ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

若葉のころ 

 

叔父はデモテープを持っていた。いわゆるカセットテープというもの。叔父の夢はレコードを出すことだったような気がする。売れようが、売れまいが、オリジナルの曲を書いてもらい、レコード会社からドーナツ盤を出すということは、歌手としての夢だっただろうと。そのデモテープを叔父自ら処分してしまっているという事実は、非常に哀しい。癌になってしまったことで、レコードを出すという夢も捨ててしまったのだろうか?

叔父が亡くなったのは1973年。歌謡曲全盛の時代だ。キャバレーで歌う、酒場で流しとして歌う、単純に「仕事」としては、まだ成り立っていた時代だったような気がする。だからこそ、志半ば・・・という叔父の無念さも感じる。叔父はフランク永井を尊敬していた。叔父も低めの声だったし、演歌ではなくムード歌謡を歌いたがっていたから、その理由も理解できる。フランク永井も進駐軍でトラックの運転手をしたり、タクシーの運転手をしながら歌手を夢見ていた人だ。なので、叔父のような売れない歌手に対して援助することもあったらしい。「食べられているのか?」・・・僕自身、フランク永井の膝に乗った記憶がある。叔父と一緒にフランク永井の家に行ったのだと思う。犬がいたなぁ・・・などとセピア色の記憶だ。

叔父はフランク永井が自殺未遂をしたことは知らない。これは叔父にとって良かったことだと僕は思っている。その時に叔父が生きていたらショックだったと思うから。徐々に歌謡曲というものが衰退していく時代に突入する前、叔父が亡くなったことは、叔父にとっては良かったのか?ちょっと判断できないな。でも叔父にとっては、さらに厳しい時代になっていたような気はする。キャバレーなども衰退していっただろうし、流しという仕事もカラオケという装置に変わっていく、そんな時代になっていくのだから。美しい旋律も、一度聴けば記憶に残るような、そんな旋律の曲も少なくなっていく。どの世代も歌えるような、そんな曲も東西問わず少なくなっていく。叔父はそのような世界を知らずに旅立ったのだ。

ビージーズのドーナツ盤、「メロディ・フェア」よりも、実はカップリングされた「若葉のころ」に叔父は惹かれたのではないか?叔父はこの旋律に惹かれてレコードを買ったのではないか、そんな気がしている。今、ヒット曲にこのような旋律の曲は少ないように思う。メロディーは死滅したのか?打ち込み音がまず耳に入るような曲しかヒットしないのか・・・

この「若葉のころ」は、後に日本のテレビドラマにも使用されたらしい。そして、かなりのヒットも記録したらしい。人々は美しい旋律を求めていないわけではなかったのだ。なので何十年も昔の曲がヒットするのだ。人々は旋律をまだ求めているのだ。

「歌謡曲は衰退してしまったけれど、美しい旋律も少なくなってしまったけれど、人々はそれを忘れてしまったわけではない、求めている。叔父さんが生きて歌っていた頃と変わっていないものもあるんだ」叔父にそう言ってみたい気がする。

叔父は「そんなこと知っていたさ・・・」そう僕に答えるような気がする。

kaz




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小さな恋のメロディ 

 

3歳から6歳ぐらいまでの頃、叔父の家に預けられることが多かった。叔父の歌を聴いたりレコードを聴いていた。おぼろげな記憶だが、部屋いっぱいにレコードがあったと思う。叔父の遺品としてのレコードは段ボール箱に数箱。入退院を繰り返すようになり、かなりの数のレコードは処分したのだと思う。段ボール箱の中のレコードは、叔父が、どうしても処分できなかったレコードなのだろう。やはり歌謡曲、それもムード歌謡のレコードが多く、意外と演歌は少ない。洋楽のレコードも多い。僕もそれらの洋楽は聴いた記憶がある。ティノ・ロッシとかビリー・エクスタインのような昔の歌手のレコードが多い。

ビージーズの「小さな恋のメロディ」のドーナツ盤、このレコードは、なんだか叔父らしくはない選択のようにも思える。当時のヒット曲だったはずだ。映画も大ヒットしたらしい。1971年公開の映画だ。僕は小学生になるか、ならない頃で、リアルにこの映画を観てはいない。おそらく、1950年代生まれの世代には胸キュンの映画であり、曲なのではないかと想像する。

1971年頃、叔父の病気が発見された頃だ。「もう叔父さんの所へは、あまり行けないの。叔父さんは病気と闘っているから、あまり邪魔しちゃいけないのよ」親にそう言われた記憶は鮮明だ。なにか、子ども心にも叔父に重大な事が起こっているような、そんな気はした。

