ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

歌手の本番は過酷だと思う・・・ 

 

ピアノの本番も、もちろん緊張するし大変ですが、でも「これはピアノより大変そうだなぁ・・・」と思う人前パフォーマンスがあります。僕がピアノより大変だろうな・・・と感じるのは、フィギュア・スケートですね。会場が「すり鉢状」というのが、なによりも大変そうです。これは精神的に過酷だろうなぁ・・・と思います。

音楽だと、歌手でしょうか?オペラの公演ならば、演技もあるので、相手役を見ながら歌うこともあるのでしょうが、歌曲やアリアの演奏会だと、歌手は基本的に客席を向いて歌うことになります。目線のやり場に困ることはないのでしょうか?なんだか過酷だな・・・

客席を向かない楽器よりも(ピアノぐらいか?)正面、つまり客席を向いて演奏する楽器は、本番での緊張の度合も異なるのではないでしょうか?それでも楽器ならば、楽器を操ることに夢中で無表情になっても許されるのかもしれませんが、歌手は、歌っている曲の内容と、表情を一致させなければならないという点で、過酷さは物凄いものだと勝手に想像したりします。

また、暗譜も、言葉を覚えるという作業がありますから、身体的・運動的な記憶というものとは、全く別の能力が必要となってくるのではないでしょうか?

ピアノならば、少々体調が悪くても、聴衆に感づかれることなく弾き切ることも可能なのかもしれませんが、歌手は、自分の身体が楽器なので、そのあたりも大変なのではないかと思います。本番前に「風邪ひいちゃってぇ・・・」なんて、ピアノと異なり、かなり深刻な問題となるのでは?

日頃の不摂生も影響しやすいのでは?本番前に煙草なんて吸えないのでは?まぁ、歌手だったら煙草なんて吸わないとは思いますが・・・

今まで、当たり前のように歌手の本番を聴いてきましたが、あれは大変なことなんだなぁ・・・と自分の本番と比較して思ったりしています。

アラーニャは、あまり好きな歌手ではなかったのですが、とても歌いにくそうな会場でプッチーニを歌う彼を見ていると(聴いていると)、「もしかして、これは人間に与えてはいけない過酷な条件なのでは?」なんて思います。

改めて、歌手って大変なんだな・・・と思います。

kaz




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本番・・・一夜明けて 

 

サークルの演奏会終了しました。

なんだか朝から緊張していまして、挽いたコーヒーを床にばらまいてしまったり、会場に向かう時も反対の方向の電車に乗ってしまったりと、自分でも「なんだか落ち着いていないなぁ・・・」と感じていました。

それでも、リハーサルでは気持ちよく弾けたりして、あとは本番で弾くだけとなりました。

会場もピアノも素晴らしく、あとは自分がきちんと弾くだけ・・・

肝心の本番、自己採点だと・・・20点くらいでしょうか?

「本番では、いつもの半分くらいの出来で普通なのです・・・」

僕の先生は、よく言うのですが、弾いている本人としては、練習の時の自分というものと比較してしまいます。自分なりに練習時間を工面して、早朝などに練習してきたという積み上げを、本番では出しきりたいと、どうしても思ってしまう。

正直、「練習の時は弾けたのに、本番では練習の時のようには弾けない」と感じます。

でも、思えば昨日だけではなく、本番の後は、いつも「練習の時は弾けたのに・・・」と思います。過去の自分から成長していない。やはり、なんとかしたい・・・とは思います。

でも、このあたりは「こうすればいいのだ!」という方法がないようなもので、これからも人前で弾いていこうと思うのならば、逃れることのできないものなのかもしれません。

kaz


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category: サークル

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練習でできていないことを本番で成功させる方法 

 

1994年の世界選手権、シェフチェンコ選手はプレッシャーを跳ね除け、見事3位に入りました。銅メダル獲得おめでとうございます!

この年の女子シングルは、日本の佐藤有香選手と、フランスのスルヤ・ボナリー選手の一騎打ちと言われていました。実際にそうなったわけですが、でもボナリー有利・・・と言う人が多かったように思います。

ボナリー選手は、前年の世界選手権で銀メダルを獲得していました。この時佐藤選手は4位でした。

大舞台での金メダル争いということに関しては、メダル経験のあるボナリー選手が有利だと・・・

実際にジャンプ構成に関しては、ボナリー選手の方が、高難度でしたから、そのこともボナリー選手が有利だと思わせる理由にはなりましたかねぇ・・・

地元での開催は、有利のようですが、選手にとっては、大変なプレッシャーにもなるらしく、またジャッジに日本のジャッジが入っていなかったのも僕はとても心配でした。

個人的に、佐藤選手、とても心配だっのが、トリプル・フリップ。このジャンプを彼女はプログラムの二番目に跳ぶのですが、このシーズンはフリップを初めてプログラムに取り入れたこともあり、試合での成功率がよくなかった。全日本選手権でもフリップは転倒していたと記憶しています。

ショート・プログラムで素晴らしい演技だった佐藤選手は、なんと1位でフリーを迎えることになります。これは佐藤選手にとっては初めてのことです。しかもボナリー選手がピタリと2位につけている・・・

フリーではボナリー選手が先に演技を行いました。さすが・・・の演技でしたね。ジャンプはやはり凄かったです。ループで一度手をつきましたが、大きなミスでもなく・・・

僕は、当時会場で佐藤選手の演技、観ていられなかったです。理由は分らないのですが、頭のどこかで「フリップはどうするのだろう?回避して2回転にするのだろうか?でもそれではボナリーには勝てないし・・・」

「フリップ・・・跳ぶのかなぁ・・・転倒しちゃうのかなぁ・・・1位でフリーだなんて初めてだもんなぁ…失敗しなければ金メダルだもんなぁ・・・」などの思いが頭を駆け巡ってしまいまして・・・

緊張攻略法の本、ぜひ佐藤選手にも執筆して頂きたい感じです。

それにしても、なぜ「本番だけ(!)」成功するのだろう?なぜ練習で、できていないことが本番で成功するのだろう?

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category: The Skaters

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緊張しますか? 

 

「どのようにしたら緊張しないで弾けるのだろう?」

緊張しない方法というものは、多くの人が考えるものだと思うのだけれど、でもこれといった解決策がないということは、つまり緊張しないという方法は存在しないということ。

ならば・・・

緊張した状態で自分の力を出し切ること、これはどのようにすれば達成できるのだろう?

よく思うのですが、フィギュアスケートの選手で、「これは絶対に緊張するだろう、プレッシャーだろう、気の毒だな」という状況で、練習の時とは別人のように素晴らしい演技をする選手がいます。

このような選手たちの本が出版されればいいのに・・・と思います。本番までに、どのように過ごしたか、本番直前の気持ちの切り替えは具体的にどうしたのか?なぜ本番で自分のベストが出し切れるのか?

このあたりを各選手に率直に語ってもらい、それを本として出版する。これ、売れるのではないでしょうか?

1994年、フィギュアスケート世界選手権は(何故か?)千葉の幕張で開催されました。たぶん有名な選手ではないと思うのですが、ドイツのタニア・シェフチェンコ選手。ショートで元気一杯、4位になりました。いきなり若い選手がメダル圏内。そこでシェフチェンコ選手は、プレッシャーを感じてしまったらしいのです。

普段だったら簡単に跳べるはずのジャンプも、なぜか跳べない・・・

僕は、1994年の世界選手権、会場で観戦しました。たしかに、シェフチェンコ選手は、フリーのウォームアップの時でも、ジャンプの失敗が目立っていて、緊張しているのが会場にも伝わってくる感じでした。特に、トリプル・ルッツが全く決まらず、派手に転倒を繰り返していて、「あの選手は大丈夫なんだろうか?」と僕は思いました。周囲も少しざわついていたように思います。

さて、フリーを4位で迎えたシェフチェンコ選手、3位にいた選手が失敗の多い演技だったこともあり、ますます「メダル」というものが見えてきたのではないでしょうか?ただし自分も失敗しなければ・・・

普通、このような状況では、普段できている事もできなくなったりするものです。「なんでここで?」みたいなミスを繰り返したりするものです。

初めてのメダルというものが見えた時、普通は緊張して、足が震えるのではないでしょうか?シェフチェンコ選手も絶対に死ぬほど緊張していたと思うのです。

「なぜ緊張した状態でベストが出せるのか?」・・・もしこのような本が出版されるのだとしたら、シェフチェンコ選手にも執筆して頂きたいな・・・などと思います。

でも、なんでこうなるのだろう?知りたい・・・

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category: The Skaters

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歌手のように弾きたい・・・ 

 

明日は、いよいよ演奏会なのです。沢山の音を弾かなければなりません。そして、僕は、その沢山の音を正確に、間違えた音を出さないように、隣の鍵盤を押さないように必死になるでしょう。

「ああ、弾けなかった・・・」「ああ、ミスしてしまった・・・」と思う時、そして、明日はそのような思いを沢山するのでしょうが、そのような時は、正しい音で弾けなかった、正しい鍵盤を押すことができなかったということに対しての直感的な自己評価をしてしまう時なのかもしれません。

「歌手のようにピアノを弾きたい・・・」という思いは、僕の究極の願望でもあります。「弾く」より「歌う」ということ・・・でも、そんなことができたことはない。

でも、明日は「歌えたらいいな・・・」と思います。歌手のように・・・

C'est magnifique!: Alagna sings MarinoC'est magnifique!: Alagna sings Marino
(2006/04/11)
Roberto Alagna、Luis Marino 他

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今回、本番前に、何故ロベルト・アラーニャの歌を聴きたい心境なのかは、自分でもよくは分らないのですが、きっと「歌うように弾きたい・・・」という願望を、「失敗したくない・・・」という願望で押さえつけているような、そんな感覚を本番前に感じているからなのかもしれません・・・

オペラ歌手であるアラーニャが、クラシックではない歌を歌ったアルバム、「シシリアン」というシチリアの歌を集めたアルバムでも、アラーニャの「スターのしての顔」というものよりは、「歌手魂」のような、そのようなものを感じさせますが、昔フランスで人気のあったルイス・マリアーノという歌手のヒット曲を集めたこのアルバムでのアラーニャも、実に素晴らしく「歌を楽しんで」います。

