ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

おじさんが脚光を浴びる時 

 

普通は、ピアニストが注目されたり脚光を浴びるのは、デビューしたてのフレッシュな時期になる。コンクールで優勝して、その風貌が美青年(風?)であれば、注目される確率も高くなる。

やはり、人生を積み重ねたような「おじさん」はフレッシュさに欠けるし、人生だけではなく体幹にお肉も積み重ねていたりする。少なくても、ピチピチした感じはしない。

キューバ出身のホルヘ・ルイス・プラッツというピアニストは1970年代に、ロン=ティボーで優勝し、その時は彼もフレッシュだったので、当然注目されたのだが、キューバという社会主義国出身であったため、活動の場が限られてしまった感は否めない。西側では、ある意味「知る人ぞ知る」的なピアニストであった。

プラッツが西側に出て、マイアミに住むことになったことが、彼のキャリアの躍進につながった。マイアミで行われた彼のリサイタルが映像化され、その映像を観たデッカのプロデューサーが、おじさん(?)であるプラッツの演奏に驚嘆し、プラッツはメジャー・レーベルでのデビューを果たすことになった。そしてそれが、そのまま国際的なキャリアにつながっていった。

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「プラッツ?聞いたことのない名前だ。昔のロン=ティボーの覇者?知らないなぁ・・・」

プラッツが演奏するたび、人々は驚嘆することになった。

「なんで、こんな才能が埋もれていたんだ???」

「素晴らしいピアニストではないか?今までどこにいたんだ???」

おじさんは、再び脚光を浴びることになった。真のピアニストとして。

率直に言って、若手よりもフレッシュな演奏をする人だと思う。若手の方が、枯れたというか、考えすぎというか、狙いが解りやすいというか、フレッシュではない演奏をするように僕は思う。

おじさんが脚光を浴びて、おじさんは、とても嬉しい!

kaz



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「Always in My Heart」 

 

トマス・ティリノの演奏をもう一つ。やはりレクオーナの「オールウェイズ・イン・マイ・ハート」という曲。

このように、聴いている人の何かを動かすことのできる人がピアニストなのだと思う。

演奏会まで、あと半月・・・

kaz



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一生懸命に弾けばいいのか? 

 

演奏会が近づいてきて、やはり、なんだかとても苦しい。

僕自身は、あまり人の演奏会(プロも含め)を聴きにはいかない。とても一生懸命に弾いている姿、そして一生懸命に弾いている演奏を聴くと、どこか苦しくなるのだ。練習の成果を聴かされているような感じ?

僕の究極の目標は、聴いている人と何かを共有するということ。本当に究極・・・だな。

知人と話していて(メールでだが)、あるピアニストの話題になった。知人はゴロドニツキに師事した人(日本人ではない)なのだが、やはりジュリアード音楽院でゴロドニツキに師事したトマス・ティリノというピアニスト。

僕は、このトマス・ティリノというピアニストのことは全く知らなかった。

「えっ?知らないの?kazの好きなタイプのピアニストだと思うよ。レクオーナをライフワークにしているピアニストだよ」

「彼はCDよりも、生演奏で実力を発揮するタイプだと思う。日本では演奏したことないのかな?」

ない・・・と思う。僕が知らなかっただけかもしれないが・・・

この、トマス・ティリノのオール・レクオーナ・リサイタルの映像。場所はマイアミのようだ。

おそらく、アンコールなのだと思う。レクオーナの曲は、クラシックとポピュラー音楽との境界線にあるような音楽なのだと感じるけれど、この「魅惑のダミセーラ」もそのように感じる。

会場にいる聴衆と、演奏者、そしてレクオーナ(の魂)が一体となって、何かを共有している。会場の空気が動いているというか・・・

とてもとても憧れる・・・

僕の究極の目標・・・

一緒に歌ってくれなくてもいいけど・・・

kaz



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耳のニーズ 

 

かつてのロマンティックな時代、ピアノの黄金時代・・・

ローゼンタールやホフマンの古い古い録音を聴いて、想いを馳せるわけだけれども、我々が(というか僕が?)錯覚してしまうのは、その時代に、すべてのピアニストがローゼンタールやホフマンのような演奏を繰り広げていたであろうという根拠のない錯覚。

考えてみれば、天才というのは、どの時代でもほんの一握りで、残りの大部分の人(ピアニスト)は、天才ではない普通・・・というか凡庸な才能のピアニストだったわけです。そのような演奏は、時代と共に忘れ去られ、天才の演奏が残っていくわけです。現代聴くことのできる黄金時代のピアニストの演奏は、いわば時代の波にも耐えた厳選された演奏というわけです。

では、残りの凡庸(?)なピアニストは、どのような演奏をしていたのか?

忘れ去られた演奏は、実際には、その時代に生きていないので聴くことはできません。なので想像なのですが、あの時代の天才たちの演奏から判断するに、非常に虚飾された、作品そのものよりも、演奏者の勝手な(?)解釈による、自分本位の演奏というものが多かったのだろうと想像します。ローゼンタールやホフマン、フリードマンの亜流のような演奏・・・

人々は、そのような演奏に接し、このように感じたのではないでしょうか?

「もっと作品の本質を感じられるような、作品そのものを感じられるような演奏が聴きたい!」と。

愛好家・・・というか一般の聴衆の「耳のニーズ」というものが変化していったのではないでしょうか?「耳」というものは、新しい、新鮮な響き、演奏を求めるという側面もあるのではないかと思います。「飽きる」と言ってしまえばそれまでですが・・・

交通手段や経済の発達、そして録音や放送の発達によって、多くの人々が演奏というものを共有できる時代になり、そこにコンクールというものが加わってきます。人々の耳は「作品の本質」「作曲者の意図」というものを求め、演奏のスタイルも変化していったのではないでしょうか?

「作品に忠実な演奏」「楽譜に忠実な演奏」「演奏者よりも作品を感じさせてくれる演奏」といったものに・・・

その流れに現代はあるのかと思いますが、考えてみれば(考えてみなくても?)、現在聴くことのできる演奏というものは、天才の演奏もあれば、凡庸な演奏もある。その時代に生きている人は、両方を聴いているわけです。

作品そのものを感じさせ、人を魅了させることのできるピアニストは、やはり一握りなのではないでしょうか?いつの時代も、天才は一握り・・・

では、凡庸なピアニストが「作品に忠実」「楽譜に忠実」な演奏を繰り広げると???

今、人々の耳は、かつてのように変化を求めているような気がします。達者で立派な演奏は、それこそ沢山ある。でも、別にそのピアニストではなくても、そのような演奏は聴くことができる。

「その人だけの演奏」「個性」「その演奏者だけの持つ強烈な何か・・・」

このようなものを、人々は求め始めているのではないでしょうか?かつての人々が「作品を感じさせる演奏」を求めたように、現代の人々は「演奏者を感じさせる演奏」というものを再び心のどこかで求め始めた・・・

カツァリスがインタビューで、スティーヴン・ハフを非常に高く評価していて、とても興味深かったのを覚えています。ハフがカツァリスをどのように思っているのかは分からないのですが。同時に、カツァリスは、ベンジャミン・グローヴナーのような、非常に若い世代のピアニストも評価していて、そのことも興味深い。

ベンジャミン・グローヴナーという若いピアニストは、日本では知名度はあまり高くはないのかもしれませんが、若い世代にグローヴナーのような演奏をするピアニストが育ってきた、そして世の中に輩出されていくといった事実に、人々の「耳のニーズ」も変化してきているのかもしれない・・・などと感じます。

kaz



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category: ピアニスト

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人々の耳が求めるもの 

 

メジャーなものも含め、コンクールの威厳(?)や役割の大きさというものが、かつてよりは衰退しているように思える。例えば、ポリーニやアルゲリッチのようなピアニストがコンクールで優勝していた時代と比較すると・・・

コンクールというものが乱立して、優勝者が多すぎる状態になったから?それもあるだろうけれど、以外と聴衆は、このように感じているのではないだろうか・・・「優勝者や入賞者の演奏がつまらない」と。

最近の演奏そのものが、とてもアカデミックになりすぎているのではないかと思う。実に達者で、そして立派な演奏は多くても、人々の耳は「心惹かれるか、否か・・・」というところで演奏を判断するところがあるのではないだろうか?「楽しませてくれるかどうか・・・」という捉え方もあるだろう。

「クラシック音楽は偉大なもので、演奏は作曲者に忠実であるべきで、そして高尚なものなのです!」

クラシック音楽の演奏会やCDの売り上げが衰退しているのは、単純に今の主流の演奏が「つまらない」からなのでは?

