ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

今年のピアチェーレ終了 

 

第4回ピアチェーレの演奏会、終了しました。お越し下さった方々、ありがとうございました。現在、沢山のプレゼントに囲まれています。お菓子が多かったので、すぐに食べてしまいますが・・・

自分の演奏直後に抱く感想としては、多くの人がそうだと思うけれど、「もう少し冷静でいられたら、あのアクシデントにも、もっと冷静に対処できはず」「練習の時はもっと上手く弾けていたのに、本番でのあの演奏が自分のすべてと聴いていた人に判断されてしまうので、なんだか残念」みたいなこと。この思いは、ある意味自然なものだとも思う。フィギュアスケートの競技会などでも、直前の練習では跳べていたジャンプを本番では転倒したりする。「さっきまで、あんなに軽々と跳べていたじゃないの?」みたいな?それが普通なのだろう。本番特有の何か・・・はある。

「演奏というのはね、自分がどう弾けたのかは関係ないの。聴いている人がどう感じたかが大切なの」この原智恵子の言葉はごもっともだと思うが、やはり演奏した本人にとっては「どう弾けたか」という部分においての後悔、反省点は重く圧し掛かるものだ。でも、ここである程度、その思いとの距離を持ってみるのも大事だろうと思う。あまりに「今度はミスなく弾けるように」とか「今度は失敗しないように」と、そこばかりに重点を置くのも、やはり違うだろうから。ミスのない演奏=魅力的な演奏ではないのは、知っているわけだから。

バランス感覚・・・なのだと思う。「演奏ってミスがあっても人がいいと思えばいいわけでしょ?ミスの有り無しよりも感動よ、そうよ、そうだわ!」と、あまりにここにシフトしてしまうと、今度はネジのゆるんだような、緊張感が皆無のような演奏になってしまう可能性もある。

人の演奏に聴き手として自分は何を求めるのか、これを自分にも当てはめてみればいいのだと思う。意外にこれは難しいものだ。

演奏直後は特に自己肯定のバランス感覚が難しくなるように思う。誰でもそうなのかもしれないが。

ここまで書いて、お気づきだと思うが、昨日のピアチェーレの演奏会、個人的には自分の演奏に関して、あまり満足できてはいない。「今回は集中が持続せず、今一つだったかな・・・」と。でも聴いてくれた人たちの感想は、僕のそれとは、また違ったものも多かった。今までは、自分の出来栄えという観点だけで終わっていたところもあったが、これからは聴いていた人の感想も自分なりに、どうしてそう感じてくれたか、思われたか・・・と考えてみようとも思う。まぁ、ここもバランス感覚が必要だと思う。

第5回、来年のピアチェーレの演奏会は11月18日(土)の予定。会場は同じく雑司ヶ谷音楽堂になる。「来年は何を弾こうかな?」という瞬間が一番楽しい。

本番直後に元気をもらえる言葉がある。バーブラ・ストライサンドの言葉。


「経験とか芸歴とか関係なく、今、この瞬間の自分を最も素敵にみせること。そして楽しむこと」
                                           バーブラ・ストライサンド




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昔々、あるところに・・・ 

 

二日遅れだが、11月22日はスティーヴン・ハフの誕生日だった。1961年生まれということだ。ピアチェーレの演奏会、最後にスティーヴン・ハフの編曲版「眠れる森の美女」を演奏する。チャイコフスキーの原曲をパウル・パブストがピアノ用に編曲したバージョンを、さらにハフは編曲している。二重編曲?

パブスト版の豪華でフリルヒラヒラバージョンを現代風に、スタイリッシュに改作した・・・という感じだろうか?パブスト版は、いかにもピアノ技巧を盛大に盛り込んだというサウンドだが、ハフ版は、スッキリとキラキラとしているような?

