ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

様式感という枠の中で・・・ 

 

「バッハをバッハらしく・・・」とか「モーツァルトは古典派なので、それらしく・・・」とか、僕には今一つ理解できない。もちろん、モーツァルトの曲をロマン派の曲のように弾いてはいけないのだろうということは想像できる。ペダルを踏みっぱなしにして音のカオス状態にしてしまってもいけないだろう。それも分かる。でも「モーツァルトは古典派なのだから、きっちりと弾きましょう」とか「あの時代の様式感を考えて表現は控えめにしましょう」ということになると、「どうして?」と思ってしまう。反発したくなるというか・・・

ピアノ学習者には、音大生を含め(中心に?)、ピアノ曲しか聴かない、それも自分の弾いている、習っている曲しか聴かないという人も結構多いようだ。「それはいけませんね、シンフォニーを聴きなさい、オペラを聴きなさい」とはよく言われる。その理由は、教養として聴くということではないだろう。では何故か?

僕が思うには、ピアノ曲、それも自分の弾いている曲だけ、あるいはその周辺の曲しか聴かない、演奏も有名どころのピアニストの演奏しか聴かない・・・となると、音楽を全体的に捉える能力に、いささか欠けてしまうのではないかと思う。別にオペラに興味がなければ、あるいは嫌いであれば、無理に聴く必要もないのかもしれない。家賃並みのチケット代を払って外国の歌劇場引っ越し公演を聴く必要もないだろうし、日本の○○会公演・・・のようなオペラを無理して聴いて「なんだかなぁ・・・」と思いつつ義務感で聴く必要もないのかもしれない。

でも、こうも思うのだ。もし、生徒が先生から「モーツァルトなのだから、もっと、きっちりと古典派っぽく弾きなさい、様式感を考えて・・・」などと言われた場合、その生徒がピアノ以外の曲の知識、いや、知識ではないね、ピアノ以外の楽器のモーツァルトの演奏、それも偉大な演奏を知らない場合、先生の言葉をそのまま守って、なんだか面白みのない、定規をあてたようなモーツァルトになってしまう可能性もある。実際、そのようなモーツァルトのピアノ・ソナタの演奏は多いような気がする。

でも、もし、その生徒がピアノの進度としては初級やら中級程度であっても、オペラ、それはアリアだけでもいいかもしれないが、偉大な、素敵な演奏を知っていたとしたら、その演奏によって心を動かされる経験を持っていたとしたらどうだろう?たとえば、このヘルマン・プライの歌うフィガロを聴いて「ああ・・・いいな・・・素敵だな・・・」と感じていたとしたら、そのような音楽感動体験をしていたとしたら、先生の「古典派だからきっちり・・・」という指示を疑問に思うだろう。その疑問が、とても大切なことのように思うのだ。

「でも・・・プライはフィガロを生き生きと歌っていたな、あの歌唱は、きっちりとか、控えめな表現とか、そんな演奏ではなかったな・・・でもモーツァルトなんだよね?」と素朴な疑問を抱くだろう。その感覚が大切なのだと思う。「古典派でもプライのように生き生きと演奏してもいいんだよね、きっちり・・・ということではないのかも?でもショパンのような曲とは違うよね?」と、生徒なりに悩み、考えるのではないだろうか?ここが大切なのだ。「先生がそう言ったので・・・」という意識で常に弾いていると、非常に受け身的な演奏というものが、その生徒にとって普通になってしまう可能性もあるし、生徒自身が感じたものを出す、表現しようとする動機すら、殺されていってしまう可能性もある。先生の役目としては、もし「古典派なので・・・」という時代様式感というものを生徒に言うのであったら、生徒が「でもヘルマン・プライという歌手は、きっちり・・・という感じじゃなくて、生き生きと歌っていたよ?モーツァルトだから、あれじゃいけないの?でも僕は素敵だと思ったよ?それはいけないの?」と先生に反抗(?)してきた場合、先生は明確に答えられなければいけないだろうと思う。

「えっと・・・有名な歌手はいいのよ・・・」では答えになっていないだろう。「プロだからいいのよ」でも本当の答えではないだろうと思う。

「それはプライという歌手が間違っているの!」と答えるのか?どう答えるのだろう?

ピアノ以外の楽器、歌を聴くべき理由の一つは、そこにあるのではないかと思ったりする。

kaz



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category: ピアノ雑感

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人前演奏回路の危険性 

 

サークルの演奏会まで、あと一か月を切った。リストの「メフィスト・ワルツ」を弾く。この曲は難しい曲として知られている。実際、難しいと思う。あと一か月と言っても、ピアノを弾ける時間などは限られているわけだ。当たり前のこととして、僕が最優先に考えることは、仕事のことであり、次が生活(身体のことも含む)のことだ。ピアノは優先順位としては、3番目くらいの位置づけとなるだろう。でも、人前で緊張して・・・という場面は、仕事でも生活の場面でも、そうそうあるものではない。だから心配になるのだ。

一か月後に暗譜で人前で弾く・・・ということはまだ実感できていない。なので、まだ気楽なところもあるが、譜読みそのものを終えていない箇所も多いのだ。「どうしよう・・・」とは思う。いつも思うけど・・・

「メフィスト・ワルツ」は難曲みたいなので、どうも「音を激しく並べました!!!」という演奏になりがちだ。そして聴き手も、その爆風(?)に「凄~い!!!」などと思ったりするのだ。でもピアノ演奏は曲芸ではないので、凄~い・・・ではなく、自分が意図した世界の表出を試みたい。

甘美な甘さ、ファム・ファタール的魅惑・・・

「メフィスト・ワルツ」では悪魔的な邪悪さを表面に出すのではなく、隠された妖艶さというのだろうか、どこか色っぽさを感じたいのだ。これは、かなり変わった感じ方かもしれないが・・・

むろん、早朝の草原・・・とか、ファミリーのピクニックのような、健全な世界ではないけれど、邪悪そのものでもない。なのでファム・ファタールなのだ。妖婦、男を破滅させる女・・・ファム・ファタール。でも彼女自身は普通にしているのだ。悪意があるわけではない。あまりに「この世と思えないような美しさ、非日常性」を感じさせてしまい、男たちが勝手に破滅していってしまうだけなのだ。これこそ「メフィスト・ワルツ」の世界なのだ。

ところが・・・

本番前になると、「ファム・ファタール」精神などは、どこかへ吹き飛んでしまい、現実感バリバリになってしまうのだ。「あそこが弾けない」「この跳躍がどうも・・・」「ああ・・・まだ譜読みもしていない」「ここは絶対に失敗しそうだ・・・」「本番・・・どうしよう?」「失敗してグチャグチャになってしまうのでは?」「どうしよう・・・どうしよう・・・」

でも、これって、表面上のことばかりなのだ。そして、人の演奏を聴く時には重要視しないようなことばかりなのだ。何故自分が弾く、特に人前で弾くという時に、このようなことばかりが気になってしまうのだろう?

隙間時間を見つけては、練習していくことになるのだろう。出勤前、早起きして練習したりとかね。そこまでして、練習を重ね、努力するにもかかわらず、そうすればするほど、自分の意図から離れていってしまい、弾けたの弾けないなどといった表面的なこと、聴いている人にはどうでもいいようなことに一喜一憂することになるのは、本望ではない。でもそうなりがちなのだ。練習すればするほど本来の自分の表現したいことから離れていくというのも、考えてみれば、おかしな話だ。

これは、アマチュアが陥りがちな危険性だとも思う。人前での演奏機会を確保しているアマチュアは結構いると思う。少なくとも、発表会での講師演奏しかしない・・・というピアノ教師よりは人前演奏の機会は多いような気がする。いいことのようにも思えるし、そしてその演奏の場は、たかがサークル・・・なのかもしれないが、定期的な演奏の場があるということは、思考回路が常に「人前演奏モード」「失敗したらどうしようモード」になりがちなのではないだろうか?これは危険だ。

人によっては、いくつものサークルに所属していたりすれば、週末はいつも「人前演奏」などという人も少なくないのではないかと思われる。売れているプロなみの演奏回数?

でも、常に「どうしようモード」「弾けるか弾けないかモード」になっているということは、本質を失う危険性も大なのではないだろうか?このあたりは難しいところだ。

表面上、ツラツラと弾けるようになる、このことだけだって大変なことだけれど、この部分は努力でなんとかなる。もっとも厄介な部分は「なぜ自分は音楽的に弾けないのだろう、人を惹きつける演奏ができないのだろう、なぜ音を並べていますという演奏になってしまうのだろう、なぜ取りあえず弾いてみました的な演奏から脱却できないのだろう?」という部分なのでは?多くのアマチュア(プロも?)はこの部分で悩んでいる。この部分の難しさの理由は色々とあるだろうが、まずは演奏者が常に「人前緊張モード」にいて、本質を追うことを忘れてしまっているということにも要因があるのかもしれない。

個人的に、最も「ファム・ファタール」的な魅力を感じる女優が、ヴェロニカ・レイク。40年代に活躍した女優なので、知らない人も多いのかもしれないが、僕はピアニストも俳優も「往年好み」なのだ。

でも、本番ではヴェロニカ・レイクの面影を追う・・・なんて余裕はなさそうだ。それが問題だ。

kaz



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category: サークル

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正直な演奏を正直に聴く 

 

子どもが癌(に限らずだが)で死にゆく時、大人と同じような道を歩んでいくことが多い。自分にとっての「人生のやり残し」を意識し、そして「愛」というものを意識する。それらのことをやり遂げた時に、喜びと幸福感を感じながら死んでいくのだ。「子どもなのだから・・・」という特別要素は何もない。大人と同じだ。

ジェレミー君は8歳。小児癌の末期で、化学療法もやり尽くした。

「パパ、ママ、家に帰りたい・・・やりたいことがあるんだ・・・」

ジェレミー君の「やり残し」は自転車に乗ることだった。病気との闘いの、短い人生だったので、自転車に乗るという体験をせずにきたのだ。「自転車に乗りたいんだ。パパ、乗り方を教えてくれる?」

何度も転んだ。出血もした。両親は見ていられなかったが、ジェレミー君は補助輪つきの自転車を拒否した。「それは自転車じゃないもん・・・」と。

なんとか、転びながらでも一人で乗れるようになると、ジェレミー君はこう両親に告げた。「近所を周ってくるね。パパ、ママ、そこで待っててね・・・でも僕が転んでも絶対に助けないで・・・お願いだよ」

ジェレミー君は、そう言うと、自転車に乗って両親の視界から消えた。思わず駆け寄ろうとし、追いかけようとする母親を必死で止める父親、両親にとってはジェレミー君が戻ってくるまでの時間が永遠の時間に思えた・・

ジェレミー君は、何度か転んだのだろう、でも戻ってきた。そこには転んだ傷と共に、満面の笑みがあった。ジェレミー君は人生のやり残しの一つを終えたのだ。彼の最後のやり残しは、両親に愛を伝えること。

「パパ、ママ、今までありがとう。短かったかもしれないけど、パパとママの子どもでよかった。そして僕の存在が、パパとママに愛を感じさせる存在であったこと、そのことが分かって嬉しい・・・」そう言い残してジェレミー君は8年の人生を終えた。

この話しは、多くのことを教えてくれると思う。まずは、「子どもだから・・・」という大人の思いやり、そして価値観の押し付けは、時に誤っていることもあるのだということ、人生末期における、愛の相互作用というもの、この瞬間にお互いが感じる心の動きは、音楽がもたらす感情の動きと非常に似ていることもある・・・ということ。

演奏する立場、それはアマチュアだろうと、プロだろうと、それは同じだと思うが、そのような時には、作品というものを音にしていく作業の中で、音楽をする、演奏をするという行為が、愛の相互作用というよりは、作品そのものを克服するというか、征服していくという感覚に捉われてしまうことがあるということだ。それは無意識レベルでそのような感覚になってしまうので、なかなか気がつかないことが多い。そのような感覚でピアノを弾いていると、ややもすると、ピアノを演奏する時、特に人前で演奏する時に、「自分がどう弾けるか?弾けたか?」というところに価値を見出してしまいがちだ。そのことに演奏者が気がつかない・・・

演奏を聴く時には、これまた無意識レベルで、愛の相互作用、それは作品に込められた愛のようなものを、演奏者が引き出し、それを聴き手が感じとり、その感情が演奏者にバックされていき、相互作用のエネルギーが生まれる・・・ということを求めていたりする。決して表面的な演奏の出来映えではないのだ。

でも、現実には、そのような演奏は少ない。それは演奏者の責任であるというよりは、聴く側の感性が濁っていることにも原因があるようにも思う。

「有名な人だから・・・」

自分の感性で演奏を聴いているだろうか?求めているだろうか?

「世間で~とされているから」ということよりも、自分の内側を開いて正直になってみればいいのだ。その行為は、どこか痛みをも伴うことがある。人生における愛の相互作用も、心の痛みを伴う。それは、音楽を聴くときにも同様なのだ。そして演奏をする時にも同様なのだ。

演奏する時、演奏を聴く時、子どもを教える時、一度自分の内面、本当に求めているものを見つめてみればいい。それは「ワッ、楽しい」という感覚ではないけれど・・・

でも子どもにも、その感覚は備わっているし、音楽の素人にもその感覚は備わっている・・・

この演奏は、愛に溢れた演奏のように僕には感じる。ぺナリオ作品を弾いているということ、そのものが珍しい。レナード・ぺナリオというピアニストそのものが、まず知られていないし、この曲は10度感覚が基本のようなところがあるから、手が小さいと演奏困難なところがある。でも、この曲が演奏されないのは、どこかアメリカンテイストを感じさせるからではないだろうか?「ぺナリオ?アメリカの人?ハリウッドの映画音楽も書いた?低俗な感じなんじゃない?」というぺナリオへの偏見・・・

でも、このピアニストは、作品に込められたぺナリオの愛を見事に表出している。愛に溢れた演奏だ。

この人のことは、以前にも書いた。シューラ・チェルカスキーの言葉と共に。「何故あなたが世界各地で有名ではないのでしょう?私はあなたのことを知りませんでした。もっとあなたのことを教えてください・・・」

このピアニストは日本人ピアニストであるのに、日本でも有名ではないというのは、どういうことなのか?そして何故レナード・ぺナリオというピアニストそのものが知られていないのだろう?この曲が演奏されないのは何故だろう?

ピアノの練習という行為そのものは、同じことの繰り返し的なところがあるし、弾けるようになるまでにとても苦労するところがあるから、どこか手段が目的となりやすい。なので「・・・のように弾ける」ということが目的となりやすい、なので達者なだけで表面的な演奏が多いのだ。一度自分の心の中を覗いてみるといいと思う。本当に求めているのはそれ?

