ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

象と歩む人生 

 

ポールさんは現在タイに在住なのだそうだ。タイに移り住もうと決心した時には迷いもあったのかなと思う。むろん、象だけのための移住ではなかったのかもしれないけれど、象の存在は大きかったのではないだろうか?

人生なんて人から指図されるようなものではないけれど、でも自分で生きたいように人生を歩むということも、また簡単なことではないのだと・・・

「象と歩むピアノ人生」・・・

そんな生き方もある。

大変なことも多いのだろう・・・

でも、ポールさんは実に幸せそうに見える・・・



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象とピアニスト 

 

友人が、あるピアニストの存在を教えてくれた。イギリスのピアニストで、ポール・バートンさんというピアニスト。この人は、王立音楽アカデミー出身のピアニストなのだが、一般的なピアニストとしての活動の他に、ある動物のための活動をも行っているピアニストでもある。

観光のために酷使されたり、密漁のために犠牲になる象の救済のために、自分の演奏で募金を集める活動をしているのだそうだ。

このような自己の才能の使い方もあるのだな・・・そう思った。

kaz



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category: ピアニスト

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学習モーツァルト 

 

サークルの練習会が来月の27日にある。まだ何を弾くのか自分の中で決定していなかったのだけれど、電子ピアノの上に楽譜を積み上げながら、いろいろと昨日弾いてみて選曲した。

僕のピアノを実際に聴いた人は、今回の選曲は以外な選曲だと思うのではないだろうか?

子供の頃、バイエルの途中で辞めてしまったピアノ。辞める前にも自己流でレッスンの曲で弾いていた曲はロマン派の曲ばかりだったし、ピアノを再開してからも、やはり弾いているのはロマン派以降の曲が圧倒的に多い。

「もう少し頑張ればソナチネぐらいは弾けるようになっていたかも・・・」などと思う。古典派のソナタ、このあたりが僕は抜けてしまっている。「学習者」としてハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンを弾いた経験がないのだ。同じ辞めるにしても、「ソナタ・アルバム」まで学習した人と僕では何かしら差があるような気はしている。

この「学習者としての経験の無さ」というもの、ここを非常に楽観的、かつ自分都合に解釈し、このように思ってみたらどうだろう?「僕は古典派のソナタを愛好家として弾くことができる」と・・・

僕が選曲したのはモーツァルトのソナタ、K.332・・・

この曲は、どうも「学習用」と捉えているような演奏が多いような気がする。「きっちり」「しっかり」みたいな。中には「このような曲はペダルを使用できないので・・・」などと書いているピアノの先生もいたりして、なんだかとても「学習臭(?)」を感じてしまったりするのだ。

学習者として弾いた経験がないのは、それはマイナス要素なのだろうけれど、でも愛好家として自分の中に存在する「素敵なモーツァルト」を目指しやすいという意味では、僕の経験の無さはプラス要素に転じるかもしれない。

正直、モーツァルトのピアノソナタはあまり好きではなかったりする。むろん、嫌いなわけではないのだけれど、ピアノだったらコンチェルトの方が数倍好き。もちろん、これは愛好家としての好み。ピアノ・コンチェルトよりはオペラを聴きたいと思う・・・

学習モーツァルトではないモーツァルト・・・あと一か月もないんですが・・・

いわゆる「学習モーツァルト」とは反対の所に位置するモーツァルト、僕はまずこの演奏を思いつく。

デニス・ブレイン・・・彼は自動車事故で36歳で亡くなってしまったんですよねぇ・・・

kaz



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category: サークル

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学ぶ 

 

私たちは学ぶ・・・

10%の読んだことを

20パーセントの聞いたことを

30パーセントの見たことを

50パーセントの見て聞いたことを

70パーセントの人と話し合ったことを

80パーセントの自分で経験したことを

95パーセントの他人に教えたことを

  ウィリアム・グラッサー

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category: 未分類

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大人の「折れ線グラフ」 

 

前回、大人のピアノについて書きましたが、海外でピアノを習っている方、外国人の方を含め、「大人のピアノ」について多くのメールを頂きました。50歳~60歳くらいの年齢層の方が多く、最高齢は82歳の方でした。

半分くらいの方が「大人の方は趣味で楽しく弾ければいいのでは?」と先生に言われています。

たしかにピアノ演奏は、子どもの頃から初めて、ある程度の演奏能力を身につけていたほうがいいのでしょう。でも、「大人」=「メカニックは身につかない」のような固定観念から「では楽しく・・・」とされてしまうのもどうなのでしょうか。外国人の方、そして海外でピアノを習っている方に多かった意見ですが、年齢的なものだけで「~だから~できない」と決めつけてしまうということは、これは年齢による差別になる・・・と。

個人的な知り合い(以前トムさん・・・として記事にしました)にも80歳くらいの方でピアノを習っている方がいますが、その方の演奏を聴いても、やはり「人間は死ぬまで成長できる、上達できるのだ」と感じます。

大人には、一部の(?)子供のような「目覚ましい上昇カーブ的折れ線グラフ」は期待できないのでしょうか?そうなのかもしれません。でも上昇カーブそのものは年齢に関係なく大人のピアノにだってあるのでは?

ある種の「決めつけ」みたいなものは、大人のピアノに対してだけではなく、子どものピアノにもあるような気はします。「専門家になるのではないのだから~」「趣味?それとも音大進学?」「コンクールとか受けるの?それとも楽しく?」

このようなことは本来「選択するもの」でもないような気がします。「専門?そんなことじゃないけれど、でも弾けるようになりたいの」とか、いくらでもあり得るのではないでしょうか?

トムさん曰く、「日本人は面倒くさがりなんじゃないか?レストランのメニューなんかも自分で決めるの苦手みたいだし・・・」と。面倒?自分の価値観で生きていくことは、たしかに面倒なことも多いよねぇ・・・ピアノとメニューは簡単には結び付かなかったけれど・・・

kaz



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category: ピアノ雑感

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大人ピアノの強み 

 

こちらのブログはいつも拝見させてもらっています。私は現在55歳になります。以前、脳梗塞を患いまして、身体が不自由になりました。でもリハビリを重ねた結果、日常生活は営めるまでになりました。もちろん健常者と同じというわけにはいきませんが。

2年程前からピアノを習い始めました。最初は、ピアノでの指の細かな動きというものがリハビリになると思い、ピアノ教室の門を叩きました。ピアノを習ったこともありませんでしたし、楽譜も読めませんでしたが、先生が熱心に指導して下さったので、そこそこ弾けるようになってきました。

「1本指でも弾けるクラシック」のような、簡単にアレンジされた曲を今までは弾いていました。もちろん両手でも弾いていましたが、やはり簡易版というかアレンジされた曲を渡されることしかありませんでした。先生は、私の拙い演奏に伴奏をつけてくださいます。楽しいです。レッスンの時間は楽しい。

でも、何と言ったらいいのでしょう?この年齢で、しかも不自由な手で、「もっと上手くなりたい・・・」と思っている自分に気づいてしまったんです。簡単なアレンジで「喜びのうた」とかハ長調で「別れの曲」の最初のメロディーだけを弾く・・・ということではなく、もっと素敵な曲を弾いてみたいと思ったんですね。無理は承知なのですが。

先生に伝えてみたんです。

「でも・・・大人の方は趣味で楽しく弾いていければいいのではないでしょうか?」と言われてしまいました。先生の仰ることも理解できるのです。

男性の方で、電子ピアノで演奏している動画がありましたね。その方のようにピアノを楽しみたいと思ったんです。もちろん、私は初心者なので、その方のように流暢には弾けませんが、家でくつろいでいる時、私も自分の好きな曲を弾いてみたい、そのためにはもっと上手くなりたいと思いました。動画の方のように・・・

「それは大人から始めた方には無理なのではないでしょうか?」

そう先生は仰いました。

でも、自分でもう弾いてしまっています。まだまだ未熟ですが、何と言ったらいいのでしょうか、自分を抑えられなくなってしまったんです。弾かずにはいられないというか・・・

不思議なのですが、自分のこの気持ちは間違えではないと感じています。弾かずにはいられない・・・

55歳  主婦

この「弾かずにはいられない・・・」という感覚、これは大人ピアノの強みかもしれません。メールを読んで僕はそう思いました。

kaz



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category: ピアノ雑感

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昭和ピアノ 

 

2011年、それまで減り続けていたピアノの生産台数がプラスに転じた。これは震災で壊れたピアノの買い替えが多くあったためだとされている。ピアノの生産会社にとっては嬉しいニュースのように思える。ヤ○ハやカ○イなど大手ピアノ生産会社の生産台数は一万台を割り込むかもしれない・・・などと言われていたから。

17年ぶりに生産台数が前年を上回る・・・ということよりも、17年連続で生産台数が減り続けていたということの方が深刻のようには感じる。17年間で7分の一にまで生産台数が落ち込んでいるのだから。

