ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

豊かな時代、豊かな教材 

 

僕はピアノの教材、特に子供のための教材のことは、よく知りません。ギロックの有名な曲なら知っているかも・・・という程度です。僕が子供の頃とは異なり、今は、本当に色々な教材が存在しているんですね。教材だけではなく、発表会用の曲も、いろいろとあって、今の子供は羨ましい感じです。昔はオースティン(エステン)の「アルプスの夕ばえ」のような曲が発表会での定番でしたが、今は、それらの曲に加えて、現代の作曲家の作品も続々と出版されていて、その点では、時代は進んだのだなぁ…と感じます。

ギロックの曲のような、耳に馴染みやすく、弾いていて、聴いていて楽しく、かつ子供が積極的に練習してくれて、古典の曲よりは、はるかに恰好がつきやすく・・・という曲、このような曲を子供に与えた場合、その子供は、バッハや古典の曲も同じように弾きたがるようになるのでしょうか?このあたりが難しそうです。

たとえば、「ギロックだったら生徒が練習するから・・・」のような考えで生徒に与える先生がいるのだとしたら、それは少し危険かもしれませんねぇ・・・

これは、厳しい捉え方なのかもしれませんが、ピアノの先生の仕事は、「生徒を上達させる」という事にあると僕は思います。お金を貰っているのですから、上手くさせなきゃ・・・

生徒が辞めない・・・楽しく・・・も大切な事だとは思うのですが、たとえば、ギロック作品を生徒が、なんとか弾いたとして、そして生徒も楽しんで弾いたとして、「生徒も楽しく弾けたし、なんとかまとまったし、いいんじゃない?」と捉えてしまうのは、これは違うのかなと・・・

ギロックなら、なんとか弾けても、ハイドンの小曲になると、「あららー」ということでは、やはり、まずいでしょうと・・・

とは言え、昔と比較して、楽しそうな曲が多そうで、今の子供は幸せなのかもしれないと思います。僕の子供時代は、ピアノに関しては本当に選択肢が少なかったですから・・・

たとえば、僕はキャサリン・ロリンのピアノの作品なんかは好きだったりしますね。今の自分が「弾いてみたい!」という曲ではありませんが、子供の時に、このような曲が存在していたら、弾いてみたかっただろうなと思います。

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category: ピアノ雑感

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階段と分かれ道・・・そして迷い道 

 

ピアノを習う、ピアノを弾く・・・初歩から徐々に階段を上がっていって、偉大な作曲家の残した偉大な作品に到達していく。

ピアノを弾く、新しい曲を弾く・・・譜読みや、音が指に馴染むまで、ひたすら頑張る。そして階段を上がっていって、一段、二段上がることができれば、そこで表現をつけていく。

型破り・・・まずは、「型」というものを習得する段階があり、その階段を上がりきれば、そこで初めて「自己」とか「表現」とかということに関わっていく?

階段の下の方にいるのならば、まずはお師匠さんの教えを、そのまま受け取り、階段を上がって初めて光り輝く、音楽表現というものに辿り着いていく・・・

でも、そこに辿り着く前に挫折してしまっては悲惨だわぁ・・・

いわば、真っ白な状態で、「できてから・・・」「上達してから・・・」と、ひたすら真面目に、吸収するだけのごとくに進んでいくという形態と、クラシック音楽の演奏とは、相いれない要素もあったりして。

「演奏者の内なる音楽的ファンタジー」とか「この曲をこのように弾きたい」という欲求のようなものは、それぞれの階段の過程に関係なく、学習者や演奏者が持っているか、持っていないかだとしたら?

「階段方式」というよりは、「分かれ道」

音楽的欲求とか、その人の表現意欲のようなものは、「ある」「ない」という初めの段階で、分かれてしまうものなのでは?「ない」状態で、ひたすら階段を上がり続けることも可能かもしれない。階段はどこまでも続いているのだから。

バレンボイムの言うように、演奏者の音楽的な内なる欲求のようなものは、最も教えるとか、教えられることが困難な要素なのだとしたら?

人間が男と女で生まれてきて途中変換できないように、「内なる音楽的ファンタジー」のようなものは、「ある人」と「ない人」で分れてしまうのだろうか?

そうではないと思いたい。

歴然と、分かれ道で判別されてしまうというよりは、各々のピアノを弾いている段階で、階段を上がっている途中で心の中に出現する「迷い道」があるのではないだろうか?

「なんだか、自分はただ弾いているだけのような気がする・・・」と迷い道に入り込む。でも、ここで「でも自分なんてまだまだだしぃ・・・」とか「もっと上級の段階になってからのことだわ・・・」と、せっかく迷い道に入り込んでも、元の分かれ道の自分の道に戻ってしまう。

そこには「謙遜」というものが見え隠れする。「身の丈に合ったピアノ」のようなもの・・・

でも、自分自身の音楽的な欲求のようなものに耳を傾ける必要のある時が訪れるのかもしれない。それは「迷い道」に入り込んだかのように感じる時なのかもしれない。

「先生は、ああ仰るけれど・・・」「自分はこう弾きたいんですけど・・・なんて、とても言えないわぁ!」

そこで、元の「分かれ道」に戻ってしまうのは、なんだか残念なこと。「私なんかまだまだだし・・・」と。

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category: ピアノ雑感

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自己のためだけに弾かないピアノ 

 

ピアノを再開して、そしてサークルに所属するようになって人前で演奏するようになった。そして早数年が過ぎ去った。最初の頃は、自分が人の前で演奏するということに圧倒されてしまい、ただ曲を最後まで弾き通すことで一杯で、とても聴いている人に、自分の演奏がどのように伝わっているか、どのように聴こえているかなんて考える余裕はなかった。

残念なことに、それは、今も同じ。練習会で上手く弾けないと(いつもだが・・・)今度は以前よりもマシに弾こうと自分なりに頑張る。「弾けますように!」「失敗しませんように!」と。

本来は、演奏というものは、演奏者だけで成り立つものなのか?聴いている人の存在を無視して自分の出来のことばかり考えていていいのか?

自分のために弾くのか?それとも他者のために弾くのか?

アマチュアなんだから自分で弾いて楽しければいいのでは?そこのところは、プロとアマチュアとの決定的な違いになるところだと思う。プロの場合は、演奏に商品価値があるものなのだと思う。「また聴きたい」と思ってもらわなければならないわけだから・・・

アマチュアの場合は、自分で弾いて楽しければいいのでは?自分のために弾けばいいのでは?だからこそアマチュアなのでは?

サークルの練習会では、それでもいいのかもしれない。聴き手=弾き手であるわけで、聴き手が、そこの会場にいる理由は、人の演奏を聴くという楽しみや目的もあるわけだけれど、でも大部分の目的は自分が弾くから、そこにいるのではないかと思う。これは教室の発表会でも同じ。弾き手=聴き手という図式は発表会でも成り立つと思うから。

では、アマチュアが演奏会をする場合はどうだろう?現在はサロン風の会場に立派なピアノが設置されている。アマチュアでも演奏会を開催することは充分可能だ。この場合は、練習会や発表会と何が異なるのだろう?

弾き手=聴き手という図式が崩れるのではないかと思う。ここが違う。有料の演奏会ならば、お金を頂く以上は、アマチュアといえども、演奏に商品価値がなければならないと思う。では無料の場合は?

弾き手=聴き手ではない以上、聴き手は、その演奏会のために(演奏者のために)、時間を捻出し、また交通費をかけて来るということになる。金銭は頂かないけれど、時間と手間を頂くことになる。そうなる以上、弾き手は「自分がどう弾けたか?」「どこまで弾けたか?」ということに加えて、「聴いている人に伝わったか?」「どのように弾けただけではなく、どのように聴こえたか?」という観点が演奏者側に必要になってくるのではないか?

つまり「自分のためのピアノ」というよりは「他人のためのピアノ」という考えが必要になってくるのではないか?