演奏する人、聴く人、ピアノを習う人、そして教える人、今は正直になるということが大切なような気がする。

kaz



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category: 音楽自立人、音楽自由人

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ファム・ファタール 

 

「ショーシャンクの空に」という映画があった。この映画の原作はスティーヴン・キングの小説で、「刑務所のリタ・ヘイワース」という。映画の中でも、リタ・ヘイワースのポスターが効果的に使われていたように思う。

ハリウッドの「セックスシンボル」的存在の女優といえば、マリリン・モンローを連想する人が多いのかと思うが、もう少し前の時代のセックスシンボル的女優といえば、リタ・ヘイワースだった。第二次世界大戦中、アメリカの兵士は戦闘機の中に彼女のポスターを貼ったり、兵舎の部屋に(秘かに?)飾ったり、戦争が終わっても、「ショーシャンクの空に」で描かれていたように、囚人たちが、彼女のポスターを部屋に貼ったりしていた・・・

僕としては、「セックスシンボル」というよりは、どこか「ファム・ファタール」的な魅力をリタ・ヘイワースからは感じたりする。

ファム・ファタール・・・妖婦?悪女?男を翻弄し破滅に導く・・・

清純というよりは、何をしても妖艶・・・というか、平凡な主婦の役などは、あまり似合わない感じで、爽やかな朝の草原よりは、酒場に佇んでいたりする方が似合うような?

メリル・ストリープがプライベートでスーパーで買い物をしている姿は、どこか想像できてしまうが、リタ・ヘイワースの場合は、あまり想像できない。このあたりの現実感の希薄さというものが、往年の女優の魅力ではないだろうかとも思ったりする。

妖艶な魅力でハリウッドのスターとなったリタ・ヘイワースだが、実生活では幸福とは言えなかったのかもしれない。彼女は若年性アルツハイマー病だったのだ。40代で発症している。

セリフが覚えられない、奇抜な行動を突然したりして周囲を驚かせる、それを映像に収め、興味本位に彼女を見る心ない人たち・・・

彼女が活躍した時代は、アルツハイマー病に対しての人々の知識も感心も希薄で、病気だけではなく、人々の興味本位の偏見にも彼女は傷ついたのではないかと想像する。

リタ・ヘイワースの娘、ヤスミン・アガ・カーンという人は、国際アルツハイマー病協会の会長を発足当時から務めている。母親の壮絶な晩年を支えた人でもあった・・・

「何を書かれてもいいの・・・でも悲しいことだけは書かないで・・・」  リタ・ヘイワース



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category: kinema

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「アリスのままで」 

 

日本での公開は来月になると思う。なのでストーリーを全部書いてしまうわけにはいかないだろう。とても重いテーマを扱っている映画なので、心身共に余裕のある時に観たほうがいいかもしれない。また、僕の涙腺が脆いのかもしれないが、この映画は涙なしで観ることは難しいと思う。映画館で観る場合はそのことも頭に入れておいたほうがいいかもしれない。

主役のジュリアン・ムーアの演技が圧倒的で、各映画祭の賞を総なめにした。彼女は若年性アルツハイマー病という難しい役柄を見事に演じている。実際に彼女は多くの若年性アルツハイマー病の患者に会い、リサーチを重ねた。映画の中で、アリスが娘の「どんな感じなの?」という問いに「悪い時は、自分が誰だか分からなくなるの」と答える場面があるが、これは実際の患者の言葉なのだそうだ。

アリスは言語学者でコロンビア大学で教えている、いわゆるキャリアウーマンだ。輝いているわけですね。キラキラしているわけです。最初は、言葉が出てこない、単語を忘れる、自分が一瞬、どこにいるのか分からなくなる・・・ということから始まる。そして若年性アルツハイマー病と診断される。この時、アリスは50歳。

アリスの崩壊していく姿が描かれていく。輝いていた姿がどんどん崩れていく。アリスは崩壊していく自分をどうしていくのか、家族はどうしていくのか・・・淡々と、そしてリアルに描いていく。

この映画を監督した人物は二人いる。共同で映画の監督をしている。監督はリチャード・グラッツァーとウォッシュ・ウエストモアランドという人だ。二人は私生活でもパートナーであり、結婚して20年以上になる。

リチャードはALS(筋委縮性側索硬化症)を患っていた。身体が動かなくなっていく病気だ。「アリスのままで」の撮影でも特性のipadを使用し、足の親指でタッチしながら監督としての指示を出していたらしい。そのリチャードを支えたのが、彼の夫でありパートナーでもあり、ソウルメイトであったウォッシュだったのだ。

リチャードとウォッシュの二人は、アカデミー賞授賞式を病院の病室で見ていたのだという。そしてリチャードは亡くなった。まだ63歳という若さだった。

ウォッシュは「まだ信じられません。彼は僕のソウルメイトであり、協力者であり、親友であり、そして僕の人生そのものでしたから・・・」と語っている。

「アリスのままで」の共同監督についてもウォッシュは語っている。リチャードが筋委縮性側索硬化症を発症した時に、ウォッシュはリチャードにこう言ったのだそうだ。

「リチャード・・・何をしたい?旅行?世界中を旅しようか?何がしたい?」

リチャードはこう答えた。

「映画を撮りたいな・・・」

「アリスのままで」はリチャードの最期の願いそのものだったのだ。それは二人の願いでもあった。

kaz



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category: kinema

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ピアノは裏切らないから・・・ 

 

割と(すごく?)ピアノ教師に対しては厳しい考えを持っているように思われているが、事実持っているのだと思うが、その原因としては、小学生の時の先生であると思っている人が多いようだ。何回か書いた記憶があるけれど、僕が弾きたいと言った曲の楽譜を「弾けるわけないじゃない!」とビリビリ破いた先生だ。正直、この時のことはトラウマにはなっていないように自分では思う。自分のことって、自分が一番理解していないから、なんとも言えないが、自分としてはそう思っている。

楽譜ビリビリに対しても「激しい場面だな」と、どこか子どもなりに冷静だったような気がする。それは、僕がその時の先生を尊敬していなかったからだと思う。別に先生が悪かったのではないのだ。僕が弾けないなりに、その時の問題を克服しようという気迫、根性に欠けていたのが原因だと思う。練習もしてこない生徒、何度注意しても楽譜を読もうとせず、勝手に弾いてしまおうとする生徒に対して、小学生時代の時の先生は、ごく当たり前の反応をしたのだと思う。楽譜破りは強烈ではあったが、心の傷にはなっていない。もし、僕が先生を信頼していて、僕もある程度真面目にピアノに取り組んでいたとしたら、そりゃあ、楽譜ビリビリはショックだったろうと思うが・・・

心の傷・・・とは言えないかもしれないが、ピアノ教師への幻滅を感じたのは、楽器店の営業の仕事をしていた時だ。ピアノの先生との関わりも多かったのだが、先生たちはピアノを弾かないのだ。

「どうして?」

「だってぇ・・・卒業したら弾かないよねぇ・・・」

「へっ?」

「在学中は弾いていたんでしょ?」

「そりゃあ・・・まぁ・・・でも試験でも時間になると切られちゃうのが分かっていたから、その切られるあたりまでしか練習しなかったな」

「私も。普通、そうよね?ソナタでも再現部なんて弾いたことないもん・・・」

「へっ?」

「大学の先生は?許さないでしょ?そんなこと・・・」

「ううん・・・先生が時間を計ってくれて、このあたりで切られるからって・・・そんな感じよね?桐朋とか芸大じゃないんだし、普通、そんなもんよね?うちらの学校は短大しかないし・・・」

「へっ?」

その先生たちは、発表会の講師演奏も結局しないで(できない?)講師たちで合唱(斉唱?)しながらダンスをしたのだ。ピアノの発表会で・・・

トラウマと言えば、こちらの方がそうだと言える。僕としては、かなり強烈な体験ではあった。

むろん、ピアノ教師のレベルとしては最低の部類・・・というか思考の教師たちだったのだろう。特別なのだ。でも、その後、コンクールで子どもの演奏を聴いたり、多くの発表会を聴いたり、そして先生がたの演奏(ほとんどがアンサンブルだった。ソロは大変なのね?)を聴いたりしたが、どうもピアノ教師は弾かない、あまり弾けない・・・という印象を覆せないでいる。これはなんとかせねば・・・と思っていて、ピアノ教師に対しては、いい印象を持とうと努力はしている。でもなかなか・・・

「ピアノって一生懸命、ただ弾いて、そういうもの?教師である自分自身がピアノを楽しんでいる?そうではないと思った。だからピアノは弾かなくてもいいと決意した。楽しめないピアノを弾いて生徒にピアノの楽しさなんて伝えられるわけないから・・・だからピアノを(人前で?)弾かない」

このようなピアノ教師の文章を読んだりすると、やはり印象は悪くなる。その偏った印象は自分なりに改善していかねば・・・とは思っている。本当に・・・

僕などと異なり、ある程度一生懸命ピアノと取り組んできて、先生のことをある意味、尊敬してきた生徒にとっては、先生の悪意のない一言がトラウマになることもあるようだ。楽譜ビリビリ事件のことを書いたせいか、「傷ついているんです」的なメールも最近は貰ったりしている。

「これ以上は、あなたの手の大きさでは無理だから・・・」「専門?音大?違うのね?なんでもっと早く言わないの?ポップスとか弾いてもよかったのよ?」「あなたのピアノ聴くと頭痛くなる」「あなた、学校でも成績良くないでしょ?」「下手は下手なりに努力しないとね」

大体、こんなことを言われているかな?傷つくだろうなぁ・・・

メールで一番多いのは、傷つく言葉を言われた・・・では実はない。楽しみながら、別にイヤな思いもせずにピアノを続け、周囲が辞めるので、自分も便乗して辞め(専門的に習うのと訊かれ、そうではなかったので・・・とか)、成人してから、音楽の強烈な魅力を感じ、「でも・・・私・・・○年もピアノを習っていたのに・・・何も弾けない・・・」という現実に傷ついている人が多い。いわゆるグレーゾーンだった生徒たち。「ピアノなんて大嫌い!」でもなく「音大も考えています」でもない普通の生徒。先生は好きだったとか、優しい先生でレッスンは楽しかったという、過去のピアノレッスンに関しては、割といい印象をも持っている人が多い。だからこそ、「えっ、弾けない???」という事実に傷つくのだろう。ここで興味深いのは「先生なんで・・・」と人ではなく、自分を責めている人がほとんどだということだ。「なんで一生懸命練習しなかったのだろう?」「なんで自分で弾けるようになる・・・というところまで頑張らなかったんだろう?」と自分を責める・・・

他人に責任転換するのもよくないが、自分を必要以上に責めるというのも、どんなもんだろうと思う。

「だから・・・ピアノはもういいんです」とか・・・哀しすぎるよ。

話題は突然重くなるが(今までも充分重いが)、イギリスのピアニストで、ジェームス・ローズというピアニストがいる。この人のことは、以前に書いた記憶があるが、もう一度。

ジェームスは、子どもの頃、たしか7歳の時だったかな、教師から性的な虐待を受けている。つまりレイプされたのだ。この時のことがトラウマとなった。「死にたい・・・」「こんなことになったのも自分に責任があるんだ、僕がいけないんだ」

そんな彼を救ったのが、ピアノであり、そして音楽だった。彼はピアノを弾いた。そのことが彼を救った。

愛する人と結婚し、子どももできた。その愛する息子が、7歳に近づくにつれ、またジェームスは苦しむことになった。鬱病だ。何度も自殺を考えるようになった。「僕がいけないんだ・・・だから・・・」

精神科の病院に入院した。多量の抗鬱剤が投与されたという。薬漬けの日々・・・自分が内部から壊れていく感覚・・・またもや自分を責める日々・・・僕がいけなかったから、だからあんなことがあったんだ・・・自分は価値のない人間なんだ・・・死ねばいいんだ、こんな人間は生きる価値がない・・・死ねばいい・・・

そんなジェームスを救ったのは、また音楽だったのだ。

「バッハの音楽が救ってくれたんです。バッハは多量の抗鬱剤以上に僕を救ってくれたんです」

現在、ピアニストとして活躍しているが、愛する妻や子どもとも会えないのだという。そのことで、今も自分を責めてはいるのだともいう。

「でも、音楽だけは、音楽だけは裏切らない・・・」

なのでジェームスはピアノを弾いているのだ。

「もう・・・ピアノなんて・・・」と思っている人たちに聴いて欲しい。

ピアノは裏切らないから。死ぬまで・・・

kaz



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category: 音楽自立人、音楽自由人

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追われてこそのピアノ教師 

 

医学部では患者との接し方のようなことを教えるのだろうか?人間相手の仕事だから、割とそのあたりは重要なことのような気がする。やたら高圧的であったり、偉そうな態度の医師は避けたい感じだ。

でもどうだろう?笑顔あふれる医師って・・・

医師に求めるものは、笑顔?人当りのよさ?違うのでは?やはり病気に関しての知識や、執刀医であれば、確かな技術を僕は求める。患者側が説明を求めた時、「えっ????」などと言う医師では困るのだ。また手術時に執刀医が「このオペ・・・苦手なんだよな・・・」などと思う医師でも困るわけだ。

医師とピアノ教師とは異なるだろうが、なんとなく必死にセミナーに通い続けるピアノ教師って、「接遇セミナー」に必死に通う医師みたいだなと思う。

セミナーが繁栄する理由は理解できるのだ。音大では「実際の現場での対処」のようなものを教えてくれるわけではないだろうから。激減する子ども、それに伴う生徒数の減少、やる気のなさそうな「宇宙人?」とも思えるような生徒、さらに困った親の存在・・・

「わ・・・私はどうすればいいの?」

美しい瞳で音楽♥などと浮かれてはいられない厳しい現実、そして孤独なピアノ教師、自分から飛び出していかなければ、自分だけが悩んでいるようで・・・

でも、セミナーで行われているようなことは、手段にすぎないようなことのような気がする。だってノウハウでしょ?ノウハウは知らなければ実践できないのかもしれないが、度が過ぎると、やたら人当りがよく親切で、でも「あれ、変なとこ切っちゃった?」みたいな外科医みたいではないだろうか?

本当に大切なことって何???????????