大変に傲慢な考え方なのかもしれないけれど、僕はクラシック音楽における演奏の流れや、スタイルというものは、ピアニストやピアノ教師のような専門家ではなく、一般の音楽愛好家が導いていくものだと感じている。専門家に愛好家やアマチュアがひれ伏すのではなく、むしろ一般人の「耳」というものが、その時代の演奏というものを導く・・・

今、人々の耳は非常にロマンティックな演奏や、即興性のある演奏というものを求めているのではないだろうか?アカデミックな立派なだけの演奏ではなく、心惹かれる、歌うようなロマンティックな演奏を。

100年前に繰り広げていたであろう、かつてのような演奏を・・・

シプリアン・カツァリスはリサイタルなどでも、即興演奏をよくすることで知られている。でも、現代のクラシックの演奏会で演奏家が即興演奏を披露するということは、まだまだ「変わったことをする」という認識が人々にはあると思う。でも、ショパンやリストの時代はどうだったのだろう?ベートーヴェンやモーツァルトの時代は?

考え方によっては、現代のクラシック音楽の演奏会とか、主流の演奏というものは、長い西洋音楽の演奏の歴史というものから考えると、相当に「異端な時代」という考え方もできるのではないだろうか?

「カツァリスって変わってるよね・・・」と感じる人がいるとしたら、もしかしたら、その人の耳、感性が「変わってるよね・・・」なのかもしれない。

kaz



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category: ピアニスト

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理論物理学者の描く音楽 

 

トランスクリプションの魅力というものは、ピアノ以外の楽器の曲や声楽の曲をピアノで再現できるということよりも、かつてのピアノの黄金時代、100年前のロマンティックな時代を感じることができるということにある。少なくても僕はそのように感じている。

シプリアン・カツァリスは昔からトランスクリプションを多く演奏してきたピアニストだと思う。ピアニストとしてのカツァリス、僕にとっては「あなたしか見えない!」と熱狂するほどではないのかもしれないけれど、実に素敵なピアニストだと思う。

現代のピアニストで、「ピアノの黄金時代」というものを彷彿とさせてくれる人の一人でもある。

そのカツァリスが、好んで演奏し、CDにも録音している音楽家のトランスクリプションがある。カロル・ペンソンという人の編曲作品である。このカロル・ペンソンという人は実はピアニストではない。パリの大学で理論物理学を教えている物理学者である。

カツァリスというピアニストが演奏し、ペンソン作品が人々に聴かれるようになったわけだが、カツァリスが彼の作品を録音した際に、CDの解説に彼の経歴を載せるということをペンソンは非常に躊躇したという。

「私は物理学者。なのでアマチュアのお遊び、余興と思われるのでは?」と。

やはり、フランスでもプロとアマチュアとの境界線というものは存在するのだろうか?

「いや・・・素晴らしい作品なのですから・・・」とカツァリスが説得したのかは不明だけれど、音楽を死ぬほど愛している物理学者の作品としてペンソン作品がCDに収録され世に出ることになった。

聴いてみると、何故にカツァリスがペンソンの作品を弾きたかったのかが理解できる。カツァリスの演奏も素晴らしいけれど、ペンソンの編曲も素晴らしい・・・

kaz



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category: 秘曲

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自分にとって大切なこと・・・ 

 

電子ピアノという楽器(家電製品)は何ができるのか?

僕にとって、もう一つ重要な発想は、電子ピアノ「で」自分は何ができるのか・・・だ。

kaz

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category: 未分類

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王道レパートリーも弾いてみたいけれど・・・ 

 

以前は、僕も「王道レパートリー」を人前で弾いていた時期がありました。今は、往年のピアニストの作品、主に編曲作品を弾くことが多いです。今でも王道には惹かれます。練習会では、弾かれないことが、まずないという「ショパン」にも・・・

自分の中で変化があったのは、ローゼンタールを弾いてからでしょうか?それ以降は、「あっ、いい曲!弾いてみようかな?」というような通常の選曲方法ではなく、まずはピアニストの演奏に惹かれ、そして猛烈に、そのピアニストの世界に触れたいと感じてしまうようになり、そして聴いているだけではなく、弾いてみたくなってしまうんですよね。

往年のピアニストは、まず例外なく自作の曲やトランスクリプションを残していますので、それらの作品を弾きたくなってしまう・・・

彼らの残した作品から、彼らの演奏を感じることができるというか・・・

これはベートーヴェンやショパンなども、結局は同じなのだと思います。作品には、その人の「演奏」というものが反映されている・・・

でも、実際にはベートーヴェンやショパンの演奏を聴いて感動することは不可能で、どうしても「作品」として対面してしまうことになるんですよね。

なので、このようなギンズブルグの演奏を聴くと、ギンズブルグ作品を弾きたくなってしまう。

もちろん、王道にも復帰したいと思ってはいますが・・・

この曲は、ケンプの編曲で演奏されることが多いのですが、ギンズブルグは、珍しいバージョン、ゴットフリート・ガルストンの編曲で演奏しています。

来年は、ギンズブルグ作品を一曲弾いてみたいなぁ・・・

kaz



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category: ピアノ雑感

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なんとかなる!!ピアノも人生も!! 

 

昨日はサークルの練習会だった。実は体調があまり芳しくなく・・・

最近、仕事がハードで練習どころではない感じだった。練習会の前夜も、本当は早めに休んでおきたかったのだけれど、ほぼ徹夜状態。身体も疲れていたし、そして当日は緊張もしていたんでしょうね。さらに台風の通過での気圧の関係、おそらく、これらの条件が重なったのだと思う。

朝から耳が聞こえない・・・

もともと僕は難聴で、右耳に残った僅かな聴力だけが頼り。左側は聞こえない。でも、その日は右耳の聞こえも非常に良くない。耳に綿を詰めたような感じだ。

ピアノの音そのものは、遠くの方で僅かには聞こえるけれど、自分がどのように演奏しているか、どのように人に聴こえているか・・・という判断が自分ではできない。

なので、昨日の練習会では、自分がどのように弾いたのかは、はっきり言って自分では全くわからない。

練習会後の打ち上げでは、右耳も復活していたので、心理的な要因もあったのだと思う。

「気圧」「身体の疲労度」「緊張感」これらのものが重なる可能性は、来月の演奏会でも考えられる。演奏会前夜、自分が熟眠できるとも思えないし。

なので、練習会では、悪条件で演奏する、いい機会だと自分で捉えるようにした。自分の音が聴こえないので、日頃の電子ピアノでの練習時のタッチ感だけが頼り。本番は、スタインウェイのピアノだったけれど、想像力で補って弾くしかないのだ。「~のように聴こえているだろう・・・」という想像・・・

