ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

もう聴けないのかな? 

 

チェルカスキーは生前何度も来日してくれたので、その点では不満はない。ホフマン~チェルカスキーというロマンティックな流れを多くの日本の聴衆は満喫できたのではないだろうか?

海外から日本にピアニストを招聘する場合、何を基準にしているのだろう?売れる人?旬な人?ビジュアル系?なんでもいいが毎回同じような顔ぶれ・・・という気がしないでもない。

チェーシンズ作品から「なぜチェーシンズを?」と感じていたピアニスト、チェルカスキーの他にもう一人いる。アビー・サイモンというピアニストだ。この人はアメリカでは非常に有名だが、日本での知名度は今ひとつ・・・という感がする。

アビー・サイモンもチェーシンズ作品を録音している。オリジナル作品ではなく編曲ものだ。グルックの「メロディー」(精霊の踊り)という曲、演奏される機会の多いのはスガンバーティ編曲版だろうが、珍しくアビー・サイモンはチェーシンズ編曲版で演奏している。

いかにも「歌そのもの」というような、横の流れを重視したようなスガンバーティ版と比較すると、チェーシンズ版は和音が重厚というか、ピアノの響きを重視したようなバージョン。この曲のアビー・サイモンの演奏が素晴らしい。

実はアビー・サイモンもヨゼフ・ホフマン門下のピアニストなのだ。他にバウアーやゴドウスキーにも習っている。先輩門下生であるチェーシンズへの敬愛も感じるし、師、ホフマンへの尊敬をも感じられる演奏だ。

「こんなに素晴らしいピアニストがいたなんて・・・」

アビー・サイモンは亡くなっているわけではない。でも現在も現役のピアニストなのかは不明だ。今年、たしか95歳になるはずだ。日本への来日公演というのも難しい話だろう。チェルカスキー亡き後、ホフマンの流れを伝承されたピアニストは、この人だけだったのかもしれないのに・・・

聴いておきたかった・・・と心底思う。

kaz




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一枚の写真 

 

下の動画(静画?)に感動してしまった。どうでもいいことなのかもしれないが、僕はこのようなことに震えるほど感動してしまうことがある。他の人にとっては「だから?」みたいなことなのかもしれないが。

写真はカーティス音楽院でのヨゼフ・ホフマンクラスの集合写真。前列右から3番目に座っているのがチェルカスキーだ。写真の年代から推定すると、チェルカスキー少年は、もうすでにカーネギーホールでのデビューは済ませている。たしか、弱冠17歳でのカーネギーデビューだったと思う。とすると、この写真のチェルカスキーは18歳か?

チェルカスキーは、師であるヨゼフ・ホフマンのレパートリーを引継いだようなところがある。非常にロマンティック。師の作品も盛んに演奏していた。ホフマンの芸術、それを伝承されたということは、チェルカスキーにとっての誇りでもあったのではないだろうか?彼はホフマンの師であるモシュコフスキやアントン・ルビンシュタインの作品も好んで演奏していたし。

そのチェルカスキーだが、数多いレパートリーの中で、割と特殊だな、彼にしては変わったレパートリーだな・・・と僕が感じていたのが、アブラム・チェーシンズのピアノ曲。ちょっとだけチェルカスキーらしくないというか?

この写真の前列左から3番目に座っているのがアブラム・チェーシンズ。そうか、彼らはホフマンクラスで同門だったのか・・・知らなかった。

そう、だから何なの、それがどう関係あるの・・・みたいなことかもしれないが、これは僕にとっては大きな感激でもあるのだ。だからチェルカスキーはチェーシンズ作品を演奏していたのかな・・・と。

ホフマンは師であるアントン・ルビンシュタインとのレッスンについて、こう語っている。

「ルビンシュタインは私に何かを教えてくれたわけではなかった。私が彼から学んだのだ。彼は広大で深い世界を私に示してくれた。それをどうするのかは、私自身の問題だったのだ」

この言葉はピアノを教える、ピアノを学ぶという根本的な姿勢を示しているようにも思える。

kaz




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クラシックにも流行がある? 

