ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

まず歌・・・そして、なんちゃってソルフェージュ 

 

このような動画を見ると、やはり最初は歌・・・なんだなと思う。メロディーを美しく歌う、指で歌う・・・

でも、ピアノの譜面は真っ黒だ。譜読みは面倒。

絶対音感とか、必要なのだろうか?音楽表現と絶対音感、非常に広い意味でのソルフェージュ能力と解釈して、これらのものはピアノを弾いていくうえで必要なのだろうか?

楽譜を見てサウンドが頭の中で鳴る、これは非常に便利だと思う。「まぁ、沢山の音、一つ一つ読んでいかなくちゃだわ」でないとピアノで再現できないとなると、どうしても譜読みは音拾い化してしまうものかもしれない。音が頭の中で鳴る、この能力があると、なんちゃって弾きが容易になる。別に楽譜通りの音でなくても、和音構成が同じであれば、ワーッとハーモニーをなんちゃって~といきなり弾くことができる。ハーモニーの移ろいによる感情の高まりとか、メロディー以外の要素も譜読み段階で再現できる。パッセージは、別に取り出して練習すればいいわけで、全体を掴む、表現ツボは逃さない・・・みたいな練習がいきなりできる。別に和音記号の知識なんて必要ないのでは?

音大ではソルフェージュの授業というものがあるはずだ。もしかしたら、音大生や音大卒の人とアマチュアとの大きな違いは、ここの有り無しではないかと想像するけれど、実際の演奏からは、そこのところが今一つ(全く?)感じることはできなかったりする。つまり、音大生の演奏から「さすがソルフェージュ能力は演奏そのものに反映されるんだわ」などと感じることは少ない(ない?)。

きっと僕には絶対音感というものがあるのだろうと思う。譜面を見てサウンドが鳴るから。でも小学生の前半は楽譜が読めなかった。「あなた、バカじゃないの?」と先生から言われた記憶は鮮明だ。

難関と言われている音大の入試、特に聴音の試験問題などをやってみると、「これは音取りクイズですか?」みたいな、これのどこが演奏というものにリンクしていくのだろうと疑問に思う。あるテレビ番組を思い出す。芸能人のクイズ王番組のようなもの?「博識だねぇ?さすが京大!」みたいな?でも博識と知性は同じではないように、音取りクイズ的なものがソルフェージュ能力であるならば、それは演奏そのものとは関係ないようにも感じる。

フォルマシオン・ミュジカルという、総合的なソルフェージュ能力のような概念があるらしい。パリ音楽院などが大元締めなのだろうか、有名というか。「来週までにモーツァルトの〇番のコンチェルトを弾いてきてね、あっ、カデンツァも書いてきてね」パリ音楽院では普通でも、日本の一般的な音大では「えっ???」となるのではないか?「私、ソリストになりたいんで、作曲家になりたいわけでもないし」みたいな?この概念の違いが、音取りクイズとカデンツァ書いてね・・・の違いなのかもしれないし、表面的な音並べ演奏というものへも関係があるのかもしれない。

アマチュアの場合、むろん「来週までにカデンツァを・・・」は必要ないと思うけれど、楽譜を見てサウンドが鳴れば便利だと思う。

まず、単旋律を片手で歌手のように弾けるだろうか?伴奏を「なんちゃって~」でいいので、いきなりつけられるだろうか?

kaz




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変わっていないもの? 

 

洋行帰りという言葉があった。いや、今もあるけれど、海外旅行、あるいはディグリー留学ではない短期留学なども含め、随分と外国というものが身近なものにはなった。なので「ヨーロッパに行ってきました」「まぁ、洋行帰りでいらっしゃるのね!」みたいな会話は今はあまりないのではないかとも思う。ネットで海外の情報も身近なものにはなった、外国のコンクールの様子をリアルタイムで見る(聴く)ことだって今は可能だ。

今よりも過去の日本のピアニストが劣っているとは思えない。それこそ船舶で何日もかけてヨーロッパに渡った人たち。原智恵子とか田中希代子とか、素晴らしい人たちがいた。「でも、この人たちは、おフランスで学んだのでしょう?」たしかにそうだが、日本民族が、他の民族と比較して、西洋音楽から特に遠い民族とは思えなかったりする。とは言え、昭和のピアノ教室体験者としては、「昔はしっかり、かっちり、鍵盤の底まで」みたいな弾き方が多かった印象はある、僕自身は「弾き方」以前に挫折してしまったので、特にハイフィンガー奏法の想い出はないのだが、他の進んだ生徒たちはそのような、コキーン・・・みたいな固いピアノを弾いていたような記憶は鮮明にある。

