ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

表現のための技 

 

僕が音楽を聴いて、死ぬほど感動したのは小学3年生の時だったと思う。ピアノは習っていたけれど、停滞していた。なので、感動をなんとか発散したくて自己流で好きな曲を弾き始めた。

楽しかったと思う。でも、その時の自己流演奏は、それなりに自分で音楽的に弾いているつもりでも、どこか表面的な演奏だったと思う。子ども心に、音楽的に弾くための手段や方法というものがあるのではないかと思っていた。

自分の演奏をテープに録音し、お気に入りのピアニストの演奏と比較するのが楽しかった。むろん、何が違うのかということは分からなかったけれど、根本的な音・・・というか弾き方が異なっているのは感じることができたし、感じることが楽しかったのだ。

その後、ピアノは辞めてしまって、完全に聴くだけの生活になってしまったけれど、「比較して楽しむ」ということはしていたように思う。演奏には退屈な演奏と素晴らしい演奏とがあったけれど、音楽愛好家というものは、普通は自分にとって素晴らしく感じる演奏を求めていくものだ。でも僕は、「なぜ退屈なんだろう?」と考えるのが楽しかったのだ。ピアノそのものは弾いていなかったから、直接自分の演奏というものに結びつけようとする欲求がなかったので、退屈な演奏でも「何故だろう」と分析するのが楽しかったのだと思う。

高校生の時だったと思う。カバリエのリサイタルを聴いた。カバリエの歌唱に期待し、その歌声に酔いしれたのだけど、一瞬だけカバリエの「技」というのだろうか、そのようなものを感じることができた。素晴らしい演奏として成り立たせている要素の一つを一瞬だけ感じられたというのだろうか。

それは「コントロール」というものだと思った。カバリエはいつも次の音を歌う前に一瞬だけ「用意」があり、絶妙なコントロールをしながら次の音を歌っていた。平凡な歌手は、このコントロールがないか、非常に少ない。

声楽や他の楽器と比較すると、ピアニストの場合は、カバリエのようなコントロール、技を感じることが難しかった。ピアノ曲は音が多いということもあっただろうし、音程は誰が弾いても正確というか同じになるというピアノという楽器の特性があり、素晴らしい演奏と退屈、平凡な演奏との違いを分析するのが難しかったのだと思う。

「でも平凡・退屈と素晴らしい演奏との隔てている、何かしらの要素は存在するはずだ」と感じていた。感じることは一瞬でできるのだ。退屈な演奏なのか、素晴らしい演奏かということは・・・

そのような観点で、30年間演奏というものを聴いてきたように思う。

ピアノの場合、「打鍵コントロール」というものが、演奏というものを大きく左右していると感じるようになった。鍵盤を押せば音は鳴るし、なんとなく盛り上げてと感じるだけで強弱の差はつけられるけれど、音の音色というか陰影というか、ある部分だけ音に光をあてたりとか、立体的に作ったりとか、そのようなことは「打鍵」という技にあるような気がした。鍵盤の途中にその部分あるのだと思う。ポイントとなるべき位置がある。凡庸な演奏は、この部分を通り越して弾いてしまっている。

そのように感じるようになった。いい演奏だな、素晴らしい演奏だなと感じるピアニストの演奏は、この打鍵の際のコントロール、それが敏捷なのだと思った。

少なくとも、カバリエのリサイタル以後は、表現というものは、なんらかの「技」というものを介さないと聴き手には伝わらない、そのための具体的な技法というものがあると思いながら演奏を聴くようになった。

kaz



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90歳のスクリャービン 

 

ピアノを再開したきっかけ、それは病気の発見、宣告というものだったから、どこかピアノそのものが「過去から現在」という視点からくる考えで占められていたように思う。

「未来はないかもしれないから、弾いておきたい」とか、とにかく「やり残し」というものがあるという状態を非常に恐れた。

たしかに人生には有限性というものもあろう。でも「現在から未来」という視点があってもいいのではないか・・・

そろそろピアノを再開して5年。未来視点のピアノ道が僕にもあっていいのではないかと思う。

人前での演奏、どこか「しめくくり」という気持ちで弾いていた。後悔したくないから・・・と。

でも、そろそろ僕だって「未来」というものを考えてもいいのかもしれない。

この人、90歳を超えているのだそうだ。

自分も90歳になった時、ピアノを弾いていられるかもしれない・・・ふと、そう感じた。

kaz



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練習の成果 

 

ピアチェーレの演奏会、つまり本番まで、あと一か月を切った。なんとなく緊張している。

何人の人が聴きにくるのだろう?まだチケットは残っているのかな?残っているだろうと思う。アマチュアの演奏会だし、満員になることはないだろうと思う。無料の演奏会なのにチケット制にしているのは、消防法のため。1名でも定員をオーバーすることは許されないから。キャパが200とか300もあるホールだったら、とにかく「来て下さい」とお誘いするだけでいいのだと思うけれど、会場の定員が60席だと、そうはいかなくなる。こちらで何人の人が来てくれるのか、正確には何人の人から申し込みがあったのかを把握していなければならない。もし当日61人の人が聴きに来てくれたとしたら、誰か1名は会場に入れなくなる。

ホームページから申込み、返信されたPDFを各自がプリントアウト・・・という方法も、どこか面倒な方法なのかもしれない。でも他に方法はないしね・・・

当日はたくさんの人に聴いてもらいたい気もするし、多くの人の前で演奏するのは怖いような気もしている。つまり、今は落ち着かない気分だ。緊張しているのだと思う。正直、自分の当日の出来栄えというものは気になる。きちんと弾けるだろうかと。失敗しませんように…とも思う。

聴き手は、演奏者の出来栄えを評価しにくるわけではない。あら捜しをしにくるわけではないのだ。だからこそ、気分が重くなるのだ。聴き手は「音楽」を求めにくるのだろうと思う。来て良かったな・・・と感じてもらいたい。演奏会であり、練習成果披露会ではないのだから・・・

自分が聴き手だったら演奏者に何を求めるか、この部分を自分が演奏する側になった時にも求めればいいのだ・・・と思う。でもこれが非常に難しい。

先日はレッスンだった。一か月前なので、プログラムを通して先生に聴いてもらった。

「素晴らしいんじゃないですか?もういいですよ。何か違う曲をやりませんか?」

本番一か月前、しかも一曲や二曲を弾くわけではないのだ。30分間弾き続けるのだ。新しい曲はとても無理。

「本番だと、気持ちも高揚しているし、自分をコントロールできなくなるのが心配なんです。この部分なんか、たくさんはずしそうだし・・・」

「はずしてもいいじゃありませんか・・・」

先生はいつもそうだ。細かなことは気にしない。ミスタッチや失敗などは気にしない。

聴き手がどう感じるか・・・なのだと思う。自分がどう弾けるかではなく。気持ちの持ち方が難しいと思う。

これはレニーのピアノ演奏。非常に難しい曲なので、レニーだって沢山練習したに違いない。でも「こんなに頑張って練習しました。その成果です」という感じが全くしない。「演奏している」というよりは、「音楽している」という感じ。これが理想ではある。

練習の成果ではなく「音楽」を出せたらいいのだと思う。

練習はするけど・・・

kaz



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category: ピアチェーレ

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一本指から始めたピアノ 

 

あまりにも昔のことだから忘れちゃったな。なんでピアノを習おうと思ったんだろう?

子どもの時に少しでも習っていた時期があれば、また全然違っていたんだろうけど、大人になってピアノを習おうなんて・・・

片手でも指が動かなかったなぁ・・・

両手で速いスピードで弾く子どもたちが天才に思えたよ。大人から始めると固くてね。すべてが・・・

子どもたちに混ざって発表会でも弾いたよ。「おじさん・・・下手だね・・・」なんて知らない子どもに言われたよ。たしかに上手くはなかったね。

でも、僕も両手で曲を弾けるようになった。この時は嬉しかったねぇ。涙が出るほど嬉しかったよ。

ある日、僕が習っている曲を先生が弾いてくれたんだ。レッスン中にね。その時の先生の演奏が実にチャーミングでね、その時突然僕は感じたんだ。「僕もこのように弾けるようになりたい」とね。

先生に質問してみたんだ。「僕も先生の今みたいな演奏、今みたいな弾き方で弾けるようになるでしょうか?」と。

先生は僕の目を見て静かに言ったんだ。

「できるよ・・・弾きたいと思えば、いつか弾けるよ」

あれから随分月日が経った。僕も本当におじさんになった。

でも、ピアノが好きという気持ちは変わらない。あの時、上手くなりたいと感じた気持ちは変わらない。

一本指から始めたピアノ・・・

今でも僕はピアノが上手くなりたいと思っている。大人から始めたピアノ、一本指から始めたピアノでも・・・



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category: ピアニスト

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趣味の人は、ただ弾ければいい? 

 

ピアノを弾いている人の最大の悩み、まぁ、色々とあるだろうし、人によっても異なるのかもしれないが、僕の受けた印象では「音楽的に何か足りない」「ただ弾いているだけになってしまう」という悩みを持つ人が非常に多いように思う。まれに、ハッと惹きこまれるような音、音楽で演奏する人に遭遇すると、ため息まじりに思うのだ。「ああ、才能の違い」とか「ああ、音楽性の違いなのね」と。

このような場合、才能とか音楽性ということよりも、テクニックの違いなのだと思う。テクニック・・・これはよくメカニックということと混同されているようだ。これはアマチュアだけではなく、プロであるピアノの先生も混同している人は多いように個人的には感じる。

メカニックとテクニック、厳密には分けることすら困難な概念だが、大雑把にその違いを説明してみたい。ショパンの英雄ポロネーズ、この曲には左手の連続オクターブがある。この部分を高速で弾けるかどうかというのは、メカニックの問題になってくる。この部分をとても高速で演奏する人として、僕はアルゲリッチを連想する。アルゲリッチは全体にどの曲も高速だけれど、この部分は非常に鮮やかだ。ホロヴィッツの演奏での同じ部分、アルゲリッチよりも時間をかけて演奏している。純粋なスピードということであれば、アルゲリッチの方が高速で弾いているわけなのだけれど、僕はホロヴィッツの演奏の方が「躍動感」「スピード感」「スリル感覚」というものを、より感じることができる。これはテクニックの問題となってくる。テクニックとは、メカニックを有効に使い、音楽的表現というものに具体的に結びつける「技」「弾き方」を指すのだと思う。

「テクニックはあるけれど、音楽的に何か足りない」という表現、概念は本来はありえないのだ。

メカニックというものは、大雑把に考えれば、練習を重ねればなんとかなるという部分もある。ひたすら練習すれば曲は間違えずに弾けるようにはなってくるという意味において。でもテクニックの部分は、「誰かに具体的に伝授してもらわなければ理解できない、獲得することができない」部分なのではないだろうかとも思う。

どうも「表現」というものと「技術」というものを分離して考える人が多いように思う。表現として聴き手に伝わる、伝えるためには、テクニックという技を介さなければ伝わらないものなのだ。このところの概念が、いささか粗雑に扱われているように思う。

もし、先生が「もっと音楽的に弾けるといいわね」とか「固さがなくなるといいわね」というアドヴァイスで止めてしまっているのならば、その先生はテクニック概念を教わってきていないのだと思う。この部分は伝授してもらわなければどうにもならないもののような気がする。テクニックというものを理解し、音楽的表現というものと結びつけるという技を知っているのならば、絶対に「具体的解決方法」というものを教えてくれるはずだと思う。指摘だけ、ダメ出しだけで解決方法を伝授しない先生は、そのまた先生がその概念を伝授してこなかったからという歴史(?)の重なりがあるのでは?