 

ヨゼフ・ホフマンの演奏は往年のピアニストの中では「楽譜に忠実に弾く」という演奏だと言われている。でも正直、現代のピアニストの演奏と比較した場合、ホフマンの演奏は随分とロマンティックな演奏に聴こえる。実際にホフマンの演奏を、楽譜を見ながら聴いたりすると、「楽譜に書いていないこと」を沢山しているようにも感じる。クレシェンドと書いてあるのに、弱音の響きにしたり、単音をオクターブで弾いたり・・・楽譜に忠実?

「PIANO PLAYING」でもホフマンの「テキストを読め」「作曲者の意図を感じろ」「勝手気ままに弾くな」という言葉が沢山出てくる。そしてそれは師、アントン・ルビンシュタインの教えでもあったと。そのようなことを考えれば、ホフマンは楽譜に忠実派であったのだろう。でも現代の感覚からすると彼の演奏は「ロマンティックな時代そのものだよね?」と感じる。

「楽譜に忠実」とか「楽譜を良く読みましょう」のような概念が100年前と現代では大きく変化していったということなのかもしれない。もともとは「段々強く」というように書いてあったら、「そのような効果を演奏者で演出せよ」みたいな意味だったのかもしれない。「ピアノ」=「弱く弾いてね」ではなく、そのような効果を演奏者自身で考えよ・・・みたいな?

時代はザハリヒな方向に進み、様々な研究も同時に進んだ。研究者たちが自筆楽譜を解き明かしたりとか、作曲者自身のプライベートな生活までも明らかになったりとか。当時の楽器はこうだったから、このように弾く・・・とかね。知識としての外壁研究は驚くべき進歩を遂げた。いつのまにか、原点主義というのだろうか、印刷として書かれているもの信仰というのだろうか、「ピアノ」=「弱く弾くことです」みたいな方向の楽譜忠実主義の方向になっていった。

現代のピアノ教育現場では「そこはピアノでしょ?もっと弱くして・・・」のような指導は案外行われていたりするのでは?そのように書いてあるから、そのように弾く・・・みたいな?

なぜ演奏スタイルがザハリヒな方向に進んでいったのか?これは少し考えれば分かることだ。100年前のすべてのピアニストがホフマンではなかった・・・ということだろうと思う。その時代の人々はホフマンやフリードマンのような偉大な演奏と共に、多くの凡庸な演奏も同時に聴いていた。当時は「偉大」とされていた演奏でも、実はそうでもなかった、ただ時流に乗っていた演奏は時の洗礼を受け、現代まで残らなかった。言葉を変えれば、現在聴くことのできる往年のピアニストたちの演奏は、時の洗礼を受けても、生き残った偉大な演奏であるとも言える。でも当時の人は数から言えば、凡庸な演奏を多く聴いていたことになる。「話題のピアニストなんですよ」と。その凡庸な演奏が、実に勝手気まま、楽譜の意図よりも、その場の雰囲気・・・とまでは言い過ぎだとしても、どこか「感情過多」のような演奏だったのではないか?そして聴衆はそのような演奏を聴いて感じる。「こんな気分しだいのような勝手な演奏ではなく、もっとシンプルに偉大な作品そのものを聴きたい」と。「演奏者ではなく作曲者を感じたい」と。

そして演奏スタイルはザハリヒな方向へ・・・

現代の聴衆も、偉大な演奏と凡庸な演奏を同時に聴いていることになる。むろん、「この人は偉大です、この人は凡庸です」なんてカテゴライズはされないから、全員が素晴らしい・・・というスタンスで演奏を聴くことになる。

そして多くの人は感じ始めているのかもしれない。「ただ楽譜に書いてあるようにではなく、もっと内側から発しているような何かを聴きたい」と。100年前とは反対だ。多くの凡庸な演奏を聴くうち、そうではない何かを現代の人も求め始めている・・・

100年前は「演奏者ばかりではなく、作曲者を感じたい」・・・現代では「作曲者ばかりではなく、演奏者も感じたい」という感じだろうか?

