ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

ピアノの特殊性 

 

表現力豊かな、色彩感のある演奏をしたい・・・これは誰でも望むこと。むろん、難曲をただ弾ければいいという人もいるのかもしれないが、少数派なのではないかとも思う。多くの人が望んでいるにも関わらず、非常に実現が難しいのも「表現力」ということなのではなかろうか?ここで悩んでいる人は非常に多そうだ。この場合、習っている先生に責任のすべて押し付けてしまう前に自分でできるようなことは実践してみてもいいだろうと思う。それで行き詰ったら先生にヘルプを求めてみる。

「ただ弾いているだけになってしまう」「抑揚に乏しい」「音符をとりあえず音にしてみた・・・という演奏になってしまう」このあたりが多くの人にとっての悩みなのでは?

あくまでも個人的な印象ではあるが、楽譜に忠実ということをどう捉えるかということに問題があるように思う。楽譜にピアニシモとあったらどうするか?多くの人は「あ、弱くするのね?」と思い、そのように弾く。先生も「そこはもっと弱くね」などと言う。そうだろうか?もしかしたら楽譜にピアニシモとあったら「弱く弾く」ではなく「弱くなった効果を求めている」「弱くなっているように聴き手が感じるような弾き方で演奏する」というのが本当なのではないか?「~する」ではなく「~のように聴こえるように弾く」みたいな?

ピアニシモ効果、それは全体をただなんとなく弱く・・・ではなく、例えば、左手の伴奏は「響き」だけにして、緊張感、緊迫感のあるような右手のトップの音を意識して、その鮮やかなトップと左手(響き)の差でピアニシモ効果を演出する・・・

意外とピアニシモと書いてある場所は、音楽的効果としては「緊迫感」「緊張」みたいなものを求めている場合もあるのでは?右手のトップは、ピアニシモ・・・ではこの場合弾けないはず。でも全体効果としては緊迫感のある静寂・・・みたいな?

もう一つはピアノという楽器の発音は多くの楽器の中で、かなり特殊なのではないかという意識を持つことなのでは?「なんとなく弾き演奏」に共通しているのは、表現しようと思っているのかもしれないが、そうすべき瞬間とは、ずれてしまっているような印象がある。ピアノの場合、鳴らした瞬間から音は減退してしまうというのがピアノの特殊性だろうと思う。歌や弦楽器などよりも、はるかに瞬間技勝負のところがあるのでは?鳴らしてしまった過去の響きの混ざり具合で演奏が決まってしまうみたいな?自分の音を聴いてから・・・では遅くて、音を想定してタッチしなければならないのでは?

ただ弾いている・・・という印象を与えてしまう演奏、瞬間技に遅れている。「こうしたい」というイメージがあったとしても、もう音は鳴ってしまっていて、遅すぎる・・・みたいな?そのためタッチ瞬間がボヤンとしていて曖昧な印象を与えてしまう。これだと、どんなに感情を込めて弾いても、タイミングとしては遅れてしまって、せいぜい「全部がメゾフォルテですか?」とか「ピアノとフォルテしかない」みたいな演奏になってしまう・・・

瞬間技勝負の楽器、面白いことに弦をはじくとか打つといった楽器が多いように思う。ピアノもそうだし、あとはギターとかハープとか。これらの楽器は和音の響きも自分で担うので、伴奏というものも一人で行う楽器でもある。ヴァイオリンなども場合、一人で演奏する際は、わざわざ「無伴奏」という言葉をつけたりする。歌も歌手一人で歌うというのは特殊性がある。でも音を鳴らした瞬間に減退してしまう楽器は普通ソロで演奏する。非常に興味深いことだ。

ギターなどの他の「音減退楽器」を参考にしてみたらどうだろう?やるべき瞬間に偉大なギタリストなどは何をしているのか?音を鳴らす瞬間に何をしているのか?

声楽やヴァイオリンなどは「音を発音してから」も伸びやかに何かができる可能性がある気もするが、ピアノやギターでは鳴らしてしまったらそこからは減退するだけなのだ。瞬間技での勝負、そこで遅れてしまうと響きが平坦になってしまう。心を込めようがないというか・・・

kaz




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弾くための曲?曲を弾く? 

 

ブログの書き方は人それぞれだ。僕は発表会とかサークルの練習会についてブログに書くということはしない。中には人前演奏後、自分のことだけではなく、他人の演奏についてまで詳細に書き記す人もいる。「ため息」を弾いたAさん、キラキラした音で良かったぁ・・・みたいに。褒めていることがこの場合は基本で、それはそれでありだと思う。でも書き方は人それぞれなので、僕は書かない。終わったことに関しては興味が薄れるタイプなのかもしれない。

ピアチェーレのことに関しては、このブログは広報の役割も多少は担っているので、書いたりもしているが、自分のことはともかく、メンバーの演奏については書こうとは思わない。客席で聴いていたわけでもないし。でも本番後の記事に関して、人の演奏に関して色々と記す習慣のある人は、僕の書いたピアノ関連の文章=ピアチェーレメンバーのこと・・・などと思ってしまうかもしれない。特に本番翌日の記事などはそう思うかもしれない。以前そのようなことで誤解を招いたこともある。しばらくはピアノ話題を書かなければ、誤解は生じないのだろうが、それも窮屈だし。ピアノ関連の文章は一般的なこと。特定の人の感想とかではありません。プロは別として、そのようなことは書きません。

さて、この演奏はロベルト・ピアナという作曲家の演奏。作曲家のピアノ演奏って、何かが違うという印象。それは何だろう?まずは弾けるようにして、それから表現を考える・・・という演奏ではない。曲が先にあって、だから弾けるようにするという感じ?

指が動けばこの曲が弾けるという発想ではなく、曲を弾くために指を動かすというか。実際に苦労することは同じなのかもしれないが、発想順序が全く逆?

楽譜をよく読む・・・これは大切なのだと言われる。アナリーゼですかね?この場合、和音進行を楽譜に全部書き込むことがアナリーゼなのだろうか?曲の文脈みたいなものをクリアにするということだよね?でもクリアにしたものを、演奏そのものに反映させなければいけないとは思う。理論解説のようなものは沢山存在するが、実践編について書かれているものはあまりないようだ。「その知識、演奏にどう生かす?」みたいなもの。このあたりをピアノ教師ブログに求めたりもする。だって実際にピアノを教えているわけだから。でもそのようなことを書いている人はいないですねぇ・・・

自分の音を聴いて・・・これもよく言われる。むろん、聴けなけれないけないだろうが、実際に弾いている瞬間の音を聴いているだけでいいのだろうか?ピアナの演奏は、先読みが明快な演奏という気がする。つまり、作曲家なので、分析力があるというか、その瞬間を頑張って弾いています的ではなく、常に先の音を想定して弾いているというか?

自分の音を聴く・・・それには先の部分の音イメージが先なのではないだろうか?自分の理想の音イメージと実際の音との比較というものがなければならないのでは?先の部分の音イメージ、つまりアナリーゼ?そこで得た知識というか、文脈のようなもの、それを実際に頭と耳と感性で理想の音イメージを想定し、練習過程において、実際に比較、修正していく・・・

イメージや憧れだけではピアノは演奏できないので、何かしらが必要になる。まずは練習。指を動かすということだ。でもそれは手段であり、目的ではない。ついつい手段が目的化してしまう。「ただ弾いています」「音符を音にしてみました」この場合、分析力が不足しているのかもしれない。でも調べたりしたことで得た知識は、やはり手段。「全部の和音進行を調べました~」とか「曲の構成と時代背景を調べました~」ということは手段であり、調べたこと、調べることは目的ではない。

作曲家の演奏・・・順序が反対だったり、手段と目的が反対になったりはしていないような気がする。

ロベルト・ピアナのヒナステラ・・・曲を弾いている。弾くために曲があるのではなく・・・

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演奏会終了しました。 

 

昨日のピアチェーレ演奏会、無事に終了しました。お越しいただいた方々、本当にありがとうございました。メールへの返信などは少しずつ行っていきたいと思います。今しばらく時間を頂きたいと思います。

来年も同じ会場(雑司ヶ谷音楽堂)で11月28日(土)にてピアチェーレ第4回演奏会を行います。よろしくお願い致します。いつもこの時期はフィギュアスケートNHK杯と重なってしまうため、「時期はずらせないんですか?」との声、要望も頂いていますが、来年も多分重なってしまいますね。

さて、自分自身への演奏に対しては、思うところは多々あり、もうそれは「反省」しかないが、それとは別に演奏会というか、舞台の雰囲気、空気・・・のようなものを考えたりもしている。僕が聴き手であれば、ライヴならではの「一体感」のようなものを求めると思う。これは僕だけかもしれないが、いい演奏・・・というものを求めるだけならば、自宅でCDを聴いていたいほうだ。僕が往年の演奏家を好むので特にそう思うのかもしれないが。

むろん、未熟な演奏、聴き手が不安になるほどに安定感の欠ける演奏というのも、どうかと思うが、では達者に演奏できていればいいのかといえば、そんなものでもない。世の中には聴き手と演奏者とが、どこか断絶してしまっている演奏会も多いように感じる。演奏者が、ひたすら鍵盤と格闘しているかのような?曲を打ち負かすような闘争心さえ感じる演奏さえ存在する。聴き手は演奏者の出来栄えに興味があるわけでもないし、そこを聴きに来ているわけでもないのに、演奏者はそこしか頭にない・・・みたいな?

演奏会前は(練習もせずに???)ユーチューブを徘徊したりしていた。スター演奏家のものでもなく、アマチュアが部屋で演奏している「練習中で~す」的なものでもなく、有名ではないかもしれないが、実力はあり、かつ聴衆との対話ができている演奏会。僕の固定観念かもしれないが、イタリアの演奏動画には歌のサロンコンサート的なものも多く、しかも素晴らしいものが多いように思う。演奏そのものも「日本だったら名声を博し、有名なスター歌手になっているのでは?」と思うような出来栄えのものが多い。現地では知られている人なのかもしれないが、正直「こんな人がイタリアにはゴロゴロいるのか?」などとも思う。それらの歌手たちに共通しているのが、聴衆との対話があるということだ。そこに違いを感じる。聴き手もお互いに目を合わせ、「素敵ね?」みたいな雰囲気。拍手も「あっ、演奏終わったし・・・」的なものではなく、手が自然と動いてしまうような拍手。そこには「おクラシックを拝聴させて頂く」的な固さがなく、演奏者もサービス精神旺盛というか、「ほらっ、聴け・・・」的なものがないというか・・・

成熟した文化と言えばそうなのだと思うし、ベルカントの国だからと言われればそうなのかもしれないが・・・

この動画での演奏会、おそらく正式な演奏会場でのものではないような気がする。聴き手が高齢者ばかりのような気もするので、その種の施設での演奏かもしれない。でも皆、なんて楽しそうなんだろう?演奏者も楽しそうだ。むろん、聴き手が音楽的な訓練を受けていない高齢者たちだろうと、「こんなものでいいだろう」的なものは一切感じない。演奏は真剣勝負だ。でも格闘はしていないんだよねぇ・・・

ピアノでもこの雰囲気は可能なのではないか?