ピアニストのようにではなく、歌手のように僕はピアノを弾きたい・・・

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好き・・・単純されど複雑 

 

美しきシチリア美しきシチリア
(2009/03/25)
アラーニャ(ロベルト)

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ファン・ディエゴ・フローレスもオペラ界のスターになりましたが、このテノールもスターでしょう。ロベルト・アラーニャです。

この人は、スターであるがゆえに、私生活などでゴシップを書き立てられたり、スカラ座との確執なども取り沙汰されたりしていて話題の多い人ではあります。

正直に言うと、僕はアラーニャは、あまり好きではありませんでした。たしかに美声ですが。

どこか「俺はスター!」というオーラが滲み出ていて、暑苦しいというか・・・

「アラーニャは、歌手というよりスターなのね・・・」と勝手に思っていました。

でも、彼はオペラではない歌も最近は歌っていて、それは素晴らしいです。このアルバムは、彼の両親の祖国、シチリア島の歌を集めたものです。

アラーニャは、パリ郊外に生まれたフランスの歌手です。両親はシチリアからの移民でした。裕福とはいえない家庭だったようです。でも、家では常に歌声が満ち溢れていたそうで(シチリア人ですから!)彼も15歳くらいの事から、バーやクラブで歌ったりしています。アラーニャが最近録音をしている、オペラ以外の曲は、その頃に、少年時代のアラーニャが歌っていた曲でもあるのです。

このシチリアの歌は、アラーニャにとって、自分の血のルーツの音楽でもあり、自分を音楽と導き合わせてくれた音楽でもあるのです。

昼は仕事をしながら、夜はクラブで歌いながらオペラの勉強を続けたアラーニャ・・・

この人は、這いあがった、叩き上げの歌手でもあるのです。

このシチリアのCDメーキングでのアラーニャですが、「オペラ界のスター」というイメージが崩れてしまうほどの、歌いっぷりです。素のまま・・・というか。こんなアラーニャを見たのは初めてでした。

いつものような「僕はスター!」という気負いが全くなく、どこまでも自然体です。

この映像を見て、アラーニャは、やはりスターではあるけれど、でも歌が心底好きな歌手なんだなぁ・・・と思いました。

「好き」ということは、当然のようでもあり、自然のようでもあり、でもまた、とても難しいものなのかもしれない・・・

「I love to sing. It is my life!!!」 Roberto Alagna




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category: The Singers

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不幸なピアノ 

 

ピアノは数あるお稽古事の中でも、一生の友に成り得る可能性を秘めたお稽古事なのではないだろうか?大人になって人生の困難に遭遇した時でも、ピアノを弾くことで救われることもあるのではないかと思う。

同時にピアノは、生活環境の変化というものに影響を受けやすいお稽古事であるとも思う。レッスンに通えば弾けるようになるものでもなく、ある程度は練習を家で積み重ねなければならない。この部分が、進級や就職といった変化によって、もろに影響を受ける。そのような意味では、続けることが難しいお稽古事とも考えられる。

本来、ピアノを弾きたいという動機付けになるものは、音楽的な感動というものを伴うのが本来の姿なのだと思う。でも実際には、子供の真の音楽開眼というものが訪れる時期よりも前に、ピアノのお稽古そのものは始めているのが普通。それまでに培った「弾くノウハウ」と「音楽的開眼」との幸運な出会いがなければ、ピアノを続けていくのは難しくなる。でも、その出会いのタイミングが物凄く難しい。

ピアノを習うということの中で、最も不幸なことは何だろう?技術が伴わないことだろうか?曲が上手く弾けないことだろうか?練習したくなくなる時だろうか?

「昔ピアノを習っていたけれど、今は全く弾けない・・・」という人を生み出してしまうことではないだろうか?

「昔ピアノを習っていたの」という人の中で、ピアノが弾けないという人の割合は意外と多いのではないだろうか?

何故弾けなくなってしまうのだろう?指が動かなくなるとか、そのようなことではなく、何故習っていたのにピアノというものが、その人にとって一生の友とならなかったのだろう?

「子供」というプロテクトされた世界から巣立ち、成長し大人になれば、人生の試練というものに誰でも遭遇する。そのような時にピアノが弾けたらどんなに救われるだろう・・・

ピアノは、人の困難な時期を乗り越えさせてしまうような、不思議な力がある。そのことを認識できずにピアノを辞めてしまって、弾けなくなってしまう・・・

なんという不幸なことだろう・・・

介護の世界での大事な概念として「自立支援」というものがある。相手ができないからといって、何でも手伝ってしまうのではなく、あくまでその人ができることは、やって頂く。介護とは、そのような自立を促すお手伝いという側面がある。この「自立支援」の考えをピアノにも生かしてみたらどうだろう?

生徒がピアノのレッスンを辞めたとしても、いや、多くの場合は進級などで辞める割合が多いのであるのならば、なおさら「それ以後、その生徒が自力で音楽の扉を開いていける能力を身につけさせておく」という考えが必要なのではないだろうか?

その生徒に、音楽開眼が訪れ、心の底から弾きたいという曲が現れたり、あるピアニストや歌手の演奏に死ぬほど感動し、自分でもピアノで音を紡いでいきたいと感じたときに、自分の力で進んでいける最低限の能力を生徒に身につけさせておくのは、ピアノの先生の義務なのではないだろうか?

その曲を上手く弾くとか、まとめるとか、そのようなことを超えて、日頃のレッスンでも「生徒が辞めたとき自立して生きていけるか」ということをも踏まえて先生は生徒に接する必要があるのではないだろうか?

その役割を担うのは、「街のピアノ教師」のはずだ・・・僕はそう思う。

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category: ピアノ雑感

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イケメン・テノール 

 

ファン・ディエゴ・フローレスは、「連隊の娘」の動画だと、なんだかオジサンに見えますが、実は若い歌手です。そして「イケメン」と言われています。男性の顔の造作については、僕はあまり判断力を持たないので、よくは分りませんが・・・

でも、フローレスには女性ファンが多いですねぇ・・・

もしかしたら、彼の顔が好きでファンになった人もいるのかもしれませんが、僕は彼の顔よりも、彼の「血」のようなもの、南米男の熱き血・・・そこが好きですねぇ。

フローレスは、歌が好きで好きで仕方がない・・・そんな感じがします。そのような印象を聴き手に与えるという能力は、世界的に活躍する演奏家の条件でもあるように僕は思います。

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category: The Singers

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オペラはお嫌いですか? 

 

本番当日の朝を別とすれば、今日が最後の練習になるかもしれないのに、弾けば弾くほど下手になっていくぅ・・・

弾けないところが増えていくぅ・・・

なんだか、身の置き所がないというか、精神的に落ち着かないというか・・・

こんな時は、悩んでも仕方がないので、僕の場合はオペラに逃げます。本番前の、この落ち着かない気分の時は、何故か「歌曲」ではなく「オペラ」となります。間違えても「ピアノ」は聴かないですかねぇ・・・

世の中の(ピアノ弾きの)人は、オペラに無関心の人がいて、なんだか残念ではあります。まぁ、好みの問題なので、いいのですが。

本当に「苦手」というのなら、それは仕方ない感じですが、でも「オペラは敷居が高い」という人も多く、この意見には驚くばかりです。何故なら、僕はオペラは音楽の中で、最も娯楽性の高い芸術だと思っているから。でも海外の歌劇場の引っ越し公演を、いい席で鑑賞しようと思ったら、かなりの出費となってしまいますね。このあたりは、オペラが遠くなる理由になってしまうかもしれません。もしかしたら、複数の演目でチケットを購入すると、実際にイタリアやアメリカに出掛けて本場で鑑賞したほうが安いかも?

なんとなく、今はベルカント・オペラ・・・という気分なので、ドニゼッティとか聴きたい(観たい?)気分ですね。ベルカント・オペラでは、特にソプラノやテノールのアリアに超絶技巧や超高音を求められる曲が多く、そのような曲を聴いて、肉体的な快感(?)を得るのも楽しみだったりします。

例えば、ドニゼッティのオペラのアリア、フィギュアのジャンプの四回転や三回転半がクリーンに成功したのを観た時のような、肉体的な興奮、快感を感じます。ピアノだと、そのような聴き方は、どこか邪道のように感じられてしまう時があるけれど、超絶アリアの場合は、まさにスケートの難易度の高いジャンプと同じような効果を狙った曲が多く、作曲者が、そのような意図でアリアを作曲したのではとさえ思えてきます。

人間の限界までの技巧というもの、それがクリーンに成功した時は、感動を生むのではないでしょうかね、そして、それに思い切り身をゆだねていいのが、オペラの世界。

オペラは娯楽性が高いと思うけどなぁ・・・

ドニゼッティに「連隊の娘」というオペラがあります。リブレットは憤死してしまいそうなほどですが、でも音楽は素晴らしいです。テノールに超絶高音で有名なアリアがあります。一回でもクリーンに当てる・・・というか出すのが困難なハイCを、たしか9回要求しているアリアだったと・・・

超高音が超得意なペルー生まれのファン・ディエゴ・フローレスが見事に歌っています。アンコールで、同じアリアをもう一度歌っています。ハイCを難なく18回ですか・・・

このようなアリアを見事に歌っているのを聴くと、やはりオペラは娯楽性が高いと思うんだけどな・・・

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category: 好きな曲・好きな演奏

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天地真理のお父さん? 

