ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

型と個性 

 

作曲者の意図をくみ取り、そして自分が感じた美を伝える、本来、ピアノの演奏の根底にあるべきものだと思う。そのためには知識、技術、経験、そして勇気が必要とされる。その後押しをしてあげるのが指導者の役目であるのだと思う。でも、指導者が生徒の個性を押さえこんで型にはめてしまっては、ポンと後押しするどころか、マイナス方向に引っ張ってしまっていることになりはしないだろうか?

ピアノ奏法の基礎ピアノ奏法の基礎
(1981/03)
ジョセフ・レヴィーン

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この本の中でレヴィーンは書いている。

「君は、自分で感じたこと、欲することを聴衆に伝えているだろうか?何はともあれ、必ず何かを表現して弾いてくれたまえ!」

表現・・・それは百面相での演奏であったり、腕の上げ方まで指導されていたりする演奏にも当てはまるのだろうか?型にはめられた演奏は何かを表現していると言えるのだろうか?そしてその演奏は演奏者の意図と言えるのだろうか?

自分の内側から出てくるものを出すという行為、これと型にはめるという行為は本来一致しないのではないだろうか?

お辞儀まで指導されている、顔の表情まで指導されている、腕の上げる角度や方向まで指導されている、その場合は演奏そのものも指導されたものだと思う。それでいいのだろうか・・・

それは指導者がマイナス方向に引っ張っていることにならないだろうか?

「ならない!」・・・と思っている指導者や保護者が圧倒的に多いのだろう。だから百貨店お辞儀をさせるのだろう、受け入れるのだろう。そして皆が同じような演奏をするのだろう。その演奏には指導者の影が見える・・・

生徒個人の美への憧れ、個性はどこへいったらいいのだろう?

kaz



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category: ピアノ雑感

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百貨店お辞儀 

 

子どものコンクール、それも全国大会での優秀な子どものコンクールを聴いて(見て)衝撃を受けたのがお辞儀。よくデパートの開店時間に店員がやる、あの「いらっしゃいませお辞儀」「百貨店お辞儀」を演奏前後に子どもがやるのだ。衝撃だったし、違和感を感じた。

丹田の部分に手を持っていき、肘を張る、あの独特のお辞儀。最近はコンビニやスーパーのレジなどでも、あのお辞儀をするところがある。デパート開店時間の店員やキャビンアテンダントならまだしも、コンビニであれをやられると違和感を感じるのは僕だけなのだろうか?ましてや、演奏の際のお辞儀であれをやるのは、一般的な感覚からすると、とても変だと感じる。

あの「百貨店お辞儀」は、もちろん子どもが考えたものではないだろうと思う。指導者が教えているから、ああなるのだろう。なぜ誰も「なんだか変じゃない?」と提言しないのだろう?

「でも、あの演奏ぶりとお辞儀の奇妙さって、微妙にバランス取れてない?」とクラシック嫌いの友人が言っていたけれど、変なものは変だと感じてしまうのだ。

子どもは、特に弾き終わったあとなどには「素」に戻ってしまい、ピョコンと頭を下げ、時にはそれすら忘れて退場してしまう可能性がある。なのでお辞儀を「型」として教え込んでしまうのだろう。演奏そのものも「型として教え込まれたもの」なのだとしたら、ある意味バランスは取れているとも考えられる。

でも変だよねぇ・・・

おかしいよねぇ・・・

と言う人はピアノ教育界には誰もいないのだろうか?

ピアニストであの「百貨店お辞儀」をしている人、いるのだろうか?思いつかないが・・・

そもそも誰があのお辞儀を教え始めたのだろう?

kaz



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コンクールの光と影 

 

僕はコンクールというものには全く興味がなく、特に大人(大学生)の場合は、本人の自己責任というところも多いと思うので、いくら悲痛表情で弾こうが、入魂(の割には音楽は単調)奏法で弾こうが構わないけれど、幼い子供の場合は、本人の自己責任では済まないところも出てくるのではないかと思う。指導者、そして周囲の大人の責任という側面も出てくるのではないかと思う。コンクールに限らず、物事には「正」の部分と「負」の部分があると思う。あまりにも「負」の部分に対して周囲が無防備ではないかと思う時がある。

ピティ○(伏字意味なしか?)の全国規模のコンクール、動画でも聴ける(というか見られる?)けれど、年齢が低くなるほど百面相ぶりが顕著になるのはどういうことなのだろう?

この百面相演奏をクラシックに全く興味のない人に見せると、「何これ?アハハハ・・・」という反応になる。「北朝鮮の子?気持ち悪い・・・」という反応も多い。

皆が「ひとつのものに向かう」というのが居心地悪いし、なによりも自然ではなく「やらされている感」を感じてしまう。

「おかしいよね?変だよね?」と思わないのは、日本のピアノ教育界という狭い範囲で生きる人たちだけなのではないか?普通の一般的な感覚だと「何これ?アハハハ・・・」となるのではないかと思う。

コンクールの弊害は、皆が一定方向を向いてしまうということなのだと思う。むろん、「正」の部分もあるだろう。他人の演奏を聴く、比較するということもそうだし、教室の大将になってしまうということも避けられるだろうし・・・

最もコンクールに期待する部分は、「やる気を出させる」「積極性を持たせる」という部分だろうと思う。多くの指導者が、この部分を強調している。別に入賞やら金賞ということでなくても、本人の自覚が生まれ、とにかく頑張るのだから・・・と。

でも「負」の部分も考えないと、それはあまりにも無防備なのではないかと思う。激励賞という名の、実は残念賞を貰い、「頑張ったね!」という部分。そこで子どもも親も指導者も収まればいいけれど、でも心のどこかで「私も次は、いつかは入賞したい」という感情は生まれないだろうか?そして入賞するような達者な子どもの多くが北朝鮮奏法、百面相弾きをしていたら?

この部分を考えないというのは無防備だし、無責任すぎる・・・と思う。

北朝鮮の子どもたち・・・

でも某島国では、この子どもたちよりも「訓練された」子どもたちがいる。顔の向き、腕を上げる高さまで指導された子どもたちがいる、そしてそれを目指す子供たちや指導者がいる・・・

そのような指導者は、この北朝鮮の子どもの演奏を聴いて「よく訓練されている、素晴らしい!」と感じるのだろうか、「自分だったらもっと細かく指導するのに・・・」と思うのだろうか?

「変なの!アハハハ・・・」と感じる、僕が変なのだろうか?

kaz



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category: ピアノ雑感

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ユーチューブ活用法 

 

ユーチューブの活用法はいろいろあると思う。厳密に著作権のことを考えてしまうと、いけないことなのかもしれないが・・・

ユーチューブは、CDを購入しなくても演奏を聴くことができる、そしてアマチュアを含め、世界各国の人の演奏を聴くことができる。最も多くの活用のされかただと思う。でも基本的にはCDは購入したほうがいいと僕は思う。小さなミニコンポではダメだと思うけれど、ある程度のオーディオ装置で聴くと、パソコンでは再生できない、聴き取れないニュアンスも再現してくれるから。

アマチュアの方の演奏を聴き歩くということは僕の場合はしない。お気に入りの人の演奏は聴いたりするけれど。

ユーチューブ活用、僕の場合は「新人発掘」という意味合いで活用することが多い。時間が有り余っていて、大規模CDショップにいつでも行ける人、またはお金が有り余っていて、何枚でも無制限に購入できる人はいいけれど、自分の知らない演奏家のCDを購入するのにはリスクを伴ったりする。その場合はユーチューブで予習をしておくと失敗が少ない。また、大規模CDショップの店頭にさえ並んでいない新人の演奏家の場合、ユーチューブでしか聴けなかったりすることも多い。

クラシック専用フロアがあるような大規模CDショップは、おそらく大都市にしかないだろうし、駅前のCDショップだと、クラシックのCDは置いていなかったり、店の片隅に追いやられていたりする。しかも、棚には世界的に名の知れた演奏家と、ビジュアル系の三流邦人演奏家のCDしか置いていなかったりするし・・・

