ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

飛翔するベートーヴェン 

 

中学生の時のエピソード。なのではっきりと覚えている。僕は小学6年生でピアノは辞めてしまったのだけれど、先生を変えてピアノは続けたいな・・・という希望は一応持っていた。中学生になったからといって、急に勉学に励んだりはしなかったし。

中学生になったばかりの頃、僕はベートーヴェンの悲愴ソナタの第2楽章を練習していた。これは、当時はシュナーベルのレコードによるソナタ集を聴き始めていたということもあったし、シュナーベルの悲愴が好きだったのだ。今でも好きだが・・・

どこか、苦しみに打ち勝つ怒涛のベートーヴェンというイメージからは遠いものを当時の僕は感じていた。むろん、シュナーベルから聴いたということもあろうが、それよりもベートーヴェンの歌曲を聴いていたということの方が大きいような気がする。「アデライーデ」という曲だ。フリッツ・ヴンダーリヒの歌唱だった。僕にこの曲を聴かせてくれた音楽好きの医大生(その頃は医師の卵だったのかもしれない)がこう言ったのだ。

「このアデライーデを歌った数日後にヴンダーリヒは亡くなってしまうんだ。これは彼が亡くなる数日前の演奏なんだ。こんなふうに歌っていた人が急に亡くなるなんてね・・・」

「どうして亡くなったの?」

「階段から転落したんだと思う。頭蓋骨骨折でね。まだ35歳だったんだよ・・・これからという人だったんだ・・・」

このヴンダーリヒの歌唱が決定的だったのだと思う。彼の歌声と、シュナーベルのピアノが僕の中で重なり、ベートーヴェンの音楽は、天国に飛翔していく音楽、駆け上がっていく音楽・・・というイメージが完全に出来上がってしまった。

「天に飛翔していく・・・魂が飛翔していく・・・」

悲愴の第2楽章を弾きたいと思ったのは、「悲愴が弾きたいの」というよりも、天への飛翔というもの、そのイメージに触れたかったから。僕は今でもこのような観点で選曲をするような気がする。

当時、どれだけ弾けていたのだろう?目茶目茶だったのかもしれないし、今の僕の演奏とあまり変わらなかったような気もする。今の演奏も目茶目茶と言われればそれまでだけれど・・・

もしかしたら、新しく探した先生が僕なりの「飛翔」というものを感じてくれれば、少しでもそのような発言があれば、僕はピアノは中学生になっても続けていたかもしれない。

「ベートーヴェンは、もっとかっちり弾かなきゃ・・・そんなに歌ってはいけないのよ!」

僕のそばで手をパチパチと叩き、「定規をあてたようにって分かる?ベートーヴェンなんだからそのように弾くの。古典派の音楽はそのようなきっちりとした音楽なの」

生意気盛りだったんだな・・・

弾けてもいなかったのだろう・・・

「ピアノは好きなんだけどなぁ・・・でもピアノのレッスンって・・・もういいかな・・・」

などと思ってしまったのだ。

「えっ、バイエルが終わってないの?それで悲愴?バイエルは終わらせなきゃ!」

うーん、相当弾けていなかったのだろうか?

この時の悲愴から今の僕はあまり変わっていないような気もするのだが・・・

ヴンダーリヒへの憧れは当時も今も変わらないね。それは確かだ。

kaz




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音楽経験 

 

音楽経験、これが僕には足りないものだと今まで心のどこかで思っていた。普通の子は、ピアノの先生の注意を一生懸命守って、そして練習に励んで、曲が弾けるようになっていく。この歴史・・・

バイエルがブルグミュラーになり、そしてソナチネになり、ソナタとなって・・・この歴史、この経験が僕にはない。きちんと曲をレッスンで仕上げたこともなければ、先生から褒められた経験もない。音楽は好きだった。もちろんね。でも好き勝手に遊んで弾いていただけ・・・

決定的に僕には何かが足りないと思っていた。でも、そうだったのだろうか?たしかに「きちんと一生懸命な子ども時代のピアノ」という想い出、経験は何一つないが、音楽を聴いてきたという歴史はある。でも、そんなの誰にでもあるよね?聴くだけなんだから・・・

でもこうも思い始めた。「もしかしたら一生懸命だった記憶しかない人だっているのでは?」と。

僕は、今でも、どこか「柔らかきもの」を演奏に求めることが多いと自分で感じるけれど、僕が無意識に追い求めるものは、実は幼児の頃に聴いた音楽が原点になっているのではないか?最近はそんなことも思うし、もしかしたら幼児の時に聴いた音楽の強烈な印象というものは、他の人にとっての一生懸命に練習・・・と同じくらいに僕にとっては尊いものなのではないかと・・・

5歳くらいまで、僕は新宿で「流し」をしていたおじさんに預けられることが多かった。もちろん、流しなのだから歌謡曲が専門だったのだろうが、おじさんは、どこか西洋志向もあったような気がする。シャンソンやジャズも好んで聴いていたし、ギターで弾いていた。曲などは覚えていなかったりする。なにしろ幼児だったのだから。50年近く昔のことなのだから。

でも、なんとなく覚えていることもある。部屋の様子とか、椅子に腰かけてギターを弾いていたおじさんの姿とか、音とか・・・

たくさんのギタリストの演奏を聴いたけれど、この人の「音」が僕の記憶の中の音に最も近いような気がする。たしかにこのような音、このような音楽、このような演奏であったと・・・

これは立派な音楽経験になるのだろうか?

kaz



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category: 履歴書

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音型美 

 

チェルニーの作品というと、まずは(すべて?)膨大な練習曲を連想する。世間での評判は、あまり芳しくないような気もする。

どことなく和声も単純だし、どことなく作曲者独自のファンタジーのようなものにも欠けているように感じられ、まぁ、練習曲ということもあり、バリバリと弾かれているような?

ある作品を演奏したとして、もし「なんだかチェルニーを弾いているみたい」という感想だったとしたら、それは褒められてはいないということだろう。

もしかしたら、チェルニーという作曲家の凡庸さを意味することなのかもしれないが、師匠であるベートーヴェンや弟子であったリストの作風と比較すると、チェルニーの作品は当時の主流だった、持てはやされた作風というものを直に反映させているようにも思える。ベートーヴェンやリストの作風は彼らの「独自性」を感じさせるが、チェルニーは「その時代の作風」というものを感じさせるというか・・・

むろん、チェルニーも練習曲以外の作品を残していて、それらの作品は、その時代に確立されていたピアノの技法を知ることができる貴重な作品とも思えなくもない。「あっ、これがベートーヴェンなのね」という独自性、天才性というものよりは、「あっ、これがこの時代に確立された技法なのね」という個人よりは時代を感じさせるもの。

そのようなチェルニーのピアノ曲を聴くと、ある意味「音型美」というものさえ感じさせる。むろん、「チェルニーなんでしょ」とバリバリと鍵盤の底まで叩いてしまうような演奏では、その「音型美」は感じられず、醜悪なものさえ感じてしまうが、卓越されたピアノの技法で演奏されると、「あら、スケールって美しいものだったのね」「アルペジオってこんなに綺麗に感じるものなのね」と、以外な発見があったりする。

スケールやアルペジオなどの基礎的な音型そのものに美が備わっている・・・

そのようなことを感じることさえできる・・・

現代の名手、スティーヴン・ハフがチェルニーを弾くとこうなる。まさに音型美の連続。基礎的な技法、技術というもの、そのものが美となり、そして表現となるということを感じさせてくれる。本来は、技術と表現とは一対のもので、切り離して考えることはできないはずなのだ。

表現というものは、技術とは別に塗りたくったり、湧いてでるものとは違う。

フィギュア・スケートも、このような意味でピアノ演奏と似ている。技術とは全く別に、踊ったりして表現するというよりは、基本的なスケーティングそのものの美が、人を惹きつける表現に直接結びついている・・・

少なくとも、ピアノ学習者よりは、スケーターや、スケートファンのほうが、そのあたりのことを心得ているように僕には感じる。

kaz



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同化 

 

ラフマニノフとフリードマン、同じ曲を演奏したとしても随分と違った演奏に感じる。別に往年のピアニストに限らなくてもいいだろうと思う。たとえば、現代の名手、スティーヴン・ハフの演奏と聴き比べてみてもいいかもしれない。人は、その演奏の違いには敏感なのだと思う。でもより大切なのは「共通していること」ではないだろうか?ラフマニノフ、フリードマン、ハフ・・・表現として必ず共通していることがあるはずで、これが「伝統」というものではないかと・・・

伝統を踏まえるということと、ただ楽譜通りに弾くということとは本質的に異なる。楽譜から逸脱しているように聴こえても、必ず守っていること、楽譜通りに演奏しているようでも、必ず聴き手に伝わるファンタジーのようなもの・・・

もしかしたら、楽譜通りに弾いているだけのように聴こえる演奏というものは、楽譜通りに弾いていないからそう聴こえるのかもしれない。

ただ、最近は作品と演奏者との間に関わりが見いだせない演奏というものも多いように思う。おそらく、専門的な観点というものを通せば、それらの演奏も意味のあるものと感じるのかもしれないが、演奏を聴く人はすべてが音楽家ではないし、演奏家でもない。そして聴く側が「お勉強」をしなければ通じない演奏というものすべてがいい演奏なのかは個人的には疑問に思う。

「ここはフォルテと書いてあったからそのように弾いているのです」という、作品と対話していない残念な演奏、それは奏法というものとも大きく関わってくると思う。どんなに感情を込めて(感情を込めるということがどういうことなのか不明だが)、心を込めて弾いても、打鍵(タッチ)のスピードが一定、または大雑把では聴き手には演奏者の意図は伝わらないだろう。演奏なのだから、具体的な伝達方法が存在しないかぎり、どこか独り言のような演奏になってしまうと思う。

個人的な感想だが、この奏法の欠陥というか、不備からくる音色の多彩さの犠牲、欠如を、どこか曲の外部構成というものだけで埋めていこうとする人が多いので(そのように教える人も多いので?)、結果的には「丁寧に楽譜を読みこみました。でもそれだけです」のような外側から(だけ)埋めているような演奏が多くなってしまうのではないかと感じている。

いくら心を込めても・・・と書いたが、その肝心の心がそもそもあるのか?

それを言ってはお終いよ・・・みたいなところはあると思うし、心のない人なんて存在しないわけだから、言葉にするのが困難なところだけれど、現代というもの(というより、コンクール時代以後というか)は、演奏家の存在、価値というものが随分と低いようにも思う。かつては作曲者も演奏家であったわけで、分業化する以前の時代は同等であったのかもしれないが、現代では、なんとなく作曲者の精神に比べ、演奏家の精神というものが低くて当たり前というか、演奏者自身の内部から生まれてくる、正確には曲というものと演奏者の内部からのものとの合体、交流のようなものを目指すこと自体、偉大な作曲者に比べ豆粒のような私たち演奏家は断じて許されない・・・のような厳しさに満ち溢れているような気もしてくる。これは愛好家としての、素人としてのあまりにも幼い勘繰りなのだろうか?

