ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

You never know until you try it! 

 

CDというものが登場するまでは、世の中の人はレコードというもので音楽を聴いていた。今、そのレコードで音楽を聴いている。叔父が亡くなった時、沢山のレコードが遺品として残された。兄弟の誰もが「粗大ごみに出してしまおう」とは思えなかったらしい。長い間、兄弟の誰かの所にレコードは保管され、巡り巡って僕のところへ来た。

流しをしていた叔父は、時折はキャバレーなどで歌うこともあった。客のリクエストにより何でも歌ったと思うけれど、叔父が好きだったのは、いわゆるムード歌謡。フランク永井の歌みたいな。実際に叔父はフランク永井を崇拝していたし、可愛がられたようだ。フランク永井って世話好きだったというか、食べていくのがやっとの叔父のような歌手の面倒を見ることもあったらしい。

ムード歌謡のレコードの他に、洋楽のレコードも多い。西洋への憧れもあったのかな?今は、その中のビリー・エクスタインのレコードを聴いている。低音の、深い深い声だ。叔父も低音だったので、憧れたのではないだろうか?

遺品のレコードを譲り受ける時、それまで保管していた叔母がポツリと言った。「テルちゃん(叔父のこと)はこの人に手紙を書いたのよ。返事が来たとき、泣きながらそう言っていたので印象に残っているの」

この人・・・というのが今聴いているビリー・エクスタイン。古ぼけたレコードジャケットの中に、丁寧に紙に包まれた便箋のようなものがある。そこにはビリー・エクスタインのサインと、You never knou until you try it!という言葉が添えられている。叔父はどのような手紙、ファンレターを書いたのだろう?そもそも英語で書いたのだろうか?日本語ではないだろうが、誰かに代筆してもらったのだろうか?

叔父のような「流し」という生き方は、叔父が生きていた頃は異端だったのだと思う。今でもそう思われるかな?レールから外れた人生・・・みたいな?叔父への風当たりは強かったように思う。幼かった僕でも感じたので、叔父も辛かったのでなかったか、そう思う。

「結婚もしないで、いつまでもそんなことをしていていいのか?」「一流企業は無理だとしても、流しのような道楽仕事ではなく、きちんとした仕事をすべきなんじゃないか?」「霞を食べて生きてはいけないぞ」

幼かった僕は、夜の仕事である流しをしていた叔父に預けられることが多かった。でも、まれに母がこう言うこともあった。「テルおじさんは、きちんとした仕事に就いたの。もう迷惑はかけられないのよ」

兄弟の紹介で、堅気の仕事(?)をすることもあった。でも長続きしなかった。苦しい生活が待っていても、また流しをするようになっていった。叔父が定職、堅気の仕事をしていた期間も、日曜日などは叔父の家に遊びに行くこともあった。

「久しぶりだねぇ・・・大きくなったねぇ・・・」

叔父は元気そうだった。そして僕がいる時は流しをしていた頃と同じく、二人で音楽を聴いていた。何も以前と変わることはなかった。いや、変わったことが一つだけあった。流しをしていない頃の叔父は、音楽を聴きながら、そしてレコードジャケットを抱えながら、すすり泣くことが多かった。幼かった僕でも「辛いのかな?」と感じたが、叔父は聴いている音楽から切り刻まれるような痛みを感じていたのではないか、今ではそう思う。

ビリー・エクスタインに、どのような内容の手紙を書いたのだろう?それは分からないが、ビリー・エクスタインからの返事が「You never know until try it!」ということは、叔父なりに、諦めきれない歌手への道、歌への憧れを綴ったのではなかったか・・・

ビリー・エクスタイン自身、差別と闘ってきた人だ。彼が歌手になった頃は、黒人歌手の歌える曲は限定されていた。ラブソングなどご法度だったのだ。黒人の歌うラブソングに白人女性が心を奪われるなんて、とんでもない・・・

彼はそのような偏見、差別と闘ってきた。「黒人は裏口から入れ」でもそうはしなかった。身の危険も感じていたのだろうか、常に拳銃を携帯していたらしい。どのような差別があったのか、想像はできる。また、彼は後輩の面倒を見ることでも知られていたらしい。売れない頃のサミー・デイヴィスJrのエピソードがある。彼はビリー・エクスタインにお金を借りに行ったんだね。「恥ずかしいことなのですが、僕に5ドル貸して下さい。きっとお返しします」

ビリー・エクスタインは、サミーに「きちんと食べているのか?」と訊いたのだと言う。これは叔父もフランク永井から言われたそうだ。「食べているのか?」と。

「これからステージなんだ。とりあえずは君も聴いていきなさいよ」とビリー・エクスタインはサミーに言ったのだそうだ。ビリーの歌を聴きながらサミーは5ドル借りる辛さをかみしめていた。

「今日はわざわざ会って頂き、相談に乗って頂きありがとうございました」サミーが大先輩にそう言うと、「ああ、そうだ。これ・・・」と言って、スッとサミーのポケットに紙幣を入れたのだそうだ。その紙幣は100ドル札だったと。現在の価値だと、20万円ほどだろうか?