サークル仲間から実際に相談された悩みなのだけど、「なんだか自分の演奏って固いというか、バシッ、ガツンという演奏のような気がする。先生もなんでかしら~と悩んでくれる。どうしたら音楽的に弾けるのだろう?」という相談、というか悩み。この場合、先生は一緒に悩んでいてどうする・・・と僕は思う。こうしたら~こうなる・・・という部分を伝授するのが先生の役目なのではないかと思う。でもこの部分を苦手としている先生は多そうだ。

「なんだか音楽的に弾けない」「人を惹きつける魅力に欠けている」と自分の演奏について感じている人は多い。でもそれは問題として、才能ではなく、音楽性でもなく、ただ「弾き方を教わっていないから」だとしたら?

昨今のピアノ教育界、特に導入期、初歩教育の段階において、いささか「楽しさ重視」「ワクワク」「ドキドキ」というものに流れすぎているように感じる。趣味も専門もないのだ・・・・という大事な部分を忘れているというか・・・

ピアノを弾くうえで、趣味であろうと何だろうと、テクニック伝授というものは、必要だと僕は思う。なぜなら、ただ曲が弾けるようになった・・・そのくり返しでは生徒は子どもだろうと大人だろうと満足しなくなってくるからだ。いつかは「音楽的表現」というものを欲するようになる時がくる。その曲がただ弾けたという満足感から、より「上手に、素敵に演奏できるようになりたい」という欲求。素敵に弾くためには、具体的なテクニック(メカニックではない!)が必要なのだとしたら、この部分を伝授しなければ満足感は得られない。

「趣味で楽しく弾ければいい。専門家になるわけではないのだから」「大人の趣味の方なのね。お仕事もお忙しいだろうし、楽しくレッスンをいたしましょう。弾き方とか奏法とか、そのような難しいことはいいですよね?」

いいわけないよね・・・と思う。

「ワクワク」「ドキドキ」・・・つまり「楽しさ」とは何だろう?

僕の楽しさは、今まで弾けなかったメカニックの問題を先生と一緒に解決する時、テクニックの効果というものを一瞬でも感じられた時、そのような時を「楽しい」と思う。ワクワクする。ドキドキする。

これは小学生だって同じだと思うが・・・

趣味だろうと・・・

kaz

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category: ピアノ雑感

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操作はどこからくるのか? 

 

ピアノのレッスン、まずは生徒が曲を通して演奏し、そして先生の指摘が入る。僕の先生の場合も、ここまでは他の先生と同じなのだと思う。

サークル仲間の話などから察するに、この先の部分が僕の先生は他の先生と異なるらしい。まず、指摘のある部分は、「そこは~のように弾けるといいですね」「その部分は~というところがまだできていないですね」という感じで、ここは同じ。他の多くの先生と異なると思うのは、その部分を先生が弾いてくれるということ。「たとえば、その部分は、こんな感じなんじゃないですか・・・」と。

もう一つ異なるなと思うのは、指摘してきたことの「具体的解決方法」を示してくれる、情報として与えてくれるということ。この部分は、「音楽」とか「芸術」という言葉よりは、「物理」「解剖」という言葉を使いたくなるような感じだ。

「~のように弾けるといいと思う」とサウンドとして先生の演奏から体感させてくれる。そして「~のように弾けるためには」の具体的なアドバイスがある。

サークル仲間の先生のレッスンを見学したわけではないので、これは推測だけれど、「~の部分の音が固いね」という指摘が入る。でも「ではどうしたら?」の部分の情報を与えてくれない。「それはひたすら練習しかないでしょう」みたいな・・・

僕の先生の経歴は少し変わっているのだ。日本の音大を経験していないのだ。サウンドとしてまず生徒に体感させる、つまり先生自身が弾いてあげる、そしてそのように弾けるための具体的奏法、解決方法を示す、これは先生が留学先のハンガリーで身につけたもののようだ。先生もそう言っていたのでそうなのだろう。

僕は生意気にも(?)海外にもレッスンを受けに行ったりしている。その場合、外国人の先生ということになる。でも「体感させる」「具体的奏法の助言」という部分で日本での先生のレッスンと全く共通しているので混乱はないのだ。

日本の多くの先生は、「弾いてあげる」ということと「具体的な奏法」「具体的解決方法」というものの助言、ここが苦手なのではないかと思う。特に具体的な解決方法が苦手、というか皆無だと、どうしても生徒の演奏、そのフレーズをいじってしまうことになってしまうのだと思う。

「そこは~のように歌って」とか「その部分は~のように盛り上げて」のように・・・

その結果、その生徒が達者なほど先生のコピー演奏になっていってしまう危険性がある。コンクールなどで聴かれる演奏にそのような演奏が多いように思う。「本当に、あなたはそのように弾きたいのですか?」「その演奏は本当にあなたの演奏ですか?」と問いたくなる演奏が実に多いのも、先生が生徒の音楽(フレーズ)を操作してしまうからなのではないか、その根底には先生たちに具体的奏法というものと表現というものの結びつきという点で甘さがあるのではないか・・・

本来なら「~のように聴こえてこない」「その原因は?」「聴こえてくるための具体的奏法の伝授」となるべきところ、原因究明、具体的情報の伝授というところが欠けているため、フレーズ操作・・・ということになってしまう。違うかな・・・

これはアレクセイ・スルタノフが11歳の時の演奏なのだそうだ。ショパンのノクターン・・・

小学5年生と日本流に考えれば、このノクターン程度の難易度の曲を弾くということそのものは驚くことではない。難曲をバリバリと弾きこなす「子どなちゃん」は日本には数多く存在する。でもその達者な子どなちゃんの演奏には、必ず先生の影がある。先生の操作を感じる。そこがこのスルタノフの演奏との違いなのだと思う。このスルタノフの演奏には先生の影が感じられない。11歳の時の演奏でも、スルタノフはスルタノフなのだ。後年に聴くことのできる、あの「スルタノフ節」がもう存在している。

kaz



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category: ピアノ雑感

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具体的ピアノ道と人前演奏 

 

昨日はサークルの練習会だった。僕の所属しているサークルには音大卒業生や子どもにピアノを教えている人もいる。サークルって、割とアマチュア限定のところが多いと思うので、音大卒や現役ピアノ教師をしている人で、人前で緊張して弾くという機会を定期的に確保している人は少ないのではないかと思う。

音大を卒業したけれど、今では全くピアノを弾いていないとか、ピアノ教師の中でも、自分の演奏の発表という機会の確保ということに関しては、どこか消極的な人は多いような気がしている。

基本的に、暗譜で人前で緊張してピアノを弾くという行為そのものが大変なことなのだと思う。また本番までに曲を仕上げていくということも大変な作業なのだと思う。

人前での演奏、一度離れてしまうと、とても怖くなるのではないだろうか?

この「恐怖心」の他に、音大卒の人やピアノの先生が演奏の場というものに、どこか消極的なのには、音大でのレッスン、受けてきたレッスンというものに原因があるのかもしれない。

もしかしたら、音大でのレッスンは「ダメ」「否定」のレッスンだったのではなかったか・・・

練習してレッスンに臨む。そこで多くのダメ出しがあったはずだ。でもそれは具体的改善方法の伝授ということにはつながらなかった。「まだここが弾けていないわねぇ・・・」「もっとベートーヴェンらしく弾かないと・・・」「これはショパンなのよ、ちょっと固さがあるわね・・・」

「ダメ・・・」のレッスン。むろん、弾けていないところ、改善すべきことの指摘は必要だけれど、もっと重要なのは「具体的解決方法」だったりするのではないだろうか?

具体的解決方法を示されないでいて、でも自分ではどこか改善せねば・・・と感じてはいるという状態、そのままレッスンを受け続けるというのは、相当心理的に辛いのではなかろうか?

いつも「練習が足りないのね」「手が痛くなるまで練習しなさい」という指摘だけでは、レッスンを受ける側としてはとても辛い。進むべき道を示されないピアノ道はとても辛い。

「奏法」ということにつながっていくのかもしれない。具体的な弾き方というか・・・

ここが示されないと、とても辛いのだ。

音大卒の人、そしてピアノの先生が「人前での演奏」というものに、どこか消極的なのには、「ダメ出しオンリーレッスン」による自分否定というものも起因しているのではないだろうか?

演奏というものは、どこかで自分を肯定していないと難しいところがあるように思う。前の人の演奏が終わり、そして自分の出番になる。スポットライトの当たった舞台に出ていき、そして暗譜で弾く。誰も助けてはくれない。この時に頼りになるのは「自分に対しての肯定的イメージ」と「楽観的な要素」ではなかろうか?レッスンで受けた指摘を本番でただ「守って」弾くという心理状態だと、この時とても演奏というものが怖くなる・・・

具体的な奏法の指摘があり、「あっ・・・弾けた」とか「この方法だと~のように弾けるんですね」という瞬間が必要なのは子どもだけではなく大人にも必要なのではないだろうか?その大人が音大生でも・・・

kaz

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category: レッスン

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過去の肯定、否定 

 

昔のピアノの先生は厳しかった。恐かったというべきか・・・

教材も現在のように研究されていなくて、バイエル~チェルニ~ソナチネ・・・と割と皆同じようなものを弾いていた。

「ピアノなんてつまらない」「ピアノ・・・退屈」

ピアノが上達する生徒は、どこか真面目なところがあるので、つまらなくても頑張る。ピアノは好きだったのだと思うけれど、厳しいレッスンを乗り越え、音大を卒業する頃には、修業時代の厳しさにどこか疲れてしまっている感じ。

音大の先生のレッスンともなれば、現在だって「ワクワク」「ドキドキ」という感じのレッスンではなかったりするのではないか?