そのような演奏を目指すには、どうしたらいいのだろう?もちろん、練習に励み、演奏の完成度を高めるということは必要だと思う。でもそれが、「自分がどう弾けたか?」で終わってしまってはいけないのだとすると・・・

自分が聴き手の立場だったら、どのような演奏に惹かれるだろう?そのあたりを意識することが必要になってくるのかもしれない。でも、これは相当困難なことのようにも思えてくる。

困難なことには違いないけれど、もしかしたら、このことは演奏の基本なのかもしれないとも思えてくる。

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category: ピアチェーレ

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「カルメン幻想曲」 

 

ユモレスクユモレスク
(1998/02/25)
サレルノ=ソネンバーグ(ナージャ)、ジュディ・ブレイザー 他

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モートン・グールドについて書いていて、ある作曲家を思い出しました。フランツ・ワックスマンです。主に映画音楽で有名な人なのですが、クラシックの曲も作曲しています。

映画音楽、古い映画が好きな人だったら、御馴染みの映画の音楽、実はワックスマンが音楽を担当していたりします。「フィラデルフィア物語」とかですね。ケーリー・グラントとキャサリン・ヘプバーン主演の永遠の名作だと思います。あと有名なところでは、「サンセット大通り」「陽のあたる場所」「裏窓」「昼下がりの情事」など・・・

アカデミー賞も受賞しています。クラシックの曲ではハイフェッツのために書かれた「カルメン幻想曲」が有名です。実は、ヴァイオリニストのナージャ・サレルノ=ソネンバーグが、ワックスマンの作品を集めたアルバムを出していて、これが素晴らしい!濃い演奏なのです。僕は、そこが好きなのですが、嫌いな人もいるかもしれませんねぇ・・・ナージャの、このCDは、クラシックのCDなのですが、主にロック音楽のファンに支持されたりしました。なんだか分るような気はします。

ナージャの「カルメン幻想曲」の動画は残念ながら存在しないみたいですね。なので、仕方なく(?)ヴェンゲーロフの演奏による動画を紹介しておきます。もちろん、ヴェンゲーロフも・・・凄いです!でも僕にとってはナージャの演奏が最高だなぁ・・・

このような技巧的なヴァイオリンの曲、好きですね。でも意外と聴いた印象よりも弾きやすかったりして・・・いや、そんなことはないかぁ・・・

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category: 好きな曲・好きな演奏

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グールドの「ブギウギ・エチュード」 

 

グールドと言っても、グレン・グールドではありません。モートン・グールドです。モートン・グールドはクラシック音楽の分野だけではなく、ポップスや映画音楽の分野でも作品を残している作曲家です。

アメリカでは有名な作曲家だと思うのですが、日本での知名度は今一つなのかもしれません。

でも、「ブギウギ・エチュード」は結構有名な曲なのではないかと思うのですが、どうなのでしょう?チェルカスキーがアンコールでよく弾いていました。それで有名になった曲なのかもしれませんね。

でも、チェルカスキーって誰?・・・という人にとっては、「ブギウギ・エチュード」という曲も秘曲になるのかもしれませんね。

これは自慢話に聞こえてしまうかもしれませんが、僕はチェルカスキーの演奏会を聴いたことがあります。日本での来日公演も聴きましたが、忘れられないのが、カーネギー・ホールでの「80歳記念リサイタル」です。でも、この時のチェルカスキーを聴いたことは、僕の自慢です。もう、何と言ったらいいのでしょうか?彼が弾くと、曲によって会場の空気が変化するんですよね。色が変化するというか・・・

照明がパーッと明るくなったり、暗くなったり・・・そのような効果を、チェルカスキーは演奏で実現するピアニストでした。そのカーネギー・ホールでのリサイタルでもアンコールでモートン・グールドの「ブギウギ・エチュード」を弾いてくれました。

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category: 好きな曲・好きな演奏

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やっと巡り会えた秘曲  

 

昔、テレビ朝日で「日曜洋画劇場」という番組がありました。解説の淀川 長治氏の独特の話し方が印象的でした。もしかしたら、若い人はご存じないかもしれませんねぇ・・・

この番組が放送されていたのは、1966年から2003年まで。長寿番組でしたね。僕は、長い間、この番組のエンディング・テーマが気になって仕方なかったんです。初めてこの曲を聴いたのは、子供の時でしたが、この曲に魅了されてしまいました。クラシック音楽を聴くようになって、ラフマニノフの曲を聴くようになってから、日曜洋画劇場のエンディング・テーマは、ラフマニノフの曲かと思い、調べたりしましたが、どうも違うようなのです。でも、ラフマニノフのピアノ協奏曲みたいな感じなんですよねぇ・・・

ずっと、エンディング・テーマに関しては、誰の曲なのかは謎であったのですが、最近、この謎が解けました。あの「ブギウギ・エチュード」で有名なモートン・グールドの曲だったのですね。

でも、彼のオリジナル曲ではなく、モートン・グールドがミュージカルのナンバーを編曲した「Curtain Time」というアルバムに収録された「So in Love」という曲でした。原曲の作曲者はコール・ポーターです。

「えーっ・・・コール・ポーターですかあ???」

僕にはラフマニノフに聴こえます。コール・ポーターだとは思いませんでしたねぇ・・・

日曜洋画劇場のエンディング・テーマは、モートン・グールド編曲のコール・ポーターの「So in Love」だったわけです。考えてみると、凄い編曲ですねぇ。指揮もピアノもモートン・グールドが担当しています。

30年以上抱えていた謎が解けました!でも、やはりラフマニノフの雰囲気なんですよねぇ・・・

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category: 秘曲

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恥ずかしい選曲 

 

村上春樹の新しい小説が、とても売れているそうで、それに合わせてリストの「巡礼の年」が注目されているのだそうです。クラシック音楽とは無縁だった春樹ファンが、夢中でリストの「巡礼の年」を聴いているのだそうで・・・

「まっ、タイムリーだわ!」とここで「巡礼の年」を弾くのは、ちょっと恥ずかしい。理由はないのですが。

でも、なんだか恥ずかしい感じです。特にプロのピアニストが「巡礼の年」をプログラムに入れることが多くなってくるとしたら、なんだか恥ずかしい。

「うーん、困ったな。ペトラルカのソネットが弾きにくくなってしまうな・・・」と感じるメンタリティを持つピアニストの方が何故だか僕は好きかもしれないですね。これまた理由はないのですが。

フィギュア・スケートで使用されて人々に認知された曲、たとえば「仮面舞踏会」とかですね。このような曲を、いち早く取り入れて連弾とかするのも、なんだか恥ずかしい・・・

理由はないんです。でも、なんだか恥ずかしい・・・

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騒音問題 

 

先日試弾させてもらったピアノ、800万とかするんですね。そうなると現実的に、どうこうできる額ではないので、いいのですが、400万ぐらいになると、「もしかして買えるかも・・・」などと、とんでもないことを妄想し始めてしまいます。でも買えませんが・・・

一軒家ならば、まだ可能性がありますが、集合住宅の場合は、ピアノの値段うんぬんよりも、騒音の事で電子ピアノで我慢している人も多いのではないかと想像します。

少なくても、マンションなどの集合住宅ではピアノの購入を考える場合は、防音設備の費用も合わせて考えていかなければならないので、大変だと思います。

中には、集合住宅で防音もせずにグランドピアノを弾いている人もいるのかと思いますが、でも、その場合は近所の人たちの好意というか鷹揚な人たちと巡り合った幸運なケースなのだと思います。

実際に、「音」というもの、「騒音」というものは、かなり主観的なものもあるのかと思います。

あるエッセイで読んだのですが、細かな内容は忘れてしまい、おおまかな内容ではありますが、たしか、このような話だったと思います。ちょっと書いてみます。

ある女性が、仕事を終えて帰宅し、シャワーを使用したところ、下に住んでいる住民からクレームの電話がかかってきたそうです。「夜、何時だと思っているんですか?23時を過ぎてお風呂なんて非常識です。迷惑です!」
「えーっ、そんなぁ・・・」たしかに遅い時間ですが、その女性は、仕事を終えて帰宅すると、どうしてもそのような時間になってしまう。途中下車してサウナによって洗髪したりしていたそうですが、やはり毎日それはきついし、とても続かない。ある日、大丈夫だろうと、音をできるだけ出さないように、23時過ぎに風呂に入ったんだそうです。風呂から出ると、下から棒でドンドンと天井を叩く音がしたかと思うと、電話がかかってきてしまった。「あれほど言ったのに・・・訴えます!」

これはマズイ・・・と、その女性は友人に中に入ってもらうことにしたそうです。その女性がシャワーを全開にし、その友人と階下の住民とで、音がどのくらいなのか、確認してもらうことにしました。

「あれ?何も聞こえませんが?」「いいえ!よく聞いてください!聞こえるでしょ?」

女性の友人が、排水溝のそばで耳を澄ますと、たしかに、かすかに水の流れる音がするような・・・

「ねっ、言った通りでしょ!こんな音を夜中に出されては困るんですよ・・・」

友人は、女性に言いました。「あれは何をしても駄目だよ!あきらめるしかない・・・」

音というものは、一度気になったら、気になってしまうものなんでしょうね!完全に「無音」の状態にまでできる防音室であればいいのでしょうが、かすかに聞こえる・・・という程度でも、気になる人がいる可能性はあるわけです。そして、クレームがあったら、もうおしまいです。

近所の人の「気持ちの大きさ」「鷹揚さ」をあてにして、高価なピアノを購入するのは、あまりにも大胆すぎることなのかもしれません。

無理をすれば、ピアノ・・・買えるかも?そのような人は多いのではないかと思いますが、でも騒音問題、住宅の事情で購入できない人、泣く泣く電子ピアノを弾いている人は、実は多いのではないかと想像します。

そういえば、昔「ピアノ殺人事件」・・・ありましたね?覚えていますか?