電子ピアノの音源をオフにして、無音で弾いているのと、ほぼ同じ感じだ。

結果は、自分では判断できない。でも、昨日、僕がそのような状態で弾いたということに気づいた人は皆無だったようだ。

「なんとかなるのでは???」そう思った。これからも、このような状態になっても、自分は人前で弾けるだろうとも感じた。

「なんとかなるんだよ!!!」

打ち上げでは、耳の状態も戻り、いつもと同じようにメンバーと話す。

やはり、師事している(していた)先生から心無い言葉を投げかけられた人の話には心が痛む。

「ピアノは子供の時から弾いていないと弾けないのよ!」

「大人から頑張っても指なんか動くようにはならないのよ!」

「電子ピアノで弾いていては無理なのよね!」

大人になって、そして仕事を持ちながらピアノを弾く・・・

子供よりは条件の悪いこともあるだろう。でも「できないのよ!」と決めつけないで欲しいものだ。大人にも可能性はある。

体力が衰えても、細胞が子供のように活性化していなくても、時間がなくても・・・

「なんとかなる!」

ピアノは、なんとかなる。人生もね!

kaz

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category: 未分類

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ピアノで歌う 

 

ギンズブルグはアレクサンドル・ゴリデンヴァイゼル門下。同じ門下のベルマンも歌曲の編曲作品などを実に美しく弾いていたけれど、どこか「超絶技巧の演奏家」というイメージが先行していたように思う。ギンズブルグも同様で、そして、たしかに超絶技巧の持ち主ではあるけれど、本来はベルマンも、このギンズブルグも「歌う」ということを非常に大切にしていた演奏家だったように思う。

ギンズブルグは、オペラのアリアなども自ら編曲していて、この人は相当、声楽が好きだったのではないだろうかと、その編曲作品、そして演奏を聴いて感じる。

ルドミル・ルジツキという、あまりメジャーな作曲家の作品ではないオペレッタ、「カサノヴァ」のワルツを実に美しく編曲し、そして演奏している。このような曲を知っていて、ピアノで弾いてみようと発想すること自体が凄いことのように僕には思える。

ギンズブルグは、「ピアノで歌う人」であったのだ・・・

kaz



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category: 秘曲

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愛好家に戻るとき 

 

今日はサークルの練習会。しかし、とても身体の調子が悪い。台風が近づいてきているので、気圧の関係なのか、このような時は、耳の調子も良くない。練習していても音が遠くで鳴っている感じだ。

「イスラメイ」とか・・・なんだか弾く元気がない。頑張らなくてはいけない。

練習会ではあるけれども、本番には違いないし、弾く時には凄く緊張してしまうので、本来は今日演奏する曲を必死で練習するべきなのだけれど、どうも弾く気が起こらず困ってしまう。やるべきことは山ほどあるんだけど・・・

全く本番には関係のない、ギンズブルグの編曲作品を遊び弾きしたりして、本番当日に自分は何をしているんだろう・・・と思う。

多少でもピアノを自分でも弾くようになると、ピアノの演奏を聴くときにも、純粋なる音楽愛好家とは異なる観点で無意識に演奏を聴いてしまうことが多くなった。「上手いよなぁ・・・」とか「どうしてこのように弾けるのだろう?」とか・・・

ピアニストの中でも、そのような「ピアノ弾き」の観点ではなく、僕に完全に音楽愛好家的観点で聴くということを思い出させてくれるピアニストは少ないながらも存在する。僕も、愛好家として「素晴らしい演奏」という概念を持ってはいるのだと思うけれど、その概念をも覆すような圧倒的なパフォーマンスをするピアニスト・・・

モリッツ・ローゼンタールや、このグリゴリー・ギンズブルグ・・・

ギンズブルグはローゼンタールと同様に、超絶技巧の持ち主と評価されることが多い。それは確かだけれども、その演奏からは、常に「歌」というものが感じられる。ピアノの奏法というものは、「いかにピアノを声楽のように歌わせるか・・・」という概念から発達してきたのかもしれない。

ローゼンタールやギンズブルグの演奏を聴くと、僕は愛好家に完全に戻ることができる。音楽を聴く喜びに浸ることができるのだ。

kaz



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category: ピアニスト

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ユーチューブの人 

 

僕が秘かに「ユーチューブの人」と勝手に呼んでいて、そして、その演奏のファンになっている人がいる。

アマチュアなのかもしれないし、もしかしたらピアノの先生なのかもしれないけれど、とても素敵な演奏をする人だと思う。

どのような経歴とか、どこに住んでいるとか、僕にとっては、あまり重要ではないような気がする。以前にも「ユーチューブの人」の演奏を貼りつけたような記憶があるけれど、この人は、「ピアノを習いたいな・・・」とか「ピアノを弾いてみたいな・・・」と思う人が思い描く、いわば理想的なピアノとの接し方というか、生活の中で、このように音楽に触れることができたらいいな・・・と思うような「ピアノのある生活、ピアノと歩む人生」というものを具現化しているように僕には思えてくる。

もしかしたら、「ユーチューブの人」は、いやいや練習しているのかもしれないけれど・・・

でも、そのように感じない演奏ではある。作品に対しての心からの共感・・・そこに惹かれる。

「ユーチューブの人」はラテン系の作品が好きなようだ。ミニョーネの「街角のワルツ」を演奏している。

街角で、ふと出逢った、心惹かれる音楽・・・ミニョーネの意図した、そのような音楽を「ユーチューブの人」は、見事に表現しているように思う。

とても素敵な人(容姿がということではなく)だと思う。

kaz



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category: 好きな曲・好きな演奏

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伝統の伝承人、真のノウハウを求めて・・・ 

 

バシキーロフ門下にはダン・タイ・ソンもいる。戦時下には防空壕に粗末なピアノを運び、僅かな時間を見つけて練習したという。ピアノを運べない時には、紙の鍵盤で練習したとも・・・

彼を導いたバシキーロフ、彼に「伝統」というものを伝承したのではないだろうか?演奏というものは、個々人によって、もちろん異なるし個性というものはあるけれども、やはり「ピアノはこのように弾くべき」「音楽はこのように捉えるべき」とでもいうような伝統というものは確かに存在する。ジロティ、パブスト~ゴリデンヴェイゼル~バシキーロフ~ダン・タイ・ソンと伝承されていった伝統のように・・・

僕は、ピアノの先生の役割は、この「伝統の伝承」ということだと思っている。ピアノを通じて、人間形成とか情操教育とか、そのようなことよりも、伝統というものを次の世代に伝えていく・・・

僕は、初歩教育(導入)において、この「伝統の伝承」という視点が著しく欠けているように思える。

「全員がピアニストになるわけではないんです!」

「そのような恵まれた才能の生徒ばかりではないんです!」

そのようなことを僕に書いてくるピアノの先生もいた。ごく一部の先生なのだろう。そう思いたい。

「楽しんで弾ければいいのでは?」「技術ではなく、心を育てるということも大事なんです!」

心を育てる・・・心を動かす・・・

それは真に偉大な音楽や、真に偉大な演奏によって可能になるものなのでは?

ピアノ教室に今日も子供たちが通ってくる。鞄の中には、それぞれの教材を入れているのであろう。それは「子供のバイエル」かもしれないし「バスティン」かもしれない。

でも、その子供たちを、このダン・タイ・ソンのようなところまで導くこと、ダン・タイ・ソンのような音楽を奏で、感じるようなところまで子供たちを導いていく力量というものは、初歩の段階から先生たちには求められるのではないだろうか?単純に「演奏力」ということではなく、あのような演奏が成り立っている、そもそもの「基礎」「伝統」というものを先生自身が身につけ、追い求める必要性がある。そして伝承する義務が。

そのような高度なことは上級になってからとか、音大に進学してからとか・・・そんなことありえないと僕は思う。それは、初めて子供がピアノのキーを押して音を出した瞬間から始まり、継続していくものではないだろうか?あまりにも、この「伝承」という肝心な部分が初歩教育から抜け落ちているし、少なくても分離してしまっている。

本来、ピアノの先生には「私は導入専門なの!」という認識があってはならないのだ。音楽は導入から続いているものだから・・・

「導入」も「初歩」も「上級」も「専門」もないのだ。ただ一つ、偉大なる「伝統」というものを伝承するという行為と義務・・・

先生自身が、その伝統というもの、素晴らしい演奏というものを成り立たせている要素というものを追い求めていなくて、どうして子どもを教えることができるのであろう?

