ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

変貌 

 

バカリッセの曲を使用した、クワン選手の96年のショート・プログラムです。

プログラムをスパイラルから開始するという発想が大胆だと思います。そして、スパイラルとバカリッセの曲が実に合っているような気がします。

後半のモンティ・ケリーの曲でプログラムを盛り上げて・・・

バカリッセとケリーの曲、本当に上手くつなげていますねぇ・・・

でも、やはりクワン選手の変貌に驚きますね。演技直前の挑むような眼とか、そのようなものは前シーズンのクワン選手には見られなかったものだと思います。

kaz




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フィギュアスケートと音楽 

 

ミシェル・クワンの変貌に驚いたのは、実はフリーでの「サロメ」ではありませんでした。ショート・プログラムでの演技でした。当然ながらフリーよりも先にショートの演技が行われるのですから、変身後のクワン選手を初めて観たのがショートであったというだけなのですが・・・

フィギュアスケート競技と音楽とは密接な関係にあり、選曲の成否というものが成績、少なくても演技の印象を左右してしまうこともあると僕は思います。その割に、選曲が大雑把というか、「なにもこの曲で滑らなくても・・・」と感じさせてしまうような残念な音楽が使用されてしまうこともあります。

そのような意味でも、96年以降のクワン選手は、選曲にも凝っているような気がします。有名なクラシック作品やクラシック以外の曲の使用のシーズンもありますが、彼女がプログラムに使用するクラシック作品は、なかなかの「珍曲」というか「秘曲」のような作品が選ばれている印象があります。

マスネのバレエ組曲「エロディアード」とかウィリアム・オルウィンのハープ協奏曲とか・・・

(僕のような?)クラシックオタクでないと、まずは知らないような曲を選曲しています。

96年、変貌後のショートでは、サルバドール・バカリッセの作品をクワン選手は使用しています。

バカリッセ・・・知っていましたか?

バカリッセの「ギターのための小協奏曲 Op.72」の第2楽章をクワン選手は選曲しています。

ショート・プログラムでの後半は、モンティ・ケリーの「フェスタ・フラメンカ」という曲に変わり、このケリーの曲はクワン選手以外にも使用する選手はいます。でも、地味な(?)バカリッセという作曲家の作品を使用して演技をしたのはクワン選手ぐらいではないでしょうか?

とてもメロディーの綺麗な曲で、何故有名にならないのかと不思議に思うくらいですが、欧米では「メジャー」とまではいかなくても、日本での知名度よりは高く認識されているようです。

それにしても、クワン選手は、この曲を知っていたのでしょうか?当時中学生だったはずですが?

その可能性もあると思いますが、周囲の誰かが、バカリッセ作品を知っていたのでしょう。コーチ?それとも振付師のローリー・ニコル?

誰なのかは分かりませんが、とても音楽に詳しい人が周囲にいたことは間違いないようです。

サルバドール・バカリッセの「ギターのための小協奏曲」・・・いい曲ですよ!

kaz




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category: 秘曲

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才能の伸ばし方 その2 

 

95年シーズンと96年シーズンとの間の半年間、クワン選手に何があったのか?コーチのフランク・キャロルは、一体どのような指導を彼女に行ったのか・・・

クワン選手は、身長が伸びたのだと思います。自然で、伸び伸びとした演技から、大人の演技に変身する、いいタイミングであったのかもしれません。振付もローリー・ニコルを迎えて、彼女にしかできないプログラムを作り出しています。クワン選手が「スケーター」から「表現者」へと急激に成長した表面的な理由は、この二つなのかと個人的には思えるのですが、でも「タイミング」とか「振付」ということだけでは測れない、何かが行われたような気がしてきます。

95年の演技では、曲も別にサン=サーンスの、あの曲ではなくても、そして衣装も、あの衣装ではなくても、クワン選手らしさが出ていた可能性を感じさせますが、96年の世界選手権での演技では、曲は、R.シュトラウスの「サロメ」でなくてはならなかったし、衣装も、あの衣装でなくてはならなかった・・・そのように感じさせます。

一番大きな変化は、クワン選手の表情と眼力が変わったこと・・・僕はそのように感じます。クワン選手の内面を、コーチを中心とした「クワン・チーム」が改造した・・・そのような印象さえ与えます。

伸びやかさや、例えば、ジャンプが成功した時に思わず笑みがこぼれてしまうような面は、その半年間で消え去っています。その代わりに、ジャンプやスピンなどの要素は「自分の表現の一部」というものに昇華しているように感じます。この部分がクワン選手の表現者としての素晴らしさとして語られるようになっていきます。

もはや、この「サロメ」は15歳の演技とは思えないようなものを感じさせます。中学3年生らしくはありません。妖艶ささえ感じさせますから・・・

要素を完璧にこなす・・・そこからの成長は「作品として要素を手段として表現しつくす」というものに変わったことのような気がします。

クワン選手にしかできないスケート演技、表現、それは95年~96年のオフの間にあった「何か」が生み出したものなのかもしれません。

これが96年の世界選手権でのクワン選手の「サロメ」です。もちろん、この年に初優勝しています。

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才能の伸ばし方 その1 

 

久しぶりにフィギュア・スケートに関して書こうと思います。

僕がミシェル・クワン選手の演技を初めて観たのは、1994年の世界選手権でした。この年のワールドは幕張で開催され、実際に会場でクワン選手の演技を観ました。クワン選手は初出場で、たしか13歳だったと思います。第8位になりました。その時は、「凄い子が出てきたなぁ・・・」そう思いました。

ジャンプも安定していて、演技も表情豊かでした。でも13歳は13歳・・・そのようにも感じました。大変に可愛らしく、そして、あどけなく、やはり子供の演技という感じもしました。

翌年の世界選手権では、クワン選手は第4位になっています。14歳の時ですね。大躍進です。安定さは増して、高難度のフリップやルッツなどのジャンプも鮮やかに決まっていました。

見た目の、あどけなさと安定性・・・このギャップがクワン選手の強みだと、その時に感じました。僕なりの印象ですが・・・

でも、間違いなく「将来の希望の星」という感じがしましたし、ジャンプなどの技術の安定性と、自然で伸びやかな表現が魅力だったと記憶しています。

でも、14歳は14歳・・・中学2年生ですからね、まだ大人の演技ではありませんでしたが、とても自然な演技ではありました。

「私・・・スケートが大好きなの!滑るのが大好きなの!」

クワン選手の演技は、そのように語っているかのようでもありました。

もし、クワン選手が、ここで止まっていたら、「ミス・パーフェクト」としてスケート史に残る名選手として人々の記憶には残らなかったかもしれません。

一般的に、普通は成長カーブというものは、なだらかに上がっていくのだと思うのですが、子供の場合は、ある時に急に成長することがあるのではないかと思います。年齢を重ねた、カーブを下がるだけの僕には羨ましいことですが・・・

クワン選手の場合は、95年のシーズンが終わり、96年のシーズンが始まった時には、別人のように成長していました。あどけなさの残る、伸び伸びと演技していた少女は姿を消し、あの「ミシェル・クワン」が誕生していました。僕は、この半年、クワン選手に何があったのか、そしてコーチのフランク・キャロルは、何を、どのように彼女に指導したのか、大変興味があります。

これが、伸びやかな14歳の時の演技・・・

別人になってからの15歳の時の演技は次回にでも・・・

kaz




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category: The Skaters

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ハイフェッツ症候群 

 

天才と言われる演奏家と凡庸な演奏家との違い、天才は、始めから自分の目指すべきものが、はっきりと明確化されていて、そこに向かって進むだけ。凡庸な演奏家は、目指すべきものが明確ではなく、ひたすら天才の向かっている「様」や現象だけを真似ようとする・・・

