ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

また逢う日まで 

 

尾崎紀世彦の「また逢う日まで」は1971年のヒット曲なのだそうだ。僕は小学生になったばかりだったと思うが、記憶にある。「歌が上手い人だなぁ」と。

渡辺真知子のデビューは1977年なのだそうだ。「迷い道」とか好きでした。この人も「歌が上手い人だなぁ」と思った。

尾崎紀世彦が亡くなってしまっているのは非常に残念だが、このパフォーマンスは、テレビに頻繁に登場していた頃の二人のそれよりも、なんだか響いてくるような気がする。

年齢を重ねるって素晴らしいことなのかもしれない。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ
スポンサーサイト

category: 昭和

tb: --   cm: 0

△top

東洋音楽学校 

 

米山正夫は東洋音楽学校のピアノ科卒業。ピアノの腕前はどうだったのだろう?それは想像するしかないのだが、卒業生代表演奏のようなものに選出されるぐらいの腕前ではあったようだ。昭和9年のその種の演奏会で、彼はファリャとムソルグスキーを弾いている。時代を考えると、かなり大胆な選曲ではある。やはりベートーヴェンの「奏鳴曲」のようなドイツ傾倒の曲がピアノ科の場合は主流だったと思うので。

昭和10年には流行歌の作曲家としてデビューしているので、在学中の思惑はご本人ではないので分からないが、どうもクラシックではダメだから歌謡界に転身した・・・というわけでもないような気はする。米山正夫はデビュー当時、「上品で音楽的な作品を提供したい」という抱負を語っている。

同じように東洋音楽学校のピアノ科出身で歌謡界に転身した作曲家に船村徹がいる。在学中に船村徹は同じ学校の高野公男と知り合っている。高野は作詞家としてデビューするが、全く売れなかった。船村と組み、そして春日八郎に提供した「別れの一本杉」が大ヒットし、ようやく名前が知られるようになったが、高野は結核のため26歳で亡くなってしまう。春日八郎もまた、東洋音楽学校の出身であった。作曲家では童謡の世界で活躍した海沼實もこの学校の出身。戦後、子どもたちに希望を・・・と童謡を提供した。「みかんの花咲く丘」や「里の秋」など。

歌謡界というか、芸能界に転身した人には、東洋音楽学校出身の人が何故か多いような気がする。偶然なのだろうか、それとも当時は自由な校風があった?

当時の歌謡曲の歌手は、現在と異なり、どこかクラシック風の発声で歌う歌手が多かったような気がする。今よりもクラシックの専門学校=歌謡曲の歌手というものが、それほど違和感なく受け入れられる時代であったのかもしれない。

子どもの頃、両親が淡谷のり子に対して「この人はクラシックで食べていけないから歌謡曲に転身した」のようなことを言っていた記憶がある。淡谷のり子も東洋音楽学校出身の歌手だ。なんとなく、クラシックでは食べていけないとか、クラシックでは通用しなかったから・・・という言葉の奥底には「クラシックが音楽を支配している」みたいな偏見を感じて、個人的には好きではない。厳しさ、それは生きていくにも、単純に食べていくのにも、クラシックの世界よりも、むしろ歌謡曲の世界のほうが厳しかったのではないか?そんな風に思ったりもする。

黒柳徹子が東洋音楽学校出身であることは、有名であると思うのだが、女優の津島恵子とか俳優の和田浩治(知ってます?)もこの学校の出身。ここまでくると(?)なんとなく畑違いの学校から・・・という気もしてくるが、歌謡曲の歌手には本当に東洋音楽学校出身の人は多い印象だ。春日八郎もそうだし、織井茂子(君の名は)、霧島昇(愛染かつら)菅原都々子(月がとっても青いから)、奈良光枝(青い山脈)・・・

米山正夫はこんな曲も残している。ある企業が提供するテレビ番組(天気予報だが)の曲。昭和生まれの人なら一度は耳にしたことはあるのでは?天気予報という番組のための曲だから、感動に打ち震えるとか、熱い涙が湧き出る・・・という感じの曲ではないが、デビュー当時、米山正夫が決意した「上品で音楽的な作品を提供する」というもの、これは感じとれるような気はするが、どうだろう?