指練習、絶対音感育成、楽典(ドリルのようなもの)、ソルフェージュ、なぜにそのようなものを子供に教えているのか、それはどのように具体的に演奏に反映させていくのか?

「それをやること」が目的ではないはずだ。指導者が目指すゴールを知らなければ、そして追い求めていなければ伝承することはできないのではないだろうか?

kaz



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category: レッスン

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バシキーロフのレッスン風景 

 

アレクセーエフやデミジェンコの先生であるバシキーロフのレッスン風景です。

生徒は、よく練習してあると思いますが、少し「ただ弾いているだけ」という感じもします。これはバシキーロフの指摘と対比して聴くからであって、いきなりこの生徒の演奏を聴いたら「上手いなぁ・・・」と感じるとは思いますが。

感じたのは、「バシキーロフ、元気!!!」ということですが、それはともかく、表現というものは「先生がつける」ものではなく「先生が引き出す」ものだ・・・ということ。

作曲者が残した作品の意図に反応させていくという感じでしょうか?これだけは逃してはいけないという要素を指摘していくというか・・・

kaz



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category: レッスン

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奏法を考えさせられるピアニスト 

 

Nikolai Demidenko Plays ChopNikolai Demidenko Plays Chop
(2007/03/12)
F. Chopin

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僕は自分の楽しみのためにピアノを弾いています。もちろん上達したいとは心のどこかでは思ってはいますが、ピアノの演奏を聴く時にも、自分が感動するか、否かというところで聴くことがほとんどです。音楽愛好家がピアノを弾いているという感じですね。まぁ、感じ・・・ではなく、そうなのですが。

日本人のピアニストの演奏を聴くこともありますが、心に響かないことが多いです。音楽愛好家的な鑑賞視点だと、ただ「面白くない演奏だな・・・抑揚がないな・・・べったりと平面的だな・・・」と感じるだけですが、多少でもピアノを弾いていると、「何故なのだろう?」と思うこともあります。

日本特有の弾き方、奏法というものが存在しているということを僕は感じます。面白いことに、日本人以外のピアニストたちの演奏を生で聴いた時に、日本人ピアニストの欠点を感じてしまいます。ディーナ・ヨッフェや、このニコライ・デミジェンコのようなピアニストを聴いた時ですね。奏法の違いというものが認識しやすいピアニストというか・・・

日本人ピアニストを聴いて感じるのは「音が伸びない」ということです。いかんせん、音がチマチマとしている。視覚的には入魂、陶酔しているのですが・・・

音を作るべき部位に神経が集中しておらず、あまりに動きが大きいためか、分散してしまっていて、聴いている側に意図が届かずという感じでしょうか?

2年程前ですが、デミジェンコを聴きました。たしか墨田トリフォニーだったかと記憶していますが、あまりお客さんが集まらず、とても気の毒だった印象があります。あのホールは、たしか1800席くらいのキャパでしたでしょうか?150人くらいしか聴きに来ていなかったのではないでしょうか?

むろん、好きな演奏家を聴けばいいのだと思いますが、奏法の違いというものを、ここまで感じさせてくれる(見せつけてくれる)ピアニストです。奏法の研究という観点でも、もっと関心が持たれてもいいピアニストだと僕はその時感じました。

kaz



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category: ピアニスト

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「イケメン・デュオ」 

 

ドミトリー・アレクセーエフの演奏を、再び聴いてみたいと思っていたのだが、なかなかその機会が巡ってこなかった。ヘンドリックスの伴奏(ヘンドリックスの歌も良かったですよ)があまりにも素晴らしかったので、ぜひ聴きたいと思っていた。ようやくその機会が巡ってきたのは、二台のピアノでの演奏会だった。ニコライ・デミジェンコとのデュオ。

当時、僕はデミジェンコというピアニストを知らなかった。アレクセーエフと同じくバシキーロフ門下のピアニスト。

この二人のデュオは凄かった。日本だと、デュオというとアルゲリッチと誰か(?)という組み合わせが、やたらと話題になるけれど、僕はあまり好きではないですかねぇ・・・演奏、破綻していないですか?

アレクセーエフとデミジェンコのデュオは、本当に素晴らしかった。

でも、皮肉なことに、このデュオを聴いて以来、僕の関心はアレクセーエフからデミジェンコに移ってしまったような気はする。デミジェンコは見かけによらず(????)、非常にデリケートというか、柔らかい音なんですよね。特にソロだとそのように感じる。

この二人のデュオ、日本で聴けないかなぁ・・・

「キャッ♥♥♥」と女性が騒ぎ立てるような「イケメン」デュオだと思うのですが・・・

kaz



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系図・・・あなたの系図は? 

 

SpiritualsSpirituals
(1993/03/19)
Barbara Hendricks

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皆さん、自分のピアノの系図を辿ったことはあるだろうか?自分の先生の、そのまた先生・・・そのようにしていって辿り着いた人は、とんでもない人になっていたりはしないだろうか?自分の先生が全く留学経験がなくても、先生の先生は留学していたりすると思う。辿り着いた人物が日本人と言うケースは少ないのではなかろうか?

僕の場合は、ジョルジュ・クルターグとテオドル・レシェティツキに辿り着く。レシェティツキはツェルニ―に習っているわけだから、僕の場合は、ベートーヴェンの系図ということになる。でも、ここまでになると、もうこれは妄想の世界に突入というか、末端は、こんなに粗雑で申し訳ありません・・・のような・・・

かつて、アメリカに住んでいた時に、バーバラ・ヘンドリックスのリサイタルを聴いた。とても素晴らしかったけれど、実は僕の目当ては歌姫ヘンドリックスではなく、伴奏者のドミトリー・アレクセーエフだった。上記のCDは黒人霊歌のCDなのだが、その伴奏のアレクセーエフが実に素晴らしいのだ。黒人霊歌の伴奏譜は、とてもシンプルな楽譜らしいのだが、このCDではアレクセーエフがアドリブで弾いている箇所がほとんどで、その部分が凄いのだ。モスクワ音楽院出身のソビエトのピアニストらしからぬ(?)自在なアドリブ・・・

CDの百倍素晴らしい演奏だったので、楽屋にサインを貰いにお邪魔した。もちろん、黒人霊歌のCDを持って。

歌姫ヘンドリックスの周囲には黒山の人だかり(というのは変か?黒髪の人種ばかりではなかったのだから)だったけれど、アレクセーエフの周囲は閑散(?)としていたので、難なくサインを貰うことができた。

「サイン?僕のですか?バーバラのではなく?」

少しだけ話もすることができた。「ピアノの学生さんですか?」「いいえ・・・○○の勉強をしに日本から留学しています」「そうですか。それは素晴らしいことですね」

ドミトリー・アレクセーエフの先生は、ドミトリー・バシキーロフ。この人の演奏も僕は好きだけれど、このバシキーロフの先生が、あのアレクサンドル・ゴリデンヴェイゼルなのだ。ピアノの先生で、このゴリデンヴェイゼルを知らないという人がいて驚いたのだが、そんなものなのだろうか?ちょっとまずいと思う・・・

ゴリデンヴェイゼルは、ロシア4大流派の中の一人。「流派」というものをどのように捉えるかということは個人によって色々とあるだろうけれど・・・

ゴリデンヴェイゼルはバシキーロフの他にはベルマンとかニコラーエワなどを育てている。あのカプースチンもゴリデンヴェイゼル門下である。なんとなく、アレクセーエフとカプースチンは、どこかリズム処理的に同じ要素を感じるのは、同じ系図ということも関係があるのかもしれない。

僕は個人的には、ニコラーエワはあまり・・・という感じではあるのだが、ベルマンもバシキーロフも大好き。そして、あのグリゴリー・ギンズブルグもゴリデンヴェイゼル門下なのだ。ギンズブルグは、もう大好きですね。アレクセーエフのピアノが好きなのも、やはり同じ「系図」ということがあるのかもしれない。この系図のピアニストが好きなのかもしれない。ゴリデンヴェイゼルの先生は、あのジロティとパブスト。ジロティの演奏は聴いたことがないのだけれど、彼の編曲ものは、とても好きだ。パブストは演奏も好きだ。

やはり系図というものは存在するのであろうか?