ヤッシャ・ハイフェッツは3歳からヴァイオリンを習い始め、3年後にはメンデルゾーンのコンチェルトを弾いてデビューしている。これが早熟なのかは、僕はヴァイオリンを弾いたことがないので判断はできないけれど・・・

ハイフェッツは「ギフテッド」と呼ばれる、いわゆる英才児であったらしい。研究の対象にもなるような天才児であったと・・・

アウアーに師事し、12歳でニキシュに招かれてベルリン・フィルと共演している。その頃には「神童・ハイフェッツ」の名は世界に知れ渡っていた。

ロシア革命から逃れるためにアメリカに渡り、16歳の時にカーネギー・ホールでデビューしている。

この演奏は、その頃のハイフェッツの演奏。日本流に言えば、高校生の演奏ということになる。

驚くべきことに、この頃には、後年のハイフェッツ独特の「歌い回し」「技法」のようなものが、すでに完成されていて、「ハイフェッツ節」というものが存在している。

ハイフェッツは病的なほどの「完璧主義」であったらしい。ヴァイオリンはもちろんのこと、生活や趣味にまで完璧を求めたと・・・

「才能」と「精進」というものの一致、これがハイフェッツの演奏なのかもしれない。

「アメリカに逃れて・・・」とサラッと書いているけれど、考えてみればハイフェッツは16歳で祖国を捨てなければならなかったということでもある。この重さというものは当時の移住組の音楽家が背負ったものなのだと思う。

「こんな演奏をされては我々は楽器を叩き壊さなければならない・・・」

13歳のハイフェッツの演奏を聴いたクライスラーの言葉。ハイフェッツの演奏は、当時のヴァイオリニストたちには脅威でもあり、そのあまりの完璧さにヴァイオリニストたちのモチベーションさえ奪ってしまったといわれる。これを「ハイフェッツ症候群」と呼ぶらしい・・・

それにしても、これは高校生の演奏とは思えない・・・

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category: Violinists

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教材としてのバッハ、音楽としてのバッハ 

 

インヴェンションを教材として与えられた時、その時に心から作品に共感して弾くことのできる生徒は幸せだと思う。もしかしたら以外と「バッハっていいわぁ・・・」と感じながらインヴェンションやシンフォニアを弾く子供、生徒は多いのかもしれないけれど、でもバッハは、ショパンなどの「憧れ度満載」の作曲家の作品とは少し異なり、どうしても「教材」として先生から与えられることになることが多いような気がする。

「バッハを弾くことは大切なことなのです!」

「うーん、でも難しいし、なんだか意味不明だし・・・同じようなお経のような曲を沢山弾かなければいけないのねぇ・・・三声なんて私・・・無理だわぁ・・・15曲もぉ???」

バッハの作品、教材としての出逢いと、心からの感動・・・ギャップを感じてしまうことも多いのではないだろうか?

義務感で弾かされるバッハなんて最悪のような気もする。

「生徒が心から共感できる作品を弾くべき!」「その子供が好きな曲を弾くべき!」

そうなのかもしれない・・・

でもどうなのだろう?

その生徒は、ある意味「先生から弾けと言われたから・・・」という感じで弾いていたとしても、後年、その生徒が成長してバッハの音楽と「真の出逢い」をする可能性はある。それは「ピアノ」という狭い範囲での作品ではないかもしれない。宗教的な作品かもしれないし、ヴァイオリンの作品かもしれない・・・

もしかしたら、ピアノなんて辞めてしまってから、ヨーロッパ旅行の際に教会で聴くバッハに衝撃を受けるかもしれない・・・

「バッハって・・・こんなにも素晴らしい作曲家だったのね・・・」

その時、その人が昔、バッハをきちんと教えられていたら、インヴェンション、シンフォニア、平均律などを、みっちりと先生から教わっていたとしたら・・・

それは好きな曲だけを弾いてきた生徒にはない「財産」なのかもしれない・・・

バッハは教材として出逢う時と、心からの感動の時との時間差のある作曲家なのかもしれない・・・

「自分でもバッハを紡いでみたい・・・」そのように生徒が後年思った時に、「財産」があるのか、ないのか・・・

与えらえたからと、義務感で弾く、弾かせる・・・

反対に、生徒が興味を示さないからと、逃げてしまう・・・ピアノは楽しいものであるべきだからと・・・そして生徒の弾きたい曲だけを中心に弾かせていく・・・

どちらもマズイよねぇ・・・

「ではどうしたらいいの?」

そこを考えるのがピアノの先生の役目。僕はそう思う。ただ「音のありか」だけを教えることが先生の役目ではないはずだ。ピアノの先生の役割は大きいのではないだろうか?

将来、自分の生徒が後悔をしない、させない・・・これはピアノの先生の「義務」だと僕は思う。

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category: ピアノ雑感

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お見合いと運命の赤い糸 

 

「どうしたらkazさんのように、色々な曲を知ることができるのですか?」「もっと曲を知りたいと思うのですが、何から聴いたらいいのか・・・」

僕は、それほど「曲知り」ではありません。少なくても偏りはあると思います。

声楽>ヴァイオリン・チェロ>ピアノ>その他の楽器>オーケストラ>クラシック以外・・・という感じで聴いているでしょうか?

頂くメールの中で、「私は聴くことには一切興味はありません!」という方も以外と多く、そのような方は、ピアノを弾く、練習をするという行為に喜びを感じるのでしょうか?ちょっと理解できませんが・・・

ピアノを弾いている、習っている、教えている・・・だからピアノしか聴かない、興味がない・・・これは残念ですよねぇ。曲や作曲者、楽器との新たな出逢いは、お見合いみたいなもの。一度や二度の出逢いで「この楽器はなんだかな・・・」とか「この演奏者は嫌い」と断定せずに、運命の赤い糸のようなものを感じるまで、何回かお見合いをしてみるのがいいのかなと僕は思います。

個人的には金管楽器に、ある種の距離感を感じていました。トランペットはドクシツェル、ホルンはデニス・ブレインとの出逢いが子供時代にあったので、この二つの金管楽器の演奏はよく聴きます。

でも例えば、サクソフォン・・・

「サックス?馴染みがないなぁ・・・まぁ、知らなくてもいいか・・・」

でもお見合いをしていれば「!!!」という演奏に出逢うこともあります。

数年前に、このクインテンス・サクソフォン五重奏団を知りました。彼らの演奏を知った時、それは、お見合いをしていて良かったなと感じた一瞬でもありました。

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category: 好きな曲・好きな演奏

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バッハ恐怖症 

 

「教則本呪縛」と生徒が感じてしまう作曲家の筆頭がバッハなのではないだろうか?サークル仲間である大人の再開者も多くの人が(ほとんどの人が)、「昔はバッハが嫌いだった」「死にそうに退屈だった」と言う。大人になり、それなりに成長(?)すれば「バッハもいいわねぇ」と思えてくるらしいのだが、子供時代にインヴェンションやシンフォニアを苦しみながら弾いていたという再開者が実に多い。

ハノンやチェルニーも退屈だけれど、子供なりに「指の訓練のために必要なのね!」という自覚があるし(実際に練習するのかは別だが)、古典派も慣れ親しんでいるので入りやすい。ロマン派は憧れだし・・・

でもバッハは・・・

「偉大な音楽なのです!」「素晴らしい音楽なのです!」「バッハは音楽の父なのです!」

そうなのかもしれないけれど・・・

でも退屈・・・意味不明・・・弾きにくい・・・お経みたい・・・(これは実際にサークル仲間がかつてバッハに抱いていた印象)

バッハ、特に最初にバッハに出会う「インヴェンション時代」は、学習者にとって、そしてピアノ道にとって最大の難関であるのかもしれない。

音楽愛好家、素人の立場から考えると、ピアノのレッスンや練習、基本的なピアノに対する考えなどの、教わる側、教える側の「偏り」のようなものが顕著に出てしまうのがバッハなのではないかと考える。

本来、ピアノを弾くという行為には「弾いてみたい!」という音楽的な感動があるのが前提。でも幼少のころから、あまりにも「読む・・・弾く・・・読む・・・弾く」ということを繰り返してきて「聴く・・・感動・・・聴く・・・感動」の部分、最も大切な部分が、いささか(かなり?)おろそかになっているため、バッハの作品が壁として立ちはだかってしまう・・・

「そろそろバッハを弾かせなきゃ・・・」

その生徒はバッハ作品から音楽的感動を体験しているだろうか?バッハの作品を「聴く」ということを体験しているだろうか?