そうかもしれない・・・

でも演奏家も人間なのだよ?一人の人間。無名のAさんというピアニストの人生が、ベートーヴェンの人生に比べ、石ころのようで当然とは全く僕には思えない。同じ人間だもの。

ピアノを演奏する人、プロとかアマチュアとか、初歩とか上級とか関係なく、すべての人に人生がある。その各々の人生の中には自分の命よりも大切な存在だってあるはずだし、守ったことだってあるかもしれない。逆に自分が他人から守られた経験を持つ人もいるだろう。自分の命よりも愛しいと思える存在だってあるし、そのように思われることだってある。偉人の人生にだけにあるものではない。その愛しい人の笑顔、見るたびに、あるいは想い出すたびに胸が熱くなること、心臓が痛くなることはないだろうか?

僕はある。その人の笑顔や、声、横顔、想い出すだけで心が動く。

このような生きている人間(演奏者)の心の動きを偉大な作曲家の作品に通したいと思う、あるいはその中に反映させようとする、同化させようとするのは、豆粒のような存在である我々には許されないことなのだろうか?

自分の生きてきた人生の中で、最も大切な人(存在)、その人(存在)を想い、曲として、演奏として同化させてはいけないのだろうか?

kaz



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category: ピアノ雑感

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愛のバレンタイン 

 

「君は決して他人を信用しないんだね、僕の気持ちを知っていて弄んだのかい?そうなのかい?」

ジョアンナは何も言えなかった。男性とは一線を超えないようにしてきた。決して男性を好きになってはいけないと自分に言い聞かせてきた。

ジョアンナは聡明な美しい女性で明るい性格だった。乳房を切除するまでは・・・

「乳癌ですね。この段階では外科的な治療が最も効果的です。あなたが決めてください。あなたの身体だし、あなたの人生ですから・・・考える時間が必要でしょう?でも時間的な猶予はありません。はやく決断することをお勧めします」医師はそう言った。

「乳癌?この私が?なんで私なの?」

考えるまでもなかった。命が大切だ。「では手術をお願いします」

「乳房を切除することになります。再建もできますが、まずは癌細胞を取ることに専念しましょう」

その後はジョアンナなりに精一杯生きてきた。前向きに生きられるような気もしてきた。「以前の私に戻れるかもしれない」

「ジョアンナ・・・まだ知り合って間もないけど結婚を前提につきあって欲しいんだ。」

この人なら信用できるかもしれない。本当の自分を受け入れてくれるかもしれない。

「あの・・・驚かないで欲しいんだけど・・・私、乳癌の手術を経験してるの。つまり乳房を切除してるの・・・」

「えっ?だって・・・」

「これは人口乳房なの。将来は乳房の再建も考えている・・・」

「えっ?偽オッパイかい?」

この時以来、ジョアンナは一人だけで生きていく決心をした。人を本気で好きになってはいけないと自分に言い聞かせた。信用して裏切られるなんて傷つくだけだ。自分を守って何がいけないの・・・

トムが自分に好意を寄せているのはジョアンナも感づいていた。でもトムはジョアンナより10歳も年下だし、彼もまた乳房のことを知れば逃げていくのだろう。

「あの・・・ジョアンナ・・・」

「トム、あなたの思っていることは分かるけど、はっきり言うわ。迷惑なの・・・」

「僕の気持ちだけは知って欲しい、伝えたいんだ・・・ジョアンナ、僕は君のことを・・・」

「やめて!聞きたくないの・・・」

バレンタインの日、ジョアンナの部屋の電話が鳴った。「トムだ。しつこくてゴメン。でも部屋にいるんでしょ?だったら窓の外を見て。とても素敵な月なんだ。とても綺麗な月なんだ。ただ君に見て欲しいと思ったんだ」

カーテンを開けると、奇麗な月だった。そして窓からトムの姿が見えた。バラの花束を抱えたトムの姿が・・・

ジョアンナは外に出てトムのところへ駆け寄った。「なんでこんなこと・・・」

「レストランを予約したんだ・・・」

「えっ、もし私が断ったら?断る可能性の方が高いでしょ?なんで?」

「ジョアンナ・・・好きなんだ。君と一緒にいたいんだ。僕と人生を歩んで欲しい・・・」

トムは歩道にひざまずくと、婚約指輪を差し出した・・・

「トム、私はあなたと結婚はできないの。いえ、誰とも結婚できないの・・・」

「どうして?僕のことが信用できない?僕のことが嫌い?」

「そうじゃない・・・そうじゃないけど・・・」

トムの瞳を見ながらジョアンナは告白するしかないと決心した。「私、乳癌の手術をしているの。つまり乳房がないの・・・」

「僕は・・・僕はあなたの乳房が好きなんじゃない。あなたが好きなんだ」

「えっ?」

「僕はあなたと人生を歩みたい。愛してしまったから。あなたの喜び、あなたの苦しみを全部分かち合いたいんだ」

ダンスなんて何年ぶりだろう?トムの胸の鼓動を感じながらジョアンナは言った。

「いいわ・・・」

「えっ?何だい?何がいいんだい?」

「結婚・・・あなたとの結婚・・・」

20年前、マンハッタンでの出来事。ジョアンナもトムも仮名だけれど、実在の人物だ。

kaz



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クラシック嫌いから学ぶ 

 

サークルのピアノ仲間は別として、僕の周囲にはクラシック好きの友人は皆無だ。クラシック嫌いばかりと言った方がいいのかもしれない。このことはピアチェーレの演奏会では集客という意味で、まことに不都合なことだ。「ピアノの演奏会?それだけは勘弁して」「クラシックでしょ?う~ん、行かなくてもいいよね?クラシックって苦手なんだ」

彼らはクラシック音楽が苦手だと言う。でも聴いてみたいとも思っているようだ。でも何を、そして誰を聴けばいいのか分からないらしい。彼らに共通しているのは、クラシックも聴かなければ・・・と演奏会に出掛け、死ぬほど退屈してきた・・・という不幸な経験をしていることだ。

「上手いのかもしれないけど・・・何も感じなかった」「ステージに出てきて何やら弾いて、そして引っ込んでいく。それだけ・・・なんだよね。こちらに聴く才能がないからなんだろうけど。クラシックって難しいから分からないんだよね」

彼らは演奏については批評しない。退屈したのは自分がクラシックに対する感性に乏しいからだと思っている。「ああいう高尚なものは分からない。自分には理解できる能力がないのだ」と。

クラシックって「お勉強」しなければ分からないものなの?

ザハリヒな方向が演奏の主流となっている現在、ややもすると凡庸な演奏家の「ただ弾いているだけ」のような演奏を聴く機会は多くなるように思う。むろん、プロの演奏ではそのようなことはないと思いたいが、アマチュアのように「ただ音を並べました」のような演奏ではないにしても、演奏者と作品との関わりあいという意味で、何の関連性のないような演奏は多いのではないかと思う。

「なぜその曲を演奏しているの?」「本当にそのように弾きたいの?」と思いたくなるようなプロの演奏・・・多いような気がする。よく勉強してあるのかもしれないし、それはそれで立派な演奏なのかもしれないが・・・

丹念に譜読みをした成果、練習の成果を聴きたいわけでもないのだ。演奏者が曲から受けた感銘のようなものを、それを表出して欲しい。生々しく聴き手に伝えて欲しい・・・などと思う。

最近はコンクール優勝者ではないピアニスト、コンクール出身者ではないピアニストの活躍が目立ってきているように思う。同時に国際コンクールの価値というものも、かつてのようなものではなくなってきたのでは?たとえば、ショパン・コンクールもポリーニやアルゲリッチを輩出してきた時代と比較すると、最近はそうでもないような?事実、僕は前々回のショパン・コンクールの優勝者・・・誰だったのか思い出せなかったりするし、チャイコフスキー・コンクールも同様。プレトニョフやガブリーロフのような人が出てきた頃とは異なってきているように思う。

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HJ リムというピアニストはコンクール組のピアニストではない。大変に若い韓国のピアニストだが、僕の周囲のクラシック嫌いに彼女の演奏を聴かせると、「いいね・・・このような演奏だったら聴いてみたい」とか「えっ、クラシックだよね?こんな演奏もあり?これだったらクラシックもいいよね」のような反応を示す。このことは専門家筋(?)からは厳しい評価も得るということになるのかもしれないし、実際に彼女の演奏に対しては賛否両論といったところなのかもしれないが、でもクラシック嫌いをも注目させてしまう「何か」が彼女の演奏にはあるのだろう。

僕は当然、彼女の演奏は好きだ。曲によっては「やり過ぎ感」も感じるし、「何もそこまで速く弾かなくても・・・」などとも感じるが、少なくとも退屈はしないし、彼女の音楽というものが感じられる。

僕は苦しそうに演奏するピアニスト、残念ながら日本人ピアニストに多いけれど、実に苦手だ。入魂しています・・・身体を揺らしながら、恍惚の表情、苦痛の表情、そして天井を見上げる・・・でも出てくる音楽は基音が中心で彩りが不足していてどこか平坦だ。感動しろと言っても無理なのでは?

HJ リムは弾いている時も、オケを聴いている時も実に楽しそうだ。ようするに「乗っている」のだ。まるでロックを演奏しているかのように乗っている。「えっ、これってクラシック?」

これも・・・いや、これがクラシック音楽なのかもよ?

kaz



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category: ピアノ雑感

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音楽は演奏者のためのもの? 

 

約100年前の演奏。パデレフスキのショパン。楽譜を校訂した人の演奏とは思えない(?)ほどロマンティックな演奏、演奏者を感じさせる演奏と感じる。聴き手としては無条件に「いいな・・・素敵だな」と思う。このような人の演奏なら他の曲も聴いてみたいと思うし、クラシック音楽も「生きているんだな・・・」などと思う。

演奏のスタイルというものは、実は専門家ではなく、一般大衆、一般聴衆が創りあげていったものなのではないかと思う時がある。

現在は、パデレフスキのような演奏ではなく、ザハリヒな演奏が主流のように思う。演奏者の熱い何かを表出するというよりは、曲そのものと向きあい、楽譜から作曲者の意図を読み取り、どこか演奏者は作品の僕(しもべ)となる。

正しい解釈、原典を探る・・・

演奏者を感じさせる、作品を感じさせる・・・どちらが正しいということではないのだと思うが、現在では「作品を感じさせる」という演奏が何の疑問もなく受け入れられすぎているようにも思う。この流れに拒否反応を示しているのが、一般の聴衆なのではないかと思う。「クラシックって堅苦しい」「クラシックって高尚で自分のようなものには分からない」「つまらない」・・・そしてクラシック音楽から離れていってしまう。

立派な演奏ということは、なんとなく理解できる。でも・・・立派さだけを聴きたいわけでもないんだな・・・

なんとなくパデレフスキの演奏スタイルが懐かしく思えてきたりもする。そして思う。「このような演奏だったらもっと聴きたいのに」と。

100年前、ピアニストたちは、もっと自分というものを表出していたように思う。演奏も多分にロマンティックな演奏だったように思う。では何故現代ではこのような方向ではなくザハリヒなものに変わっていったのか?

