ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

鑑賞能力 

 

グラナドスのスペイン舞曲集では有名な「アンダルーサ」よりも、この「オリエンタル」の方が好きだったりする。ジェームズ・クレーガー、むろんチェロを学んでいる人には有名な人なのだろうが、一般的なピアノ弾きにはそれほど有名な人でもないのかもしれない。例えばミッシャ・マイスキーほどの知名度はないように思う。地味目か?でも僕はこの人のグラナドスは好きだな。

曲を演奏するほうが、ただ聴くだけよりも難しい・・・

そうなのか?・・・と最近は疑問に思ったりもしている。むろん、ショパンのバラードを聴いて「素敵な曲だわぁ・・・」と感じる方が、バラードを「素敵ね」と聴き手に感じさせるように演奏するよりは簡単だとは思う。聴くだけなら毎日練習しなくてもいいし。でも聴くって簡単なことなのだろうか?

個人差というか、聴き手の主観的要素、これは、かなりあると思う。ツィメルマンの完璧に近い演奏に居眠りしそうになる人が、学生の、あるいはアマチュアの未熟で荒い演奏に「どこか魅せられてしまう」などということもあるだろうとは思う。でもこれは聴き手の主観によるところが大きいのではないかと。つまり「すきずき」ということ。

でもただ聴くということでも「深さ」の違いのようなものがあったりするのでは?たしかに「弾く」だと深さの違いのようなものは演奏に反映されるというイメージは持ちやすいだろうが、でもただ聴くだけでも個人差、深さの違いのようなものがある・・・

つまり世の中には聴けない人もいるということ?なんとなくなのだが、最近感じたり考えたりするテーマだったりする。

「一つ一つの作品と出会うとき、メロディーの発見を喜び、和声進行の見事さに打たれ、ポリフォニーの綾に心をそそられるという意味で音楽を聴くということ・・・。心を開いて音楽に耳を傾け、そこに多様な音表情(音構造だけではなく)を感じとる経験の積み重ねによってこそ、素晴らしい音楽の扉が開かれるのです。そして、そのような意味で音楽を聴くことが出来なければ、作品を音楽的に演奏することは望めないでしょう。したがって、あらゆる音楽的能力の出発点は、何よりも先ず良き鑑賞者であることでなければならないのです」 雁部一浩:著 「ピアノの知識と演奏」

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愛とグラナドス 

 

来年の2月にリサイタルを行う。準備というものは、本来は、しんどいものなのだろうが、今はまだ実感が薄い。曲目は決めたけれど、まだ変わるかもしれない。弾きながら、色々と変更したりするのが好きなのかもしれないと思うし、好きな曲を弾けるのがアマチュアなのだとも思う。本番で演奏する曲の周辺を調べたりするのは非常に楽しい。なので今はとても楽しいのだ。

最初の曲として「ゴィエスカス」の5曲目、「愛と死」をいきなり演奏してみてはどうかと・・・

僕にとっては「グラナドス」=「愛」のようなところがある。物乞いに家族一週間分の食費をあげてしまったりとか、そのようなエピソードが多い感じだ。優しい、愛に溢れた人だったのだろうと思う。子どもは6人。予想(?)よりも多い感じだ。さすがに大バッハほどではないけれど、作曲家って家庭的な幸せとは縁遠い人が多いような印象なので、愛を全うしたグラナドスのような人もいるのだなぁ・・・と。

「ゴィエスカス」・・・グラナドスを死に引きずり込んでしまった曲なのだろうか?オペラ版の初演がアメリカで行われたのだが、その帰途の途中、グラナドス夫妻の乗った客船がドイツ軍のUボートに襲撃されて沈没してしまう。一度は救助船に助けられたグラナドスなのだが、波間に見えた妻のアンパロの姿を認めると、再び海に飛び込んでしまった。そして二人とも亡くなってしまった。グラナドスの死因は、事故死、溺死・・・ということになる。大西洋に沈み、遺体は発見できなかったそうだ。

グラナドスは船が大嫌いだった。水が怖かったらしい。泳げなかったんじゃないかな?それでも海に飛び込んだ・・・

なんだか切ないが、自分の命よりも大切な人がいたということでもある。でも、やはり切ないな。

このような小さなことを知ったからピアノが上手くなるわけでもない。音楽鑑賞、音楽の演奏において、作曲者の私生活のことなどを知って、曲の印象が変わるというのは、それはクラシック音楽との接し方としては邪道なのかもしれない。作曲家はプロなのだから・・・

私生活、つまり作曲家自身の人生と作品とは切り離すべきなのかもしれない。でも聴く側は人間であり、その人間は些細なことにも崩れてしまったり、迷ってしまう弱いところがある。だからこそ人生は楽しい、というか尊い。

作曲家も人間だった。凡人である強靭な(?)我々などとは比較できないほど繊細だったとも思える。だからこそ、このような曲を生み出せたのでは?そうも思えてくる。崩れ、迷う凡人の心を作曲家は代弁してくれているようにも感じる。だから触ってみたくもなるのだ。

この曲はグラナドスの曲の中では最も有名な曲だと思う。今さら新たな感動など聴きだせないほど有名な曲。グラナドスの死因、自分よりも大切な命を救うための行為、そのようなことを知って、この有名な曲に愛をより深く感じてもいいのではないかと思う。そのような聴き方、曲との接し方もありなのではないかな・・・と。

もともとはピアノの曲なのだと思う。でもダニール・シャフランのチェロが心の奥深くまで浸食してくるようだ。

ラテンの愛・・・かなぁ?

