ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

パリの香り 2 

 

フィレンツェ時代の原智恵子の教えを受けたピアニストに中井正子がいる。彼女は当時藝高に在学中だった。「感受性の高い若いうちに留学した方がいいわ。私はパリ音楽院がいいと思う」この原智恵子の言葉が大きかったのだろうか、中井正子はパリに留学するのだ。勇気あるなぁ・・・などと思う。

彼女がフィレンツェの小さなサロンコンサートで演奏した時、原智恵子は聴いていた人々に「ねぇ、あの子の演奏はどうだったかしら?」と尋ねていたという。「私は原先生の意見だけ訊ければいいのにな・・・」そのことを伝えると、原智恵子はこう言ったのだと言う。「あなた、演奏家というのはね、人がどう感じたのか知らなければいけないの。人がちゃんと聴けているかとか、正しいとか正しくないとかは関係ないの。自分が弾いたものに対して相手がどう思ったのか知っておきなさい」この言葉は演奏というものについての本質を突いていると僕は思う。

デュオ・カサド、つまりガスパール・カサドの共演者として、原智恵子はヨーロッパ中で再び活躍することになる。カサドの教えは相当厳しかったらしい。彼の要求に応えられるようになるまでには数年を要したと・・・

マダム・カサドとしてヨーロッパ音楽界、社交界の華として君臨することになる原智恵子。当時、時折日本でも演奏することはあった。先のショパンの協奏曲も日本での演奏だ。これは想像だが、日本の楽壇の重鎮たちの態度も変化していたのではないかと。かつては「生意気な女」として排除することができたが、今は、あの大物、カサドの夫人、マダム・カサドなのだ。手のひらを反したような扱い・・・とまではいかなくても、その変化を原智恵子は感じとっていたのではないかと。彼女が日本を本当の意味で見限ったのは、その時ではなかったかと・・・

「夫や子どもを捨てた鬼女」そのように日本では言われていたが、離婚の真相は夫の女性関係にあったらしい。その辛さをカサドに伝えると、彼はこう言ったのだ。「じゃあ、僕と結婚する?」と。厳しい音楽家としての夫、愛情を注いでくれた夫でもあったカサド。

「61歳まで独身を通してきた私は独身主義者だと思われてきました。この度の結婚について世間が驚くのは無理のないことだと思っています。でも世間が驚く以上に私がチエコを知って驚いたのです。チエコが結婚の優しさを私に教えてくれました。もう20年早かったら・・・と残念に思います。チエコが私の最初で最後の恋人であり、妻であります」  ガスパール・カサド

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シェーンベルク 

 

シェーンベルクの作品は昔から苦手だった。と言っても、そう沢山の作品を聴いてきたわけではないが、苦手意識はあったし、今もある。最初に聴いたシェーンブルク作品は、やはり声楽で「月に憑かれたピエロ」という曲だった。タイトルは素敵なのだが、曲は素敵だとは思えなかった。好きとか、嫌いという以前に作品から拒絶されてしまったような?

それでも偉大な作曲家とされているし、事実そうなのだろうと思ったので、ピアノ曲も一応聴いてみたりした。ピアノ曲は小曲が多いし、「月に憑かれたピエロ」ですべてを判断してもいけないだろうと思った。

このピアノ曲を聴いた時に、自分の感性を全否定されてしまったような感覚を覚えた。ピコピコと音が鳴っているだけ・・・という印象しかそこにはなく、僕はそこに「美」というものを感じなかったのだ。その時聴いたのがポリーニの演奏。ポリーニの演奏からは、シェーンブルクに限らず、あまり「美」というものを感じたことはなかったのだが、ポリーニのシェーンベルクの録音は代表的な名演とされていたので聴いてみたのだ。個人的な印象では、その作品、演奏は「人間的なものの排除、否定」という感じだったのだ。