僕はピアノを弾いているくせに、あまりピアニストの演奏は聴かない。ユーチューブでも同じ。最も聴くのおは、やはり声楽。新人発掘も、やはり声楽家のユーチューブを聴くことが多い。特にテノールの・・・

最近発掘した「新人」は、スロヴァキアのテノール、パーヴォル・ブレスリク・・・

彼は厳密には新人ではないけれど、そしてブレスリクのCDやDVDは発売されているけれど、でも外国からの購入となるし、おそらくブレリスクの歌を聴けるのは、現地(ヨーロッパ)で生を聴くか、ユーチューブということになるだろう。

このような演奏家を聴く楽しみ、知る楽しみがユーチューブにはある。

「愛の妙薬」のネモリーノのアリア、何故か柱によじ登って歌っている。このような奇抜な演出は嫌いだなぁ・・・

でも歌は素晴らしい。むろん、僕の好きなジーリやゲッダの歌唱と比較すると、陰影に欠けていて元気すぎるネモリーノだけれど、だからこそ、これから追っていきたい新人でもあるのだ。

「新人発掘」という活用法はお奨め。

ちなみに、このブレスリク、なかなかの「イケメン」なので、これから日本でも人気が出てくるかもしれない。日本人はビジュアル優先だから・・・

kaz



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category: 未分類

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裸の王様 

 

ピアノの知識と演奏―音楽的な表現のために (ムジカノーヴァ叢書)ピアノの知識と演奏―音楽的な表現のために (ムジカノーヴァ叢書)
(1999/06/01)
雁部 一浩

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日本のコンクール、子どものものも含め、そのコンクールで現在主流の演奏が「入魂演奏」だと思う。とにかく顔面表情が豊か(?)というか、悲痛の表情、苦痛の表情で弾く。天井を見上げたり、あたかも水泳の腕の動きのごとく、モーションも大きい。

それで実際に出てくる音楽がビジュアル面と同じように大袈裟で表情豊かであれば、それは「趣味の問題」と言えるのかもしれないが、実際の音楽が無味乾燥で、音の色彩感に著しく欠けているのならば、それは哀しさを超えて、笑うしかなくなる・・・

誰かがそのようなものを「目標値」としているのだろうか、とにかく皆が入魂していくのは哀しさを感じる。

世界で活躍しているピアニストに共通しているのは、ビジュアル面で入魂しないということだ。とても自然体で弾いている。どのような曲であっても、顔の表情や身体や腕の動きが最小限に収まっている。

なぜ「なんだかおかしくない?」と誰も言わないのだろう?

ピアノ愛好家としては、入魂演奏については「変なの~」とか「退屈な演奏だよね~」で済むし、そのようなコンテスタントやピアニストの演奏を聴かなければいいのだけれど、指導者はいったい何をしているのだろう・・・とは思う。

なぜ子どもの入魂の様を見て、「北朝鮮のマスゲームみたい・・・」と誰も言わないのだろう?

なにかがおかしくないですか????

ということを語ってくれているのが雁部氏のこの本。ピアノの本、基本的に「練習しましょ~」的な内容が多いが、この本の特色は基本的に日本の現状というものを否定的に捉えているというところだ。

「おかしいよね~」と言っている人もいるのだ・・・と感じる。多くの指導者に、この本を読んで欲しいと思う。

また今日も、子どなが天井を見つめ、腕を上げ方を指導されているのだ。顔面表情の作り方を指導されているのだ。

身体は無意味に動かさない、鍵盤の底まで入魂しない、百面相をしない、水泳のように腕を動かさない・・・

北朝鮮奏法はおかしい・・・

自然に弾こうよ・・・

このように・・・



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category: ピアノの本

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純愛・・・自分の命よりも大切なもの 

 

今日、7月27日は作曲家、グラナドスが生まれた日。

グラナドスのピアノ曲(のちにオペラにも改作)に「ゴイェスカス」という曲集がある。各曲とも非常に技巧的であるのが特色で、当時のピアニスト達に捧げられている。ザウアー、リスラー、バウアー、コルトー・・・

ゴイェスカスの中で、最も叙情的なのが「嘆き、またはマハとナイチンゲール」という曲。演奏される機会も多いのがこの曲だと思う。ゴイェスカスの他の曲と異なり、この美しく、そして哀しい曲だけはグラナドスの妻、アンパロに捧げられている。

ゴイェスカスのオペラ版の初演はニューヨークのメトロポリタン歌劇場で初演された。グラナドス夫妻もこの初演に立ち合った。

ニューヨークからヨーロッパへの帰路、グラナドス夫妻の乗った客船がドイツのユーボートの無差別攻撃を受けて、彼らが乗った船は沈没する・・・

グラナドスは、一度は救助船に助けられたのだ。しかし、波間に溺れている最愛の人、アンパロの姿を認めると、彼は再び海に飛び込んだのだった・・・

その後グラナドスとアンパロの姿を見た人はいなかった・・・

グラナドスの死因は溺死であり、事故死なのだ。享年48歳・・・

あまり知られていない事実なのではないだろうかと思う。

「嘆き、またはマハとナイチンゲール」・・・この曲を純愛の曲と捉えて弾いてもいいだろうと思う。この曲だけはアンパロに捧げたのだから。「ゴイェスカス」とは「ゴヤ風の音楽」のような意味なのだから・・・

11月のピアチェーレの演奏会でこの曲を弾いてみようかと思う。

kaz



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category: ピアチェーレ

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芸術は大人のためのもの、頑張れ成熟男 

 

成熟した大人、その大人のピアノ人口の割合はどのくらいなんだろう?

某大手楽器店経営の教室(まぁ、ヤマハ音楽教室のことですが)では毎年かなりの数の子どもが辞めている。でも大人は辞めていないのだ。このままいけば、大人のピアノが子どものピアノを割合として超えるかもしれない・・・

などと夢想するが、まぁ、超えんだろうなと思う。「ピアノのお稽古」「習い事」という言葉のイメージからも、まだまだピアノは子どもの世界なのだ。クラシックの名曲(クラシックでなくても)は大人のために書かれているのに、なんでピアノ教室の生徒は子供ばかりなのだろうと不思議になったりする。「大人のピアノ」と特別にカテゴライズでするのではなく、本来ピアノは大人のためのもので、「子どものピアノ」と特別にカテゴライズするべきなのだ、本当は・・・

それに比べると、アルゼンチンタンゴは成熟した大人の世界。とても憧れる。

タンゴの世界には「ミロンゲーロ」という言葉がある。成熟し、周囲から尊敬される男のことを指す。踊りそのものはもちろん、ファッションや人間性までが憧れの対象となる大人の男のことだ。

亡くなって、10年近くになるけれど、カルロス・ガビートは僕にとって、まさに正真正銘なる「ミロンゲーロ」であり続ける。亡くなったのは63歳の時。早すぎる死だったと思う。

彼の場合は、早い時期から癌に冒されていたことを公表していた。なので残っている映像は、彼が癌の闘病しながら、そして共存しながら踊っている映像が多い。

でも、この匂い立つようなエロスは何なのだろう???

この踊りは30代や40代の男では踊れない。成熟した50代以上の男でなければ表現できない世界だ。

「僕はね、二つも癌を抱えながら踊っているんだ」と笑いながら語っていたガビート・・・

芸術というものは成熟した大人のためのものなんだ!