なんとも素敵なエピソードだ。叔父がもらった言葉も素敵だと思う。叔父は歌えなくなるまで流しをしていた。一生貧乏だったと思うけれど、光り輝いていた人生だったのではないだろうか?叔父は亡くなる直前、「幸せだった。心配ばかりかけてごめんなさい。でも僕は幸せだった」と言ったのだそうだ。

叔父はビリー・エクスタインからもらった言葉を心の支えにしていたのかもしれないね。

You never know until you try it!

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「人生は過ぎ行く」 

 

来月17日に札幌のポルトホールというところで演奏します。「愛の夢チャリティーコンサート」という演奏会で、リンクしてある「愛の夢のつづき」というブログに詳しく情報が記載されています。

とは言っても、告知はともかく、聴きに来てくれる人をお誘いするのは東京在住の僕にとっては難しい。東京での演奏会だって難しいのだから、まぁ、当然だろう。一人だけ僕の演奏をまた聴きたいという人がいて、東京からわざわざ札幌まで来てくれるそうだ。有難いことだ。

友人に帯広出身の人がいて、その人が帯広や札幌在住の知人に告知はしてくれている。問題点は、その人たちが僕のことを知らないということ、また、「演奏する人たちって上手いの?」という質問に、告知してくれる彼も答えられないということだ。「さぁ・・・」

最も困難な点は、やはり「クラシック?う~ん、ちょっと勘弁して欲しいな」という反応が多いらしいということ。皆さん、そんなにクラシック音楽が苦手なのか???

今回だけではなく、なんとなく感じるのが、音楽そのものが苦手ということではなく、実際に聴いても楽しくなかったという経験を持つ人が多いらしいということ。

「弾いている人を見ていると(聴いていると?)こっちもなんだか辛くなる。大変そうなんだもん・・・」このような意見が実に多い。これはクラシック音楽そのものではなく、演奏している側の責任が大きいのではないかと思われる。演奏する側としては、そりゃあ長い間練習を積むわけだし、舞台経験だって豊富というわけではないし、自分の本番での出来栄えだけが関心事にもなってしまうだろう。

「弾けました・・・」「一応無難に・・・」「全然ダメでした・・・」「崩壊してしまい落ち込んでいます・・・」

こうなるのも当然のような気もするが、これって全部自分のことだよね?聴いていた人は?どう感じてもらえたかという視点は?

「そんなことはプロの人が考えること。アマチュアがそんなこと考えるなんて傲慢・・・」でも・・・聴いていた人は?アマチュアだろうが、プロだろうが、さらに腕前のようなものがどうだろうが、演奏者がいて聴き手がいて、空間と音があって、そこに何らかの関わり合いが生じる・・・という構図は同じなのでは?人生の一コマをその瞬間にあてる・・・という意味でも。

もう10年以上昔のことになるが、知人に誘われて(強引に?)あるシャンソンの夕べ・・・なるものを聴いた(聴かされた?)ことがある。先生なのだろうか、中心になって歌う人がいて、その先生のお弟子さんたちなのだろうか、彼らも数曲歌うというものだった。ホールではなくライブハウス的なところでのパフォーマンスだった。こちらも身を固くして「聴かせて頂きますっ」的な聴き方を強要される雰囲気は薄かったというのもあろう。トークも満載だったしね。

客観的に判断すれば、先生的存在の人はともかく、お弟子さんたちのシャンソンは出来栄え、腕前としては「?マーク」のつく歌唱もあったと思う。我々アマチュアのピアノの会とそのあたりは同じだ。そもそもシャンソンというフランス語という言語と密接な関係にあるものを日本語で歌ってしまうなんて・・・という反応もこちらにはあったりして・・・

でも正直なところ、とても楽しめたのだ。ピアノの会と異なるところは何だろう?それはパフォーマーが入魂していたというか、顔の表情や演技的なるものまでを含めて歌っていたことだ。ややもすると、そういった要素は「まずは歌えるようになってから」とクラシックのアマチュア世界ではなりがちなのではないかと思う。でも彼らの舞台は、それらの要素が「聴き手に対してやらなければならない最低限のこと」というものになっているのを感じさせた。涙を誘うような歌詞内容の曲を歌っているのに、直立不動で硬直したような仏頂面で歌っては決してならない・・・のような?

ピアノ、クラシック音楽の場合、特にアマチュアの場合は、「自分都合」の部分を惜しげもなく披露してしまうことにあまり躊躇するところがなかったりする。「一生懸命演奏しているので」「沢山練習してきたのです。失敗が怖いのです」みたいな?その部分を舞台上で、あるいは演奏後記などで披露してしまうことに抵抗がないというか、それがアマチュアらしい・・・みたいな?

「クラシックなんです。演奏って大変なんです。本番って大変なんです」そして「まだまだでしたぁ・・・」ということを強調するのは、少なくとも聴いてくれた人に対しては謙虚さの表れというよりは、「傲慢」の現れなのかもしれない。クラシックだからそれでいい・・・みたいな?