僕はベートーヴェンです・・・

あなたは???

kaz



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技術は進歩しているのか?「東洋の奇跡」を聴く 

 

田中希代子―夜明けのピアニスト田中希代子―夜明けのピアニスト
(2004/12)
萩谷 由喜子

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「例えば、昔の東京音楽学校時代の学生とか、その時代の毎コンなんかのレベルなんてたいしたことはなかったんだよね」と豪語したサークルのメンバーがいた。今の方が昔よりも、少なくても技術のレベルは進歩しているということなのだろう。でも、この場合で言う技術のレベルは、あくまでも凡庸な人までをも含めた平均値ということなのだと思う。僕は、本当のレベルというものは、平均値ではなく「頂点」によって決まるのではないかと感じている。

100年前のピアニストの録音などを聴いても、現在のピアニスト方がレベル的に上などとは到底思えない。技術的なものも含めてそのように感じる。

たしかに、平均的レベルというものをも含めて考えれば、昔よりも難曲を弾きこなす人は増えたということは言えると思う。昔だったら「演奏するだけで話題になった」ような曲も、皆が弾けるようになったので、もう誰も驚かないとは思う。

ピアノ演奏における平均値的レベルのアップは、フィギュアスケートのジャンプの進歩と非常に似ている。誰かが難易度の高いジャンプを公式戦で成功させると、必ず他の誰かも、そのジャンプに挑むようになっていく。つまり成功の前例があれば、それに皆が続いていく。これは単純に「技術の進歩」と解釈していいものなのだろうか?

1989年の世界選手権で初めて伊藤みどりが3回転半を成功させたときには、技術点で6点満点が出たと記憶している。このジャンプを女子選手が跳ぶということは、当時としては驚くべきことだったのだ。「これ以上の技術はありえないだろう」と誰もが思ったものだ。その2年後の1991年の世界選手権では、早くもトーニャ・ハーディングが3回転半を成功させた。前例があれば、続いて挑戦していく選手が出現して、そのことが全体的平均的な技術レベル(難易度というもの)を引き上げていく。

ピアノ演奏も、これと同じで、誰かが難曲を弾けば、必ず続く者がいるのだ。そして平均値が上がっていく。でも本当のレベルは平均値ではなく頂点で決まるのではないかと思う。そのような意味で、単純に今のピアニストの方がレベルが上などとは言えないと思う。

1950年代に、日本人として初めてメジャーな国際コンクールに次々と入賞したピアニストがいる。その時代は、おそらく「日本人(東洋人)にピアノなんて弾けるの?」という偏見が横行していた時代だと思われる。

田中 希代子氏の演奏を聴くと、この人が膠原病に患うことなく30代半ばで引退を余儀なくされることなく活動を続けていれば、おそらく日本のピアノ界も今とは異なっていたのではないか・・・そのようにも思えてくる。何かを変化させる力をも持った演奏力のように感じる。正直、ここまで弾けるピアニストが現在の日本にどれくらい存在するというのだろう?

彼女の演奏は、世界を驚かせた。「東洋の奇跡」と言われたのだ・・・

kaz




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男は頑な??? 

 

孤高のピアニスト梶原完―その閃光と謎の軌跡を追って孤高のピアニスト梶原完―その閃光と謎の軌跡を追って
(2004/09/01)
久保田 慶一

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ピアニストその人生ピアニストその人生
(2005/10/01)
園田 高弘

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幸田 延、久野 久、小倉 末子・・・と、日本のピアノの創成期に外国へ出て行ったピアニストは女性が多いような気がする。その時、男性たちは何をしていたのだろうとさえ思ってしまう。

昭和の戦後期という、もう一つのピアノの創成期に外国でピアニストとして自分の芸術を試そうとした男性ピアニスト、梶原 完と園田 高弘・・・

園田氏の当時の日記(上記の本には、その抜粋が収録されている)を読むと、とても自分に自信を持っているというか、どこか頑なな印象さえ持ってしまう。ベルリンでヘルムート・ロロフに(ピアニストとして)指導を受けた時にも、指導というよりは、アドバイスをもらうという姿勢に徹している感じで、「私はこのように思えるのだが・・・」と、教えには100パーセント納得をしないところがある。

梶原氏もウィーンでグレーテ・ヒンターホーファーの指導を受けるが、同じような印象を持ってしまう。彼の場合は、「プロフェッサー・カジワラ・・・あなたは音階からやり直さなければいけません!」と言われ、猛反発をしている。

ピアニストとして、どこか「日本を、日の丸を背負う」というような悲壮感や重みをも感じてしまう。たしかに「基礎からのやり直し」などは受け入れがたいものはあったのかもしれない。留学生ではなく、ピアニストとして活動しようと渡欧したのであろうから・・・

園田氏、梶原氏と同じように、戦後の創成期に渡欧した二人の女性ピアニスト・・・

ピアニストへの道 (もういちど読みたい)ピアニストへの道 (もういちど読みたい)
(1999/01)
室井 摩耶子

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新ピアノの日記(もういちど読みたい6)新ピアノの日記(もういちど読みたい6)
(1999/05/20)
大野 敏子、大野 亮子 他

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先の男性ピアニストたちとの違いというものを彼女たちの著作から感じるというのは、僕の思い過ごしだろうか?室井 摩耶子はヘルムート・ロロフ、そして大野 亮子はグレーテ・ヒンターホーファーに、それぞれ師事している。男性ピアニストたちに感じる「頑なさ」が彼女たちにはない。

「私は、こちらに来て、一度自分というものを無にしてみようと思った。それで無くなってしまうような自分であれば、無くなってしまってもいい」(室井 摩耶子)

このようなスタンスは、女性特有のしなやかさ、そして強さなのであろうか?

明治、大正の時代にピアノのパイオニアに女性が多かったのには、このことも関係しているのであろうか?

kaz

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category: ピアノの本

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演奏会の必需品 

 

演奏会当日、忘れ物をしないよう心がけたいです。でも、僕は「演奏会」という場で弾くのは初めてなので、当日の必需品について今から考えたりしています。

サークルの練習会では普段着にジャケットを羽織るくらい(最近はそれも省略)なので、「ただ会場に行って弾いてくる」という感覚で済んでいたところがあるのですが、来月は長丁場になりますからね。当日慌てたくないですし。

必需品① 「衣装」ベルトとか靴を忘れそうだなぁ・・・

必需品② 「手袋・カイロ」来月中旬は寒いかもしれぬ・・・

必需品③ 「昼食」新宿の伊勢丹で購入していこう。コンビニ弁当だと気持ちが高揚しない・・

必需品④ 「楽譜」暗譜です。でも家に置いてくる度胸はないです・・・

必需品⑤ 「煙草・携帯灰皿」いつもは喫煙しません。ピアノを弾く時だけ吸いたいんです。本当です・・・

必需品⑥ 「タオル地ハンカチ」これも忘れそうだなぁ・・・

必需品⑦ 「チョコレート・栄養ドリンク」前半を弾き終えてのクイック・エナジー補給。一度舞台袖に引っこみます・・・

必需品⑧ 「コーヒー」自宅で淹れて持参していきます。緊張すると飲みたくなる。煙草と共に必需品・・・

必需品⑨ 「手帳・筆記用具・名刺」仕事用の名刺を誤って持っていきそうだな・・・

携帯とか財布はもちろん持って行きます。あとは持参すると重宝するものはあるのかな?舞台経験豊富な方、そっと教えてください。

kaz

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category: ピアチェーレ

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セミナーで重要なこと 

 