スティーヴン・ハフが少年期に過ごしたイギリス、ホイレイクという田舎町(村?)をグーグルマップで散策してみる。「まっ、素敵!」という風景ではある。でも暮らすとなると、少し刺激に欠けるかもしれないなどと思ったりもする。

ハフは自らゲイであることを公言している。ハリウッドの俳優にはカムアウトした人は多いけれど、ピアニストでカムアウトした人は非常に珍しいように思う。「絶対にそうだよねぇ・・・」と噂される人はピアニストにも多いのかもしれないが。

1960年代のホイレイク、ハフ少年は苦しんだのではないかと想像する。「僕はサッカーの選手になる」「僕はパイロットかな」その中で「僕はピアニストになってキラキラした世界を再現したいんだ」とは言えなかったのではないだろうか?「クリスマスのプレゼント、プラモデルか・・・本当は綺麗なお人形がよかったのに・・・」とは言えなかった。保守的なホイレイクでそれを公言することは、仲間からの追放を意味したのではないかと・・・

ピアニストとして活躍するようになり、自らのセクシュアリティを公表したハフは、演奏という行為の他にも作曲家として、かつて憧れたキラキラした世界をサウンド化したのだと思う。「僕はお伽噺が好き・・・キラキラした夢の世界が好き・・・」

ハフはピアニスト、作曲家としての側面の他にも作家、画家としても活動している総合的アーティスト的な面もあるから、おそらく「眠れる森の美女」の原作もバレエも、そしてディズニー映画にも接していたと想像する。

「ああ、このキラキラした世界を音にしたい・・・」かつてのハフの憧れと共に、この曲からハフ自身のセクシュアリティへの誇りさえ感じてしまうのは、勘ぐりすぎだろうか?

「フィリップ王子が眠れるオーロラ姫に口づけし永遠の愛を誓うと、オーロラ姫は魔女の呪いから解き放たれるのだ。お姫様と王子様は一生幸せに暮らすのだ」

昔々、あるところに・・・

kaz




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ピアニスト フリッツ 

 

聴く者の心の襞に入り込んでくるような演奏とでも言うのだろうか?「君だって精一杯生きてきたじゃないか?それでいいんだよ、それで・・・」と言ってくれているようなユーモレスクだ。

個人的な感想だが、「ユーモレスク」の演奏で最も好きな演奏がフリッツ・クライスラーの演奏。彼の編曲により、ユーモレスクはピアノ曲というよりは、むしろヴァイオリンで演奏される機会の方が多いのではないか?

最初にクライスラーのピアノ演奏、次にヴァイオリン演奏での「ユーモレスク」・・・

どちらもため息ものの演奏だ。楽器というものは手段なんだね。目的は音楽、楽器を弾きこなすことではない。

クライスラーは、かつてウィーン・フィルの入団試験を受けたのだそうだ。結果は不合格。「演奏が粗野である」「初見能力に問題あり」ということだったらしい。意外だねぇ・・・

ヨーロッパが混迷していた時期、彼はパリに逃げたりアメリカに渡ったりしている。第2次世界大戦の時、アメリカ移住を決意し、アメリカ人にさえなった。偉大な名ヴァイオリニストとしての評価も定まっていたし、尊敬もされていただろう。でも考えてみれば、アメリカにとってはクライスラーの祖国オーストリアは敵国であったわけだ。アメリカ人となったクライスラーにとって、「ウィーン」という街、「ウィーン」という言葉は胸に突き刺さったのではないかと想像する。

楽器というものを超えた人をアーティストと呼ぶのではないだろうか?

kaz




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難易度 初級上 

 

3曲目に演奏するのが、ドヴォルザークの「ユーモレスク」、最も有名な7番、というか、ユーモレスクと言えば7番なのではないだろうか?この曲はカスキの「夜の海辺にて」以上に発表会で演奏される機会が多いのでは?動画でも子どもの演奏が多い。5歳ですとか7歳ですとか・・・

ガーシュウィンが子どもの頃、初めて接したクラシック作品が、このユーモレスクであったらしい。そして音楽家の道を目指したと。僕自身の記憶を辿ると、いつ聴いたのか定かではない。レコードなどで「これがユーモレスクです」ときちんと(?)鑑賞した記憶もないし、ピアノ教室の発表会などで聴いた記憶もない。でも知っている。昔、歌謡曲全盛期の頃のヒット曲みたい。なぜか知っている・・・みたいな?