それまでに、あまりにも「読む・・・弾く」という行為だけが「ピアノを習う・ピアノを教える」ということになっているのだとしたら、その「偏り」「歪」がバッハ恐怖症のような形で出てくるのではないか?

「そろそろバッハを・・・」その時自分に、あるいは生徒に問いかけてもいいのかもしれない。

自分の弾く曲しか知らない、ピアノ曲しか、それも狭い範囲でしか聴かない、オペラなんて聴いたことがない、他の楽器の作品なんて興味ない・・・

「これでいいの?」と。生徒は「弾く」と「聴く」のバランスが取れていますかと。

学習者がバッハに出会う時は、それまでの「音楽的な体験」を振り返るべき時なのかもしれない・・・

バッハ・・・こんなにも生き生きとしているのに・・・

kaz




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category: ピアノ雑感

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このブログの本来の目的 

 

僕は、ある団体の代表をしています。「ピアチェーレ」というピアノ好きなメンバーが集まった団体(5名ですが・・・)です。

ピアチェーレは第1回演奏会を今年の11月16日(土)に開催します。

本来、このブログを僕が起ち上げたのも、このピアチェーレの演奏会の宣伝のためというのが主な理由でした。本来の目的を果たさずに、好き勝手なことを書き散らかしていますが・・・

少しは、このブログの本来の目的であるピアチェーレの演奏会について書きたいと思います。

我々はプロの演奏家ではありませんから、入場料というものは頂きません。入場無料の演奏会です。ただし、会場の定員(70名)以上のお客様を受け入れるわけにはいきませんので、この演奏会は「要入場券」となります。チケットをお持ちでないと会場には入れません。

チケット入手方法ですが、この僕のブログにもリンクしてある「ピアチェーレ・ホームページ」のメールフォーム(このブログのメールフォームではありません)からお名前、必要な枚数などをメールして頂く形となります。折り返し、ピアチェーレの方から、メールでチケットのPDFを返信いたします。それを各自プリントアウトして当日持参して頂くようになります。

「面倒だな!」

僕もそう感じますが、1名でも定員オーバーが許されませんので、このような形式にしました。

チケット発売(売るのか?)というか、メールの受付は9月1日からとなります。完全先着順となります。

「せっかくの演奏会・・・あまりにガラガラでもなぁ・・・」ということで、少しは宣伝・告知ができればと、このブログを起ち上げ、「ブログ村」というランキングにも参加したわけです。

メンバー紹介、曲目、演奏会場などは、リンクしてあるピアチェーレのホームページをご覧ください。(丸投げ?)

ピアチェーレ代表   kaz


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昔ピアノを辞めた本当の理由 

 

子供の数が減少していくこれからの時代、ピアノ教室運営は厳しいものとなっていくことが予想されます。もう厳しい状態なのかもしれませんが・・・

なので、「生徒が辞めない」ということが重要視されてくるのだと思います。

僕は、あるピアノのサークルに所属しているのですが、メンバーはピアノの再開組が多いです。かなり弾ける方も多いです。そのような方でさえ昔ピアノを習っていた時には、ピアノは面白くなかったと言う人が実に多いです。でも、時間的には(体力的にも?)困難さが増した大人になってからもピアノを弾いているわけですから、皆ピアノは好きなのです。

正確には「ピアノが面白くなかった」ではなく「ピアノのレッスンが面白くなかった」という表現の方が近いのだと思います。

ショパンのバラードなどを流麗に弾く再開組の方も、昔習っていた頃は、そのような曲を弾いていたわけではなく、チェルニーの40番あたりでピアノを辞めている方が多いです。

チェルニー30番や40番、そしてハノンとバッハ、さらに曲・・・と、このようなパターンでレッスンを受けていた方がピアノを辞めている・・・

中には、先生との相性とか、本当に時間的に無理で・・・という理由で辞めてしまった場合もあるのでしょうが、多くの場合は、ハノン・エチュード・バッハ・曲という「教則本呪縛」に耐えられず、「延々とこの状態が続くのか?」という絶望感(?)からピアノのレッスンを辞めてしまったパターンが実に再開組には多いような気がします。

「生徒が辞めない・・・」ということを重視するのならば、「自称・挫折組」と感じている、大人のピアノ再開者の「なぜ昔、ピアノを辞めたのか?」という理由を探ってみるのも一案かもしれません。

パターンがあります。まずは、この「教則本呪縛」ですね。なぜ「呪縛」と感じてしまうのか?

「なぜ自分はこの本(曲)を弾いているのだろう?」という明確な理由のないまま、自覚のないまま弾いていた(与えられていた)からなのではないでしょうか?茨道を通らなければ花園に到達できないのだとしたら、茨道の大切さを説くと共に、花園の素晴らしさをも教える側は示す必要があるのではないでしょうか?

目的地のない旅は耐えられない・・・

もう一つパターンがあります。「教則本呪縛」を感じるレベルになると、生徒も、それなりに弾いてみたいという曲があるのが普通です。大抵は憧れの曲なので、その時に練習するべきレベルよりは難しい曲であることが多い。その時に多くの再開者は、先生から憧れの曲を弾くことを拒絶されています。

先生と生徒との「心の対話不足」「説明不足」からくる不幸を僕は感じます。「まだ無理・・・」ということであれば、生徒に認識させないと。ただ「無理よ」というだけでは生徒は「教則本呪縛」という感覚を深めるだけのような気がします。

「教則本呪縛」と「憧れ拒絶」というパターンが重なり、「ピアノって面白くない・・・」と感じてしまい辞めてしまった大人の再開者は実に多い。

時代は変わった・・・今は教材も研究が進んでいるし、指導方法の研究もセミナーなるものが盛んなので、「教則本呪縛」なんて過去のもの・・・

そうでしょうか?

もう一つのパターンは、皆さん、辞める理由を先生には正直には話していないということです。僕もそうでした。理由としては「部活」「進学」ということを理由にすることが多いです。でも本当は「ピアノのレッスン(あなたのレッスン?)はもう嫌!」という本当の理由がそこにはあります。

音楽は素晴らしいのに、なぜに茨道は険しいのでしょうね?

茨道に耐えられないのは生徒の忍耐不足だけではなく、もしかしたら先生と生徒との対話不足も原因だとしたら?花園の素晴らしさを提示できる力量が教える側に不足しているからなのだとしたら?

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1日が一生・・・そう考えれば、その日を大事にできる! 

