ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

人に求めるもの、自分に求めるもの 

 

人の演奏を聴いて、思わず惹きこまれる演奏というもの、それはミスの有り無しなのだろうか?
多くの人は「そうではないよね」と答えるのではないだろうか?

惹きこまれる演奏というもの、そのような演奏の時には、その場の空気に聴いている人と演奏者の出す音の連なりとの一体感がある・・・演奏している人への無意識の集中というもの・・・

これは演奏者と聴き手とが時間と場所(空気)を共有している瞬間・・・

このような時に演奏者はエクスタシーを感じる。そしてピアノを人前で弾くことを続けたくなる。

どうしてピアノを苦労して弾くの?その答えがここにあると思う。

ミスの有り無しというものが、必ずしも聴き手の感動というものと一致はしないものだ。そのことは多くの人が身体で理解しているところだと思う。でもこれは、あくまでも「人の演奏を聴く場合」となる。

自分がスポットライトを浴びてピアノを弾く時、人々の視線を浴びて演奏する時、ドをレと弾いてしまうと、もうこの世の終わりかと感じる。何故なのだろう?

「あ~ またやっちゃった」「あ~ はずしちゃったぁ~」

頭が真っ白になる。体温が上昇するかのような感覚・・・

自分が演奏する時にはミスはとても気になる。でも人の演奏を聴く時には気にしない。

ここに求めるものの不一致がみられる。自分が演奏する時と人の演奏を聴く時とで、無意識で求めるものが違ってくる。

何故なのだろう?

人はどのようなものを求めているのだろう?それを自分に求めていったら?

勇気がいることだけれど・・・

「演奏というものはね、どう弾けたかなんて関係ないの。人がどのように感じたかが大切なのよ。覚えておきなさいね」 原 智恵子(ピアニスト)

kaz

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category: サークル

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素人の分際で・・・ 

 

ジョンは子どもの頃からピアノを習っていた。ピアノは大好きだったけれど、ジョンには他にも好きなことがあったし、いわゆる「ピアノの専門家への道」というコースには進まなかった。音楽院への進学は考えなかった。

ジョンはドイツ語が好きだった。ドイツ語で小説を読むことが好きだった。もちろん、ピアノを弾くことも好きだったけれど、ドイツ語もピアノも「自分の好きな事」「自分の趣味」だった。ジョンはドイツ語を選んだ。貧乏な家庭ではなかったけれど、裕福というわけでもなかった。自然にドイツ語で生計を立てるという目標ができていった。でもピアノも弾き続けていた。ピアノも好きだったから・・・

ジョンは名門スタンフォード大学に進学した。ドイツ語専攻・・・

卒業後は、高校で生徒たちにドイツ語を教えた。高校の先生・・・ジョン先生・・・

ピアノは「趣味」となった。仕事の合間の時間に弾くことがジョン先生の日課になった。でも細切れの時間しかジョン先生にはなかった。時には試験の採点が終わらず徹夜することもあった。指導案に苦労し徹夜することもあった。ジョン先生は熱心な先生だったのだ。

でもピアノは大好きだった。音楽はジョン先生のすべてだった。それは「仕事」ではないし、ジョン先生の「専門」でもなかったけれど、ジョン先生は音楽を捨てることはできなかった。音楽のある生活、ピアノのある人生を捨てられなかった。

「ジョン先生、たまに年休を取るけど、ピアノを弾きに行ってるんだって・・・」

「コンクールとか受けたりしているみたいだよ」

「でもジョン先生ってピアノなんか弾けるの?弾けるとしても趣味なんでしょ?」

「ジョン先生・・・遅くまで学校に残って・・・ピアノなんかいつ弾いているの?」

ジョン先生は「いつかは自分ピアニストになる」という夢を持っていた。「自分はピアニストになれる」と。夢を捨てることができなかった。でも自分は音楽院で勉強したわけではない。子供の頃から習っている先生に今も習っているけれど、ピアノはあくまでも趣味になるのだろう。自分ではドイツ語もピアノも人生のすべてだけど、人からするとピアノは趣味になるんだろうな・・・

実際にピアノ教師から言われたこともある。「素人の分際で生意気よ!」と。

ジョン先生は、もうすぐ30歳になろうとしていた。コンクールには年齢制限というものがある。ドイツ語の教師を辞めて、自分はピアニストだと名乗ることはできる。ピアノを教え教師だと名乗ることもできる。でも音楽院を出ていない自分がそう言っても誰も注目しないだろう。素人ね、アマチュアなんでしょ・・・と言われるだけだ。

ジョン先生はドイツ語のテスト用紙を採点しながら焦る気持ちを抑えられないこともあった。

「違う自分を試してみたい・・・音楽にすべてを捧げてみたい・・・」

最後のチャンス・・・それは「ヴァン・クライバーン国際コンクール」・・・

ジョン先生は、いつもの生活を変えなかった。変えられなかった。仕事が終わり、夜遅くにピアノを弾いた。持ち帰った仕事が終わらずにピアノを弾けない日も多かった・・・

「自分はアマチュアなのだろうか?それで終わるのだろうか?僕は生意気なのだろうか?専門の道に進まなかったというだけで真剣にピアノのことを考えるのは生意気なんだろうか?」

「素人の分際で生意気なのよ!」この声が頭から離れない・・・

「でも僕はピアノも好きなんだ。ドイツ語も好きだし、教師の生活に不満もないけれど、僕は可能性、自分の可能性を試してみたいんだ。それが生意気なことなのだろうか?僕はピアノが好きなだけなんだ!」

ジョン先生はコンクールに参加した。年齢制限ギリギリだ。他のコンテスタントたちは世界各国から集まってきた「我こそは将来のピアニスト」と顔に書いてあるような強豪ばかりだ。カリフォルニアの片田舎の高校教師である自分になんか誰も注目なんかしていない。

「でも、それでもいい。自分が今まで練習してきた曲を人前で弾けるんだ。それだけでも最高に幸せだ!」

ジョン先生は優勝した。メディアは「アマチュアからピアニストへ」「高校の教師が優勝!」と騒ぎ立てる。テレビにピアノを弾くジョン先生の姿が映し出される・・・

最も驚いたのはジョン先生の教え子たちだ。

「あれっ?ジョン先生?なんでジョン先生がピアノを弾いてるの?」

「ジョン先生ってピアノなんか弾けたんだ・・・」

ジョン先生はピアニストとして第二の人生を歩み始めた。新しい門出を最も祝福してくれたのは、かつての教え子たちだったという。

kaz



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category: ピアニスト

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ピアノの上手い男は煙草が似合う 

 

リストが女性に人気があったのは有名だ。リストが吸った煙草の吸殻をロケットに入れ、それを肌身離さずに持っていた女性も多かったらしい。吸殻を女性たちが奪い合ったとか・・・

バーンスタインはヘビースモーカーだったらしい。一日に5箱は吸っていたとか・・・

「もう煙草は辞めようと思うんだ。でもこれが最後の1本だから・・・」と生涯煙草は吸い続けたという。

ピアノの上手い男は煙草を吸う?

僕も喫煙者。でもピアノを人前で弾く日にしか吸わないなぁ。禁煙を決意したわけではないけれど、普段は吸わない。たしか、数年前の震災の時、「カートン買いしていて良かった」と思った記憶がある。実際にその後、煙草は品薄になったのだと思う。その時のカートン買いの煙草、まだある。いかに日頃は吸わないかということだと思う。

何故に人前でピアノを弾く時に吸いたくなるのだろう?弾く前に緊張にしている時にも吸いたくなるし、演奏が終わって解放された時にも吸いたくなる。

病気を経験して、身体が変わり煙草が欲しくなくなったのだと思う。そのまま完全に禁煙してしまえばいいのに・・・

ピアノを弾く日、それは練習会だったり演奏会だったりするけれど、その日だけは病気を経験する前の自分に戻りたいのだと思う。気分的にも。なので吸う。

僕の喫煙には理由があるのだ。説得力ないが・・・

でも、ピアノの上手い男は煙草が似合うと思う。これも説得力ないか?

kaz



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category: 未分類

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緊張するのは嫌い、でも緊張感は好き! 

 

「道化師の朝の歌」を譜読みし始めたのは、ちょうど一か月前。その後、真面目に練習していれば弾けていたのかもしれないが、優雅にアメリカ旅行などをしていたので、練習期間は正味二週間になる。この曲は、二週間で人前で弾くという曲ではなかったと思う。「無謀」という言葉が脳裏に浮かんでくる・・・

練習会は明々後日になる。夜だけでも練習できるのは、今日と、前日のみ。あとは当日の朝に早起きして練習するしかない。まだ譜読みが終わっていないんだよねぇ・・・

「練習会・・・さぼってしまおうか・・・」

悪魔の声が囁く。病気ということにすればいいのだ。実際、身体の調子はいいわけではないのだ。健康な人の半分くらいの体力しかないのだから、仮病にはならない・・・と思う。会場に辿り着くだけで疲れてしまうと思うし。

小学生の時、仮病でピアノのレッスンを、さぼってしまった経験はあるけれど、さすがに大人になってから仮病を使ったことはない。やはり当日は参加するだろうと思う。

「違う曲を弾いてしまえば?」

また悪魔の声が囁く。

この声は、とても魅力的だ。でもラヴェルを弾くだろうと思う。

緊張して弾きたいのだ。これはどうしてなのか分からない。緊張した状態が好きなわけではない。でも人前で弾く時には適度な緊張感が欲しくなる。

サークルによって練習会(オフ会)の雰囲気はいろいろあるだろうと思うけれど、僕が所属しているサークルは、割と緊張感のあるサークルだと思う。中には、雑談をしている中で弾き合うようなサークルもあるだろうけれど、僕はあまりそのような雰囲気の中で弾くのは好きではない。何故だかは分からないが・・・

