ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

アマチュアの甘さ 

 

このところ書いているテーマの文章、鑑賞者としての体験というものに一度戻って、学習者としてのピアノをも考えてみるという意味のことを書いたつもりだ。ただ反復練習をして「弾けるように!」ではなく、どのように弾きたいかという、そもそもの世界が存在してこその練習なのか・・・みたいなこと。

大人のピアノ再開者、この場合、アマチュアのピアノ弾きと言ってもいいのだと思うが、この方たちとピアノ教師の方とで頂く感想メールの内容に大きな隔たりがある。感想としては、内容が真っ二つに分かれたというか・・・

単純に「興味深いな・・・」と思ったのだ。アマチュア再開組の方たちは、どこか「巨人の星」的な自分のピアノの取り組みに疑問を抱いていて、「なんでそうなってしまうのだろう?」と悩んでいた人が多い。先生もダメ出しはしてくれるが、どこか機械的な演奏になってしまうことへの根本的、かつ具体的な解決方法までは示してくれない。むろん、先生によっては指導してくれているのだろうが、そもそも、そのような先生の生徒は、自己解決しているだろうから、僕などにメールはよこさないのだと思う。各自、様々に悩み、機械的演奏というものを意識している。でも学習者と鑑賞者とのバランスがうまく取れない。「とにかく練習」とか「とにかく書き込む」とか・・・そのようになってしまう。

アマチュア再開組の場合、誰からもピアノを弾きなさいと命令されて弾いているわけではない。多くの人は仕事を持ち、生活をし、その空き時間の中でピアノを弾いている。ピアノを再開した動機も人それぞれなのだと思うが、どこかに鑑賞者としての体験があったという人が多い。音楽を聴いて感動したのだ。だから「もう一度ピアノ・・・」と思ったのだ。そして弾いている。

おそらく、再開した場合、練習方法とか、具体的な仕上げていくまでの過程とか、そのようなものは過去のピアノレッスンの時のやり方を無意識に繰り返すのだと想像する。そして、その過去のピアノレッスンというものが、どこか「巨人の星」的なものであった・・・。練習方法としては、過去を繰り返しているのだ。それはどこか過去にピアノを辞めた理由につながってもいく。音が苦・・・という思い出。でも練習方法とか、さまざまなものはその時代のものを繰り返してしまう。そこで疑問に思う。日々の練習とか、本番での仕上がり、またはその演奏への自己評価などの学習者部分と、ピアノを再開してみたかったという純粋なる動機の鑑賞者の部分とでの「感覚的な食い違い」というものに悩むのだ。

僕のブログの文章への感想としては、アマチュア再開組の人たちのものは、「ああ・・・その部分が、聴くとか、感動するとか、そのようなことと弾くということが分離してしまっているのかもしれない」という内容になる。

ピアノ教師の方の感想、意見、指摘としては、「鑑賞?イメージだけでピアノは弾けませんよ?地道な練習のみがピアノを上達させるのです。部分練習を繰り返す、指使いを書き込むといった、地味な作業を繰り返すことでピアノが弾けるようになる。近道はないのです。だからアマチュアは甘いのです。苦しい練習を避けてピアノは上手くはなりません」というものが多かった。というか全部がそうだった。むろん、このように思わないピアノ教師の方もいるのだろうが、やはりそのような方たちは、少しでも僕の文章に「そうかも・・・」と賛同する部分があれば、メールだとよこさないのだろうと思う。僕としては「ピアノ教師は・・・」と一般化して思ってはいない部分も、むろん多いのだが、頂いたピアノ教師の方のメールでは、全員「kazさんは・・・」とか「あなたは・・・」という書き方ではなく「あなたたちのようなアマチュアは・・・」という一般化された表現をされていたので、あえて一般化させた形でここでは書く。

同じ文章から、こうも異なる感想が出るということが興味深い。僕としては「聴けば、聴いていれば練習しなくてもピアノは上手くなるんですよ」と書いたつもりはない。日々の地道な練習は必要だろう。でもそれだけでいいのか・・・というか、その地道な練習は、どこに目標値を置くのかということだ。サラサラと、あるいはバリバリと音を完璧に並べていくことが目標値ではないということを書いたつもりだ。必ずリンクしている部分があるのでは・・・それは鑑賞者として感動した部分と学習者として練習するという部分で・・・

そのようなことを書いたつもりだ。

それにしても興味深く感じたのは、ピアノ教師ブログを徘徊すると、そこには「ワクワク」「「キラキラ」「楽しく」といった言葉が満載だ。少なくとも、一般人はそのように感じているはずだ。僕だけではなく。

今回のピアノ教師の方の感想、指摘である「地道な辛い練習、コツコツと練習を重ねてこそピアノは弾けるようになる」というトーンとピアノ教師ブログのワクワクトーン、笑顔が溢れるトーンとでは大きな隔たりがある。これはどう解釈したらいいのだろう?