あの頃からピアノ教育というか、奏法というか、随分と変わった。外国の旬の(?)情報も入りやすくなったのかもしれないし、実は旬ではないのだが、日本人にとっては旬・・・のような情報も入ってきて、さすがに昭和ピアノ教室のようなことは、もうないのだろう。実際「指を一つ一つ上げて、しっかりした音を出しましょう」なんて今は流行らない。今は重力奏法の時代。これが旬なのね。

でも、昭和時代と全く変わっていないというか、継続されてしまっている部分を感じたりもする。

「指をしっかり上げて!」「バッハはペダルなしで弾くのよ」「ベートーヴェンなのだから歌ったりせず、もっと厳格に弾きなさい」「カーンと鳴らしてぇ・・・」こんなことは今はないのかもしれない。でも、「先生に言われたことを守るのが当たり前だから」「皆がそのように弾いているから」と、上からの命令(?)や指示を守る、時には表現というものさえ、そのようなことから脱せずにいても不思議にさえ感じない。「先生がこのように弾きなさいと言ったから」みたいな?それを当たり前、当然、あるいは、必要とさえ感じている・・・

言われることは変化したのだろう。「指をしっかりと上げて」から「もっと腕の重みを感じて」のような?でも「先生にそう言われたから」「これが正しいと先生が言ったから」みたいな部分は、平成の世の中になっても継続されてしまっている部分もあるのでは?

もっと上手くなりたいな・・・この「上手く」という部分は、人それぞれの想いはあるだろうが、「とにかく情報を」と頑張ってみるのもいいけれど、ちょっとだけ「昔と変わらず、無意識に継続してしまっているところを攻めて(考えて)みよう」という発想をしてみると、「上手くなる」というところに近づくかもしれない。

「いいな」とピアノに対して、曲に対して思ったのは「あなた」であり、だから「あなた」は疲れた日の終わりにピアノを練習したりする。「好き」と感じているのは「あなた」なのだ。「この本にはこう書いてあったし」「先生はこのように弾けと言ったから」・・・反抗する必要はないけれど、では、「あなた」は何処に?

明治時代、メーソンとか、久野久とか、その頃と変わっていないこともあるのかもしれない。

kaz

洋行帰り、田中希代子さん・・・




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達者なことはいいことなのか? 

 

子どものコンクールなどで、恐ろしく達者な子どもがいる。小学生で難曲を弾ききってしまう。これはどうしてだろう?まぁ、才能・・・と言ってしまえばそれまでだし、努力というものもあるだろうと思う。真面目とか勤勉とかも。

彼らの弾いている姿というか、奏法には、ある共通点がある。それはユーチューブでも(その気になれば?)確認することができる。子どもは成長の途中段階なので、多くの場合、手や指は出来上がっていないことが多い。でも難曲は弾ける、これは腕の重み、身体の重みを上手に活用しているように思う。弾けるということは悪いことではないのだろうが、手放しで驚嘆すべきことであるとも限らないような気はする。達者な子どもの奏法は、ある意味往年の巨匠の弾き方と正反対のように思える。椅子にただ座って弾くというよりは、身体を総動員して能率的に(?)弾く。腕の重みというか、腕を鍵盤に乗せる感覚で弾くと、パッセージは確かに弾きやすい。

再び雁部一浩著の「ピアノの知識と演奏」から引用してみる。「たしかに腕を鍵盤に乗せるような感覚で弾くことによって指の負担は軽減し、速いパッセージを安定したレガートで弾くことが容易になります。音量や音色も揃いやすくなり、音がかすれる危険も少ないので、とりあえず難しい楽曲をそつなく弾くには良い奏法です。露骨に言えば、試験やコンクールの為にも有利でしょう」

僕もそう思う。非常に能率的な弾き方のように思う。指のアジリティが未発達な時期には、効率を最優先しなければ難曲は弾けないだろうから。

「しかし、この方法によって多くの人が、そつなくピアノを弾けるようになる反面、芸術的な音楽表現が犠牲になる傾向も否定できません。鍵盤に腕の重さを乗せる感覚を重視するので総じてタッチがレガートに偏り、アーティキュレーションの多様性やポリフォニーの対比が乏しくなりがちです。その結果、良く言えば流麗、悪く言えば凡庸な印象になるのです。このような意味でスポーツ的、健康優良児的な演奏は現在いたるところで見られるものです」

達者な子どもの演奏、一見(一聴?)パッセージなど見事なのだが、「音」に関しては、クリスタルクリアではなく、一瞬での音の立ちあがりの魅力に欠ける。大雑把には見事というか?でも指コントロールによる、音表情の多彩さ、これに欠ける。なので、曲を形式というか、外側から攻めているような演奏に聴こえてくる。楽譜が浮かんでくる演奏というか?また視覚的にも非常に熱演・・・のように見えるので、さらに「達者」という感覚が増していく。これは誰の好みなのだろう?子ども・・・ではないような気がする。教師?聴衆?審査員?どうなのだろう?音量や音色は揃っているのだが、変化に乏しい。なので、さらに大きな音を出そうとすると、まるでピアノに覆いかぶさるような演奏姿になってしまう。

往年の巨匠たち、指のアジリティが凄かったのではないかと想像する。指の付け根の部分の瞬発力。その部分でのコントロール力が凄いので、鍵盤の途中の微妙な部分を狙うことができたのではないだろうか?一瞬の音の立ちあがりが明確なので、大騒ぎしなくてもオクターブの連続なども軽々と弾けたのでは?