一巡目はくじ引きで演奏順が決まり、緊張感のある中で演奏するサークルでも、二巡目には雑談の中でフリーに弾くサークルが多いように思う。僕の所属するサークルは、二巡目も緊張感がある。ここがいいな・・・と思う。練習会の最後まで緊張感が持続している。おそらく、僕だけではなく、他のメンバーも僕と似た考えの人が多いのだと思う。「せっかく練習して参加費を払って、しかも日頃は触れないようなピアノで毎回弾くのだ。緊張感のない、ゆるい時間は勿体ない」と思うのではないだろうか。

二順目がフリータイムになってしまうと、どうしても古株メンバーばかり弾いてしまうことになりがちだ。新しいメンバーは、なかなか弾きにくいものなのだ。二巡目も一巡目と同じ順番で弾くというのは、公平性があって大変いいと思う。

明々後日はファツィオリのショールームでの練習会となる。とても豪華な練習会なのだ。

緊張して弾くのが好き。でも緊張するのは好きではない。矛盾していないと思うのだが・・・

kaz

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category: サークル

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僕の練習方法 

 

夜仕事をしていて、そして仮眠をとって、これからまた仕事・・・

このような時にピアノを練習するのは辛いものがある。隙間時間の20分とか、そんな時間に練習したりする。基本的にはオフの日にしか「時間単位」での練習など不可能だ。基本的には通常は「分単位」での練習となる。

このような状況は僕だけではないと思う。隙間時間の練習方法のようなものも、もう少し考えられていいような気はする。

僕の隙間時間練習の方法・・・

① 通し練習をしない

② パッセージ分解練習に徹する

③ ドミソというパッセージがその小節にあり、次の小節にソミドというパッセージがある場合、普通はドミソ、ドミソと練習して、弾けたらソミド、ソミドと弾いていくと思う。弾けたらドミソ・ソミドと通すのが普通だと思う。僕は、もっと分解する。

分解方法として・・・

ドミソ・・・と最初から弾くパターンを崩すのだ。最初の小節の3つめの「ソ」から次の小節のソミをつなげたりする。ソソミと弾く。または2つめの「ミ」から弾いてミソソ・・・と弾いたりする。つまり、拍を取り払って分解練習するのだ。この分解方法は、ブゾーニ系統(?)のピアニストたちが行っていたもので、僕が考案したものではない。

この方法・・・確実に短時間で効果があると思うけれど、ピアノ仲間に言うと、「そんなの無理~」とか言われてしまう。

でも、効果あると思う。僕は通して弾くことは本番までしない。

変わった練習方法なのだろうか?でも隙間時間に練習するのだったら曲は通せないよねぇ・・・

kaz

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category: ピアノ雑感

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分岐点 

 

ブライロフスキーのショパンを聴いた。それまで聴いた他の誰の演奏とも違っていた。

「弾いてみたいな・・・」と初めて思った。

ローゼンタールのショパンを聴いた。それまで聴いた他の誰の演奏とも違っていた。

「ショパン・・・弾いてみよう」と思った。

自分で楽譜を買って自己流に弾いてみた。そして、音になった。ショパンに近づけた・・・

当時はピアノを習っていた。先生との関係は良好だったとはいえない。今だったらネットで他の先生の検索も可能だけれど、当時は小学生が情報を得るなんて難しかった。バイエルを弾いていた。どうしても弾けなかった。自分には音楽とは思えなかった。日頃聴いているローゼンタールのショパンの世界とは、あまりにも違いすぎた。

ピアノを習っていたのに、僕はある時から独学で、自己流でショパンを弾き始めた。いろいろな響きが僕の中に飛び込んできた。

先生に習いたかった。教えて欲しかった。本当はそう願っていた。

「あなたはなんて下手なのかしら!」「もうピアノなんて辞めたら?」「イライラさせないで!」

時には手を叩かれ、楽譜で顔を殴られた。怖かった・・・

「先生・・・ショパンを弾きたいんです!」

この一言が言えなかった。バイエルは弾けないけど、自己流でショパンが弾けたんだ・・・

でも、なかなか先生には言えなかった。

でも、どうしても弾きたい・・・

ある日、ありったけの勇気を奮いだして言った。

「僕はショパンを弾いてみたいです。ローゼンタールの演奏に感動したんです。僕も弾けないかもしれないけど、でもショパンを弾いてみたいんです!」

「ローゼンタールって誰よ?ショパンなんて無理に決まっているでしょ?何を考えているの!」

先生は僕の持っていた楽譜を奪い取り、その楽譜を、ショパンの楽譜をビリビリと破り始めた。

「バイエルもろくに練習しないくせにショパンだなんて生意気なのよ!」

その時が僕の分岐点だった。

音楽は好きだ。ピアノは好きだ。でもピアノのレッスンはもういい!そう心から思った。ピアノの先生なんてもういい。自分で弾いていこう。そう思った。

不幸な分岐点だった・・・と思う。

子どもには分岐点がある。その時には先生は夢を与えてあげて欲しいと願う。心からそう願う。

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category: 履歴書

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道化師の綱渡り 

 

「道化師の朝の歌」・・・あと4ページと2段のところまで譜読みが終わった。

これからの予定

本日・・・これから残りの譜読み

明日・・・終日ラヴェルの練習、できれば最初の部分の暗譜

月曜日・・・終日仕事、おそらく朝まで

火曜日・・・終日仕事、夜に中間部の暗譜

水曜日・・・終日仕事、夜に最後の部分の暗譜

木曜日・・・終日仕事、おそらく朝まで

金曜日・・・終日仕事、夜に通し練習

土曜日・・・本番、朝4時に起きて練習

今回ほど「綱渡り的」なことは珍しいけれど、でも大体いつもこんなものだと思う。余裕を持って本番に挑むなんて夢の世界の話だ。仕事をしていれば、こんなものだと思う。違うのかな?

でもピアノ・・・好きなんだよねぇ・・・

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category: サークル

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アメリカのピアノ発表会潜入 

 

4月の終わりに「私・・・ピアノなんてもうイヤ」という文章を書いた。その文章に出てくるJ子さんの先生であるC先生(男性)は僕の個人的な友人でもある。彼の主催するピアノ発表会を見学したので、記憶が鮮明なうちに感想などを書いておきたい。

僕は今まで日本でピアノ教室の発表会を50ほど見学してきた。50人の先生の指導の方向性を見学した・・・ということにもなるのではないだろうか?50人という人数はピアノ教師全体の方向性を決定づけるには少なすぎるのかもしれないが、現在の日本のピアノ教室のひとつのありかたを示していると解釈してもいいのではないかと思う。その50のピアノ発表会で、集団での催し物が満載の、どこか学芸会的な発表会ではなく、個人が出てきてピアノを弾いてという「弾くだけ」という発表会、その発表会とC先生の発表会とを比較して、いろいろと考えたことを書いていきたいと思う。

C先生の発表会も、生徒がピアノをソロで弾くだけという古典的な発表会だ。C先生はウィスコンシン大学の音楽学部でピアノを教えているのだけれど、発表会には大学の学生は出演していない。プライベートで教えている生徒だけの出演だった。

日本での発表会との大きな違い、まずは年齢層がバラエティに富んでいるということ。子どもが中心という発表会ではないということ。これはあることを意味しているようにも思える。本来、ピアノの作品というものは大人のために書かれているし、ピアノライフというものは本来は大人のためにあるものなのだ。子ども時代のピアノ修行(?)というものは、その実りある成長してからのピアノライフのための導入なのだと僕は思う。そう考えれば、13歳~15歳あたりでピアノを辞めてしまうというのは本来だったら実にもったいないことでもあるのだ。「大人のピアノ」とわざわざカテゴライズすることそのものが本来はおかしいのではないかと僕は思う。ピアノは本来は大人のためのものだから。

もう一つは、特に子どもの演奏した曲で思ったことだが、キャッチ―な曲が皆無だったということ。ここでの「キャッチ―」という意味は、音楽的経験の少ない子どもが飛びつくポップスであったりアニメの主題歌の編曲であったり、子どもの身近な(?)感性に寄り添う教材からの選曲であったりとか・・・そのような選曲がなかった。習い始めて半年、音符が読めるようになったね・・・という子どもでさえ「芸術作品」を演奏していた。

C先生は言う。「子どもというものは感性が無限大なのだけど、残念なことに音楽的経験が少ない。弾くという意味でも聴くという意味でもね。まぁ、曲を知らないということになると思う。なので、身近なキャッチ―な曲に興味を示すんだ。教師の役目は、その子どもの現在の感性を伸ばして成長させることだから、いくら子供がキャッチ―な作品に興味を示しても、やはり偉大な芸術作品を弾かせるべきだと思う。いわば、子どもの現在だけではなく将来のことを想定する義務が教師にはあると思う」

「でも・・・習いたての子どもと芸術作品は結びつかないこともあるのでは?」

「そこだよね。ある程度修業しないと、本当のピアノの芸術作品には触れることはできないよね」

「ではどうしたら?」

「教師が編曲すればいいと思う。ピアノの作品だけではなく、他の多くの楽器の作品を教師が編曲すればいい。そうすれば本当の導入期から芸術作品に触れられる。子どもは目を開くよ」

「編曲?でもピアノ教師全員がそのような能力があるとは限らないのでは?」

「僕は音楽院なんて経験していないよ。ピアノは独学ではないけどセオリーなどは独学だ。それでもできているんだ。ピアノ教師の多くは音楽院(音楽大学)を経験しているのだから、編曲や自作の教材の作成はできて当たり前だろ?そのための専門機関なんだから・・・」