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ピアニスト・・・梶原 完 

 

孤高のピアニスト梶原完―その閃光と謎の軌跡を追って孤高のピアニスト梶原完―その閃光と謎の軌跡を追って
(2004/09/01)
久保田 慶一

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戦前・戦中に日本で教育を受け、ヨーロッパの檜舞台で活躍した、初めてのピアニストが梶原 完です。純国産ピアニストとして世界に飛び出し、そして挑戦をし続けた人でもあります。

梶原 完のレパートリーを見ると、現代の技巧派の若手と、そう違いはありません。ラフマニノフの3番やプロコフィエフの3番、ブラームスの2番のコンチェルト、「ペトルーシュカ」のような超難曲・・・

戦後の荒廃した東京の日比谷公会堂で梶原 完のピアノは、いったいどのように人々の心に響いたのでしょうか?

自分の生涯を賭けて単身ヨーロッパに渡った梶原 完・・・

当時のヨーロッパの人々は、敗戦国である極東の国から来た、梶原 完の演奏をどのように捉えたのでしょうか?

「日本人にもピアノが弾けるのか?」「日本人にベートーヴェン、ショパンが弾けるのか?」

多くの偏見もあったことと思います。現在とは異なり、日本人が達者にピアノを弾きこなすという事実だけで、ヨーロッパの人々は驚嘆したのかもしれません。

梶原氏が当時ヨーロッパの一流のピアニストを聴いて、ショックを受けた可能性はあります。でも、彼はピアニストとして自信をもっていなければならなかった・・・

「通用しませんでした」・・・と日本に帰るわけにはいかなかった・・・

現在の日本で梶原 完というピアニストを知っている人は、どれくらい存在するのでしょう?もしかしたら日本では忘れられた存在のピアニストなのかもしれません。

時が過ぎ、日本が豊かになっていって、国際コンクールに入賞・優勝する日本人の若手が台頭するようになっていきます。それと同時に、梶原氏のヨーロッパでの演奏も減っていきます。

梶原 完という人は、いや、彼に限らず、当時の日本人ピアニスト、開拓者としての役割を担ったピアニストたちは、ピアノ、そして音楽というものに、どれくらい憑りつかれていたのだろう・・・そう考える時に、なんだか僕の胸は熱くなってきます。

梶原氏は日本に帰国することはありませんでした。「日本には戻らないのですか?」と人から言われると、彼はこのように答えたそうです。

「もう僕のことなんて誰も覚えていないよ・・・」

単身ヨーロッパに渡り、現地の人々に「日本人にもピアノが弾ける・・・」という印象を植え付けた梶原 完。多くの日本人がヨーロッパに渡り、留学やコンクールでの上位入賞ということも、当たり前のことのようになっていきます。その幕を開けたピアニストが梶原 完です。扉を開いたのが梶原 完です。

もう少し彼の功績が知られてもいいような気がします。

もうかなり前のことになりますが、ウィーンのムジークフェラインザール、そこで演奏会を聴いた時に、かつて、このホールで弾き喝采を浴びた梶原 完という日本人のことを思い、同じ日本人としてなんだか胸が熱く、そして苦しくなったのを覚えています。

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category: ピアノの本

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ベヒシュタインを弾きまくり 

 

このところ疲れ気味なので、休みの日は一日中寝てしまうことが多いです。でも、それではいけない。

・・・ということで、前もって、近所のレンタルスタジオを予約しておきました。出掛けてピアノを弾く用事を自ら作ってしまうわけですね。

近所にある、そのスタジオですが、外国製、主にベヒシュタインを取り扱う輸入ピアノ専門店の東京ショールームです。3階にスタジオがあり、そこには古いベヒシュタインと、それほど古くないザウターが設置されています。そのベヒシュタイン、由緒ある洋館に佇んでいるほうが似合う感じのピアノでペダルも2本です。東京の人には、僕の居住地がばれてしまいますかね?

弾きにくい・・・というかコントロールが難しいけれど、僕はこのピアノの音は好きですねぇ。

今日は、頑張って(?)スタジオとは別にショールームに陳列されている新しいベヒシュタイン4台も試弾させてもらいました。あとはベーゼンドルファーとホフマンというピアノも弾きました。弾きまくりですね!

でも、やはり僕はメーカー別のピアノの特色を聴き分けたり感じたりする能力には欠けているみたいですね。楽器の個体差は感じますし、古いピアノと新しいピアノの違いも感じますが、でも、夢中でベヒシュタインを弾いても「このピアノは好き」とかは思いますが、「ああ、ベヒシュタインだぁ」みたいなメーカー特有の音に酔うという感覚は無いです。

基本的に、弾きやすく、つまりコントロールしやすく、音も良ければ、ベヒシュタインだろうがスタインウェイだろうがヤマハだろうが、いい楽器であれば、なんでもいい感じです。

古いピアノに関しては、その特色を感じます。なんともいえない音がします。深いというか・・・

でも、古いピアノに関しては、調律師やピアニスト、ピアノの先生によって意見が分かれるところですね。たとえば、オーバーホールをしても、ピアノには限界がある、寿命があるという意見と、いや、古いピアノは木の材質も現在のピアノとは比較にならないような、素晴らしい材質で、現代の技術力で対抗できるような問題ではないという、古いピアノを讃える意見とに、見事に分れる・・・

ホールが古いピアノをピカピカのスタインウェイに安易に交換してしまう風潮を嘆く意見もあったりして、素人は、どちらを信じればいいのか分らなくなってきます。

そうですねぇ・・・個人的には、もし自宅にピアノを購入するとしたら、古いベヒシュタインか、古いニューヨーク・スタインウェイにしたい感じですね。なんだかロゴを見ているだけで生きる勇気が湧いてきそうです。

でも、もし自分がピアノのサークルの幹事で、会場を決める係になったとしたら、新しい現代のピアノを設置してある場所に決めると思います。古いピアノって、コントロールが難しいんだもん。アマチュアのサークルの練習会では、ほんの少しの時間の指ならしだけで本番になるので、コントロールの難しい楽器だと、「えっ?こんなはずではないのに・・・」とか「今までの努力は何だったの?」なんて思って(思われて)しまうと思うし。

でも、ピアノのスタジオとかサロンって、ピアノの情報が大雑把だったりするんですよね。もちろん、ピアノの年代を記載している所もあるのですが、大体は「スタインウェイ設置」とか「ベーゼンドルファー設置」と書いてあるだけなんですよね。型は記載してあることが多いのですが・・・

個人的には、「そんなことは、どっちでもいいから、制作年代を記せ!年代を!」なんて思ってしまいます。


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category: ピアノ雑感

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「どうして、いろんなピアニストを知っているの?」 

 

「どうしてkazさんは(有名でない?)いろんなピアニストを知っているのですか?」

このブログを読んでいるサークルのメンバーに質問されたことがあります。うーん、どうしてでしょう?

正直、僕はそんなに特殊な趣味というか、変わったピアニストを聴いているという自覚はありません。でも一般のCDショップのクラシックコーナーで売られているピアニストの演奏を聴くだけでは満足はできないのも事実ですね。

ラン・ランもユンディ・リーも、アルゲリッチも素晴らしいピアニストだとは思いますが、でも有名な、売れているピアニストの演奏だけを聴いて「これがピアノの世界ね!」と思ってしまうのは、なんだか残念なような気はしますね。有名なピアニストしか聴かない、知らないというのは、やはり残念・・・聴いている本人がそれで満足していればいいのだとは思うのですが・・・

もし、有名なピアニストの演奏だけではなく、もっと沢山のピアニストの演奏を聴いてみたい、でも誰を聴いていいのか分らないということであれば、僕なりの助言としては、「好奇心を持つべし」・・・ということです。

好奇心???

ショパンの楽譜のエキエル版、「ああ、高い楽譜ね!」と思うだけではなく、校訂者のヤン・エキエルというピアニストの演奏を聴いてみたいと思うか、思わないか、ここが分かれ道というか、これが好奇心なのではないかと思います。エキエルの演奏はユーチューブで簡単に聴くことが可能です。

エキエルの演奏が好きな人もいるかもしれません。僕はダメですが・・・

エキエルの芸術にハマれば、彼の演奏に酔えばいいのだと思います。もし、気に入らなければ、パデレフスキー版の校訂者、トゥルチンスキーに注目してみます。これも好奇心ですね。少し調べてみれば、トゥルチンスキーの弟子に素晴らしいピアニストが多いのが分ってきます。チェルニー=ステファンスカ(有名!)、マルクジンスキー(まあまあ有名)、シュトンプカ(有名でない?)、マリラ・ジョナス(一部で有名?)・・・彼らの演奏もユーチューブで聴くことができます。

「どんなピアニストなんだろう?」・・・好奇心ですね、やはり。

グールドに注目してみましょう。「グールドって変わってるわあ・・・変わった人だったみたいだし」とグールドの演奏を聴くだけでもいいのですが、グールドの演奏にどこか普通でないものを聴きとったのだったら、何かしらの影響があって、そのような演奏に変化していったのか興味が出てきますよね?グールドのインタビュー記事やグールド関係の書籍を読むと、あるピアニストの名前が浮上してくるはずです。

ロザリン・テューレックです。「彼女は、どんな演奏をするのだろう?彼女もバッハの演奏で有名なのね?」・・・好奇心ですね。

また、いろいろなピアニストを知るための方法として、師弟関係を調べてみると、広がりが出てきます。ロザリン・テューレックはオルガ・サマロフという人に師事しています。このオルガ・サマロフに師事したピアニストに、あのウィリアム・カペルがいます。

「オルガ・サマロフ門下って、どんなピアニストがいるのだろう?」と好奇心を持って調べてみれば、広がりが出てくるのではないでしょうか?