そんなことを演奏会後に思っている。

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category: ピアチェーレ

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アルフォンシーナと海 

 

明日の演奏会、お蔭様でチケットは全部出ました。有料の演奏会ではないので、完売という言葉は使えないけれど、気分としては「完売です」という感じ。ただ、申し込んで当日来ない人もいるだろうし、前半だけ、後半だけ聴く・・・という人もいると思うので、会場が常に満席ということはないとは思う。まさか申込み時に「前半だけですか?」「全部聴きます?」なんてことを質問するわけにもいかないので、まぁ、それはもう仕方ないと思う。でもお客さんが一回目の演奏会から徐々に増えているということは単純に喜んでもいいのかもしれない。

本番直前の心境としては、現在はタッパーに密閉している熱いものを、明日は解放してあげる・・・という感じだろうか?何かが伝わりますように、そのために解放ができますように。ただそれだけを思う。

これまでは演奏会近くになると中傷メールを貰ったりもしたが、今回はなかった。普通の「頑張れメール」「祈っていますメール」ばかりだ。演奏会とは別に、最近頂くメールで共通している内容がある。おそらく僕がブログに書いた内容に対しての反応なのだろうと思う。専門と趣味ということだ。「趣味?専門じゃないのね?じゃあこんな感じで・・・」という扱いを受け、どこか傷ついているという内容。中級や初級と自ら思っている人は、なかなか自分の要望、それは心の中に秘めた要望だったりもするが、それを伝えるのには勇気が必要らしい。それは理解できるけれど、教師はテレパシーを持っているわけではないのだから、やはり自分の火は伝えるべきなのではないかと思う。今弾いている曲がソナチネだろうと、ホロヴィッツに憧れ、いつか自分でも・・・と思うのは、僕は普通のことだと思うし、それがなくてピアノなんか弾いてられるか?憧れがなくてピアノなんて弾けない。それはピアノを弾く動機のような大切なものなのだと思う。確信を持って雲の上の存在に憧れればいいと思う。

この動画の人は声も容姿も若い感じだが、年齢不詳。もしかしたら僕よりも年上なのではないだろうか?彼はクラシックギターを習っていた。そして南米のフォルクローレに魅せられてしまった。そしてアルゼンチンに住んでしまった。80年代のことだ。今だって南米は日本の裏側、遠い遠い土地だ。当時はさらにそう感じられていただろうと思う。海外旅行そのものが今よりも身近なものではなかった時代だ。彼の周囲は彼の決断の後押しをしただろうか?想像してみる。おそらく一人もいなかったのではないだろうか?「そんなアルゼンチンだなんて・・・将来はどうするの?」「日本の有名音大をせめて卒業してから考えれば?」「そんなフォルクローレなんて得体の知れないものをやって何になるんだ?帰ってきても食っていけないぞ!」

でも彼は得体の知れないフォルクローレなるものを勉強するためにアルゼンチンへと旅立ったのだ。

「好きだから・・・憧れだから・・・」

アルゼンチンに住むのは勇気が必要だろうと思う。でも今弾いている曲がどのような曲であろうと、今現在のレベルがどのようなものであろうと、憧れることそのものは自然なことなのだ。

「私には到底できないことだから」「上級者の皆さんの中で恥ずかしかったです」「まだまだ初心者だから」「簡単な曲も満足に弾けないのに・・・」自分で何気なく言ったり書いたりしているうちに、本当に自分はそうだと思い込んでしまう・・・

憧れを持っている人の演奏は聴けば分かる。憧れは誰でも持つ権利がある。でも自己否定したら持てないものでもある。

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category: ピアチェーレ

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ピアノが弾けるって最高の贅沢 

 

幸せというものは、お金では手に入れることができない。贅沢というものもお金では手に入れることはできない。

カールマンを聴く。なんて甘美で素敵なんだろう・・・そう思う。

楽譜があれば、自分自身でカールマンの世界に入っていくことができる。聴くだけでもいいが、自分でカールマンのサウンドに身を浸すことができる。なぜならピアノが弾けるから・・・

カールマンが託した何かに、自分から触れようとすることができる。なんという贅沢なことだろう。この贅沢はお金では買えない。

ピアノが弾けるって凄く贅沢なことなのだ。誰でもができる贅沢ではない。感じることのできた人だけができる贅沢。だからピアノを習う。最高の贅沢のために・・・

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category: 拍手のない名演

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逃避の音楽 

 

オペレッタ銀の時代、その時代に活躍したのがレハール、そしてカールマン。時代はオペレッタ全盛の時代であったのと同時に、紛争、戦争という不穏な時代への幕開けでもあった。オペレッタの聖地、ウィーンの人々も不穏な空気を感じとっていた。「ヨーロッパが戦場になるのでは?」「暗黒の時代が始まるのでは?」と。

だからこそ、ウィーンの人々はオペレッタに夢中になった。そこは夢の世界。現実ではない。だからこそ夢中になった。そこには愛を囁く人たちがいた。恋を高らかに賛美する世界があった。現実が厳しいからこそ、人々は夢の世界に没頭した。そこには殺人も飢えも、憎しみもない。そこは幻想の愛の世界だったから・・・

ハンガリーからウィーンにやってきたエメリッヒ・カールマンのオペレッタに人々は夢中になった。レハールのそれよりも、ハンガリー色を感じさせるオペレッタだった。どんなにウィーンで人気を博し、名声を博しても、カールマンはユダヤ人だった。

彼は第二の故郷、ウィーンを離れなければならなかった。当時の芸術家の多くがそうしたように、彼もまたアメリカ合衆国に渡った。カールマン・オペレッタは新天地アメリカに影響を与えた。その影響はミュージカルという新しい芸術となって華開いていった。

カールマンはヨーロッパ人だった。アメリカ人として帰化したが、晩年はパリで暮らした。そしてパリで亡くなった。何故第二の故郷ウィーンではなかったのか?彼はウィーンには戻らないと決めていたのだろうか?

戦争は多くのものを奪ってしまったが、カールマン・オペレッタは光り輝き、この世に残った。

現実を忘れ、空想の愛の世界への逃避、それがカールマンの音楽。すべての苦悩を、つかの間忘れさせてくれる。

現代でも愛を求めている人がいる。だからカールマンの音楽は忘れ去られることはない。これからも・・・

カールマンはウィーンの中央墓地で眠っているのだそうだ。

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category: 未分類

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ピアノを弾くのは上手くなりたいから? 

 

もしかしたら「上手くなりたい」という気持ちだけでピアノを弾いている人もいるのかもしれない。もしかしたら、街のピアノ教室、音大、趣味のピアノ弾きの部屋で、あらゆる場所で上手くなりたいという願望が渦巻いているのかもしれない。

上手く弾きたい?上手く弾く・・・上達するということ?そのためには苦しい練習も必要。別にプロになるわけではないのだから、楽しいピアノだってあり?楽しい趣味のピアノ。上手くならなくていいピアノ?

上手くなりたい・・・というよりは、美しさの根源のようなものに触れたい・・・のでは?本来はそうだったはずなのでは?そもそも美とか、感動って何?よく分からない。分からないというよりは、言語化が困難。だからピアノを弾くのでは?

「言葉で表現できない感情までも音楽は表現してくれる」(レナード・バーンスタイン)

だから弾くのでは?上手くなりたい・・・それもあろうが、それだけではないし、それがピアノを弾く理由だとすると、それは大雑把すぎる。上手くなりたい・・・それは目的ではなく手段なのだとしたら?

ちょっと極端なのかもしれない。「すべての生徒を音楽好きに。すべての生徒にキラキラレッスン」これってあり得るのだろうか?ピアノや音楽が世界を支配しているわけではないのだ。ピアノ以外の何かを見つける生徒だっているだろう。辞めるということは敗北ではない。だからこそピアノというものに美を求める生徒には「専門だから」とか「趣味だったらここまででいい」なんてことなしに教師は先輩音楽家として、すべてを教えるべきだろうとも思う。建前かもしれないが、ここが公立学校の教員との違いなのではないか?すべての子ども、すべての生徒ということはあり得ない。だからこそ、求めた子ども、生徒にはすべてを・・・なのでは?

上手く弾きたい・・・というのと少し違う。曲があるから弾く。その曲の何かに惹かれたから。それは言葉で説明できないものだから弾くのだ。その時に専門どうたらとか、趣味こうたらとか、さらには指導の内容まで変わってしまうというのは変な話だと思う。

習う側も、そろそろ謙遜美学に甘える時代ではないのかもしれない。「私なんて・・・」という方向で甘えていたら、本当の自分の願望を見つめる勇気が持てない。

ある演奏、ある曲に感動した、だったらそのように自分も弾きたいと思うのは自然なことなのだ。専門も趣味もない。

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category: 拍手のない名演

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ステージマナー 

 

多くのアマチュアにとって、演奏そのものよりもハードルが高いというか、壁として立っているものがある。それはステージマナーみたいなもの。袖からピアノに向かう・・・ここで視線をどこへ向けたらいいのか?客席に向かってお辞儀、では視線はどこに?大きなホールの場合、客席は暗いことが多いが、サロンのような会場では前列に座っている人と視線が合ってしまいそう。

登場の仕方が上手いなぁ・・・と個人的に感じる人が中村紘子。さすがベテランというか。微笑みを浮かべつつ、余裕の感じで、さらに「どうも~」みたいな感じで優雅に登場。お辞儀も優雅なものだ。これはハードルが高い。

演奏がしっかりしていればいいのでは?クラシックなんだから・・・

そうかもしれないが、クラシックの演奏会に疎い人が、まれにクラシックの演奏会などに出掛けて、まず奇異だと感じるのが、サササ・・・と笑顔もなく出てきてお辞儀をし、楽しくもなさそうに難しそうな何やらを弾く。終わるとお辞儀をしてサササ・・・と一目散に袖に引っ込むという現象。これは他の音楽ジャンルのコンサートではまずみられない現象だ。客席との対話というか親和のようなものが皆無のような?演奏者は(特にアマチュアや学生の場合)演奏するので精一杯なのかもしれないが、あまりにそうだと、「高尚なクラシックをお聴き!!!」みたいな高慢、尊大な印象さえ与えてしまうのでは?なので「クラシック?ちょっと堅苦しくて・・・」となってしまうこともあるのでは?

