ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

ピアノは目的ではないのだ! 

 

やはりピアノが上達したいとは思っているのだとは思う。「今のままでいいのだ!」とは到底思えない。

でも、上手くなることが目的ではないような気がする。

僕にとってはピアノは目的ではなく、何かの手段なのだ。

ピアニストの素晴らしい演奏を聴いて、「このように弾きたい」とは、そりゃあ思う。思うけれど、そこに到達したいというのとは違う。明らかに違う。

ある曲を聴いて、「この曲が弾きたい!」と思う。でも、弾きこなしたいというのとは違う。明らかに違う。

考えてみれば(考えてみなくても)僕の人生は、人から愛を受ける人生だった。僕は、まだ人に無条件の愛を与えたことがない。人生は愛を知るためのレッスンなのだと思う。

ピアノは目的ではないのだ。手段なのだ・・・

さすがに、文章にすると我ながら恥ずかしい。

kaz



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人間・・・音楽・・・ 

 

偉大な作曲家による崇高なる作品の前に、我々凡人は、ひれ伏すべきなのだろうか?

人間は偉大なるクラシック音楽を常に奉るべきなのだろうか?

もしかしたら、芸術というものは、人間同士が分かち合うことのできる「無条件の愛」のようなもの、無条件の愛が人と人の間で、心のやりとりがあったときに生まれる「何か」を、形として表したいと人間が欲した結果なのではないか?

そのように感じること自体が傲慢な考えなのだろうか?

無条件の愛・・・

例えば、エイズという病気が知られ始めた頃、接触するだけで感染するのではないかと恐れる人が大勢いた。同じ部屋にいるだけでも空気感染してしまうのではないかとも。

このような時期は、エイズの子供を勘当してしまう親も沢山いた。でも、多くの親は子供に対して「無条件の愛」を持っている。やせ細って死期が近いエイズの子供を、感染するかもしれないと頭では思いながらも、自分の子供を抱きしめる親は存在した。抱きしめた瞬間、そして抱きしめられた瞬間、無条件の愛のエネルギーが伝わる。

このような瞬間の心のエネルギーと、音楽を聴いて感動する時の胸が苦しくなるような心の動きは、どこか似ている・・・

人間の心の動きを何かしらの形として表そう、残そうとする・・・それが音楽・・・

このように考えてしまうと、人間の心の動きは、芸術・音楽にひれ伏すものではないようにも思える。

やはり傲慢かな・・・

kaz



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色 その2 

 

先日、至近距離でリシャ-ル・ガリアーノの演奏を聴いて感じた。

もしかして、演奏とか音楽というものも、一種の「仮の姿」なのかもしれないと・・・

たしかに音を聴いているのだ。演奏を聴いているのだ。曲を聴いているのだ。

でも、それは仮の姿・・・

kaz



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category: Richard Galliano

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楽譜を開くと、音符がぎっしりと印刷されている。真っ黒だ・・・

「この3度とかって・・・弾けないよねぇ・・・」「このオクターブの跳躍が難しいのよねぇ・・・」

たしかに曲を鍵盤上で再現するのは大変なのだ。

でも、初めてその曲を聴いて、惹かれたのには、その人なりの理由があるはずなのだ。その部分、目に見えない感覚的な何かを求める作業が、いつのまにか真っ黒な楽譜と格闘することになってしまう。

ある種の演奏には、「すごくよく弾けている」ということの他に、立ち昇ってくる色のような、曖昧模糊とした何かが存在する。その「色」「景色」のようなものは、別にクラシックの作品だけではなく、そして音楽だけではなく存在するものだ。スポーツであるフィギュアスケートの演技でも、まれに感じることはできる。

「表現力がある」とか「惹きこまれる」といった、言葉では説明できない何か・・・

楽譜というものは仮の姿なのかもしれない。

kaz



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category: Stephen Hough

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滑る音楽家 

 

ステファン・ランビエールは、少し他の選手とは異なっていたように思う。他の多くの選手は、ジャンプやスピンなどの各要素を、きちんと正確にこなしたうえでの表現力という印象がある。でも、ランビエールの場合は、まずは、彼独自の表現したい世界があり、ジャンプなどの要素は、彼の世界観を具現化するための手段の一つなのではないかと・・・

もちろん、彼も競技会では、ジャンプの成功率とか、スピンの回転軸とか、そのような事を考えながら演技していたのかもしれないけれど・・・

ランビエールは、特にスピンが上手かった選手だ。でも、そのスピンでさえ彼の作品の一部と感じてしまう。

演技というよりは、一つの作品、一つの世界を観ているというか・・・

多くの選手は各要素が目的化しているように感じるが、ランビエールの場合は、各要素が手段となっているように感じる。

世界選手権で二連覇、トリノで銀メダル・・・

ランビエールもその後は自身で語っているように「内なる炎が消えてしまった」「燃え尽きてしまった」のかもしれない。加えて、左内転筋を損傷・・・そして引退・・・

僕は、ランビエールの演技では代表作「ポエタ」よりも、一度引退した後、復帰したオリンピックでの演技が最も好きだ。

この時の演技は、まるで「滑る音楽家」のようだ・・・と感じる。

kaz



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category: The Skaters

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熱血先生、最後の授業 

 

熱血A先生は、歌や映画を授業でとりあげる時には、歌の歌詞やセリフの内容そのものよりも、意外性のようなものを重要視して選んでいたのではないかと思う。歌だったら、キャッチーな親しみやすいメロディーに重い内容の歌詞が歌われていたりとか・・・

高校生なりに、生徒全員は分かっていたのだと思う。A先生は、「異なる感覚」「異なる価値観」のようなものを生徒に伝えたかったのではないかと・・・

卒業間近の僕たちとA先生との最後の授業、A先生はシャーリーンという歌手の「愛はかげろうのように」という曲を授業の題材にした。

実は、僕は「愛はかげろうのように」という曲は知っていた。でも歌詞を理解して聴くということはなかった。洋楽好きな生徒も多かったので曲そのものは親しんでいる者もいたとは思うけれど、歌詞の意味まで理解して聴いていた生徒は少なかったと思う。僕自身は、「淡い失恋の歌なんだろうな」と思って曲を聴いていた。

まずは、曲を聴き、そして歌詞をA先生と生徒で訳していった。やはり、メロディーからは連想できない内容の歌詞だった。

最後まで訳し、そして曲を聴いた。女子生徒の中には泣いてしまった者もいた。A先生は、歌詞の内容には触れずに、僕たちに言った。

「最後に・・・君たちは、近いうちに社会に飛び出すことになるのだろう。その社会は辛いものかもしれない。そして、その社会で営んでいく君たちの人生も辛いものかもしれない。少なくても辛い時はあるだろうな。私は若い頃に自殺をしようとしたことがある。正確には自殺未遂だ。生きていくことが辛かったんだよな。君たちには伝えたい。そのような時でも自分が感じている社会や人生は、大きな空の一片のかけらにすぎないんだと。大空へ羽ばたけば、自分で感じている価値観とは異なる世界もあるんだ。死にそうに辛い時には、異なる価値観の場所、空間に飛び出してみるといい。自分がすべてだと思っていることが、実はほんの小さなかけらだということもあるんだ。異なる価値観や考え方に身を置くと、それが実感できるんだ。英語は、そのための手段でもある。死にそうに辛い時には、大空へ羽ばたくんだ・・・いいね?」

僕は大学を卒業し、そして就職した。難関だと言われていた採用試験も突破し、僕は公務員としての人生を歩んでいた。安定した人生・・・

でも、僕は違う文化の中に身を置いてみたかった。そして新たに勉強してみたい学問があった。その学問はアメリカ合衆国が世界の先端を走っていた。

「アメリカに留学したい・・・」

でも、その時、僕は30歳になろうとしていた。

家族も含め、周囲の人間のすべてが留学に反対した。

「公務員なのよ?もう戻れないのよ?そんなわけのわからないことを勉強するために自分の人生を捨てるなんて・・・」

「夢を追う年齢じゃないだろ?目を覚ませよ!それに帰国したって仕事はないぞ?いいのか?」

ただ一人、A先生だけは、このように僕に言った。

「お前、何を迷うことがあるんだ?行くしかないだろう?人生最高の瞬間じゃないか・・・たった一つの価値観しか知らずに人生を終えてしまっていいのか?行ける時に行くんだ!」

