ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

練習のための本番って変かもしれない。 

 

学校の授業には「指導案」というものがある。指導計画があり、その計画を具現化しなければならないのが建前(?)ではある。授業という限られた時間の中で、計画に沿って目標に達していく、その段階を具体化したものが授業の指導案・・・ということになろうか?つまり行き当たりばったりではなく、目標達成のために、やるべきことを各授業単位で計画しなさいということだろうと思う。

ピアノのレッスンで実際に指導案作りをしている先生はいるのだろうか?いるだろうと思う。特に大学で教員養成的なものを学んだ先生は、その分野に強いだろうと思う。レッスン毎にプリントアウトされた指導案が必要かとどうかはともかくとして、目標があり、その具現化という基本の流れはピアノのレッスンでも必要かもしれない。病院などでも「看護計画」とか、あるはずだ。それと同じかな?

僕自身はピアノ教師ではないので、具体的なピアノレッスン指導案みたいなものには興味はないし、語る資格もないと思う。でも達成したい目標、その具体化のための課題、その課題の克服・・・のような段階を踏む、手順を踏む、今やっている練習は、そもそも何をしたいからやっているのか・・・などという日々の練習方法というか、そのようなことは元教員でもあるので、なんとなく感じることはある。

まず、日々のピアノの練習において、自分なりの「達成したい目標」というものが音イメージとしてあるだろうか・・・ということ。指導計画であれば「大目標」となる大きなものになる。この目標が「一応弾けるようにする」ということはないだろうか?それも目標なのだろうが、それは極々小さな「小目標」であり、到達点とすべき「大目標」ではない。ピアノは義務教育ではないので、この「大目標」は自分で作り上げていくものとなるだろう。それは「理想のサウンド」「(無理かもしれないが)具体化したい音世界」ということになるのでは?練習の動機、ピアノを何故弾くのか、その曲をどうして弾きたいと思ったのか・・・などという心の奥底で感じたであろう、根本にあるようなもの・・・

日々の練習、これを本番での演奏という大目標の手段、つまり小目標と考える。ややもすると「弾けるようにする」という小目標スタンスのまま本番・・・という人も多いのではないだろうか?「あそこ、大丈夫かしら?」「○○となってしまったらどうしましょう?」これは日々の小目標の具現化ができるかの心配ではないだろうか?大目標はどこへ???

譜読みの段階から「大目標」を目指す。そもそも「ああ、素敵だな」とか感じたから、その曲を弾きたいと思ったわけで、その大目標の音イメージ、音世界なく、ひたすら小目標の具現化が目標となってしまっては本番で「何故いつも私は・・・」とか「それに比べてあの人は何故?才能?」とか思ってしまう。これって不幸だし、何か違う。そもそも練習は本番を想定して、そこでの目標音世界に向かっていくものでは?本番は練習という小目標の具現化・・・これでは何か逆のような気がする。

一応楽譜(音符)が弾けてから表現を考える・・・これを否定してみたらどうだろう?できるかどうかは別として、具現化したい音世界という大目標が自分の心を動かしたのだったら、それが演奏とか練習というものへの動機となっている、そう考えてみる。もしホロヴィッツの演奏に心動かされ、弾いてみたいということの動機となったのなら、自分の大目標とホロヴィッツは乖離するべきものではないような気がする。「自分なんてまだまだ・・・」実際はそうでも、「ああ、何て素晴らしい」と感じた音世界があるのだったら、それはその人の大目標ではないだろうか?

ピアノと対面する。練習のためにピアノを蓋を開けピアノの前に座る。日々行っていることだ。「あのパッセージ、弾けるようにしなきゃ」「あそこまで譜読みして両手でなんとか通せるようにしなきゃ」・・・小目標だ。でも、いつも「大目標」のための「小目標」という意識は必要だと思う。大目標のなるべき音世界を忘れて音を出している瞬間はないだろうか?その音世界が自分などとはかけ離れた壮大なものであったなら?そこを目指すのは傲慢なのか?いや、素敵なことじゃないか?手が届かないような音世界だからこそ、だからこそピアノを弾いているのでは?