その頃に叔父が買ったレコードで、しかも当時のヒット曲のレコードだ。叔父はこの曲や映画が好きだったのだろうか?そうだったのだろう。流しとして「小さな恋のメロディ」をリクエストされると叔父が考えていたとは思えないから。仕事用ではなく、純粋に聴くために買ったのだろうと思う。

叔父が癌と闘いはじめた頃、1970年代の前半、日本の歌謡曲も洋楽も、美しい旋律が、まだまだ健在だったのだなぁ・・・などと思う。叔父は1973年に亡くなっている。

彼が今のJポップ、今の洋楽を聴いたら、どのような感想を持つだろう・・・そんなことを考えたりする。

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フーテン 

 

僕が故郷で育ったのは、昭和40年、50年代ということになる。映画「男はつらいよ」シリーズと重なる。今まで「男はつらいよ」シリーズは観たことはなかったのだが、最近観始めたところだ。全部は観られないとは思うが。

下町特有のポンポンとした、そして強い口調の話し言葉が非常に懐かしい。お互い悪気はないのだが、傍目には喧嘩しているようにも見えてくる。「フーテン」という言葉は寅さんそのものだが、実は僕の叔父も兄弟からそう言われていた。「テルはフーテンだから・・・」

テル叔父さんは、当時(今でも?)普通の人生とされていた生き方とは異なる生き方をしていた。「流し」という仕事をしていたので、厳密には「フーテン」ではないと思うが、僕の父を含めた兄弟からはそう思われていたのだろうと思う。きちんとした会社に就職し、結婚をし、家庭を築き地道に生きていく、そこからそれると風来坊、つまりフーテンであると・・・

当時、自分の好きな道、それはテル叔父さんにとっては「歌」というものだったと思うが、それを捨てずに生きたということは相当茨の道だったのではないかと想像する。今でも似たようなものかもしれない。塾に通い、偏差値の高い学校に入学させたい、入学したい、つまり有名企業(?)に就職し、勝ち組になりたい、させたい・・・このような人生設計は現在でも普通にあるように思うし、主流派なのではないかとも思う。ある意味、僕の子ども時代とは変わっていないような?テル叔父さんのような生き方は、やはり今でもフーテン・・・なのかもしれない。

最近、柴又の駅前に「さくら像」が登場したのだそうだ。フーテンの兄を見送る妹、さくらの像。愛があるからこその憎、失望というものもあったのでは?切なさというのかな。フーテンに生きる本人の茨道しか考えていなかったけれど、周囲の想い、つまり、妹さくらの想い、最近はここにも想いを馳せてみるようになった。

父から意見を求められる母、「テルに言ってやれよ、いつまでもフーテンじゃマズイだろうと」母は嫁という立場だったので、いつも「ええ、まぁ・・・」としか答えられなかった。父も弟を愛していたのだろう。就職先をテル叔父さんに紹介することもあったらしい。でも上手くいかない。「困ったものだ」「ええ、まぁ・・・」

テル叔父さんも辛かっただろうが、周囲も辛かったのかもしれない。最近はそう感じたりもする。

「悪いな、俺は好きに生きることしかできない。歌は捨てられない。皆には迷惑をかけていると思っている。でも地道には生きられないんだ。そのような性分なんだ。悪いな・・・」

見送る、さくらの気持ち・・・最近は考えたりもしている。

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You never know until you try it! 

 

CDというものが登場するまでは、世の中の人はレコードというもので音楽を聴いていた。今、そのレコードで音楽を聴いている。叔父が亡くなった時、沢山のレコードが遺品として残された。兄弟の誰もが「粗大ごみに出してしまおう」とは思えなかったらしい。長い間、兄弟の誰かの所にレコードは保管され、巡り巡って僕のところへ来た。

流しをしていた叔父は、時折はキャバレーなどで歌うこともあった。客のリクエストにより何でも歌ったと思うけれど、叔父が好きだったのは、いわゆるムード歌謡。フランク永井の歌みたいな。実際に叔父はフランク永井を崇拝していたし、可愛がられたようだ。フランク永井って世話好きだったというか、食べていくのがやっとの叔父のような歌手の面倒を見ることもあったらしい。

ムード歌謡のレコードの他に、洋楽のレコードも多い。西洋への憧れもあったのかな?今は、その中のビリー・エクスタインのレコードを聴いている。低音の、深い深い声だ。叔父も低音だったので、憧れたのではないだろうか?

遺品のレコードを譲り受ける時、それまで保管していた叔母がポツリと言った。「テルちゃん(叔父のこと)はこの人に手紙を書いたのよ。返事が来たとき、泣きながらそう言っていたので印象に残っているの」

この人・・・というのが今聴いているビリー・エクスタイン。古ぼけたレコードジャケットの中に、丁寧に紙に包まれた便箋のようなものがある。そこにはビリー・エクスタインのサインと、You never knou until you try it!という言葉が添えられている。叔父はどのような手紙、ファンレターを書いたのだろう?そもそも英語で書いたのだろうか?日本語ではないだろうが、誰かに代筆してもらったのだろうか?