僕も枯れるのは早い・・・そう思う!

kaz



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category: あっぱれ麗し舞台

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想いの伝わる演技 

 

心に響くか、それとも退屈に感じてしまうか・・・

この部分を考える時に、ピアノ演奏とフィギュアスケートとの共通点を見出してしまうことがある。フィギュアスケートでも、各エレメンツは、それほど拙くはないのに、「早く終わらないかなぁ・・・」という演技というものがある。スケートの場合、退屈してしまう要素としては、「エレメンツの継ぎ接ぎを見せられている」と観ている側が感じてしまうと退屈してしまう。

一般的にはピアノもスケートもこのような場合、「表現力」というものが足りないとか、そのような言葉が使われるけれど、技術というものは、それだけが独立して存在しているものではなく、表現力というものと一体になっていることが多いので、表現力不足ということは技術の不足であるとも考えられる。

ルディ・ガリンドという選手がいた。かつてクリスティ・ヤマグチとペアを組んでいた選手だ。ペアとしては立派な成績を残したけれど、ペアを解散して、それぞれがシングルのスケーターとして専念するようになってから、クリスティはオリンピックで金メダルを獲得したりと大活躍したのに対し、ルディはシングルのスケーターとしてはどこか低迷してしまった。

「ルディ・ガリンド?ああ、クリスティのパートナーだった人ね。彼、まだ滑っているの?」みたいな・・・

でも彼は諦めなかった。そして26歳になってしまった・・・

シングルスケーターとしては若くはない年齢。1996年、彼はそのシーズンを最後に現役を退くことを決めていた。シングルスケーターとしては全米選手権でメダルを手にしたことはない。そして誰もルディの活躍を期待していたわけでもなかった。

このシーズンの彼のフリーは「白鳥の湖」・・・

それまでのルディとはなにもかもが違っていた。髪型も衣装もすべてそれまでのイメージを一新した。生まれ変わったのだ。でも誰もルディが優勝するとは思っていたかった。本人も含めて・・・

ショートを終えて3位。世界選手権に出場できなければ、この全米でのフリー演技がルディの現役選手としての最後の演技となるはずだった。

彼の「白鳥の湖」を観て感じるのは、ジャンプをこなしているとか、その成否とかということではなく、一つの作品としてフリーの演技を捉えているな・・・ということ。「自分の白鳥を観て欲しい」「自分を表現したい」というルディの熱い想いが伝わってくるようだ。

彼は、それまでのスケート人生の中で、最高の演技をした。自分でも信じられないほどに。そして初優勝した。誰もルディが優勝するとは思っていなかった。この演技を観るまでは・・・

この演技は「奇跡の滑り」と感じる。

kaz



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category: The Skaters

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上手いけれど心に響かない演奏 

 

上手いけれど心に響かない演奏というものがある。この場合は時間軸というものは、あまり問題はない。心に響かない最大の要因は音色が単一で色彩感に乏しいということにある。基本的にコンクールのコンテスタントたちや超優秀な音大生たちの演奏に多いような気がする。達者な子どもの演奏も基本的には音のグラデーションというものが乏しい、もしくは皆無であることが多い。共通しているのは、音の色彩感に乏しい人は、弾くさまで表現力を補おうとしているかのように、弾いている時の表情や身体の動きが大きい。悲痛な表情や恍惚の表情、天井を見上げて弾いたり、身体をのけ反らしたりたりする。

思うに、ピアノの音に色彩感、奥行きを持たせるには、打鍵の際にコントロールできる場所というものを狙う必要があると思われる。一般的には、音色の数の乏しい人は、鍵盤の底まで弾きすぎているように思う。音色をコントロールできる小さな範囲、狙うべき場所を通過して底まで鍵盤を押しすぎているように思う。

この場合、どんなに熱演して恍惚の表情で弾いても、実際の音色はチマチマとした音、その一色しか出せない。なので聴いている側に伝わらない。

これは指導側の責任が大きいように僕には思える。絶対に子どもでは考えつかないような身振りや表情で弾いたり、フレーズの造作が「大人仕様」である達者な子どもの演奏が実に多いように思うから・・・

ユーチューブで一流のピアニストの「弾きざま」というものが確認できる時代なのに、島国では一向に改善されないのはどういうわけなのだろう?

鍵盤の底まで常に弾き切っている一流のピアニストなんていないのに・・・

そのような意味では日本のピアノ教育は死んでいる、もしくは終わっていると愛好家としては感じる。

kaz



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category: ピアノ雑感

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時間軸・・・演奏の過去軸と未来軸 

 

「あっ、この人ピアノ上手・・・」と思うのか思わないのかは一瞬で決まる。上手だと感じさせるピアノを弾く人の演奏に共通していることがあるような気がする。到達度みたいなものも、むろんそこには含まれるような気はするけれど、最も大きな要素は「時間軸」なのではないかと思う。

上手な人の演奏は、未来軸になっている。つまり演奏が未来に流れている。聴いている人もその流れを共有できるのだ。なので「上手だわ」と感じる。

指が動くとか、難曲をこなしているとか、そのようなことはあまり関係ないような気がする。

「この人の演奏は退屈だわ」と思わせてしまう演奏は、時間軸が過去に向かってしまっている。過去に練習したものを「なぞっている」という感じがしていまうのだ。このような演奏は、基本的にリズムが硬直していることが多いし、演奏が流れない。視点を演奏者が過去に向けてしまっているから・・・

この部分は「才能」ということになっていることが多いような気がする。「なんであの人のように演奏できないのかしら?」「なんでただ弾いている、音を並べているみたいな演奏しかできないの?」・・・「才能がないのね!」

才能ではなく、視点の違い、時間軸の捉え方の違いだとしたら?

この人の演奏、完全に未来軸の演奏になっている。なので聴いてしまうのだ。

kaz



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category: ピアノ雑感

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僕がピアノを再開した理由 

 

ピアノを再開したのは、やはり病気ということが大きな理由だが、すぐにピアノを弾き始めたわけではなかった。実際、宣告されてから実務的な忙しさがあった。入院、そして手術・・・

大変だったけれど、でも医療従事者に守られているという安心感があった。本当に不安になったのは退院して自宅で一人になった時。手術をしたのだから以前よりも健康になったはずなのに、灰色の不安感が心を覆い尽くした。そして「一人きりなんだ、この問題は自分で解決していかなければいけないんだ」という思いに圧倒された。親族に医療関係者がいて、その部分では心強いところもあったが、根本的なところは自分で対処していかなければならない。

僕はピアノに助けを求めたのだ。ピアノを再開したのは圧倒的な孤独感からだったとも言える。

そんな時、モリッツ・ローゼンタールの演奏を聴いた。彼の演奏は子供の頃から聴いていたけれど、それは切なくなるような、ロマンの極致とも言える晩年の演奏だった。録音技術の発達の歴史を考えれば、ローゼンタールは晩年でしか録音を残せなかった。

孤独感に圧倒されている時、僕はローゼンタールのピアノロールの録音を聴いた。それまで聴いていた彼の録音よりも、ずっと若い頃の録音。このピアノロールの演奏が直接的なピアノへの再開とつながった。

何といったらいいのだろう?

このピアノロールの演奏は僕のピアノ演奏の概念を変えてしまったと言ってもいいだろうと思う。それまでピアノを弾くうえでの「技術」というものは、現代のピアニストのそれが最も高度なものだと思い違いをしていたところがある。どこか往年のピアニスト、古いピアニストは現代のスターピアニストと比較すれば技術そのものは劣るであろうと・・・

フィギュアスケートのジャンプの進化と同じような感覚をピアノの技巧、技術においても持っていたのだ。かつての僕のような考えを持っている人は多いのではないかと思う。技術の発達というものは、進化していて、現代のピアニストは昔のピアニストよりも少なくても技術は優れていると・・・

ローゼンタールのピアノロールの演奏は、僕のその概念を覆した・・・

絢爛たる彼の技巧、信じられないほどの軽さをも伴った(ここが現代のピアニストに欠けているところ)超絶技巧・・・

「ピアノを弾いてみたい、30年も放置していたけれど、また弾いてみたい、死ぬまでにこのローゼンタールが弾いている曲を弾いてみたい」

姪っ子が弾いていた中古の電子ピアノを譲り受け、ピアノを再開した。姪っ子は「ピアノなんか嫌い」とピアノを辞めてしまったので、売ろうかと考えていたらしいところ、僕が譲り受けた。粗大ごみになるところだったのだ。

