ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

ピアニストが本気でチェルニーを弾くと・・・ 

 

巷の多くの発表会で密かに展開されているのではないかと思う心理戦。「おっ、A子、上手くなったじゃないか?」男親が心から嬉しそうに言う。女親、つまり母親の心は複雑だ。「あのぅ、あなたはいいわよね。いいところしか見ないから。どれだけ私があの子に練習させたと思ってるの?私、あの子から鬼とまで言われたのよ?この曲だけじゃなく、これまでどれだけチェルニーを練習させてきたと思ってるの?」むろん、客席で家庭内紛争を繰り広げるわけにはいかないので、母親は黙っている。「男親って気楽なもんよねっ!」

心を鬼にしてまで練習させるチェルニー、チェルニーを極める(?)とどうなるのだろう?そもそも何故チェルニーなどというものが課題として与えられるのだろう?「指を鍛える?」「バリバリと弾けるように?」「どの教室でも使っているから?」

チェルニー=鍛える・・・みたいな昭和発想から脱却してみたらどうだろう?カールの肖像画、師のルードヴィヒとも弟子のフランツとも異なり、温和な感じだ。どこかサラリーマンのような?怒涛の芸術家というより、温和ないい人・・・

カールの愛情とは?「音階ってとっても素敵なんだよ」「アルペジオの連続って上手に弾けるとエクスタシーさえ感じないかい?」「ダブルの連続って、ゾクゾクしないかい?」つまり彼は音型の美というものを後世に伝えたかった。ドレミファソラシド、ドミソドソミドの美しさ・・・

「一応、起承転結を考えてみた。曲にしたんだ。音型美を曲として身につけていって欲しかったから。曲としては、あまりファンシーなことはしていない。分かりやすくしたかったんだ。素敵なスケール、素敵なアルペジオを身につけて欲しい。これが僕の願いだ。芸術作品の基本要素である音型、曲って音型の連続でしょ?これを素敵に弾けないとね。素敵にドレミファソラシド ドシラソファミレドが弾ければ長大な曲も弾けるんじゃないかな?素敵に弾いて欲しいな」

ピアニストが本気(?)でチェルニーを弾くとどうなるのだろう?機関銃のようにバリバリと?鍛えました~バリバリ・・・のような?スティーヴン・ハフが弾いているチェルニー、まさにカールの望んだチェルニーではないだろうか?

「どうか僕を素敵に弾いてね。音型って素敵なんだから・・・」

kaz




にほんブログ村


ピアノランキング
スポンサーサイト

category: 選曲に困ったら・・・

tb: --   cm: 0

△top

蘇るチェルニー 

 

世のピアノ弾きたちから疎んじられている、嫌われている、恨まれている作曲家、おそらくバイエルとチェルニーなのではないだろうか?ピアノ教師やピアニストの中にも彼らの名前から辛い修行時代を連想してしまう人もいるかもしれない。特にチェルニーとのおつきあいは長めになるので、その恨みも大きなものとなる。

発表会でチェルニーを弾く、客席で聴いている人はこう思うかもしれない。「まぁ、チェルニー?先生から曲をもらえなかったのね?いつもはピアノの練習をサボっている生徒なのかしら?それでも発表会に出るって偉いわねぇ・・・」

ギロックやキャサリン・ロリンの曲は、いかにも発表会向けだけれど、チェルニーはどうなのだろう?そもそもチェルニーという作曲家のイメージって、30、40、50番あたりのイメージだったりする。心の手垢を取り除いてみると、その中に、なかなか美しい曲も含まれているように思うけれど、「えっ?これがチェルニー?」のような魅惑的な曲は、むしろ、もう少しレベル的には(?)易しめの曲集に含まれている気がする。そう、100番とか110番あたり・・・

この曲、チェルニーと、聴いただけでパッと分かるだろうか?むしろプーランクのような?「最近発見されたプーランクの曲です」などと言われても納得してしまうような?「まぁ、さすがプーランク、お洒落な曲ねぇ・・・」

kaz




にほんブログ村


ピアノランキング



category: 選曲に困ったら・・・

tb: --   cm: 2

△top

ショパンの前座 

 

そのものずばり「ピアノの学習」(音楽之友社)という本を持っている。長岡敏夫という人の著で、昭和47年に発行されている。昭和47年、まさに高度経済成長期の本なのだ。指の練習書から導入の教材、さらには邦人作品まで、満遍なく説明されていて、当時はよく読まれていたのではないかと想像する。

特色としては、曲に難易度がついていること。「初級4」とか「上級5」みたいに。全音ピアノピースと同じ感じだろうか?まさか当時でも「その曲は中級3でしょ?もう少し中級2の曲を弾いてからにしましょう」などということは高度経済成長期のピアノ教室でもなかったように思う(願う?)けれど。この本のもう一つの特色は著者提案による「学習順序」が記されていること。むろん、すべての作品にではないが、バッハのインヴェンション、平均律、ベートーヴェンのソナタ、ショパンのエチュードなどには記されている。この著者の提案通りの順番で学習できた人、当時どれくらい存在したのだろう?