シャーリーンの「愛はかげろうのように」を聴くと、あの時のA先生を想い出す・・・

アメリカでの学業を終え、ほとんど無一文になって帰国したけれど、後悔はない・・・今も・・・これからも・・・

kaz



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熱血先生が残してくれたもの・・・ 

 

高校の時の英語の先生、男の先生だったけれど、熱血先生だった。仮にA先生としておく。A先生は、受験対策としての授業も万全で、そのような授業の時は塾の授業のようでもあった。

「君たち、英語は受験のために勉強しているんだろうけど、本来は英語は言葉なんだぞ。伝達手段なんだ!何を伝達するんだ?人の想い、人の心だろう?英語は人に想いを伝えるための、そして受け取るためのものなんだ。絆だよ・・・絆・・・」

うーん、熱血ぶりを想い出す・・・

受験対策以外の授業の時は、A先生は音楽(歌)や詩や映画を授業に活用した。

宿題に歌の歌詞を書き出し、自分なりに訳してきなさい・・・という宿題が出たことがある。生徒全員にカセットテープを渡し、聴いて英語を書き出し、それを訳せと・・・

ダビングする手間とか大変だったと思う。

課題は「想い出のグリーングラス」という歌だった。僕は、その曲を聴いたことがあった。森山良子が歌っていたと記憶している。

たしか、「故郷に帰ってきたんだわぁ・・・懐かしいわぁ・・・」という歌だったと記憶していた。

カセットテープに吹き込まれた歌は、もちろん森山良子のものではなく、トム・ジョーンズが歌ったもので、リスニングは僕にとっては、かなり難しかった。

でも、自分なりに聴き取って、訳していくと、英語版の「想い出の・・・」は森山バージョンのそれとは、かなり歌詞の意味が異なっているのが分かった。前半は同じ感じなのだ。「故郷だぁ・・・」という感じ。

でも後半が全く森山バージョン、というか日本で知られている「想い出の・・・」とは異なっていた。

メロディーは同じなのだ。カントリー調の、優しげなメロディーで素朴な魅力がある。でも歌詞が・・・

英語版、というか原曲の「想い出の・・・」は死刑囚の心の叫びのような歌だったのだ。処刑前日に故郷の夢を見て、そして故郷にある樫の木の下に自分は葬られる・・・というシリアスで悲惨な歌だったのだ。

高校生には、この事実はショックだった。なんで、こんな内容の詩に、このメロディーなんだろう???

「君たち、訳せたかな?聴きとれたかな?」

「あのう・・・歌詞が凄くてビックリしました・・・」

「なぜ、あの歌詞にあのメロディーなんだろう?何故だと考えたことはあるか?」

もちろん、高校生には答えられない。

「自分たちと違う文化や考えを知りたくないか?自分たちとは異なる何かを感じる人がいたとしたら、何故だか知りたくないか?そのために英語を勉強しているんじゃないか?」

「君たちの考えや文化を、知ってもらいたくはないか?自分たちも違う世界のことを知りたくはないか?英語はそのための手段なんだ!」

英語は手段なのだ。目的ではないのだ。単語やグラマーを勉強するのは何のためなのだろう?

「絆なんだよ。人との関わりのため。人と心がつながること・・・」

A先生は静かに言った。

音楽も同じなのかもしれない。知識や技能は目的ではないのだ。英語だって、いくら単語を知っていても、自分が何を言いたいのか、伝えたいのかが皆無だったら、人には伝わらないだろう。音楽も同じなのかもしれない・・・

kaz



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さまよえる子供たち 

 

リシャ-ル・ガリアーノを聴いた。「ブルーノート東京」という会場。

リシャ-ルの音色を聴きながら、僕は「上手くなりたいから自分がピアノを弾いている」のではなく「音楽に触れたいからピアノを弾いている」のだと感じた。

聴きながら涙が止まらなかった。別に恥ずかしくはなかった。会場は熱狂していたけれど、僕と同じように泣いている人もいたから・・・

僕はピアノ教室でピアノを習い始める前から、鍵盤と戯れ、好きな曲を弾いていたという。この幼稚園時代の記憶はない。でも、ピアノを習い始めて、「なんだか違うな・・・」と子供なりに感じたのだ。それは、練習すべき曲や先生の指導が、将来は自分で音楽に触れることができる道と思えなかったことだ。音楽を聴く喜びを知ってからは、さらに、この思いは強くなった。

練習をしない生徒だったと我ながら思う。でも、練習やピアノを習うということが、「音楽」とは、かけ離れたものであると感じていた。いきなり芸術作品を弾きこなしたかったわけではない。でも、そこに行き着く、音楽を聴いて得られる感動を自分でも触れてみたかったのだ。「再現」ではなく「ただ触れてみたかった」のだ。

さまよえる子供・・・であったのだ。

聴いた感動を自分で触れてみたくて、先生には内緒でショパンとか弾いてみた。もちろん上手くは弾けなかったけれど、自分でサウンドを生み出せた感動があった。練習は辛くても、練習そのものは退屈でも、行き着く先のようなものが見えたのだ。

「バイエルも弾けないのに、そんな曲・・・無理に決まっているじゃない!!!」

ピアノを習うって何だろう???

さまよえる子供・・・

大人になって、発表会などで子供の演奏を聴いた。

どの子供も、ピアノを習い始める時には「音楽への憧れ」のようなものがあったはずだ。でもさまよっている子供が沢山いた。かつての僕と同じように・・・

現在は、僕がピアノを習っている頃とは違い、子供の心を捉えるキャッチ―な教材も増えた。でも「今現在が楽しくなくてもいい」のだ。退屈でも辛くてもいいのだ。将来、今やっていることが「感動に触れる」ということに、つながるという感覚が欲しいのだ。

ピアノが上達するとか、上手く弾けるということは、それは僕にとっては手段なのだ。目的は、「ただ何かに触れたい」という強烈な思いを満たすことだ。子供の頃もそうだったし、今現在もそうだ。

リシャ-ル・ガリアーノを聴いた・・・涙が止まらなかった・・・そして何かに触れたいと思った・・・

kaz



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小さな手・・・ 

 

おそらくペトルチアーニの演奏を紹介したからだと思うけれど、「手が小さいからピアノは無理です」と言われてピアノを辞めた人からのメールを頂いている。

5名の方からなので、数そのものは少ないのかもしれないけれど、僕としては「5人も?」という感じではある。

心が痛むのは、メールはすべて中学生と高校生からのものだからだ。

「その手の大きさでは、これ以上は無理ね。趣味で弾くのならいいけど。ピアノ科ではなく声楽科で受験しなさいよ・・・」

「その手の大きさでは大曲は無理ね。これ以上は教えられないわ・・・」

共通しているのは、どの方も音大受験を諦め(させられ?)ピアノではなく、他の道に進むことを決意しているということ。

音大を卒業すれば、バラ色の音楽人生が待っているわけではないとは思うので、一概に「気の毒だな」とは言えないのかもしれないが、本人が音大進学を希望していて、ピアノを弾き続けていきたいと感じていたのだったら、やはり「気の毒だな、可哀そうだな・・・」と感じてしまう。

自分の人生の選択という意味では、諦めるという選択をしたのは本人たちなのだから・・・という考え方もあるのかもしれないが・・・

僕自身は、標準的な東洋人男性の手の大きさなのだと思うけれど、それでも「もう少し手が大きかったらなぁ・・・」と思うことはある。(もう少し指が動けばなぁ・・・と思うことの方が多いけれど)

やはり、「小さな手」というのは、ピアノ演奏には不利なのかもしれない。

でも、思うのだ。手の小さい人というのは、日頃から「弾きにくいな」「届かないな」「弾けないな」と感じているのではないかと思う。つまり、悩んでいるのではないかと思う。そのような中で「無理よ」「その大きさではね・・・」などと上から抑え込まれてしまったら、やはり相当キツイのではないかと思う。

小柄な日本人女性で手のサイズに悩んでいる人が、ロシア人男性のような手の大きさになれるわけではないので、つまり手のサイズそのものは変えることはできないので、仕方のないことなのだろうか?

