ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

歌いたいから歌う・弾きたいから弾く 

 

なかなか体力は戻りませんが、ピアノは(休みつつ?)練習しています。ここまで弾けないと、さすがに来月の練習会が心配ですが、そもそも心配になる理由は「皆の前で恥をさらしたくない」というもので、この心配は、どこか自分本位な心配のような気もしてきます。

「そのようなことは、どうでもいいのでは?」

うーん、やはりそれではいけないような気はするけれど、「弾きたいから弾く!」という、どこかピアノを弾く本来の動機に近づく絶好の機会なのかもしれない・・・などと思ったりはします。

カルーソーの歌などを聴くと、「上手く演奏したい!」などという概念が吹き飛んでしまいます。まぁ、聴いている間だけですが・・・

カルーソー自身が、どのような思いで「歌」というものに接していたのか、知りたいような気はします。「人に自分は上手だと思ってもらいたい・・・」などという考えは、カルーソーは歌う時には持っていなかったのではないか・・・なんて想像してしまいます。

ナポリの貧民街に生まれ育ち、教育も満足に受けることができず工場などで働きながら、自分の声、そして音楽への想いだけで自分の生涯を駆け抜けたカルーソー・・・

カルーソの母親は21人の子供を産んだそうです。その21人のうち成長できたのは、カルーソーを含め3人だけ。父親はいませんでした。母親は、カルーソーを大変に可愛がったそうですね。愛しい息子だったのでしょう。でも、母親はカルーソーが15歳の時に亡くなってしまいます。

イタリアのオペラ界の頂点に立ち、さらにアメリカで時代の寵児となったカルーソー、まさに底辺から頂点を駆け上った、いや、這い上がった人生だったのではないでしょうか?

カルーソーは舞台上で喀血し倒れてしまい、アメリカから故郷ナポリに戻り、そこで48歳の生涯を閉じます。

当時の多くの音楽家がカルーソーについての賛辞を残しています。

He is singing,The SOUL of the melody. これはリヒャルト・シュトラウスの言葉。

Who sent you to me? God Himself? これはプッチーニです。

カルーソーの歌唱は、完璧、偉大、崇高・・・というよりは、とても人間的な歌に僕は感じます。カルーソーの歌ったオペラの役柄の人物が、とても人間的であったように、そこには人間の持つすべての感情が込められているように思えます。

「歌いたいから歌う!」そこから始まり、そこに辿り着いた歌唱・・・のようにも感じます。

kaz




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スウェーデンへの旅 

 

ニコライ・ゲッダの祖国、スウェーデン・・・

スウェーデンといえば、「福祉」そして「ノーベル賞」をすぐに連想しますが、日本人にとっては馴染み深い国とは言えないのではないでしょうか?僕が、あまりに物事を知らないだけなのかもしれませんが・・・

首都がストックホルムだということくらいは、さすがに知っていましたが、あまりにスウェーデンという国を知らないので、少し調べてみました。

イメージとして、北欧の国は、寒い、人が少ない・・・という独断と偏見に満ちたイメージを持っていたのですが、スウェーデンは実際に人が少ない感じですね。面積が日本より広いというのは、意外でした。日本の国土面積に北海道をプラスしたぐらいの面積。結構広大な国なんですね。人口は日本の12分の1・・・

日本でも有名なスウェーデン企業は、家具のイケアや衣料のH&Mなど。

ピアニストではハンス・ライグラフがスウェーデン人です。僕は、この人はドイツ人だと思っていました。ライグラフ以外には国際的なピアニストは思いつきません。作曲家も思いつきません。

でも、国際的な声楽家を多く輩出していて、とても興味深いです。なぜ声楽?

ニコライ・ゲッダは、もちろんですが、ビルギット・二ルソン、アンネ・ゾフィー・フォン・オッタ―、そしてユッシ・ビョリング・・・

あと不思議に思ったのは、優秀なテニス選手が多いです。ボルグ、エドベリ、ビランデル・・・

なんだかスウェーデンは不思議の国のように感じます。

テノールのユッシ・ビョリングです。ゲッダの先輩格のテノールになります。この人は、主にメトで活躍したテノールですね。49歳で亡くなっています。心臓発作でしたね。時代がモノラルからステレオ録音に変化している時で、もう少し長く歌っていてくれたら、音質の良い状態で、ビョリングの声を聴くことができたかと思うと、とても残念な感じですが、でも古い録音でも、声の素晴らしさは伝わってくるのではないでしょうか?

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7か国語に堪能な人は何語で夢を見るのか? 

 

ピアノの場合だとロシア物を弾いたり、フランス物を弾いたりと、割と自由自在のところがあるけれど、声楽の場合は、そのようなわけにはいきませんよね。言葉の壁という問題があります。

音大生などでも、ドイツ歌曲を歌ったりイタリアオペラのアリアを歌ったりしているけれど、このような場合、その音大生はドイツ語とイタリア語がペラペラとは限らないですね。必死で辞典で言葉の意味を調べて、時には、カタカナで発音を楽譜に書き込んだりしているらしいです。それでも、ピアノよりは大変だなぁ・・・と僕は思います。

声楽の場合、本番で緊張したりした場合、声が震えるような現象があるのでしょうか?ピアノだと手や足が震えたりしますが・・・

実際に、聴いたことがあるのですが、緊張したりすると、歌手が予定よりも息が続かなくて、臨時のブレスをしてしまうことがあります。このような場合は、言葉、歌詞を理解していないと、どこでブレスをしていいのか分らないのではないかと思います。

例えば、イタリア語で「貴方の美しい瞳」と歌うべきところを「貴方の美し・・・いひとみ」みたいにブレスをしてしまったりして、歌手にとっては、言葉は大切であり、同時に声楽は大変だなぁ・・・とも思います。

スウェーデンのテノール歌手で、ニコライ・ゲッダという人がいます。テノールという声域は、どこか「張り上げる」といったイメージがあったりするのですが、ゲッダの歌唱は、大変にリリカルで、声も抒情的で、僕はそこが好きです。このゲッダですが、語学に堪能で、たしか6か国語を見事に操る才能の持ち主でもあります。もしかしたら、7か国語だったかもしれません。ここまでになると、何か国語でも、あまり関係ないような感じすらしてきます。我々凡人にとっては、2か国語でさえ、いえ、母国語でさえ怪しいというのに・・・

「ゲッダの頭の中は、どうなっているのだろう?」
「ゲッダはスウェーデン語が、やはり一番楽な言語なのだろうか?」
「ゲッダは何語で夢を見るのだろうか?日によってフランス語になったりロシア語になったりするのだろうか?」

このあたりが僕にとって謎の部分でもあります。

個人的には、ゲッダのフランス歌曲やフランス語のアリアが好きです。次にロシア語の物かなぁ・・・

ビゼーのオペラ「真珠取り」のナディールのロマンス・・・

メロディーは、オペラという枠を超え、いや、クラシック音楽という枠さえも超えて有名になっているのではないかと思います。甘く、そして切ないメロディー、そして抒情的なゲッダの歌声・・・

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70歳までピアノを弾こう!70歳を過ぎてもピアノを弾こう! 