音大卒業生、つまりピアノの先生たちは、自分の生徒には「私たちが受けたようなレッスンでは生徒(さん)たちはピアノを嫌いになってしまう」とか、「自分の生徒(さん)には音楽やピアノの楽しさを!」と思うのではないか?

昨今のピアノ教育が、どこか「ワクワク」「ドキドキ」という強引なまでの楽しさ重視なのは、先生たちが自分たちが受けた教育を、心のどこかで否定する部分があるからではないか?

先生たちが過去の修業というものを、肯定的に感じられていれば、ここまでの導入指導、初歩指導というものの変動は無かった可能性もあるのではないか?

たしかに生徒自身が「ワッ」とか「キャッ」というワクワク要素、ドキドキ要素の感じられない教育だけではピアノ挫折組を多く生み出したのだろうと思う。なので、昔は小学校を終えてピアノを辞める子どもが多かった。

現在はどうなのだろう?昔と同じなのではないだろうか?子どもが忙しくなった?そうは思えない。習い事かけもちなんて好景気だった昔の方が盛んだったぐらいなのでは?

退屈な教材・・・というか、機械的に曲を与え、厳しさの押し付けだけではピアノは続かない。でも「ワクワク」「ドキドキ」だけでもピアノは続かない。やはり練習しないとピアノは上手くならないし、上手くならないとピアノの楽しさを感じることはできないと思う。

厳しさだけでもいけない。でも、楽しさだけでもいけない。

そもそも楽しさって何?時には辛い、退屈な練習を経て、初めて感じる楽しさというものもあるのでは?

昨今の流れは、どこか「流行」のようなものだと思っていたけれど、そうではなく、先生たちが、自身の受けた教育を「全面肯定」できていないということからくる流れなのかもしれない。

上達しなければ楽しくないし、上達のためには、どこかで厳しさにも対面しなければいけないし・・・

ピアノを教えるということは難しいものだと思う。皮肉でなく・・・

kaz

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ピアノで泣く・・・ 

 

明日はサークルの練習会。やはりローゼンタールを弾こうと思う。この曲は来月のピアチェーレでの演奏会で弾くので、明日の練習会は本番一か月前の予行練習も兼ねることになる。

ローゼンタールの「ウィーンの謝肉祭」は数年前に発表会とサークルの演奏会で弾いている。なので、初めての曲ではない。だから、余計に体力が以前と比べて落ちていることを感じるのだ。今回は、一曲を通すことができない・・・

やはり再再発後だろうか、ここまで体力の無さを感じるようになったのは・・・

手術は痛いし、抗癌剤は苦しいけれど、体力が続かないというのも相当苦しいものだ。

僕は無宗教だから、このような時に神に祈るということはない。でも「もう僕の体力を奪わないでください・・・」と誰かに言いたい感じだ。

諦めたものはある。大浴場とかビーチとか。体中が手術の傷跡だらけなので、相当注目を浴びるだろうから。でもそんなことはどうでもいい。ピアノは諦めたくないなぁ・・・と思う。

仕方がないので、明日弾くのだけれど、部分練習ばかりしている。本番でのアドレナリンが最後まで弾きとおす力を与えてくれるのを願うだけだ。一か八か・・・の感覚かな。

僕は自分の病気のことで泣いたことは一度もない。宣告を受けた時にも、そのような心境ではなかった。ただ、友人たちが僕と同じ病気で先に亡くなったときには泣いた。

ピアノが弾けなくても泣きたくなる。

今夜は、泣いてもいいのかな・・・と思う。

kaz

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~らしさ 

 

スルタノフの生演奏を初めて聴いたのは、ショパン・コンクール翌年の来日公演の時。普通だったら、ショパン・コンクール1位なしの2位ということであれば、オール・ショパン・プログラムであってもおかしくはなかったところだけれど、スルタノフの演奏会はそうではなかった。

この来日公演を聴いた時には、僕はスルタノフのショパン・コンクールでの演奏を知らなかった。でも、オール・ショパン・プログラムだったら、聴きに行こうと思っただろうか?

行かなかっただろうな・・・と思う。別にショパンの曲が苦手なわけではないのだが、スルタノフには無意識に別のものを自然と求めてしまう自分がいた。

僕だけではなかったと思う。その日、スルタノフはショパンも少し演奏したけれど、そして、その演奏も素晴らしい出来栄えだったと記憶しているけれど、その日の聴衆の目当て、期待は別のところにあったと思う。

スルタノフらしさ・・・だっただろうか?

パッションを感じさせる爆演、スルタノフからしか聴くことのできない何か・・・を期待していたところがある。聴き手が演奏者の過去の演奏などから自然と連想してしまうイメージ、それを無意識に求めてしまう。スルタノフにとっては、「イメージの固定化」ということにもつながってしまう・・・

でも「~らしさ」を持っているピアニストが世の中にどれくらいいるというのだろう?

技巧的にも音楽的にも素晴らしく演奏するピアニストはいくらでもいる。でもその人からしか聴くことのできない何かを持っているピアニストは多くはない。スルタノフにはそれがあった。

スルタノフの円熟、それを聴く喜びは得られなかった。

彼が脳出血で倒れたというニュースを知った。そして半身不随になってしまったとも・・・

懸命にリハビリを行い、片手でピアノを弾くスルタノフの様子なども伝えられた。

復帰を誰もが望んだことだろう。「また、あのスルタノフらしさを味わいたい」と。

彼が35歳で亡くなったということを知った・・・

kaz



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category: ピアニスト

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仮面のピアニスト 2 

 

クライバーンの後、数年経ってスルタノフはショパン・コンクールに参加している。僕だけではなく「何故今さらコンペティション?」と思った人は多かったのではないだろうか?スルタノフはピアニストとしてすでに活躍していたし、知名度も充分にあったはずだ。何故?




基本的にはスルタノフ節(?)とショパン・コンクールは個人的には結びつかない。ショパンとスルタノフが合わないとは思わないけれど、ショパン・コンクールとは結びつかない。ショパン・コンクールは、数あるコンクールの中でも最もコンサヴァティヴな場ではなかろうか?

これは全くの想像だが、この時までにピアニストとしての名声は確立していたスルタノフだけれど、同時に「イメージの固定」というものもあったのではなかろうか・・・

聴衆は、いつも「スルタノフ節」を期待する。圧倒的な爆演とでも表現したらいいのだろうか?そのようなイメージをスルタノフに期待してしまう。彼自身がそのイメージを払拭したかったのかもしれない。

チャイコフスキーやラフマニノフのコンチェルトばかりリクエストされる。ショパン・コンクールを制覇すれば、レパートリー的にもイメージ的にも「新たなスルタノフ」というものが出来上がるのではないかと彼自身が思ったのかもしれない。

彼の持ち味である「圧倒的快演」とでもいうべきものを、つまりスルタノフ節のようなものを、そのままショパン・コンクールで繰り広げてしまったら、それこそ「規格外」として排除されてしまうことは彼自身も分かっていたのではないか?だからこそのスルタノフの挑戦だったとも言えるのかもしれない。

個人的印象では、この時のスルタノフは自分のピアニズムを完璧なまでに「ショパン・コンクール規格」というものに合わせた・・・という印象を持つ。普通のコンテスタントは自分の力を出し切るので精一杯というところだと思うけれど、スルタノフには能力的な余裕があったので、あえて自分を変える、自分の深い部分を隠して規格、スタンダードのものに合わせるという挑戦をしたようにも感じられる。

自分の持ち味というものが「排除」というものにつながる可能性を自覚し、自身のピアノをコントロールしコンクールに挑んだというべきか・・・

この時、スルタノフは「コンテスタントという仮面」をつけたのだ・・・そうも感じられる。

一次予選の時のエチュード、Op.25-5、25-6・・・特にダブルのエチュードはコンサヴァティヴな場でのコンテスタントとしての優秀さを意図的に演出し大成功していると思う。このダブルのエチュードの後に彼は「革命のエチュード」を弾いている。考えてみれば、この革命との組み合わせというのは、かなりユニークな選曲だとも思う。メカニック・テクニックをアピールしたいのであれば、この曲でなくてもいいと思うのだ。でも、あえて「革命」を彼は弾いた。ここで「ピアニストとしてのスルタノフ」というものを効果的にアピールしていると僕は感じる。ここで優秀なコンテスタントとは自分は違うのだ、格が違うのだ・・・ということを演出するのに成功している。もちろん、聴衆は熱狂する。「よく弾けている」という他のコンテスタントとの違いを感じた瞬間だと思う。

この時、もし次に演奏しなければならないコンテスタントがいたとすれば(いたと思うが)、その人ほど気の毒なコンテスタントもいなかったのではなかろうか?このスルタノフの演奏の後にエチュードを弾くには相当の根性が必要だと思われる。

でもそのコンテスタントはこのようにも感じたのではなかろうか・・・

「ずるい・・・」と。

スルタノフの挑戦は、我々コンテスタントが世に出る機会を奪っているのではないか?我々は彼ほどのカリスマ性も能力もない。ここでの成績しか我々には頼りになるものがないのに。なぜ彼が出てくるの?公平ではないか・・・

どんなにスルタノフ節を意図的に調整してきたとしても、やはり時折(かなり?)スルタノフ節がこの時のコンクールでの演奏では現れていると思う。だからこそ聴衆は熱狂していく・・・優勝はスルタノフだろう・・・

結果としては、スルタノフは最高位にとどまった。1位なしの同列2位という結果だ。スルタノフとしては屈辱的な結果だったと思う。他のコンテスタントたちとは能力の差は歴然としていたのは事実だから・・・

いくら演奏の評価というものには主観的なものがつきまとうとはいえ、ここまで能力、才能の違いというものが歴然としているのならば、スルタノフより上位のコンテスタントを出すわけにはいかなかっただろうと思う。