発表会で一番最初に演奏した男の子は、まだピアノを習って半年という、日本でいえば小学1年生の子だった。やっと音符や楽譜の仕組みを理解し始めたところなのだそうだ。C先生は、この男の子にフェルナンド・ソルのギター練習曲を編曲したそうだ。メロディーを生徒が弾き、アルペジオをC先生が弾いた。このようにすれば、本当の導入期からソルという偉大な作曲家の作品に触れられるのだ。

その男の子はソルの作品に実際に触れた時、このようにC先生に言ったのだそうだ。「先生、この曲・・・なんだか空みたいな色の曲だね」と。

僕は、この小学1年生と男の子とC先生との連弾を聴きながら、この男の子は将来、ピアノを辞めることがあっても、音楽とは一生離れないだろうな・・・と思った。

kaz

ソルのギター練習曲・・・空色の曲・・・



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category: レッスン

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勇気あるカナダ人たち 

 

「雨に唄えば」はジーン・ケリーの代表作。僕、ジーン・ケリー・・・好きなんだよね。

この「雨に唄えば」をスケートで表現した人がいる。カナダのカート・ブラウニング。彼は何度も世界選手権で優勝しているけれど、オリンピックでは勝てなかった。僕とは同世代の選手なので、とても親近感を感じる。

ところで、カナダの男子シングルの選手はジャンプが得意というイメージがある。特に「初めて~ジャンプを成功させた」という選手は何故かカナダ人が多いのだ。

初めて3回転のルッツを試合で見事に成功させたのは、カナダのドナルド・ジャクソンという選手だ。たしか、1962年の世界選手権のことだったと記憶している。初めてトリプルアクセルを試合で成功させたのはヴァーン・テイラー。1978年の世界選手権のことだ。この人もカナダの選手。そして、初めて4回転を試合で成功させたのが、このカート・ブラウニング。

極めてクリーンにトリプルアクセルを成功させ、「ミスター・トリプルアクセル」と呼ばれたのがブライアン・オーサー、そして「ミスター・4回転」と呼ばれたのがエルビス・ストイコ。ストイコは4T-3Tというコンビネーションを初めて成功させた選手でもあったと思う。

皆カナダ人だ・・・

このカート・ブラウニングの「雨に唄えば」は芸術作品とすら感じる。

彼は、今たしか48歳。まだ滑っているんだよね・・・凄い・・・

kaz



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category: The Skaters

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荷造りしながら「優雅」に憧れる 

 

日本に帰るために荷造りしながら思った。人生後半戦は優雅に生きたいと・・・

まぁ、仕事で「優雅に・・・」は無理だろうけれど、生活や趣味の世界では「優雅」を目指したい。

例えば、30日のサークルの練習会、ラヴェルなんか、まだ譜読みが終わってないんだよね。普通は焦るべきだろう。「どうしよう・・・」「崩壊確実だぁ・・・」みたいに・・・

でもピアノは趣味なのだから、優雅に対処したい。弾けなくて落ち込んだりとか、悩んだりとか・・・もう終わりにしたい。何故趣味の世界のことで生活や気持ちをマイナス方向に引っ張る必要があるのだろう?

こんな気持ちになっているのは、アメリカにいるからだと思う。日本に帰ったら、また小心者の僕に戻るだろう。そして「弾けていない・・・どうしよう・・・」と思うのだろう。できれば気持ちのチェンジはしたくない。このままでいたい。

なんで、こんなことを思ったのだろう?日本だと小雨でも皆が傘をさす。僕もそう。僕の場合は濡れるのがイヤなのではなく、日本だと傘をささずに歩いていると皆が振り向くから。なんとなく皆に合わせてしまう。でも、こちらでは傘なんてささなかった。留学していた時もそうだったな・・・

いつからだろう、皆のやり方に合わせるようになってしまったのは・・・

小雨の時はもちろん、多少の雨でも傘をささずに歩いた。気持ちよかった。アメリカだとこれができる。誰も人のことを気にしないから。誰も振り向かないから。特にニューヨークだと、スキンヘッドで歩いていても、どんな格好をしていても誰も振り向かない。これが気持ちいい・・・

日本に帰ってもこのままでいたい。気持ちだけでも「優雅」を保っていたい。

kaz



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category: 未分類

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トーク 

 

演奏の前にオーディエンスに向かってトークをする・・・これは難しいのだろうと思う。集中力、演奏前の緊張の度合いなどを考えると、演奏に専念したほうがいいのではないかと思う。

でも、トーク付きの演奏、これは以前からやってみたかったことだ。決して「話したい」わけではないのだ。どちらかと言えば、人前で話すことは弾くことよりも苦手だったりする。

何故それなのにトークなのか・・・

最近はトーク付きの演奏会も増えてきたように思う。ここで述べるトークは司会者ではなく、演奏者本人のトーク。でもアマチュアの演奏会では、トーク付き演奏は、まだ珍しいのではないだろうか?

どうしてもアマチュアの演奏会では、演奏者の練習成果披露、達成度披露・・・のような感じになってしまって、ややオーディエンスと演奏者との対話、これは会場の空気を通した対話ということだけれど、その対話に欠けるような気がする。要は、いかにも演奏者が必死に、そして頑張って演奏することに専念しすぎてしまい、「聴いている人のことはどうよ?」という観点に結果的には欠けてしまうことも多いように思うのだ。だからこそ、どんなに達者に弾けていてもアマチュア・・・なのだろうとも思うが。

イヤだ・・・と思った。これから何度も演奏会を経験できると確約されているわけでもないのだから、だからこそ11月のピアチェーレの演奏会で「トーク付き演奏」をしてみたいのだ。

神妙な面持ちで登場し、そして何やら(?)曲を弾いて、そして、そそくさと引っ込む・・・

この通常のアマチュア舞台の流れを打破したいというか・・・

そもそも、こんな大胆な発想をしたのはメゾソプラノのデニス・グレイヴスのサロンコンサートの動画を聴いたからだ。彼女クラスの歌手だと、通常は歌劇場で歌うことがほとんどだと思うし、歌曲のリサイタルだとしても大ホールで歌うことが普通だろう。このようなホテルでの会場というのは、実は非常に歌いにくいのではないかと思う。

彼女は、この動画での演奏会では、小規模なサロンコンサートということを意識しているように思う。歌唱そのものも見事だけれど、トークも実に巧みだと思う。完全にオーディエンスと対話している。

このような舞台に非常に憧れる。これからトークの内容も考えていかなければと思う。

トークだけが巧み・・・演奏はお粗末・・・ということにはならないようにしたいのだが・・・

kaz



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category: ピアチェーレ

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それでも人生にイエスと言う 

 

それでも人生にイエスと言うそれでも人生にイエスと言う
(1993/12/25)
V.E. フランクル

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強制収容所という極限状態の中で、人はどのように生きていったのか、そして死んでいったのか・・・

ヴィクトール・E・フランクルの著書、「夜と霧」を読む。何度も再読した本だけれど・・・

彼の家族は全員殺されてしまったけれど、彼は生還した。収容所での生活を精神科医として綴ったのが本書の特徴であり、そして強みであるといえよう。これは単なる壮絶な体験記ではない。

彼の名前は収容所では「119104」となった。名前などなかったのだ。囚人は人間として扱われなかったのだから。

夜と霧 新版夜と霧 新版
(2002/11/06)
ヴィクトール・E・フランクル

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「我々が人生の意味を問うてはいけない。我々は人生に問われている立場であり、我々が人生の答えを出さなければならないのだ」

「被収容者の内面が深まると、たまに芸術や自然に接することが強烈な経験となった。この経験は世界や、心底恐怖すべき状況を忘れさせてあまりあるほど圧倒的だった」

「幸せは目標ではないし、目標であってもならない。そもそも目標であることもできない。幸せとは結果にすぎないのだ」

「涙を恥じることはないのだ。その涙は苦しむ勇気を持てることの証なのだから」

Viktol Emil Frankl



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category: ピアノ以外の本

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終戦記念日 

 

今日は自分の誕生日である。同時に日本では終戦記念日なのだな・・・と思う。

体調の悪さを感じることができるのも生きているからなんだと思える。

いつもそのように感じられたらいいんだけどね・・・

kaz



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category: 未分類

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誕生日! 

 

岸本葉子の根菜ごはんのすすめ (料理 レシピ|健康・食事)岸本葉子の根菜ごはんのすすめ (料理 レシピ|健康・食事)
(2008/03/24)
岸本 葉子

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基本的には野菜、それも根菜を中心とした和食が僕の食生活の基本となっている。食事療法(というと大げさだが)もどきをしているので、化学調味料も使用しないし、ご飯も白米ではなく玄米。出汁も自分で・・・という感じだ。基本調味料も原材料を考え厳選している。大変そうだよね?慣れればそうでもないけれど、最初は宅配の有機野菜など沢山余ってしまったものだ。

僕の趣味は料理なのではないかと自分では思う。基本的には外食はしないし、自分で調理している。物ぐさな主婦よりは料理はしているんじゃないかな?料理本は300冊くらいあると思う。

健康的な食生活だと思うけれど、なんとなく精進料理というか、お坊さんのような食事だなと思う。華やかさに欠けるんだよね。なので、たまに「お坊さん」ではない料理もする。そのような時はこんな本を参考にしたりする。

パトリス・ジュリアンの夢のあるおもてなし―12カ月のごちそうレシピと楽しいテーブルパトリス・ジュリアンの夢のあるおもてなし―12カ月のごちそうレシピと楽しいテーブル
(1997/12)
パトリス ジュリアン

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今日は僕の誕生日だ。なので、ちょっとしたパーティーをする。こちらでは友人宅に滞在しているので、何かパーティー用の華やかな料理をしてみたいと思う。招待客は友人も含めて5人。パトリスの本は持ってきていないし、さすがにアメリカ人には「お坊さん料理」というわけにもいかない。こちらでも材料が揃いやすくて、かつ華やかさに欠けていない料理にしたい。

ということで、今回はゴードン・ラムゼイのレシピを拝借することにした。この人の料理は簡単な割に見栄えがいいので、パーティー向きだと思う。

30日のピアノの練習会のことは気になるけれど、料理をして現実逃避をするのもいいだろうと思う。

49歳という、少し前だったら体験できないと思っていた年齢になるので、料理で祝うのもいいだろうと思う。

kaz



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category: ピアノ以外の本

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教師のスタンスと生徒のニーズ 

 

ピアノ教師には大雑把に分類して3つのタイプがあると思う。一つは、生徒の現在、今のニーズというものを重視するタイプ。「音楽なんか嫌い」「ピアノ・・・嫌い」という生徒の「今」を直視し、なんとか音楽の楽しさを感じてもらい、ピアノを弾くということがプレジャーになって欲しいと願う。どちらかというと、発表会なんかも盛りだくさんで、指導案なども熟考するタイプ。「興味を引き出して・・・」というスタンスなのかな?