ピアノの教材や指導方法のセミナーなどには、どこか冷ややかな眼差しを向けてしまう僕ですが、僕も介護関係のセミナーをしたりしています。その時には、僕も講師という身分に変身(?)するので、なんと「先生!」などと呼ばれたりします。僕もセミナーの講師という身分になることもあるんですよね。

セミナーを受講する際に、重要なことは、まずは「ノウハウ」というものは、そのままでは通用しない・・・ということを認識することです。「私の教室でも取り入れてみたいと思います♥」と意気込んでみても、自分なりのノウハウというものの蓄積がないかぎりは通用しないものです。介護の場合も、僕の実践を、そのまま受講者が実践しても無意味なのです。対象者(この場合は高齢者)が異なるし、状況も異なるし、実践者も異なるからです。

自分なりのノウハウですが、この部分は、知識や情報ということよりも、職業人としての、根本要素が鍵となります。「純な部分」と言ってもいいかもしれません。

僕は、施設での介護の経験しかありませんから、大型施設での介護についてのセミナーになります。受講者も特養の職員が多いです。

特養のような老人ホームでは、自分一人で多人数を相手に介護をしなければなりません。ひとつひとつの業務は複雑ではなくても、「仕事の優先順位」という認識を持てない介護職員は脱落していくことになります。

泣くような思いをして、排泄物にまみれながら(?)、業務はこなせるようになった介護職員は悩むのです。

「私って何?」「介護の仕事って何?」「仕事をすればするほど相手が可哀そうになってくるんだけど・・・」「円滑に仕事を回すために相手(高齢者)が犠牲になっている?これが仕事?これは作業でしょ?」

介護職員は空しくなるわけです。一度に何人も食事介助をしなければならないので、楽しく食事なんて夢の世界。餌を与える・・・の勢いで食介をする。朝の5時くらいから起床介助をしなければ間に合わないから、どんどん起こして、エプロンまでして2時間も食堂で待たせる・・・

「これが仕事?」

この現状を逃れたいためにセミナーに参加するわけです。「なにかいい方法はないのかしら?」「こんなことをやらなくても済む方法やノウハウがあるはずだわ」と。

でも残念ながら、「必殺介護法」などというものは存在しません。自分で見つけるものだからです。自分でノウハウを積み上げようとする介護職員は、あることを経験しています。非常に厳しい状況の中で、それを見つけていきます。

それは、自分の働きかけが、相手の心を動かしたという実感を得た時です。

Aさんは食思減退傾向で、看護師などからも「このままでは点滴だねぇ・・・胃瘻だねぇ・・・」などと言われています。でも純な思いのある介護職員は、ここで思うのです。「そんなのいやだ。なんとかして食べてもらいたい」と。

介護職員は、その「食べてもらいたい」「いつまでも自分で食べて欲しい」という純な思いで、いろいろと工夫します。「言葉のかけかたがいけないのでは?」「スプーンを工夫してみよう」「食堂の雰囲気がいけないのかな」とアプローチを重ねていきます。

そして介護職員は、ふと思うのです。「Aさんの好物って何だろう?」

厨房が作る決まったメニューではなく、Aさんの好物の「ちらしずし」を作ったらAさんは食べてくれるかもしれない・・・

休みの日に介護職員は「ちらしずし」を作りました。Aさんは、少しですが箸を動かしました。Aさんの目に涙が浮かびます。そして介護職員に言うのです。「ありがとう」と。

この時、介護職員にとって、作業が介護に変化しました。作業が仕事に変化しました。この経験、それは小さな出来事なのかもしれませんが、介護職員を変えた瞬間でした。

このような体験があると、介護職員は自分なりのノウハウを積み重ねようとします。さらなる体験を求めるようになるからです。このような職員は、もしかしたら、その後も絶望感を仕事に感じることもあるかもしれませんが、かならず這い上がってきます。自分の主体的なアプローチが相手を動かす可能性があることを知っているからです。その「動かす原動力」は人としての純なる思い・・・

ピアノ指導においても、指導者の「純なる思い」というものこそ相手(生徒)を動かす原動力となるのではないでしょうか?

この場合は、指導者自身が、音楽、ピアノというものに死ぬほど焦がれている、そしてどんなに状況が厳しかろうと、自分自身が演奏というものを追い求めていきたいという、熱い欲求・・・

どうにも説明できないような、突き上げるような音楽への欲求・・・

この思いを伝えたい、あなたにも知って欲しい・・・

この「純な思い」があれば、自分なりのノウハウを蓄積していくものではないでしょうか?

セミナーは参加すればいいっていうものではないんだよ・・・

kaz

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category: 未分類

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ゴージャスな詩人 

 

アール・ワイルド・・・なんとなくゴージャスな感じがする。風貌も彼の編曲も。

僕の弾く「ヴォカリーズ」も、かなり豪華というかゴージャス感の漂う編曲であるように思う。実際、ワイルドの編曲作品は、よく演奏されるように思う。

ピアニストとしてのアール・ワイルド、どうも(日本では)人気が今一つのような気がする。編曲のゴージャス感を彼の演奏に無意識に求めてしまう人が多いのかな?そうなると彼の演奏は肩すかしというか・・・

アール・ワイルドも詩人だったように思う。曲によっては、かなり濃厚な詩人・・・

往年のピアニストたちが持っていたロマンティシズムというものは、アール・ワイルドあたりのピアニストで完全に途絶えてしまったのであろうか?

がらりと話題を変えるけれど、ピアチェーレの演奏会は無料ですが、整理券が必要になります。僕のブログにリンクしてあるピアチェーレのページのメールフォームから氏名、人数をお知らせ頂ければ、整理券とチラシをPDFの形で返信致します。当日、それをプリントアウトしたものを持参してください。お問い合わせがありましたが、なぜか送信できない方がいるので、この場を借りました。

あと一か月か・・・

やはりダイエットだな!

kaz



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category: Earl Wild

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かつてはピアニストも詩人だった 

 

先日、台風が関東に襲来した日、ピアチェーレの演奏会のリハーサルだった。本番と同じ会場での練習。その時の演奏をメンバーの一人が録画していて、それを送ってくれたので、勇気を出して(?)聴いてみた。

感じたのは、演奏者視点と聴衆視点の違いということ。演奏者としては、いろいろと気になるところを何度も練習したりしていて、そしてその箇所は、本当に自分としては心配な箇所でもあるのだけれど、聴衆として客観的に映像を聴いたりすると、「そんなところはどうでもいいから、全体を考えよ!全体を!」と感じる。

本当に、聴衆としては、些細な箇所も、演奏する本人としては気になる。

本番まで、あと一か月、この「聴衆視点」を忘れてしまうと、自分だけの達成度だけで満足してしまったりする危険性もある。

「自分がどう弾けたか?」と「聴いている人はどう感じたか?」とのバランス・・・

僕は、選曲する際には、どちらかというと、「この曲が弾きたい!」という欲求よりも、その曲の作曲者に近づきたい、触れたいという思いで曲を選ぶことが多いように思う。

ミッシャ・レヴィツキの曲もそう。もちろん、曲が素敵だからレヴィツキの曲を弾くのだけれど、レヴィツキという作曲者、そしてピアニストの世界に触れたいという気持ちの方が大きい。

ミッシャ・レヴィツキ・・・

40代で亡くなってしまったし、戦時下という活動期間もあり、(日本では)ほとんど忘れられたピアニストではあるけれど、改めて数少ないレヴィツキの残された録音を聴いたりすると、この時代のピアニストは、ピアニストであり詩人であったのだと感じる。そう、かつてはピアニストはピアニストだけではなく詩人でもあった・・・

あと一か月、選曲した時の気持ちを忘れずにいたいと思う。もちろん練習もするけれど。

あとはダイエットかなぁ・・・

kaz



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category: Mischa Levitzki

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生徒たちの胸の内 

 