僕が子どもの頃、それは高度経済成長期の終わりにあたるのだけれど、ピアノ産業に限らず、世の中には「勢い」があったと思う。幼いなりに、その勢いというか、空気は感じていたように思う。駅前のレコード屋などでさえアップライトピアノが陳列され、どんどんピアノが売れた。ピアノ教室にはワンサカと生徒が集まった。

懐かしき昭和・・・

現在、ピアノを習っている生徒は多忙だとされている。でも当時の「昭和ピアノっ子」も多忙だったように思う。ピアノに限らず「御稽古事」が大流行だったからだ。今日はピアノ、明日は習字、明後日はソロバン・・・

忙しかったように思う。

その中で「ピアノ」というものは、楽器への投資がまず必要だった点で、「庶民の憧れ度」が高かったように思う。ピアノを習う、習わせている・・・このことがステイタスだった時代。

子どもが多忙・・・ということの他に、当時と今であまり変わらないこと、それは楽器演奏の習い事は「家で練習をしなくてはならない」という自覚の必要なこと。ピアノ教室に行ってレッスンを受ける・・・これは、それまでに家で練習をしておくという前提のもとに成り立つ。これが他の習い事と大きく異なるところ。

懐かしき昭和・・・でも平成の現在と変わらなかったところもあるんだな・・・

懐かしき昭和と比べて変化したこと、それは子供の数。減っているのだ。ヤ○ハ音楽教室の生徒数で見てみると・・・

2010年・・・51.5万人(11万人)
2011年・・・50.0万人(11万人)
2012年・・・46.0万人(11万人)

物凄いスピードで減り続けているように思う。でも注目すべきは、カッコ内の数字、これは全生徒数のうちの「大人の生徒の割合」なのだ。子どもは、どんどん辞めていくのに対して、大人は辞めないということなのでは?子どもになかなか難しく、逆に大人に備わっているもの、そこを責めていけばピアノ教室もプラスに転じていくのかもしれない。

それにしても・・・昭和、懐かしい・・・

kaz



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category: ピアノ雑感

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緩慢・・・ 

 

最近は注意力散漫になっていると思う。疲れているのだと思う。自宅でも横になっている時間が圧倒的に多くて、「こんなことではいかん」などとは思うけれど、四肢に力が入らないというか、怠いというか・・・

ピアノの練習・・・なんてやはりできないけれど、頭の中もボーッとしているような?まぁ、これは以前からだが。

先程の記事も、ジスモンテ・・・何か変だなと感じながら読みつつ、ジスモンテじゃない、ジスモンチじゃないか・・・と気づいた。でも訂正する元気はない感じだ。

世の中の動きにも緩慢になっているのを感じる。先日、友人が「ねえ、こんなこと信じられる?」という調子でメールを送ってきた。米国人の友人の怒りのメールは、アリゾナ州の「同性愛者差別法案」についてだった。

この「同性愛者差別法案」は簡単に説明すると、次のような内容の法案だ。「同性愛を自分の信仰する宗教に反すると思う人は同性愛者へのビジネスを拒否する権利を有する」・・・

まさか、こんな法案、通らないよね?

「そう思うでしょ?ところがアリゾナ州の州議会を通過してしまったのよ、信じられないでしょ?州知事が拒否権を発動しなければ法案が成立するところだったのよ?」

アリゾナって保守的な州?そうなのかもしれない。でも、この法案、同性愛者というだけで、レストランでの食事を拒否されたり映画館で映画を観ることも断られる可能性があるという恐ろしい法案だ。州議会を通過したとは驚きだ。

僕はよく知らないのだけれど、米国では人気のあるアメリカン・フットボールのNFLという団体や、ホテルチェーンのマリオットやグーグルなどの大企業が、アリゾナ州のこの対応に猛反発したらしいのだ。

友人はボストンに住んでいる。「でも、マサチューセッツあたりだったらそんなこと起こらないでしょ?」と言うと、「とんでもない。ボストンではセント・パトリックス・デ―のパレードでゲイの参加が認められなかったのよ。このボストンでよ?信じられる?」と、僕にたたみかけてくる。この時は、ビール会社のハイネケンがパレードのスポンサーを辞退し、ボストン市長もパレードをボイコットしたのだそうだ。ニューヨークでのセント・パトリックス・デーのパレードでも同様にゲイの参加が認められず、ギネスビールなどの企業が、やはり抗議の意味でパレードのスポンサーを辞退したりしたそうだ。

セント・パトリックス・デーって何だっけ?

・・・と記憶をたどってみると、たしか、ボストン・レッド・ソックスも、その日は緑色のユニフォームを着用していてボストン在住時代にそのニュースを見た記憶があったような・・・それぐらいの記憶と知識しかないのが恥ずかしいが。

「もちろん日本でも報道されたと思うけれど。許せないわよね?このアメリカはどうなっていくのかしら?」

日本で報道されたのか?僕が知らないだけか?その可能性はある。

以前だったら、このようなことを聞くと、胸の中が火のように怒りに燃えたものだが、最近はそのようなエネルギーに欠けてきている。緩慢になってきている。「いかんなぁ・・・」と思う。

kaz

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哀しみに寄り添う曲 

 

ラテンの曲が好きだ。特に南米の曲が好きだ。

哀しみや苦しみに浸っている時、「でも、いつかきっといいこともあるさ!」と勇気づけるのではなく、何というのか、そっとその哀しみや苦しみに寄り添ってくれるというか・・・

「いや、そうじゃない。未来は歓喜の調べに包まれるのだ!」と不屈の精神で哀しみを跳ね飛ばすでもなく、「哀しい?そうだよね、哀しいよね・・・」と分かち合ってしまうような・・・

エグベルト・ジスモンテなどを聴くと、ラテンの寄り添い・・・というものを感じる。

純クラシック(?)の人ではないので、クラシックしか聴かない人は知らないのかもしれない。ブラジルの演奏家。ピアノも弾くし、ギターも弾くし、もちろん作曲家でもある。楽器は色々と演奏できるみたいだ。マルチ音楽家?

パリでナディア・プーランジェに学ぶ。ジスモンテがパリでプーランジェに学んだ時、彼女は高齢だったそうなのだが、南米の若い音楽家に伝えたことは多かったらしい。プーランジェは最後にジスモンテにこう言ったという。

「もうあなたはここで勉強することはありません。国に帰ったら、あなたの国、ブラジルを発見しなさい・・・」

ジスモンテの曲で僕の最も好きな曲が、「水とワイン」という曲。

陽気なリズムもない。南米らしい躍動感あふれる曲でもない。でもこれが「ブラジル」なんだよなぁ・・・

哀しみに寄り添ってしまう。「哀しい?苦しい?そうだよね・・・苦しいよね、哀しいよね・・・」と。

「幸せも自分や他人の幸せを共有できれば、自分の渡した幸せが、さらに大きくなって返ってくるんだ。哀しみも分かち合えば連帯感が哀しみを軽減してくれるんだ・・・」 エグベルト・ジスモンテ



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category: 秘曲

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「俺、この仕事無理かもしれないです。仕事遅いしミスばかりするし・・・先輩たちに迷惑ばかりかけてるし・・・」

半年以上前のことだ。新人介護職員のAはそう言った。

「もし自分に力があるとしたら、何をしたい、入居者に何をしてあげたい?実現不可能かもしれないが、もしできるとしたら君は何をしてあげたい?」

「えっ?・・・えーっと・・・」「俺・・・何もできないし・・・」

「何をしてあげたい?できるとしたら・・・」

「俺、みんなに海を見せてあげたい。近所の散歩とかだけじゃなく、本物の海を見せてあげたい・・・」

「じゃあ、やってみろよ・・・海・・・やってみろよ・・・」

最もAの大変な時期、僕は入院してしまった。でも退院して僕が職場に戻ると、Aは辞めずに、まだ頑張っていた。

今日、施設の入居者全員を連れて、海に行った。砂浜の途中で車椅子が動かなくなる。

「俺達、担いでいくよ!」

全員、海を見た。海に足をつけた。海の水、潮の香り・・・

表情のない婆ちゃんが、言葉を発しなかった爺ちゃんが、海で泣いた。全員泣いた。職員も泣いた。Aも泣いた。

「君の発案だよ、できたじゃないか・・・」

「俺・・・できたんですね。喜んでもらえたんですね・・・俺、今までで最高に嬉しいです」

あの時、僕は何かを伝えたいと思った。

僕は何かを誰かに伝えきったら、この世からいなくなってもいいのだと思った。

だから、まだ死ねない・・・そう思った。

kaz

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「聴衆動機」 

 

かなり昔の話ですが、温泉での出来事です。温泉といっても、東京にある温泉施設で、そこは入浴施設だけではなく、食事をしたりゲームが可能なコーナーもあり、総合娯楽センターのような場所です。畳敷きの大広間のような場所で、人々は食事をしたりアルコールを飲んだりして寛いでいました。と、そこで急に音楽が鳴り響き、広間の緞帳がスルスルと上がり、大振袖の演歌歌手が舞台で深々とお辞儀をしていました。

