ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

本来の目的 

 

このブログの本来の目的(?)である、ピアチェーレの演奏会の告知をさせて頂きます。

ブログのリンクにあるピアチェーレをクリックして頂くと、ピアチェーレのホームページが出てきますので、そこのメールフォームから演奏会のチケット求む(文面は何でもいいです)と、お名前、枚数などの情報と共にメールして頂きますと、ピアチェーレの方から、チケットが印刷されたPDFが返信されますので、それをプリントアウトして当日持参して頂く形となります。チケットには番号が書いてありますので、コピーをして他の方に何枚か渡すということはできません。一つの番号、つまり一枚のチケットでおひとり様です。

このブログのメールフォームからでも私には届きますので、その場合はPDF返信ではなく、当日受付にチケットをご用意しておく形となります。

・・・などという面倒な形になるわけは、消防法が関係しているからですね。60席用意するわけですが、チケットをさばきすぎて(ばらまきすぎて?)当日60人以上の方が来られても、入れないわけです。立ち見はできません。

アマチュアの演奏会なので、満席になることはないと思うのですが、でも消防法の関係で、当日来て頂ける方を60人までにこちらで調整しておく必要があるわけです。「来ました・・・入れませんでした」というわけにはいかないので。

11月28日(土) 雑司ヶ谷音楽堂  14時開演~

無料の演奏会です。

ホームページからのチケット受け付けは、明日、10月1日0時から・・・となります。

kaz

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category: ピアチェーレ

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学習臭 

 

苦手な作曲家は誰だろうと考えてみる。僕の場合は、ドビュッシーかな・・・などと思う。基本的に和声的な感覚がきちんと着地しないような浮遊感が苦手なのだと思う。好きな人はそこが魅力なんだろうとも思うが。スクリャービンは5番のソナタあたりまでなら大丈夫なのだが、それ以降の曲になると、やはり、いつまでも着陸しない飛行機に乗っているような気がしてくる。

「はっきりしなさい・・・はっきり!」みたいな感じだろうか?

あとは「学習臭」の強い作曲家の作品も苦手だ。この場合は、作品というよりは、そのような臭いのする演奏が苦手なのだろうが。いわゆる、受験曲としての定番曲が苦手だ。バッハの平均律とか古典派のソナタのいくつかとか・・・

やはり、そのような演奏が苦手なのだろう。「バロック的に弾いています」的なポツポツバッハとか、「ここからが展開部なんですぅ~」的な楽譜が視覚的に浮かんでくるようなモーツァルトとかベートーヴェンがとても苦手なのだろうと思う。

ショパンのエチュードなども、達者度は様々だとしても、あの世のショパンが泣いてしまうような演奏も多いのではないだろうかと思う。

一度、バリバリ頑張ってしまうのではなく、「おピアノ」というものから離れてみるのもいいのかもしれない。バッハのピアノ(鍵盤楽器)以外の曲を学習者としてではなく、鑑賞者として聴いてみる。モーツァルトの「フィガロ」を聴いてみる・・・とか。

すると、あら不思議・・・苦手意識が溶けていくような?学習臭が消えていくような?

シュトゥッツマンのバッハ・・・こんなに美しい曲があるんだね?「インヴェンション・・・退屈・・・」という場合、このようなバッハも聴いてみたらいいのではないかとも思う。

kaz



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category: ピアノ雑感

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麗人・・・シュトゥッツマン 

 

このような演奏を聴くと、やはり歌はいいな・・・などと思う。

このブログを読んでいる人の多くはピアノ好きなのだと思うが、歌もいいよ・・・とのメッセージを込めて、ナタリー・シュトゥッツマンの歌を紹介したい。このシューベルトは10年程前の日本公演でのもの。僕も聴きに行きました。

まずは、声の魅力があるように思う。このような「ビロード系」の声に僕は弱いんだ・・・

あとは、普通の歌手だったら、サッ・・・と歌ってしまうところでの、微妙な強調が上手いような気がする。サッ・・・と歌ってしまっても、それなりに充分素晴らしいのだろうが、このような「強調」があると、聴き手としては「ハッ・・・」としてしまうわけです。

女性の演奏会での衣装といえば、やはりドレス・・・ということになるのだろうが、このような舞台姿も麗しいと思う。

kaz



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category: The Singers

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演奏者の責任 その2 

 

演奏の印象というものは、極めて主観的なものに左右されるだろうと思う。世界的なピアニストの演奏に退屈し、未熟なアマチュアの演奏の一瞬の閃きに涙することだってある。

前記事のピアニストの「愛の小径」に、どこかスマートなもの、シックなものを感じる人もいるだろう。「サクサク事務処理的」と感じるのは僕の主観によるものだ。

残念ながら、というか、不思議なことにシュトゥッツマンの「愛の小径」はユーチューブでは聴けないようだ。動画にアップされている演奏の中では、ジェシー・ノーマンの歌唱が最も僕の主観的な好みと一致するような気がする。

一般的に演奏というものが主観的なもので判断されるのならば、前記事のピアノ版「愛の小径」をジェシー・ノーマンの「愛の小径」よりも好ましく感じる人がいたとしても不思議ではないし、それが普通なのだろう。

でも、「違う曲に聴こえる」という事実は残る。

kaz



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category: ピアノ雑感

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演奏者の責任 その1 

 

技巧を誇示するリストの曲、青白い月の光の中で夢見るように奏でるショパン、キッチリ、カッチリ、時には厳格なベートーヴェン・・・お受験曲代表・・・のような?

このようなイメージは、曲本来が持つものからというよりは、演奏がもたらしているもののような気がする。

美しいベートーヴェン・・・それはベートーヴェン的ではない・・・のような聴く側、演奏する側の思い込みもあるのかもしれないが。

演奏によって曲、そして作曲家への印象というものは相当変わるのではないだろうか?その意味で演奏者の責任は大きいような気がする。

プーランクの「愛の小径」を演奏したばかりだが、演奏するにあたり、特にCDなどを聴いて参考にした演奏というものはない。そのような、お勉強的な聴き方は基本的にはしないので、自分が演奏する曲を色々な演奏家のCDで聴き比べてみるということは基本的にはしない。ただ、この曲の演奏で好きな演奏というものは存在していた。僕の場合、「愛の小径」ではナタリー・シュトゥッツマンの演奏(歌唱)に惹かれる。彼女のプーランク歌曲集のCDは僕の愛聴盤だ。

自分の演奏後、オリジナルである歌ばかりではなく、ピアノによる演奏も聴いてみたくなった。そしてこのピアニストの演奏がまずヒットした。よく整えられた演奏だと思うが、個人的には「ザ・日本ピアノ」という印象。優秀な演奏なのであろうし、演奏者も優秀なのであろう。CDも発売しているみたいだし、日本人が「難関音大」「有名音大」という言葉から、まず最初に連想する音大を、おそらく優秀な成績で卒業している。

「ザ・日本ピアノ」という演奏は非常に多いが、個人的には、そのような演奏からは「サクサク事務処理的」な印象を受けることが多い。感性、趣味の問題なのかもしれない。このピアニストは、割と「あっさりめ」の何かを「愛の小径」から感じたのかもしれないが、愛好家としての個人的な感想では、付点の処理が一様すぎる、テンポ設定がかなり早め、タッチの種類が少ないので、ピアノとフォルテ、メゾピアノぐらいの間のニュアンスしかない・・・という印象を受け、それがサクサク事務処理感を感じる理由かもしれないなどと思ったりする。

演奏から受ける印象で、まず聴き手は演奏者を評価する。その演奏者が好きか、そうでもないか・・・

同時に演奏している曲をも評価するのではないだろうか?僕がシュトゥッツマンの歌唱ではなく、最初にこのピアニストの「愛の小径」でこの曲との出逢いがあったとしたら、僕はこの曲を弾きたいと思っただろうか?

もし、演奏によって曲そのものが聴き手に評価され、その結果、その曲が聴き手の心の中に留まることなく、スッと素通りしてしまったとしたら?

演奏者の責任というものは演奏者本人が思っているよりも実は大きいのかもしれない。

kaz



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category: ピアノ雑感

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きょうはチャリティー・コンサートだ! 

 

ピアノ教師が人前で演奏するのを引退してしまう理由の一つに「本番の怖さ」があるのではないかな?現役(?)の頃は、「緊張するし、いや~ん・・・」というわけにもいかず、弾いてきた。子どもの頃だってそうだったろう。でも卒業してしまえば、そのあたりは自由になる。自己選択になるというかね。「いいえ、ピアノ教師だって弾くわ。今年の発表会はディズニーメドレーを連弾したもの・・・」う~ん・・・

人前演奏で最も怖いのは、やはり「暗譜」ではないだろうか?つまり無限ループになったらとか、頭が真っ白になったらどうしようとか、そのあたりが怖い。生徒にとっては、それが「きつつきコンコン」とか「子ぎつねコンコン」のような曲であっても精一杯の曲を発表会では弾くのだ。普通、発表会では日頃のレッスンで弾いている曲より少しだけ背伸びした曲を弾く場合が多いだろう。生徒は大変なのだ。でも小学生でも弾いて帰ってくるわけだ。「舞台で何があっても自分でなんとかしてくるのよ・・・」というものを生徒にだけ課し、自分は逃げてしまう(ように外部からは見えるのね)のはどこか違うんだな・・・などと思う。生徒に本番、暗譜の厳しさを課しておいて自分はそれをしないというのは違うと思う。僕が厳しすぎるのかな?

本番、舞台の怖さを感じるのはピアノ教師だけではない。アマチュアだってそうだ。みんなそうだ。本番当日、まず思うのはどんなことだろう?「無事に弾けますように」とか「失敗しませんように」とか、ただひたすら「ああ・・・どうしましょう・・・」だったりするのではないだろうか?

人前演奏当日、本番で最も難しいのが、演奏者の内情(失敗しませんように!)と聴衆の望んでいるものとのギャップが生じることではないかと思う。演奏者が本番当日思う、願うこと(失敗しませんように!)は、実は聴き手にとってはどうでもいいことなのだ。聴き手は演奏の出来映えを評価するためにそこにいるわけでもないし、したいわけでもない。聴き手は演奏者がピアノと格闘するのを見物したいわけでもないのだ。「聴き手は何を望んでいるのかしら?私は与えられた時間、何をすればいいのかしら?」という観点で自分の本番を考えてみたらどうだろう?自分が演奏者ではなく、聴き手だったら何を望むだろう?それを考えてみる。「もしかしたらミスタッチなんてどうでもいいのでは?」みたいなことが見えてくるかもしれない。

ねじり鉢巻きでピアノの練習をしてきた。「こんなに頑張ってきたのだもの・・・」でも聴き手はその頑張りなんて聴きたいわけでもなかったとしたら?

「ピアノを練習する?ちょっと違いますね。ピアノで音楽をする・・・では?」(アルトゥール・シュナーベル)

「ピアノを弾く?ああ・・・なんて恐ろしいことを。ピアノで遊ぶ・・・では?」(サンソン・フランソワ)

本番で最も大切なのは「日頃の成果の発表」ではなかったとしたら?

本番当日の朝、こんなことを書いている自分は相当変わり者だな。

ナイジェル・ケネディの本番。練習を積み重ねてきたのだろう。それはナイジェルだけではなく誰でもそうだ。ナイジェルは舞台が怖くはないのだろうか?そんなことはないだろう。同じ人間なのだから。でもはっきりしていることがある。それは聴衆を放置していないということだ。

kaz



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category: 未分類

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明日はチャリティー・コンサート! 