この曲の難易度ってどうなっているのだろう?調号が多い。フラット6つ。調号が多いと譜読みが困難と一般的にはされていると思うけれど、譜読みの時って一つ一つ音を読んでいくものだろうか?一つのかたまりというか、グループ読み(?)みたいに読むのではないだろうか?そうするとGフラットの調って意外と弾きやすいように思う。簡単にアレンジされたト長調のものよりも、黒鍵が多い分弾きやすいかもしれない。

難易度、全音ピアノピースのサイトで調べてみた。「B」ということだ。つまり「初級上」という難易度らしい。中級ではないんだ。

初級上だけれど、この曲は子ども御用達の曲でもないだろうと思う。成熟した(しすぎた?)大人のユーモレスクがあってもいい。「中間部、哀しげな旋律になるわね、最初の部分は中間部との違いをはっきりさせるために、リズムも弾んだ感じで明るく弾きましょう、付点のリズムをもっと意識して。ラッタタッタ ラッタタッタ・・・」

動画でも、そのような演奏が圧倒的に多い。最初の部分、むろん悲劇的でもないし、重厚でもないが、明るくもないのでは?どこか胸がキュンとするような、郷愁を感じさせるような、一抹の寂しささえ感じさせるような?暗いですか、明るいですか・・・では分類できないような微妙な感じ?大人のピアノではこの微妙な部分を表出したい感じだ。もっとも、プロの演奏家でも、この微妙なニュアンスの再現に成功している人は非常に少ない。オリジナルのピアノ版ではイグナツ・フリードマンの古い録音、ヴァイオリン編曲版ではクライスラーの演奏と、美音で聴かせるエルマンの演奏に個人的には惹かれる。

多くの人、子どもも大人も、プロもアマチュアも「ラッタタッタ」と何故か明るい。そのような曲・・・ということなのだろうか?

この演奏は全音ピースのサイトにあったもの。つまり全音楽譜出版社が自信を持って提供する模範演奏なのだろう。きちんと弾けているし、これはこれでありなのだと思うが、このように弾かなければならないというものでもないだろう。

もっと違うもの、もっと微妙なニュアンス、この部分に踏み込んでいくのも大人ピアノの醍醐味かもしれない。

kaz




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罪のようなメロディー 

 

二曲目、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」この曲のメロディーは非常に美しい。ラフマニノフ最上のメロディーかもしれないなどと個人的には思う。ここまで美しいと、それはもう罪・・・

会場の雑司ヶ谷音楽堂は小さな会場ということもあり、ステージ(客席との段差はないが)から客席がよく見える。いっそのこと客席が遠く真っ暗の方が演奏する側としては演奏しやすいのかとも思うが、結構聴いている人の顔とかよく分るのだ。弾いているときにはさすがに見ないけれど。

一応、演奏会だから、聴きに来てくれた人も「外出です」的な服装はしている。華美ではないけれど、普段着でもないような?とても幸せそうに見えるんだな。「弾かない人は気楽でしょうよ」とか、そのようなことではなく、聴き手の各人生が穏やかであるような印象。そりゃそうだろう。悲痛な面持で演奏を聴く人なんていないだろうから。でも、それぞれ顔には出さないし、言葉にも出さないけれど、色々とあるんだろうなと思う。死んでしまいたくなるような薄幸さ・・・ではないかもしれないが、苦しいこと、押さえ込んでいること、あるだろうな・・・と。僕はそのような時、音楽に助けられてきたような気がする。音楽にはそのような光があるのだと・・・

一筋でいいから、たった一瞬の光でいいから、僕から音楽として何かが届けばいいと思う。むろん、実際に弾きながら「あそこに座っていたAさんは」などと思って弾いているわけではないが、自分がかつて感じたものを、今度は・・・みたいな野望(?)はある。一生単位で、できればいいことなんだけど。

ラフマニノフの歌曲は大半は亡命前のロシア時代に作曲されたもの。「ヴォカリーズ」ももちろんそうだ。ラフマニノフにとって歌曲はロシアそのものだったのではないだろうか?

亡命後、ラフマニノフは、なかなか作曲をしなかった。友人であるメトネルが質問したんだね。「何故再び作曲を始めないんだね?」と。むろん、ピアニストとしての活動が超多忙ということもあったのだと思うが、彼はメトネルにこう答えたのだそうだ。

「もう長い間ライ麦のささやきも、白樺のざわめきも聴いていないんだ。僕にはもうメロディーがないんだ・・・」

この曲をパラパラと、ただ弾いてしまっては、それこそ罪であろう。この曲は「泣き」が欲しい。演奏しながらな泣くのではなく、音が泣く・・・

個人的に理想の「泣きヴォカリーズ」は残念ながらピアノバージョンではなく、オリジナルの声楽でもなく、ヴァイオリン。ナージャ・サレルノ=ソネンバーグ、今一つ日本では知名度が低いというか、知ってはいても、あまりお好きではない崇高な人が多いようなのだが、僕は大好き。音が泣いてるよ・・・

やはり、このメロディーは罪だと思う。

kaz




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