このように好奇心旺盛な人になれば、自然と多くのピアニストの演奏に接することになっていくのではないでしょうか?

ヘンリク・シュトンプカの演奏するショパンのマズルカです。このような演奏を聴くと、やはり好奇心を持って彼の存在を知ることができて良かったなと思います。

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category: ピアノ雑感

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老いに負けない人 

 

今日、4月24日はバーブラ・ストライサンドの誕生日です。ブルックリン生まれのバーブラはクラブ歌手からキャリアをスタートさせました。そしてレコードデビュー、ブロードウェイでミュージカル「ファニー・ガール」の主演、その映画版でアカデミー主演女優賞を獲得、スター街道を突き進みます。

日本では本国アメリカほどにはバーブラの認知度が高くないのが非常に残念です。大昔に映画のプロモーションのためチラッとだけ来日しただけで、歌手として来日していないのもあるのかと思いますが・・・

僕はバーブラの映画のDVDとCDはすべて持っています。大好きですねぇ・・・バーブラ!

日本人好みの「ビューティー♡」という容姿とは異なるので、今一つ認知度が低いのかなぁ・・・なんて思ったりもするのですが、活躍の場が彼女の場合は広範囲なので、歌手とか女優などという観点で捉えることが難しいことも日本での認知度の低い原因なのかなと思ったり・・・

僕がバーブラを好きな理由は、まずは「歌がメチャメチャ上手い!」ということと、常に前進しているということでしょうか?ミュージカルでブレイクすると、どうしてもそのイメージがつきまとうものです。成功した役柄が新たなイメージの邪魔をしてしまう。でもバーブラは映画「追憶」で、ミュージカル女優としてのイメージを完全に一掃しました。この映画のラストシーンで涙しない女性(男性も)はいるのでしょうか・・・

歌手としてグラミー賞、女優として、そして作曲家としてアカデミー賞、監督としてゴールデン・グローブ賞、その他トニー賞やエミー賞・・・バーブラが獲得していない賞はないのではないでは?

歌手としては60年代、70、80、90、2000、2010年代とアメリカのアルバムのセールスのトップ10にバーブラのアルバムはランキングされています。時代を超越したところがバーブラの歌唱にはあるような気もします。ランキング1位のアルバムも2010年代を除き、すべての時代に存在します。2010年代もまだ先が長いので、きっとランキング1位のアルバムを出すでしょうね。ちなみに、60年代から現在までトップ10のアルバムが存在するのはローリング・ストーンズ(36枚)、フランク・シナトラ(33枚)、そしてバーブラの32枚、そしてビートルズの30枚と続いていきます。

最近は、録音やコンサート活動が目立っていたバーブラ、つまり歌手としての活動が目立っていた印象でしたが、昨年はアメリカで主演映画「The Guild Trip」が封切られました。

現在は、おそらく監督として映画の撮影をしているのだと思います。「Skinny And Cat」という映画で主演はケイト・ブランシェット、コリン・ファースです。

バーブラ、今日の誕生日で71歳になるんですねぇ・・・驚きです!

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category: Barbra Streisand

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絶対音感は必要か? 

 

僕は絶対音感があります。別に訓練して身につけたわけではないのですが、たとえば電話の呼び出し音や、踏切りの音など、「これはAの音だな・・・」と耳で認識することができます。もちろん、楽器の音も何の音が鳴っているのか分ります。この能力は、実生活上とても便利で・・・ということは全くなく、生活していて絶対音感が役に立ったという実感はありませんねぇ・・・

ピアノを弾くということになると、絶対音感が役に立っているという事はあるのだと思います。たとえば、楽譜を見て頭の中で音を鳴らすことができます。譜読みをしていても、先の音や和音の音を頭の中で鳴らしながら譜読みをしているので、なんとなく便利な感じです。絶対音感があると、実際にピアノに触らなくても練習できる部分が多くなるような気もします。やはり、便利なのではないかと思います。

でも、音大を受験するわけでもないので、和声聴音や旋律聴音ができても、僕の場合は関係ない感じですねぇ・・・

むしろ、絶対音感を持っていると不便なことも多いのではないかと感じる時もあります。たとえば、バロック時代の作品の演奏で、当時のピッチで演奏されてしまうと、ハ長調と書いてあるのに、どうしても変ロ長調に聴こえてしまい違和感を感じたりします。有名な曲は、調性も耳にインプットされてしまっているので、低く聴こえると気持ち悪いです。

僕は「カラオケ」とかは、やりませんが、カラオケはピッチを自在に変えられますよね。高音が出ないので、低くしたりするといったことが可能です。僕は、これ・・・できないと思います。

クラシックでも、声楽の人は、高声用と中声用の楽譜を自在に行き来(?)できる人が多いみたいで、羨ましい感じです。絶対音感があると、このようなことは厳しくなるのではないかと思います。調を変えるのであれば、僕の場合、もう一度その調で練習し直さないと歌えないのではないでしょうか?まぁ、もともと歌えませんが・・・

でも、聴くこと専門でも、たとえばシューベルトの「鱒」は変二長調として脳内に音や調性がインプットされてしまっているので、「鱒」をイ長調で歌われると、歌唱の出来に関係なく違和感を感じてしまったりもします。

昔、クラリネットに興味があり、習っていたことがあります。でも、クラリネットって記譜音と実音が異なる楽器で、これに苦労しました。ドレミ・・・と楽譜に書いてあり、ドレミと吹くとシ♭ドレ・・・という音が鳴るわけです。僕の頭が固いというか要領が悪すぎたのだと思うのですが、僕の場合、楽譜に実音の階名を書かないと混乱してしまい、吹けません。「楽譜に階名を書いてはいけないんですよぉ・・・難しい曲が吹けなくなりますよぉ・・・」と先生に注意されました。そして実際に難しい曲が吹けるようになる前に、クラリネットを断念することになりました。

クラリネット・・・いい曲が多いんですよねぇ・・・

ブラームスのクラリネット・ソナタなんか憧れましたね。絶対音感さえなければ、クラリネットも続けていたのかもしれませんね。でも、この場合は、僕の要領の悪さが原因のような気もしますが・・・

ブラームスのクラリネット・ソナタです。なんで記譜音と実音が異なっても頭が混乱しないのだろう?聴いていて、もしくは吹いていて気持ち悪くならないのでしょうか?

絶対音感があると不便だ・・・

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今やりたいこと・・・今できること・・・ 

 

人知れぬ涙アヴェ・マリア[CD]人知れぬ涙アヴェ・マリア[CD]
(2002/07)
山路 芳久

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声楽に詳しい人でなければ、ご存じではないのかもしれませんが、1970年代から1980年代後半にかけて、世界を舞台に活躍した日本人テノール歌手がいました。山路 芳久さんです。

日本人男性歌手として初めてウィーン国立歌劇場、そしてバイエルン国立歌劇場の専属歌手として活躍されました。僕も若かりし頃、山路さんの歌声、「愛の妙薬」のネモリーノを生で聴きました。

なんというか、日本人離れした歌唱というのが、僕が当時感じた感想です。器楽と異なり、声楽は自分の身体そのものが楽器なので、日本人が外国人と対等に国際舞台で歌うということは、僕にとっては、それだけで驚異的に思えてきます。

山路さんの声は美しいです。でも、それ以上に音楽に憑りつかれている人特有の何かを、その歌唱から感じます。

ヨーロッパで活躍されていましたが、日本にも帰国し、その素晴らしい歌声を披露されていました。年末の「第九」の常連歌手でもありましたね。

1988年、年末・・・12月に17回の「第九」公演という過密スケジュールをこなしていた山路さんでしたが、12月19日夜、10回目の「第九」を歌われた後、亡くなりました。その前にも胸の痛みを訴えられていたようなのですが、死因は心筋梗塞だったそうです。

生前の活躍ぶりを考えると、山路さんの録音は極端に少ないです。当然周囲からも、録音を促されていたらしいのですが、山路さんは、いつもこう仰っていました。「まぁ・・・そのうちにね・・・」

