ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

ホイレイクの少年 

 

スティーヴン・ハフの「眠れる森の美女」によるパラフレーズの譜読みを開始した。「以前にも弾いたのか?」と思うほど忘れてしまっている。でも以前に弾いた時には感じなかったことも、今回は感じたりしている。この曲はパウル・パブストの編曲が昔から存在していて、ハフ版は、そのパラフレーズを、さらにハフ流にアレンジしたもの。原曲のパブスト版と曲の骨格は変えてはいないのだが、音型処理がハフ版では、さらに冴えていて、どこかスッキリしている。ロシア的重厚さを整理し、スタイリッシュな感じだ。

ここまでは以前にも感じてはいた。それを具現できたのかは大いに疑問ではあるが、少なくとも感じてはいた。今回は、さらにこう感じる。「随分とゲイテイスト満載だな・・・」と。ゲイっぽい編曲、音型処理なんて説明不可能だが、どこかキラキラした感じ?スパンコールのような?でも悪趣味ではなく、シックな感じ?なんとも説明しがたい感じなのだが。トム・フォードの服みたいな?

スティーヴン・ハフはイギリスの人だ。どのような少年時代を送ったのだろう?イギリスのウィラル半島、ホイレイクという小さな街でハフは育った。近場の大都会はリバプールということになる。グーグル・マップでホイレイク散策をしてみた。メルヘンの街という印象だ。「きゃっ、素敵!」みたいな「いかにもイギリス♥」のような小さな家々、街並み、のどかではある。

でも刺激が少ないんじゃあないか・・・と思う。そこだけしか知らなければ、そんなものなのかもしれないが、東京に住んでいる人は、おそらくホイレイクには住めないんじゃあないか?命の洗濯的な旅行ならいいだろうが。リバプールもホイレイクと比較すれば都会だが、う~ん、住むとなると、ちょっと刺激が少ないかもしれない。

少年ハフもそう感じていたのではないかと想像する。ロンドンに憧れ、そしてニューヨークに憧れ・・・と飛翔していった。ウィラルという地域が田舎・・・というわけでもないのだろうが、「外にはどんな世界が待っているんだろう?」と感じさせてしまうような平和な牧歌的な街ではある。

「スティーヴン、クリスマスのプレゼントだよ」家族が用意したのは男の子の喜びそうなゲームだったとする。もしかしたらスティーヴンは心の中で思ったのだ。「本当は綺麗な着せ替え人形が欲しかったのに」と。でもそんなことは家族にも言えない。むろん、友達にも言えない。保守的なホイレイクという社会でそれを表すと、疎外につながっていくから。ホイレイクはサンフランシスコでもニューヨークでもなかったから。

「将来は何になりたいの?」「僕はパイロット」「サッカー選手」・・・でもスティーヴンは思った。「僕はピアニストになってキラキラした世界を聴いている人に伝えたい、キラキラした世界が好きなんだ」でも言ったらどうなるか・・・

自分の内面、本当の自分を出せないということは、非常に辛かったのではないかと思う。「自分を偽りたくない」という想いが自分を苦しめていく。そして自分の性癖、自分自身に誇りを感じられなくなっていく。

「僕がゲイでなければ皆を失望させることなんかないのに。僕がいけないんだ・・・」

むろん、これは僕の想像の世界で、実際はどうだったのかは分からない。自分を偽っても、また自分に忠実であっても、生きやすい世界ではなかったような気がする。

スティーヴンはゲイであることを公にしている数少ないピアニストの一人だ。ピアニストになり、演奏で、そしてトランスクリプションという自己の作品において、憧れだった「キラキラ・・・」を具現化したのではないか?