100年前、楽譜に忠実とされたホフマンの演奏、これを現代の演奏に慣れた耳で聴いてみる・・・

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前世紀初頭のアメリカ、アマチュアのピアノの世界 

 

現在ヨゼフ・ホフマンの「PIANO PLAYING」という本を読んでいる。英語の本なので読みにくい。この本は過去に何度か通読しているのだが、内容をさっぱり記憶していないのは、やはり英語で書かれているからだろう。分からない単語などは推測で読んでしまうし、僕の場合、文章の肯定形と否定形を誤って読んでしまうところがある。「ピアノを弾きます」程度の文だったら大丈夫なんだけど。

「神童」という言葉は最近は流行らない気もするが、ヨゼフ・ホフマンは元祖神童のようなところがあった。6歳で「ピアニストとして完成している」と評され、9歳でハンス・フォン・ビューロー指揮のベルリン・フィルと「皇帝」を共演している。ヨーロッパでの成功により、アメリカに招待され、そこで人気に火がついた(?)ようだ。あまりにも演奏会の数が多いので、ニューヨーク児童虐待防止協会なる団体からクレームがあり、演奏活動を中断することになった。

引退したホフマン少年は、再びヨーロッパに渡り、アントン・ルビンシュタインに師事することになる。ただ一人の内弟子として。「PIANO PLAYING」にもルビンシュタインのことが、たくさん出てくるけれど、僅か2年程の修業期間が「音楽家ホフマン」を形成したようだ。

18歳で再デビューし、多くの「元神童」の場合、ここでコケルのだが、彼の場合、その後も真の偉大なピアニストとして活躍を続けていく。設立されたばかりのカーティス音楽院で後進の指導にも携わっていく。各々の弟子・・・というより、アメリカピアノ界を色々な意味で引っ張った人とも言えよう。チェルカスキー少年を育てた人でもある。

「PIANO PLAYING」という本は、ある雑誌に寄稿された文章をまとめたものらしい。「レディーズ・ホーム・ジャーナル」という雑誌で1901年から執筆(連載?)は13年間続いたようだ。雑誌の名前から想像できるように、ホフマンは専門家にではなく、一般の人に向けて文章を書いている。当時のアメリカのアマチュアピアニストたちに向けて書かれた文章なのだ。現在の日本のアマチュアピアノの世界となんとなく共通するところもあったりして、なんだかおかしい・・・

一般の読者からの質問に答える形の、いわゆるQ&Aの形態で書かれている。「M.M=72って記号はどんな意味ですかぁ?」とか「ピアノを弾く人は爪を噛んではいけないんですかぁ?」のような質問にまで、偉大なるホフマンは丁寧に答えていたりする。これもなんだかおかしい・・・

でも「バッハはペダルを使用して弾いてもいいのですか?」などという質問への答えは知りたかったりする。ホフマンは何と答えているのだろう?「ペダルの使用を禁止した音楽はありません」

ホフマンの人柄が想像できるような、あるQ&Aを紹介して、この文章を終わりにしたい。

Q:私は56歳です。もう35年間もレッスンを受けたことはありません。今もどんな鉄道の駅からも65マイル離れた山の中に住んでいます。私は以前のように弾けるようになりたいのです。そのような場合、「ピッシュナ」は役に立ちますか?もしそうなら、どのように進めていけばいいのでしょう?