ピアノの場合、特に難しいのでは?ピアノ以外は客席に向かって演奏する楽器がほとんど。意外と大変そうだが、でも客席との対話とか、その場の空気を作るとか、そのようなことはピアノよりもやりやすいのでは?特に声楽の場合、アマチュアでも固まった表情のままで歌っている人は非常に少ない。ピアノは基本的に横顔だけの勝負になるので、「いつも怒っている」みたいな表情になりやすい。このことは客席からは「鍵盤と闘っている?」みたいな印象を与えやすいのでは?このことと「演奏以外のことを考えるなんて邪道、芸術作品への冒涜」みたいな風習(?)みたいなものもどこか残っていて、それがミックスされてしまうのかもしれない。

かといって、無理に表情を作ったりしても、それはそれで客席からは滑稽な演技としか見えないこともある。

もしかして演奏そのものよりもステージでの演奏者の視覚的なものって難しいものなのかもしれない。

視覚的なことだけじゃないね。僕の場合、曲が終わって、次の曲に移るタイミングが早い。曲が終わり、そこで会場の空気を感じる。「もしかして聴き手は集中している?空気を共有している?」みたいな。喜ぶべきことなのだろうが、「いやん・・・この静寂、無理・・・」となってしまい、余韻ゼロで次の曲をアタフタと弾いてしまう。非常にせっかちで慌ただしい印象を与えてしまうのではないかと反省中だ。

この人のステージマナーを演奏会直前に参考にしている。デニス・グレイヴスという歌手。この人は大変に有名な人でいつもはオペラハウスで歌っている人だ。このようなサロン風の場所で歌うなんて非常に珍しいのではないだろうか?どこかのホテルの一角、しかもピアノはグランドピアノではあるけれど、ベイビーみないなピアノだ。至近距離に聴き手がいて、しかも床は絨毯。歌手にとっては最悪の環境なのではないだろうかと思う。でも彼女は素晴らしい。手抜きをせず(当たり前のことかもしれないが)歌っている。サロンならではのマナーというものを彼女は意識しているようにも感じる。聴き手も「クラシックオタク」とか「オペラ狂」という人たちでもないようで、そのあたりも彼女は配慮しているように思う。

でも、これ、ハードル高いねぇ・・・

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サムライ・ベルゴンツィ 

 

本番が近づくと僕だって神経質になる。普通は「ワクワク!」なんて状態で本番を迎えるなんて人はいないのでは?なのでこれは当たり前の心理状態なのだと思う。会場が小規模ということも緊張している原因なのだろうと思う。キャパ60の会場で、現在は58枚チケットが出ている。むろん申し込んで当日来ない人もいるだろうし、前半だけ聴く、あるいは後半だけ聴くという人もいるだろうから、多少は空いた椅子もあるだろうと思うが、会場密度というのだろうか、そのあたりはプレッシャーだ。さらに聴き手と演奏者との距離がとても近いというのも緊張する原因だろう。200席に60人、さらに舞台と客席との距離があれば、もう少しは心理的に弾きやすいだろうと思う。当然雑司ヶ谷音楽堂には舞台というものはない。最前列の人にペットボトルを持っていてもらい、曲間で水分補給・・・なんていうのも可能だ。いや、やらないけどさ・・・

「心配を打ち消すような練習はしないように・・・」これは先生がよく言う言葉だ。あと数日、毎日10時間とか練習しても意味はないだろうと思う。ガンバリズムって日本では美点とされているけれど「きちんと弾かなくてはという心理状態は表現意欲を殺してしまう」ということになりがちだとも思う。これも僕の先生の言葉だ。

表現って絵の具で色を塗り足していくような感覚に思いがちだけれど、塗り足すとか、感情を込めるという感覚よりは「発酵」という感じに近いのではなかろうか?パンがフワフワに膨らむのは発酵があるから。空気の穴ができるからだね。それに近いような気がする。

「いい演奏は発酵された状態なんじゃないかな?」そう言ったのは友人のルカ。彼の実家はパン屋なので、そのような表現になったのだろうか?発酵・・・つまり生きているということかな?「発酵には天然酵母が重要なんだ。演奏と同じだね」などともルカは言う。意外かもしれないが、僕もパンは作る。でも粉とイースト、水を放り込んで、あとは機械任せなので、そんなことはとてもルカには言えない感じだ。

「kazは内面は奥ゆかしい日本人ではなく僕と同じイタリア人だ。だから演奏会だって大丈夫さ。演奏会は成功する。君はサムライ・ベルゴンツィだからね・・・」

サムライ・ベルゴンツィ・・・ねぇ???

なんとなくベルゴンツィって表現が「濃い」という気がする。だから僕はサムライ・ベルゴンツィなのだろうか?

ベルゴンツィって最も「イタリア」というもの、そして「発酵」というものを感じさせる歌手だったのかな?なんとなくそんな気もする。イタリアは日本以上に家族の絆とか、そのようなことを重要視するらしい。特に南イタリアはそのような傾向が強いともいう。ルカの故郷はソレントだったから、彼は閉鎖的な土地から逃れたくて、さらに家族という絆から逃れたくてアメリカに渡ったのだという。

「何?アメリカへ留学?デザインの勉強?お前はここソレントでパン屋を継ぐのだ。ニューヨーク?魔都らしいじゃないか?そんなところへ行ったら殺されてしまうぞ?」

ある日、ニューヨークでルカはカルロ・ベルゴンツィを聴いた。彼はアンコールで「さらば、栄光の夢」という曲を歌った。不覚にも涙がとまらなかった。「ああ・・・俺はイタリア人だ。どうしようもなくイタリア人だ。パーパに逢いたい・・・ソレントの海に逢いたい」ルカは何年も逢っていなかった家族と再会した。

ルカは現在ミラノ在住。昨年ベルゴンツィがミラノで亡くなった時、彼はかつてベルゴンツィが活躍したスカラ座の前で黙祷したのだそうだ。そのような人が何人もスカラ座の前でベルゴンツィのために祈っていたらしい。ベルゴンツィは最もイタリア・・・というものを感じさせる歌手だったのかもしれない。

濃すぎる・・・とも感じられるようなベルゴンツィの濃厚さ、これは発酵なのでは?

せっかく「サムライ・ベルゴンツィ」というニックネームをもらったのだから、あと数日は発酵を心がけようと思う。

kaz

ベルゴンツィの「さらば、栄光の夢」




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今日からトスティもピアノ教材に・・・ 

 

自分の演奏に抑揚がやや不足していることは感じる。さらに、抑揚や歌心のようなものを人の演奏から感じることもできる。つまり、人の演奏から感じることはできて、それに感動することもできるけれど、なぜか自分で演奏となると、異なる方向に行ってしまう・・・という場合、声楽を聴くといいのではなかろうかと個人的には思う。この場合、ただ漠然と聴くだけではなく、一緒に自分でも歌ってみるとか、歌手の歌声(CDとか動画とか)に合わせ伴奏部分を弾いてみるとか、ちょっと工夫してみるといいのではないだろうか?僕はよくこの練習(と言えればだが)をする。やはり「練習」ではないな。完全に楽しみとしてやっている。本来弾くべき、練習すべきピアノ曲を放置してまでやったりする。楽しいだな、これが。

曲はなんでもいいと思うが、あまりにメカニカルな技巧的なアリアなどは避けたほうがいいかと思う。叙情的な歌曲などがいいように思う。個人的なお勧めはトスティの歌曲。歌手はルイジ・アルヴァがいいと思う。CDは手に入りにくい(入らない?)と思うが、僕は彼が好きなのだ。最高に甘美なトスティ。動画と一緒に歌ったりしてもいいよね。

トスティ歌曲の楽譜は日本版でも手に入るし、言語はイタリア語の歌がほとんどなのでいいと思う。イタリア語はローマ字読みすれば、なんとなくそれらしく歌える。フランス語だと、なんでこのスペルでそう発音するの・・・みたいなところがあるし、ロシア語はそもそも読めないし。別に歌曲リサイタルをするわけでも、イタリア留学するわけでもないのだ。なんちゃってイタリア語で鼻唄のように歌えばいいのだ。ただ、ラララ・・・よりは歌詞を歌った方がいいような気がする。なのでイタリア語。

曲の雰囲気からすると、トスティはロマン派の人のように感じるが、実は超(?)近代の人だ。当時、ここまで時代に逆らうような曲を書き続けた人だ。気骨を感じる。あとトスティは多くの人が録音したり動画に演奏を投稿したりしている。自分とアルヴァとの比較のために自ら歌ったりするわけだが、二流(?)のプロとか音大生とか、アマチュアとか、さまざまな人のトスティとアルヴァの甘美トスティとの比較もできる。これもいい刺激というか勉強になるような気がする。例えば、グリンカの歌曲なども素敵だが、非凡な演奏と凡庸な演奏との比較・・・というところで限定されてしまう。なのでトスティ・・・

まずはアルヴァの歌を聴いてみる・・・あらぁ、甘いわねぇ、素敵だわ。

次に一緒に歌ってみる・・・あらぁ、彼の「タメ」についていけないわ、私ってせっかち?

アルヴァの歌に合わせて伴奏を弾いてみる・・・歌と合わないわ。先にいっちゃう・・・

伴奏と旋律を弾きながら(多少のソルフェージュの能力が必要か?)アルヴァと合わせてみる・・・とにかく合わないわ・・・

合うようになるまでやってみるのだ。そうすると感じる。「自分らしからぬ抑揚で弾いている?まっ、私ったら恥ずかしい・・・」そう、自分で恥ずかしくなるくらいの抑揚や感情で歌ったり、弾いていることになっているはず。でもその「あらっ、私ったら」と恥ずかしくなるくらいの揺れ動きが本来はピアノソロでも必要だったのだ。

勉強中のソロを弾いてみる。自分でも見違える(聴き違える?)ほどの違いがあるかもしれない。なくても何らかの自分に対しての具体的課題は少しだけ発見できるのではないだろうか?

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category: ピアノ雑感

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脱・刻み演奏 

 

やはり楽譜が読めないと、つまり視覚的情報を取り込めないと、ピアノを弾いていくのは難しい。では楽譜が読めればいいのか、読譜ができればいいのかというと、それだけでは、また微妙なところだ。ピアノを習う目的としては読譜は目的ではなく手段だと思うから。

しっかり読譜を行い練習をして、バイエル程度からソナチネ、そしてロマン派諸作品に到達する頃、つまり中級者レベルと世間で言われるようなレベルになった時、焦っても遅いのではと感じることがある。間違いやミスそのものは少なく弾けるけれど、抑揚のない演奏になってしまうということ。実は上級者とカテゴライズされるような人でも、ここで悩んでいる人は相当数存在しているようだ。何故そんな不思議なことになってしまうのだろう?

「なんだか拍を刻んでいるような演奏になってしまう」「いかにもズンチャッチャッ・・・のようにしか弾けない」「自然な抑揚が皆無?」

この場合、あまりにも視覚的情報に依存しすぎているのかもしれない。音符を鍵盤に移し音にしていく、一応曲らしきものになっていく・・・そのまま教材や曲の難易度が進んでしまった?