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 昭和

tb: --   cm: 0

△top

東京はパリではない 

 

ヨゼフ・ホフマンはアメリカのカーティス音楽院の初代ピアノ科主任教授になっている。ホフマンは19世紀ヨーロッパのピアニズムを継承した人だったから、音楽新興国アメリカは、ダイレクトにその伝統を受け継ぐことになったとも言える。ホフマンを始め、多くのユダヤ系音楽家がヨーロッパの世情不安からアメリカに渡ってきたのもこの頃だ。大変に大雑把な言い方をすれば、日本がドイツから基礎を受け継いだとされるのならば、アメリカはロシアからそれを受け継いだとも解釈できる。ホフマンはポーランド人だったけれど・・・

アメリカに住んでいた時、非常に嬉しかったのが、CDショップのヒストリカルのコーナーが充実していたこと。これはアメリカのクラシック音楽界の基盤をヨーロッパからの亡命音楽家たちが築き、伝承したということと無関係ではないと思う。でも、いくらアメリカがクラシック音楽新興国だったとはいえ、やはり日本とは異なっていたのだろう。文明開化以後、ひたすら西洋音楽を吸収しようとした日本人。でもあまりにも文化が違い過ぎていた。明治期などは、幼少の頃、長唄や琴などの伝統芸能を嗜み、ピアノなどは音楽学校に入学してから初めて本格的に学んだという先駆者たちは、いくらでもいる。

混乱を避けアメリカに渡った音楽家たちが、アメリカではなく日本に訪れ、定住し教えていたら・・・想像しても仕方のないことを想像したりもする。もしヨゼフ・ホフマンがカーティス音楽院ではなく、東京音楽学校で教えていたら・・・

むろん、それまでにも日本に来日し、そして定住して教育活動を行った外国人はいる。でも、いきなり本場の西洋音楽、ピアニズムの伝統が日本で花開いたというようには、なかなかいかなかった感がある。ピアノなんて見たこともない状態から日本人は歩き始めたのだ。仕方がない面も多々あっただろうと思う。

原智恵子というピアニストがいた。日本生まれではあるが、フランスに移り、パリ音楽院でレヴィ、そしてコルトーに師事したピアニストだ。「パリのエスプリ」とでも形容したらいいのだろうか?おそらく彼女の演奏は、当時の日本人にとっては、目の覚めるような新鮮なものがあったのではないだろうかと想像する。戦後、彼女は聴衆に愛されたピアニストだった。ピアノなんて習ったこともない高齢者でも「あっ、原智恵子さん?知ってるわ。素敵なドレスをお召しになってね・・・」のように記憶している人もいるくらいだ。

原智恵子に関する書物を読んだりすると、当時の日本の楽壇は、彼女に対して非常に冷たかったという印象を受ける。もう、ほとんどイジメなのではないかと思うほどだ。彼女の誤りは、おそらく東京とパリを区別しなかったこと。演奏そのものもだが、立ち振る舞いから、音楽や演奏に対する自己の考えまでも、パリ時代のまま日本でも通してしまった。自分を曲げるなんて、特に演奏に対しては彼女はできなかったのだろう。

年上の男性、しかも有力な男性に対しても、物おじせず自分を通してしまった・・・


「なんだ、生意気だ。女のくせに男に意見するとは!」

彼女に反論できるだけの知識も経験も、感性も持ち合わせていなかった重鎮たちは、彼女を脅威に感じたのかもしれない。

「あの原智恵子という女がこの日本で力を持ったら大変なことになる。今のうちに追い出すのだ。潰してしまうのだ!」

結局、原智恵子はガスパール・カサドという真に偉大な芸術家と出逢い、ヨーロッパ、イタリアで暮らすようになる。日本から逃げたのかもしれないし、日本を捨てたのかもしれない。

アメリカでヨゼフ・ホフマンが、そして多くの亡命音楽家たちが、スンナリと溶け込み、尊敬を集めていたのとは大違いのような気がする。

もともと日本人は異質のもの、新しいものを吸収する際、自分たちのものとしてまずは咀嚼し、自分たち流のものとしてアレンジする能力に長けているように思う。戦後、何もないところから再出発しなければならなかった日本のピアノ界が生みだした「自分たち流文化」が、あのハイフィンガー奏法だったのではないだろうか?そこに頼るしかなかった・・・実際に将来を担う子どもたちはバリバリと弾けてきている・・・

守りたかったものなのか?皆がワーッとそちらに走った。そうなると、ハイフィンガー奏法だけに限らないが、築きあげたものを脅かすような、異質のものは到底受け入れられない。自分たちの基盤が脅かされてしまうから。パリそのものような原知恵子は受け入れられなかった・・・