本当の楽しさって、「こうですよ~」と生徒に教えられるものではないような気がする。生徒は盗んでいくのだ。教師の情熱を。そして成長していく。

いつ盗むの?無意識で盗んでいく。感じとっていく。それは日常のレッスンの、ふとした瞬間、先生の弾くワンフレーズの音色、そのようなものを感じとり、そして盗んでいく。音楽への情熱、熱いもの、これがなければピアノなど苦痛の連続なのだ。もっとも大事な部分は、教える・・・というものでもないのかもしれないし、セミナーで得たノウハウによりものでもないような気がする。

生徒は(無意識に)教師を見て、そして感じとっていく。追っていくと言ってもいい。教師自身がピアノを追っている姿だけを感じ、そして追っていくのだ。教師が追わなければ生徒も追わない・・・

ロシェロール作品を弾き、そして先生と楽しそうに連弾していた少女が成長した。大人になっていく・・・

ずっと同じ男性教師に習っているようだ。幼かった少女もコンチェルトを弾くまで成長した。少女は追っていたのだ。オケパートを弾いてくれる教師の姿を・・・

セミナーの数を一つだけ減らして、ピアノを弾いてみたらどうだろう?そしてどこかで暗譜でピアノの芸術作品を弾いてみたらどうだろう?生徒は見ていてくれると思う。その姿を追ってきてくれると思う。

kaz



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楽しい連れ弾き 

 

先程の少女の演奏・・・

その演奏ぶりから、なんとなく先生を想像してみる。

「そんなこと、どうでもいいじゃないですか?」

僕の先生がよく言う言葉だ。レッスンで、パッセージがグチャグチャになってしまったりする。「ここ、難しいんだよなぁ・・・弾けないなぁ・・・」

すると「どうでもいいじゃない?」と。弾けない理由は教えてくれる。具体的にね。「こうすればいいんじゃないですか?」と先生が、その部分を弾いてくれる。「kazさんの動きはこうなっていますが、そこをこうすると弾きやすくなりますね」みたいに。

でも、どうでもいい(?)ミスタッチやら、失敗のようなことは本当に気にしない人なのだ。実は、日本で師事している先生の他に、海外でも定期的にレッスンを受けている。3人のピアニストに習っているのだが、どの人も日本で師事している先生と同じ感じなのだ。細かなことは気にしない性格みたいなのだ。

「そんなこと、弾いている本人しか気になりませんから・・・」
「そんな些細なことよりも・・・」
「ミス?全く気になりませんが?」

そんなとき、僕は思うのだ。「あなたたちは、なんでも弾けてしまうからいいでしょうが・・・」と。

僕が師事している先生は、全部で4人になるが、偶然かもしれないが、全員男性なのだ。細かなことは気にしない・・・というのは男性ピアノ教師の特色なのだろうか?そんなことから、この少女の教師も、まず男性かな・・・と思った。それも80歳のおじいちゃん・・・みたいな先生ではなく、割と若い先生なのではないかと・・・・

少女の演奏から、この少女の教師は、少なくとも「赤ペン先生ではないな・・・」とも感じた。僕はピアノの先生はレッスンでどんどん弾くべきだと思っている。むろん、読譜のお手伝いとして弾いてあげてはいけないだろうが、先生の演奏、先生の音というものは、ものすごく生徒に影響を与えるものだと思っているからだ。生徒が弾いている曲の全部を模範演奏する必要はないし、超絶技巧曲を弾いてあげる必要もない。ワンフレーズでも生徒は分かるのだ。そのために・・・

「楽しさ」=「笑顔」というのは、大人の感覚だと思う。よくあるピアノ教室の宣伝文句、「笑顔があふれるピアノ教室」「笑顔で楽しいレッスン」

むろん、泣き顔や苦痛を感じる顔よりは、笑顔がよかろう。でも「楽しさ」=「笑顔」と決めつけられても困るのだ。

先程の少女が先生と連弾をしている。まぁ、ビックリするような達者な連弾、演奏ではないかもしれないが、実に楽しそうだ。先生も少女も・・・

先生自身がピアノを弾いていると楽しい・・・だから生徒も楽しい・・・

やはり、少女の先生は若い(?)男性で、自らも弾く先生であったようだ。

ニタニタ笑ってはいないが、楽しそうだな・・・と思う。

kaz



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category: レッスン

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ただ上手になりたい・・・贅沢な希望なのか? 

 

「素人の分際で何が分かるの?」とか「音大を卒業した専門家でもないくせに・・・」というメールを貰うと、「そうですね」としか返せないけれど、反発もしたくなるというものだ。何故素人と専門家という分類にそこまで固執するのか・・・と。プライドが高いのだろうか?よくわからない。

「ピアノを教えているわけではないんですよね?セミナー通いに熱心なピアノ教師に批判的なようですが、ピアノを教えるということで大切なのは、教師自身が華麗に弾きこなすことではないんです。自分の演奏を磨くことではないんです。生徒(さん)たちにピアノに興味を持ってもらい、音楽の楽しさを知ってもらうことなんです。そのノウハウは音大では教えてくれません。なので、セミナーに通うのです。セミナー通いに熱心な教師は、仕事に誠実なだけです。むしろ、自分の演奏のことばかり考えて、生徒の指導が疎かになるほうが、よっぽど不誠実な教師なのではないでしょうか?すべての生徒(さん)は音大に行くわけでも、プロになるわけでもないんです。街のピアノ教室の現状というものを、もう少しお考えになるべきでは?楽しさを教えることのどこがいけないんですか?」

このようなメールは山ほど貰った。でも、多くのピアノ教師がメールの送り主のような考えではないことを、僕は信じているし、知っている。

「音大を卒業して専門家になるということは大変なことなんです。素人が安易に意見すべきではないと思います。素人には理解できないことばかりの世界なんですから!」

このようなメールも多い、というか、多かった。

独学でピアノを弾き、音楽は大好きだった少年。大学では美術を専攻。でも音楽は大好きだったから、18歳で本格的に作曲を学んだ。卒業後は広告代理店に勤務しながらも、ピアノを弾いたり、曲を書いたりしていた。

「音楽の素晴らしさを伝えたい」と、彼はピアノ教師になった。曲も書き続けた。子どもたちに弾いてもらいたくて・・・

ピアノ教師になった時、彼は30歳を過ぎていた・・・

この人は誰でしょう?そう、ギロックのことです。もし、ギロックが学歴重視というか、プライド重視の国に生まれていたら、彼は潰されていたのではあるまいか?「フ・・・素人が・・・」と。

どうも両極端のような気がする。「楽しさ重視」と「いらっしゃいませお辞儀に顔芸弾きのコンクールっ子」とで・・・

素敵に弾きたいな・・・

ただそれだけでいい場合、実に困るのではないだろうか?

「素人は黙っていなさい」と言われても、言いたいことはあるし、言いたくなる時だってある。

ピアニストになるんですっ!音大にいきたいんですっ!コンペティションで金賞を目指すんですっ!

そうでない生徒はどうすればいいのだろう?

素敵に弾けるようになりたいな?上手になりたいな?

ただそれだけの場合、その望みが叶えられないピアノ教室なんて変ではないだろうか?素人考えなのだろうか?

ある少女の演奏。ロシェロールの作品を弾いている。素直に「いいな・・・素敵だな・・・」と思う。日本のコンペティション常連の子どもであれば、もっと達者に弾く子どもは山ほどいるだろうと思う。でも、この少女の演奏は、彼女が心から弾きたい、表現したいというものを、教えられたものそのまま、このように弾きなさいというもの、そのままではなく、彼女自身のものとして表現するのことに成功している。成功・・・というより、実はこのことは演奏の基本のような気もするが、今の日本の達者な「いらっしゃいませお辞儀弾き」をする子どもたちからは、もっとも期待できない自然な演奏のようにも思う。

僕は、この少女の教師を心から尊敬する。

kaz



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ヨーロッパの奇跡 

 

先程友人からのメールで知ったのだが、アイルランドで同性婚が認められることになったのだそうだ。アイルランドという国について多くの知識はないけれど、敬虔なカトリックの国という印象があり、どことなくヨーロッパ諸国の中では、保守的な国だと思っていた。たしか、現在でもアイルランドでは中絶手術は禁止されているはずだ。むろん、母体の命に係わる場合は別だが・・・

そのような保守的イメージがあったので、今回のアイルランドの決定には本当に驚いた。調べてみると、1993年までアイルランドでは同性愛そのものが犯罪であったのだそうだ。1996年まで離婚も認められていなかったらしいし。

保守的だなぁ・・・

そのような国でも、人間の基本的人権に関しては人々の間で動いていたのだ。今回は、世界で初めて国民投票により、同性婚が認められたのだ。賛成票は60パーセントを超えたのだそうだ。アイルランドの閣僚には、ゲイであることを公にした大臣もいて、こちらも驚きだ。

ヨーロッパ、北米を中心に先進国では、同性婚が認められつつある。この動き、流れは誰にも止められないのではないだろうか?人種の垣根、男女の性別の垣根に続き、セクシュアリティの垣根が今取り払われようとしている。

アイルランドの同性婚にも驚いたけれど、ルクセンブルクの同性婚にも驚いた。ルクセンブルクでは少し前に同性婚が認められていたと思うけれど、ルクセンブルクの首相、グザビエ・ベッテル首相は、ゲイであることを公にし、実際に男性と結婚している。これもびっくりだ。首相だよ?

5年程前だが、アイスランドの首相、当時の首相だけれど、こちらは女性で、やはりゲイであることを公にし、女性と結婚している。首相だよ?

このようなニュースは喜ばしいことなのだが、このような動きを知らずに亡くなっていった人のことを考えると、なんともいえない気分になったりはする。今回のアイルランドの同性婚ニュースを知って、僕が思ったのは、ピアニストのユーリ・エゴロフのこと。彼は、1988年に33歳という若さで亡くなっている。当時としては、とても勇気の必要だったことだと思うが、彼もゲイであることを公にしていた。ソビエトから亡命し、自由の国、オランダに住んだ。セクシュアリティの偏見の最も少ない国としてエゴロフはオランダを選んだのではないだろうか?事実、世界で初めて同性婚を法律として認めたのはオランダなのだ。エゴロフにとっては自由で生きやすい国だったのかもしれないな。むろん、同性婚が認められたのは彼が亡くなった後だったけれど・・・

エゴロフはエイズの合併症で亡くなっている。多くの偏見の中で苦しみながら亡くなったのであろうか?それとも男性のパートナーの愛を感じつつ亡くなったのだろうか?

33歳という若さで、そして重篤な病にて命を落としたピアニストとして、もう一人リパッティがいる。リパッティの最期のリサイタルの演奏も凄いが、エゴロフの最期のリサイタルも、これまた凄いものがある。亡くなる数ヶ月前の演奏で、エゴロフが愛したオランダ、アムステルダムでのリサイタル。この時のシューベルトだが、聴き手の心の状態によって、なんとも幸福感のある演奏にも感じられるし、これ以上の哀しみはないほどの無常感のある演奏にも感じられてくる。ピュアな演奏であることは確かだ。

ユーリ・エゴロフにアイルランドのニュースを知らせてあげたい気分だ。

でも彼はすでに知っているんじゃないかな、そんな気もする。

kaz



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逃げの教材 

 

ギロックのような教育作曲家の作品がアメリカで生まれた理由としては、アメリカの子どもたちが、日本の子どもたちと比較すれば、「忍耐は美徳」のような感覚が少ない、「自分の意思を尊重してしまう」のような面があるからではないかと想像している。「つまらないで~す」と思えば、もう練習しない・・・のような?まぁ、日本の子どももそうなのだと思うが。なので、耳に心地よい、ある意味でキャッチ―な作品の需要があった。

そして、4期別学習というものも関連してくるように思う。彼らの作品は、意図的に時代様式を意識させる作品も多い。バロック形式の作品とか、古典様式の曲とか、キャッチ―さと同時に、非常に「4期」を意識した作品群のように思える。

もう一つ感じるのが、アメリカのオリジナル志向というものだ。僕が聴いた限りのアメリカのピアノ発表会、また、個人的に知っているアメリカのピアノ教師たち(30人ほどだが)とメールでやり取りしていて感じるのが、彼らは、あまりアレンジ作品を好まない傾向があるということだ。たとえば、ショパンの「別れの曲」をハ長調にして、中間部をカットしたアレンジとか、月光ソナタの一楽章を簡単にしたアレンジものとか、あまり弾かせないように思う。とうぜん、アニメの主題歌のような、本来ピアノ曲ではないものを弾かせてしまうということも少ない。このあたりは、日本の教師のほうが積極的なのではないかと思う。

この「オリジナル志向」というものが、教育作曲家というものの需要につながっているように思う。沢山のピアノのオリジナル作品があると思うし、過去の偉大な作曲家たちも、シンプルで子どもの弾けるような作品は書いているようには思うが、純然たる「教則本」ではなく、「曲」として教材を考える時に、オリジナルものだけというのは、子どもの教材ということを考えると、選択肢は意外と少なくなってしまうのではないかとも思う。

それならば、オリジナルの作品を生み出してしまいましょう・・・という背景があったのではないだろうか?

「きゃっ、素敵な曲!」と、子どもの耳にも、そして教師の耳にもキャッチ―で、バロック風、印象派風・・・のように時代的な特徴、つまり4期学習をもカバーし、そして安易なアレンジものではないオリジナル作品・・・

ギロックのような作品は、このような背景があって生まれてきたのではないかと個人的には想像している。

でも「落とし穴」もあるように思う。それは作品の責任ではないように思う。どう使用するかという指導者側の意識により、落とし穴になる可能性も大きいように思うのだ。一つには、ギロックやキャサリン・ロリンの作品は、オリジナル作品ではあるが、ある意味では本当に偉大な芸術作品へのステップ的要素の強い、「擬似的体験作品」なのではないかと思うのだ。作曲者自身が、そのような意図で作品を残しているように思う。

「どうか、どうか、私たちの作品を弾かせて、そして真に偉大な芸術作品への扉を子どもたちに開けさせてくださいね、お願いしますね・・・」という作曲者たちの意図・・・

非常に危険なのは、古典派のソナチネやバッハの作品を弾くと、その生徒の弱点、欠点が露わになってしまうような場合でも、ギロックのような作品の場合、なんとか「かたちになってしまう」という落とし穴がある。「まぁ、一応雰囲気は出せているし、喜んで弾いているみたいだし、いいんじゃない?」のような落とし穴。

いいわけはないのだ。「でも、専門家になるわけでもないんだし、音大に行くわけでもなさそうだし、いいんじゃない?」いいわけない・・・と僕は思う。ここが落とし穴になってしまうこともあるのでは?

ギロックは最終目的地なのだろうか?あくまでも経過地点なのではないだろうか?生徒が辞めてしまうよりは、どのような動機でギロックらの作品を弾かせようが、いいのかもしれない。でも、それは「逃げの教材」として教師が彼らの作品を利用していることになりはしないだろうか?本当にそれが教育作曲家たちが望んだことなのだろうか?

ユージン・ロシェロールの作品紹介第2弾。なんとも凄いピアノで弾いている。こんなピアノ、日本では見ることはできないのでは?でも演奏は素敵だと思う。

ユージン・ロシェロールは、どのような願いで、この曲を生み出したのだろうか?

「いいんですよ、ここに逃げてくださいね」ではないように思う。

kaz



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category: ピアノ雑感

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アメリカの教材 

 

楽譜売り場、子ども用、初歩用の教材や曲集のコーナーではアメリカのものが目立つ時代になった。「バスティン」「バーナム」「ギロック」等々・・・

なぜアメリカなのか?基本的にはキャッチ―なところが使われる理由なのではないかと思う。キャッチ―な教材を求めていた背景がアメリカにはあったのではないかと想像する。おそらく、アメリカの子どもは、日本の子どもよりも「練習なんかしませ~ん」という感じだったのでは?教師が厳格に、威圧的に「練習しなさいっ!」のようにスパルタ方式で持っていけない背景が、あの国にはあった。そのような子どもたちでも「あっ、いい曲」とか「弾いてみたい」と思わせるような曲や教材のニーズが高まったのでは?