演奏するという行為には、何らかの音楽的感動があって成り立つと考えるのが普通だろう。「弾きたい」と感じる動機として、そこに音楽的な感動が普通はある。でも無くても曲は弾けてしまう。

本来の「感じる」→「演奏」という順序がレッスンを受け、学習を続ける中で逆になってしまう?

「視覚的情報」→「練習」→「レッスン」→「曲をこなしていく」→「ズンチャッチャッ」なにかがおかしなことになっている?

生徒側に責があるとすれば、「私はどうせ○○さんのように音楽的感性なんかないし・・・」と自分で決めつけてしまっていることかもしれない。あるいは、「上達すれば、そちら(音楽的表現)も自然と身についていくのね?私はまだ初心者だからぁ」みたいな考え。曲は難しくなっていくかもしれないが、それに比例して感性は伸びていくものでもない。だからある程度の曲を弾くようになると愕然とするのだ。「私のショパン、ズンチャッチャッ???」のように。

指導者側の責としては、音楽への憧れとか、感動とか、そのようなことで生徒を引っ張れないということだろうか?知識は教えられるのかもしれないが、「ほら、ココの部分がいいのよ~」のような瞬間を生徒に自ら示すことが苦手、つまり自分の演奏により音楽への憧れのようなもの生徒に植えつけるというか、導くことが苦手?あるいは、素晴らしい演奏として成り立っている諸要素のようなものを具体的に分析して伝授することが苦手・・・とか?

ショパンのノクターンのような曲、左手が伴奏、右手が旋律のような、ある意味で典型的なピアノの曲の場合、感じることがある。どうしてもズンチャッチャッ・・・のようになってしまう演奏は、左に右のメロディーを合わせて弾いている。逆でしょ?右手に左手を・・・のような感覚が本当なのでは?脳内意識としては右が中心になるべきでは?左手の方が右手よりも難しいのだ。「間違えないで弾かなくては」と思い過ぎてしまうと、どうしてもそうなるのかもしれない。この場合、左手の刻みが等分になるので、「刻んでいますっ!」のようなショパンになってしまうのでは?

ピアノのレッスンを継続していく過程において、どうしても視覚的なものが優先され、さらに間違えないで正確に・・・みたいな方向性になってしまう何かが存在しているのだろうか?

置き去りにされている感動???

この方は47歳でピアノを独学で弾き始めたのだそうだ。個人的にはピアノをすべて独学で・・・というのは難しいものもあるのではないかと感じるが、この人は独学が故に、自分の憧れサウンド、理想サウンドを純粋に追っていけたのかもしれない。たしかに、弾き方は独学っぽいというか、そんな感じだし、耳から入っているところも多いのだろう、音の読み違えがあったりする。きちんと楽譜を読めばありえない間違え。でもこの人の演奏で気づくことがある。「ズンチャッチャッ」になっていないということだ。10年、20年ピアノを熱心に弾き続け、レッスンにも通い、それでも「ズンチャッチャッ」に悩む人は多いというのに・・・

分からない楽語などはネットでその都度検索、楽譜も完全に読めるわけではないみたいだ。でもこの人は「自分はこう弾きたいの」という演奏をしている。弾き始める前に感動があったのだということが伝わる演奏でもある。だから弾いているのだ。

ピアノを弾き始めて8ヶ月なのだそうだ。8ヶ月目のショパン・・・

でも着目するところは期間ではない。何が先にあるべきのか・・・

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category: ピアノ雑感

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夢のあとに 2 

 

パリから遠く離れた極東の地であろうと、今回のことは日本人の胸を痛めた出来事だったと思う。同時にこうも思う。暴力による攻撃や紛争は世界各地であったのだと。何故パリだと心が痛むのか?何故中東地域だとパリほど心が痛まなかったのか、紛争は以前からあったのに・・・

「暴力、テロには屈しない」

そうだけど、「では同じことを相手にも・・・」だと、それも暴力なのではないかとも思う。

もし、もし我々に敵というものが存在するのであったなら、本当の意味での「屈しない」ということは、「我々の世界は何があっても愛に包まれている。我々に同じような憎しみの感情を持たせることは不可能だ。なぜなら我々は愛というものを知っているから」というメッセージを敵に送ることではないか???

でも歴史は繰り返される。学ぶことは難しい。

だから無常感が生まれる。音楽というものは、その無常感をも表現することができる。言葉では表現できないような感情をも表現してしまう。ただ、そのような演奏は非常に少ない。これからは、さらに少なくなっていくのだろうか?

ヴァイオリンについては無知な僕でもイヴリー・ギトリスの音色とジャニーヌ・ヤンセンのそれとは違いがあることは分かる。ジャニーヌ・ヤンセンほど「奏法による美しさ」を強調しない。優秀な(?)ヴァイオリン教師であれば「こんな音の出し方をしてはいけません」「こんな演奏は参考にしてはいけません」「聴いてはいけません」などと言うような演奏なのかもしれない。

このような演奏は、しばしば「異端」などと言われる。ギトリスは「超個性的」なヴァイオリニストとして知られている。

「あの人、変わってるよねぇ・・・」

何よりも、無常感を感じる演奏だと感じる。奏法や音色の美しさではなく、心の傷、抱えてしまったものを表現してくれている。

これから人類がアホな方向に突き進んでしまうことへの無常感・・・かな。

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夢のあとに 

 

ジャニーヌ・ヤンセンの美しいヴァイオリンの音色。哀愁漂うフォーレの曲・・・

彼女の音色は素晴らしい。奏法が素晴らしいのであろう。彼女の音、弾き方はヴァイオリンを習っている人たちにとっては、憧れであろうとも思う。

現代でも奏法だけを極めたような演奏家は消えていく運命なのだろう。今は売れっ子でも、いずれ消えていく。人間が演奏に求める根源のところは時代が変わっても同じものだと思うから。人間が抱えている何かを音楽、演奏は代弁してくれる。言葉では表現できないものを表現してくれるものだから。だから聴き手の心に演奏が入り込んでくるのだ。ジャニーヌ・ヤンセンはそれができるヴァイオリニストなのだろう。

ピアノも素晴らしい。個人的にはヴァイオリンよりもピアノに惹かれる。弾いているのはイタマール・ゴランだよね?彼は幼少の頃、ソ連からイスラエルに移住している。彼の両親はプロの演奏家でもなんでもなかったけれど、音楽を愛していた。当時、ソビエトから移住する際は、貴重品のほとんどを置いてこなければならなかったという。両親は1台のアップライトピアノだけは絶対に手放さなかった。そのような家族は多かったという。「ピアノだけはイスラエルに持って行く」と・・・

イタマール・ゴランはイスラエルで、そのアップライトピアノでピアノを学ぶことができた。

「絶対にピアノは手放さない」という両親の想いがあったから。

かつて解放されたユダヤ人たちは、目の前で惨殺された家族を想い、こう感じたのではないだろうか?「ドイツ人が憎い」と。でも人間には知性がある。哀しみは消せないけれど、憎しみは消し去ることができる。一人一人のドイツ人に対しては、「あなたが殺したわけではないのだから」と憎しみを何かに変えることはできる。知性があれば・・・

でも何かは抱え込んでしまう。そこに音楽は触れてくる。代弁してくれる・・・

憎しみを抱えて生きていくことは難しい。憎しみを消し去るものが愛なのだとしたら、音楽は愛を代弁してくれるものなのだ。

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新しいトルコマーチ 

 

初めてアンダーソン&ロエの存在を僕が知ったのが、この演奏。とにかく斬新で驚いたものだ。

彼らの演奏で、もっと他の曲も聴きたいと素直に感じた。ユーチューブだと「もっと見たい、もっと聴きたい」となるが、演奏会だったら「また聴きに来たい」と、これまた素直に感じるだろうと思う。

表現としては適切ではないのかもしれないが、プロの演奏は商品なのではあるまいか?商品としてお金を聴き手は払い、満喫する。もっとシンプルに表現すると、「その演奏、お金を払っても聴く価値があなたにありますか?」ということになると思う。

特に連弾(1台4手)で思うことが多いのだが、残念なことに連弾は、演奏者だけが内輪で楽しんでない?という演奏が多いように感じる。実際に演奏する側は楽しいのだろうと思うが・・・

この演奏は聴き手も楽しい!

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category: Anderson & Roe

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理想サウンド 

 

本番でどれくらい聴き手のことを意識しているだろう?数少ない、しかもその数少ない本番のほとんどがサークルとか発表会という場ではあるが、考えてみると、本番中に聴き手立場になって演奏するという意識は皆無だ。もしかしたら多くの人がそうなのかもしれないとも思うが、本番では聴き手の存在をむしろ排除しようと努力する。

練習の時でも、「どう弾いたら聴き手が喜んで(?)くれるだろう?」などという意識は皆無だ。ただ、常に自分の中で鳴っている理想サウンドのようなものと比較しながら練習しているところはある。そして、その理想サウンドが自分が弾いている曲の一流ピアニストのCDとかユーチューブの演奏ということもない。基本的には自分が弾いている曲を模範演奏的にCDなどで参考にするということはあまりないのだ。過去に聴いてきた演奏の数々が、大まかなものとして理想サウンドとなっているような気がする。聴いてきた演奏もピアノだけ・・・ということでもなく、ヴァイオリンの演奏だったりクラシックではない演奏だったりもする。複合的印象???

僕の場合、曲を譜読みする時から、自分の中にその曲に対しては理想サウンドが存在している。そのサウンドは練習過程において変化することはあまりない。練習とは、自分の理想サウンドを追う・・・という感覚が強い。結構、これを知ると多くの人は驚く。その反応に逆に僕が驚いたりする。僕にとってはそれが練習というものだから。

極端な例かもしれないが、このような練習をしていると言っていた人がいた。一応模範演奏としてプロの演奏を聴く。でも譜読みの時は、音符を読むということに集中する。というか、それしかしない。音符が並べられるようになって、一応曲らしきものになってきたら、その時に初めて「表情をつける」という練習に取り組む。その時には自分なりに・・・というよりは完全に先生へお任せ・・・みたいな感じで、先生の指示を忠実に守りながら曲にしていく。それがその人にとっての練習であり、本番ではどれだけ練習に忠実というか先生に忠実に弾けるかが最大目的になるのだそうだ。理想サウンドのようなものは初めから終わりまで存在しないという。一応(?)その人もCDの演奏などを聴けば感動することもあるのだそうだ。でも完全に自分の演奏行為と鑑賞というものとが分離している。

ここまでではなくても、自分の演奏と鑑賞で得た感動のようなものとが分離している人はいるのかもしれない。「あら素敵な演奏。でもそれはそれ。さあ自分の練習」みたいな?