以前に悩める音高生からメールを頂いたことがある。ご本人には今回の文章に関しては了解を得ているので、少しだけ紹介すると、彼女の音高の先生は鍵盤の底までしっかり弾くという奏法を強要するのだそうだ。むろん、僕はその音高生の演奏を聴いたわけではないから、その音高生のタッチがもともと非常に弱く、だからこその指導だった可能性はある。でも、たとえば「木枯らしのエチュード」のような曲までも、指を一本一本高く上げ、鍵盤の底まで強く打ちつける奏法を強要するというのは、今時どんなものだろうとも思う。当然、腕なども疲れて痛くなってくる。最後まで弾けない。

「練習が足りない・・・」それしか言ってくれない。当然、ピアニストの弾き方なども参考にしてみる。「先生の仰るように弾いてない人が多い?」でもそんなこと先生にはとても言えない。悩む。音大の付属高校だから、気軽に先生を変えるなんてこともできない。セカンドオピニオンを求めたこともあった。でも弾き方が異なってくるので音高の先生にばれてしまう。「今度同じことしたら破門だからね」

「あなたのようにメカのない生徒は初めてだわ!」

この言葉がトラウマになった。「私は弾けない人?学校始まって以来の弾けない子?」

一つに固執して他を受け入れないみたいな頑なさ、これは自分のポリシーを持っているということと紙一重だから難しい。どちらでもいいのでは?A奏法だろうとB奏法だろうと。自分と異なるもの、価値観を受け入れることを恐れていることの裏返しが異質のものの排除になるのでは?Aにワーッと群がる、Bにワーッと群がる、本質的には同じことだ。

ヨゼフ・ホフマンがアントン・ルビンシュタインに習っていた時、こう言われている。

「どのように弾くか?いい音であれば鼻で弾いたっていい」

原智恵子のショパン。ライヴならではの小さな傷はあるが、胸に迫るショパンだ。好きでも好きでなくてもいい。排除さえしなければ。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 昭和

tb: --   cm: 0

△top

東洋の奇跡 

 

もし演奏し続けていたら・・・

そう思うピアニストが二人いる。一人はアメリカのウィリアム・カぺル。この人が30歳かそこらで航空機事故で亡くなっていなければ、その後の、そして今のピアノ演奏のスタイルなども、大きく異なっていたのではないか、そんな気さえしてくるほどだ。

もう一人が日本の田中希代子。1950年代、ヨーロッパのメジャーコンクールで入賞を続けた。まだまだ当時は日本なんて、西洋音楽後進国と思われていたし、国力も今とは違っていたのだろう、この時の田中希代子の順位は不当に低く思われるが、ヨーロッパの地元メディアや聴衆は、彼女を「東洋の奇跡」と呼び、日本よりはヨーロッパで人気のあったピアニストでもあった。むろん、帰国して日本でも演奏していたが、当時の日本の聴衆、そしてピアノを学ぶ音大生などは、彼女の演奏をどのように聴いていたのだろう・・・などと思いを馳せたりもする。日本だけで演奏していた人ではないし、活動期間も非常に短いピアニストであったので、なおさら「もし演奏し続けていたら・・・」などと思ってしまうのだ。

30歳代の時にピアノを弾けなくなってしまう。「指が開かない・・・」診断は膠原病。1967年のことだ。

もし演奏をし続けることができていたら・・・彼女のピアニストとしての全盛期、そして成熟期は1970~1990年代になっていたはずだ。日本のピアノ演奏の何かを変えたはずだ。そう思わせる演奏・・・指が開かなくなり、ピアノが弾けなくなる3年前、1965年の時の演奏。

やはり、これは「東洋の奇跡」だったのではないだろうか?

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 昭和

tb: --   cm: 0

△top

ハイフィンガー奏法? 

 

戦後焼野原の東京に子どものための音楽教室が開設された。多くの子どもたちが特訓というか、英才教育を施された。現在、ベテランとして活躍している演奏家には、この教室出身の人も多いのではないかと思われる。当時は、日本の演奏家は技術力に欠けるとされていたので、ピアノであれば、ハノンを試験に課すなど、どこか西洋に追いつけ・・・のようなところもあったという。

ハイフィンガー奏法は、この時代に根付いたのかもしれない。とりあえず、手っ取り早く難曲を弾けるように特訓する、そして訓練によって実際に弾かせてしまう、そのためハイフィンガー奏法が主流になったのかもしれない。とにかく戦後だし、島国だし、世界主流の情報というものは欠けていたのかもしれない。多少汚い音でも、大きな音でバリバリと弾ければ・・・みたいな?

その時代に美しい音で、無駄な力を入れないフォームで、テキストに忠実に・・・という演奏、指導もあったと思うが、主流の流れは「弾けるようにさせよう」という方向になっていたのではないかな?