山路さんの、当たり役「愛の妙薬」のネモリーノのアリア・・・僕は、まだ山路さんが亡くなったということが今でも信じられないという思いです。

山路 芳久・・・享年38歳・・・

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大人のピアノ人生と選曲 

 

サークルのメンバーと話していると、選曲のことが話題になったりします。僕のように自由奔放に、弾きたい曲を弾かせてくれる先生ばかりではないという事実に驚いたりもします。

考えてみれば、いや、考えてみなくても、順を追って、階段を上るように選曲をしていったほうがいいのかもしれません。あまりに無謀な曲に、憧れだけで挑戦するのは、時間のロスもあるし、上達をする・・・という観点から考えると、あまりよろしいことではないのかと・・・

でも、「上達」というのは、大人のピアノの場合は、一つの側面にすぎないこともあるのではないかと僕は思うのです。「なんのためにピアノを弾くの?」=「上達したいからです」「上手くなりたいからです」と単純には言えないこともあるのではないかと。

無謀な曲・・・ショパンのワルツを、やっと弾けるようになった段階で、ショパンのバラードの4番を人前で弾こうとするのは、これは難しいかと思うのですが、でも、次のようなケースだったらどうなのだろう?例えば「まずはショパンのエチュードを弾いてからにしなさい!」とショパンのバラードの4番を弾きたいという大人の生徒に対して、バラードを弾くことを却下してしまうのは、ちょっとどうかな・・・と僕は思ってしまうのです。その生徒が弾きたいのであれば、弾かせればいいのにと。

ピアノのレッスンに通ったり、サークルに参加したり、そして日常の生活にピアノを弾くということが、組み込まれている生活、なんとなく、このような生活が当たり前のように感じてしまうのですが、大人の生徒の場合、特に40代以上の生徒の場合、この生活は、とても恵まれた、幸福な、そして場合によっては一時だけの、ささやかな、かつ最も幸せな生活なのかもしれません。

現在は健康でも、来月には深刻な病が見つかり、長い闘病生活を送るかもしれません。自分が病気にならなくても、家族の誰かが病気になったり、介護を長期間行う必要もでてきたりするかもしれません。

可能性から考えると、大人の生徒の場合は、現在のピアノ生活が継続できないかもしれない・・・という事を、常に頭のどこかで考えている必要性があります。

「一年後は、ピアノを普通に弾くという生活は自分には存在しないかもしれない」「一年後の自分は、この世に存在しないかもしれない」

とても辛い現実ではあるのですが、これは認識しておくべきかと僕は思います。「まあ、自分は健康だから、10年後に憧れの曲が弾ければいいかも・・・」などと思っているのは、相当能天気な人なのではないかと感じます。

もし、ピアノ生活を継続できなかった時が訪れた場合、最も不幸なのは、「ああ、あの曲を弾きたかったな・・・」「仕上がらなかったかもしれないけど、弾いておきたかったな・・・」と後悔することではないでしょうか?

恐る恐る先生に弾きたい曲を提案してみて、案の定却下されてしまう、または先生に却下されるのを想定して、自分の希望の選曲を言い出す勇気が持てない・・・このような場合、先生のいう事に服従してしまう前に、今一度自分の心に問いかけてみる必要があります。

「自分は一年後、あるいは半年後、現在のような生活を送っていないかもしれない。ピアノを弾けるのは、今だけかもしれない。弾けなくなった時に自分は後悔しないだろうか?弾きたい曲を弾かずに心残りはないだろうか?」

大人の場合、人生の舵取りは自分自身で行うように、ピアノ生活も自分自身で舵取りした方が、後悔のない人生、ピアノ生活、ピアノ人生が送れるのではないでしょうか?

たった一度の自分だけの、そして、もしかしたら短い人生です。自分のピアノ人生を満喫する権利が大人の生徒にはあると僕は思います。

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category: ピアノ雑感

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白い天井を見つめながら・・・ 

 

昨日はサークルの練習会でした。昨日弾いて、一日が経過して、やっと昨日は弾いて良かったと思えるようになりました。出来は良くなかったですねぇ・・・本当に良くなかったですねぇ・・・

体力の無さが致命的です。1曲目に「ヴォカリーズ」を弾いたのですが、弾いている途中で、立ちくらみが(座っていましたが)・・・

緊張すると、体力を使うんですねぇ・・・

2曲目の「眠りの森」は、一応最後まで止まらずに(休まずに?)弾けましたが、気持ちを入れることができなかったです。なんというか、高熱の状態で、ピアノを弾いている感覚でしょうか?とにかく、身体に力が入らず、気持ちも落ちてしまいました。

冷静に考えてみれば、退院して昨日が、ちょうど一か月だったんですよね。仕事も全面復帰したばかりで、本当はピアノどころではなかった。仕事や生活が、ある程度落ち着いて、身体も楽になってからピアノは復帰すればよかったのかもしれません。昨日は、「まだ、早かったかな?」「人前で緊張した状態でピアノを弾くのは、まだ無理だったのかな?」と正直思いました。

「やっぱり、練習会はまだ出るべきではなかったのかも・・・」

一か月前、病室の白い天井を見ながら思ったものです。

「またピアノが弾けるかなぁ?」「またサークルに参加できるかなぁ?」

白い天井を見つめながら、そんなことを思っていました。そして、「また、またピアノが弾けるのだったら僕は何でもします・・・だから、もう一度だけピアノが弾ける生活を僕にください・・・」そう感じました。

昨日は、身体に力も入らず、そして術後の痛みを感じつつ、弾きました。出来は到底満足できるものではありませんでしたが、一日が経過して、もしかしたら僕は、またピアノを弾く生活を取り戻したのかもしれない・・・そう思えるようになりました。

当たり前のことですが、退院直後と比較すれば、体力は戻ってきています。「今現在、以前と比べてできないこと」ばかり考えるのではなく、「今は体力が持たないけれど、2か月後、3か月後は、今よりは以前の状態に戻っているだろう」と考えたい感じです。

今は、どのように弾きたいとか・・・あまり自分には重要ではないです。今は、ただこのように思います。

「ピアノが弾ける生活を続けさせてください!」と。今は、それだけでいい!それだけで・・・

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category: サークル

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本番前の心境 

 

今日はサークルの練習会の日です。東京は雨です。なんだか、僕の起きた時の気分を表しているような陰鬱な天気であります。

本番当日にブログを書いているなんて余裕のようですが、出掛ける前に、あまり練習してしまうと本番で弾く体力が足りなくなってしまうので、自重しています。なので、なんだか落ち着かないので、パソコンに向かっています。

いつも人前で弾く時には、「失敗しませんように!」とか「無難に弾けますように!」と自分のことばかり、自分が、どう弾くか・・・ということばかり気になってしまいます。弾いている最中もそうです。でも、弾き終わったとたん、後悔するのです。

「あそこは、もっと積極的にいけばよかったな」とか「なんだか委縮していたな」と、自分を表現できなかったというか、出し切れなかったような後悔が残ります。つまり、弾き終わるまでは、「安全」ということばかり考えてしまい、弾き終わると「人に伝わったか・・・」ということが気になるのです。

このあたりの精神面のバランスの持って行き方が僕は下手なのだと思います。できれば弾く前、そして弾いている最中でも「人に伝える」とか「聴いている人との空間や時間の共有」といったことに集中できれば、ここまで本番前に緊張することもないのかもしれません。

しかしながら、今現在は「今日は失敗しませんように・・・」としか思えません。自分の演奏が心配で心配で心配で仕方ありません。自分のことしか考えられないですねぇ・・・

演奏者の心境と、聴き手の感覚・・・これは、やはりギャップがあってはいけないですね。でも、ここが難しいです。どうしても「どうしよう・・・」と自分だけのことで一杯になってしまいます。

連弾やアンサンブルの場合、僕は、ほとんど合わせ物の経験はないので、これは聴き手としての感想なのですが、合わせ物で注意すべき事は、自分たちだけで楽しんでしまうという演奏にならないようにということだと思います。連弾とかデュオって、弾いていて楽しいのだと思います。

でも、自分たちだけで「わっ!」「きゃっ!」と楽しんでいるだけでは、聴いている人に伝わりません。「なんだか楽しそうね?」ということは伝わるのかもしれませんが、でもそれは、曲の中身を聴いている人と共有するということとは違うのではないかと思ったりもします。

ソロの場合も、そして合わせ物の場合も、やはり演奏者は「どのように伝わっているか?」「聴き手と共有できているか?」ということが必要なのだと思います。でも・・・そこが難しい!

一流のプロの場合、そこがアマチュアと違うのかなぁ・・・なんて思ったりします。動画のショスタコーヴィチの曲は、実に楽しい曲です。どうしても、「わっ!」「きゃっ!」と演奏者が楽しんで終わってしまいがちな曲ですが、プロの場合は、そこで終わらずに、聴き手に伝えるという、したたかな計算のようなものがあるような気がします。

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category: サークル

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明日は練習会! 