譜読み→表情→本番=演奏・・・という流れが曲を仕上げていく?むろん、先生お任せみたいなことは極端だとしても、そこに「自分なりに」のようなものはあるとしても、基本的流れとしては、理想サウンドを追う・・・というよりは、「弾けてから表情」みたいな練習をしている人は意外にいるのかもしれない。

理想サウンドなるものは、多くの演奏からの印象の複合的なものから成り立っているのだと思うが、本番前の微妙な時期に、トニー・マーティンの歌唱がそこに加わった気がしている。最近は彼の歌ばかり聴いているような気がする。

「なんで自分のピアノとトニー・マーティンが関係するの?」これが普通の反応なのだろうか?

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category: ピアノ雑感

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演奏のための音楽?音楽のための演奏? 

 

ピアチェーレ演奏会まであと8日。残券はあと3枚となっております。

本番まで1週間と少し。心理的には微妙な時期だねぇ・・・

アマチュアとプロの定義ってよく話題になるけれど、個人的には自分が楽しいか、聴き手、つまり人様が楽しいかということで分けられるような気がする。むろん、ピアノなんて好きじゃないと弾いてられない。自分が楽しければいいという側面もある。人前で演奏するということ、そのものを排除した、自分だけで楽しむピアノライフだってありだと僕は思う。でも人前で演奏する場合、「なんだか演奏者たち楽しそうねぇ(辛そうねぇ?)・・・」と聴き手が感じるのがアマチュア。「なんだか楽しいわ」と聴き手自身が感じるのがプロ。そんなふうに思う。

アマチュアの場合、「自分がどう弾けたか」という出来栄えだけを気にしても大いに結構。でも、人前で演奏する場合、聴衆の中に「聴くだけの人」が含まれている場合は、アマチュアでもそれではいけないだろうと思う。サークルの練習会などの場合は、聴く人=弾く人なので、自分がどう?でもいいと思うが、今回の演奏会の場合、60人近い人が、わざわざ我々の演奏を聴きに来るわけだから、やはり「自分でどうだった?」だけではいかんだろうと思うのだ。

アマチュアの場合、自分の出来栄えがすべてみたいなところがある。だからアマチュアなんだろうが、ミスタッチとか、そのようなことって演奏者が感じるほど聴き手は気にしていないものだ。自分が聴き手の場合、やはり気にしないもん。楽譜を下見し、「今日の演奏者はどこをミスするのかしら?難所はどう克服しているのかしら?」なんて聴く人はいないだろうし、いたとしてもそれはかなり特殊な演奏の聴き方だろうと思う。

聴き手は何を望んでいるのか?「自分が・・・」ではなく「聴き手は?」の部分。この部分にあまりに無頓着ではいけないとは思う。聴き手が演奏者の実践度、到達度を聴きたいわけではないのだとしたら、聴き手は何を聴きたいのだろう?そこを考えると恐ろしくなることもある。

でも8日前の心理状態としては、ほぼ「自分でどう?」状態だ。そんなものなのかもしれない。別に受け狙い踊りをするわけでもないのに、聴き手を意識するということは非常に難しい。

「ああ・・・ミスもあまりなく弾けました~」ということから一歩進んで、音楽的表現とか、そのようなものに直結したところを目指す場合、僕の場合、奏法というものを意識し過ぎる傾向がある。奏法と表現というものは関係しているものなので、そうなるのも当然なのかもしれないが、この場合も「自分でどう?」ということと変わりはないような気もする。仮に奏法なるものが自分なりにいい感じに実現できて、何かしら人に伝わったとしても、奏法のために頑張ったというか?

「奏法実現」のために「音楽」「曲」は存在しているのだろうか?逆だろうと思う。曲のために奏法が存在しているのだ。割とプロでもこのあたりは微妙だったりするのではないか?見事に弾いているし、参考になるけれど、基本的な音楽の聴き方、さらに演奏を提供する側として、聴き手にまずそこを感じさせてしまうというのは?

これはプロでも、というかプロだからこそ、というか、幼い頃から厳しい、地道な訓練を積み重ねたからこそプロになれたわけなんだろうけれど、プロの中にも演奏にその「修練」を感じさせてしまう人もいる。訓練→曲成立という感じを聴き手に感じさせてしまう。これもある意味でいかんとは思う。努力するためにピアノがあるんじゃない、反対なのに、演奏にとても修業の厳しさを聴き手にまで彷彿とさせてしまう立派な演奏?

本番前、悶々と考える僕に友人(ピアニスト・アメリカ人)がくれたアドバイスが、「作曲家の演奏を聴くといい」というもの。たしかに「努力と涙でピアニストになりました!」という人よりは、作曲家は音楽そのものを追及しているというか、そんな大雑把なイメージはある。

「演奏実現のために音楽」ではなく「音楽実現のために演奏」のような???

彼が教えてくれた作曲家はイタリア人のロベルト・ピアナという人。むろん、ピアノも上手だから聴いたらいいよ・・・なんだろうが、この人、とても演奏が上手いと思う。自分の編曲だからかもしれないが、音楽のために演奏しているという感じだ。演奏するために音楽があるのではなく・・・

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category: ピアチェーレ

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音楽とイタリア語 

 

ピアノブログを徘徊して気づくのが、皆さん自己評価が低めだということ。「お耳汚しでしたが・・・」とか「まだまだ弾けてなくて・・・」とか。本当にそう思っている場合もあるだろうが、どこかブログの掟のようなものも感じたりする。自分を低めに表現するという掟。この心理の裏には「人様に~と思われる」ということもあるのかもしれない。実際によく弾けたと自分が感じても「自分としては・・・」という前置きがないと「何様!」のようなコメントが来たりする可能性があるのかな?

ピアノブログの文章を分析(?)してみると、自己評価低めの理由としては、指が動かないとか、止まってしまって・・・ということよりも、基本的な音楽性に対しての自己評価が低めのような気がする。

大雑把に大別してみると・・・

① 歌って弾いているつもりなのに、感情を込めているつもりなのに、録音などを聴いてみると、「もろ拍を刻んでいますっ!」のような演奏になっている。

② 左手がデカい!

③ フレーズの頂点として盛り上げたつもりだが、そこだけがバシン・・・とブッ叩いた音として聴こえる。

みたいな感じになるような気はする。②に関しては、演奏するうえでの、様々の場面においての具体的な弾き方を意識していないというか、指導されていないとそうなるような気がする。全部同じようなタッチで弾くと、左手の伴奏(音が右手より多い曲は多い)が単純に大きくなってしまう。指導者も「左手が大きすぎるわ」だけではいけないだろう。では具体的にどうすれば・・・ということを教えて欲しいからレッスンに通っているのでは?割と音楽性とメカニックというものをリンクしにくいレッスン(指導)も世の中にはあるのでは?

①と③は、いわゆる「流れがない」「演奏に抑揚がない」ということになると思う。これはソルフェージュ能力ということも幾分は関係しているのかもしれない。楽譜が読めないとピアノの練習、演奏は非常に困難なので、やはり読譜の指導や楽典の指導は不可欠のものだと思う。日頃のレッスンでワークブックなどの併用などは特に子どものレッスンでは当たり前のことなのだろう。では、ワークブックで正解できればそれでよしなのだろうか?

「ト長調です。調号はこれです」という知識は必要。ト長調の曲の読譜の際にラとかレに♯をつけられても困るわけだから。「調号はファに♯です」という知識があれば、読譜の際に実際に間違えなければそれでいいのか?そういうことでもないだろうと思う。

「ハ長調からト長調に移ったこの瞬間が素敵!」のような感覚的なものが将来の音楽性というものに結びついていくのかもしれない。このあたりは言葉というものと似ているような気がする。「い」です。はいそうですね。「ぬ」そうです。つなげると?「犬です」そうですね~よく理解できていいますね~だけでは言葉は話せないというか、相手に伝わらない。言葉には抑揚があって初めて人に理解してもらえる。ロボットが一語一語話している感じでは困るわけだ。音楽も同じなのでは?知識を抑揚というものに結びつけていく能力がソルフェージュ?

言葉は自然に習得できていくわけだが(自国語ね)、音楽は何かしらのコツが必要というか、言葉ほど自然に習得できるものではないのかもしれない。

レッスンに通う目的は、曲が弾けるということだと思う。でもそこに多くの人は「素敵に」ということを望むと思う。ピアノって音符が認識できて、練習を重ねれば、難しい曲に進んでいけてしまうような摩訶不思議なところがある。基本的奏法とか、抑揚感が足りなくてもショパンやラフマニノフを表面上は弾けてしまうわけだ。

いわゆる上級者でも①②③で悩んでいる人は多いという印象をブログを読むと持つ。これはどういうことだろう?ソルフェージュ能力は目的ではないだろうと思う。別に「メリーさんの羊」を全調伴奏付ができるようになりたいからピアノを習っているわけではないと思う。でも音楽表現というものとソルフェージュとの何らかの関わりというものはあるのだとしたら?

単語と文法が頭に入れば言葉は習得できるのだろうか?人に自分の思いを伝えることができるのだろうか?語学での発音が②であり、抑揚ということが①③と考えてみるとどうなのだろう・・・

「調号はファの♯です」ということと単語の丸暗記ということは似ているような気はする。

突然イタリア語の話になるけれど、イタリア語って歌みたい・・・などと個人的には感じる。抑揚があるよね。オペラみたい。ソルフェージュって、この感じを音楽で表現するために必要なものなのかもしれない。

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愛の挨拶 

 

2011年頃だっただろうか、アルド・チッコリーニのリサイタルを聴いた。その頃は自分の身体を演奏会場に運ぶ・・・ということそのものが難儀だった頃で、チッコリーニのリサイタルも行こうかどうか迷った記憶はある。当時、チッコリーニは高齢で、彼の演奏を生で聴く最後のチャンスかもしれないという気持ちが身体の不調よりも大きかった。自分自身も外出できるのはいつまでだろう・・・なんて思いもあったと思う。

チッコリーニはアンコールでエルガーの「愛の挨拶」を演奏した。惹きこまれるような、どこか神のような演奏だったけれど、テンポが異様に遅かった。楽譜にはアンダンティーノとの指定があり、彼の「愛の挨拶」はとてもアンダンティーノというテンポには思えなかった。

「何か意味があるのだろうか?」そう思った。テンポ設定だけが自分の中で「何か意味があるのだろうが、よく分からない」というものとして残った。

エドワードはピアニストを目指していたが、ロンドンで多くのピアニストの演奏を聴いて、自分はとてもピアニストにはなれない・・・と悟った。作曲もしていたが無名であるエドワードの曲など誰も見向きもしなかった。彼はピアノ教師として生計を立てるようになった。

エドワードの生徒にアリスという女性がいた。とても熱心な生徒だ。いつの頃からか、エドワードはアリスを生徒としてだけではなく、一人の女性として魅力を感じるようになっていった。エドワードの恋心は愛に昇華していった。