「ピアノの学習」というタイトルも当時を反映していると思うが、チーチーパッパではなく、少しでも真面目にというか、専門的(!)にピアノを習うということは、「膨大な量です。その道を進むのがピアノ道である」のような読後感も当時のピアノ教育というか、ピアノ道を反映させているような気もする。今だったら、もう少し「楽しく」みたいな要素がないと売れないのではないかと・・・

「えっと、チェルニーは30番、40番、50番は必ずだから、これで120曲ね。ショパンの練習曲はこの本の順番に従うとして、その前にモシュコフスキの練習曲もやらなきゃ。よかったぁ、たった15曲だわ」

著者の責任ではないけれど、こう全部を最初に順番、難易度つきで提示されてしまうと、あまりの量の多さにクラクラしてきてしまう。終わりなき茨道、それがピアノ道・・・のような?「まだまだ必修曲が待っているのよ?急いで・・・頑張れ・・・」みたいな?

ただ網羅されているという点で、昭和47年当時、この本はかなり斬新であったと思う。モシュコフスキの小品も紹介されていたりするのだ。連弾の「スペイン舞曲集」を含め6曲も紹介されている。

モシュコフスキの15の練習曲Op.72も紹介されている。この本では「曲」の章ではなく「練習曲」の章で、チェルニーやブルグミュラーの後に紹介されていて、こう書かれている。

モシュコフスキ15の練習曲(上級2-上級3) ロマン的な美しさを表現するテクニックの育成をめざしている。なかんずくショパンの「練習曲」のための準備としては最適と思われる。

内容に異論はないけれど、モシュコフスキが「練習曲」の章で紹介されていること自体が当時を反映しているような?ショパンやリスト、ラフマニノフの練習曲は「曲扱い」なのに、練習曲仕分けされてしまっている。しかもショパンへの準備・・・

「日本では僕はショパンの前座か?」とモシュコフスキは天国で感じているかもしれない。

そのモシュコフスキの練習曲を実に魅惑的に演奏しているピアニストがいる。イレーナ・ヴェレッドというイスラエルのピアニスト。アメリカでは非常に有名だが、何故か日本での知名度は高くはない。何故かなぁ?

これからの時代、何を弾かなければ・・・というよりは、どの曲も、それはブルグミュラーやチェルニーも含めて「どう弾くか」という時代になっていけばいいと思う。

僕が子どもの頃習っていたピアノ道、まるで自動車教習所のカリキュラムみたいだった。「ハイ、合格。次のステップは・・・」みたいな?

モシュコフスキはショパンの前座ではないですよ?

kaz




にほんブログ村


ピアノランキング

category: 選曲に困ったら・・・

tb: --   cm: 0

△top

見開き2ページの至福 

 

何故にサロン風小品が演奏されなくなってしまったのか?素敵に弾ける巨匠がいなくなってしまったから・・・これを言ってしまったらおしまいという気もするが、時代と共に演奏スタイルがザハリヒなものになっていったことと関係はあるだろう。リサイタルも全曲もの、ベートーヴェン全ソナタ連続リサイタルとか、バッハ平均律の夕べとか、どこか流行だったりする。ショパン全作品演奏・・・みたいな、まるで登山のような演奏会もあったりした。

全部がモシュコフスキ作品によるリサイタル、このようなものは可能かもしれないが、聴くのはちょっと大変そうだ。大曲バーン・・・ばかりも辛いが、小曲チマチマ1時間半も辛い。ショパン人気の理由はここにあるのかもしれない。小品と大曲とのバランスがいい。30分のソナタもあれば、サロン風に小曲を組み合わせることもできる。ショパン強し!