エドゥアルト・シュトイアマンというピアニストの演奏には以前から興味があった。しかし、今まで積極的に聴こうとは思わなかった。シュトイアマンは日本ではお世辞にも有名なスターピアニストとは言えないだろうし、CDを探す手間もあった。それよりも、シュトイアマンはシェーンベルクの演奏で(海外では?)有名だったのだ。なので、あまり聴いてみたい・・・とは長い間思えなかった。

シュトイアマンのシェーンベルクは美しかった。この人はピアノをブゾーニに、そして作曲をシェーンベルクに師事した人だ。感情を否定してしまったポリーニの機械のような演奏と比べ、シュトイアマンの演奏には「美」というものが存在していた。ポリーニ、シュトイアマンというピアニスト個人の個性の違いというよりは、時代が求めた美そのものへの感性の違いがそこにあると感じたのだ。何故に僕は現代の多くのピアニストの演奏に感銘を受けないのか?その部分が両者の演奏の違いに現れているとさえ思った。

シュトイアマンのシェーンブルク、これは今では失われてしまった美しさなのではないだろうか?むろん、シュトイアマンの演奏を聴いても「きゃっ!シェーンベルクを弾いてみたい!」という欲求はさすがに起こらないが、過去と現代の感性を違いのようなものに、一種のカルチャーショックさえ感じている。

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大人のギロック 

 

セルジオ・フィオレンティーノの編曲作品を彼自身の演奏で聴いていて、ふと感じたことがある。彼の編曲作品は、楽譜はシンプルだ。このシンプルな世界は彼の世界そのものであったのだと思うし、その世界は大人の再開者にとてもいいのではないかと感じたのだ。

「大人のためのピアノ曲集」のような楽譜もあればいいのに・・・と思う。むろん、大人になってから習い始める人用の楽譜はある。一本指で「喜びの歌」を弾いたりとか叙情歌を弾いたりとか、そのような楽譜。でもこの種のものは再開者向けではない。カラフルな導入期の楽譜は山ほど出版されているのに、たとえば30年ぶりに弾きます・・・とか、子どもの頃はソナチネを弾いていました・・・人向けの楽譜、探せばあるのかもしれないが、子ども用(というか導入期用)のそれと比較すると、今ひとつの感がある。

カラフルな子ども用の楽譜、そしてあとは演奏会でプロが弾くような、いわゆるスタンダードのクラシックのピアノの名曲となってしまう。その中で、たとえばショパンのワルツの弾けそうなものとか、チャイコフスキーの四季とか、メンデルスゾーンの無言歌からとか、その中から自分の力量に合った曲を弾いていくしかない・・・みたいな。なんだか、子ども用、導入用のものと比較すると、いきなり選択肢が狭まってしまうような?

「アルプスの夕映え」とか「乙女の祈り」はちょっとなぁ・・・でもショパンのバラードとかリストの曲は難しいし・・・という再開者も多いように思うのだが?

サロン風の曲?ロマン派の時代、ピアノを習っていた人、特に女性は多かったと想像する。それはブルジョワ家庭の子女に限られていたとは思うが、でも上達した人は多かったはずだ。ピアノ演奏がたしなみであった時代・・・

職業ピアニストになるということは、特に女性には難しく、時には「はしたない」とされていた時代、ファニー・メンデルスゾーンの伝記などを読むと、当時の時代背景が理解できたりするが、ファニー・メンデルスゾーンや、あるいはクララ・シューマンほどではなくても、卓越したピアノ弾きは多かったのでは?むろん、そのような人たちは今と同じように、上級のアマチュアとカテゴライズされていたのかもしれないし、リストのエチュードやショパンのソナタなども演奏していたのかもしれないが、その人たちが楽しんで弾けるような作品も書かれていたに違いないのだ。

でも、そのような作品は時代と共に消え去ってしまったのだろう・・・

誰か、そのような作品群を発掘し、出版してくれないかなぁ・・・などと思う。それらの作品は、ショパンやシューマンの作品と比較すれば、そりゃあ芸術度(?)は劣るのかもしれないが、きっと「いかにも初心者」とか「アマチュア専門」のようなサウンドではなかったはずだ。