「ああ、アリスと共に人生を歩んでいけたら・・・これほど幸せなことは自分にとってないだろう・・・」エドワードの熱い心はアリスにも伝わっていた。アリスもエドワードをピアノ教師としてだけではなく、芸術家として尊敬していたし、いつのまにか人間として惹かれていった。

「エドワード、君はまさかアリスと結婚したいと思っているわけじゃないんだろう?結婚は無理だろう?君はカトリックじゃないか?アリスはプロテスタントだろう?それじゃあいくら君がアリスを愛していても無理だろう。これは言いたくはなかったが、アリスは君よりも8歳も年上じゃないか、そりゃあアリスは魅力的な女性さ。でも遊びじゃないんだろう?だったらアリスのことは忘れることだ」

アリスの両親はエドワードとアリスの結婚に断固反対と姿勢を崩さなかった。頑なに二人を引き裂こうとした。家柄が違ったのだ。得体の知れない無名の作曲家志望の男などに大事な娘を託すことなど絶対にできない・・・

しかしアリスの決意は固かった。「エドワードと人生を歩みたい」

「私・・・勘当されたの。もうあなたしかいない。あなたと人生を歩みたい・・・」

「アリス・・・いいのかい?僕は君に平凡な幸せなど約束できないかもしれない。貧しい生活が待っているかもしれない。それでもいいのかい?」

「エドワード・・・あなたはきっと作曲家として成功する。私、そう感じるし、あなたを信じられる」

エドワードとアリスはすべての困難を乗り越え結婚した。エドワードはアリスに「愛の挨拶」という小曲を捧げた。二人の愛の記念にと。

アリスは生涯、夫であるエドワードを影で支え続けた。決して表に出ることはなかった。エドワードの作曲家としての名声はイギリスだけに留まらず、世界的なものとなっていった。

二人は共にパートナーとして人生を歩んだ。

「エドワード・・・ごめんなさい、私はもう長くはないかもしれない。癌という病気らしいわ。迷惑かけてごめんなさい」

「アリス、僕を置いていかないで・・・君のいない人生なんて考えられない・・・・」

エドワードも、そしてアリスもすべてを受け入れた。そして二人は悟った。「幸せな人生だった」と。

「アリス・・・もう一度君にあの曲を捧げてもいいかい?愛の挨拶を・・・」

二度目の「愛の挨拶」は、かつてのような熱い愛を語るものではなかった。すべてを乗り越えるような熱い愛ではなかった。しかし、そこには別の愛の表現があった。

「共に人生を歩んでくれてありがとう」

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新しい魔王 

 

以前にも僕の周囲にはクラシック嫌いの友人ばかりと書いたが、彼らのアンダーソン&ロエに対する感想はとてもいい。

「へぇぇぇぇぇぇぇぇ・・・クラシックなのこれ?」「斬新でクールだね」「昔、この曲、音楽の授業で聴かされた記憶がある。退屈だったけど、これはいいね?同じ曲?」等々・・・

このことは玄人筋(?)からは厳しい評価を受ける可能性を感じさせる。「音楽は音だけで表現するものだ。映像など邪道だ」みたいな?

自分がどう感じたか・・・この部分も大切なのだと仮定すると、僕はこのようなパフォーマンスは大好きだ。リスト編のソロバージョンよりも演奏効果が高いのではないだろうか?

彼らの連打も凄いと思う。やはりタッチ感が抜群だ。

ピアノ演奏=パフォーマンス=表現行為・・・と考えると、これはありだと僕は思う。

まぁ、賛否両論かもしれない。

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category: Anderson & Roe

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新しいリベルタンゴ 

 

まだまだアンダーソン&ロエという素晴らしいピアノデュオを知らない人は多く、少し残念な感じなので、新しくカテゴリーを作り、彼らの演奏を紹介していこうと思う。

彼らの特徴としては、ユーチューブ(映像)を巧みに、そして効果的に使用していることだろうと思う。このあたりはネットの普及という時代性を感じるところだ。連弾・・・どこか「発表会」とか「仲良く連弾」みたいな、ソロと比較すると、どうしても影というか、軽く扱われるというか、どこかそんな雰囲気を僕は感じたりする。連弾はソロの代用でもなく、発表会の時間稼ぎでもなく、それだけでパフォーマンスとして通用するものだ。この概念を植えつけたのが、かつてのラベック姉妹だったような気がする。彼女たちの演奏、というか登場は衝撃的ですらあった。

アンダーソン&ロエは、オリジナル連弾曲、2台ピアノ作品に限定せず、自分たちで作曲(編曲)し、パフォーマンスを繰り広げる。ソロ作品と比較すると、レパートリーとしては、どうしても限定されてしまう領域なので、彼らは大変に賢く、野心的であると言えるだろう。かつてラベック姉妹に対しては、厳格なクラシック通や評論家たちは割と厳しい眼差しだったような気もするが、このデュオも、もう少し有名になれば、「クラシック的ではない」などと評価されるのかもしれない。アメリカでは少なくとも人気炸裂という感じなんだけど・・・

既成概念に捉われない闊達さが好きだ。

ピアソラをクラシックのピアニストが演奏した映像などを聴くと(見ると)、華麗さをペダル効果に依存している演奏が多い気がする。そうすると、どうしても「切れ」のようなものが不足してしまうような気がする。ピアノでピアソラを弾く難しさだろうと思う。アンダーソン&ロエは、このあたりを克服しているように思う。ここまで切れのいいピアノ版「リベルタンゴ」は珍しい。離鍵、打鍵の反応がとてもいいような気がする。

日本にも来日しているし、彼らのレパートリーの一部は日本でも輸入楽譜専門店で手に入れることが可能だ。

これまでの連弾の概念を吹き飛ばして欲しい。

kaz




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category: Anderson & Roe

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演奏は演奏、ソルフェージュはソルフェージュ??? 

 

「私、別にジャズとか興味ないしクラシックのピアノ曲が弾ければいいわ。学校の先生とか保育士になるわけでもないし、移調とか伴奏付けとか、別にできなくても困らないし・・・」

これはよく分かる。僕も声楽の曲やギターの曲をピアノで弾ければ、「便利だな」とは思うが、基本的にはクラシックのピアノ曲を素敵に弾ければ満足なところがある。多くの人がそんな感じなのではないだろうか?3段譜をピアノで弾く、この場合、手は3本ではないわけだから、瞬時(でなくてもいいとは思うが)に端折れる音と入れるべき音を耳で判断していかなくては3段譜は弾けないし、1段譜の場合は、伴奏の構成音を感じなければ弾けないだろうとも思う。

「でも、それは私がやりたいことじゃない。ショパンのソナタが弾けることが夢なの。即興したいわけじゃないの。楽譜は読めるの。指の訓練と練習を重ねればいいんじゃない?」

ここで考えてみる。ショパンのソナタが弾ければ・・・という場合、音符を鍵盤に移せるということができれば満足なのだろうか?最初はそれでも感激だろうとは思う。「わっ、憧れのサウンドを自分で鳴らしているんだわ」みたいな喜びはあろう。でも音にできた段階で、「じゃあ、次はバラードに挑戦だわ」というのも、ちょっと寂しい気はする。「やっと音にできた」ではなく「素敵に弾けた」ということが喜びなのでは?

別に即興名人でなくてもいい。移調名人にならなくてもいい。クラシックの曲を弾きたいからピアノを弾いているのだから。だからこそ、「どう弾くか?」ということを大事に思うべきなのではないだろうか?

視覚的な情報だけで譜読みをし、細部のパッセージ練習を反復し、つまり練習を重ね、音は弾けるようになっていく。この場合、留意すべきことは「細部だけを重視しない」ということだ。なんというか、練習熱心な人ほど、「全体ではなく細部だけにこだわる」という感じがしないでもない。このあたりのことは意外とソルフェージュ能力との関わりがあるのではないかという気もする。

ソルフェージュ能力(一般定義がどのようなものかは分からないが)、クラシックピアノ曲を弾く上で便利・・・というか、皆無だと苦労するのが「楽譜を見て音が鳴るかどうか」なのではないだろうか?楽譜を見て音、和音の変化を感じることができ、さらに偉大な演奏を聴いてきた経験をプラスしていくと、弾く練習をしなくても、頭の中で「自分にとっての理想の演奏」が鳴るのではないだろうか?ひたすら音が弾けるようにし、先生のダメ出しを守り、本番では「練習の時と同じように弾けますように」と思っている人と、自分の理想サウンドを求めて飛翔できる人では、大きな差が出るのではないだろうか?同じショパンの曲を弾くにしても・・・

むろん、頭の中で鳴っているだけでは人には伝わらないから、練習は必要だが、「根性反復練習」と「理想の音を追う」という練習とでは違いはあるだろうと思う。

僕が昔のピアニストを好むので、特にそう思うのかもしれないが、いい演奏というものは「フレッシュ」だと感じる。ショパンの曲を演奏しても、まさに今出来上がったばかり・・・のようなフレッシュな感覚がある。演奏そのものが生き生きとしている。むろん、ショパンを弾いているのだったら、即興しているわけではないから、楽譜を音にしているのは変わらないが、往年の巨匠の演奏は、どこかフレッシュだ。演奏が生きている。まるで即興演奏をしているような自由自在さを感じる。何故、現代のスターピアニストよりもそう感じるのか分からないが・・・

フリードマンの演奏するショパンのエチュード。もう90年以上も昔の演奏だ。

でも、立体的でフレッシュで、今まさに弾いているみたい。音そのものが軽いよね。浮遊感がある。ピアノで遊んでいるみたい。そこが凄い。重量級の感じで「汗エチュード」を弾く人はいくらでもいるが・・・

フリードマン・・・ソルフェージュできたのではないだろうか?彼だけではなく、この時代のピアニストは自ら作曲をし、編曲をするのが普通で、今のような「作る人」「弾く人」という分業制ではなかったからというのもそう感じる理由だ。なによりも演奏からそう感じる。

もしかしたら演奏というものとソルフェージュというものは分離しているものではないのかもしれない。

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category: ピアノ雑感

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耳コピって訓練?能力? 

 

所属するサークルのメンバーにジャズの得意な人がいる。僕はジャズって「よく分からないんだよねぇ・・・」などと思う方なのだが、自分でアレンジしたりアドリブで華麗に弾いたりするのを聴くと、「いいなぁ・・・」などと思う。正式にジャズ理論などを勉強した人ではなくても、昔電子オルガンを習っていて、ヤマハの講師などもしていて、現在はクラシックを弾いている・・・などという人もポップス系の洋楽などを自己アレンジで弾いたりして、それがとても素敵だったりする。

思うに、このようなことができる人と、できない人とに分かれるのでは?別に所属するサークル内に限らず、ピアノを弾く人の中で、できる人とそうではない人とに分かれるような?