「手の大きさは変えられない。ではどうしたらいいのか?」という発想で接してくれる先生が、この5人にはいなかったのだろうか?

そのような発想を指導側に求めるのは贅沢なことなのだろうか?

kaz



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区切り 

 

自分の病気の事や、状況を明らかにしたことで、多くのメールを頂いています。このことは想定して、個人別に「大丈夫だよ」メールを送っていたのですが、ちょっと間に合わない感じになってきたので、ここに書きたいと思います。

「もしかして・・・kazさん・・・もしかして・・・」という深刻な事態になっているわけでは一切ありません。身体は以前のままです。

今年、仕事面でも僕にとっては大きな挑戦、大きな飛躍がありました。福祉の世界に属する僕ですが、既存の施設や組織ではなく、独立しました。吹けば倒れそうな小さな会社を設立しました。一応「社長」なわけですね。でも、僕自身がボーッといている間に仲間が協力してくれたので、なんとか設立できたというのが本当のところです。趣味のピアノでも、演奏会を企画して・・・という活動がありました。こちらも代表とは名ばかりの僕が、ボーッとしている間にメンバーがワーッと協力してくれたので開催できたのだと思います。

まぁ、ボーッとはしていても、一応僕なりに公私共に一つの区切りがあったわけです。

「次のステップに進まなければなぁ・・・」という感覚を僕なりに持ったということでしょうか?

仕事の話は置いておきますが、ピアノに関してはこれまでにも「このままではいけないな・・・自分の弱点を見据えて上達しようとしなければいけないな」とは、なんとなく感じてはいました。

ただ、僕の場合、長い長いブランクを破り、ピアノを弾き始めたのには、自分の病気というものが関連しています。初めて自分の身体に癌細胞が確認されて、それも結構深刻なステージだったと自分で知った時に、「ピアノを再開しよう!」と思い立ったわけです。当然、長いスパンで自分の演奏を考えていくというよりは、命の有限性というものを重視し、「弾きたい曲」というものを最優先させてきました。

「将来のことよりも、今現在が楽しければいい、自分が満足できればいい・・・」というような感覚でした。

自分は本当にピアノが好きなのか?上達したいのか?

この部分は、あえて自分に問いかけないというか・・・

今現在は、やはり長いスパンで物事を考えるという思考には至っていません。今のままではダメなんだよな・・・と言うことは、以前よりも強く感じますが。

あと、10年生きられる・・・という確信のようなものが自分の内部にあれば、また違うのでしょうが、今はそのような心境にはなれません。

いきなりパッと思考が変わるかもしれませんし、氷が解けていくように、物事を違うように考えるようになっていけるのかもしれません。今はわかりません。

人前の演奏が終わるたびに思うのです。「次は何を弾こうかな?」と、ただチャラチャラと自分の弾きたい曲を弾いているだけでいいのか・・・と。

ピアノが弾けない日というものが訪れた時に、今のままのスタンスで突き進んでいたら、後悔するのではないかとも思います。でも、今は、2年後とか3年後の自分のピアノのことなど想像することは不可能です。

このあたりの考え方、感じ方が、これからの僕の課題なんだなとは思っています。

病気の事を明らかにすることで、自分の気持ちに進展が訪れることを、つい期待してしまいました。でも、「考えないようにする」という時期は過ぎ去るべきなのだと感じています。

kaz

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ギフト 

 

健常な人にはない障害を抱えながら、自分の信じる道を突き進む・・・

基本的に、僕自身がそのような障害を持つ身であるので、そのような人を心から応援したいという気持ちは当然ある。でも、僕のような者が、自分のブログで、その人の名前を明らかにして、多少の宣伝をしたとしてもどうなるものでもない・・・そのように感じる。

僕自身が心の支えになるのは、「他人が自分のことを想っている」「想ってくれる人が世界に一人でもいる」という漠とした感覚だ。

自分のリアルな生活で常に関わる人、仕事関係の人などには、僕の具体的な状況は伝えたり、伝えていなかったりしている。ブログでも、僕の状況は書いてはいなかったと思う。やはり、そのような個人的なことは隠したいとい気持ちが強かった。

でも、今は、その人を応援したいという気持ちが強い。実際には何もできないけれど・・・

僕のブログを丹念に過去の記事から読んでいくと、「もしかしたらこの人・・・大変な状況なのでは?」と感じるようなことも書いてしまっているにはいるのだけれど、ここでズバリ書いてしまおうと思う。

人って、外から判断すると「幸せそう・・・」と思える人でも、やはり何かしらの問題は抱えているものだ。そして基本的には、その問題を自分で抱える。僕もそうだけれど・・・

でも、そのような問題を抱えながらも、何かをしようとする人の存在は心の支えになったりもするのではないだろうか?

今までは「重篤な病」という表現をしていたけれど、病名は「癌」です。とても短い期間で再再発まで経験している。実際問題として、僕には年単位で残された人生がどれほどあるのかと考えた時には、非常に厳しいものがあるのだと思う。現在は、治療中というわけではないので、身体に痛みや苦しみを味わっているわけではないが、「完治」というものは、僕の場合にはもうない。

あとは、先天性のものだけれど、難聴という問題がある。片耳は全滅ですね。聴こえない。残された方の耳も、現在は健常な人の三割ほどの聴こえ具合だろうか・・・

そして再再発を経験してからは、緊張すると、残された耳の機能も危うくなるという現象が出てきた。これは自分の病気や治療との因果関係は、明確ではないけれど、心理的な要素も大きいのではないかと思う。しかしながら、ほとんどの人が同じであるように「緊張しないようにする」ということは困難なので、演奏中に自分の音が全く聴こえなくなるという現象を自分では受け入れなくてはいけないとも感じている。サークルでの演奏会と、ピアチェーレの演奏会で、このような経験をした。

「もう、もうピアノなど弾けないのではないか?」

「人前で、演奏会でピアノを弾くなんて自分にはできないのではないか?」

そのように正直感じた時期もあったけれど、でも僕のような者が人前でピアノを弾くということで、「できるじゃない?」ということを、もしかしたら人に伝えることも可能なのではないかとも感じている、もし、そのようなことを少しでも他人に感じてもらうことができたなら、僕という人間の存在価値が多少なりともあったということだ。

変な感覚なのかもしれないけれど、自分のような者が、この世に存在する、あるいは、したという意義を自分自身で確認したい・・・今はそう思う。

さて、僕自身が密かに心の中で応援したい人に、この演奏を捧げたいと思う。

ミシェル・ペトルチアーニ・・・

彼は骨形成不全症だった。「20歳くらいまでしか生きられない・・・」そのように宣告されていた。でも彼は36歳まで生きた。彼自身が音楽、そしてピアノを追い求めたことが、彼に16年というギフトを与えたのではないか・・・

ピアノに辿り着く、そして椅子に座るだけでも困難な状況であったという。でも彼には「弾く」という使命、そして欲求があったのだ。

「あきらめずに信じて進めば、道は開かれる。そして世の中に不可能なことはないのだ」

その人に、僕の心のメッセージが届けばいいのだが・・・

kaz



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配慮のない表現 

 

僕は、アマチュアとしては人前での演奏が多い方とは言えないとは思いますが、でも、複数のサークルに所属していたりするので、それなりには演奏の機会というものはあるのだと思います。