 

「一日を一生・・・そう考えれば、その日を大切にできる・・・」荒木とよひさ氏の言葉です。

分かってはいますが、そのように感じながら生きていくのは難しい・・・

この「追伸」という曲も荒木氏の私的な曲の一つで、この曲は荒木氏ご自身が歌っています。

なんというか、「死と隣り合わせの人生」を送ってきた人の歌という感じがしますねぇ・・・

「命は天の意のまま・・・もう年だと考えず今が一番若いと思えば底知れぬ元気が湧いてくる・・・」荒木とよひさ




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ネガティブな時に聴く最も暗い曲・・・ 

 

自分事ですが、ここのところネガティブな気持ちでした。体調が最悪で原因不明の痛みも感じたりしていて、検査結果が出るまでは「もしかしたら・・・また・・・」という気持ちを消し去ることができませんでした。幸い、心配することもないみたいなので、一応安心しましたが・・・

病気を患っている者にとって、最大の武器は「死と隣り合わせ」という人生を送れること・・・

でも・・・辛いときもありますねぇ・・・

最近、ネガティブな時に思っていたのが作詞家・作曲家の荒木とよひさ氏のこと。日頃は歌謡曲なんて聴かないのですが・・・

荒木氏はテレサ・テンへの作詞提供で有名ですが、この人が作詞・作曲家としてデビューしたのは、「四季の歌」がヒットしたから。「春を愛する人は♪」・・・

芹洋子の清純な歌声でヒットしたこの曲、実は荒木氏のネガティブな、底状態の時に作った曲で、氏が19歳の時、複雑骨折をして長期入院、寝たきりから松葉杖で歩けるようになるまでの2年半の入院の際に作った曲でもあり、最初は看護師の口コミでこの曲は広がっていったという・・・

骨折の手術の際に、細菌が入り、慢性骨髄炎を発症・・・

現在でも2か月に一度は検査をして、抗生物質で抑える必要があるといいます。

「これは死ぬまで持って行く病気なんですよねぇ・・・」

作詞をする際には、映画のシナリオのように人物とシチュエーションを設定し、微妙な計算をするという荒木氏ですが、極めて私的な「手紙」という曲は、「死と隣り合わせの人生」を送ってきた荒木氏の心情がそのままストレートに表現されているような気がします。

最初はレコード化などは考えていなかったそうですが、配偶者でもある歌手・神野美伽に詞を提供する形でレコード化されました。

とにかく暗い曲なんですよねぇ・・・

神野美伽も、荒木とよひさの妻として、この曲を歌うのは辛かったのではないでしょうか・・・

でも、ネガティブな時は僕もこのような気持ちになりますねぇ・・・

「作詞の際の僕の信条は、とにかく自分の心、自分の人生に詫びること・・・」荒木とよひさ




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もし子供の内側を信じていたなら・・・ 

 

メニューインの、日本流に言えば、小学生の時の演奏。

とても子供の表現とは思えないような・・・

でも、子供でも心の内側には、燃えるような熱い表現を秘めているのかも・・・

それを表出できたからこそメニューインは「神童」と呼ばれたのだとは思う。

もし、すべての大人が子供にも表現する能力が秘められていると信じることができたら・・・

「子供らしく・・・」とか「その年齢にふさわしい表現・・・」とか「コンクールで受かりやすい・・・」とか・・・そのようなものを排除して子供の内側を見つめられたら・・・

これまでに何人のメニューインが誕生していただろう?

そして何人の子供の芽が大人によって摘み取られてしまったのだろう?

すべての大人が一定方向を皆で向いてしまうことを止めたら・・・

我も我もと、一つのものに群がることを止めたら・・・

この子供時代のメニューインの演奏を聴きながら、ふと、そのようなことを思う。

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生徒のフレーズをいじらないで・・・ 

 

アメリカにいた時に、多くの公開レッスンを聴きました。日本でも多くの日本人の先生による公開レッスンを聴きました。大まかな日米比較ですが、日本の先生は、具体的な奏法や、なぜ生徒が、そのような表現にとどまっているかの根本的原因というものを指導するのが苦手なのかなぁ・・・そのように感じました。

日米といっても、アメリカの音楽院はロシア人の先生が多いような気がしましたし、僕が聴いたレッスンもロシア人教師のレッスンが多かったので、単純に日米の比較とは言えないのかもしれませんが・・・

アメリカ(ロシア?)でのレッスンでは、生徒がどのような曲を用意してきたとしても、奏法のような根本的なものに進む傾向があるように感じました。「あなたのショパンですが、私は~があるといいと思います」・・・ここで、歌う際の具体的な指の動きや腕の動きなど、かなり具体的な、メカニカルな指導になっていく・・・

日本でのレッスンでは、「その曲をどのように弾くか?」という傾向が強く、具体的、かつメカニカルなものに進むことは少ないように感じます。僕の印象では、生徒のフレーズを先生がいじってしまう傾向があるような気がします。

「ここは、このように歌うといいと思う」「そこはこのように盛り上げて・・・」「そこの表現はこのような感じで・・・」

生徒のフレーズをいじってしまう。ここが最も大きな違いなのかなと感じました。

でも、それだと、その先生の生徒の演奏が、先生の表面的な演奏、というか表現のコピーになってしまう危険性があるのではないでしょうか?

また、「そこはこのように歌ってぇぇぇ」「このように盛り上げてぇぇぇ」のような指導では、生徒の内からの、本当の音楽的欲求を殺してしまうというか、自主性や自立性をも押さえこんでしまうことにならないでしょうか?

具体的、かつメカニカルな問題点の解決や指導よりも、表面的なフレーズを整えるような指導の方が、やりやすいのかもしれませんし、根本的にメカニカルな事を先生自身が経験してこなかった、先生自身が指導されてこなかったということが、日本の場合は背景にあるのかもしれません。

また、日本ではコンクールというものが盛んですから、ますます表面的なフレーズ導きに走ってしまう・・・

どうも、そのように感じてきてしまいます。

そのように指導された子供、されてきた大人は、どうも画一的な演奏というか、内面からの本当に表現したいものといった、聴き手側が最も欲しいものに欠ける演奏をすることが多いように個人的には感じます。

根本的なことよりも、表面的な(?)フレーズ処理を指摘するほうが簡単なのだと思います。一番耳に入りやすい部分だと思いますので。でも、このフレーズ処理は、もっても「真に内からのもの」なのか「先生にこのように表現してと言われたから」のものなのか、聴き手側からしても判断しやすい部分でもあります。

聴き手は、演奏者自身の課題達成率を聴きたいわけではないし、ましてや、演奏者の先生の表現を聴きたいわけではないのです。その演奏者自身にしかできない、「本当の内からのもの」・・・そのようなものを感じたいと思うのではないでしょうか?

個人的には、このような「内から演奏」に憧れますねぇ・・・

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豊かな表現力って何? 

 

表現力豊かな演奏・・・目指したいですねぇ。でも、楽譜に忠実というか、作曲者の意図に忠実ということも大切。

楽譜に忠実だけれど、どこか無味乾燥な演奏・・・ありがちですねぇ・・・

豊かな表現力というものと、楽譜に忠実・・・ここをどのように両立させたらいいのだろう?

僕の長年の課題であり、疑問点でもあります。

楽譜というものは、いうなれば「塗り絵」みたいなもので、色がついていない。そこに色を塗っていくのが演奏者の役割で、音のパレットが豊富な人ほど表現力豊かな演奏になる。そして、肝心の絵の具の種類、これは「音楽的センス」のようなもので、才能という漠然としたもので、表現力豊かな演奏か否かが決まってしまう・・・

「いかにも楽譜を音にしています・・・のようにしか弾けないのよねぇ・・・これってセンスの問題なのかしら?私は音楽的なセンスとか才能がないのね。仕方がないんだわ・・・」

このような考え方を今までしていましたが・・・

でもどうなのだろう?