A:すべての、特に技術的な勉強(訓練)をやめなさい。音楽に対する愛情が、あなたを弾き続けさせるほど強いのだから、あなたの弾く曲の中でのみ技術の練習をしなさい。つまり難しい場所で。弾きやすい指使いを考えなさい。そして難しいと思う箇所を取りだして練習しなさい。あなたが本来のテンポで弾いても良いと感じるまで・・・




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「スペイン奇想曲」 

 

ヨナス・カウフマンのCDを聴く。オペレッタのアリア集。とても素晴らしい声で文句もない感じではあるが、やや立派すぎという印象を受ける。巧妙に軽さを表出しようとしていて上手だなと思うが、これらの作品を集めて歌うという必然性があまり感じられないというか?プッチーニでもヴェルディでも良かったのでは?

空中に歌声が軽やかに飛翔し、それに酔うという幸福感が得られない。カウフマンはやめて、ニコライ・ゲッダのオペレッタ・アリア集を聴きなおす。こちらは絶妙だ。しばし幸福感に酔う。

この感覚はピアノを聴いた時にも味わうことが多い。現代のスターピアニストを聴いて、むろん文句はないし、立派な演奏なのだが、軽やかな飛翔がない。音が空中に広がっていかない感じなのだ。今回のゲッダのように、古いピアニストの演奏を聴きなおしたりする。そして酔う。

簡単に言えば、僕は声楽家にしろピアニストにしろ、ヴァイオリニストにしろ、昔の演奏家が好きなのだ。個人的に、昔の演奏家で昇天してしまう理由は二つあるように思う。

ディテールの違いというのだろうか?ピアノならば、内声の普通だったら思いもよらない箇所で微妙な強調があったり、音型は上向していて普通だったら自然と盛りあげていく箇所でも、急にピアニシモにしたりして、聴き手のテンションを一気に集めてしまうとか、和音を分散にして絶大なる効果を出すとか・・・

つまり普通だったら、スッ・・・と通り過ぎてしまうところの微妙な強調が巧みなのだ。

もう一つがタッチの軽さだろうか?常に感覚的な浮遊感がある。コロコロ・・・みたいな?バリバリではなく。この二つの魅力が微妙に混合されて、夢のような演奏が繰り広げられる・・・

まぁ、人それぞれの好みでしょうが。

往年のピアニストたちが好んだレパートリーで、現代ではあまり弾かれない曲というものは多い。来月弾くモシュコフスキの「スペイン奇想曲」などもそのような曲の一つだと思うが、このような曲が演奏されなくなった理由は、おそらくリサイタルの曲目の変化というものがあったからだと思う。ザハリヒな流れもあったのだろうと思うが、小品を盛りだくさんというサロン的プログラムよりは、大曲を・・・というプログラムが中心になったからではないかと思う。シューベルトのソナタが普通にピアノリサイタルで登場するなんて、割と最近のことなのでは?

あとは、これらの曲は往年系のピアニストたちが得意とした、ディテールの強調、さらにはタッチの瞬発さからくる音の軽さみたいなものが、上手く具現化されないと、なんとも様になりにくい種類の曲なのではないか?なので廃れてしまった。ピアニストの方向性、傾向が変わっていったことも関係していると思う。

「スペイン奇想曲」の優れた往年系の演奏は結構あるように思うが、その中でも傑出しているのがヨゼフ・ホフマンの演奏なのではないかと個人的には感じる。ホフマンは少年の頃、モシュコフスキの教えを受けているということもあろうが、指のアジリティ、闊達で軽い動きもそうだが、思わぬ箇所の微妙な強調も凄い。指のコントロール力というのかな・・・

まぁ、このあたりも人それぞれの好みでしょうが。

弾くのは約一ヶ月後のサークルで。譜読みはなんとなくできてきたかな、という感じだが、なんとも無様な出来栄えだ。この曲を弾く意味が全く自分の演奏からは感じられないというか?例年だったら、もっと気楽に弾ける曲を弾いてしまうところだが、今年からは逃げないで、一ヶ月間はホフマンを追ってみようと思う。まぁ、追うのは自由だから・・・

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