 

昔ピアノを辞めてしまった時、やはり自分でも挫折感を感じたりと、色々と思う所はあって、ピアノの本などを読んだりした記憶があります。「自分は何がいけなかったのだろう?」と。

その頃読んだ本に、天地真佐雄さんという人の「ピアノのひき方」という本がありました。肝心の内容は忘れてしまったのですが、ある文章だけが印象に残っています。

「何年もピアノを習っていても、ろくすっぽ弾けない子供ばかり・・・」という文章。僕が小学生か中学生の時に読んだ本なので、ここで言われている「子供」とは、僕のような高度経済成長期の昭和40年代の子供のことですね。

当時は、今と比較して、厳しい(ヒステリックな?)先生も多く、今だったら身体的・精神的な虐待として訴えられてしまうような先生もいたらしいです。・・・「らしい」ではなく、実際にいました。僕の子供時代の先生がそうでしたから・・・

「そうか!生徒に厳しく接しても、生徒が上手くなるわけではないんだ!練習するわけではないんだ!」

たしかに、当時の子供も練習しない子・・・多かったような気がします。僕もそうでしたが・・・

先生が厳しかろうと、楽しさ重視で優しかろうと、それで生徒が変わるわけではないのねぇ・・・

生徒の練習嫌いは、今も昔も変わらない部分でもあるのねぇ・・・

ピアノの先生のブログを読むと、どうも楽しさ重視のレッスンとか、やる気を引き出すレッスンなどというフレーズが満載で、僕なんかは、「それは目的ではなく、手段だろう?」などと感じたりしていたわけです。楽しく、やる気を引き出すことは、ある目的までに到達するための手段だろうと。では、最終目的はと言うと、それは「ピアノを弾けるようにすることだろう!」と・・・

もう一つピアノの先生のブログを読んで感じていたことに、「プラスの要素しか書かない」という事があります。「いつも頑張るA子ちゃん」とか「やる気が出て練習してくるようになったB子ちゃん」のような文章ばかり・・・

ついつい、そのような先生の生徒たちは、皆楽しく練習に励んでいるような印象を持ってしまうけれど、そして楽しさ満載のレッスンを繰り広げているようにも思えてきてしまうけれど、昔と同様に、「やる気のない練習嫌いの生徒」の存在も、きっとあるはずだと僕は思えてきました。でも、ブログがピアノの先生にとって、教室の重要な広報の役目を担っているのだとしたら、その広報担当であるブログに、「マイナスの要素」は書きにくくなりますよね。

ブログに「なんで練習しないのだろう?何が面白くて通ってくるのだろう?分らないわ!」とか「今日も練習しない困ったC子ちゃん」とか、「ピアノにやる気を見せないB男君のレッスンで、今日は殺伐とした気持ちに・・・」なんていう文章ばかりのブログの教室には、生徒は入会しようとは思わないでしょうから・・・

昔も今も、生徒(子供)というものは基本的には練習嫌い・・・そこは変わっていないのでは?

だからこそ、「生徒の辞めないレッスン」とか「やる気を引きだすレッスン」などのセミナーが大繁盛するわけです。これは、「生徒が辞める」「やる気のない生徒」という現実があるからこそ、このようなセミナーが存在しているということでもある。

強引に、天地真佐雄さんに話を戻しますが、この人はピアニストであり、ピアノの先生でもありました。歌手で声優、そして女優の天地総子さんのお父さんでもあります。

子供の頃でも、この親子関係は知っていましたが、当時の僕はアイドル歌手「天地真理」のお父さんでもあると思っていました。なので、天地総子と天地真理は、姉妹だと思っていました。

天地真理・・・これは芸名ですね。本名は斉藤真理と言います。当時でも天地真理の本名は知っていたのに、何故親子だと勘違いしてしまったのだろう?

たぶん、天地真理が、国立音楽大学付属高校のピアノ科卒業ということと、天地真佐雄が結びついてしまったのだと思いますね。天地総子も国立音大の付属出身でしたし・・・

それにしても、真理ちゃん・・・可愛かったな・・・

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神童待望説 

 

現在活躍中の世界のトップピアニストは多くの人が幼少の頃から、その才能を発揮しています。やはり音大に入ってから、いろいろと修正されていたりするようでは、ピアニストとして活躍するのには遅すぎるのでしょうか?

昔の往年のピアニストは、その幼少からの才能発揮ぶりも、スケール感が大きいような気がします。

最も「神童ぶり」を発揮したのがヨゼフ・ホフマンではないでしょうか?

6歳で「ピアニストとしてすでに完成された!」とまで言われたピアニストぶり、神童ぶり・・・

6歳・・・僕がピアノを習い始めた年齢ではないですか!

その後、9歳でハンス・フォン・ビューロー指揮のベルリン・フィルとベートーヴェンの「皇帝」を共演。翌年、ニューヨークで演奏。「大人の演奏としても素晴らしい!」と評される・・・

あまりの早熟ぶりに聴衆は熱狂・・・演奏会が殺到し、ニューヨーク児童虐待防止協会からのクレームまでつくようになってしまった。ホフマンは、一度現役を引退(?)し、アントン・ルービンシュタインに師事し、再度大人のピアニストとして、熱狂的に迎えられます。といっても、カムバックが18歳なので、それでも早熟だと感じますが。

まあ、このような人は別格だとしても、基本的にはピアニストは早熟ですね。モリッツ・ローゼンタールは、その演奏から、とんでもない神童ぶりを発揮したと勝手に思っていたのですが、彼がピアノを習い始めたのは、なんと8歳の時。なんだか親近感が・・・

本格的にミクリ門下になって修業を始めたのが、10歳の時。その後、リストの弟子になったりしています。でも、10歳から・・・と言っても14歳の時には演奏旅行をしているのですね。うーん、やはり別格か?

ホフマンにしてもローゼンタールにしても、後に「再修業」をしているということが共通しています。ローゼンタールは、演奏活動をしながら、自分には一般教養が足りないと思い、ウィーン大学の哲学科に入学したりしています。ローゼンタールらしい感じはします。

ミッシャ・レヴィツキは、ミハウォフスキーという大先生・大ピアニストにピアノを習い、デビューは8歳の時。うーん、やはり早熟ですねぇ。その後もドホナーニなどに師事しています。

レヴィツキの自作自演などを聴いていると、「ピアノのクライスラーだな!」と思います。そして、8歳のレヴィツキ、14歳のローゼンタール、9歳のホフマン・・・どのような演奏をしていたのだろうと思いを馳せたりするのです。

某団体のコンペティションで遭遇する優秀な子供(子どな?)たちの演奏とは違っていた・・・僕はそう思うのですが・・・

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category: Mischa Levitzki

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謙遜慣れ? 

 

「心配を打ち消すための練習はしないように・・・」

僕の先生はよく言います。本番前は特に気を付けたいと思う。

でも、心配なんですよねぇ・・・心配なので、弾いて不安解消しているみたいな感じです。弾いても不安や心配は消滅なんかしないのに・・・

もっと前向きな練習をせねば・・・と思いつつ、帰宅してから演奏会の曲ではなく、全く関係のない曲を弾き散らかしたりして、いったい自分は何をやっているのだろうと思ったり・・・

でも、本番前に関係のない曲を弾くのって、妙に楽しかったりはします。でも、やってはいけないですよねぇ。

明日は帰宅が早い(かもしれない)ので、少しは前向きな練習をしなくてはと思います。関係のない曲ではなく。

明日の練習が本番前の最後の練習になるでしょう。その後2日はピアノに触れず、次の日が本番。まあ、当日早起きして練習するとは思うけど。

本番前に緊張するのは仕方がないとは思うけれど、変に心配だったりするのは、日頃謙遜ばかりしているツケなのかもしれないと思ったり・・・

「いえいえ、僕なんかまだまだ・・・全然まだ弾けてなくて・・・」

本当にそのように思っている部分もあるけれど、でも人にそのように言う時には、本心ではなく「~と思われる」という恐怖心から言っている部分も多いような気はします。

「弾けていると思う」とか「綺麗に歌えていると思います」なんていうと、「あれで?」とか思われるのではないかとか、傲慢なヤツとか思われたらイヤなので、自分を守るために「まだまだなんですぅ・・・」と言ってしまう。

演奏って、結局最後の部分では、自分を肯定していないといけないので、その謙遜加減(?)が難しいです。でも、日本では謙遜していないと生きていけないし・・・

偶然見つけたフィギュアスケートの演技。僕はこの選手・・・知りませんでした。

実力を出しきれたパフォーマンスは観ていて気持ちいいです。この演技でシニアの国際大会で初優勝。そして今年の世界選手権で5位。大躍進ですね。

「いえいえ・・・まだまだでして・・・」という気持ちだと、このようなパフォーマンスは不可能だとは思います。

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困った人ですね・・・ 

 

趣味でもピアノを続けていて、さらに人前で弾く事があったりすると、とても大変だったりします。サークルでも飲みながら騒ぎながらの宴・・・のようなオフ会だったらいいのですが、今度の演奏会のような場合は、とても大変です。失敗しても、誰からも叱責されるわけでもありませんが。

仕事との両立というものは、本当に大変です。僕の場合は、もともと「両立」なんてできていません。

でも、世の中には、二つの事を立派に両立できる人が実際にいたりするわけで、そのような人がいると、こちらとしても安易に言い訳できなくなったりするわけで、本当に困ります。でも言い訳するけど・・・

昔、アメリカにデビ・トーマスというフィギュアスケートの選手がいました。白人中心のフィギュア界で、アフリカ系アメリカ人選手として活躍した人でもあります。このトーマス選手が現役として競技会で活躍していた時期、トーマス選手は、名門スタンフォード大学の医学部の学生でもありました。

スケート選手でありながら大学生・・・ということそのものは珍しくはないのですが、さすがにスタンフォードの医学部というのは大変だったのではないでしょうか?

アメリカの大学の医学部は、4年生の大学を卒業しないと入学できません。その4年生の大学で医学部に必要な課程を履修して、さらに医学部に進学するわけです。ハイスクールを卒業してすぐに入学できるわけではないのです。このことを考えると、トーマス選手は、ハイスクール、もしくは4年生大学の課程を、かなり「飛び級」していることになります。これは、トーマス選手が、相当優秀だったということになります。

ただ在籍しながら、休学状態でスケートに専念していたわけではなく、立派に学問とスケートを両立していた・・・

おそらく、とても優秀で、飛び級してしまったり、奨学金も貰ったりしていた「超優秀学生」だったのだと思います。

「いったいいつ勉強していたんだろう?いつ練習していたんだろう?」と思います。

毎日大学の授業の他に、7時間の勉強、そして7時間のスケートの練習・・・という話を読んだことがあります。毎日徹夜?