 

明日はチャリティー・コンサート本番の日。でも非常に落ち着いている。緊張している場合ではないというか、現在は気管支炎で咳が酷いのだ。でも大分よくなったかな・・・という感じではある。でも気温が変化したり、臥位になったりすると咳が止まらなかったりする。明日の演奏中は咳が出ないといいな・・・と思う。

演奏するのはプーランクの「愛の小径」、ピアノの難曲とは異なり、技巧的な難所はないので、まぁ、落ち着いていられるのかもしれないが、逆にピアノ曲的な聴かせどころは皆無のような曲でもあるので、そのあたりがどうなるか・・・

もともとは声楽の曲だ。もう、ほとんどシャンソンなのでは?声楽用の楽譜で練習したが、厳密には編曲になるのだろうか、でもピアノパートを弾くだけで曲になってしまうので、編曲ではないな・・・と思う。

「愛の小径」の歌詞は暗い感じだ。

愛の小径、想い出の小径、失われた小径、絶望の小径、君はもういない・・・人生はすべてを消し去ってしまう。僕の心の中には、かつての愛よりも、さらに強い想い出の小径が残って欲しい。心乱れた僕の上で君の手は熱く燃えていたのだから・・・

失われた愛を振り返る・・・それも人生の末期に・・・そんな感じの歌詞だ。ふとグラッペリの言葉が浮かんでくる。

ステファン・グラッペリ・・・ジャズ・ヴァイオリニストなので、クラシック好きの人には馴染みは少ないかもしれない。たしかこの人は幼い時に母親が死に、父親は兵士として出征していて、ほぼ孤児のように育ったのだったと記憶している。僕はなんとなくグラッペリの音にその幼少時代の何かを感じたりもする。どこか楽しげなんだけど、それだけではないような何か。心をヴァイオリンに注いでしまった何か・・・

ヴァイオリンは、ほぼ独学なのではなかったかな?本格的なデビュー前は街角で演奏していた。ストリート・ミュージシャンだね。「窓から小銭が降ってくることもある。でもバケツの水を浴びせられることもある。ヴァイオリンだって上手くなるだろう?」(ステファン・グラッペリ)

「愛の小径」を弾いていて連想したグラッペリの言葉。「死にたいと思いつめるほどの失恋をしても、時が経ち、歳を重ねるうちに、甘い想い出に変わるのさ。それが人生・・・」

グラッペリの演奏で個人的に惹かれるのが、ピアニストのペトルチアーニと組んだ演奏。とてもとても素敵だと思う。グラッペリもペトルチアーニも・・・

kaz



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category: Saudade

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恋焦がれてみませんか? 

 

少年は市内唯一の楽器店のディスプレイを見つめていた。ヴァイオリンが飾ってある。いつまでもそのヴァイオリンを見つめていた。1951年、博多でのことだ。かつて少年はヴァイオリンを習っていた。足の不自由な男の先生だった。教室のヴァイオリンを借りてだけれど、少年はヴァイオリンを弾くことが好きになった。戦火も激しくなった。先生は空襲で行方不明になってしまったし、少年の父親も南の島で戦死してしまった。少年は博多駅で靴磨きをしながら家計を助けた。ヴァイオリンを習いたいなんて母親にはとても言えなかったし、少年も生きていくだけで精一杯だった。

「ユーディ・メニューイン・ヴァイオリン・リサイタル」

とても偉い人だということは少年にも理解できた。ポスターを見て、心から「この人の演奏を聴きたい」と思った。チケットは500円。少年が靴磨きで一日に稼ぐ代金は5円。その5円だって、すべて母親に渡してしまうのだ。「でも聴きたい」・・・「そうだ、余分に靴を磨こう。何百足でも・・・でもチケットはなくなってしまうのではないだろうか?」

会場の売り場に行き、少年は「絶対に500円払います。でも毎日少しずつしか払えません。チケットを取っておいてくれますか?」窓口のお姉さんは、しばらく考えていたが、「わかったわ。一枚チケットは取っておきます」と言ってくれた。そして少年は500円を払い終えた。「これで500円だね。チケットはまだありますよね?」「もちろんよ。一枚取っておいたわ。よく頑張ったわね。はい・・・これがそのチケットよ」「あの・・・これ、高い席のだよ?800円・・・僕払えない・・・」「いいのよ。300円は私からのプレゼントよ」

メニューインは戦争の傷跡残る日本を演奏しつつ、それでも音楽に焦がれている聴衆の存在を知った。そして博多での演奏会、スタッフから靴磨きの少年のことを知らされた。

メニューインの演奏は想像以上だった。夢のような時間だった。少年が家でそう思っていると、立派なスーツを着込んだ人が少年の家を訪ねてきた。「明日、博多駅の○番ホームに来て頂けませんか?あなたに会いたいという方がおられます」少年が翌日、指定された駅のホームに行くと、そこにはメニューインがいた。少年は信じられなかった。メニューインは「あなたは将来、何をしたいのですか?」と少年に質問した。少年が「メニューインさんのようなヴァイオリニストになりたいです・・・」と答えようとした時に、発車のベルが鳴り響いた。メニューインは微笑みながら列車に乗り込んだ。少年は見えなくなるまでメニューインの乗った列車を見ていた。

少年の家に小包が届いた。海外からのものだ。恐る恐る少年が小包を開けると、そこにはヴァイオリンがあった。手紙が添えられていた。「日本の小さな親友へ。ユーディ・メニューイン」

とても美しい話だ。でも、これは実話らしい。少年の名前は馬場タカシさんという。昔は焦がれていた人も今よりは多かったのかもしれないなどと想像する。夜行列車で東京まで出てきて、震えるような想いで憧れの演奏家を聴く・・・なんて普通にあったと思うから。

この焦がれる・・・という想い、音楽に、演奏家に焦がれるという想い、これは上達すれば感じるというものではない。チェルニー50番以上になれば、焦がれる気持ちが芽生えるなんてことはない。あるか、ないか・・・なのかもしれない。焦がれる気持ちがなくても、ピアノは上達することはできるのかもしれない。難曲を弾けるようにもなるのかもしれない。達者な演奏に人が感心してくれるのかもしれない。

「昔習っていたけど、ピアノなんて大嫌いだった・・・」

「おもしろくもない曲ばかり弾かされていたし、ピアノなんていい思い出ないなぁ・・・」

「とにかく先生が厳しくて・・・というより恐くてね。その思い出しかない。大人のピアノ?もうあの世界は勘弁・・・」

なんとも寂しい言葉だ。では「キラキラ楽しいレッスン」だけがピアノなのだろうか?そこは大いに疑問を感じる。レッスン恐怖症になるよりは、むろん楽しいほうが良かろうが、「楽しく」というよりは、目指すべきものは「恋焦がれる」みたいな想いを伝えることではなかろうか?でも焦がれた経験のない人には伝えるべきものもないのかもしれない。

僕は音楽や演奏、演奏家に恋焦がれるという感情は、ピアノを教えている人、習っている人が共通に持っているものだと思っていた。「だからピアノを習うんでしょう?」みたいな?でもそうではない人もいるということを知った。そのような人も結構、多いのかもしれない・・・などと最近は思い始めている。

僕がピアノを単なる「お稽古事」ではなく、「焦がれるもの」と意識変換した、変換があったのは8歳の時だろうと思う。それまではピアノは「そろばん」「習字」と同じ感覚のものだった。偉大な演奏を、それこそシャワーのように聴き始めたのが8歳の時なのだ。ピアノのレッスンと音楽というものとを、僕が完全分離してしまったのもその時だ。ピアノのお稽古(レッスン)は僕の焦がれる気持ちには応えない、というか別物だろうと思ったのだ。

少年kazが音楽開眼、焦がれていたのは、亡くなった巨匠たちの演奏がほとんどだった。なので、「生で包まれてみたい」とは思わなかったが、現役の演奏家に焦がれたこともある。すごく少数になるが。

ジノ・フランチェスカッティの演奏は、本当に聴いてみたかったし、包まれてみたかった。あの博多のタカシ少年のような熱い想いがあった。でも彼は、とうとう一度も来日することなく演奏活動を引退してしまった。この時は本当に泣いた・・・悔しかったんじゃないけれど、泣いた。

もう一人はピエール・フルニエ。レコードでの音色に魅せられてしまった。その時もジノ・フランチェスカッティの時と同じように「包まれてみたい」という痛烈なまでの感覚を覚えた。残念なことに、フルニエは僕が焦がれる一年前に日本で演奏していた。「今度はいつ来日するのだろう?」当時はネットはなかったので、音楽雑誌の「今年の来日演奏家」のようなページを毎年熟読した。「ああ、今年も来ないのか・・・」フルニエは大変な親日家であるということも知っていたので、なかなか来日しないのが不思議だった。

kaz少年も中学生になった。フルニエが日本公演を行ったのだ。生で聴くフルニエのチェロの音色は、それこそ「神のようだ・・・」などと感じたものだ。実際に楽屋で会ったフルニエも神々しかった記憶がある。何年も焦がれていて良かった・・・

この「恋焦がれる」というもの、音楽愛好家としては、ごく自然なものだと思う。でも実際にピアノを弾く・・・という境遇になると、この熱い感情をキープするのが難しくなるのだろうか?そこが謎の部分だ。

これまでは「焦がれる能力」というものを意識することはなかった。でも最近は、この能力を開発していこう・・・などと考えている。

これが少年kazの恋焦がれたフルニエの演奏・・・



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category: 未分類

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なぜピアノ教師はピアノを弾かなくなるのか? 

 

ピアチェーレの演奏会、チケットは10月1日からホームページのメールフォームから・・・のように、これから告知していく機会も増えるだろうし、自分が演奏する曲については、ブログにも書いていくだろうとも思う。本番までの日々の心境などもね。本来、このブログはそのために開設したようなところがあるので、書いていくのは当然だとも思う。

昨年も一昨年もなのだが、困るのが中傷メールだ。気にしなければいいのだ・・・と言われるけれど、気になる。中傷メール、全部が(自称の方も含めだと思うが)ピアノ教師や現役音大生からだ。「フ・・・素人が!」とか「素人は気軽でいいわね。専門家は気軽に演奏しないのよ!」「演奏というものを甘く見ているのでは?私たちは厳しさを知っているからこそ演奏しないのよ!」みたいな?

当然傷つく。演奏前の中傷も傷つくけれど、本番後のそれも傷つく。本当に聴きにきたのだろうか?少々疑問に思ったりもする。「あの程度で演奏会だなんて・・・ブルグミュラーからやり直した方がいいのでは?」みたいな?

演奏会前後は非常にそのような意味で神経質になっているのだと思う。なので、批判されているわけでもないのに、僕の被害者意識(?)で中傷ではないメールまで斜めに解釈してしまうようなこともある。相手の方に恐縮させてしまい、こちらの方が恐縮している。

今年はそうならないように、何故ピアノ教師や音大生はアマチュアに厳しいのか・・・ということを前もって自分なりに考えておきたいなどと思う。アマチュアに厳しい人もいる・・・という表現のほうがいいかな?

中傷メールの人に対して「単純に羨ましいのでは?自分ができないことをやっているから・・・」と言う友人もいたが、それはあるだろうと思う。でも気軽に人前で演奏するものではない・・・という考えそのものは理解できる。気になるのは、ほとんどの中傷ズ(と呼ばせていただく)の方は音大というものを、ものすごく高尚なところと表現していることだ。専門に学ぶということの大変さを異常に強調する。学部にしろ、院にしろ、20そこそこで演奏を極めることなんかできないだろうと思う。「私は学生時代に演奏は極めたから、もう演奏はしない」と書いていた人もいるが、このあたりは、ほとんどのピアノ教師だって「そうではないよな」と思うのでは?