本来は、作曲者の残した作品、つまり楽譜というものは、もともと多彩な色合いを持っているもので、塗り絵の下書きようのものではないのでは?絵の具で塗っていくというイメージではなく、その多彩な色合いの楽譜に「反応」する能力、ここで表現力というものが決まる・・・そのようなイメージなのではないかと・・・

表現力とは、色を塗っていくということではなく、隠された色合いに反応できる能力、これではないかと・・・

この考え方だったら、表現力というものと、楽譜に忠実ということが両立できるような気がします。

ナイジェル・ケネディの演奏を聴きながら、ふと、そのようなことを感じました。

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芸術は「芸」と「術」なのだ! 

 

クラシック嫌いの人は、クラシックの演奏会での(演奏者と聴衆との)「対話力」の無さに呆れる。なのでクラシックは退屈と。退屈なんだけれど、クラシック音楽は偉大で崇高なものとされているので、それを退屈と感じてしまうクラシック嫌いは、「クラシックは難しくて・・・」「どうもクラシックは理解できなくて・・・」などと言う。

でも、演奏者が緊張した面持ちで登場し、何やら(?)弾いて、聴き手は、まぁ、拍手をする。そして演奏者は(そそくさと?)無表情で退場する・・・

「うーん、やはりクラシックは難しい・・・自分は理解できない・・・そのような高尚なものは合わないんだわぁ・・・」

もしかして、演奏者側に責任があるのかもしれない。演奏者は、自分がミスなく、正しく、崩壊せずに演奏できることだけを望みながら演奏しているのかもしれない・・・

「崩壊してしまいましたぁ・・・」「途中で暗譜がぁぁぁ・・・」「痛恨のミス。そこで動揺してしまい・・・」

ブログなどでよく目にする文章ではあります。さすがにプロの方は、そのような文章は書きませんが・・・

そうですよねぇ・・・気持ちはわかります。

でも、これって全部「自分のこと」ですよね?聴き手がどのように感じたか・・・という視点での感想ではないですよね?

「自分が本番でいかに弾けたか、あるいは弾けなかったか・・・」のみに留まってしまっている。

クラシック音楽の演奏は、この部分、「芸」と「術」の術の部分を演奏者は考えすぎてしまいがちなのでは?そして「自分のこと」ばかりを考えてしまいがちになる・・・

「どうもクラシックは・・・」と言う人が指摘する「対話力の無さ」というものは、この演奏者の「自分の出来だけ・・・」を考えすぎるということと何か関係があるのかも・・・

僕、篠崎さん・・・好きなんですよね。

ここまで「ハジケル」必要はないけれど、芸術は「芸」と「術」なんだから、もっと「芸」を楽しんでもいいのではないかな?聴き手がそのように感じられる演奏というものがあってもいいのではないかな?

明後日は、そこを目指す!

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イメージ先行レッスン 

 

音大生Cさん、バッハのフーガのレッスン・・・

「テーマの弾き方はいいわ。でもバッハなんだからもっと全体的な印象としては宗教的というか哲学的な音が欲しいわね」

メールを頂いた音大生、Cさんが実際に先生から指摘された言葉です。Cさんは、「哲学的な音、宗教的な音とは、どんな音なんだろう?」と指摘を受けた時に感じたそうです。でもイメージとしては何となく要求されていることは分かる。ロマン派のように弾いてはいけないのだな・・・バロック的に弾くのだな・・・と。

Cさんは本当は質問したかったそうです。先生は「ハイ・・・次の曲を弾いて・・・」とバッハの指導はそこで終わってしまって質問はできなかったけれど、「哲学的な音で弾くにはどうすればいいんですか?」「宗教的な音って何ですか?」と先生に訊いてみたかった・・・

そして「先生・・・哲学的な音で弾いて頂けませんか?」と心の中では思ったのだそうです。

でも、訊けませんよねぇ・・・普通は・・・

この「イメージ先行」というのが、ピアノのレッスンでは曲者というか、主流というか・・・

子供でも「そこはもっと歌って~」とか「もっと元気よく兵隊さんが行進をする感じで・・・」と言われれば、なんとなくイメージはわいてくるので、なんとなくそのように弾く・・・

なんとなく・・・なんとなく・・・なんとなく・・・

「そこはクレッシェンドなんだから、もっと盛り上げてぇぇぇ・・・」

では実際に「盛り上げるぅぅぅ」ために、具体的には、どのような奏法、留意点が必要となるのか・・・クレッシェンドをする、聴いている人に「盛り上がり」を伝えるためには具体的にはどうすればいいのか?

なんとなく・・・なんとなく・・・なんとなく・・・

なぜピアノのレッスンではイメージ、「こんな感じで弾きましょう」の先に進まないのか?どうすれば「そんな感じ」になるのかの具体的な指導が少ないのか?ここが疑問です。

ヴァイオリンという楽器、僕が羨ましいなと思うのは、「表現」と「具体的な奏法・技術」というものがピアノよりも一体化されているような気がするからです。

「クレッシェンドして盛り上げましょう!」という指導には、具体的な盛り上げ方、弓や腕をどうするのか・・・というような具体的なものが何かしら必要となってくる・・・

もちろん、すべてのヴァイオリンのレッスンでそのような指導がされているのかは分かりませんが、でもピアノのレッスンよりは具体性があるレッスンが繰り広げられているような気はします。

哲学的なバッハ・・・具体的にはどのようにすれば「哲学的な音楽」として聴いている人に伝わるのでしょう?指はどうすればいいのでしょう?腕は?力はどのように抜けば、あるいは入れればいいのでしょう?ペダルはどうすればいいのでしょう?

kaz




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独学エリート音大生 

 

ピアノの先生からのメールが多い、このブログですが、現役(?)の音大生からもメールを頂くことがあります。有名音大、例えば、東京○術大学とか桐○学園大学の学生からのメールもあります。

その中で、共通した不満や悩みを皆さんが感じているような気がしました。

「あなたのピアノの音は伸びないのよね。それだとホールでは響かないわ・・・」

音大の先生から、このような指摘を受けたとします。音大受験時代から、いや、子供時代から、先生から指摘があったら自分なりに改善しようと、直そうと頑張ってきた。だからこそ難関を突破し、有名音大に合格したわけだし、自分の足りない部分、弱点を意識し、「自分ってダメだわぁ・・・」と感じつつピアノを頑張ってきた部分もある・・・

でも、ふと感じてしまう。「先生から具体的な指摘がないなぁ・・・」と。

昔から、「音が伸びないわね」とか「音が固いわね」のような指摘は多く受けてきたのですが、でも「指摘」だけで、そこから先の「具体的改善方法」を伝授してもらった記憶がない・・・

このような悩みを持つエリート音大生の中には、日本音楽コンクールで2位・・・のような経歴をお持ちの方もいらっしゃいます。ある意味、驚きです。そのような方も具体的な改善方法を示されないレッスンを受けている・・・

多くの音大生が「もしかして私って独学???」という不満をお持ちのようなのです。

先生の役目の一つとして「欠点や弱い部分の指摘」があるとは思うのですが、本来は「その欠点は具体的にどのようにしたら改善されるのか?」という部分も先生の重要な役目なのではないかと僕は感じます。

もしかしたら日本のピアノの先生は、「具体的な改善方法」というものを伝えることが苦手なのかもしれません。主に子供を対象にした街のピアノ教室では「光が差し込んでいるような感じで弾いてぇ・・・」とか「そこはもっと哀しげに歌ってぇ・・・」のような抽象的な言葉が飛び交い、有名音大では「音が伸びないわ・・・」と指摘はあるものの、ではいったいどのようにしたらホールの隅々にまで響き渡る音が出せるのかの具体的な指導がない・・・