 

体力低下を気に病んでも仕方がない。それよりも、その状態で、何ができるか、何をすべきかを考える方がいい。

以前から、ピアニストの弾き方と、自分の弾き方で何か決定的に弾き方で異なるものを感じていた。なんというか、僕は、一音を一生懸命に鍵盤の底まで、頑張って弾きすぎているような気がする。優れたピアニストは、あまり頑張りすぎていないというか、ピアノに鳴らさせているような弾き方をしている。

音の鳴るその瞬間だけではなく、倍音に溶け込ませているような感じというか・・・

実際に、弾いている姿も実に楽そうだし・・・

来月の練習会までには、そのあたりを自分なりに研究してみようかと思う。11月には4月に弾く曲、+3曲なので、もう少し体力温存というか、ピアノそのものに、まかせてしまうような感じで弾けるように研究してみる必要があるのかもしれない。

僕は、「身の丈に合ったピアノ」という考え方が嫌いだ。僕が傲慢なのかもしれないが、アマチュアはアマチュアらしく、音大生は音大生らしく、初心者は初心者らしく・・・このような、一見謙虚に思える考えが嫌いだ。

「まっ、どうせアマチュアなんだし・・・」
「アマチュアはアマチュアらしく安易にプロのピアニストの弾き方などを参考にすべきではない・・・」

これは、謙虚ではなく、僕には怠慢を美化した考えに思えてくる。

やってみればいいじゃん・・・そう思う。ピアニストは、楽に弾いているわけだから、理由を探り研究することは傲慢ではないと思う。

今は、退院して間もないので、特に体力が無いのかもしれないが、僕はこの先、ピアノを長く弾いていきたいのだ。70歳、80歳を超えても弾いていたい。当然、加齢と共に体力は無くなっていくわけだから、「体力温存奏法」「ピアノにまかせる響き・奏法」を研究していく必要がある。体力の無い今だからそのように思える。

電子ピアノでは、限界があるのかもしれないが、どこまで電子ピアノで、この課題をアプローチできるのかを試してみる絶好の機会であるように思う。実際には、フルコンと電子ピアノでは、何もかも異なる。同じではない。同じではないからこそ、想像力で、カバーする訓練が必要なのかもしれない。

実は、あまりに疲れてしまって、「今はピアノは無理かなぁ・・・」などと数日間は感じていた。もちろん、無理は禁物だけれど、できる範囲でピアノは弾きたい、課題を克復したいと思い直した。僕は精神的にどこか怠慢なところがあるので、どこまでも落ちていきそうな恐怖感もある。だからこそ、「どうせ・・・」「まっ、仕方ないか・・・」と思わずに、前へ進もうと思う。「どうせ・・・」と感じてしまった時に、本当の意味での精神的加齢が始まるとも思うから・・・

アルフレード・クラウスの69歳の時の歌唱。最後の日本公演の時の映像。この2~3年後に彼は亡くなるのだけれど、実に若々しい歌唱に驚いてしまう。69歳・・・この年齢で、テノールのこのアリアを歌うことは、ピアノを、それも超絶技巧曲を弾くことよりも何倍も困難なことだと思う。

同じ人間ができているのだから、見習えばいいと思う。参考にしたり見習おうとすることは、傲慢なこととは違うように思うから・・・

生きているうちにしか「挑戦」はできないのだから・・・

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category: ピアノ雑感

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体力 

 

ちょっと退院してから体調が良好とは言えない感じです。再入院とか、そんなことはないのだけれど、とにかく体力が続きません。仕事をして帰ってくると、ピアノを弾く体力がありません。

このような場合、物事はマイナス方向に引っ張られているような感覚を覚えます。まずは、仕事を順調にこなすことが大切で、ピアノはその次です。これは当たり前かなと自分でも思いますが、マイナス方向に引っ張られるのは、仕事ではなく、むしろピアノの方ですね。ピアノは、僕にとって、無くてはならないものだけれど、無くても生活は可能なので、マイナス方向の影響を、もろに受けやすい感じです。このままズルズルと、ピアノを弾かない生活に引っ張られていくような恐怖感を感じます。

なので、体力的にキツイけれど、サークルの練習会などには、できるだけ参加しておきたいと思うのですね。この場合は、演奏の出来などは、もうどうでもいい感じすらしてきます。

まぁ、そんなことでは本当はいけないのですが・・・

通常は、細切れの時間を利用する部分練習しかしないのだけれど、全曲を弾き切れるかどうか、そのあたりを鍛える意味で、今は通して弾く練習もしなくてはいけないと思いました。

今日の段階では、「ヴォカリーズ」は、休まなくても最後まで弾けるけれど、「眠りの森の美女によるパラフレーズ」が最後までは弾けないですね。休みながらだったら弾けるのですが・・・

この曲に関しては、体力配分を含めた練習が必要だと感じました。これから、具体的に、どのように本番に向けて練習していくのか考えていきたいと思います。

「今日の体力  30%」

「禁煙は継続中」

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僕の禁煙を阻む危険な男 

 

煙草が値上がりしたのは、いつでしたか・・・

値上がりする前にカートン買いした煙草、まだあります。喫煙者とはいえ、いかに吸う本数が少なかったのかということを物語っているのではないでしょうか?

煙草が吸いたくなるのは、ピアノを人前で弾く時ですね。特に演奏後は、煙草の味も格別で、数倍美味しく感じられるものです。お酒を嗜む人は、演奏後のビール、美味しいでしょ?それと同じです。

禁煙を徹底するにあたり、僕にとっては、本番での演奏後が問題だと思われます。まぁ、そこは我慢するしかないでしょうか・・・

ネルソン・フレイレの映像ですが、本来であれば、観るべきところ、感じるべきところが他にあるのでしょうが、僕が注目してしまったのは、終演後の何とも言えないフレイレの安堵の表情です。これは、演奏が無事に終了したという喜び、解放感と共に、煙草を吸っていることも関係していると思います。

「ああ、いいなぁ・・・」

「ああ、羨ましいなぁ・・・」

「ああ、美味しそうだなぁ・・・」

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毎日を丁寧に過ごす・・・そして禁煙 

 

女優の坂口良子さんが亡くなったそうです。このような訃報は胸にズシンと響いてしまいます。人生、先送りはいけません。今が大事・・・

仕事に追われて練習時間が確保できなかったりすると、焦りと共に、どこか気持ちに余裕が足りなくなってきてしまいます。なんだか、日々の生活に潤いが不足してきたりもします。そうなると僕の場合は確実にピアノに響いてきてしまいますね。「毎日を大切に丁寧に過ごす」という、どこか女性誌の特集のようなテーマですが、この考えは重要なのではないかと最近は感じています。

健全なる美食 (中公文庫)健全なる美食 (中公文庫)
(2002/11)
玉村 豊男

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僕は、玉村さんのライフスタイルに憧れを感じています。特に、食と住に関してでしょうか。彼も身体を壊したりして、自分の人生の再構築を行ったのではないかと思います。この本もいいのですが、彼の田園生活を綴った本も、よく読んだりします。

田園の快楽―ヴィラデストの12ヵ月田園の快楽―ヴィラデストの12ヵ月
(1995/02)
玉村 豊男

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広大な田園の中の広大な住居で、ベーゼンドルファーを弾く・・・という憧れの生活。憧れるだけならタダですから。

僕は、食事療法をしていて、基本的には、調味料なども厳選していて、野菜も有機のもので料理をします。なので、出汁なども、顆粒のものを使用して・・・などというわけにはいかないので、面倒だったりはします。外食はしないですねぇ。サークルの打ち上げとか、旅行などでは外食ですが、基本的な献立は、自分で調理したものです。でも、どうしても、料理に華やかさとか、彩りが足りなくなってしまうんですよね。なんだかお爺ちゃんの食事みたい。お坊さんの食事というか・・・

そのような時には、この本を参考にします。レシピと同じには調理できない場合もあるけれど、そこは工夫次第でしょうか。この本は、人をもてなす時などにも重宝するのではないかと思います。

南仏プロヴァンスの家庭料理ノート南仏プロヴァンスの家庭料理ノート
(1995/04)
パトリス ジュリアン

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でも、いくら毎日を大切に、丁寧に生活をすることを心掛けて、料理の材料などに気を配っても、喫煙していては、ダメですよね?