それは一般の聴衆の欲求からなのではないかと想像したりする。むろん、100年前だろうと、現在だろうと真に偉大な才能というものは少数であるのに対して、凡庸な才能のピアニストは多数存在していた。凡庸な才能は、時の主流というものに無批判に従ってしまう傾向がある。巷では~のようにするのが普通だからということに、あまりにも無批判に従う。100年前、すべてのピアニストがパデレフスキではなかった。そのほとんどが凡庸なピアニストであったのだ。無批判にロマンティックな演奏を追い求め、これでもかと自分の解釈を押し付ける、聴き手の受けを狙ったような演奏だって多かったのかもしれない。

100年前を聴衆はこのように感じたのではないだろうか?

「こんな音楽ではなく、もっと作品の本質を感じられるような演奏が聴きたい!」と。

現代でもそうだが、実は聴衆というものは偉大な演奏よりも凡庸な演奏を聴く機会のほうが多いのだ。そして凡庸な演奏というものは、時の主流に無批判だから、聴衆は異なる方向の音楽を追い求めていきたくなる。そしてそれが叶えられないと離れていってしまう。

100年前の聴衆は「もっと作品の本質を聴きたい」と願い、現代の聴衆は「もっと作品をただ再現しているだけではない何かを演奏者から聴きたい」と願う。

一般大衆の凡庸な演奏への拒否反応・・・それが演奏スタイルをも変化させる大きな原動力となることだってあるのでは?

kaz



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category: ピアノ雑感

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手段は目的ではない・・・ 

 

某ピアノ・コンペティションで全国大会金賞、某ピアノ・コンクールで第1位・・・

そのような若手の演奏、音大卒、アマチュア含め、実に達者な演奏だ。難曲と言われている曲を見事に操るし、ミスが少ないのも驚異的だ。さて、そのような演奏に感動するかと言えば、必ずしもそうではないのが面白いところだ。そのようなタイプの演奏に多いのが、「手段を極めた」という演奏。粒が揃っているとか、曲の構成が聴いている人に見取り図のように掴みやすいとか、それらは大切なことなのだと思うけれど、聴き手として「音楽が聴きたいな」と純粋に欲する時には、それだけの演奏、つまり「手段だけを極めた演奏」というものは、どこか物足りなくなる。聴き手としては、演奏者の目的を垣間見たくなるのだ。つまり手段ではなく「目的の感じられる演奏」を聴きたくなるのだ。「ああ、この人はこのような理由で、このような目的で演奏しているのね」のような部分を感じたくなるのだ。演奏者内部の熱い部分というか、愛というか・・・

考えてみれば、ピアノを弾いていく、上達していくというのは、どこか手段を取得していくことの繰り返しになるのではないかと思う。最初は「ピアノって楽しいな!」という夢のような時間を持つことができるけれど、両手で演奏していく・・・という割と導入の早い段階で、「手段」を身につける困難さを味わうこととなる。

「ピアノ・・・難しい・・・練習・・・面倒・・・ピアノなんて・・・」

現在も多くの人が、この段階でピアノから離れてしまう傾向にあるけれど、指導者は叱咤激励したり、時には糖衣錠のように甘さで包みながら、なんとかピアノを弾くということを続けさせたいと願う。世の中のセミナーも、ここの部分に危機感を持つ人が多いから繁栄しているのだと思う。

読譜ができるように、リズム感溢れる演奏、美しい音、効果的な弾き方、練習方法、コードを会得し、和声感覚をつかむ・・・これらのことは手段なのではないだろうか?目的ではない。でも多くの場合、手段が目的化しているように思う。

専門的に学ぶ人、音大に進学するような人は、人によっては100曲以上のチェルニーを弾き、指の鍛え、高度な演奏を目指していく。でもそれらのことも「手段」なのではないだろうか?「よりよい演奏を目指す」ということは目的ではなく手段のような気がする。実に多くの人が手段を目的と勘違いしているような気がする。

コンクールの本選などを聴けば、実に達者な、極めつくした「手段」満載の演奏を聴くことができる。

でも、本当に聴き手は、そのような演奏を心から求めているのだろうか?

僕は手段を極めた演奏を聴くと、このように思う。

「そんなに練習しなくていいですから、そんなに粒を揃えて緻密に弾かなくてもいいですから、そんなに上手に弾かなくてもいいですから・・・もっと何かを聴かせてください。あなたの内部にあるものを示してくださいい。なんでもいいですから・・・」と。

なんとなく、クラシックの世界って、このあたりのことが実に甘いような気がする。そのような演奏、つまり手段を極めた達者なだけの演奏が認められてしまうのだから。他のジャンルの音楽の世界ではそうはいかないような気がする。

演奏の目的って、手段のように「やるべきこと」として目の前に提示されるわけではないから、目指すのが難しいのだと思う。そしてピアノって、どこか手段だけを追っても弾けてしまう怖さがある・・・

ピアノを弾く目的って、なんだか見つけるのが難しいようにも思うけれど、実は意外とシンプルなものなのかもしれない。親が子どもにピアノを習わせたいと思う理由を考えてみる。中には「世界的なピアニストに!」とか「ショパンコンクールで優勝、もしくは入賞!」と燃えてしまう親もいるのかもしれないが、少数派であろう。多くの親は、こう思うのではないだろうか?

「ピアノというものが、この子の人生においての楽しみ、時には哀しい時の友となるように・・・」と。人生において、苦しみを感じるとき、試練の時、ピアノで音楽を求めていくことで、光さえ感じることのできるような、そんなピアノ人生、ピアノ生活・・・

目的を感じられるようになるまでには、多くの手段を身につける必要があるだろうが、手段は目的ではない。

前の記事で紹介した、山口県在住の高橋正美さんの演奏・・・

この動画は、古い古いブリュートナーで、名曲の一部だけをつなげて演奏したもの。彼の内部が感じられる。そして、その音や響きの連なりが光となって僕を目的に導いてくれる・・・

そのようなことを伝えることのできる人が「ピアニスト」なのではないだろうか?

kaz



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category: 好きな曲・好きな演奏

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あるピアニストへのファンレター 

 

今まで知らなかった演奏に出逢えた時、しかも、その演奏が自分の魂をも動かすような演奏だった時、それは至上の喜びとなる。しかしながら、残念なことに、そのような演奏と出逢える機会はほとんどないというのが個人的な感想だ。

外来ピアニストも含め、沢山のピアニストが毎日のように演奏会でピアノを演奏する。見事に曲を操る演奏は実に多い。でも僕は、そのピアニストの親類でもないし、先生でも親でもないので、いかに、どのように弾けるか・・・などということには興味はない。求めるものは、曲の奥深くにある「何か」を演奏者が導きだし、聴いている僕の中の「何か」と溶け合い、共に魂が動くこと・・・ただそれだけなのだ。曲に夢中になり、時間を共有したいのだ。ただそれだけ・・・

上手い・・・とか、それだけではもうピアノ演奏は限界なのではないだろうか?

クラシックの演奏会、クラシックの曲は堅苦しい、難しい、楽しめない・・・クラシック離れは今後もなくならないだろう。

人々は本当にクラシック音楽が嫌いなのだろうか?実は演奏がつまらないからそう感じるのではないだろうか?

僕は世の中に、クラシック嫌いなんていないと思っている。曲に内在する魂の動きを聴き手に伝えられるような演奏であれば、人はその演奏を聴くだろう。同じ時間をその音楽と共有している喜びを感じるだろう。

熱望している聴き手は多い。でも供給が・・・

実に上手いのだが・・・

ここでショパンを演奏しているのは、高橋正美さんというピアニストだ。山口県出身で故郷で地道な活動を続けておられる。僕はこの人のショパンを聴いた時、このように思った。

「何故このような演奏をする人が全国的に有名ではないのだろう?」

僕は今まで彼のことは全く知らなかったし、偶然に彼の演奏に接しなければ、これからも知ることはなかっただろう。皆が話題のピアニストと言っているわけでもないし、音楽雑誌に頻繁に登場するわけでもないし、偶然知ることがなければ知らないままだっただろうと思う。

彼のショパンは、音を達者に並べていだけではなく、奥底を導きだし、それを聴いている僕に伝えてくれる。

彼の「憧れ」を感じる。その憧れを共有するという、音楽を聴く喜びを与えてくれる。それは僕自身の生きる喜びにつながる。

何故このような人の演奏が、一部だけの範囲に留まってしまうのだろう?

でも、このような演奏をする人が日本にいる、今日もピアノにむかっている・・・そのように思うだけで僕の胸は熱くなってくるのも事実だ。

kaz



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category: ピアニスト

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プレッツェル 

 

第二次世界大戦前のポーランドの人口は約3000万人、終戦後の人口は2400万人。戦争中に600万人が消えたのだ。思うに、ポーランドという国は、昔から周囲の大国の都合で分割させられたり、時には国そのものが消滅してしまったりと、揺れ続けた歴史を持つ。遠くから翻弄される祖国を想う・・・この心情は僕には到底理解できるものではないが、ショパンという人物、そして作品と対面する上で、このあたりのことは大変重要なものであるように思えたりもする。

ポーランドという国は、ごく普通に観光客として訪れただけでも、重い歴史と対面する機会の多い国だ。むろん、かつてのような物資不足で商店に人々が行列している・・・などという光景は現在では見られないけれど。

遠くから祖国を想う・・・留学時代、ニューヨークに住んでいた時期は、ポーランド人であるHと部屋をシェアしていたので、やはり個人的にはポーランドというと彼のことを想い出してしまう。あまり祖国のことを話さなかった人だ。というより、あえて話題にすることはなかったというか・・・

「ねぇ、Hはなんでポーランドから逃げてきたの?」「ポーランドってどんな国?」「ポーランドで何があったの?」

こんなことは絶対に彼には訊けなかった。そのような雰囲気が彼にはあった。

マンハッタンにはいたるところにプレッツェルの屋台がある。僕も買ってみたことがある。おいしいといえばおいしい・・・が、塩気が強く、1人で全部を食べきるのは難しい。持て余してしまうのだ。野球のグローブぐらいの大きさだったりするしね。三分の一ほど食べて、どうしようかと思った。

「捨ててしまえ・・・捨ててしまえ・・・」

そのような声が囁いたけれど、僕はその巨大なプレッツェルを鞄の中に入れた。

時間の経過したプレッツェルほど味の落ちるものはないのではないか・・・鞄の中のプレッツェルは、もうおいしいと感じるものではなくなっていた。自分の部屋に帰り、しばらくプレッツェルの前で思案したが、僕はキッチンのゴミ箱にプレッツェルを捨てた。

翌日、冷蔵庫の中にメモ付きの料理が入れてあった。メモには、このように書かれてあった。

「僕のママの味だ・・・食べて・・・H」

僕が捨てたプレッツェルを再生した料理だった。むろん、プレッツェルはポーランドでは一般的な食べ物ではないだろうから、Hが創作した料理なのかもしれないし、プレッツェルと似たようなパンがポーランドにあったのかもしれないが、茄子と挽肉、そしてチーズを利用した、とても美味しい料理に生まれ変わっていた。茄子なんて冷蔵庫にはなかったから、Hはわざわざ捨てられたプレッツェル再生のために買ってきたのだと思う。