巨匠が難曲を弾くとどうなるのだろう?音表情そのものは、壮大なる雪崩・・・のような迫力があり、色彩パレットも豊富になる。指でのコントロールが素晴らしいのだ。難所でも飛び上がって弾く必要はなく、ただ鍵盤を見つめたまま淡々とした姿のまま弾けてしまうのだ。往年の巨匠・・・に限らずなのだが、本当に上手な人は弾いている姿として、上肢が動かない。これは共通しているように思う。

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演奏姿 

 

ピアノ奏法について、自分なりに感じることはある。でも言語化が非常に困難ではある。「バリバリ」という鋼鉄の音ではなく「コロコロ」みたいな音が好き、このような大雑把な言葉になってしまう。往年の巨匠たちの音は「コロコロ」している。労働を感じさせない演奏姿だし、ただ座って鍵盤を淡々と見つめ弾いている。でも演奏というか、出てくる音表情は多彩・・・なんだよね。バリバリ派は演奏姿が派手だ。恍惚奏法というのだろうか、腕を振り回し、時には天井を見つめ苦し気な表情やら恍惚表情で演奏する。でも音表情は単色というのか、曲の場面変化に音表情がついていかないというか?見た目は忙しそうなんだけど。難曲になるほど、「どうだ!!!」みたいな肉体的なものに酔っているというか?

手首を固定して指だけで弾く・・・古い奏法
腕全体を有効に用いる・・・新しい奏法

どうも、極端に走っているように感じる。特に日本の場合、ハイフィンガー奏法という哀しい歴史があったためか、腕信仰のようなものがあるように思う。やたら腕を振り回し、身体全体で弾こうとするためか、顔(音ではない)表情まで派手になっている感じだ。「型」というものがあり、そこに当てはめようとしているというか?「今はこうなんです」という型、主流の弾き方から、はずれるのを極端に恐れるというか?「こうなんですよ」というものに皆が盲目的に走っているというか?

指ではなく腕全体を多用すると、腕の重さは一定だから、タッチは揃う。ミスは少なるだろうし、流麗な感じにはなる。でも一定すぎるということは、どこか「凡庸」な印象を与えるのではないか?どこか現代の演奏に通じるものがあるような気がする。

鍵盤の底まで弾きましょう、芯のあるしっかりした音を出しましょう

このような信仰もまだ根強いように思う。なので指で猛烈に叩いてしまったり、腕全体を多用し、身体全体で弾こうとする。これは重力奏法ではなく、「重圧奏法」ではないだろうか?この場合、安定・・・はするかもしれないが、鍵盤の途中を狙うような、往年の巨匠たちの音のような、コントロールされた音表情には遠くなるような気がする。

鍵盤に指を乗せてから弾く、底ではなく途中のポイントを狙い、最小限の労力で弾く

往年の巨匠たちの音にはこれがあるように思う。まぁ、コロコロ・・・という言い方になってしまうが・・・

ある意味、これも型にはめてしまうことになるのかもしれないが、往年の巨匠たちの演奏姿、弾き方に共通しているものがあるとすれば、そこを感じてみることは無駄なことでもないように思う。でも往年組の映像というものは極端に少なくなる、ここが悩ましい。ローゼンタールやラフマニノフの弾き姿、もうこれは想像するしかない。聴こえてくる音表情から、こう弾いているのでは・・・と想像する。

でも少数ながら、映像が残っているピアニストもいる。その演奏姿で共通していること、それは雁部一浩著の「ピアノの知識と奏法」から引用すれば、「卓越したピアニストの共通した特徴、すなわち音楽の場面変化によって大騒ぎすることなく、常に動作が一定している」ということになるのではないかと思う。さらに引用すれば、「巨匠たちの多くは、ほとんどただ座っているだけという弾き方でした。現代の多くのピアニストが、これでもか、これでもかと力みを感じさせるようなパッセージを実に軽やかに弾いています」ということにもなるのだと思う。

あまり知られていないピアニストかもしれないが、ヤコブ・ギンぺルの演奏姿。上肢がやたら動く・・・というのとは正反対の演奏姿だ。鍵盤に指を置いてから弾くということも徹底されているような?この音、コロコロした音・・・

kaz




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日頃からの感情練習、表現練習 

 