子ども用の作品は選択に困るほどあるのだから、大人再開組用の作品も供給して欲しいものだ。需要はあると思うよ。

そのような意味で、フィオレンティーノは「大人のギロック」のような役割を果たしてくれる。フィオレンティーノ自身は、そのような目的で編曲したのではないと思うけれど・・・

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サイズ・・・続き 

 

僕は自分の子ども(他人の子もだが)を育てた経験がないので、実感としては感じたことはないのだが、成長期の子どもは、服や靴が、すぐに小さくなってしまうらしい。この時期は高級素材の子供服なんて無理で、ママ友協力体制のもと、服のやりとりがあったりするのだとも聞く。「もう、うちのB子にはこのスカート小さいの。まだ綺麗だからA美ちゃんにどうかと思って・・・」のような?「おさがりなんて・・・」など言ってはいられない現実があるらしい。

楽器は洋服ほどではないが、似たようなサイズ変更がヴァイオリンの場合は可能だ。スペンサー君は、前の動画では八分の1サイズの楽器で弾いていたけれど、ひとつ年齢を重ね(?)身体も大きくなったのだろう、この動画では4分の1サイズの楽器で弾いている。このようなサイズ昇格のような感覚がピアノでも可能ならいいのに。

この有名曲、もっと達者にバリバリと演奏できる「子どなちゃん」は日本のコンペティションでいくらでもいるように思う。でもスペンサー君の演奏は、やはり自然な演奏で好きだ。彼なりに「自分で感じた曲の魅力」というものがあり、それを他者と共存できている。ここが素晴らしいと思う。彼なりの独自の感性がいい。スペンサー君はスペンサー君であり、先生の代弁者ではないのだから・・・

スペンサー君が、たとえば8分の1サイズから4分の1サイズの楽器に変更する時に、感覚の違いに戸惑ったりしなかったのだろうか?幅も大きさも異なるわけだし・・・

サイズ変更に伴う、この種の問題はあっただろうと想像する。ピアノもだが、移動したりする際には、目視よりも感覚が大きいと思うからだ。

でも、ピアノとヴァイオリンでは決定的な違いがある。それはヴァイオリンは本番でも自分の楽器で演奏できるという点だ。ここはとても大きいのではないかと思う。小さなサイズのピアノも普及すればいいのにな・・・と思うが、難しいのはピアノの場合、日頃小さな鍵盤サイズのピアノ(もし存在すればだが・・・存在はしているはずだ)で練習していた場合、本番でもその楽器で演奏できるようにする、つまり「持ち込み」をしない限り、サイズの差に演奏者が対処しなければならない。これは決定的なのではないだろうか?

鍵盤幅の違い、すぐに対処できることなのだろうか?これは難しいのではないかと思う。現実として、リハーサルの時間を確保できる状態で演奏できるなんて、プロだけではないだろうか?アマチュアは、いや、アマチュアに限らずだが、簡単な指ならし程度があればいい方で、いきなり未知のピアノで演奏しなければならないことが多いのでは?

鍵盤の戻り具合のような、そのような感覚の違いでさえ微妙に感じてしまうのだから、幅が違ってしまえば、本番で戸惑うのではないだろうか?「弾いているうちに感覚はつかめる」のかもしれないが、その「弾いているうち」という状況そのものが、あまり現実的ではないのだ。

トラックで演奏会場に自分の「幅の狭い鍵盤ピアノ」を持ち込む・・・これはあまり現実的ではない。一人で行うリサイタルなら可能だが、多くのピアノ弾きにとって、それは特殊なことなのだ。普通は大勢の参加者の一人として演奏する状況が多いのでは?たとえばサークルなどの演奏の場、または教室の発表会で自分だけ「持込みします」というのは現実的ではないような気がする。1曲演奏するのに舞台上でピアノを変えるということ、そのものが考えにくい。不可能ではないと思うけれど・・・

会場に幅の狭い鍵盤の楽器に備わっていれば「持込み」しなくてすむのでは?