もう一つのタイプは、演奏というものに自ら惹かれ、自らが演奏せずにはいられないタイプの先生。けっして「コンサーティスト」とはカテゴライズされなくても、自分が受け取ってきた感動を「伝えたい」というタイプ。目の前の生徒の「今の笑顔」も大切だけど、将来自分の生徒がどのようにピアノというものと関わっていくかという未来視点でレッスンを考えていくタイプ。「伝えたい」ということが根底にあるので、どこか「伝統の伝承」というものを考えている・・・

どちらかというと、世のカリスマ教師は前者が多いように感じる。今のピアノ教育の主流というか、引っ張っているのは前者のタイプの教師なのではないかと思う。個人的には、僕は後者の教師に惹かれる。まぁ、僕の文章を読めばそれは理解できるだろうけれど。なんとなく、100人近い生徒がいて、セミナー講師としてカリスマとして活躍していて・・・という教師に関しては、そこに眩しさを感じるというよりは、「この先生は自分の演奏を磨いているのだろうか?」「いつ練習しているのだろう?」「自分が追及している曲ってあるのかな?だとしたら、いつ人前でそれを発表(演奏)するのだろう?」などと素朴な疑問を持ってしまう。

どちらのタイプがどう・・というのではないのかもしれない。重要なのは、教師のスタンスと生徒のニーズが一致しているということだと思う。ここがかみ合わないと両者にとって不幸なのではないかと思う。特に生徒にとっていいことはないだろうと思う。

ピアノ教師には、もう一つのタイプが存在する。それは「ダメ出しオンリータイプ」「赤ペン必携タイプ」の教師だ。このような教師は少数派なのだろうか?

「自宅でピアノ教師をしています・・・」と言って、「まぁ・・・大変なんですね」とか「素晴らしい仕事ですよね」という世の中の一般的な反応が返ってくるというよりは、「まぁ・・・優雅な仕事でいいですね」という反応が一般の感覚なのではないかと僕は思う。たとえば、看護師などと比較すれば「優雅度」は大きく思われているはずだ。

これは世の中一般の誤解というべきなのだろう。でも誤解を生む原因が「ダメ出しオンリー」「赤ペン必携タイプ」の教師の存在だろうと実は思う。「そこはドレファじゃなくてドレミよ!」「そこはフォルテだからもっと大きく!」「そこはメロディーが聴こえないわ。伴奏とのバランスを考えて!」なんて、僕だって言える・・・と思うもん。

「モーツァルトらしくないのよね!」なんて僕だって言える。どこをどうすれば「モーツァルトらしくなる」のか整然と伝えられて初めて「教師」となるのではあるまいか?モーツァルトとハイドンとの演奏法の違いを素人にも理解しやすく伝承できる技量、これがあってこその教師だろうと思う。

「ダメ出しオンリー」教師は別として、どちらのタイプの教師像が本物だと議論することそのものが間違いなのだろう。重要なのは生徒とのニーズが合っているか・・・ということ。合っていなければ生徒は辞めるだろうから。

ただ、現実的にはピアノを習っているのは圧倒的に子どもが多いのだと思う。子どもには将来がある。つまり、「今現在のニーズ」というものが変化することもあるのだ。この変化は「今の笑顔」から「音楽に目覚めてしまう」という変化の方が圧倒的に多いのだろうと思う。逆パターンはあまりないんじゃないかな?

今現在のニーズが合っているか・・・だけではなく、将来、その生徒の10年後、20年後に対しての責任もピアノ教師は、ある意味背負っていることになるのだと思う。

ニーズの変化、それは生徒がピアノを習っている期間ではないこともある。ピアノなんか弾かなくなってから音楽やピアノに目覚めることもあるのだ。その時、「なにをその生徒が習ってきたか」「どのように弾けてきたのか」ということが重要だろうと思う。

ピアノ教師は生徒の未来に対しても責任がある・・・

kaz

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category: レッスン

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同じ人間なのに・・・ 

 

こちらで「Bridegroom」という映画をみた。以前紹介した記憶もあるけれど、再度書いてみたいと思った。

シェーンとトムというゲイのカップルの物語だ。実話をもとに製作されている。シェーンとトムは出逢い、そして恋に落ち、そして生涯を共にすることを誓い合った。家を共同で購入し、そして二人で事業を起ち上げた。

二人は、愛する人が同性であること、そして人生を共に歩んでいくことを、それぞれの家族に告白した。シェーンの家族は、その事実を、そしてトムを快く受け入れてくれた。「良かったね、幸せなんだね、シェーン・・・」と。

しかし、トムの家族は保守的だった。父親は、告白したトムを殴り、銃までも持ち出してきた。母親は「もう少し早く告白してくれれば治療で(ゲイという)病気を治すことができたかもしれないのに・・・」と言った。傷つきながらトムはカリフォルニアに戻った。当たり前の権利、当たり前の幸せを愛する家族は理解してくれなかったのだ。

そして不幸が起きた・・・

トムが屋上から転落し亡くなってしまうのだ。

しかしヘテロの結婚したカップルと異なり、シェーンには何の権利もなかった。葬儀にも出席できなかった。トムの家族が阻んだのだ。「来るなら来てみろ。銃を用意しておく。来られるのか?」・・・

シェーンはトムの故郷であるインディアナにあるトムの墓に、人目を忍んで夜中に訪れることしかできなかった。

愛する人を失った哀しみ、喪失感をシェーンは共有することすら許されなかった。6年も共に住み、共に人生を歩み、そして将来を誓い合った相手を失っても何の権利もなかった。すべての権利を持っているのはトムの両親、トムの生き方を拒絶して受け入れなかったトムの両親・・・

シェーンは自分の喪失感、そして行き場のない哀しみ、そして怒りをビデオに記録した。この動画は、そのビデオだ。このビデオが、ある監督の目に留まり「Bridegroom」という映画が製作されたのだ。

世の中にはゲイというだけで死刑にされる国もある。日本はそうではない。そうではないけれど、何の権利もない。罰則もないけれど、同時に権利もない。どこか「ゲイ?特別な、特殊な人たちのことでしょ?関係ないわ」という空気が満ち溢れているようにも思う。我々ヘテロの人間が問題を直視する必要があると僕は思う。

人間は誰でも人間であり、そして誰でも同じなのだから・・・

誰でも愛するという権利、哀しむ権利は有しているはずだから・・・

これは一部のゲイの人が考える問題ではなく、人間が考える問題だから・・・

この映画、日本に輸出されるのかな?されないだろうな・・・と思う。

kaz



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category: kinema

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黒鍵での両手グリッサンド・・・できます? 

 

指を強くするために重めのタッチに調整したピアノで練習すると良いなどと説く人がいるけれど、ピアノの構造を考えると、これは無意味なのではないかと思う。重いタッチではなく、繊細なタッチの差まで反応してしまうようなピアノが望ましいのではないかと思う。

「わーっ、このピアノ、弾きやすい!」と感じるピアノ、考えてみると誰にでも弾きやすいタッチ感のピアノ、これはある意味凡庸なピアノなのかもしれない。往年のピアニストたちは、微妙なタッチの差まで反応してしまうようなピアノで弾いていたのではないかと僕は想像する。一般的には、そのようなピアノは凡人には「軽い」「軽すぎる」と感じることが多いのではないか・・・

僕のような凡庸な演奏者が、そのような繊細なピアノを弾くと、おそらく「微妙なコントロールポイント」を探せず、「全部がフォルテ」状態になってしまうような気がする。コントロールしようとすると音が抜けてしまったりとか・・・

凡庸な奏者には非常に弾きにくいピアノで往年のピアニストたちは弾いていた可能性がある。

ショパンに「黒鍵のエチュード」という曲がある。最後に両手でのオクターブ下降型のパッセージがあるけれど、たとえばローゼンタールなどのピアニストは、この両手でのオクターブをグリッサンドで弾いているのだ。たしかミハウォフスキなども、黒鍵のこの部分をグリッサンドで弾いていたと記憶している。

現代のピアノでは、よほど繊細に調整された特別なピアノでない限り、両手黒鍵下降型グリッサンドは不可能なのではないだろうか?平均的な国産グランドピアノだと、まずは無理な技であるように思うがどうなのだろう?

僕は電子ピアノで練習しているので、一般的な国産グランドピアノに触れる機会があまりない。ヤマハやカワイのピアノで黒鍵両手グリッサンド・・・可能なのだろうか?