その場にいた多くの人が「えっ、何?」「何が始まるの?」という反応でしたから、その演歌歌手のショータイムを目的にその場にいた人は少なかったと思います。

演歌歌手にとっては、NHK紅白のような舞台とは異なり、場末の温泉場の舞台、しかも聴き手は温泉とアルコールで心身ともに弛緩しきっている。歌いにくかったとも思います。

テレビに出演するような有名歌手と比べても劣らない歌唱でした。上手いのです。自分の持ち歌も歌いますが、ほとんどが「よく知られた曲」、つまり他人の歌を歌っていました。履物を脱いで、酔っぱらったお客のいる畳の広間に降り、お客の間に入りながら、握手をしたり、写真に一緒に写ったり、そして飽きさせないトークを交えながら、拍手喝采でその演歌歌手のステージは終了しました。ショーが終了すると、自分のCDを頭を下げて売ります。いわゆる「手売り」です。「ありがとうございました」「またよろしくお願いします」「新曲が発売されました。よろしくお願いします」・・・

演歌の世界は「厳しいなぁ・・・」と思いました。人々に頭を下げて・・・厳しい・・・

その厳しさですが、「飽きさせたら終わり」という厳しさがあります。再び呼んでもらうには、お客に受けなければならない。そのお客、つまり聴き手も「聴衆動機」の少ない、あるいは皆無な聴き手ばかり、それでも惹きつけなければならない。そうしないと生活していけない、歌手として存在できない・・・

クラシックの世界でも「弾きたい人」が「聴きたい人」よりも圧倒的に多いので、そのような意味では厳しい世界なのかもしれませんが、「聴衆動機」という意味においては、とても恵まれた環境にあるのかもしれません。

「聴衆動機」に対して「演奏者動機」・・・

「演奏者動機」の強い場、たとえば子どものピアノの発表会とか、アマチュアのサークルでのオフ会とかですが、このような演奏の場は、非常に「演奏者がどう弾けたかという思い」の比重が高いような気がします。演奏側がどうだったか・・・という視点が大きく、そこには「聴き手が飽きないかしら?」とか「また呼んで頂けるようにしなくては・・・」のような視点はあまり存在しません。聴き手は、それがどのような演奏であろうと、基本的にはとても好意的です。

クラシックの世界でもプロの演奏会では、「聴衆動機」というものが重視されるようになっていきます。そのニーズに応えられる人こそプロというか・・・でも聴き手は「その人の演奏を聴く」という目的で集まっているので、やはりとても好意的であることが多いような気がします。

少なくても、クラシックの演奏者は「適切な場」での演奏が保障されていることが多い。大振袖の演歌歌手のように、誰も自分の歌なんて期待していない、アルコールで弛緩しきって、そしてザワザワしている場で、それでも自分にテンションを集めなければならない・・・ということは少ないのでは?いわゆる「下積み」という感覚、厳しさを味わうことが少ない。実際の空気として、その「下積み」を感じなくてもいい・・・というか・・・それでも演奏をしていける人も多くいる・・・

クラシックの演奏家でも、とても「聴衆動機」というものを考え、そして実践している人もいます。でも数は少ないでしょうかねぇ・・・

どことなく、そのような演奏家は「特別な演奏家」のようにカテゴライズされたりして・・・

kaz



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「善意」と「施し」 

 

少し前にボランティア関係の文章を書いたけれど、非常に反響が大きいようです。もちろん、僕の文章に対して「そうですよね」と同意してくれている方のメールもあるけれども、数としては圧倒的に怒りのメールが多い。「こちらの善意というものの意味を考えるべきなのでは?」「施設の人がそんな風に考えているなんて許せません!」「ボランティアを受けている側が文句を言うなんて・・・」

中には「施し」などという言葉を使用している人もいたりして、なんだかビックリしてしまう。

基本的にはボランティアで伺いたいという申し出を施設側で断るということはしません。そのような意味で、たしかに施設側がボランティアを受ける立場にはなります。

ボランティアで大切なことは、提供側と受ける側が、イコール、つまり対等であるべきだということです。「善意」はありがたいのですが、でも考えたいのは、時に、いや多くの場合、提供側の「~してあげたい」というものが、いつのまにか(最初から)「自分たちが~やりたい」「自分たちが~したい」というものになってしまうということもあるのだ・・・ということです。もちろん、イベントそのものの評価に絶対値というものはありません。ですが、評価は受け手、つまり施設側になります。言葉を変えると、施設側も評価をする権利があるということです。

「延々とこれが続くの?・・・困ったな・・・」と思ったら、そう判断する権利。そこで「施されているんだわ・・・ありがたく思わないといけないんだわ」などとは思いません。

基本的に、ボランティアをする側の「できること」と「したいこと」を明確に分けることです。ここをお願いしたいのです。

「参加したくない人はしなければぁ?」という意見も多いのですが、その判断を意思表示できる入居者(利用者)の存在そのものが介護施設では非常に限られます。全く顔の表情もなく寝たきりの方でも「楽しんでくれるかもしれない・・・」という思いで介護職員は車椅子に移動させて、会場に連れてきます。

「施設で演奏したい」という思いは痛いほど理解できます。でも、その思いを実現される際には、「相手がどう思うか」という視点も必要なのではないでしょうか?

約1時間という時間枠がイベントでは多い。ボランティアでも「相手に飽きさせない」という工夫は必要かと思われます。「自分たちが演奏したい」だけではまずいのです。

介護施設での介護度は年々深刻さを増します。重度の方が多くなっています。でもお年寄りには、一人一人の歴史と、その時の想いがあります。便まみれになって、時には手で触って口にしてしまうことがあっても、その人の個性、つまり人権があります。でも、意思表示をすることはできません。できないですが、介護職員には分かることもあるのです。「この人は~したいんだな」と。

自分の中で、尊厳というものを崩壊させながら、それでも「生きる」ということを選択した人たちが、介護施設で暮らしている人たちです。介護職員がその人たちの権利を守らなくて誰が守るというのでしょうか?

善意はありがたいです。でも「施し」は迷惑なのです。

「本当に自分はできることをするのか?したいことではないよね?自分がボランティアをすることで自分が満たされたいということだけじゃないよね?」

・・・とボランティアをする際には自分に問いかけて頂きたいのです。

「善意」は本当にありがたいのです。でも「施し」はいらないのです。

kaz

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アムラン病 

 

マルカンドレ・アムランというピアニストは、僕にとっては微妙な存在。あくまでも個人的な嗜好ということなのだとは思うけれど、積極的に「聴きたい!」という欲求の起こりにくいピアニストではある。

世の中には「アムラン病」というものがある。このアムラン病には二つの症状がある。一つは、彼の目の眩むようなメカに惚れ込んでしまい、そして彼の弾く(彼にしか弾けない?)レパートリーを自分でも弾きこなそうと努力してしまうという症状。アルカンとかゴドフスキーの編曲ものとか・・・

単純に、考えると、これまでは、あまり光が当たっていなかったような作品が表に出てくるということは喜ばしいことだと思う。アムランの録音によって認知されるようになった作品は多いと思うから。でも、「アルカンを誰よりも何秒早く弾けた!」なんていうアマチュアの人の文章を読んだりすると、少し疑問に思ったりはする。この症状は、一般的にはアマチュアの「メカオタク」の人に多くみられる症状だと思われる。

アムラン嫌いの人もいる。僕は、そこまではいかない。一部で非難されるような「メカばかり」とか「無味乾燥」などとは思わない。彼の師事したピアニスト、そのピアニストたちの演奏を聴き、そのピアニストたちの背景を辿っていくと、アムランの方向性のようなものも見えてくると思う。個人的には、官能性が少々アムランの演奏には足りないように思う。なので、あまり「聴きたい!」とは思えないのかもしれない。

もう一つのアムラン病の症状は、メカというもの、技巧というものの概念をアムランのものと一致させてしまうという症状。こちらの症状は、世の中の隅々にまで浸透しているように僕は感じる。

「すべての、どんなに細かな音までも、クリアに弾いて、再現しつくす、すべての音の質感を均一にして、光を均等に当てる」という技巧の概念、高い技術力というものの概念が、すべてアムランの目指す方向性と世間の方向性とで一致してしまっている。

この結果、アムランのメカというものが、ある意味、多くの人の目指すメカとなってしまっていて、多くの若い人は(若くない人も?)アムランを追ってしまっている。さらにこの概念が独り歩きして、コンクールなどでも、皆が「アムランのメカ」を無意識に目指してしまっている。

高性能のメカニック=アムランのメカニック・・・のような???