モリッツ・ローゼンタールはミクリとリストに師事したピアニスト。いわばショパンの孫弟子、リストの直弟子となるピアニスト。真珠の重なりのような極上の軽いタッチ・・・

「死ぬまでにこの曲を弾いてみたい・・・」

僕はピアノを再開した・・・

kaz



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category: 履歴書

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宣告とサン=サーンス 

 

もう遥か昔のような気がする。その年の初夏、僕は非常に体調が良くなかった。「病院で診てもらいなよ」と周囲に勧められ、そして宣告を受けた。それが7月21日だった。

ドラマでの描写のようにドラマティックな音楽が鳴ったわけでもなく、目の前が暗くなって倒れたわけでもない。どちらかというと、宣告そのものは淡々と受け入れたように思う。自分の境遇を嘆く時間など無かった・・・というのが正直なところだ。

「これからどうしよう・・・」

仕事のこと、家族のこと、友人のこと・・・身近な問題に対処したことで自己救済をしたところがある。実際、とても忙しかったのも事実だ。

自宅に帰り、これからのことを思った。やはり今思うと相当ショックだったのだと思う。人生の整理をしなければ・・・と思った。自分は本当にやりたいことをしているのだろうか?

ピアノ・・・というものが頭に浮かんだ。音楽を聴くだけではなく、実際に自分でも奏でられたら・・・

もし自分の命が短いものであるのならば、ピアノを弾く生活というものをしてみたい・・・

実際にピアノを弾こうと動いたのは、往年のピアニスト、ローゼンタールのCDを聴いた時だと思う。でも、宣告の日、一人で人生設計を立て直した時、僕はスターンの演奏を聴いた。何故か心が追いつめられると、僕はヴァイオリンの音色が欲しくなるらしい。

スターンの、この曲の演奏をCDで聴きながら、「生きたいな・・・もうしばらく・・・」そう思った。

音楽というものは、人の心に何かしらを訴え、メッセージを送るものだと思った。スターンの演奏は「音楽というものがこの世にはあるんだよ?」「触れてみることだってできるんだよ?」「さあ、やってごらんよ・・・」と訴えてきた。

僕は音楽とか演奏というものに過剰に「感動」とか「共有」というものを求め過ぎるのかもしれない。そしてそれは素人ならではの甘さ、甘い夢なのだと・・・

専門家は、もっと厳しい世界にいる。そうなのだろう・・・

でも、やはり根本的には同じ人間なのだから、どこかに「憧れ」がなければ演奏なんてできないのではないかと思う。

なぜなのか考えてみることがある。なぜ学芸会のようなピアノの発表会が好きではないのだろう?なぜ楽しいだけのレッスンというものを嫌うのだろう?なぜ否定的に今のピアノ教育界というものを捉えてしまうのだろう?

それは演奏というものに命を救われた経験を僕が持つからなのかもしれない。どこか音楽やピアノの演奏は楽しいものではなく「深いもの」という認識があり、それを素人の甘さ、素人目線と言われても、自分の感覚を変えられないのだろう・・・と思う。

深いものだからこそ、楽しさや笑顔や「瞳が輝く」だけではピアノは続かないのだと僕は思ってしまうのだろう。だからこそ残念に思うのだと思う。ピアノを辞める子どもに先生方は「深さを伝えきれた」のだろうかと疑いの眼差しを向けてしまったりするのだ。

僕が宣告を受けた日、それは7月21日だった。スターンの誕生日も7月21日・・・

偶然なのだろうか?

「素人のくせに生意気」とか「専門に習ってもいないのに・・・」とか「アマチュアの甘さね」と言われても僕は「共有」とか「感動」とか・・・書き続けるだろうと思う。

「憧れ」を持っていない先生・・・僕はイヤだな・・・

癌の宣告を受けた人が一年以内に自殺をする割合は、そうでない人の20倍になる。それほど苦しいのだ。でも音楽や演奏は、その苦しみを救済する力がある。それほど大きいものなのだ。

素人考えですかねぇ・・・

kaz



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ルンバ 

 

体力がないということを触れ回っているわけではないけれど、友人があるものをプレゼントしてくれた。

「万能じゃないけれど掃除をするのが辛い時には役立つんじゃないかと思って・・・」

すでに使用している人も多いのだと思う。「ルンバ」という自動掃除機というか掃除ロボットだ。

スイッチを押せば、勝手に掃除をしてくれるのだそうだ。たしかに掃除機を引っ張り出してきて掃除をするのは辛い時もある。狭い部屋なんだけどね。

さて、ルンバだが、実際に使用してみた。感想は「微妙かも・・・」というところか・・・

たしかに一応埃は取ってくれるけれど、コードに絡まると自分では動けなくなるし、狭い隙間には入れなかったりする。自分の身体より広い所、ベッドの下などは、たしかに掃除機よりは便利かもしれない。

僕の部屋は比較的シンプルだと思うし、床に物を置くということは少ないと思うけれど、家庭によっては「ルンバ使用のための片づけ」が必要となってくると思う。そもそも、そのようなスッキリと片付いている部屋に住む人は、まめに掃除をする人だとも思えるので、ルンバそのものを必要としないのではないだろうか?音はかなりうるさいと感じる。これを「賑やかに掃除してくれている」と思えばいいのだろうけれど。

役には立つと思う。

でも、箒と塵取りという「古典派」グッズの方が楽かもしれない。あとは「手で拾う」とか・・・

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音大生発想とアマチュアの甘さ 

 

世の中には「音大生発想」というものがあるのだろうか?頂いたメールから考えてみた。

「感動とか、そのようなことを重要視するのはアマチュアの発想そのものですね。専門的にピアノを学ぶということがどんなことかお分かりになっていないようですね?自分がピアノが好きだとか、感動したからとか、そんなにピアノは甘いものではないんですよ。私にとってピアノは苦しみでした。でもその苦しみを乗り越えたものだけが達する境地のようなものがあるんです。ピアノ教師が自分のピアノを弾かないのには理由があるんです。それは専門的に学んできたからこそ弾かないんです。感動とか、そんな甘っちょろい世界ではないところで学んできたからこそ弾かないし、弾けないんです。感動とか、そのようなことはアマチュア独自の世界であり、甘さであると思います」

僕は感動がなくて何故ピアノが弾けるのかと思うけど・・・

「弾かないし、弾けないんです」・・・分からないなぁ・・・

「アマチュア発想そのものですね」・・・うん、アマチュアですから・・・

音大生って音楽をどのように捉えているのだろう?まさか多くの音大生やピアノ教師がこの人のように考えているとは思えないんだけど・・・

やはり「音大生発想」というものはあるのだろうか?

ユーチューブで「ウィーン、我が夢の街」を弾いている人がいた。勝手に「ウィーンのおじさん」と呼んでいるけれど、この人は○○音楽院出身の人ではないと思うし、そのような意味ではアマチュアだと思うのだけど、個人的にはとても素敵な演奏だと思う。なぜならこのウィーンのおじさんが、この曲をとても好きだということが伝わってくる演奏だから。

でもこれはアマチュアの特権であり、同時に甘さなの?

好きなんだな、感動したんだな・・・これが伝わるということはアマチュアの甘さなの?

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極上のアマチュア 

 

小学生でピアノ教室は辞めてしまったけれど、音楽愛好家としての人生は続けてきた。僕のピアノへの取り組みは多分に愛好家的だと言えるのかもしれない。曲を選曲する際には、まずは曲そのものに惚れ込むという要素が非常に強い。もちろん、嫌いな曲を選曲する人は少ないだろうけれど、僕の場合は真っ白な状態から楽譜を丹念に読譜をしていって曲を仕上げていくという経験がこれまでにない。そこが愛好家的なのだと自分では思う。

先生から曲を指定された経験がないのだ。むろん、子ども時代はバイエルの次の曲とか、そのような指定のされかたはあったけれど、自分で好きな曲を弾くようになってからは、曲を弾く時には、その曲に対して鮮烈なイメージが最初からあり、それがピアノを弾くという動機にもなっている。中年になってピアノを再開してからも、僕の先生は曲を指定しないので、やはり曲は自分が惚れ込んだ曲ばかり弾いていることになる。

もう一つ、愛好家的だな・・・と自分で思うことは、ピアノ曲以外の曲、例えば声楽の曲を聴いて感動した時にも、その感動、というか胸がキュンとなるような想い、それをピアノに託したくなる。普通はピアノ曲を聴いて「この曲を弾いてみたい!」と思うケースがほとんどなのではないだろうか?