コンクールというものの限界・・・というものなのかもしれない。

個人的には、このショパン・コンクールでのスルタノフの演奏は、あまり好きではなかったりする。どこか違和感を感じる。「本当にそのように弾きたいの?」と彼に問いただしたい気がしてきてしまう。むろん、演奏そのものは素晴らしいのだ。コンクール規格というものに合わせたのだとしたら、それができる能力というものも凄いと思う。でも彼は、この時「仮面をつけていた」と僕は感じてしまう。

kaz



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仮面のピアニスト 1 

 

Misha Dacicというピアニストから僕が連想したのが、アレクセイ・スルタノフ。彼が亡くなって、もうすぐ10年になるのだと思うと、僕の胸に哀しさと懐かしさが込みあげてくるようだ。



なぜスルタノフが仮面のピアニストなのだろう・・・これは全く僕の主観的印象からの表現なので、気になさる方がいたとしたら(いると思うが)お許し願いたい。

改めて、彼のコンクールでのライブ盤CD、彼が注目されるようになるヴァン・クライバーン国際コンクールでの演奏を冷静に聴いてみると、圧倒的な演奏力に再度驚く。また、コンクールでの演奏ながら、充分に個性的な演奏であることにも驚く。少なくとも、いかにもコンクール受けしそうな、優等生的な演奏ではないだろうと思う。

Misha Dacicとの共通点は、吸引力というか、パフォーマーとしての圧倒的な魅力に溢れているということ。この時のスルタノフの演奏、会場で聴いたとしたら、まさに圧倒されてしまうのではないか?それくらいの存在感を感じる。このパフォーマーとしての異様なまでの魅力は、どこか反優等生的というか、規格外のような魅力ということにもつながるところがあるので、そのままその魅力を全開するということは、どこかコンサヴァティヴな場であるコンクールという場所では不利・・・とまでにはならなくても、どこか賭けにはつながるところはあったと思う。

しかしながら、スルタノフは、この時は自分全開でコンクールに挑んだ・・・そのように感じる。

決してハンサムとは言えないのかもしれないが、スルタノフというピアニストには視覚的な魅力もあったように思う。その演奏姿、そして圧倒的、個性的演奏で聴衆の心を掴んだのだ。審査員に関しては、どこか賭けのような意識もあったのではないかと思う。でも彼は仮面をつけなかった。この時には・・・

映像では分かりにくいけれど、スルタノフというピアニストは非常に小柄なピアニストなのだ。平均的な日本人と比較しても、かなり小柄だろうと思う。手も巨大だったわけではないだろう。しかしながら、その外観からは想像できないほどの演奏力、規格外の「したたかさ」を備えていた。ここがクライバーンでのスルタノフの魅力だったように思う。外見には、どこか守ってあげたいと自然に思わせるような「儚さ」があり、演奏力の「したたかさ」とのアンバランスがある。これはパフォーマーとしては一つの「売り」となったのではないだろうか・・・

やはり、全コンテスタントの中でスルタノフの才能は圧倒的だったと思う。でもコンサヴァティヴな場で、それが受け入れられるか・・・あまりにパフォーマーとしての魅力を全面に出すと(出てしまうのだろうが)どこか「したたかさ」=「傲慢さ」にもつながってしまう危険性もあったのではないだろうか・・・

でも彼は仮面はつけなかった。素直で優秀なコンテスタントという仮面はこのときはつけなかった。

kaz



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Misha Dacicというピアニスト 

 

Misha Dacicというセルビアのピアニストを以前紹介した。彼についての問い合わせが複数あった。「彼・・・いったいどのような経歴のピアニストなのですか?日本にも来るのですか?」のような・・・



基本的にはグーグルで検索して頂きたい・・・という丸投げ方針を取りたい。Misha Dacicで検索すれば出てくるので。義務教育を修了した人なら解読できるような英語のプロフィールが出てくるだろうと思う。

彼の魅力は、パフォーマーとしての基本的な魅力が備わっているという点にあると思う。コンペティション歴もあるけれど、どちらかと言うと、コンペティション受け(?)するピアニストと言うよりは、まずは聴衆を圧倒してしまう魅力に秀でているというピアニストに感じる。彼の師の中にケマル・ゲキチの名もあるけれど、ゲキチの影響は個人的にはとても感じるところだ。

マイアミ国際ピアノ・フェスティバルで人気に火がつき、このフェスティバルの常連ピアニストとなっている。また、ヨーロッパを中心にインプレサリオたちも動いているように感じる。アルゲリッチなどもルガーノに呼んでいるみたいだし・・・

今のところ、日本での知名度は低い。来日することがあっても、大ホールが満員になるとか、地方まで津々浦々公演がある・・・という感じではないだろう。でも来日したら聴いてみたいピアニストではある。

日本のインプレサリオたちは、どこか安全パイのピアニストしか呼ばない傾向があるので、Misha Dacicというピアニストが日本でメジャーになるのは、まだ先のことと思われる。メジャーにはならないかもしれないし・・・

彼の師であるゲキチもマイアミ国際ピアノ・フェスティバルで注目されたピアニストだけれど、ゲキチというピアニストも日本での知名度は今ひとつのように感じる。好きな人は異様に(?)好きだけれど、万人向けはしないというか・・・日本人受けしないというか・・・

Misha Dacicの演奏を聴いていて、あるピアニストを連想してしまう。そのピアニストはホロヴィッツの影を追っていたと思う。そのピアニストについては次回にでも・・・

kaz



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category: ピアニスト

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命よりも歌を選んだ男 

 

井上道義氏の復帰で思い出したのがエットレ・バスティアニーニのこと。ピアチェーレのホームページ、そこの僕のプロフィールには僕がエットレ・バスティアニーニのファンであることも記載されている。アマチュアのプロフィール歴だし、僕の場合はコンペティション歴もないので、好きな演奏家は誰・・・ぐらいしか載せることがないので書いた。



基本的にはピアノ仲間はピアノしか聴かない人が多く、オペラ好き、声楽好きは少ないと思う。僕などは「まずは歌でしょう?」と思うのだが・・・

サークルのピアノ仲間から「自分の演奏って、なんだかポキポキと折れる音がするほど歌えてなくて・・・」と相談されることがある。「歌・・・聴いた方がいいです?」と。エットレ・ファンである僕としては是非エットレの歌声を聴いて頂きたいところだが、彼の録音、アリア集は(日本では)少ないし、基本的にはオペラ全曲盤で聴くことになる。スタジオ録音が最高の出来映え・・・ということも少なく、エットレの場合はライブ録音に最高のものがあったりする。

いきなり輸入盤で対訳なしで・・・というのもハードルが高いだろうし、そもそもバリトン役はテノールと比較すると、どうしても地味な感じになる。

エットレの場合、病気前と病気後で声の威力という点で、劇的に変わっているので、病気後のエットレの歌声は聴いて頂きたいような、あまり聴いて欲しくないような複雑な気持ちになるのだ。やはり全盛期の声を聴いて欲しいとは思う。

君の微笑み―エットレ・バスティアニーニ がんと闘い、歌に生きたその生涯と芸術君の微笑み―エットレ・バスティアニーニ がんと闘い、歌に生きたその生涯と芸術
(2003/05)
マリーナ・ボアーニョ、ジルベルト・スタローネ 他

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井上氏の会見映像で感じたのだ。咽頭癌、放射線治療という点で、井上氏とエットレは共通している。「放射線で喉が焼けていて、こんな声しか出なくて・・・」「痛くて水を飲むこともできない・・・」と井上氏は言っていたけれど、放射線治療というものは、そこまで喉に影響を与えるものかと思う。エットレの治療、今から50年前のことだ。現在の治療と比較すれば遅れているところも多かっただろう。ましてやエットレは40代前半だったのだ。癌の進行も急速だったのではないだろうか・・・

放射線治療を受けながら、エットレはオペラの舞台に立ち、そして録音も行った。今までは、「やはり発症後の歌声は全盛期のそれとは違う」という点で、ファンとしては複雑な思いがあった。しかし、井上氏の治療後の声を聴いて、思いを新たにしたのだ。

「どうしてエットレは歌えたのだろうか?」

全盛期との比較という以前に、歌えたということが奇跡なのでは?

上記伝記にも少し記述がある。医療チームが「エットレが治療に専念せず、舞台を優先してしまう」と。

エットレの歌声。1965年の録音。この頃は治療中だったはずだ。1965年は二回目の来日を果たしてもいるが、医療的な観点から医療団は日本公演中止をエットレに促している。しかし、エットレは「歌いたい・・・」と日本公演を強行。日本公演の後、メトで歌った。そのメトでの舞台がエットレの最後の舞台となった。1966年からはエットレは歌えなくなっている。

その1965年の録音。正直、全盛期の声を愛する者としては、この時期のエットレの声を聴くのは辛い。でもこうも思う。「なぜ歌える?」と。

エットレは治療に消極的だったのではないだろうか・・・と想像する。若かったから進行も早かっただろう。事実、癌は転移をしているのだ。

「バスティ(エットレの愛称)・・・あなたの命が危ない。治療を進めなくては・・・」

「私は自分の命よりも自分の声を守りたい。私は歌手なのだから・・・」

歌手としての名声、声の輝き、その頂点のところでエットレは発症した。歌えなくなる、声を失うということを受け入れられなかったのではないだろうか?命よりも声を優先した。命=声だったと言うべきか・・・

井上氏の声の変化、現代の治療でも、あそこまでの声の変化があるのだ。喉の痛みがあるのだ。

エットレは積極的な治療はせず、歌を選んだ・・・だから歌えた・・・

声を失っていく過程、声を失い、歌えなくなってしまう自分・・・ここの部分の人生は壮絶なものになるとエットレは予想したのだろう。なので癌が発見されてから最愛の恋人とも別れたのだ。壮絶な人生は一人は歩んでいくしかない。最愛の人を引きずり込むわけにはいかないと・・・

エットレとは、そういう男だったのだ・・・

1965年の歌声・・・壮絶な痛みを堪えながら歌っていたのではないだろうか・・・

kaz



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category: The Singers

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復帰 

 

ブログで自分の病気のことを話題にすることは、あまりないと思う。でも自分の病気を明らかにしたことで、このブログを読んでいるリアルな知り合い、例えば、サークル仲間の中には、大変驚いたりした人もいたみたいだ。