最近、メールフォームからメールを頂く中で、ピアノを習っている人からのメールが、とても多くなりました。電子ピアノのことを書いたあたりからです。

もちろん、電子ピアノのことを話題にしている方もいるのですが、それだけではなく、自分が習っている先生に対する不満などを綴ってくる方が増えました。中学生から音大生まで・・・

共通している思い、悩み、そして不満・・・

「先生が何も言ってくれない!」という思いです。正確には、「言ってはくれる」らしいのです。でも具体的な解決方法を言ってはくれない・・・

「そこは、もっと~のように弾けるように練習してね」

皆さん、そこで次の指示を欲しいという思いをお持ちです。

「はい。わかりました(それは自分でもわかっています?)・・・では、どうやって弾けば、もっと~のように弾けるのでしょう?」という非常に強い欲求を皆さん、感じていて、先生がそこを素通りしてしまうという不満も感じている・・・

医師の診察であれば、「診断」はあるけれども、「治療」が存在しないという状態と同じだという不満・・・

僕は、個人的には、日本の先生は、この「具体的な解決方法」「治療方法」というものを、とても苦手にしているのではないかと感じています。高名な先生方の公開レッスンなどを聴いていて、そのことは感じたことがあります。同時に、生徒の演奏に対して、非常に抽象的な指摘が多い。

「そこは、もっと淡い光が差し込んでいるような感じで弾いて・・・」

どうすれば、どのように弾けば「淡い光が差し込む」のかの具体的指摘に乏しい。

抽象的な指摘をする先生は、生徒のフレーズを型にはめるというか、自分流に動かしてしまう、いじってしまうという傾向もあるのかな・・・そのような先生の公開レッスンを聴講していて感じました。

具体的な指摘に乏しいということと、抽象的な言葉の指摘ということと、何かリンクしているのでは?

ある程度、熱心、かつ真面目な生徒であれば、自分の演奏の足りていないところ、まずいところは、なんとなくは自覚しているものではないでしょうか?でもレッスンという場で、いわば生徒が自覚しているような事を「上書き指摘」するだけで、「具体的な解決方」というものを伝授しないということであれば、生徒に不満は溜まってくるのではないでしょうか?

その不満は、先生に直接訴えることは生徒にはできない・・・

皆さん、とても具体的な解決方法を望んでいます。

kaz

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category: レッスン

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IT COULD HAPPEN TO YOU 

 

米国人の友人が、ある映画を紹介してくれた。「たぶん、日本には輸出されないだろうから」と。

「Bridegroom」という映画で、現在米国では非常に話題になっているのだそうだ。この映画は、実話で、あるゲイのカップルの悲劇を題材にしているのだそうだ。ゲイであるということで、男女間の結婚で認められている権利なども一切認められないという不条理さを訴えているという。

シェーンとトムはお互いに愛し合い、住居も共同で購入し、そして事業も共同で経営し、共に人生を歩んでいくことにした。暮らし始めて一年目、彼らは、それぞれの家族にカミングアウトをした。「結婚します。僕の愛する人です。生涯のパートナーです」と・・・

シェーンの家族は、トムを受け入れてくれた。新しい家族だと。

しかし、トムの家族は、非常に保守的で、同性愛、そして同性婚などを認めることはできなかった。トムの父親は、殴るなどの暴力をトムに行い、銃までも持ち出した。そして母親はトムにこのように言った。

「同性愛は病気なのよ!もう少し早く言ってくれれば治療できたのかもしれないのに・・・」

幻滅し、そして傷ついたトムは、家族に理解してもらうことを諦めた。

二人が共に暮らし始めてから六年後、悲劇は訪れる。トムが事故で亡くなってしまうのだ。

哀しみに暮れるシェーン、途方に暮れるシェーン・・・

そんなシェーンに、トムの両親はトムの銀行口座の開示を要求し、トムの遺体を自分たちの住むインディアナにシェーンの支払いで送るように求めた。トムが亡くなって24時間も経たないというのに・・・

トムの両親は、シェーンとトムの住居からトムの遺品を持ち出した・・・

シェーンが、トムの葬儀に出席することさえ許さなかった。

「来るなら来てみろ!銃を用意しておくからな!」

トムの死因の詳細を病院に訊ねても、「家族以外の者には教えられません!」・・・・

シェーンは、一人、誰にも見られないように、夜中にトムの墓を訪れることしかできなかった・・・

「僕たちは家族だったんだ!愛し合っていたんだ!なのにどうして???」

どんなに愛しあっていたとしても、法律上は男女の結婚のような保護も権利もない。赤の他人という扱いを受けてしまうのだ。

シェーンは、その不条理さ、辛さをビデオに綴った。救われない辛さと絶望感を・・・

そのビデオが、ある映画監督の目に留まり、映画化が決定されたのだという。

遠い外国での一部の特殊な人たちのこと、自分には関係のないこと・・・

そうだろうか?

「IT COULD HAPPEN TO YOU」・・・「あなたにも起こるかもしれない」

人間は、誰にでも差別をしてしまう、許してしまう弱い部分があるのかもしれない。自分では気づかないだけで・・・

「同じ人間なのに・・・な・・・」

この動画は、シェーンが撮ったビデオ・・・

僕は多くの人に観てもらいたいと思った・・・

kaz



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一体化された技術と表現 

 

バレエで僕の最も好きな作品は「ドン・キホーテ」です。少し恥ずかしいかも・・・

これは、ピアノだったら、2番目に好きな曲が「英雄ポロネーズ」で最も好きな曲が「ラ・カンパネラ」です・・・と言っているのと同じような気がするからです。まぁ、いいか・・・

「ドン・キホーテ」はスペインが舞台なので、とても華やかな感じがして、そこが好きなんですよねぇ・・・

キトリ役には、僕の大好きな32回転のグラン・フェッテもありますし・・・

キトリを踊っているのは、スヴェトラーナ・ザハロワです。ザハロワも好きですねぇ・・・

バレエを観ていて感じるのは、技術と表現というものを分離して考えるということ自体がナンセンスだということ。ピアノ演奏では批評なんかでありますね。「技術は相当なものだが、深みに欠ける」のような・・・

深みに欠けるように聴こえたり、表現力不足に聴こえるということは、すなわち技術の欠陥があるからなのでは?

なぜか音楽の演奏では、技術と表現というものを分けすぎるような気がしています。弾き手も聴き手も、習う側も教える側も。

ザハロワ、この映像は日本での舞台です。当然、この「ドン・キホーテ」は観に行きました。

生のザハロワは、映像よりも100倍素晴らしいです。ギリアン・マーフィーもそうですが・・・

ザハロワは、生で観ると、体重のない人に感じるんですよね。32回転のグラン・フェッテも見事だと思います。手を腰に当ててのドゥーブルなんて相当難しいのではないでしょうか?

kaz



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解釈 

 

僕はバレエを鑑賞するのも好きです。といってもバレエの知識は皆無です。基本的には、古典中の古典・・・のような作品が好きです。

昔、ABT(アメリカン・バレエ・シアター)の会員だった時には、結構劇場に通いつめました。色々な作品を見ましたが、やはり「白鳥の湖」は好きな作品です。2番目に好きな作品でしょうか。僕は、メリハリのある踊りが好きみたいで、「白鳥の湖」だったらオデットよりはオディールの方が好きだったりします。つまり、白鳥よりは黒鳥の方が好き。

ABTのプリンシパルの中でも、ジリアン・マーフィーは、人気、実力ともに抜き出ていたように思います。僕は、グラン・フェッテ・フェチのようなところがあって、黒鳥のグラン・パ・ド・ドゥの32回のグラン・フェッテ、ジリアン・マーフィーは、トリプルを入れたりして、観ていて非常に興奮したものです。