白鍵だったら僕にもできるのだけれど・・・

皆、普通にできるのだろうか・・・

kaz



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category: 未分類

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We are all the same inside 

 

日本にいても世界情勢や情報は入ってくるけれど、でも「島国だなぁ・・・」と感じることもある。こちらでは、もう古い話題にすらなっているけれど、このような動画を見つけた。大手企業である、そして有名企業であるバーガーキングの試み。

毎年サンフランシスコでは大規模なゲイプライドが開催されるらしいのだが、それに合わせ期間限定でプライドワッパーを販売したという話題。「ワッパー」とはバーガーキングのバーガーの種類のこと。僕は食したことはないが・・・

その特別バーガーであるプライドワッパーはゲイカラ―であるレインボーカラーに包まれている。普通のワッパーとどこが異なるのか?店員に質問しても「私たちも知らないんです!」という答え。知っているはずだけど言わないんだね。

「え~どこが違うの?肉かなぁ?」「同じ・・・よね?」「何が違うのかしら?」

レインボーカラーの包み紙の中にはこう印刷されている。

「We are all the same inside」と。つまり「私たち、みんな中身は同じ」と。

バーガーキングも粋なことをするなと思う。むろん、企業戦略の一つなのだろうけれど、日本の有名企業がこのようなことをするだろうか?しないよねぇ・・・

僕は日本にいて息が詰まる時がある。それは同じ考え、同じ価値観の人同士で固まる時。たとえば、子どもを産んだ主婦同士で固まったり、専業主婦で固まったり、同じ職場というだけで飲みに連れていかれたり・・・そのような場では同じ価値観であることを無言で強要される。

個人的に僕は専業主婦という生き方には反対の意見を持っている。経済的な自立とその人の人生とは切り離すことができないと思うからだ。自立して、はじめて大人になる・・・というか。でも僕には専業主婦の友人もいる。このあたりを理解できない日本人は実に多い。異なる価値観、考えを持った人とつきあうほうが楽しいじゃん・・・と思う。でも普通は同じ価値観の者同士で固まり、異なる異分子を排除したがる。ここがとても嫌なところだ。

皆同じ・・・ということは価値観が同じということではないんだよね。価値観が異なっても皆同じ・・・ということなんだ。

アメリカに来ると、そのような空気を感じる。問題だらけの国だとは思うけど、この部分では自由に呼吸できる。

人間、皆異なる考えを持っているべき。その上で「同じなんだ」と思えればいい。固まってはいけない。

kaz



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哀しいショパン 

 

仕事は何とか調整したけれど、今回の渡米にあたり心の隅に引っかかっていたのがサークルの練習会のこと。今月の30日にある。帰国は20日過ぎだから、練習時間のことを考えると非常にマズイ状態だ。新しい曲を弾くので、本当は家にこもって練習するべきであっただろう。ラヴェル、まだ10日ぐらいしか練習していない。当然譜読みも途中で、本番までに仕上がるわけもなく・・・

でも、ニューヨーク(だけではないが)と練習会、どちらが今の僕にとって重要だろう?

まっ、練習会・・・練習する会なのだから(?)帰国して頑張ればいいだろう(いいのか?)。

今回は演奏会に通うわけでもなく、そして、もちろん観光するわけでもなく、ただ留学時代の友人と会ったり、一人で街を歩いたりしている。カーネギーホール・・・この建物を見て、あるピアニストのことを連想した。

マリラ・ジョナス・・・

彼女の演奏を知っている人はどのくらいいるのだろう?もっと聴かれるようになって欲しいピアニストだ。ポーランドのピアニストでナチスの収容所に送られたピアニストだ。家族はそこで殺されている。ジョナスを知っていた収容所の係官が彼女を逃がした・・・とされているが真相はわからない。でも、彼女は収容所を脱出する。ポーランドから徒歩でベルリンまで辿り着くのだ。何を食べていたのだろう?何を支えに歩いていたのだろう?素朴な疑問だ。

ベルリンで死んだように倒れこんでいるジョナスをブラジルの大使館が救出する。命があっただけでも奇跡なのだ。でも彼女は強度の神経衰弱でピアノが弾けない。そんな彼女のカムバックを支援したのがピアニストのアルトゥール・ルービンシュタインだ。

このカーネギーホールでジョナスは弾いたのだな・・・そう思うと胸が熱くなる。彼女のピアノは、どこか哀しみを帯びていて、そして壮絶だ。ここまで「哀しいショパン」は珍しいのではないだろうか・・・

戦時下の壮絶な状況は、彼女の命を奪ってしまった。彼女は48歳で亡くなってしまうのだ。それでも数少ない録音を残してくれている。特にマズルカは聴く人の心に訴えてくる。

音楽は生きる糧になることもある・・・

kaz



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category: ピアニスト

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ニューヨーク宣言 

 

「ダメじゃないか!泣いたらダメじゃないか!君は生きなければダメじゃないか!」

抗癌剤での治療が最も辛い時、僕は彼のいるニューヨークへ行った。髪も抜けていたし、辛くてどうにかなりそうだった。

「こんなに辛いんなら死んだ方がマシだよ」そう言った僕に彼は言った・・・

今、ニューヨークにいる。49歳の誕生日をここで迎えたかったからだ。あの時は何年も生きられるとは思わなかった。でも僕は生きている。そして49歳になる。

「生きなければダメじゃないか!」そう言って支えてくれた彼は癌で亡くなってしまった。

「僕はもう死ぬんだ。でも後悔はないんだ。やりたいことは全部やった。幸せな人生だったよ。今はとても穏やかな気持ちだ。kazは僕の分まで生きて欲しい。辛くても諦めずにね。さようなら・・・君と知り合えてよかったよ、じゃあ・・・」

彼の最後の手紙を読んだ時、僕は東京にいた。彼の葬儀には行けなかった。

あれから僕は再再発を経験したり、もう今回こそダメかもと思ったり、そして何度も泣いたりしたけれど、でも生きている。

今日、彼の墓参りをした。「僕はもうすぐ誕生日なんだ。また年齢を重ねられるんだ。健康・・・とは言えないけれど、でも生きて仕事をして、ピアノも弾いている。君の励ましと愛情は決して忘れないよ。50歳を過ぎたら、また報告にくる。僕も死ぬ時には、後悔はない、やりたいことは全部やったと言い切って死にたい。君のようにね・・・」彼にそう言ってきた・・・

「こんなことを言ったら、書いたら~と思われる」とか「~な人と思われる」とか・・・そのように生きていると最後は不幸になるような気がする。後悔するような気がする。

「自分には無理だから・・・どうせ無理だから・・・」こう思っていても不幸になると思う。

ブログで書きたいことを書くなんて、本当に小さな些細なことだけど、でも「~と思われる」と思っていたらブログなんて書けない。

今、僕は日本で師事している先生の他に、海外でもレッスンを受けている。定期的ではないけれど、3人のピアニストのレッスンを受けている。一人はサンノゼ、もう一人はサンフランシスコとニューヨーク、そしてもう一人はロンドンとニューヨークに住居(レッスン室)がある。皆それぞれ世界中で演奏しているので、サンノゼ、サンフランシスコ、ロンドン、ニューヨークに誰かがいれば(つまり自宅にいれば)僕の予定と照らし合わせて僕はレッスンを受けにくる。こんな大胆なことを実行できたのは実は病気になったからだとも思う。でも病気には感謝なんかしないけれど・・・

今回もレッスンがあるけれど、主な渡米の目的はこちらで誕生日を迎えたかったからだ。49歳という節目はそれほど僕にとっては大きなものなのだ。正直、僕は48歳で死ぬと思っていたから・・・

多くの尊敬する音楽家や友人が48歳で亡くなっている。48歳というのは危険な年齢なのかもしれない。

バリトン歌手のレナード・ウォーレンも48歳で亡くなった。メトロポリタン歌劇場の舞台の上で亡くなった歌手だ。アリアを歌い終えて突然亡くなったのだ。心臓発作で即死だったという・・・

彼が歌っていたメト、実は現在のリンカーンセンターにあるメトではなく、旧メトロポリタン歌劇場だ。その建物は現在はない。でもかつてメトが存在していたブロードウェイ39番街~40番街に行ってみた。現在は何の変哲もないビル街になってしまっているけれど、かつてメトがあった場所に立ってみた。そして目を閉じてみた・・・

時間が流れているのを感じた。他の健康な人と同じように僕にも同じ時間が流れている・・・そう感じた。

目を開ける・・・同じ風景だが、違う空間があった、それまでとは異なる僕がいた。何が違うのだろう、それは分からない。でも旧友の墓前で祈り、旧メトの前で祈って、僕の中の時間が存在した。

「君は生きなければダメじゃないか・・・後悔はしていない・・・」

彼の声が聴こえた。そしてウォーレンの歌声が聴こえた。

いつ死んでも後悔したくない・・・そのように生きたい・・・

ニューヨークでそう思った。

人は必ず死ぬ。死の直前、人は自分の人生を走馬灯のように思い返すのだ。そして多くの人は「まだ死にたくない」と思うのだそうだ。「まだやり残したことがある」と。

僕はそうなりたくない。「やりたいことは全部やった・・・後悔はない」そう言いきって死にたい。彼のように・・・

kaz



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ピアノ教師も現役だから・・・ 

 

ピアノ教師のサークルってあるのかな?セミナーではなくサークル。ピアノを弾き合う会。ブログを散策(?)する限りないような気がする。サークルを主催している先生はいるけれど、先生同士のサークル、メンバーがピアノ教師だけのピアノサークルってないような気がする。

僕が所属しているアマチュアのサークルのメンバーにもピアノ教師の人がいる。思うに、その人はかなりプレッシャーを感じているのではないかと想像する。その人にとってはピアノが仕事だけれど、その他のメンバーは、薬剤師だったりコンピューターのプログラマーだったり数学の教師だったりするわけで、フルタイムでそのような仕事をこなしながらピアノを弾いている人と、ピアノが仕事の人では、やはりピアノが仕事の人の方が有利なのではないかと思うから・・・

「教材研究や生徒の連弾の伴奏でピアノは弾いています」

「教えることが仕事なんです。弾くことではないんです」

「ピアノ教師がピアニストである必要はないんです」

どうして、こうも「教える」ということと「自分が弾く」ということを分離できるのか理解に苦しむ。音楽を、ピアノを追及するという姿勢に引退があっていいものだろうか?音大を卒業して教え始めて引退では哀しすぎないだろうか?

