ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

どう聴こえているのだろう? 

 

「ねえ、今日の練習会、バラ4が二人いたよね、珍しいよね、バラ1とかスケ2だったらよくあるけど」「ベトソナも多くなかった?」「そうね、会場のピアノがベーゼンということもあったんじゃない?」「次回の練習会、ベヒ様なんだって」「そうなんだ、久しぶりにモー様弾いてみようかな?」「あら、あなたに合っているんじゃない?」「スケ3のキラキラしたパッセージもベヒには合っているかも」「スケ3なんて弾けないもん」「あら、あなただったら弾けるんじゃない?」

この会話、サークル内だったら通じるかもしれないが、一般人には通じないような?スケ3?助さん?・・・みたいな?

アマチュアって、どうしてもサークルとか狭い範囲で捉えがちになってしまう危険性がある。聴き手はいつも仲間、ピアノを弾く人たち、ピアノで苦しんでいる(?)人たち。ピティナのステップなども同じかな?クラシックなどには日頃縁遠いオジサン、オバサン、オジイチャン、オバアチャンに自分の演奏がどう聴こえるかという観点が遠くなりがちだ。教室の発表会だと聴き手は少しだけ広がるだろうか?「可愛い孫の晴れ姿を見に」くる祖父母・・・とか?このような人たちは孫が目的で、ショパンやリストの曲が目的ではなかったりすることもあるのでは?そのような人たちに「あっ、この人の演奏・・・なんだかいいかも?」と感じさせる魅力が自分の演奏に備わっているだろうか・・・という観点、それがサークル内だけの価値観に染まってしまうと忘れがちになる。

むろん、アマチュアなんだから、ピアノを弾く目的はそれぞれだ。演奏というもの、そこに他者との心の関わりなんていうものを求めないピアノ道だってあるだろう。極端な例だが、「上級者を見返してやれ」という考えのもとにピアノを弾く人だっているかもしれないし、「他者?聴き手?そんなことはプロの世界のことでしょ?」と割り切ってしまう人だっているだろう。人それぞれだ。

でも、その人が本当に心の底から感動してしまう演奏に出逢った時、日頃そのようなサークル価値観だけでピアノを弾いていたとしたら、慟哭・・・のような感情をどのように自己処理するのだろう?ピアノ演奏への感じ方として「わあ、あんなに難しい曲をノーミスで」とか「あんな初心者が弾くような耳だこの曲なんて弾いちゃって」とか、「今度は私だってノーミスで」とか、そんなことばかりに重きを置いてピアノを弾いていたとしたら・・・

自分自身が感じた慟哭、それを追えない、自己処理できないというのは、随分と辛いことなのではないだろうかと想像する。自分内だけの自己実現達成、見返して・・・みたいな感情でピアノを弾いていたら、慟哭感情なんて認めないのかもしれないが・・・

サークル内だけの価値観(ベトソナ、モー様感覚?)でピアノ道を進んでしまうと、どうしても他者との表面的な比較になってしまう危険性がある。そうなると、まず「自分がどう弾けたか」ということばかりを重要視してしまう。より大切なのは、「人はどう感じたか」ではなかろうか?その「人」という聴き手もサークル内の人・・・ではなく、クラシックなど詳しくはない「人」にどう聴こえるか・・・

本番が近づく。当然自分が人前で落ち着いて演奏できるか心配になり緊張してくる。「弾けるかしら?」「失敗したらどうしよう?」

ほんの少しだけ一般人のことを思い浮かべてみたらどうだろう?今日コンビニで会ったレジのお兄ちゃん、先週検診で会ったナース、そのような人たちに自分の演奏はどのように聴こえるか、「あら、素敵な曲じゃない?なんの曲なのかは知らないけれど、聴いてしまうね」という演奏を考えてみたらどうだろう?少しだけ目指してみたらどうだろう?ほんの少しだけサークル価値観から飛び出してみるのだ。

このようなことを、ツラツラと綴ってきて想いだした演奏がある。シルヴィア・シャシュの歌唱。たしか中学生の時だったと記憶している。それまで僕はテノールの声が大好きで、女性の声にはあまり馴染みがなかった。ある人の「今の、今現在のシャシュの歌唱を聴いておくべきだ」という助言に従い、心の片隅では渋々という感じで聴きに行ったのだった。「ソプラノってなんだかな」という感じであったし、ソプラノのアリアなんて馴染みがなかったし。実はこの有名な「トスカ」のアリアもこの時初めて聴いたのだった。