「実は私も・・・」と打ち明けられることもある。そう、癌という病気は、とても身近な病気なのだ。今は若く、そして元気な人でも、癌になる可能性はあるのだ。いや、可能性は高いと言い直したい感じだ。もし、そうなった時に、「そういえば、かつてkazさんという人がピアノを弾いていたけど、癌の攻撃を何度も受けても、ピアノって弾いていられるのね」と思ってくれたら、僕としてはとても嬉しい。

体力面では、とても深刻だ。以前だったら弾けただろうなと思う曲でも、体力の問題で弾けない曲が出てきた。また、ピアノライフの縮小もしなければならなくなった。以前は複数のサークルに所属していたし、単発的な弾き合い会のようなものも参加していけたら楽しいだろうな・・・などと思っていたけれど、今はとても無理だと感じる。サークルは一つだけで精一杯だ。

電車に乗って会場に辿り着くのも実は大変なのだ。疲れて目の前が真っ暗になったりする。駅や公園のベンチなどで休みながら到着しているのだ。でも、練習会ではそのような体力で僕が弾いていると感じているメンバーはいないと思う。最近は、体力配分も上手くなってきたので、練習会後の打ち上げなどでも、僕の体力の無さを見破る人はいないはずだ。多分・・・

そのような中、ピアノを弾くって、なんだか楽しい。

僕が密かに誇りに思っていること、それは「癌でも、そして再再発してもピアノって弾けるんだよ」ということを実践しているということ、また「電子ピアノでもピアノって弾けるんだよ」ということを演奏することで証明しているということ。癌という病気も悪いことばかりではないのだ。新たな目標ができるし、その目標を目指すことで自尊心を保つことができるのだから。

僕が言われて嬉しい言葉は「えっ、kazさんは電子ピアノで練習しているの?」という驚きの言葉だ。これはとても嬉しい。「えっ、癌なの?癌なのにピアノ弾いているの?」とは言われたことはないけれど、こちらは言われてもあまり嬉しくはないかなぁ・・・

僕がブログで時に(いつも?)辛辣なことを書くのは、これも自分の病気というものが関係しているものと思う。いつまで書けるか分からないわけだから、書きたいことは書いておこうという心理が働くのだと思う。

選曲に関しては、癌というものを恨んだりすることもある。長期的な視点で選曲をする楽しみは僕には生涯ないだろうと思う。たとえば、「来年の演奏会は何を弾こうかな・・・」などという楽しみとはもう無縁なのだ。「来年かぁ・・・生きてる?」みたいな・・・

なんで、こんなことを書いているのかというと、この人が復帰したのを知ったからだ。咽頭癌で闘病したということ、演奏会をキャンセルしたことなどは知っていた。個人的な知り合いではないけれど、やはり癌からの復帰というのはとても嬉しいのだ。

kaz



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無難に弾きたい? 

 

先日、友人に来月の演奏会の曲を聴いてもらった。この時のことは以前に書いたけれど、友人の感想の中に「演奏に悲壮感を感じる」というものがあった。「一生懸命なのは伝わるんだけど、その一生懸命さが悲壮感に思えてくるんだよねぇ・・・」と。



考えるに、その時の演奏は、僕なりの曲への想いというもの、音楽への想いというものよりは、「本番でどのように弾けるか」という演奏者目線が全面に出てしまったからだと思われる。

当然、30分のステージを暗譜で弾き通すわけだから、それだけで怖さがある。

客席が暗くなり、ピアノの前に座る・・・そのことを想像しただけで「どうしたものか・・・」と緊張する。その場を、いかに切り抜けるか・・・という思いで一杯になってしまう。

「kazがどのように弾けるか・・・なんて聴きに来ている人なんていないんだから、自意識過剰じゃない?もっと曲そのものを聴いている人が感じられるようにしないと・・・」

たしかに、今は「失敗しませんように・・・」と自分で思いすぎているような気はする。でもそれで当然ではないのか?

ピアノを再開したいと思った時、その時には「上手くなりたい・・・」というよりは、「音楽に触れたい・・・」と思った。そのような思いは、演奏会を控えた今、少なくなっている?

Aさんの演奏を聴いて、考え込んでしまったのは、彼の演奏には「愛」というものが感じられるから。「本当に、この人、ウィーンのワルツやオペレッタが好きなんだなぁ・・・」ということが伝わってくる。超絶技巧を聴かせてくれるわけでもないし、編曲が凝っているわけでもない。クリティカルに聴けば、まぁ、いろいろとあるのかもしれないが、でもAさんの演奏には惹きこまれてしまう。今の僕に全く欠けている要素、作曲家や作品への愛というものが彼の演奏からは伝わってくる。

この演奏は、Aさんが敬愛するレハールのワルツのポプリ・・・

「本当にレハールが好きなんだなぁ、敬愛しているんだなぁ・・・」ということが伝わってくる。電子ピアノの演奏でも惹きこまれてしまう・・・

おそらく、今の僕は「本番」「人前」「演奏会」と思いすぎているのかもしれない。

「自分がどのように弾けるか・・・この部分は自分の問題なのだ」と強く自分に言い聞かせてみる。失敗をしたくないという思いは消すことができないとは思う。でも消極的な演奏になってしまっても・・・と思う。

kaz



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category: ピアチェーレ

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趣味ピアニストの夢 

 

世の中には専門的にピアノを習っているというよりは、趣味という認識で習っている人が、子どもを含めて圧倒的に多いのだろうと思われる。



よくカテゴライズされるのだ。「専門的に習う・・・音大をも視野に入れて」とか「趣味なので、ピアノの楽しさを味わうことを重視して」のように・・・

ピアノで楽しさを・・・ここの受け取り方は人によって様々なのだろう。何をもって「楽しさ」と感じるかは、人それぞれなのだ。もし、指導側が「専門=音大」「趣味=楽しさ」と大雑把に捉えているのならば、趣味で弾く人のニーズに応えられないのではないだろうかと思う。趣味ピアノにだって、夢はあるのだ。

子どもの時に習っていたピアノ、この時の経験が、大人になって再びピアノと共に生活したいと思った時に生きてくるのだ。子どものピアノレッスンというものは、その子どもの将来にまでつながっている。その子どもが、どのような夢を将来描くかは分からないけれど・・・

ここでピアノを弾いているAさんは、子どもの頃、ピアノを習っていた。もちろん、ピアニストになるとか、音楽院に進むという、いわゆる「専門的に」というレッスンではなく、趣味のピアノとして習っていた。その頃の先生は、穏やかな先生だったそうだけれど、基礎というものを徹底的に教えてくれたのだそうだ。

「今は納得できないかもしれないけれど、あなたは音楽が大好きなんだと思うの。将来、またピアノを弾きたいと思う時がきっとくると思う。その時のことを考えて私は教えなければならないと思っているわ」

Aさんは、正直、その頃は先生の言っている意味が理解できなかったのだそうだ。でも先生の予言は当たったのだ。

ピアノは嫌いではなかったけれど、Aさんはスポーツに熱中するようになり、ピアノから離れた。勉強も大変だったし・・・

音楽を聴くことは好きだった。ピアノを辞めても音楽は聴き続けていた。特にオペレッタが大好きで、CDも沢山所有していた。Aさんは「音楽を聴く生活」に満足していた。仕事が忙しいからこそ、音楽は安らぎを与えてくれた。

ある日、心の底から「触れたい」と感じた。理由は分からない。でも聴くだけではなく、大好きなオペレッタを弾きたい、直接「曲に触れたい」と思った。かつて先生が言ったのは、このようなことだったのかと・・・

「将来、またピアノを弾きたいと思う時がきっとくると思うわ・・・」

「このことだったのか・・・先生が言っていたのは、このことだったのか・・・」

基礎というものを徹底的に教えてくれた、かつての先生にAさんは心の底から感謝した。

Aさんは電子ピアノを購入し、再びピアノを弾くようになった。夢はオペレッタを作った作曲家たちとピアノで会話すること。

趣味ピアノ、趣味ピアニストの夢・・・

「初めてオペレッタを劇場で聴いた(観た)時の感動は忘れられないよ。幕が開くと、そこは光り輝く世界だった。官能的なメロディーが僕を圧倒したんだ」

「聴くだけのものと思っていた。でも弾きたい・・・僕も直接触れたいと何故か思ったんだよね」

子どもの時の趣味ピアノ・・・それは将来につながっているものなのだ。

kaz



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category: 未分類

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演奏価値・商品価値 

 

コンクールというものは、基本的に他者との比較というもので成り立つ。比較なのだから、そこには選定基準のようなものが当然あり、その基準に大きく外れないコンテスタントが有利になっていく。

演奏というものを、むりやり比較することの無理を感じてしまう。上手い、下手というものが明確に判断できる段階ならまだしも、本選ぐらいになれば、皆「上手」なわけだから「無理」を感じてしまうわけだ。

コンクール覇者の演奏、どこか「減点サバイバル」というものを勝ち抜いた、ソツのない演奏という気はする。まぁ、演奏そのものだけではなく、その他の演奏には関係のないものも選考には絡んでくるのかもしれないし・・・

インプレサリオたちの目に(耳に)留まり、演奏の場を与えられるピアニストは、コンクールの覇者とは、また違った「したたかさ」があるように思う。インプレサリオたちは、「お上手な演奏」や「ミスなき演奏」を求めているわけではないからだ。そこには「聴衆の耳」「聴衆の欲求」というものが反映されているように思う。その演奏が「また聴きたいわ」とか「他の曲も聴いてみたい」と聴き手に感じさせることのできる演奏かどうか、そのような演奏のできるピアニストであるのか・・・・という視点が加わってくる。

演奏というものは、芸術なのだと思うけれど、演奏会というものは、同時にビジネスの場でもある。演奏はプロの場合、「練習成果の披露」ではなく「商品」でもある。その演奏が、どんなに上手に演奏されていて、どこも減点要素のない演奏であっても、商品として魅力がなければインプレサリオたちは動かない。

「また聴きたい」=「招聘される」=「ピアニストとしての生活」というシビアなものがそこにはある。

もっとも、インプレサリオたちの耳に届くまでという段階を考えても、コンペティション歴がある程度なければ、それさえ難しいという現実もあるだろう。

Misha Dacicというピアニスト。この人もマイアミ国際ピアノ・フェスティバルのホームページから見つけたピアニストだ。この人は、とても「したたかな演奏」をすると思う。

kaz



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category: ピアノ雑感

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好きなピアニストを見つける方法 

 