そうだと思うが、この場合、会場側は通常サイズのピアノと、小さなサイズのピアノを両方を備えている必要があるし、維持していく必要がある。「幅の狭いピアノしかありません」という会場があったとして、現実的にどれだけの人がその会場を予約するだろう・・・これも現実問題として立ちはだかる問題ではないだろうか?

もし、自宅にスタインウェイの最上の楽器、ファツィオリの高級器種があれば、それはそれは毎日気持ちよく練習できるであろうが、自分の楽器を持ち込むのならともかく、人前で弾く時には、いかに「自宅にどのような楽器で」ということよりも、「本番の楽器でどのように弾くか」が重要になってくるのではないだろうか?

このあたりが解決されれば、幅の狭いピアノも普及していくように思うが・・・

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早すぎたエスプリ 3 

 

智恵子は銀行家シャトネ家に預けられることになった。シャトネ家の一人娘がピアニストでもあったのだ。そのシャトネ家で、智恵子はピアノの他に、西洋のマナー、フランス語も身につけていったのだろう。多感な少女時代、智恵子は西洋文化の中で育っていった。

二年が過ぎ、智恵子のピアノの実力も目覚ましく伸びていた頃、パリ音楽院を受けることになった。パリの日本館長のシルヴァン・レヴィがこう提言したのだ。「パリ音楽院を受けたらどうでしょう?そこでピアノを教えているラザール・レヴィを紹介しますよ」・・・

智恵子はパリ音楽院でラザール・レヴィに師事することになった。そして、日本人として初となるプルミエ・プリで卒業する。この時の卒業コンクールを聴いていた日本人男性がいる。作曲家の池内友次郎とピアニストの井口基成である。池内は智恵子より先にパリ音楽院で学んでいたが、まだ卒業できていなかったし、井口は年齢制限のためパリ音楽には入学できなかった。自分たちより年若い少女が、プルミエ・プリを獲得し卒業してしまう・・・

この時、この二人の日本人男性は、どのような気持ちで智恵子の演奏を聴いていたのだろう?池内は「先を越された」と感じたのかもしれない。井口は、日本で身につけたピアニズムと本場でのそれとの違いを肌で感じ、自身もその問題で悩んでいたに違いない。しかし、智恵子は日本のピアニズムとは無縁の流麗なピアニズム・・・

複雑な思いで聴いていたのではないだろうか・・・

池内は「父、高濱虚子」の中でこのように書いている。「智恵子さんの卒業コンクールを井口基成と傍聴した。その日のお昼は近くの料理屋で食事を共にした。井口は赤葡萄酒をがぶがぶ飲んでいた」

智恵子は卒業後もパリに残り助手として研鑽を積むつもりであった。そのための資金の援助を申し出たのがラザール・レヴィ、そしてアルフレッド・コルトーであった。当時、一度ヨーロッパを離れてしまい帰国してしまったら、再び帰ってくるのが容易でないことを二人は知っていたのだ。しかしながら、日本ではプルミエ・プリを獲得した智恵子の日本デビューが計画されていた。

「何故私に相談もせずに決めてしまわれたのですか?」

智恵子はこのようにも語っている。「まだ演奏会などをするほど偉くはありません」「私、天才少女と呼ばれるのは大嫌い。それに私は少女じゃなくってよ!」

渋々ながら、智恵子は日本に帰国しピアニストとしてデビューすることになる。華やかに活動しながらも智恵子の中で再びパリで勉強したいという思いが強くなっていった。

「まだほんの素人で、音楽家なんて言われるのは恥ずかしいんです・・・」

しかしながら、智恵子には相談する人もいなかったし、ましてや智恵子にピアノ、そして音楽を指導できる人物なども当時の日本にはいなかった。

「まだ自分は未熟なのだ。日本で自分は持ち上げられているけれど、自分はまだまだ勉強すべきなのだ。ああ、パリ・・・パリでもう一度勉強したい・・・」

続く



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