もし、僕の「初トスカ」が有名音大を卒業したばかりの、高音だけビャービャー出るような人の「トスカ」だったら、声すらなく、貧弱な縮緬声の「トスカ」だったら僕はどう感じただろう?「なんだかあまり上手くないな」と、その演奏者を判断したと思うし、さらに「トスカ」なんてつまらない、退屈だなとも感じただろうと思う。そしてプッチーニなんて、オペラの(ソプラノの)アリアなんて退屈なものなんだ・・・とさえ思ってしまった可能性がある。

演奏というものは、他者がどう感じるかということを考えると、その演奏によって、演奏者自身だけではなく、曲や作曲者、クラシック音楽全般においてまで、他者は判断してしまうことだってあるということだ。つまり演奏というものは他者に対して責任がある。もし、あなたの演奏で「ショパンなんて退屈」とか「リストってなんだか軽薄な感じね」と人が感じてしまうとしたら?

「自分がどう弾けるか」ではなく「コンビニのお兄ちゃんは自分の演奏をどう感じるか」という観点も少しだけ考えてみたらどうだろう?少しだけサークル感覚から抜け出してみる・・・

kaz




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サークル慣れ 

 

アマチュアの特権として「自分の楽しみのために演奏できる」ということがある。人がどう感じようと、自分が満足できれば・・・みたいな?たしかに趣味であるのだから、それでもいいのかもしれない。「私は私だから」と割り切れれば・・・

同じアマチュアの、しかも非常に魅力的な、思わず聴き入ってしまうような演奏を聴いたとして、自分にはない何かをその人は持っているとして、その場合でも「まっ、私は私だし、趣味なんだから楽しければいいんだし・・・」と心から思える人は、どれくらい存在するのだろう?意外と少数派なのではないかと思う。多くの人は「ああ、自分もあのように弾けたらどんなにいいだろう」と思うのではないだろうか?

サークルという場、アマチュアにとっては貴重な演奏経験の場だと思う。でも、なんというか、あまりにサークル慣れというのか、そうなってしまうのもいいことではないのかもしれない。

「こんな曲を弾いたら○○と思われる」とか「難しい曲に挑戦してみたい」とか、「今度はミスなく演奏したい」とか、そう思って練習するのも悪いことではないと思うが、肝心なことを置き忘れてしまい、サークルという仲間内だけの感覚が自分の感覚・・・となってしまうこともあるように思う。大切なのは、難しい曲を弾くことでもなく、ノーミスの演奏を狙うことでもなく、耳だこの曲は避けたいとか、そんな感覚を養うことでもなく、大切なことは「その曲を愛しているのなら、その曲の魅力を伝えられるようになる」ということではないだろうかと。

ショパンのバラード第1番。この曲は大変有名で、弾いたことのない人でも曲は知っている。知られた曲ではある。でも、「有名すぎる曲だから、ミスがバレバレね。耳だこの曲でもあるし、次の練習会では違う曲にしておこうかな・・・」

ありがちだ。でも相当サークル慣れしている感じ方ではないだろうか?アマチュアの場合、サークル内で有名な曲=世間一般でも有名な曲・・・と思いがちだ。でもクラシックに詳しくはない人にとって、バラードは有名だろうか?聴き飽きたと思うほど耳だこの曲だろうか?それはサークル内だけに通用する感覚では?バラードの一番を弾く場合、有名だからとか、ミスがばれやすいとか、そんなことを思うのではなく、「初めてこの曲を聴く人にも曲の魅力が伝わる演奏をしたいな・・・」が本当では?自分もそのような演奏をしたいと思うことの方が、サークル大将になることよりも尊いのではないか?

僕は浮世絵には疎い。歌麿と広重の有名な作品に対して「あっ、これ見たことある」程度の知識しかない。普通はそんなものではないだろうか?クラシック音楽に関しても世間ではそんなものなのでは?