アムランは嫌いではない。でも皆がアムランみたいになってしまったら面白くない・・・とは思う。

古いフレイレの録音を聴きながら、ふと思ったりした。このような「高性能メカ」という概念も昔はあったのだなぁ・・・と。

kaz



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category: ピアノ雑感

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技巧的ということ 

 

「技巧を駆使した演奏」という表現から連想されるのは、指は達者に動くけれど、どこか無味乾燥というか、そのような演奏。「超絶技巧」という言葉も、どこか「バリバリと弾く」のようなイメージがあったりする。

「超絶技巧」とか「技巧を駆使して演奏する」という言葉、これはどこか「感情豊かな演奏」とか「表現力豊かな演奏」とか「惹きつける演奏」というものとは対極にあるようなニュアンスさえ感じさせ、そのような演奏を表現する時に使ったりもする。

「技巧的には達者だけれど、表現面では子どもだから未熟である」のように・・・

技巧、本来は、これは駆使すればするほど「表現豊かな演奏」になるものでは?技巧を駆使するので表現力豊かになる。

どこか、「技巧」=「ただ達者にバリバリ」=「無味乾燥」、そして「感性・センス」=「表現力豊か」=「魅力ある演奏」というふうになっていないだろうか?人々の概念がそのように固定されてしまっているというか・・・

かつて「アマチュアだからってテクニックとメカニックという概念は混同してはダメじゃないか・・・」と言われたことがあるけれど、僕だけではなく、多くの人、専門家(ピアノの先生とか)でさえ、このあたりを混同してしまっているのではないだろうか?

技巧を駆使すればするほど表現力が増す・・・この場合の「技巧」という概念は「テクニック」ということなのだと思う。「テクニック」と「メカニック」は同じものではないような気がする。

演奏する際には、技巧を凝らす必要があるのではないかと思われる。

フランチェスカッティの古い録音を聴きながら、ふとそんなことを思った・・・

kaz



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category: Zino Francescatti

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キャベツから銀メダルへ 

 

近年のフィギュアスケートの演技で、個人的に最も感銘を受けた演技が2013年の世界選手権、デニス・テン選手の演技。カザフスタンというスケート王国ではない国の選手が、初めて銀メダルを獲得した瞬間だ。今回のオリンピックでのショート9位からの大逆転銅メダルというのも凄い偉業だけれど、個人的には、彼にとって、そしてカザフスタンにとっての初めてのメダル獲得の時の世界選手権での演技が、より印象に残っている。

スケートは5歳の時から始めた。カザフスタンは、日本よりも、さらにスケート環境が良くなかったのだと言う。

「野外リンクで練習していました。気温はマイナス17度にもなるんです。だから、ズボンを3枚重ね着して、キャベツのようになって滑っていました」

デニス・テン選手は、子どもの頃は音楽学校に通っていたのだそうだ。音楽への天性の反応力を感じさせるスケーティングと関係はあるのかもしれない。やがてカザフスタンを飛び出し、ロシアでタラソワコーチに学んだ後、アメリカに渡る。憧れのエヴァン・ライサチェクを指導したフランク・キャロルコーチの元でスケートを滑り始める。そして、徐々に世界の舞台でも活躍するようになっていく。

しかし、成績が伸びていくにつれ、重圧も感じるようになっていく。カザフスタンでキャベツのようになって楽しく滑っていた時とは異なるようになっていく。

この選手は、怪我や病気に悩まされてきた選手だ。足首の痛み、背中の痛み、重篤な感染症、そして口腔の外科手術まで受けている。一時はスケート靴も履けないほど皮膚の感染症が酷かったのだという。

「災害・・・そんなふうに自分では思いました。怪我や病気そのものもですが、そのことによる精神的な落ち込みが大変でした。練習できなくなってしまうんですから・・・」

世界選手権で初のメダルを獲得したシーズンも、練習できない時期が多かったのだそうだ。

焦りを感じる日々・・・自分ではコントロールできない辛さ・・・

世界選手権の3週間前、デニス・テン選手は4大陸選手権に出場している。この大会では12位と惨敗している。成績そのものよりも、直前に調整できていない事がショックだった。ジャンプの軸が曲がり、回転が上手くいかない。転倒を繰り返す。4大陸選手権の後、2日間は何もすることができなかったという。

フランク・キャロルコーチは静かに言った。「君の最終ゴールは3週間後の世界選手権ではないのかい?」「世界選手権???どうなるのだろう?間に合うだろうか?」

デニス・テン選手は、世界選手権までの3週間、ダイエットをしたのだという。筋力トレーニングも重ねた。自分自身で身体が改造されていく感覚があったらしい。

そして、世界選手権、彼はショートプログラムで今までにないような素晴らしい滑りをして2位になる。2位で迎えるフリー・・・初めての経験だ。ショートからフリーまで2日間。その間、彼は2時間しか眠れなかった。感じてはいけないと思っても感じる重圧・・・3週間前の悪夢が蘇る・・・練習できなかった辛い日々が蘇る・・・

デニス・テン選手の、そのシーズンのプログラムは映画「アーティスト」を主題にしている。音楽も、その映画の音楽を使用している。彼自身、この映画を観て、非常に感激し、主人公の人生を氷上で表現したいという想い、その想いからコーチと振付師(ローリー・ニコル)と共に創りあげてきたプログラムだ。

無声映画のスターが、落ちぶれて、自殺未遂を繰り返していく。絶望の日々。でも、彼はどん底から返り咲く。再びスターとして・・・

その物語を氷上で表現したい・・・

「自殺を繰り返した主人公が夢を取り戻し、人気スターに返り咲いて、そして最後は人々に愛されるスターになる・・・フリーではそれを表現したかった・・・」デニス・テン

メダルの色は関係ない。何を成し遂げたか・・・

優勝したパトリック・チャン選手に、あと1点に迫るようなデニス・テン選手のフリー・・・

彼の想いは伝わった・・・そう思う。



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category: The Skaters

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個性 

 

「個性」というものは人と違うということ。個性的であるには、少々の勇気が必要。また、「自己流」とか「出鱈目」というものとも背中合わせだから、その意味でも勇気が必要なのかもしれない。

人と同じ・・・ということは、ある意味、とても安心。「乗り遅れてはいない」という安心感。

でも、あまりに安心感を求めると、その人は幸福にはなれない。幸せというものが本当は人によって違うから。人と違うから「その人」なのだから。

「自分の内部に問いかけてみる」・・・勇気が必要。でも少々の勇気だよ、きっと・・・

いきなりフィギュアスケーターの話題になるけれど、北欧スウェーデンの選手でアドリアン・シュルタイスという選手がいた。本当は、いた・・・と過去形にしてはいけないのかもしれないが。

この選手は、世界選手権などでもメダル争いに加わるような選手ではなかったから、あまり一般的には知られていないのかもしれないけれど、スケート関係者の間では、とても有名な選手である。もちろん、熱烈なファンも存在する。

彼は、何と言ったらいいのだろう・・・とても「個性的」なのだ。

表現力豊かではあると思うのだけれど、それは審判や観衆の思い描く表現力というものとは、少し違っていて、いわゆるプログラムも「感動巨編的プログラム」ではない。音楽も感動的、かつ重厚な音楽を使用しているわけではない。なんというか、変わっているのだ。すべてが普通と違う。

でも、普通と違うからこそ魅力的なのだ・・・

「誰にでもできる演技じゃなくて、自分だけの演技をみせる。みんな同じじゃつまらないじゃない?」  アドリアン・シュルタイス



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category: The Skaters

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扉を開くということ 

 

「子どもにピアノを教えるということは、音楽の素晴らしさを教えることだと私も思います。でもピアノ教師の仕事としては、レッスンの中で、それがどんなに簡単な曲であっても、美しい響きを感じさせたりとか、風景を想像させて音のイメージを大切にして弾いたりとか、子どもなりの感性を育んでいくことが大切だと思うのです。芸術作品とか偉大な演奏とか、そのような大人目線での芸術ではなく、子ども目線の芸術ですね。そこを育てるのがピアノ教師の役目だと思います」

ここが理解できないんだな・・・と僕は思う。

導入期の生徒、目をキラキラさせながらピアノを弾いている生徒、何も、その段階で隣で仁王立ちして「お芸術」を語れ、偉大な演奏の素晴らしさを語れと思っているわけではない。

でも、そのようなものの扉を開いてあげるのはピアノ教師の役目ではないかしら?

僕自身、子供用の教材が本当の芸術作品とは考えていないところがある。それは、愛好家として、とてもそのような作品は芸術作品としては聴こえてこないからだ。ギロックや湯山作品など・・・

たしかに、そのような教材で、「響きの美しさ」とか「内容を美しく表現する」とかは、重要なことだとは僕も思うけれど、それは真に偉大な作品への橋渡しであって、そこが目的ではないような気がする。

進学でピアノ教室を辞める・・・ということは、どの生徒にも当たり前にあることだと思う。そこまでに何をしていなければいけないのだろう?長い中断があって、将来その生徒がピアノを再開する時、子ども時代に何をしていれば、自分で再度音楽を育んでいけるのだろう?ブルグミュラー25練習曲をやっと弾いている程度では難しいのではないだろうか?辞めるまでに、真の芸術作品を弾けるようにしておく必要があるのではないだろうか?偉大な演奏の素晴らしさに開眼しておく必要があるのではないだろうか?