今まで、自分のブログの内容など、「人にどのように解釈されるか?」という観点で書いていたことはないので、配慮に欠ける表現なども多々あったのではないかと反省しております。

基本的に、自分の参加した会について、具体的にブログに、その内容をアップするというコンセプトが僕のブログにはありません。この自分のブログの特色(?)については自分では意識していなかったことです。サークルの演奏会や発表会があっても、自分に降りかかった想定外の出来事、そしてそれに関わる感想などは、書き綴った記憶はあります。自分の音が聴こえなくなってしまったりとか・・・

でも、なぜか他のメンバーの演奏については、たとえ、その演奏が素晴らしい演奏であっても具体的に自分のブログには書いてはいません。自分が代表である「ピアチェーレ」での演奏会に関しても、同様です。

このあたりは、自分でも感じていて、ピアチェーレに関しては、演奏会の内容やら感想については、もう少し自分のブログでも書いても良かったのかもしれないなどと感じたりはしています。

自分のブログでは、特定の会とか、特定の人(プロのピアニストは別として)のことを想定して書くということがない。

記事を書く時には、もっと漠然とした、ピアノの教育とか、コンクールでの演奏とか、日本人ピアニストによる演奏の感想、ピアノのセミナーに参加した時の印象、楽器店での営業時代に自分が関わった時の印象などの総合的なことを、つまりピアノ演奏に関わる、もっと漠然としたものを、日頃感じている疑問点を中心に書き綴っている・・・

ただ、これから考えなければいけないと感じたのは、特定の演奏や会についての印象ではなくても、たとえば、ある会に参加した日や翌日にアップした記事などは、参加したメンバーが、自分たちの会について、演奏についての記述ではないかと解釈するという可能性もあるという配慮を僕がするべきであったということです。このあたりは、とても反省をしております。気分を害された方がいるのだとしたら、この場でお詫びしたいと思います。申し訳ありませんでした。

kaz

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エディション問題 

 

ショパンのエディションは、どの版がいいのだろう?

「当然エキエル版でしょ?ナショナル・エディションなんだから!」

「最新の研究の成果だそうよ・・・」

そうなんでしょうね?でもエキエル版・・・高い。

正直に告白すると、これはショパンに限らずだけれど、自分が楽譜を選ぶ場合は、世間でいいとされているから・・・という理由で選んでしまっている。ベートーヴェンのソナタだったら、ヘンレ版とか・・・

僕は何故にエキエル版がいいのか・・・という本当の理由を自分で理解しているわけではないのだ。つまり校訂内容を理解しているわけではない。もちろん、解説を読むことは読む。でも、自筆譜ではなんたらかんたら・・・のような事実は確認できても、それがどうして演奏する際に本当に大事なのかが今一つ納得できていないのだ。校訂内容が、どのように実際の演奏に「演奏の魅力」として反映されるのかが理解できていない。

「なんとなく・・・いいとされているから・・・」という理由・・・

作曲者の意図に忠実に演奏することの重要性ということなのだとは思う。でも、作曲者の意図に忠実ということが、楽譜に印刷されていることに忠実という概念は、長い歴史の中では、現代だけの一過性のことなのかもしれないなどと思ったりもする。

ショパン自身は、楽譜・・・というよりは「印刷された楽譜」から逸脱し、即興性のある演奏をしていたらしい。音やリズムを、その時々によって変化させていた・・・

それは往年のピアニスト、たとえばミクリ門下であるローゼンタールの演奏を聴いたりしても想像できる。現代のピアニストの演奏よりは、ローゼンタールの演奏の方が、よりショパンの演奏に近かったのではないかとも思えてくる。

このような即興性のある演奏、楽譜に印刷されていない音型などを加えた演奏は、「自分勝手」な演奏なのだろうか?でもショパンの時代には、そのような演奏が主流だったのだとしたら、作曲者の意図に忠実にという概念は、単純にエキエル版に印刷されたように、楽譜に書いてあるように弾くということとは異なってくる可能性がある。

このフィオレンティーノのショパン、もしかしたら「まっ!こんな演奏は邪道だわ!」と感じる人もいるのかもしれない。好き嫌いの範疇だったらどう感じても自由だと思うけれど、でも「楽譜と違うことを弾いているじゃない!」ということだけで、この演奏を評価してしまうのはどうなのだろう?

もしかしたら、「作曲者の意図」ということを考えると、印刷された楽譜通りの死んだような演奏よりも、この大胆な(?)フィオレンティーノの演奏の方が「作曲者の意図に忠実」という可能性も否定できないのではないか・・・

「ショパンの楽譜・・・どのエディションを使用するべきですか?」

kaz



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category: My favorite Chopin

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「しっかり弾かなきゃ」症候群 

 

コードネームだけでサラサラと弾けたり、自分でアレンジしたり、耳で聴いて覚えた曲を自分流に弾いたりすることができる人がいる。あなたの周囲にもいませんか?ポップスやジャズなど、そしてクラシックの曲でも、ピアノ以外の曲を自分流に弾けてしまう人・・・

このような人の音楽は、基本的に魅力的だ。自分の音楽として演奏しているから・・・

むろん、クリティカルに聴けば、音の粒が揃っていないとか、そのようなこともあるのだと思うけれど、とても生き生きと音楽が再現されているように思える。

対して、クラシックのピアノを一生懸命練習しています、先生に注意されたことに留意して練習しています・・・という人、圧倒的に、こちらのタイプの人が多いように思えるけれど、このような人の演奏は、音楽が硬直していることが多い。弾きこなすことに一生懸命になりすぎというか・・・

致命的なのは、リズムが硬直してしまっていることだ。なんというか、田舎の(?)小学校の授業の合奏のようなリズム、「ブンチャッチャッ」という音楽室からの音が聴こえてくるかのような拍感覚・・・

そのような拍感覚だと、ハーモニーやメロディーの変化による陰影・・・などは当然表現できないので、結果として「ただ弾いている」「弾くことで精一杯」のような演奏になってしまう。

この差は何なのだろう・・・と考えた時、僕が感じるのが、まずは自分の理想のサウンドを頭の中で鳴らし、そのサウンドのように演奏できるように練習するか、それとは逆に、頭の中のサウンドではなく、まずは視覚から楽譜を読み、音やリズムを読んで音楽を構築していくか・・・その差ということ。

「この音はドミなのね。リズムはこうね」と、まずは楽譜を読んでいく。つっかえないで弾けるようになって、初めて「さあ、表情をつけて弾きましょう」と先生に言われる・・・

本来は、自分のサウンドや表現というものが先にあって、それに向かっていくのが本当ではないだろうかと思う。耳コピが得意とか、ジャズも弾けるとか、自分流にアレンジして弾けるという人は、まずはここができているのではないかと。

読譜から入って、「理想サウンド」というものに近づけない、もしくは、そのような理想のサウンドという概念すらなくパラパラと弾いてしまう・・・どうしてだろう?

このような場合、導入期の指導に相当問題があるのではないかと僕は思う。基本的に、ピアノという楽器は、幼い頃から習い始める。この時期は、感受性とかは鋭いのかもしれないけれど、自分で「理想の音楽世界・音世界」「理想のサウンド」というものを頭の中で鳴り響くということよりも、まずは「読譜」とか「指」のような基礎的な事が指導の中心になるのではないだろうか?でも、ごく始めの段階で「楽譜」とは別に、「頭の中で、その人が弾きたい理想のサウンドを鳴らす」指導も必要なのではないかと思う。

「ただ弾いている」という小学生の生徒がいた場合、「あなたは何を弾きたいの?なにをしたいの?あなたの音楽はどのような音楽なの?」と指摘し、実際に指導していける教師は案外と少ないのではないかと僕は想像している。

「そこはドでしょ?リズムが違っているわ!」「そこはまだ弾けていないわね!」という指摘から、音楽そのものの持つ魅力要素に反応させられる指摘に以降していくべき時期があるはずなのではないだろうか?