でもその程度の知識でも感じることはできるのだ。実は最も厳しい聴き手はサークル内には存在しない。知識のない一般人(?)の方が曲や演奏に対してピュアな感覚を持って聴く傾向はあるように思う。自分が惹きこまれたか、退屈だっただけで判断するから。彼らには有名曲だの難曲だの、初心者が弾く曲だの、そんな風には捉えて聴かないのだ。だから厳しい。

誰でも初めてその曲を聴いた時、つまりその曲と出逢った時はあったはずだ。その時に思ったはずだ。「なんていい曲なのかしら・・・」と。かつて自分が感じた、心が動いたものを追ってみることが大切なのではないかな?

「人がどう感じるか・・・なんてそれはプロの話でしょ?アマチュアなんだから・・・」

では人の演奏を聴いて「ああ、自分も・・・」とは微塵も感じないのだろうか?感じないのだったらアマチュアなのだから楽しめばいい。難曲を弾いたということで満足すればいい。ミスがどうたらとか、そればかり考えていればいい。

でも、人を惹きつける、つまり、上手になりたくない人なんているのだろうか?

ピアノを弾いている理由、ピアノだけが自分が他人から認められる手段、最後の手段だから?違うのでは?かつて自分の心が動き、感動したからでは?

「耳だこの曲」「ミスがばれやすい有名曲」「難曲」「初級者が弾く曲」「上級者が弾く曲」・・・かなりサークル慣れした言い回しではないだろうか?

デニス・グレイヴスにとってカルメンの「ハバネラ」を歌うというのはどんな感じなのだろう?オペラの中でアリアとして歌うのではなく、リサイタルで歌う場合。「この曲、有名すぎるのよね」と思って嫌々歌うのだろうか?「こんな超有名曲、うんざりだわ」と思って歌うのだろうか?彼女にとって、このような小さな会場で、少人数対象の演奏会というのは非常に珍しいことなのではないだろうか?いつもは歌劇場や、リサイタルでも、もっと大きな演奏会場で歌うのが普通なのではないだろうか?

「まったく・・・素人相手に歌うなんて・・・」

そんな感じはしないよね。「ハバネラ」という超有名曲に対して、曲の説明も詳しく話しているので、きっと聴衆はディープなオペラファンではなく、一般人(?)なのではないだろうかと想像する。いつも彼女が接する聴き手とは違うような?

「ああ、カルメンの魅力を伝えたい、こんなに素晴らしい歌なのだから。かつて私が初めて聴いた時のような感動を、今日、この人たちに伝えることができたなら・・・」彼女はそんな風に感じながら歌っていたのではないだろうか?

そのような想いは伝わるものではないだろうか?

サークル慣れすることよりも、それは大切なことのように思う。

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サークル内のカースト制度 

 

仮に僕がヴァイオリンを習い始めたとする。そしてサークルに参加したとする。他のメンバーはサラサーテやパガニーニの難曲をバンバン弾いていたとする。僕は「日の丸」程度の曲でサークルに参加したとする。まぁ、これは例としても極端すぎるとは思うが、僕としては「なんだか場違いかも・・・」とは思ってしまうかもしれないし、「よし、次はもう少し難しい曲を弾けるようにしよう」とも思うだろう。

でも、難曲を弾く人、つまり巷で言う上級者と呼ばれる人たちに対して「内心僕をバカにしているんだろ?」とは思わない。中には「あっ、あんな曲でよく参加できるわね」と感じる人もいるかもしれないが、でも「上級者は初心者をバカにしているものだ」とは思わない。

上級者は初心者、中級者を内心バカにしていて、たとえばショパンのノクターンOp.9-2などの曲を真摯に演奏している様に対して、「フ・・・あんな曲弾いちゃって・・・」と思うものと決めつける・・・

初心者はそのようなサークル内のカースト制度など知らないから、ある意味犠牲者となって、ノクターンを弾いてしまう。そして気づくのだそうだ。「あら、私ったらこんな上級者が見向きもしない曲を弾いちゃって・・・」と。そしてその初心者も難曲に走るようになる。

そんなことがあるわけないじゃないか!!!

上級者がノクターンOp.9-2を弾くとしたら、それは「私ってこんな曲も弾くのよ」的な余興的なものであるらしい。上級者はそのような曲をバカにしているそうだから・・・

そんなことがあるわけないじゃないか!!!