フィギュアスケートの話題にまたなるけれど、ブライアン・オーサーというコーチがいる。韓国のキム・ヨナ選手、そして日本の羽生結弦選手という二人のオリンピック金メダリストを育てた名コーチだ。この二人の選手の特徴として、「精神力の強さ」というものを感じるけれど、オーサーコーチは、そのあたりの指導が上手いのかもしいれない・・・などと思ったりもする。

コーチとしては、まだ経験は浅いと思うのだけれど、なぜに二人も金メダリストを輩出できたのだろう?

それはブライアン・オーサーが「スケートが好き」だったからではないだろうかと思う。

この演技、彼が現役を引退して10年くらい経てからの演技。人によっては、引退して10年だとジャンプなんか跳ばなくなるけれど、彼は跳んでいる。なによりも、「スケートが好き」ということが伝わってくる演技だ。

自分が好きでなくて、自分が追及していないで何を伝えられるというのだろう?

でも、なんでピアノ教師限定ピアノサークルってないんだろう?

kaz



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本番で緊張しない方法 

 

本番で緊張しない方法、そんなものはない・・・終了!

そもそも緊張しないで、いい演奏ができるとも思えない。「緊張しない方法」を探すのではなく「緊張した状態でどうするか」を考えたほうがいいような気がする。

でも緊張した状態、いわゆる「アガル」という状態になると、「私は誰?」「ここは何処?」「ドは何処?」「最初の音が思い出せない!」「途中で真っ白になったらどうしよう?」・・・と焦るので、この状態を回避したくはなる。

100メートルの世界記録とか、棒高跳びの世界記録とか、あのような瞬間、選手は緊張していなかったのだろうか?ある種の緊張が伴わないと、とてもあのような記録は出せないような気もする。選手がリラックスして弛緩している状態では、ああはならないのでは?

休暇でビーチに寝そべっているフィギュアスケーターに、いきなり「トリプルアクセルを跳べ」と言っても、おそらく跳べないんじゃないかな?ある種の緊張は必要だと思われる。緊張した状態でのリラックスであり、脱力であると・・・

1994年、もう20年も昔のことになるけれど、フィギュアスケートの世界選手権が日本で開催された。千葉の幕張で開催され、僕も会場で観戦した。この大会の女子シングルでとても印象に残る選手がいたのを思い出す。ドイツのタニア・シェフチェンコ選手。当時16歳、つまり高校1年生という若い選手だ。

前年の世界選手権で注目されて、1994年のリレハンメル冬季オリンピックでも、伸び伸びとした演技でとてもいい成績を残したと記憶している。オリンピック後の、この世界選手権ではショートを終えて4位という好成績。フリーの演技次第ではメダルの可能性も出てきた。ここでシェフチェンコ選手は初めてプレッシャーを感じてしまったらしい。それまでの大会では、ただ伸び伸びと滑っていればよかったところもあるのだけれど、初めて「メダル圏内」という位置に立ち、重圧を感じてしまったものと思う。練習中に派手に転倒し、顎を大きく切ったりもした。フリー演技、顔がアップになると、その痛々しい傷が認識できるほどだ。

フリー直前のウォーミングアップでもジャンプに苦労していた。特にルッツジャンプが上手く跳べなくて、何度も転倒していたと記憶している。ルッツの不調が彼女の得意なエッジ系のジャンプまで影響を及ぼし、そしてウォーミングアップが終了してしまった。観客席で観ていて、「あの選手は大丈夫だろうか?」と正直心配になったほどだ。彼女が派手にジャンプで転倒するたびに、僕の周囲から「あ~」という声が聞えてきた。

ショートを終えて3位のメダル候補だった選手の次にシェフチェンコ選手の演技。その3位だった選手が失敗の目立つ残念な演技で、このような場合、4位のシェフチェンコ選手には、さらなるプレッシャーになると思われた。事実、リンクに登場した彼女の顔つきは引きつっていたように思う。

そして本番・・・

シェフチェンコ選手は緊張していなかったのだろうか?そうは思えないのだ。演技終了直前から彼女は泣いてしまうけれど、これは緊張が解けた瞬間だったのではないだろうか?

自分の名前がコールされ、そして音楽が始まるまでの間、この瞬間、彼女は自分を肯定したのではないだろうか・・・

自分が練習してきたこと、少女時代に憧れだった選手の演技、スケートが好きという想い・・・そのすべてを、そして自分自身を肯定したのではないだろうか?

そうではないとしたら、フリー本番の、この演技、どう説明したらいいのだろう?

彼女は死ぬほど苦しめたルッツジャンプ、プログラム2番目のシャンプだ。練習ではすべて転倒していたのに・・・

シェフチェンコ選手は、この演技で銅メダルを獲得した。

kaz



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汗と肉体労働 

 

音楽愛好家としてピアノに接してきた年数はかなりのものになる。40年以上。この愛好家としての年月を、おもに往年のピアニストの演奏を聴いて過ごしてきたことになる。ピアノを再開したい、聴くだけではなく、弾くという行為を通してもピアノに接したいと心に秘めてからは、CDで往年のピアニストを聴くだけではなく、日本人のピアニストやコンクールでの超優秀とされるコンテスタントたちの演奏も積極的に聴くようになった。「現在のピアノ界はどのようになっているのだろう?」という興味もあったし、その実態の偵察のような気持ちもあった。学習者としては感心するような演奏でも、やはり愛好家としてそれらの演奏を聴いた時には、非常に驚いた。僕が心に浮かべている「ピアノ演奏」というものと大きな隔たりがあったからだ。

それらの演奏に共通しているのは、非常に上肢を揺らして動かし、天井を向いたり苦痛表情を浮かべたりの入魂演奏だったことだ。そしてそれらの演奏から感じたのは「汗」と「労働」というものだった。基本的に僕がコンクールというものに興味が全くなく、どこか嫌悪感さえ感じてしまうのは、この入魂演奏が好きではないからだと思う。汗と労働の入魂演奏・・・

いかにも頑張って弾いています、いかにも心を込めて弾いています、ということを視覚的にアピールするような入魂演奏、でも実際の音はチマチマとしていて多彩な音色に著しく欠けていることが多い。

これは、一生懸命に入魂モードになるためか、鍵盤の底まで弾きすぎているからだと、その時に感じたものだ。愛好家は、演奏を「気に入るか」「気に入らないか」で判断するところがある。「何故その演奏は聴き手の心に訴えないのだろう?」などと分析する必要性はないので、その演奏が気に入らなければ、違うピアニストの演奏を愛好家は探すだけなのだ。基本的に音楽愛好家、それもディープな愛好家ほどコンクール入賞者の演奏、優秀音大生の演奏というものに興味はないはずだ。

ピアノの知識と演奏―音楽的な表現のために (ムジカノーヴァ叢書)ピアノの知識と演奏―音楽的な表現のために (ムジカノーヴァ叢書)
(1999/06/01)
雁部 一浩

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この本に次のような記述があった。

ピアノのハンマーは鍵盤が下がる「途中」で加速されますから「鍵盤の底まで弾く」ということ自体には意味がありません。楽器の構造からすれば、むしろ最小限の深さで打鍵することが合理的であり、それこそタッチの多様性と豊かな音楽表現の可能性が広がります。ところが、そのようなデリケートかつ音楽的なタッチの習得は簡単ではなく、タッチを浅くすると往々にしてテクニックが不安定になって音がかすれる危険性も増しますから、多くの教師によって「しっかり鍵盤の底まで弾きなさい」というのが無難な合言葉とされるのです。その結果、全ての音を底まで「しっかり」弾こうと意識することで指に余分な力が入り、いわゆる「ガチャ弾き」と呼ばれる騒々しい演奏になる例が少なくありません。

最も大きくみられるのは、大きな音を出すときに、打鍵に伴う手応えに快感を覚えるケースです。打鍵による肉体的負担の多くは、鍵盤が底についた瞬間の衝撃と、打鍵後なお鍵盤を押し込もうとすることで生じる抗力ですから、この手応えに溺れれば溺れるほど雑音が増えることになります。むしろ肉体的な手応えが少ないほど合理的な奏法なのです。

一生懸命弾くことに、肉体的満足感に加えて労働の満足感を覚えるというケースも見られます。とりわけ我が国の場合、汗水たらすことを賛美する風潮があり、これが聴衆の同情や共感を呼ぶ傾向なしとしません。舞台の上の「様」を見て感動するなどということになると、これはもはや聴衆の質を問うべきでしょう。

往年の巨匠たちの演奏に共通する特徴は「筋肉や労働を感じさせない」ということです。

ホロヴィッツやミケランジェリなど、卓越したピアニストの共通した特徴は、音楽の場面変化に大騒ぎすることなく、常に動作が安定していることです。

以上、本からの抜粋。つまり普通に弾けばいいのでは?でもこの「普通に弾く」ということが難しいのでしょう。弾ける人たちにとっては・・・

kaz



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category: ピアノ雑感

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驚きのメール 

 

世の中には真摯で誠実で音楽に憧れているピアノ教師も多く存在しているに違いない。常識的な判断でそう思うし、思いたい。でも基本的に僕はピアノの先生とお話しする接点がない。自分の先生意外にはね。

そうなると、僕にとってのピアノの先生との接点というものはメールフォームを介したメールで・・・ということになる。むろん、頑張っているんだなぁ、とか「このような素晴らしい先生もいるんだ」とこちらが思うようなメールも頂くけれど、中には「えっ????」と思うような驚くべき内容のメールを頂くこともある。なにしろ、こちらはメールだけがピアノの先生との接点なので、やはり文字によるインパクトというものは強いのか、ピアノ教師=不思議な人たち・・・という印象を持ってしまうのだ。

おそらく、同業者には絶対送らないだろうなぁ・・・という内容のメールも沢山ある。こちらが素人、アマチュアということもあるのだと思う。

「ピアノで苦労してきたんです。教える立場になってまで苦労したくはありません。赤ペン先生のどこがいけないんですか?赤ペンだけでお金が貰える、これはピアノ教師の特権です」

「別に生徒が集まらなくてもいいんです。お金に困っているわけではないですし、自分のおこづかい程度が稼げればいいんですから。生活に困らないということがいけないことだとは思いませんよ。夫の稼ぎがなかったとしたらピアノ教師なんてやっていません」

「自分の演奏が大切・・・なんて素人が考える妄想ですよ。ピアノを教えるということは商売なんですから」

「教えたことのない人が教育について口を出すなんて信じられません」

「セミナー後のランチとか・・・批判しているけれど、本当はそのような先生が羨ましいんじゃないですか」

「生徒は商売道具!」

えーっ???