「楽しく弾きましょう!」「ピアノって楽しい・・・生徒の目が生き生きと・・・」ということだけではなく、音楽そのものの魅力だけで興味を持たせていく指導も必要になってくるのではないだろうか?

音楽に反応できる能力・・・

ここが、なんとなく上手くいっていないような気がする。

kaz

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category: ピアノ雑感

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音楽注入作業中 

 

ピアチェーレの演奏会が終わり、明日で一週間。早いなぁ・・・

演奏会に向けて、自分のテンションを上げたので、現在はピアノのテンションは下がりまくりです。明日は某所でピアノを弾くのに、実は一週間、全くピアノに触れていない。触れられなかったのですが・・・

そろそろ、ピアノモードにしないといけませんね。(演奏は明日ですが・・・)

このような時は、素晴らしい演奏を聴いて、自分の内部のエネルギーの注入をすることが必要。でも普通は、みんなピアノを聴くんですよね?

演奏会前から、というか、何年も前からハマっているのが、リシャ-ル・ガリアーノ。このような演奏を聴くと圧倒されますね。

いい演奏って何だろう?

会場の空気が動く演奏ではないだろうか?会場のテンションが動くというか・・・

つまらない、退屈な演奏って、聴いてすぐにわかる。音楽の演奏って厳しいよね。でも、いい演奏だと聴き入ってしまう。自分のテンションが演奏に吸い込まれていくように。ここで空気も動くのだ。演奏が終わると、その空気とテンションが開放されて、聴いている人は、歓声とか拍手という行為をせずにはいられなくなる。自分のテンションも解放したいから・・・

そのようなエネルギーを貰いたい時には、リシャ-ル・ガリアーノの演奏がぴったりなのではないでしょうか?

世の中にはクラシック音楽しか聴かない、クラシック音楽しか認めないという人も少数だが存在するようだ。そのような人たちにリシャ-ル・ガリアーノの演奏を聴かせたいと思ったりもします。

kaz



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category: Richard Galliano

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基準に合わせる残念さ 

 

フィギュアスケートの採点法が一新されてから、ほぼ10年近く経過しましたかね・・・

かつての「印象度重視」「相対評価」「国の駆け引きが順位に(あからさまに)反映されやすい」というところは改善されたようにも思えます。

でも、個人的に残念に思うところもあります。一つは、アイスダンス。まるでジャンプやリフトのないペア競技のようなプログラムが主流になってしまい、とても残念です。かつてのステップの印象が残るようなプログラムが懐かしい。

もう一つは、男子シングルで、とても残念に感じます。こちらもステップが様変わりしてしまったのが僕にとっては大きい。僕は、ジャンプよりもステップを観たいと感じるほうでしたから・・・

もちろん、現在でもステップは重要な要素であるのには変わりはないのですが、大きく変わったところがあります。上体を動かしながら、踊りながらのステップが主流になったことです。スケートを少しでも経験したことのある人ならわかることなのですが、ステップを、上体を動かしながら踏むというのは、とても難しいのです。バランスが崩れやすいですから・・・

当然、上体をクネクネ動かしながらのステップの方が、難しいわけですから、高得点が出ます。でも、個人的には、上体を動かさないステップに魅力を感じるのですね。上半身と下半身が別人のような動きの高速ステップが好き。

でも、クネクネステップの方が高得点が出るとしたら、選手は勝つために競技会に出て、そして勝つためにプログラムを作るわけですから、全員がクネクネステップを行うことになります。

正直、現在のステップは、ストレートラインだかサーペンタインだかわかりません・・・

クネクネ、ユラユラと踊りながらのステップ・・・

かつての、物凄い速さでステップを踏むプログラムが、とても懐かしい・・・

フィギュアスケートは、やはりスポーツであり、競技であるわけですから、仕方のない面もあるでしょう。「自己表現の場」というよりは、リンクは「勝負の場」になる。そして、競技会という場が、選手にとっての最終目標になる・・・

全員が、このように「一定基準に合わせる」ということが、音楽でも当てはまってしまうのが、コンクールなのではないかと思います。どうでもいい(?)子供のコンクールなどは別として、自分のキャリアというものが関係してくるコンクールでは、もはや「力試し」「人の演奏を聴くのも勉強」などと甘いことは言っていられないでしょう。自分の演奏家としての将来が決まるという現実がありますから、やはり「勝つ」ということをコンテスタントは考えると思います。そして、その戦いの場では「基準」というものが重視されるとしたら、やはりその「基準」に合わせるようになってしまうでしょう。

でも、演奏はフィギュアスケートのような競技とは異なります。競技会(コンクール)で勝つことが最終目標ではないはずです。そこがスポーツとの違いです。

標準仕様の演奏は、正直聴いていて退屈です。僕のように感じている聴衆の存在は多いのではないかと思います。「上手いな・・・」だけの演奏を聴衆は求めているわけではない・・・

でも、コンテスタントと教師は、そこを求めてしまう。「基準」に合わせるように・・・

ステップが印象に残る、かつての旧採点方法時代のプログラムとして思い浮かぶのがアレクセイ・ヤグディンの2002年のオリンピックでの演技です。現在では、このようなステップ、演技は競技会では観ることができなくなりました。「基準」が変わってしまいましたから・・・皆が「基準」に合わせていますから。

フィギュアスケートはスポーツですが、ピアノ演奏はスポーツではないはずです・・・

kaz



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category: The Skaters

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エゴ 

 

非常に興味深い映像がある。ピアニストのスティーヴン・ハフのレッスン風景。

生徒も実に上手いのだ。でも、この生徒のリサイタルを聴いたと仮定すると、僕は、おそらく退屈してしまうだろうと思う。実に達者に弾いているし、もちろん「ただ弾いています」とか「楽譜に書いてあるから、そのように弾いています」という演奏でもなく、表現のようなものも存在している。

でも、「ハッとさせられる、惹きつけられる要素」が残念ながらないのだ。一ミリの差というものを感じてしまう演奏でもある。

ハフは、「その箇所は、こんなに惹きつけられる要素が盛り込まれているじゃない?なんでそんなに事務的にサクサクと処理してしまうの?」「ほら、ここも素敵な部分じゃない?」と生徒に伝えているようにも感じる。

ハフと、生徒との差は、一ミリのようでもあり、永遠の差でもあるようにも思われる。

「多くの完璧な演奏からは、演奏者の個性や、何を考えて音楽を作っているのかが見えてこない。彼らの音楽は、すべて先生に習ったものなのです。最近のピアニストは、個性がなく、音楽表現にも主張がない。これは、彼らの先生のエゴに責任があるように思えます」 Stephen Hough



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category: Stephen Hough

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その一ミリの差・・・ 

 

カール・シェーベルイの歌曲「調べ」は、ある偉大な歌手が好んで演奏し、そして録音したからこそ、現代にまで生き残っている。

スウェーデンの生んだ、偉大なるテノール歌手、ユッシ・ビョルリング・・・

彼が、同じスウェーデンの作曲家であるシェーベルイの歌曲を歌い、まさしく、その歌唱が偉大であったからこそ、人々の魂を揺さぶったのだ。

僕は、ビョルリンクの「調べ」を聴くと、胸が張り裂けそうになってしまう。優秀な演奏と、何が異なるのだろう?その差は一ミリの差なのかもしれないが、その差が「優秀」「上手」と「偉大」との残酷なまでの差なのかもしれない。

ユッシ・ビョルリンク・・・心臓発作で、わずか49歳で亡くなってしまった、偉大なる歌手・・・

およそ60年近く前の録音、偉大なる演奏・・・

kaz

「偉大な演奏」



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category: 好きな曲・好きな演奏

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優秀な演奏と偉大な演奏 

 

人は、ピアノを弾いている人をカテゴライズする。初級者、中級者、上級者のように・・・

主に、それは、その人が弾いている曲の難易度によって分けられることが多いように思う。

僕は、そのような進度的な分け方は実は好きではない。分けるとしたら、その人が、何を弾いていようと、「ただ弾いている演奏」なのか「惹きつけられる演奏」かで分けたい。

惹きつけられる演奏・・・

実に漠としている要素だ。丹念に練習してあって、そしてどこといって欠点もないような演奏でも、全く惹きつけられない演奏というものが、世の中には多いような気がする。

優秀な演奏は、実に多いけれど、偉大な演奏というものは実に少ない。

練習を重ね、ひたすら山を登り、努力をして、何かに到達してから初めて「惹きつけられる要素」というものを考えるのが正しい順序なのだろうか?