今日で、ちょうど2ケ月間、煙草を吸っていないんですよね。べつに「禁煙!」と決心したわけではないのですが、体調が良くなかったり、入院したりで、吸う機会がなかったというか・・・

当然、このまま喫煙しないほうがいいでしょうね?

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暗譜通勤 

 

僕は多分、譜読みや部分練習をしている時から、暗譜ということを、頭の中のどこかで想定して練習しているような気がします。部分練習をしながら、ただ指に馴染ませる、指に覚えさせるのではなく、ここは5度の跳躍だな・・・とか、この部分はロ短調に転調するのだな・・・と頭の中にインプットしているような気がします。

なので、曲が弾けたな、という時には暗譜は基本的には、できていることが多いです。おそらく、僕は練習時間が細切れにしか取れないことが多いので、「さあ!暗譜するぞ!」という時間そのものを設けることが困難なので自分なりにそのようにしていったのだと思います。

でも、「一応は暗譜で弾けている」というだけでは、本番で心配なので、暗譜で弾けるようになったら、特別な暗譜練習をしています。その練習方法は少し(かなり?)変わっているかもしれません。通勤時間を利用して暗譜の確認をします。僕は職場まで徒歩での通勤なので、歩きながら暗譜の確認をしているわけです。

脳内イメージを左右に分割して、脳内で音を鳴らしながら、左右の指の動きを思い浮かべていきます。きちんと指番号まで細かく思い浮かべます。右側で右手の動き、左側で左手の動きを、できるだけ遅いテンポで脳内確認していきます。指の動きの他に、楽譜を脳内に書き出していくこともします。音を脳内で鳴らしながら、音符を書いていく・・・

片手、片側練習もします。例えば、右手の暗譜確認でしたら、脳内の左側は真っ白なイメージで、右手だけ思い浮かべていきます。楽譜も片側の時は、反対側を真っ白にして、片側の楽譜だけ脳内に書いていきます。歩きながら、このような脳内作業をしています。

ここで、「あれ?」と不確かな部分も出てきますので、立ち止まって楽譜を確認しながら歩きます。暗譜確認時期は、常に鞄の中に楽譜を入れています。勤務時間には行いませんが休憩時間、食事中などにも、この脳内暗譜確認をします。

やはり、何度も記憶が曖昧になる箇所が出てきます。そのような場所は、家で写譜をします。写譜をすると、暗譜確認作業が強固になるのですが、曲の全部を写譜する時間はないので、怪しい箇所のみ写譜をするわけです。

本番では、人の演奏を聴きながら、自分の出番の前などは、この脳内暗譜確認作業をしています。楽譜を実際に眺めるよりは、本番での安心感につながるような気がします。

それでも・・・本番で真っ白になるんですねぇ・・・

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category: ピアノ雑感

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レパートリーとしてのカール 

 

大昔、僕が子供の頃ですね、この頃は全音の楽譜にはビニールが被せられていて、帯が付いていました。たしか、初級のピアノの本がオレンジに近い赤、中級が黄色、上級は青だったと記憶しています。

初級の本しか縁のなかった僕には、黄色や青の帯には、どこか憧れに近い感情がありました。かといって努力をしたということではないのですが・・・

僕が子供の頃習っていた先生は、生徒に与える教材が一律で、ブルグミュラーを終えると、チェルニーの100番、30番、40番・・・と進んでいきました。100番で挫折をする生徒が印象としては多かったように思います。たしか、昔の全音版は、40番で帯が黄色になったのではと思いますが、40番に到達した人は、僕の教室には僅かしかいませんでしたねぇ・・・

「チェルニー、30番なの?私はまだ100番・・・」
「30番が終わると40番をやるんだって。それが終わると50番なんだって・・・」

教室でこのような会話を聞いて、僕は密かに頭の中で計算したものでした。ブルグミュラーでさえ僕にとっては単調で退屈でしたから、そのブルグミュラーを頑張って終えても、さらなる試練が220曲も待ち受けていると思うと、いささかゲンナリしてしまったのを覚えています。

僕は、チェルニーを弾いた経験がありませんが(その前に辞めてしまったので)、チェルニーを好きという人は、ほとんどいないのではないかという印象を持ちます。

音楽愛好家の立場でチェルニーを聴くと、それほど「嫌悪」するほど退屈な曲でもないような気もしてきます。この場合は、練習曲ではなく変奏曲などの、普通のチェルニーの楽曲の場合ですが・・・

その作曲家ならではの個性とか、天才性というものを曲から聴き出すことは、できない感じではありますが、その代わりに、というか、それだからこそ、その時代を象徴するような、均整のとれた曲調のような気がしてきます。

作曲家独自の技法とか個性というものよりも、「時代」の技法を感じさせる・・・

個人的には、チェルニーは嫌いではないです。でも「サークルの練習会で弾いてみようかな?」とは思わないですかねぇ・・・

スティーヴン・ハフがチェルニーの変奏曲を弾いています。このように演奏されれば、チェルニーも喜んでいるのではないでしょうか?

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category: Stephen Hough

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「月の輝く夜に」 

 

今日から仕事も復帰ですね。退院してからは、散歩の毎日でした。沢山歩きましたねぇ・・・

ピアノは、まぁ、弾きましたでしょうか?でもCDを聴いていた時間の方が長かったかもしれません。

入院していたら仕方ないし、体調が悪ければ無理をすることもないけれど、大人のピアノにとって大切なのは、気分によってピアノが近くなったり遠くなったりしないことなのではないでしょうか?

嫌な事があったり、仕事に追われて気持ちが落ち着かなくても、とにかく淡々と弾く。弾き続ける。

また練習時間をどのように捻出するかに悩む日々になるかと思いますが、毎日少しでも弾ければと思います。

なので、来月のサークルの練習会に関しても、今は焦らずに、どこか淡々としています。来月になったら少し焦ろうかな・・・

また忙しくなるのかなぁ・・・

でも、うんざりするような、そして平凡な毎日は実は宝のように尊いものでもあります。

今夜は、東京は曇りで、星など全く見えませんが、何故かドビュッシーの歌曲、「月の輝く夜に」の気分であります。実は僕はドビュッシーは大の苦手でして、ハーモニーが完結しないというか、音楽がスルスルと逃げてしまう浮遊感というか、旋律が不明というか、とにかく苦手な作曲家であります。でも、この「月の輝く夜に」はごく初期の作品で、青年ドビュッシーの夢見るような美しいメロディーに惹かれます。

ドビュッシーも美しいメロディーを生み出していたんですね?・・・などと書くのはドビュッシーに失礼か?

ドビュッシーも、このままの路線でいけばよかったのに・・・なんて思うのは、さらに失礼か?