大きく期待を裏切られることがないという意味において、評価の定まった、有名なピアニストだけを聴くのもいいけれど、ピアニストの演奏を聴く楽しみには、新しい才能の発掘の喜びというものもあると思う。コンクール覇者の演奏を聴くことも、ある意味で彼らはフレッシュな存在であるから、新しい才能の発掘なのかもしれないが、やはり彼らは若いので、物足りない面が(僕には)ある。正直、どの人も同じような演奏に感じられてきてしまうのだ。

ユーチューブを手当たり次第に聴いていくのも、お気に入りのピアニストと出逢う確率としては良くないだろうと思う。自分の直感を信じて、CDショップで、曲目とジャケット(というのか?)の印象で選ぶ方法もあるが、これは大都市圏に住んでいないと難しい方法かもしれない。

もう一つ発掘の方法がある。海外の音楽祭とかフェスティバルのホームページで、過去に招聘されたピアニストや次のシーズンに呼ばれているピアニストで、自分の知らないピアニストがいたら、そのピアニストの演奏を聴いてみるのだ。この場合、ユーチューブで聴くことになる。そのピアニストの演奏を気に入ったら、CDを購入したり、もし来日する機会があったら、聴いてみたりすればいいわけだ。

コンクールは各国の審査員が選んだピアニスト・・・ということになろうが、「~音楽祭」「~ピアノ・フェスティバル」のようなものは、審査員ではなくインプレサリオの意向というものが大きく関わってきているように思う。インプレサリオ・・・つまり興行主。

むろん、全く無名の存在であれば、インプレサリオの耳にも届かないわけだが、彼ら、インプレサリオたちは、そこそこ活躍しているとか、ローカルなピアニストたちの発掘が上手いと思う。彼らに光を当て、さらにワールドワイドの存在にしていくというか・・・

むろん、有名ピアニストだけを招聘する音楽祭が多いけれど、中には「発掘」という面を重視している催しもある。個人的に僕が注目しているのは、フロリダのマイアミ国際ピアノ・フェスティバル・・・

このフェスティバルに招聘され、演奏したことがきっかけで、有名になったピアニストは多い。以前紹介したホルヘ・ルイス・プラッツもそうだし、あとはケマル・ゲキチなどのピアニストがその例になるのではないかと思う。このフェスティバルのインプレサリオは、どこか「知られざる才能」というものの発掘に力を入れているように感じる。有名ピアニストの演奏会も、もちろんあるけれど、どちらかというと、日本などでは知られていない「これからの有望株」というピアニストの演奏会が多いと思う。

このAmir Katzというピアニストも、このフェスティバルのホームページで見つけた、個人的には注目しているピアニストだ。

音楽祭やフェスティバルのホームページには未来のピアニスト情報が満載だったりする。新しい才能を発掘してみてはどうだろう?

kaz



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category: ピアノ雑感

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聴き手目線が足りない 

 

「親和力」というもの、ここに何故こだわっているのかと言うと、先日友人に来月の演奏会の曲を聴いてもらったのだ。残念ながら、僕の友人は全員クラシック音楽が大嫌いなので、誰も演奏会を聴きに来てはくれない。

「え~っ、ピアノの演奏会?クラシックでしょ?それだけは勘弁して~」

先日聴いてくれた友人には、食べ物で釣って、無理やり聴いてもらったという感じだ。彼は、クラシック音楽は嫌いだけれど、南米のフォルクローレは好きなので、「アルフォンシーナと海」を僕が弾くということで、なんとか聴いてくれたのだ。

一通り僕が演奏会の曲を弾くと、彼はこう言った。

「う~ん、なんというか、上辺だけ・・・という気がする」

「そうなの?」

「クラシックの演奏会が苦手なのは、聴き手との一体感がないからなんだ。演奏者は演奏者で聴き手と断絶しているというか、自分だけ一生懸命演奏しているだけで、聴いている人との一体感がないんだよね。だから退屈なんだよね」

「ふ~ん」

ここは僕も常日頃思うところだ。

「本番で上手く弾きたい」という思いは誰でもあるだろうけれど、クラシックの場合、それが「失敗しないように」とか「練習と同じように弾けますように」と同じになりがちだ。これは、自分のことだけで、聴き手のことを視野には入れていない。

「まだ練習が足りないので一生懸命練習しなくては・・・」これも自分目線の考えだ。むろん、練習は必要だが、聴いている人がどう感じるか・・・という目線が入っていない。自分の出来栄え重視というか・・・

演奏の出来映え・・・これを気にしているのは、親とか先生、あとは自分自身だけだったりするのではないか?事実、僕自身も人の演奏を聴く時には、出来栄えなんかは気にしない。気になるのは、惹かれる演奏か、退屈な演奏か・・・だけだ。

自分のことになると急に出来栄えが気になるのだ。なので、自分の世界だけで弾いてしまう。「家で練習していた時のように弾けますように・・・」となってしまう。

「なにやら難しげな顔をして、お辞儀をして、何やら難しげな曲を弾いて、さっさと引っ込んでいく。クラシックってなんだか分からない・・・」

「どうすればいいんだろう?」

「ハッ・・・と思わせる要素がないと退屈なんじゃない?」

「でも・・・プロではないしぃ・・・お金も取らないしぃ・・・」

「人に聴かせるんでしょ?だったら演奏にセールスポイントがないと。他のジャンルの音楽だったら、これって当たり前のことだよ?クラシックの人って作品に依存しすぎじゃない?だからつまらないんだよ・・・」

「そんなにつまらない?」

「クラシック的には、いい演奏なんだと思うけど、上辺なんだよね・・・聴き手を動かす力感に不足している・・・」

・・・ということで、「親和力」ということが気になりだしたのだ。

聴き手目線・・・かぁ・・・

「アルフォンシーナを弾くんだったら、聴き手を泣かせなきゃ。これはそんな曲だろ?」

「泣けない?」

「泣けないねぇ・・・」

「どうしたらいいんだろう?」

死ぬほど練習すれば解決する・・・というようなことでもないので、だから難しいのだ・・・と思う。

「ソレダ・ブラボ・・・とか聴いてみれば?あの情念の世界があると聴き手もハッとすると思う」

ソレダ・ブラボ・・・かぁ・・・濃いなぁ・・・

「親和力」「情念」「聴き手目線」

ピアチェーレの演奏会まで、あと一か月・・・

kaz

友人おすすめのソレダ・ブラボの「アルフォンシーナと海」・・・

濃いよなぁ・・・



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category: ピアチェーレ

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空気を動かせるピアニスト 

 

親和力ということで、思い出したピアニストがいる。キューバのピアニスト、ホルヘ・ルイス・プラッツ・・・

日本での知名度は今ひとつか・・・という人なのだけれど、欧米では巨匠的な扱いをされているピアニストだと思う。

この人は、キューバ出身ということで、以前は活動が限定されていたところがある。アメリカでのリサイタル、この時の演奏が注目され、一気に人気に火がついたのだと記憶している。日本で火がつかなかったのは非常に残念ではあるけれど、今聴いておくべき注目のピアニストだと思う。ソコロフは日本には来てくれないけれど、この人は来日してくれるのが嬉しい。でも割と小さめのホールで地域も限定されているのが残念だ。考えようによっては、今のうちでないと聴けなくなるピアニストかもしれない。日本でも火がついたらチケット入手も困難になるのではないかな・・・そんなピアニストだと思う。

僕がホルへ・ルイス・プラッツを聴いたのは、日本ではなくヨーロッパでだった。たしか、アムステルダムのコンセルトヘボウだったと記憶している。この時は、開演前から異様な熱気と演奏者に対しての期待感に満ち溢れていた。この時は、彼はまだ「話題の人」だったのだ。才能が明らかにされていなかったというか・・・

「凄いピアニストらしい・・・」

「聴き手を夢の世界に誘うピアニストということだ・・・」

演奏が始まると、演奏者と聴衆のエネルギーが結合し、異様なエネルギーの高まりが感じられた。実際には見えるはずはないし、見たわけではないけれど、ホールに火花が散るとでもいったらいいのだろうか?

何と形容したらいいのだろうか?演奏者と聴衆とのテンションのやり取りが普通ではないのだ。聴き手の集中度、演奏者から醸し出される音楽のエネルギー・・・

会場の空気を動かせるピアニストはそう多くはない。上手くて達者なピアニストは実に多いけれど・・・

kaz



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category: あっぱれ麗し舞台

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親和力 

 

カルロ・ベルゴンツィが亡くなった。90歳だったそうだ。

ベルゴンツィの歌声を一度だけ生で聴いたことがある。もう20年近く昔のことだ。カーネギー・ホールで聴いた。その時の演奏が、ユーチューブにアップされている。あらためて、その時の歌声を聴いてみると、様々な記憶が蘇ってくる。

僕が聴いた時には、ベルゴンツィは70歳を過ぎていた。テノール歌手で、その年齢まで歌うということ、そのものが驚異的であると思うのだが、それだけではなくベルゴンツィの演奏には「親和力」があると思った。

親和力とは、化学の言葉で、元素どうしが互いに引き付け合って結合する力のことを言う。これを音楽に当てはめてみると、演奏者の想い、技能というものが、聴衆の熱い想いと重なり、引き付け合って結合し、あるエネルギーが生まれるということだと思う。このエネルギーは分析することも困難だし、当然見えるものでもないけれど、でもはっきりと感じることのできるエネルギーだ。

このエネルギー、親和力を生み出すことのできる演奏家は数少ない。偉大・・・と呼ばれる演奏家のみが持つことを許されているような・・・

優秀な演奏家は多い。でも偉大な演奏家は少ない・・・

もし、「声」ということのみを求めるのであったなら、若い頃のベルゴンツィのCDを聴けばいいのだ。素晴らしい声を、そして芸術を堪能できる。

この日、カーネギー・ホールにいた人々は、ベルゴンツィの「親和力」に触れにきたのだと思う。そして堪能した。

今でも、はっきりと想い出すことができる。聴いている人、すべてがベルゴンツィの歌声に集中している。そしてエネルギーが動く。たしかに、あの場にはエネルギーの動き、投げ合いがあったと思う。

ベルゴンツィ・・・

一人の偉大な歌手が、また亡くなった・・・

親和力を生み出すことのできる芸術家が亡くなった・・・

kaz



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category: The Singers

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ヌエバ・カンシオン 

 