例えば、このプライの歌う「ウィーン、我が夢の街」という曲、これを聴いて胸が苦しくなるというか、切なくなるほどの甘美さを感じる。この時のキュンとなる想い、この想いが選曲につながり、ピアノ曲を弾いていても、その想いに触れたくなる気持ちで一杯になるのだ。

このあたりが愛好家的なんだよな・・・と思う。

おそらく、ピアノを弾いていくうえで欠けている部分もあるのだと思う。先に自分の中に表現したいイメージがないとピアノを弾くのが難しいのだ。これは僕の欠点と言えるだろうと思う。自分の知らない曲を渡されて「さあ、弾いてきなさい」と言われても、弾けないだろうと思うから。

最も自分が愛好家的だと思うのが、「先に自分の表現したいものがある」ということを悪いことだと思っていないことだ。むしろ、ピアノを弾くうえで大切なことだとすら思っている。だから「弾けるようになってから表現をつける」という発想が分からないのだ。ここも愛好家的だな・・・と自分で思う。

僕が最も苦手な演奏は、ミスを連発する演奏ではなく、ミスの有り無しに関係なく「ただ音を並べている」という演奏。もしかしたら、愛好家として聴くのではなく学習者として聴けば異なった受け取り方をするのかもしれないが、学習者同士でしか共有できない演奏を「演奏」と呼んでいいものかどうか・・・

やはり愛好家なんだな・・・と思う。アマチュアなんだな・・・と思う。甘いんですよ、基本的に・・・

「ウィーン、我が夢の街」を作曲したのは、ルドルフ・ジーツィンスキーという人。この人はウィーン大学で法学を学び、ウィーンで役人として生きた人だ。定年まで勤めあげた。この曲を作曲した時、ジーツィンスキーは本職が別にあったのだ。その意味ではアマチュアだったのだ。でも専門機関を経て多くの作品を書いても忘れ去られたり、演奏さえされなかったりするのが普通だと考えると、いまだに歌い継がれている曲を残したジーツィンスキーはアマチュアでも作曲家だったと言えるのではないだろうかと思う。

こんなメロディーを書けたなんて、素敵な役人(?)だったのかもしれない。

それにしてもプライの歌唱は極上の甘美さだねぇ・・・

kaz



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category: 好きな曲・好きな演奏

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実は今日は発表会だった・・・ 

 

実は今日はピアノの発表会なのだ。武蔵野スイングホールというところで弾く。開演が19時頃で僕は最後の方に弾くので、何時頃になるかな・・・20時30分頃だろうか、分からないけれど。

本番当日なので、本来は必死に練習しているべきなのだろうが、これから仕事なので、仕事が終わって駆けつける感じになるだろうな。まっ、大人のピアノなんてそんなものだ。

昨日は深夜、ピアノを練習した。と言っても今日弾く曲ではなく、次回にサークルの練習会のための曲の選曲をしていた。本番前日にやることではないよなと思いつつ、いろいろと弾いていた。

体力が落ちて、このところ以前弾いた曲ばかり本番で弾いている。なんとなく新しい曲を譜読みして、新しい世界に挑戦したくなった。練習会は8月30日だ。あと一か月と少ししかない・・・と捉えるか、一か月以上ある・・・と捉えるか、今のところは後者の捉え方をしている。割と僕は長期熟成型ではなく短期燃焼型で本番に挑むのが好きみたいだ。

以前弾いた曲ばかり・・・ということだけではなく、最近は体力温存系の癒し系(?)の曲ばかり弾いていた。本当に辛いのよ・・・ピアノの練習が。

でも、癒し系ではなく、本格的な曲に挑戦したくなった。

選曲したのはこの曲。弾けたらいいな・・・と思う。あと一か月ある。

失敗するかもしれないね。無残な演奏になるかもしれん。でも挑戦したということは残る。今の僕にはそれが必要だ。

kaz



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category: サークル

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大人のためのピアノ 

 

大人のピアノは難しい・・・とされている。そりゃあ子どものようにはいかないところもあるだろう。記憶力も衰えるし、体力も衰えるし、何より仕事をしながらなので、毎日なんて練習できなかったりする。子どもは受験や進学を理由にピアノを辞めたりするけれど、フルタイムで仕事をしていれば、受験期の子どもよりも忙しかったりする。

でも大人は辞めない。

「ピアノが楽しい」「ピアノが好き」という言葉は、本来「大人のピアノ」のために使われるべき言葉なのかもしれない。

人間は感覚的な生き物なのだ。世間で「~とされている」ということ、それらのことを乗り越えれば人間は強くなれるのだ。その部分で大人は有利なのだと思う。

ピアノは子どもの時から習っていないと上達は難しい。

ピアノは毎日練習しないとならない。

電子ピアノだと上達できない。

年齢を重ねると、様々な機能が衰え、記憶力、指の敏捷性など大人は不利になる。

難聴だとピアノは弾けない。

そうなのだろう。でもこれらのことを絶対視せず、自分の感覚を信じる能力が大人には備わっている。やはり人生経験を重ねれば、それなりに学ぶことはあるのだ。学んだこと、それは自分の感覚を信じるということ。

自分なりの「ピアノライフ」を満喫できる術を身につけられるのだ。

ほとんどのピアノ曲、ピアノのために残された芸術作品は大人のためのもの。子どもにではない。ピアノを習うということ、ピアノ教室の主役は、本来は子どもではなく「大人」のためのものなのだ。

90歳を超えても上達できる。サン=サーンスのエチュード、この曲は左手のための曲で、相当に至難難曲だと思う。でも自分の感覚を大事にしていれば弾けるのだ。この女性のように・・・

自分の感覚を信じよう。

「大人は~が不利」という言葉は無視しよう。「~だと弾けない」「~だと上達しない」という信じ込みを自分の感覚で捉え直そう。

kaz



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category: ピアノ雑感

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幻のピアニスト・・・バルボーザ 

 

Mazurkas CompleteMazurkas Complete
(2008/03/25)
不明

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アントニオ・バルボーザというブラジルのピアニストがいた。彼のレコードが続けて世に出たのは1970年代だっただろうか?少年だった僕も夢中で彼のレコードを聴いたものだ。

今、バルボーザのことを知る人はどれくらいいるのだろう?

知る人ぞ知る、幻のピアニストとなってしまったかのような感じだ。おそらく、多くのレコードがCD化されていないというのもその理由だろうし、バルボーザは若くして心臓発作で亡くなってしまい、ピアニストとしての活動期間が非常に短かったということもあるだろう。

だからこそ、今、多くの人に知ってもらいたいピアニストでもある。

kaz



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category: 今年のピアニスト 2014

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~らしく弾く 

 

バッハをショパンのように弾いてはいけない、モーツァルトをドビュッシーのように弾いてはいけない・・・

当たり前のことのように思う。そうだとされているから。

バッハはバロック時代の作品だから。モーツァルトは古典派だから。ショパンはロマン派だから。様式感というものがあるよね。

「バッハなのだから、もっとバッハらしく弾いて!」「古典派の作品なのだから、古典派らしく弾いて!」

「~らしく・・・」

当たり前のことのように思う。そうだとされているから。

ではモーツァルトとハイドンでは、どのように弾き分ければいいのだろう?ショパンとシューマンでは?ドビュッシーとラヴェルでは?バッハとヘンデルでは?