真に偉大な演奏への開眼・・・こんなものは教えるというものでもないのかもしれない。CDを貸し出せば、生徒がCDを聴けば開眼するというものでもないだろう。

やはり、教師自身が演奏をいうものを追い求め、音楽に焦がれ、自分の演奏について悩み、そして偉大な演奏に憧れ続けるということが必要なのだと思う。

「教える」ではなく「伝わる」・・・

「先生・・・この人の演奏・・・」「そうね・・・そうよね」・・・だけの世界かもしれないんだ。

古典の作品やバロックの作品には興味を示さない、でもギロックのような作品、湯山昭のような作品は興味を示す。

「過程」として捉えるのならいいと思う。「教材」として捉えるのならいいと思う。

ギロックはモーツァルトでもハイドンでもない・・・ここが見解の相違・・・なのだと僕は感じる。

「ギロックのような曲なら興味を示すのよね。でも綺麗に弾けているし、それなりに表情もついてまとまっているし、いいんじゃない?」

いいのだろうか?

kaz

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category: レッスン

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同じが安心・・・同じはイヤ 

 

前の記事、誤字がありましたね。読み返してみて「あれぇ・・・」と思いました。「中居」ではないですね。「仲居」ですね。まっ、いいか・・・

昔、留学して驚いた・・・というよりもショックだったのは、世界地図で中央に日本が存在していなかったこと。本当に端っこなんですねぇ、日本ってまさに極東の地なんですね。もちろん、知識としては知っていたけれど、実際に見ると結構ショックだったな。留学していたのは、およそ6年。その間は一度も日本には帰らなかった。お金が惜しかったというのが理由だけれど、日本への旅費を考えれば、色々な国を旅行する方が魅力的だったのだ。電話もしなかったな。手紙は沢山書いたけれど。

留学して得るものは、やはり友達だと思う。日本で暮らしていると、どうしても視野が狭くなる・・・のだと思う。半径5メートルでしか判断しなくなる・・・というか。留学の意義は、将来の就職のためというよりは、広いところから大きく日本での出来事を見る癖ができるというか・・・僕の場合はどうだか分からんが・・・

病気になったりしても、僕がどこか楽天的なのも留学していたからだと思う。なんというか、僕個人のことなんて、ほんの小さなことなのだ。何故だか分からないけれど、そう思えるようになるのだ。

癌で入院したりすると、検査のことが患者の間で話題になったりする。「あら、私・・・そんな検査しなかった・・・」と、とても不安になる人が多い。癌に限らずだと思うけれど、病気というものは人によって違うのだ。部位も違えば、種類も違う。検査や治療方法が人によって違うのは当たり前なのだ。でも人と違うと心配になる。この「統一性」のようなものを得ると、どこか安心するというのは、日本人特有のものなのかもしれない。留学すると、本当に、色々な考えの人と友達になれる。そこが大きい。

「まぁ、人間・・・人種が違っても同じだよね・・・」などとも感じるけれど、でも、人は違う・・・ということが当たり前なのだ・・・ということを日本にいると忘れがちになるというか・・・

アメリカ人の友達が、やはり多いけれど、一般的に西洋人というか、アメリカ人はドライだとされている。日本人のように情緒的ではないと。日本人のように義理や人情に厚くないと。

情緒的・・・というところは「そうかもしれん」などと思ったりするけれど、義理・人情、そして人間愛のようなものが日本人よりもアメリカ人のほうが少ないとも思えない。

不治の病で(エイズとか)寿命が短いと分かっている子どもを、自分の子として、養子として迎えたアメリカ人のカップルを僕は実際に3組知っている。相手がもうすぐ死ぬ・・・と分かっているのにプロポーズして結婚した人も実際に知っている。男がアメリカ人で女がフィンランド人のカップルだ。

僕なんかは、何故だろう・・・と思うのだ。でも彼らは言う。「何故って・・・普通のことでしょ?」と。

孤独が怖い・・・一人はイヤ・・・仲間がいると安心・・・どこかに所属していると安心・・・

でも、孤独が好き・・・一人が好き・・・皆でワイワイと群れるのはイヤ・・・どこにも所属していたくない・・・という人がいてもいいのだ。人は人と違って人なのだから・・・

kaz



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あきらめない 

 

僕にはピアノの他に高級旅館に滞在するという趣味がある。プライベート重視で、旅館なんだけれど部屋にはベットがあり、中居さんの出入りのない宿も最近は多い。食事は部屋ではなく食事処で。各部屋に露天風呂が備わっているので、大浴場はないところが多い。あってもそんなに湯船は大きくない。

これはこれでいい。でも、昔ながらの和風旅館もいい。もちろん、大きな露天風呂と内風呂があるようなところ。部屋にも露天風呂はあるけれど、やはり大きな風呂は気持ちがいい。食事も部屋食で中居さんがバッチリついてくれるタイプの旅館。最近は、福島県、飯坂温泉の「御宿 かわせみ」が定宿。ここはいい!いつも「侘助」という部屋に泊まる。庭の池を眺めながら、鴨が泳ぐ姿を眺めながらの露天風呂・・・

ここは料理で有名な宿・・・となるとお値段も高級!気になる方は調べてみてください。

僕が「かわせみ」に泊まるのは、別に裕福であるわけでも、稼いでいるわけでもない。この宿が好きなのは事実だけれど、高級志向には理由があるのだ。

何度も手術をしたので、僕の身体は傷だらけなのだ。当然手術跡がある。ビジュアル的には結構凄まじいものがあるのではないかと思う。絶対に大浴場では注目されるはずだ。基本的には部屋に風呂がある宿にしか泊まれない。一時は、大浴場はあきらめたのだ。でも高級旅館は団体客もいないし、「かわせみ」では大浴場であまり人に遭遇しない。人と会っても、とても上品な紳士(高齢・熟年の方がやはり多い)ばかりで、僕の傷跡をジロジロと見たりは決してしない。なので高級志向になるのだ。高級旅館には「気持ちの贅沢」が存在しているのだ。あきらめたことも実現できる。

病気になって、あきらめたこと・・・何だろう?特にないのだ。温泉も入ってるしね。

ピアノではある。この間の手術で、あきらめた曲が多くある。体力が激減してしまったから。

でも、なぜあきらめるのか?

退院してから、なんとなくピアノの選曲に関しては、自分をごまかしたような選曲にもなっているように感じる。できるだけ体力を消耗しない曲で、かつ華やかな曲。最近はジャズや歌謡曲も弾いている。別にいいとは思う。好きな曲だから。弾きたいから。でも、あきらめた曲から目をそらし続けているのは事実だ。

先日、ぺナリオの曲を弾いて、「あきらめなくてもいいのでは?弾けないと思っていたぺナリオも(一応?)弾けたではないか?」という気持ちになっている。ぺナリオが背中を押してくれたのだ。

僕が、今一番恐れているのは、過去の自分。過去に弾いた曲。もし、その中の曲を再挑戦するとしたら、再び弾くとしたら、過去の自分の演奏と直に対面することになる。

「もう今までのようには弾けない・・・」「あの時のようには弾けないんだ・・・」

過去に弾いた時の記憶、自分の演奏の記憶が生々しく残っているので、どうしてもその時の演奏と比較してしまうだろう。「ああ、やはり以前のようには弾けないんだ・・・」と突きつけられるのが非常に怖いのだ。

しかし・・・

温泉でさえ、あきらめていたもの、それを再び体験できる喜びを感じるのだから、ピアノではそれ以上の喜びとなるのではないか?なるだろう・・・弾ければ・・・なるだろう。今の僕にとって「成長」というものは最も大きな心の贅沢なのだから。

で、浮かんだのがスティーヴン・ハフの顔。「もう一度弾いてみれば?前より弾けるかもよ?」と頭の中のハフは言っている。

話題は大きく変わるけれど、タイのCMは「感動編」が多いような気がする。秘かなファンも存在するようだ。僕もだけれど・・・

このCM・・・「あきらめるな・・・」と背中を押してくれているように感じるのは、僕の気のせいか?

kaz



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ボランティアという名の「押し売り」 

 

福祉施設では、時折ボランティアの人たちが来てくれる。もちろん、お話し相手とか、入歯を洗ってくれたりとか、入浴後、ドライヤーで髪を乾かしてくれたりとか、直接的ではない介護をしてくれるのだが、とても助かる。

そのような「個人ボランティア」の他に「団体ボランティア」も来てくれることがある。こちらの方は、心から「助かります」とか「ありがとう」と思えないこともあり、残念な時がある。