南米の曲というと、我々日本人にとっては、どこか「底抜けに明るい」というイメージがある。躍動するサンバのリズム・・・のような。

南米のフォルクローレを聴いていくと、それだけではない、いや、それとは正反対の、どこか物悲しい、そして秘めた力強さを感じさせる曲が多いのに気づく。

南米フォルクローレにおいては、1970年代、南米激動期に起こった「ヌエバ・カンシオン」という動きがあった。ヌエバ・カンシオン・・・新しい歌運動とでも訳せばいいのだろうか。

「死体収容所は建物全体が死体で埋め尽くされていた。そして、無数の列の中ほどに私は夫を見つけた。彼らはどんなことをあなたにしたのか。眼は見開かれていた。頭部や顔面の恐ろしい裂け目にもかかわらず、いまだに抵抗しながら前を見つめているように思えた。彼の服はナイフで引き裂かれ、彼の手首は異様な角度で腕からぶら下がっていた。胸は穴だらけでパックリと傷口が開いていた・・・」

これはビクトル・ハラの妻、ジョアンが夫の死体を見つけた時の手記だ。

ビクトル・ハラは南米チリに生まれた。フォルクローレのメロディーを採取し、そして自身で詞を書くため、農村を旅している時、虐げられ、貧しさに喘ぐ人々の姿を目にした。ビクトルは、歌手として、そのような現状を歌で変えていけたらと決意したのだ。南米全体も革命で揺れていた時代だ。ビクトルのような、歌での世の中の変革を目指す運動は、ヌエバ・カンシオンとして南米全体に広がっていった。

「僕らは、それまで歌われなかった真実を語り、歌っている。他人の畑を血と涙で潤している農民を、社会に押し潰されて死んでいく工場労働者を・・・」 ビクトル・ハラ

運命の9月11日と呼ばれている日、時の大統領、アジェンテが「民主主義は軍部に降伏しない」と言い残し、ピストルで自決する。軍部の圧政に抵抗する民衆もスタジアムに閉じ込められた。その数、7000人とも言われている。そこにビクトル・ハラもいたのだ。

ビクトルは、そこで歌を歌ったのだ。手拍子を打ちながら歌を歌い続けた・・・

「おい、貴様、歌をやめろ・・・」

それでもビクトルは歌い続けた・・・

「やめないか・・・」兵士はビクトルの両腕を折り、指を砕いた。それでもビクトルは歌い続けた。歌うことで世の中を変えていくことが彼の使命だったから・・・

「これでも歌えるのか、歌えるものなら歌ってみろ!」

兵士はビクトルの体中に機関銃の弾丸を浴びせ続けた・・・

ビクトル・ハラ・・・享年40歳・・・それほど昔の出来事ではない。1970年代の出来事なのだ・・・

この曲はビクトルの代表曲である「耕す者の祈り」という歌。

「起き上がれ、そして両手を見てごらん。育ちゆき、君の兄弟たちの手を握るために。僕らを貧困へ支配するものから解放しよう。共に行こう。血の絆に結ばれ、今も、そして僕らの死の時も・・・」

禁じられた歌―ビクトル・ハラはなぜ死んだか禁じられた歌―ビクトル・ハラはなぜ死んだか
(2013/01/13)
八木啓代

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「僕はギターが弾けるから、歌が上手いから歌うんじゃない。僕は、僕の主張のために歌う」 ビクトル・ハラ



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category: 好きな曲・好きな演奏

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ギロックなら・・・ 

 

僕はピアノ指導者ではないし、子どもを教えているわけではないので、あまり教材や子ども用(?)の曲については詳しくはない。でもブログなどで、よく登場する作品、邦人作品も含めて、そのような作品は聴いたり楽譜を購入したりしている。自分が人前で弾くわけではないのだけれど。

そのような作品、つまり昔は存在しなかった作品の中で、群を抜いて弾かれていて、レッスンでも教材として使用されているのはギロックの作品なのではないだろうか?

個人的にはギロックの作品はキャッチ―だし、響きも綺麗だし、いい曲だなと思う。どの曲も・・・

きっと、ギロックという人は、とても愛情深かった人なのだと想像する。作品に愛情が反映されている感じがする。

でも、ちょっとギロックが可哀そうだな・・・と思うこともある。それはギロックを選択する際の教師側の動機において。

教材研究というものも大切なのだと思う。知らないよりは知っていた方がいいし、引き出しは多いほうがいい。

でもどうなのだろう?

「うちの生徒、ソナチネ・・・練習しないのよね」

「あらぁ、あなた、そういう時はギロックを弾かせたら?」

「そうよ。今はいろいろな教材があるのよ。私はキャサリン・ロリンの曲なんかもレッスンで使用しているわ」

「やはり教材研究はした方がいいと思う。ギロックなら生徒の目の輝きが違うし、興味を持って練習してきてくれるの」

「教師は常にアンテナを張り巡らせて情報を得ておかないとね・・」

ギロックもこのような使われ方をしたら、本望ではないだろうと思う。ソナチネだと練習しないから、だからギロックという発想の前に、どうしたらソナチネを練習してきてくれるのかを考えるのが先だと思う。ソナチネは重要でしょ?古典作品は重要でしょ?どの生徒にも基礎は必要でしょ?

「別に専門家になるわけではないし、生徒がつまらなそうに弾いているのだったら、興味の持てる曲を弾かせるのは一つの指導の在り方だわ」

そうかな?このあたり・・・すごく疑問だ。自分の作品が、どこか「逃げの教材」として使用されているのだったら、ギロックも悲しんでいるのではないだろうか?

バロック、古典を弾けないままピアノを辞めてしまうと、将来、もしピアノを再開することになったとしても、本当に苦労すると思う。個人的経験から強く強く思うところだ。

とはいえ、作品としてギロックは本当に魅力的だ。作品に罪はない。

「ギターのギロック」とでも呼びたい作曲家が、ティエリー・ティスランドという作曲家。フランスで活躍しているギタリストらしいのだが、素敵でキャッチ―な曲がたくさんある。最近発見してハマっている作曲家だ。

このような作品は「逃げ・・・」として使用したら可哀そうだと思う。

kaz



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category: 未分類

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「11月のある日」の情景 

 

「あれから3年の歳月が二人の間に流れたのですね・・・永遠の愛をお互いに誓ったあの時から。あの時はその愛を信じていました。今だってその愛は消えていない。あの時、私は、あなたのアメリカ行きに心から賛成した。私たちの愛は日本とアメリカとの距離をも乗り越えられると思っていました。あなたは卒業するまで日本には帰らないと言っていたわね?でも卒業しても帰らず、さらに大学院で勉強するという手紙をもらった時、私たちはお互いに別々の道を歩み始めたのかもしれないと感じました。そう感じるのはいけないことなのかしら?私は永遠にあなたを待っていなければいけないのかしら?あなたは新たな人生を見つけて歩み続けている。私からどんどん離れていってしまう。さらに3年待ってくれって・・・それは無理。私にも人生があるもの。私はある人と結婚することにしました。私は、日本で自分の人生を歩みたいの。もう若くはないし。勝手かもしれないけど、もう待てない。さようなら・・・」

彼女からの手紙を僕はニューヨークで受け取った。読みながら涙が溢れた・・・

読みながら周囲の雑踏の音が消えた・・・

それは11月のある日のことだった・・・

レオ・ブローウェルの「11月のある日」・・・

ピアチェーレの演奏会で、このギター曲をピアノで演奏する。聴いている人の、それぞれの「11月のある日」の情景が浮かんでくるような演奏にしたい・・・と思う。

あなたの「11月のある日」を・・・

kaz



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category: ピアチェーレ

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テクニックとメカニックと音楽的演奏 

 

「ハノンやバーナムなどの教材でテクニックを養い・・・」「残念ながらテクニックはあるけれど、音楽性に欠ける」

この「テクニック」という言葉、なんとなく読んでしまい、何も疑問に思わないところだけれど、この場合は「テクニック」ではなく「メカニック」という言葉、そして概念が正しいのだと僕は思う。日本の教育現場、愛好家、「メカニック」と「テクニック」という概念の混同があるように感じる。すべて「テクニック」で通してしまうというか・・・

言葉の問題だけだったらいいのだけれど、概念の混同となると、ちょっと問題になってくるように思う。メカニックは純然たる「身体的運動能力」のような意味なのだと思う。どれだけオクターブが楽に早く弾けるかとか、指の敏捷性がどれだけあるとか・・・

メカニックを駆使して、表現というもに結びつけるツールを「テクニック」と呼ぶのだと思う。なので、よくある、バリバリと達者に弾けているけれど、なんとなくそれだけの演奏・・・というものは、テクニックはあるけれど、音楽性に欠けるということではなく、メカニックはあるけれど、テクニックが欠けているというのが本当だと思う。テクニックがあれば、音楽的に聴こえてくるという概念が正しいのだと思う。

この概念の混同によって起こる問題、たとえば、「音大に進学するわけではないのだから、楽しいレッスンを・・・」という概念。これが問題となってくるように思う。

ピアノの鍵盤を押して、音が出てくる、両手で弾けるようになってくる、これだけのことではピアノは続かない。ごくごく初歩の段階からテクニックの指導が必要になってくると思われる。なぜなら「素敵に弾けた」という演奏、それには必ずテクニック的裏付けが存在するからだ。子どもでも、趣味でも・・・

満足感というものは、ただ曲が弾けた・・・ということではなく、「素敵に弾けた」とか「上手に弾けた」という表現というものが子どもだろうと、趣味ピアノだろうと関わってくるものだと思うので、そこにはテクニックの具体的指導が必要となってくると思うのだ。

音楽的な演奏とか、素敵な演奏というものがテクニックとの大きな関わりがあるのだとしたら、初歩、導入の段階からテクニックの指導が必要となってくるように思う。このあたりで現場の概念がいささか足りないと、表面上は整えられた、達者な、でも無味乾燥な演奏というものが出来上がってくるのではないだろうか?

優秀な音大生の演奏になく、ホロヴィッツにあるもの、それはテクニックなのだ。

このテクニックの概念、ここが足りないと、なんとなく曖昧模糊とした「才能」とか「音楽性」とか「感受性」というものでテクニックが語られてしまうようにも思う。なんとなく・・・では表現になり得ない・・・

「もっと歌って~」「なんで音楽的に弾けないのかしら・・・」「もっと感情を込めて~」

そのような演奏にしたいのならば、そのように聴こえるテクニックが必要だ。メカニックを表現に結びつける具体的方法であるテクニックがないと、感情豊かには聴こえない。なんとなく気持ちのうえで感情を込めれば、演奏に反映できるというものでもないのだ。

このお爺ちゃんホロヴィッツのようにメカニック的には弾ける日本の音大生は山ほど存在すると思う。オクターブ連続など、ホロヴィッツをも上回るメカニックを持った音大生だっているかもしれない。でも、このお爺ちゃんホロヴィッツのように演奏できる音大生は少ない、というか、いない・・・のではないだろうか?

