうが、それと自分の願望との一致が成されていなければならない。ここが難しい。

もし一ヶ月の命だったら・・・と真剣に考えた場合、今まで自分が信じていた幸せの価値観、常識的幸福というものは、スルッと落ちてしまうことが多い。なので「私・・・本当は何をしたいの?」となってしまう。

仕事を通して自己実現していく、この場合、その仕事ができなくなったら、どうするのか?幸せな家庭を営む、この場合、愛する子どもが、家庭にではなく、社会に目を向け始めたら、つまり巣立っていったあと、あなたは何を生きがいに生きていくのか?

意外と自分のことって分からないものだ。考えたこともない・・・というか。

「私ってすごく保守的で差別をする人間だと思う」本当にそのように自覚している人は少ないと思う。多くの人は差別というものに反対という考えを持っているだろうと思う。たとえば、同性同士の結婚とか・・・

別に反対というプラカードを持って行進するつもりもない。別にその人たちが幸せならいいのでは?そんな…差別なんてしないわ。このように感じている人が多いと思う。では次のような場合だったら?自分を知るという意味でも考えてみる価値はあると思う。

「ねぇ、今度Aちゃんの家に泊まりに行っていい?」「新しいお友達?」「うん、そうなの。Aちゃんってお父さんがいないんだって」「まあ・・・可哀そうに。お父さん亡くなったの?病気か何か?」「ううん、違うの。Aちゃんはママが二人いるの」「えっ?どういうこと?よく分からないんだけど?」「Aちゃんのご両親はレズビアンなんだって」「えっ???」「ねぇ、Aちゃんの家に泊まりに行ってもいい?」

さあ、どう答えるだろう?「それはダメ。病気がうつるでしょ?」こう答える人は少数派だろうと思う、というか願う。「まあ!素晴らしいことじゃない?Aちゃんも今度泊まりにくるように言いなさいよ?」これも残念ながら少数派なのだろうと思う。多いのは「あまり気軽に人の家に泊まったりするもんじゃないわ」とやんわり否定派なのではないかと予想する。どうだろう?

自分が当たり前のこととして信じている価値観と異なるものと遭遇したとき、それを受け入れるって本当に難しいものだ。まずは「何故自分はそう思うのだろう?」と自分を探ってみるのもいいのではないか?

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指輪 

 

ゲイであることをカミングアウトしたクラシックのピアニストって少ないような気がする。周囲で「ねぇ、あの人絶対にそうよねぇ?」的に噂される人は多いのかもしれないが・・・

僕の知る限り、カミングアウトをしているピアニストは、スティーヴン・ハフ、そしてユーリ・エゴロフ。ハフは現代のピアニストだが、エゴロフは70~80年代のピアニストだ。カミングアウトそのものの重みが異なるような気はする。

エゴロフがソビエトから西側に亡命したのは1976年。最終的に彼は安住の地としてオランダを選んだ。むろん、同性婚など正式に認められてはいなかった頃だけれど、当時として最も革新的な空気に満ち溢れていたのがオランダだったのではないだろうか?

ユーリ・エゴロフの写真には左手薬指に指輪をはめている写真がある。気軽なスナップなどではなく、正式な商売用(?)の写真。この指輪はエゴロフの意識的行為のようにも思える。ゲイとしてカミングアウトしての、この指輪は「愛していれば結婚するでしょ?男と女だったら普通でしょ?男と男だって普通だよ?」という強い彼のメッセージを感じたりもする。

マイノリティに属してしまうと、どうしても「強くならなくてはならない」という面もあるんじゃないかな?世間一般では「普通ではない人」となるわけだから。その勢いに負けてしまうと自分を否定しなければならなくなる。「生まれてこなければよかったのかな?」「自分は変態なのだろうか?」

むろん、人間には誇りがある。でもその誇りに忠実に社会で生きるためには、相当のエネルギーを必要とする。

薬指の指輪はエゴロフのエネルギーだったのかもしれないね。

ゲイというだけで多くの偏見があった頃だ。エゴロフは1988年にエイズの合併症で亡くなっている。どこまでエゴロフは自分の病気のことを隠し通したのだろう?空気感染する、触れただけで感染する・・・などという誤った認識もまだまだ残っていたのではないだろうか?オランダでさえも。もしかしたらエゴロフはゲイへの偏見、そしてエイズへの偏見というものと闘いながら演奏していたのかもしれない。

33歳で亡くなる数ヶ月前、エゴロフは愛するオランダ、アムステルダムでリサイタルを行っている。これが彼の最後のリサイタルとなった。ここでシューベルトを弾いている。

「シューベルトは苦しい音楽ではないと思う。哀しいんだ。でも控えめ。控えめな哀しみなんだ」  ユーリ・エゴロフ




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category: ピアニスト

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遺作 

 