この曲は、やはりソプラノかなぁ・・・

デセイの手の動き、ヒラヒラが面白い!歌手は練習ではよくやりますね。

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category: 好きな曲・好きな演奏

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恋愛と結婚 

 

アマチュアのピアノ弾きは、どこかピアノに対して「純恋愛」してしまっているように感じます。まあ、それは僕だけなのかもしれませんが。

純恋愛なので、相手を必要以上に美化してしまう。まるで自分の周りの空気が、いつも花開く春であるかのように感じてしまい、相手に恋してしまう・・・

対して、ピアニストとかピアノ教師といった、ピアノを職業にしている人にとっては、ピアノは「純恋愛」の相手ではなく、「結婚相手」のようなもの。「惚れてしまったの♡」では済まされない要素が出てくる。

結婚なので、恋愛と異なり、現実にも対処しなければならないし、相手の冷たい性格も見えてきてしまったりもする。でも結婚も恋愛が無ければ、そこまでには至らなかったわけで、相手を嫌いなわけでは決してない。でも「好きよ♡」なだけでもない・・・

発表会では、先生に演奏して欲しいなぁ・・・と恋愛中のアマチュアは思うわけです。ピアノに恋してしまっているので、現実が見えないのですね。でも、結婚してしまった(?)先生は、そんな夢見るような甘い概念では、発表会当日を無事に終えることは不可能。「自分の素敵な演奏♡」などに想いを馳せる暇も余裕も皆無なはず。

「あの子は無事に弾き終えるかしら?」
「連弾の楽譜は全部あるよね?よし!何、生徒が楽譜忘れた?」
「時間がかかりすぎている。どうする?」
「何?まだ生徒が表れない?連絡が取れない?」

もう、先生は結婚生活にボロボロ・・・

でも、ひと時でいいので、「結婚とは一生続く恋愛」という心意気(?)も恋に恋するアマチュアとしては、みせて欲しいなぁ・・・なんて思ってしまったりもします。

先生の素敵な演奏、期待してしまうんですよね・・・

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たくさんの寂しいこと 

 

「テクニックだけではなく、聴いている人の心に届く演奏をしたい」

この場合の「テクニック」という言葉は、厳密には「メカニック」を指しているものと思われます。メカニックは、純粋に指などの動き、オクターブを無理なく弾くとか、音階をムラなく弾くとか、そのようなこと。

「テクニック」は、そのメカニックを使用し、いかに音楽的表現につなげるかの総合的なツールを指します。なので、「テクニックはあるけど、どこか無味乾燥な演奏」という表現は、厳密には、正しくないということになります。テクニックがあれば、演奏は音楽的なものと結びつくわけですから。「メカニックはあるけど、無味乾燥な演奏」という表現はあると思います。

どこか「テクニック」と「メカニック」という言葉は混同されてしまっているような感じがします。演奏活動を頻繁に行っているピアニストの方の文章では、両方の言葉の混同があまりみられないように感じますが、ピアノの先生の文章を読むと、「テクニック」と「メカニック」という言葉の使い分けをしている方は少ないように感じます。

でも、文章を読めば、どちらの意味かは判断できますので、あまり細かなことに拘るのも寂しいような気はします。

メカニックを指の訓練などで鍛える目的は、演奏者が目指す音世界やサウンドにまで、テクニックを駆使して具現化するためだと思われます。メカニックの訓練により、演奏者に自在さが増せば、より音楽的表現に結びつくのだと思いますが、純粋な「メカニック」の訓練よりは、「テクニック」をどのように駆使するかの方が、演奏者に演奏や作品に対するイメージが無いと難しくなってくると思います。

指だけなら、ただ反復練習すれば動くようになっていくのかもしれませんが、テクニックとなると、近づけるべき、なんらかのイメージが演奏者に存在していなければ、実際に自分の出している音が、実はどうなのか判断しようがなくなってきてしまいます。自分の音を聴くことは、上達には欠かせないものと思えますが、自分の到達点であるべき「イメージ」すら演奏者が持たなければ、聴くことすら難しい。メカニカルな意味で、「音が正しく再現されているか」の判断はできると思うのですが・・・

そうなってしまうと、少し寂しいような気がします。

メカニカルな意味で問題が無くなっていけば、テクニックも自在に駆使でき、演奏者は、「自分の表現」を音として具現化しやすくなります。言い方を変えると、「自分を出しやすく」なる・・・

でも、メカニックとテクニックの問題が解決し、いわば「自分」が露わになると、僕なんかは、とんでもないダメな未熟な自分を披露してしまう結果となりはしないかと、怖くなります。いっそのこと、メカニカルな問題を残しておいて、どこか拙さを残しておいて、「一生懸命に演奏している自分」をアピールした方が、自分自身の音楽というものを表出してしまうよりは、得策なのかな・・・なんて冗談半分で感じたりもします。

でも、この考えも、かなり寂しい考え方だとは思います。

演奏者がメカニカルな問題も、テクニカルな問題も解決し、演奏において、充分に自分や自分なりに捉えた作品を表現成し得ていると仮定して、その演奏者の、もともとの「イメージ」そのものが、どこか人畜無害というか無味というか、あっさりというか、感動とは無縁で生きてきたというか・・・

「イメージ」そのものが貧困ということも概念としては在りえるのかもしれません。この場合は、感動とか感激というものを、あまり感じない人間がいるということにもなってしまい、この考え方が一番寂しいかなと思います。

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category: ピアノ雑感

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新時代の視奏? 

 

シリル・スコットの「蓮の国 Op.47-1」です。この曲はクライスラーが編曲していて、ヴァイオリンの曲として有名なのかもしれません。でも、ピアノでの生演奏は聴いたことないですねぇ・・・

結構、派手というか華やかに聴こえる曲で、聴いた印象よりは、弾きやすい曲なのではないかと思います。でもオクターブの連続があるので、手が小さい人だと、少し弾きにくいかもしれません。

動画では、この曲を視奏していますが、iPadを使用していますね。楽譜をバサッとめくったり、もしくはコピー譜を譜面台から、はみ出すくらいにピラーッとさせてしまうよりは、聴いている側からすると視覚的にも気にならないかもしれないですね。

ただ問題点としては、舞台だとライトの加減で画面が光ってしまうのではないかということ、練習でもiPadを使用していないと、練習と本番での視覚的な感覚が違ってしまい、さらに紙の楽譜よりも音符が、かなり小さくなると思うので、中高年には、厳しい・・・

あとは、ピアノが傷ついてしまうのではという心配もあります。iPadに何か保護テープのようなものを貼れば大丈夫でしょうか?

練習の時に、楽譜に書き込みをする人もiPadは不便なのではないかと思います。

個人的には、あまり本番でのiPad使用は、普及しないのかな・・・なんて思います。

普段、楽譜に書き込みをしない人で、老眼ではない人は、試してみる価値はあるかもしれません。

本番では暗譜で弾く人でも、会場に楽譜は持参しますよね?曲数などによっては、楽譜がかなりの重さになってしまいますよね?このような場合は、コピーをすると思うのですが、コピー譜を作成するのであれば、iPadの方が便利かもしれませんね。本番で使用しないのであれば。

プロのピアニストで、演奏旅行の際にはiPadを使用している人も実際にいらっしゃいますね。このピアニストは楽譜に書き込みというものを一切しないそうなので、可能なのだと思いますが・・・

でも、いかに本番でiPadを活用するのかを考えるのだったら、その前に暗譜に挑戦してみるべきなのでは・・・なんて思ってしまったりもしますが・・・

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category: 秘曲

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長野の奇跡 2 「その人だからできたこと」 

 

長野オリンピックでのフィギュアスケート男子フリー、キャンデロロ選手の素晴らしい演技の、すぐ後に滑ったのが、カナダのエルビス・ストイコ選手でした。

この時、会場はキャンデロロ選手が創り上げた空気になっていて、ストイコ選手は、相当滑りにくかったのではないかと想像します。キャンデロロ選手に投げられたリンクへの花束の数も大変な数で、回収にも時間がかかったりして、そのあたりもストイコ選手には気の毒な感じではありました。

急に話題がそれますが、ピアノ演奏で、いくら本番で緊張するといっても、フィギュアスケートの競技会での選手の緊張感の方が何倍も厳しく感じられるのではないかと想像したりします。あの雰囲気は、人間にとって過酷すぎるのではないかと思います。でも、選手は滑るんですよねぇ、演技をするんですよねぇ・・・

さて、ストイコ選手ですが、直前にキャンデロロ選手が素晴らしい演技をして、会場の空気をキャンデロロ色にしてしまったこと、そしてストイコ選手は、ショートを終えて2位という、精神的にも辛い位置にいたこと、かなり精神的なプレッシャーを感じていたのではないでしょうか?