kaz


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音霊の鎖 

 

とても素晴らしいピアノ教師がいたとする。ちょっとしたアドバイスで生徒の演奏が変化する。「そこ、なんだか大変そうに弾いているんだけど、そこはこうしたら?」「あっ、弾きやすい!」とか「こうしたらこうなるんじゃない?」「あっ、本当だ!」みたいなレッスン。でも、そのような教師でも、生徒が何も感じていなければ、導いていくのは難しいこともあるのではないか?そもそも「あっ、本当だ!」と生徒が感じるということは、生徒自身の中に理想のサウンドが存在しているということのような気がする。

「こうしてみたら?」「変わったじゃない?」・・・「そうですか?何も感じませんが?」

「この曲、いいわよね?」・・・「別にぃ・・・」

そもそも、そのような人はピアノなど、わざわざ弾くだろうかという疑問が残ってくる。ノウハウによって、かつて生徒が感じた音霊体験が、今度は自分自身の演奏として具現化しやすくなるということはあるだろう。でも感じるということは生徒側の仕事(?)のような気もしてくる。

ピアノ演奏って結構(物凄く!)複雑で難しいものだから、どうしても各々の課題のようなものが目の前に立ちはだかってくる。「よし、課題克服ね」それは大事なことだが、ピアノを弾く究極の目的はそこではないだろうとも思う。聴き手は演奏者の課題克服を聴いて心が動くわけでもないだろう。火のように練習して「あっ、できた!」となっても、音霊というものから授かった自分自身の心の動きのようなものが伝わらなければ、聴いている人は困ってしまうだろうとも思う。「あんなに頑張ったのに・・・」そう演奏者は感じてしまうかもしれない。頑張り、克服は大事だが、人は演奏者の頑張りを聴きたいわけでもない。そこがシンプル、かつ難しいところだ。

クラシック音楽って拡散力というよりも、時代を超えて伝わっていくという特色があるように思う。CDショップの片隅に追いやられ、売り上げなんてJポップとは比較にさえならない。そんなジャンルではあるのかもしれないが、人から人へ時代を超えて伝わっていく。

ある演奏を聴いて、音霊を感じる。鑑賞者として、そこで終結してしまうこともあるし、それが音楽を聴くということなのだろうが、感じたものを自分でも触れてみたくなるという人もいるのだ。なのでピアノを弾いている・・・

音霊は、人から人と伝わって、伝承されていく。ここがクラシック音楽の素晴らしいところだ。鎖のように音霊は時代を超えて連鎖していく。

選ばれたピアニストだけが音霊を感じることができるのだろうか?万人が持っている能力なのではないか?それは学歴、習っている期間、何も関係ないのではないか?感じるかどうか・・・

弾けてから、上達してから・・・ではなく、まず音霊を感じることが先なのかもしれない。だからその曲を練習するわけだから・・・

kaz




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音霊 

 

「どうせ私なんか・・・」こう思って生活していると、神様(いるのか?)は、「ああ、この人は、どうせ・・・と思って生きるのが好きなんだな」と判断し、そのような状況をさらに与えてくれるのだそうだ。思うだけではなく、それを言葉にして書いたり言ったりすると、さらに強いエネルギーとして、その人を支配してしまうらしい。言霊・・・

音が入ってくる瞬間がある。生活していて、他の人たちは素通りしてしまっているけれど、自分には入ってくる瞬間。音霊が入ってくる瞬間。「ああ、なんていい曲なんだろう」とか「素敵な演奏・・・」と心が立ち止まる瞬間。

ピアノを弾いている、或いは、ピアノでその曲を弾こうと思った動機のようなもの、、それに直結するようなものだ。音霊が入ってきたのだ。音の高低の連なり、音の重なりの変化・・・そのような音霊が心を立ち止まらせたのだ。

「ああ・・・」というこの瞬間を大事にしたい。ピアノ歴などは、人それぞれ。大人になって始めた人だっているし、専門機関を卒業した人だっているだろう。厳しい訓練というものを重ねてきた人だっているだろう。でも音霊は各自のピアノ歴、音楽歴に関係なく入ってくる。気づくか、気づかないか・・・