日本の子どもと比較して、大雑把に言えば、アメリカのピアノを習っている子どもの指というか指運びは、どこかフニャフニャだったりする子も多いような気がする。なので「バーナム」という教材が生まれた。需要があったから供給されるべきものが生まれた・・・

キャッチ―ということの他に、個人的に感じているのは、アメリカの教材は4期別学習というものに移行しやすいというメリットがあるように思う。バイエルは古い、良くない・・・とバイエルという教本に批判が集まったが、実はバイエルそのものよりも、使われ方、指導の方法、指導者の考えというものが相当問題だったように思う。昔は教材の選択も少なかっただろうし、情報も少なかったので、仕方がなかったのかもしれない。

「バイエル」~「チェルニー」~「ソナチネ」のような、かつての(僕の子ども時代の)ような画一的なカリキュラムでは、古典派だけしか体験せずにピアノを挫折してしまう生徒も多かったように思う。4期ではなく1期学習?バッハが加わるにしても、ポンと教材として与えてしまうだけでは、生徒は理解できない。大きな音楽史の中のバロック様式・・・のような感覚で学ばないと、インヴェンションなどは苦痛ではなかろうか?指導者がよく分かっていないと「バッハ恐怖症」の生徒が生まれてしまう可能性があるし、実際そのような生徒もいたように思う。「そろそろバッハを・・・」のように、次の教材だからと単純に与えていては、生徒の感受性には応えられなかった。

せっかくピアノを習ったのに、大きな、そして壮大な音楽史のごく一部しか体験せずに「ピアノ・・・退屈」「練習・・・つまらない」「ピアノ・・・つまらない」と辞めていった生徒たち。

むろん、教師側が生徒の進度、能力に合わせ、教材を厳選すればいい話で、そのような教師も多かったはずだ。イタリアンバロックの曲やハチャトゥリアンやカバレフスキー、バルトークなどの曲を織り込み、選択しながらレッスンをしていた教師もいたはずだ。でも一冊の教本、教材として、まとまっていれば、それは教師にとっては魅力だろうと思う。

アメリカの教材は、このかつての狭い1期学習の穴を埋める存在になっているのではないだろうかと思う。キャッチ―である、つまり耳に易しく(?)、子どもの心を捉え、4期別学習に移行しやすい・・・

かつての画一的、古典派一辺倒というピアノ教育界への反動、反省というものが、アメリカ教材の繁栄(?)という現在の状況になっているのでは・・・などとも感じる。

僕がピアノを習っていた時代には、「ギロック」などはなかったように記憶している。今では「ギロック」を知らないピアノ教師などは想像できない。ギロックにしても、キャサリン・ロリンにしても、とてもアメリカ的だな・・・と思う。キャッチ―で、耳に心地よいし、わっ、素敵、きゃっ、弾いてみたい・・・という魅力に溢れている。それは素晴らしいことだ。

でもギロックのような曲には、大きな「落とし穴」も存在しているように個人的には感じている。それはギロックの責任ではない。使用する教師の責任が大きいように思う。かつての「バイエル」がそうであったように・・・

落とし穴については、次回にでも・・・

ギロックやキャサリン・ロリンの作品は、日本でも有名で、多く演奏されているように思うが、アメリカでは、むろんこれらの作品の人気も高いのだが、ユージン・ロシェロールの作品の人気が高いように思う。でも日本では、あまり(ほとんど?)演奏されている気配がない。なぜなのだろう?ユージン・ロシェロールも基本的にはギロックのようなアメリカの教育作曲家なのだが、これから流行るのだろうか?日本人受けしそうなのだが・・・

kaz



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category: ピアノ雑感

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素人考え 

 

ノーマン・カズンズの「笑いと治癒力」を再読中。もっとも、僕が持っている本は「死の淵からの生還」というタイトルだが、中身は同じものらしい。

ノーマン・カズンズは広島の名誉市民なのだそうだ。彼の碑も広島市にあるらしい。彼はジャーナリストだったので、世に知られていない、そして知られるべき事実というものをレポートし、世に紹介した。結果的に、原爆乙女の存在、現状というものを多くのアメリカ市民が知ることとなった。彼のレポートを知ったアメリカ人たちから寄付金が集まり、多くの原爆被害者のケロイドがアメリカで治療されたという。そのカズンズの功績を讃えた「名誉市民」と「碑」なのだろうと思う。

知られるべき事実を、レポートし、世に知らせるというジャーナリストとしての使命を全うしたということなのだろうが、自分自身がレポートの対象となることだってある。重篤な病を患った時が、そのような事例になるのではないかと思う。

「自分の病というものが、どのような影響を精神的にも肉体にも与えるのだろうか、そして自分は、その状況をどのように自己救済していくのだろうか?」・・・という自分を対象としたジャーナリズム精神。

カズンズは膠原病と診断された。専門医の診断では、「治る確率は五百分の一でしょう」というものだった。当然、ジャーナリストも人間だから、普通の人間が感じるような、ごく普通の感情を持ったことだろうとも思うが、でも彼はジャーナリストだったのだ。

「自己を救済するには?治らないと専門家は言うけれど、そうなのか?本当にそうなのか?」

彼の根底にあった気持ちは、「専門家(医師)の言葉に従順に従うだけでいいのか?患者にも感情や、そして何よりも考える力、知識を得る力というものはあるのだ、同じ人間なのだから・・・」というものだったように思う。

彼の著書を読めば、具体的な彼なりの自己治療法、自己救済法というものが書かれているので、ぜひ読んでみて欲しい感じだ。「ビタミンC」と、そして「ユーモア、笑い」というものが完治への扉だった。

「素人が難病を治す?」

笑う、心の底から笑う、人生を捨てずに、希望を持つということだ。また、自分という人間は価値あるものだと自己認識し、諦めないということだ。そのような気持ちになることで、身体の免疫力というものへも影響があるのではないだろうか?

カズンズの闘病記、自己救済記が「笑いと治癒力」の最初の章で、この部分は、本になる前に、ある医療雑誌に掲載された。多くの専門家(医師)がカズンズの記事を読み、励まし、驚嘆の手紙が殺到した。医師からの手紙は3000通だったそうだ。

以前に「笑いと治癒力」を読んだ時には、カズンズのジャーナリスト魂のようなものに感動した記憶があるが、今は、3000人の医師、カズンズの記事を掲載した医療雑誌の編集者に想いを馳せてしまう。

カズンズは、ジャーナリストとして、医療の知識は豊富ではあったし、医療に限らず、勉強を続けていた人ではあったけれど、所詮は「素人さん」なのだ。医師という人たちは、プライドが高そうだが、すくなくとも3000人の医師たちは「素人の分際で・・・」などとは思わなかった。

ノーマン・カズンズは自分の力で膠原病を克服した。キーワードは「笑いとユーモア」・・・

彼は、数々の名言を残している。

「人生の悲劇は死ではなく、生あるうちに自分の中で何かが死に絶えてしまうことだ」

「悲観することは時間の浪費だ」

「笑いは心のジョギング」

「人は気分がいいから笑ったり微笑んだりするんじゃないんだ。笑うから気分が良くなるんだよ・・・」

kaz

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category: ピアノ以外の本

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万霊節 

 

万霊節というのは、正確にはいつ頃なんだろう?僕は特定の宗教というものを信仰しているわけではないので、実は知らない。もしかしたら、一般常識として知っているべきことなのかもしれないが。

ギルムの詞には五月とあるので、勝手に五月だと思っている。

かつて若かった頃は、こんな僕でも人を愛し、愛されたことだってある。遠い目になる感じではあるが、そのような時は確かにあったのだ。宗教心が皆無でも、単純に「忘れたくはないな」とは思う。

その人は、日本人でもないし、墓石というものもないので(本人がそう希望した。散骨のみと・・・)、墓参りという発想もできない。

僕の場合、音楽が宗教の代わりとなっているのだろうか?自分が勝手に万霊節だと思う日に、リヒャルト・シュトラウスの楽譜を引っ張り出してきて、自分で伴奏を弾きながら歌うのだ。ドイツ語なんて理解していないけれど、ディクションなんてどうでもいいのだ。なんちゃってドイツ語。誰が聴いているわけでもないし。歌声だって酷いものだと思う。でもいいのだ。

テーブルに花を飾る。花の種類は決めてはいない。花屋でピンときた花を少しだけ飾る。

そして歌う。我ながら「感傷的だな、センチメンタルな感じだな、自己陶酔だな・・・」と思う。

でも死者への弔いだし、かつて愛し、愛された人への弔いの気持ちなので、一年に一度くらいはいいのではないかと思う。



「万霊節」  詞:ヘルマン・フォン・ギルム   曲:リヒャルト・シュトラウス

テーブルに香り高い“もくせい”を飾り、そして赤いアスターを添えよう
僕たちは、もう一度愛を語ろう
かつての五月にそうしたように・・・

手を差し出して欲しい。そして僕にそっと握らせて欲しい
人が見ていようとかまいはしない
君の甘美な眼差しを僕に注いで欲しい
かつての五月にそうしたように・・・

きょうは、どの墓にも花が咲いて、香りがたちこめている
死者たちの魂が自由になる一年に一度の日だ
僕の胸に来てほしい、そしてもう一度だけ僕のものになって欲しい
かつての五月にそうしたように・・・




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本当にそれでいいのかい? 

 

「ちょっと、これは専念しなければいけないな」と思った。退院して、日常生活に戻りつつあるときに、改めてそのように思った。初めて自分の病気のことを宣告されたときには、感傷に浸る余裕や時間などなかった。「これからどう生活していくか」で頭が一杯だったともいえる。仕事は?生活は?恋愛は?これから長く辛い闘病生活が続くのであろうか?

アメリカから帰国して、なんとなくピアノ再開のことは考えていた。アメリカで、ある意味鑑賞者として、音楽にのめり込んでいたところもあったので、そのままの感覚で日本でのピアノ再開を試みたとしても失敗するだろうと思っていた。まずは日本のピアノ界のことを、その空気を感じなければとも思った。なのでピアノ教室の発表会とか、子ども、大人関わらず、コンクールというものを沢山聴いたり、有名音大の卒業演奏会なども聴いたりした。「日本的なるもの」を感じるために。ある意味、その印象は僕にとってはショッキングなものではあったけれど、ピアノ再開への心の準備はしていたとはいえるだろう。

「よりによって・・・何故今?・・・何故僕が?」

宣告はそのような感覚を僕にもたらした。ピアノは少なくとも先送りかな・・・そう思うしかなかった。今思えば、最初の手術なんて、そんなに思い悩むものでもなかったのだ。でも、それは今だからそう思えるのであって、その時はとても重い事実ではあったのだ。

むろん、入院中、退院直後は、「これからどうするのか?どう生活していくのか?」ということしか頭になかった。実際、手術後の痛みは辛かった。でも、生活は落ち着いてくるのだ。仕事も再開し、部屋で音楽を楽しむような余裕も生まれてきた。その時、ふと感じたのだ。それは恐怖感だったと思う。それまでは痛かろうと、何だろうと、医療の専門家に守られていたという感覚があった。でも退院して自宅で一人になったりすると、「これからが本当の闘病なんだ、これからは一人なんだ・・・」という恐怖感が僕を襲ってくるようになった。むろん、定期的な診断はあるが、基本的には自己責任という部分が多くなるということを再認識しなければならなくなった。

「ちょっと、病気と向き合わなければいけないな。専念しなければいけないな」と思った。闘病一色の人生なんて嫌だったけれど、逃げても病気はなくなるものでもないのだから。

「ピアノは、また再送りかな・・・もうちょっと精神的にも日常生活としても、そして身体的にも落ち着いてからがよかろう」と判断した。今までの30年間、そうしてきたではないか。音楽は聴くもの。自分で触れるものではない。それでいいではないか?

中学生の時にピアノを辞めてから、音楽を聴くと、自分をコントロールできなくなるような時があった。常に・・・ではなかった。一年に一度か、二度だろうか?ある種の音楽、演奏が僕の魂を揺れ動かしてしまい、どうにもならなくなるときがあった。その思いはしたくないからピアノを再開しようと思ったところもある。二度とあのような感覚は味わいたくないという思い・・・

そのような感覚になってしまった時には、感情が揺れ動きすぎてしまい、「感動して涙がでる」というような、そんなレベルではなく、「慟哭」という感じに近くなる。実際の演奏会場では、演奏会後、ハンカチで涙を抑えながら、拭きながら、電車には乗れないので、感情の高まりが収まるまで、ひたすら数駅、歩き続けたものだ。自宅で音楽を聴いている時には、思い切り泣いた。布団にもぐりこんで、一切の外界とのつながりを遮断して泣きまくった。

これは、とてもとても辛い感情だ。二度と味わいたくない・・・

でも、仕方ないのだ。その時にやるべきことというものがあるのだ。今は病気に専念することだろう・・・

そんな時、偶然にウィリー・カぺルのショパンを聴いた。ソナタの第3番。どうしてそのCDを自分で選んだのかは覚えていない。軽い気持ちだったと思う。

「ああ、カぺルは若くして亡くなったんだったな・・・たしか31歳だった・・・」

カぺルは飛行機の墜落事故で命を落としている。なので、彼が残した録音そのものは、死の影というものはない。カぺルは自分が死ぬなんて思ってもいなかったはずだから。前途洋々の輝かしい未来、自分の才能というものを信じ、飛行機の人となったのであろうから・・・

また慟哭の時がやってきた。カぺルの演奏を聴きながら、また感情がコントロールできなくなった。しかも、それまでの人生の中で最も激しい感情の動きだった。カぺルが僕にそう感じさせたのか、それとも癌がそう感じさせたのか、おそらく両方だろう。僕はまたベットの中で必死にその感情の高まりに耐えた。

「耐えられない・・・」と思った。今だからこそ、ピアノを弾くしかないのだとさえ思った。こんな思いは二度としたくないと思ったのではなかったか?これからの人生というものが長くはないとしたら、なおのことピアノを弾く生活をするべきではないか?