僕が長野の二つ目の奇跡をストイコ選手の演技だと感じるのには理由があります。ストイコ選手は、オリンピック当時、鼠径部を怪我していました。かなりの痛みがあったらしいのですが、ドーピング検査もあるため、強い鎮痛剤も使用できず、痛みを感じつつフリーの演技を滑っています。

ストイコ選手は、いつもよりも慎重に演技をしているように感じます。相当足が痛かったのではないでしょうか?でも3Aを2回も跳んでいますし、そのうちの一つは3Tとのコンビネーションです。というか、ストイコ選手、4回転こそ回避していますが、フリー、ノーミスなんですよね。とても怪我をしている人間の演技とは思えないです。ちょっと信じられない感じです。

これは、奇跡の演技なのではないかと思います。

痛み、演技中に激痛になっていたのではないでしょうか?演技終了後のストイコ選手の苦痛の表情がそれを物語っています。演技が終了した後は、彼は一人では歩けていませんし、キス&クライでも、本当に辛そうです。

本当は、立っているだけでやっと、という状態でストイコ選手は演技をしたらしいですね。それこそ身体はスケート、それもジャンプなどができる状態ではなかった・・・

滑りきれたのは、精神力なのでしょうか?あまりに凄すぎて想像などできません。

何故、彼は、そのような状態で、あのようなジャンプが跳べたのだろうか?跳ぼうと思うのか?何故跳ぶのか?何故滑るのか?

メダルが欲しいから・・・だけではないと思います。

人間、そこまで強くなれるのか・・・

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category: The Skaters

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長野の奇跡 1 「その人だけのもの」 

 

1998年の長野オリンピックですが、僕には、つい最近の出来事のように感じます。でも、その時に生まれた子が、現在もう中学生なんですね。

スケート・ファンの中には、もうキャンデロロ選手のことを知らない人もいるみたいですね。            
フランスのフィリップ・キャンデロロ選手の長野でのフリー演技、これを僕の個人的な「長野の奇跡」の一つ目に挙げたいと思います。この選手は、以前から独創的、個性的な演技で多くのファンがいましたが、特に、この長野オリンピックでのフリープログラムは、素晴らしかったと思います。

この演技は、まさしくキャンデロロ選手にしか表現できない世界であると思います。そのような意味で、奇跡のような演技だと感じます。

まあ、好みもあるとは思いますが、どこか分析不可能な魅力とカリスマ性を感じさせる演技だと個人的には思います。このような演技やプログラムは、現在の新採点システムだと生まれにくいのではないかと感じてしまいますねぇ・・・

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category: The Skaters

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技術と表現力との一体化 

 

ピアノを弾くということ、曲を再現すること・・・本当に難しいです。

「いったい、この調子で曲を仕上げることができるのか?」「本番までに間に合うのか?」

ツラツラと考えてみると、「ああっ、もう、弾けない・・・」と焦るのは、主に技術的なことに関してばかり。ここが弾けない、あそこが弾けない・・・このままでは間に合わない・・・ヤバいのでは?

「技術があれば自分だって、きっと・・・」「私は、あんなに指が回らないし・・・」

技術があれば問題が解決するのでしょうか?清々しい気持ちで毎日ピアノに向かうことができるのでしょうか?

「表情とか表現は、とりあえず弾けるようになってから・・・」これでいいのか?

本当は、技術と表現力とを分離して考えたり、感じたりすることは、いけないのでは・・・と感じたりもします。「じゃあ、どうしたらいいの?」となると全く分らないのですが・・・

世の中には、凄まじいまでの演奏力というか、技術の演奏がたくさんあるけれど、でも心惹かれる演奏というものは、たとえ驚嘆するような技術があっても、それを感じさせない・・・そもそも「技術」と「表現」が一体となっていて、各々を分離して感じること、そのものが不可能。

ただ、ひたすら惹きつけられてしまう・・・

こんなことを考えてしまったのは、「なんだか弾けないなぁ・・・」と自分の演奏の冴えないところを多々感じてしまったからであります。あとは、このナタリヤ・ミシュクテノクとアルトゥール・ドミトリエフのロシアのペアの演技を「ボーッ」と観ていたからでもあります。

技術の高さは、観ていて分ります。でも感じない・・・というか、あまりに表現のために技術が存在しているような演技で、技術と表現力などというものを、分けて観ることができない演技に思えるのです。技術と表現力が一体化している・・・

うーん、スケートなんて観ていないで、練習すべきなのでしょうが・・・

kaz





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五十肩とピアノ 

 

皆さんは四十肩とか五十肩は大丈夫ですか?皆さん若いから大丈夫なんでしょうか?

僕は右側の方の痛みから始まって、現在は左側が痛いです。右側はもう痛くはないですね。左側も大分痛みは改善されてきまして、日常生活には支障は、ほとんどありません。服の着脱などで痛みを感じたり、ピアノを普通に弾いて痛くて・・・などということはありません。

なので、油断してしまうんですよ!無意識での、日常のちょっとした動きが、痛まない可動域を超えてしまう時があって、このような時には、激痛が走ります。呻いてしまうような痛さですかねぇ・・・

ピアノを弾いている時には、跳躍など移動の多い場面に注意が必要です。でも、多少移動があっても、気を付けていれば大丈夫なんです。肘や肩の移動ではなく、身体で動く感じで弾けば痛くはありません。臀部の体重移動を多用する感じですね。

スティーヴン・ハフの編曲は、大胆なポジション移動が特色であり、そして魅力でもあります。上から下、下から上と鍵盤を駆け巡ります。この時も「ハフ仕様」というか「五十肩仕様」の弾き方を流用すれば、なんとかなります。

でも、油断してしまうんですよ!普通に和音をポンとか弾く時に、「五十肩仕様」を、つい忘れてしまう、そのような時には動きの角度によっては激痛が走ります。

「ううっ・・・・」

ハフの編曲、「眠りの森の美女によるパラフレーズ」も動きが多い曲なのですが、どうしても「五十肩仕様」の動きだとテンポが微妙に落ちてしまうところがあります。右手は和音でメロディーを弾いていて、3拍子のワルツなのですが、左手の1拍目が低音オクターブ、2,3拍目が右手を飛び越えて、最高音域に近い場所で分散和音を弾く、その連続・・・ここが「五十肩仕様」だとテンポが落ちてしまうんです。でも、大変に音楽的に盛り上がっている箇所なので、少しテンポを落としても、それが「音楽的強調」に聴こえなくもない・・・あえて遅くしていると感じられなくもない。

でも、これは演奏者の都合で音楽そのものを変えてしまう、演奏者の都合で表現している・・・という最もいけないパターンなのでは?