「これが僕の好きな世界なんだよ」と。

興味深い動画を発見した。スティーヴンが少年時代を過ごした60年代のイギリス、ウィラル地域の映像。のどかで平和だ。でも自分に忠実でいられた土地だったのか、時代だったのか・・・

ハフの「キラキラ・・・」の出所を探り中だ。

kaz




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アステアのように踊るピアノ 

 

スティーヴン・ハフのトランスクリプションを選曲した理由として、ハフというピアニスト、作曲家をもっと知ってもらいたいという気持ちが大きい。有名であるといえば、そうだ。でも日本ではどうなんだろう?昨年は久しぶりに来日してくれたけれど、東京での公演のみ。全国縦断ということはしなかった。ハイぺリオンから次々に新譜が発売されていて、海外での評価、認知度は高いと思うのだが・・・

数年前からニューヨークのジュリアード音楽院でも教えている。ハフの演奏スケジュールを見ても、演奏活動を制限しているわけでもなさそうなので、日本でももっと演奏して頂きたい感じだ。日本ではあまり演奏してくれないので、台湾やシンガポールまで「ハフ巡礼」に出かけるファンも存在しているみたいだし。

ハフの魅力として個人的に感じるところだが、音そのものに丸みがあり、さらにクリスタルな硬質感も共存していて、どこか軽さを感じるところ。ヘビーではない。コロコロ・・・キラキラ・・・

バリバリという鋼鉄の連なり・・・という音のピアニストが主流の中、フリードマンのような、かつての往年のピアニストのような軽さを感じさせるハフの存在は貴重だと思う。生きている、現在進行形ということが素晴らしい。

労力とか、汗というものを感じさせない演奏だ。そこのところが日本のピアニズムとは距離を感じさせてしまうのかもしれない。なので、日本での知名度は今ひとつ・・・のような?

アステアの踊りを彷彿とさせるピアノだ。重力を感じさせない、音が空間に浮遊し飛翔していくような軽さがある。

表現力不足を感じさせてしまう演奏に共通しているのは、動作(タッチ?)が早すぎるのだ。自分の意思を反映させたコントロールされた動作ではなく、どこかスコンスコンと弾いてしまう。動作よりも前に意思がなくては。コントロールしてから弾く・・・

ハフの演奏動画は、そのあたりの秘訣が非常に分かりやすいようにも思う。

ピアノはギュウギュウ入魂しなくても、コントロールしてあげれば鳴ってくれる・・・ハフの演奏を聴くとそう感じる。自分でできるのかは別なんだけど・・・

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スティーヴン・ハフを聴こう 2 

 

スティーヴン・ハフは基本的には楽譜指示からの逸脱はなく、楽譜に忠実に演奏しているのだそうだ。まれに楽譜に書かれていないように演奏している箇所があったとしたら、そこは自分で推敲を重ね熟考した結果そうなったと思って欲しい・・・とも言っている。楽譜を見ながらハフの演奏を聴いたりしていたのだが、たしかに楽譜からの安易な逸脱はない。でもどの演奏からも「ハフらしさ」のようなものは感じる。

ハフは尊敬するピアニストとしてイグナツ・フリードマンを挙げている。ここが謎だったのだ。フリードマンと言えば、往年系演奏の代表的なピアニストだ。テンポ揺らしなど、現代若手ピアニストの演奏に慣れてしまった耳からは、非常に自由自在に聴こえる。少なくとも、「お手本にしてはいけませ~ん」という演奏なのではないかと思う。楽譜に忠実?なのに自由自在なフリードマン?

もしかしたら楽譜に忠実ということは、楽譜に書いてあるように弾く・・・という解釈そのものが大雑把すぎるのでは?

フォルテと書いてあるから強く弾きましょう・・・などという単純なことでもないのでは?バレンボイムやハイドシェックが指摘するように、相対的なものとして楽譜を認識する必要があるのでは?記号には強弱というそれだけではなく、エネルギーが増大していったり縮小したりというものまで、その意味に含まれているとしたら?

「フォルテ」・・・強く弾きましょう・・・ではなく、何らかのエネルギーを感じさせましょう・・・みたいな?ピアニシモと書いてあったら、ただ弱くしましょう・・・ではなく、そこには秘めたエネルギーを潜ませるとか、静謐さを緊張感で表すとか、そのような効果を期待されているのでは?

~で弾く・・・ではなく~と聴き手が感じる効果を考えなさい・・・みたいな?