そのように思う人も中にはいるかもしれないが、上級者が全員そう思うわけがないいじゃないか?その曲を弾きたいから弾いているだけだ。

Aにカテゴライズされる人はこう思うもの、Zにカテゴライズされる人はこう思うもの、どうして決めつけてしまうのか?そう思う人がいてもいいが、それはその人の問題だと思う。上級者・・・と一般化して欲しくはない。サークル内にカースト制度が存在していると思うのは自由だが、それを言葉で表明してしまってはマズイでしょう・・・

人生の中の一コマで演奏する機会が与えられる、その時に自分で弾きたいと思う曲を弾く・・・初心者も上級者もないだろう?いったい自分はあと何回人前で演奏できる機会があるのだろう?そうも最近は思ったりする。

「なんで自分はアマチュアだから・・・なんて言うんだ?そうじゃないだろう?そんなのおかしいだろう?」

かなり強い口調で僕は叱責されたことがある。以前にもブログにパウロのことは書いた記憶があるが、僕はその時にはピアノなんて再開していなかったし、ピアノすら持っていなかったし(日本での出来事ではないので)、初見だってそう得意というわけではない。なのでパウロの「ピアノ弾ける?一緒に演奏しよう」という提案に躊躇してしまったのだ。「僕・・・きちんとピアノ弾けないし~」と。冷静に考えれば、クラシックの曲ではなかったし、ミュージカルの曲で、ピアノ譜は単純なブンチャッチャ的なものだったので、躊躇する必要もなかったし、間違えてもパウロは気にしなかったはずだ。でも躊躇した。

「なんでそんなことを言うんだ???」

パウロはその頃もプロの歌手であるという自覚を持っていたと思うが、全く売れなかった。カバー歌手をしていた。本番で何らかの理由でキャンセルする歌手の代役。舞台袖でただただ待つ。本キャストの歌手が歌えば、自分は歌うことすらできない。どんなに完璧に仕上げていても。一声も発することなく帰宅するだけ・・・

「屋台の揚げ物の匂いを嗅ぐと当時はいつも空腹だったんだなと記憶が蘇るんだ」そうパウロは言った。

「でも最も辛かったのは空腹感でもなく、自分が表現できないということだった。自分の内側から壮絶なまでの表現したいという欲求が込みあげてくるんだ。でも歌う機会も場所も自分にはない。だから毎日祈ったよ。神様、何も与えてくれなくていいです。でも歌う機会だけは僕に与えてください。それだけでいいですから・・・」

弾きたいから弾いている・・・それだけってことだ!

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本番までの気構え 

 

今まで本番中に自分の音が聴こえないということが何度もあった。それはサークルの練習会とかではなく、サークルでも年に一度の演奏会だったり、ピアチェーレの演奏会だったり、つまり「ここぞ」という大事な舞台でそうなってしまうことが多かった。聴覚というものは心理的な緊張のようなものと密接に関係しているらしいから、自分の出番までに硬直して楽屋にいたりとか、客席で聴いていたりなどせず、外に出たりとか、できるだけ気分転換などに励んでいた。でも聴こえなくなる・・・

不思議なことに、練習会では客席で他の人の演奏を自分の番の直前まで聴いているので、条件は悪いはずなのに練習会ではあまりそのようなことはない。緊張の度合いが違うのか?

つらつら考えるに、これには理由があるような気がしてきた。大事な演奏会の場合、僕にしては長期間練習している曲を弾くことになる。練習会の場合、長くて譜読みから一ヶ月、極端な場合は、弾ける曲の中から当日選曲・・・なんてこともあるから、大事な演奏会の場合、3ヶ月以上も同じ曲を弾いているなんて、僕にしては珍しいことなのだ。

普通は長期間同じ曲を練習していた方がいいと感じるのでは?そのような人が多いのでは?発表会の曲など、半年以上も前から生徒に曲を与えている先生もブログなどを読むといるみたいだし・・・

たしかに同じ曲を弾いていて、予行練習的に練習会などでも繰り返し演奏した方がいいのだろうと思う。でもそれがどこか苦しい・・・飽きっぽいのだろうか?それとも違うような気がする。

長期間抱えてきた曲を演奏する時に、聴覚に異常を感じる・・・

僕は、子どもの時に自分で時間をかけて曲を仕上げたという経験がない。レッスンではバイエルが合格せず、結果的に同じ曲を何か月も弾いていたけれど、それとも事情は異なるような気がする。「さあ・・・○○ヶ月しかないので頑張りましょうね?」「はい・・・頑張ります」という普通の生徒が経験してきたようなことを経験していないのだ。

あとは、曲を仕上げる、仕上げたいという欲求が僕の場合著しく低いみたいだ。むろん、本番で失敗はしたくはないので、練習はするが、本番の日の演奏の出来映えというものに一喜一憂ということもない。曲の完成を目指すというよりは、曲に染まりたいというか?