「まだ初心者なのに、ホロヴィッツのように・・・なんて、とんでもございません!!!」のような感じ方をする人は多いのではないだろうか?「そのようなことは、まず弾けるようになってから考える」のように・・・

でも、これって順番が逆なのではないだろうか?

自分が惹かれた・・・その漠とした「何か」を追い求めるということが、練習なのではないだろうか?

惹かれる、そして追い求める・・・そのためには、偉大な演奏を聴いて、まずは自分の魂が動くことが先ではないだろうか?

「偉大な演奏」というものは、人それぞれ感じ方があるだろうけれど、実は「偉大」ではなく、「優秀な演奏」を聴いて、「あら、いい曲ね」とか「上手ね・・・」と感じることのみで終わってしまっている人が多いような気がする。

スウェーデンの作曲家にカール・シェーベルイという人がいる。この人は、ある一曲の歌曲だけが有名で、現在でも歌い継がれている。「調べ」という歌曲で、大変メロディーの美しい曲だ。

このシェーベルイの「調べ」を現代の平均的な(?)、そして優秀な歌手が歌っている演奏。どこといって、欠点はないのだ。声を綺麗だし、丁寧に歌っている。でも、個人的には、この歌唱には全く惹きつけられる要素がない。「上手だな・・・」とか「いい曲だな・・・」とは思うけれど、僕の魂を動かすには至らない・・・

「惹きつけられる演奏って?」「あの人の演奏って聴き入ってしまう。何故かしら?どんな練習をしているのかしら?」

それは、優秀な演奏だけではなく、偉大な演奏を聴いて、心を揺さぶられる経験を、その人が積んできているからではないだろうか?

あまりにも「聴く」ということ、偉大な演奏を追い求めるということと、上達ということを分離しすぎてしまうと、行き詰ってしまうのではないだろうか?

もちろん、ただ「聴けば」、いい演奏ができるというわけでもない。そこが、また悩ましくも楽しいところだ。

kaz

「優秀な演奏」



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category: 未分類

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情景そして回想 

 

ピアチェーレの演奏会から数日が過ぎ、やっと振り返る心の余裕ができた。当日の演奏の出来・・・ということだけではなく、今感じていることは、今年は演奏会一色になってしまったなということ。もちろん、練習会で一曲を弾くということとは演奏会なので重みが異なるのは当然だけれど、サークルや門下生の発表会でも、今年は11月の演奏会の曲を弾くことが多かった。その場合は、心のどこかで演奏会の「予行練習」的な気持ちもあった。

来年は、そのあたりを課題にしたい。

僕としては、異例なことだけれど、来年のピアチェーレの演奏会で弾く曲を選曲したりしている。弾きたい曲を弾く・・・ということが前提ではあるけれど、でも「憧れの曲を弾いてみました!!!」のように「寄せ集めプログラム」のようになってしまうのではなく、演奏することで、共通の表現したい自分なりの世界のようなものが、聴いている人に伝わるような、そんなプログラムにしたい。

自分なりの来年の演奏会でのテーマは「情景・回想」という感じかな・・・

その音楽を聴くことで、かつて聴いた、そして観た映画や舞台の情景を、聴いている人が回想する・・・

ディズニー映画である、この映画が公開されたのは、1937年。とてもとても古い映画だ。日本で公開されたのが1950年。日本での公開時、この映画を観た人は、ディズニー映画のアニメーションの美しさに驚嘆すると共に、アメリカという国の国力にも驚嘆したという。「戦前に、こんな凄い技術を駆使した映画を製作できていた国と戦っていたのか!」と。手塚治虫は、この映画を50回は観たという・・・

この映画は、日本の、そして世界のアニメーションの発展に貢献した映画でもあるのだ。

この曲を演奏することで、聴いている人が、映画のワンシーンを回想する・・・そんな演奏ができれば最高だと思う。具体的な曲名や編曲者の名前は、まだ書かないけれど、でも「ディズニー名曲集」のような楽譜から選ぶわけでは、もちろんない。

僕は、この映画を観た記憶はない。でも、何故か音楽は知っている・・・

kaz



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category: Barbra Streisand

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一夜明け・・・ 

 

昨日はピアチェーレの演奏会でした。代表としては何もできなかったけれども、演奏会そのものは成功だったのではないかと思います。

自分の演奏ですが・・・

やはり、やはり弾いた本人としては、「満足」という気持ちには到底なれない。でもそれで当たり前なのかも。

自己採点すると、20点ぐらいかな・・・とも思います。

聴きに来ていただいた方で、お礼の気持ちを伝えられる場としては、このブログだけ・・・という方も多いので、この場を借りて感謝の気持ちを伝えられたらと思います。

「本当にありがとうございました!」

kaz

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category: ピアチェーレ

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バーテンダー出陣! 

 

小学生の時から、音楽雑誌に登場するようなスター演奏家ではなく、子供なりに、自分でいいなと感じる演奏を聴いてきて本当に良かったと思う。

演奏会当日に思うことではないかもしれないけれど・・・

お気に入りの、古い古い録音を聴いた後に、現代のスター演奏家の演奏を聴くと、どこか物足りなかった。

その時の、子供の時の感性を今日は大事にしたい。

では、バーテンダー出陣です!

kaz



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category: ピアチェーレ

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バーテンダー登場! 

 

いよいよ明日はピアチェーレの演奏会。

精一杯やったかな・・・と自己肯定したいと思う。そもそも、また30年ぶりにピアノを弾こうかなと思ったのは、病気をしたからだ。「後悔しないように、自分のやりたいことをやろう!」と。

選曲も、上達したいから・・・というよりは、死ぬまでに弾いておきたい曲を弾くという強い想いから選曲してきた。

将来よりも「今」が大事だと・・・

まさか、この自分が人前で、演奏会でピアノを弾くという日がくるとは、ピアノを再開したときには想像もしなかった。一つ、何かをやり遂げたのかなと思う。

明日は、いろいろとアクシデントはあるだろうが、今の僕の精一杯の演奏になると思う。

「あの時死なないで、生きていて良かった」と思える演奏にしたい。もうすでに、今の時点で「生きていて良かった」と感じている。

本当は、地味なスーツで演奏する予定だった。でも今回は、スティーヴン・ハフの「眠りの森の美女によるパラフレーズ」を弾くので、なんとなく衣装も曲に合わせてみたかった。もちろん、オーロラ姫のようなドレスを着るわけではないけれど・・・

スティーヴン・ハフがリサイタルで着ていたような衣装になった。まぁ、普通の衣装ではある。でも、僕が着ると、完全に水商売風と言うか、バーテンダー風だ。その昔、バーテンダーだったこともあるので、なんとなく水商売風になってしまうのであろうか?