このあたりになると、答えにつまる人も出てくるのではないだろうかと思う。なんとなく「~らしく」では解決できないことのように思うから。

「ドビュッシー・・・なんとなく曖昧に・・・」「モーツァルト・・・なんとなくはっきりと明快に・・・」でいいのだろうか?いけないと思う。ではどうするのか?このあたりの具体的な指摘というものが指導側に不足しているケースもあるのではないか?

バルダッサーレ・ガルッピ・・・1706年生まれの人で、名前から分かるようにイタリアの作曲家だ。オペラ・ブッファの作品で名を残したという。モーツァルト父子もガルッピの作品は知っていて、楽譜も持っていたらしい。実際に弾いたのかは不明だが。

そうなると、モーツァルト以前の作品ということで、そして伴奏はよくあるアルベルティ系だとすると、ガルッピ作品は「はっきりと明快に弾く」ということになるのだろうか?むろん、現代のピアノで演奏する際には、当時の楽器(チェンバロか?)を連想しながら?

そうなのだろう・・・きっとそうなのだろう・・・

では、この演奏はどう受け取ればいいのだろう?ミケランジェリは昔からガルッピが好きだったみたいだ。彼の演奏は「いかにも古典派、はっきりと・・・」という感じではなく、非常に美しい。とても美しい。

この演奏は、どう聴いても「いかにも古典派」「いかにもバロック」のようなカテゴライズをしていないように感じる。「~らしく・・・」を感じないというか・・・

「それはピアニストだから許されるのよ。ミケランジェリだから。学習者は学習者らしく弾くのよ!」

そうか?

ガルッピとハイドン、そしてモーツァルト、どのように弾き分けるのだろう?

kaz



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category: ピアノ雑感

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コンクールの限界 

 

サラ・チャンの両親は彼女にコンクールというものを受けさせなかった。コンクールよりはオーディションという考えだったらしい。

似たようなデビューの仕方としてはユジャ・ワンもそうだと思う。彼女はコンクール歴があるけれど、世に出たのは、たしかアルゲリッチの代役としてだったと思う。鮮烈なデビューだった。これは、オーディションを受けることによって、インプレサリオたちに名前と顔、そして演奏を覚えてもらうということがデビューにつながったケースなのだと思う。

ユジャ・ワンと同じくカーティス音楽院でグラフマン門下のラン・ランも、同じようにオーディション、そして代役(たしかワッツの代役だったと記憶している)という順序でスターになったピアニストだ。彼もコンクール歴はあるけれど、コンクールによって注目されたわけではない。

サラ・チャン、ユジャ・ワン、そしてラン・ラン・・・コンクールではなく、彼らのようにインプレサリオたちに認められて世に出る演奏家がこれからは増えていくのだろうか?

ラン・ランの自伝を読むと、グラフマンはコンクール出場をラン・ランに禁じていたようで、おそらくユジャ・ワンにも同じだったのではないかと思う。コンクールで世に出なくても、彼らは演奏家としての魅力があり、インプレサリオは彼らにいつか注目し、そうなれば聴衆も彼らに夢中になるであろうと計画したのではないだろうか?なのでコンクールではなくオーディションを受けさせた・・・

これはコンクールに出場させるということは、そのピアにイストが、どこか演奏家としての魅力、カリスマ性に欠けていて、コンクールでしか世に出るチャンスはないのだという考えにもつながる。グラフマンは(名前は書かないが)実際にある中国人青年をヴァン・クライバーン国際コンクールに出場させていて、そして優勝させている。でも実際には彼はユジャ・ワンやラン・ランほどインプレサリオには注目されなかったように思う。グラフマンはドライな人なのだろうか?アメリカ人らしいといえばそうだが・・・

演奏会は演奏家の品評会ではないのだから、なにかしらの魅力が演奏家に備わっていないかぎり、息の長い活動をしていくのは難しいのではないか・・・

そしてその魅力の発掘というもの、その役割を担うには、もうコンクールは限界なのではないか・・・

ユジャ・ワンの演奏を聴きながら、そのようなことを考えたりしている。

kaz



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category: 未分類

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垣根のない人 2 

 

ジャンルを超えるという意味での「垣根のない人」ということではないけれど、クラシックの演奏家でも素晴らしい人は、「いかにも楽譜を一生懸命にこなしています、楽器を操っています」という感じではなく、「音楽」そのものを感じさせてくれる。

ただ、そのような意味おいては、残念ながら個人的な嗜好として往年の巨匠の演奏に惹かれるところがある。つまり、現代のスター演奏家にはあまり興味がないというか、惹かれるところが少ない。

どうも楽器操り能力に長けているという印象を受けてしまうというか、音楽そのものよりも「弾く」という行為を感じさせてしまうというか・・・

実に皆さん、お上手なのだが・・・

演奏能力に長けていて、かつ「音楽」を感じさせてくれる人、そのような人の演奏には垣根がないように思う。演奏している曲が、たまたまクラシック音楽なだけというか・・・

若手にもそのような演奏家はいる。興味深いことに、女性、そして東洋系の演奏家に垣根のなさを感じることが多い。男性の方が保守的なのだろうか?面白い現象だと思う。まぁ、あくまでも個人的な感じ方だが・・・

韓国系アメリカ人のサラ・チャン、この人の演奏、とても音楽を感じるのだ。優秀な日本人の若手、コンクール出身の優秀な若手と何が異なるのだろう?

垣根を感じさせない人だと思う。

kaz



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category: Violinists

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垣根のない人 

 

Classic WyntonClassic Wynton
(1998/11/10)
Wynton Marsalis

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クラシックとジャズ、根本的には違う種類の音楽なので、演奏する際の心構えのようなものも異なるのではないだろうかと思う。クラシックの演奏がジャズの曲を演奏することも、もちろんあるし、その逆もある。でも、普通は、あくまでも自分のフィールドというものは残しつつ演奏しているように思う。

中には、クラシックもジャズもない・・・というかフィールドのようなもの、そして垣根というものを全く感じさせない演奏家もいる。グルダとか、このウィントン・マルサリスとか・・・

ジャズのプレイヤーとして活躍しつつ、ジュリアード音楽院で学んだマルサリス、ジャズが好きな人は彼をジャズの演奏家だと思っているだろうし、クラシック好きはマルサリスをクラシックのトランペット奏者だとカテゴライズしているのだろう。

父親はエリス・マルサリス、ジャズのピアニストだ。そして、あのブランフォード・マルサリスは、ウィントン・マルサリスの兄にあたる。これは知らなかった。兄弟だったとは・・・

ジャズを演奏するとき、クラシックを演奏するとき、マルサリスはどのように垣根を軽々と越えているのだろう?そもそも「異なるもの」という認識を持っているのだろうか?それとも同じ「音楽」として捉えているのだろうか?一度訊いてみたいような気もする。

kaz



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category: 好きな曲・好きな演奏

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ではどのように練習したらいいんですか? 