デヴィッド・ボウイが亡くなった。誕生日を過ぎてすぐだったのだそうで、69歳だった。「まだ若いのでは?」というのが正直な気持ちだ。ファンというわけではないけれど。発売中の彼の新譜を聴く場合、亡くなったという事実を知って聴くのと、そうでない場合とでは何かしらの印象の違いというものはあるのだろうか?なんとなくありそうな気はする。

僕の場合、シューベルトの曲というと、それはピアノ・ソナタでも即興曲でもなく、やはり声楽曲ということになる。

フリッツ・ヴンダーリヒが亡くなって、もう50年になるのか・・・

彼の場合は、デヴィッド・ボウイと反対で、36歳の誕生日の直前に亡くなっている。シューベルトの「美しき水車小屋」の録音は終えていた。でも発売前にヴンダーリヒは亡くなってしまった。おそらく、シューベルトのチクルスは全部録音する予定だったのだろう。多くの歌手のように。でもそれは実現できなかった。

ヴンダーリヒの水車小屋を聴いた人は、すでにヴンダーリヒという歌手がこの世にはいないということを知って、彼の歌声を聴いたことになる。夢見る青年のような声だ。そうだろう、まだ若かったのだから。この天にも届くような歌声のために、ヴンダーリヒという歌手が亡くなってしまったという悲劇性が、さらに増してくる。

これは演奏の聴き方、感じ方としては変わった聴き方なのかもしれない。演奏と演奏者というものは、ドライに切り離して考えるべきものなのかもしれない。

でも、ある種のシューベルトの曲は、短命だった演奏家へ、どこか微笑みかけているように思えてならない。その演奏家のキャリアに光を与えてくれるような包容・・・

シューベルトの「美しき水車小屋の娘」のレコードは若きヴンダーリヒの遺作となった。

階段から転落し頭蓋骨骨折による死亡だったという。

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category: 好きな曲・好きな演奏

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シューベルティアーデ 

 

来月の練習会で連弾の曲を弾く。本格的な連弾は初めてである。曲はシューベルトの幻想曲 D940。初連弾でいきなりの大曲とも思えるが、とりあえずはセコンドを一人で練習している。技巧的には超絶曲ではないのかもしれないが、なにしろ20分の大曲、そして僕の経験不足というあたりが心配ではある。

2台ピアノの場合もそうだろうが、他の楽器とのアンサンブルと比較すると、連弾は同じ楽器での合わせなので、縦の線が合わないと非常に目立ってしまうのではないかと思う。他の楽器であれば、発音スピード感覚のようなものが異なるので、微妙なズレも音楽的となる可能性もあるのかもしれないが、連弾の場合は、「今、ずれたよね?」となりそう・・・

この幻想曲はシューベルトが亡くなる年に作曲されている。31歳でシューベルトは亡くなっているのだが、どこか「受容」とか「悟り」のような境地さえ感じる曲だ。この曲に取り組んでいて感じたのが、「人生の一コマ」のような感覚。誰でも残りの人生の長さなどは分からない。せっかくその人生の一コマを使って練習するのだから、意義のある時間、瞬間にしたいというか・・・

やはり練習会といっても、人前でピアノを弾くって大変なことだから、どうしても「その曲を弾く」という一つの行為に執着しがちだ。いかに音符を再現するか、弾きこなすかとかね。「自分は弾けた」とか「失敗してしまったとか」それだけになりがち。それでもいいと思うが、せっかく人生の一コマを使うのだから、何かしら意味のあるものにしたい。

何故か、この曲は京都、広隆寺の弥勒菩薩を連想させる。すべての煩悩を許してくれるような、あの微笑み・・・

この曲から連想する個人的な想い出は、ある友人のこと。あの時の僕はとうしていいのか分からなかったのだ。取り乱していたし、何故自分だけが苦しまなければならないのかとも思っていた。不公平だとも感じていた。そのような時、彼は僕を救ってくれた。「生きなければいけない」と。でも、その時の彼は僕よりも苦しんでいたのだと思う。自分のことだけで精一杯だった僕はそのことに気づかなかった。

しばらくして、その友人から手紙をもらった。最後の手紙だった。「僕はもう死ぬのだと思う。でも後悔はないんだ。この世でやりたいことは全部やったから。ただ君のことだけが心配だ」

この手紙を読んだ時の僕の気持ちと、彼のあの時の微笑みは広隆寺の弥勒菩薩に通じる。そしてシューベルトの幻想曲にも通じる。すべてを受容した微笑みというのだろうか?微笑みながら死を受容する、死に向かっていく境地というのだろうか・・・

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category: サークル

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