もしかしたら、一見(一聴?)楽譜に書いてあることを守って弾いている演奏が忠実な演奏でもないのかもしれない。強弱は楽譜の指示を守っていても、効果として変化に乏しい演奏(こういう演奏が多いが)だとしたら、それは楽譜に忠実とは言えなく、楽譜の読みが浅いのかもしれない。一応楽譜どおりに弾いていても・・・

ハフとフリードマンの演奏を楽譜を参考にしながら、同じ曲で聴き比べてみると非常に興味深い。演奏そのものは違う。弾いている人間が違うから演奏が違うという感じ。でも楽譜には忠実であるように、どちらの演奏からも感じる(ような気がする)。

そのようなことを考えると、導入においての「読譜」と「表現」の指導というものは、非常に難しいものであると考えられる。「そこはピアノ、そこはフォルテ、変化をつけましょう」「ピアノなんだからそこは弱くね」だけでは不十分だということになる。強く弾く、とか、だんだん弱く弾く・・・ではなく、その楽譜指示にある隠れた効果、本当の意味を生徒に伝授しなければならないわけだから・・・

ハフの演奏って汗を感じさせない。熱演、爆演という感じではない。グワーッという技巧ではない。割と往年のピアニストのように、「いかにも軽く簡単そうに」弾いてしまう。そこが魅力だと思うのだが、物足りないと思う人もいるのだろうか?

往年のピアニストは、割と音楽以外の学問にも精通している人が多い。なんとなく哲学を修めた人が多いようにも思う。また自ら作曲をしたり編曲をしたりする人も多い、というか、昔はそれが普通だった。スティーヴン・ハフは音楽院出身だが、実は画家でもある。また作曲家でもある。このあたりも往年系との共通点を感じたりする。

楽譜の解釈とか、演奏そのものとか、現在主流の流れ、教育って、どこか硬直していないだろうか?

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スティーヴン・ハフを聴こう 1 

 

昨年は、スティーヴン・ハフが日本公演を行ってくれた。でも欧米での彼に対しての評価と、日本のそれとでは、かなり隔たりがあるように思えてならない。彼ほどのピアニストであるならば、会場もせめてサントリーホールの大ホール、東京だけではなく各都市も演奏して周っていただいて、リサイタルだけではなく、コンチェルトも全国でもっと弾いて頂きたかった。

実際は東京でのリサイタルとN響との共演だけで、あっさりと(?)次の公演地に旅立ってしまった感がある。N響とはリストの1番を共演しているが、なにしろ20分程の曲、リサイタルは銀座のヤマハホールという割とこじんまりとした会場ということもあり、「えっ、これで日本公演終わりなの?」みたいな印象があった。演奏曲はハフが弾きたかったものだと思うし、会場も親密感のようなものをハフが重視した結果なのかもしれないが、ファンとしては「もう行ってしまうんですかぁぁぁ」みたいな想いはどうしても残る。毎年来日してくれるわけでもないしね。日本にも「ハフ依存症?」みたいなファンは存在していて、外国まで遠征してしまうファンもいたりする。

おそらく、日本一般的ピアノファンが「これぞピアノ演奏!」と感じるものと、ハフの演奏とは多少の距離があるのかもしれない。例えば、ラフマニノフ。超優秀有名音大の卒業演奏会などで、ラフマニノフは非常によく演奏される。その演奏は、楽観的、かつ好意的に解釈するならば、ゴージャスな演奏、率直に解釈するならば、音の混乱状態・・・という演奏に聴こえてしまう。たしかにラフマニノフの曲って音が多い。真っ黒楽譜だ。でも楽譜に忠実とか、きちんと弾くということを、どこか優秀音大生たちは、一面でしか捉えられていないようで、全部の音を同じように弾いてしまうように思う。それが、どこか日本人好みの熱演、爆演、汗演というものと結びついてしまう。聴衆もその汗、スポーツ的快感に酔ってしまうというか?「凄~い!!!」みたいな?