「~教室」からのボランティア・・・

フラダンスだったり、社交ダンスだったり、カラオケ教室だったり・・・

そこの教室の先生が、生徒を引き連れてやってくる。この場合は、彼らの披露する内容がお粗末だったりすることが多いのだ。この「お粗末の定義」なのだが、ダンスや歌の上手さ・・・ということではなく、問題は「自分たちだけで楽しんでしまう」ということ。もちろん、彼らは一生懸命なのだ。

「フラダンスでは、この後きは~という意味を表すんですよ~」と延々と踊り続け、「私たちと踊りましょう!」・・・施設には「踊れる」なんていう人は少ないのだ。身体を動かせないから、認知できないことが多いから施設で暮らしているのだ。

残念なことに「ピアノ教室」のボランティアも「お粗末」だと僕は思う。先生が教室の生徒を引き連れ、生徒に演奏させたり、合唱や合奏を披露してくれる。やはり「ありがたい」と思わなければいけないのだろうか?この場合の「お粗末の定義」は、「純粋な子どもが無心に、一生懸命演奏してる姿」というもの、ここに依存しすぎていて、聴いているうちに「可愛いでしょ?」「無心な子どもたち・・・美しいでしょ?」のようなものが鼻についてくるのだ。

介護度の少ない御婆ちゃんなんか「まぁ・・・可愛いこと♥」と喜んだりする。なので、これはこれでいいのか・・・とも思う。でも、演奏した生徒の心に「いいことをしたのだ」という気持ちが芽生えたりするのであったら、やはり単純に「いいことなのだ」とも思えなくなってくる。

「まぁ・・・可愛い!」という感情を頂けたことに感謝すべき?でもこれって、ドッグセラピーの時と同じだ。犬を見て、犬に触れて「可愛いわ・・・」

ピアノ教室の生徒は訓練された犬ではないのでは?

「楽しんで頂けたみたいで・・・また来ます。よろしくお願いします。生徒さんにも貴重な経験だったと思います。音楽で人を喜ばせること・・・これって大切なことですから・・・」

そう言いながら挨拶をする教室の経営者(ピアノの先生ですね)を見送りながら、相当複雑な心境になったりする。

ボランティアをしたい・・・

その時には自分の胸の奥底に訊いてみて欲しい。少しでも「やってあげる」という気持ちはないだろうか?訪問先の相手に対して、少しでも「気の毒な人たち」と思ってはいないだろうか?

福祉施設で暮らしている人たちが、実はボランティアなのではないだろうか?

「わざわざ来てくれるんだ。観てあげなくちゃ。聴いてあげなくちゃ!」

kaz

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演奏会告知 

 

このブログ本来の目的は「ピアチェーレ」の宣伝。全く自分の演奏会については書かずに好き勝手な事を書いていますが、今日は、本来の目的を少しだけ果たそうかと・・・

今年の「ピアチェーレ演奏会」は11月29日(土)14時から・・・
場所は雑司ヶ谷音楽堂で、もちろん無料の演奏会です。

「ピアチェーレ」のページは、このブログにリンクしてあるので、そこに詳しい情報が書いてありますが、当日の僕の演奏曲目を書いておきます。

モンティ~セルゲイ・クルサノフ 「チャールダーシュ」
フランシスコ・ミニョーネ 「街角のワルツ」第7番
アリエル・ラミレス 「アルフォンシーナと海」
ヨハン・シュトラウス~レナード・ぺナリオ  「皇帝円舞曲」

ハロルド・アーレン~キース・ジャレット  「虹の彼方に」
アイルランド民謡~キース・ジャレット  「マイ・ワイルド・アイリッシュ・ローズ」
モリッツ・ローゼンタール  「ウィーンの謝肉祭」

今回の演奏会のテーマは「編曲作品」なので、僕だけではなく、当日の演奏者は編曲ものを中心に演奏します。なので、ショパンのバラードやらベートーヴェンのソナタなどを弾く人はいないです。ちょっと変わった曲も演奏されるのではないでしょうか?

僕の演奏曲目ですが、意図的にクラシック以外の曲も選曲しました。それらの曲と超絶系の曲を混ぜたら聴いている人も楽しいのではないかと・・・

「ジャンルの違いなんて関係ないのねぇ・・・」などと感じてもらえれば嬉しいんだけどなぁ・・・

「何故ピアノを弾くの?」という質問に答えるのが難しいように、今回の選曲の本当の意図も説明しにくいところがあります。・・・が、「こんな感じの何かを聴いている人と共有できたらなぁ・・・」などとは思います。

「こんな感じ・・・」が説明できないんですよね。この動画(タイのCMです)のような「何か」なんですよね。

「愛」・・・書いてしまいましたぁ・・・

kaz



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category: ピアチェーレ

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緊張しない方法 その2 

 

自分自身の体験をからめて考えた場合の、緊張しない方法ですが、いくつかあります。

その中の一つですが、「本番という舞台を自分自身で昇華する」という方法です。ピアノを習い、人前で弾く、緊張して弾く、これって当たり前の事のようですが、決して当たり前のことではありません。とて恵まれたことなのです。

長い人生の間には、それこそピアノどころではない・・・ということにも遭遇します。僕の場合には病気というものがそうでした。化学療法で治療していた時、この時は本当に辛かった。「このまま窓から身を投げれば、今の辛さは終わるんだな」と何度も思ったりしました。「こんなに苦しいのなら死んだ方がマシ」とも思いました。まぁ、死にませんがね。

この時期には、正直、またピアノが弾けるなどとは思いませんでしたし、ピアノのことなんか一瞬たりとも考える余裕もなかった・・・

演奏会、練習会、なんでもいいのですが、人前でピアノを弾くということは、それまでに多少とも練習を重ねることのできる体力、環境が整っているということです。当日、電車に乗って、そして歩いて演奏会場にまでたどり着く体力があるということです。当たり前のことのようですが、それはとても貴重なことなのです。

治療後、初めての人前演奏、サークルでの練習会でしたが、この時は「弾ける」ということ、そのことが、ただただ嬉しかったです。もちろん、弾く前には緊張はしましたが、その「緊張している」という気持ちの状態そのものを感じることができる、そのことさえとても尊いものにさえ感じました。そのような「嬉しい自分」に酔っている・・・ということでもないのですが、その時、自分自身で、人前で弾くということ、本番ということを「昇華」させているのを感じました。

いきなり話題は演歌になるのですが、本番の舞台を昇華させるということですが、1977年の紅白での八代亜紀がそうだったのかもしれません。もちろん本人に訊いたわけではないのですが。

当時は、今とは比較にならなほど歌謡番組、紅白というものが重要だった時代です。紅白に当選、あるいは落選などといったことが話題になっていた時代です。

この時、八代亜紀は初めて紅組の「トリ」を務めています。これは、本人にとって、とても嬉しいことだったに違いありません。八代亜紀は、デビューしてもなかなか売れず、それこそ「手売り」を続けていた人です。自分で頭を下げ、レコード店の箱のような舞台の上で歌い、「買って下さい」「よろしくお願いします」と・・・

憧れの紅白、しかも初めての「トリ」・・・

舞台裏で自分の出番を待つ間、どのような気持ちでいたのでしょう?緊張はしていたはずです。でも、その緊張よりも「昇華」のほうが大きかったような気がしてなりません。「この舞台、この紅白の舞台、緊張してなんかいられない・・・」みたいな。

彼女の想いは、衣装や頭の上に燦然と輝く王冠からも感じられます。舞台への気合、意気込みが感じられます。

この時にはアクシデントもあります。颯爽と登場して舞台全面で歌い始めようとするのですが、誰かがマイクのコードを踏んでいたらしく、コードが伸びません。僅かな前奏の間の出来事です。彼女は内心、焦ったのではないでしょうか?というより、前奏の間、伸びないコードを引っ張ったりしていて、かなり焦っているようにも感じます。

でも、自分の歌になると、もうこれは「貫禄」としか言いようのない見事な歌唱です。焦りや緊張などは感じさせません。

この紅白の舞台での「瞬間」を自分自身で昇華させていたのではないでしょうか?

この方法は、確実に効き目はあるのですが、難点は、ある程度人生経験において「惨めさ」「辛さ」を感じていないと、「昇華」の感覚を得にくいということでしょうか・・・

kaz



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緊張しない方法 

 

本番で緊張しない方法・・・ありませんね。「人」という字を手のひらに書いて飲んだりすればいいのでしょうか?

本番で緊張しない方法を考えるよりは、緊張した時にどうするか・・・を考えて前もって対処しておいた方がいいような気はします。とにかく練習を積んで、本番で何があっても「指だけは」動くように(?)しておく・・・というのが一般的なのでしょうか?