と、のけぞってしまうようなメールも多いのが事実。僕には本音を書いてくるのかな?

少数だと思いたい。このようなメールを出す先生は特別なのだと思いたい。でも接点はここだけだからねぇ・・・

kaz

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category: 未分類

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曲目決定! 

 

もちろん教室の発表会やサークルの練習会での演奏も自分にとっては大きなものなのだが、やはりピアチェーレの演奏会は、それらの演奏とはまた違った特別な思い入れがある。一応自分が代表をしているということもあるが、聴きに来てくれる人は、わざわざピアチェーレの演奏会に来てくれるわけだ。無料の演奏会ではあるけれど、この「わざわざ」というところが他の演奏会とは異なるところなのだと思う。さらに「ハーフ」まではいかなくても「クォーターリサイタル」分の曲は弾くので、そこも他の演奏会とは異なる。10分程度ではなく30分のプログラムになるわけだから・・・

ようやく曲目が決まった。11月が本番なので今曲目決定というのは遅すぎるような気もするのだが、これから頑張ればいいのだ・・・と自分を励ましているところだ。曲目は考えに考えた結果、次のようになった。

レオ・ブローウェル : 「11月のある日」
グラナドス : ゴイェスカスより「嘆き、またはマハとナイチンゲール」
アリエル・ラミレス : 「アルフォンシーナと海」
ホアキン・ラレグラ : 「ビバ ナバラ!」

ジーツィンスキー : 「ウィーン、我が夢の街」
ゴドフスキー : 「懐かしきウィーン」
モリッツ・ローゼンタール : 「ウィーンの謝肉祭」

前半が濃厚なラテン物、後半が魅惑の(?)ウィーン3部作・・・

昨年のプログラムと異なるのが、自分の編曲を3曲も弾くということ。ブローウェル作品はギター曲、ラミレス作品はフォルクローレ、ジーツィンスキー作品がウィーン歌曲が原曲。編曲というよりは耳コピなんだけど。

僕の脳内イメージにあるのが「100年前のサロンコンサート」というもの。当時の演奏会は今と異なり、ピアニストが自作品を弾いたり、自分で編曲した作品を弾いたりするのが普通だったと思う。今は「大曲を弾く」というのが流行だけれど、昔は小品も沢山演奏されていたんじゃないかな・・・

作品と格闘するのだけは避けたいと思うのだ。アマチュアの場合、どうしても自分の演奏の出来映えを気にしてしまうけれど、大切なのは「自分がどうだったか」よりも「聴き手がどう感じたか」だと思う。ピアチェーレの演奏会の場合、聴き手=演奏者のような発表会やサークルの練習会とは異なるわけだから・・・

たしかヨゼフ・ホフマンだったと思うけれど、このように言っていたな・・・

「アマチュアは分析、計画することなく、やみくもに作品を攻撃してしまう」と・・・

これは避けたいところだ。

音楽と戯れ、演奏者だけではなく聴き手も楽しんでいる・・・という舞台、身の丈知らずなのかもしれないが、ここを目指したい。僕の演奏の時は聴き手は「聴衆」ではなく「観客」であってほしい。そう思う。

ローゼンタールの75歳の時の演奏。誕生日を祝っての会か何かでの演奏みたいだ。75歳・・・

「ラ・カンパネラ」より100倍困難な跳躍も難なくこなしている。自身で書いた楽譜よりもさらに難しいアレンジで演奏している。ローゼンタール、若かったんだねぇ・・・

祝っているメンバーも凄い!レヴィーン夫妻にホフマン・・・

75歳かぁ・・・

kaz



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category: ピアチェーレ

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セミナーに思う 

 

驚く人もいるかもしれないが、僕はセミナー講師でもある。もちろんピアノのセミナーではなく福祉関係、介護関係のセミナーだけど・・・

セミナー講師は副業的なもので、このあたりもピアノセミナーの講師と似ているかもしれない。セミナーに関しての利点なども理解しているつもりだ。セミナーの利点は本からの知識よりも立体的であるということかな。あとは講師の立場からすると、書籍というものは基本的に不特定多数の読者に書くけれど、セミナーの場合は年齢層や地域性、そして当日の反応などによって内容の力点を自在に変動できるところがいい。参加側としては、本よりも実践的な内容に触れられるというところが利点になるだろうと思う。

基本的に参加者というものは悩んでいて、どこか詰まっている人が多いので、多様な視点というものが欠けてしまっている状況の人が多い。セミナーはこのあたりの「煮詰まり」を解す効果がある。よく「目から鱗・・・」のような感想がセミナー後にあるのも、それだけ日頃煮詰まっていて身動きがとれないという現実があるのだろう。

例えば、ある施設で起床介助が上手くいっていないという例があるとする。介助すべき人、量が莫大すぎて、朝食の時間までにとても間に合わないと・・・

「Aさんをあとに起こしてみたら?」「Sさんの排泄はカットできないかな?」「基本的に職員数が少なすぎるんだよ~」「でも配膳車がくるまで全員起こさないといけないわけだから・・・」「どうしよう?」

うーん、煮詰まってるねぇ・・・

この場合、例えば「配膳車は必ずその時間に来なければいけないものなの?」と質問してみる。「えっ?」・・・

「食事介助の人が多くて一度に何人も同時に食べさせなきゃいけないんですぅ・・・」

「同時に食事が来なければいけないの?なんで時間をずらさないの?」「えっ?」・・・

「これは自分たちがどう動くかという問題よりも、まずは厨房との話し合いが先なんじゃないの?厨房はなんて言っているの?」「えっ・・・」

・・・のように煮詰まった視点を解きほぐすこと、これがセミナーの醍醐味だったりするのだ。

ピアノ関係のセミナーも似たようなところがあるのではないかな?

僕は必ずしも「セミナー反対論者」ではない。

ただ・・・

ピアノの先生は「セミナーに参加した」ということは書くけれど、どう思ったとか、自分の現場で実践してどうだったか・・・このようなことを書かなすぎる。どう思ったか・・・についても「とても刺激になりました~」「やる気を貰いましたぁ」のような感想だけで留まってしまっている。実践報告をする先生も非常に少ないよねぇ・・・

セミナーに参加したらランチの写真や自分のヴィクトリーサイン姿はどうでもいいから、本音を書こう。どう感じたか、どのように実践するのか、賛同できない点はなかったのか、それはどうしてそう思うのか、実践して改善したところ、うまくいかなかったところ・・・書こうよ・・・と言いたい。介護職員は書いている。実践報告もくれる。

ピアノ教師の方も書こうよ・・・と言いたい。

僕はセミナー参加に反対ではない。その後・・・について思うところが多いだけだ。

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教師と生徒との温度差 

 

僕の記事を読んでメールをくれる人に関して興味深い事実がある。ピアノの先生からのメールは基本的に僕の記事に批判的な内容が多い。逆に生徒や保護者からのメールは僕の記事に賛同する意見が多い。

ピアノ教師:批判、中傷(?)9割 賛同 1割という感じで、生徒・保護者の場合は批判1割、賛同9割という感じになる。この事実は教師サイドと、習う、習わせているサイドとの温度差というものが存在しているということになるのではないかと思う。

温度差・・・ピアノ教師ブログから少し分析してみたいと思う。多くの生徒・保護者のピアノ教師ブログへの不満は、ブログに先生自身の演奏に対しての研鑽というものが書かれていないということ。これが一番多い。先生に弾いて欲しい、先生自身の研鑽内容、音楽家としての研鑽内容を示してほしいということだと思う。

また「頑張っているAちゃん」とか「Bちゃんが入賞しました」という記事に傷ついているCちゃん、Dちゃん、そしてその保護者も多い。先生は生徒を匿名にするにしても、記事内容に公平さが求められるのだと思う。

セミナーに関しても、参加するということに関して疑問を感じる人は少ないが、参加したその後・・・についてブログに書いている先生が非常に少ないという疑問を感じている人は多い。このあたりは生徒、特に保護者は実によく読んでいる。またセミナー後の食事やらデザートの写真アップについても厳しい意見が実に多い。先生同士のヴィクトリーサインも同様。

この温度差・・・

これには理由があるような気がする。アマチュアのピアノブログはハンドルネームで書いているブログが圧倒的に多いのに対し、教師ブログは実名で書いているブログが基本だ。これは当然のことと思われる。基本的に、先生のブログは教室の広報という役割も兼ねることになると思うからだ。ハンドルネームで記事をアップした匿名性の高いピアノ教師に連絡してみようとは思わないのが普通だ。「ピアノ教師のキャサリンで~す」というハンドルネームの先生には連絡しないと思うから。

この「自分の正体を明かしている」という部分が本音を書きづらくしているのではあるまいか?