「ポーランドって、どんな国なの?」

彼に訊ねたことはなかったし、できなかった。でもこのような、プレッツェルの再生のような出来事が僕とHの間では数多くあった。僕は少しだけポーランドを感じることができた・・・のだと思う。

kaz



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category: 未分類

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方向 

 

弾けるようになってから、何かができるようになるのではない。

何かをしたいから弾けるようになっていくのだ。

kaz

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生存率とメフィストワルツ 

 

癌の進行度はステージというものによって表されたりする。そして、各部位の癌は各ステージにより生存率というものが基本的には決まっている。たとえば、5年生存率はステージが4で部位がここで、進行状態はこうだから、何パーセントです・・・のように。

むろん、生存率が90パーセント・・・とかなら希望も持てるというものだ。だがそうは上手くはいかないものなのだ。

かつてリストの「メフィストワルツ」を弾きたいと思った。その時には弾くことを諦めた。曲の難度がどうこうというよりも、まず体力が続かないというのが理由だった。どのように弾いても一曲を通すことができない。弾いている途中で酸素不足になり、目の前が真っ暗になり意識が遠のく・・・という感じに近くなる。この曲を弾くのを諦めた時、生まれて初めてピアノのことで泣いたような気がする。哀しかったねぇ・・・悔しかったねぇ・・・

メフィストワルツという曲をその時に封印してしまった。僕にとっては無関係な曲と・・・

封印してしまえば、その後は考えなければいいのだ。

癌とは長い付き合いになる。大人になって再開したピアノも同じく長い付き合いになる。癌が発見されて、それでピアノを再開しようと決心したのだから、当然癌とピアノは同じ期間、僕の人生と共に共存しているわけだ。今までは、「命がいつ尽き果てても後悔しないように」という観点で生活してきたように思う。ピアノの場合も、この考えで弾いてきた。特に選曲にあたっては、「弾いておきたい」という気持ちを最優先してきた。つまり、曲を選曲する時には、「この曲を人前で弾くのは最後になるだろう」という気持ちが常にあった。

最近は、少しだけ考えが変わってきたように思う。つまり、「長くは生きられないのだ」という思いだけではなく、「もしかしたら結構しぶとく自分は生きていくのかもしれない」などという気持ちも出てきたのだ。

長くは生きられないのだ・・・と思っていれば、基本的には封印した曲については考えなくても済むのだ。弾きたい曲は沢山あるのだから。

でも長生きした場合、封印してしまった曲から逃げていたという事実は後悔につながるかもしれないなどと思い始めた。

後悔したくない・・・という思いは基本的には変わらずだが、「もし命が短いのだったら・・・」と「もし命がそこそこ長いのであったら・・・」という二つの可能性を感じられるようになってきたということになるのだとも思う。

今年の後半はショパンに集中し、前半は、かつて封印した曲に向き合ってみようかと思った。もし、5年後にも僕が生きているとしたら、メフィストワルツを封印して弾かなかったという事実が5年後の僕を苦しめると思う。

6月のサークルの演奏会で弾こうと思う。覚悟しておくべきことは、本番で、弾いている途中で弾けなくなってしまう可能性を常に持ちつつ練習するということ、その事実を冷静に受け止めること。どうしても途中で弾けなくなったら聴いている人に説明しようと思う。「一度引っ込みます。少し休んでまた途中からまた弾きます」と。できれば本番では避けたい。絶対に避けたい。でも覚悟は必要だ。気力だけでは弾けないのだから・・・

メフィストワルツは有名曲なので、多くの名演が存在していると思うが、個人的にはギャリック・オールソンの演奏にとても惹かれる。プラハでの演奏会のライブ録音だ。この人に関しては、どうしてもショパン・・・ということになってしまうと思うが、メフィストワルツも素晴らしいと思う。

5年後の生存率、僕の場合は5パーセント未満・・・なわけだけれど、100人に5人は5年以上生きているわけだ。生きた場合のことも考えておかなくてはいけないのだ。

kaz



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category: サークル

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ポーランドと日本・・・絆 

 

今年のピアチェーレの演奏会で、僕はショパンを弾く。僕の演奏を実際に知る人の反応として、「あら、楽しみ」という人と、「あら、以外・・・」という人とに反応が分かれるようだ。僕自身も「ショパン・・・以外・・・」などと思っていたりする。まぁ、今まで弾いたことがないわけではないのだが・・・

選曲をした段階では、月光に照らされながらノクターンを奏でる青白きショパン・・・という感じではなく、祖国愛、正義感、誇りに満ちた熱きショパンというイメージを持っているが、11月までに自分がどのようにショパンを捉えていくのか、その変化も楽しみではある。

僕としては、ショパンとポーランドとは離して考えることが不可能に思える。ポーランドは今年の初めに訪れたので、その時の印象も僕の中で強くあると思うのだが、その時の滞在よりも、留学時代の友人(ルームメイト)がポーランド人だったということの方が僕の中では大きな位置を占めているように思う。

友人はHという名前なのだが、Hが「ポーランドはかつてシベリア孤児の件で日本に助けられた・・・」と僕に言ったことがある。彼は、当然僕が日本人なのでシベリア孤児のことを知っているという前提で話していて、僕は実はシベリア孤児のことなんて知らなかったのだが、あまりにも彼が「知っていて当然」という感じで僕に話しているので、なんだか「シベリア孤児って?日本とどのような関係があるの?」なんて質問できなかった記憶がある。まぁ、その時は知っているふりをして彼の話を聞いていたわけだが・・・

今年のポーランド訪問にあたり、コルチャック先生やコルベ神父のことなども調べたわけだが、コルベ神父が日本に宣教に来た理由のひとつとして、「かつてポーランドの孤児が日本の人々、日本の赤十字に助けられた。そのような慈悲に溢れる日本の人々にマリア様のことを、お伝えしなければ・・・」というものがあった。

日本の人々がポーランドの孤児を助けた・・・

大正時代のことだ。

ポーランドの知識人であれば、この「シベリアのポーランド孤児と日本」のことは誰でも知っているほど有名な話らしい。でも日本ではあまり知られていないのではないだろうか?僕は知らなかった。僕が無知なのかもしれないが・・・

日本とポーランドで、大正時代に、このような大きな出来事があったのだ。

学校で教えればいいのに・・・などと思ってしまった。

実はピアチェーレのHPに今年の演奏会の情報がアップっされたので、このブログにリンクしてあるHPを見てください・・・という宣伝のために書きはじめた文章なのだが、全く異なる内容になってしまった感がある。まっ、いいか・・・

kaz



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category: ピアチェーレ

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「戦場のピアニスト」その後 

 

シュピルマンの時計シュピルマンの時計
(2003/08)
クリストファー・W.A. スピルマン

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「わたしはピアニストでした・・・」

「ではピアノを弾いてください・・・」

廃墟の中で、瓦礫の中でピアノを弾くシュピルマン、ユダヤ人である彼の奏でるショパンを聴くドイツ人将校ホーゼンフェルト。映画「戦場のピアニスト」のクライマックス、最も印象に残るシーンだ。ホーゼンフェルト大尉に匿われシュピルマンは生き残るわけだが、当時はユダヤ人を助けたということが発覚しただけで、助けた者、そしてその家族まで銃殺されてしまった可能性は高かったという。それでもホーゼンフェルト大尉はシュピルマンを匿ったのだ。ホーゼンフェルト大尉は人道主義者であり、数百人ものユダヤ人を匿い、助けたのだという。そのようなドイツ人も存在したのだ。

映画の中で、ホーゼンフェルト大尉がソ連軍に捕まっているシーンがある。多くのドイツ兵が、解放後は戦争犯罪人として裁かれることになる。

「わたしは、かつてシュピルマンという人を助けました。お願いします。私を助けてください・・・」

「戦場のピアニスト」では、戦後のシュピルマンは描かれていないので、その後捕まったホーゼンフェルト大尉がどうなったのかは映画ではわからなかった。かつて自分の命を、それこそ命を懸けて救ってくれた相手にシュピルマンは何もしなかったのだろうか?ここの部分が映画では描かれていないのだ。

この本は映画の主人公、シュピルマンの息子であるクリストファー・シュピルマンが父との想い出を書いたもの。この本の中でホーゼンフェルト大尉のその後について書かれている。クリストファー・シュピルマンは日本近代政治思想史が専門で、なんと現在日本の福岡に在住しているのだそうだ。

シュピルマンは命の恩人のために何もしなかったわけではなかった。自分の命を助けてくれたドイツ将校の名前をシュピルマンは知らなかった。これは、あえて名前を訊かなかったからだ。自分がもし捕まり拷問を受けた際に、彼の名前を知っていたらあまりの苦しさに、ホーゼンフェルトという名前を言ってしまう恐れもある。なので、あえて名前は訊かなかったのだ。

戦後の1951年、ドイツからポーランドの放送局に一通の手紙が届く。

「私の夫は、今ソ連の収容所にいます。夫はかつてシュピルマンという人を助けたと申しております。そのシュピルマンとはピアニストのシュピルマンでしょうか?もしそうであれば、収容所にいる夫の助けになってほしいのです」

手紙の差出人はホーゼンフェルトとあり、その時初めてシュピルマンは命の恩人の名前を知るのだった。

シュピルマンはポーランド共産党の幹部を通してソ連側に問い合わせるが、ソ連側からの返事は「収容所には戦争犯罪人しかいない」というもので、そこから先には進めなかった。当時のソ連はスターリン時代で、それも仕方なかったように思う。どうしようもなかったのだ。しかし、ホーゼンフェルトという名前はシュピルマンの胸に刻まれただろうと思う。

1957年、まだまだ東西には鉄のカーテンが存在していたが、シュピルマンは西ドイツに演奏旅行に行けることになった。その時、シュピルマンが真っ先に訊ねたのがホーゼンフェルトの家だったという。

「ホーゼンフェルト・・・自分の命を救ってくれた人、もう一度会ってお礼を言いたい・・・」

シュピルマンはホーゼンフェルトの居場所を調査していたのだ。彼の家は西ドイツのフルダという街にあった。

「ホーゼンフェルトさんは・・・彼はソ連の収容所で亡くなりました」

ホーゼンフェルト大尉は、ソ連の収容所で心身を病んで1952年に亡くなってしまったという。

ヴィルム・ホーゼンフェルト・・・戦前は教師だった。温厚な性格で、子どもたちからも慕われていたという。

シュピルマンは息子のクリストファーにこのように言い聞かせていた。

「人間を民族で判断してはいけない。個人で判断しなさい」

何よりも「民族」という言葉をシュピルマンは嫌っていたのだそうだ。

kaz



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category: ピアノ以外の本

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40年のブランク 

 

VARIOUS:Leon Fleisher: Two HandsVARIOUS:Leon Fleisher: Two Hands
(2004/06/08)
Leon Fleisher

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かつてアメリカは自国のピアノの星を相次いで失ったことがある。ウィリー・カぺルを飛行機事故で、そしてジュリアス・カッチェンを癌で失った。もし彼らがそのままピアノを弾いていたら、おそらく現在のピアノ界の構図もかなり違っていたのではないか、それほどの才能をアメリカは失った。レオン・フライシャーも、ある意味ではアメリカが失った大きな星だったのかもしれない。フライシャーがセル、クリ―ヴランド管弦楽団と組んで録音した一連のコンチェルトは僕の愛聴盤でもある。

フライシャーはジストニアを患い、右手での演奏が不可能になった。彼が37歳の時である。今まで弾いていた両手の曲は、すべて弾けなくなってしまった。以後、彼は指揮者、教育者、そして左手のピアニストとして自己を表現していくこととなった。この期間、40年以上。両手でピアノを弾くという意味では、40年以上のブランクがあるということになる。

最新の治療がフライシャーに効果があったのか、40年ぶりに両手のピアニストとしてCDを出し、演奏活動も行うようになっていった。これは奇跡的なことのように思われる。

動画でも確認できるけれど、演奏中の右手、特に小指の形にかなり特色がある。かつては指が曲がったまま伸びなかったんだろうなぁ・・・などと思う。静かにバッハを奏でる「Two Hands」のフライシャーを聴き、そして観ると、「何故ピアノを弾くのか?」という意味さえ考えさせられてしまうほどだ。

この動画は、もう一つの重要なことを教えてくれる。それは「狙う奏法」の重要性だ。

もしかしたら、日本では鍵盤の底までしっかりと弾きこむ(打ち込む?)奏法が主流で、音大などの現場などでもそのように伝授されているのでは・・・などと勘繰ってしまう。そもそもペダルを含めて、タッチは反応する敏感な位置を狙うのだという感覚そのものが認識されていないのでは?