アマチュアで時間が自由に使える人というのは意外と少ないように思う。仕事をしているからね。時間はみつけるものだ。でもそこには相当の熱意がないと続かない。この音楽やピアノに対する熱意のようなものが、ピアノ教師から感じることが少ない。その判断材料としては、ピアノ教師ブログに自身の演奏、自身のピアノについて綴っている方が非常に少ない(ほとんど皆無)というところから判断している。ほぼセミナー巡礼やセミナー準備、あとは生徒のこと、Aちゃんがどうしたとか・・・あとは教材のこととか?なんとなく完全教育ピアノという趣なのだ。演奏とか音楽とか・・・そのような感じではなくなってくる。これに関しては、あるピアノ教師の方に貴重な意見を頂いたことがある。ピアノ教師が自分の練習や精進について正直に書いてしまうと、意地悪な音楽愛好家(僕みたいな?)たちから「なんだ・・・そんなこともできないのか?」などと中傷的な事を書かれたりするみたいだ。たしかに「私って天才!」などとは書けないよな。確かにそのあたりは難しいのだろうと察する。でも裏で何時間自分のピアノを追及していたとしても、やはり書いてくれなければ分からんよ・・・とも思う。

僕自身が、おそらくピアノ教師は教育家ではなく音楽家であるべきだと思っているところがあるのだろう。教師自らが音楽に恋焦がれ、どんなに辛くても追及せずにはいられないような・・・そんな教師像をどこかで理想としているのだろうと思う。生徒も音楽に焦がれ、教師も同じ方向を向いている姿。

でも教師がピアノ演奏から引退してしまったら「生徒が辞めてしまう」などと嘆くことはおかしいんじゃあないか?自分も弾いていないんだから。

もしかしたら、教師自身が「音楽ピアノ」というものに「学習ピアノ」「お稽古ピアノ」から転化できていないのでは?幼い頃から練習を重ね、お稽古に励む。むろん、そこにも感動というものはあっただろうが、基本的には課題をこなし、上達を目標とする「学習ピアノ」から卒業できていない。学習ピアノでも、どんどん進むことはできる。どこまでも・・・難関音大だってコンクール入賞だって「学習ピアノ」のままでの突破できるだろう。そこがピアノの恐ろしさ、難しさでもある。

各々のピアノ教師が自分の学生時代、音大時代を振り返ってみる。「練習しなかったわぁ・・・」とか、そのようなことではなく、音大時代のレッスンというものが、光り輝くような体験に満ちていただろうか?打ち震えるような音楽的体験であっただろうか?

もし、そうであるのならば、卒業後だってピアノを弾き続けるだろう。レッスンを受け、音楽家として人前で曲(教材じゃないよ)を暗譜で演奏し続けるだろう。上手い下手は関係ないのだ。根本にある情熱みたいなもの・・・

おそらく多くのピアノ教師が自分の修業時代を全肯定はできていないのかもしれない。「あんなに辛いことはもうイヤ」と思うのかもしれない。だったらピアノを弾くなんてシンドイだけだから演奏はしなくなってしまうのも当然だろう。でもこれだと意識は学習ピアノのままだ。教師が学習ピアノの意識でいれば、生徒もそうなるだろう。いずれピアノから離れる。そこには燃えるような音楽体験が乏しいから。「私・・・すごく下手・・・でもピアノは弾きたいの・・・どんなに時間をかけてでも・・・」のようなものは音楽ピアノに転化しなければ出ない欲求ではないだろうか?

基本的にピアノ教師の方たちは真面目なのだと推測している。演奏を引退してしまった・・・という怠慢(?)な自分は基本的にあってはならない。なので教育ピアノに燃える。セミナー、教材研究、導入グッズ開発・・・等々。こちら方面に突っ走る。それはそれで自分を熱心な教師と感じるだろうし、事実熱心な教師だ。大切なことだ。でも音楽家・・・の部分は???

ブログを開設して良かったことは、どこか斜めに見ていた「ピアノ教師像」というものが少しだけ変化したことだ。それは音楽、演奏、ピアノというものを、音楽的感動という基礎の部分を忘れていない、熱き教師たちと知り合えたことだ。メールだけでの人もいるし、実際にお会いしたり、演奏を聴かせて頂いた方もいる。ただ数が少ない。そのような方たちは少数派なのか・・・などとも思う。でもピアノを忘れたピアノ教師なんて、やはりおかしい。

今年は中傷ズのメールにも、あまり揺れないのではないかと思う。むろん、歓迎はしないが・・・

名ピアノ教師、ゲイリー・グラフマンの演奏。彼はピアニストだ。でも70年代後半に手の故障で、左手だけで演奏するしかなくなった。1980年からカーティス音楽院で教え始めたと記憶している。演奏活動というものから、教育、教師という部分に自分の生きがいを少し移動したということでもあろう。実際、彼は優秀な生徒を育てている。現代の名教師として真っ先に浮かんでくるのがグラフマンではないだろうか?ラン・ランやユジャ・ワンの先生と表現した方が早いのかもしれない。これは1990年の演奏。手の故障から約10年が経過している。また名教師となってから10年が経過している。でも彼はどうしたって音楽家なのだ。音楽、ピアノというものは一度焦がれたら離れられないものなのだ。グラフマンのピアノは「音楽ピアノ」なのだ。どんなに名教師を謳われようが、「教育ピアノ」にはなれない人なのだ。演奏がそれを物語っている。

kaz



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category: ピアノ雑感

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残酷な美音 

 

その国だけで知られていて、実力も備わった、いわばローカル的なピアニストは多いのだろうと思うが、世界的に有名なピアニストであるが、何故か日本ではあまり知られていないピアニストもいる。欧米での評価と日本でのそれと、大きく隔たりのあるピアニストとでもいうのだろうか。

コルトーやリパッティの演奏を聴いたことがないというピアノ仲間は結構いて、僕は驚いたりするのだが、聴いたことはなくても、名前だけは知っていたりする。でもソロモンというピアニストのことを知っていたピアノ仲間はいなかった。名前すら知らないのだ。ヨーロッパや北米では巨匠的な扱いですらあるのに・・・

ソロモン・カットナー・・・イギリスのピアニストだ。普通はファーストネームだけで呼ばれる。ソロモン・・・と。多くのピアニストがそうだったように、ソロモンも天才少年としてデビューしている。たしかデビューではベートーヴェンのコンチェルトを演奏したのではなかったかな?ソロモンが10歳の時だ。彼の天才ぶりは大いに話題になったらしいが、ソロモンは一度引退(!)し、10代後半でまた演奏を再開している。

ソロモンの演奏では、特に「静謐なタッチ」「研ぎ澄まされたタッチ」というものに僕は惹かれる。なにしろ美音なのだ。おそらく日本式タッチの根本概念である「しっかり弾きましょう」「鍵盤の底まで弾き切りましょう」的なタッチとは正反対のところにある究極のタッチであり、音・・・なのだ。

日本でソロモンが有名でないのは、彼のタッチや音、音楽そのものが、何かを聴き手に突き付けてくるからではないだろうかと個人的には感じたりしている。「あなたの弾き方、あなたの音、そのカツーンといつでも鳴らしきってしまう音でいいの?」とでもいうようなメッセージをソロモンの弾き方は日本の聴き手、ピアノ弾きに突き付けてしまう・・・

ソロモンの音を肯定してしまったら、多くのピアノ弾き、ピアノ教師は自己のタッチ、弾き方を否定しなければならない、これまで積み上げてきたものを全否定させられてしまうような?

なのでソロモンは聴かない・・・のではないかな?どこか辛いし、一生懸命「学習ピアノ」「お稽古ピアノ」の道を進んできたような人にとっては、ソロモンの音はどこか残酷なものだろうとさえ思う。

やはりソロモンの演奏ではベートーヴェンが有名で、それを聴くべきなのかもしれない。個人的には彼のモーツァルトとブラームスが好きだ。ソロモンはショパンも演奏している。ゲルマン系の作品の影に隠れた印象のソロモンのショパンだが、彼の美音、静謐なタッチ、そして、お稽古ピアノ弾きに残酷さを最も突きつけてくるのが、ソロモンのショパンなのではないかと思ったりもする。

ソロモンは結構長生きしているのだが、活動期間は極めて短い。演奏活動の最盛期に脳梗塞を患い、指が動かなくなってしまったのだ。美音は短命だったのだ。美音だからこそ・・・なのかもしれない。音楽の神はソロモンの音を愛しすぎたのだろう。独占してしまった・・・

kaz



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category: ピアニスト

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生ハフ 

 

明日はスティーヴン・ハフのリサイタル。この人は日本を避けているわけでもないのだろうが、あまり日本では演奏しないような印象がある。昨年は、たしかN響とリストのコンチェルト(一番)を共演したけれど、20数分という曲だったし、本格的なソロでのリサイタルを待ち望んでいたファンも多かろうと思う。

「ハフ巡礼」をする人もいるのだという。日本を素通りして中国や東南アジアで演奏するハフを追いかける日本のファンの存在。結構いるらしい。僕も巡礼をしたことがある。たまたまヨーロッパに旅行中、ハフを聴くために、わざわざ北欧まで出掛けたことがある。わざわざ出掛けた価値は充分にあったと感じている。その時に聴いた曲はシューマンのコンチェルトだったかなぁ?至福の時だった。

ハフはアメリカなど広大な国や出身地であるイギリスなどは別として、一国一都市演奏主義(?)のようだ。普通、ハフクラスのピアニストの日本公演などの場合、東京だけではなく、他の都市での公演も行い、全国縦断のような感じになるが、ハフはそうはしない。

今回の来日でも、演奏会は明日のリサイタルのみ。一回だけのリサイタル。それも東京のヤマハホールが会場だ。サントリーホールではないのね?たしか、あのホールは300席程度だったと記憶している。明日、会場で聴ける人はかなり幸運なのではないかと思う。招聘したのがヤマハなのでヤマハホールなのだと思うが、ちょっと会場としては小さいかなという印象。ハフを聴きたいと思う人の数に対しては会場が小さいというか・・・

東京公演の後、ハフはベルギー(アントワープ)で演奏するので、今回間に合わなかった人はベルギーまで出掛ければ聴くことができるかもしれない。チケット・・・もうないか・・・

現役のピアニストで僕の最も好きなピアニストがスティーヴン・ハフだと思う。最初は彼の編曲作品で彼のことを知った。とても見事な編曲なのだ。そしてCDで彼の演奏を聴き、「現代にも、こんなピアニストが存在していたのか・・・」と。

演奏のタイプは異なるのかもしれないが、ハフの演奏を聴くと、ソロモン・カットナーの演奏の魅力に近いものを感じたりする。タッチの静謐さ・・・みたいな?

今回ハフを聴けなかった人は、この演奏でしばらく我慢していよう。

kaz



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category: Stephen Hough

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怒りのベートーヴェン、素顔のベートーヴェン 

 

ベートーヴェンって、どうも「怒涛」というか「運命に打ち勝つ」とか、そのようなイメージがある。音楽室の肖像画でも一人怒りに満ちていたような?