でも、痛みに耐えてまで理想の表現(テンポ)にすべきなのかは微妙でしょうか?耐えられる痛みではないですから・・・

それにしても、大人の学習者、シニアの生徒・・・皆さん五十肩とか経験していないのでしょうか?「大人用・シニア用」の楽譜や曲もあればいいのになどと思ったりします。「子供用」の楽譜や曲は腐るほど、いや失礼、迷うほど売られているのですから。

シニア用の楽譜も売られていますが、それらの楽譜の多くは、「初めてのシニア用」で、簡単に編曲されていたりします。そのような発想ではないシニア用の楽譜。「シニアのための動きの少ない曲集」「肩の痛いシニアのための曲集」・・・

「この本の曲は、シニアのために肩や腕の動きを最小限に抑え、そして華やかなサウンドをも味わえるのが特色となっています」のような本、誰か発売しないのでしょうか?

kaz


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category: ピアノ雑感

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グラナドスを聴く日 

 

今日、3月24日はグラナドスの命日です。1916年に亡くなっています。

僕も「ゴイェスカス」を弾いてみました。弾けなくなっていましたが・・・

その「ゴイェスカス」はオペラに改作されて、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で初演されました。その初演に立ち会ったグラナドスはヨーロッパへ戻るのですが、グラナドスの乗った客船「サセックス号」は、英仏海峡でドイツの潜水艦の魚雷攻撃を受けて、沈没します。それが、今日、3月24日でした。

グラナドスは、一度救命艇に乗っているらしいんですよね。一度、命は助かったらしいのですが、目撃者の話によると、浪間で溺れていた妻のアンパロの姿を見て、グラナドスは再び海に飛び込んだのだそうです。その後、二人の姿は発見されなかった・・・

エンリケ・グラナドス・・・享年48歳・・・

今日はグラナドスの曲を弾いたり、聴いたりして、彼の魂を偲んでみる日。

グラナドスの曲と、ミケランジェリというピアニストは、あまり結びつかないのではないかと思います。ミケランジェリといえば、DGに録音したドビュッシーの精密な、それこそ計算されつくした緻密な演奏が、あまりにも有名で、ミケランジェリの演奏は上手いけれど、どこか冷たくて機械みたい・・・と感じる人もいるようです。

でも、このグラナドスを演奏しているミケランジェリを聴けば、そのような彼に対する印象が覆されるのではないかと思います。

ここまで哀愁の漂う演奏も、珍しいのではないでしょうか?

kaz




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category: ピアニスト

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モチベーションを考える 2 

 

ステファン・ランビエール選手は、2006年の世界選手権で金メダルを獲得し、世界選手権2連勝を達成後、モチベーションが下がってしまったといいます。

「自分の中の情熱が、炎が消えてしまった・・・」と、ランビエール選手自身が語っています。現役を引退し、プロとしてアイス・ショーで滑ることも考えたようです。

アイス・ショーでの観客の声援、歓声を浴びつつ、彼は考え、苦しんだのではないでしょうか?

「もう一度、自分は強いということを示したい・・・」

ランビエール選手は、現役を退くことなく、競技生活を続行することにしました。これは僕の想像ですが、そう決意した時に、ランビエール選手は、こう思ったのではないかと思うのです。

「2006年の演技よりも、そして作品よりも質の高い演技をしたい」
「さらに自分自身を高めたい」
「自分の最大のライバルで、最大の目標は、2006年の自分の演技・・・」

2007年の世界選手権、彼はショート・プログラムで苦手な3Aで失敗。6位でフリーの演技に挑みます。この時のランビエール選手の胸中を想像すると辛くなってきます。当然、世界選手権の3連覇も考えていたでしょうから。6位からの逆転優勝は絶望的であり、彼もそれは感じてフリーに臨んだのではないかと思います。

結果は銅メダルでした。これは残念な結果だったのでしょうか?たしかに金メダルではありませんし、連勝もストップしたわけですから、そのような意味では残念だったと言えるのかもしれません。

でも、彼のフリーの演技は胸が熱くなります。個人的には、優勝した前年の世界選手権での演技を超えていると感じます。「大人の演技」「成熟した演技」だと僕は感じました。

ランビエール選手は2006年の自分を超えた・・・そう感じました。

そして、非常に驚いたのが、ランビエール選手自身が、一年で、とても成熟した大人の男性に成長したことです。「見た目」が驚くほど一年で変わっていた・・・

2007年のランビエール選手の大人びた表情を見ると、彼の一年間というものは、とても辛かったんだな・・・と感じます。そして、彼自身が大人に成長した・・・

この演技を観ると、どれだけの思いで、彼はモチベーションを再度持ち続けたのだろう?そう思います。

kaz




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モチベーションを考える 1 

 

モチベーションの維持ですが、僕の場合は、ピアノに関して言うならば、サークルでの演奏という、割と定期的な人前での演奏の場があるので、モチベーションが維持できているのではないかと思います。二つのサークルに所属しているので、人前での演奏回数は多い方なのではないかと思います。僕の場合、仕事の関係で、週末が必ず休みというわけではないので、複数のサークルに所属しているわけです。練習会は週末に行われるので、全部の練習会に参加できるわけではありませんから。

それでも、「練習したくないなぁ・・・」と日常の練習前に感じることは多いです。まあ、サボリですね。いつも喜々として練習できているわけではありません。

よく、練習会の後に、モチベーションが下がることが僕の場合はあります。新しい曲に取り組む時に、練習が面倒だと思うことが多いでしょうかね。これは、譜読みが面倒なんだと思います。

よく、最高のパフォーマンスが、運よくできてしまった後に、モチベーションが下がるといいますね。これは最高のパフォーマンス、本人の予想を上回るような出来栄えのパフォーマンスができてしまったということが、ある意味「燃え尽き」のような現象をもたらすのでしょう。

ピアノの場合では、あまりこのような話は聞かないのですが、フィギュアスケートでは、これはよくあることみたいです。最高のパフォーマンス、本人も自分で驚いてしまうほどのパフォーマンスは、輝かしい結果・成績をも、もたらします。メダルとかですね。そうなると、ますます、燃え尽きてしまう。そのような場合は、「もう、あのようなパフォーマンスは、二度と出来ないかもしれない。幸運は二度はないかもしれない!」などと考えてしまいがちで、モチベーションも底まで落ちてしまう・・・

個人的には、落ちてもいいから、落ちるほどの「最高の演奏」を一度はしてみたいなどと思いますが・・・

スイスのステファン・ランビエール選手も、この例ですね。2006年のオリンピックで銀メダル、2005年、2006年と世界選手権2連勝・・・

ランビエール選手は、ここでモチベーションが下がってしまったらしいです。もちろん、輝かしい成績も、彼に「やり遂げた感」を与えたのだと思いますが、個人的には2006年の世界選手権での演技、ここで彼は生涯最高の演技をしてしまった・・・

その時のフリーの演技です。ノーミスの演技ではありませんが、ランビエール選手は苦手な3Aを鮮やかに決めて、四回転も二度成功させています。そのうちの一つは、なんと4T-3Tというコンビネーションで成功させています。演技後のランビエール選手の表情が、彼自身、最高の演技が出来たと実感しているのを物語っています。

「モチベーションを考える 2」に続きます。

kaz




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桜色に染まり・・・ 

 

今日は花見に出かけました。もう満開ではないですか。今年は開花が早いですね。かなりの距離を歩いたけれど、身体は大丈夫でした。

「これなら演奏も大丈夫なのでは?」と少し安心しました。ピアノを弾くと、肩が痛みますが、これは五十肩だと思います。入院する前から、肩は痛みを感じていました。大分良くなっていたのですが、入院中は安静にしていて運動不足だったため、五十肩の痛みが、ぶり返したのだと思います。