一般的にアメリカの大学は、非常にハードなので、勉学だけでも大変だったと思うのです。それも名門スタンフォードの医学部・・・

それでも、スケートが「趣味なのよぉ・・・」というレベルならば、「まぁ、気分転換にスケートを滑っていたんだな」とも思えるのですが、トーマス選手は、スタンフォードの学生時代に、世界選手権で優勝して「世界女王」になっていますし、オリンピックでメダルも獲得しています。

「これって・・・」と単純に驚いてしまうわけです。

このような人が実際に存在すると、本当に困るんですよねぇ。言い訳できないし。でもするけどぉ・・・

ちなみに、デビ・トーマス選手は、現在医師として活躍されているそうです。

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子供の減少と「生徒さん」 

 

いよいよサークルの演奏会まであと4日となりました。我ながら頑張ってきたな・・・と思う部分は、早起きしての朝練習。大体4時起きして出勤時間まで練習します。もちろん、毎日起きられるわけでもなく、寝坊することもあるわけですが、仕事に遅刻しているわけでもないのに、そのような時には自分が怠慢にも思えてきます。逆に、なんというか、「ああ、寝坊してしまった」と思うこと自体、自分は頑張っているのだな・・・と思えて来たり・・・

フルタイムで仕事をこなしながらの「大人のピアノ」の場合は、ある程度自分を肯定しながら弾いていないと、続けていけない部分もあるのかとこの頃は感じたりしています。

話題は突然変わりますが、あるピアニストのエッセイを読んでいて、自分の生徒のことを「生徒」と表現しているのに気づきました。ピアノの本を執筆しているピアニストは、皆「生徒」という言い方をしているのにも気づきました。

主に、「生徒さん」と自分の生徒に「さん」を付けているのは、いわゆる「教室の先生」が多いです。有名ピアニストではなくても、生徒が大人ばかりで、専門的に学んでいる生徒の場合、そのピアニスト(先生)は自分の生徒を「生徒」と表現しています。

このことから、「生徒さん」という表現は、子供の数の減少ということと関係があるのではないかと思いはじめました。

たしかに、子供の数は著しい現象にあります。昭和25年には総人口の三分の一が子供(小学生までの)でした。まずは、この多さに驚きます。昭和40年には総人口の四分の一に減ります。減ります・・・といっても四分の一ですから、多いですよね。高度経済成長期でもあり、昭和40年代からピアノブーム(習い事ブーム)が始まります。それこそ、ピアノ教室にはウジャウジャと(?)生徒が溢れていた時代でありました。僕もその中の一人であったわけです。

その時代、「生徒さん」という表現は、ピアノ教室の先生の間でも一般的ではなかったと記憶しています。普通に「生徒」と表現していたと・・・

「生徒さん」という表現が(ピアノの先生の世界で)一般化したのは、ここ最近のことではないかと思います。現在は子供の数は、総人口の12.9パーセントです。これからも減少していくでしょう。12.9パーセント・・・「あらぁ、意外と多いのね」と感じますか?これは危機的な数字なのではないでしょうか?これから増えていくのならともかく・・・

近い将来は、子供の姿を見かけて、「あらぁ・・・子供だわ。珍しい・・・」なんていう時代が到来するかもしれません。

現在でも、音大を卒業してピアノ教室を開いても、何もしなければ「うんともすんとも・・・」という感じで、生徒は集まらない状態が普通なのではないかと思います。昭和40年代なら、それこそわんさかと集まったのでしょうが・・・

「子供はどこに?」状態?

昭和40年代に一般的ではなく、現在では普通に存在しているもの、それはインターネットの存在です。ピアノの先生にとって「ホームページ」や「ブログ」は、新規生徒獲得の重要なツールとなっているのではないでしょうか?

そのブログで「生徒は・・・」という表現を使用すると、どこか固いというか、先生のイメージとして「この先生は厳しいのでは?」と思われてしまう・・・

なので「生徒さん・・・」という表現が一般化していった。どうでしょう?違いますかね?

「生徒さん」という表現には「さあ・・・楽しくピアノを習いましょう」という雰囲気が満ち溢れている気がします。なので「生徒さん・・・」

「生徒さん」は一種のイメージ戦略でもあるのでは?

「生徒さんが練習してこなくて・・・」と嘆いている、悩んでいる先生は、思い切ってブログやホームページで「生徒」という表現に変えてみてはどうでしょう?真面目な生徒が入門してくるかもしれません。もちろん、これは皮肉でありますが・・・

でも、外側の人間からすると、「生徒」という表現は新鮮だったりします。あまりにも「生徒さん・・・」という表現の先生・教室が多いですので。

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「天才」に育てる九か条 

 

僕は某コンクールの全国大会などで多くみられる優秀な子供の演奏、あまり好きではなかったりします。なんだか、先生のコピーというか、そんな感じさえしてきてしまう。でも見事に弾いていますよねぇ。子供の教育に賭ける親の熱い思いも滲み出ている感じがします。

韓国系アメリカ人のサラ・チャンですが、この人も幼い頃から注目され、「天才少女」と騒がれたりしていました。でも、この人の演奏の場合は、どこか自発性の塊というか、借り物感が一切ないところに注目していました。

「何が違うのだろう?」

おそらく、教育が違っていたのではないか・・・そう思いました。サラ・チャンの両親も音楽家です。父親のチャン・ミンスさんは、テンプル大学の教授で、自身もテンプル大学とジュリアード音楽院で修士号を取得したヴァイオリニスト。母親もペンシルヴァニア大学で博士号を取得したピアニストです。

まさに「音楽一家」であり、大変に恵まれた環境であったと言えます。サラ・チャンは、4歳の時からヴァイオリンを初めて、父親と同じようにジュリアード音楽院で学びます。

父親のミンスさんの娘に対する教育ですが、これがまた日本人にありがちな、「謙遜」というものが一切見られない、とても強気の(?)内容で、このあたりの自信というか、信念のようなものも大事なのではないかと感じました。でも、「雲の上のような教育ポリシー」のようにも感じますが。

「父親チャン・ミンスさんの娘に対する教育ポリシー」

① 「ダメ」という言葉は使わない。創意力と自立心を育てよ!

②  音楽教育は頭脳開発に役立つ。彼女にヴァイオリンを教えたのは、音楽を通して推理力、思考力、言語能力を育てるためで、最初から音楽家に育てるつもりはなかった。

③ 「早期教育」は重要だ。遅れて音楽的才能を見つけても、人の何倍もの努力が必要となってしまう。

④ 音楽を学ぶ子供だからと特別待遇はするな!日常の大切が理解できる平凡な子供に育てよ。部屋の掃除やトイレ掃除などもさせること。

⑤ 最少の練習で最大の効果を!一日3時間の練習で充分。機械的練習を強要するな。練習量より集中量。

⑥ 不必要な競争心を刺激するな!誰々が何のコンクールで優勝したが、お前は何をしたんだという言い方で子供を叱るな。

⑦ 体力を培え。彼女はスポーツ万能。タイトな演奏日程の消化には体力が必要。

⑧ コンクール入賞結果にこだわるな!彼女はコンクールに出場したことはない。

⑨ 遠大な目標を立てよ!彼女自身は「15歳になる前に全世界の有名なオーケストラと共演する」という目標を立てた。もちろん、目標達成はそれより早かった。

この自信に満ち溢れた(?)ポリシー、正直日本人には強気すぎるかもしれません。でも、必要なことなのかもしれませんねぇ・・・

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日本の音大入試で4期を課せられない理由とは? 

 

音大の入試、課題曲について先日書きましたが、ある音大の先生からメールを貰いました。ちょっと驚きましたが・・・

理想的には、アメリカの音楽院の課題曲のような4期別の考えには賛成だし、学内の試験でも1曲を時間制限付きで演奏するのではなく、リサイタル形式を生徒に課すべきだと、その先生も思うのだそうです。

でも、音大の現実、実態は、とてもそのような課題を課す状況ではないのだと・・・

音大生の就職難の問題です。一般企業に就職(派遣なども含めて)する学生も多く、演奏で生活できる学生は、ほとんど皆無であると。ほとんどの学生は、音大を卒業したら、自宅講師になるのだそうです。家事手伝いという学生も多いのだとか?これって「無職」ということ?

学生も、明るくない現実を自覚しているところがある。

その先生も、現実問題として、その学生が本気で一般企業に就職する希望を持っているのだったら、学内でのレッスンも、「趣味扱いでいい?」と学生に了解を得て、負担のないレッスンを、楽しいレッスンをしていきたいのだと・・・

でも、学内のカリキュラム・・・というか、専攻のレッスンというものは、基本的には「専門的な演奏法の取得」というものが建前になっている。高額な学費も、「専門性のある実技レッスン」というものが音大にあるからこそ、強気な(?)学費となっているわけで、「あら、一般企業?じゃあ、それようのレッスンにしましょうね」というわけにはいかないのだと。

ましてや、学内試験で「ハーフ・リサイタル」をすべての学生に課すなんて、現実的ではないし、学生が気の毒だと・・・

また、子供の減少によって、一部の音大を除き、現在では「広き門」になっている現実があるらしいです。むろん、誰でも入学できるわけではないとは思うのですが、「青春をピアノに賭けます!」という学生ばかりではなく、全体としては、著しい学生の演奏レヴェルの低下がみられるのだと。

入試で4期、それも「大曲」を課したりしてしまうと、その課題を用意できる水準の学生しか入学できなくなってしまう。表現を変えれば、多くの日本の音大生は、アメリカの入試課題を用意できる水準ではない・・・

音大の先生の本音を伺い、「大変なのねぇ・・・」とは思いますが、でも「音大の入試課題は今のままでも良い」とは素直に納得はできないですねぇ・・・

個人的には、入学金や、学費に「専門性のあるレッスン」というものが含まれているのだったら、やはり音大側は頂いた料金に対する義務は果たすべきだと思いますね。安易に実態に合わせ、現実に合わせ、内容(義務)を放棄してはならない・・・

なので、「専門性のあるレッスン」というものは放棄できない・・・

難しい問題だとは思いますが。

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category: ピアノ雑感

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クライバーンの栄光・・・そして 

 

演奏というものにおける「カリスマ性」というもの、この才能は、生まれついたものであり、決して努力や修練から得られるものではない、不可思議な、そして凡人に無力感、不公平感をも与えてしまう、その人が神から与えられたとしか思えないような何か・・・

そのようなものが存在するとは思いたくない凡人は、練習を重ねる。努力は絶対に実を結ぶはずだという信念と共に・・・

この「カリスマ性」というものを考える時に、一人のピアニストが思い浮かぶ。ヴァン・クライバーン。

ジュリアード音楽院でロジーナ・レヴィーンに師事したクライバーンは、ピアニストとしてはパッとせず、故郷テキサスで母親のピアノ教室の助手をしていた。

そんなクライバーンに第1回チャイコフスキー国際コンクールへの出場を勧めたのが、ロジーナ・レヴィーンだった。「このまま埋もれてしまうのは惜しい・・・」と思ったのかもしれない。でも、マダム・レヴィーンは、クライバーンの「カリスマ性」「スター性」というものを見抜いていたのではないだろうか?