「まだまだなんですぅ・・・」的なことを表明してしまうのは謙虚さなのだろうが、もしかしたらそれで通ってしまうというのは、聴き手に対しては傲慢さの表れだったりして・・・

さて、日本語シャンソンなるものを想い出したところで、ある歌手のことを連想した。越路吹雪・・・

恥ずかしながら、僕は彼女の歌唱を聴いたことがなかった。叔母が越路吹雪のファンだった記憶がある。「こーちゃ~ん!!!」みたいな感じだったかな?でも生意気盛りの少年だった僕は、そんな叔母を斜めに見ていたように思う。「日本語のシャンソン?そもそも越路吹雪ってフランス語話せるの?そりゃあ、洋楽創成期の日本では偉大だったかもしれない。でも冷静に聴いたりしたら、聴けたものではないのかも?」そう、叔母の音楽感性に対して、どこか俗っぽいという偏見を持っていたのだ。

ああ・・・なんという思い違いだったのだろう?なんと傲慢だったのだろう?

聴き手の存在を忘れるのは謙虚さの表れ?

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愛のムチ 

 

米山正夫という作曲家について、多くの歌手(演歌や歌謡曲の)が語っているが、共通しているのは、非常に気さくで温和な人だったということ。戦中、戦後期からヒット曲を書き続け、それらの曲は日本人のスタンダードにさえなっていたから、とても偉い先生=厳格な恐ろしい人というイメージを最初は歌手たちは持ってしまうらしい。

チータという愛称で知られる歌手、水前寺清子の本名は林田民子というのだそうだ。チータという愛称は作詞家の星野哲郎が命名した。「ちっちゃな民子」という意味らしい。水前寺清子を星野哲郎は非常に可愛がったらしい。愛弟子というか・・・

水前寺清子の20何枚目かのシングルで、星野哲郎と米山正夫とが組んだ。「米山先生の曲・・・」

「森の水車」や美空ひばりの数々の名曲が水前寺清子の頭に浮かんだ。「まだ生きていらっしゃる方だったんだ・・・偉い雲の上のような方なんだ・・・」

新曲「三百六十五歩のマーチ」は星野哲郎の愛のムチでもあった。「息の長い歌手であるためには、どんな曲でも歌いこなせなければならない」

「えっ?これが私の新曲?ワンツー・ワンツー・・・英語?運動会の歌?マーチ?」それまで演歌一筋に歌ってきた水前寺清子に拒否反応が起こった。「これは私の歌じゃない。こんなの歌えない・・・この曲を歌ったら水前寺清子という歌手は終わってしまう」

一時間ほど彼女はスタジオでごねたらしい。「歌いたくない。これは私じゃない・・・」

プロデューサーが彼女に静かに言った。「チータ、君は歌手なんだろう?一度だけでも歌うべきなんじゃないか?」

「歌手?もし歌手生命がここで終わるのであったら、最後のつもりで、せめてしっかり歌ってみよう・・・」

三百六十五歩のマーチに水前寺清子の歌声がかぶさった・・・その時、それを聴いていた作曲家の米山正夫が笑顔を浮かべながら、腕で大きな大きな丸を作ってくれた。「チータ、いいじゃないか・・・・」と。

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「車屋さん」 

 

米山正夫という人は初期の美空ひばりに名曲を提供している。「津軽のふるさと」もそうだし「リンゴ追分」もこの人の作曲だったんだね。知らなかった。

美空ひばりの歌唱を好んで聴く・・・ということはないけれど、この曲は美空ひばりにとても合っているのではないかと思う。高峰秀子に「森の水車」、近江俊郎に「山小屋の灯」、そして美空ひばりに「車屋さん」と、どこか「適材適所」という感じもしてくる。

歌謡曲の場合、曲から作曲家の個性を感じるというクラシック的なものよりも、曲そのものが、提供する歌手の個性を生かすというところがあり、考えてみれば、これは相当難しいことなのではないかとも思う。

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「山小屋の灯」 

 

昭和22年といえば、学校制度が6・3・3制になったり、新憲法が施行された年でもある。まだまだ戦後の混乱期だったのではあるまいか?でも戦時中ではない。「森の水車」は発禁処分になってしまったが、この曲は大ヒットした。いかにも希望の光というものを感じさせる曲であるような気がする。

この曲を歌ったのが近江俊郎。彼は武蔵野音楽学校出身。米山正夫は東洋音楽学校のピアノ科出身。二人は友人同士だったらしいが、クラシックを勉強してきたということでお互いに何か通じるものがあったのかもしれない。戦時中に西洋音楽を学ぶ、むろん戦時中にレッスンやら講義が学校で実際にどれくらい行われていたのかは分からないが、敵性音楽を学ぶ非国民などという世間の目もあったのではないかと想像したりする。

米山正夫自身は戦争から復員してきている。シベリアで抑留されていたようだ。なので、なおさらこの曲に一種の清々しさを感じるのかもしれない。なんとなく、それまでの軍歌とは正反対の曲という感じがする。

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