 

今帰宅しました。22時過ぎましたねぇ・・・

これから夕食を作って食べて、少し練習ですね。もしかしたら寝てしまうかもしれない・・・

明日はスティーヴン・ハフ編の「眠りの森の美女によるパラフレーズ」が、とにかく心配です。なんだか家で練習している時は、曲の途中で休まないと弾けないんですよね。つまり、1曲を通して弾き切る体力がない。これは困ったことです。

アール・ワイルド編の「ヴォカリーズ」も、とにかく心配です。この曲は暗譜が心配です。後半の盛り上がる箇所を弾くと、やはり体力を消耗してしまいます。

心配ばかりしている自分・・・

明日は、栄養ドリンクを飲んでから弾こうと思います。

初めて人前で弾く曲は、やはり緊張しますねぇ・・・何かが聴いている人に伝わればいいのだけれど。

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category: サークル

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開拓者の、それぞれのスタンス 

 

ピアニストへの道 (もういちど読みたい)ピアニストへの道 (もういちど読みたい)
(1999/01)
室井 摩耶子

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安川氏や原氏のように、基礎から、または基礎の仕上げの段階をフランスで学んだピアニストと異なり、室井氏は日本での教育を終えて、ピアニストとしての活動を日本で開始してから渡欧している。このような場合、日本で自分が受けた教育と現地でのそれとのギャップがあるのが普通だ。そのあたりを、どのように著者が受け取っていくか・・・という点が読みどころとなる。

室井氏の場合は、「一度、ヨーロッパで自分を無にして吸収する。それで無くなってしまうような自分だったら無くなってしまってもいい」というスタンスを貫いている。日本での研鑚や努力といったものでは、どうにも解決できない部分、それは「文化」というものかもしれないけれど、そのカルチャーショックのようなものを、自分なりに咀嚼していき、音楽語法なるものを開眼していく著者の粘り強さを、この著作からは感じる。

ピアニストその人生ピアニストその人生
(2005/10/01)
園田 高弘

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園田氏の渡欧は、学生の身分に戻り研鑚を積むという目的ではなく、完全に一人のピアニストとして本場ヨーロッパでの腕試しというスタンスを貫いていて、室井氏と、ほぼ同じ時期の渡欧ではあるが、両者の物事の受け取り方の違いがはっきりしていて興味深い。この園田氏の「ピアニストその人生」という著作の後半は日記になっていて、その日記は、みすず書房から1960年に出版された「音楽の旅~ヨーロッパ演奏記」からの転用である。この日記が面白い。でも、古書店関係で検索しなければ手に入れにくい書物かもしれない。この日記を読むと、華やかなヨーロッパでのデビューといったものが、実際はどのようなものであったか、ある意味「開拓者」として、どのような苦労があったのかを、園田氏は自ら赤裸々にこの日記で語っている。

「自分は、ここで成功しなければ後がないのだ!」という、ある意味切羽詰まった意識の有り無し、その違いを、室井氏と園田氏の著作で感じる。一度自分を無にすることができた室井氏と異なり、園田氏は、頑ななまでに、自分というもの、ピアニストとしての自らの自信というものに、どこか固執する。園田氏は、現地で当時活躍していた演奏家の批評を日記に記しているが、見事なまでに痛烈に批判している文章が多い。チェルカスキーやサンソン・フランソワの演奏に対しても、優れた要素は認めつつも、彼らの演奏に無条件に降服するということが一切ない。

自らのキャリアを賭けた渡欧という意味においては、室井氏も園田氏も変わらないと思うのだが、両者のスタンスの違いが、はっきりしていて興味深い。この違いは、男女の違いによるものなのだろうか?ほぼ同時期、ベルリンでロロフ教授のレッスンを受けた二人・・・でも、受け取り方が、両者で、あまりにも異なる。

室井氏と園田氏の著作は、合わせて読むと、いろいろと面白いのではないかと思う。

男性は順応性に欠けるのであろうか?

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category: ピアノの本

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女の分際で生意気なんだよ・・・ 

 

幸田姉妹幸田姉妹
(2000/01/01)
萩谷 由喜子

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今日、4月19日は日本の女性音楽家のパイオニア、幸田 延が生れた日です。幸田 露伴は延の兄になります。いくら幸田家がエリート一家だったとはいえ、少し前までは江戸時代であったわけですから、延が洋楽の道に進むということ自体が大変なことだったのだと想像します。実際、延も最初は邦楽を学んでいました。延の才能を見出したのは、あのメーソンだと言われています。

少女であった延は、洋楽を学び、明治時代、ボストンとウィーンに留学しました。あの時代に外国でピアノやヴァイオリンを学んで帰国した延、当時は光り輝いていたのではないかと想像します。東京音楽学校で後進の指導にあたり、滝 廉太郎、山田 耕作、三浦 環、そして久野 久といった人材を育てています。

華やかな洋装を身にまとい、流暢な英語とドイツ語を駆使し、外国人教師とも対等に接する延、周囲の男性からの反感、男社会からの嫉妬・・・そのようなものを全て受けてしまった幸田 延・・・

時代は明治になったとはいえ、まだまだ人々の意識は江戸時代のままだったのではないでしょうか?

「女のくせに生意気だ!」「なんだあの態度は?レディーファーストだかなんだか知らんが、女の分際で我々と対等に接しようとする。外国語を自慢げに披露したりするのもけしからん!」

「幸田 延を叩き潰すのだ。そうしないと我々が危なくなる。あの女を潰すのだ!」

延は「上野の女王」「上野の西太后」などと陰口を叩かれて、東京音楽学校をスキャンダルと共に去ることになります。そして再びヨーロッパに旅立つことになります。

幸田延の『滞欧日記』幸田延の『滞欧日記』
(2012/04)
瀧井 敬子、平高 典子 他

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このことは、延にとっても悲劇であったのかもしれませんが、日本の音楽界にとっても悲劇だったのではないでしょうか?帰国後、延は自分の弟子と皇族、そして外国人音楽家とのみ関係を築くことになります。日本の音楽界との遮断を行っています。「精神の卑しい者とは一切つきあいません・・・」と。

ここまで書いてくると、幸田 延の受けた迫害は昭和時代に活躍したピアニスト、原 智恵子のそれと完全に重なるような気もしてきます。「女のくせに生意気だ!」「今のうちに叩き潰すのだ!」・・・

彼女たちの存在そのものが、当時の男のコンプレックスを刺激してしまったのでしょうか?

現在は、21世紀、平成の時代。さすがに、そのようなことはないでしょうね。話は急にそれるけれど、「イクメン」という言葉があるそうです。育児に積極的に参加するパパのことだそうです。

「イクメンかぁ・・・時代は変わったのねぇ・・・時代は進んだのねぇ・・・」

そうでしょうか?共働きの女性が育児をして話題になることはあるのでしょうか?ないですよね?なぜ男性だけが育児をすると話題になり、「イクメン」などという言葉が生まれたりするのでしょうか?もしかしたら、根本的には平成になっても、あまり変わっていないのかもしれません。幸田 延の生きた時代から・・・

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category: ピアノの本

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「俺はピアノを弾きたいんだ!」 

 

僕はシフラ・・・大好きです。曲芸的などと言う人もいますが・・・

大好きなシフラなのですが、彼の演奏を聴くと、ちょっと辛くなります。シフラと言えば、リストの演奏が有名で、どこか華やかなイメージのあるシフラ。超絶技巧を駆使した編曲も有名です。でも、シフラというピアニストの人生を辿ると、なんとも哀しい気分にもなってきてしまうのです。そこが僕にとっては辛いところでもあります。

指揮者でもあった息子は、火事で焼死しています。このことは、シフラに大きな精神的打撃を与えたようです。一時は、コンチェルトや録音からも遠ざかってしまったシフラ・・・

シフラは決して恵まれた、豊かな家庭に生まれたわけではありませんでした。父親は、収容所送りになってしまったりして経済的にはどん底の状態でした。母親と姉が皿洗いなどをして、どうにか食べていくことができるようになっていったという状態・・・

それでも、少しづつ経済的にも余裕ができて、レンタルのピアノがシフラ家に届きました。この時がシフラとピアノとの出会いでした。病弱であったシフラは、ベットの中で姉の弾くピアノを聴いて育ったようです。

もちろん、才能に恵まれ神童として有名になっていきますが、経済的な自立を得るために、夜の街のバーのピアノ弾きからキャリアをスタートさせました。

戦争中に、戦場にてシフラは、片耳の聴力を失っています。これは、あまり知られていないことかもしれません。

さらに、ソビエト支配下のハンガリーを脱出しようとしますが、密告され、シフラは3年間囚人として過ごすことになります。もちろん、ピアノなどは弾けません。それどころか、何十キロもある石をひたすら運び続ける労働を行ったため、この時シフラの右手の筋は伸びてしまいました。

シフラは、演奏中、右手の手首に皮のリストバンドをしています。使用の理由は数説あり、筋の伸びた右手でピアノを弾くため、囚人時代の強制労働を生涯忘れないため、そしてハンガリー脱出時に鉄条網で怪我した跡を隠すため・・・数説あります。

国外脱出、まさに命がけの脱出後、3年もの間弾けなかったピアノで再起を誓ったシフラ、右手の筋が伸びている状態でピアニストとしての再起を誓ったシフラ・・・

彼は、再び夜のバーのピアニストとして、キャリアの再スタートさせました。

おそらく、シフラの演奏を聴いて辛くなるのは、彼の壮絶な生涯もそうですが、シフラの音楽への熱い思いのようなものが、演奏に滲み出ているような気もしてきて、そこが辛いのかもしれません。聴いていて、こちらの胸も熱くなりすぎてきて、なんだか痛くなるのです。

音楽への熱い思い、そして演奏から感じるシフラの思い・・・

「俺はピアノを弾きたいんだ!」

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category: ピアニスト

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朝練の試練 

 

夜は疲れてしまうのでピアノの練習が辛いかと想定して開始した朝練習ですが、まあまあ・・・という感じでしょうか?朝に練習しておくと、夜に「ああ・・・弾かなくては・・・でも身体が動かない・・・」という時に、堂々と(?)寝ることができます。心の中の葛藤のようなものは少なくなりましたかねぇ?