基本的にはピアノを弾く際には、タッチの前に鍵盤上での準備が成されなければならない。まず弾く前に「置いて押す、触る」という感覚。これが非常に重要であると思われる。敏感なピアノほどコントロールできる位置が浅く、幅も狭いということになるのだと思う。このようなピアノは「軽い」と感じることが多いと思うけれど、重要なのは「軽い鍵盤」とか「思い鍵盤」とか、そのようなことではない。

基本的に音色の豊かな優れたピアニストは、コントロールできる位置の始まりが浅く、絶妙な範囲(狭いと感じるほど)で表現できるピアノを好むのだと思う。往年の巨匠たちは、このような、いわゆる軽いというか反応の敏感なピアノで演奏していたと想像する。

僕のようなものが、このような楽器を弾いたとしたら、かなり困惑してしまうはずだ。まずはすぐに音が鳴ってしまうし、コントロールしたいな・・・と思うよりも前に楽器が反応してしまうので、「こ・・・こんなはずでは・・・」「も・・・もう一回弾かせて・・・」「このピアノ・・・弾きにく~い」などと思うはずだ。

一般的にアマチュアが演奏会などで弾いて「このピアノ・・・弾きやすい」と感じるピアノは、コントロールできる範囲が比較的に広めなのだ。なので、突然音がワッと鳴ってしまうこともなく弾きやすく感じる。誰が弾いても弾きやすく感じるピアノ・・・考えようによっては、本当に敏感な位置を狙って演奏する真のピアニストにとっては、このようなピアノは、かなり物足りなく感じるのではないだろうか?おそらく彼らは最も浅い(早い)位置で反応してくれるピアノを求めるのでは?反応してしまえば、すぐに次の音の準備に移れるから・・・

ピアニストの動画を観ると、よく「触っているだけ」という奏法に出くわすことが多い。邦人ピアニストの動画だとまずないことなのだが・・・

「ピアニストさんだから・・・」

「修業中の人は指を鍛えてコーンと底までしっかり弾くの」

そうかなぁ?

「素敵だな・・・」と感じたら、その素敵さの秘密を探すほうが重要なのだと思うが・・・

「~は~らしく」・・・子どもは子どもらしく、学生は学生らしく、修業中の人は修業中の人らしく・・・決して決してピアニストの秘密を探ってはいけない・・・

そうかなぁ?

このフライシャーの弾き方、特に左手がアップになると非常に分かりやすいけれど、狙う奏法なので、ほぼ「触っているだけ」のように見える。

仮に、僕がフライシャーの弾いている楽器で演奏したら、どんなに頑張って入魂して弾いたとしても、全部がメゾフォルテとフォルテになってしまうような気がする。

kaz



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category: ピアノ雑感

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選曲基準 その2 

 

昔から、小学生の頃から自分で編集するのが大好きだった。その頃はレコードからカセットテープに録音するという作業だが、自分の好みの曲の配列にして編集するということは今でも大好きだ。カセットテープがCDからMDへの録音、そしてパソコンでのマイCD作りへと変化してはいるが、曲の雰囲気やら調性やらを考えて自分好みの曲配列にするという作業そのものが好きなのだと思う。

「この曲の次はCDだとこうだけれど、この曲にすれば前の曲とのつながりで、より効果的な配列になるだろう・・・」などと考えながら自分のCDを作成する趣味は、どこか自分が演奏する際の選曲にも反映されているような気がする。

CDの編集作業においても、たとえば「幻想即興曲」の次にリストの「ラ・カンパネラ」はつなげないと思う。有名曲が続くという感じがする。このような感覚が自分が演奏する際の選曲にも関係しているのだろう。

サークルの練習会などでは、基本的には10分程度の演奏時間になることが多い。けっこう、この10分枠という機会は多いのではなかろうかと思われる。ショパンの幻想即興曲を演奏するとして、残りの時間に何を演奏するか・・・

僕の場合、編集好きという趣味が、そのまま選曲に反映される。

編集好き人間としては、あまりに有名な曲との重複は避けたいと思う。幻想即興曲そのものが超有名曲なので、キャッチ―だけれど知られていない曲との組み合わせを考えるだろうと思う。このような時にショパン繋がりでノクターンの遺作・・・という方向性にはならない。編集人間としてはそうなる。

調性や曲の雰囲気などを考えて、僕だったらこの曲を幻想即興曲の前に弾くかな・・・と思う。

ヨゼフ・ホフマンのノクターン。



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category: サークル

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選曲基準 

 

サークルの練習会で弾く曲を考える時に、今までは超有名曲を避ける傾向にあった。意識的に避けるというよりは、弾きたい曲の候補に挙がることがなかったという感じに近い。僕は割と珍曲を選ぶ傾向にある(らしい)けれど、それは往年のピアニストを好むからだと思う。普通、ヨゼフ・ホフマンの曲とかギンズブルグのトランスクリプションとか現代の人であればスティーヴン・ハフの曲とか・・・あまり弾こうとは思わないらしい。でも「どこかに珍しい、人の弾かない曲はないかしら?」と探して弾いているわけではない。そのような意識はない。

練習会でショパンを弾きたいと仮定して、たとえば次のような選曲は今までしなかった。

「小犬のワルツ」
「ノクターン 第2番 Op.9-2」
「幻想即興曲」

このようなプログラムは有名すぎるので、「うっ、なんだか恥ずかしい」という思いが自分にあるのだと今までは思っていた。たとえば、ノクターンを9-3にして即興曲も2番、3番あたりにすれば、ぐっとショパンらしさが出ると思っていたところはある。

有名曲を避ける傾向として「~と思われる」と考える自分がいたのは否定できないところだと思う。「あまり曲を知らないのねぇ・・・」と思われたくないという自分はいたと思う。でも自分の心に正直に弾きたい曲を選ぶと、どうしても超有名曲にはならなくなる・・・という側面は今もあるし、これからも自分はそうなのかもしれないとは思う。

でも有名曲だから・・・という理由だけで選曲の対象から、はずしてしまうのも勿体ないことなのだと感じた。

コンクールなどでは、あまり演奏されない曲が歓迎(?)されるというか、どこか有利であるという話は聞く。僕はコンクール経験がないのでなんとも言えないけれど、なんとなく分かるような気もする。たとえば、カプースチンの作品などは、昔だったら弾くだけで注目・・・という感じだったらしいけれど、今ではカプースチンの有名曲は誰でも(ではないが)弾くので、カプースチンであれば、現在でもあまり演奏されない曲が演奏されるようになってきたと・・・

このような場合、純粋に「弾きたい!」という気持ちとのズレが生じるのでは?コンクールとはそのようなもの・・・なのかもしれないが、人によっては、この曲だと前半にメカニカルな聴かせどころが多いので選曲するということも当然起こってくると思う。そしてそれがその人にとって当たり前の選曲基準になってしまうということは、「ピアノを弾く」という意味では少し寂しいような気もしてくる。

自分の弾きたい曲を弾いていく・・・

当たり前のようでいて、結構難しいことなのかもしれない。

この曲も、このように演奏されると「いい曲なんだなぁ・・・」と心から思える。

kaz



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category: サークル

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節約ブーム 

 

仮定の話として、世の中節約ブームになったとする。

テレビの情報、雑誌の情報、すべてが「節約は美」とブームを煽っていく。やがて、カリスマ節約主婦というものが存在していくようになる。ネットでその主婦のことが紹介され、そしてメディアも取り上げていくようになる。

なんとなく、カリスマ節約主婦が時代のリーダーのような感覚になっていく。

「こうするだけで月に800円節約することができます!!!」
「こうすれば250円の節約に!」

節約しなくちゃ!節約しなくちゃ!あのカリスマ専業主婦A子さんのように・・・

「節約しながらも、こんなに素敵な主婦B子さん・・・」

まっ、素敵・・・私も見習いたい・・・節約しなくちゃ!節約しなくちゃ!

世の中、加熱気味と言えるほどの節約ムード。

節約することはいいことだ。工夫点を皆で共有していくのはいいことだ。「こうすればいいのよ」「こうすれば300円も浮くのよ!こうすれば・・・こうすれば」

ここで怖いのは、皆が一定方向、つまり「節約しなければ」という方向に向いてしまうということだ。

さらに怖いのは、異なる考えを持つ人を異端としてしまう空気が出来上がってしまうことだ。

「節約もいいけど・・・大切だけど・・・それよりも働けば?」

このような考えも当然あるのだ。カリスマ節約主婦がAだったら、「働けば?」というBもいる。どちらもあり。考えは色々あっていい。どちらが正しいとか・・そのようなことではない。

でもBが異端という空気はいけない。皆がAに走るのもいけない。AもBもあるのがいい。

kaz

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曲を弾くピアノではなく曲で弾くピアノ 

 

僕の場合、ピアノとは、楽譜があり、それを一つ一つ音にしていって曲として再現していく行為というのと少し異なるのかもしれない。むろん、譜読みをして曲にしていくのだけれど、どうも「再現」という感覚に乏しいところがある。

これは幼少の頃もそうだった。なんとなく内側から溢れる何かを鍵盤に乗せるという、乗せたいという願望があったような気がする。なので即興演奏、というか遊び弾きが好きだったのだ。楽譜の仕組みを習い、音にしていくという当時のピアノのレッスンとは、どこか相容れない部分はあったと思う。方向が全く逆だったというか・・・

しかしながら、僕には「作曲をしたい」という願望はない。自分の中の何かを自分で音にして作りたいというよりは、すでに世の中に存在しているピアノの曲に自分の中の何かを反映させたいという気持ちの方が強い。

最近、思ったりすることなのだが、たとえばショパンのバラードを弾く・・・弾きたいと思う時に、多くのピアノ弾きは「聴いて憧れる」=「音を読んでいく」=「再現していく」という道筋を通るみたいだ。「この曲、憧れの曲だわぁ・・・」とその曲をただ再現していくというか・・・

僕の場合、曲の再現・・・というよりは、その曲を聴いた時に自分の中に溢れた「何か」をその曲で再現したいという願望なのだと思う。なので、ショパンのバラードを弾きたいな・・・というよりはバラードを聴いた時に自分の中で動いた「何か」、そしてバラードに存在している「何か」を音にしたい・・・などと思う。

子どもの頃に習っていた先生は、あまり教材研究に熱心ではなかっというか、どの生徒にも同じ教材を使用していたし、音を並べて弾ければマル・・・というレッスンだったように思う。もし、現在のように教材も百花繚乱状態で、子どもの心をくすぐるようなキャッチ―なもので、様々な最新機材を使用した斬新レッスンであったとしても、自分の中の「何か」を外に・・・という方向性の含まれたレッスンでなければ、僕はやはり困ったチャンで終わっていたように思う。曲を作りたいわけではなかった。メロディーが思いつかなくても良かった。既存の曲でも「外からの情報を忠実再現」というピアノではなく、「自分の中の何かとピアノの曲との一致」というレッスンが欲しかった。

ヤッシャ・ハイフェッツはジム・ホイルという名前でポピュラー音楽を作曲していた。さらにハイフェッツ名義での多くのヴァイオリンの編曲作品を残した。彼も「自分の何かを外に」という方向性を持っていたのでは?