それにしても、太りすぎだよな・・・

kaz

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category: ピアチェーレ

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トリプルアクセル 

 

現在では、男子シングルでは、トリプルアクセルというジャンプは当たり前のジャンプになりました。このアクセル・ジャンプの「アクセル」ですが、たまに車のブレーキ、アクセルの「アクセル」と勘違いしている人がいます。この「アクセル」は人の名前です。1882年に初めて前踏み切りのジャンプをしたのがアクセル・パウルゼンという人だったので、「アクセル・ジャンプ」という呼び名になったのです。

ちなみに「トリプルサルコウ」の「サルコウ」も人物名です。ウルリッヒ・サルコウという世界選手権で10回(!)優勝した人が初めて跳んだジャンプなので、サルコウという呼び名になりました。もちろん、3回転ではありませんでしたが・・・この人は初代オリンピック・チャンピオンでもあります。

トリプルアクセルを初めて世界選手権で成功させたのが、ヴァーン・テイラーというカナダの選手です。1978年のことです。でも、そのジャンプを見てみると、完全にクリーンなジャンプという感じではありませんね。少しオーバーターンがある・・・

完璧なトリプルアクセルを僕が初めて見たのは1981年の世界選手権です。同じくカナダのブライアン・オーサーのトリプルアクセルです。以後、このジャンプに挑戦する選手が増えたような気がします。

では、1978年より前の時代、誰もトリプルアクセルを跳べる選手は存在しなかったのでしょうか?やはり人間の身体や運動能力そのものは数十年で劇的に変化するものではないと思うので、昔でもトリプルアクセルを跳べた人はいたのではないかと想像します。試合では跳ばなかっただけで・・・

1948年にアメリカのディック・バトンがダブルアクセルを成功させました。人類が一つ回転を増やすのに30年かかったわけです。このようなことを考えると、昔の選手よりも現在の選手の方が高い技術力を持っているのだと思うのですが、でも「皆が跳べるのだから・・・」という原始的(?)な発想からジャンプに挑戦し成功するところもあるのではないでしょうか?

ジェンキンス兄弟というスケート史上、類まれな兄弟がいました。兄のヘイス・ジェンキンスは1953年から1956年まで世界選手権を連覇し、56年のオリンピックで、やはり金メダルを獲得した選手です。この56年のオリンピックで銅メダルだったのが、弟のデヴィッドです。デヴィッド・ジェンキンスは、1957年から1959年まで世界選手権で連覇しました。まさに「スケート兄弟」・・・

兄のヘイス・ジェンキンスの奥さんがキャロル・ヘイス・ジェンキンスです。この人は、女子選手で初めて2回転半、ダブルアクセルを成功させた選手でもあり、1956年から1960年まで世界選手権で連覇し、60年のオリンピックでは金メダルを獲得した人でもあります。

「うーん、スケート一族???」

弟、デヴィッドがトリプルアクセルを跳んでいる貴重な映像があります。1957年の映像です。「初めての世界選手権でのトリプルアクセル成功」よりはるか昔に、軽々とトリプルアクセルを跳んでいた人は存在していたわけです。

それにしても、このデヴィッド・・・なんという技術力なんだろう・・・と思います。

kaz



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category: The Skaters

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あり得ない評価だろう・・・ 

 

ヴィット選手は、一度だけ競技会に復帰しています。88年から6年後のリレハンメル・オリンピックです。その時の演技を観ると、6年の競技生活からのブランクというものは個人的には一切感じませんでした。

その時のショート・プログラムです。やはり88年の時と同様に、「ただ滑っている」というところのない、素晴らしい演技だと思いました。でも、点数は6年前の時と比較して、かなり低めに抑えられています。まるで別人に対する点数(正確には順位だが・・・)のようです。

審判の国別の駆け引き・・・というものを点数が出た時には感じました。そのように斜めに物事を考えなければ、この低い点数は、コンビネーション・ジャンプでのファーストジャンプの難易度によるものだと思います。

ヴィット選手は、トゥループの3回転ジャンプを跳びましたが、6年の間に、このジャンプは最も難易度の低いジャンプと認識されるようになりました。最も難易度の高いトリプル・ルッツを上位選手はプログラムに組み込んでいましたから、そのような意味では、技術点でヴィット選手は抑えられても仕方のないところではありました。

「でも、この点数は、あり得ないだろう???」と感じましたが・・・

技術の進歩・・・ということなのでしょうか?レベルが上がった・・・ということなのでしょうか?

現在の採点方法であれば、単純に「ジャンプの基礎点の差」というものになると思うので、また違う点数になっていたとは思いますが・・・

技術の進歩・・・レベルが向上する・・・

たしかに、たとえば70年代の競技会の映像を観たりすると、男子選手でもトリプル・ルッツに難儀していたりして、やはりルッツは難しいんだな・・・などと感じます。現在では女子選手でトリプル・ルッツを跳んでも、「おおおおお!!!!!」という反応はないでしょう。やはりレベルは上がっているのでしょうか?

もし、ジャンプの難易度が向上するということが、技術の向上・進歩と大雑把、かつ乱暴に解釈すれば、昔に比べ、技術は進化し、レベルも向上していると言えるでしょう。

人間の筋肉構造とか、肉体構造は変化しないのに、どうして「昔は誰もできなかった」「一部の選手しかできなかった」技(3回転でのルッツとか、アクセルでトリプルとか・・・)が、現在では、ほとんどの選手が成功できるようになったのか?

スケート靴の改良?軽量化されたとか?うーん・・・違うような気がしますね。

練習メニューというか、選手とコーチの目指す難易度の到達点が変化するのではないでしょうか?やはり複数の選手が「成功した!」という事実があると、その技を多くの選手が練習メニューに組み込んでいくから、結果として、その技を競技会で見かけることが多くなるのではないかと思います。

でも、これって、これまた乱暴に解釈してみれば、「気の持ちよう・・・」ということなのでは?

「やるんだ!」「自分も挑戦するんだ!」と「思う」ことで実際にできていく・・・というか・・・

これをピアノに応用すれば上達するのでしょうか?「する!」・・・と思いますが・・・

それにしてもヴィット選手の技術点には納得できません!!!

kaz



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category: The Skaters

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技術が表現を生む 

 

ピアノ演奏ほどではないとは思いますが、フィギュアスケートでも「技術」と「表現力」というものを、どこか分離しすぎて鑑賞してしまうところがあるのでは?表現力とは、恍惚の表情で演技したり、思い入れたっぷりに滑るということ?逆に高い技術というものは、単発的に難易度の高いジャンプを成功させたりすること?

「表現をつける」とか「きちんと弾けるようになってから表現を考える」とか・・・とても違和感を感じます。本来は、技術と表現とは一体化されたもののように思えるからです。

フィギュアスケートでも、ジャンプなどの単発的なものは高度なものをこなしつつも、印象としては「ただ滑っている?」「どこか粗い印象が残ってしまう・・・」という選手はいます・・・というか、多いです。

もう20年以上も昔になりますが、カタリナ・ヴィットという選手がいました。この選手はオリンピックで2連覇したので覚えている人も多いのかと思います。ヴィット選手は、どちらかというと、技術ということよりは、「表現力豊かな選手」という印象があります。

ヴィット選手の演技の特色としては、「音楽の特色を演技に生かしきる」ということにあると個人的には思います。あとは「ただ滑っている」という部分が非常に少ない、もしくは皆無・・・

ヴィット選手の競技生活最後の世界選手権でのショート・プログラム・・・

「音楽と演技が合っている」「表現力豊か」「艶やか」「女王の風格」・・・と演技を観ると感じます。でも、たとえば他の選手が課題と課題の間の部分、つまり、つなぎの部分を「ただ滑っている」という感じになってしまうところでも、ヴィット選手は、腕や足の動きを駆使しているように思えます。結果としては、「表現力豊か」という印象になるとは思うのですが、実は「ただ滑る」ということに比べると、非常に高度な技術の結晶が、表現力というものにつながっているのではないかとも思えてきます。

「技術=表現」のプログラム、そして演技なのではないかと・・・

本来は、この二つの要素は切り離せないものなのではないかと・・・

kaz



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category: The Skaters

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泥臭い演奏? 