そんなベートーヴェンだけれど、こんな言葉も残しているのを知った。

「天国に行ったら耳が聴こえるようになっているといいな・・・」

少しだけ苦手意識が消えるような気がした。

kaz



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文化が浸透した瞬間 

 

オペレッタ、喜歌劇・・・オペラでさえ躊躇してしまうのにオペレッタとなると、さらに遠いもの・・・

ピアノ弾きはピアノ曲しか聴かないというか、どうもオペラやオペレッタなどには興味を示さない人が多いように感じる。ピアノ弾きだけではなく、一般の音楽愛好家の中にも「オペラならいいんだけど、オペレッタはどうもねぇ・・・」という人はいるような気がする。

オペレッタというものが、カテゴライズしにくいということもあるのではないかと思う。オペラのような、ミュージカルのような?オペラにもバレエ場面はあったりするけれど、オペレッタの場合は、歌手も踊ったりする。歌い踊る?そのあたりはミュージカルのようだが、発声はベルカントなので、そのあたりはオペラに近い。

オペレッタの殿堂、ウィーン・フォルクスオーパーが初来日した頃は、日本人にとってオペレッタというものは馴染みのあるものではなかった。むろん、「メリー・ウィドゥ」や「こうもり」のような有名作品はレコードの全曲盤なども日本でも手に入ったと思うし、オペレッタの有名曲を有名歌手が歌ったものなどは聴いていた人は多かったと思う。

フォルクスオーパー・・・つまり「大衆劇場」・・・「なんだ、大衆文化だろう?聴く価値なんかあるのか?」というクラシック音楽愛好家もいただろう。

ウィーン・フォルクスオーパーの初来日公演は1979年。当時は空席も目立ったという。とにかくオペレッタというもの、そのものに馴染みがなかったのだろう。日本人はカテゴライズするのが得意なところがあるから、そのような意味でも「聴いてみよう、観てみよう」というようにはならなかったのかもしれない。

最初の頃は空席さえ目立ったウィーン・フォルクスオーパーの日本公演だが、来日を重ねるうちにチケット入手さえ難しくなっていった。当時としては珍しいことなのかもしれないが、口コミで広がっていったのだ。

「こんなに楽しいものが世の中にあっただなんて・・・」

客席から笑い声、手拍子が・・・日本でもそのような光景が繰り広げられた。フォルクスオーパー側もオペレッタというものが、日本人に受け入れられたという感触を得たのかもしれない。何度目の来日公演かは把握していないが、僕の記憶だと1980年代の初め頃だったと思うが、「メリー・ウィドゥ」のような、いわゆる有名オペレッタではない演目をフォルクスオーパーは持ってきた。むろん、現地では人気作品であり、人気演目だが、おそらく日本人にとっては初体験となるような作品、しかも自分たちにとっては自信作である演目・・・

それがエメリッヒ・カールマンの「チャールダーシュの女王」だった。

日本では「カールマンって???」という感じだったのではないだろうか?フォルクスオーパーの賭けだったのかもしれないが、受け入れてくれるという自信もあったのかもしれない。

結果は「レハールやシュトラウス以外にもこんなに楽しく、素晴らしい作品があったのね・・・」というものになった。

僕は本当の意味でオペレッタというものが日本人に定着したのは、ウィーン・フォルクスオーパーの「チャールダーシュの女王」公演で客席から手拍子が湧き起った瞬間だと思っている。

とにかく接してみなければ分からない・・・というところがオペレッタなのだと思う。

kaz



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category: あっぱれ麗し舞台

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美しく危険な幻想 

 

洋館からピアノの音色が聴こえてくる。青年はその美しい音色に魅せられてしまった。曲は「乙女の祈り」だが、むろん青年はその曲の題名などは知らない。でも素敵だな・・・と。「どんな人が弾いているのだろう?」青年は塀の外でピアノの音色を毎日聴いた。そして音色だけではなく、まだ見ぬ深窓の令嬢に恋してしまった。

玄関の呼び鈴を鳴らす勇気などない。理由もない。ある日、青年は塀を登り、そして洋館のピアノの音がする部屋の窓の下にきた。侵入罪だということも気にならなかった。気にすることもできないほど胸が高鳴っていた。そっと窓の外から中を覗きこむ。ピアノを弾いていたのは美しき令嬢ではなく、太った禿げ親父だった・・・

このようなことが実際にあったのかは定かではないけれど、演奏から演奏者の容姿を想像してしまうということはあるような気がする。そして、そのイメージと実際の容姿とのギャップが大きい場合、そして実際に大きい場合も多いと思うが、そのような時はショックというか、落胆するというか、現実というものをイヤというほど実感してしまうものだ。

特に声というものは、美しい幻想を生みやすいものかもしれない。美しいソプラノの声に魅せられ、CDジャケットなどにも、そのソプラノの写真もない場合、ひたすら美しい、かつ危険な想像をしてしまうものだ。そして実際の姿を知ると「ああ・・・こんな人だったとは・・・」みたいな?

今はネットがあるので、そのような悲劇(?)は少なくなったのかもしれないが、僕が子どもの頃所有していたルドルフ・ショックのレコードにも彼の写真は掲載されていなかった。舞踏会の写真、にこやかに踊る男女の写真、そして右下に巨大なシュトルツ(指揮者)の写真というジャケットだったと記憶している。

今回、ルドルフ・ショックの容姿をネットで確認することができた。40年の時空を超え、彼の姿は子どもの頃に想像したそれと完全に一致したことが嬉しい。むろん、具体的な顔の造作などを想像していたわけでもないのだが、なんとなくハンサムでヨーロッパ的というかゲルマン的な容姿を想像していたことは確かだ。

ネットは確かに便利だ。僕はルドルフ・ショックの顔だけを確認したかったわけではない。記憶に鮮明なオペレッタ以外の歌唱も確認したかったのだ。当然、当時所有してたレコードは今は手元にないしね。もう一度彼の声と歌唱を聴きたかった。特にオペレッタ以外の作品で、どのような歌唱を残しているのかを知りたかった。

ルドルフ・ショックはオペレッタ御用達歌手ではなかった。彼の歌唱と容姿との完全なる一致、調和(?)を感じたのが、リヒャルト・シュトラウスの「献呈」だった。もちろん、声楽の世界では超有名曲だけれど、ピアノ弾きにとってはそうでもない曲だろうと思う。シューマンの「献呈」はピアノ弾きにも有名だと思うけれど・・・

シュトラウスの献呈は比較的初期の歌曲で、初々しさを感じさせる。そこがショックの歌声と、そして容姿と重なってくるのだ。加えて、ヘルマン・フォン・ギルムの詞も、触ると火傷をしそうなほどの若さと熱さを感じさせる。つまりフレッシュな感覚なんだよね。

「献呈」   ヘルマン・フォン・ギルム

君は知っているだろう?愛しい人・・・
僕が君から遠く離れて苦しんでいるのを
愛は人の心を痛めるんだね
そのことを教えてくれた君に感謝したい・・・ありがとう

かつて僕は自由を満喫していた。酒に溺れ紫水晶の杯をかかげていた
その杯に君は祝福をしてくれた・・・
君に感謝したい・・・ありがとう

そして汚れていた僕は、それまでとは変わって
清らかになって君の胸に顔を沈めるんだ・・・
ありがとう・・・本当にありがとう!

声、容姿、曲、詞との調和を感じさせるルドルフ・ショックの「献呈」

あっ、最初は指揮者の容姿だと思いますよ・・・

kaz



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category: The Singers

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軽音楽・重音楽 

 

ピアチェーレの演奏会で最初に演奏する曲がオペレッタのピアノ編曲。編曲は僕の大好きなピアニスト、スティーヴン・ハフ。原曲も素敵だが、何と言ってもハフの編曲が素晴らしいのだ。オペレッタ好きならエメリッヒ・カールマンの作品はお馴染みなのかもしれないが、そうでない場合、もしかしたら声楽専攻の音大生でも知らなかったりするのではないかと思ったりもしている。

エメリッヒ・カールマンはハンガリー出身なので、正式にはカールマーン・イムレなどと呼ぶべきかもしれない。ユダヤ人だったので、迫害を受け、アメリカに渡っている。そこでも多くのオペレッタを残した。カールマン作品の特色は、レハールやシュトラウス作品とは比較にならないほど「ハンガリー色」が強いということ。もう一つはオペレッタとミュージカルの橋渡しのような役割を果たしたこと。

ハフが編曲した、つまり僕が演奏する曲は、(日本では)知名度が高いとは決して言えないカールマン作品の中でも、地味な「モンマルトルのすみれ」というオペレッタからのナンバー。ハフがこの曲を知っていたということに、まず驚く。このオペレッタは日本でも上演されている。どうも、アマチュアたちによって上演されたみたいだ。アマチュアの熱意を感じたりもする。二期会などもカールマン作品の代表作「チャールダーシュの女王」などは日本語役で上演しているが、さすがに「モンマルトルのすみれ」では採算が取れないと思ったのか・・・などと勘繰ってしまう。ヨーロッパなどでは上演されているみたいだ。ユーチューブに動画もアップされている。でも頻繁に上演されるような有名作品ではないような気はする。

ハフは大変に博学な人なので、「モンマルトルのすみれ」というオペレッタの全曲盤を聴いたりしていた可能性は高い。この人はコンチェルトの客演などでも、自分の出番後もオケの演奏を客席で聴いたりする人なのだ。普通は自分が演奏してしまえば帰ってしまうのではないだろうか?

完全に僕の想像だが、ハフはルドルフ・ショックの歌唱を聴いていたのではないかと思う。ハフは編曲に際して、細かな記号というか、言葉での指示をかなり頻繁に楽譜に書き込んでいるが、その指示が、どうもルドルフ・ショックの歌唱と重なるところが多いような気がするのだ。ハフだったらルドルフ・ショックの魅惑的な歌唱は当然聴いたことがあるだろうと思う。僕だって知っていたくらいだもん・・・

たしか、ロベルト・シュトルツの指揮によるオペレッタのアリア集が昔あったと記憶している。片面(レコードなので)がシュトルツ指揮によるワルツ集、そして裏面がショックの歌唱によるオペレッタというレコードを小学生のときから愛聴していたのだ。でも「モンマルトルのすみれ」は収録されていなかったなぁ・・・

名前からも分かるようにルドルフ・ショックはドイツの歌手。多くの歌手と同様、この人も労働者階級の家庭で育った。でも音楽が好きだったのだろう、そして声も素晴らしかったのだろう、家計を助けるために歌ったりしていたみたいだ。クラシックではなく、酒場などで軽音楽などを歌っていた。オペラの舞台に立つようになると、すぐに戦争。そして徴兵・・・

戦争後は農業などをして、家計を支えていたらしい。オペラ界にカムバック後も母親の死によるショック、そして自身の心臓病などの悪化などもあり、随分苦労した人のようだ。

「ショックはくだらない軽音楽なんぞを歌いすぎる・・・」

当時の評論家からそのように言われることも多かったらしい。ショックはそのような意見に反発している。「親しみやすい音楽のどこがいけないの?くだらなくなんかないと思うよ?」と。

これがハフも聴いたと僕が想像しているルドルフ・ショックの「モンマルトルのすみれ」からのナンバー・・・「初めての口づけも知らずに」という曲。甘い極上のナンバーであり、歌唱だ。「君は恋をしたことがないんだね?口づけさえしたことがないんだろう?恋するということは素晴らしいことなんだ・・・」みたいな感じかな?

それにしても「軽音楽」とは珍妙な言葉だ。普通のクラシックの曲は「重音楽」なのか???

kaz



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category: ピアチェーレ

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「マルグレ・トゥー」 

 

ピアチェーレでの演奏会、曲目を一新した。僕の考えたプログラムはかなり異色なものなのかもしれない。いわゆる、クラシックの定番有名曲とクラシックの珍曲、クラシックではあるけれど、限りなくシャンソンに近い曲、そして南米のフォルクローレを自分でピアノ用に直したもの・・・等。

僕としては、クラシックだからとか、歌謡曲だからということではなく、共通した何かを感じて頂ければ、とても嬉しい。「えっ、クラシックにもこんな曲があるの?」「えっ、歌謡曲なの?」みたいな印象を演奏から感じでもらえたら・・・

多くの人がそうであるように、僕も演奏会においての選曲に対しては、ただ単に「好きだから・・・」とか「練習してきたから・・・」のようなものだけではない思い入れのようなものがある。

ポンセの「マルグレ・トゥー」という曲は珍曲ということになるのだろうか?この曲があまり演奏されないのは、左手のための作品であるということと、やはりポンセがメキシコの作曲家であるということも関係しているように思う。メキシコに限らず、中南米の作曲家たちの作品は、いわゆる「おクラシック中心地」のものではないということなのかもしれない。

「マルグレ・トゥー」が左手だけで演奏する作品になったのには理由がある。ポンセはヘスス・コントレラスという、やはりメキシコの彫刻家をとても尊敬していたらしい。ポンセはコントレラスの彫刻、「マルグレ・トゥー」という作品に感銘を受け、心が動いたのだと思う。なのでコントレラスのために同名のピアノ曲を作曲した。コントレラスは右手を切断している。それでも彼は作品を創り続けた。「マルグレ・トゥー」も右手切断後の作品だ。つまりコントレラスが左手だけで制作した彫刻なのだ。なのでポンセのピアノ曲も左手だけのための作品になったのだろうと思う。

身体の機能を、身体の一部を失ってしまったら・・・

もしピアノを弾いていて、自分の音が聴こえなくなったら?