あの頃の演奏家は皆そうだったような気がする。演奏家が自分で作曲や編曲をするということも現在とは比較にならないほど多かったし、しなかった演奏家も「忠実再現」というか、「外情報」を完璧に再現した演奏というよりは、中から外、中にある「何か」を感じる演奏が多かったようにも思う。

「その曲を弾く」ではなく「その曲で弾く」・・・

kaz



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category: ピアノ雑感

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自由に生きたい・・・ 

 

今年の後半に何故かショパンを弾くので、ショパンのCDなどを珍しく聴いたりしている。ユーリ・エゴロフのバラード。たしかに以前に聴いたはずだけれど、あまり印象に残ってはいなかった。今回、改めて聴いた時に、以前には感じなかった「秘められた意思の強さ」のようなものを感じた。

エゴロフは基本的にはコンクール出身者なのだけれど、なぜか彼の演奏はコンクール臭さというものが感じられない演奏という気がする。

ユーリ・エゴロフはソビエトのピアニストで、1974年にチャイコフスキー国際コンクールで第3位、1975年にエリザベート王妃国際コンクールで、これまた第3位となっている。立派な成績ではあるが、優勝ではなかった・・・とも言える。抑圧を感じていたソビエトという祖国を捨てエゴロフは西側へ亡命する。その後、ヴァン・クライバーン国際コンクールを受けるも落選。ある意味では、このクライバーンでの落選がエゴロフを世界の檜舞台に乗せたとも言えるだろう。彼が本選に残れなかったということで騒ぐ聴衆が多くいたり、また落選した彼をカーネギー・ホールでデビューさせようという動きも活発になったりした。カーネギー・デビューは優勝者へ与えられる副賞であるが、優勝者よりも、はるかに落選したエゴロフのカーネギー・デビューでの評価の方が高かったのだ。エゴロフは聴衆の力でピアニストになった・・・とも言えるのかもしれない。しかし、彼の西側での活動は10年間だけだった。エゴロフはエイズの合併症で亡くなってしまうからだ。33年という短い人生だった。

「僕は自由になりたい・・・人間として自由に生きたい・・・」

むろん、ピアニストとしての自由を求めての亡命だったのだろうが、エゴロフは人間として自由に生きたかったのではないだろうか?自由・・・というよりは、自分の人生を生きたかった・・・

亡命後、彼は自分がゲイだということを公にしている。1980年代、これは物凄く勇気の必要なことだったと思う。偏見というものも当然感じただろうし、嫌がらせを受けたこともあったに違いない。

「でも・・・僕は僕だし、同じ人間なのだから・・・」

彼は、結婚指輪をしている。パートナーがいたのだろう。共に人生を歩む人がいたのだ。そして彼自身、自分がゲイであったことを誇りに思っていたのかもしれない。誇りを持たなければ、当時はゲイとして生きていくのが困難であっただろうから・・・

また、彼は80年代にエイズを患うことで、もう一つの偏見と闘いながら生きていかなくてはならなかった。

「えっ、エイズ・・・近寄ると感染するの?」「エイズですって?汚らわしい・・・」

エゴロフはどのように死んでいったのだろう?

彼は亡命してから自分の第二の祖国をオランダに決め、その地に住んだ。ヨーロッパ、いや世界中で最も開かれた国だと彼には感じられたのだと思う。おそらく、愛するパートナーと人生を歩む場所としてオランダを選んだのだ。

オランダは世界で初めて同性婚を法として認めた国でもある。それはエゴロフの死後10年以上の歳月が経ってからだが、そのような未来へ開いていくような空気が当時からオランダにはあったに違いない。

「僕には愛する人がいる。共に人生を歩んでいくんだ・・・どうしてそれを隠さなければいけないんだろう?」

ユーリ・エゴロフのバラードに彼の強い誇りを感じる。

kaz



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権利と偏見 

 

偏見を持っていないと確実に言える人はいるのだろうか?逆に、自分は偏見のかたまりだと自覚している人なんているのだろうか?

心を閉じてしまうことも偏見につながるのだろうか?

もし、あなたに息子、あるいは娘がいたとして、このように言ったとする。

「来週、結婚を考えている人を家に連れてきたい・・・」

親に紹介したいと・・・

もし、紹介された相手がアフリカ系アメリカ人だったら?東南アジアの人だったら?また、息子の結婚相手が男性だったら?娘の結婚相手が女性だったら?

親として、あなたはどう思うだろう?心の底から、紹介された相手を歓迎するだろうか?将来の家族として心から歓迎できるだろうか?

難しいところだろうと思う。

無理・・・

無理と思う理由はなんだろう?全く気にしないという親もいるのだろうか?

世界には同性愛ということが発覚しただけで死刑になる国もある。日本はそんなことはない。先進国だしね。日本では処罰はされないけれど、でも権利もない。どんなにお互いが愛し合い、人生を共に歩んだとしても、権利としてはただの同居人にしかすぎない。

アメリカって、なんだか進んでいるように思っている人も多いようなのだけど、実はとても保守的な国でもある。さすがに日本のように権利が全くない・・・ということはなく、州によっては同性婚が認められているし、権利も認められている。でも同性婚に対する強い嫌悪感を抱く人も実に多い。

何故か、人は同じ匂いのする人たちで群れようとする。そこに異質な匂いのする人が入り込むと排除しようとする。

偏見は差別につながる。恐怖心がそうさせるのだろうか?

一人の人間が、もう一人の人間と知り合い、惹かれあう。お互いに楽しい時間を共有し、そして苦しみや悲しみをも共有していくようになる。「この人と人生を共に歩んでいきたい」と心から思うようになる。

人として誰にでも与えられた権利ではなかろうか?

なぜ、こんなことを書いているのだろう?それが分からない・・・

kaz



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光への飛翔 

 

アルド・チッコリーニが亡くなった。ピアノというものを弾き続けた人生だったのではあるまいか?

チッコリーニの熱心な聴き手ではなかったけれど、何故かフランス物ではなく、この曲が真っ先に浮かんだ。理由は分からないが・・・

光に包まれた演奏・・・と感じる。そして昔学んだサナトロジーの授業を何故か思い出した。

1980年代、HIV感染というものの認識や知識が人々になく、社会がパニックになっていた頃、HIVウィルスというものは、空気感染する、接触しただけで感染すると信じていた人もいた。そのような時代、子どもがエイズに感染したと知ると、親子の縁を切るというケースも相次いだ。真実を受け止められなかったということも親にはあったのだと思う。とにかくパニック状態だったのだ。

ボブ(名前は忘れたけれど、まあいい・・・)も父親から「もうお前は私の子どもではない、もう会いたくない、会いになんか来るな」と言い渡されてしまった。治療法もなく、ひたすら孤独に死へと向かうボブ・・・

骨と皮にやせ細り、別人のようになってしまったボブ・・・

死を前にボブは、どうしても父親に会いたかった。そして伝えたかった。「愛している」と。

ボブは歩けなくなっていたので、車椅子に乗って、そして友人の助けを借りて父親に会いに行く。

「父さん・・・僕だよ・・・」

父親は別人のようになってしまったボブを見つめ、そしてボブを強く強く抱きしめるのだ。感染するかもしれない、感染したら?そのようなことを考える前に、父親はボブを抱きしめたのだ。そして言った。「愛している・・・お前を愛している」と。

このような瞬間、人間の心は光に包まれるのだと言う。それは「愛」というものが存在したという証なのだと・・・

チッコリーニのブラームスに光を感じる。

チッコリーニは亡くなったのだ。そして光に包まれるために飛翔したのだ・・・

kaz



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底までカーンと・・・ 

 

アコースティックのピアノの低音の「ド」を音がしないように押さえて、中央の「ド」をポンと弾くと、弾いた中央の「ド」だけではなく、違う高さの音も響いている。摩訶不思議なことだけれど、これは倍音が鳴っているわけですね。

電子ピアノだと倍音を鳴らすことは難しい、というか不可能だと思う。弦の振動がないわけだから・・・

倍音遊びをするには電子ピアノは適さないけれど、でもアコースティックのグランドピアノで練習していても、「底までカーンと鳴らして!」などという指導を受けていてはどうにもならないとは思う。前々回の記事はそのことも含んで書いているわけです。電子ピアノとアコースティックのピアノのどちらが・・・と論ずるまえに、弾き方が「底までカーンと・・・」では基音中心の演奏しかできないから、そちらの問題の方が大切なのではないかと・・・

有名音大の在学生で、コンクールなどにも入選している超優秀な人からも前々回の記事について反応があった。僕は音楽的な知識があるわけではないし、専門教育を受けたわけでもないので、その方には何もお答えすることはできないけれど、聴き手として感じていることはお返しすることはできるのではないかと思った。

その音大生は、先生から鍵盤の底までしっかりと弾きこむことを強制されるのだそうだ。たしかに、粒はそろうというか、さらい込みました・・・的な整った演奏になり、コンクールでもその演奏は評価されたりするのだそうだけれど、常々疑問に感じていたことがあったのだそうだ。その音大生はアルゲリッチが好きなんだそうで、よく彼女の演奏を聴いたり、動画で観たりしているらしいのだが、こう思うとのことだ。

「アルゲリッチ・・・底までなんて弾いていない時がある・・・鍵盤を触っているだけの時も・・・あれ?・・・ピアノって底までカーンと弾くのよね、私はそう教えられているし、他の人もそのように弾いている。彼女は特別?でも底までカーン・・・という弾き方ではないピアニスト、他にもたくさんいる。えっ、どういうこと?」