叔父のような「流し」という生き方は、叔父が生きていた頃は異端だったのだと思う。今でもそう思われるかな?レールから外れた人生・・・みたいな?叔父への風当たりは強かったように思う。幼かった僕でも感じたので、叔父も辛かったのでなかったか、そう思う。

「結婚もしないで、いつまでもそんなことをしていていいのか?」「一流企業は無理だとしても、流しのような道楽仕事ではなく、きちんとした仕事をすべきなんじゃないか?」「霞を食べて生きてはいけないぞ」

幼かった僕は、夜の仕事である流しをしていた叔父に預けられることが多かった。でも、まれに母がこう言うこともあった。「テルおじさんは、きちんとした仕事に就いたの。もう迷惑はかけられないのよ」

兄弟の紹介で、堅気の仕事(?)をすることもあった。でも長続きしなかった。苦しい生活が待っていても、また流しをするようになっていった。叔父が定職、堅気の仕事をしていた期間も、日曜日などは叔父の家に遊びに行くこともあった。

「久しぶりだねぇ・・・大きくなったねぇ・・・」

叔父は元気そうだった。そして僕がいる時は流しをしていた頃と同じく、二人で音楽を聴いていた。何も以前と変わることはなかった。いや、変わったことが一つだけあった。流しをしていない頃の叔父は、音楽を聴きながら、そしてレコードジャケットを抱えながら、すすり泣くことが多かった。幼かった僕でも「辛いのかな?」と感じたが、叔父は聴いている音楽から切り刻まれるような痛みを感じていたのではないか、今ではそう思う。

ビリー・エクスタインに、どのような内容の手紙を書いたのだろう?それは分からないが、ビリー・エクスタインからの返事が「You never know until try it!」ということは、叔父なりに、諦めきれない歌手への道、歌への憧れを綴ったのではなかったか・・・

ビリー・エクスタイン自身、差別と闘ってきた人だ。彼が歌手になった頃は、黒人歌手の歌える曲は限定されていた。ラブソングなどご法度だったのだ。黒人の歌うラブソングに白人女性が心を奪われるなんて、とんでもない・・・

彼はそのような偏見、差別と闘ってきた。「黒人は裏口から入れ」でもそうはしなかった。身の危険も感じていたのだろうか、常に拳銃を携帯していたらしい。どのような差別があったのか、想像はできる。また、彼は後輩の面倒を見ることでも知られていたらしい。売れない頃のサミー・デイヴィスJrのエピソードがある。彼はビリー・エクスタインにお金を借りに行ったんだね。「恥ずかしいことなのですが、僕に5ドル貸して下さい。きっとお返しします」

ビリー・エクスタインは、サミーに「きちんと食べているのか?」と訊いたのだと言う。これは叔父もフランク永井から言われたそうだ。「食べているのか?」と。

「これからステージなんだ。とりあえずは君も聴いていきなさいよ」とビリー・エクスタインはサミーに言ったのだそうだ。ビリーの歌を聴きながらサミーは5ドル借りる辛さをかみしめていた。

「今日はわざわざ会って頂き、相談に乗って頂きありがとうございました」サミーが大先輩にそう言うと、「ああ、そうだ。これ・・・」と言って、スッとサミーのポケットに紙幣を入れたのだそうだ。その紙幣は100ドル札だったと。現在の価値だと、20万円ほどだろうか?

なんとも素敵なエピソードだ。叔父がもらった言葉も素敵だと思う。叔父は歌えなくなるまで流しをしていた。一生貧乏だったと思うけれど、光り輝いていた人生だったのではないだろうか?叔父は亡くなる直前、「幸せだった。心配ばかりかけてごめんなさい。でも僕は幸せだった」と言ったのだそうだ。

叔父はビリー・エクスタインからもらった言葉を心の支えにしていたのかもしれないね。

You never know until you try it!

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「人生は過ぎ行く」 

 

来月17日に札幌のポルトホールというところで演奏します。「愛の夢チャリティーコンサート」という演奏会で、リンクしてある「愛の夢のつづき」というブログに詳しく情報が記載されています。

とは言っても、告知はともかく、聴きに来てくれる人をお誘いするのは東京在住の僕にとっては難しい。東京での演奏会だって難しいのだから、まぁ、当然だろう。一人だけ僕の演奏をまた聴きたいという人がいて、東京からわざわざ札幌まで来てくれるそうだ。有難いことだ。

友人に帯広出身の人がいて、その人が帯広や札幌在住の知人に告知はしてくれている。問題点は、その人たちが僕のことを知らないということ、また、「演奏する人たちって上手いの?」という質問に、告知してくれる彼も答えられないということだ。「さぁ・・・」

最も困難な点は、やはり「クラシック?う~ん、ちょっと勘弁して欲しいな」という反応が多いらしいということ。皆さん、そんなにクラシック音楽が苦手なのか???