それは「テクニック」というもの、そしてその概念が欠けているからなのだとしたら?テクニックを教わってきていない結果なのだとしたら?

現場が「テクニック」「メカニック」「音楽性」「才能」というものを、どこか混同している結果なのだとしたら?

素敵に弾くためにはテクニックが必要だ・・・初歩でも・・・

kaz



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category: ピアノ雑感

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子どもは必ず大人になるのだから・・・ 

 

音楽の世界にタッチしていたいと思う。受けるだけではなく・・・

このような爆発しそうな感覚、これを感じたのはピアノなんか辞めてしまってから30年が経った頃・・・

「触れたい」と思った。

それまでの人生でも思ってはいたのだろうと思う。僕の場合、病気というものと共存して生きていかなければならないと観念した時、その時に音楽にタッチしたいと強烈に思った。「弾けるだろうか」「練習の時間は捻出できるだろうか」様々な思いは駆け巡ったけれど、でも弾きたかった・・・

同時に、かつて子どもの頃、ピアノを習っていた時、僕には何もなかったのだなと思った。強く強く「弾きたい」「音楽に直接触れたい」と熱望した時、僕には「何もないのだな・・・」と思った。激しい後悔・・・

「なぜ子どもの頃、きちんと弾けるように練習してこなかったのだろう?」

激しく後悔した。何も無いのだ。基礎もない、「弾けた」という想い出もない、直接ピアノに触れて「感動できた」という感覚がない・・・

ピアノに限らずだと思うけれど、楽器演奏という習い事は、「変化」というものの影響を直接受ける。練習する時間ということからも、そして音を出せる環境ということからも・・・

子ども時代から大人になるまでレッスンに通い続けている人のほうが珍しいだろうと思う。進学、結婚、育児、就職、転職・・・と人生には色々とある。基本的には今習っている生徒は、いつかは「辞める」のだ。

ピアノを弾くこと、レッスンは辞めても、人間だから「触れたい」と思う瞬間がいつかはやってくる。

この時、再開の時に「礎」となるのが、子どもの頃の経験だと思う。僕にはこの部分が全く欠けている。

昨今のピアノ教育、どうも長いスパンでの考え方というものに、少し欠けているように思う。子どもは、かならず大人になるのだ・・・という視点だろうか?その時、どれだけ現在のレッスンでの経験が生きるのだろう・・・という視点とでもいうのか・・・

100人のピアノ教師がいれば、100の理念があるだろうし、具体的指導法もそれぞれだろう。どの方向性が間違えているとか、正しいということでもないのかもしれない。

ただ一つ共通しているのは、「子どもは大人になるのだ」ということ。

大人になって、人生の最も辛い時、音楽に直接触れることができたなら・・・

そのような時に、子ども時代の経験が生きたなら・・・いや、生きなければならないとさえ思う。

生活の一場面、そこで音楽に直接触れることのできる瞬間がある生活、ちょっとした時間に楽器を奏でられることのできる瞬間・・・

このような瞬間は大人になって宝石のような一瞬なのだ。楽器が演奏できる、音楽に直接触れることができるということ、これは命をも救うことだってあるのだ。僕がそうだったもの・・・

今日も全国でピアノのレッスンがあるのだろう。多くの子どもがレッスンに通うのだろう。

その子どもの、30年後、40年後、今、現在のレッスンが大きく影響するのだとしたら?

子どもは、必ず大人になる。

大人になった時、この人のように、生活の中に「楽器演奏」「音楽への直接の触れ合い」というものがあったなら・・・

子どもは、いつか大人になる・・・

kaz



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category: レッスン

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演奏~瞑想~迷奏 

 

本番の舞台で演奏している時、おそらく聴いている人は演奏者が集中しているように見えるのだと思う。音楽の世界に入り込んでいるというか・・・

僕の場合、物凄く緊張はしているのだと思うけれど、割と演奏中は、どこか冷めているというか、頭の中が雑念だらけだったりする。ピアノの場合、他の楽器とは異なり、客席を向いて演奏するわけではないけれど、客席の様子が視覚に入ってくることがよくある。

演奏会では、鍵盤の見えない客席位置、つまり会場の右側、特に舞台に近いところが最後まで埋まらない傾向がある。演奏者にとっては案外、この傾向は喜ばしいことなのではないか?少なくとも僕はそのように感じる。

演奏していると、この位置の客席の様子が意外と目に入ってくるのだ。子どもが足をブラブラさせていたりすると、とても気になってしまう。そうではなくても、聴いている人の服装などを僕は観察していたりする。柄物のスカートとか、目に入ってきてしまう。この場合、大きなホールだと気にならないのだが、雑司ヶ谷音楽堂のような小さなサロンのような会場だと、とても気になってしまったりするのだ。

「いけない、演奏に集中しなくては!」

と思うのだけれど、雑念が雑念を呼ぶのか、「打ち合げでは揚げ物が食べたいな」とか「明日の勤務の段取りは・・・」とか、全く演奏とは関係のないことが頭の中を駆け巡ってしまう。僕の場合、演奏中は「え~っ、そんなこと考えてるの?」と思うようなことを考えながら弾いていたりするのだ。もし、僕が演奏に集中していたり、音楽の世界に没頭しているように聴いている人から見えるとすれば、それは僕が雑念を追い払おうとしている姿なのだ。

話題は突然変わるけれど、Stefan Schmitzというドイツのギタリストがいる。僕は彼のファンで、ファンレター(メール)を送ったりもしている。彼からも返信が来たりして、たまにメールのやりとりなんかをしている。

彼も客席の様子というものは視覚的に、とても気になるのだそうだ。

彼の場合は、演奏中は、絶対に楽器から目をそらさないようにしているのだそうだ。意識的にそのようにしないと、客席に向かって笑いかけてしまいそうになるのだそうで・・・

演奏中は、意外と雑念が多いもののようだ・・・

kaz



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category: ピアノ雑感

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至近距離 

 

メルセデス・ソーサやタニア・リベルターの歌唱に感動したとしても、最初は、その歌の世界をピアノで・・・という発想にはならなかった。「アルフォンシーナと海」をピアノで弾いてみたいと思ったのは、ローラン・ディアンスの編曲バージョンの存在、そしてその本人の演奏を聴いたのがきっかけだ。

今回は、ギター譜をもとに、ディアンスやリベルターのパフォーマンスからの世界観を僕なりにピアノで表現してみるつもりだ。

さて、ピアチェーレのチケットだけれど、現在35枚というところ。メンバー自身が受付に置いたり手渡しする分のチケットは含まれていなかったりもするので、50人の方に来ていただきたいとすると、残券は約5~6枚というところか?

チケットを受け取っても当日来ない方もいると想定しないといけないし、無料の演奏会ならでは、そして小さな会場ならではの難しさがある。60席設置するのだけれど、60席に60人だとキツキツ感があるし、演奏者も弾きにくかったりする。できれば演奏中に聴いている人と目が合ったりしたくないし・・・60人だと当然そうなるし・・・

少なくても閑古鳥は鳴かない感じではある・・・

ディアンスの演奏だけれど、随分と聴いている人と至近距離で演奏しているなと思う。まぁ、ギターという楽器は大ホールよりも、小規模な会場の方が相応しかったりすると思うけれど、でもこの聴衆との距離は弾きにくいんじゃあないか?彼は自分の世界に入っているように見えるけれど・・・

多くの人に聴いて頂きたい、多くの人が当日来てくれると嬉しい・・・

でも至近距離は苦手・・・

kaz



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category: ピアチェーレ

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ブラジルの魂 

 

病室の窓から街の灯りを見下ろす・・・

ただ一点だけを信じる。不安感に押しつぶされそうになる。でも一点の希望だけを信じて生きる。その一点は不安定なものだけれど・・・

無事退院してからも、自分は長くは生きられないような気がいつもしている。僕は人生の最後の挑戦期にいるのかもしれない。仕事にしても、趣味のピアノにしても「これが最後でも後悔しないようにしたい」という気持ちがいつも存在している。

ピアチェーレの演奏会では「何かを共有したい」という気持ちが非常に強い。「何かを伝えたい」というか・・・

同時に、来年のピアチェーレの演奏会のことを考えている自分もいる・・・

現在と未来のことを同時に考えていくのは、今の僕にとって非常に困難なことだけれど、一点を信じることで救われる。僕には、その一点しかない・・・

ハファエル・ハベーロというギタリストの演奏を聴く。クラシックの演奏家ではない。CDショップだと、「ワールド・ミュージック」というコーナーで探すような、そんな演奏家だ。

今回の演奏会で、前半にラテンものを弾くので、南米のクラシック以外の演奏も聴いたりしている。

彼の演奏は、深く深く僕の中に入り込んでくる。彼のCDを購入したのは、共演した演奏家の名前に、アントニオ・カルロス・ジョビン、ハダメス・ニャターリ、パコ・デ・ルシアという大物がいたからだ。

ハファエル・ハベーロ・・・1962年の10月31日に生まれ、亡くなったのが1995年の4月だ。30歳あまりの非常に短い人生だったと言える。

ハベーロの場合、僕のような「一点」を見出すことができなかったのかもしれない・・・そう思う。

1989年、彼は事故で多発性骨折になる。ギタリストにとっては将来の希望を打ち砕くような出来事だったに違いないが、彼はカムバックし、演奏を再開する。ここまでは彼も「一点」を信じ走り続けようとしたのだ。

この時の手術の際、医療ミスにより彼はHIVに感染してしまう。ハベーロは一点を見失ってしまったのだ。コカインに溺れるようになった。薬物依存症・・・

それでも彼は麻薬依存症患者治療センターに入院し、再起を誓うのだ。でも身体が続かなかった。発症して、わずか数か月でHIVによる全身性感染症で亡くなってしまう・・・

彼の演奏は、ブラジルの魂そのもの・・・そのように僕には受け取れる。

何かを伝えたい・・・強く思う・・・ハファエル・ハベーロのように・・・

彼の演奏は僕の「一点」を支えてくれている・・・

kaz



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category: 好きな曲・好きな演奏

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