ピアノの練習って、非常に日常性のあるものだから、ついつい、なんとなく練習してしまう。音符を音にしていく、弾けない・・・という箇所を弾けるようにしていく。その繰り返しになってしまう。そこに音霊という考えを入れてみる。心に音霊が止まる、感じるということは学歴などには関係ないことなのだ。「なぜ私はこの曲を弾きたいと思ったのだろう?」

「次の練習会、この曲なんかいいかもね・・・」以上の動機が必ずあるはずなのだ。心を奪われた箇所、音霊が入ってきた箇所があるはずなのだ。

一応弾けるようになってから・・・ではなく、曲に入る瞬間から必要なこと、自分が魅せられたという瞬間を、片手でゆっくりでいいから、再現してみるのだ。間違えてもいいのだ。自分で「ああ・・・これこれ、これなのよ」という音霊を再現してみる。譜読みの瞬間から・・・

印刷された音符を、ただアウトプットしようとするのではなく、心にインプットされた瞬間、その箇所を逃さない、「ああ・・・この曲・・・」とインプットされた音の魂、もしかしたら、○○音大卒業、○○音楽院留学、○○コンクール入賞、CDも〇枚発売中・・・という人よりも、あなたは音霊を感じたのかもしれない。弾けるようになってから・・・ではなく、音の魂を感じたというところを忘れないことが弾けるということになっていくのかもしれない。

あなたが音に立ち止まった瞬間・・・

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昭和ピアノからの脱却 

 

現在50歳前後のピアノ再開者、かつての高度経済成長期のピアノ教室を体験した人・・・ということになる。いわゆる「昭和ピアノ」というものに、どっぷりと浸かった世代でもある。生徒はウジャウジャといたような?発表会も長時間、盛大だったような?電子オルガン全盛の時代でもあったかな。

昭和ピアノの反省というものは現在のピアノ教育で欠かせないもの(?)になっているのではないだろうか?セミナーというものの主流は教材研究だったりする。かつてはバイエルといくつかの教材しかなく、終了すれば、また次の教材の選択肢も少なかった。そして出来上がったバイエル→ブルグミュラー→ソナチネ→ソナタという構図。そこにチェルニーやハノンが加わる。

選択肢が多いのはいいことだ。

もう一つの反省が、奏法。「ハイフィンガー奏法はやめましょう」というもの。脱力ブームはここに起点があるような気もする。たしかに「やめましょう」ということなのだろうが、個人的には順序が違うのかなという気もする。まずは音でしょ・・・と。基音を強調した鍵盤の底までガツンというような、明朗、しっかりとした音ではなく、もっと響くような・・・みたいな音、サウンドのイメージを育むのが先ではないかと。そのための奏法なわけだから。「A(ハイフィンガー奏法)はいけないんだって。じゃあBにしましょうよ?」的なものをピアノ教育界に感じてしまったりもする。

でも奏法は大切だよね。色々トライしてみるのはいいことだ。

最近、教材、奏法というものの他に、もう一つのものがあるような気がしている。それは読譜というもの。音符(楽譜ではない)を読むということは、100年前だろうと、今だろうと、あまり変わらないものなのではないかと思う。まずは中央のドを認識し、数えるということ。五線の中に書いてある丸を認識すること。ドレなら読めるけれど、ドソになると混乱する・・・では困るのだ。この部分は昭和だろうと平成だろうと変わらない部分なのでは?

曲を弾けるようにしていく段階において、最初は表情をつけないで、音を弾けるようにしていき、つっかえずに弾けるようになってから表現を考える・・・このような手順で曲を仕上げていく人は今でも多いようだ。これって昭和ピアノのやりかたなのでは?表情や感情は後付け・・・みたいな?

音符は読めるけれど、楽譜は読まない人もいる感じだ。かつて子ども時代、そうして教材を進めてきた昭和の名残りなのかな?一応弾けるようになってから色々とやってみる・・・みたいな?