もし手の痛みを感じ、以前のように弾けなくなったら?そしてその痛みは消せないとなったら?

やはり誰でも嘆くであろうと思う。失ったものを嘆くのだ。過去に自分が持っていたもの、当たり前のように感じていたものを失ったこと、これに対して嘆く。でもある一線を越えたような経験をした人は、このような状況を「挑戦の機会」と感じるのだ。むろん、人生の喜びとは感じないだろうが、挑戦できる自分がいることを実感できる。嘆くという感情を持つこと自体に感謝すらできるようになる。困難を新たな挑戦に変えることができるのだ。エネルギーの源になるというかね・・・

ヘスス・コントレラスの彫刻「マルグレ・トゥー」はそのような想いから生まれた作品のように思う。

人間は踏みつけられても再び立ち上がることができるのだ。ビクトル・ハラが両手を砕かれても立ちあがり、そして歌おうとしたように・・・

この動画はピアノではなく、アルパでの演奏。でもポンセを感じるし、コントレラスを感じることができる。そして人は立ちあがることができるということも・・・何度も立ちあがることができるということも感じる。

マルグレ・トゥー・・・「それでもやはり」

kaz



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category: ピアチェーレ

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誇りの静かな叫び 

 

ピアチェーレの演奏会まで、あと約二か月。他のメンバーは暗譜もバッチリなんだろうなぁ・・・などと思うが、僕は選曲難民中。来年こそは「前倒し思考」をピアノにも活かそうなどと、今だけは思う。

大きなテーマは決まっている。どこかクラシックと、そうではない音楽との融合のような感じ?クラシック以外の、たとえばラテンアメリカの歌謡曲、民族曲であるフォルクローレ、低俗か?そしてクラシックの定番曲は高尚か?

クラシックってどこか堅苦しい、難しい、流行歌は低俗・・・そうかな?両方を並べて演奏してみてはどうだろう?あるいはクラシック音楽にカテゴライズされる曲でも、もうギリギリのところでそうなっているだけで、曲そのものは、たとえば、もろシャンソンなのでは…みたいな曲と、いわゆる「おクラシック曲」を並べてみる。何が出てくるだろう?これが一つ目の大きなテーマ。堅苦しいジャンル分けを取り払って演奏してみたら聴き手もそう感じるだろうか?

もう一つの自分なりのテーマは、人がなんとなく抱いているであろう一つのイメージを取り払えることができるかへの挑戦。たとえば、ラテンの音楽、中南米の曲・・・そこから抱くイメージというもの、それは一つのかけらに過ぎないのではないか?

ラテンアメリカ・・・情熱的なタンゴ、強烈なサンバのリズム、降り注ぐ太陽・・・明るく、あくまでも明るく生きる人のイメージ・・・

ああ、そのような固定観念を振り払ってみたい。一つめのテーマであるジャンルのカテゴライズを取り払うということも、固定観念というものへの反抗心というものが僕の根底にはあるのだろうと思う。

ラテンアメリカ・・・人々は自然にリズムを操り、明るく陽気に・・・確かにそれもあるだろう。でもそれだけではない。

中南米諸国、少し前までは、ほとんどの国が独裁政権、軍事政権の支配下にあった。これは大国北米という国が絡んでいると思われるが、底辺に生きる民衆は、それこそ虫けらのような生活を強いられていた。粗末な小屋に住み、働いても働いても資本家がだけが肥えていく。民衆には何も還元されない、そのような社会の存在が実際にあったのだ。

「俺たちだって人間なんだ。生きているんだ。」

そのような魂の叫びが歌となってラテンアメリカ全域の人々に広まっていった。歌による社会変革・・・ヌエバ・カンシオン、新しい歌運動・・・だ。

今日、9月11日は、チリ・クーデターのあった日。ラテンアメリカの人々にとっては、とても重い日でもある。

北米の後押しを得たピノチェト将軍が軍隊を使い、時の民主政権であるアジェンテ政権を倒したのだ。軍事クーデター・・・

アジェンテ大統領は「民主主義は軍部に決して屈しない」という言葉を残し、ピストルで自決した。軍による独裁政治の始まりだ。

「おかしいじゃないか?そんなことありえないじゃないか・・・」

多くの人が抗議運動をした。何千人もの人々が抗議のために集まった。そして歌を歌ったのだ。その中にヌエバ・カンシオンの担い手である歌手、ビクトル・ハラもいた。彼は人々を煽動するため、そして勇気づけるためにギターを弾き、歌い続けた。

ビクトル・ハラはギターを奪われ、二度とギターを弾けないようにと、両手を砕かれた。それでも立ちあがって歌おうとする彼の口を軍はピストルで裂き、彼の身体中に銃弾を浴びせ続けた。彼の遺体は蜂の巣のようになり、胸部は完全に向こう側が見えるような穴が開いていたという・・・

チリに限らず、ラテンアメリカ諸国には、そのような歴史があるのだ。

ビクトル・ハラはこのように言っていた。「僕たちは歌われてこなかった事実を語っているんだ。それが新しい歌(ヌエバ・カンシオン)なんだ。他人の畑を血と涙で潤している農民、社会に押し潰されて死んでいく労働者・・・その姿を歌う」

動画はビクトル・ハラの「耕す者への祈り」という曲。


起き上がれ  そして山を見るんだ
起き上がれ  そして両手を見るんだ
育ちゆき、君の兄弟たちの手を握るために

共に行こう  血の絆に結ばれて今日が明日につながっていく
僕らを貧困へと支配するものから解放しよう
正義と平等の王国を我らのもとへ

共に行こう  血の絆に結ばれ
今も、そして僕らの死の時も・・・


ピアチェーレではビクトル・ハラの曲は弾かないけれど、その精神を引き継いでいるようなフォルクローレ、クラシックの曲を弾いてみたいと思っている。明るい太陽・・・ではないラテン音楽。それは哀しみでも絶望でもない。誇りの静かな叫びなのだ。

9月11日・・・チリにて軍部によるクーデター
9月16日・・・ビクトル・ハラ惨殺。40歳であったという。

kaz



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category: ピアチェーレ

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安全運転で・・・ 

 

本日の午前中、警察署へ。別に逮捕されたわけではない。運転免許証の更新のため。

僕は優良ドライバー(ペーパードライバーとも言う)なので、手続きも滞りなく進み、新しい免許を無事受け取った。平成32年まで有効・・・とある。まぁ、5年間有効なので、当然そうなる。でもその頃まで僕は生きてはいないなぁ・・・などと正直思った。悲観しているわけでもなく、ただ淡々と冷静にそう思った。

「そんなこと思ってはいけない」と思う人もいるだろうが、すべての数値がそれを裏づけている。知らないふりをすることはできない。やはり平成32年までにはこの世にはいなくなっているのだと感じる。

優良ドライバー向けの講習ということもあって、なんだか眠くなるような教習だった。もっと交通安全に対する意識を持たせるようなビデオを観させるべきなのではないかと思う。

今は、ほとんどテレビというものを観ないので、なんとも言えないが、日本のテレビのCMで交通安全の啓蒙のようなCMは流れているのだろうか?交通安全だけではなく、麻薬撲滅とか、病気早期発見の啓蒙とか、そのようなCM。

アメリカで暮らしていた頃はテレビを観ていたので、その種の啓蒙CMも観たりした。別に観たかったわけでもなく、CMなので自然と目にしてしまうのだ。

結構、アメリカのこの種のCMって凄い表現だったりする。日本だったら流せないんじゃないかな?でも必要なことだと思う。

このCM、「安全運転しよう・・・」と思うもの。

kaz



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自分に「良かったよ!」と言ってあげよう。 

 

自分を肯定するのって難しいのだと思う。でも「言霊」という言葉もあるように、いつも自分なんて・・・と言ったり、書いたりしていると、なんとなく「自分なんてオーラ」「どうせオーラ」に包まれてしまうような気がする。なにも「私って天才!」と思う必要もないけれど、自分の長所、つまり、自分のいいところを自覚することは必要なのではないかなと思う。これは自惚れではないと僕は思う。自惚れは劣等感の裏返しだから。

ピアノの練習とかレッスンって、どうしても「できないところを指摘され、認識し、改善していく」という方向性になるから、意識的に自分で自分の良さを認識していないと、「どうせオーラ」「自分なんてオーラ」に包まれてしまいがちなのではないかと思う。

ドレスに身を包み、前の人が演奏しているのを聴いている。舞台袖に待機している自分だけではなく周囲にも心臓の音が聴こえているような気がする。あっ、終わった・・・私だ・・・

この時に大事なのは、自分を信じることだけだろう。緊張しない方法なんてないわけだから、ここで自己肯定できないと悲惨だ。でも日頃から「自分なんてオーラ」に包まれている人が、この時だけ自分を肯定することなんてできないだろう。

「ああ・・・失敗しませんように・・・あの部分が心配・・・ああ・・・ああ・・・」

これでは演奏者も可哀そうだし、聴いている人も可哀そうだ。そんな風に感じている人の演奏を聴かされるわけだから。

他人の演奏を聴く時のように、自分の演奏を聴いてみてはどうだろう?つまり演奏というものの判断を他者と自分とで区別しないこと。

他人の演奏、派手なミスタッチって気になるだろうか?あまり気にならないのでは?ミスタッチの数を数えながら演奏を聴いているわけではないはずだ。ではなぜ自分が演奏している時にはそのように感じられないのだろう?自分がミスタッチなどしたら、もう身体が熱くなり、動転し、さらなるミスを誘う・・・みたいな?

他人が、ミスはあっても誠実な演奏をしていたり、音楽が流れていたりしたら、あなたは演奏を褒めてあげるだろうと思う。「良かったよ!」と。その言葉を自分にも言ってあげよう。あなたの演奏もミスはあっても、どこかいいところがあったはずだ。だから自分を褒めてあげよう。「良かったよ!」と。

他人は欠点ばかりを聴いているわけではない。そのような聴き方は聴き手としても基本的に辛いものだから。聴き手は、いいところを聴こうとするものだ。あなたもそうでしょ?

もし自分の演奏に美点を見つけることができなかったら、自分の演奏を他人目線で聴いてみよう。

会場で聴いている人は、あなたの演奏の美点に気づいているはずだ。どんなにあなたがそうは思えなくても・・・

kaz



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category: ピアノ雑感

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私って美しい!私ってピアノが上手! 

 

どちらかと言えば、日本の教育は長所を目覚めさせ、自信を与え、そこを伸ばしていくというよりは、なんとなく「できないところ」「足りないところ」「欠点」を指摘し、そこを改善していく感じに近いような気がする。むろん、僕が子どもの頃よりは教師も柔らかくなった。正座させビンタ・・・なんて今はないのでは?ピアノの先生も昔と比較してソフトになったのではないだろうか?いまどき手を叩くとか、怒鳴るとか、ピアノの蓋を思い切り閉める・・・なんてピアノ教師は少ないだろうと思う。

「Bく~ん、そこのところね、なんだか転んでいるように聴こえるの。ううん、まだできていないわ。そうじゃないわ。Bくんは指がもっと強くならないと上手に弾けるようにはならないと思うの。あっ、そこの音は違うわね。先生が言ったリズム練習とかしたかな?ちょっとできていない感じね」

どんなにソフトな感じで言ったとしても、これって全部否定の言葉だよね・・・

ピアノのレッスンに限らず、学校でも、そして家庭でも、子どもって割と「~ができていない」と言われ続けているのでは?

このようなことを普通に言われ続けてしまうと、そのことに違和感を感じなくなってくる。そして自分に自信の持てない大人になっていく。

大人だって自身のない人、多いよね?これは教育の他に風習のようなものも関係しているのかもしれない。文化というか・・・

どこか「~と他人から思われる」という意識で、いや、それが無意識化さえしてしまっている人だっているのではないかな?