その具体的な部分、どのようにしたら・・・の部分は生徒・学生に丸投げだとしたら、せっかくレッスンを受けていても「私って独学と変わらない?これでは独学なのでは?」と感じてしまう生徒や学生がいたとしても不思議ではないような気がします。

kaz


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生涯現役 

 

今日、8月21日は歌手、菅原洋一の誕生日です。彼は81歳になります。

若い人は菅原洋一・・・知らないのかもしれませんねぇ・・・

81歳・・・現役で今も歌っています。

子供の頃から歌は好きで、歌うと大人が褒めてくれるのが嬉しかったといいます。でも彼は薬剤師になりたかったみたいですね。身体が弱く、学校も休みがちで、薬剤師になることはあきらめたといいます。

音楽との衝撃的な出逢いは、中学生の時。彼が辛かった頃。親類から「お前の母親は本当の母親ではないんだよ・・・」と知らされた時、頭の中が真っ白になったそうです。そんな時に彼はタンゴという音楽に出逢うのです。

「ヴァイオリンはとても哀しく、バンドネオンはとても切なく、リズムは心臓の鼓動のようだった・・・」

内気で病弱な少年の心に音楽が入り込んだ時でした。

音楽大学(国立音大)ではクラシックの声楽を学びますが、タンゴの勉強も続けていたそうです。卒業後はタンゴの楽団の専属歌手として歌っていました。

「もっと広い活動をしたいと思うようになった。安定を求めて歌手になったわけではないのだから・・・」

クラブなどで歌う生活になり、レコードも出しますが売れません。菅原洋一は32歳になっていました。ラストチャンスのつもりで発売した「知りたくないの」という曲が、ジワジワと売れ始め、最終的には全国的なヒットにつながっていきます。

今年、81歳・・・現役で歌っています。

「身体も声帯も年齢を重ねれば劣ってくる。でも70歳なら70歳の・・・80歳なら80歳の歌があると思う。どう歌えば皆さんに認めてもらえるか・・・今の歌い方はこれでいいのか?・・・常に考えながら歌っています」




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ピアノより難しいもの・・・ 

 

友人が誕生日にハンディカムをプレゼントしてくれた。

自分の演奏を録画する必要性も感じるし、他の方のように自分の演奏をブログに貼りつけたいという願望もある。ユーチューブで・・・というのは敷居が高すぎるような気がするので、ブログにだけ公開しようと思う。

解説書を読みながら、録画はできた。まぁ、ボタンを押すだけなので、これは僕にでもできる。でも、どうやってパソコンに取り込むのだろう?

「簡単よ!」「誰でもできるわよ!」と皆言うけれど、とても難しい。解説書を読んでも理解できないですねぇ・・・

なんで皆できるんだろう?

絶対にピアノを弾くことよりも難しいと思う。

自分の演奏を公開するのは、まだまだ先のことになりそうだ。

kaz


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先生の「レッスン」という時間での演奏力 

 

小学生の頃、往年の巨匠たちのレコードを貪るように聴いて、自分勝手に音を出していたあの頃・・・

あの頃に、今の自分の音楽の原点、そのようなものがあると仮定すればの話だが、その根本的な、そして音楽的な原点のようなものが培われたのだと思う。

僕の演奏に、何か人と異なる要素があるとすれば、小学生の時に聴いた演奏、そしてその演奏から触発されて自分で勝手に弾いていた、その時の経験、感動によるところが大きい。

僕は、この小学生時代に多くの古い録音を聴いたことを、知ることができたことを、とても幸せに思う。

でも、自分から当時の先生に、その種の感動を求めなかったことを、とても後悔している。

往年の巨匠たちには感謝しているけれど、実際に自分が習っていた先生のレッスンという場、時間にそのような「ある感動的瞬間」が訪れなかったことを、とても残念に思うし、自分から求めなかったことを死ぬほど後悔している。

当時の先生たちのレベルが全般的に低かったのかもしれない、僕が住んでいた地域が特別にレベルが低かったのかもしれない・・・

でも、30年後にピアノを再開して、多くの子供の演奏を聴き、そして実際に先生たちと接触し感じたことは、「昔も今も変わらないな・・・」ということ。心から音楽を愛して、弾くことが楽しい・・・そのようなものを感じる子供の演奏は実に少ない。子供の演奏力そのものは、30年前と比較すると落ちているような印象さえ与える・・・

コンペティションでは達者な子供が多いけれど、自分の内なるもの、それを感じさせる演奏が実に少ない。何のために弾いているのだろう?コンクールのため?よく分からない・・・

子供の頃は、弾く・・・ということ、ただそれだけで大変なのかもしれないけれど、本当の音楽的感動、そのようなものからくる本物の演奏の素晴らしさを「レッスン」という場・時間で先生から子供に伝えて欲しいと願う。

先生の奏でる、本物の音楽、それはレッスンでの一瞬の時であっても、子供の一生を左右するような大きな影響力を持つのではないかと思う。

その「一瞬の美」「一瞬の本物」で子供は開眼する可能性がある。

僕は、このスターンのレッスンでのような「特別な瞬間」を、小学生時代に先生から授けてほしかった。

自分から求めなかったことも後悔している・・・

kaz




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「今泣いて、後で弾け!」 

 

「Cry now. Play later.」・・・

「今泣いて、後で弾け!」・・・

ヴァイオリン教師、イワン・ガラミアンの有名な言葉です。ガラミアンはとても厳しい先生であったことで有名です。あのパールマンでさえ、レッスンで完璧に弾かなければ、ガラミアンの眼が怒りでギラギラしてくるのが分かったそうです。

ガラミアン・クラスの生徒は、いわゆる初歩の生徒ではなく、世界から集まった秀才たちの集まりであったのですが、ガラミアンは、とにかく基礎の習得に厳しく、基礎の徹底を完璧に行いました。「今泣いて、後で弾け!」は基礎の大切さを説いた言葉でもあるようです。プロ級の生徒でも一からのやり直しをさせ、開放弦でのボーイングの練習などを半年も行ったそうです。

この「厳しさ」というものは、現在では流行らないようです。

無意味なスパルタ教育や、教師の威厳を示すための表面的な厳しさは困りものですが、ヴァイオリンだけではなく、ピアノも基礎というものは重要なのではないかと感じます。ここで間違えると、不幸なのは生徒なのではないでしょうか?