 

ピアノを演奏するという事は難しい。決して易しいことではない。

「先生は指摘はしてくれるんです。でもはっきり言って、指摘されたことは自分でもできていないということは感じているんです。先生に求めるのは、ではどうしたらできるようになるのか・・・という部分なんです。でも指摘だけなんですよね」

「練習してね・・・と言われます。もちろん練習しなきゃと思います。でも、具体的に家でどのような練習をしたらいいのか、何も言ってくれないんです。ただ練習してね・・・だけで」

「もっと~のように弾いてと注意されます。でもどうしたら~のように弾けるのかのアドバイスがないんです」

先生自身は、自ら道を切り開いてきたのだろうか?安易に生徒はノウハウを求め過ぎなのだろうか?そうなのかもしれないが、やはり指導というものには具体性というものが必要なのではないかと思う。

「なにが良くないのかがわからない・・・」「どうしていいのかわからない」と悩む生徒も多い。

このように言われた生徒もいる。「~の部分、まだ練習が足りないわね。練習してきて頂戴ね」

「どのように練習してくればいいのでしょう?」

「そんなことは自分で考えるのよ!沢山よ!沢山練習するの・・・」

個人的には生徒(の親)はお金を払っているのだから、具体的な解決法や情報は伝えたほうがいいのではないかと思う。

コンクールなどの「講評」ではないのだから、具体的な解決策や練習方法を示す必要性はあるのではないか・・・

「先生が弾いてくれない」という悩み、疑問、不満と共に、「具体的に示してくれない」という訴えが多く寄せられる。

kaz

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category: 未分類

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背中 

 

多くのピアノを習っている人、その中で、中学生や高校生から寄せられたメールで共通した問題について考えてみたいと思う。まず、自分の先生に対して、どこか不満を感じている人に共通しているのが「先生が弾いてくれない」ということ。

これは、むろん発表会での講師演奏ということを指しているケースもあろうが、多くの生徒は「日常のレッスンで先生が弾いてくれない」ということに不満や疑問を持っている。

僕の先生は、弾いてくれるけれど、中にはレッスン時間に自分では弾かない先生もいるらしい。

「口頭で注意するだけなんです」「~が弾けていない。もっと練習しなさいと言うだけなんです」

生徒は別に全曲を通して模範演奏をしてくれと望んでいるわけではないと思う。指摘された部分、そこを「このように弾いたらどうでしょう?」とか「そこは~のようになるといいですね、たとえばこんなふうに・・・」と先生に弾いて欲しいのだと思う。

弾かない先生にも理由はあるのかもしれない。「生徒自身に考えてもらいたい、感じてもらいたい」とか「物まねになってしまうでしょ?」とか・・・

でも、個人的には、先生には弾いてもらいたいと思う。やはり音楽なので、聴けば理解しやすいのではないだろうか?

「先生の背中を見て、先生を追いたい」という欲求が生徒側にはあるのではないだろうかとも思う。脚光を浴びるコンサートピアニストとは違った何かを先生には求める。

別にアルゲリッチやポリーニのように弾いて欲しい・・・などと生徒は思っているわけではないと思う。

「弾いて欲しい」と願っていて、先生に伝えられなくて悩んでいる生徒は実に多い。

「先生にお願いしてみようかと思っています。でも言い方が難しくて・・・」

そうだよね・・・と思う。単刀直入に「では弾いていただけませんか?」なんて言えないよね・・・と思う。

でも多くの生徒は先生に弾いて欲しいんじゃないかな・・・

生徒は先生の背中を見ているのだ。背中を見て、そして失望した時、生徒は辞めるという選択をするのかもしれない。

kaz

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category: 未分類

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鑑賞者と学習者 

 

ピアノを再開して間もないとする。まだ曲を仕上げるのにも時間を要するとする。

そして思う・・・

「まだ自分は弾けないから、ただ弾いているだけでやっとなんだ」と・・・

弾き続けて自分も上達すれば、表現力豊かに弾けるようになるのだ・・・

たしかに、経験や知識も必要だろうけれど、はたして実際に上達しなければ、思うように弾けないものなのだろうか?指の敏捷性やらアナリーゼ能力などはそのような要素も多分にあるだろうけれど、はたして自分はまだ未熟だから表現力がないと言えるのだろうか?

上達さえすれば、弾けるように?

鑑賞者としては、自分のピアノの弾きこなす能力がどのような過程であろうと、頭の中では理想のサウンドが鳴るものではないだろうか?そのサウンドと自分が実際に鳴らすサウンドとの距離はあるのだろうけれど、でもその差を埋めようとするのが練習なのではないだろうか?

初心者は、「どのように弾いていいのか分からない」「理想のサウンドそのものが存在しない」ということが普通にあるものなのだろうか?

理想とは遠い・・・というのは理解できる。実際にはそのようには弾けない・・・というのは分かる。

でも初心者なので、理想のサウンドそのものが鳴らせないということが今一つ理解できないでいる。

学習者としてノウハウを知ることと同時に、鑑賞者としてもノウハウが必要なのかもしれない。

そんなことを最近考える。

kaz

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category: ピアノ雑感

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影のスペイン 

 

スペインのピアニストというと、やはりデ・ラローチャということになると思う。スペインのピアノ曲を聴くのであれば、デ・ラローチャのCDは、まず「はずれ」がないと思う。

そうなのだが、どこかデ・ラローチャのスペイン物は、真面目というか、個人的には濃厚さが欲しいと思う時もある。幾分、スペインの光と影の部分で言えば、やや光が多いような気がする。それはそれでいいのだけど・・・

ゴンサロ・ソリアーノというスペインのピアニストのCDを買った。聴いてみたら、これがなんとも素晴らしい。光と影の、「影の部分」も濃厚に表現してくれているというか・・・

ネットの情報は凄いものなのかもしれないけれど、日本にいると、このようなピアニストの存在を知ることができなかったりする。

モンポウにしても、グラナドス、アルベニスにしても、非常に表現が濃厚だ。

このようにしてCDが増えていくのだ。もう収まりきらない。でも買うんだよねぇ・・・

kaz



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category: ピアニスト

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オペラ界のMr.ビーン 

 

スペインとイタリアで自分のために買ったものはCD。洋服とか、あまり興味がなかったりする。

スペインで購入したローランド・ヴィリャソンのCD。この人は決してローカルな歌手ではなく世界的な活躍をしている歌手なので、日本でも購入できるのだけれど、何故かスペインで購入したくなった。その理由は、おそらく「顔」だと思う。

ヴィリャソンはメキシコのオペラ歌手で、「いかにもラテン系」という容姿をしているように思う。つまり濃い顔といえる。

彼は「オペラ界のMr.ビーン」と呼ばれているらしい。僕はテレビを観るという習慣がないので、Mr.ビーンというコメディ(?)を知らなかったのだけど、そのMr.ビーンというシリーズの主演俳優とビリャソンが似ているらしいのだ。

調べてみると、たしかに眉毛に特徴ありだよな・・・と思う。

でも似ているかなぁ・・・

kaz



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category: The Singers

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生徒が辞めないピアノ教室 

 

やっとレッスンに行ってきた。半年以上間が空いてしまった。まぁ、いろいろ僕にもありましたから・・・

毎年のことだけれど、今月の発表会のプログラムも貰ってきた。そして、これも毎年思うことだけれど、僕の先生は「生徒の辞めない先生だな」と思う。つまり「生徒が辞めないピアノ教室」なのだ。

生徒が辞めないということは、生徒が循環(?)しないということだから、生徒は上手くなっていくし、曲も高度なものを弾くようになっていく。発表会のレベルというか、曲の難易度も上がっていくということになる。

僕の先生は、別に音大志望者のみ教えるとか、上級者のみを教えるとか、そのようなことはない。来るものは拒まずで、もちろん初歩や導入の生徒もいる。もちろん、ホームページに、コンクールの入賞者が何名ですとか、何人音大に合格しましたとかは掲載していない。生徒がコンクールを受けたいと希望すれば、むろん反対はしないだろうけれど、「今年は何人受けさせる」とか、そのようなことは一切ない。

今年の発表会は、二夜に分けて行われる。高校生までの日と、大人の日。考えてみなくても、これができる教室というのはとても少ないのではないだろうかと思う。

最初は、導入期の生徒の演奏。これは他の教室も同じだと思うけれど、9~10人目ぐらいには、ソナチネレヴェルの生徒になってしまう。ショパンの曲などは、普通は最後の方の生徒が演奏するのではないかと思うけれど、高校生までの部でもカプースチンの曲なども登場するし、ロマン派の名曲も会の半分ぐらいから普通に登場してくる。二日目は大人の生徒のみの会になる。難曲が並ぶ・・・

「上級者のみ」と限定しているわけでもないのに、生徒が辞めないのでこうなるのだと思う。大人の生徒がとても多いのも特色だといえるかもしれない。

考えてみれば、ピアノ教室にとって、いつも最大のお客様が「小学生」というのは、少し変だと思う。先生だって「いつも導入指導」では大変だろうと思う。でも中学進学あたりで辞める生徒が多ければ、生徒が循環するので、「いつも導入」とか「発表会は毎年幼児と小学生が中心」となってしまうのかもしれない。