音符という一つの単位がまとまり、楽譜となったのだったら、楽譜は語りかけてくるという認識を持つ。音符を読むという昭和チックな習慣を、楽譜という単位で感じていく平成的なものにする。子どもも大人も・・・

ドレよりもドソという広がりのある音つながりは、よりエネルギーが大きい・・・みたいな?「ド」と「ソ」でしょ・・・ではなく。

バイエル最初のドレドレド・・・簡単に弾けてしまうようだが、これってモーツァルトとかハイドンとか、バッハとか、彼らのメロディーの一部というか、切れ端みたいなものでは?最後のドはどのように収めるのか?具体的なタッチは、奏法は?この段階で表現はあるのでは?

「キラキラ星」・・・ドドソソララソ ファファミミレレド・・・この段階で、もう音楽表現ということなのでは?上がって下がって、最初のドドからソという広がり、最高音のラからどうやって下がるのか、連続音、ドドとかファファはどのように弾くのか・・・

音というか、オタマジャクシ認識だけで弾かないという平成モードが今はまだ欠けているような?

一応音符、オタマジャクシができてから表現する・・・これっておかしい。楽譜を読む=表現なのでは?

このあたり、ピアノの場合、それっぽく曲や教材が進んでしまうのでピアノは難しい。ある程度の曲は弾ける、音符は並べられるけれど、なんだかな・・・という場合、それは音楽性とか才能ということではなく、楽譜を読んでいない、そのような習慣を身につけていないからということもあるのでは?

声楽の人、羨ましいと思う。最も幼児がイタリア歌曲・・・ということはないだろうし、初歩でも声楽の場合は、高校生ぐらいにはなっているだろうから、ピアノとはそもそも比較にならないのかもしれないが、でもそうだろうか?楽譜を読む、表現につなげるということは、変わらないのでは?

「アマリリ麗し」という曲、声楽レッスンでは、まず発声練習の教材(コンコーネとか)と共に学ぶものではないかと思う。音のつながり、跳躍音程と順次進行とのエネルギーの違い、上向き音型と下降、ハーモニーが異なったら、今まで短調だったのものが、いきなり長調になったら、具体的にメロディーをどう処理していくのか、初歩でもこのあたりを意識しないと、イタリア語の知識とか声そのものがどうこうといったこととは別に、まず曲にならない・・・のでは?

そのあたりピアノはどうなのだろう?そのまま次の曲に進んでしまうこともあるのでは?一応オタマジャクシが並べば・・・

一応弾けるようになってから・・・をやめてみればどうなるだろう?

kaz




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練習は直すことではない 

 

できていないところを、できるように練習する。当たり前のことのように思えるけれど、そして難しいパッセージを練習するという行為そのものは同じだとも思うけれど、でも、練習には否定的練習と肯定的練習とがあると思う。

「私は大人になってピアノを始めたから、指が動かない、だから練習する」「いつも本番でミスをする、だからそうならないために練習する」練習そのものは悪いことではないけれど、練習の動機が「ダメダメな自分を直す」みたいな否定的なところから発しているような気がする。ダメダメな自分を・・・という発想だと、いつまでも否定要素を抱えていることにもならないだろうか?本番では決まって何かが起こる。「またダメだった!私は人前で弾く、舞台で弾く資格なんて、ないんだわ」のような方向になってしまう。

ダメな自分を否定、そして直すことが練習なのだろうか?

曲の神髄、つまり「私はこの曲のここに惚れた」という部分、要素を人と共有したいから練習するという考え方はいけないのだろうか?直すというよりは、伝えるための練習。演奏のための練習。ダメな自分を直すのではなく・・・

失敗したくないとか、それは当然の心理だと思うけれど、演奏って、音楽って創造行為みたいなところもあるのでは?「~しないように」という発想とは、あまり結びつかないような気はする。

ネマニャ・ラドゥロヴィチというヴァイオリニスト、僕はこのような演奏をする人が大好きだ。練習そのものは、どのように感じようが、そこには辛いものがあるとは思うけれど、でもこの人は「直さなきゃ」的な練習はしていないんじゃないかな?

表現したいから、伝えたいから、でもそれにはまだ至らないところがある、だから練習する、演奏のために練習する、この考え方は自分を直すという考えよりも素敵なことに思える。

kaz




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