「聴くだけのピアノなんて、君には耐えられるのかい?それで本当にいいのかい?」

カぺルが演奏を通して僕に語りかけているように思えた。

kaz



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category: 履歴書

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弾くことにより何があるのか・・・ 

 

自己分析は苦手だが、なぜ自分は一部の(であると願う)ピアノ教師に厳しい目を注いでしまうのだろうと考えてしまうことがある。おそらくそれは、僕が若い頃、公立中学校の教員だったという過去と関係はあるように思う。一部のピアノ教師は、どこか目の前に存在している、その時の生徒しか見えていないのではないか・・・などと思うのだ。その生徒の将来ということをも視野に入れる必要があるのは、公教育の教員もピアノ教師も同じだろうと思う。自分の指導というもので、10年後、20年後の生徒が絶対に後悔しないだろうか、させないという自負はあるのか・・・その部分。

そのこととは別に、どうもピアノとか音楽とか演奏とか、そのようなものに対して「感情の動き」のようなものを重要視する傾向が僕にはあるように思う。どうしても音楽やピアノを「きゃっ、楽しいわ!」というものとして捉えられない。また、「上達するべきもの」として精進するという感覚をも持たない。正直、僕は自分のピアノに対して、あまり上達したいとか達者に弾けるようになりたいとか、思わない。「どう弾くか・・・」よりも「弾くことにより何があるのか・・・」ということに興味がある。これは、僕が「サナトロジー」という学問を勉強したということと関係はあるように思う。その学問を志した理由と、ピアノを弾いているという理由は、根底では、どこかつながっているように思う。この部分は、説明の難しい部分だとは思う。人生において究極的に求めるべきものは「無償の愛」というものを知り、そして与えるということだと思っていて、その部分で、「サナトロジー」と「音楽」というものは、僕の中で重なっているのだ。

角田房子:著「ミチコ・タナカ 男たちへの賛歌」(新潮社)という本を再読する。再読といっても、以前に読んだのは大学生の時で、その頃は外国に飛び出し、その地で愛に生きた田中路子という女性の歌手、女優、そしてヨーロッパ社交界の華・・・という部分に共感した記憶がある。自分自身が外国への憧れを秘めていたということもあったのだろうと思う。今再読してみると、田中路子本人のことよりも、彼女の夫、ユリウス・マインル2世、ヴィクトル・デ・コーヴァ、そして恋人であったカール・ツックマイアーという男性たちに対しての記述の部分に共感を覚える。

デ・コーヴァは歌手であり舞台俳優であった人だ。彼は咽頭癌を宣告されてしまう。手術を受けて患部を摘出すれば、命は助かる。しかし、「声」は失ってしまうのだ。デ・コーヴァは、このように言っている。

「いま手術を受ければ、私の声はそこで終わる。だが手術をしなければ、まだしばらく・・・それは僅か一年か、もっと短いかもしれないが、とにかくしばらくは私は自分の声を持っていられる。舞台に立てる。たとえ短くても私にとって価値あるその時間を、“ぬけがら”となって生きる十年、二十年とひきかえに失うことは、とても私にはできない」

彼は、こうも言っている。

「私は天職と思い定めた俳優のままで、命を終りたい」

実際に、デ・コーヴァは死の三か月前まで舞台に立っている。

咽頭癌、そしてデ・コーヴァの生き様ということで連想するのが、バリトン歌手のエットレ・バスティアニーニ。彼も自分の命よりも声を選択した人だ。彼にとって価値ある時間、価値ある人生そのものであった「歌」「音楽」というものを選択した人だ。彼は死の二年前に日本を訪れて歌っている。この時は、咽頭癌も転移し、治療の合間に来日し、歌っている。彼の医師団もバスティアニーニの身体状況から、日本公演を中止するように忠告している。でも彼は日本で歌った。かつての輝かしい声は、放射線治療により、失われてしまっていた。でも彼は日本で歌った。「歌いたいんだ・・・」と。

なぜデ・コーヴァは舞台に立ち続けたのか、バスティアニーニは歌い続けたのか・・・

kaz



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デパート開店時お辞儀 

 

どうも子どものコンクールは苦手だ。演奏そのものもだし、視覚的要素も苦手だ。

あの演奏前の「デパート開店時お辞儀」が苦手。なんであんなことをするんだろう、いや、させるんだろう?演奏中に恍惚の表情や苦しげな表情になるのも苦手だし、演奏前や演奏後に天を見上げたり(何かあるのか?)、祈りを捧げたりするのを見るのも苦手。なんで演奏後に両手を合わせ目を閉じ祈らなければいけないのだろう?「神様、こんなに上手に弾かせて頂けてありがとうございます」という意味なのだろうか?それとも「ピアノどころではない国の子どもも多いのに、私は幸せです」という祈りなのだろうか?わからない・・・

「デパート開店時お辞儀」があると、おおよその演奏内容が予想できる。そして、まずその予想を裏切らない。とても上手なのだ。そして表現もバッチリなのだ。「私って、こんなに表現力豊かなの~」という感じだろうか?

ただ、残念なことに、その表現も「誰かの後付け」を感じる。あのお辞儀だって、子どもが自然に行う動作では絶対にないように、演奏内容も、「本当にそのように弾きたいと思ったの?」という演奏なのだ。ただし、上手なのだ・・・

なんとも摩訶不思議な感覚になってしまう、子どものコンクールというものは苦手だ。苦手と感じるのは僕だけなのだろうか?すくなくとも、僕のように感じる人は少数派なのだろう。だって実際に行われているわけだから・・・

とても上手な「デパートお辞儀演奏」と正反対のところにあるのが、この演奏ではないかと思う。前回の記事でシャンソンを弾いていた、ロシアの謎の男性・・・

5分間、弾きっぱなし、歌いっぱなし・・・あっぱれだ。

本当に音楽が好きなんだねぇ・・・

その「好きなんです!」エネルギーが、僕にも伝わってくる。

このような演奏だったら「どうも苦手で・・・」とは感じないのだ。

逆に、「もっとやれ、もっともっとやれ、もっと歌いまくれ・・・」と感じる。

僕がおかしいのだろうか?

kaz



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理想の演奏が頭の中で鳴りますか? 

 

人の演奏を聴いて、「あっ、この人の演奏いいな・・・」と直感的に感じることがある。その演奏が、必ずしも達者に弾きこなせているとは限らなくても。反対に、呆れるほど達者に弾きこなしていて、ミスなども全くなく、ある意味見事な演奏だけれど、耳を表面的に素通りしてしまうような演奏というものもある。

一般的に、どのような演奏に人は惹かれるのだろうか?むろん、演奏の感じ方というものは多分に主観的なものであり、好き嫌いというものがあるとは思うけれど、「あっ・・・」と耳が注目してしまうというか、「あら、上手ね」だけではない演奏というものには聴き手の主観的嗜好というもの以前に、何か共通のものが存在しているような気もしている。

個人的に感じるのは、演奏者自身の内側から発せられるエネルギーというか、「気」というか、方向性が「中から外へ」という演奏は、何かしら聴いている人の心、あるいは耳を動かすのではないかということ。

反対に、達者だけれど、あまり心に響かない演奏、物凄く上手なのに、どこかで「早く終わらないかな・・・」と心の中で思ってしまう演奏に共通しているのは、「中から外へ」という方向性が感じられず、どこか「そのように書いてあるから鍵盤を押している」というか、「そのように先生が弾けといったのでそのように弾いている」のようなものを感じたりする。つまり、作品、そして実際のサウンドと、演奏者との距離感を感じてしまう。「なぜ、その曲を弾いているの?」という疑問符が頭の中を駆け巡ってしまうのだ。

考えてみれば、演奏の表面的な達成度とか出来栄えのようなものを感心しながら聴くという聴き方は、音楽の聴き方としては、かなり特殊な聴き方なのではないかと思う。

でもどうなのだろう、聴き手という立場ではなく、弾き手という立場になった途端、表面的な達成度というもの、いかに弾けるか、いかに弾くかという、聴き手の立場だった時とは異なるものが、優先順位のトップになったりとか、あるいは優先順位すらなく、それだけになってしまったりすることはないだろうか?

緊張状態が最高度に達した演奏直前、舞台袖で、あなたは何を考えるだろう?「ミスなく崩壊せずに弾けますように・・・」だろうか?そうだとしたら、自分が聴き手の立場だった時に演奏に求めていたようなことはどこにいってしまったのだろう?

聴き手の立場の時と、弾き手の立場の時、求めるものに差異があるということは本来は矛盾していないだろうか?

多くの人が「自分の演奏って、ただ弾いているという感じがする」とか「どうしても音を並べましたという演奏になってしまう」という悩みを持っている。

聴き手の立場の時の自分なりの理想の音楽、演奏というものを自分が実際に弾く時にも求めているのだろうか?違うものを求めてはいないだろうか?

一度鍵盤から手を放してみる。そして目を閉じてみる。

頭の中で自分の理想のサウンドが鳴るだろうか?「ああ・・・このように弾けたら・・・」という音が頭の中で鳴るだろうか?

「鳴らない・・・」としたら、どうやってその人は演奏するのだろう?

何も鳴らなくてもピアノは弾けてしまうところが恐ろしい。音符を読んで記号を調べて、指をそのように動かせるように練習すれば弾けてしまう・・・

達成度だけを追っても、どこまででも行けてしまうんじゃないかな?

たまたま出逢った演奏。ロシアの謎の男性・・・

この人の演奏は「中から外」という演奏のように思う。

kaz



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ピアノ教材の特殊性 

 

昭和40年代、僕がピアノを習っていた頃、日本の、ある出版社の楽譜には帯があった。初級は赤、中級は黄色、そして上級は青の帯がついていたと記憶している。ブルグミュラー25練習曲は、たしか赤色帯だったので、黄色帯の本に憧れたものだ。練習しないくせにね。ショパンのワルツはたしか、憧れの黄色帯だった。青帯となると、憧れの対象ですらなく、専門の人が持つ楽譜だと認識していたように思う。実際、教室で青本を弾いていた人はいなかったように思う。

思えば、教室が違っても、その時に使用している教則本で進度が大体は把握できるという時代でもあった。「今、何弾いてるの?」「ソナチネだよ」「あら、私はソナタよ」みたいな・・・

これは、皆が同じ教材を使っていたということにもなるわけで、今では考えられないことだろうと思う。すくなくとも、現在では習っている教則本で生徒同士、それも違うピアノ教室の生徒同士で「今、何弾いているの?」的な会話は成り立たないのではないだろうか?それだけ導入の教材が増えたということだし、選択肢が増えるということは単純にいいことなのだと思う。ただし、教師は迷うだろうねぇ・・・どの教材を使っていいもんだか。昔のように、「うちでは○○を使用しています」などというわけにもいかないのではないかと思う。生徒個々によって使い分けなければいけないこともあるわけだから。

教材研究のセミナーが繁盛するのも分かる。それ自体は自然なことのようにも思える。セミナーを受けたとして、セミナー記(?)を先生方がブログで報告するにしても、おそらくそのセミナーは有料のものだろうから、内容を細かくブログに書いてしまうということはマズイだろうと思う。なので、どうしても「やる気をもらいました」「ランチです」的な内容になってしまうのだろうが、それも仕方のないことなのかもしれない。

でもセミナー報告記を読んでいて、なんとなくそこに違和感を感じるのは、子ども用というか、導入の教材は、あくまでも、真に偉大な作品を弾くための手段的な意味合いがあるのが普通なのに、それを目的化しすぎているという感じがするからだと思う。つまりギロックやキャサリン・ロリンの作品は目的ではなく、手段。しかしながら、教材や導入用の曲が「目的化」している先生もいるように思う。セミナー記を読んでいると、そのように感じたりはする。

「どんなに耳に心地よくても、表現力を養うといっても、それらの曲や教材は経過点であって、そこが目的じゃないでしょ?」・・・これはお話にもならないほどの素人感覚なのだろうか?

キャサリン・ロリンやギロック、あるいは湯山作品を、たとえばメンデルスゾーンの無言歌やシューベルトの楽興の時と同列に考えているピアノ教師は、まさかいないだろうとは思うが、どうなのだろう?

昔になく、今、百花繚乱状態のもの、それは教則本の種類の豊富さ、そしてギロックなどの教育作曲家の台頭ではないだろうか?

でも考えてみれば、これはピアノだけの特殊なもののように思える。そこは考えてみてもいいだろうと思う。

ピアノと同じく早期教育が必要とされるヴァイオリン、むろん、子どものための曲も多く作られているのかもしれないが、ピアノほど導入のものが百花繚乱状態ではないように思える。割と初歩から、いきなり芸術作品を弾いてしまうのではないだろうか?

ピアノという楽器の特殊性がそこにある。つまり、ピアノという楽器を鳴らすこと、そして鍵盤幅というものが、子どもには、どうしても無理があるのだと思う。子ども用に開発された楽器ではないし、手の小さい東洋人を念頭に開発された楽器でもない。他の楽器や声楽は、身体がある程度できてからとか、ヴァイオリンであれば子ども用サイズの楽器の存在があるけれど、ピアノはロシア人成人男性だろうが、日本の4歳の女の子であろうが、少なくとも鍵盤幅は同じなのだ。これはピアノ独自の特殊性だ。やはり、ヴァイオリンのように、いきなり芸術作品を中心に弾いていくには無理があるのだ。

ピアノは、導入段階から、本物の芸術作品を中心にピアノライフが展開していくまでに、相当の時間を要する楽器であるということ、それがピアノという楽器の特殊性であるということ。

そして、もう一つ。小学校卒業が第一の「辞め時」で中学校卒業が第二の「辞め時」ということが現実であるのならば、ピアノを習っている子どもの多くは、もしかしたら「手段曲」だけに触れて、本来の目的である「芸術作品」に一曲も触れずにピアノを辞めてしまうということだってあるのでは?

本当の「楽しみ」に到達できずに、全く触れずに辞めてしまうピアノの生徒はどれくらい存在するのだろう?

「教材そのもの」の研究だけではなく、その研究成果としては、いかに手段~目的と移行させていくかが問われていくのではないかと思う。

エックレスという作曲家の作品は、ピアノ弾きには馴染みがない感じだが、ヴァイオリンを習っている、あるいは習っていた人にとっては、「ああ・・・懐かしい」と思うような作曲家だと思う。この曲は小学生でも弾いてしまう。事実、この曲のユーチューブ動画は圧倒的に6~8歳くらいの子どもの演奏や、初歩のアマチュアの動画が多い。でもこの作品は「手段教材」ではない。いきなり芸術作品に触れることのできるヴァイオリンという楽器が少し羨ましく思えたりする。

ピアノの特殊性について書いてみたけれど、ピアノという楽器を習う生徒、そしてピアノ教室の現実として、「さあ、これからがピアノ芸術の本番・・・」という時にバタバタと肝心の生徒が辞めてしまうという特殊性はないほうがいいと思う。

エックレスのヴァイオリン・ソナタ・・・これに初歩段階で触れられるなんて・・・

kaz



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無名・・・有名・・・ 

 

日本という国は、西洋音楽の本場からは遠く離れているし、島国であるので、どこか不利なのであろうか?優秀な若手が多く活躍し、本場に留学した人だって数えきれないほどいるし、その本場のコンクールで賞を獲得した人だって数えきれないほどいる。でも、残念ながら、その演奏の多くは感動を生むほどのものではない。とても優秀なんだけれど・・・

なんとなく、いつも同じ人が、同じような演奏を繰り広げ、聴衆も「有名な人だから」「話題の人だから」ということで聴いているような気もしてくる。

僕は、日本人だから心に訴える演奏が不可能だとは思えない。でも日本のピアノ教育界に何かしらの問題点は感じるし、おそらく外部の人間、聴くだけの素人には理解できないような、何かが渦巻いている可能性をも感じたりもしている。

一人一人が自分の感性、自分の中身に正直になれればいいのかもしれない。「まっ、話題の人?聴かなきゃだわ」ではなく、無名な人でも、いい演奏をするのであれば、静かに、そしていつまでも見守り応援していく・・・のような。

外部に何かを求め過ぎなのではないかと思う。それはセミナーの異常なまでのピアノ教育界の今の状況にも感じるし、集客能力のある有名邦人ピアニストの演奏を聴いても感じるが、もう少し、人々が自分自身で感じ、判断すればいいのに・・・と思う。

世の中の流れとか、方向性とか、そのようなものではなく、自分の中にある何かを探すというか・・・

ある日本人ピアニストの演奏。有名な人とはいえない。すくなくとも、大ホールを聴衆で満員にし、全国を演奏してまわり、CDも続々発売される・・・のような活躍をしている人ではない。無名の人といってもいいかもしれない。でも、このような演奏を聴くと、それも日本のピアニストが演奏しているということを知ると、とても嬉しいし、だからこそ、いろいろなことを思ったりもしてしまう。

この演奏を聴いて、シューラ・チェルカスキーが言葉を残している。無名のピアニストに対しての、大変に心温まるメッセージであると同時に、チェルカスキーの言葉は、我々日本人に何かを訴えているようにも思う。この日本人ピアニストは、チェルカスキーの言う「国際的な活躍」とか「色々な国で演奏する機会」どころか、実際には日本においてさえも無名であったりするのだ。チェルカスキーが、このピアニストが本国、日本においてさえ、そのような扱いであると知ったら、どのように思っただろうか?