今回だけではなく、なんとなく感じるのが、音楽そのものが苦手ということではなく、実際に聴いても楽しくなかったという経験を持つ人が多いらしいということ。

「弾いている人を見ていると(聴いていると?)こっちもなんだか辛くなる。大変そうなんだもん・・・」このような意見が実に多い。これはクラシック音楽そのものではなく、演奏している側の責任が大きいのではないかと思われる。演奏する側としては、そりゃあ長い間練習を積むわけだし、舞台経験だって豊富というわけではないし、自分の本番での出来栄えだけが関心事にもなってしまうだろう。

「弾けました・・・」「一応無難に・・・」「全然ダメでした・・・」「崩壊してしまい落ち込んでいます・・・」

こうなるのも当然のような気もするが、これって全部自分のことだよね?聴いていた人は?どう感じてもらえたかという視点は?

「そんなことはプロの人が考えること。アマチュアがそんなこと考えるなんて傲慢・・・」でも・・・聴いていた人は?アマチュアだろうが、プロだろうが、さらに腕前のようなものがどうだろうが、演奏者がいて聴き手がいて、空間と音があって、そこに何らかの関わり合いが生じる・・・という構図は同じなのでは?人生の一コマをその瞬間にあてる・・・という意味でも。

もう10年以上昔のことになるが、知人に誘われて(強引に?)あるシャンソンの夕べ・・・なるものを聴いた(聴かされた?)ことがある。先生なのだろうか、中心になって歌う人がいて、その先生のお弟子さんたちなのだろうか、彼らも数曲歌うというものだった。ホールではなくライブハウス的なところでのパフォーマンスだった。こちらも身を固くして「聴かせて頂きますっ」的な聴き方を強要される雰囲気は薄かったというのもあろう。トークも満載だったしね。

客観的に判断すれば、先生的存在の人はともかく、お弟子さんたちのシャンソンは出来栄え、腕前としては「?マーク」のつく歌唱もあったと思う。我々アマチュアのピアノの会とそのあたりは同じだ。そもそもシャンソンというフランス語という言語と密接な関係にあるものを日本語で歌ってしまうなんて・・・という反応もこちらにはあったりして・・・

でも正直なところ、とても楽しめたのだ。ピアノの会と異なるところは何だろう?それはパフォーマーが入魂していたというか、顔の表情や演技的なるものまでを含めて歌っていたことだ。ややもすると、そういった要素は「まずは歌えるようになってから」とクラシックのアマチュア世界ではなりがちなのではないかと思う。でも彼らの舞台は、それらの要素が「聴き手に対してやらなければならない最低限のこと」というものになっているのを感じさせた。涙を誘うような歌詞内容の曲を歌っているのに、直立不動で硬直したような仏頂面で歌っては決してならない・・・のような?

ピアノ、クラシック音楽の場合、特にアマチュアの場合は、「自分都合」の部分を惜しげもなく披露してしまうことにあまり躊躇するところがなかったりする。「一生懸命演奏しているので」「沢山練習してきたのです。失敗が怖いのです」みたいな?その部分を舞台上で、あるいは演奏後記などで披露してしまうことに抵抗がないというか、それがアマチュアらしい・・・みたいな?

「クラシックなんです。演奏って大変なんです。本番って大変なんです」そして「まだまだでしたぁ・・・」ということを強調するのは、少なくとも聴いてくれた人に対しては謙虚さの表れというよりは、「傲慢」の現れなのかもしれない。クラシックだからそれでいい・・・みたいな?

「まだまだなんですぅ・・・」的なことを表明してしまうのは謙虚さなのだろうが、もしかしたらそれで通ってしまうというのは、聴き手に対しては傲慢さの表れだったりして・・・

さて、日本語シャンソンなるものを想い出したところで、ある歌手のことを連想した。越路吹雪・・・

恥ずかしながら、僕は彼女の歌唱を聴いたことがなかった。叔母が越路吹雪のファンだった記憶がある。「こーちゃ~ん!!!」みたいな感じだったかな?でも生意気盛りの少年だった僕は、そんな叔母を斜めに見ていたように思う。「日本語のシャンソン?そもそも越路吹雪ってフランス語話せるの?そりゃあ、洋楽創成期の日本では偉大だったかもしれない。でも冷静に聴いたりしたら、聴けたものではないのかも?」そう、叔母の音楽感性に対して、どこか俗っぽいという偏見を持っていたのだ。

ああ・・・なんという思い違いだったのだろう?なんと傲慢だったのだろう?

聴き手の存在を忘れるのは謙虚さの表れ?

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