そのような熱っぽい、どこかハリウッド的ラフマニノフ演奏と反対に位置しているのがハフの演奏なのではないかと思う。どこかスッキリとしている。このカオス魅力でないラフマニノフ演奏、実は作曲家自身がそのような演奏をしている。ラフマニノフの自作自演のコンチェルトはCDで聴くことができるが、この演奏が巷の豪華ラフマニノフとは著しく異なるのだ。スッキリ?余分なものがない?

ハフのラフマニノフ、ピアノコンチェルト全集のCDの演奏はラフマニノフ自身の演奏と方向性は似ているような気がする。でもこのあたりが日本人の好みとは微妙に合わないのかもしれない。スコアを研究した結果、余分なセンチメンタリズムを排除した、高速ラフマニノフになった、それは作曲家自身の演奏と通じるものになった・・・とハフ自身は語っている。

楽譜にある音、記号をそのまま単純にサウンド化してしまうと、ラフマニノフの曲は音のカオスとなってしまうような気がする。甘いセンチメンタルな、かつハリウッド的豪華さのあるラフマニノフ。どこか混沌としてしまい、それがラフマニノフなのだ・・・みたいな?

動画はハフの「パガニーニラプソディ」の一部。多くのラフマニノフを弾くピアニスト、あるいは優秀音大生と比較して、気づくことはないだろうか?それは打鍵の位置が低めだということ。つまり椅子が低い。肘と鍵盤がほぼ同じ位置にある。これって一般的ラフマニノフの演奏と異なるような気がする。ラフマニノフに限らず、超絶豪華系の曲って、椅子の位置を高めにし、腕の動きまでも多用して演奏するのが一般的なのではないかと思う。和音も広いし、多いし、跳躍も多いから。ピアノに覆いかぶさるような感じだろうか?そのように弾くと、たしかに身体的には楽に弾けるが、音の粒だちに欠けるという欠点がある。ハフ、そしてラフマニノフ自身も、絢爛豪華さというよりは、音とか曲に「クリアネス」というものを求めたのではないか?そんな風にも感じたりする。

ハフの演奏って、「ロマンティックな演奏って?」「モダンな演奏って?」「本当の超絶技巧って?」「テキストをよく読むって?」みたいなものを日本のピアノ学習者、指導者に突き付けてくるような厳しさがあるのかもしれない。

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音型美 

 

今バイエルを使用している先生はどれくらい存在しているのだろう?まだ「脱バイエル」のような考えが主流なのだろうか?チェルニーはどうなのだろう?一時は(今もか?)チェルニーは「ピアノ嫌い」を生みだす元凶のようにも言う人がいた(今もか?)ように思う。

和音が単純、古典派意外の時代の曲に対応できない・・・

それをフォローするのが先生の仕事なのでは・・・などと素人は単純に思ってしまう。「ヘ音記号がなかなか登場しない」とか、自分で教材を作ってフォローすればいいのでは?これまた素人考えなのだろうか?そうなのだろう。おそらく複雑な何か、素人には理解できないようなことがあるのだろう。

チェルニーのエチュード、もうこれは指をひたすら訓練する教材・・・のように思われているかもしれないが、個人的にはそうではなく「音型美」のようなものを表現できるようにするための教材のように思う。スケールそのものの美しさ、ダブル和音の連続の美しさ、アルベルティバス音型の美しさ、分散和音の美しさ・・・

このあたりはフィギュアスケートの美の概念と似ているのかもしれない。恍惚の表情だけが表現力を生みだすのではなく、エッジが深いとか、ルッツジャンプであれば、アウトサイドエッジに体重移動し、スピードを減速させることなくジャンプを跳び、降りてからも減速しない・・・みたいな、基礎的技術そのものが観ている者の快感を誘い、基礎的技術そのもの、その完成度そのものが「美」となる・・・

単純な和音でも、いや、単純な和音の連続だからこそ、主に右手で繰り広げられる「音型美」が強調される・・・みたいな?

本来は、「指の強化」ではなく「音型美の習得」のための教材だったのでは?

スケールって美しいんだ・・・

スティーヴン・ハフの演奏によるチェルニー音型美の世界。ここまで音型美を再現できれば、ロマン派だろうと近現代だろうと、弾けると思うのだが?

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