非常に透明で清潔感があり、美しく、およそ演奏に必要な要素をすべて備えています。なぜそんなあなたが国際的に知られていないのか不思議です。実際、私はあなたがどこでどのような演奏活動をしている人なのか全く存じません。

グルックのメロディーの出だしの音を聴いた瞬間に、あなたが、どこにでもいる同じような若いピアニストとは違うことが分かりました。もっとあなたのことを教えてください。あなたのような人が色々な国で演奏する機会がないのは嘆かわしいことです。  シューラ・チェルカスキー



皆が自分の感性を信じ、育て、自分自身を見つめていけば、何かが変わっていくのかもしれない。

kaz




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自然体で・・・ 

 

ラフマニノフのピアノ曲って、音が多くて大変そう。ピアニストの演奏を聴いても「音のカオス」「音の洪水」という感じがしてくる(演奏が多い)。ラフマニノフ自身も自作のコンチェルトを録音しているけれど、これが意外と、あっさりとした演奏。というより、整理されて構造美のある演奏というべきか・・・

ピアニストとしてではなく、作曲者として演奏したのではないかな?そんな気もしてくる。

ピアノって、どうしても頑張ってしまう。なので、「全部の音をクリアに弾かなければ」などと思ってしまう。でもそれがいい結果に結びつかないこともある。音のカオスのために頑張っても・・・と思う。

特に日本人は生真面目だから、頑張りすぎてしまう。それが演奏に反映されても恐いものがある。「装飾的埋め草パッセージ」ばかり強調されて、クリアに弾かれて、肝心の音楽の流れがトンチンカンだったり。「そこ、そんなに重要?」みたいな・・・

もしかしたら、調子の悪い時は、自然体に戻ってピアノを弾く、さらにはピアノから離れて音楽を感じるための、いい機会なのかもしれない。でも気持ちは焦るけどね。弾けない時は弾けないんだ。

サンソン・フランソワは自分の演奏会が終わると、夜通しジャズクラブで聴いたり、弾いたり、飲んだりしていたそうだ。完全な昼夜逆転生活だったらしい。心臓が悪くても煙草と酒は止めなかったしね。

調べてみると、「社会人としてどうなの?」とさえ思えてくるところもあったりする。生真面目さとは正反対のところにいた人だったらしい。もしかしたら、「ピアニスト」とカテゴライズされるのさえ嫌がったのかもしれない。

この映像は、亡くなる二年前のフランソワ。撮られているのは分かっていたとは思うけれど、でも、この映像、演奏が残るということまでは彼は考えていなかったんじゃないかな?練習のような、即興のような、そんな自然体ピアノだ。

「私は自分の快楽のためだけに生きる。誰にも頼らない。孤独だから・・・」  サンソン・フランソワ

いい言葉だけど、なんだか哀しいね。でも、とても強い言葉でもある。

僕自身は、フランソワの残した言葉の中では次の言葉が好きだ。

「演奏するために演奏するのではない」



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趣味生徒と専門生徒 

 

「私、将来はピアニストになりたいんです。なので○○音大に行きたいんですっ!メラメラ・・・」という生徒は、ごく少数だろうと思う。ピアノ教室でピアノを習っている生徒、子どもの大部分は「趣味で・・・」ということになるのだろうと思う。でも「私は絶対に趣味のピアノで貫き通したいんですっ!キッパリ・・・」と公言する生徒も、これまた少数なのではないだろうかと思う。そして、キッパリと言い切るほど、その時には強く「趣味で」と思っていても、将来は変わるかもしれないし、正直なところは、大部分の生徒は「そんなこと考えたこともない・・・」というのが本当のところなのではないだろうか?

ピアノの先生は、ピアノ修行人生の中で「さぁ、趣味ではないのだ。専門的に学ぶのだ」と決心した時があるのだろう。なので、音大に行き、音大卒ではなくても職業として「ピアノ教師」を選んだ。「まぁ、趣味程度だけど、生徒よりは弾けるし、いいんじゃない?」などというピアノ教師はいないはずだ。どこかでピアノの厳しさ、ピアノ修行の辛さを体験した人たちなのだ。

その過程においては「専門なので・・・」という意識も生まれるだろうと思う。音大合格まで導いた先生や、音大で接した先生も厳しい人たちが多かったのだと想像する。むろん、その厳しさは、上手くさせたいという、愛ゆえの厳しさだったのかもしれないが、ピアノの先生たちは、修業時代のどこかでは感じたはずだ。「こんなに辛いなんて。ピアノってこんなに忍耐の必要なものだなんて」と。「キラキラ」「ワクワク」だけで音大を卒業した先生なんているのかな?いないんじゃないかな?

厳しさに耐えたのは、音楽への愛のためなのだと思う(思いたい)が、多分に「自分は専門的に学ぶという選択をしたのだから」という気持ちもあったのではないだろうかと想像する。「趣味じゃないんだから。厳しいのも当たり前・・・」のような。

厳しいピアノ、自分の演奏というピアノを経て、つまり音大を卒業して、多くの生徒と実際に接した時に、思うのではないだろうかと思う。「すべての生徒が自分のように専門的に学んでいるのではないんだ」「趣味で・・・という生徒もいるんだ、いや、ほとんどがそのような生徒なんだ」「自分が受けてきたピアノ教育をそのまま、つまり厳しいピアノなんて、彼らにそのまま伝えてもいけないんだ」と。

なんとなく、楽しさ重視のピアノ教育の根底には、先生方のこのような気持ちがあるのかと僕は想像している。「皆が専門的にピアノを習っているわけではない」「私の専門ピアノ人生辛かった」という気持ち・・・

過大な宿題を与え、「なんで弾けないの?やる気あるの?」とガミガミ言っても、仕方がないのだ。彼らは専門ではないのだから。楽しい趣味なのだから・・・

ピアノ教師の中には「趣味の生徒なのだから~まではしなくてもいい」ということをブログなどに書いたりする先生もいる。たとえば、エチュードはやらなくてもいいとか、暗譜までは必要ないとか・・・

このあたりは、生徒個々のケースによって、いろいろだろうとは思うが、根本的に「趣味だから、専門ではないので~まではやらない、要求しない」というのは個人的にはいいことだとは思えない。むろん、子どもの数そのものが減っていて、ピアノ人口の減少、それに伴うピアノ教室運営の困難さというものも現代のピアノ教育の問題としてあると思うし、その対策も必要なのかもしれないが、「専門だから」「趣味程度だから」と分けてしまうこと、そのものに疑問を感じるのだ。なぜなら、「あっ・・・素敵な演奏、なんでこんなふうに弾けるの?自分も少しでもこのように弾けるようになりたい」と思う気持ちは、専門生徒だろうと趣味生徒だろうと持っている、あるいは将来持つ可能性があるからだ。その時に、教師が導けるかどうか・・・

生徒がどのようなスタンスで学んでいようと、あるいは教師がどのように思っていようと、偉大な音楽、偉大な演奏は、ある日突然、生徒の感受性に降り注いでしまったりするのだ。「えっ、なんて素敵な演奏なの・・・」と。

街のピアノ教師、別に難曲を華麗に弾きこなさなくてもいいのかもしれない。「スカルボ」やラフマニノフの3番のコンチェルトを弾けなくてもいいのかもしれない。かもしれない・・・ではないね、弾けなくていいと思う。

でも生徒がある日、突然に「先生、私もこの曲、アラウのように弾きたい」と言ってきたら、街のピアノ教師もその生徒の憧れに応えられなければいけないと思う。

「彼はピアニストさんだから・・・」とは言えないはずだ。

「あなたは趣味なんでしょ?」とも言えないはずだ。

そもそも、先生自身が、この易しいソナタをアラウのように弾けるのか?

弾けないのが当然なのだ。アラウではないのだから。でも追っている必要はあるんじゃないかな?

だから先生もピアノを弾く・・・ピアノで悩む・・・

厳しかった修業時代を否定する気持ちが「ワクワク」「ドキドキ」につながっているのだとしたら、何か違うと思う。

kaz



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幻想即興曲 

 

医大生Hさんの部屋で音楽を聴く、留守がちだった両親のいない家にいるよりも、彼の部屋で音楽を聴かせてもらうのが好きだった。小学3年生の時からだから、もう3年になる。Hさんは何も知らなかった僕に、たくさんの歌手やピアニストの演奏を教えてくれた。

「Hさんは勉強しないの?」「夜中にするんだ。それまでは音楽の時間なんだ」「ふーん・・・」

中学進学についても、Hさんに相談したりしていたし、停滞するピアノのレッスンというものに関しても相談したりしていた。「僕・・・まだバイエルなんだ。遊びではショパンとか弾くけど・・・」「いいじゃない?ピアノで遊べたら」「そうかなぁ?」「フランソワは聴いたよね?彼はこう言っていたんだ。ピアノを弾く?なんて恐ろしいことを!ピアノで遊ぶだろ?・・・とね」「ふーん」

4年生の時に先生に一度だけ勇気を出して言ってみたんだ。「僕、ショパンのワルツを練習して弾けるようになったんです。来週弾いていいですか・・・」と。

「あなた、バイエルも終わってないじゃない?なにバカなこと言ってるの?そんなの認めません。絶対に。バイエルを練習しなさい。楽譜だって読めないでしょ?あなたのように弾けない生徒は初めてなのよ」

停滞レッスン・・・でも音楽を聴くのは大好きだったし、ピアノで遊ぶのも好きだった。

「コルトー聴こうか?まだ聴いたことないよね?」

その頃は、たしかポリーニのショパンのエチュードのレコードが発売されて、少し経った頃だと記憶している。ポリーニの演奏は、すべての音に光をあて、クリアなものを追及したような演奏だった。

「僕はね、この演奏はこれからのピアノ演奏の概念を変えてしまうとさえ思うんだ。でもそれでいいのか僕は疑問なんだ。個人的にはポリーニは嫌いだ。平凡な第二、第三のポリーニでこれから一杯になるよ。つまらないね・・・」

Hさんはそう言った。「コルトー・・・聴こうよ」

コルトーの演奏を初めて聴いた。いろいろ聴いたけれど、ショパンの「幻想即興曲」に惹かれた。とても詞的で斬新で、そのサウンドが頭の中から離れなくなった。

「このような演奏・・・なくなってしまうのかな?」とHさんは言った。独り言のように・・・

全音のピースの楽譜を買い、僕は翌日から猛烈に「幻想即興曲」を練習し始めた。数か月後に発表会があった。それまでは、簡単な編曲ものや、せいぜいブルグミュラーしか弾かせてもらえなかったけれど、僕はショパンを弾きたいと思った。それ以外にないとさえ思った。コルトーの独特の「節回し」に圧倒された。「こんな演奏があったのか?こんなピアノがあったのか?」

ピアノのレッスンは辞めようと決心していた。中学進学が理由になると思った。発表会は、たしか4月だったと記憶している。そこで「幻想即興曲」を弾いて辞めよう、もしくは、先生を変えよう・・・と思っていた。でも弾かせてくれるかな?

「ショパン?無理に決まってるでしょ?私に恥をかかせる気?辞めるの?それもいいわね。あなたはピアノに向いてない。辞めた方がいいと思うわ。発表会?最後だから出てもいいわ。でも私はレッスンしないわよ。勝手に弾けばいいわ」

先生は僕の「幻想即興曲」の楽譜をビリビリと破き始めた。「無理だって・・・絶対に・・・何を言うかと思ったら・・・」

Hさんはピアノ教室とか、そのような世界が好きではなかった。「発表会かぁ・・・僕そういうの苦手なんだな・・・」

「下のピアノで弾いてよ。聴いてみたいな・・・」

Hさんは僕の拙い「幻想即興曲」を真剣に聴いてくれた。

「ねっ、コルトー・・・だろう?いいじゃないか・・・素敵なショパンだと思うよ。kaz君、ピアノ上手いんだね?」

初めて人から褒められた瞬間だった。

30年の歳月が流れた。Hさんは医大を卒業し、日本で医師として働いていたが、ある日Hさんから葉書がきた。「僕は今インドにいます。こちらでは医療を受けられない人も多いし、水準も高くない。同じ人間なのにね。同じ医療を受けられないておかしいじゃないか?そう思うよね?だから僕はインドで暮らそうと思う。インドで医師として何かできたらいいと思うんだ」

僕はピアノを再開しようとしていた。独学で練習はしていた。でも独学では無理だと思っていたし、先生を探していた。昔と違い、ネットがある。何人かの先生の体験レッスンも受けた。でも「何か違う・・・」と感じた。

ハンガリーに留学した人のホームページに行き着いた。そのページには個人レッスンのことも記されてあったし、よくあるような、何人を音大に合格させたとか、コンペティションで入賞させたとか、そのような記載が一切なかった。また、イラスト満載の、よくあるページとも違っていた。「この人・・・いいかも・・・」

日本の大学では哲学を専攻していた。そしてピアノでハンガリーに留学・・・

僕はピアノを再開して、まずは「幻想即興曲」を練習した。「ブランクって?」と思った。指が動かないとか・・・あまり思わなかった。もともとが動いていなかったのかもしれない。Hさんが言っていたサンソン・フランソワの言葉を思い出した。「ピアノを弾く?なんて恐ろしい・・・ピアノで遊ぶだろ?」という言葉を。

初めての再開ピアノのレッスンで、僕はショパンのマズルカとハイドンのソナタを弾いた。正直言うと、ピアノの先生という人達が怖かった。もしまた何か傷つくことを言われたら・・・もうあの時のような弱い子どもではないけれど・・・