宝石のような小品が顧みられなくなってしまうのは、やはり寂しい。小品独特の難しさってあるのかもしれない。モシュコフスキの曲、華麗な曲が多いように思うが、これらの曲をバリバリと演奏されても困惑してしまうだけだ。

ピアノ専門教育現場というのだろうか、つまり音大でサロン風小品が不当に(?)低く扱われていたりするのではないだろうか?ドビュッシーの前奏曲集とか「喜びの島」はレッスンで習うが「月の光」は卒業後自分で勉強したという人も多いのではないだろうか?ショパンもソナタやバラードは先生に習うが、「幻想即興曲」や「小犬のワルツ」は、そういえば音大のレッスン室から聴こえてきたことはない・・・みたいな?

モシュコフスキの15のエチュードは音高ではよく弾かされるが、その他の小品はスルーされてしまうような?そのような流れがあるのだとすると、巨匠の演奏が好き・・・という人でもなければ、その種のサロン的小品と出逢うチャンスすらなかったりするのでは?音大という場がコンサヴァティヴな場だとすると、それも仕方ないことのような気もするけれど・・・

「セレナータ」というモシュコフスキにしてはシンプル(易しい?)な曲。このメロディーは昔は人気があったようで、様々な楽器に編曲されたりしているし、クライスラーも素晴らしく魅惑的な録音を残している。見開き2ページの実に目にも手にも親切な曲だ。ブルグミュラー25とかバイエル後半といった感じだろうか?見た目は・・・

でも素敵に演奏するのは非常に大変そうだ。凡庸に弾くと「はぁ?だから何なの?」と言われてしまいそう。

この曲、やはりフリードマンの演奏が圧倒的に素晴らしい。

kaz




にほんブログ村


ピアノランキング

category: 選曲に困ったら・・・

tb: --   cm: 0

△top

発表会というサロン文化 

 

今の時代、ピアノ教室の発表会って「企画命」なのだろうか?ただのトコロテン式の発表会って教師の研究不足とされる空気がある?個人的には「トコロテン」もいいと思うが・・・

企画命発表会の場合は違うのかもしれないが、発表会って意外とサロン文化の残り香を感じたりする。プロのリサイタルでは廃れてしまったサロンの残り香。ランゲの「花の歌」とかエステンの「アルプスの夕映え」のような、昭和発表会の定番曲って、どこかサロンの香りが漂っているような?ロマンティックな時代の深窓の令嬢たちが弾いていたというイメージ。

ソナチネ、ソナタと古典派を勉強したら、いよいよ憧れのロマン派・・・今は四期同時進行が普通なのかもしれないが、ロマン派の曲って、僕が子どもの頃は憧れに近いものがあった。いわゆるロマン入門曲としては、今でもメンデルスゾーンの無言歌とかショパンのワルツとか、定番なのではないだろうか?この種の曲も、やはりサロン文化の香りがする。

「さすが先生・・・違うわねぇ・・・」これって先生には迷惑なのだろうか?いつでもなんでも弾ける=ピアノ教師・・・のような一般人の思い込み。でも、この「さすが先生・・・」を捨ててしまってもいけないような?講師演奏で、かつて音大時代に弾いた試験曲を弾く、たとえば、スクリャービンの後期のソナタとか?あるいは新たに難曲に挑戦する、その場合、「さすが先生・・・」的な空気は醸し出されるかもしれないが、発表会に漂っていたサロン空気とはそぐわない場合も出てくるような気はする。まぁ、曲にもよるだろうが。ラフマニノフであれば、渋系のプレリュードとかエチュードをバンバン弾くよりは、ラフマニノフのトランスクリプションを弾いた方が、発表会のサロン的雰囲気には合う。ショパンは、このような場合もプリンスで、「さすが先生・・・」にも「サロン的雰囲気」のどちらの需要にも応えられるというところが凄いと思う。

ちょっと視点を変えて、巨匠御用達曲集を講師演奏で弾いてみたらどうだろう?この場合も両方の需要(?)に耐えられるような気がする。アントン・ルビンシュタインの「へ調のメロディー」に続けて、この「ワルツ・カプリス」を弾くとか?僕だったら「ハーッ、こういう選曲もあるのか、センスいいっ!」などと感じると思う。全音ピアノピースにこの曲はあったと思う。懐かしい唐草模様の楽譜を今でも持っている。この曲、生演奏で聴いたことはないな・・・

演奏しているのは、密かに僕が「サロン小品の帝王」と呼んでいるイグナツ・フリードマン。素敵だねぇ・・・この種の曲の難しさって、エチュードのようになってはいけないというところかもしれない。フリードマンは粋・・・だねぇ。

kaz




にほんブログ村


ピアノランキング

category: 選曲に困ったら・・・

tb: --   cm: 0

△top