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忘れ物 

 

本日、リサイタル会場に忘れ物(落とし物)がありました。

フェルト地のブローチです。おそらく、コートにつけていたものが落ちたのではないかと。

本日の会場のオーナーさんが保管してくれています。

コートなどをチェックし、「あっ!ブローチがない!」という方は、本日の会場までメールか電話で連絡してみてください。

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サムライ・ベルゴンツィからのお礼 

 

本日のリサイタル、無事終了しました。「サムライ・ベルゴンツィの告知」という文章を、このブログに書いたのは、昨年の7月だった。イタリア人の友人が「君は日本のベルゴンツィのようだ。サムライ・ベルゴンツィだ」と言ってくれたので、サムライ・ベルゴンツィになったつもりで告知した。僕の演奏がカルロ・ベルゴンツィの歌唱に似ているという意味で友人はそう言ってくれたのではないだろう。どこかベルカント、どこかイタリア人のような感情表現をする・・・という意味ではないかと思う。

まだリサイタルの日にちも決まっていないその時、僕は「切なくなるほどの感情表現を聴き手と共有したい」と書いている。今日、それは達成できたのではないかと自分では感じている。

ある種の音楽を聴いた時、切ないほど感情が動く。それは僕の過去体験、現在の日常生活と密接に関係していると思う。バーンスタインが言うように、音楽は言葉で表現できない深い感情までも表現してくれるのだ。誰でも心が痛くなるような経験はある。音楽、演奏で共有できたという思い、それは僕は孤独ではないということだ。音楽によってそれを感じることができた、それが自分の出来栄えがどうこうということよりも、まずは非常に嬉しい。

今日、聴きにいらしてくれた方々、本当にありがとうございました。また、スタッフとして協力してくれたサークル仲間の人たち、本当にありがとうございました。今、沢山の贈り物に囲まれながらこの文章を打っている。

比較的短期間に準備をしたように思う。今まで弾いてきた曲を全部出し切ったという感じで、タンクは空・・・という感じではある。でも、また同じようなことをしてみたいと思う。まだタンクは空なので、充填するまでは時間を要するけれど、またやってみたい。切なくなるほどの感情表現を、また共有してみたい。

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根底にある「ねえ、見て見て・・・」 

 

今月25日の自分のコンサートに関して、今日は申し込んでくれた方たちに案内のメールを送信した。本番までオフの日は2日しかないので、このようなことは計画的にこなしていかなければならない。でも嫌いではない作業であることも発見した。申し込んだのにメールが届いていないという方は、お知らせ下さい。

むろん、弾くということに重圧感などは感じていなければならないのだろうが、なんとなく遠足を待ちわびる小学生のような気分でさえあるのだ。これは一体どうしたというのだろう?本番10日前なんて青くなっているのが普通だろう。

個人的には、発表会やサークルの練習会などで一曲か二曲を弾くという方が、曲の表面的な出来栄えに関して「どうしよう・・・」などと思うのを発見した。コンサートでは一人で沢山の曲を弾くので、細々した出来栄えがどうこうよりも、全体的なものを考えるからかもしれない。

おそらく、子どもが初めて補助輪なしで自転車に乗れた時のような?「ねえ、ママっ!見て見て・・・」のような?そんな感覚なのだ。25日、僕は自転車には乗らないけれど、「ねえ、聴いて聴いて・・・こんなにいい曲なんだよ」みたいな気持ちは今の僕の根底にあるのだろうと思う。さすがにこのような気持ちになるのだとは想像はしていなかった。

トークを交えるということもウキウキ感を感じる理由だと思う。人前で話すのは得意ではない。多くの人はそうなのではないかな?でも作曲家が残した曲には「気」とか「念」があるんじゃないかな?曲について調べたりすると、そのような「気」や「念」を感じたりしてきて、それを話すことに、とてもワクワク(ウルウル?)してくるのだ。

「ゴイェスカス」を弾くのにゴヤのことを知らないというのもどうかと思うので、調べたりすると、有名なゴヤの絵画、彼が聴力を失ってからのものなんだね。知らなかった。そのゴヤの絵画絵巻を音で表出したグラナドス。グラナドスの愛を感じる「マハとナイチンゲール」この曲はただボーッと聴いても素敵な曲だが、奥さんのアンパーロに捧げられている。グラナドスは大西洋上で溺死している。乗っていた船がドイツの潜水艦の攻撃により沈没する。グラナドスは一度は救助船に助けられるのだが、波間に溺れているアンパーロを助けるために、もう一度海に飛び込む。そして二人とも亡くなってしまった・・・

「マハとナイチンゲール」はアンパーロへの愛をサウンド化したものではないだろうか?そんなことを話そうかと計画するのもとても楽しいのだ。

「ねえ、こんなにいい曲なんだよ、聴いて聴いて・・・」この気持ちは、考えてみると、人前でピアノを弾く時の動機のようなものに思えてくる。曲を弾く「自分」のことは結構どうでもいいというか・・・

失敗したらどうしよう?暗譜が飛んだらどうしよう?むろん心配はしているのだろうが、それって自分のことなんだとも思う。それよりも「ねえ、聴いて聴いて、この曲の、この部分を聴いて・・・」という気持ちが圧倒的に強いのだ。

ブログを書く動機も似たようなところがあるのかもしれない。

某所でとても楽しい動画を見つけた。そうすると「ねえ、見て見て」と思うのだ。

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