先生は僕の演奏をまずは、静かに聴いてくれた。そして言った。

「素敵じゃないですか?何か古いピアニストの雰囲気を感じますね?コルトーとか・・・素敵ですよ。いいじゃないですか?」

僕はピアノを再開しようと思った。

kaz



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人生のひと時のためのピアノ 

 

前記事の反応が大きいようだ。大きい・・・といっても芸能人のブログでもないので、メールフォームに7通のメールがきただけだが。基本的にコメントには返事を書いている。「承認待ち・・・」などと出るし、自分の意見が活字としてコメントの場合は残るので、それでも書いたというコメントには返事を書くべきだと思っている。変なコメントは消しちゃうけどね。このブログに限らずだが、たぶん、ブログってコメントよりはメールフォームの方が数は多いんじゃないかな、どんなブログでも。メールフォームからのメールには基本的には返事は書いていない。例外は悩める高校生とかからのもの。そのようなメールには返事を書くけれど、基本的には書かない。複数の人に書く時間がないのと、その労力は別のところにあてたほうがいいというか、体力がないというか・・・

7通の内訳は日本5、イタリア1、米国1・・・国際色豊かだなと思うが、日本語ブログなので、海外からのものは海外在住の日本の方からのものだ。個別に返事を書くよりも、一つの記事として返信としたい。

メールから判断する限り(7通だが)、ピアノの先生って自分で弾いているの?という疑問を持つ人が多いようだ。これは、先生方のブログから判断しているのだと思う。ここで考えなければいけないのは、やはり多数ブログからの印象というものが、その業界(?)全体の印象となってしまうということだ。中には「私は弾いています」という先生も多いだろうし、実際に僕もそのようなピアノの先生を知っている。自分の先生もそうだし。ブログには自分のピアノ道のことは書かなくても、生徒やセミナーのことだけしか書いていなくても、裏(?)では毎日数時間弾いていますという先生だっているだろう。

でも、大雑把な印象としては、「ピアノの先生は自分のピアノ精進のことは書かない」という印象を持ってしまう。やはり文字とか、さらにビジュアルなインパクトというものは強いものがある。ある先生がセミナーの記事を書き、ランチやケーキの写真をアップしたとする。「セミナー後のランチです」みたいに。別にいいのだが、その他の先生も似たような記事をアップしたとすると、一般の人は似たような記事を読んで「ピアノの先生って・・・優雅なのね」と感じてしまうこともあるだろう。裏で自分のピアノで涙していたとしても、それは書かなければ伝わらないわけだから・・・

ピアノ教師ブログというものは、特殊なものなのだと思う。いわば、教室の広報をも担っていたりする。なので書きにくい話題というものはあるだろうと思う。「自分ってこんなに弾けない・・・」というニュアンスの文章は書きにくいのだと思う。やはりピアノの先生だって自分で弾けば、「私って天才?」のようなピアノ記事になるわけでもないだろうから、どこか否定的なことも書くことになる。ピアノの練習って、できないことをできるようにすることだし、なかなかできるようにならないものでもある。だから書きにくい。また、経営のことも書きにくいだろう。実際は経営が火の車でも「困っているんです」とか書けないだろうし。

なので、どのブログもテーマが似てしまう。生徒のレッスン、セミナー、教材・・・

でも、僕も含めて、そこまで裏事情を察して想像して読むわけではないので、どうしてもピアノの先生のブログは「セミナー記事にランチにピースサイン」のような大雑把なイメージで捉えてしまうのだ。

「私のブログって、一般の感覚だと、どのように捉えられるのかしら?」と少し離れて自分のブログを見つめてもいいのかもしれない。まぁ、余計なお世話だが・・・

7人という人数・・・ほんの一握りだが無視できない数だと僕は他人事ながら判断するが・・・

ブログの見つけ方というか、読み方は人それぞれだろうが、多くの人は「ブログ村」のようなものからブログに入る。なので個別に一つのブログをじっくり読む・・・というよりは、全体的に複数ブログをダーッと読むケースが多いのではないかと思う。なので、大雑把、かつ全体的印象が、その業界の印象とイコールになりやすいのだと思う。例えば、音楽鑑賞記ブログの書き手は男性が多く、どこかマニアっぽいとか、ピアノ教師ブログはセミナー、ランチ、教材・・・とか。

また、興味深いことに、7人全員ではないが、ほとんどの方が子ども時代のピアノレッスンというもの、または現在のピアノレッスンというものに、疑問や不満を感じていた、またはいるということだ。特に子どもの時のことは忘れられないもののようだ。僕もそうだったりする。やはり、それだけ子どもの時のピアノって重要なのだろう。

「何故もっと弾けるように努力しなかったのだろう?」「先生もきちんと厳しく教えてくれればよかったのに」「自分の努力を認めて欲しかった」「好きなだけではない、もっと何かを与えて欲しかった」「音大志望じゃない?じゃ、趣味ということね・・・と言われたことが今も傷ついていたりする」「先生の演奏、聴いたことない・・・」「片手でしか、それも、たまにしか弾いてくれなかった」

でも、過去のことを思ってみても仕方がないのだ。過去は過去。現在、ピアノを弾いているのなら、今のことを考えればいい。大人のピアノってそういうものではないだろうか?

人生って、辛いことばかりなんだ。そう思う。だからピアノを弾く時間が尊いのだ。それが大人のピアノなんだ。残りの人生で挽回すればいいのだ。

でも一つだけ思う。子ども時代のピアノは、その時だけで完結するものではない。「部活が忙しくなるのでピアノ・・・辞めます」「受験だから・・・練習できないし・・・」子どもがピアノを辞めたとしても、そこでピアノは終わりではないのだ。まぁ、スッキリと辞める子どももいるだろうが、その後の人生で、ピアノを再開する子ども(もう大人だが)もいるはずだ。ピアノを再開するのは10年後かもしれないし、30年後かもしれないが、その時に弾くピアノは「子どもの時のレッスンの延長」という部分が必ずあるのだ。子どもというものは将来の大人なのだから・・・

子どものピアノレッスンというものは、将来にまで責任があるという言葉は重すぎるだろうか?

7人の方への返信代わりの文章になっただろうか?なっていない気もする。

大人のピアノ・・・そうだな、僕個人のことだけど、やはりピアノを弾くことが辛いこともある。聴力に問題を抱えていて、人の半分も聴こえないし、緊張すると全く聴こえなくなることも、ままあるし・・・

でも人前での演奏はしたいんだな。

体力もないしね。内臓なんか、これも人の半分もない(変な表現だが)のでは?身体中傷だらけだし。肺活量とか、いろいろとピアノを弾くうえでも不利というか・・・

でも人前での演奏はしたいんだな。もっとシンプルに、ピアノが弾きたい・・・のだ。

レナード・バーンスタインが大人ピアニストのため(?)に、いい言葉を残してくれている。

「あなたが音楽家になろうと思った時から、あなたは音楽家なのだ」

重すぎか?ではこれはどうだろう?

「誰かと分かち合えない感動は、私にとって無意味だ」

これはいい。

「言葉で表現できない感情まで音楽は明確にしてくれる」

そう・・・だから弾くんだ・・・大人のピアノをね。

たとえば、この人のように・・・

一日の終わりのひと時、あるいは人生のひと時に、このように自分のピアノ、大人のピアノを奏でられたらどんなに幸せだろう・・・

そのために「子どものピアノ」がある。

kaz



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弾けなくてもいいの・・・ 

 

「はじめまして。ブログ拝見しました。私は40代のピアノ講師です・・・」

このような書き出しのメールに、「反論メール?中傷メールか?」と身構えた(?)のだが、そうではなさそうな感じだ。反論ではあるけれど、中傷メールではなかった。僕の一つ前の記事に反応したメールなのだと思う。音大のピアノ科というところは、ピアノの演奏を勉強するところだと僕は書いた。

「kazさんも建前であろうと書かれていましたが、本当に建前です。演奏で生計を立てていける人なんて音大卒の人にはいません。これが実態です。一般企業に就職したりする人も多いです。でも、やはり街のピアノ講師になる人がほとんどなのだと思います。卒業後、私たちピアノ講師は、子ども(あるいは初歩の大人)の指導をしなければいけないわけです。そんなこと、音大では習っていないわけです。一応、自分の演奏というもの、つまりピアノの演奏が専攻だったわけで、指導法ではなかったわけですから。矛盾を感じます。なぜ、指導法専攻の音大が一般的ではないのか。音大のピアノ科は、一部の音大を除き、すべて指導法専門課程に変えるべきです。それが需要と供給を考えても自然だと思います。つまり、ショパンやらベートーヴェンが弾けようと、弾けまいと関係ないのです。求められるのは、専門的な指導法の知識です。音大で専門的に指導法を教えていないから、卒業して教室を開いてからセミナーに通い勉強するしかないのです。悩んでいるピアノ講師は沢山いると思います。正直、指導法を専攻するとしたら、そんなに難しい曲なんか弾けなくてもいいのです。別にピアニストになるわけでもないのですから。チェルニー30番程度でも技術的には充分ではないでしょうか、せいぜい40番くらい?これ以上のレベルが弾けようが、実際の指導には関係ないのです。それが現実です。自分たちが弾けようが、弾けなかろうが、実際に指導する際には関係のないことです。それよりも求められるのは、教材への知識とか、指導法そのものです。私は音大のカリキュラムが現実と一致していないことが問題だと感じています」

とても長いメールで全文ではないけれど、大体はこんな感じのメールだった。「ピアノ講師」という言葉に違和感を感じる。「ピアノ教師」では・・・などとも思うが、まぁ、そこは本題ではなかろう。

ピアノ科卒業後、いきなり現実との遭遇・・・その部分は理解できる。音大では少なくとも「どうしたら練習してきてくれるのかしら?」なんていうことで悩む教授なんていないはずだし、学生だって指導教官に「ピアノ・・・ツマラナ~イ」なんて言わないだろう。でも現実の現場では、最初は目をキラキラさせてピアノを弾き、レッスンでも生き生きとしていた生徒が、教材が進むにつれ、学年が上がるにつれ「ピアノ・・・ツマラナ~イ」という生徒が増える。ピアノ教師が悩むのも理解できるし、教材研究やセミナーが必要なのも理解できる。やはり、現実には対応しなければいけないわけだから・・・

でも、ピアノ演奏において、メカニックの取得が目的ではなく手段であるように、教材研究や指導法研究も手段なのではないだろうか?個人的には「目的」ではないと感じるがどうなのだろう?

気になるのは、ピアノ教師の技量として、チェルニー○番程度というところだ。これはピアノ教師は「スカルボ」やら「イスラメイ」が弾ける必要はないということなのだろうと解釈する。実際にはそんな生徒は、音大で教えているような先生だけにしかいないだろうし・・・ということなのだろう。メールにも「実際にはチェルニー40番あたりまで進まずに辞めてしまう生徒がほとんどなので・・・」という記述があるので、そのような意味なのであろう。この考えは、ピアノ教師はバリバリと弾けなくてもいい、本領はそこではないのだ、あくまでの指導力なのだ・・・というところにつながるのだろうと思う。

バリバリ弾けなくてもいいとは思うが、やはり弾けないと、というか、弾かないとマズイだろうと個人的には思う。教師自身が弾いていないで「なんで練習なんかしなくちゃいけないの?ツマラナ~イ」と生徒に言われた時に、答えようがないではないか?「そうね、そのとおりよ。だから先生もピアノ弾かないの・・・」とは答えられないだろうと思う。導きようがないというか・・・

それよりも、生徒が勝手に(?)音楽に開眼してしまったらどうするのだろう?「先生・・・ピアノ、音楽っていいね・・・」と純粋な目と心で言われたら、指導法オンリーの先生は「えっ?」となってしまわないのだろうか?

先生自身が追っている姿を生徒は感じるものではないだろうか?違うかな・・・

最近、クラウディオ・アラウについて調べたりしているのだが(一応孫弟子なので?)、アラウはこのように言っている。

「先生と生徒の関係というものは、お互いに反応しあう相互的なものなのだ」

おそらく、彼自身の先生であったマルティン・クラウゼとの関係からアラウはそのように言ったのだと解釈する。クラウゼがリスト自身から、どのように彼のエチュードのある部分を弾くように導かれたかを、クラウゼはアラウ少年に熱く語ったのだと言う。アラウは自ら、自分はクラウゼ~リスト~チェルニー~ベートーヴェンという伝統継承を引き継いでいると自負している。

伝統の継承・・・ピアノ教師の役目はそこにあるのではないかと個人的には思う。躾け教室でも、マナー教室でもないし、忍耐道場でもない。伝統なんて重苦しい言葉ではなく、弾けるようにさせるところ、弾けるようになれるところ・・・と考えると僕でも分かりやすい。

もし、子どもにピアノを習わせたいという親がいて、どの先生がいいのか判断できなかったら、「教材」とか「生徒コンペティション実績」とかそのようなことよりも、このように質問してみたらいいのではないかと思う。

「先生は演奏されるのですか?」と。

そんなことを考えていて思い浮かんだのが、ルドルフ・ゼルキンの演奏。メンデルスゾーンのコンチェルトなんて、若さ溢れる曲、青春そのものような曲だと思うけれど、実に生き生きと演奏している。この時、たしか彼は80歳近い年齢だったはずだ。でも死ぬまで青春だから・・・

それを伝えられるのもピアノ教師だと思うがどうだろう?

指導法=演奏力・・・というか「弾かずにはいられない熱い心」では?

「弾かない」とか「弾けなくてもいい」と心の中で決意してしまったら、この老ゼルキンのメンデルゾーン、聴くのが辛いんじゃないだろうか?

kaz



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受け狙い? 