何故生徒が辞めないのか・・・

僕の先生は「専門」と「趣味」というカテゴライズを一切しない。先生は温厚な人なので、これまで生徒を怒鳴ったりなんて絶対にしていないと思うけれど、やはり生徒が循環しないのは、専門も趣味もないからだと思う。

もう一つ思い当たるのが、そしてこちらの理由の方が大きいのかもしれないなどと思うけれど、僕の先生は「ダメ出しレッスン」ではないからだと思う。普通は、生徒が練習した成果をまず聴く。このところは僕の先生も同じだけれど、そのあとが「できないところの指摘」ではないのだ。もちろん、レッスン時間の中で指摘はあるし、弾きやすい奏法も考えてくれるけれど、「そこが弾けていない」とかそのようなことは言わない。生徒側も「ああ、もうすぐレッスンなのに全然弾けていない」などと胃が痛くなる(?)ということもない。「ダメ出し」のレッスンではないから。

生徒と一緒に音楽を創るという感じだろうか?生徒のフレーズを変えてしまうとか、そのようなことは一切なく、「そこはこのようにしたらもっと良くなるのでは?」と弾いてくれるのだ。そして「どうかな?こう弾いた方が素敵ではないかな?」と生徒に笑顔を向けてくる・・・

僕の先生は、とても「弾いてくれる先生」だと思う。僕が変わった曲を持って行っても、初見で弾いてしまう。一台しかピアノはないので、立ったり座ったりと非常に忙しい・・・

久しぶりに先生のレッスンを受けて、ヴェンゲーロフのレッスンと似ているな・・・と思った。

僕の先生、紹介したい気もするけれど、やはりネットに実名は書けないよなぁ・・・と思う。枠が空いていれば誰でも習えると思います。

kaz



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category: レッスン

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宣告の日のハチャトゥリアン 

 

フランチェスカッティのレコードの他に僕は欲しいレコードがあった。それはオイストラフの演奏するレコード。曲はなんでもよかった。オイストラフが演奏していれば。医大生の部屋で、オイストラフというヴァイオリニストのレコードを聴いて、とても興奮したのだ。

フランチェスカッティのクライスラー、そして僕はオイストラフのレコードを探した。一枚だけあった。それがハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲のレコードだったのだ。「剣の舞」という曲は知っていたけれど、ハチャトゥリアンのその他の曲は知らなかった。この曲が僕のヴァイオリン協奏曲初体験となった。

「もう一枚欲しいんだ・・・」

「いいよ、何枚でも買ってやるよ・・・」

このオイストラフのハチャトゥリアンを聴いても、やはりあの宣告の日を想い出す。

「ごめんね・・・kaz・・・ごめんね・・・」

母は泣く。僕は何故悲しむのか分からない。僕は以前の僕と変わらないから・・・何も変わらないから・・・

僕は人の半分以下しか音が聴こえなくても、今まで自分を不幸だと思ったことはない。不便だと思ったことは何度もある。ピアノを舞台で弾いていても、自分の音は聴こえないことが多い。自宅では電子ピアノでヘッドフォン使用で練習している。僕の聴力では、ピアノを弾く時は自分の音を聴きながら判断して演奏することが非常に困難なので、鍵盤の感触で「このような音が出ているだろう」と想像して弾いていることが多い。

正直、僕は電子ピアノだと上達しないとか、やはりグランドピアノでないと・・・という意見には反対だ。なんとかなるのだ・・・と思う。想像でもピアノは弾ける。聴こえなくてもピアノは弾ける・・・そう思う。なんとかなるのだ。

「なんとかなる・・・」

泣いている母を見て、僕はそう思った。

「ごめんね・・・」

「僕は大丈夫だよ・・・気にしてないよ・・・」

小学生だった僕は母に言った。

僕は自分が難聴でも不幸だと思わない、でもオイストラフやフランチェスカッティの演奏を知り、そして感動できるということは幸せなことだと思う。

この曲は、あの日のことを想い出させると共に、音楽と共に生きた喜びをも想い出させてくれる。

宣告の日のハチャトゥリアン・・・オイストラフ・・・

kaz



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category: 履歴書

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聴こえなくても聴こえるから・・・ 

 

「kaz君・・・ねえ、kaz君・・・聴こえなかった?何回も呼んだんだよ!」

そのようなことが何回かあった。「kaz君は耳が遠いんじゃない?」そのように言われたこともある。

小学生の時だ。ちょうどその頃は音楽を聴く喜びに目覚めた頃でもあった。沢山のレコードを聴かせてもらうため、医大生と過ごす時間が多かった頃だ。僕自身は自分が難聴であるとの自覚はなかった。友達とも普通に会話していたし、皆も自分と同じような聴こえ方なのだと思っていた。

自覚症状というものは感じていなかったけれど、両親は心配し、僕を病院に連れて行った。その日のことは、なんとなく覚えている。僕は病院や難聴のことよりも、両親と共に出掛けられるということが、ただ嬉しかった記憶がある。両親共、とても多忙で、家族で旅行をしたりとか、そのようなことは滅多になく、ピアノの発表会はもちろん、学校の行事でさえ両親が来てくれたことは一度もなかったのだ。それが普通のことだと思っていたし、姉と二人で食事を作って食べたりすることにも慣れていた。僕にとっては、それが普通の生活だったのだ。寂しいと思ったことはない。そして一人で過ごす時間が多かったということが、僕が音楽を聴くことに結びついていったのだと思う。

「えっ、そんなに聴こえていなかったんですか?」

「こうなった原因は何だったんですか、これからどうすればいいのでしょう?」

病院を出て、トボトボと歩いた。なんだか大変な事になったらしいということは感じたけれど、やはり実感はなかった。

「kaz・・・せっかく銀座まで出てきたんだし、こんな機会はあまり作れないから、何か買ってあげるよ、なんでもいい。何が欲しいんだ?」

僕の両親は、僕が何かをねだっても、決して買ってくれるということはなかった。小遣いの中で欲しいものを買う意外になかった。友達と駄菓子屋で何か買ったりすると、すぐに小遣いなんて無くなってしまう。それでも、少しずつ倹約し、僕にとっては高価であったLPレコードを集めていくのが僕の楽しみだった。なので、部屋中がクラシックのレコードで埋もれていた医大生の部屋で音楽を聴くことが僕の喜びでもあったのだ。

「僕、レコードが欲しいな・・・」

「レコード?いいよ。買ってやるよ。何枚でも買ってやるよ・・・」

おそらく、銀座の日本楽器だったのだと思う。そこには、いつもの駅前のレコード店と違い、沢山のクラシックのレコードがあった。僕はヴァイオリンのレコードが欲しかった。

医大生が聴かせてくれたフランチェスカッティのレコードを探した。

「あの曲が聴きたい。僕もあのレコードが欲しい・・・」

フランチェスカティが弾いているクライスラーの作品のレコードを探し当てた。

「これから毎日僕もフランチェスカッティを聴けるんだ・・・あの曲を毎日聴けるんだ・・・」

僕の大好きだった曲が、クライスラーの「レチタティーヴォとスケルツォ・カプリース」という曲で、「愛の喜び」とか「美しきロスマリン」のような通俗性はない、どちらかというと地味な曲だったけれど、僕は完璧なる音色、完璧なる技巧で圧倒させてくれるフランチェスカッティのこの曲の演奏が大好きだったのだ。

「このレコードが欲しい・・・」

僕はこの曲のフランチェスカッティの演奏を聴くと、あの日の宣告の日を想い出す。それは哀しい想い出ではない。どこか遠く、淡い想い出だ。

僕は人よりも聴こえなくても、この演奏が聴けるのであればいい・・・そう思った記憶がある。

kaz



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category: 履歴書

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