子どもはピアノブログなんて書かないだろうから、読むのは大人のピアノブログだけなのだが、特にアマチュアのブログに多いように感じるのが、すべて自分の演奏を否定的に捉えてしまうことが、どこか習慣となっている人が意外と多いこと。

「ここができていない」「ここが弾けていない」「私ってこういうところが苦手」「他の人は上級者ばかりで私なんて初心者だし」・・・等々。

誰でも上達したいと思っている。どんなに「私は趣味で楽しめればいいからぁ・・・」と自分では思っているつもりでも、情感豊かに美しく弾く人の演奏を聴けば、自分と比較するはずだ。その時に「私には関係ないからぁ・・・」と本気で思える人はそういるとも思えない。

上達したいのだったら、思い切って「ダメダメダメの自分」というものを卒業してみたらどうだろう?長所を自覚し、それを自分で伸ばしていく。その方が楽しいじゃない?欠点や短所だって、そりゃあ各自あるだろうが、そこは根拠のないような肯定感で克服できるんじゃないかな?少なくとも「私って~だから」とか「どうせ・・・」とか思っているよりはいいんじゃないかな?

ダヴのCMって割と好きだ。

このCM、ピアノにもそのまま当てはまるような気がする。

kaz



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曲目変更の掟 

 

演奏会の曲目の変更というのは難しいと思う。有料の演奏会であれば、「演奏者の都合により曲目が変更になりました」なんて張り紙が演奏会場に張り出されていたら、がっかりする人も多いだろうと思う。むろん、ファンであれば何を弾いても、何を聴いてもファン・・・という面はあるのだろうが、やはりその人の、その曲の演奏というものを楽しみに人はチケットを購入するわけだから、少なくとも「その曲」ということで楽しみにしていた人を裏切ることになるわけだ。

反面、ネルソン・フレイレのように「僕、その時弾きたい曲を弾きたいな。何年も前から曲を決めるなんてできないな・・・」というピアニストも正直でいいな・・・などとも思う。

曲を変更する場合の基準というものがあるような気がする。やはり有料であれ、無料であれ、曲そのものを期待してチケットを買うなり、無料であれば、わざわざ会場まで足を運ぶ人がいるということであれば、やはり曲の変更というものは基本的には避けたいように思う。やはり原則としては、チケット発売日、チラシの配布というあたりまでに変更があるのならば告知しておくべきではあろう。

ピアチェーレの演奏会では、僕はショパンを弾く予定でいた。このブログのリンクにあるピアチェーレのホームページにもショパンの曲目が掲示されている。現に「kazさんのショパン・・・楽しみです」などというメールも頂いている。そのような方たちには大変に申し訳ないのだが、実は曲を大幅に、というか、全部変更したいと思っている。

ピアチェーレの演奏会のチケット受付は来月の一日。ホームページのメールフォームからネットで申し込む形式だ。ピアチェーレからの返信メールにチラシとチケットがPDFとして記載されているので、それを各自がプリントアウトして頂き、当日受付に出すというようになっている。面倒だが、ただ「無料です。誰でもお越しください」だと、当日何人の方が来るのか分からず、会場の消防法の関係で「立ち見」のようなことはできないので、仕方がないのだ。大きなホールならその点は問題ないのだが、100名以下の会場なので、「来ました。入れません」という可能性が少しでもあると困るのだ。まぁ、アマチュアの演奏会だから満員御礼・・・ということはないのだが、やはり手順は踏んでおくべきだろうと思う。

ピアチェーレのチケット受け付けが10月1日だから、その日までに新しい変更後の曲目を提示しておくべきだろうと思う。

なぜショパンでないのか?

僕の中にショパンがいなくなってしまったんですね。南米旅行で自分のモードが南米になってしまったということもある。また僕はピアノに関しては「短期集中型」なのだ。一年前、半年前に曲を決めて本番までに仕上げていくということが、とても苦手なのだ。曲に対する愛情というか、執着度が持続できない感じなのだ。でもホームページには、かなり前から曲目は載せているので、その時には弾きたい曲を載せることになる。でも実は短期感で、その時に弾きたい曲を「ワーッ」と(?)そのまま本番でも弾きたいのだ。僕は毎年曲目変更をしている常習者なので、ホームページには「曲目未定」としておくべきかな・・・などとも思う。

ピアノ以外では、仕事に関してもプライベートに関しても、僕は「前倒し思考」の極めて強い人間だ。今日やっておかなくても支障はないが、今やっておけば明日以降が楽と考えるタイプ。夏休みの宿題なども早々と終わらせてしまうタイプ。でもピアノだけはダメだねぇ・・・

曲の変更の理由にはもう一つある。今までピアチェーレの演奏会では自分の出番を自分の中で二部構成にし、各々の部のラストに派手目・・・というか大曲を持ってきていた。これだと一度引っ込むことができるので。でも今年は体力が昨年以上にないので、大曲を二曲弾くことが困難だと自分で判断した。具体的にはバラードの一番とアンダンテ・スピアナート付きのポロネーズを一度では弾けない・・・

今年は、大曲は一曲だけにし、あとは体力温存曲でいくことにした。

サークルの練習会や発表会では、好きな曲を練習してきたので弾きます・・・という感じなのだが、ピアチェーレの演奏会では30分は弾くので、「一年間練習してきた曲を披露しま~す」という感じではなく、自分なりにテーマを決めて、いつもそれに沿ったプログラムを考えるようにしている。昨年だと前半はラテンの曲、後半はウィーンもの・・・というように。

今年はそうだな、愛の恩返しがテーマだろうか?曲に愛というもの、それは初恋とか祖国愛とか、失われた愛を懐かしむとか、誘惑とか、それなりに愛を聴いている人が感じられる曲目群にしたいなと思う。

思えば僕は愛というものを受け取った経験は多いのだが、与えたという経験が少ないのだ。愛といっても、それは恋愛とかそのようなものに限らず、未熟な僕への教え・・・のようなものも愛の一種と考えてはいる。

かつて愛された、または教えを受けた人達に感謝の気持ちを込めて演奏させて頂きます・・・実はこのようなスタンスは蕁麻疹が出る程苦手だ。心を込めて演奏します・・・とか、とても苦手。心を込めるというのは演奏者の側のことであって、そんなことは関係ないのだ。聴いている人がどう思うかが大切なのだ。

とはいえ、今まで受けてきた愛というものが飽和状態になっているのも事実。発散、放出、共有をしたいとは思う。むろん、相手が「僕のために・・・」などと微塵も思わずに発した言葉なども、僕は愛として蓄積しているのだと意識している。

こんなことを思い出す。パウロ・ショットという歌手がいる。この人とは、ある個人の集まりで共演(?)したことがある。共通の友人がいて、僕にパウロを紹介してくれたのだ。「パウロ、こちらはkaz。ピアノを弾くんだ・・・」「そうなんだ?僕、歌うからピアノ弾いてくれないか?一緒に演奏しようよ!」

その頃はピアノも再開していなく、なんちゃってピアノしか弾けなかったので(今もか?)「僕は素人だし、ピアノ上手く弾けないし、なんちゃってピアノだし・・・」と躊躇したのだ。パウロにはキラキラとしたスターのオーラがその時すでに漂っていたし、友人もパウロをプロの歌手と紹介したので、僕は「自分なんてとんでもございません」となってしまったのだ。パウロは話す声にも圧倒的な魅力が備わっていたしね。そんな僕をパウロは叱責(!!!)したのだ。

「なんで自分のことを下手とか、素人だから・・・とか何度も言うんだ???」

予想以上にパウロの歌は素晴らしかったし、とても素晴らしい時間を共有させてもらったと感じている。その時間そのものも「愛」と感じるが、パウロが僕に語ってくれたことがある。その言葉に僕はとても感謝している。

当時、パウロはとても辛い時期だったのではないかと思う。オペラなども地方の劇場で歌ったりはしていたみたいだ。でも彼はメトロポリタン歌劇場で歌いたいという夢を持っていた。でも彼はいつもいつもカバー歌手、つまり代役だったのだ。本キャストが病気や事故などで急にキャンセルした場合の備え歌手。でも練習するんだよね、完璧に仕上げるんだよね、いつ出番が来てもいいように、すべて準備する。もちろん、本番の日にはメトで待機し、心理的にも自分を最高潮の段階にまで持っていくのだ。でも歌えない。そのまま家に帰るのだ。一声も出さずに。それがカバー歌手の運命なのだから。

パウロにとっては金銭的な困窮よりも、歌えないということが辛かったみたいだ。

「僕にも歌わせてください。僕にも表現させてください。お願いします・・・表現させてください!」

そんな時期にパウロと会った。考えなしに軽い調子で「僕って下手だからぁ・・・素人だからぁ・・・」と言う僕を許せなかったのかもしれない。

彼は僕にカバー歌手の辛さを語ってくれた。そしてこうも言った。

「そんなふうに自分が下手とか言って・・・君も音楽に感動した瞬間があるはずだ。いつもそんなふうに自分のことを言うなんて、感動した瞬間に失礼じゃないか?自分に対しても失礼じゃないか?音楽に対しても失礼じゃないか?」

パウロがブロードウェイに進出したことも、そしてミュージカルで有名になったことも後で知った。トニー賞の最優秀主演男優賞を受賞し、その勢いでメトにも正式にデビューしたことを知った。カバー歌手としてではなく、本キャストとしてメトと契約したことも知った。有名になってからのパウロには会ってはいないが、あまり変わってはいないのではないかと想像する。音楽だけを熱烈に愛し、熱烈に追うパウロのままであると・・・

彼の言葉、「感動した瞬間に失礼だ」は愛として僕に残っている。僕にはこのような愛が蓄積されて飽和状態なのだ。

愛として放出したい・・・と思う。曲は今は転がし中だが、近日ホームページの曲目を書き換えられるはずだ。

パウロの歌は、音楽への愛に溢れているような気がする。「僕にも表現させてください・・・お願いします」彼の歌は表現していることの喜びを感じさせる。

kaz



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お受験ピアノ、おコンクールピアノ 

 

僕のブログの拙い文章を読んで、僕の演奏を聴いてみたいと思ってくれる人がいる。ある意味、とても驚きではある。嬉しい驚きというのだろうか?今年のピアチェーレの演奏会にも「聴きにいきます」と言ってくれている人がいる。サークルのメンバーなど、僕の演奏を知っている人ではなく、全く聴いたことのない人で、つながりはブログの文章だけなのだ。昨年もそのような人が多くいて(数人だが、僕にとっては多く・・・と感じるのだ)、とても感謝している。

僕はピアノ教育界に対して辛辣な意見も書いたりするので、僕の文章に反感を感じる人も多いだろうと思っている。そのような人は実際に僕の演奏を聴きにくる・・・なんていうことは絶対にしないだろうと思うし、そのような人から「フッ・・・素人の分際で」的なメールを頂いても、あまり気にはならなかったりする。ある意味、そのような反応も、もっともなことだと思っている。「聴きにいきます」と言ってくれる人の中には、ピアノの先生もいる。ある意味、これは僕にとっては意外なのだ。生意気なことばかり書いているしね。

昨年のピアチェーレにも、そのような、ピアノの先生が聴きにきてくれたみたいだ。そのような方たちからの感想の中で、考え込んでしまった感想が一つだけあった。決して中傷的な内容ではなく、演奏そのものは褒めてくださってはいるのだが、次の文に考えさせられた。

「もしkazさんがピアノを辞めることがなければ、音大にも合格していたでしょうね?」という文。悪意のある感想とは思わなかった。ただ僕はこのように解釈もした。「僕の演奏は一般的音大生よりも、この先生にとっては劣る演奏なのだな」と。

正直、僕はそうは思っていない。でもそのような感想を頂いたということは、僕の演奏に特殊な要素があったということではあるだろう。割と僕は変わった曲を演奏することもあるので、いわゆる「お受験曲」というか「おコンクール曲」ではない曲で判断されることになる。曲目からそう判断された・・・ということもあるだろうと思う。フォルクローレの曲や、ギターの曲を耳コピして人前で「クラシック」として演奏してしまうということは、ある意味珍しい存在なのであろう。クラシックのスタンダードな名曲も演奏したつもりだが、グラナドスなども、どこか特殊だと捉えられたのかもしれない。ベートーヴェンやらショパンといった普通の曲(???)を演奏していれば、「音大にも・・・」という感想はなかったのかもしれない。

でも、曲目だけではなく、僕自身が「ザ・音大生」という演奏とは違うものを求めているのかもしれない。その部分が、無意識のレベルで「ザ・音大生的演奏」=「いい演奏」というインプットされている人たちにとっては、どこか異質なものとなってしまうのかもしれない。

考えてみれば、ピアノ教育界そのものが、ある種のピラミッド構造を成しているものと思える。それは「お受験」「おコンクール」「ザ・音大生」演奏を頂点とするピラミッド。そこから逸れる演奏は異質なもの・・・

僕は鑑賞者としては、このピラミッド頂点に君臨する、いわゆる「ザ・日本ピアノ」というような演奏が好きではない。なので、僕自身が演奏する時にも、そこは目指さないところがある。僕の演奏は、どこか異質なのかもしれない。日本ピアノのマイノリティ?「もしかしたら音大に受かっていたかも」という感想は、そのような意味で考えさせられた。

多くのピアノの先生が、もうこれは無意識で書いているのだと思うが、たとえば「日頃のレッスンでは○○というスタンスでやっているが、コンクールに参加する場合はそうではない」ということを平気で書いたりしている。なぜ変えるの?という部分が僕には理解できない。

ピラミッドの頂点的演奏に魅せられない人って以外に多いような気もするがどうなのだろう?先生と生徒と親が頂点を目指しているだけで、関係のない一般の聴き手は、その人がどのくらい弾けるかなんて観点では聴かないのではないだろうか?

