ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

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「俺はね、いつも聴衆と共演するんだ!」  Friedrich Gulda



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「技術」と「お芸術」 

 

グルダはジャズも弾く。よくある「ジャズの曲をクラシックのピアニストが弾く」というのではなく、完全にジャズ・ピアニストとしての活動があった。

クラシックも弾くしジャズも弾く両刀使いのピアニストだった。それだけが理由ではないけれど、グルダは、どこかクラシック界では「異端児」とされていたように思う。

グルダにとっては、クラシックだろうとジャズだろうと、どのジャンルの音楽であろうと、音楽は音楽だったのではないだろうか?

求めるべきものは「音楽」・・・

でも、ピアノを弾く人には分かる。この当たり前のことを全うするのがいかに困難なことか・・・

なぜ、クラシックピアノは技術に走るのだろう?

また反対に、クラシックピアノは、なぜ極端な「精神性」やら「神聖さ」に走るのだろう?

このあたりが窮屈に感じる時がある。

追い求めるものは「音楽」なのだ。でも追い求めることを困難にしている原因がありそうだ。

自作のジャズ風の曲を弾こうが、ベートーヴェンを弾こうが、グルダの追い求めていたものは「音楽」だったのだと思う。こんなに「音楽を楽しんでいる(自分が楽しい・・・ということではない)」ピアニスト、いるだろうか?

こんなに「皇帝」を楽しそうに弾く人、他にいるだろうか?

追い求めるのは「音楽」・・・

でも多くの人は「技術」を追い求める。もしくは、「お芸術」を追い求める。

kaz



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レンガ積み上げ方式練習 

 

僕がピアノを子供の時に辞めてしまい続かなかった理由は、楽譜が読めなかったから。小学生時代に習っていたと言えると思うけれど、後半の3年間は、完全に自己流で弾いていたと思う。むろん、レッスンで弾く曲は、それまでと同じく楽譜と悪戦苦闘しながら弾いていたのだけれど、偉大な演奏を「聴く」という洗礼を受けてからは、先生には内緒で(正確には拒否されてしまったので)自分の弾きたい曲を弾いていた。その部分は完全に自己流、そして独学だと言える。

よく質問される。何故バイエルも終わらない時にショパンとか弾けたの・・・と。

それは簡単な理由だ。耳で音を覚えていたからだ。これは絶対に避けるべき学習法だと思う。楽譜が読めないといけないのだということは、身に染みている。耳だけで弾いてしまうと行き詰ってしまう。僕の場合、最初は耳に頼っていたけれど、何曲か好きな曲を弾いているうちに楽譜の読み方も覚えてしまった。何年もかけて怒られても理解できなかったのに、やはり「弾いてみたい」という願望というものがショパンを弾かせ、そして楽譜を読ませたのだと今では思う。

でも、楽譜が読めなかったという事実は、長い間、そう30年以上も心の中に暗い過去として僕の中に残った。数年前にピアノを再開してからも、きちんと訓練してこなかったということが自分のコンプレックスになっている。その大きなコンプレックスは今でも抱えていると思う。別に音大生と比べて・・・などとは思わないけれど、子供の頃に楽譜をきちんと読んで、きちんと指練習をして・・・という経験のある大人の再開組のアマチュアの人と比べても僕はコンプレックスを持っている。

勝手気ままに弾き遊んでいた子ども時代を後悔している。自己流で弾いていた時は楽しかったけれど、でも、きちんと普通に(?)教則本を子供の頃にこなしてきた人とは何か差がついてしまっているという思い、そして「きちんと組」の人たちに対してのコンプレックスがある。

「でも、得してるところもあるんじゃない?」

などと最近は自己肯定型に少し傾きつつある。まぁ、僕は自分に甘いから・・・

子供の頃、楽譜は全く読めなかったけれど、なぜか即興演奏(遊び弾き)ができた。すべての調で即興していたと思う。調によって同じメロディーでも彩が異なるのが面白かった。でも、普通、「きちんと組」の人たちは、これができないらしい。僕はコードネームは理解していないけれど(簡単なものなら分かる)、でもメロディーに伴奏を勝手につけて弾いてしまうことはできる。これも「きちんと組」の人たちは苦手らしい。

「きちんと組」の人は、まず音符を一つ一つ読んで、少しずつ曲にしていくらしい。僕も部分練習は、みっちり行うけれど、というより日頃は部分練習しか時間的な制約でできないけれど、でも最初はワーッと弾いてしまう。この「ワーッと弾いてしまう」ということも「きちんと組」の人には理解できないことらしい。

「きちんと組」の人は、レンガを積み上げていくように曲を仕上げていく感覚なのだろうか?おそらくそうなのだと思う。僕はこの感覚が分からない。全体をワーッと大雑把に仕上げて、そして細部を丹念に仕上げていくから。レンガの積み上げという感じは体験したことがない。大まかな輪郭と全体の色を水彩絵の具で最初に決めて、少しずつ細部を色鉛筆で仕上げていく・・・という感覚に近い。レンガの積み上げ方式だと、積み上げていない部分は空白なのではないだろうか?どうなのだろう?

曲を仕上げていくという過程には、このレンガ方式も必要なのかもしれないが、でも曲の自分なりの理想像というものは、曲を譜読みするまえに決まっているのが普通なのではないだろうか?音楽なんだから。演奏なんだから。一つ一つ音を読んでリズム練習して・・・という方式では細部はいいけれど、理想の形という全体像が見えにくくなってしまわないだろうか?

基本的にクラシックの曲は楽譜の再現という側面があるように思う。ジャズなどはそうではない。どちらがいいということではない。もちろんない。でも、「楽譜を読む」「きちんと弾けるように練習する」ということが目的化してしまうと、弾けてはいても聴き手に届かない、自分だけが一生懸命に弾いている・・・のようになってしまわないだろうか?少なくてもその危険性はあるような?

「ただ楽譜を音にしてみました」という演奏は多い。そしてその原因は「音楽性」とか「感受性」とか、場合によっては「才能」というものにその原因を求めがちのように思う。

もしかしたら「レンガ方式しか知らない」ということも原因の一つにならないだろうか?

グルダのこの演奏、なんとなく「レンガ積み上げ練習」で弾いているようには思えなかったりする。むろん、ピアニストなので練習量は凄いものがあるだろうけれど、でもグルダの場合、最初から「自分の理想の形・サウンド」というものがあったのではないだろうか?どうなのだろう?

それにしてもグルダ・・・楽しそうだ。自作を弾いているからそう見えるのだろうか?違うと思うな。

kaz



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