最近は「生徒さん」という言葉だけではなく、さらに「~さん」という言葉の使用がエスカレートしてきているような印象を持ちます。

「保護者さん」「幼児さん」「中学生さん」「5歳児さん」・・・

「今弾いて、後で泣く・・・」にならなければいのですが・・・

ガラミアンの厳しい教えに耐えたパールマンの演奏・・・

「今泣いて、後で弾け!」・・・パールマンは実践してきたように思えます。

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「少しは練習しなさいっ!」と言うよりも・・・ 

 

誕生日に友人がCDをプレゼントしてくれました。僕の友人は全員がクラシック音楽嫌いを自負する奴らばかりで、その友人も例外ではありません。

「クラシックを聴く奴って、ネクラでオタクっぽいんだよねぇ・・・」

11月の演奏会に誘っても、「それだけは勘弁してくれぇ!」・・・

CDをプレゼントしてくれた友人は、かつてヴンダーリヒの歌う「詩人の恋」で号泣した奴です。

「クラシック・・・好きなのでは?」

「いや・・・クラシックは嫌いだけれど、この歌手は凄いと思う」

「それがクラシックが好きということなのでは?」

「いや・・・俺はクラシックなんて好きじゃない」

なんとも意味不明な奴ではあります。ヴンダーリヒのCDも収集しているようだし、他にいい歌手はいないかなどと僕に聞くくらいなのだから、僕は彼のことはクラシック好きなのだと思っています。その時に彼に教えた歌手が、ヘルマン・プライ・・・

ヴンダーリヒ好きならプライも気に入るのではないかと・・・

そのプライの歌う「ウィーン歌曲集」のCDを彼はプレゼントしてくれました。彼には言えないのですが、僕はそのCDは当然持っていました。

そのCDの中でも彼のお気に入りは、ズィーツィンスキーの「ウィーン、我が夢の街」という曲。プライの甘美な歌声がいいのだそうで・・・

「ズィーツィンスキーってお役人だったんだって・・・日本では役人がこんな曲を作るなんて考えられないよねぇ!」

なぜ(自称?)クラシック音楽嫌いの友人のことを長々と書いたのかというと、ピアノを習っている子供の保護者の方の悩み、そして不満は「なんで練習しないんだろう???」というものが、頂いたメールから判断する限りでは多い。そして「自分は(クラシック)音楽には全く疎くて、練習しなさいとしか言えないけれど・・・」と、自分では積極的にクラシック音楽に親しんでいるとはいえない方が多い・・・

「なんで練習したくなるようなレッスンをしないんだ?」「いつまでも上手にならないな・・・」

なんとなく練習しない原因を、そしてその怒り(?)を先生に(直接は言わないけれども)向けてしまう保護者の方が多いような気がします。

でも、先生にしてみれば、1週間で30分しか自分は生徒とは関わらない。ほとんどの時間は家で練習に関わるところの保護者ではないのか?・・・と思っているのかもしれません。

「少しは練習させろよな!」と。

子供は子供で、「少しはピアノの練習をしなさいっ!」と何度も言われると、「じゃあ、自分が練習すればぁ?」みたいな?

保護者の方も積極的にクラシック音楽を聴けばいいのに・・・

50回「練習は???」と言われるよりも、親が静かにクラシック音楽を聴いて、時には涙を浮かべる・・・なんていう光景の方が何倍も子供にはインパクトがあるのではないでしょうか?

ピアノを習っている子供だったら、「なに泣いてんの?バカじゃないの?」なんて思わないのでは?

僕の友人でさえヘルマン・プライを聴いているのです。誰でもクラシック好きになれるのではないでしょうか?

kaz




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未来予想図 

 

50年後のピアノ界予想・・・

コンクールというものは衰退していくのではないだろうか?ラン・ランもユジャ・ワンもコンクール経験はあるけれど、現在のような活躍は、コンクールをきっかけにして得たものではない。このようなピアニストが増えるのではないだろうか?

逆に、世に出ることができそうもない人が、最後のチャンスとしてコンクールに頼るというか、そのような感じになっていくのでは?

もう一つは、編曲作品やパラフレーズ作品が頻繁に演奏されるようになっていく。既存の曲を演奏するだけではなく、演奏者自身が編曲するということが、当たり前になっていく・・・

リサイタルで演奏される曲も変化していくのではないだろうか・・・

演奏そのものも、即興性のある演奏が持てはやされるようになっていく・・・

現在は、まだまだザッハリヒな演奏が評価されるけれど・・・

でも、これって、100年前のピアノ黄金期、往年に巨匠たちが活躍していた時代に逆戻りしているような?

人々は、ロマンティックなものを求めていくのではないだろうか?

50年後まで待たなくても、現在でもそのような方向に向かっているのかもしれない。

カレン・コルニエンコというピアニストは今まで全く知らなかったけれど、実に素晴らしい編曲をする。このようなピアニストが増えていくのではないだろうか?

kaz




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保護者の本音・・・ 

 

通常はピアノの先生からのメールが多い、このブログなのですが、ここ数日は保護者の方からのメールがとても多いです。コンクールに関しての文章に反応されて・・・ということだと思うのですが・・・

保護者の方々からのメールで、最も多いのが「不公平感の訴え」という内容のメールです。「A子ちゃんが入賞しましたぁ・・・」という先生のブログ、満面の笑みと賞状と共に写真に写る先生とA子ちゃん・・・

「B子も頑張ったのに・・・」「うちのC子のことなんか全く眼中にないのねっ・・・」

多くの保護者の方が誤解しているのですが、僕はコンクール反対・・・というわけではありません。興味がないだけで、「反対」というわけではない・・・

教室の大将になって鼻が高くなるよりも、世間に出て、全体の中の本当の自分のレベルというものを知る必要も生徒にとっては必要な場合もあるでしょうし、コンクールをきっかけに頑張る生徒も多いのでしょうし・・・

ただ、コンクールにはリスクもある。出場させるのならば、先生はもちろん、保護者の方もリスクを承知でいないと。そして、落ちた場合の生徒の精神的な救済まで考えてコンクールには参加しないと・・・

個人的には、ピアノの先生方の「入賞しましたぁ・・・」という内容の文章は、かなり落選した生徒への配慮には欠けていると思います。相当数の保護者の方が先生のこの反応に不公平感や不信感を抱いている印象を受けます。

でも、それもリスクのうちに入っているべきだったのでは?

先生のブログや教室のホームページは保護者の方も読んでいたはずです。そして過去にも先生の「入賞の喜び」といった内容がアップされていたはずです。分かっていたはずです。入賞しなかった場合はどうなるかを・・・

沢山の(先生に対しての)不満メールを頂きますが、それは、本来は僕などにぶつけるべきものではなく、先生にぶつけるべきものだと思います。でも・・・直接は言えないでしょうねぇ・・・

なので「聞いて下さいよ・・・」と僕にメールを送ってくる・・・

先生方の思い、保護者の方々の思い、そして生徒の思い、ここが「チグハグ」「バラバラ」という印象・・・

それぞれの立場で「本心を言えない・言わない」というのが普通なのだと思います。なので、先生も生徒や保護者の「表の顔」だけで判断するのは危険かもしれません。「落選しても、B子ちゃんはコンクール以後も頑張っているわ」「お母さんもいい経験になりましたと言ってたし・・・」

でも、それは「表の顔」かもしれません・・・

コンクールは「目的」ではなく「手段」・・・

では、何の「手段」であるべきなのか・・・

kaz


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優れた演奏と偉大な演奏の違い 

 

ベレゾフスキーの「懐かしいウィーン」・・・悪くはないです。上手いです。でも往年の巨匠の演奏を聴きなれてしまうと、どこかベレゾフスキーのような演奏が、「事務処理的」な演奏にも感じてきてしまいます。比較さえしなければ、そしてベレゾフスキーの演奏しか知らなければ、それはそれで立派な演奏だと感じるのかもしれませんが・・・

ベレゾフスキーの演奏が「優秀な演奏」だとすれば、ハイフェッツの演奏は「偉大な演奏」だと個人的には思います。このあたりは趣味の問題も絡んできますので、何とも言えないのかもしれませんが。

でも、往年の巨匠の演奏を聴いて、音楽の素晴らしさに開眼した・・・という、「開眼メール」を沢山頂くと、僕が考える「偉大な演奏」というものに感動する人も多いのではないかと想像します。なんだか嬉しいです。

「優秀」と「偉大」な演奏とで、何が、どこが違うのか?