「もしかしたら音大に・・・」発言に最も怒りの感情を露わにしたのは僕の先生だ。

「そんなことはないですねぇ・・・いかにも日本ですねぇ・・・いやな感じですねぇ・・・」

先生は穏やかな人で、そのようなことを言ったりすることはなかったので、僕が驚いた。先生自身も日本の音大、派閥のようなものとは関係のないところで生きている人だ。ピアニストの修業、音楽家としての開眼はすべてハンガリーなのだという。日本ピアノ教育界では、もしかしたら異質の存在であるのかもしれないし、自分がマイノリティであるということを自認しているのかもしれない。悔しい思いだってしてきたのかも。

先生はレッスンが終わるとこう僕に言った。「ピアノの先生たちの言葉は信じてはいけないですよ。絶対に・・・」

僕自身は、ピラミッド頂点的な演奏よりも、違うところに演奏の意義を見出したいと思う。人生って結構大変だよねぇ・・・というのが50年生きてきての率直な感想だ。「今夜の献立は鯖にしようかしら?それとも・・・」といったことが人生最大の悩みなんていう人はいないはずだ。それぞれのものを、それぞれの人が抱えて、そして秘めて生きているのだ。ある空間の中で、演奏者と聴き手という存在に分かれ、演奏者からの何かが聴き手の秘めている何かと一致するような瞬間、どこか自分の辛さを音の連なりで代弁してくれているような?そんな感覚。演奏の醍醐味なのではないかと思う。

ただ美しい空を見つめ、遠い過去をそこに見てみる・・・

演奏とはそんなものなのかもしれない。

この演奏はいいねぇ・・・

大人が過去を見つめているような哀愁がある。「おクラシック」ではないので、ピラミッドを感じさせるものが何もない。

何かを共有したいよねぇ・・・とも思う。そう思いたい。だから音大に合格しない演奏に聴こえるのかもしれない。

kaz



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神の御意思 

 

アメリカでは連邦最高裁判所の決定により、州法というものを一気に超えて、全国的に同性婚が合法化された。まだ記憶に新しいニュースではある。でも納得できない人も、もちろん多い。

ケンタッキー州のローワン郡というところで事件(?)は起こった。事件の中心人物はキム・デービス書記官という人。女性ですね。この人は選挙で選ばれた公務員であり、同性のカップルに結婚許可証を発行することも仕事の一つだった。

キム・デービス書記官は、同性婚は自身のキリスト教信念に反するとし、連邦最高裁の決定は自分は免除されるべきだと連邦裁判所に訴えを起こした。むろん、連邦裁判所はそれを拒否。すると彼女は連邦最高裁に訴えを起こした。むろん、こちらも拒否された。

ケンタッキーの州知事は、すべての書記官に連邦最高裁の命令、つまり同性婚への結婚許可証を発行するように通達していた。従えない場合は公務員を辞任するようにと・・・

キム・デービス書記官は納得できなかったらしい。郡庁舎に結婚許可証を貰いにきた同性婚カップルへの許可証の発行を頑なに拒否し続けたのだ。

「結婚許可証?あなたたちゲイなのね?許可証は発行できないわ」

「それは誰の権限なのですか?おかしいじゃないですか!」

「神の御意思なの。私の信条を私から切り離すことなんてできないんだから」

「それはおかしい。我々は許可証を発行してくれるまで帰りません!」

「そう?じゃあ、あなたたちにとっては長い一日になるわね」

米国自由人権協会がこれを知り、彼女を法廷侮辱罪に問うことを求める訴えを起こした。その後もいろいろあり、彼女は現在檻の中にいるらしい。

この場合、彼女が公務員だったということが問題なのだと思う。やはり法よりも自分の宗教的な信念を優先すべきではなかったと・・・

僕はキリスト教の教義のようなものには無知なので、なぜにキリスト教というものが、このようなケースで登場してくるのか理解できない。キリストは同性同士の結婚、愛を認めていないとか?聖書に記されている?

キム・デービス書記官は、4回結婚している。つまり3度の離婚経験者だ。そして婚姻関係者以外の子どももいるという。

何回離婚しようが、個人の自由だと思う。結婚していない相手の子どもを生もうが自由だと思う。離婚によって、新しい人生が開けるのならば、それもいいだろうと思う。個人の意思なのだから。個人の自由なのだから・・・

でも、3度の離婚経験者で、婚姻関係者以外の子どもを生んだ彼女が、「神の御意思」により同性婚を認めないということに関しては、心情的レベルで納得できないものはある。

キリスト教では離婚を推奨しているのだろうか?夫以外の男性と性交渉することを推奨しているのだろうか?

ちょっと納得できない感じではある。また、このようなニュースがあると、この書記官の行動は納得できるものとし、「よくやってくれた!」的な反応が今だに多いのも納得できない。「ゲイなんて、もともと汚らわしい存在なのだから」という反応にも納得できない。

kaz

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新しい形のコンクール 

 

今は子どものものを中心に沢山のコンクールが存在しているらしい。その中に一つくらいは、達成度とか達者に弾けているとか、よく勉強している「おクラシック」のような部分ではなく、「どこか魅せられる・・・」のような才能を発掘するようなコンクールがあってもいいのではないかな・・・などと思う。普通のコンクールでは「魅力的な部分もあるわ。でも様式感に欠けているし、、ミスも多いわ・・・」などというパフォーマンスは、まず排除されてしまうのだろうが、このコンクールの場合は様式感や出来栄えよりも「どこか魅力がある。欠点も目立つけれど、何かがある」という演奏が勝ち残っていくようなコンクール。コンクールというよりはコンテストという感じ?

審査員にはピアニストとか音大の教授のような人は間違っても招いてはいけない。必ず審査員には革新的なことを成し遂げた人が含まれているようにする。たとえば、初めて京都のお寺でライトアップを試みた住職とか。あとはその道を極めた人。京都の老舗旅館の大女将とか、斬新なメニューを開発し続けるシェフとか・・・

コンテスタントはクラシックを勉強中の音大生とか、そのような人だけではなく、様々なジャンルのパフォーマンスをする人を受け入れる。もちろん年齢制限もなし。審査の基準は「聴き手のテンションを集められるか」「魅せられるパフォーマンスであるか」それだけ。どんなに達者に演奏できていても、「受けなければダメ」のような厳しさのあるコンテスト。

このコンテストに参加する勇気のあるクラシック専門の参加者がどのくらいいるか心配だが、クラシックの演奏家だけが「高尚な世界」に守られていられるのも時間の問題だろうと思う。

クラシック音楽に関しては素人だけど、その道では達人のような審査員、また惹かれるパフォーマンスには熱狂し、見事で達者だけれど、その他には何もなし・・・のような演奏には無反応、またはブーイングの嵐・・・のような自分の心に正直な聴衆、このような厳しい人たちが選ぶパフォーマー・・・

このコンテストに参加する勇気のあるクラシックのパフォーマーはかなり限定されるのでは?

でも「演奏」というものの未来を考えた時に、あまりにも狭い世界だけに通用する才能ばかりが選出されていないだろうか?それでいいのだ、それがクラシックの伝統というものなのだ・・・と言われてしまえばそうなのだろうが・・・

kaz



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解放された最後の奴隷 

 

演奏会の告知をしようかと思う。9月27日に新宿文化センター小ホールで演奏する。有料の演奏会で、収益はすべて寄付となるチャリティーコンサート。詳細はこのブログのリンクにある「愛の夢の続き」というブログにコンサートに関しての情報が掲載されている。このブログは野谷恵さんというピアニストのブログで、彼女はチャリティーコンサートの主催者でもある。

この情報の部分が「こちらのブログを参考にしてください」と丸投げなのは我ながら気になるところだが、興味のある方は参考にしてください(?)。

そこで僕は珍しい曲を演奏する。ブラインド・トムという人が作曲した「月明かりの中の水」という曲だ。旅行から帰って、今譜読みをしているところだ。ブラインド・トムって???

ブラインド・トムは南北戦争時代に生まれた奴隷だ。しかも生まれながらに盲目であり、知的障害もあった。彼の両親は、なんとか心優しい白人にトムを託したかった。つまり、買ってもらいたいと思った。そしてトムは、ある白人一家に買われることとなる。

当時の奴隷の平均寿命は30歳程度だったと言われる。どれほど過酷な条件で彼らが生きていたのかが分かる。トムは肉体労働は免除され、子どもたちの遊び相手、つまりペットのような役割を担うようになっていったらしい。

トムは、奴隷として誕生したので、もちろんピアノなど弾いたことはなかった。しかし、ある日トムはピアノでいきなり即興演奏をしたのだ。驚いた一家の主人はトムに教育を施す。つまりピアノを習わせるのだ。ここで当時のアメリカのピアノ教育の水準などということを、チラッと考えたりしてしまうが、トムは目覚ましい進歩をみせた。トムはアメリカ中を演奏して周るようになる。

盲目の奴隷、しかも知的障害をも持った少年が見事にピアノを弾き、作曲をする・・・話題にもなったであろうと想像する。それが「見世物」としての要素があったにしても・・・

南北戦争が終結し解放されるはずだったトムは「障害者を保護する」という名目で、その後25年も白人一家の管理の下にあった。解放宣言から25年後、トムは実の母親と暮らすため、ニューヨークに旅立つ。解放されたのだ。トムは「解放された最後の奴隷」と呼ばれた・・・

トムは演奏により5億円を稼いだと言われている。しかし、旅立つ際に彼が所有していたのは、粗末な身の回りの衣服と一本のフルートだけであった・・・

トムは自分がマイノリティに属していたということを自覚していたのだろうか?それは分からない。そもそも彼の人生は幸福だったのか?それも僕には分からない。

「月明かりの中の水」を実際に練習してみて感じたことがある。聴いただけでは分からなかったこと。この曲は非常に穏やかな曲であり、全く派手な超絶技巧的なものは感じさせない曲なのだが、弾いてみると、月明かりが水にキラキラと反映されている様なのだろうか、水が流れている様なのだろうか、アルペジオを伴った跳躍が非常に弾きにくい。想像してみる。盲目の少年が、この跳躍を見事に弾いてのけたなら、そしてトムは実際に弾いてのけたのだろうが、当時の観客は非常に驚いたのではないだろうか?「盲目なのになんで弾けるの?なんで跳躍できるの?」と。それがトムの生きる術だったのだ。彼にはそれしかなかった。そして彼にはピアノしかなかった。