日々の練習、結構辛いと感じている人は多そうだ。人前でピアノを弾く機会を持っている人は、その場で自分を責める。「ああ、どうして失敗してしまうんだろう?」とか思う。そのような機会を持っていない人でもピアノのレッスンというものは定期的に受けていることが多いので、「また練習できませんでした」とか「ああ、なんで弾けないんだろう?」とか思ったりする。基本的にピアノって自分否定・・・とまではいかなくても、なんとなく「できないところ」を感じてしまう機会は多いそうだ。考えてみればそれも当たり前なのだ。上達していきたいとは誰でも願う。そこには過去よりも前進している自分というものが根底にある。日々の練習って、なかなか「私も素晴らしいところはある」のようには思いにくい状況ではある。

譜読みをして、弾けない箇所を練習して、合格(?)したら、新たな課題や曲をもらう、そしてまた譜読みをして・・・そして心の中でいつも思う「弾けないわ」「なんとかしなくちゃ」みたいな自分・・・

楽しい練習というものはないのだろうか?練習そのものは「ワッ♡ キャッ♡」というものではないにしても、もうちょっと「できない自分」よりも「音楽が好き、それだけは誰にも負けないの」みたいな心情に浸れる練習。

ピアノ弾き、あまりオペラというものを聴かないようだ。これは非常に残念なことのように思う。まぁ、好きでもなければ無理に聴く必要はないのかもしれないし、ピアノ曲だけでも膨大な数があるので、それだけでいいのかもしれないが、でも「私、別に歌うわけじゃないから」というのも寂しい気もする。感情の露出・・・この部分でオペラはピアノ練習にも役立つのではないだろうか?

弾けるように、はずさないように、このような練習だけではなく、つまり音を弾けるようにするという練習だけではなく、感情表出という練習をしてみる。イタリア人のように(?)ドワーッと感情を投げ出す練習。日常生活の中で道に倒れ込んで号泣してしまうような状況って普通の日本人にはあまりないはずだ。でもそのような感情表現が音楽の演奏に、時には求められるとしたら?そのような練習をしてみる。まずはオペラ的表現というか、「マンマ・ミーア!!!」的な感情露出に日頃の練習で慣れておく。本番でだけ「歌いましょう」とか「表現しましょう」と思っても難しい。日頃から練習しておくのだ。

その第一歩としてオペラに親しむ。CDとかDVDとか、ユーチューブでもいいのでは?観劇は高いかもしれないし。

マスカーニのオペラに「カヴァレリア・ルスティカーナ」という有名なオペラがある。このオペラの間奏曲が非常にイタリア~ンな感じなのだ。実際の上演では幕間にオーケストラだけで演奏されるのだが(間奏曲なので)、このカヴァレリアの間奏曲は、ある映画のラストシーンにピッタリと寄り添うのだ。「ゴッドファーザー Ⅲ」という映画。カヴァレリアもゴッドファーザーも舞台はシチリア島。映画では実際にオペラのカヴァレリアが伏線として使用されていたりする。コルレオーネの息子がオペラ歌手としてデビュー。そのオペラ(カヴァレリア)の観劇後にマイケルは暗殺されそうになる。弾丸はマイケルからそれ、最愛の娘に。泣き叫ぶマイケル、周囲の人々、このラストシーンがカヴァレリアの間奏曲にピッタリだし、実際にこの曲が映画でも使用されている。ロケはシチリア島のマッシモ劇場。この劇場は実際にオペラを上演する劇場でもある。

このラストシーンに浸ってみる、オペラ的な音楽の盛り上がりに自分の気持ちを乗せてみる。つまり、「ウワーッ」と盛り上がりながらオペラに浸ってみるのだ。泣き叫ぶとか、両手を天に突き出すとか、あまりしないでしょ?なのであえて、オペラで体験してみる。

このシーン・・・この音楽・・・

余談だが、「ゴッドファーザー」はシチリア島マフィアの物語。マフィアという言葉がオペラからきているという説がある。ヴェルディの「シチリア島の夕べの祈り」というオペラだ。このオペラは実際の史実をもとにしている。1282年、シチリア島で実際に起こったイタリア人の一斉蜂起。このオペラの第1幕のタイトルが Morte Alla Francia Italia Anela(フランス人の死をイタリア人は熱望する)で、それぞれの頭文字をとると、「MAFIA」となる。マフィアはオペラから生まれた・・・なんとなく本当のような気もしてくる。

人々がマッシモ劇場で泣き叫ぶシーン、マイケル・コルレオーネが自宅の庭でコロッと亡くなってしまうシーン、壮絶なる人生に似つかわしくないような死に方なのか、壮絶であったからこそ、あのような死に方をするのか・・・

このシーンにはニーノ・ロータの有名なテーマではなく、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」が相応しいように思う。聴いて浸ってみる・・・それも練習・・・かもしれない。

kaz




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