このテキサスの無名の青年が、コンクールで優勝するまでの様子を敵地モスクワからアメリカに伝えていた人物がいた。ニューヨーク・タイムズ紙の記者、マックス・フランクルである。大方の予想に反して、このテキサスの青年が、モスクワの聴衆を虜にしてしまったのである。国の威信がかかっているソ連のコンクールで、アメリカの無名の青年が、健気に頑張っている様子を、事細かに本国アメリカに伝えたのである。

「クライバーン・・・本選に出場!」「クライバーン・・・モスクワを制覇する!」

「審査員のリヒテルがクライバーンには満点をつけ、他のコンテスタントには0点をつけた!」「フルチショフと優勝者クライバーン・・・フルシチョフ、クライバーンを讃える!」

このフランクルのレポートは、アメリカ国民の愛国心を揺さぶったのだ。

コンクールでのメディアの影響ということを考えた時に、似た状況を思い出す。ショパン・コンクールでのブーニンである。ブーニン騒ぎが日本で起こったのは、NHKのレポートによるところが大きい。でも、クライバーンの場合はブーニンの時とは比較にならない大騒ぎとなっていった。これも「時代」というものなのだろうか?

アイゼンハワー大統領が、自ら優勝者クライバーンを迎え、ニューヨークの5番街ではオープンカーに乗ったクライバーンが紙ふぶきの舞う中を凱旋する・・・

まさに「クラシックのピアニスト」という扱いを大きく超えた存在になってしまったのだ。クライバーンのチャイコフスキーの協奏曲のレコードは、ビルボードのチャートの1位になる。ポップスの部門での1位・・・それも何週にもわたってトップを独占した・・・

まさに「時の人」となってしまったのである。彼の写真が一般紙の表紙を飾る・・・

クライバーンが、そのままピアニストとして表舞台で活躍しなくなった理由は何なのだろうか?

あまりに多忙すぎて勉強する時間がなかった?そうなのかもしれない。僕は、こう思う。クライバーンは、あまりにも大衆に愛され過ぎてしまったからだと・・・

彼のナイーブそうな外見や弾いている姿、コンクールでの活躍だけで大衆はクライバーンを愛したのだろうか?クライバーンの「カリスマ性」というもの、「スター性」というものが、日頃クラシックには無縁だった大衆までも魅了してしまったのではないだろうか?

大衆に愛された者は、批評家筋からは、こき下ろされる運命にある。これはクライバーンだけではない。

この厳しい一部の批判に、クライバーンは耐えきれなかったのかもしれない・・・僕はそう思う。彼はスターではなく、ピアニストだったのだと・・・

クライバーンのチャイコフスキー、この演奏には、たしかに「カリスマ性」がある。モスクワの聴衆を圧倒したカリスマ性がある。終演後のモスクワの聴衆の興奮ぶりがそれを物語っている・・・

クラシックのピアニストが一般大衆までをも魅了してしまった時、なぜ衰退が始まってしまったのだろう?

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category: ピアニスト

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ピアノはピアニストと共に成長したのだ・・・ 

 

ユーチューブですが、先ほど自然に回復していました。パソコンは精密機械のはずなのに、「なんとなく直っていた」でいいのでしょうか?不可解ではあります。沢山の方からメールで解決法のアドバイスを頂きました。本当にありがとうございました。何故か直っていました・・・

さて、今日はレッスンだったのですが、演奏会は来週なので、「今日弾けなかったら死んじゃう!」と思いつつ、緊張して弾きました。まぁ、なんとかなるのではないでしょうか?

いつも思うのだけれど、先生は、曲の特徴を捉えるのが上手いです。「とても良く弾けているのですが、僕だったらそこは、こう弾くと思いますね・・・」という感じで、初見で弾いてくれるのですが、その演奏がいつも素晴らしいんですよね。なんというか、レッスンの醍醐味というか・・・

多くの方のブログを読むと、弾いてくれる先生は、少数派のようです。何故なんだろう?

「そこは、もっと優しく歌って~」とか「そこは、もっと弾むように~」と、ただ横で指示するだけ・・・というパターンが多いみたいですね。

難しいパッセージは、練習すれば・・・というところがあるけれど、非常に「洒落たニュアンス」というものが要求される曲なんかは、先生が弾いてくれると、分りやすい・・・というか、弾かなきゃダメでしょ?

先生が弾いてくれて、それは大曲をリサイタルで弾く・・・ということとは違うけど、ちょっとした部分の微妙なニュアンスなんかを、先生が見事に再現してくれると、生徒は「わぁぁぁぁぁ!!!!!」と無条件に感じるわけですよ。ここが大事というか、レッスンの醍醐味なのではないでしょうか・・・

そのような意味で、僕の先生は、初見でなんでも弾いてくれます。ピアノの先生は、やはりピアノが弾けた方がいい。絶対に。音楽や演奏というものは、人を虜にする魔力があるんだから。楽しいレッスンのノウハウもいいけれど、先生が弾いてあげるのがいいのではないでしょうか?

僕の先生の特徴として、発表会や演奏会に向けて、その曲だけを集中的に仕上げるということはしないということがあります。演奏会直前でも、「次は何か違う曲を弾いてきて下さい」とか言います。発表会前最後のレッスンでも、「今日は何を弾いてくれるのですか?」と質問します。「発表会の曲に決まっていますぅ・・・」みたいな?

今日も、演奏会前最後のレッスンでしたが、同じ質問をされましたね。もう慣れましたが・・・

今日は、演奏会で弾く曲の他に、レヴィツキの曲を弾きました。これは11月に弾く曲です。まさに、「微妙なニュアンス」が必要とされる曲であります。案の定(?)先生は、レヴィツキの曲を知りませんでした。

「素敵な曲(演奏ではない)ですねぇ・・・」

先生は、いつものように沢山初見で弾いてくれました。これが楽しいんですよね。

「ピアノのクライスラーみたいですね」と先生は弾きながらレヴィツキの曲を評しました。

レヴィツキの曲は、だからこそ難しいのではないかと思います。

ミッシャ・レヴィツキは、今でこそ(というか日本でこそ?)知られていませんが、100年前のピアノ黄金期、その黄金期の中心地アメリカで活躍していたピアニストです。

ヴィンテージのスタインウェイ、ニューヨーク製のスタインウェイですが、髙木裕氏の著作などを読んでも、ピアノという楽器も、100年前のアメリカで黄金期を迎えたということが分ります。よく、ピアノという楽器だけを評して、「昔のピアノは・・・」とか「スタインウェイの音は・・・」とか言ったりしますが、実は、100年前、ニューヨーク・スタインウェイは、楽器だけ、技術者だけで黄金期を築いたわけではありません。当時の偉大なピアニストの存在があった。そこが大事です。

ホフマンやパデレフスキーは、スタインウェイ社のランクで「Aランク」のピアニストでした。このAランクのピアニストのために、スタインウェイ社は、「そのピアニスト仕様の調整」に社運を賭けたのです。自分の会社のためだけ・・・というよりは、ピアノという楽器の完成そして成熟のために。

そのピアニストが、一番弾きやすいように調整する、微妙なコントロールの要求にも応えられる高性能なピアノの実現・・・つまりオーダーメイドです。

ホフマン仕様、パデレフスキー仕様のピアノという概念、この概念が大事なのだと思うのです。ホフマン仕様のピアノは、一般人には「弾きにくい」ピアノだったのかもしれません。おそらく、ホフマンほどの微妙なタッチのニュアンスの要求に応えるために、非常に繊細に軽く調整されていたのだと想像します。おそらく、僕なんかが弾いたら、「いやん、全部フォルテになっちゃう・・・」みたいなピアノだったと思います。

ヴィンテージのピアノを語る場合は、そのオーダーメイドという概念を考えないで、「昔のピアノは・・・」とかは言えないのではないかと僕は思います。

レヴィツキもスタインウェイ社の「Aランク」ピアニストでした。レヴィツキがカーネギー・ホールで演奏する場合は、会場備え付けのピアノを弾くということは決してなかったはずです。スタインウェイ社が、「レヴィツキのために」用意し、調整した楽器で演奏していたはずです。それが楽器の成長、スタインウェイ社の繁栄にも繋がっていき、そのピアノの存在が、「ピアニストの黄金時代」というものをも作り出していったのだと思います。

そのレヴィツキの演奏を聴きながら、今日のレッスンの事、ピアノという楽器の事、そしてピアニストの黄金時代の事、そしてユーチューブの回復の事を考えたりするのです。

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category: Mischa Levitzki

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ユーチューブの不具合発生 

 

数日前からユーチューブの接続が悪く困っています。動画は問題なく音声も含めて再生されるのですが、共有ボタンを押しても、埋め込みコードが表示されないという状態です。

動画を再生すると、右の方に、その動画の関連動画も表示されますよね?この関連動画もクリックすれば、見ることはできるのですが、関連動画の画像が表示されません。字だけ・・・

関連動画の一番下に「もっと見る」というところがあって、そこをクリックすれば、以前は、さらに関連動画が表示されたのですが、そこも作動しないです。あとは、その動画のコメントのようなものも、以前は表示されたのですが、今は、そこも非表示です。ずっと、「読み込んでいます」と出ているだけ・・・

つまり、ユーチューブの動画そのものは、以前と同様に見ることはできていますが、埋め込みコードが出ないので、(共有ボタンが作動しないので)、このブログに動画を埋め込むことができない。

これはパソコンに問題があるのか、ユーチューブに問題があるのか・・・接続の問題なのか・・・ちょっと分りません。

まぁ、別にいいのですが・・・

今日は、ピアノのレッスンなので、本来は、こんな文章を書いているのだったら練習すべきですねぇ。

タカギクラヴィアの髙木裕氏の本が発売されて、すごく読んでみたいのだけれど、もう少し待ってアマゾンで中古で安くなってから・・・もしくは図書館で・・・とセコイ考えでいるので、まだ読んでいません。