練習というものは、精神的な支えになることがあります。「これだけ練習したのだから・・・」と。でも、あまりに、どんな状態でも「同じように弾けるように」と思いすぎて日頃の練習を重ねてしまうと、思考や身体が「いつも同じように」と固定されてしまうような気がします。練習の時の「本番を想定する」ことと「本番」では、やはり状況が異なる。鍵盤の戻り具合とか、視界に入る、すべてのものとか、何より「空気」が異なる。このような状態で、あまりに「いつもと同じように」思考が働きすぎると、一つでもそうならなかった場合にパニックになるのではないでしょうか?

一つのミスが動揺を生み、さらにしなくてもいいミスを誘う・・・

あまりに「いつも同じように」と頑張らず、「のりしろ」のような余裕、気持ちの余裕も必要なのではないかと思います。なので、練習の時に、「あれっ?」と思って、「いけない、最初からもう一度」とやり直し練習が癖になると、本番で非常に困るのではないかと思います。自分の思うようなサウンドにならない瞬間があっても、絶対に弾き直さないで弾く練習・・・

ピアノの場合、本番では日頃練習している楽器で演奏することは不可能なので、とても大変です。その点、他の楽器の人はいいな・・・などと思うわけです。

でも五嶋みどりさんのような例もあります。彼女のエピソードはアメリカでは、とても有名なのですが、おそらく日本でも有名なのではないかと思います。まだ彼女が14歳の時のエピソードです。

バーンスタインの曲を弾いている時にヴァイオリンの弦が切れてしまいます。第一ヴァイオリンの人と楽器を交換して弾きはじめます。当然、日頃使っている楽器ではなくなるわけです。当時、彼女は4/3サイズの楽器を使用していたと記憶しています。第一ヴァイオリンの人の楽器は、当然フルサイズの楽器だったはずで、大きさが異なっていた。指の感覚なども、当然日頃練習していた時とは全く異なってしまうはずです。また、このようなアクシデントは心の動揺があるのが普通です。それがたとえ五嶋みどりさんでも・・・

再度、弦が切れます。今度は、第二ヴァイオリンの人と楽器を交換します。驚くべきことに、二度目の交換後、しばらくは肩当てなしで演奏している・・・

演奏している曲も幼い頃より弾きなれている曲・・・というわけではなかったでしょうし、アクシデントを乗り越えて弾き切ったということに驚きです。バーンスタインが「MIDORIは一音も弾きこぼすことなく完璧に演奏した」と後で言っていましたが、もうこれは「奇跡」と言ってもいいのではないでしょうか?

何があっても対処できるような「のりしろ」・・・難しいですねぇ・・・

kaz



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category: Violinists

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風に乗る人 

 

「ピアノ教育の世界はアマチュアのあなたには関係のないことじゃない?なんで書くの?トラウマがあるの?」

・・・というメールを頂き、自分なりに「それもそうだな」なんて思ったりした。たしかに関係のない世界だ。

自分自身の経験から・・・ということではないと思う。幸せな導入期とは言えなかったけど、でも「恨みの気持ち」で書かせているのではない。

戦後、西洋に追いつけ・追い越せで、日本の英才ピアノ教育が始まった。現在、活躍中(君臨中)の日本のピアニストは、この世代が多い。実際、そのような教育は成果があった。国際コンクールで優勝したり入賞したりする日本人も増えた。その頃の先生はスパルタ教育の先生が多かったという。

「A子ちゃんは小学生でショパンのエチュードをバリバリ弾くのよ?それに比べてあなたは・・・」
「リストやラフマニノフを弾く小学生なんてウジャウジャいるよ。今頃そんな曲を弾いてるの?」

皆で一定方向を向いた。そのような風が吹いた。バリバリ・・・バリバリ・・・

その風に乗り遅れないように・・・追いつけ・・・追い越せ・・・

「テクニック」と「メカニック」の概念もないままバリバリ・・・バリバリ・・・

ふと、このような声が外国人で囁かれるようになった。「日本人は機械のように正確に達者に弾くけれど、皆同じように弾くし、どの曲も同じにミスなくバリバリと弾く。彼らはどうなっているのだろう?」

バリバリと弾きながら、そしてそのような教育をしながら、心の中で皆が思い始めた。「個性のない日本人」「指だけ動く日本人」「機械のように弾く日本人」

「私たちは、西洋音楽が理解できないのかしら?文化の違い?宗教の違い?お米じゃなくパンを食べればいいのかしら?」「西洋の御婆さんって原色の服を着こなしたりしている。それに比べて日本人は・・・そういうことかしら?生まれながらに西洋人とは違うのかしら?」

表情がない・・・無個性・・・ただ達者に弾く・・・

それは文化の違い、宗教の違い、血が違うから・・・

そんな中、この本が出版された。日本のピアノ界に逆風が吹いた瞬間だ。

チャイコフスキー・コンクール―ピアニストが聴く現代 (中公文庫)チャイコフスキー・コンクール―ピアニストが聴く現代 (中公文庫)
(1991/11)
中村 紘子

商品詳細を見る


「えっ?奏法?ハイフィンガー奏法?文化の違いじゃないの?」

かつては、ホロヴィッツの弾き方は異端だとされていた。「あの弾き方・・・変よねぇ」と。でも世界的な目から見れば、実は「変よねぇ」だったのは自分たちだった?

逆風が吹いた。ハイフィンガー奏法のせい・・・とばかりに、こんどは「水泳ですか?バタフライですか?」のような奏法が主流となった。弾いている時の表情も、冷静に見えては不利とばかりに、天井を向いて苦痛の表情を浮かべたり恍惚の表情を浮かべたりする人が増えた。

「無表情恐怖症」「感性依存症」の風が日本を吹き荒れている。

コンクールでは「入魂」しなければ受からない・・・とばかりに、皆が百面相をしながら入魂し始めた。

僕は、この「風に無批判に乗る」ということが嫌い。素直じゃないんだな・・・

ピアノ教育も演奏のピラミッド頂上の世界と同様に逆風が吹いている。かつてのスパルタ教育、画一的教育を反省する「工夫をしなければ!」「興味を引き出さなければ!」症候群の風が・・・

無批判に風に乗ることと、反省をして改善することとは根本的に異なる・・・と僕は思う。

僕は、この「風」が嫌い。「風にただ乗っている人」も好きじゃない。

kaz

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category: ピアノの本

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「人形の家」先生 

 

「ド素人なんかに何がわかるの!!!キーッ!」という先生も多いのですが、反対に「こんなに自分が努力しているのになんで生徒は分かってくれないのかしら?自分がいけないの?そうなのね?自分はダメ教師なのね?そうなのね?ワーッ!」という先生も以外に多いです。2割ぐらいの先生がそのような感傷的メールを書いてきます。

このような先生を「人形の家」先生・・・と僕は勝手に呼んでいます。期待値が高すぎるというか、教えたこと、自分の情熱がすべて生徒に伝わると思っている。多くの場合、そうはならないケースが現実にはほとんどだから、落ち込んでしまう。

このように、相手が思ったような反応を示さない時は、何かしらがズレテいる場合がほとんど。タイミングだったり若干の方向性だったり・・・

基本的に、ピアノに限らず先生家業を営んでいる人は、真面目なんですね。真面目すぎるというか・・・

真面目だから「自分の与えたこと」の結果を自分で確かめたくなる。でもピアノなんて、そもそもが難しいもの。合わない人だっているさ・・・と不真面目な僕なんかは思ってしまいます。

あまりに真面目すぎると「あなたしか見えない」状態になってしまって良くないことも多々あるのではないでしょうか?

ピアノ教師、街のピアノ教師という仕事の大変さを延々と説明してくれる先生もいます。

でも、冷たい僕は「仕事って大変なものでしょう?」なんて思ってしまう。18歳や19歳の子が、介護という職を選んでプロになれば、やはり求められるものはあります。どんなにフレッシュでもね。転倒リスクを考えつつ、その方の活動域を広げる・・・なんて考えようによっては矛盾していることを、この子たちは泣きながら(本当に泣くんだよ!)考えるのです。それは、仕事だからです。

考えようによっては「自分なんてダメ教師なのね!」と思うこと自体に甘さを感じます。月謝を自称・ダメ教師に払っているのは生徒側なんですから・・・

「私のレッスンに反応しないなんて!ありえない!豚に真珠なのよ!」と思う先生(若干いらっしゃる)よりはいいのだと思うのですが・・・

仕事は厳しい・・・

kaz

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category: レッスン

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素人ですが・・・ 

 

あまりにも「あなたは素人でしょう?」「ピアノを教える苦労を知っているのですか?」という意見が多いので、自分でも考えてみました。たしかにピアノを教えた経験は、当たり前の事ですが、ありません。導入期の教材についての知識もありませんし、レッスン方法などの実践も知りません。導入期の指導方法や、ピアノに興味を持たせるためのセミナーなどは聴講したことはあります。もちろん、自分の仕事に生かす・・・という視点ではなく、純粋なる興味のためセミナー受講しています。