スティーヴン・ハフ編曲の「眠りの森の美女によるパラフレーズ」が心配ではあります。この曲は動きが多いので、弾ききれるかどうか・・・

でも、この曲は11月に向けて仕上げていく曲でもあるので、来月に、不完全でも一度、人前で弾いておきたい気持ちが強いです。

無理をせずに、少しずつ身体を慣らしていけば、なんとかなるかもしれません・・・

エットレ・バスティアニーニは、父親もいませんでしたし、家庭も裕福ではありませんでした。子供の頃は、かなり腕白であったようです。菓子工房を営んでいたガエダーノ・ヴァンニという人に、預けられる形で、そこの菓子工房で働くことになります。このヴァンニという人が、エットレの才能を見出しました。エットレが働きながら歌う声を聴き、正式に声楽を勉強することを勧めるのです。ヴァンニは、エットレが歌えなくなってからも、故郷シエナの友人として、エットレを生涯支えた人でもありました。

「エットレ・・・君は素晴らしい声を持っている。正式に歌の勉強をしてみるべきだと思うのだがどうだろう?」
「ヴァンニさん・・・俺、俺は歌が好きだ・・・やってみるよ!」

エットレ・バスティアニーニが、その短い生涯の中で、この時のように「俺、歌が好きだ。やってみるよ・・・」と自分自身に言い聞かせた時が、少なくても二回はあったと僕は思っています。声域をバスからバリトンに変更した時、そして咽頭癌の宣告の時。手術をせずに、できるだけ長く歌い続けるため、放射線の治療をエットレ自身が選択した時・・・

「俺、俺は歌が好きだ・・・やってみるよ・・・」

誰にでも、エットレ・バスティアニーニのような才能を持たない凡人にも、人生においての「踏ん張り時」というものがあるような気がします。その時には、エットレのように自分に言い聞かせてみる必要があるのかもしれません。

「俺・・・やってみるよ・・・」

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「君の微笑み」 

 

君の微笑み―エットレ・バスティアニーニ がんと闘い、歌に生きたその生涯と芸術君の微笑み―エットレ・バスティアニーニ がんと闘い、歌に生きたその生涯と芸術
(2003/05)
マリーナ・ボアーニョ、ジルベルト・スタローネ 他

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エットレ・バスティアニーニの本です。彼の壮絶で哀しい生涯を知ることができます。

小学生の時からバスティアニーニは聴いているので、彼の歌声は自分の人生の一部になっているような気さえしてきます。彼には「感動」というものを教えてもらったのかもしれません。

彼が、何故歌い続けたのかは理解できません。自分が何故ピアノを弾くのかを人に説明できないように・・・

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諦めず、そして無理をせず・・・ 

 

退院して間もないので、ピアノが弾けない。練習していなかったのだから、無理もない。でもそれはいい。

もし、このまま身体が戻らなくて、これからもずっと以前のようにピアノが弾けなかったら・・・

絶対に、このような心理状態になるのは分っていた。正直健康な人が羨ましい。でも人は人。僕は僕だ。

焦りは禁物だけれど、でも焦りも当然。変に自分を偽る必要もないのかもしれない。

こうなると予想して以前から考えていた退院後の目標、それは「諦めず、そして無理をせず・・・」というもの。

そして、辛くなった時に、聴こうと決めていたのがエットレ・バスティアニーニの1965年の日本公演の歌唱。

この頃のバスティアニーニは、咽頭癌が転移していて、歌う事そのものも、相当辛かったはずだ。バスティアニーニは、自身の病気の事は、一切、公にはせずに治療していたので、当然、日本の聴衆も彼が病気であるということは知らない。でも、その頃のバスティアニーニの声は、全盛期の録音などを知る人にとっては、正直聴くのが辛いほど激変してしまっている。

この頃には、スカラ座を筆頭に主要な歌劇場から契約を打ち切られたりもしている。彼の声の異変はもはや隠せないほどになっていた。この日本公演の後、メトで歌った後は、彼は二度と舞台に立つことすらできなくなってしまった。そこまで病は進行していた・・・

何故、バスティアニーニは歌い続けたのだろう?かつての輝かしい声を失ってしまったことは、バスティアニーニ本人が一番知っていたはずだ。

何故そこまでして歌うのだろう?何故だろう?かつての栄光、かつての輝かしいキャリアを保ったまま引退もできたはずなのに・・・

何故だろう?歌には、そこまでの魅力があるというのだろうか?音楽にはそこまでの価値があるのだろうか?

何故、バスティアニーニは歌い続けたのだろう?僕には理解できない・・・

kaz




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category: The Singers

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失敗が気になりますか? 

 

演奏中のミス、失敗は動揺します。一つの失敗が波及して全体が崩れてしまうと泣きたくなります。

失敗すると焦ってしまうんですよね。気にしないで先に進むべし!

この「失敗」とか「ミス」というもの、弾いている側と、聴いている側では感じ方に差があります。弾いている側にしてみれば「この世の終わりか?」ぐらいに演奏中は焦るし、演奏後は自己嫌悪に陥るしで、まあ、大変な葛藤になるわけですが、意外と聴いている側は気にしていないものですね。

当然のことながら、聴いている側は、一つ一つの技を独立させて演奏を聴いているわけではありません。「さあ、オクターブを聴くのよ!次の要素は右手の跳躍を聴くわ!」のように聴いてはいません。演奏そのものを、演奏者よりも大きく捉えて聴いているのではないでしょうか?

実はスポーツ競技であるフィギュアスケートの演技でも同じことが言えるのではないかと思います。もちろん、演奏よりは、失敗そのものが点数に反映されるという面はありますが、観客はジャッジのように演技を観ているわけではありません。演技全体の印象というもので演技や選手を評価しているのではないでしょうか?

昔、ロシアにナタリヤ・ミシュクテノク&アルトゥール・ドミトリエフというペアのカップルがいました。このカップルは1992年のアルベールビル・オリンピックで金メダルを獲得しています。

このオリンピックでのフリー演技ですが、サイドバイサイドのジャンプ、3Tと2Aのジャンプですが、女性のナタリヤ・ミシュクテノクが痛恨のミスをしています。重要な要素での二つの失敗は「痛い」はずです。

でも、この演技、あまり失敗が気にならないのです。もちろん、失敗したジャンプだけ切り離して分析するように観てしまえば「痛いなぁ!」と感じるのかもしれませんが、演技が終了した時には、失敗の印象が消え去ってしまっていて、演技の素晴らしさの印象しか残りません。何故なのでしょうか?