でも、この方の志向は、前著など読んで、100年前のアメリカのピアノ、ニューヨーク・スタインウェイにあるのだということを感じています。僕自身は、実際にピアノの音を聴き分ける能力には欠けているのですが、でも100年前のアメリカという部分では、僕もその時代のピアニスト、ヨーロッパからアメリカに渡り、黄金時代を築いたピアニストたちが好きなので、実際の楽器の「音」という部分ではともかく、そこから派生した当時の演奏を聴いたりすると、日本は、この時代のアメリカからの影響・・・という部分が著しく欠けているとも思ったりします。どうしてもドイツ志向というか、西ヨーロッパに志向が向かいがちなのかな・・・と。でも、本当に輝いていたのは、アメリカ・・・正確には、アメリカに定住したロシア人を中心とした亡命ピアニストたち、黄金時代を作ったピアニストたち・・・ホフマンやローゼンタール、レヴィーン・・・

僕は、ホロヴィッツの演奏からも「ロシア」というよりは、「アメリカ100年前の黄金時代」というものを感じます。

・・・と、本来だったら、ここで動画を貼り付けるのがパターンなのですが、それができなくて・・・

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アメリカの音楽院入試体験談 

 

僕の遠い知り合い(?)に日本の名門音大、T学園大学を卒業した方がいます。ピアノ科です。ピアノを聴いたことはありませんが、大変優秀な方だと思われます。日本でのコンクール歴もありますし。

その方が、T学園大学を卒業して、アメリカの音楽院に留学したとき、その入試で初めてのカルチャーショックを感じたそうです。

いくつかの学校を受験したそうですが、最初に受けた学校での経験談です。

言葉も自由にならない異国の地で、その方(以下A子さん)は、とても緊張していたそうです。P音楽院の入学試験。課題曲は、もちろん4期別の課題で、当日、何の曲が、そしてどの箇所を弾かされるのか、そもそも自分が、その指定を英語で理解できるのか・・・とても不安だったそうです。

「でも、一応私もコンクール経験があるのよ!日本の一流の学校を卒業したのよ!ピアノのエリートと言われているのよ!」と、どこか根拠のない自信を無理に感じさせながら、プレッシャーと戦いつつ控室で待っていたそうです。その音楽院の由緒ありげな建物、そして調度品にもプレッシャーを感じていた時に、「ミスA?どうぞお入りください」と呼ばれたそうです。

「いよいよだわ!!!」

緊張感に震えつつ、部屋に入ると、何人かの審査員、つまり学校の教授たちが座っているのが目に入ったそうです。「げっ、レオン・フライシャーがいる!!!」

あまりの緊張感に卒倒しそうにもなりながら、指示を待っていると、「日本からいらしたのですか?」「日本は四季が明確でいいですね!」「アメリカの食べ物はおいしいですか?」と次々に、どうでもいいような質問が続いたそうです。

「へっ???」

英語よりはピアノが得意なA子さん。困ったな・・・と思いつつ、なんとか受け答え、というか「イエス!」と答えていると、「あっ、これは緊張感を和らげてくれているのだな・・・」と感じたそうです。なんとも名門音楽院の入試と思えないような、和やかな雰囲気。和気あいあい・・・とまではいかなくても、日本での実技試験のようにピリピリした厳格な緊張感は感じなかったそうです。

日本での実技試験では、自分の先生がいたりすると、余計に胃が痛くなるような苦しみを感じつつ、どこか冷ややかな、ピンと張りつめた雰囲気の中で、ピアノを弾いていた。でも、ここでは違う。もちろん、その和やかな雰囲気を楽しむ余裕は今の自分には皆無だけれど、その空気感の違いは、一種のカルチャーショックでさえあった。

・・・とA子さん。

「では、ショパンのスケルツォを弾いてください。作品39のスケルツォですね。コーダを弾いてください」

「えっ、コーダ?コーダってどこ?私はどこから弾けばいいの?最後のほうよね?」

優しく微笑んでいる審査員たち。

一人の審査員が、突然、「ここから弾けば?タララー・・・」と歌ってくれたので、なんとかA子さんは弾きはじめることができたそうです。

なんとかA子さんがスケルツォを弾き終えると、「次はラヴェルのクープランの墓を弾いてください」と言われる。「リゴードン」を弾いてくださいと言われた時には、どうしようかと思ったそうです。絶対に「トッカータ」を指定されると踏んでいたから・・・

汗をかきかき、「リゴードン」を弾き終えると、フライシャーが「トッカータも聴きたいですね。一番練習したでしょ、この曲?」と笑いながら言ったそうで、A子さんは、次第に緊張感も解れてくるのを感じつつ、トッカータを弾いた。

「緊張していますか?でも日本からはるばるいらして実力を発揮できないなんて残念じゃありませんか・・・もう一度弾いてみたい曲はありますか?」

一応、課題らしきものを全部弾いた時に、A子さんは、こう言われたそうだ。

「えっ、もう一度弾いてもいい?そんなのあり?」

何もかもが日本とは違う・・・

でも、A子さんは、緊張はしていたけれど、「実力を発揮できなかった」とは思っていなかったので、「残念じゃありませんか・・・」という言葉に、「これは落ちたな・・・」と感じたそうです。

案の定、残念ながらP音楽院は落ちてしまったそうです。でも次に受けたN音楽院では、最初の経験を生かし、自分の実力を発揮できたそうで、合格したそうです。

P音楽院でも、N音楽院でも、あからさまに「ハーイ!」なんていうことはないにしても、どこか審査員がフレンドリーで、厳格さを感じさせない雰囲気だったので、そこにカルチャーショックを感じたそうです。

「あの日本の試験での緊張感って何だったの?」みたいな?

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こんな入試はどう? 

 

アメリカの音楽大学・音楽院の要項も、今では簡単に調べることが可能です。もちろん、僕が受験するわけではないのですが。有名・名門音楽院の実技試験の課題曲を調べてみると、日本の音大とは相当な違いがあるのが分ります。大きな特色は、時代別の4期。これは徹底していますね。あとは、用意しなければならない曲数が多い。4期の課題なので、それは当然そうなるのでしょう。

学校によって、多少違いはありますが、大体次のような課題を入試で要求しています。

① バロック期 バッハの平均律が一般的かしら?組曲でもいいわね。でもその場合は、「クーラント」だけとか「アルマンド」だけということではダメね。全部弾けるようにしておいてね。

② 古典派の曲   ここで「ソナタ」を弾く人が多いのよ!でも③や④でソナタを選択してもいいのよ!

③ ロマン派の曲  お得意な曲をどうぞ!

④ 近・現代の曲  こちらもお得意な曲をどうぞ!

以上なんだけど、どこかの時代の作品で「エチュード」を入れて頂きたいの。ショパンのエチュードを弾くのだったら、それがロマン派の曲扱いになるわね。「ソナタ」も入れるといいと思うわ。入れなさい・・・とは言わないけれど。でも、どこかの時代で、いわゆる「大曲」を選択して頂きたいの。ショパンの「ソナタ」とかシューマンの「クライスレリアーナ」とか。でも基本的に抜粋はしないでね。全曲よ!

もちろん、暗譜でお願いするわね。当日は全部を聴く時間はないのね。なので、当日弾く曲や箇所を、こちらで指定させて頂くわ。

この入試課題にコンチェルトを加えると、コンクールの課題そのものになってきますね。4期という概念は、世界的な常識なのかもしれません。

そう考えると、日本の音大の入試課題は、世界的に見ると、かなり「異端」なのでは?

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category: ピアノ雑感

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教え込まれ過ぎ? 

 

コンクールで日本のコンテスタントの演奏を聴いたりすると、ミスもほとんどなく、とても弾きこまれているのだけれど、どうも、練習での成果を本番でいかに正確に再現するかに奮闘している・・・という印象を持ってしまうことがあります。何と言うか、演奏者と聴き手との対話とか、その演奏者の内部から発する何かに、聴き手が集中してしまうという、演奏というものが持つ独特の、かつ必要不可欠な魅力に欠けているような?

先生との共同作業である、演奏・・・という感じがしてしまう。教え込まれ過ぎというか・・・

この場合、国際コンクールで、他の国のコンテスタントの演奏の中に混ざって日本人が演奏した場合、日本人の弱点とも思えてきてします。「自発的なものが希薄」というか・・・

完成度というか、音符を音にするということに関しては、ソツがないだけに、つまり大きな乱れがなく整っているだけに余計に、そのことが気になってきてしまう・・・

「日本人の演奏は表現力に乏しく、個性が感じられない」という定説は昔からありましたね。技術は凄いのに・・・みたいな。

この理由として、日本人の国民性、奥ゆかしさとか、謙譲が美徳とされる、昔からの風習(?)が、西洋文化であるピアノ演奏では弱点ともなってしまうという考えがありました。邦楽の伝授法をピアノ演奏でも受け継いでしまった・・・みたいな事も言われますね。お師匠さんの「型」も身につけてから、自分の技を・・・みたいな?

黒船到来!・・・という時代ではないのですから、そろそろこのような定説は覆したいところです。

なぜ決まったパターンを本番でも忠実に「なぞる」というような演奏が多いのか?

これは素人の感想からすると、「先生が教え込み過ぎている」という印象を持ちます。その演奏者の内面・・・というものよりはるかに大きな先生の教え、考えが演奏に反映されてしまっている。

個人的には、日本の風習である(?)、数少ない曲を長期間に渡って、根掘り葉掘りというか、重箱の隅を・・・みたいな感じで曲を仕上げていくことと「教え込まれ過ぎ」というものに因果関係があるのではないか?そしてそれは、日本の音大の入試や試験の「1曲の一発勝負」というものに起因しているのではないかと・・・

日本の音大の入試、もちろん学校によって違いはありますが、大まかには、バッハの平均律1曲とエチュード、そしてソナタ(多くはベートーヴェン)のある楽章というパターンがほとんどです。エチュードを弾かずに、バッハとソナタのある楽章だけという学校も非常に多いです。というか、ほとんどです。

これ、少なすぎませんかぁ?2曲や3曲を長期に渡り、集中して先生と仕上げていくことが当たり前になっていってしまう。これでは「教え過ぎ」「教え込まれ過ぎ」にもなってしまうのでは?