触っているだけ・・・この場合は鍵盤の浅い位置でコントロールポイントを掴んでいるので、ギュウギュウとその後も弾きこまなくても表現できているということだと思う。ピアノで豊かな響きを重ね、倍音を空気の塊のようにして、会場に放るには、底までカーンではなく、コントロールポイント、それは鍵盤の浅いところから、微妙な範囲で存在するが、そこを「狙う」という感覚が重要なのだと思う。当たり前の知識として、鍵盤を押すと音の鳴らない範囲がある、そして音の鳴る部分、そこを通り越すと、また音の鳴らない部分がある。音の鳴る微妙な範囲の中でいろいろと音を作っていくという意識、つまりその部分を「狙う」という意識がピアノを弾く上で重要なのではないかと・・・

底までカーンと・・・奏法だと、どうしても演奏が基音中心となってしまう。結果、クリア(日本人はこれが好きなのかなぁ?)といえばクリアだけれど、どうも楷書的というか、印刷された楽譜がそのまま浮かんできてしまうというか、そのような演奏になってしまいがちだと思う。見事に達者に弾きこなしてミスもなく弾いているけれど、つまらない演奏は基音しかないからだと思う。人を惹きこむ演奏には「響き」が伴わないと・・・

響きを作っていくには、ポイントを狙って、様々な音色の種類を重ねて、そして塊として客席まで放り投げなくてはならない。

アルゲリッチって、特に個人的にはチェンバーの時に感じるけれど、魔法のようなピアノという気がする。これはポイント狙い奏法の成せる技で、天才的に反応できているからだとも思う。

音大生の人は、師事した先生が基音派というか、「底までカーンと・・・」という先生だと割と悲劇なのではないかと思う。アマチュアであれば、もし自分の先生がそうだとして疑問に感じれば先生を変えることは可能だけれど、音大生の場合、よほどの社交能力がなければ難しいだろうと思う。大変だな・・・と思う。

大切なのは、「こうしなさい」と言われたからそのように弾く・・・ではなく、自分の感性を信じることだと思う。自分が「あっ・・・この演奏、この弾き方に惹かれる」と思ったら、その演奏はその人にとって魅力ある演奏だし、なによりも「自分が・・・したい」と感じる方向に進む方がピアノに限らず楽しいのではないかと思う。

基音だけではなく響きを伴い、「狙い奏法」をしている人、まぁ、世界的な活躍をしているピアニストは皆そうだとも思うし、そうでなければ生き残れないとも思うが、割とそのあたりが分かりやすいピアニストとそうではないピアニストっていると思う。僕は「狙い奏法」のピアニストだと、まずこの人を連想する。

狙い奏法、つまり底までカーンと奏法ではない人って、手首や腕は柔らか(このあたり個人差ありだが)で柔軟な動きだったりするが、決まった法則があるのを発見した。上肢が安定している。曲の動静によって、むやみに上肢を動かさない。非常に静かに演奏する・・・という印象。

基音派の人は、とにかく上肢が動く。加えて、音に変化がないのを補うかのように、顔面表情が豊かだ。音ではなく顔で入魂しているかのように・・・

kaz



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category: ピアノ雑感

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美貌は敵? 

 

Anna Moffo: Mozart AriasAnna Moffo: Mozart Arias
(2000/07/11)
Philharmonia Orchestra

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数日後にラフマニノフの「ヴォカリーズ」を弾くので、いろいろと聴いている。この曲は本来は声楽曲なので歌を聴いている。基本的に僕は男性の声を好む傾向にあるので、やはりテノールのコズロフスキーの歌唱に最も惹かれる。でも「ヴォカリーズ」は、曲の持っている雰囲気からして女性が歌うことが多いのではないかと思う。数ある女声の「ヴォカリーズ」の歌唱の中で印象深かったのがアンナ・モッフォの歌唱。

ピアノの話に飛ぶけれど、鍵盤の底まで「しっかり弾いています!」的な奏法による演奏って、どこか響きの豊かさに欠けるような気がする。おそらく、基音が強調されるので(演奏者がそのつもりではなくても)、どこか楷書的というか潤いに欠けるというか、響きが乏しいというか、そのような印象になってしまう気がする。逆に、鍵盤の途中のポイントを狙った奏法での演奏は、響きが伴う気がする。おそらく「倍音」というもの?これが全面に出てくるのでは?響きが連なる、よって奥行があり、楷書的な「きちんと感」溢れる演奏ではない演奏になる・・・

また鍵盤底奏法(?)は歌で例えれば、地声張り上げ唱法とでも言うか、そのような感じに聴こえるし、ポイント狙い奏法は、豊潤なベルカント唱法という感じに聴こえる。つまり、基音だけではなく響きが伴ってくる・・・例えば、このアンナ・モッフォの歌唱のように。

アンナ・モッフォ・・・

この人は、オペラにおける視覚的要素ということに関して語られる時に例として出されることの多い歌手だ。例えば・・・

「オペラに視覚的な要素だけを求めるのであれば、酷い喉を持つアンナ・モッフォのような歌い手でいいのだ・・・」のように。

酷い喉、酷い声???どこが???

たしかにアンナ・モッフォは超売れっ子ソプラノだったから、全盛期に歌いすぎたというか、喉を酷使しすぎたのだと思う。なので、キャリアの後期では声が荒れてしまったところがある。メゾへの転身もどこか上手くいかなかったような?

でも彼女の全盛期と、そうではない時期との比較・・・という感じではなく、もろ「アンナ・モッフォは容姿だけの3流歌手」のような言い方をされてきた。

同じように、キャリアの後期で声が変わってしまった歌手にマリア・カラスがいるけれど、彼女はそのような表現をされることはない。

アンナ・モッフォは大変な美貌の持ち主で、歌手になる前は(なってからもだが)ハリウッドからのお誘いも多かったという。彼女は実は歌手ではなく修道女になりたかったという人だから、そのような華やかな世界には惹かれなかった。なので、自分の能力を生かしたオペラ歌手になった。でも、美貌という概念で語られることは多かったし、もともとオペラ界もどこか華やかな要素がある・・・

美貌・・・というものはアンナ・モッフォ本人にとっては、むしろ邪魔なものだったのかもしれない。彼女の「ヴォカリーズ」を聴くと、豊かな響きということ、そしてクラシック演奏家にとっての美貌、ルックス・・・などということをも考えてしまう。

僕自身もモッフォの「ヴォカリーズ」がここまで素晴らしいものとは期待していなかったので、彼女の美貌というものからくる、ある種の偏見はあったのかもしれない。

kaz



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category: The Singers

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グランドピアノで練習していたらピアノは無理よ! 

 

一昔前はホロヴィッツの弾き方は異端・・・というか、変わった弾き方とされていた。むろん、身体的な特徴からくる独特の弾き方というものはあろうが、でもそれはホロヴィッツだけに当てはまるものではない。聴かせるピアニストは全員、その人の弾き方を持っているような気がする。指、手、身体、耳、個人差があるから弾き方もその部分での特徴は出てきて当然かなとも思う。

日本のピアノ奏法概念においては、かつては「ホロヴィッツの奏法って異端」という考え方があったと思うのだが、実は蓋を開けてみれば「自分たちが世界から見たら異端だった?」みたいな哀しい歴史があるような気がする。あえて気づかないふりをしている人もいるようだが・・・

今の時代、まさか重いタッチのピアノで日頃訓練していれば指が鍛えられるなどと思っている人はいないと思うが、でも皆無でもないのでは?

電子ピアノ・・・ある程度以上の進歩は無理・・・

電子ピアノは楽器ではない、あれは家電にすぎない・・・

音を鳴らす仕組みが、そもそもグランドピアノとは異なるので、究極的にはそうなるだろうと思うが、電子ピアノだと無理・・・と盲目的に思っている人は実際にお店に行って最高機種クラスを弾いてみて欲しいと思う。個人的にはローランドのものを弾いてみると電子ピアノへの概念が覆されるのではないかと思う。

「電子ピアノで練習している生徒はタッチがしっかりしない・・・」

この場合、楽器が卓上のもの(キーボードと言うの?)だとやはり厳しい。さらに88鍵あっても、タッチ感が玩具的な機種もあるので、その場合は「タッチがどうもねぇ・・・」ということになろうが、その場合も最高機種クラスを弾けば概念は変わってくるのではないだろうか?

電子ピアノでも最高機種クラスのものとなると、「中古、あるいは新品のグランドが買えてしまう?」みたいな機種もあるので、グランドピアノで弾ける環境にある人は、「その価格であればグランドピアノを購入します」ということになるのかもしれない。現在のところ、その判断は当たり前であり正しいのだろうと思う。

現在のところ?

これからの時代はピアノの弾き方の概念が変わってくる時代の到来になると個人的には思うし願うところだ。完全に聴き手感覚、愛好家感覚で述べさせてもらうと、日本で教育を受けたピアニストや超優秀音大卒業生の演奏は、どこか「楷書的」だと感じる。音そのもの、つまり基音は鳴っているのだが、コントロールが大雑把なので、音の陰影が少ない、あるいは皆無のように聴いていて感じる。これは演奏者の感性の問題とか西洋音楽の歴史がどうたら・・・とか、そのような問題にされがちだけれど、最大の要因は「教育」にあるように僕は思う。おそらく導入から中級レベル、そして上級レベル(そのようなカテゴライズが可能ならばだが)すべての段階において「鍵盤の底までしっかり弾きましょう」とされすぎているのではないか・・・

鍵盤の底まで弾く前にコントロールポイントとなるべき部位がある。底まで・・・ではなく、ここの部分を狙う弾き方がこれからの主流になっていくのではないか?ハンマーが弦を打ち、音の鳴る瞬間の絶妙ポイントは、実は鍵盤の底まで弾く以前に存在している。底まで・・・ではなく、そのポイントを狙う奏法。

聴衆はその大切さに気づいているのでは?むろん、我々愛好家、素人は奏法という概念では演奏を聴きはしないので、「ツマラナイな」「なんだか単調だな。よく弾けているけれど・・・」のように感じるだけだが、でも多くの愛好家、聴衆は気づいている。感覚的に問題点に気づいている。でも多くの教育者は愛好家よりも、この部分は遅れているのではないだろうか?

世の中には様々なピアノのメーカーが存在しているけれど、多くのピアノの中で、極端にコントロールポイントの浅いメーカーがある。スタインウェイだ。スタインウェイのピアノは軽い・・・と僕などでも感じるけれど、正確には軽いのではなくポイント(というか表現のツボ可能の部分)が非常に「近い」と感じる。これはスタインウェイというピアノが職人だけではなく、往年の巨匠、パデレフスキーやホフマン、ホロヴィッツなどというピアニストの要望を受け入れつつ進化していったということと無縁ではないと思う。おそらく彼らのタッチは非常に近いところでコントロールをして表現していた。無駄なことはしないというか。なのでスタインウェイだけ他のピアノに比べコントロールポイントが浅いのだと思う。

彼らの奏法は、鍵盤の底までしっかり弾く・・・というよりは、鍵盤の浅めのところのタッチを狙うという奏法が中心のような気がする。これからの時代は、日本の教育現場でも、このあたりを無視(というか気づかないふりを)していくのは限界のような気がする。聴き手はなんとなく気づいているからね。

本当は、電子ピアノだと無理とか、そのようなことではなく、国産のピアノでいかにコントロールポイントを見つけ、絶妙なポイントを狙うことの重要性を語るべきなのだ。

このような時代がくるかもしれない。

「えっ、重めのタッチのグランドピアノで練習しているの?あなた、それじゃピアノは無理よ。最高機種の電子ピアノで練習しなさい」

kaz



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category: ピアノ雑感

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緊張しない方法とは? 