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category: 秘曲

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空気が動くということ 

 

ポール・ポッツが有名になってからの動画。演奏会のものではない。

このような場所で歌い、さらに聴いている人・・・ではないな、偶然にそこにいた人を惹きつけるということは、とても難しいことのようにも思う。でも、このようにも思う。「でもそれが本来の演奏というものなのでは?」と。

彼が建物に入ってきただけで、「あれっ?ポール・ポッツ?」「ねえ、彼・・・もしかしてポール・ポッツじゃない?」という注目を浴びている。有名人になったのだ。でも彼が歌い始めると、それだけではない何かが、その場の空気を支配する。この動画はその様子が克明に描かれていて興味深い。

聴いている人の表情も、クラシックの演奏会では、まず見られない表情だ。

パフォーマンスとして、演奏者と聴き手とで、何かが共有されている雰囲気が素敵だ。

ピアノは幼い頃から習い始めるのが普通だ。困難な問題としては、「いかに持続させるか・・・」ということだけが浮上してしまう。でもそれよりも難しい問題は、聴き手として魂が動く瞬間よりも、かなり前から弾き手として楽器を操ることに慣れてしまうことではないだろうか?

kaz



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category: The Singers

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経歴 

 

スーザン・ボイルを有名にしたオーディション番組、この番組からは、もう一人の有名人が輩出されている。ポール・ポッツという人だ。この人は少年の頃、カレーラスの歌声に魅了されたのだそうだ。

「なんて素晴らしい・・・ああ、こんな風に歌えたらどんなに幸せなんだろう???」

ポール・ポッツは今ひとつ、自分の容姿に自信が持てなかったらしい。むろん、それだけが理由ではなかっただろうが、歌への道は断念することになった。普通の(?)大学を卒業し、普通の(?)仕事をする、普通の人となった。

でも歌は歌っていた。あるテレビ番組の賞金でイタリアに短期留学し歌を学んだり、アマチュアのオペラの団体に所属し、そこで歌ったりとか・・・

彼は、歌に関しては全くの素人というわけではなかった。でも、それを職業にする・・・ということはなかった。

彼は怪我をしたり、病気をしたり、そして医療費が莫大になったりと、どこか災難な人生だったようだ。必死に働かなければ生きていけない状況・・・

そこで彼は携帯電話のセールスマンになった。生活は徐々に安定していったけれど・・・

「でも本当は歌を歌う仕事がしたいんだ。本当はね・・・」

ポール・ポッツの声はクラシックの歌手に近いものだ。でもオペラ歌手とカテゴライズはできないだろうと僕は思う。彼に対してのクラシック音楽愛好家の厳しい意見もあったりする。「オペラを歌うということは、アリアを歌えればいいということではありません」みたいな?動画で彼が歌っているカラフのアリアを歌うには、彼の声は軽すぎる・・・とか?それらの声は、かつてのマリオ・ランツァに対してのそれと近いような気もする。

そんなことどうでもいいじゃぁないか・・・

彼は歌が上手いのだ。そして歌が好きなのだ。何よりも、歌で人を惹きつけることができるのだ。それさえできない自称専門家がいかに多いか・・・

全くの素人を惹きつけられない専門家、プロの演奏よりはポール・ポッツの歌が好きだ。

人を惹きつける要素とは何だろう?上手さ?達者なこと?少なくとも「経歴」「学歴」ではないことだけは確かだ。それらに感動する人達もいないではないが・・・

kaz



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category: 音楽自立人、音楽自由人

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なんでピアノ辞めちゃうの? 

 

「音大に行きます」などという子どもは別として、多くの子どもはピアノを辞める。中学進学を理由に辞めるケースがやはり今も多いのではないかと思う。せめて15歳あたりまで続けてくれれば・・・と願うピアノ教師は多いだろう。

辞める理由としては、これまでにも沢山語られてきた。忙しくなるとか・・・

たしかに忙しくなるのだろうとは思う。ピアノは家で練習しなければならないので、そこが問題となる。練習しなければ上達は難しい・・・という意味においての、練習の必要性は、すべての子どもが理解しているところだと思う。でもできない、しない。その理由は、練習の目的が示されず、何のために練習するのかを把握していないからではないかと思う。子どもだけではなく、大人もだが、何のために練習が必要かという根本を理解できていなければ、わざわざ練習なんかしないだろう。苦しいだけだもん。

何のために練習するのか?

「上達するためじゃない?」

そうだろうか?ピアノを習うのは、弾き続けるのは上達したいため?

おそらく、このあたりがピアノを辞めてしまう大きな理由となるように思う。多くの人は上達することを目的だと思う。でも僕は違うと思っている。上達することは、目的ではなく、むしろ手段に過ぎないのではないかと。

これは全く個人的な考えだが、音楽から受けた心の動きというものは、「きゃっ、素敵!」とか「あら、いい曲ね」というものよりも、相当深いもののように思える。人生というものが困難の連続で、苦しみだらけだったとしても、音楽というものは、その人の何かを救うというか、絶対に裏切らない何かというか・・・

人生の遠く先には、音楽から受けた心の動きのような、光のような瞬間が絶対に存在しているのだと思える幸福感とでもいうのだろうか?そんな感じ・・・

その聴き手としての強烈な想いを、空気に音の塊として乗せたいという願望が起こる。空気に乗せた音が浮遊し、だれか一人でも自分の中の光、音楽から貰った心の中の光のようなものをキャッチしてくれたら・・・・

だからピアノを弾く、そのために上達したいと思うのだ。上達というところが最終ゴールだと思っていたら、ピアノなんか練習しなければならないし、人前では緊張するし、日常生活が犠牲になるところも多いし、弾く気も失せるだろうと僕は思う。

自分の中にある何か、その光のようなものを空中に乗せたい、放出したい。マグマのような熱い何かを外に出したい・・・という強烈なまでの欲求・・・誰かがキャッチしてくれたら「生きていてよかった」とさえ感じられるだろう、そのような想い。

スーザン・ボイルという歌手の名前は知っていたが、歌唱を聴いたことはなかった。有名な、彼女を世に送り出したオーディション番組の動画も見たことはなかった。

冴えない中年の女性が、その風貌からは想像できないような歌を歌った・・・というところで有名になった動画だと思うし、一般の女性が夢を実現したサクセスストーリーとして有名になった動画でもあるだろう。

スーザン・ボイルはアスペルガー症候群なのだそうだ。アスペルガー症候群については、各自調べて頂くとして、基本的に、子どもの頃から彼女は人と関係を結ぶのが難しかった可能性が強い。また、社会生活を営むということにおいても、そうとう苦労を重ねてきたと想像できる。このオーディション番組に出演した時には、彼女は47歳で、無職であり、男性とキスをしたこともないと自ら語っている。

どこか、意識的にはしゃいだような印象を与え、自分の本当の姿を隠して、内面を探られるのを拒否しているような、独特の話し方が、どこか哀しさを感じさせる。

でも、彼女には歌があったのだ。歌う時だけは、本当の自分でいられた。チャンスとか成功とか、華々しい人生ではなかったけれど、歌が私を救ってくれた。歌は私の光なの・・・

審査員も聴衆も、彼女が歌い始めると、「えっ????」と惹きこまれていく様子が興味深い。上手さ、声の素晴らしさだけも、最初の瞬間は聴き手のテンションを集めることはできる。でも彼女は最初だけではなく、歌の最後までそれを持続することに成功している。

彼女は自分の想い、自分の光を会場の空気に放ったのではないかな?「歌は私の光なの・・・」「歌だけは私を裏切らなかったの」

それを人々がキャッチした・・・

音楽から何かをキャッチしてしまえばいい。そうすれば人生において、「ピアノを辞める」という選択は消える。辞める・・・ではなく「中断」になるわけだ。

ちなみに僕の中断は30年。でも今はピアノを辞めていた・・・とは感じていない。

kaz



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category: The Singers

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自己肯定少年登場 

 

慢心と自己肯定とは違うのだろうか?割と難しいところだ。

演奏会が終わり、楽屋を訪ねてきてくれた人に対して、「どう?私の演奏、素晴らしかったでしょ?」と言うのはどうかと思う。普通は言わないよね。でも、あまりに謙遜しすぎてしまうのもどうだろう?

「本当にゴメンなさ~い!酷い演奏をお聴かせして・・・」

有料の演奏会の場合、このような言葉を発してしまうのは、聴きに来てくれた人に失礼なのではないかな?演奏者自身が「失敗したぁ・・・」と感じても、やはりお客さんにそれを伝えてしまうのは、マズイような気がする。発表会などの無料の演奏の場では許されるか?それは聴き手がその時の演奏者でもある場合は許されるのではないかな?でも無料だろうが、わざわざ聴きに来てくれた・・・という人には、やはり「大失敗しちゃったぁ・・・」などと言ってしまうのは、やはりどうかと思う。サークルの練習会のような場ではいいと思う。聴く人=弾く人のような特別な場だと思うし、お互いに傷を労わりあうのも良かろうと・・・

「あ~ん、失敗しちゃったぁ・・・」「そんなことないよぉ・・・音楽、流れていたし、気にならなかったよ?」「そう?」・・・これは美しいとさえ思う。いいんじゃないかな?相手が「失敗しちゃったぁ・・・」「全然弾けなかったぁ・・・」などと嘆いているのに、きっぱりと「そうですね!」などと言うのもね。まぁ、そんなこと言う人もいないだろうが・・・

留学記などでよく目にする文章。日本人留学生は基本的に謙遜するのだそうだ。試験や公開演奏、またはレッスンなどにおいてもだけれど、留学生は演奏後、先生から訊かれる、どうでしたか・・・と。多くの人は「よく弾けませんでした。もっと練習しないと・・・」などと答える。日本の音大だと、割と普通の光景なのかもしれないが、外国の先生は、とてもがっかりしてしまうらしい。「えっ、あんなに熱心に教えたのに?そして指導に応えてくれていたと思っていたのに」と。ありそうな話ではある。

僕にも同じような経験はある。ピアノを再開して初めての人前演奏。まだサークルには所属していなかったので、ピティナのステップに出たのだ。その時は、正直あまり良く弾けたとは思えなかった。僕自身、練習やレッスンの時のようには弾けなかったとは思った。

「どうでした?」と先生。

「なんだかあまりよく弾けなくて・・・やはり最初だから緊張していたのもあるし・・・」と僕。

「えっ?よく弾けていましたよ?何が起こったんですか?緊張しても、あまり良く弾けないという演奏になるとは僕には思えませんが・・・何かあったんですか?」と先生は大真面目に僕の言葉に反応したのだ。正直、びっくりした。僕は軽い気持ちで、普通はそう答えるのだろうな・・・という気持ちで「あまりよく弾けなくて・・・」と答えたのだ。

その後、先生のリサイタルがあり、自分のリサイタルのことを先生が自身のホームページに書いた。

「練習も含めて、楽しかったぁ・・・」と。これにも正直びっくりした。今は慣れたけど。

自分の演奏に対して「まだまだ未熟で、とんでもございません」的なことを人に言う心理として、本当にそのように思うということもあろうが、そこには自分をよく見せたい・・・という心理が自分の中にないだろうか?謙遜して「まだまだなんです」とか「全然弾けなかったんです」と言っているようなんだけれど、そこには「本当はこんな演奏をする私ではないんだけど・・・」みたいな言い訳のような、自分をプロテクトするような心理がそこには働いている・・・「もうちょっとは本来なら弾けるんだけど・・・」みたいな?

そんなに人を気にするぐらいだったら、自己肯定してしまったほうが自分にも正直だし、気持ちいいのではないだろうか?

自己肯定のできる人は、自分の能力を客観的に判断できる人・・・という感じがする。

この15歳のアメリカの少年・・・

自己肯定してるよね?僕は好きだな・・・こういう人。

kaz



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category: あっぱれ麗し舞台

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