それまでは、この「今日は練習は無理・・・」と決断する時の、心の中のモヤモヤが結構辛かったんですね。

朝練習で辛いのは、時間になったら途中で練習を中断しなければならないこと。「ああ、もう少しだけ弾きたいな」という時に出勤時間になってしまいます。ピアノのために仕事を遅刻するなんて、ありえませんから。夜の練習だったら、このようなことはありませんね・・・

途中で中断するのがイヤなので、段々と起床時間も早くなってきてしまいました。今は、4時半とかに起きて練習したりしています。練習しながら、「自分は何をしているのだろう?」なんて思ったりもします。でも、21日の練習会までの辛抱なので、もう少し頑張りたいと思います。

夜に、「頑張れば練習できるかも?」なんていう時もあるのですが、朝練習をしていると「まっ、無理をすることもないか・・・」などと思ったりもして、朝練習は実際の所、効果があったのかは、ちょっと不明なところかもしれません。

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category: ピアノ雑感

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僕とラフマニノフ 

 

初めてのロシア音楽との出会いはチャイコフスキーの5番と「悲愴」、シンフォニーでした。その後すぐに「シェエラザード」とショスタコーヴィチの5番のシンフォニー。小学生でした。音楽好きな少年としては、ごく普通の入り方をしたのかと思います。

ラフマニノフとの出会いはピアノ協奏曲の2番でした。このあたりも、音楽少年として、ごく普通の聴きはじめ方だったのかと思います。

ラフマニノフのピアノ曲も、同じころに知りました。小学生の時でしたが、何故か夢中にはなりませんでしたねぇ・・・

バイエルを嫌々弾いていた頃ですが、自分でも弾いてみたいなぁ・・・とその頃に思ったのは、ショパンの曲でした。ラフマニノフではなかった。

ラフマニノフの曲に夢中になったのは、やはり小学生の時でしたが、ニコライ・ゲッタとワイセンベルクの共演によるラフマニノフの歌曲集のレコードでした。ここでラフマニノフに夢中になりました。今でも、ラフマニノフの作品では歌曲が好きです。小学生の時から、これは変わりません。

ピアノを弾いていると、どうしてもピアノ曲ばかり聴いてしまうのですが、ラフマニノフの究極の音世界の美は、僕は歌曲にある、歌曲から感じると個人的には思っています。

「ヴォカリーズ」も歌曲ですね。もともと歌詞のない曲ということが理由なのかもしれませんが、この曲は、様々な楽器に編曲されています。でも、ラフマニノフの歌曲の中で僕が最も愛する曲は、この「ヴォカリーズ」ではなく、「美しい人よ歌わないで」という曲です。「ヴォカリーズ」と同様にアール・ワイルドがピアノ独奏用に編曲しています。11月の演奏会では、最も好きな、この曲を弾こうかと思っていたのですが、今は迷っています。理由としては、「いくら素敵な編曲でも、この曲に限っては原曲を超えられない」と感じるからです。

たぶん、11月には「ヴォカリーズ」を弾くことになるのかなぁ・・・と思っています。まぁ、弾ければ・・・ですが。日曜日のサークルの練習会で判断したいと思っています。

どうしても原曲の魅力に勝てない・・・と思ってしまう歌曲の編曲物は多いです。シューマン~リストの「献呈」なども、僕は歌曲として聴きたい感じですね。シューベルト~リストなどもそうですが・・・

11月で弾かないことになったとしても、ラフマニノフの作品の中で、歌曲「歌わないで美しい人」が最も好きな曲ということは、僕の中で生涯変わらないと思います。

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category: ピアチェーレ

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どのように弾くか?どのように聴こえているか? 

 

「あなたね、ピアノは自分がどのように弾けたのかどうかは関係ないの。人にどのように聴こえたのかが大切なの。よく覚えておきなさいね」・・・原 智恵子さんの言葉は、ピアノを専門的に学んでいる人だけが気にすべき言葉なのだろうか?

「ああ、どうしよう、まだ弾けない!」「あそこが不安!」「落ち着いて弾けますように!」・・・
「ああ、また失敗しちゃった!」「ああ、全然弾けなかった・・・」

ついつい「自分はどうなのか?」「自分はできたのか?」「自分・・・自分!」と本番前後は思ってしまう。自分の演奏の出来栄えのことばかり・・・

アマチュアなのだから、自分の事ばかり考えていてもいいのかもしれないけれど、プロの演奏とアマチュアの演奏との決定的な差は、演奏者と聴き手との心の対話のようなものがあるか・・・という点もあるのかもしれない。

聴き手の存在・・・人がどのように感じるか・・・

実際に自分が演奏する時に、「どのように聴こえているか」を意識するのは難しい。どうしても、自分はまだ弾けないし・・・とか、もう少し上達してから・・・と心の中で思ってしまう。そんなことはプロの考えることと・・・

でも、なぜ仕事をしながら、時間を苦心して捻出してまでピアノを弾くのだろう?まぁ、ピアノが好きだからなんだけれど、でもピアノを弾きたい、もしくはピアノを、もう一度弾きたいと思い、実際に苦労しながら弾き続けているのは、自分の中で強い音楽的な感動があったからこそ、ピアノを弾こうという動機が生れたのではないかとも思う。

自分が受け手として感動を得たということは、心の対話があったということなのかもしれない。そして自分が弾き手になったのだったら、やはり聴き手との心の対話という視点をどう捉えるか、考えていくか、感じていくかはアマチュアにも必要なことなのかもしれない。

音楽的感動、音楽への内なる強い思い・・・このようなものの有り無しが、もしかしたら演奏にとって重要なもののひとつなのかも・・・そして、この部分は、バレンボイムの言うように、教えてもらうという事が最も困難な部分なのかもしれない。

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category: ピアノ雑感

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きちんと弾くことはそんなに大切か? 

 

いつも練習の時には、弾けない箇所を練習する。弾けない箇所を弾けるようにするために練習する。本番が近づくと、いつも思う。「弾ける」とか「ミスなく」とか「きちんと」とばかり思い、そこを目標点にしていていいのだろうかと・・・

本番でも「ミスなく弾けますように」とか「練習の成果が出ますように」とか「きちんと弾けますように」ということばかり考えてしまう。

頑張って練習して、自分なりに完成度を求めていくのは、悪いことではない。でも、それが最終目標なのだろうか?

考えてみれば、「本番できちんと弾きたい」と思うのは、自分の事だ。ここには、聴いている人の存在はない。「聴いている人に、どのように聴こえているのだろうか?」という思考はない。

「あっ・・・この人の演奏いいな!」とか「上手いな!」と人の演奏で感じるのは、ミスなく弾いている演奏でもなく、バリバリと豪快な演奏でもない。どこか心惹かれる要素のある演奏でそのように感じる。聴き手の立場になるとそうなる。

「自分の演奏、今練習している、ここの部分は人にどのように感じ取られるのだろう?」と、どこかで意識する必要があるのではないだろうか?

演奏する時には、自分が・・・自分が・・・と思ってしまうけれど、本番では必ず聴いている人がいるのだ。

「人はどう感じるのだろう?」「人にはどのように聴こえているのだろう?」

本番が近づくと、いつもここで悩む。自分だけで完結してしまっていいのだろうかと・・・

「でも、そんなことはプロ級の腕前の人が考えること。初心者や中級者が、聴き手のことを考えたり意識するなんて傲慢。まずは、きちんと弾けることが先決!」

・・・そうだろうか?

音楽をする、演奏をするってそういうことなのだろうか?