 

有名音大を優秀な成績で卒業し、何らかの賞も得た。そのような優秀な人たちが演奏会を催す場合は、自主リサイタルになることが多いだろう。音大卒、それが有名音大であろうと、そして国内のコンペティションに入賞・・・程度(?)の経歴であろうと、それだけではバンバン演奏会の出演依頼が舞い込む・・・などということはないだろう。

むろん、全部の自主リサイタルでの演奏がそうだということではないけれど、優秀な彼らの演奏が、いささか退屈なのには、理由があるように思われる。音楽愛好家として感じるのは、彼らは、それまでの教育を受けてきた過程で、一般大衆との接点というものに乏しいような気がするのだ。何時間もピアノの練習をしてきた人生なのであろう、そして彼らの体験してきた実技試験というものも、「聴衆が温かく、かつ正直な耳で見守る」という雰囲気ではなく、教授らがズラッと居並ぶ「冷た~い」雰囲気の中で弾いてきたのであろう。

そのような過酷な空気の中で、実力を出す、そしてそれをしたからこそ、卒業できたのだとも思うけれど、でも考えてみれば、卒業して自主リサイタルをするからといって、いきなり「聴衆との一体感」とか「親和力」のような、彼らの修業時代に最も無縁だった、しかしながら、演奏というものに最も必要だとも思えるものを期待しても、それは可哀そうというものであろう。なぜなら、彼らはそのような訓練を受けていないのであるから。彼らが演奏してきたのは、「専門家が厳しく評価する場」だけであったのだから・・・

これは超絶技巧系(?)の達者なアマチュアの演奏にも共通しているように思うが、どうも彼らや優秀音大生の演奏は「自分がどう弾くのか、弾けるのか」ということしか興味がないのでは・・・という印象を持ってしまうことがある。無理もないのだ。そのような経験ばかりしてきたのだから・・・

聴いている人がどう感じるのか・・・この視点を育てるにはどうしたらよいのか?単純に考えれば、そのような機会を修業時代に体験すればいいのかなと思う。海外の音楽院のように実技試験というものを一般公開してしまえばいいのでは?フルリサイタルのできない能力の学生は音大生とは言えないと思うし、卒業させるべきではない。厳密には今の日本では無理な話だとは思うけれど・・・

一般大衆、聴衆というものの耳は厳しい。どんなに厳しく辛辣な教師の言葉よりも厳しい。なぜなら、聴き手は演奏家の教師でも親でもないのだから、「自分たちが楽しめるか」ということを期待するからだ。その演奏家の「弾け具合」などというものに関心があるわけでもないのだ。「これを練習、研鑽してきました・・・私の技量だ、さぁ、聴け!」などと演奏されても聴き手としては非常に困るのだ。

あまりにも聴き手の存在を意識してしまうと、「受け狙い」の演奏となってしまう危険性もあるかと思う。でも聴衆というものは、知識は演奏者よりも劣っているかもしれないが、バカではないのだ。「では、有名な知名度のある曲も弾けばいいのね?トルコマーチ?」とか、そのようなものでもない。大事なのは「その曲を演奏している意味、意義というものが、聴き手に伝わるかどうか」なのではないかと思う。それは「自分が・・・自分が・・・」という視点だけでは育ちにくい。

専門機関である音大では、どのような教育がされているのであろう?基本的には「専門家として、演奏家としての専門機関」であるということが前提だろうと思う。実態としては、卒業生のほとんどが「街のピアノ教師」となるのだとしても、音大のピアノ科は、ピアノの演奏というものを専門に勉強するところだ。ここは伝統の継承というものを考えると、崩してしまうことはよくないのではないかと僕は思う。ピアノ科・・・でもレッスンの実態は「街のピアノ教室科」ではいけない。音大のレッスンで導入教材を弾いたりとか、それはいけない。講座のようなものならいいと思うけれど。レッスンでは、その学生が将来どのような道に進もうと、それが建前であろうと、ピアノの演奏を勉強するところだ。

でも、あまりにも「その曲をどう弾くのか?」というところだけに留まっていないだろうか?演奏というものは演奏者だけでは成り立たないものなのだから、作品と自分、そして聴き手との共有、そしてそれを具現化して、どのように卒業後の演奏活動というものを展開していくか・・・という視点までも音大の教育において必要なのではないだろうか?優秀な日本の音大生や卒業生の演奏を聴いていて、そのようなことを感じる。自主リサイタルだと、そのあたりの微妙なところを演奏者が意識しなくても開催できてしまう危険性がある。

芸術と「サービス精神」というものは共存できないのであろうか?「サービス精神」が言いすぎであれば、「聴き手のことを少しだけ意識する」とでも言おうか・・・

このピアニストはイタリアのある会場で弾いている。ワスゲン・ワルタニャンというロシアのピアニスト。モスクワ音楽院とジュリアード音楽院で学んだピアニストだ。基本的には、このピアニストのリサイタルは主催者がいて、ピアニストは集客のためにチケットを手売りする必要はない。ピアニスト本人がイタリアに住んでいるわけでもないので、本人は集客そのものができないだろう。欧米での演奏会の基本的な形だとも言える。

「まぁ、お客さんを集めてくれるのね?行って弾くだけ?いいわぁ・・・楽だわぁ・・・」

ただし、この形の場合は厳しい条件がある。リスクは主催者がすべて負うわけだから、「聴衆がどう思うか」という視点が加わってくる現実がある。聴衆の大多数が「退屈ね」と判断したら、ある意味、その演奏家は終わりなのだ。演奏家としては「また依頼してくれるだろうか?また呼んでくれるだろうか?」という現実がある。これは厳しい。呼んでくれなければ、演奏を依頼されなければ演奏家ではないのだから・・・

このワルタニャン氏の演奏、演奏が素晴らしい・・・とか、そのようなことではなく、自主リサイタルが中心の日本の若手からは、なかなか聴くことのできないタイプの演奏であり、選曲であるとは言えるだろうと思う。編曲も彼自身が行っている。

これを「受け狙い」と感じるかどうか・・・

でも、個人的には「研究発表会」のようなリサイタルは、もう聴きたくない。

kaz



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イケメン 

 

なかなかピアノに向かえないという状況は苦しい。疲れちゃうんだよね。自分の体力の限界と相談して、無理は禁物だし、そもそも無理もできないんだけど、そうするとピアノそのものが弾けないんだよね。このような時にドーンと落ち込んでも仕方ないので、ピアノで遊んでみてもいいと思う。

来月、サークルの演奏会で弾く予定なのがリストの「メフィスト・ワルツ」で、そもそも、今の体力で、どこまで弾けるかという挑戦の意味もあって選曲したものだから、さすがに弾けない・・・

弾けない・・・ではいけないんだけどね。

レーナウの詩というものから離れて、自分なりの妄想を創り上げて遊びとしてしまう・・・

「いかにも邪悪」「いかにも悪・・・」なんていう悪魔はいないのだ。魅力的な男(女かもしれんが)が裏切ったり、人を傷つけるから、だから怖いんであって、悪魔的になる。

以前に、「悪」というものを感じさせない美形俳優として、ケーリー・グラントのことを書いた記憶がある。彼が悪事を働いたら怖いと思う。そのような意味で、この人も怖い。もし、グレゴリー・ペックのような容姿の男が笑いながら、人を裏切っていたりしたら、それこそ「メフィスト・ワルツ」の世界になるのではないか・・・などと思っている。

それにしても、往年のハリウッド俳優は美形が多い。「ハンサム」という言葉さえ軽く感じる。なので「イケメン」などという言葉は使えないだろうと思う。

kaz



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自主リサイタル 

 

僕は東京在住なので、東京のことしか分からないのだけれど、毎日のようにピアノのリサイタルは行われている。サロン的な会場も含めれば、それこそ把握が難しいほどのホール(会場)が存在する。ヨーロッパの都市は住んだことがないので、なんとも言えないけれど、ニューヨークと比較しても、東京は演奏会の数は圧倒的に多いように思う。特にピアノのリサイタル・・・

「まっ、日本てクラシック音楽が盛んなのね?文化国家なのだわっ!」

日本の演奏会の数、そして音大生、音大卒業生、ピアノ教師の数、ピアノを習っている子どもの数、人口ということを考慮しても、これらのことは、完全に他の先進諸国を圧倒しているのではないか?

「まっ、本場ヨーロッパよりも音楽が盛んなのね?」

そうではない・・・と多くの人は感じるだろう。

日本でのクラシックの演奏会の多く、いや、ほとんどは「自主公演」なのではないかとも思う。演奏家がホールを予約し、チケットを手売りし、その他の雑用もこなす。主催者が別にいる場合は、そのあたりは、すべて行ってくれるので、演奏者は会場で演奏するだけでいい。チケットが売れなくても、赤字でもギャラは貰える。

欧米の場合、演奏会は主催者演奏会がほとんどで、自主公演というものは非常に珍しいのだそうだ。東京の数多い演奏会、自主公演ではないもの・・・と限定すると、とたんに数は少なくなるはずだ。なので、演奏会の数そのもので単純比較することはできないように思う。

自主公演・・・なんとなく大変そうだ。自分でチケットをさばくという仕事を、演奏の他にこなさなければならないから、演奏家にとっては心理的な負担はかなり大きいだろうと思う。「売らなければ・・・」みたいな。

でも自主公演が一般的ではない欧米の方が単純にいい・・・とも言えないような気もしてくる。自主公演が盛んで、そのシステムが認められているということは、言葉を変えれば「誰でもリサイタルを開催できる」ということになるので、これはいいことだと僕は思う。

欧米の場合、人生の比較的若い頃に、音楽事務所なりの第三者に認めて貰わなければ、演奏する機会さえ得ることが困難になる。演奏しなければ、演奏家ではないのだから、これは厳しい。大器晩成型の演奏家にとっては、この欧米システムは、かなり不利なのではないかと思う。

演奏家というものは、演奏を重ねて、経験を積んで成長していく・・・という面もある、というか、そのようなものだとも思うので、自主公演で最初は手売りなどで苦労しても、本当にいい演奏をすれば、時間はかかるかもしれないが、聴衆が、ファンが育ってくる、ついてくるということも可能なのではないかと思う。日本の中堅実力派(?)ピアニストも自主公演を重ねて精進してきたから、精進できるシステムが存在していたから現在も演奏家として生き残っているという人だっていると思う。欧米では何人の才能が消えて行ったのだろうとも考えてしまう。

自主公演のいいところは、時と共に成長という面と、もうひとついい面があるように思う。それは自主的な演奏会だから、自分の好きな曲を弾けるということだ。アマチュアだろうと、プロだろうと、その時弾きたい曲、関心のある曲、勉強してきた曲などを弾きたいだろうし、そうでない曲を弾く場合よりも、演奏の質だっていいのではないだろうか?主催者が介入すると、注文があったりするそうだ。多くは「一般の人にも受けがいいような曲も入れて下さいよ」というものらしい。これも理解できる。でも、その場合、いくら演奏家が「メシアンをメインにしたのよねぇ」と思っても、希望を通すのが難しくなる。「あまり弾きたくないけど、ショパンの英雄ポロネーズとか、弾かなきゃかもねぇ・・・」などということもあろう。ある意味、演奏家には酷なところもあろう。

音楽愛好家としての個人的な感想だけれど、東京で開催される演奏会の多くが退屈だ。退屈だったから、会場に足を運ぶということをせずに、もっぱらCDで音楽を聴くという生活になってしまった感がある。これもいけないな・・・と思うので、演奏会にも足を運びたいのだが、義務感で音楽は聴くものでもないので、そこが難しい。個人的には、自主公演システムのマイナス面を感じてしまったということになろうかと思う。つまり、僕が経験した多くの演奏会、ピアノリサイタルは自主公演がほとんどだったからだ。外来ピアニストの場合はそうではないけれど。日本人演奏家の地道な活動というものへも無関心ではいけないと思うのだが、その多くの演奏が面白くなかったのだ。どうも、「勉強してきました」というものを聴かされている・・・という感じなのだ。これは、自主公演での、演奏家の好きな曲を自由に選曲できるということが、マイナスに作用しているのだと思う。演奏会が「研鑽発表会」になってしまっている。「自分は~のように研鑽してきました」というものしか感じない演奏が実に多いのだ。「まあ、それは立派ですね。練習も大変だったでしょう?」とは思うが、僕としては、そのようなことを感じたくて会場に足を運んだわけではないのだ。

自主公演しかできない演奏家という存在も多いのではないかと思うし、実際多いだろう。そのことはいいのだが、自主公演が、どうも「研鑽発表会」になりがちなのは、演奏する側に「聴いている人がどう感じたか?」「また聴きたいと思ってくれるだろうか?」という視点に欠けているということではないかと思う。どうしてそのような演奏が多くなってしまうのだろうか?

「それは日本のピアノ教育に問題大ありね・・・」

それもあるだろうが、僕がなんとなく感じているのは、自主公演の場合、聴衆は「知り合い」が中心になるからではないだろうかと思う。演奏家が自分でチケットを手売りするのだから、必然的にそうなるだろう。どこかに置いておけば、どこかにポスターを貼れば、ネットで宣伝すれば、どんどんチケットが売れるなどということは、まずないだろうし、そのようなことのある知名度の高い人は自主公演そのものをしなくても済むだろうし。

「今度リサイタルをするので、よろしくお願いします・・・」と頭を下げてチケットを自分で売り、知り合いにも同じことをしてもらう。そして当日聴衆として集まってくれる。

この場合、聴き手としては、率直な感想は演奏家本人に言いにくいのでは?知り合いなのだから。直接の知り合いではなくても、知り合いの知り合いとか、何らかの関係はある。

「なんだか、弾いているだけだったような?もちろん、よく弾いてはいたわよ?でもどれだけ弾けるかを披露されてもねぇ・・・」などという率直な、厳しい意見、感想が自主公演の場合、演奏家の耳には入りにくいのではないだろうか?

そして演奏する側も、「自分がどう・・・ではなく聴いている人がどうだったか・・・」という視点にいつまでも気づかないというところがある。少なくとも、聴き手としては、そう感じる。

kaz

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レディー・ガガからのメッセージ 

 

ジェイミー君は、自ら動画でも語っていたが、レディー・ガガのファンだったようだ。ファンというよりも、崇拝していたというか、尊敬していた。

それは、彼女の歌がジェイミー君に勇気を与えていたからだと思う。

ジェイミー君は、亡くなる直前にレディー・ガガにツイートしている。その内容は、レディー・ガガ本人に伝わり、彼女は、歌手として、そして何よりも人間として、メッセージをジェイミー君と人々に発信した。これは迅速な対応だったように思う。

ジェイミー君は、大好きだったレディー・ガガに次のようなメッセージを残した。

「マザーモンスター(レディー・ガガのこと)、さようなら・・・今まで色々ありがとう。永遠に両手を上げて・・・」

このメッセージをレディー・ガガに残し、そして自殺したのだ。

kaz



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イジメへのメッセージ 

 

ジェイミー君が自らの命を断ち、そしてそれが大きな問題となった。イジメという、社会問題として・・・

ジェイミー君の両親、そして姉がテレビのインタビューに答えている。ジェレミー君の動画も14歳の少年とは思えないようなメッセージだったけれど、インタビューに対しての家族の答えも、とても普通の、一般の人のそれとは思えないような、理路整然としたものだ。日本の場合、14歳の息子、あるいは弟を失った家族として、ここまで冷静に受け答えをし、自分たちのメッセージを伝えることのできる家族は稀なのではないだろうか?普通は泣き崩れるだけとか、そうなってしまうのでは?でも、アメリカではこのようなことは、割と普通のことなのだ。なにもロードマイヤー家が特殊なのではないと思う。教育を受けたアメリカ人は、普通は、自分の意見、メッセージというものを人に伝えるという教育を受ける。そして、家族のメッセージも、やはりジェイミー君のものと共通している。

「人間はみな、同じなのだ」ということ。

異質の人を排除しない・・・

当たり前のようでいて、とても勇気の必要なことなのだ。何故なら、その根底には「私は私、あなたはあなた」という、どこか人間の集団というものは、異なった個性の集まりという認識が必要だからだ。

人間として、人として、あなたは、そして私は何を考え、何を大事にしているか、自分はどのような人間なのか、そこを見つめない人が多いのかもしれない。だから不安になり、似た者同士で固まろうとする。そして異分子を排除したがるのだ。

kaz



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