選曲の場合も、「憧れの○○を弾きたい」という強い欲求があるわけでもない。嫌いな曲は弾かないが、どこか鑑賞者の感覚で選曲をする。「今の時間はこの曲を聴きたいな」みたいな?鑑賞者としては、いくら好きな曲でも長期間同じ曲を聴き続けるということはない。その日の気分などによって聴きたい曲は変化する。僕の場合、自分がピアノを弾く時も鑑賞者みたいなのだ。

追うもの、目標も「曲の完成度」みたいなものではなく、鑑賞者として受けた感動をそのまま追うみたいなところがある。

大事な演奏会の準備としての「おピアノのお稽古をしっかり」みたいなものを優先しなければいいのだ。細部を、ここを仕上げて、みたいなことを思い過ぎない。それも大事だが少なくともそれを目的化しない。

つまり本番では「練習の成果を!」ではなく「音楽をそのまま追う」みたいな感覚で弾けばいいのね?そうなのに、どこか無理していた?

でも実際にどのように曲を抱えていればいいのだろう?まさかすべて一ヶ月前に選曲というわけにもいくまい。

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初心者はパフォーマンスとは無縁なのか? 

 

サークルの新年会が終了。「新年会」と「練習会」とは微妙に異なる。僕が所属しているサークル、通常の練習会では、割と緊張感を持って催される。冷たい雰囲気ではないが、緊張感はある。お菓子を食べながらの雑談の中、気軽に・・・という感じではない。「新年会」も一巡目はそう。でも二巡目以降となると、アルコールも入るし、割と気軽な雰囲気になる。「新年会」だけじゃないかな?このような雰囲気は・・・

基本的には、僕は緊張感を持ったサークルが好きなのだと思う。主催者の方が、「いいピアノ」という観点で会場を決定してくれるので、外国製のピアノでいつも練習会は行われる。スタインウェイとかファツィオリとかベヒシュタインとか、日頃から弾いている楽器ではないので、やはり心躍る。いつもは電子ピアノで練習している人も(が?)多いわけだし。一巡目はクジ引きで演奏順が決まるサークルでも、二巡目以降は「お弾きになりたい方、どうぞぉ・・・」となるサークルが多いような気がする。僕が所属しているサークルでは、二巡目以降もクジ引きで決められた演奏順を守る。これは公平性を考えると、いいことだと思う。誰でも、スタインウェイ・・・弾きたいよね?「誰でもどうぞ・・・」だと、どうしても古株メンバーが独占してしまいがちだ。初めて参加して「私も弾かせてぇ・・・」とは言いにくいものだ。

サークルの参加目的は人それぞれだろう。やはり、人前で緊張感を持って弾く機会を得たい、同じ悩みなどを共有したいという人が多いんじゃないかな?ピアノって合わせもないし、一人で孤独に練習しているだけなので、仲間がいるとやはり違う。多くの教室の、いわゆる「ピアノ発表会」だと、お子様の中に交じって弾くということに、なりがちだが、サークルだとそれがないので、参加しやすいのではないかと思う。

僕も最初は、サークルに向けて頑張る・・・みたいな感じだった。いや、今だって頑張っているさ!ピアチェーレと教室の発表会は年に一度だけだから、参加できればだけれど、二か月に一度という頻度の、しかも緊張感を感じてのサークルでの人前演奏の機会というものは非常に貴重なのだ。でも競走馬ではないのだから、出来栄えに一喜一憂するようなことはなくなった。また、必要以上に「できない自分アピール」「崩壊しました宣言」をすることもなくなった。頑張ってはいるけれど、練習会後の解放感を味わう楽しさを知ったというところが以前とは異なるのではないかと思う。なので、昨日の今日なので、今は解放感、達成感(弾いたということへの)に浸っている。それもピアノの喜びだ・・・と思う。