ピアチェーレの演奏会でプーランクの「愛の小径」を弾く。もしかしたらソロ用の楽譜も存在しているのかもしれないが、僕はオリジナルの声楽用の楽譜で練習した。当然、3段譜なわけだが、それを知って驚く人がいる。素人さんではなく、クラシックの難曲を弾く人がだ。さらにピアチェーレの演奏会で弾く「11月のある日」はギター曲、「アルフォンシーナと海」はフォルクローレなので、歌の曲だ。この2曲は、完璧に耳コピで弾く。「えっ・・・なんでそんなことができるの?」とこれも驚く人がいたりして、こちらが驚く。

子どもの頃は即興演奏で遊んでいた。別に「これは何調です。この調の調号は・・・」などという知識もなく、色々な調で弾くことが楽しかった。転調すると色が変わるのが楽しかった。子どもの頃のピアノレッスンでは、いわゆる「ソルフェージュ」なるものをやった記憶はない。それどころか、僕は楽譜が読めなかった。なのでレッスンの曲は練習しようがなく、それで子どもの頃のレッスンは撃沈したのだ。大人になってピアノを再開してからも、別に「移調の練習をしましょう」みたいなレッスンではなく、普通にピアノの曲を弾くだけだ。僕はソルフェージュなるものの訓練を受けたことはないのだ。

施設で音楽療法なるものがある。セラピストが来てセッションをする。日程が合えば僕もお手伝いをすることがある。ピアノを弾くのだ。その場合、叙情歌とか童謡が中心になる。基本的に楽譜の調は高齢者には高すぎるので、移調して弾くことになる。正規に移調奏の訓練は受けてはいないが、「リンゴのうた」を歌いましょう・・・という場合、楽譜がCだったらAに移調して弾くことは普通にできる。

なんとなく、このようなことができる人にとっては当たり前のことが、できない人にとっては摩訶不思議な能力に思えるのだろうか?

ここで思う。音大を卒業した人でも歌謡曲を耳コピで弾いたり、「リンゴのうた」をいきなり移調して弾いたり、または歌だけの1段譜を見ながら、適当な伴奏をつけたりすることのできない人がいるらしいということ。ショパンやリストは弾ける。でも歌謡曲を耳コピで弾いたり、1段譜や3段譜を適当にピアノで再現することはできない。音大という専門機関で2年なり、4年なり、みっちりと専門的にソルフェージュなる授業で訓練されたのでは?

「音大のソルフェってそういうことをするわけじゃないの」・・・なのかもしれない。アカデミックな場なのだろうから、そのようなことなのかもしれないが、耳コピができなかったり、移調ができなかったりしたら、実践的ではないよね・・・とは思う。

このような能力(と言えるのかは分からないが)があるのと、ないのとでは、いわゆる普通のクラシックのピアノ曲を弾く場合でも、何かしら関係してくるのではないだろうか?楽譜を視覚的に把握し、それを鍵盤に移す・・・ことはできる。それが複雑な情報でもできる。だから難曲も弾けるのだろう。でも頭の中で自分なりの理想の音は鳴っているのだろうか?耳コピで弾く場合、弾いている箇所よりも先の音が鳴っていないと演奏として成立しない。楽譜がないわけだから。でもクラシックのピアノ曲を再現する場合でも、このような感覚は必要なのでは?

このあたり、音大卒の方の意見を聞いてみたいなどと思う。

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category: 拍手のない名演

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弾くという示し方 

 

別にパリに憧れているわけでもない。パリに知人が住んでいるいるわけでもない。でもこの気持ちの落ちようは何なのだろう?

むろん、ピアノの練習はしている。本番を控えているから。無料とか有料とか、そこは関係ない。わざわざ会場まで足を運んでくれる方がいるということが凄いことなのだ。だから練習はしている。

でも、たとえば来月のサークルのピアノパーティ・・・みたいな催しとなるとどうなのだろう?粛々と進行するいつもの練習会とは異なり、飲食しながらの会だ。弾いて、飲んで、食べて・・・いいのだろうか?雰囲気としては無音で食べ、演奏はしっかり聴くので、緊張感はかなりのものなのだが・・・

今月の末に演奏会、ピアノパーティは来月の中頃。弾く曲もないよね・・・

でも、気持ちを落とさないという意志表示もありなのかもしれない。日常そのままに過ごすことで、屈していないという気持ちをキープすることによる意志表示。

この人たちは、いつものことながら、超絶曲を実に楽しそうに弾く。そこがいい。超絶曲を必死に弾く人は多いけれど。

演奏も素敵だが、映像も素敵だ。日常の幸福感を感じる。

この「青きドナウ」は「ラ・ヴァルス」・・・入ってるよね?なんともお洒落な感じだ。

音楽に浸って、ピアノを楽しく弾くという意志表示もありかな・・・なんとなく、この人たちの演奏を聴いていてそう感じた。

せっかくピアノを弾いているんだから・・・

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祈りは平等 

 

やはりパリは国際都市なのであろう。だからこそテロの標的になったのかもしれないが、パリ在住の友人、知人は皆無でも、滞在していたかも・・・と思うとやはり心配になる。ヨーロッパ在住の友人、知人は全員無事が確認できたので、まずは一安心だが、パリは芸術の街、やはり心が痛む。僕はパリ好きでもフランス好きでもなく、むしろイタリアやスペインを訪れたいと思う方だが、やはり心が痛むのだ。文化や芸術に対してまでの攻撃・・・という気持ちがあるのかな?自由の国だしね。

もう一つ心配なことがある。僕にはムスリムの知人がいる。現在はサンフランシスコに在住している。学生時代は、同じマイノリティ人種として親しくしていたものだ。むろん、ムスリムへの差別の方が東洋人へのそれよりは格段に強かったと想像する。

「僕の身に何も起こってはいないから安心して!友人、知人たちは偏見のない人たちだし、僕のことを心配してくれてはいる。ただ気軽に街は歩かないようにしている。サンフランシスコだろうとね」

「お前、ムスリムだろ?いい加減に国へ帰れよ?」

沢山の言葉の暴力はあったらしい。むろん傷つく。その傷は癒えないけれど、偏見を持たない友人たちの言葉、行動を宝物にして生きているのだそうだ。「人間はみな同じ・・・そう思う人も多いんだ。マイノリティということで差別されることだってある。だからこそ僕は人の痛みが理解できるようになったんだ」

フランスにもムスリムの人々が多く住んでいる。たしか北米よりも多かったのでは?

「僕たちには祈って欲しくはないと感じる人もいるんだろうな・・・」彼のこの言葉はとても重い・・・

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パリの空の下 

 

あるセルビア人は語っていた。「同じ民族同士で殺し合いをした」と。「死んでいった相手の顔を忘れることはできない。一生そのことを背負って生きていくのだ」と。

それでも人生を生きる意味はある・・・

9月11日、ビルが崩壊する寸前、中にいた人たちは自分は助からないと悟った。人々は死ぬ前に携帯電話でメッセージを残した。ほとんどの人の最後のメッセージは同じだった。「愛している・・・」

それでも人生を生きる意味はある・・・

そう思えなくなる時もある。

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ドミンゴ奏法 

 

ヴェルディが好きだ。ピアノを弾いているのだったらショパン・・・などと言うべきなのかもしれないが、ショパンよりはヴェルディが好きだ。自分としてはロマンティック、かつ陶酔系(?)の音楽が好きだとは思うが、プッチーニよりはヴェルディが好きだ。不思議だなぁ・・・とどこかでは思っている。

ヴェルディに限らず、オペラというものはそういうものなのかもしれないが、多くの場合、ヒーロー役はテノールが歌う、演じることが圧倒的に多いように思う。敵役はバリトン、そしてヒーローを支える長老(?)みたいな役回りがバス?

ヴェルディのオペラでは光り輝くテノールのアリアよりは、バリトンのアリアに惹かれる。何故だろうと思うと、これはバスティアニーニの影響がかなり強いとは思う。あとは、テノールという声域において、僕の嗜好としてどこか「柔らかさ」のような声質のテノールを好む傾向がある。レッジェーロのテノールですね。叙情性の際立つ声がテノールという声域では好きなのだろうと思う。ゲッダとかタリアヴィーニのような歌手。

ヴェルディ・オペラのヒーロー役、マンリーコとかラダメスとか・・・どうも叙情性というものは、どこか求めにくいのではなかろうか?男性的な、いかにも「ヒーロー」のような役なので、叙情的な声とか表現というものとは別のものがまずは求められるというか・・・

決して苦手ではないけれど、そのような意味でドミンゴのようなテノールはあまり聴かない。ドミンゴが・・・というよりは、テノールという声域そのものに、僕がヒーロー的な力強さではないところに魅力を感じてしまうので、あまり聴かないのだと思う。

ドミンゴは発声の瞬間のテンションが非常に高いような気がする。楽々声を出しているのかもしれないが、いちいちテンションが高い。そこがヒーロー的なテノールとしてのドミンゴ人気が高かった理由なのだろうとも思う。思えば、3大テノールって発声時のテンションが高いよねぇ・・・

歌っているのかもしれないが、ゲッダのマンリーコとか、あまり想像できない。反対にパヴァロッティのフランス歌曲、ドビュッシーとかサティとか、あまり想像できない。

前置きが非常に長いが、ラテンのピアノ曲でテンションの高い曲、たとえば今回演奏する曲の中では、ミニョーネとかポンセの曲の場合、発声はゲッダとかタリアヴィーニではなく、ドミンゴの発声のように弾いてみる・・・ヴェルディ・テナーのようなテンションを意識してみる・・・

まぁ、タッチのイメージや質感を変えてみるということなんだが、正規の訓練(というものがあればだが)というものを受けてきていない僕としては、声楽イメージの方が把握しやすかったりするのだ。

力強く弾く・・・でもなく、盛りあげて弾く・・・でもなく、ドミンゴのテンションを盛り込んでみる・・・このほうが掴み易い。多分にイメージ先行だが。

ドミンゴのようなタッチ、ドミンゴ奏法???

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音大では何を教えているのか? 

 

昔から日本人ピアニスト(コンテスタント)たちの演奏は、とても達者で安定しているけれど、どこか表現意欲に欠けるというか、タイプライターを叩いているみたいというか、そのように言われ続けていたし、今もそう言われている。その理由としては西洋文化と接している歴史の浅さとか、日本人特有の恥じらいとか、はては哲学や宗教がどうのこうのとか・・・そのようなことに起因されているのではなどと言われてきた。そしてやはりこのことも、今でも言われ続けている感がある。

僕自身が日本人なので、「日本人は表現力に欠ける」という意見には素直には納得できないところがある。表現力として結びつかないのかもしれないけれど、日本人にも熱き表現意欲はあるのではないかと感じている。表現意欲を表現力に直結できる何かが欠けている?