これは演技の質が物凄く高く、細かな失敗よりは全体の印象というものが、観ている側へ、より強調されるからだと思います。一つ一つの要素ではなく、全体としての「作品」と感じられる・・・

ピアノの演奏でも同じなのではないかと思うのですが、どうなのでしょう?

kaz




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category: The Skaters

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バランスが大事 

 

「わーっ、Aちゃん、弾けるようになったじゃない!」

このように、弾けなかったところが、弾けるようになった時の喜びは、大変に嬉しいものです。そして、このような喜びを積み重ねて、上達していく、上達の上昇カーブに乗っていく・・・

ピアノの教材が、少しずつ難しくなっているのは、この上昇カーブに乗せるという目的もあるのかと思います。でも、本来はピアノを弾きたいという動機には「音楽に惹かれた」という感動があるはずで、どこかで「弾ける」という感動と、純粋に音楽から受ける感動との一致のようなもの、両方の感動の出逢いのようなものが必要になってくるのではないかと思います。

ややもすると、「弾ける」という側面ばかりが重視され、本来の「音楽から感動を受ける」という面が、忘れがちになったりもして・・・

でも、難しいですよね。音楽からの感動というものは、教えられたり教わったりするものではないのですから。

「さあ、この曲で感動しましょう!」とか「感動の仕方を教わりましょう!」というものではない・・・

ひたすらエチュードやバッハの曲を、それこそ、なぎ倒すように制覇していったり、B子ちゃんは、3年生でショパンが弾けるとか、あまりにも「弾ける」「弾きこなす」という側面が強調されてしまうと、どこかで、そして本来は最も重要かつ基本的なことである「音楽を聴いて泣きたくなるほど感動する」といったことを経験せずに、達者になっていってしまう。これでは寂しい。

僕がピアノを子供の時に、習っていた時のことを反省してみると、なんだかバランスが悪かったなぁ・・・と感じます。「音楽的感動」というものは、それこそ浴びるほど体験していたと思います。毎日レコードを聴いて、感動していましたから。でも「弾ける」とか「弾けるようになる」といった側面で努力が足りず、練習というものをしなかった。どうしてもバイエルとかブルグミュラーのような教材を熱心に弾く気が起こらなかった。どうしても「音楽からの感動」というものと「練習用の音楽」というものを、分離して感じることが困難だった・・・

やはり、音楽からの感動というものは、どこかに置いておいて、「練習は、それとは別なのだから・・・」と割り切る必要があるのでしょうか?このあたりのバランスがピアノを弾いていくうえで、とても難しいと思います。

子供であれば、どんどん教材を進めていくということばかりに邁進してしまい、バランスが悪くなるのかもしれませんが、大人の場合だと、やたらと「曲が弾ける・・・」という側面が重要視されがちになってしまう気がします。難曲を弾きこなすことが目的となってしまったりとか、憧れの曲を、ただ楽譜を音にすることだけに執着してしまったり・・・

大人であれば、なおさら「バリバリ度」とか「難度」・・・つまり「弾きこなす」という呪縛から放たれて、音楽的感動からの演奏というものを目指していいような気がしてきます。大人だからこそ、将来ではなく、今現在、音楽と戯れる喜びを味わう必要がある・・・

でも、大人ならではの危険性もあって、「この曲好き・・・」という動機から、それが音楽的感動からによるものだとしても、「弾ける」「弾きこなす」という要素を軽んじてしまうと、ただ名曲を弾き散らかすだけになってしまい、一曲も満足に弾けたことがない・・・なんてパターンに陥ったりしがちです。

やはり、子供も大人も「バランス」が大事ということなんでしょうか?

kaz


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category: ピアノ雑感

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呼吸が合い過ぎの二人 

 

魅惑のショスタコーヴィチシリーズも今回で最後です。動画ではチェロの2重奏ですが、僕はヴァイオリンの演奏で聴いたことがあります。「プレリュード」です。

それにしても、二人の呼吸が合い過ぎていて、どこかコワイ・・・

兄弟でしょうか?

kaz




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アブ?アブって、あの昆虫のアブ? 

 

ショスタコーヴィチは映画音楽も作曲しています。それがまた美しい曲でして・・・

でも、映画の題名が「ウシアブ」なんですよね。ウシアブとは、ハエよりも大きくて、家畜などに、たかる昆虫のことみたいです。うーん、奇妙な題名です。

なので、この曲も「ウシアブのロマンス」という曲です。

題名からは連想できないような曲ではあります。




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魅惑のショスタコーヴィチ 2 

 

僕が最初にショスタコーヴィチの意外な(?)魅力の虜になった曲が、ジャズ組曲の中の「ワルツ」です。この組曲にはワルツが複数ありまして、たしか第2番だったと・・・

どこか懐かしい調べ・・・




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魅惑のショスタコーヴィチ 1 

 

美しいメロディーを沢山書いた作曲家、それぞれ人により思い浮かべる作曲家は異なると思います。シューベルトとか、プッチーニとか・・・

(ピアノ弾きにとって)マイナーな作曲家ではレイナルド・アーンとか・・・

「美しいメロディー」という言葉からショスタコーヴィチを連想する人は、どれくらい存在するのでしょう?少数だと僕は思うのですが・・・

ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲ですが、あまり演奏されない感じですね。まれに、1番が演奏されるでしょうか?

でも、2番のピアノ協奏曲の第2楽章は、この世のものとは思えないような、美しいメロディーなのです。

ピアノを演奏しているのは、レナード・バーンスタイン(指揮も)で、これまた極上の演奏でして・・・

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category: Leonard Bernstein

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音楽とピアノのレッスンとの大きな溝 

 

本日無事退院しまして、さきほど少しピアノを触ってみて、案の定というか、予想以上にというか、弾けなくなっていまして、練習の継続性、その大切さを再確認したところです。

まぁ、ピアノの練習も再スタートということですし、季節も春の到来ですし、一からのやり直しもいいのではないでしょうか・・・

バーンスタインは、中学生の時に聴いています。ニューヨーク・フィルの来日公演でした。東京文化会館の天井に近い席で、聴きまして、特にショスタコーヴィチの演奏、もう自分が、どうかなってしまうのではないかと思うほど感動しました。

その時は、ピアノも辞めていて、チンタラと練習する必要もなくなり、先生からもガミガミと怒られることからも解放され、どこか、さっぱりとしていたのですが、このバーンスタインとニューヨーク・フィルの演奏を聴いて、とても苦しくなったのを覚えています。当時は演奏に感動したからだと思っていました。中学生ではありましたが、会場で大泣きしてはいけないという認識はありましたので、演奏会後、泣きながら上野から日暮里まで歩いたのを覚えています。

今は分ります。あの時の苦しさは、音楽や演奏から受けた感動を自分なりに発散させたかったからなのだと。自分は聴くだけでは満足できなかったからなのだと・・・

でも、自分の心からの欲求に、蓋をしてしまった。封印してしまった。その後30年間も・・・

どこかで自覚していました。受けたもの、貰ったもの、その感動を自分で表現して発散する必要性を感じていました。でも、どうしても、どうしてもピアノのレッスンは、もうイヤでした。怒られることも、バイエルやブルグミュラーを練習することもイヤでした。

その後も、音楽を聴いて、苦しい感覚を覚えることが何度もありました。そして、その度に自分の気持ちを偽って生きてきました。

「本当はkazさんはピアノ弾きたいんだろう?」

僕が封印し続けてきた本当の気持ちを、見破る友人たちもいました。そして、その友人たちが、病気で亡くなり、自分も病気になりました。これは偶然ではないと自分では思っています。このような偶然は、ありえない。

自分が病気になり、人生の再設計、そして人生の有限性を見つめ直す必要性が出てきた時に、僕は初めて自分の気持ちに正直になることができたような気がします。

「また、またピアノを弾いてみたい・・・」

初めて音楽を聴いて「死にそうに辛い・・・」という感覚を覚えたのが、バーンスタインのショスタコーヴィチでした。初めての封印、初めての自分への偽り・・・

その時のバーンスタインは、豆粒のようでしたが(天井で聴いていたので)、演奏の映像が残っています。今聴くと、あの時の、泣きながら歩いていた自分に戻ります。

「なぜピアノを、あの時再開しなかったのだろう?」

・・・でも、それが自分なのだとも思います。そして自分はピアノを死ぬまで弾いているだろうとも思います。

kaz




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