もうこれは、聴いて感じるしかないのでは?・・・そう思います。

「ユーモレスク」も「懐かしいウィーン」も原曲はピアノ曲です。でも、現在では圧倒的にヴァイオリンで演奏される機会が多い曲になってしまいました。それは、クライスラーやハイフェッツの編曲と、そして何よりも演奏が素晴らしかったということの証明のような気がします。

「開眼メール」は読むと嬉しくなるのですが、中には「そのような古いスタイルの演奏は絶対に聴いてはいけない」とピアノの先生から言われて戸惑っているという人のメールも以外と多く、この場合は、なんだか哀しくなりますね。聴いてはいけない理由としては、試験やコンクールで、そのような演奏の影響が感じられると、点数が出ないからだと・・・

僕自身は、そのような閉鎖的しがらみとは無関係のところにいるアマチュアですし、師事している先生も「往年巨匠好き」なところがあるので、そのような戸惑いは感じないで済むのですが・・・

「子供らしい演奏」とか「学生らしい演奏」というものと、往年の巨匠の演奏とは違うので、絶対に聴いてはいけない・・・哀しいですねぇ・・・やはり・・・

kaz




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category: 好きな曲・好きな演奏

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原点回帰の弾き散らかし 

 

24日のサークル練習会、いくら「その時に弾きたい曲を弾く」とは言っても、当日に曲を決めるなどということは、あまりにも無謀のような気がするので、あと8日あるので(8日しかないという考え方もあるが・・・)今日は、色々と曲を弾き散らかしたりしている。

考えてみれば、11月に演奏会を企画していて、やはりその演奏会では、いい演奏をしたいと当然思うので、最近はサークルの練習会や演奏会、そして門下生の発表会も、どこか「11月の演奏会の予行練習」のような感覚になってしまっていた。

「一度緊張した状態で弾いておかなければ・・・」

「人前で弾いておかなければ・・・」

もちろん、11月の演奏会でも自分の好きな曲を弾くわけだし、嫌いな曲を選曲なんかしないけれども、あまりにも11月中心にピアノライフが回りすぎていた気はする。

弾き散らかすなんて、本当に久しぶりだし、忘れていた楽しさでもある。弾き散らかしてばかり・・・ではこれまたまずいのだけれど・・・

ピアノは習っていたけれど、本当に音楽に感動して「この曲を弾いてみたい」と思い、レッスンでの課題ではなく、弾いてみたいという観点で弾いた初めての曲・・・

クライスラーが弾く「ユーモレスク」・・・

10歳くらいの時だったかなぁ・・・バイエルも当時は弾けなかったのだけれど、この「ユーモレスク」が音になった時の感動は忘れられない。

今、この曲の楽譜をダウンロードして弾いてみたけれど、当時、クライスラーの演奏を真似して弾いていた時と全く同じ弾き方をする自分に笑ってしまった。それほど大きな感動だったのだろう。そして10歳の時の、この感動が今の僕のピアノの原点でもあると再認識した。なので、この「ユーモレスク」を弾いてみようかと思う。ほぼ40年ぶりに弾く「ユーモレスク」は意外と難しく感じる。40年たっても「クライスラー節」を追い求めてしまう自分・・・原点に帰るのもいいかもしれない。

もう1曲は、この曲にしようと思う。原曲はピアノ曲なのだけれど、僕はハイフェッツの編曲・演奏でこの曲を知った。

「懐かしいウィーン」というゴドフスキーの曲・・・

kaz

P.S. それにしてもベレゾフスキーの演奏に全く感動しない自分にも驚いた。上手だし、さすがプロという演奏なんだけれど・・・

色々な意味で、現代的な演奏ではあるのかもしれない・・・でもなぁ・・・




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category: サークル

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練習しない生徒専用アイテム 

 

C君という生徒、ピアノは嫌いではないみたいだし、それなりに音楽的に弾けるのだけれど、チンタラしているというか、積極性に欠けるというか・・・

もちろん、指の訓練も好きではないみたいで・・・

先生は考える・・・「ギロックはどうかしら・・・」

C君はギロックが気に入ったようだ。もちろん、詰めが甘いというか、そのような気になるところはあるけれど、でも本人が作品を好きで弾いているのが分るし、何よりも曲に興味を示し、以前よりも練習してくるようになったのが先生には嬉しい。

「一応音楽的に弾けているし、雰囲気も出ているし、何よりも本人がやる気になって練習してくれるようになった。ギロック・・・よかったのかもしれない。今後はギロックとか湯山昭とか・・・そのような曲をC君は弾いていけばいいんだわ・・・そうなんだわ・・・」

僕は、このような考え方はよくないなぁ・・・と思う。

でも、多くの先生は、「なんでいけないの?」と思うのかもしれない。どうなんだろう?

僕が、ピアノの先生の文章を読んで、物凄く違和感、距離感を感じるのは、このような考え方を肯定する先生が多いからなのかもしれない。

kaz


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category: ピアノ雑感

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誕生日に寄せて・・・ 

 

私事ですが、今日、8月15日は僕の誕生日です。

8月15日が誕生日の人、ナポレオンがそうですね。あとは渥美二郎とか・・・

ピアニストだとオスカー・ピーターソン、そしてジュリアス・カッチェン・・・

カッチェンは癌と戦いながら演奏活動をしていた人なので、そのような意味でも同じ誕生日というのは何だか嬉しいです。

あまりカッチェンは日本では有名ではないのでしょうか?素晴らしいピアニストなのですが・・・

カッチェンと言えば「ブラームス」なのですが、僕はカッチェンのメンデルスゾーンも好きです。

ジュリアス・カッチェン・・・享年42歳・・・

せっかく一つ年齢を重ねることができたのだから、今月24日のサークルの練習会では、ちょっと変わったことをしてみようかと思っています。

練習会や演奏会では、その日に向けて練習して、本番では「弾けた」とか「弾けなかった」とか、なんというか、自分の出来やミスばかり気にしてきたような気がします。これも必要な事だけれど、新しい年齢での初演奏は、その時に弾きたい曲、その日のモードで弾く曲を決めて演奏してみようかと・・・

自分がその日に「聴いている人と共有してみたい世界だな・・・」と感じる曲を弾いてみようかと・・・

何を弾くか・・・まだ決めていません。なんだかそれも楽しい・・・

メンデルスゾーンは弾きませんが・・・

kaz




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ピアニスト「ハイフェッツ!!!」 

 

ヤッシャ・ハイフェッツ・・・

完璧なまでの演奏で、現在でもヴァイオリンの神さまのような存在・・・

ハイフェッツは、あまり笑わないような印象があります。マスタークラスの映像なども残っていますが、とても厳しい先生・・・という感じです。レッスン室の空気が緊張しているというか・・・

その「神様」ハイフェッツのピアノ演奏です。偉大なヴァイオリニストですからピアノも弾けるでしょう。まさか一本指でドレミ・・・というレベルではないはず。

でも、ハイフェッツ・・・ピアノ・・・上手すぎないですか?

残念ながらソロの演奏ではないです。デュオです。組んでいるのは、これまたヴァイオリニストで作曲家のジョゼフ・アクロンです。

アクロンは、「ヘブライのメロディー」というとても哀しい曲を残しています。僕のブログでの8月12日の記事でハシッドが弾いている曲、あの曲が「ヘブライのメロディー」です。

「厳格・ハイフェッツ」と「哀愁・アクロン」のピアノ・デュオ・・・これが予想に反して(?)楽しい演奏でして・・・

ハイフェッツは、もしかしたらお茶目な人だったのかもしれませんねぇ・・・

ヴァイオリンを持つと人格が変わったのかもしれませんが・・・

とてもヴァイオリニスト同士の演奏とは思えない素晴らしい演奏・・・

kaz




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