「素人でしょう?」・・・たしかにピアノ教育に関してはそうなのですが、実は僕は過去に公立中学校の教員をしていたことがあります。もちろん、教科は音楽ではありませんでしたが、「児童心理」なども学び、採用試験も合格し、教員として6年間働きました。担任も受け持ち、進学指導もしましたし、問題行動(非行)に対処もし、考え続けました。「ピアノ」に関しては素人ですが、もしかしたら「教育」に関しては素人とは言えないのかも・・・なんて考えてしまいました。たしかに現在は教育で生計を立てているわけではないので、そのような意味では素人ですが、もしかしたら音大のピアノ科を卒業しました・・・という新米先生よりは、「教育」に関しては経験豊かなのではないかと・・・

教育の難しさの一つは、現在の積み重ねというものを、いかに未来につなげていくか・・・というところにあると思います。あまりに「現在」に重点を置きすぎると、将来という目線を失ってしまう可能性もありますし、でも現在が揺らいでしまうと未来というものに継続していけない・・・そのバランス感覚の難しさ・・・

現在は、「介護」という人生の終末期に関わる仕事をしています。現場で排泄介助や入浴介助をする機会は立場上減りましたが。「教育」とか「未来へのつなぎ」という点では、教員時代よりも、むしろ介護時代での経験のほうが、より自分にとっては考えさせられる出来事が多かったような気がしています。

新人介護職員時代に、こんなことがありました。当時は、療養型の病院に勤務し、主に「下のお世話」「食事介助」「入浴介助」などをしていたのですが、ある方のオムツ交換の時に、こんなことがありました。

新人なりに丁寧に一生懸命にオムツ交換をしました。便の汚れを拭き取り、スキンの状態を観察して。介助が終了し、僕が「お待たせしました。終わりました」と言うと、その方は「本当にありがとうね。なんでもやってくれて。本当にありがとう。でも、こんなことまで人にやってもらうようになったら死んだほうがマシだね。なんで生きなくちゃいけないんだろ?ごめんね、あんたにこんなこと言っても仕方がないんだけどね・・・」

僕は、感謝の言葉を期待していたわけでは決してありませんでしたが、でも心のどこかで、そのような「ありがとう」という言葉に慣れきっていたのは事実です。そして自分では、オムツ交換という仕事(というか作業というか)は、人の役に立っているという思い上がりがありました。なので、この方の発言が衝撃でありショックでした。そしてこのようにも感じました。

「人間って、このような状態になっても、未来への希望とか展望というものを持って生きているんだな・・・それが無くなると人間は辛いんだな・・・」と。

人間というものは、いつまでも将来にむかって生きている・・・

そのことを実感した出来事でした。

今のピアノ教育は、あまりにも「現在」というものに中心点がありすぎるような気がしています。「楽しいレッスン」「興味を持たせて・・・」など。それも重要というか、とても重要です。でも、そのような「楽しいレッスン」や「興味を持たせて」をどこに導くか・・・という「未来目線」に欠けているように思えるのです。

「音楽が好きな子どもに育てる」・・・でも、僕だってピアノなんて弾いていない30年間、音楽好きでしたよ?楽器を演奏できなくても音楽が死にそうに好きな人、音楽で生活が豊かになっている人は大勢いますよ?

ピアノを習っている・・・ということは、それ以上の何かを身につけさせること・・・僕はそう思うのですが。

kaz

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category: ピアノ雑感

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本当はクラシックを弾いてみたい 

 

ひとりの小学6年生の女の子からのメールを紹介します。原文のままではありません。A子さんとしておきます。

「kazさん、はじめまして。私は今小学6年生です。ピアノはあまり上手ではありません。もちろん、将来は音大に進学するとか、そのようなレベルではないです。家では電子ピアノで練習していました。今年になって、先生から言われました。あなたはこれからどうするの・・・と。以前から専門的に習っているんじゃないからということで、Jポップやポップスの曲を中心にレッスンしてもらっていました。ピアノが嫌いと感じたことは今までないのですが、今練習しているような曲を中学生になって、練習する時間をみつけて練習するのは難しいと思い、ピアノは忙しくなるので辞めると先生に言いました。先生は「そう、残念だけど仕方ないわね」と仰いました。ピアノと勉強とを天秤にかけた時に、私は勉強を選びました。でも、思ったんです。私はピアノは嫌いじゃない、本当は好きなんだと。本当はクラシックの曲、いつもCDで聴いているような曲を弾いてみたいんだと。先生にもう一度、自分の希望を言ってみました。先生は「専門的に習いたいわけじゃないんでしょう?ポップスとか楽しんで弾くのなら教えるけど、クラシックの曲をきちんと弾くのは大変なのよ?A子さんはそのようなレッスンは無理でしょ?」と言われました。先生がそう思うのも無理はないんです。私はピアノが上手じゃないから。自分でもCDで聴いているような曲を弾けるようになるには、やはり先生の仰るような、専門的に学ぶ姿勢というものが必要なんだと悟りました。先生に、ピアノはそんなに甘いものじゃないのよ・・・とも言われました。とても悲しかったのですが、でも私が上手じゃないのがいけないんだと思います。kazさんのブログを読んで、もう一度違う先生を探してみようと思いました。私は田舎に住んでいるので、周囲にたくさんのピアノの先生がいるわけではないのですが、あきらめないで自分に合う先生を探してみようかと。プロではない男の人の演奏がありましたね?電子ピアノで弾いている人・・・この人のようになりたいんです。この人の他の動画も調べてみました。サン=サーンスという人の曲を弾いている動画を見て、泣いてしまいました。私は、やはり専門的に習うとか、音大とかは思ってはいないし、でもそうでないとピアノを続けるのは難しいとどこかで思っていました。そうでない人はポップスとか弾いていくのかな・・・と。でも、この人みたいに私も将来、サン=サーンスを弾けるかもしれない・・・そう思えました」



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アステアと踊る熱い夜 

 

僕も「楽しいからピアノを弾く」「楽しくピアノを弾く」・・・じゃなく「ピアノが弾けるから楽しい!」だと思うね。

僕はピアノの曲じゃなくても弾いてみたくなってしまうんだ。だから編曲もするんだ。よく「編曲なんかできて凄いわねぇ」なんて言われるけど、僕にはピアノで再現したい世界があるんだ。

僕はアーヴィング・バーリンの「踊るリッツの夜」という曲が大好きなんだ。バーリンは「ホワイト・クリスマス」の方が有名だと思うんだけど、僕は「リッツ」が好きだ。僕はピアノを弾いている時に、顔に喜怒哀楽が出ないんだけど、でもピアノが弾ければ楽しいさ。この曲を弾いている時には、僕はフレッド・アステアと踊っているんだ。頭の中でね。その世界を表現したくて僕は「リッツ」をピアノ用に編曲して弾いているんだ。ピアノは楽しいよ。弾ければ弾けるだけ楽しいもんだと思うよ。

バーリンは少年時代とても貧しかったから、きちんと教育を受けることができなかったんだよね。靴磨きをしたり、旅芸人になって街で歌ったりしていたんだ。だから楽譜が読めなかったんだね。でも頭の中には次から次へとメロディーが浮かんだ。そして記譜してもらった・・・

素敵じゃないか?バーリン・・・

ピアノ辞めちゃうの?なんで?忙しくなるから?

僕が思うに、忙しくなるからピアノを弾くべきなんじゃないの?弾けたら楽しいよ?

忙しい生活だからピアノを弾くんじゃないの?

ピアノは弾けたら楽しいよ、だってアステアと一緒に踊ることもできるんだから。

ねっ、辞めないで続けてみなよ?もう少し・・・もう少し弾けるようになるまで。

君も僕のようにピアノを弾きながら踊ってみようよ?アステアと「リッツの夜」を踊ろうよ?

僕にもできたんだ。君だってできるさ・・・



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楽しいから弾くんじゃない。弾くから楽しいんだ! 

 

きょうは仕事がオフ。家で片づけなければならない持ち込み仕事もなく、一日自由に使える日。

このような日は、一日中ピアノを弾く。いつもは寝る前の僅かな時間しか弾けないから。

練習そのものは楽しいといえるのか、それは微妙なところだ。譜読みを面倒だと感じる時もある。

でも、ピアノが好きなんだと思う。練習や譜読みの辛さ、それを含めてのピアノの楽しさだ。

僕は思うんだ。「楽しくピアノを弾く」「楽しいからピアノを弾く」のではなく、「ピアノが弾けるから楽しい」のだと。

忙しくてピアノなんて弾かない時期もあったけど、でも思うんだ。辞めないで本当に良かったと。

ピアノって弾けるから楽しくなるんじゃないかな?

ピアノ・・・楽しいよ!



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ピアノの輪 

 

今も世界のどこかで誰かがピアノを弾いている。

楽しみながら、悩みながら、泣きながら(?)・・・

これは、とても凄いことだと思う。

この輪から抜けてしまうのは、勿体ないと思う。

ただそれだけなんだけど・・・

kaz



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