目出度く入学しても、学内の試験でも、1曲を弾けばいい・・・という学校が多いということにはビックリです。前期と後期で2曲?ソナタも全楽章ということはなくて、ある楽章だけというのが一般的だとか?

少ないのでは?あまりにも・・・

長期集中型、曲数絞込み型だと、どうしても曲への愛情も薄れてきてしまうのでは?

「専門家になるのだから、完成度を求めるの!ミスなんて考えられないほど完璧に仕上げるの!入試なんだから!」ということなんでしょうか?

専門家・・・という割には、曲数が少ないように思えますが?

たとえば、アメリカの音楽院の入試のような形態にしてしまうのは、日本の場合、何かまずいことでもあるのでしょうか?

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category: ピアノ雑感

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もし彼らが日本で教えていたら・・・ 

 

ヴァン・クライバーンがチャイコフスキー国際コンクールで優勝した時、冷戦時代に、ソ連の威信を賭けたコンクールで敵国(?)アメリカの青年がソビエトのエリートたちを破り、勝ってしまったということで大騒ぎとなりました。この出来事は、なんとなくソビエト対アメリカ(西側)のピアニスト対決のように捉えられてしまうところもあるのだけれど、実はクライバーンはロジーナ・レヴィーンの弟子でもありました。

このことは、ソビエト対旧ロシアの対決という側面もあるのではないかと思ったりします。

かつて、多くの偉大な音楽家がヨーロッパからアメリカに渡りました。ピアニストだと、ホロヴィッツもそうですし、ホフマンやローゼンタール、レヴィーン夫妻もそうです。その中で、ロシア人の占める割合は高かったのではないかと思います。彼らは、アメリカに定住し、演奏活動を行ったわけですが、それだけではなく、ピアノ教師として、アメリカ人の生徒を教えました。

その教育の成果が、コンクールという場で発揮された最初の例がクライバーンだったのではないでしょうか?

その後も音楽新興国(?)アメリカから素晴らしいピアニストが輩出されていきます。これは、亡命音楽家たちの教育の成果であるような気がします。その教育現場の中心を担ったのが、亡命ロシア人・・・

1960年代、70年代はメジャーなコンクールで、ソビエトとアメリカのピアニストが優勝を競っていて、とても興味深い・・・

アメリカという国のイメージは「陽気」「ハンバーガー」「カウボーイ」「コカ・コーラ」「ジャズ」といった、およそクラシック音楽とは結びつかないような感じもするのですが、実は非常にロシア人音楽家の影響を受けているのではないかと僕は思ったりします。

1970年にショパン・コンクールで優勝したアメリカのギャリック・オールソンもロジーナ・レヴィーンの生徒でした。また彼は、サッシャ・ゴロドニツキーにも師事しています。ロシアの教えを受けたアメリカ・・・

もし、亡命ロシア人音楽家が、アメリカではなく、日本に亡命していたら、現在の日本のピアノ界はどうなっていたんでしょうねぇ・・・

もし、ホフマンが、ローゼンタールが、レヴィーン夫妻が日本で教えていたら・・・

このコンクール優勝当時のギャリック・オールソンの鮮烈なエチュードを聴きながら、少しだけ切なくなったりもします。

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category: ピアノ雑感

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表現のマニュアル? 

 

コンクール・・・国内のコンクールでも国際コンクールでも同じですが、僕は割とコンクールというものに対しては中庸な感覚を抱いているかと思います。コンクールという制度が「諸悪の根源」とも思わないですし、かと言って入賞者や優勝者の演奏を目をハートにして追いかけるということもない・・・

でも、どちらかと言えば、否定派なのかもしれませんが・・・

ただ、あのような状況で、ともかく「弾き切る」ということ、コンテスタントは凄いんだなぁ・・・と無条件に思います。あれは大変な事ですよ、きっと。

メジャーな国際コンクールで優勝したとしても、そのピアニストのCDを購入しようとか、演奏会を聴こうとは思わないです。「弾ける!」という事は分っていますし。コンクール優勝者は、非常に目立ちますが、いわばピアニストの新人さん。成長を見守りたい感じです。

優勝者の演奏に対して、あまりに批判的な厳しい聴き方をしてしまうのも、ちょっと酷なような気がします。新入社員の働きぶりに対して、例えば、入社1年目の社員に対して、「あなたはプロとしてこうです!」なんて評価を決定づけてしまうようなもので、「少し時間をあげましょうよ!時をあげましょうよ!」という感じではあります。

かと言って、「キャーキャー」と騒いで追い回して(?)旬が過ぎればポイ・・・なんていうのも残酷だとは思いますが。

僕も正直、昔に比べてコンクールの影響力というものは弱くなったかな・・・と感じています。1960年代とか70年代の優勝者は、本当に凄い人がいましたから。

コンクールが乱立しすぎているということも衰退の要因だとは思いますが、どうも価値観が変化してきているように思えます。どこかフィギュアスケートと状況が似ている。

フィギュアスケートも採点システムが(かなり前ですが)変わりましたね。以前のような「全体の印象」「演技全体のインパクト」・・・というよりは、細かく個々の技、ジャンプやスピン、ステップの精度を評価するようになりました。そして、個々の技に対して加点されたり減点されたりしていく。

フィギュアスケートの演技も、大きく様変わりをしました。

最近のコンクールも似ているな・・・と思います。特に日本のコンクールでそのような傾向を感じます。なので、国際コンクールでは、日本人コンテスタントの演奏の、いわば弱点として、その部分が顕著となってしまう・・・

「この部分のリタルダンド」とか「この部分の跳躍」などの項目があって、スケートのように技に対して加点や減点をしているのではと疑いたくなるほどです。遠くない将来、ピアノ・コンクールでも「プロトコル」というものが存在してしまうのかもしれません。

「表現のマニュアル」という暗黙の評価基準というものが、人々に(審査員や教師に)あるとしたら、哀しいですねぇ・・・

ということで、最近のフィギュア・スケート界の動向、日本人選手が大活躍ですが、あまり興味ないんですよね。

個人的には、昔の選手の「全体としてのインパクト」とか「個々の技よりも、選手の醸し出す魅力」のような、そのようなものに惹かれます。

この演技、25年も前の演技なんですね。ジャンプの難易度は、現在の選手とは比較できませんが、技の質は現在でも凄いレベルなのではないかと僕は思います。そしてなによりも「演技のインパクト」というものが凄いです。

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category: The Skaters

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演奏会告知 

 

今月の29日、僕が参加しているサークルの演奏会があります。

場所は杉並の「ソノリウム」という会場です。www.sonorium.jp

開演は14時で終演は18時40分くらいとなる予定です。

僕自身は、ラストから2番目の最後の方に弾きます。

僕の友人や周囲の人間は、クラシック音楽に疎いというか、関心の全くない人間ばかりで、誘っても「かんべんしてぇ・・・」という反応ばかりなので、このブログで告知してみました。もちろんサークルの演奏会なので、入場無料でございます。

いつも、サークルの演奏会や発表会は、孤独に一人で会場に赴き、一人で弾いて、一人で反省しつつ、項垂れつつ帰ってくる・・・という感じで、それもまたいいのですが、今回は告知することで自分を追い込んでみようかと思いました。

ちなみに僕の演奏する曲ですが・・・

ラフマニノフ~アール・ワイルド 「ヴォカリーズ」
チャイコフスキー~パウル・パブスト~スティーヴン・ハフ 「眠りの森の美女」によるパラフレーズ

の2曲となります。この2曲は11月の演奏会に向けて練習している曲なので、まだまだ途中経過というか、弾けてはいないのですが、そして「だったら、なんで告知するんだ?」という気持ちも自分としては充分持ってはおりますが、今回は自分を追い込む必要があるので・・・

それにしても、なんでこんなに苦しみながらピアノの練習をして、そのうえ人前でピアノを弾くのだろう?

答え・・・は見つからないんですよねぇ・・・

kaz


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ピアニストの底力に圧倒される 

 

サークルの演奏会も近づいてまいりました。「どうする?自分・・・」という感じではあります。特に、スティーヴン・ハフの曲ですねぇ・・・選曲を誤ったか?

面白いことに、これまでも本番前に弾けなくて悩んだ事は数多くあるのだけれど、「どうしよう・・・」とか「このままではマズイだろう?」と思うことはあっても、作曲者に対して申し訳ないという気持ちになったことはありませんでした。

ショパンやリストは「歴史上の偉人!」という感覚なので、作曲者に申し訳ないと思うことはなかったんですね。聴く人に申し訳ないな・・・と思うことはありましたが。

でも、スティーヴン・ハフは現役のピアニストだし、僕と近い年齢ということもあるのか、何故か「ハフさん・・・こんなに下手に弾いて申し訳ありません」とハフ本人にひれ伏したい気持ちになってくる。これは初めての感覚ですね。

あとは、存命の人の作品を弾くと、ピアノを弾くという事が、いかに大変なことなのかが、より実感できる感じです。これは、ピアニストの演奏を、外側から客観的に、「ああだ、こうだ」と思うのではなく、そのピアニストの作品を自分で弾くことで、いかに「演奏」というものがシンドイものなのかが理解できるというか・・・

当たり前の事ですが、ピアニストは、人前で演奏しているわけです。ユーチューブなどのピアニストの演奏を、辛辣に批判したりするのは良くないなぁ・・・なんて思えてきます。

自分では楽器を演奏しない、そして演奏したとしても「本番」というものを経験しない人には、決して分らないようなことが演奏というものには存在するのではないでしょうか?

音楽愛好家でプロの演奏を辛辣に、そしてコテンパンに酷評する人がいます。「~という人の演奏を聴いたけれど、あまりに未熟で苦笑してしまった」とか・・・

僕は言いたい。「じゃあ、あなたも人前で暗譜で曲を演奏してみなさいよ!」と。

演奏、そして本番・・・大変なことですよねぇ・・・

例えば、ハフのこの演奏。ここまで人前で、この曲を、このように弾くという事実・・・

僕は、ハフにひれ伏したい感じですね。「弾けなくてすみません」そして「その状況で、ここまで弾くという事実が凄すぎます」と・・・

kaz




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生徒の循環を断ち切るためには? 