海外でピアノを教えているという日本人からコメントやメールを頂くことがある。このような人たちは、現地でのピアノ教育と日本のそれとを比較できる能力があるように思う。どちらがいいとか悪いとか、そのようなことではないとは思うが、そのような人達が共通して指摘するのは「日本の音大の先生は何も教えられないのではないか?」ということだ。むろん、何も教えられないということは、まさかないだろうとも思うが、僕としてもこの点については少し感じることはある。

素人さん(前記事参照)が「作業としてこなしているような演奏」と評した日本人ピアニストのピアソラ演奏・・・

この演奏に限らず、素人さんたちは日本人ピアニスト、優秀な音大生、コンクールで賞を獲得するような人たちの演奏に対して、かなり辛辣のように思う。「何も感じない」「事務処理みたいに弾く」「凄く上手なんだろうけれど」みたいな感想。

日本人にも表現意欲はある。でも意欲を表現力として聴き手に伝える技術に欠ける?

個人的な感想だが、日本人ピアニストの演奏の弱点としてタッチというか、発声というか、発音が「ベシャッ」というか「ベチャッ」というか、どこか曖昧さを感じる。輪郭がぼやけてしまう。これではいくら心を込めて演奏しても、形としては(音楽としては)伝わりきらないのではないか?

発音時の瞬間による「何か」が皆無だと、どうしても音楽というものを「形式」というか、外側からなぞるような方向性で曲を仕上げていく印象を聴き手に与えてしまう。これが惜しい。このことが「何を弾いても同じ」とか「誰が弾いても同じ」のような印象を与えてしまうのではないか?もし日本人が西洋音楽に対して無感動人種なのであれば、それを受け入れてしまうか、そこをどうにかすべきだろうが、心の中に熱きものを持っているのに、それを表出するノウハウに欠けているのであれば、実に惜しいではないか・・・

心が欠けているのではなく、ノウハウを知らない・・・もしそうなのだとしたら、ここの部分が「音大の先生は何をしているのか?」ということと結びつくのかもしれない。

僕には何故かピアニストの友人がいる。アメリカ人なのだが、彼は日本人留学生、コンテスタントたちの演奏を聴いてこう感じるのだそうだ。「彼ら(日本人ピアニスト)は指ではなく腕で弾きすぎる。これだと音色としては単一というか、音の輪郭とか演奏の立体感が表出できない」と。

「瞬間タッチとして際立った演奏を聴いて自分で研究するしかないよね」と彼が推薦してくれたピアニストの中の一人にアントニオ・ピリコーネというピアニストがいる。この人の演奏を聴いて「発音」について自分でも研究してみようかと思う。

でもピリコーネというピアニスト?知ってました?僕だけが知らない?

たしかにピリコーネの発声、発音、この部分は日本人ピアニストからはなかなか聴けない部分だとは思う。

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category: ピアノ雑感

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素人さん 

 

素人、僕も素人だが、クラシック音楽などは日頃ほとんど聴かないような人たち、クラシック嫌いの人たち、このような人たちを今は素人と呼ぶことにする。幸か不幸か、僕の周囲には素人さんがたくさんいる。日本国内のリアルな友人のほとんどが素人さんである。たまたま、その中の一人に「楽器による発色の違い」「ピアノでラテンを演奏する場合の発色」などについて意見、感想を訊いてみたくなった。

僕は素人さんの意見は非常に重要で貴重なものだと思っている。ピアノを習っている人は、どうしても表面的な達者さなどに幻惑されてしまうようなところがある。「凄く上手じゃない?」みたいに。でも素人さんは、自分がどう感じたかで判断する。つまり演奏者の出来栄えなどは斬捨てて判断する厳しさがあるようにも思う。「えっ、これいいね」か「なんだか一生懸命に弾いているけど退屈だな」に分類する傾向がある。厳しい・・・

とにかく素人さんに演奏を聴かせるまでが難儀ではある。「え~?勘弁してよ。クラシックなんて・・・」となる。そこを拝み倒して聴いて頂く(?)わけだ。聴いて頂いたのはピアソラの「リベルタンゴ」のピアノ独奏とアコーディオンの演奏。ピアノは結構有名というか、活躍している日本人演奏家。アコーディオンはリシャ-ル・ガリアーノの演奏。

「ピアソラ?ピアソラって何?」

誰ではなく何・・・と質問するぐらいの素人さんの感想。

「子どもと大人・・・って感じだな」「才能の違いって残酷だねぇ・・・」「ピアノの人はただ弾いているって感じだな」「同じ曲だよね?」

むろん、彼(素人さんね)は「楽器の発音差」とか「ピアノとアコーディオンの響き、奏法の違い」には言及しなかった。「そういう難しいことは分からないね」と。

でも、彼が言及したことで考えさせられる言葉は多い。日本人ピアニストも無表情に弾いているわけではないと思うのだが、素人さんはそのピアニストの演奏を「決められたことをただ業務としてこなしているみたいな演奏」などと言う。「だからクラシックって退屈なんだよね」とも言った。

彼らはどのような種類の音楽、演奏であれ分類してしまうのだ。「いい演奏」と「退屈な演奏」とに。その判断は非常に直感的とも言える。僕は素人さんの正直な反応に疑問を感じたことは今までない。

当初の目的、発音、発色、響きの楽器による違い、ピアノでそこを克服するには・・・なんて目的は達成できなかったけれど、貴重で正直な意見は頂けたとは思う。

「ねえねえ、このアコーディオンの人みたいな演奏をする人が沢山いればクラシック界も活性化するんじゃない?」

そうねぇ・・・リシャ-ル・ガリアーノは充分売れっ子だと思うが・・・

でも「純クラシック」にはカテゴライズはされない人かもねぇ・・・

「ねえねえ、なんでピアノの人は、わざわざ面白くもなく弾くんだろうねぇ?」

わざわざ・・・ではないと思うが・・・

クラシックを日頃愛好して聴く人は人口の3パーセント。でも実は「本当の演奏がクラシック界の中で3パーセント・・・」なのかもしれないね。

表情って「つけるもの」じゃあないんだね。反応するものなんだ。これも素人さんの意見だ。

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category: ピアチェーレ

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屈しない哀しさ 

 

ピアチェーレ演奏会まであと2週間だねぇ・・・

昨日はレッスン。苦手なミニョーネの「街角のワルツ」・・・この曲はどうも入り込めない。なんとなく哀しげ、奇麗には弾けているのかもしれないが何かが違うような?

先生のレッスンは、口頭でのダメ出しというよりは、弾いてくれる。「僕だったらこのように感じますが?」と。そしてそのように弾くための具体的な方法に入っていく。この部分がすごく具体的。指とか腕とかの使い方、あるいは楽譜からの情報と奏法との連結とか・・・

「僕の直観なのですが、この部分、kazさんはレガートすぎるのかも?僕だったらこのように弾くかもしれません。どうでしょうかね?」

ミニョーネの曲、弾き方というよりは、僕の捉え方の方向が違っていたのかもしれない。先生のミニョーネは「発色がいい」という印象。つまり音の立ちあがりというか、発音時にテンションがある・・・というか?僕の捉え方は、どこかチェロが哀しげに奏でているというか?実はチェロではなく、イメージとしてはバンドネオンなのでは?

以前、ピアノ仲間と話したことがある。クラシックのピアニストの演奏するピアソラが物足りないと。僕もその意見には同意する。発音というか、どこかタッチがボヤンとしているのだ。ピアノは音が減退していくので、バンドネオンの音の発色と比較すると、テンションが足りなく感じる。ミニョーネの場合も同じなのかもしれない。アンニュイなシャンソンでもなく、ふくよかなチェロでもなく、バンドネオン・・・

おそらく、この曲はヴィラ=ロボスの曲の中で、最も悲哀を感じさせるメロディーなのではあるまいか?実際にチェロやソプラノの「哀しい」演奏は多い。それはそれで美しくはあるが、そこにテンションを加えたいとなると、バンドネオン・・・

発音のテンションがラテンの誇りを表現できるのかもしれないね。

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category: ピアチェーレ

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新しい練習法 

 

別にクラシック音楽だけ限定して聴いているわけでもないけれど、やはりクラシック音楽は日頃鑑賞する音楽の中心とはなる。さらにピアノを習っていて、しかも人前で弾いたりもしていると、ついついクラシック音楽は身近なものと感じてしまう。

日頃クラシック音楽に親しんでいる人の割合は全人口の3パーセントなのだそうだ。「クラシック・・・いいね!」という人は100人のうちで、たった3人ということになる。

「えっ・・・クラシック?う~ん・・・勘弁してほしいな」「ちょっと堅苦しいよね」「僕、そういう高尚なものとは無縁なのでぇ・・・」

この場合、曲が難しい、理解できないということなのだろうか?曲の責任?

かなりの割合で演奏にも責任はないだろうか?

プロの場合、「あと1週間でリサイタルです。でもまだ全然弾けてないの~・・・あっ、チケットまだあります。3000円です」というのも、おかしなことになるので、プロの場合は演奏前の自分の心情のようなものは、あまり書かないのではないかと思う。リサイタル後も「崩壊してしまいました~」などと書くのは、どこか無責任のような気もするし。

アマチュアの場合、練習会とか発表会とか、このあたりは書きたい放題なのではないだろうか?演奏後に反省ばかりしていても無責任ではないしね。

ピアノブログを読んでいて感じることがある。多くの人は「自分の出来栄え」を中心に、「弾けた」とか「弾けなかった」とか、「あの部分がまだ弾けなくて」とか書いている。そこにないものは何だろう?

「人はどのように感じてくれたのだろうか?」という視点(聴点?)がない。このあたりに97パーセントの人がクラシック音楽を敬遠する理由が潜んでいるのかもしれない。あまりにも「どう弾けるか、弾けたか、あるいは弾けなかったか」ということに演奏者が執着しすぎてしまう?

ピアノを人前で暗譜で演奏するって、それはそれは大変なことなので、それを実行したということだけでも凄いことなのだと思うし、「弾ければいいの」という考え方もあるのだと思うけれど、もし自分の心の中に「なんでただ弾いているだけになってしまうのかしら?」とか「何故あの人は訴えるような豊かな演奏ができるのかしら?」のようなものがあるのだったら、聴き手のことを意識した練習などもしてみたらどうだろう?自分出来栄えだけではなく・・・

あそこのパッセージ、あの跳躍、ああ、あそこの部分の暗譜が・・・のようなことばかり意識するのではなく、少しだけ聴き手のことを意識してみる。

「私の演奏、聴いていた人がもう一度聴きたい、いつまでも聴いていたいと感じてくれるかしら?」

今日の練習、パッセージの練習が終わったら、自分の演奏を聴き手として聴いてみたらどうだろう?

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