 

「ヴォカリーズ」の演奏では、このナージャ・サレルノ=ソネンバーグの演奏が好き。

でも、彼女の演奏は、人によって評価が分かれる。僕は大好きなんだけど・・・

ナージャの演奏を評価しない人の言い分としては、「個性的すぎる」「泥臭い」「正統的ではない」など。

個性的・・・と言われるのは、なんとなく理解できる。でも、泥臭いというのは?このような演奏が大好きな僕の感性も泥臭いのだろうか?

正統的って何だろう???

あまり演奏会直前に考えないほうがいいような気がする。でも「泥臭い」と思われる方が、「ただ弾いていますね?」と思われるよりはいい。

演奏って、「退屈だな・・・」と思われたら最後のような気がする・・・

kaz



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category: Violinists

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幼い頃の記憶を頼りに演奏すると・・・ 

 

「ある人のことを想い出します。ホセ・レスタというイタリアのピアニストで、アルゼンチンの音楽に大変貢献した人です。彼は、私が幼い頃、我が家に遊びにきました。当時の彼の演奏を聴いて、私はこの曲、エル・バイレシートという曲を覚えました。幼い頃の記憶を頼りにホセ・レスタのエル・バイレシートを弾いてみます。なので楽譜とは違うかもしれませんねぇ・・・でも、彼のお孫さんが聴いて、いいね!と言ったので、たぶん大丈夫じゃないかと・・・」 Daniel Barenboim



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category: 秘曲

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もしも耳コピができたなら 

 

正確には「耳コピ」ではなく「編曲」だと思うが・・・

ピアノ以外の曲を聴いて、猛烈に「この曲をピアノで弾きたい!」と感じることがある。このような時には、耳コピができたり、自分でピアノ用に編曲できる才能がある人を、とても羨ましく思う。

僕だって、簡単な曲なら耳コピはできる。でも、そのままピアノに移すのではなく、ピアノで弾いても素晴らしい曲として成り立つような編曲はできない。

僕が、往年のピアニストたちを尊敬するのは、この編曲の才能のある人が、とても多いからだ。現代のピアニストでも、やはり編曲や作曲のできるピアニストには憧れる。スティーヴン・ハフとか・・・

今、ピアノで弾いてみたいと感じる曲は、アルゼンチンの作曲家、ギタリストのホセ・ルイス・メルリンの「思い出の組曲」という曲。特に、「エボカシオン」という曲のメロディーに悩殺されてしまった。

音大で作曲を専攻している人って、どれくらいいるのだろう?もちろん、ピアノ科の学生よりは少ないでしょうが・・・

現役の作曲専攻の学生や、卒業生はどのような仕事をしているのだろう?ピアノを教えるのだろうか?新作を次々に発表し、それが売れて生活が成り立つという人は少ないと想像できるのだが・・・

ピアノ愛好者の中には、僕のようにショパンやリストのような定番曲だけではなく、ちょっと変わった(?)曲を好きになる人も多いはずだ。そのような人は、ピアノ以外の曲にも惹かれることが多いような気がする。

「ああ、この曲、ピアノでも弾けたらいいのにな・・・でも楽譜なんかないんだよね・・・」と思っている人は相当数存在するのではないか?

そのような人相手に、ぜひ作曲専攻の人は、新たなビジネスを発案して欲しいと思う。「あなた好みに編曲致します!」「○分いくらです」みたいに・・・

需要はあると思うのだが・・・

でも、確認作業が難しいか?楽譜を送ってもらっても、演奏者が気に入るかはわからないからだ。演奏側が「イメージと違うな」と思うこともあるだろうし。通信販売ではないのだから、何日までは返品可能です・・・とはできないだろうし。やはり難しいか・・・

ホセ・ルイス・メルリンの「思い出の組曲」

① 「エボカシオン」
② 「サンバ」
③ 「チャカレーラ」
④ 「カルナバリート」
⑤ 「エボカシオン」
⑥ 「ホローポ」

「エボカシオン」だけではなく、全曲弾きたい。

自分で編曲できる人が羨ましい。さらにピアノも上手ければ、さらに羨ましい。なので、僕はスティーヴン・ハフのようなピアニストが羨ましい・・・

映像は、メルリンの「思い出の組曲」・・・メルリン本人の演奏・・・

kaz



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category: 秘曲

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人々に届いた声 

 

今はダウンロードというものが簡単にできる時代になり、CDの売り上げも伸び悩んでいるのかもしれない。でも、CD、そして、かつてのレコードというものは、家庭で気軽に音楽を聴くことのできる環境を作ったという意味で、画期的なものなのだと思う。あまりに、我々の身近にあるものなので、そのように意識することすらないくらいだ。

残念なことだが、CDの総売り上げの中でのクラシックのCDの割合は、おそらく微々たるものなのだろうと思う。クラシックのCDの売り場の縮小は当たり前で、クラシックのCDはショップの隅の方にあるのが普通だ。

「クラシックなんて聴く人がいるんだよねぇ・・・」と、クラシック嫌いの人は言う・・・「物好きだよねぇ、あんなわけのわからないもの、よく聴く気になるよねぇ・・・」(僕の某友人談)

でも、録音というものが発明され、そして蓄音機というものでSPレコードが再生されるようになった創成期時代、主に人々に聴かれていたのは、クラシック音楽なのだという。

会場に出かけて音楽を聴くという形態から、家庭にいながら偉大な演奏家の演奏を聴くことができるようになっていった時代、そして音楽が、物凄い勢いで一般社会に普及していった時代、聴かれていたのは、クラシック・・・

「まぁ、その時代は今と違って娯楽なんて少なかったからねぇ・・・」とサークルのメンバーが言ったことがある。僕はそのようには思っていない。娯楽が少なく、人々は退屈な(?)クラシック音楽を仕方なく聴いていたとは思えない。選択の余地がなくその時代の人々がクラシックを聴いていたとも思えない。

エンリコ・カルーソーがミラノで初めて自分の歌声を録音したのが1095年。でもカルーソーの録音というものが一般に普及したのは、彼がアメリカで活躍するようになってからだ。1903年にメトで圧倒的な成功を収め、その年から亡くなる前年まで多くの録音をカルーソーは行った。

今では誰もが知っている「サンタ・ルチア」や「オー・ソレ・ミオ」などのカルーソーの故郷のナポリの歌が世界的に広まったのは、彼が録音し、そして人々が彼の歌声を聴いたからなのだ。

さらに、蓄音機で音楽を聴く・・・という今までにない習慣を当たり前のことにしたのは、カルーソーの歌声によるところが大きい。

カルーソーは、オペラ界とかクラシック界という狭い世界の中でのスターではなく、誰もが知るスターでもあったのだ。

創成期の時代、人々はカルーソーの歌を「これしかないから・・・」という思いで聴いていたのだろうか?

100年以上前の、録音、そして歌声、後世の人々は偉大なるカルーソーの歌声を、できるだけ雑音の少ない、いい状態で聴こうと、様々な試みを行い、デジタル処理などが行われるようになった。その結果、大分聴きやすくはなった。でも100年前の録音なので、遠くで歌っている・・・という状態は変わらない。それでも人々はカルーソーを聴きたかったのだ。その執念のようなものは凄いと思う。

当時の人々、そして後世の人々は、選択の幅や娯楽が限られていたからカルーソーを聴いていたのであろうか?

現在のテノールのレパートリーには、カルーソーが歌い、録音を残したからこそ、生き残っている曲も多い。この「つれない心(カタリ・カタリ)」もカルーソーのために作曲され、カルーソーが録音し、当時の人々が粗末な(?)蓄音機で聴いたからこそ現在まで生き残り、歌い継がれている。

100年前の人々がカルーソーの歌、それが雑音の彼方から聴こえてくるような歌声であったとしても、そこから何を感じとったのか、それを想像するだけで胸が熱くなってきてしまう。

そして、こうも思う。何故クラシック音楽は一部の人々が聴く、特別な音楽になってしまったのだろうと・・・

kaz



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category: The Singers

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