 

ハイフェッツ症候群という言葉、概念がある。ヴァイオリニストたちが、あまりのハイフェッツの演奏の見事さに、自分の技量の限界を感じて、時には挫折、破滅してしまうことを言うらしい。当時はそのようなハイフェッツ症候群のヴァイオリニストはけっこういたらしい。現在でも、ある程度自信を持っているヴァイオリン科の学生がハイフェッツの演奏を知り、自信喪失・・・なんてことはあるのではないだろうか?憧れというものに昇華できればいいのだろうが、現実は厳しい・・・

ところでハイフェッツは演奏前に緊張したのだろうか?むろん、人間なのだから演奏前にはアドレナリンは分泌されただろうと思うので、緊張はしたと思う。よく「緊張しない方法」などというものが論じられたりするけれど、緊張しない方法を考えるよりは、緊張した場合、どうするか・・・を考えたほうがいいのではないかと思う。

「練習の時には弾けていたのに、何故本番だと弾けなくなるのだろう?」

本番で弾けなければ、いくら練習で弾けていても、あなたは本当には弾けてはいなかったのです・・・

そうなのだろうか?よく本番でなにが起こっても指だけは反射的に動くように、ひたすら練習を重ねるという考えがある。これはけっこう一般的な考えなのではないだろうか?もうこれ以上練習できない、自分なりに精一杯、マックス練習を重ねてきた・・・これは土壇場での心理的なお守りとはなろう。「あれだけ練習したのだ・・・きっと大丈夫」と。

でもその場合でも大丈夫ではないことはある。というか、多い。そうなると相当落ち込むことになる。「あんなに練習したのに何故?私ってダメなんだわ・・・」となりがちなのでは?

考えるに、本番前のひと時のことと、日頃の練習というものと切り離して考えることに無理があるのではないかと思う。緊張した場合でも自分の演奏ができるか、できないかは、その人の日頃の練習への考え方、そしてその曲をなぜに選曲したのか、そもそも演奏というものをその人がどのように捉えているかということに関わってくる問題なのではないか?

「あんなに練習したんだもの。大丈夫・・・」と祈るように舞台に出ていく・・・

何が大丈夫なの?なにができれば「ああ・・・できた・・・大丈夫だった」とその人は感じるの?

「練習の時と同じように弾けますように・・・」「間違えませんように・・・ミスをできるだけしませんように・・・」

間違えないで、ミスを少なく、そして止まらないように演奏することがピアノを弾く目的なの?

ここは陥りやすい落とし穴ではないだろうか?そもそも「発表会で何を弾こうかな・・・」と考え選曲した時に、その曲を弾きたいと思った動機があるはずだ。演奏するわけだから動機はあるはず。そこの根っこの部分をいつのまにか「何があってもいいように最大限練習を重ねる」と精進するうちに、本番での演奏に対しての目的が変わってきてしまう・・・

「この曲のここに魅力を感じる、それを伝えられたらいいな・・・」というものから「家で弾いている時のように弾けますように」にすり替わってしまう。もしかしたら、ピアノを習い、練習をして、そして本番で人前で弾くという一連の行為の中に、「ああ・・・私・・・この曲のここが死にそうに好きなの!」などという思いがなくても、ピアノの練習そのものは進めていけてしまうことに危険性を感じることができれば、本番前に緊張した時、演奏がどのようなものになるのかが変わってくる可能性もないだろうか?

「ミスなく弾けますように」「あそこの部分が家で弾いていたときのように弾けますように」ではなく、「ああ・・音楽」と思う。その曲を弾こうと思った最初のトキメキに戻る・・・

ハイフェッツは本番前に緊張したのだろうか?

kaz



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category: ピアノ雑感

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誕生日 ヤッシャ・ハイフェッツ 

 

今日、2月2日はヤッシャ・ハイフェッツの誕生日。クライスラーとハイフェッツが同じ日に生まれたというのがなんだか凄い。

ハイフェッツの演奏は、どの演奏も完璧なので恐ろしいくらいだ。どうも完璧主義者だったらしい。

この人と同じ時代に生きたヴァイオリニストは大変だっただろうな・・・などと思う。

ホロヴィッツみたいだ・・・とも思う。演奏が似ているというのではなく、好きとか嫌いとか、上手いとか、そのようなことではなくハイフェッツは「ハイフェッツ」なのだ。ホロヴィッツが「ホロヴィッツ」であるように・・・

kaz



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category: Violinists

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誕生日 フリッツ・クライスラー 

 

今日、2月2日はフリッツ・クライスラーの誕生日。

この曲、もともとはピアノの曲だけれど、ヴァイオリンの演奏の方が馴染みがある。クライスラーが編曲し、演奏したからそう感じるのだろうと思う。

kaz



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category: Violinists

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「そんなことはどうでもいいさ」 

 

黒人霊歌の他に気になっているのがガーシュウィンの「ポーギーとベス」で、その中の「そんなことはどうでもいいさ」という歌に惹かれている。「サマータイム」も、もちろん好きなんだけどねぇ・・・

この曲の原曲を聴いたのはいつだったか、あまり覚えていないのだが、初めて聴いた時は衝撃・・・と感じるほどだった。なんというか、クラシックとかジャズとかポップスとか、カテゴライズするということが不可能な曲に思えた。

去年は「アルフォンシーナと海」という曲に何故か惹かれてしまって、どうにもならなかったけれど、今年はこの「そんなことはどうでもいいさ」に惹かれてしまったらしい。

原曲を聴くと、とてもピアノでは表現できる世界とは思えない。アルフォンシーナ・・・の時も最初はそのように思えたものだった。ピアノ、というか器楽では表現不可能な世界なんだろうな・・・と。でもアルフォンシーナ・・・のギター編曲バージョンを聴いて「もしかしたらピアノでも・・・」と感じられたのだ。ディアンスの編曲、演奏だったと思う。

この「そんなことはどうでもいいさ」は、あのハイフェッツが編曲している。とても素晴らしい編曲で、見事にヴァイオリンで「そんなことはどうでもいいさ」を表現しつくしている。何故か、そのハイフェッツ版の楽譜は持っていて、その楽譜を眺め弾きしたりしている。

今のところはピアノでは実現不可能な感じではある。ヴァイオリン用の楽譜だから、ピアノとヴァイオリンで3段になっているので・・・

でも、もう少し自分の中で遊んでみようとは思う。

これが原曲のオペラ版「そんなことはどうでもいいさ」・・・この動画では2分くらいから歌が始まる。

この世界、好きなんだなぁ・・・

kaz



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category: サークル

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選曲嫌い 

 

最近、人前での演奏、まぁ、僕の場合はほとんがサークルの練習会という場になるのだが、その他にも発表会などでも選曲に苦しむことが多い。以前はそんなことはなかったような気がする。

前から、人があまり弾かないような曲を好む傾向があった。たとえば、「熱情」とか「英雄ポロネーズ」とか、弾いてこなかった。これは僕が昔のピアニストが好きということも選曲に影響しているのだと思う。彼らが当時弾いた、今では忘れ去られたような曲や、彼ら自身の編曲作品に惹かれる傾向があったのだ。それは今でも変わらないが、昨年、ギターの曲やフォルクローレの曲を耳コピで弾いたあたりから、往年の巨匠関係の作品だけではなく、ピアノ曲以外、クラシックの作品以外にも興味の範囲が広がってきたのだ。たぶん、そのことも選曲を難しくしている原因の一つなのではないか?つまり、それまでは聴くという対象の作品や世界も自分で表現したいと思うようになってきた・・・

ピアノを再開して、しばらくは僕も普通の(?)曲を弾いていた。「ああ・・・弾けたらいいな」と自分で思う曲を弾いてきた。ショパンなどもその頃は弾いていたのだ。つまり、曲そのものが選曲をするうえで重要なものだった、というか、基準は曲しかなかった。今は「この曲を弾きたい」という感じではなく、「この世界をピアノでも表現できたら・・・」という気持ちが非常に強い。

おそらく、それは自分の病気というもの、自分の人生を有限だと思っているということも、僕がそのように思う一因だろうと思う。非常に「人間の感情の動き」というものを直接表した音世界に惹かれる・・・

僕は、あまり偉大な芸術作品に人間がひれ伏す・・・という気持ちや態度でピアノを弾くのが好きではないらしい。これはものすごく傲慢な考えなのかもしれない。いや、傲慢なのだろう。でもこの世で最も尊いものは、人間の心の中の「愛」の部分だと思っている。その心の動きを音にしたものが音楽なのではないか・・・などと最近は特に感じる。人間がいて、心の動きや愛を感じる部分があるから、音楽がある。反対に感じている人は多いかもしれない。まぁ、両方の相互作用のところはあるかもしれないが・・・

ポーランド人の友人、Hのことは以前に書いたと思うが、彼は亡くなる前に僕に楽譜を郵送してくれた。生前にHが酔っぱらった時などに弾いていたものだ。彼のピアノは自己流で、訓練されたそれではなかったけれど、独り言のようにピアノを弾いていた。彼が「よかったら弾いて欲しい。僕にはもう必要のないものだから・・・」と書き残し送ってくれた楽譜は黒人霊歌をピアノ用に編曲した楽譜だった。編曲者はサミュエル・コルリッジ=テイラーという人。往年のピアニストの華やかな編曲とは異なり、シンプルというか「土臭い」編曲だ。はっきり言って、とても演奏会向きの編曲ではない。

でも楽譜を眺めながら、そして初見で弾きながら、「ああ・・・黒人霊歌・・・このような世界をピアノで表現できたら・・・」などと思ってしまうのだ。黒人霊歌が弾きたい・・・と言うのとは少し違う。かつて奴隷としてアメリカにやってきて、人間とは思われない待遇を受けた人々の、虐げられた人々の、怒り、哀しみ、そのような気持ちの動きが旋律となり、リズムとなり、歌となり、そして黒人たちの聖歌となっていった。つまり奴隷だった黒人たちの心の叫びそのものが黒人霊歌なのだ。その「心の動き、感情の動きをピアノで・・・」と思ってしまう。

はっきり言って、曲基準で選曲できたら、どんなに楽だろうと思ったりするが、でもとても強烈な心の動きをピアノに託したくなるのだ。だから選曲が非常に難しくなる。

とても興味のある黒人霊歌は、「時には母のない子のように」で、この曲は霊歌の中で最も有名な曲の一つだと思う。この曲を弾きたい・・・のではない。この曲に託された「何か」に触れたい・・・

「時には母のない子のように」

時々、母のいない子どもになったような気がする
故郷から遠く、遠く離れてしまって・・・
時々、僕はもう長くはないのだろうと思う
天国に昇っていくんだ・・・

この世界、表現したい・・・と思う。でもピアノでどうやって表現したらいいというのだろう?
ちなみに、1850年頃の奴隷たちの平均寿命は32歳だったそうだ。

kaz



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