 

多くのピアノの先生方のメールを読ませて頂いて、感じたことですが、教室経営の将来の先細りということを懸念されている、危機感を感じている方がとても多い。「将来の不安感」「漠然とした不安感」というものを絶えず感じていて、その気持ちがセミナーなどの参加に駆り立てていると。

簡単に言うと、子供の数が減ってきていている。現に音大も定員割れが問題化していて、昔だったら考えられないようなレヴェルでも合格してしまうこともあるのだとか?

そして、そのような音大から、毎年さらに多くのピアノの先生が輩出されていく・・・

明るくない未来・・・需要と供給の著しいバランスの悪さ・・・

僕の仕事は、高齢者福祉で、こちらは全く逆の現象。先太り(?)の分野ですね。企業も「介護」の分野に注目していて、いかに参入するかに知恵を絞っている。

でも、ピアノ教室や音大は、将来大変です。子供の数は確実に減っていくのだから・・・

一般的に、どの職業にも言えることですが、将来の見通しが明るくない業界(?)の場合は、人と違った視点でアプローチできた人が成長することができます。つまり人と同じ発想をしていては業績が伸びないということになります。

現在のところ、ピアノ教育業界では、「いかに初心者の(子供の)興味を継続させるか?」「興味を引き出せるか?」ということに重心がきているように思えます。その結果、教材研究なども盛んになっているのだと思います。この「辞めさせたくない」=「子供の興味」=「教材や発表会の工夫・研究」というところと異なる視点が、そろそろ必要なのかもしれませんねぇ・・・

そろそろ、何十年も当たり前のようになっている(?)、生徒が中学校や高校に進学するとピアノを辞める・・・という現象を断ち切る発想が必要なのかもしれません。この発想で取り組んでいる先生、つまり小学生ではなく、中学生や高校生で、音大受験などをするわけでもない生徒にターゲットを絞っている先生は、今の所少ないように思えます。

「だって、忙しくなるでしょ?部活とか勉強、受験・・・ピアノの練習なんて無理って言われちゃう・・・」

たしかに小学生の時と比較すれば多忙にはなるのでしょうが、でも実際にそんなに忙しいのでしょうか?

最近は大人のピアノ再開組・・・多いですよね。フルタイムで仕事を持ちながら、家事をこなしながらピアノの練習を細々と(?)続けている人たち・・・

はっきり言って、中学生や高校生などよりも、確実に忙しいはず。では、彼らは、なぜ練習困難な状況でも練習を続けているのでしょう?

「ピアノサークル」で検索してみると、実に多くのサークルがヒットすると思います。でも、多くのサークルでは会員の募集を見合わせています。つまり、サークルに入るのは狭き門なのです。需要が供給を上回っているのです。完全に音大などとは逆の現象が起こっているのです。

ピアノが売れない・・・生徒が子供が減ってきている・・・というピアノ界の先細り現象が、ここ「大人のピアノ」だけは、成長をしている部分なのですね。

「じゃあ、私はターゲットを大人に絞るわ・・・」

その発想は間違えではないと思いますが、大事なのは、「何故大人の人はピアノを続けるのかしら?」「絶対に忙しいはずなのに、なんで辞めないでピアノを練習しているのかしら?」とその理由を探ってみることです。

何故???

その理由、「好きなんだもん!」という漠然としたものかもしれませんが、そこを中学生や高校生にも転換させていくというか、当てはめていって、「生徒の循環作用」というものをストップさせる・・・

「進学」=「ピアノを辞める」という図式を崩して、ピアノ教育界にある「生徒の循環作用」そのものを断ち切る発想をしていく。

「辞める」=「子供の新規入会」=「辞める」=「子供の新規入会」・・・という連鎖を断ち切る。発表会は、毎年小学生ばかり・・・という図を断ち切る。

大人のピアノ・・・ここがポイントなのかもしれません。

kaz


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category: ピアノ雑感

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70歳の青年・・・歌の贈り物 

 

ピアニスト、雁部一浩氏の言葉です。雁部さん・・・ご存じですか?

「そもそもピアノを習い始めるのは、音楽に心惹かれたということが前提でなければなりません。そうでなければ、ピアノを弾こうという動機が無いのですから・・・」

「巷に音が氾濫している今こそ、ピアノを弾けるようになる・・・ではなく、ピアノで何を表現したいのか・・・ということが問われているように思えてならないのです」

音楽が好き!ピアノが好き!・・・当たり前のことのようですが、聴いていて、演奏者がそのように思っているということを感じさせてくれる演奏があまりにも少なすぎます。

今日、6月17日は、米国の歌手、バリー・マニロウの誕生日です。なんと彼は70歳になったんですねぇ・・・

僕は彼のファンということでは決して(?)ないのですが、でも彼は、心の底から「音楽が好き!」ということを感じている・・・それが聴いていて伝わってくる人だと思います。

下積みの長かった人でもありますが、彼はジュリアード音楽院の出身なんですね。部屋代のために、アルバイトを沢山していたそうですが・・・

彼のように、「歌が好きなんだなぁ・・・」とか「音楽が好きなんだなぁ・・・」と感じさせてくれる人が、クラシックの演奏家では少ないように感じます。そこがとても残念です。プロのピアニストだけではなく、ピアノを習っている子供も、楽しそうに弾いている、顔芸ではなく、心の底から「好き!」ということを感じさせてくれる子供が実に少ない感じですね。ピアノってそんなに面白くないですかねぇ・・・

「好き!」と感じることも才能の一つなのかもしれません・・・

kaz




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category: 好きな曲・好きな演奏

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ホロヴィッツの嫉妬 

 

Mischa LevitzkiMischa Levitzki
(1993/01/21)
Anton Rubinstein、 他

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11月の演奏会でレヴィツキの曲を弾く予定です。ミッシャ・レヴィツキ・・・彼の曲もですが、ピアニストとしても現在では忘れられた存在となってしまっているのではないでしょうか?

レヴィツキはウクライナ出身のピアニストで、ミハウォスキ―に幼い頃からピアノを師事しています。デビューは8歳の時。

彼は、アメリカでストヨフスキー、ベルリンでエルンスト・フォン・ドホナーニに師事します。アメリカに帰化した、ウクライナ出身のロシア系ピアニストと言えます。

ウクライナ出身のピアニスト、いわゆる同郷のピアニストに、ウラディミール・ホロヴィッツがいます。実は若きホロヴィッツは、レヴィツキの演奏を聴いています。

「レヴィツキ・・・芸術家ではなく、彼は職人である」

レヴィツキは、ヨゼフ・ホフマンと同様に、楽譜に忠実なタイプとして知られていたピアニストでしたので、ホロヴィッツの好きなタイプの演奏ではなかったのかもしれません。でも、この種のホロヴィッツの暴言(?)は、本当に彼が言った言葉なのか、疑わしいところもあるので、なんとも言えませんが・・・

これは、想像なのですが、当時のスタインウェイ社はピアニストのランク付けをしていました。若きホロヴィッツはBランクでしたが、レヴィツキはAランクでした。当時のAランク・アーティストは、レヴィツキの他にはパデレフスキーやヨゼフ・ホフマンがいました。ホロヴィッツは悔しかったのではないでしょうか・・・あくまで想像ですが。

レヴィツキが「忘れられた存在」となってしまった理由として、彼が亡くなったのが世界大戦の混乱期だったということにあるのではないかと思います。さらに、レヴィツキは心臓発作で42歳の若さで亡くなっています。もし、彼が戦後まで活躍していたら、現在の評価もかなり違っていたのではないでしょうか?

CD数枚分の録音しか残せなかったレヴィツキですが、現代の感覚からすると、充分にロマンティックな演奏に感じられます。

僕は、レヴィツキの演奏、このような演奏・・・とても好きです。

kaz




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category: Mischa Levitzki

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カリスマ教師からのメール 

 

沢山のピアノの先生からメールを頂いております。すべてのメールを読んでいますが、とても返信できる数のメールではないので、この文章を返信とさせて頂きます。

「セミナーに群がる」「ノウハウに飛びつく」「楽しく・・・を強調しすぎている」

多くの先生方が、そのように思っている、そしてそのことに疑問を感じているのには驚きました。実は、先生方も悩んでいる・・・というのがメールを読んでの感想です。まあ、そのような先生しか僕などにメールを送らないでしょうが・・・

不安感・・・というものが、セミナーに群がる原因なのかなと僕は、メールを読んで感じました。実際に、そのようなことを訴えている先生方のメールが多かったです。

不安感・・・それは「自分は取り残されたくない」という焦りがどこかにあると・・・

あるカリスマピアノ教師の方からのメールもありました。その世界(?)では、とても有名な先生なのではないでしょうか?本も出版されていますし、その先生のセミナーは、いつも大反響というか、大繁盛というか。

その先生は、自分の実践に賛同してくれるのは、もちろん嬉しいのだけれど、あまりにも自分のセミナーが「無批判」というか「ワッ!」「キャッ!」みたいに受け取られて、自分をカリスマというか、教祖様のように思っているような、目がハートになっている参加者が多いので、疑問に感じているのだそうです。

なんというか、自分のセミナーの感想を、参加した先生方がブログにアップした文章を読んだりすると、ママ友ブログ(?)の、「公園デビューしましたぁ・・・」とか「今日は、お友達とイタリアンでランチですぅ・・・」のようなノリで、そのような感覚で捉えられていると思うと、とてもがっかりするのだそうです。

「あなたたちは自分というものがないのか?批判精神というものがないのか?」と・・・

僕自身も、セミナーでお話をする立場になることが多く、世界は異なっても、受ける印象は同じです。あまりにも受講者が無批判というか、目がハートになりすぎというか・・・

結局は、自分自身で開拓していくしかないのです。どんな分野の世界でも。ノウハウをそのまま伝授してもらおうと思うのは、あまりにも安易だと僕は思うのです。

なぜ、ワーッ・・・と群がってしまうのでしょう?

そこには「自分が取り残されたくない」という不安感があるのだとしても、結局は、信じるべきものは、カリスマ講師の後光でもなく、仲間でもなく、自分自身の信念、音楽への熱い思いというものしかない・・・

自分の音楽に対する愛情や信念を信じてみればいいのに・・・

kaz


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category: ピアノ雑感

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