単純に「あれっ?キラキラ、ワクワクは?」と思う。

おそらく、ピアノ教師の方たちの多くは、過去の自分の修業時代のピアノ道を肯定できていない部分を持つのではないかと。辛い練習、音が苦、厳しい先生、厳しかった受験、そのようなものをすべての部分では肯定できない。

「私が体験してきたようなことを、そのまま生徒に伝えてはいけないのだ・・・」と。そのような思いが「笑顔!」「ワクワク」といった現代のピアノ教育のトーン、イメージにつながっているのでは?そこに子どもの減少、経営の現実といったことが複雑に(単純に?)絡み合っての「ワクワク」なのでは?

見ず知らずのアマチュアには「厳しさが足りない」と説き、自分の生徒には、もしかしたら「ワクワク」「キラキラ」を解いているとしたら、それは矛盾を感じる。

でもいいのだ。僕は鑑賞者としての自分と学習者としての自分を分離したくはないし、できない。

フェインブルクのバッハを聴く。もう半世紀も昔の録音だが、心が動く。別にバッハを弾くわけではないが、この心の動きを自分の演奏に反映させたいと思う。むろん、それは困難なことだが、そのように願う。それがアマチュアの甘さだったとしても。

kaz



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弾き手感覚と聴き手感覚による選曲 

 

フェインベルクのベートーヴェン。初期のソナタ・・・

「ああ、この曲って、こんなに素晴らしい曲だったんだ!」と思う。基本的には素晴らしい演奏により、その曲に対するイメージまで変わったような時、当然その曲を弾いてみたくなる。

ピアノを再開した当初は、そのまま、その曲を弾いていた。そして、これは誰でもそうなのかもしれないけれど、やはり僕にだって「憧れの曲」というものはある。ピアノ再開時には僕もショパンとか、弾いていたような気がする。「舟歌」とか「バラード 第4番」とか。やはり、このあたりは憧れ度が強かったのだ。

弾き手感覚、レッスンを受けることにより、それが当時は強かったのだと思う。別に悪いことではないと思う。普通は、皆、そのように自分の弾く曲を選曲しているのではないだろうか?「いい曲・・・弾いてみたい」のように・・・

最近は、弾き手感覚というよりも、聴き手感覚による選曲が多くなってきているように思う。

フェインベルクのベートーヴェンを聴く。そして、その演奏に感銘を受ける。この部分は変わらないけれど、「これを弾きたい!」というよりも「他にも聴きたい!」という欲求の方が強い。なので、その他のフェインベルクの演奏をも沢山聴く。

聴き手感覚が強いと、フェインベルクの背景に興味が出てくる。例えば、フェインベルクの先生であったゴリデンヴェイゼルや、やはりゴリデンヴェイゼルの弟子であったギンズブルクの演奏や作品にも興味が出てくる。

そして、なんとなくギンズブルクの作品を弾いてみたくなったりするのだ。

基本的に、選曲する際に、弾き手感覚が強い選曲の場合は、「その曲に取り組むのだ」という明確な意思のようなものが強く働く。でも、聴き手感覚で選曲した場合は、曲への興味のようなものへの持続が難しくなることもある。その曲を練習していても、聴き手感覚の自分は、聴き手として、他のところに興味が移ってしまったりするからだ。

割と、僕は一度選曲して練習し始めても、コロコロと曲を変えたくなってくる。一つの曲をじっくりと練習することが苦手だ。これは聴き手感覚により選曲してしまうからだと自分では感じている。

ただ飽きっぽいだけなのかもしれないが・・・

kaz



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憧れの「メフィストワルツ」 

 

フェインベルクの「メフィストワルツ」・・・この演奏にだったら「憧れ」を持てる。

基本的に、僕は自分の中に、曲や演奏、サウンドに対しての「憧れ」を抱いている。それがないとピアノが弾けない。真っ白の無の状態から譜読みをして、弾けるようになってから、いろいろと考える・・・という方式がとれない。