この流れが、どこかスパルタ教育とか、根性で弾くとか、弾けないのは練習が足りない・・・みたいな考えと微妙にマッチし、日本独特のピアノ奏法が確立されていった。

中村紘子著「チャイコフスキー・コンクール」、そして続いて出版された「ピアニストという蛮族がいる」、ここで初めて「ハイフィンガー奏法」という言葉が登場したのではないか?今ではピアノ用語にさえなっている感があるが、ハイフィンガー奏法という言葉は、それ以前には聞いたことはない。僕だけかもしれないが。

これらの本で妙に納得してしまったことがある。目から鱗というか。それまで日本人ピアニストの演奏は、どこか自己主張に乏しく、平面的で音色の変化も感じられない、作品と演奏者とに距離感がある・・・これらの日本人ピアニストの欠点は、昔から言われていたが、理由としては、日本人特有の恥じらいのような文化、自分を表に出さない気性、キリスト教を含む西洋文化の蓄積の浅さ・・・のようなこととされてきた。「やはり外国に住んでそのような文化に接しないとダメなのね?」

でも、これらの本は異なる視点で日本人ピアニストの弱点を語っていたのだ。「まず基本的な奏法に問題があるのでは?」と。僕だけではなく、多くの人が「あっ、そういうことだった?」みたいな感覚を抱いたのではないだろうか?問題の奏法として説明されていたのが、鍵盤を上からタイプライターのようにカタカタと弾くハイフィンガー奏法だったのだ。著者自身がハイフィンガー奏法本家養成所みたいなところからスタートしただけに、余計に説得力もあったように思う。個人的に印象に残っている場面は、著者がジュリアード音楽院に留学して最初のレッスン。「まあ、なんという才能でしょう。音楽的だこと。でもその弾き方は基礎から直しましょうね」日本音楽コンクールで優勝し、N響と世界一周演奏旅行までし、日本のホープだった著者が、指の上げ下げからのやり直しをさせられていた、それを御本人が書いていただけに、印象に残った。

これらの著書が広く読まれ、その後、なんとなく「脱ハイフィンガー奏法」みたいな記事や本が多くなってきた印象がある。問題点があったのならば、修正していくのは当然だし、その研究の成果なのかもしれないが、今度はあまりに皆が「重力奏法」「脱力」と言い始めるので、素人からすると、そこがなんだか可笑しい。というか、哀しいというか。

いきなり「重力奏法」とか言い始めた人たち、なぜ中村紘子の著作以前に主張しなかったか?そこが不思議だ。

その時代の主流を先取りする考えを主張するのは、やはり勇気が必要なのだ。皆がハイフィンガー奏法で難曲を弾かなければ・・・と熱くなって、それなりに実際に難曲も弾けるようになっていた時代に、「小さくても美しい音」とか「響きを大切に」・・・とか言っても、「変わったこと言う人ね」みたいな感じになってしまったのかもしれない。

今の時代、「鍵盤の底まで弾きましょう」とか、弾けない理由を「練習(根性?)が足りないから」と、どこか精神論に持っていってしまうことは罪悪だと思う。無理な奏法は負担になるから、手を痛める。「腱鞘炎はピアノ科学生の勲章」なんてありえないはずだ。

ハイフィンガー奏法全盛時代、多くの人がその奏法を疑わなかったのは何故だろう?「そのように弾くとされていたから」ではないだろうか?現在、「重力奏法」「脱力奏法」なるものを同じ感覚で信じているのならば、「型」が変わっただけで、真の変化はないのでは?「そのように弾くとされているから」でいいものだろうか?このようにしてみて、自分の経験から、この方がいいと思うから・・・と生徒に伝授できる人はどのくらい存在しているのだろうか?多くなっていくといいと思う。

クロイツァー豊子のピアノを聴く。大正5年生まれのピアニストで、音大などは出ていないようだ。レオニード・クロイツァーの演奏に感銘を受け、当時日本で教えていたクロイツァーの教えを受けることとなる。その後クロイツァー夫人となった人だ。

大正時代・・・僕の想像力は、あまりにも乏しい。彼女がどのようにしてピアノを学んでいったのか、教材は?奏法は?ネットなんてないんだよ?

これは彼女の晩年の演奏。おそらく70歳代前半から後半での演奏、ショパンを弾いているが、なんて瑞々しい演奏なのだろうと思う。情報なんてなかったはずなのに・・・

昔は日本人はハイフィンガー奏法で弾いていた・・・と決めつけるのも「型にはまる」ということなのかもしれない。

「音楽は魂で感じとられるもの。音楽は理解するだけでは充分ではない」   レオニード・クロイツァー

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

category: 昭和

tb: --   cm: 0

△top