言葉を変えると、どこかピアノ教師ブログは「自分はこんなに親しみやすいところもあるんですよ」という部分を強調しているブログが多い。食べ物や料理の写真が意外に多いのも、無意識の「自分はお堅いだけの厳格教師ではありません」というメッセージの発信なのではないか・・・

しかしながら、生徒や保護者からの多くのメールを読む限りでは、この無意識メッセージは逆効果であるように感じる。

ピアノ教師=厳しい・怒る・手を叩く・楽譜を投げつける・・・というイメージは昔のこと。そろそろ「自分はこんなにソフトなんですよ」メッセージは、これからの時代は逆効果でさえあるかもしれない。これからは「自分は演奏している」「ピアニストについて」「セミナー後の実践報告」のような、割とお堅い記事が求められてくるのではないか、すでに求められているのではないか?

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ピアノを弾かないピアノ教師 

 

僕が書く記事に対して「ピアノ教師は教材研究やセミナー参加が仕事。それを追及すべき。ピアニストではないのだから、自分の演奏なんて関係ない。時間もないのが現実。現場の子どもたちの実態をご存知ですか?それを知ればピアノ教師も自分の演奏を追及すべきなんて言えなくなるはず」という内容のメールは、およそ9割。「ピアノ教師は自分の演奏を追及してこそピアノ教師でしょう?自身が音楽への憧れを捨ててしまって、それのどこがピアノ教師なの?」という人たち(のメール)は1割。

実際はどうなのだろう?ピアノ教師ブログを読んでも自分が今現在追及している曲について触れている人の割合はとても少ないように感じる。「頑張っているAちゃん・・・」のような生徒記事、「○○先生のセミナーに行ってきましたぁ」というセミナー記事、これがとても多いように感じる。

強い信念を持っている人でもネット発信しないピアノ教師も多いのではないかと思うので、実際の割合、ピアノ教師は弾けてナンボでしょ?という人の割合はもっと多いのではないかと好意的に解釈したいところだ。

「ピアノは弾いていますよ、生徒が弾く曲は実際に弾いています。これ、大変なんですよ。連弾やアンサンブルの練習だってしているんです。ピアノ教師もピアノを練習していますよ」

いやいや、そうではなく、自分が追及している曲のこと。生徒に関係なく。自分が憧れ、そして練習せずにはいられない曲、そして自身の研鑽、自らがレッスンに通ったりとか、演奏会で演奏したりとか・・・

僕は自分の先生の演奏を聴いている。そして感銘を受けた演奏の記憶を持っている。この部分がなければ、真の意味で先生を尊敬できないとさえ思っている。実際のレッスンでも僕の先生は沢山弾いてくれるけれど、実はこの部分はあまり関係ない。むろん、弾いて欲しいけれど、レッスンで弾いてくれないと仮定しても、感銘を受けた先生の演奏が一つでもあれば、僕は自分の先生についていく・・・

そんなものではないだろうか???

何度も僕のブログに登場しているサッシャ・ゴロドニツキ・・・

ジュリアード音楽院が最も輝いていた時代に名教師と慕われていた人だ。生徒は「我こそが次代のピアニスト」と顔に書いたような若者ばかりだっただろう。なぜにゴロドニツキを生徒は慕ったのだろう?それはゴロドニツキが名教師でありピアニストであったからだと僕は思う。指導法に関して「~法」とか「コーチング」とか「教室運営法」とか、もしかしたら彼は無頓着だったのかもしれない。ただ自分のピアノを追及し、それを優秀(超優秀?)な生徒が追った、なので名教師として君臨したのではないだろうか?

彼の生徒たちは師の演奏を聴いていたはすだ。実際にゴロドニツキがレッスンで沢山弾いていたのかは分からない。でも生徒が追いたくなる演奏があった。なぜならゴロドニツキ自身がピアノを追及していたから・・・

「誰にでも合う靴なんてないだろう?ピアノ指導だって同じことさ・・・」 サッシャ・ゴロドニツキ

僕は自身のピアノを追及しないピアノ教師なんていないと思っている。そんな人はピアノ教師ではないから・・・

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category: ピアノ雑感

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高齢者に祝杯を! 

 

誕生日はまだなのだけれど、今年の誕生日は自分で祝いたいと思う。今までは「誕生日なんて祝う年齢でもないし・・・」なんて日本的常識に捉われていたけれど、誕生日というものは年齢を重ねれば重ねるほど「祝うべきもの」だと痛感した。49歳の誕生日なんて本当に嬉しい。

この幸福感は「自分の価値観で生きている、生きてきた」というところからきているものと思う。

自分の価値観、これは大切だ。「アンテナを張って世の中から遅れないようにする」とか「一生勉強。慢心は敵」のような考えも一理あるけれど、これは自分の価値観とのバランスを取った上でのこと。僕がセミナー通いをするピアノ教師に厳しいのは、この「自分の価値観」というものが希薄なのではないかと感じるから。ヒヨコ教師ならいい。通うべきだ。でも教師歴ウン十年(?)のような教師が「○○先生のセミナーに行ってきま~す。ランチで~す」という文章を書いたりしているのを読むと、いささか、がっかりしてくるのだ。まずは自分の内側に問うこと。これを省いている人が多いような気がする。自分の内側の声が「セミナー!」と叫ぶのならベテラン教師もセミナーへ通えばいい。でも自分の内側に問う、これを本当にするのならば、指導歴○年でありながら、なぜにセミナーで学ばなければ上手くいかない、自分の生徒を導けないのかという声が聴こえてくるはずだ。ほんとうはランチどころではないはずだ。ヴィクトリーサイン(いわゆるピースね!)などをした写真をアップしている場合ではないはずだ。セミナーどころではないはずだ。

・・・と話題がずれてしまった。誕生日の祝杯の話だった。年齢を重ねた人ほど誕生日を祝うべきなのだ。自分の価値観で動いて、考えて、そして沢山失敗する、そこから人間は成長するのだ。人の価値観で動いてしまうと、いざというとき本当に後悔するよ。

さて、今日は米国の歌手、トニー・ベネットの誕生日だ。まだまだ現役で活躍中の大御所だ。何故にベネットは老け込まないのか?多量のプラセンタを摂取しているのか?違うと思うね。それは「自分の価値観」を大切にしているからだと思うね。

トニー・ベネット・・・1926年の8月3日生まれだ。計算してみよう。彼は何歳なのか・・・

何故老け込まないのか?何故歌えるのか?何故???

ここまでの大御所になると、よく質問されるのだそうだ。「そんなに歌ってきて飽きませんか?」と。

まぁ、失礼な質問だとも思うが、彼はこのように答えるのだそうだ。

「その質問は実によくされるんだ。僕はその質問にはこう返すようにしている。じゃあ、君はセックスに飽きることがあるのかい?・・・と」

30歳を過ぎたら自分の価値観で動こう。自分の内側に自信を持とう。持てないのだったら理由を考えよう。

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さあ、みんなでハキハキ演奏!しっかり演奏! 

 

何故多くのピアニストがスタインウェイを使用するのだろう?最も夢のない答えは「ホールに備え付けられているから」だと思うけれど、それだけではなくなにかしら他の理由がありそうだ。自治体と楽器店との癒着などいう、これまた夢のない理由も考えられなくもないけれど、でもスタインウェイの使用率の高さは日本だけの現象ではない。

ピアノという楽器で音色を作り上げていく際に、そのコントロール域のような場所、微妙なタッチの差を音として反応する範囲のような場所があるように思う。スタインウェイは他の名器と比較して、この範囲位置が浅いのではないかと感じる時がある。他のピアノはスタインウェイよりも少々深いところで反応する感じがする。浅い位置で反応してくれれば、奏者の負担は少なくて済むので、最小限の動きのタッチや力の入れ具合で反応してくれて、ピアニストはスタインウェイを使用するのではないか・・・まぁ、あくまでも素人の憶測ですが。

この微妙な範囲というものを超えて弾きすぎてしまうと、単色の色合いしかピアノという楽器しか出せないのではないか?日本人の演奏が音色の陰影に乏しいのは、弾きすぎているからではないだろうか?いわゆる音の陰影の部分を超えてタッチしてしまうので、「基音」のような音しか出せない。これではいくら心を込めて演奏しても「音の強弱」と「テンポの揺らぎ」だけで表現することになるので演奏が単調になってしまうのだと思う。

コンクールでは審査員が「コーンと鳴り響いた基音」というものを求めているのではないかと感じる。なので皆が音の陰影に乏しい「ハキハキ演奏」になってしまうのだ。百面相スタイルや、入魂スタイルは、実は音色の単調さを無意識にコンテスタントたちがカバーしているからなのでは?そしてその単色演奏を推奨する指導者たち・・・

基音での音色に乏しい陰影の少ない「ハキハキ演奏」というもの・・・

僕はコンクールでの達者な子どなや音大生の演奏を聴くと、「ラジオ体操」のピアノを思い浮かべてしまう。むろん、コンクールでの達者な演奏はもっと強弱の差はあるし、テンポの動きもあるし、指の動きも見事だけれど、根本的には同じような「ハキハキ演奏」に感じてくる。

ラジオ体操・・・懐かしい。子供の頃、カードを首からぶら下げて広場で参加したものだ。夏休みの課題となっていて、たしか新学期には、このカードを提出させられたと記憶している。なんとなく「夏休み」という雰囲気は実感できたような・・・

ラジオ体操、第一と第二があって、たしか第二・・・の作曲者は団伊玖磨だったのでは?

ラジオ体操なら「ハキハキ演奏」でもいいけれど・・・

今の子供たちも「ラジオ体操」・・・やっているのだろうか?

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