驚くのは、多くの人がこの「真っ白方式」をとっていることだ。僕は、その曲を弾く時には、その曲に対しての理想のサウンド、触れたい憧れ・・・のようなものが最初からないと、その曲を弾いていく気にはなれない。

その「憧れ」「理想のサウンド」のようなものが「メフィストワルツ」からは見いだせなかったのだ。今までは・・・

具体的に、このフェインベルクの演奏そのものを追いかけるというわけではない。それは不可能だし。でも「フェインベルク・サウンド」「フェインベルク・トーン」のようなものへの漠とした憧れ、触れたいという欲求がある。それがないと僕はピアノは弾けない。専門的に学ぶ音大生やプロのピアニストだったら、僕のような捉え方は非常にマズイのではないかと思うけれど、僕はアマチュアなのだ。「上手く弾きたい」のではない。ただただ「何かに触れたい」のだ。だからピアノを弾く・・・

フェインベルクに触れたいという想い、これは練習していくうちに、フェインベルクだけではなく、ヴァイオリニストや歌手のサウンドをも連想していくことになると思う。何かに触れたい・・・という想いは、個人の演奏というものではなく、もっと広いもので、抽象的なものへの憧れでもある。

僕は、ゆっくり機械的に練習して、ある程度弾けるようになってか、いろいろと表現を考える・・・などということが一切できない。「憧れ」が最初からないと、その曲に入っていけない。

kaz



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フェインベルクの「パルティータ」 

 

昨日はサークルの練習会。とても気持ちよく弾けたと思う。少し走ってしまったかな・・・という反省点はあるけれど、最も懸念していた当日の体力配分も上手くいったと思う。会場に到着するまで、そして演奏するまで、その後の二次会まで疲労感を見せずに過ごせたと思う。

一応、無事に練習会を終えて、少しだけピアノライフも元に戻りつつあるのではないかと思う。まだ「奮起」しなければ出掛けられないところもあるけれど、次の活動につながっていくものが見えてきた。

さて、次はサークルの演奏会。自分の中では、体力面の克服という意味も含め、「メフィストワルツ」を考えていたのだけれど、譜読みする前から、どうもこの曲とは距離感を感じていた。やはり無理して魅力を感じない曲を弾くこともないな・・・などと結論づけていたところがある。

でも、そうなると6月の演奏会で弾く曲がない・・・

以前に弾いた曲を何か掘り起こそうかなどとも考えた。昨夜、帰宅して、いろいろと弾いたりCDを聴いたりした。やはり有名どころの現代のピアニストの「メフィストワルツ」を聴くと、とても違和感を感じる。嫌いな曲ではないが、自分には合わない(弾けない?)という感覚・・・

どの演奏も機関銃のようで・・・

最も違和感を感じたのは、トリフォノフとかベレゾフスキーの演奏。

やはり「メフィストワルツ」はやめよう。大変だし・・・

あと2か月か・・・

そんな時、ふと古い録音のCDを何気なく聴いた。サムイル・フェインベルクのCD。この人はゴリデンヴェイゼルのお弟子さんだ。ロシアにはピアノ奏法の4つの流派があるという。「ネイガウス派」「ゴリデンヴェイゼル派」「イグムーノフ派」そして「フェインベルク派」・・・

フェインベルクはゴリデンヴェイゼルのお弟子さんなのに、異なる流派としてカテゴライズされているのが、とても興味深い。

そのフェインベルクの演奏を何気なく聴いた。昔から、この人のバッハの演奏は好きだった。機関銃のような現代のリストを聴いたので、その反動で聴きたくなったのだと思う。

やはり、僕はフェインベルクの演奏が好きだ。まず、音のトーンが好き。そして、歌い方も。この両方を気に入るピアニストというものは実は少なかったりする。でも彼の演奏は、その両方に惹かれる。

ユーチューブでフェインベルクの「メフィストワルツ」を聴く。

全く何という演奏なのだろう・・・

僕が感じていた違和感、距離感は、やはり「曲」とのそれではなく、「現代の演奏」へのものだったのかもしれない。

ようやく譜読みをしていく気になった。撃沈してもいいではないか。今日、明日はもうピアノは弾けないので、明後日の日付をリストの楽譜に記入した。譜読み始めの日として。

フェインベルクのパルティータ、こんな演奏が存在しているんだねぇ・・・

kaz



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