「今の世の中では完璧に間違いのない演奏が求められますが、これは残念なことです。“正確さ”は考えないでよいのです。ただひたすら“音楽”を追い求めなさい」
Stephen Kovacevich

「さあ、世の中へ出てミステイクをしてきたまえ。でもそれでいいんだ。君のミスだから、君自身のミスでなければならない。君の音楽で何かを言ってきたまえ。何でもいい。“これが君だ”という何かをね・・・」
Vladimir Horowitz

「人間は生きているのだから、生きた音で!」
James Galway

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ただ弾いているだけでいいのか? 

 

楽譜を読むこと・・・これは初歩の段階から必要なことで、ピアノを弾く人は、当たり前のように行っている行為なのかもしれないけれど、ここのところを、どう演奏者が捉えるかで、演奏そのものが変わってくるのかもしれない。

ドレミと楽譜に書いてあるから、ドレミと鍵盤を押していく・・・という行為、これと演奏者の内部にある音楽ファンタジーが、どのように結びついていくのか・・・

そもそも、曲を演奏する際に、演奏者に内なるファンタジーというものが存在しない場合はどうしたらいいのだろう?

「今度は、この曲を弾いてきてね」と先生に言われて、楽譜を音にしていく。なんとか弾けるようになったら、表情をつけていく。でも、表情って後から上塗りするもの?なんとなく違うような気がする。

自分の出している音を聴くことは、重要なことだけれど、そもそも演奏者が、その曲を弾く前に、「このような音楽的世界」のような具体的なイメージを持っていないとしたら、いったい何を聴けばいいというのだろう?ドじゃなくレを弾いてしまった・・・ということだったら聴くことはできるだろうけれど。

もしかしたら、一般的な曲を仕上げていく過程、まずは楽譜を音にしていく、そして難しい箇所はリズム練習や反復練習、スローなテンポで練習していく、弾けるようになったら、表情をつけていく・・・このような曲との接し方は正しくないのかもしれない。この過程のどこか、もしくは、すべてに演奏者の内なる音楽ファンタジーを、どう刷り込ませていくかが必要なのかもしれない。

演奏者に「このような世界を表現・再現したい」という強い動機や欲求が存在しなければ、いったい演奏者は何を表現するというのだろう?

そのような欲求が存在しなくても、ピアノは弾ける。だからピアノは難しい。

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心に突き刺さる言葉 

 

本番が近づくと、心にズキンと突き刺さる言葉があります。

まずは、リストの言葉。「コンサート、それは我なり!」・・・なんだか落ち込んでしまう言葉です。

「易しい曲を上手に美しく弾くこと。難しい曲をいい加減に弾くよりは、ずっとマシです」・・・これはシューマンです。難しい曲を美しく上手に弾けばいいのね?

ショパンの言葉です。「最高の先生は自分の耳。自分の耳が許さない音を弾いてはいけない」・・・耳が痛いです。

ホロヴィッツも耳の痛くなる言葉を残しています。「心がなくては機械だし、理性がなくては人ではなく、技術がなくてはアマチュアに過ぎない」・・・自分がアマチュアでも、心に突き刺さるのは何故だろう?

オスカー・レヴァントというピアニストを知っている人は、どのくらいいるのでしょうか?彼は、作曲家ガーシュウィンとも親交が深く、ガーシュウィンの曲を盛んに演奏し、世に広めた功績のあるピアニストです。

でも、ピアニストとしてよりは、ハリウッドの喜劇俳優、主にミュージカル映画で活躍した俳優として有名なのかもしれません。テレビで自分の番組を持っていたりもした人気俳優でした。

おそらく、ピアニストとしての一生では稼ぐことのできない報酬、そして富を手にしたと思いますが、決してピアノのことをレヴァントは忘れたことはなかったのではないでしょうか?

スクリーンの中でのレヴァントは、実に楽しげで幸せそうです。喜劇俳優ですから・・・

俳優に転身してからも、ピアノを弾かなかったわけではなく、映画の中でもピアノを弾いていますし、役柄もピアニストの役が多かったです。でも、実際のピアニストのように、毎日練習を積み重ねることは、ハリウッドの世界に身を置いたレヴァントには不可能だったと思います。彼には、ピアニストとしての人生に未練はなかったのでしょうか?僕自身は、相当心の中での葛藤があったのではないかと想像します。でも、もし僕の想像が当たっていたとしても、一人の人間が選択した人生なのだから、レヴァント自身は自分の人生を謳歌したのだと思いたいです。

レヴァントは、心臓に疾患があり、最初の発作の時以来、薬物に依存するようになっていったようです。実際に、彼は心臓発作で亡くなりました。

人間の生涯、生活などは、人から見た印象と本人が感じている印象とのズレはあるでしょう。そして、本人が幸せであればいいのだと思います。オスカー・レヴァントの残した言葉は僕の心に最も厳しく突き刺さってきます。

「幸せは経験するものではなく、あとで思い出してそれと気づくものだ」 Oscar Levant

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category: ピアニスト

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コンクール覇者から音楽家へ・・・ 

 

今日はピアニストのミハイル・プレトニョフの誕生日なんですね!実は、11月の演奏会では、チャイコフスキー~プレトニョフ編の曲も弾こうかどうか迷ったぐらいに、彼の編曲物も僕は好きです。

現在は、指揮者としての活動が目立ちますが、僕の中ではプレトニョフは、いつまでもピアニストです。

彼の編曲物、たとえば「くるみ割り人形」などの楽譜を見ながら、彼自身の演奏を聴いたりすると、「やはりプレトニョフは音楽家なんだなぁ・・・」などと感じてしまいます。だからこそ、彼は指揮者になったのかもしれませんが・・・

「演奏家としての力量は、内部に持つ音楽的ファンタジーの強さに比例する」・・・これはプレトニョフの言葉です。この言葉は、バレンボイムの「教えることのできない資質は音楽を感じる気持ちの強さ、演奏家と音楽の強い結びつきである」という言葉と似ています。両者共、指揮者として活躍しているのは、はたして偶然なのでしょうか?

誕生日でもあるので、プレトニョフの言葉をもう少し・・・

「作品は常に新しい光を当てようとしなければ駄目だ。でなければクラシックは滅びてしまう」

「私は自分の心の中で感じ聴こえてくるイメージに忠実に演奏したい。評論家や音楽に詳しいファンが満足するような演奏方法を知っているし、そのように演奏できないこともないが、それではつまらないし、自分の中で音楽をする動機がなくなってしまう」

映像は、若かりし日(?)のプレトニョフの演奏です。この時代のコンクール覇者、チャイコフスキーにしてもショパンにしても、現在の覇者たちとは比較のできないほどの演奏力を持っていたように個人的には感じます。

kaz




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ショパン 

 

6月のサークルの演奏会ではショパンを弾く予定です。現在の練習時間では、とても弾ける気はしませんが・・・

ショパンは好きです。嫌いではありません。自分で演奏してみたいなぁ・・・というショパンの曲は何故だか後期の作品が多いです。でも、聴くのは初期や中期の作品も同じように好きなんですよね。これは、僕にとっては珍しいことです。普通は、聴くのが好き=弾いてみたい・・・なのですが、ショパンだけは、聴くだけが好きという曲と実際に弾いてみたい曲とに分かれます。

サークルの会などで、ショパンの曲が全く登場しないなどということは、まずありえない。それほどまでに、皆がショパン好きなのでしょうか?

思ったのですが、ショパンの曲は、サークルの練習会での平均的な演奏者の持ち時間、まぁ、10分~15分くらいでしょうか?その10分~15分くらいで、ソナタや組曲などの抜粋ではなく、独立した曲で、とても効果的と言うか、弾きがいのある曲の多いのがショパンの曲なのかもしれませんね。バラードとか・・・

ベートーヴェンは、やはりソナタが中心だろうから、練習会では抜粋するしかないですし、シューベルトも同じだし、シューマンもそうだし・・・

単発の曲で10~15分くらいの華やかで、そして同時に詩的な曲・・・それがショパン・・・

違うかなぁ?

話はそれますが、皆さんは歴代のショパン・コンクールの優勝者では誰が好きですか?アルゲリッチですか、それともポリーニですか?

僕は、ダン・タイ・ソンと、この人が好きです。このような演奏を聴くと、「ショパンはいいな」などと思います。

kaz




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朝練習 

 

夜は疲れて練習できないのであったら、少し早起きして朝に練習してみたらどうだろう?

今日からサークルの練習会まで、トライしてみようかと思います。

5時30分に起きて、6時30分まで練習しました。なんだか集中できて、いい感じです。

練習するたびに、なんだか後退しているような感じです。朝練習で、それまでに5歩後退したところを、3歩前進させる。冷静に考えれば、まだ2歩後退しているのだけれど、後退のスピードは遅らせることができるのでは?

夜にも練習できれば、それは素晴らしいけれど、もし不可能でも、「ああ・・・どうしよう・・・」と悩む割合は減るのかもしれません。

とにかく、いろいろと、トライしてみます。

kaz


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