聴き手と演奏者がいて、時間と空間を共有する・・・このところは、プロのスターピアニストのリサイタルだろうが、アマチュアのサークルの場だろうが同じなのだ。でも緊張感が希薄な「雑談の中」という中での演奏だと、この共有感というものが味わえない。だから緊張感のある練習会を催すサークルが好きなのだと思う。聴き手としての感想、そして自分が演奏する立場としての感想、ここが大きく異なることがある。人の演奏ではミスなどあまり気にならない。あくまでも「音楽としてどう感じる?」という観点で聴くものだ。だから自分の演奏でもミスなど気にしなければいいのに、なぜか自分がミスタッチをすると動揺してしまう。このあたりの心理的矛盾というか、違いを追及していくのもサークル参加の醍醐味なのではないかと思う。こうも言えよう。自分としては練習の時と同じようにミスなく弾けて満足だけれど、聴き手はミスの有り無しを聴いているわけではない、あくまでも音楽として・・・という観点で聴いているわけだから、「やった!失敗しなかった!」と喜んでいるのは自分だけで、聴き手はそうは感じていない可能性だってある。パフォーマンスだから、そのあたりが非常に面白いのだ。

さて、解放感・・・だが、積んでいて聴く時間のなかったCDなどを聴いている。アンネ・ゾフィー・フォン・オッタ―のCDを聴いている。なんという喜びだろう!基本的には音楽なんて聴く方が楽しいものだ。オッタ―の歌唱(また声楽???)では、以前に聴いたクルト・ヴァイルのアルバムが良かった印象がある。なので、クラシックではない分野の歌を録音したオッタ―のCDをまとめて聴いたりしているのだ。

クラシックの歌手がポップスやジャズを歌うということは別に珍しいことではない。でも成功例は意外と少ないようにも思う。必然性かな・・・と思う。ヴェルディでもシューベルトでもなく、あえてその歌を歌っているという必然性を感じさせることが、このようなケースでは非常に難しいように思う。「器用だな・・・」ではなく「いい曲だよねぇ・・・」と感じたいのだ。

オッタ―の非クラシック曲(?)の歌唱では、曲そのものを感じることができる。そこがいい・・・

パフォーマンス・・・だよねぇ・・・とも思う。歌手が自分の出来栄えだけではなく、聴き手がどう感じるかという観点も含めて歌っている。プロでもここが足りない人はいる。自分がどうだったかではなく、聴き手がどう感じたか・・・この醍醐味。厳しくもあるが、楽しくもあるパフォーマンスの醍醐味。

僕のこの感覚は、厳しすぎるのではないかという意見を頂戴したことがある。たとえば、聴き手の印象に残るような演奏というものを含めるなんて、誰にでも要求するのは酷ではないかと。参加することに意義のある人だっているだろうし、それも立派な演奏動機ではないかと・・・

30年ぶりに人前で演奏する、一年前からピアノを大人から始めた・・・そのような人が勇気を出してサークルに参加してくる。その場合、参加することに意義もあるだろうと。たしかにあるだろうと思う。でも、基本的には人間というもの、というか大人ピアノを弾こうという人は、そもそもの動機に「ああ・・・素敵・・・私も弾けたらどんなにいいだろう」という気持ちを秘かに持っていると思う。どんなに心を動かされた演奏を聴いても「私は初心者、関係ないの!」と割り切れる人はそうはいないのではないかと僕は思う。短期目標であれば「弾いた!」ということに意義があるだろうし、自分がどう弾けたかというところが目的にもあろう。でもその人に、音楽的感動というものがあり、ピアノを始めたなり、再開したということであるのならば、そしてそのようなことが動機となっているケースがほとんどだと思うけれど、そうであるならば、初心者だろうと、経験不足だろうと、舞台慣れしていようが、関係ないのではないかと思う。だって人の心を動かしたい、そういう空間、時間を共有したいという気持ちはピアノ弾きだったら誰でも持つ権利があると思うから。強要はできないだろうが・・・

他人が「あら・・・なんだか素敵じゃない?」と思ってくれるなんて素晴らしいじゃあないか?人と何かを共有できるんだよ?初心者だろうとそのパフォーマンスの醍醐味を持つ権利はあるのだ。これは誰からも強要されるべき感覚でもないし、誰からも排除されるべき感覚でもない。

オッタ―はブラッド・メルドーというピアニストと共演している。メルドーってジャズピアニストだよね?でもこれはパフォーマンスだ!

クラシックだろうとジャズだろうと、経験豊かなプロだろうと音大生だろうと初心者だろうと、誰でも憧れる権利のあるパフォーマンス。

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