さて、白鳥の湖ですが、王子がオデットに愛を誓い、オデットは人間の姿に戻れるはずだったのですが、悪魔、ロッドバルトの娘、オディールに愛を誓ってしまいます。

ここで、二つの解釈が生まれます。まずは、王子、ジークフリートは、オデットとオディールを間違えてしまったという解釈ですね。通常はオデットもオディールも同じ人が踊りますので、そのような解釈も成り立つと思います。でも、この解釈は、ちょっと普通すぎるというか、面白くないというか・・・

人違いをしたあと、嘆き悲しむオデットと王子が躍る場面では、取り巻きの群舞の白鳥たちの、王子への冷ややかな視線は、「なんてドジなの!」「確認くらいしなさいよねっ!」と言っているようにも見えます。

もう一つの解釈は、王子が人違いではなく、完全にオディールの魔力というか、魅力に参ってしまい、オデットへの愛の誓いなどコロッと頭の中から消えてしまったという解釈です。基本的には、僕はこの解釈で「白鳥の湖」を観るのが好きです。特に、オディール役のダンサーが圧倒的な踊りを披露してくれた時には、自然とオディールに夢中バージョンとして観てしまいます。ジリアン・マーフィーがオディールを踊った時には、いつもこの解釈で僕は観ていました。この解釈ですと、王子というか、人間の不誠実さというものが、より強調されるような気もします。後にオデットと嘆きの踊りを踊る時には、群舞の白鳥たちは、「もはや何も語る資格なし!」のような冷めた感じで王子に接しているように感じるし、オデットも、ただ嘆き悲しんでいるというよりは、「しょせん、男なんて、そんなものよね・・・」のような悟りきっているような感じすらしてきます。

ジリアン・マーフィー・・・とても人気がありましたね。とても目立たない(?)役ですが、悪魔、ロットバルトを踊っているダンサーも非常にアメリカでは人気のあったダンサーです。マルセロ・ゴメスというブラジル人のダンサーで、彼が配役に入ると、「キャッ♥♥♥・・・今日はゴメスの日だわ!!!」と会場が黄色い歓声に包まれたものです。彼がロットバルトを踊る日の王子役は、とても踊りにくかったのではないでしょうか?

なぜ、いきなりバレエのことを話題にしたのか・・・それは自分でも分かりません。

kaz



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道徳ピアノ・快楽ピアノ 

 

西洋音楽は、日本古来からあったものではない。もともとは輸入品であったのだ。かつて、気軽に録音や演奏会というものに接することのできなかった時代、西洋音楽そのものを聴いたことはなくても文学などから音楽に想いを馳せ、憧れを募らせるという時代も、かつては存在していたらしい。

戦前生まれの日本のピアニストの文章や日記を読んだりすると、音楽やピアノに対して、非常に「ストイック」というか「道徳的」と感じることがある。たとえば、身を清め、ピアノに一礼してから練習するとか、ピアノのレッスンのために修学旅行を諦めたとか。

厳しい修練を耐えた者だけが、崇高なる音楽の美に触れることができる・・・

一般的に、クラシック音楽を敬遠する人は、この「道徳的」な匂いが苦手なのかもしれない。

「クラシックって崇高すぎてわからない・・・」「襟を正して聴くなんて面倒・・・」

ピアノ学習者・・・学習?

ピアノを習うということは、どこか道徳的な面と快楽的な面とが混沌としているような気がする。練習しなければ上達はしないけれど、「感動」がなくても練習を重ね、目の前の教材をこなしていくことは可能だ。でも、本来は、道徳的な積み重ねが「快楽」に辿り着くのではなく、快楽というものが「道徳」を耐え忍ぶことを可能にするのではないだろうか?

幼少の頃から修練を積んで、苦しみさえも経験した人、ピアニストやピアノの先生・・・

このような人たちからすると、アマチュアや音楽愛好家という人たちは「快楽を追い求めている気楽な人種」に見えてしまうのだろうか?

音楽を聴いて、心を揺さぶられて・・・という、どこか快楽的な体験からピアノに向かうとい行為もあるのではないだろうか?

本来は、ピアノを演奏するとか、ピアノを練習するという行為は、そのようなものだったのではないだろうか?

「道徳」を積み重ね、その結果、悟ったように音楽の「快楽」に目覚めるのではなく、「快楽」(魂が揺れるほどの)というものが、「道徳」というものをも人に課してしまうほどの魅力があるのではないだろうか?

kaz

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category: ピアノ雑感

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高校生からのメール 

 

はじめまして。C子といいます。現在は高校2年生です。去年までピアノを習っていました。レベルは、そんなに高くはないです。ショパンのワルツとかベートーヴェンの「悲愴」とかは弾きました。

私は、電子ピアノで練習していました。最初は何も思わなかったのですが、曲がソナタとかインヴェンションとかになって、ショパンのワルツ(10番です)も弾くようになってから、ふと「先生が何も言ってくれないな」と感じるようになりました。もちろん、レッスンでは注意はしてくれるんです。「そこが弾けてないわね」みたいな注意ですが。でも、一応止まらないで曲が弾けたらマルになってしまって、次の曲になるんです。

思い切って、「ピアニストのように素敵に弾けるようになるにはどうしたらいいんでしょう?」と先生に質問してみたんです。先生の答えは「あら、あなたは電子ピアノで練習しているんでしょ?表現力は電子ピアノでは無理でしょ?」というものでした。

私は、その時「電子ピアノで練習しているせいなんだ!ごめんなさい・・・」と思いました。先生に対して、申し訳ないと思ってしまったんです。先生に迷惑をかけていると。

電子ピアノでは、曲を綺麗にとか、美しくとかなんて弾けないんだ。それでも先生は我慢して教えてくれていたんだ・・・そのように思いました。

家はアパートでピアノなんて置けないし、お金持ちじゃないので、ピアノなんて無理だし、でも電子ピアノでは、もう進歩はないんだなと感じて、ピアノは辞めてしまいました。

ピアノは好きなんです。一人で好きに弾いたりしていましたが、kazさんのブログを読んで、もしかしたら電子ピアノでも、綺麗にとか、素敵にとかということを教えてくれる先生もいるのかもしれないと感じました。

でも、やっぱり電子ピアノで練習する生徒なんて先生に失礼なんでしょうか?自分なりに一生懸命だったんですが・・・

電子ピアノでも教えてくれる先生は大勢いると思うのですが、でも電子ピアノでも表現力とか、そのようなことまで教えてくれる先生と、そうではない先生は、どのように見分ければいいのでしょうか?


原文ではありませんが、このような内容のメールでした。僕には、C子さんに回答する資格はありません。ピアノの先生ではありませんから。でも、C子さんは申し訳ないなどと感じる必要はなかったのかとは思います。

このようなメール(電子ピアノということに限らず)が最近多いです。僕自身の子供時代を照らし合わせてみても、先生の何気ない言葉に傷つく生徒は現在でも多いのではないかと感じます。いや、もしかしたら、そのような先生は本当に一部の先生なのでしょう。でも・・・

このような時に、僕の胸は痛むんだな・・・

なので、ピアノの先生に対して厳しいことを書いてしまうんだな・・・

書いて後悔するんだけどね・・・

でも、胸は痛む・・・

kaz

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category: ピアノ雑感

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ブラジルの魂 

 

アルトゥール・モレイラ=リマ・・・

ブラジルのピアニストだけれど、一度は生で聴いてみたいピアニストでもある。

日本に来ることはあるのだろうか?あったとしても、サントリー・ホールを満員にして・・・なんてことにはならないだろうとも思う。

もっと多くの人に知ってもらいたいピアニストだ。

この人は、ショパン・コンクールで第2位になっている。コンクールの結果などというものはピアニストを聴くうえでは関係のないことなのかもしれないけれど・・・

僕にとっては、このピアニストはショパンよりも「ブラジルの魂」「南米のサウダージ」という位置づけのピアニスト。

kaz



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category: 好きな曲・好きな演奏

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